森田正馬は、鎌倉円覚寺に参禅したか?(4)―居士禅における参禅の意義とは―

2017/01/21

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        宵闇せまれば悩みは涯なし。
       「初音小路」は、(旧)谷中初音町界隈に、今もある下町の「聖地」である。
 

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 かつて両忘庵が所在した場所を執拗に調べたら、それは(旧)谷中初音町二丁目にあったことが判明した。判明した経緯は後述する。そこは日暮里の近くで、山手におけるレトロの風情をとどめる町並みが残存している地域である。(旧)谷中初音町の辺縁で、日暮里に接する地区が、かつての二丁目である。両忘庵はそこにあった。同じこの(旧)谷中初音町二丁目のはずれ(三丁目か?)には、下町情緒を残す飲食街が、ひっそりと今もある。その名も「初音小路」。だが明治ではなくて、実は昭和の戦後の姿をとどめている小路らしい。明治は遠くなった。それでも「初音」の名には、明治がある。「初音小路」は、やはり見えない明治の面影を偲ばせる聖地である。
 ことのついでに触れるなら、明治の谷中初音町の町名の由来は、(旧)初音町四丁目に森があって、そこに鶯谷という地名が存したことによるとされる(上野にあるもうひとつの鶯谷にあらず)。現代のオタクたちが愛してやまないあのヴォーカロイドは、その名を明治の谷中の初音町にあやかっていることになる。初音町は、やはり聖地なのだ。
 その聖地の領域に両忘庵があった。いや両忘庵があったという意味でも、谷中初音町は聖地なのである。
 

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 両忘庵の所在地は、(旧)谷中にあったと言われながら、これまで漠としていた。しかし森田が参禅した時期以後の両忘庵の変遷を追うと、少し見えてきたものがあった。
 釈宗活が指導に当たっていた初音町の(二丁目にあったらしき)両忘庵の建物が、手狭でかつ古くなっていたため、大正4年に、宗活に参禅していた田中大綱居士なる資産家が、谷中墓地の近くの天王寺寺域に新しい道場の建物を建築して、これを釈宗活老師に寄進した。以来この建物は「擇木(たくぼく)道場」と名づけられた。ここで両忘会は維持されるが、擇木道場の成立により、道場としての両忘庵はなくなったことになる。しかし、その後も釈宗活を最高指導者と仰ぎつつ、大正から昭和にかけて、両忘協会、両忘禅協会と組織を変えていった。戦後には宗活老師から離れて「人間禅」を標榜することになる。その本部は千葉県市川市にある。しかし谷中墓地の近くにある「擇木道場」は、田中居士によって宗活老師に寄進された建物を改築したものの、そこを不動の場所と定めて、移転することなく、今も「擇木道場」を名乗り続けて、「人間禅」に属しながら、東京における居士禅の伝統的専門道場として機能している。顧みれば、田中居士が両忘会の発展のためにおこなった、新築建物の寄進は、両忘会から擇木道場の居士禅、さらに全国的な「人間禅」へと発展する契機をなしたのである。
 

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 ともあれ、「擇木道場」は釈宗活の禅をルーツとしていた。したがって、明治末期における両忘庵の立地や両忘会の活動については、現存するこの道場(現 谷中七丁目、旧 天王寺町)がなんらかの情報を有しておられるだろうと考えた。そこで、このたび、思い切ってこの道場に直接問い合わせをさせていただいた。お尋ねしたのは、両忘会と全生庵とのつながりの有無、両忘庵のあった場所、両忘庵と擇木道場の位置関係などであった。歴史に関するこのような唐突な質問に対して、擇木道場の責任ある地位の御方から、懇切なる回答を頂戴することができた(この場においても、感謝の意を表します)。お答えによれば―
 
・ 両忘会と全生庵との交流は、判然としないが、おそらく関係は薄かった。
・ 最も最初に釈宗活老師が、両忘会を開いたのは、「御隠殿坂下」と言われた場所であった。
・ 以前に湯島の麟祥院を訪ねた折に、明治45年に発行された「臨済宗円成会青年部」の会報「一華五葉」を閲覧したが、そこに「両忘会」の住所は、「谷中初音町二丁目」とあった。
 
 重要なポイントを含むこのような情報は貴重である。 「御隠殿坂下(ごいんでんさかした)」と呼ばれた地域は、日暮里駅の東にあたり、当時は文人たちが好んでそこに居住していたようである。正岡子規もその地にいたことがある。しかしそこは谷中ではなく、根岸に属していた。釈宗活は根岸に居を構えた、という伝承があるので、みずからの庵として、ここに居を定めたと考え得る。そして住居と別に、座禅の道場としての両忘庵を、谷中初音町に開設したのであろう。それが日暮里に接する「(旧)谷中初音町二丁目」だったと考えられる。平塚らいてうが、「田んぼの中の一軒家」と言い、森田正馬が両忘会の場所を初音町と書いていたことが、すべて符合することになるのである。両忘庵の位置は、大正4年に新築道場の寄進に伴う移転が起こるために、住所の追跡が困難であったが、初音町二丁目から墓地の近くへ移転したのであり、それは現在も擇木道場がある場所にほかならない。当時はそこは天王寺町だったので、両忘庵(両忘会)は、初音町から忽然と姿を消したのである。移転先の擇木道場は、御隠殿坂下と初音町二丁目のちょうど中間地点にあたり、墓地や寺院のある閑静な地域で、禅道場を設けるにふさわしい場である。将来への存続の可能性をも見据えた賢明な立地の選択であった。
 
 両忘庵のありかを探して右往左往したが、結局それは(旧)谷中初音町二丁目の中にあったことが判明した。ともあれ、森田が参禅した明治43年の頃の、(旧)谷中初音町二丁目の両忘庵は、もちろん禅寺ではなくて、民家を利用しており、提唱だけは、天龍院の場を借りておこなわれたのであった。両忘庵が、座禅に最適な場であったとは思えないけれども、可もなく不可もないような環境だったのではなかろうか。
 問題は座禅をする環境のことよりも、もっと根本的なところにある。在家者にとって、禅の修行とは。あるいは在家者が容易に公案を授けられておこなう参禅とは。円覚寺の釈宗演に参禅した夏目漱石も、また両忘庵の釈宗活に参禅した平塚らいてうも、初日から公案を与えられた。同じく森田もそうだった。修行とは、公案とは、参禅とは。森田はそのような基本的な疑問に直面したのではなかったろうか。そのように思えてならない。参禅したかどうかが、主題ではなくなるのである。
 

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 野村章恒氏は、『森田正馬評伝』を出すより先に、雑誌「精神療法研究」に〔資料〕として「森田正馬の業績」という原稿を2回に分けて掲載しておられる。「森田正馬の業績(一)―森田療法確立まで―」(精神療法研究、1(2)、1969)の中には、森田の行動のエピソードが記されている。医師になって巣鴨の医局に入った明治36年、健康診断で肺結核を発見されながら、彼は「医局の吉川氏と共に東京から鎌倉まで夜中行軍をしたりして」安静養生をしなかったという。このことは『評伝』にも、「徹夜ハイキングで鎌倉までいった」とあっさりと書かれている。目的地が円覚寺であったかどうかは、知るよしもない。
 明治43年には両忘会に参禅したが、その頃の森田は、催眠術に入れ込んでおり、また岡田式静坐法の見学もしたりと、多彩な方面に関心を分散させている。在家者向けに、座禅と公庵を用意され過ぎた参禅のメニューは、おそらく森田の興味を惹きつけるものではなかったように見える。彼は、釈宗演を辛辣に批判したが、釈宗活を嫌ったわけではない。その提唱には関心を持ち、後年になってから、出版されたその講話録を読んでいる。前出の野村氏の同文献(精神療法研究、1(2)、1969)によると、大正の初め頃には、助手の佐藤政治を相手に酒を飲んで谷中の墓地に出かけ、夜中の2時頃まで神経症治療の話をしていたことがたびたびあったと、佐藤の未亡人が語ったと言う。釈宗活とのなんらかの関係が続いていたかどうかはわからないが、谷中の墓地は森田にとって、お気に入りの場所だったようだ。
 釈宗活の名は、釈宗演とよく混同されるが、二人の人物像はかなり異なるように思われる。伝記について、とりわけ釈宗活のことがわからないので、軽率なことは言えないが、釈宗演は国際的舞台に打って出たような人であったのに対し、釈宗活は自分も海外への禅布教に赴いたとは言え、一片の野心もなく、居士禅の布教を素直に引き受けて生きた、寛容な老師だったようだ。居士禅のあり方をどう考えていたのか、よくわからないが、戦後には「人間禅」から離れることになる。若き日の宗活の苦労話とその人がらについては、漱石が『門』の中に挿話的に書いている。
 森田は、宗活老師に参禅して公案を通らなかった。幸いにも通らなかったからこそ、森田は禅にとらわれず、禅から自由でいることができた。何事からも自由でいるのが、禅の極致である。かくして森田は、自分のことを物好きの野次馬だと言い、自分の治療法は「全く禅とは関係がない」とうそぶくことができたのであった。
 

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【まとめにかえて】
 森田正馬が、鎌倉円覚寺の釈宗演老師のもとに参禅したかどうかは、ちょっとした謎のままでした。その辺を明らかにできたらと思って、昨年の12月初めから、調べをしながら、同時進行で文章を書き綴ってきました。調査を終えてからまとめるという常識を破り、何が判明するか、しないか、われながら行方も知れぬ、ミステリートレインのような連載文は4回にわたりました。無責任な報告文にお付き合いくださってありがとうございました。まさに無責任な進め方ではありましたが、その間、精一杯の調べをしました。
 メンタルヘルス岡本記念財団に、森田の日記を閲覧させていただきに通ったり、「(旧)神経質」誌の高価な合本を古書店から購入したり、谷中の擇木道場へ不躾な問い合わせをさせて頂いたり、高良興生院・森田療法関連資料保存会から遠隔地での図書の閲覧に便宜をはかって頂いたり、また上京して、同保存会へ図書閲覧にお邪魔したり、夜の谷中の町を徘徊したり。
 
 名古屋の杉本二郎様からは、適切なご助言をたびたび頂戴しました。感謝しております。
 
 肝心の内容については、まとめは困難で、森田が鎌倉円覚寺に参禅したかどうかは不明のままです。谷中の両忘会には参禅しましたが、われわれが森田にとっての禅を考えるとき、彼が参禅したかどうかの追求は、もはや主題をなさないことに思い至ったのでした。森田が公案を透過しなかったのは、ラッキーでした。スティグマを背負ったら、自由に禅の世界に遊ぶことはできないからです。
 

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       宵闇せまれば悩みは涯なし。
       ここは谷中の夜の天王寺。釈迦如来坐像がライトアップされて、神秘的な魅力が漂っている。