森田正馬は、鎌倉円覚寺に参禅したか?(4)―居士禅における参禅の意義とは―

2017/01/21

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        宵闇せまれば悩みは涯なし。
       「初音小路」は、(旧)谷中初音町界隈に、今もある下町の「聖地」である。
 

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 かつて両忘庵が所在した場所を執拗に調べたら、それは(旧)谷中初音町二丁目にあったことが判明した。判明した経緯は後述する。そこは日暮里の近くで、山手におけるレトロの風情をとどめる町並みが残存している地域である。(旧)谷中初音町の辺縁で、日暮里に接する地区が、かつての二丁目である。両忘庵はそこにあった。同じこの(旧)谷中初音町二丁目のはずれ(三丁目か?)には、下町情緒を残す飲食街が、ひっそりと今もある。その名も「初音小路」。だが明治ではなくて、実は昭和の戦後の姿をとどめている小路らしい。明治は遠くなった。それでも「初音」の名には、明治がある。「初音小路」は、やはり見えない明治の面影を偲ばせる聖地である。
 ことのついでに触れるなら、明治の谷中初音町の町名の由来は、(旧)初音町四丁目に森があって、そこに鶯谷という地名が存したことによるとされる(上野にあるもうひとつの鶯谷にあらず)。現代のオタクたちが愛してやまないあのヴォーカロイドは、その名を明治の谷中の初音町にあやかっていることになる。初音町は、やはり聖地なのだ。
 その聖地の領域に両忘庵があった。いや両忘庵があったという意味でも、谷中初音町は聖地なのである。
 

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 両忘庵の所在地は、(旧)谷中にあったと言われながら、これまで漠としていた。しかし森田が参禅した時期以後の両忘庵の変遷を追うと、少し見えてきたものがあった。
 釈宗活が指導に当たっていた初音町の(二丁目にあったらしき)両忘庵の建物が、手狭でかつ古くなっていたため、大正4年に、宗活に参禅していた田中大綱居士なる資産家が、谷中墓地の近くの天王寺寺域に新しい道場の建物を建築して、これを釈宗活老師に寄進した。以来この建物は「擇木(たくぼく)道場」と名づけられた。ここで両忘会は維持されるが、擇木道場の成立により、道場としての両忘庵はなくなったことになる。しかし、その後も釈宗活を最高指導者と仰ぎつつ、大正から昭和にかけて、両忘協会、両忘禅協会と組織を変えていった。戦後には宗活老師から離れて「人間禅」を標榜することになる。その本部は千葉県市川市にある。しかし谷中墓地の近くにある「擇木道場」は、田中居士によって宗活老師に寄進された建物を改築したものの、そこを不動の場所と定めて、移転することなく、今も「擇木道場」を名乗り続けて、「人間禅」に属しながら、東京における居士禅の伝統的専門道場として機能している。顧みれば、田中居士が両忘会の発展のためにおこなった、新築建物の寄進は、両忘会から擇木道場の居士禅、さらに全国的な「人間禅」へと発展する契機をなしたのである。
 

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 ともあれ、「擇木道場」は釈宗活の禅をルーツとしていた。したがって、明治末期における両忘庵の立地や両忘会の活動については、現存するこの道場(現 谷中七丁目、旧 天王寺町)がなんらかの情報を有しておられるだろうと考えた。そこで、このたび、思い切ってこの道場に直接問い合わせをさせていただいた。お尋ねしたのは、両忘会と全生庵とのつながりの有無、両忘庵のあった場所、両忘庵と擇木道場の位置関係などであった。歴史に関するこのような唐突な質問に対して、擇木道場の責任ある地位の御方から、懇切なる回答を頂戴することができた(この場においても、感謝の意を表します)。お答えによれば―
 
・ 両忘会と全生庵との交流は、判然としないが、おそらく関係は薄かった。
・ 最も最初に釈宗活老師が、両忘会を開いたのは、「御隠殿坂下」と言われた場所であった。
・ 以前に湯島の麟祥院を訪ねた折に、明治45年に発行された「臨済宗円成会青年部」の会報「一華五葉」を閲覧したが、そこに「両忘会」の住所は、「谷中初音町二丁目」とあった。
 
 重要なポイントを含むこのような情報は貴重である。 「御隠殿坂下(ごいんでんさかした)」と呼ばれた地域は、日暮里駅の東にあたり、当時は文人たちが好んでそこに居住していたようである。正岡子規もその地にいたことがある。しかしそこは谷中ではなく、根岸に属していた。釈宗活は根岸に居を構えた、という伝承があるので、みずからの庵として、ここに居を定めたと考え得る。そして住居と別に、座禅の道場としての両忘庵を、谷中初音町に開設したのであろう。それが日暮里に接する「(旧)谷中初音町二丁目」だったと考えられる。平塚らいてうが、「田んぼの中の一軒家」と言い、森田正馬が両忘会の場所を初音町と書いていたことが、すべて符合することになるのである。両忘庵の位置は、大正4年に新築道場の寄進に伴う移転が起こるために、住所の追跡が困難であったが、初音町二丁目から墓地の近くへ移転したのであり、それは現在も擇木道場がある場所にほかならない。当時はそこは天王寺町だったので、両忘庵(両忘会)は、初音町から忽然と姿を消したのである。移転先の擇木道場は、御隠殿坂下と初音町二丁目のちょうど中間地点にあたり、墓地や寺院のある閑静な地域で、禅道場を設けるにふさわしい場である。将来への存続の可能性をも見据えた賢明な立地の選択であった。
 
 両忘庵のありかを探して右往左往したが、結局それは(旧)谷中初音町二丁目の中にあったことが判明した。ともあれ、森田が参禅した明治43年の頃の、(旧)谷中初音町二丁目の両忘庵は、もちろん禅寺ではなくて、民家を利用しており、提唱だけは、天龍院の場を借りておこなわれたのであった。両忘庵が、座禅に最適な場であったとは思えないけれども、可もなく不可もないような環境だったのではなかろうか。
 問題は座禅をする環境のことよりも、もっと根本的なところにある。在家者にとって、禅の修行とは。あるいは在家者が容易に公案を授けられておこなう参禅とは。円覚寺の釈宗演に参禅した夏目漱石も、また両忘庵の釈宗活に参禅した平塚らいてうも、初日から公案を与えられた。同じく森田もそうだった。修行とは、公案とは、参禅とは。森田はそのような基本的な疑問に直面したのではなかったろうか。そのように思えてならない。参禅したかどうかが、主題ではなくなるのである。
 

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 野村章恒氏は、『森田正馬評伝』を出すより先に、雑誌「精神療法研究」に〔資料〕として「森田正馬の業績」という原稿を2回に分けて掲載しておられる。「森田正馬の業績(一)―森田療法確立まで―」(精神療法研究、1(2)、1969)の中には、森田の行動のエピソードが記されている。医師になって巣鴨の医局に入った明治36年、健康診断で肺結核を発見されながら、彼は「医局の吉川氏と共に東京から鎌倉まで夜中行軍をしたりして」安静養生をしなかったという。このことは『評伝』にも、「徹夜ハイキングで鎌倉までいった」とあっさりと書かれている。目的地が円覚寺であったかどうかは、知るよしもない。
 明治43年には両忘会に参禅したが、その頃の森田は、催眠術に入れ込んでおり、また岡田式静坐法の見学もしたりと、多彩な方面に関心を分散させている。在家者向けに、座禅と公庵を用意され過ぎた参禅のメニューは、おそらく森田の興味を惹きつけるものではなかったように見える。彼は、釈宗演を辛辣に批判したが、釈宗活を嫌ったわけではない。その提唱には関心を持ち、後年になってから、出版されたその講話録を読んでいる。前出の野村氏の同文献(精神療法研究、1(2)、1969)によると、大正の初め頃には、助手の佐藤政治を相手に酒を飲んで谷中の墓地に出かけ、夜中の2時頃まで神経症治療の話をしていたことがたびたびあったと、佐藤の未亡人が語ったと言う。釈宗活とのなんらかの関係が続いていたかどうかはわからないが、谷中の墓地は森田にとって、お気に入りの場所だったようだ。
 釈宗活の名は、釈宗演とよく混同されるが、二人の人物像はかなり異なるように思われる。伝記について、とりわけ釈宗活のことがわからないので、軽率なことは言えないが、釈宗演は国際的舞台に打って出たような人であったのに対し、釈宗活は自分も海外への禅布教に赴いたとは言え、一片の野心もなく、居士禅の布教を素直に引き受けて生きた、寛容な老師だったようだ。居士禅のあり方をどう考えていたのか、よくわからないが、戦後には「人間禅」から離れることになる。若き日の宗活の苦労話とその人がらについては、漱石が『門』の中に挿話的に書いている。
 森田は、宗活老師に参禅して公案を通らなかった。幸いにも通らなかったからこそ、森田は禅にとらわれず、禅から自由でいることができた。何事からも自由でいるのが、禅の極致である。かくして森田は、自分のことを物好きの野次馬だと言い、自分の治療法は「全く禅とは関係がない」とうそぶくことができたのであった。
 

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【まとめにかえて】
 森田正馬が、鎌倉円覚寺の釈宗演老師のもとに参禅したかどうかは、ちょっとした謎のままでした。その辺を明らかにできたらと思って、昨年の12月初めから、調べをしながら、同時進行で文章を書き綴ってきました。調査を終えてからまとめるという常識を破り、何が判明するか、しないか、われながら行方も知れぬ、ミステリートレインのような連載文は4回にわたりました。無責任な報告文にお付き合いくださってありがとうございました。まさに無責任な進め方ではありましたが、その間、精一杯の調べをしました。
 メンタルヘルス岡本記念財団に、森田の日記を閲覧させていただきに通ったり、「(旧)神経質」誌の高価な合本を古書店から購入したり、谷中の擇木道場へ不躾な問い合わせをさせて頂いたり、高良興生院・森田療法関連資料保存会から遠隔地での図書の閲覧に便宜をはかって頂いたり、また上京して、同保存会へ図書閲覧にお邪魔したり、夜の谷中の町を徘徊したり。
 
 名古屋の杉本二郎様からは、適切なご助言をたびたび頂戴しました。感謝しております。
 
 肝心の内容については、まとめは困難で、森田が鎌倉円覚寺に参禅したかどうかは不明のままです。谷中の両忘会には参禅しましたが、われわれが森田にとっての禅を考えるとき、彼が参禅したかどうかの追求は、もはや主題をなさないことに思い至ったのでした。森田が公案を透過しなかったのは、ラッキーでした。スティグマを背負ったら、自由に禅の世界に遊ぶことはできないからです。
 

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       宵闇せまれば悩みは涯なし。
       ここは谷中の夜の天王寺。釈迦如来坐像がライトアップされて、神秘的な魅力が漂っている。

森田正馬は、鎌倉円覚寺に参禅したか?(3)―谷中の両忘会への参禅体験について―

2017/01/13

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釈宗活 著『臨済録講話』大正13年刊

 
 森田正馬は、明治43年に両忘会の釈宗活のもとに参禅し、長続きしなかった。しかし彼の日記には、大正15年に釈宗活のこの本を読んだという記録がある。森田は禅や釈宗活への関心を持ち続けていたのである。
 

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 森田が鎌倉円覚寺に参禅したかどうかについては不明な点が多い。けれども、谷中の両忘会における釈宗活への参禅は、森田にとって大きな体験であったと思われるので、これについて今一度見直しておきたい。そのあらましは、森田の「日記」や「我が家の記録」に記されているので、先に便宜上、野村章恒氏の著作より再引用した。この度、改めて正確を期すため、森田の日記(写し)を直接閲覧したので、当該箇所をまず次に正確に引用しておく。
 
「明治四十三年二月五日
 藤根常吉氏ニ勧メラレ、両忘会ニ入會シ、槐安國語ノ提唱ヲ聴キ参禅ス、藤根氏ト共ニ帰リ晩酌ス、
 
六日(日)
 谷中初音町両忘會ニ参シ、摂心中、毎朝参禅スル事トナル、考案ハ「父母未生以前、自己本来ノ面目如何」ナリ、午後ニ時天龍院ニ釈宗活師ノ禅海一瀾第二則ノ提唱ヲ聴ク、
 
七日
 朝参禅、師曰、禅ハ理ヲ以テ推スニ非ズ、身ヲ以テ考案ト一致スルニアリ、三昧ニ入ルベシ、坐禅ヲ怠ル勿レト、…」
 
 以上の日記の記載から、いくつかのことがわかる。森田はこの年の2月初旬の摂心の期間より、両忘會に入って、谷中の初音町にある坐禅の道場とも言うべき場所に通い出したこと。釈宗演が漱石に課したと同じ公案、「父母未生以前、自己本来ノ面目如何」を釈宗活から与えられたこと。釈宗活という老師の指導のしかたについての素描からわかる、その人物像の片鱗。そして午後は、朝の坐禅の場所ではなく、天龍院で老師の提唱がおこなわれたらしいこと、などである。

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 ところで、「両忘會」なるものは、どういうものであったのか、沿革をたどってみる。それは、在家の人々に対する禅指導の必要性を説く在家主義を標榜し、その活動をする組織で、明治8年に、山岡鉄舟、勝海舟、中江兆民らの有志の居士たちが、今北洪川老師(鎌倉円覚寺初代管長)を拝請して、東京湯島の麟祥院で、宗派によらない参禅会を結成して、これを両忘會と名付けたことが始まりであった(以下では、両忘会と表記する)。禅に参ずる集いとしては「両忘え」と読んでよいのだろうが、組織の意味で「両忘かい」と読んでおく。
 一方、会の中心人物のひとり、山岡鉄舟は、やはり在家居士の立場から、明治維新に殉じた人々の菩提を弔うために、寺の建立を発願し、臨済宗国泰寺の僧侶越叟を開山とし、みずから開基となって、明治16年に台東区谷中に全生庵を建立した。そして山岡は、明治21年に病没している。
 湯島の麟祥院で創設された両忘会の活動は、その後いったん途絶えた状態になっていたようである。途絶えた原因は、中心人物の山岡鉄舟が、全生庵の建立に力を注いでいたためか、あるいは山岡の死去によるのか、あるいは全生庵の僧侶との関係か、わからないが、湯島の両忘会と山岡による谷中の全生庵建立との間に、矛盾はなかったはずである。私自身、山岡鉄舟は両忘会の設置場所を湯島の麟祥院から谷中の全生庵に移したものと、思い込み、森田が谷中の両忘会に参禅した先は、全生庵であったろうと憶測していたのだった。しかし調べてみたところ、両忘会の活動の場が全生庵にあった形跡は現れてこない。それでも、山岡鉄舟が没するまでは、両忘会は全生庵につながっていたのではないか、という推測を今も抱いている。
 全生庵は、臨済宗でも国泰寺に属していた僧を開山として仰いだが、折しも臨済宗内では明治38年に国泰寺派が成立する流れにあったので、山岡亡き後の全生庵は、宗派を越える参禅を主旨とする両忘会とは、必ずしも軌を一にできない微妙な関係にあったことも考えられる。こうして、両忘会が休眠状態になっている状況下で、問題の地、谷中で全生庵を半ば囲繞するかのように、両忘会が復活するのである。

 

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 円覚寺の釈宗活は、管長の釈宗演より印可を受けて、表徳号「両忘庵」を授かるとともに、東京の両忘会の再興をはかるように命を受けた。それにより、明治35年に釈宗活は谷中に草庵を結んで、両忘会を継承し、在家の人たちの禅指導にあたることになった。草庵を結んだ、と伝承されているが、その場所は日暮里とも谷中とも言われる田舎めいた区域の、貸家の一軒家であった。平塚らいてうは、明治38年、日本女子大学の学生のときにここへ参禅しており、自伝の中でこの両忘庵と宗活老師について触れているので、少し引用しておく。
 
 「私はこの友の紹介で、(…)日暮里の田んぼの中の一軒家、「両忘庵」の風雅な門をくぐっていました。いよいよ釈宗活老師というお坊さんについて座禅の修行をすることになったのです。
 迷いも悟りも両つながら忘れるという両忘庵には、当時の若い帝大生が多く集まって座禅をしていました。鎌倉円覚寺管長釈宗演老師の高弟だという宗活老師が、どんなお年寄りかと思ったところ、まだ三十を少し出た位の青年僧だったので、意外な感じに打たれました。何でも高校時代、人生問題に悩んで、学業を捨てて、禅門に走り、出家した方だとかひとから聞いていましたけれど……。何度も畳に額をすりつけるような最敬礼を教えられた通りにして、この老師から「父母未生以前の自己本来の面目」という公案をいただきました。「さあ、あちらへ行って坐り方をよく教わってしっかりやりなさい」老師の言葉はたったこれだけのものでした。(…)
 両忘庵の参禅は、朝五時から六時位までで、冬の朝は提灯をつけて家を出て、牛乳配達か新聞配達しか通らない暗い淋しい道を歩かねばなりませんでした。」(平塚らいてう著『作家の自伝 8・平塚らいてう』日本図書センター 刊、1994 )。
 
 このような文章から、両忘庵の地理的環境や、早朝におこなわれていた宗活による座禅指導の雰囲気が伝わってくる。
 平塚らいてうは、翌年大学を卒業して再び参禅し、見性の体験をして公案を透過する。それにより慧薫という安名を受けるに至った。しかしその結果、おそらく自己に陶酔したような境地、禅で言えば、勝境(勝ち誇ったような魔の心境)が続き、明治41年に、夏目漱石の弟子の森田草平と心中未遂事件を起こす。デカダンスの文学に影響を受けて、ダヌンツィオの『死の勝利』を地でいったようなこの醜聞は世を騒がした。漱石は「狂気じみた芝居」だとこれを酷評した。マスコミは、野狐禅の「禅学令嬢」と呼んだ。この出来事は、東京に根付き始めていた居士(在家)禅のあり方にも警鐘を鳴らすことになった。
 森田正馬は、この2年後に参禅するのだが、彼にとって平塚らいてうの行動は、在家者における禅を予め冷静に考える材料になったことであろう。
 この頃の釈宗活は、明治39年より4年間の予定で、アメリカに渡って禅の布教活動をしていた。明治41年の一時帰国を挟んで、かの地で布教を続けたが、目的を達成できず、明治42年に帰国し、両忘庵で在家の人たちの指導に復帰した。そのような時期の明治43年に森田は参禅したのだった。
 

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 さて、両忘庵は、釈宗活の号であるとともに禅道場の名称でもある。この道場の開設の地として、谷中を選択したことについては、わけがあったのであろうか。釈宗演の指示によったのだろうが、そこにはどんな必然性があったのか。あったとすれば、全生庵との関係が考えられる。それは山岡鉄舟の実績への郷愁、全生庵との連携の必要意識、逆に国泰寺派への対抗意識、などなど想像は膨らむが、あえてこの地に草庵を結んだ何らかの理由について、これ以上はこだわらないことにする。
 ただ、この谷中の地で、まず両忘庵の正確な場所が不明であり、森田の日記によれば、提唱は天龍院でおこなわれたようであるし、さらに森田は、谷中初音町に参したと記している。このように参禅の場がはっきりしないのは、いささか奇妙である。瑣末なことのようでもあるが、参禅の場を洗い直してみたい。
 初音町という町名は、現在の谷中には存在しない旧町名である。これについては、「台東区ホームページ」の「台東区の旧町名について」というサイトから、現在の住所と旧町名の新旧を対照的に同定できる。現在の谷中のどこが、旧初音町にあたるか、わかるのである。両忘庵(推定)、天龍院、そして全生庵も含み、初音町に入るのは?
 意外にも、初音町に所在するのは、全生庵だけのように判定される。新旧の住所の対照に、念のため見直しの点検を要するとは思うが、ストーリーは混迷に入る。
 今回はここまでにして、もう一度結末を書き直すことにしたい。
 
                                         (さらにもう少し次回に)

謹賀新年

2017/01/08

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           謹 賀 新 年

 
     本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 
                                        京都森田療法研究所
                                         主宰者  岡本重慶
                                         研究員  一同
                                         協力者  一同
 
   この研究所活動を始めて5年になります。
   昨年は、いくつかの研究課題を追う過程で、沢山の新たな人々との出会いに恵まれました。
   そして新たな課題に遭遇しました。
   ご縁に感謝しながら、今年も歩を進めます。
 
   皆々様のご清福を祈ります。  

森田正馬は、鎌倉円覚寺に参禅したか?(2) ―鈴木知準氏の森田正馬円覚寺参禅説について―

2016/12/27

 

 
 最初に、前回の稿で述べたことを繰り返しておく。 森田正馬は、明治43年に谷中の両忘会に入り、釈宗活のもとに参禅したことは、事実として疑いを入れない。しかし、一方で、鎌倉円覚寺の釈宗演のもとに参禅したという説がある。これを声高に強調なさったのは、鈴木知準氏である。その根拠として鈴木氏は、森田自身が「円覚寺の釈宗演のもとで」参禅したと述べた文献があるとして、次のものを挙げておられる。
 森田正馬 : 日々是好日. 神経質(旧)六巻 146,1935.
 この文献に相当するものは、森田正馬全集第七巻に収載されているのだが、奇妙なことに、鈴木先生のおっしゃる「円覚寺の釈宗演のもとで」という肝心の言葉はない。
 この不一致は何を意味するのか。そこには、さまざまなことが考えられる。端的に言えば、そのような文言があった筈だという鈴木氏の思い込みか、さもなければ、編集者の判断により、その文言の削除がおこなわれたか、という推論を立ててみたのだった。
 

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 さて、前回手許になかった「神経質(旧)」誌(昭和10年4月号)の森田自身の文献、「日々是好日」にようやくたどり着いて、該当する文章を読んだ。そこには鈴木氏のおっしゃった「円覚寺の釈宗演のもとで」という言葉は、ついぞ見当たらなかった。森田正馬はかく語りき、と鈴木氏が示した文献中で、森田はかく語ってはいなかったのである。鈴木氏の言説に、実に単純な齟齬があった、と言わねばならない。森田がかく語ったという鈴木氏の言説は、昭和52年の氏の著作に見られるのだが、さらに付け加えれば、昭和51年に三聖病院の、宇佐玄雄生誕九十周年・三聖病院開院五十周年記念講演会に招かれて、その場においても全く同じことを述べておられ、それは昭和52年の三省会報第4号(昭和52年4月8日)に掲載されている。
 これらに先立って、森田の「日々是好日」という文献は、昭和50年に森田正馬全集第七巻に、熊野明夫氏の編集により収載されており、それは「神経質(旧)」誌に昭和10年に掲載された元の文献の再掲で、両方を照らしてチェックしてみたが、いずれにも、「円覚寺の釈宗演のもとで」という文言はない。ここにおいて、第七巻の編集者の熊野氏の作為が働いた可能性は消えて、問題はやはり元になった森田の文献の引用の正確性に差し戻される。誤った引用をすれば、そこに責任が発生する。にも拘わらず鈴木氏は、ためらうところなく、「森田は『円覚寺の釈宗演のもとで』参禅をしたと言っている」と、熱く語ったり書いたりなさっている。このけれんみのない語りは、一体何を意味するものであろうか。これは鈴木氏における単なる思い込み、あるいは記憶の錯誤の類のものであろうか。それとも、もっと深い確信的根拠に基づいてのことであろうか。真相はどこにあるのであろう。
 

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 ところで、昭和10年の「神経質(旧)」誌上の森田の文献は、書き下ろされたたものではない。森田は、前年秋に高知に帰省する途中で、三聖病院で一泊してそこで講話をおこなっており、それが書き起こされた講話録である。おそらく書き取りをもとに起草されたものであろう。そして、その起草文は、まず三聖病院から刊行されていた機関誌に掲載されて、それが森田のもとに届けられて、「神経質(旧)」誌に転載されたとみるのが妥当である。また森田自身、この雑誌の編集発行者であったし、自分の講話録であるから、目を通して内容を確認した筈である。だが、ちょうどこの雑誌が編集された時期には、森田は熱海で病臥中で、編集は竹山恒寿氏によっておこなわれている。このような過程で、原稿の文言の脱落が起こった可能性もないではない。それにしても、鈴木氏がそこまで深読みしておられたかどうか、定かではない。とにかく鈴木氏の引用しておられる文言は、どこにもないのである。
 森田が三聖病院で「日々是好日」と題する講話をおこなったのは、昭和9年11月23日のことで、この高知への帰省の旅には、井上常七氏や、布留氏、野田氏が同行し、共に三聖病院に宿泊して、森田の講話を聴いておられた。このような方々や、竹山恒寿氏、熊野明夫氏は、森田が円覚寺の釈宗演のもとに参禅したか否かを知っておられたに相違ない。井上常七氏や熊野明夫氏らの生前に、証言を頂いていなかったとしたら、大変悔やまれる。また熊野明夫氏は、鈴木氏の愛弟子だった方と聞くが、鈴木氏との間で、森田円覚寺参禅説について、後日に討論は交わされなかったのであろうか。鈴木氏や熊野氏の周囲におられた方々が、ご存知であったら是非お教え頂きたいものである。

 

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 さらに無視できないことが残っている。鈴木氏における文言の引用の矛盾をあげつらうにとどまらず、引用に依拠しない鈴木氏の文脈にも注意を向けておきたい。前回に、森田の円覚寺参禅説を述べた氏の文章の二カ所を抜粋して示したが、その第一の文章を、前回より少し長めに引用してみる。
 「明治に入って臨済禅の系統に廃仏毀釈の新政治の嵐の中を生きぬいた禅僧に鎌倉円覚寺の今北洪川、その弟子の釈宗演がある。ここに夏目漱石、鈴木大拙、西田幾多郎、若い日の森田正馬も参禅している。これは明治二十年代から三十年代のことであった。(…)禅が日本文化に影響をあたえ出したのは、鎌倉時代からといわれる。(…)日本人の生き方、特に武士道、更に心学や武芸も強く影響された。森田もまたこの文化的影響下に育ったことになる。」
 この文章は、森田の「日々是好日」の文献に拠らずに、森田の円覚寺参禅説が述べられているので、引用の矛盾を免れているが、具体的根拠には欠けている。当時の文化的背景と森田の関心を考え合わせて、森田は必然的に円覚寺に参禅したと、ずばりと言い切るレトリックになっている。具体的証拠を示さずに、断定的に言うことには問題があるが、私自身も、森田が鎌倉円覚寺に、もし参禅を試みなかったとしたら、むしろその方が不思議なことであると思っている。
 森田の日記を調べてみても、円覚寺に関する記述は一切見られない。しかし、森田は箱根あたりの禅寺を観光的に見物したことも日記に記しているほどなので、禅への関心は窺われる。東京から遠くはない鎌倉の円覚寺を訪れたことが一度もなかったとは、到底考えられない。円覚寺のあたりを散策して、そのたたずまいを見たことくらいはあったろうに、と思う。円覚寺については、あえて日記に書かなかったか、書いてから削除したかという憶測が働いてしまう。そんな不自然さに関して、ひとつ想定されることとして、森田の希望に反して円覚寺への参禅が叶わなかった可能性が考えられる。
 円覚寺に参禅した文化人として、よく引き合いに出されるのは夏目漱石である。漱石は『門』にその体験を書いている。主人公、宗助は紹介状を持参して参禅を許可されている。受け入れられた宗助は、雲水たちと修行をともにしたのではなく、小説中で「一窓庵」と呼ばれる塔頭、帰源院に下宿して、典座寮の僧侶で釈宗活をモデルとした「釈宜道」に食事などの世話になって、老師から与えられた「父母未生以前の自己本来の面目如何」の公案を見解しながら、塔頭内で独座し、時間がきたら老師の釈宗演に相まみえるという体験をしたのだった。
 私は当時の円覚寺のことをまったく知らないので、あえて想像でものを言うことになってしまうが、市民に向けて開かれた座禅会のようなものはなくて、外部からは、主に一部の文化人だけが、客分のように受け入れられていたのではなかったろうか。そう考えると、円覚寺は、無名の若者であった森田が参禅を受け入れられるほどに、開かれてはいなかったのではないか、という推測が成り立つ。その後、釈宗演の命を受けて、釈宗活が東京の谷中で、在家者を対象とする、いわゆる居士禅の両忘会を主宰したので、森田も参加することになるが、釈宗演自身は、居士禅を専らとする人ではなく、仏教界における権力者のような人物であった。森田にとって円覚寺は狭き門であったのみならず、彼自身にとって、釈宗演は、一向に魅力を感じられない人物だったのではなかろうか。
 ちなみに、森田は釈宗演の名を伏せながら、明らかに宗演を批判する文章を書いているのである。
 釈宗演は、明治34年に「修養座右の銘」と称する、いくつかの言葉を作っている。森田は釈宗演という作者名は出さずに、それらのものものしい句に対して、「あたかも無念無想になれと命令するようなもの」であると、このような教えの愚を批判している(『神経質及神経衰弱症の療法』)。

 

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 鈴木氏の指摘するように、当時の日本の文化的背景を視野に入れると、森田が円覚寺のような格式ある禅寺で、一度は参禅の体験をしようと志したであろうことは、想像に難くない。ここまでは鈴木氏の文脈の通りであると思われる。しかるに現実には、夏目漱石と異なり、円覚寺の門は狭く、加えて森田は、釈宗演という老師に人間的魅力を感じることができなかったのではないかと推測されるのである。以上、想像を逞しくして書いてみた。その結果、円覚寺での参禅はなかったとみる方向性に傾いてしまったが、参禅について事実はどうだったかわからない。
 いずれにせよ、森田は決して禅への関心が薄かったのではなく、参禅については、師と場に恵まれなかったのは事実であろう。さらに、究極の禅的修行は、日常生活にあるという認識を有していて、禅寺に入る参禅を絶対不可欠としない柔軟な思想の持ち主であったのも、事実であったろうと考えられる。

                                          (あと少し次回に続く)

アフリカのコトヌー(ベナン)での学会で話題になった森田療法

2016/12/20

 去る11月の下旬にアフリカのコトヌー(ベナン)で開催された学会に招かれたPsyCauseの代表者、Jean-Paul BOSSUAT 先生は、日本の森田療法について、その療法のあらましを述べ、閉院前の三聖病院を訪問した体験についても話されました。聴衆は200 人ほどいて、その大半はアフリカの人たちであったが、彼らは森田療法に強い関心を示してくれたとのことです。アフリカの方々が、森田療法にどのように関心を持ってくれたのか、詳細はまだよくわかりませんが、BOSSUAT先生は以上のような報告をPsyCauseのホームページのサイトに記しておられますので、紹介しておきます。
 

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09-diner
 La Pre Josiane Ezin Houngbé reçoit à dîner, au soir de la première journée de congrès, dans une salle du CNHU de Cotonou, le directeur de la revue Psy Cause et sa femme ainsi qu’un certain nombre de conférenciers et intervenants. Au cours des échanges lors de ce moment convivial, Le Pr Tognon ainsi que d’autres congressistes venus de Parakou, ville du centre Bénin où s’était déroulé le premier congrès de Psy Cause en Afrique Subsaharienne en 2008, ont exprimé leur souhait de la création rapide au Bénin d’une antenne Psy Cause Bénin. En effet, alors que la Côte d’Ivoire et le Cameroun en 2012, puis le Togo en 2015 et le Sénégal en 2016, ont mis en place une structure Psy Cause, il conviendrait, selon nos interlocuteurs, qu’au Bénin où Psy Cause a une histoire très ancienne, il en soit de même.
 
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 Lors de ce repas, le directeur de la revue Psy Cause a également eu des échanges avec des conférenciers venus de Belgique et de France, en particulier avec une sexologue de Bruxelles, Mme Martine Laloux, qui, dans l’après midi en plénière, a fait une communication très applaudie, intitulée « Impact de la maladie chronique sur la sexualité ». Les nombreuses discussions qui ont suivi avec la salle, en avaient fait une conférence très interactive. Heureuse de découvrir notre revue, elle nous a fait part, lors de ce dîner, de son intention de garder le contact, d’intervenir sur notre site et d’en parler autour d’elle en Belgique.
 
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 Tout au long des trois journées du congrès, ont eu lieu des échanges sur le fonctionnement de la revue Psy Cause. Principalement avec les Prs Jean Marie Yéo Ténéna (Côte d’Ivoire), Arouna Ouedraogo (Burkina Faso) et Aïda Sylla (Sénégal). Le Pr Jean Marie Yéo Ténéna, secrétaire de rédaction à l’Afrique Subsaharienne dans la revue Psy Cause, note que le nombre des articles adressés à la revue est bien supérieur à nos capacités de publication, ce qui, d’ailleurs, est un signe de succès. Il considère que nous devons mieux organiser la sélection des articles, ce qui renforcera la crédibilité de notre revue … et sera dans l’intérêt des auteurs. Le Pr Arouna Ouedraogo, Président de la Société Africaine de Santé Mentale, est en accord avec un renforcement de la sélection des articles.
 

 La Pr Aïda Sylla approuve également cette orientation. Elle est, de plus, favorable à ce que l’Ecole de Dakar pilote une demande de référencement au medline. La revue Psy Cause a déjà ses marques, en Afrique avec le CAMES, en France avec l’ASCODOPSY. La voie du référencement va se poursuivre et l’Afrique sera au cœur du processus. Au même moment, le Pr Mamadou Habib Thiam nous adresse depuis Dakar un courriel nous informant de l’avancement du second numéro Spécial Sénégal qui devrait paraître au premier semestre 2017. En ajoutant des échanges, en cours de congrès, avec le Pr André Tabo (Centrafrique) qui confirme la mise en place imminente à Bangui de Psy Cause Centrafrique, la richesse des rencontres à Cotonou du 22 au 24 novembre 2016 mesure le positionnement de Psy Cause en Afrique Subsaharienne francophone.
 
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 Nous poursuivons ce second volet avec la communication du directeur de la revue en plénière le 24 novembre « La thérapie de Morita à l’Hôpital Sanseï (Kyoto) ». Le Dr Jean Paul Bossuat introduit son propos en rappelant que sa présence à Cotonou en ce 24 novembre 2016 est un retour aux sources d’une vocation africaine de la revue. Dès 2003 en effet, le Pr René Gualbert Ahyi, alors qu’il était le seul psychiatre universitaire béninois, s’était adressé à la revue Psy Cause. À cette époque, le Centre Hospitalier de Montfavet (Avignon), dans lequel Psy Cause était reconnue comme une revue d’établissement, soutenait le développement de la psychiatrie béninoise. Notre revue ouvrait alors largement ses pages à des publications béninoises. Agrégé en 2006, le Pr Mathieu Tognidé soutenait en 2007 notre projet de congrès à Parakou réalisé en 2008 en partenariat avec l’université de cette ville. Il insistait ensuite pour que Psy Cause s’ouvre à l’Afrique, obtenant à cette fin une reconnaissance du CAMES. Ce sera une réalité à partir de 2010 et définitivement formalisé en septembre 2012. Autant dire que le Pr Mathieu Tognidé, auquel ce colloque de santé mentale rend hommage, a été au cœur de la transformation de Psy Cause en revue francophone internationale.
 
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 Le Dr Jean Paul Bossuat présente ensuite la thérapie fondée par le psychiatre japonais Morita dans les années 1920. Au croisement d’influences occidentales américaines et tout particulièrement allemandes avec Kraepelin, et orientales avec la voie bouddhiste de l’éveil dans sa version Zen, elle a donné lieu à la construction en 1922 de l’Hôpital Sanseï, spécialisé dans cette thérapie, dans l’enceinte d’un temple zen de Kyoto. Le fondateur de cet établissement, le Dr Genn-yu Usa, bonze et psychiatre, était un disciple direct de Morita. À son décès en 1957, la direction de cet hôpital est reprise par son fils. Des patients venaient de l’ensemble du Japon et de la Corée pour bénéficier de cette thérapie pratiquée dans le cadre d’une hospitalisation qui comportait quatre étapes : le coucher absolu, l’observation du monde extérieur, le travail et la vie sociale compliquée.

 
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 En octobre 2014, la revue/association francophone Psy Cause tenait à Kyoto son IXème congrès international. Il était présidé par le Pr Shigeyoshi Okamoto, spécialiste de la thérapie de Morita, formé à Sainte Anne et rencontré à Paris lors d’un congrès de « philosophie et psychiatrie » le 28 juin 2001. Ce congrès de Kyoto rassemblait des intervenants japonais se référant de l’approche bouddhiste ou lacaniens (une école lacanienne francophone très vivante existe au Japon). Deux courants de la clinique française inspiraient les participants japonais : le phénoménologie et la psychanalyse lacanienne. Un événement donnait à ce congrès un sens particulier : la décision de la fermeture de l’Hôpital Sanseï par son directeur devenu trop âgé pour poursuivre. Il n’était pas question de transmission mais de démolition : la pelleteuse rasait l’hôpital quasi centenaire, quelques semaines après le passage des congressistes de Psy Cause venus de France et du Canada. Ce congrès de Kyoto avait donné lieu à une cérémonie de clôture de cette expérience thérapeutique qui s’origine aux débuts du siècle dernier. Le Pr Shigeyoshi Okamoto n’a pas été autorisé à préserver de quoi constituer un musée, le directeur souhaitant la disparition totale de tout ce qui se rattache au lieu de soin. Un « Cahier Japonais » a rassemblé des textes du colloque et d’autres auteurs japonais dans le N°70 de Psy Cause. Largement diffusé au Japon, il porte un témoignage d’éléments constitutifs du patrimoine de la psychiatrie japonaise.
 
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 Cette communication a interpelé l’auditoire béninois, en particulier le Pr René Gualbert Ahyi, sur la question de la transmission de pratiques thérapeutiques inspirées par la culture ancestrale face au choc de la « modernité ». Ce qui vient de se jouer à l’Hôpital Sanseï peut très bien survenir en Afrique. Le thème de la mondialisation a, de façon récurrente, été évoqué lors du colloque. Elle a pour véhicule l’univers numérique via internet.
 
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 Lors de l’ultime séance plénière, après une communication très vivante intitulée « Education sexuelle en Afrique », le Pr Arouna Ouedraogo, en tant que Président de la Société Africaine de Santé Mentale, convie les congressistes au second congrès de la SASM à Yamoussoukro du 6 au 9 mars 2017. Le Dr Jean Paul Bossuat, modérateur de la séance, annonce alors que la revue/association francophone Psy Cause sera représentée à Yamoussoukro, en tant que partenaire officielle de la SASM.

Jean Paul Bossuat

“ PsyCause et le Japon : 15 années d’échanges “(“ PsyCause と日本 : 15年間の交流 “)

2016/12/17

 PsyCause という、フランス語圏国際学会組織と交流を始めて15年になります。
 このほど、PsyCauseのホームページのサイトに、組織の代表者のJean-Paul BOSSUAT 先生が、日本との過去15年間の交流を回顧する記事を出して下さいました。
 PsyCause のホームページのアドレスは、当ホームページの「リンク」欄の冒頭に掲げていますので、いつでもアクセスしてもらうことが可能ですが、以下に改めてリンクをつけておきます。
 
http://www.psycause.info/
 
 この回顧の記事で、BOSSUAT先生は写真とともに過去15年の交流の経緯を明快にまとめて書いて下さっています。こちらの記憶がおぼろげになっていることまで再現されているので、情報の整理と保存の能力にも驚いています。
 
 森田療法の分野での日仏交流は、古くは高良武久先生のパリでの講演に始まり、以後20世紀末まで、日本からフランスへ向けての交流ならぬ一方通行的な紹介活動が、散発的に続けられてきました(その中には、不肖自分もいました)。森田正馬の著書の翻訳がなされたのは、その時代の最大の成果だったと言えますが。
 さて、一方的な紹介活動は、20世紀末をもって終息に向かいました。それを受けて、21世紀のグローバル化の時代に、電子化された通信機能を活用して、私たちはPsyCauseのネットワークの中で、インターネットやメールで森田療法について国際的に討論を交わすことが可能となりました。一方2年前には、フランス人たちは日本を訪れて、閉院間近い三聖病院をリアルに見届けるという的確な行動力を示しました。画像とともに、そのような体験を記した BOSSUAT 先生の回顧の文は、森田療法についての国際的討論を経ながら、遂にリアルタイムで閉院前夜の三聖病院を訪れて、フランス人の立場から、森田療法の歴史のひとつの幕引きに立ち会った貴重な生き証人の記録でもあります。
 以下にその記事を、貼り付けておきます。
 

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 Psy Cause a officiellement affirmé sa vocation francophone internationale à partir de 2010 et l’a inscrite dans ses statuts en septembre 2012. Cette évolution à partir d’une revue locale française est le fruit d’une longue histoire. Notre présence francophone en extrême orient, comme en Afrique ou au Canada, a des racines qui s’originent dans les premières années de la revue. Tout a commencé à Paris lors de la cinquième Conférence internationale Philosophie et Psychiatrie qui se déroulait du 28 au 30 juin 2001 à la Faculté des Saints Pères sur le thème : « Douleur et dépression ». Le comité scientifique était coordonné par un Professeur de Marseille spécialiste de la phénoménologie, Jean Naudin. Le directeur de la revue Psy Cause, le Dr Jean Paul Bossuat faisait le déplacement accompagné d’un collègue, le Dr Rémi Picard. Ce dernier était un jeune psychiatre dans le service du directeur de Psy Cause au Centre Hospitalier de Montfavet. Il se préparait au concours pour être psychiatre des hôpitaux, et nous effectuions ensemble une communication à ce colloque. Le Dr Rémi Picard est aujourd’hui Président de la CME du Centre Hospitalier de Montfavet.
 
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 Une conférence très originale avait retenu notre attention, le second jour de colloque, intitulée « La douleur spirituelle et la thérapie de Morita ». Nous n’avions jamais entendu parler de cette thérapie japonaise. L’auteur, le Dr Shigeyoshi Okamoto, psychiatre et Professeur de santé mentale à l’Université Bouddhiste de Kyoto, avait su captiver son auditoire et nous donner l’envie de le connaître. Ce sera chose faite lors de la soirée de gala de ce même jour aux Jardins de Bagatelle. Le courant est passé : nous avons parlé de cette thérapie japonaise, de Kyoto et également de la revue Psy Cause. Le Pr Shigeyoshi Okamoto adressera le 16 décembre 2001 une lettre au directeur de Psy Cause : « j’ai bien reçu un exemplaire du dernier numéro de votre revue et je vous en remercie vivement. Je vous suis aussi reconnaissant de votre amabilité de m’avoir ajouté parmi les correspondants associés. » Il ajoutera son espoir de notre venue, tous les deux, au congrès mondial de psychiatrie à Yokohama l’année suivante. Nous avions à l’époque dans l’ourse de Psy Cause, une rubrique réservée aux étrangers, les « correspondants associés ». Cette même année 2001, en juillet, le directeur de la revue effectuait une tournée dans des établissements du Québec à l’invitation du Dr Raymond Tempier. Là aussi, étaient semés des prémices qui allaient germer douze années plus tard.
 
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 Dix années après ce colloque parisien et d’envoi régulier de notre revue, en 2011, le lien avait été préservé. Le Pr Shigeyoshi Okamoto nous signale par courrier le 17 février son changement d’adresse et son intérêt pour la lecture de Psy Cause. Il nous informe également de sa prise de fonction dans l’Hôpital Sanseï spécialisé dans la thérapie de Morita à Kyoto. C’est l’époque où nous mettons en place un comité de rédaction international francophone et nous lui proposons d’y faire son entrée. Il nous répond par mail le 21 mars 2011 : « Je suis très honoré et en même temps confus (…) car je ne maîtrise pas bien la langue française (…) » Il répond aussi à notre suggestion d’organiser à Kyoto un séminaire Psy Cause sur la thérapie de Morita : « votre proposition (…) m’intéresse beaucoup. En pratiquant la thérapie de Morita à l’Hôpital Sanseï, hôpital spécialisé dans cette thérapie beaucoup inspirée du Zen, je m’occupe depuis longtemps de l’échange franco-japonais au niveau de cette thérapie. »
 
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 Il nous informe alors d’une difficulté rencontrée avec la Société Franco-Japonaise de Médecine qui fonctionne dans le cadre de la psychiatrie : « la source de cette société remonte à la rencontre de quelques psychiatres japonais avec Henri Ey. Les activités de cette société se sont limitées à des échanges entre les psychiatres de la région parisienne et ceux de la région de Tokyo. Extraordinairement, en 2004, cette société organisait un colloque intitulé « Journée de la Thérapie de Morita » dans notre hôpital à Kyoto. » Mais, ajoute le Pr Okamoto, cette journée n’a « pas été bien appréciée » à cause de problèmes tels que « la différence des cultures, la difficulté de communication, une préparation imparfaite dans l’organisation. » De plus, la publication des écrits en France n’a pu être réalisée. Depuis ce relatif échec, nous écrit le Pr Okamoto en ce 21 mars 2011, « je n’ai pu développer, malgré mon désir, l’échange franco-japonais sur la thérapie de Morita », et conclut « j’apprécie beaucoup votre proposition (…). Il faudrait préparer prudemment ce séminaire pour le réaliser avec succès. » Quatre jours plus tard, le 25 mars 2011, il nous poste une carte postale représentant l’œuvre de Camille Claudel « L’abandon », sur laquelle il nous écrit : « La région de Kyoto reste intacte, épargnée par le désastre (Fukushima). En revanche, notre hôpital « périmé » court vers sa ruine. Venez et regardez le avant sa disparition. »
 L’année 2011 est également, pour notre revue/association celle de la montée en puissance de la communication numérique. Le site est doublé depuis l’automne 2010 d’un blog plus convivial, plus journalistique. Le contenu du blog sera par la suite, en janvier 2013, intégralement transféré dans le nouveau site psycause.info qui regroupera les diverses fonctions. Deux articles présentent sur le blog la thérapie de Morita. Le premier, en date du 29 juillet 2011 évoque un projet de séminaire Psy Cause, sur la thérapie de Morita à Kyoto. Le second, en date du 30 août 2011, parle des réactions par courriels au premier texte, et de la réponse du Pr Okamoto. Ces deux textes sont à lire dans la rubrique « Asie » accessible en cliquant sur la barre du haut de notre site.
 
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 Notre entrée en extrême orient se fera par le Cambodge en novembre 2012. Invité au congrès de Siem Réap, le Pr Okamoto ne pourra se déplacer pour des raisons de santé. Sa communication sur la thérapie de Morita sera lue et présentée aux congressistes par le directeur de Psy Cause. L’une des congressistes au Cambodge, la Dr Catherine Lesourd, pédopsychiatre en Martinique, vient en juin 2013 à Kyoto, rencontre le Pr Okamoto et visite l’Hôpital Sanseï. Lors du congrès Psy Cause d’Ottawa en octobre 2013, elle se porte volontaire avec la Dr Patricia Princet pour manager au nom de Psy Cause un congrès à Kyoto présidé par le Pr Okamoto. Le projet de 2011 va prendre forme et devenir un événement historique.
  
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 Notre congrès Psy Cause à Kyoto en octobre 2014 est contemporain de la décision de fermeture de l’hôpital Sanseï. Le Pr Okamoto s’adresse le 19 octobre aux congressistes par ces mots : « En tant que responsable de l’organisation, du côté japonais, je voudrais d’abord souhaiter la bienvenue à Kyoto au congrès de Psy Cause, à tous les ressortissants de pays francophones ici présents. Je voudrais aussi les remercier d’être venus de si loin jusqu’ici. Ma gratitude va aussi aux Japonais qui participent avec assiduité, bien qu’il s’agisse d’un colloque en langue étrangère. Quant à moi, Shigeyoshi Okamoto, cela fait une dizaine d’années que j’ai des échanges avec ce mouvement. Notamment, j’avais eu l’honneur d’être invité à faire une conférence sur « La thérapie de Morita et le bouddhisme » au congrès qui s’est tenu au Cambodge en 2012. Mais mon état de santé s’étant aggravé, je n’ai malheureusement pas pu être présent en personne, dérangeant ainsi grandement les membres de Psy Cause. Je voudrais donc saisir l’occasion qui m’est donnée ici pour leur renouveler toutes mes excuses. Cette année, deux ans ayant passé, j’ai dû accepter la tenue de ce congrès, pour me faire pardonner.(…) Je dois par ailleurs ajouter que l’Hôpital Sansei, qui est l’hôpital le plus traditionnel pour la Thérapie de Morita, fermera ses portes à la fin de cette année. La décision a été prise à la fin de septembre. L’histoire de la Thérapie de Morita évolue depuis le passé jusqu’à présent et du présent vers l’avenir. En voyant les dernières images de l’Hôpital Sansei en activité et en réfléchissant ensemble à la signification historique de cet hôpital, je voudrais que ce congrès soit mémorable. »
  
 Cette première journée de colloque, le Pr Shigeyoshi Okamoto nous brosse le panorama de la Thérapie de Morita au Japon aujourd’hui : 300 médecins pratiquent la Thérapie de Morita au Japon. Peu réfèrent leurs soins à la philosophie du Zen. Les autres ont pris de la distance avec cette philosophie qui est à la base de cette thérapie et ne savent pas ce qui est pratiqué à l’hôpital Sansei qui est un élément attesté dans l’historique de cette thérapie. Il nous présente un film construit sur l’hospitalisation à Sansei d’un garçon qui a une phobie d’autrui, qui met en évidence une thérapie qui permet un lâcher prise de la jouissance sans changer la problématique névrotique sous-jascente qui est mise à distance, en moins de trois semaines. Le patient, libéré d’une pathologie invalidante, peut ensuite valoriser pleinement son talent artistique.
 
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 La seconde journée de colloque est particulièrement solennelle avec la venue d’un grand maître Zen très connu au Japon, Maître Eshin Nishimura. Le Pr Okamoto en précise le contexte : « la fermeture en décembre de cette année de l’Hôpital Sansei a été décidée comme un baisser de rideau sur une longue histoire de 92 ans. » Après un historique de l’Hôpital Sanseï ouvert en 1922 par un psychiatre bonze zen et disciple du psychiatre japonais Morita, il présente le maître zen : « si j’ai demandé à Maître Nishimura de nous donner une conférence, ce n’est pas parce qu’il est le plus grand spécialiste japonais du Zen mais parce que je voudrais qu’en le voyant en chair et en os, vous ressentiez par vos cinq sens le Zen vivant qui émane de sa personne. »
 
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 La troisième journée, le 21 octobre, est une visite de l’Hôpital Sanseï qui sera la dernière. Le directeur, le Dr Shin-ichi Usa, nous attend debout sur le perron, appuyé sur une canne, du haut de ses 88 ans, le visage emprunt de gravité. Nous avons devant nous un homme qui, dans les dix premières années de son enfance, fut un contemporain du Dr Morita. Son père, fondateur de cet établissement conçu pour mettre en pratique les idées du Dr Morita, lui a passé le flambeau à sa mort en 1957. Cet homme en tant que second directeur, a maintenu l’œuvre de son père pendant 57 ans. Il nous invite à visiter l’œuvre de toute une vie et au delà. Une maxime est affichée dans le hall d’entrée : « Seule la réalité est la vérité ».
 Ce congrès a été chargé d’émotion et la communication a été intense malgré les filtres culturels. Nous avons tous eu conscience de vivre un moment particulier de l’histoire de la psychiatrie japonaise. Les communicants japonais ont tenu à s’exprimer en langue française, ce qui a positionné notre événement dans le registre de la Francophonie.
 Ce congrès de Kyoto a rassemblé des intervenants japonais se référant de l’approche bouddhiste ou lacanienne (une école lacanienne francophone très vivante existe au Japon). Divers courants de la clinique française les ont inspiré : Henri Ey, la phénoménologie et la psychanalyse lacanienne. Ce croisement des références a été voulu par le Pr Okamoto qui se définit davantage comme francophile que comme francophone.
 
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 Les lendemains de ce colloque sont difficiles pour le Pr Okamoto avec la fermeture puis la destruction de l’Hôpital Sanseï. La pelleteuse rase le bâtiment centenaire dès février 2015. Le dernier directeur de cet établissement a tenu à ne pas laisser de trace de cette expérience thérapeutique qui plonge ses racines dans les années 1920. Il ne s’est pas soucié de transmettre des documents pour le musée que désire constituer le Pr Okamoto qui souhaite, lui, préserver la mémoire de la thérapie de Morita traditionnelle.
 
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 Le 4 septembre 2015, le Pr Okamoto nous écrit : « Après notre congrès de Kyoto, la fermeture de l’Hôpital Sanseï puis la démolition de son bâtiment ont suscité des problèmes quant à la nécessité de la conservation des divers documents historiques. Car le lieu de cet hôpital est vraiment important dans l’histoire de la thérapie de Morita, la création de cet hôpital remontant à l’ère de Shoma Morita. Le Dr Usa père, disciple de Morita, a fondé cet établissement sur le terrain du temple Tohukuji en introduisant le Zen auquel Morita attachait de l’importance, le considérant comme l’essence de sa thérapie. Au final, cet important hôpital a désormais disparu. » Or, nous confie le Pr Okamoto, cette destruction n’a suscité que de l’indifférence quant à la nécessité d’en conserver des documents, ajoutant : « personne n’a tenté de les conserver sauf moi. Même le directeur a été indifférent quant à cette nécessité. Moi tout seul ai fait tout ce que j’ai pu. J’ai épuisé mes possibilités et en ai été beaucoup fatigué. Cela a été ma bataille. »
 
11-couv-70
 
 La construction du « Cahier japonais », dossier spécial Japon dans le N°70, revêt donc un rôle important dans cette dynamique de transmission. Le Pr Okamoto s’y investit sans ménager ses efforts, aidé par Mme Nyl Erb, notre nouvelle chargée de mission pour l’extrême orient. Cette dernière était venue à notre congrès de Kyoto grâce à google. Elle effectuait une recherche sur la thérapie de Morita et la seule occurrence disponible via internet était Psy Cause. Ethnopsychanalyste passionnée par la culture japonaise, elle s’est, après notre congrès dans la capitale impériale du Japon, portée volontaire pour faire le lien avec les professionnels de ce pays, et a apporté sa précieuse contribution quant à la réalisation d’un dossier en langue française très complet intégrant la thérapie de Morita, le Zen, la psychanalyse au Japon, et des données anthropologiques. Le Pr Okamoto a lui même tenu à la publication de trois articles dans lesquels les auteurs se réfèrent à la psychanalyse lacanienne. Le N°70 sera diffusé à partir d’avril 2016. Le Pr Okamoto nous écrit le 6 juin 2016 : « Nous, les auteurs japonais, avons reçu l’envoi du N°70 de la revue Psy Cause le 27 mai. Envoi dont nous sommes vraiment reconnaissants. » Il nous fait part de la satisfaction des auteurs quant à la présentation avec des photos en couleur, de leurs articles. Et il nous commande une livraison d’exemplaires « pour offrir ce numéro à plusieurs collègues japonais, en mémoire de la fermeture de l’Hôpital Sanseï. »
 
12-cotonou-morita
 
 Le 24 octobre 2016, le directeur de la revue Psy Cause, invité à Cotonou au congrès béninois de santé mentale, communique sur la thérapie de Morita à l’Hôpital Sanseï avec pour base, entre autres, les écrits du N°70 et le congrès de Kyoto. La question de la transmission d’une thérapie associée à des bases culturelles est au centre des échanges avec la salle car elle trouve beaucoup d’écho en Afrique Subsaharienne. Autant dire que les professionnels africains vont suivre avec attention le devenir de la thérapie de Morita au Japon.
 

Jean Paul Bossuat
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森田正馬は、鎌倉円覚寺に参禅したか? (1)―釈宗演と釈宗活―

2016/12/08

 釈宗演、宗活(白黒)

         釈宗演(左)              釈宗活(右)
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
 森田正馬は、明治43年に東京谷中の両忘会に入って座禅に通い、釈宗活のもとに参禅した。このことは、森田正馬全集第七巻に出ている「我が家の記録」や「年譜」、さらに野村章恒氏の『森田正馬評伝』によっても明らかである。たとえば『森田正馬評伝』の中の「人間像の彫塑」の章に摘記されている森田の日記の明治四十三年のくだりに、次のように記されている。
 「三月(注:二月の誤りか)五日(土)藤根氏(常吉、富士川遊氏助手)に誘われ谷中両志会(注:両忘会が正しい)に入会、釈宗活氏の提唱を聞き摂心中毎朝参禅す。考案(注:公案が正しい)は「父母未生以前の本来の面目如何」なり」。
 
 ところが、森田正馬は鎌倉円覚寺の釈宗演のもとに参禅した、という説もあるのである。
 鈴木知準は『現代の森田療法―理論と実際―』(白揚社、昭和52年5月刊)の中で分担執筆した「森田療法と禅」 という文中で、鎌倉円覚寺の釈宗演に参禅したと、二度も繰り返して記している。その二カ所を引用しておく。
・「明治に入って臨済禅の系統に廃仏毀釈の新政治の嵐の中を生き抜いた禅僧に鎌倉円覚寺の今北洪川、その弟子の釈宗演がある。ここに夏目漱石、鈴木大拙、西田幾多郎、若い日の森田も参禅している。これは明治20年代末から30年代のことであった。」
・「森田は「日々是好日」なる論文(注)の中で次のように述べている。「私は禅に関しては門外漢である。今からおよそ三十年近く前(明治三十六~三十七年)円覚寺の釈宗演のもとで禅の提唱を聴き参禅もした。公案は『父母未生前本来面目』で四度参禅していろいろ言ったが通過しない。禅の修行はそれきりであった。」」。
 さらに鈴木知準氏は、森田が鎌倉円覚寺の釈宗演のもとへ参禅したことについて二度も言及した、この「森田療法と禅」という文章と同一の稿を、自著『森田療法を語る』(誠信書房、昭和52年6月刊)にそのまま収めている。著者鈴木氏は、記した内容について確信を持っておられたように思われる。ところで、先に引いた鈴木氏の第二の文章において、氏が引用文献として注記しておられるのは、次のものである。
 
森田正馬 : 日々是好日. 神経質(旧) 六巻 146,1935.
 
 この文献に相当するものは、森田正馬全集 第七巻に「日々是好日」という題でそのまま収載されている。そこでこれを読むと、奇妙なことに、鈴木氏が引用した部分の中にあった筈の「円覚寺の釈宗演のもとで」という肝心の言葉が抜けていて、見当たらないのである。これはどういうことであろうか。これを強いて推測すると、二通りのことが考えられる。
①元の森田の文献の上に、鈴木氏が「円覚寺の釈宗演のもとで」という言葉を付け加えたものであり、元々なかったか―。
②「円覚寺の釈宗演のもとで」という言葉は、森田の元の文章に出てはいるが、その信憑性を疑った第七巻の編者(熊野明夫氏)によって、削除されたか―。
 そのいずれかであると考えられる。
 なお、森田によるこの文献は、鈴木氏の言うような「論文」というほどのものではなく、森田が昭和9年11月に三聖病院においておこなった講話の記録であり、これを書き起こしたものである。
 
 さて、そこで「神経質(旧)」誌の森田のその文献を参照する必要があるのだが、手元になく、急いで取り寄せている。数日後に入手予定なので、入手し次第、追ってこの稿の続きを記す予定である。
 
 ところで、鈴木氏が指摘しておられたこと―、森田が鎌倉円覚寺の釈宗演のもとに参禅した、という話は、以前から伝説化して巷間で信じられてきたのは事実である。三聖病院院長の宇佐晋一氏は、父の宇佐玄雄が僧医として進む道について助言を仰ぐために、釈宗演に直接会いに行ったというエピソードを語る際に、森田正馬が参禅した釈宗演その人である、と説明しておられた。私自身、そのような「伝説」に接しながら、一方で森田の日記などからは、谷中の両忘会に参加して釈宗活から公案を与えられたという記録があるので、森田の参禅については、ずっと不可解さを引きずってきた。谷中両忘会への参禅は、まず疑い難い。しかし、二者択一とせずに、森田は谷中の両忘会に参ずる前に、鎌倉円覚寺に参禅したことは、なかったのか。そのような疑問は晴れないでいる。
                                       (次回に続く)

「江渕弘明医師、禅に生きた森田療法家―その知られざる生涯と活動の軌跡―」の発表について

2016/12/03

 生涯のほぼすべてを、森田療法と禅で生き抜いた森田療法医がおられました。
 江渕弘明医師(1916[大正5]-1998[平成10])。
 少年期に始まる神経症的体験をきっかけにして、森田療法に触れ、さらに青年期の10年にもおよぶ結核療養生活の体験から、森田療法や禅の世界に一層深く入っていかれたものと思われます。
 私たちにとって、さほど遠い過去の世代の人ではありません。なのに、療病十年、僧堂での修行生活二十年、森田療法について研究的な発信をされることもなかったためか、ほとんど知られていない人物です。修行中には、僧堂から出て一部の森田療法の関係者たちと交流なさってはいました。その足跡をたどることでこの希有な人物に迫ろうとしました。森田療法にとって禅とは、森田療法家にとって修行とは。われわれはこの先生から多くを学ぶことができます。
 去る11月26日、第34回日本森田療法学会(東京)で、その発表をしたのでした。しかし、一般演題の限られた時間内に、江渕先生に関するすべてを述べることはできませんでした。残念ながら、うわべをなぞるだけの発表になりました。それにもかかわらず、江渕家のご親族の方々、4人様がご来聴下さり、恐縮しました。そして勿論留意するとは言え、江渕家のプライバシーにある程度は関わるかもしれないこの発表についての、私の強いお願いに、同意して下さいましたご夫人とご親族の方々に、改めて心から感謝しています。
 
 学会当日に提示したスライドは、「研究ノート」欄に再現し、説明を書き込みました。学会の限られた時間枠内で話したことよりも、若干説明文が膨れた部分もあります。そこでは新規の追加説明を加えたことになりました。
 
 江渕弘明先生は、長年の修行体験を経て、「禅、森田道、本質全て一なり」という境地を得ておられました。そして修行も熟したその頃に、老師から印可を受けられました。
 ところで、その何年か後に、ひとつのエピソードがあります。江渕先生は、ある企業グループの慰霊祭に、老師代理として導師を務める大役を任されました。そこへ行くために金襴の袈裟衣を着せられた先生は、後輩のある僧に向かって言われます。「わしゃ、恥ずかしい。猿回しの猿のようじゃ。断ろうか」。そしたら後輩の僧から逆に諫められるのです。「常日頃から、人には、あるがままとか、恥ずかしいままとか、なりきるとか、思いきるとか言っていて。自分が思いきったらどうですか」と。
 人間は何年修行をしても、悟り澄ました聖人になれるものではないし、悟り澄ませばよいわけでもない、ということを江渕先生は教えて下さいます。
 「わしゃ、恥ずかしい」。それが「禅、森田道、本質全く一なり」ということなのでしょう。
 学会当日は、そんな挿話まで紹介できなかったのです。

アルコール依存症に対する森田療法

2016/10/15

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2016年10月8日、日本アルコール・アディクション医学会(東京)
(発表している 海野 順 医師)
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
1.依存を生きる
 臨済義玄は、自由自在に躍動し、ありのままに生きる人のことを「無依の道人(むえのどうにん)」と言った。難解だが、仏性を体現して何にもとらわれない十全の人のことである。
 森田正馬は、「自由」とは独立独行であり、他者の奉仕を求めるところに自由はないと言った。主体性なくして、わがままなばかりで人を頼みにしていては、本当の自分らしい生き方はできないという戒めである。
 臨済や森田に共通するものは、依存やとらわれのあるところに自由はなく、依存やとらわれから離れてこそ、自由で健全な生き方があるという教えである。そこには尤もな道理が説かれていると言わねばならない。しかしまた、実際には、それは難しい道である。無依の道とはどんな道であろうか。
 人は愛に渇き、生に執着し、傷ついては癒やしを求め、群れて共生し、互いに共依存し、社会集団に帰属し、神に祈り、仏に帰依して日々を生きている。人間は独りで生きられよう筈もない、か弱い存在である。人は皆、いわば依存症を生きているのである。
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
2.三聖病院での経験
 何かに依存しなければ生きるのが難しい人間であってみれば、神経症圏内の人たちの中に、さまざまな依存の病理があって当然だと思う。
 森田療法の三聖病院で長年勤務した経験を持つので、思い返してみるのだが、そこで出会った依存症の患者さんの数は、さほど多いものではない。その中で、アルコール依存症の患者さんの受診はコンスタントにあった。しかし、閉鎖病棟はないし、入院はすべて任意入院で、自分の意志で入院する人たちに限られていたので、アルコール依存症だからと言っても、とくに目立つことなく、特別な扱いもされなかった。院内に酒を持ち込んで自室で飲んでいる者だけは、強制退院させることになっていた。無断外出はタテマエ上禁止されていたが、実際は外出は自由になっていたので、アルコール依存症者であろうとなかろうと、夕方に一杯飲み屋に出かける者たちがいた。年末には、忘年会をすると言って、入院患者(修養生)の仲間たちが、連れ立って院外の飲み屋に出かけて行った。それが修養の実態であった。飲酒に関しては、入院母集団がこんなであったから、アルコール依存症者はあまり目立つ存在にならなかった。自室での飲酒は厳禁だったことを除けば、断酒という厳しい掟がないために、かえってほだされて、緩やかにアルコール依存が軽快していく効果があったのであろうか。そこのところは、よくわからないままである。
 それより、三聖病院は、カリスマ性を帯びた「院長先生」への依存が生じる温床のような場であった。か弱き人間の中でも、とりわけか弱い神経症圏の患者さんにとって、「不問」の環境で黙って君臨なさっていた「院長先生」は、まさに偶像のようで、崇拝の対象となった。こうして関係依存が醸成された。
 アルコール依存症でも、神経症と言うより、気の荒いパーソナリティ障害に近い人たちは、アルコールという物質への依存を「院長先生」への関係依存に変えて、競って「院長先生」を守る忠臣となり、用心棒になった。治療者の責任をつくづく考えさせられた。
 私自身は、自分が外来で治療に当たっていた女性のアルコール依存症の患者さんのことが記憶に新しい。神経症ではなく、境界性パーソナリティ障害だった。
 幼児期に両親と別れて、波乱の生い立ちを経て、十代よりホステス、男性遍歴、アルコール依存、非合法薬物依存という半生を経て、その後は薬物を断ち、その筋の人たちとの交わりから逃れて、子どもを育てながらみずから立ち直って生きようとする意志を持った人であった。以前にいた社会から足を洗った代わりに、アルコール依存が重症化し、摂食障害も伴っていた。子育てを理由に、自助組織への参加も入院も拒み、かれこれ数年間、私の外来に来た。
 過去の交友関係から逃れようとしても、逃れ切れなかったり、身に覚えがないことで突然警察が家宅捜査に来たりした。そんなことがあるたびに自暴自棄になり、飲酒が増した。自殺未遂も起こした。情緒不安定だが、この人物の内面には、立ち直ろうとする糸のような意志が続いているのが見えた。子どもたちといるのが、生きがいのようだった。過去からの誘惑には負けないでいる。それでこちらも腹を決めて付き合った。まず森田療法ありきではない。森田療法だからどんな技法で、ということではない。不問でなく、話を聴いてやるしかなかった。こちらからは詮索しない不問の姿勢を取った。受診の間隔が途切れたとき、死んだのかと密かに心配した。そしたら、死にたくて遠くの地まで出奔したけれど、帰ってきたと言って姿を現した。
 当方への初診後数年経ち、波乱は徐々に緩やかになり、酒量も多少減ってきた。通院も間隔が空くようになった。しかしまだ何が起こるか、わからない。そんなとき、病院は閉院を迎えた。そしてこの患者さんとの別れの時が来た。
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
3.海野 順医師の学会発表
 若手ながら、アルコール依存症を中心に依存症の診療に従事し、森田療法的アプローチを取り入れている精神科医師がいる。聖和錦秀会 阪和いずみ病院の海野 順医師である。京都森田療法研究所の臨床研究員にもなってくれている。海野医師は、去る10月8日に、平成28年度日本アルコール・アディクション医学会学術総会で、次のような題目の発表をなされた。
 
 「現実逃避型のアルコール依存症患者に対する森田療法的アプローチ」
 
 既に発表された際のスライド画像を、このホームページの「研究ノート」欄に提示しておく予定なので、研究発表のあらましは、いずれスライド画面より読み取っていただけると思う。
 発表の背景として、次のような事情があったという。所属病院の位置する大阪では、病院外部には、自助グループや作業所などの社会資源があって、行動療法的に機能している。また院内では、認知行動療法中心のテキストを用いた治療が体系化している。しかし、神経症者においては、知性化によって解決を図ろうとするため、実際には行動が後回しになりやすく、失敗するケースが複数浮上している。そのため、神経症的な患者に対して、森田療法的アプローチをして有効性を認めたとのことで、そのような症例についての報告がなされた。
 治療については、院内、院外での自助グループにおいては、概して指導者が、説明的、説得的になり、かつメンバーに対して体験の語りを強いて勧める傾向があり、ややもすると個々の神経症的患者の内面の進展にそぐわないことになり、その点を考慮して治療を進める必要がある。そのような観点から、まずは治療関係において、基本的信頼 basic trust を築いた上で、「不問」を旨とし、患者みずからが過去や現在の現実を、あるがままに受けとめて、歩を進めていくことを重んじる。そのために、治療者は患者の存在を無条件に肯定し、その同行者となる。
 このような治療者患者関係を媒介するものとして、海野医師は、独自の発案で禅の「十牛図」を用いた。その用い方も斬新である。「十牛図」の詳解を敢えてせず、各図の名称を目次のごとく示して、目次の意味を教えるのみにする。そして呈示した十枚の図のうちで、現在の自分に対応する図を選んでもらい、その状況について話題にする、というものである。
 私は、海野医師のこの臨床的試みがおこなわれていたことを予め十分に知っていたわけではなく、学会発表の少し前に詳細を知ることになった。改めて私も、依存症に対する精神療法に関心を持ち、いくつかの文献を読んだ。そして、大嶋栄子先生の「女性のアディクションへの援助」という文献(精神科治療学、Vol.8、増刊号、2013)を読み、そこに書いておられることと、「十牛図」の発想とが通じることに驚いたのだった。大嶋先生が記しておられることを、最終章の一部を引用して、示しておく。
 「何年にもわたるこうした辛さを乗り切っていくには、自分がいま、長い人生(life)のどのあたりにたたずんでどちらへ行こうとしているか、それを指し示す案内板のようなものが必要だ。(…)そして道中を同行する人がいるとなお良い。同行者とは途中で異なる道を歩むこともあるが、行く先で別の同行者と出会うこともある。」
 もしかして大嶋栄子先生のこのようなご指摘に合わせて、「十牛図」の活用を着想したかもしれないと思ったが、海野医師は、大嶋先生の文献を事前にまったく知らなかったよしである。面白い思想的符合に、私はいささか驚いた。そして、ベテランと若手の二人の臨床家の治療的思想に、森田療法の立場から大いに共鳴したのだった。
 さて、このような治療者患者関係は、森田療法的な「不問」と深く関わることに、再度言及しておきたい。
 「不問」は、重層的な意味を含んでいるのである。
1)<治療者患者関係における、患者の訴えに対する不問>
 神経症の患者さんの執拗な愁訴をいくら聴いてやっても、生産的な結果にならないから、聴かずに置く、という意味で通常使うことが多い。
2)<本人が自分自身の心の整理をつけられないまま、それを問題にするのをやめて前進>
 反省するのはよいことだが、ほどほどでよい。後悔することや、トラウマを想起することもあろうけれど、「心に解決なし」である。そのままで、今を生き、一歩ずつ踏み出して歩いて行こう、という促し。
3)<治療者や指導者にとっての心得としての不問>
 患者さんやメンバーさんの心の中に、土足で立ち入るような無神経なことをしないこと。相手を察して、問い詰めない。追い詰めない。ほどよい距離で「同行」する。
 「十牛図」を四国八十八カ所のお遍路になぞらえたら、患者と治療者は「同行二人(どうぎょうににん)」で、「十牛図」を呈示している治療者が、当面は弘法大師役。しかし禅では、臨済義玄が「殺仏殺祖」を言ったように、弟子は師を乗り越えて行く。森田療法もしかりである。「十牛図」とお遍路には、微妙な重なりと相違があるようだ。
 
 以上、文責はすべて岡本にある。

「忘れられた森田療法(La Thérapie de Morita Oubliée)」―フランス語原稿(雑誌に既発表)の日本語訳―

2016/09/10

 表題原稿のフランス語の原文は、雑誌 PSYCAUSE 70号の日本特集のうちの巻頭に掲載されました。それは、このHPの「研究ノート」欄から、原文でお読み頂けます。
 しかし、森田療法のことについてフランス語で外国人向けに一体どんなことを書いたのかと、ご関心を持って下さる方もおられるかもしれません。今頃ふとそう思いました。そこで、遅ればせながら、日本語に戻した原稿をここに披露しておきます。何のことはない、お読み頂いたらわかります。
 PSYCAUSE誌のこの日本特集は、一昨年秋、京都で開催された国際学会に基づいています。その際、学会参加者たちの三聖病院の訪問を受け入れる日程は予め組んでいました。ところが、彼らの京都入りとほぼ同時に、三聖病院の閉院が発表されました。かくして、PSYCAUSE学会の人たちは、期せずして、歴史ある三聖病院を訪れた最後の外国人グループとなったのでした。私の以下の一文は、そのような背景を視野に入れて草したものです。また立場上、あまり紙幅を取らぬように、特集の導入として短い小論を書きました。
 しかしながら、あえて「忘れられた森田療法」―過去形でなく「忘れられる森田療法」と言うべきかも知れませんが―に執拗なまでにこだわり、既刊の小著と同タイトルにしたのには、訳があります。両者の内容は違います。しかし、そこに通じている私の思いは同じなのです。
 どうも前口上が長くなりまして、あいすみません。
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 

              忘れられた森田療法 La Thérapie de Morita Oubliée  
                                              
                                          Shigeyoshi OKAMOTO 
 
 
 去る2014年10月、第10回 PsyCauseフランス語圏内国際学会が、「文化間の出会い」という基調テーマのもとに日本の京都で開催された。この国際学会のひとつの大きな目的は、日本の独自の精神療法である森田療法について、京都にあるその療法の伝統的な施設である三聖病院を訪問して、実際の診療を見学して直接それを学び、そのような見学体験を通じて討論を交わすというところにあった。
 ところが、この三聖病院は、同じこの年(2014年)の12月末に廃院になることが、学会が開催される直前に公表された。こうして、学会のために海外からやって来たフランス語圏の人たちは、図らずも三聖病院を訪問した最後の外国人となったのである。
 
1.森田療法の「ひとつの終わり」
 三聖病院は、森田正馬によって森田療法が創始された直後の1922年(大正11年)に、彼の弟子の禅僧で精神科医師の宇佐玄雄によって開設された(最初は診療所で、1927年(昭和2年)から病院)。その後、息子の二代目院長に受け継がれて、三聖病院は森田療法の最も伝統的なサバイバーとして、通算92年間、役割を果たし続けて、遂にその歴史の幕を閉じることになったのである。昨今の日本では、文化や文明のめまぐるしい変化に伴い、伝統的な森田療法を維持する施設は既に殆ど消滅し、とりわけ、禅を生かした森田療法の施設は、既に三聖病院だけになっていた。20世紀末以来、森田療法は、新しい時代の要請に応じて、入院よりも外来での治療が主流となり、薬物療法や他の精神療法と併用される方向へと変化していた。そのような新しい動向が進む中で、伝統的な森田療法を代表する専門病院であった三聖病院が、2014年末に閉鎖したことは、この療法の一つの終焉を象徴する出来事であった。
 
2. 森田療法の「本当の始まり」
 ところで、三聖病院の廃院は、伝統的な森田療法の精神の終焉をも意味するのであろうか? 否、決してそうとは思えない。神経症的な病理に対して、禅寺におけるような作法や雰囲気を、薬の代わりに用いて暗示的に治療する療法は確かに終わりを迎えた。そして、それはまた、神経症の症状が禅的な「悟り」によって治ると思いこむ人たちを誘惑する〈迷妄の集いの場〉の提供の終わりでもあった。それらの終焉により、覆われて見えにくくなっていた森田療法の本当のエスプリ(本質)が、これを機に現れて、今後一層そのエスプリ(本質)が評価され、万人の人生の中にそれが生かされることが望まれる。
 これまで、特に外国人に対して、森田療法は“神経質(SHINKEISHITSU)”の治療法として紹介されてきた。確かに、この療法を創始した森田は、神経質の治療である点を力説した。けれども、そのような表面的な力説のために、この療法に含まれているせっかくの深い本質が、日本においても見落とされがちになっていたことは否めない。まして外国人に対して、紹介に従事する日本人たちが、この療法の本質部分を慎重に説明することなく、単に“神経質(SHINKEISHITSU)”の治療という表層だけを紹介することで、おそらく誤解を与えていたに違いないことは、非常に残念である。
 実際、森田がこの療法を、最初は“神経質(SHINKEISHITSU)”の治療法として開始したことは事実である。しかし “神経質 (SHINKEISHITSU)”の症状としての不安の心的メカニズムの中に、人間の存在に関わる根源的な不安が潜んでいることに気づいて、仏教的な智恵を療法に取り入れて、治療としての深みを増していったのだった。精神科医として診療に携わっていた彼は、概して“神経質(SHINKEISHITSU)”の患者を治療するに止まらざるをえなかったが、自分の療法はすべての人間の再教育だということも力説したのだった。
 そこで、次にこの療法に含まれる二層的な意義について、さらに述べておく必要がある。それはまず “神経質(SHINKEISHITSU)” の治療法であったのだが、さらに神経質の患者だけに限らない、すべての人間の生き方に関わる深い智恵でもある。以下では、森田療法における、このような二層性について言及する。
 
3. “神経質(SHINKEISHITSU)” とその治療
 森田療法は、人名が療法の名称になっている点で例外的な精神療法である上、“神経質(SHINKEISHITSU)”という日本語での名称を与えられた素質あるいは病理を治療対象にし、しかも禅と関係があるのも確かなので、外国人の方々にとって、この療法は、当然ながら大変理解し難いことであろう。そのため、ここで、まず森田が治療の対象にした“神経質(SHINKEISHITSU)”とは何かについて説明する。それは決して森田自身の新しく作った用語(新作語)ではなく、ドイツ語圏の精神医学の用語“Nervosität”の日本語への訳語であった。それは、ドイツのクレペリンKraepelinによる、彼の独自の精神医学体系の中で、ある一つの病的な性質を表す用語として規定されていたものであった。その用語と概念は、Kraepelinの下に留学した東京大学の精神医学の教授の呉秀三によって、日本に導入された。呉の弟子だった森田は、主に彼からそれを学んだのであった。そして森田は“Nervosität(SHINKEISHITSU)”の特徴としての素質や症状を知った上で、不安に傾き易いその素質が惹起する心気的な悪循環の心的機制に焦点を当て、その悪循環によって症状が固定化するというかなり力動的な捉え方を示した。こうして、“Nervosität”の概念を踏襲しながら、その精神病理について柔軟な理解の仕方をする立場から、森田は彼独自の療法を創案したのである。結局、“神経質(SHINKEISHITSU)”という用語は、“Nervosität”の訳語以外の何でもなかったが、その精神病理を、クレペリンよりも柔軟に捉えたところに森田の卓見があったのである。
 とは言え、森田の捉えた“神経質(SHINKEISHITSU)”とは、神経症になりやすい素質あるいは神経症そのものと別のものではない。一般にこのような心性においては、人一倍、不安に対して敏感で、不安を治そうとして、かえって不安に埋没して、生活が膠着し、クオリティ・オブ・ライフを低下させるばかりとなる。そこで、森田療法では、不安が治らなければ治らないまま、ただそのまま生活するように、治療者患者関係の中で言葉少なに促す。解決しない心を引きずりながら、歩き出す中で、新しい花が咲いたり、実がなったりするのである。
 
4.人生の苦悩に対する森田療法
 神経質や神経症の精神病理に起因せずとも、誰しも人生に苦しみを体験する。そのような避けがたい苦悩に対処する、森田療法の第二の層について述べておきたい。
 仏教によれば、人間はこの世で八つの苦の試練を受けるさだめにある。
 第一の苦は、「生」そのものである。生がなぜ第一の苦なのか? 人間は自分の意志によって、生まれてくるのではなく、絶対受動的に生を享ける。親も、先天的な心身の素質も、境遇も、一切自分の意志で選択することはできなかったのである。生まれてきた自分の存在理由を理解できなくても、生への執着が起こる。だが、日常生活の中で、種々の不合理な体験をすることは多い。そのために人生に懐疑的になり、不遇な運命に対するルサンチマンが起こる。このような生の苦は、人間の存在そのものにかかわる最も根源的な苦である。第二は、「老」の苦。第三は「病」の苦。第四は「死」の苦である。八苦のうち、以上の前半の四苦は、人間の存在の根源にかかわるものである。
 第五は、愛する人との別離、第六は憎悪すべき相手との邂逅、第七は求める対象を得ることの不可能性、第八は、心身の活動に伴う煩悩や葛藤である。これら後半の四苦は、日常の生活の中で体験されるものである。
 以上の八苦は万人にとって不可避なものであり、それゆえにこれらを否認せずに受容して、生きることを仏教は教えている。
 苦は楽を生み出し、楽は苦の種になる。両者は剥がし難い表裏一体のものである。仏教はもっぱら苦に虐げられて生きることを強いるのではない。苦にも楽にも素直に一体化して、自然のままに生きるところに人間の自由があることに気づくのが、仏教の智恵なのである。
 どんなに科学技術が進歩して社会生活の利便性が高まり、先端医療が開発されて、新しい治療が発見されても、人間は必ず死を迎える。にもかかわらず、科学の進歩は、人間に錯覚的な万能感を与えた。そのような万能感と、仏教の示す八苦との間の懸隔は広がっていくばかりである。現代人のメンタリティの特徴として、苦に対する耐性が低下しており、心的外傷に過敏になっていて、それを弾力的に受け止めて自己修復する柔軟な機能である、いわゆる “レジリエンス” の力に欠けている。現代人は他者の攻撃性に対して、容易に挫けるか、あるいは反撃する習性を獲得してしまった。他者を友とみなさず、他者は敵とみなされがちである。残念ながら、他者は敵対者の属性を帯びていることが多いのが現実である。日本では、子どもたちは集団で、弱い子どもをいじめ、いじめられた子どもが自殺する事件が後を絶たない。学校の教員たちも、親たちも、子どもの教育に責任を持とうとしない。大人たちの自殺も頻繁に起こり続けている。これが、生きることを重んじる森田療法を生んだ国、日本の現実である。
 神経質や神経症の治療を、病院やクリニックの診察室でおこなうことも必要だが、森田療法は、狭義の精神療法であることから脱皮して、教育や福祉や企業の中に浸透することが望まれる。しかし、それは教条としての森田療法を押しつけようとするのではない。森田療法は、本来専門分野たりえない筈のもので、権威的な専門家を必要としない。たとえ専門家がいたとしても、他者の苦悩を救い、他者を教育することは容易なことではない。ではどうするのか?そのように自分に問いかけることが、契機となる。そこで人は自分と自分の置かれている状況を見つめれば、素直な心に目覚める。素直な心に目覚めたら、やむにやまれなくなって、何かに向かって動き出さざるをえなくなるであろう。
 こうして第一歩を踏み出すのである。その歩みは、自己のためか他者のためか分かち難い自然な動きである。治療者対患者という役割的関係も消滅する。
 こうして、精神療法の枠を出て、森田療法という名称さえ失い、苦悩をもつ人間同士として出会いを経験するところに、森田療法はその深みを増していく。
 このような森田療法の本質的な部分は、今日までほとんど忘れられていたように見える。療法の本質を含みながら、同時に形骸化してもいた伝統的森田療法が衰退して、その歴史に幕を下ろした今日、そのエスプリ(本質)が改めて思い出されて、森田療法にとらわれない森田療法の静かなルネサンスが新たに始まるであろう。