森田療法のディープな世界 (1)― 存在の深みにおけるディープな療法―

2023/12/11

 

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1. 存在の深みにおけるディープな療法
 
 人間は限りなく深い。森田療法という古めかしい療法は、いつの世も変わらず、人間のその存在の深みに迫る。
 森田療法は、臨床的には神経質の療法として確立された。そして、とらわれている生の欲望を解放し、創造性へ向けて可能性を拓くことがこの療法の趣旨であると理解されている。だが森田療法はそれだけのものではなかろう。人間は、人それぞれに、帰らぬもの、涸れたもの、失ったもの、そして悲しみや虚しさや理不尽なものを抱えながら、そのままに生きねばならないし、また死んでいかねばならない存在者である。森田自身、神経質の療法としながらも、療法の原点を釈尊が体験した「生老病死」の四苦に求め、かつ「煩悩即菩提」という仏教思想を生かして療法を始めたのであった。本来、このような深い次元に森田療法の本質があるのだと思う。
 

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 軽くて便宜的な森田療法を一概に否定はしない。大仰でなくていい。日常の生活の中に、深い森田療法の叡知が生かされていればいいのだから。更に言うなら、森田療法という療法名を知らずとも、人びとがそれぞれの人生を生き尽くしていればいいのだから。結局、森田療法に拘泥する必要はないのであるが、この療法にある折角の本質を忘れてはなるまい。本質的に人間は森田療法的にしか生きることはできないのである。
 

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 しかし、昨今、社会の精神病理に対して、深みに迫るアプローチは乏しく、それを追っかけるがごとく、森田療法も精神療法の浅瀬へと広がって行きつつある。深みに戻ろう。ディープな森田療法に戻ろうと言いたいのである。それは危険かも知れないし、祈りのようになってしまうかも知れない。しかし、浅瀬よりも深みであえぐ人をこそ救うべきではないか。森田療法の真髄もその深みにあるのだから、と思う。
 

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 私自身はと言えば、精神科医師として生涯 の後半になってから、京都のある病院で森田療法に初めてふれた。それは何かを秘める、または何も秘めていない不思議な禅的な療法で、いつしか私は自分の方向性をそんな森田療法に転じたのだった。
 私が出会ったその森田療法が、言うところのディープな森田療法を代表するものであったのかどうか。それは問題である。ともあれ、わが森田療法との出会いはそこにあったので、その体験と顛末を回顧して、次回以降に述べながら、それをよすがにディープな森田療法について考えていきたい。