覆われる三聖病院

2015/02/16

 長年の間、神秘のベールに包まれてきた三聖病院。
  建物解体へ向けて、工事用のシートに覆われることになりました。

 

 

01
西から見た、覆われた病棟。

 

02
 隣接するマンション3階から望む管理棟。見下ろす角度なので、屋根は見える。

 

03
 病棟の裏側。

 

04
 病棟の端。手前の屋根は院長宅。

 

05
 路地との境界。

 

06
 大通りから一部の塀越しに内部が見える。

        

「立入禁止」になった三聖病院

2015/02/09

DSC00634

 表門に「立入禁止」の大きな標識現る(2月3日より)。いきなりの厳戒態勢。

 
 

DSC00587

 2月2日夕方、病院に行った。敷地内に入ったのはこれが最後になった。

 
 

DSC00601

 2月2日、大きな金魚たちはまだ居た。

 
 

DSC00592

 2月2日の夕刻になお建物に入り込んでいる修羅たちがいた。彼らを無視して、前庭の棕櫚の樹をしばし眺めた。

 
 

DSC00603

 中庭の一輪のバラは落ちないでドライフラワーのようになっている。手折ろうかと思ったが、ためらって残した。

 
 

DSC00625

 2月3日夕方、病院に行ったら、「立入禁止」の標識があり、門は閉ざされていた。病院の外灯はともらないので、かえって目につく。

 
 

DSC00639

 2月5日、行ってはみたものの。

 
 

DSC00638

 門の格子の隙間から撮った前庭。宇佐玄雄先生の銅の姿が、見えるはずなのだが。

 
 

DSC00643

 施主は大本山 東福寺。

 病院(法人)側が解体するはずだったが、急拠施主交代す。

 
 

DSC00657

 院長宅(左)と病院(右)の敷地の境界線上にフェンスが立てられた。病院裏の塀越しに撮影。

 
 

DSC00660

 表の大通りから、塀越しに病院の敷地内が見える。建物の取り壊しはまだ始まっていない。

 
 

DSC00669

 病棟を西方向から望む。これも建物解体の「Before」の姿。

 
 

DSC00648

 何の因果か、自主的に入居することになったマンションが右手にある。

 期せずして、ここから解体の「Before」と「After」を見守る。

その前夜

2015/02/02

DSC00525

 2月1日(日曜日)午後、三聖病院の玄関に脱がれた履きものが見える。何人かの来院者あり。

 
 

DSC00522

 もう電気も切られた2月1日(日曜日)の午後、院長室(第1診療室)の中に数人の人たちが入っている。そのための来院者だった。

 講話をしているような場合、です。

 講話を聴いているような場合、です。

 
 

DSC00508

 病院建物の玄関の上方、屋根の頂き。日頃あまり注意して見ないが、鬼瓦の下に懸魚(げぎょ)という装飾物がある。

 
 

DSC00507

 懸魚(げぎょ)をズームで撮った。

 魚の顔を正面から見たような装飾になっている。火災の難を除けるようにと、水を象徴する魚を模したもので、それゆえ懸魚(げぎょ)と呼ばれるとは、写真を撮りに来ていた元修養生のAさんから教えられた。感謝。

 
 

DSC00555

 朽ちた木に「希望」などと書かれたものを中庭の洗い場に仮置きしていた。それを引き取りに行ったら、「希望」は消えてしまっていた。昨秋病院を訪れたフランス人たちに、この木を示し、「希望」の裏側は絶望ですよ、と教えたのだった。(持ち去った人は大切にしてくださいね)。「心ほったらかし」は、ほったらかしにされていた。

 
 

DSC00546

 中庭の池に、金魚たちが、まだ沢山いる。小ぶりの金魚4匹ほど、自宅で金魚鉢に入れると言って元修養生が救出した。しかし大きくなった金魚たちは残されてまだ池の中。とりあえず餌だけ投げ込んでやった。

 焼き物の狸は、危機が迫って遂に化ける力を発揮したのか、姿を消した。

 
 

DSC00513

 東福寺の鬼手仏心。

 前庭の池の鯉の多くは、東福寺内の池(?)に移されたそうな。しかし警戒心の強い2匹の鯉は池の底に逃げ込んでいる。ときどきその魚影が見える。鯉にも餌を投げ込んでやった。2匹の運命は?

 
 

DSC00576

 中庭の流し場付近で、ごみ扱いされている物の中から、これを見つけた。

 これは、その昔三聖寺で修行僧たちが浴室で使っていた洗濯板である。「自然」という浮き彫りにされた文字部分に衣類をこすりつけて洗ったものと思われる。そのような説明が、この洗濯板の裏面に宇佐晋一先生の文字で記されている。その記入年号は一九六〇年となっている。

 板の一部が濡れている。半ば露天にあったものを拾ったばかりなのである。

 
 

DSC00563

 これも、ごみの山の中から掘り起こした。大きな額入りの色紙で、宇佐氏の三聖醫院の開業を祝う言葉が書かれている。だからこれは、大正11年の宇佐玄雄による醫院の開業を祝福したものである。

 
 

DSC00218

 医療廃棄物として、ごみに仕分けられた物のうちのひとつ。昭和30年代にわが国に導入されて、国内で初めて製造された物と思われるECTの機器である。博物館のようなところに保管されてしかるべきだと思うほどの代物。したがって、極めて厳粛な意味で、ここにその画像を出した。

 本院でも、近年は使用しなくなっていた。

 
 

DSC00505

 閉院にあたり、貴重な歴史的資料の散逸を防ぎ、保存する必要性を感じて、私はごく一部の理解者しかいない中で動き出した。しかしタイムリミットは迫ってくる。それで暫定的な受け皿の空間がまず必要と思われ、とるものもとりあえず、病院に隣接する賃貸マンションを、自主的に借りた。その3階の部屋の窓から、左手に三聖病院の建物の一部が見える。

 これは、そこから見た解体直前の、「Before」の写真である。

三聖病院閉院の新聞記事

2015/02/02

 去る1月31日(土曜日)の京都新聞夕刊に、三聖病院の閉院についての記事が出ました。

 「薬頼らず、あるがまま受け入れる」

 『治療に「禅」神経科閉院』

 「経営難で東山・三聖病院」

 「90年の歴史」

 「元患者ら惜しむ声」

 このような小見出しや大見出しが、紙面のトップに踊り、院長の姿や、病院建物の外観の写真も掲載されています。

 記事の内容は、これだけいくつもの見出しがあれば、森田療法を知る者にとっては、いや少なくとも三聖病院を知る者にとっては、およそ察しがつこうというものです。禅を取り入れた独特の治療法の病院が、90年の歴史を有しながらも、薬物療法が主流となった近年の医療の中で、経営困難に直面していた。そして多くの人たちに惜しまれながら、診療の幕を閉じる。そのような報道的な記事です。

 10日ほど前になるでしょうか、京都新聞の記者A氏から、三聖病院の閉院のことで取材のお申込みを頂きました。三聖病院の元患者と名乗る人から、閉院の連絡が入ったので、この件を調べだしたとのことでした。

 「元患者」なる人が、閉院を新聞記事にしてもらおうと意図して通報したという問題が、まずあります。新聞社への匿名の通報はよくあることでしょうから、報道価値があるかどうかについての判断の仕方については、新聞社側はもちろん精通なさっておられるはずです。けれども通報者が、「元患者」だと名乗ったところに、この療法で見事に立ち直った者ですという凛々しさのようなものを感じとり、それによって新聞社は動き出したのではないか・・・。患者と元患者の区別が、截然とできるものではないことは、森田療法からすれば明らかです。ですから、患者と元患者の二分法に陥っている人に、つい心もとなさを感じてしまうのです。あるいはこちらがひねくれた考え方をしているのでしょうか。

 確かに三聖病院の閉院は、地元紙の記事になってもおかしくはありません。しかし、自称元患者さんの情報提供の意図とは、三聖病院は不滅ですという幻想を、現実の新聞記事にしてほしいという切ない願望だったのではないか。やはり私はそのように思ったのです。

 加えて、森田療法がどんなものであるかを言葉で伝えることは至難です。それも患者さんに対してならいざ知らず、まず新聞記者の方に森田療法を、さらには禅を伝えるのは困難なことです。そして記者は、それをペンで情報として読者にお伝えになるのです。しかし、森田療法も禅も、情報にはなりえません。

 そのようなわけで、私は記者A氏に、私自身の意見を述べず、森田療法の取材のための予備知識だけをご提供しました。閉院に関しては、当然のことながら院長に直接取材をして頂いたのでした。

 三聖病院が閉院するにあたって、その捉え方には様々な視点があるはずです。もちろん第一には、禅的な森田療法が姿を消すという事実、第二に、病院の診療に対する評価、第三に、文化財的な病院の古い木造建築物が残されずに解体されるということ、第四に、地主としてビジネスに徹しておられる東福寺の現実的姿勢。このように様々な切り口があったはずですが、結局、森田療法の病院の閉院が惜しまれるという、あたりさわりのない記事をお書きになったのでした。

 厳密に言えば、入手なさった情報の影響で、事実とは言えない箇所も含まれています。読者のほとんどは、頓着しないでしょうけれど。

 とにかく新聞報道はされました。最初に閉院の情報を京都新聞に提供なさった「元患者」様、これでご満足でしょうか。

 私自身は、報道もさることながら、森田療法史上重要な役割を担ってきた三聖病院は、これまでの苦難はあったとは言え、今閉院にあたって、病院の歴史的資料を整理し保存する社会的責任を負うと認識しているのです。

三聖病院の咲けない桜

2015/01/26

DSC00466

DSC00463

 
 ひたひたと、病院の建物の解体へ向けて、崩壊の足音が近づいています。今は、春の嵐の前の静けさのようなとき。
 病院の門を入ったところに、大きなソメイヨシノの木があります。ソメイヨシノは山桜に近い種のようで、春に花を咲かせてくれなければ、ただの雑木のように見えています。建物の解体が始まれば、出入り口近くにあるこの木は、まずは工事の通路を妨げる邪魔者になります。
 春は遠くはないのに、この木は切り倒されて、花を咲かせることはないでしょう。
 

DSC00492

 解体の前兆。

 

DSC00490

 様々な貴重品や資料は、難を逃れるため物置に押し込められた。地蔵様たちもこの中に閉じ込められたらしい。

 

DSC00482

 金魚たちはまだ生存している。別の池の鯉たちは行方不明。

 

DSC00486

 まだ落花しない一輪のバラ。

 

DSC00457

 1月25日(日曜)、玄関に十数人の履きものが並んでいる。

 終わったはずの院長の講話がまだおこなわれている。不思議な病院である。

 

DSC00473

 朽ちた木に過去の入院者によって、「希望」などと書かれたものが残っている。

 

DSC00501

 梅は寒苦に耐えて咲く。門の外の紅梅の木に蕾がふくらみつつある。

残されたものたち

2015/01/19

DSC00415

 北病棟(右側)と管理棟(左側にあるが、画面には写っていない)との間に中庭がある。まず目に付くのは、焼き物の狸。「一生を化け損じたる狸かな。」そんな焼き物としての狸の「露堂々(ろどうどう)」である。

 
 

DSC00413

 バラの花、最後の一輪。

 
 

DSC00388

 庭の奥に南国風の木がある。よく見れば大きな花と小さな果実をつけている。常夏の国ではないので、たわわにとはいかないが、バナナである。

 
 

DSC00440

 裏庭にワイルドストロベリーの最後の実がひとつ。

 
 

DSC00402

 中庭の小さな池に大きな金魚たちが力なく集まって動かない。

 診療最後の日に退院した修養生(入院患者さん)が自宅へ移して飼育することを考えたようだったが、実現は叶わなかった。

 
 

DSC00406

 退院できない地蔵様、ここにも三体(金魚たちの近く)。

 
 

DSC00427

 裏庭に、さらに六地蔵。敷地内に、全部で10体を越える地蔵尊が残っている。

 
 

DSC00423

 この異次元空間の中には、不思議な物がある。裏庭の最も目立たないところに未確認物体。

1月の三聖病院、夜の屋内

2015/01/19

DSC00361

 動線が交差する場所を作業室側から見る。左は管理棟、右は女子病棟、正面は中庭への出口。もう交差する人たちはいない。
 
 

DSC00360

 中は「作業室」(多目的室)。
 
 

DSC00328

 作業室には長年来2人の先生の肖像画が掲げられている(昭和27,28年頃に入院した桐村義治画伯によって描かれたもの)。
 
 

DSC00349

 作業室には大きな横額が架けられており、その下の小さな紙片に読み方が示されている。「言に謹み、しこうして行いに慎め。」
 前方は食堂。
 
 

DSC00358

 「食堂(じきどう)」の表示。
 禅寺では、禅堂、食堂(じきどう)、浴室は三黙堂と呼ばれ、そこでは談話や談笑が禁じられている。この病院では作業室が禅堂にあたる。
 
 

DSC00345

 「浴室」の入り口。
 
 

DSC00363

 外来と病棟の間の場所に、待合別室がある。
 
 

DSC00365

 待合別室の入り口の横には、禁煙日医宣言の貼り紙が見える。室内は暗闇。昼間でも薄暗い。
 あたかも病院の「シャドウ」のよう。

三聖病院の最後のお正月。

2015/01/13

DSC00309

最後の正月の玄関。

 
 

DSC00305

門の松も枯れてきた。

 
 

DSC00312

玄関に閉院のお知らせが残っている。

 
 

DSC00318

玄雄先生のさびしげな後ろ姿。

 
 

DSC00317

玄雄先生が鎮座まします台座の石には、「昭和三十二年六月二日 建之 三省曾」と彫られている。

 
 

DSC00316

まだ退院できない人たちがいる。

 
 

DSC00370

幽閉されたまま。

 
 

DSC00368

管理棟の一部に灯がついた。

 

京都森田療法研究所より、新年のご挨拶

2015/01/13

20141228_130826

 
 
 遅まきながら、新年のご挨拶を申し上げます。

 昨年は、京都でのPSYCAUSE国際学会の開催を引き受けたり、長年関わっている三聖病院の閉院に直面したりと、大きな任務や出来事を経験しました。これらの問題の総括はなお本年へと継続しますし、さらに新たな課題にも遭遇しそうです。

 

 本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 

主宰者 岡本重慶

研究員 一同  

協力者 一同  

 
 

♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
 

 昨秋PSYCAUSEの国際学会で京都に来たフランス人たちの中で、とりわけ日本文化に関心をもつ人物と、新たに知己になりました。ストラスブールに近いコルマールに在住する精神分析家の、Nyl ERB(ニル・エルブ)女史です。アルザス地方には、日本に親和性をもつ精神的風土が根付いているようです。20年くらい前、春にコルマールを訪れたことがありましたが、桜が満開だったのを憶えています。エルブ女史によると、コルマールには、アルザス・欧州日本学研究所があり、またストラスブール郊外には禅堂があるそうです。
 彼女とは個人的にメールで交流をしています。
 日本の元旦は雪でしたが、アルザスでは雪もなく、寒さの厳しくない年末年始だったそうです。
 冒頭に掲げた写真はエルブ女史から、新年へ向けての挨拶として送られてきた「赤いバラ」の写真です。もう一枚最後に掲げるのは、同時に送られてきた、暮れなずむアルザスの山々の写真です。

 

20141215_170916

 

三聖病院、最後の年の瀬

2015/01/13

26.1

閉院を翌日に控えた12月26日(金曜日)夜、診療最後の講話。その始まり。

 
 

26.2

 同、講話中。

 
 
 診療最後の講話の内容は、主に自己意識と他者意識についてでした。

 この週で診療を閉じても、診療としてでない講話を、今後もまだ無期限に続けるのだそうです。「これが自分だというものはない。そのことを保証するのが、私の役割。それも要らないのだけれど、してあげないと豪語をなさるので…」。院長は2回前の講話時にこのように言って、閉院後の診療外自主講話の無期限継続を予告しておられました。

 

 約90年に及ぶ診療は、12月27日(土)をもって幕を閉じました。

 以下の数枚の写真は、一部の職員は居残っていても、患者さんのいなくなった、年末の病院の姿です。
 
 
DSC00287

診療を閉じた翌週の病院、玄関を上がったところから前庭を見る。この年もあと1日。

 
 

DSC00285

病棟の方から、閉まった玄関を望む。

 
 

DSC00296

病棟2階の廊下。このへんには誰もいなくなって久しい。

 
 

DSC00291

病棟2階の第三十六号室は、森田正馬先生が宿泊なさる専用の部屋だった。
以後あまり使用せずに大切に残されてきた。この部屋も解体される運命にある。

 
 

DSC00288

第三十六号室の窓からの眺め。屋根ばかりだけれど、正馬先生が見たのと同じ風景である。右は万寿禅寺。

 
 

DSC00289

暮れゆく同じ風景。

 
 

DSC00297

夕方、病院の門灯ともる。

 

10 / 12« 先頭...89101112