森田療法のディープな世界(5)―森田療法の神髄というもの―

2024/02/18

三聖病院には、森田療法の神髄に迫るような独特の雰囲気が漂っていた。
 

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5. 森田療法の神髄というもの
 
 森田療法は、戦後に低迷期があったが、その後次第に見直されるようになった。精神医学の西洋化の中で、森田療法はやはり日本人に馴染む療法として復活した。とりわけ神経症については、西洋の精神医学より森田療法の方が実際の臨床に即応するという面もあった。そして療法の再評価の風潮は、森田療法の真髄、あるいは神髄を改めて明らかにしようとする流れにつながった。用語として、真髄と神髄があるが、ここではあえて神髄を採っておく。しかし最近では森田療法のその神髄とやらを問う人は少なくなった。この療法の中心、核心、あるいは本質と言ってよいものだろうが、それはどこにあるのか、わからないままに、わからないことに慣れてしまっている。もっとも、神髄はと問われても立ち所に答えられない、つかみ所のなさが、この療法にはある。神髄は重要だが、画然としない。それはそれで仕方がない。自分はどちらかと言えば、森田療法は神経質や神経症の療法に特化されるのではなく、万人の生き方にかかわるものであるとする見方を取っている。神経症者に限定せずに、人間として日々の生活をひたすら生き尽くすことを本位としていると思う。神髄は画然としなくてもいいが、森田療法を本気でやっていれば、神髄の深さへの認識が生じるのではなかろうか。この療法の神髄はディープであり、しかもそれは日常生活の中に深く流れているからディープなのである。南條幸弘先生のご著書『ソフト森田療法―しなやかに生きる』があるが、日常の中にある森田療法の深さを示している点で好著であった。
 

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 さて、森田療法の神髄なるものについて、私なりに不十分ながら少し具体的に触れておくことにする。森田療法にとって、大切なもの、重要なもの、貴重なものがある。欠落したら森田療法でなくなるものである。それを神髄とみなせば、ほぼ当たっているだろう。それが欠落している事態、つまり欠如態に接して、気づくことがある。神髄が行方不明になっていたと知って、愕然とするのである。
 露骨になるが、エピソードを出してみる。10年あまり前のこと、日本森田療法学会での総会で、あるやり取りがあったことを鮮明に記憶している。フロアから、あるNPO法人の医師が質問をされた。「自殺者3万人のこの時代に、日本森田療法学会はどう対処するのですか?」 これに対して理事長は「理事会ではかっておきます」とお答えになった。
 質問者のこの同じ医師は、別の年には、学会活動における資金問題について質問をされた。かつては森田正馬の金銭感覚がひとつの問題であったのだが、今日における学会の金銭感覚が問われたのであった。森田療法では、とりわけ生の欲望が重視される。その森田療法の学会の自殺防止についての姿勢や、学会活動と金銭というような現実の問題こそ、神髄から発するものでなければならない。神髄は観念的な二文字ではなく、森田療法についての信条や行動につながる立脚点であるはずである。神髄は足元にある。質問者は学会に対して「照顧脚下」を問いかけたのであった。
 

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 神髄の問題は、三聖病院でよく考えさせられたことでもあった。三聖病院は、いかにも神髄が棲んでいそうな雰囲気の病院で、そこには、神髄に触れたかのような感覚を引き起こす空気が流れていた。院内には「斯くあるべしといふ 猶ほ虚偽たり あるがままに有る即ち真実なり」と書かれた森田正馬の墨跡が掲げられていた。それは、「あるがまま」を療法の神髄として指し示すものであった。しかし「あるがまま」を対象化して、説明を加えれば「あるがまま」ではなくなる。それゆえ、言葉のない「あるがまま」の生活があるのみとして、無言に近い生活が推奨されていた。そのような病院の談話のない暗示的な雰囲気の中に、森田療法の神髄が漂っているように感じられたのだった。
 

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 森田療法の神髄の所在を、東洋的な思想の中に求めようとする向きもある。「自然に服従し 境遇に柔順なれ」といった森田の言葉が、療法を象徴するものとして、しばしば取り上げられる。それはまさしく的を射ているようなのだが、森田療法に対する思想的、観念的な机上の評価の域内にとどまりかねない。これは心すべきことであり、森田療法の神髄は、森田療法論から一歩出たところにこそあるのだと知るべきであろう。
 

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 かくして、手を変え品を変え、神髄をとらえようとしても、神髄は、あるいは神髄のそのまた神髄はするりとどこかに行ってしまうのである。われわれは、神髄を捕捉することを諦めて、日々の生活を孜々として歩むほかないのである。そこにいつの間にか、神髄が立ち現れているかもしれない。禅の「サトリ」はそんなものであると言われるけれども、森田療法の神髄探しもそれと似ているのである。