森田療法のディープな世界(2) ―わが森田療法との出会い―

2023/12/17


 

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2.わが森田療法との出会い
 
 私は京都の地で、三聖病院との出会いによって森田療法に入門した。神経質な人間であるから、勤務しながら自分も森田療法に救われたところが確かにあった。振り返っても感謝は尽きない。三聖病院には、ある種のディープな森田療法があって、それが私に染みたのである。そこは禅的色彩の濃い病院で、優しくて澄んだ眼をした院長が物静かに指導をしておられた。その姿を師と仰ぎ、自分はこの病院の独特の深みの中で、歳月を過ごしたのであった。しかしながら、三聖病院に浸っているうちに、医師としての自分の責任を自覚し、ここでの森田療法の独特のあり方について考えねばならないという因果に落ちていった。かくして、私にとって森田療法との出会いは、親和性から始まって、責任感に転化した。私は未だにこのような因果を引きずっている。因果に落ちず、因果を晦まさずに、三聖病院との出会いとそこでの体験を問い直しながら、森田療法のディープなあり方を探っていくことにする。
 

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 出会いには伏線があった。
 
 かつて反精神医学の嵐が吹き荒れ、大学における精神科の医局講座制は解体へと向かっていった。そのうねりに翻弄された世代のひとりであるが、研修には恵まれず、研究を罪悪視する風潮の中で、大学外の精神病院のいくつかに勤務することを余儀なくされ、旧態依然とした精神医療に浸かる年月を過ごした。いわゆる社会的入院の患者さんが多かったし、また慢性期の病勢が進み、生涯を病院内で過ごす運命にある人たちが多くいた。反精神医学の運動が、この人たちに対してどれだけの福音になるのか。活動する精神科医師たちの中には、挫折して自殺した人もいた。私は治療効果を上げることができない困難な精神障害の人たちを前にして、日々の臨床に虚しさと無力感を感じて、疲弊が募っていった。そんな悩みを、ある先輩に相談したことがある。「それを言う時は辞める時や」と先輩は答えた。燃え尽きた自分は、先輩に言われたごとく、精神医療の第一線から退いた。そして心身医学の領域に身を転じた。
 

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 自分は入局当初から、精神だけでなく、心身を一体のものとして捉える心身医学への関心を持ち続けていたという事情もあった。しかし今にして思えば、自分が燃え尽きたあの精神医療の第一線にこそ、森田療法があった。来る日来る日を病棟の中で過ごしている精神障害の人たちに、それぞれの人生がある。治療者は、その人たちと「同行」するという重要な役割を負う。そこに本物の森田療法があったのだ。最近になって、つくづくそんなことに気づき、忸怩たる思いでいる。
 

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 とにかく、私は新たに心身医学の領域に入っていった。と言っても、いわゆる心療内科は九州大学にしかなかった時代のことである。そこで私は心身医学の勉強のために九州大学に通ったこともある。しかし九州大学の池見教授は、大学の中で全人医療を唱えながら、一方で心療内科をさらに専門的に細分化しておられたので驚いた。そんな自分は、京都市内にある企業体内の病院に勤務し、職場で働く人たちの健康管理に従事した。そして、その病院の近くにあった三聖病院に、昭和49年から非常勤で勤務させてもらうことになった。数年後、フランスに心身医学や精神医学を学んだが、そこで逆にフランス人から日本の精神療法について問われる立場になった。その体験から改めてわが国の森田療法への関心が深まり、帰国後再び三聖病院に戻るとともに、フランス人に森田療法を伝える活動を開始した。しかしそのような当時の自分の浅はかさを、今は思わざるを得ない。
 
 まず、三聖病院に出会って、この病院に魅された自分がいた。禅寺を模した木造の古色蒼然とした建物の中に漂う不思議な雰囲気、院長の靜かなお人柄、一貫している禅的な教え。そこは現実離れした治療の場であった。その非現実性が禅と結びついていたのである。自分はその非現実性を現実に置き換える必要性に思い至ることなく、それを森田療法そのものとして、フランス人に伝えようとしていたのだった。 そして、そんな誤りへの悔いから目覚めていった過程に、もうひとつのわが森田療法との出会いがあったことを付け加えておかねばならない。