「森田正馬が参禅した谷中の「両忘会」と釈宗活老師について」の余録(3)―谷中初音町二丁目の古地図とその環境―

2018/03/02


歌川広重 筆「天王寺」 (国立国会図書館デジタルコレクションの『江戸名勝図絵』より)。
五重塔は、幸田露伴の小説のモデルになったが、焼失した。
谷中初音町二丁目は、この天王寺の門前町としてできた区域の一部である。

 

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1. 谷中初音町二丁目の古地図と地籍
   先に示した旧町名地図で、谷中初音町二丁目の全体の位置はよくわかったが、区画内の各地籍はわからなかった。
   国立国会図書館のデジタルコレクションの中に、大正元年の東京市の地籍別の地図を見ることができた。その谷中の地図と、初音町二丁目の部分を拡大した図を、以下に掲げておく。
 


谷中初音町などの地籍地図


 

先の地図より、谷中初音町二丁目を、拡大して部分表示。



 

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   以上の地図より、初音町二丁目の土地は、短冊状に一番地から一八番にまで分かたれていることがわかる。地図上の一部には、所有者として人名や寺院名が出ている。


地籍台帳にある、地籍別の詳細。



 

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   地籍台帳には、地図だけでなく、地籍別の記載があり、初音町二丁目の各地籍ごとの所有者名が列記されている。しかし、両忘庵が使用していた借家の大家の名前がわからないので、ここにおいても残念ながら、番地の特定につながらない。やはり両忘会の番地を知る方向から迫らねばならないようだ。
 

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2. 「初音の道」とその環境
   番地がわからないままでも、なおこの界隈の環境的特徴について知ることができれば、参考になると思う。
   椎原ら(注)は、江戸明治の都市基盤の現在への継承についての研究において、「江戸・明治・大正・昭和の都市基盤が重層的に残る台東区谷中界隈」を対象として取り上げている。さらに町並みについては、「門前町屋型」の地区として、谷中の尾根道である、通称「初音の道」沿道に注目している。ここは、傾斜している谷中の町側からも、日暮里側からも高台にあたり、尾根を形成していて天王寺のへの参道にあたる。この沿道の東側が、谷中初音町二丁目なのである。著者らは、東側については、「天王寺の門前町として江戸初期から形成され、短冊型の敷地に表店と裏長屋で構成されていた」としているが、東側の敷地のすべてがそうであったとは限らない。
   さらに、西側および沿道一帯についての記載があるので、引用しておく。
 
 「西側沿道は、江戸期に谷中に転入してきた寺院が並び、その山門参道脇のひと皮の敷地を門前町屋としているケースが多い。西側北部は組屋敷があったところで、江戸の朱引線の際にあたり、やや不定形の街区に細工職人や歌舞伎役者などが住みこんでいた。明治になってその奥の村分地も宅地化され、路地が奥まで入り込んでいる。一帯は、江戸期から職人、芸人層が多い地区だが、明治になって上野が芸術の中心地になったことに呼応し、芸術家や作家などの文化人も多く居を構えた。」
 
   門前町屋型の、この「初音の道」沿道の東側が主に初音町二丁目で、向かい側は主に上三崎北町だったが、沿道は一体のものである。この界隈は、天王寺の門前町で、かつ寺町であり、町屋が並び、職人や芸人が住んでいたという町内の雰囲気が伝わってくる。
   やはり釈宗活老師に似合いそうなな場所柄である。
 
注 ) 椎原晶子、手嶋尚人、益田兼房 : 江戸明治の都市基盤継承地区における歴史的町並み、親しまれる環境の継承と阻害 ―台東区谷中 ・初音の道地区を事例に―. 2000年度第35回日本都市計画学会学術研究論文集 ; 799-804.
 

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明治時代の谷中天王寺の五重塔。
国立国会図書館デジタルコレクションの『東京景色写真版』(江木商店刊、明治26年)より。

 

「森田正馬が参禅した谷中の「両忘会」と釈宗活老師について」の余録(2)―湯屋の二階での禅―

2018/02/23


岡本綺堂は『風俗 明治東京物語』で「湯屋の二階」について書いている。



 

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   森田正馬が参禅した、谷中初音町二丁目の両忘会(両忘庵)は、二丁目内のどこに位置する、どんな建物だったのであろうか。ここまで調べれば、あと一息、その場所を突き止めたいものである。
   ところが、「釈宗活」に関する Wikipedia のページ内に、谷中初音町にあった両忘庵(両忘会)の建物に関する不可解な記載があるので、これを指摘して、説明を加えておかねばならない。
 
1. Wikipediaの問題の箇所
   釈宗活の生涯の項に、次のように記されている。
 「…2年間海外旅行を続け、1900年、帰国。日暮里駅の谷中墓地側の谷中初音町の湯屋の二階に居を設け、布教活動を開始した」。
   そしてこの文末に、その出典として、サイト人間禅擇木道場(下記のホームページ)が示されている。
 
http://takuboku.ningenzen.jp/modules/pico07/index.php?content_id=4
 

   しかし、このホームページには、谷中初音町についての記載はない。そればかりか、冒頭に、「『東京第一支部30年史』に記載されている文章から擇木道場の歴史を掲載します。」とあり、引き続き、その掲載文は、次の文で始まっている。
 
  「両忘会を再興した釈宗活老師は明治33年山谷の湯屋の二階に住まわれ、40数名の居士、禅子に法話をし参禅を聴きながら、自ら毎日巡錫されました。」
 
   出典として置かれているホームページが、Wikipediaに記載されている文章を支持していないのである。谷中初音町に両忘会があり、そこは湯屋の二階であったなどと、記されてはいない。加えて、最も初期には、釈宗活老師は山谷の湯屋の二階に住まわれたのであった、という素朴な記載が出現するので、それこそが事実であったと受け取れるのである。


サイト「人間禅擇木道場」の最初のページ(部分を表示)



 

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2. 湯屋の二階について
   インドやスリランカでの滞在から明治33年(1900年)に帰国された釈宗活老師が、山谷の湯屋の二階を仮寓にされたということは、隠すべきようなことではない。山谷は下町ではあったが、古地図を見ると当時の山谷の地域は広く、後年の山谷と雰囲気を異にする情緒があったようだ。
   加えて、湯屋の二階なるものには、江戸以来の風俗的な歴史が残っていたけれども、それは明治20年頃には閉じられている。従って、空き部屋になっている二階を間借りして、草庵にすることができたと理解すべきであろう。
   元はと言えば、湯屋の二階は、江戸の庶民の銭湯にまつわる風俗文化のひとつであった。
   岡本綺堂の『半七捕帳物』の中には、「湯屋の二階」の一編がある。また、岡本綺堂の『風俗 明治東京物語』には、湯屋の二階について記されているくだりがあるので、引用しておく。
 

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  「『浮世風呂』などにも湯屋の二階のことが書いてあるが、その時代の二階番は男が多かったらしい。ところが、江戸末期から若い女を置くようになって、その遺風は東京に及び、明治の初年にはたいていの湯屋に二階があって、そこには白粉臭い女が控えていて、二階に上がった客はそこで新聞を読み、将棋を指し、ラムネを飲み、麦湯を飲み、菓子を食ったりしていたのである。
   しかし、風紀取締まりの上から面白くない実例が往々発見されるので、明治十七、八年頃から禁止されてしまった。」
 

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   湯屋の二階とは、風呂上がりの男たちが階段を上がって、そこにたむろして、飲食や世間話をしていたが、風紀的にも問題のある場所だったようなのである。
   山谷なら、江戸以来のそんな銭湯文化が続いていたであろうが、二階での営業を禁じられた湯屋が、宗活老師に二階を貸したのである。
 
   一方、釈宗活老師が、アメリカから帰朝した明治42年頃に、谷中初音町二丁目で、湯屋が二階の間貸しをしていたかという疑問がある。谷中初音町二丁目について調べてみると、ここは江戸時代には天王寺の門前町の一部をなしていたらしい。それが明治の初期に、初音町が起立された際に、その二丁目として谷中に編入されている。したがって、江戸時代から住宅はあったようだが、ここは上野の高台であり、かつ寺院の門前という環境である。湯屋の二階なるものは、江戸の下町の銭湯文化が明治にまで残ったものだったが、遡って江戸時代といえども、この区域には、湯屋と湯屋の二階の営業は馴染まなかったように思われる。それゆえ、湯屋の二階の営業が禁止される明治十七、八年頃以前にも以後にも、二階の営業もおこなう湯屋が谷中初音町二丁目にはなかったと考えるのが自然である。
   森田正馬が明治43年に参禅した、谷中初音町二丁目の両忘会が、もしも湯屋の二階にあったのなら、それはそれで面白いことだが、残念ながら、そのような場所に両忘庵があった可能性は低いのである。
   むしろ、釈宗活は、山谷の湯屋の二階を庵とするほどの粋人だったのだろう。森田正馬もまたしかり、湯屋の二階で、下の浴場を気にしながらの座禅も、森田の好むところではなかったろうか。そんな風流な環境の両忘会だったらよかったのである。
 

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   大山鳴動して、あまり生産的なことが出て来ず、Wikipedia上の記事の一部が、事実に立脚していないことを、明らかにする結果となった。
   要約すれば―
   まず明治33年にインドやセイロンから帰国した釈宗活老師が、山谷の湯屋の二階を仮の草庵にしたという、人間禅擇木道場のサイトの記載は、そのまま受け入れるに足る。
   両忘会が谷中初音町(二丁目)に設けられたのは、宗活老師がインドなどから帰国された明治33年ではなく、アメリカから帰国された明治42年(またはその翌年の明治43年年初)のことである。
   谷中初音町二丁目は、地理的環境から湯屋の二階があった地域とは考え難く、ここでの両忘会が湯屋の二階にあったという記述は不自然であるし、その根拠もない。
 
   Wikipediaに書き込みをなさるのは、釈宗活の研究者か、あるいは人間禅の関係者の方ではなかろうかと推測する。ここに敢えて、記述に信憑性に欠けると思った点を指摘させて頂いた。
   こちらの指摘が誤りであれば、こちらこそ非を認めて、訂正せねばならないと思っています。
 
   いずれにせよ、釈宗活老師の生涯に、ひいては森田正馬の参禅にかかわる重要なことなのです。

「森田正馬が参禅した谷中の両忘会と釈宗活老師について」の余録(1)―初音町、両忘会のあった場所―

2018/02/02


「一華五葉」の表紙 (題字と絵は釈宗活によるものか)



 

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   森田正馬は、明治43年に、谷中初音町にあった両忘会の釈宗活老師のもとに参禅した。このことについては、第35回日本森田療法学会(熊本)で、一般演題としてその概略を報告した。ただし、掲げたテーマについては、多くの内容が含まれており、短時間で発表しきれるものではなかった。余録として、いくつかの問題を取り上げて、書き加えることにしたい。
 
 

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1.両忘会の由来
   両忘会という在家禅の会は、山岡鉄舟らによって明治8年に創設され、今北洪川を湯島の麟祥院に拝請して開かれたものであった。その後途絶えていたが、釈宗演老師の命を受けた釈宗活老師により、明治34年に両忘会の復興が果たされたのであった。
  
 
2.両忘会(両忘庵)の場所の変遷
   在家主義の禅会であるから、本拠地を寺院に置くはずのものではない。釈宗活老師は、まず準備期間として明治33年に、山谷の湯屋の二階を借りて住み、世情を観察して、訪れる少数の人たちに禅の指導をした。
   翌年より正式に両忘庵を開くことになるが、根岸、日暮里、谷中と、いずれも借家を転々としたようである。その正確な把握が難しくて悩まされた。だが、釈宗活老師は過去を回顧する講演を昭和九年におこなっており、その講演の記録を再録した文献(注)に遭遇した。それを一読したところ、その中に、両忘庵を開いてからの場所の移動について、宗活老師がみずから述べた記録に接することができた。主にそれによって判明した場所の変遷を整理すると、およそ次のようである。
  
(1)明治34年、根岸の里、御隠殿坂の辺りに、仮の草庵。
 
(2)狭隘になったので、日暮れの里に居を移した。
 
(3)更に日暮里で再移転(四百余坪の広い地所)
※明治38年に、平塚らいてうはここに参禅している。
◆宗活老師は、明治39年から42年まで、布教のため渡米。
 
(4)帰国後、谷中初音町に家を借り、法を挙揚し、参禅を聞いた。
◎森田正馬が明治43年に参禅したのは、谷中初音町のこの両忘庵である。
 
(5)大正4年に、田中大綱居士が、天王寺町に道場を新築して、寄進した。
  
注) 人間禅教団三十年史編纂委員会 編『人間禅教団三十年史』人間禅教団 刊、1978
  


旧町名地図上の谷中の「初音町二丁目」 (赤く塗った部分)



 
 

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3. 谷中初音町二丁目
   森田正馬は日記に、谷中初音町の両忘会に参禅したという記録を残しているが、どんな場所だったのだろう。それはわれわれにとって大きな関心事である。初音町は、現在の谷中には存在しない古い町名である。台東区の旧町名の地図で、その存在を確かめることができた。初音町は明治の初期に居住地として開発されて、谷中地区に編入された地域である。しかし、その初音町は、一丁目から四丁目まで、大きなエリアにわたる。
   さいわい、昨年擇木道場の杉山呼龍先生にお訊ねした際、初音町の両忘会道場は「二丁目」にあったらしい記録があると教えて頂いた。臨済宗円成会青年部が明治45年に発行した刊行物、「一華五葉」にそのような記事が見えるとのことであった。
 「一華五葉」については、国会図書館の蔵書検索をしたところ、デジタルで閲覧することができた(古い貴重な文献は、デジタル判をネット上で閲覧できるようになっている)。 円成会とは、東京市内の禅僧たちの組織で、その青年部の刊行物が「一華五葉」だが、定期刊行物でもないようで、まさに一度だけ咲いた華なのか、よくはわからない。ともあれ、この表紙には、「宗」「活」と判読できる印のある「一華五葉」の題字と、やはり「宗活」の署名のある「慧可断臂図」が出ている。内容としては、冒頭に、釈宗活による「佛成道法語 大燈国師臘八上堂」という提唱の文が寄稿されている。宗活は、明治45年の「新年頭の雑誌刊行するにつき…提唱筆記を寄贈して呉れとの依頼からこれを掲載することに致した」と書き始めて、大燈国師の法語についての提唱を綴っている。また鈴木大拙や釈宗演の寄稿文も掲載されている。
   そして刊行物の末尾の「彙報」欄に、「両忘會」の案内があり、次のように記述されている。
  「谷中初音町二丁目両忘庵にあり毎月五日より五日間と廿二日より三日づつ釈宗活老師が槐安國語を講ぜられ亦接心會がある。會員は帝大の學生が割合に多いとの評あり。亦會には輔教會なる後援会があって仲々盛大な方である。」
 「輔教會」とは居士たちの会であろうか。ちなみに、資産家の田中大綱居士が、大正4年に天王寺町に道場の建物を新築して寄進している。谷中初音町二丁目の借家の建物は、道場としては十分なものではなかったと推察される。しかし、周囲の環境はどうであったか、不明である。二丁目であったことは判明したので、台東区の旧町名の地図上に、二丁目の部分を赤く塗って、その位置を示した。山手線の日暮里駅の西側の後方にあたる細長くのびた区画である。
   その中のどこかにあった両忘会の場所と環境はどうだったのだろうか。昨年その地域を歩いてみたが、商店などは少ないひっそりとした家並みであった。もちろん、昔の風情がどれだけ残っているのか、わからない。またもし両忘会のあった番地を突き止めることができて、そこに相当する現在地をピンポイントで特定できても、建物や住人は変わっている筈である。しかし、その場所を特定することで、あるいは何らかの情報の入手につながるかも知れない。
   森田正馬が参禅した、おそらく唯一の禅道場の場所を知ることに、なおこだわっている。
   両忘会の場所として調べるよりは、そこに住んでいた釈宗活の住所を、住民台帳で調べることもできるはずである。
   以上は未完の調べの報告である。
 


初音小路は、旧初音町二丁目と三丁目の境目くらいにある。

ディープな東京の風情を残している。                              


謹賀新年

2018/01/05



社会教育としての森田療法 ―理解と伝え方の難しさ ―

2017/12/26




 
1. 海外からの反応
   前回、PsyCause(フランス語圏国際学会組織)へ森田療法についての最近の情報を伝えて、それがこの学会のホームページに掲載されたことを記した。この学会は、フランスだけに限らず、フランス語圏であるから、ホームページの記事は多くの国々の人たちに読まれる。果たして、フランス以外の国の人たちから反応があった。
   カナダの精神科医で、先住民の文化についての研究者であるという人から連絡が届いた。モンゴルのシャーマンについての研究のため現地調査に赴いて、帰国したばかりだが、森田療法に関心があるというのだった。森田正馬が、かつて郷里の土佐の犬神憑きの調査研究をしたことを知ってのことだろうかと、驚いた。あるいは、森田の写真から、シャーマンのような印象を感じ取ったのだろうか。モンゴルにはシャーマンが多く現存しているようであるし、このカナダの医師とは交流したいが、今はやり取りを中断しているところである。
   困ったのは、アフリカのコートジボアールの心理学者から届いた質問である。

 

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2. コートジボアールからの質問
   コートジボアールは、以前は象牙海岸と呼ばれたアフリカ西海岸の国だが、字の通りに訳語を当てると、国名が表意的になるので、それを避けて表音的に、コートジボアールと呼ぶことになっている。この国の最大都市、アビジャン Abidjan の大学の女性心理学者から、自身が従事しているらしい依存症、とりわけアルコール依存症の治療に関する質問が来た。このような患者の「社会的自己」が「人間的自己」を取り戻すようにするにはどうすればよいか、治療者として考えているのだが、森田療法からの提案をもらえないかと言うのである。
   アビジャンは人口も多く、近代化した都市で、アルコールの誘惑に負ける人たちが少なからずいて、治療に困難を抱えているのであろうと想像できる。したがって、これは尤もな質問である。
   しかし、社会教育との関係に立ち戻って、森田療法の本質を取り戻す必要性を言おうとした私の論旨に対して、噛み合うところがない。この質問者が、「社会的自己」と言うとき、社会は、人間が欲望に負ける悪の装置のような意味合いが強い。社会教育と言う場合の社会は、社会悪も含めて、時代により、文化により、変数となりうる社会を、例外なく意味する。厳しいがそう言わざるを得ない。
   このアビジャンの質問者は、自分がおこなっている治療法や、そこで工夫していることや、直面している困難について、書いておられない。森田療法は必ずしも、ある精神療法が奏功しない場合に、それに取って代わろうとするものではなく、治療者を励ますものになりうる。また、もしも精神療法を阻む要因が、制度や行政など別のところにあるならば、そちらに目を向けるのもまた、森田療法であろうと思われる。
   アビジャンからの質問に齟齬を感じながら、考えを重ねて、長い回答文を書いた。たどたどしいフランス語作文なので、そのままお目にかけられない。書いた作文の要点のみを、日本語に戻して、次に示しておく。

 

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3.治療者の「自己教育」について―質問に答える―
   森田療法のことに目を留めて頂いたのを感謝します。一見ありふれた質問を頂きました。しかし、ありふれたかに見えるこのような質問こそ、基本的な問題にぶつかるため、答え方に困って返事が遅れてしまいました。
   その基本的な難しさは、二段階にわたります。
   第一に、問題は森田療法の本質的なところにあります。この療法は、大まかには精神療法の一種ですが、厳密な意味では、人間の教育なのです。創始者の森田自身、療法の教育的な面を強調しました。症状を治すことをこの療法の目的としていず、人間的成長をはかることを重んじています。その成長の体験の中で、症状を治すという課題は、いつの間にか解消していくのです。このような視点から、治療者も患者も、症状を治そうとすることを、忘れねばなりません。しかし、それは治療者患者関係、もしくは師弟関係を破棄することを意味しません。早く症状を治してやろうとする関わりは、優しいが安易な愛にとどまりますが、社会の中で、人格が陶冶されていくのを、根気よく応援し、あまり手助けしない慎重な関わりには、深い教育的な愛があります。
   第二には、今日的な問題があります。森田療法を生んだ日本においてすら、上述のような森田療法の本質が軽視され、性急に症状を治そうとする風潮に流されて、森田療法の名の下に、しばしば他の対症療法がおこなわれています。森田療法と他の療法の併用や混合なら、それもいいでしょう。しかし、森田療法と他の療法の混同に至っては、容認し難いものです。
   だからこそ、森田療法は、教育、とりわけ社会教育に通じるその本質に回帰すべきなのです。日本においては、歴史的に、西洋から導入された学校教育制度が、社会の中での教育を置き去りにした経緯があり、その教育の危機を救うために、社会の中での学びの復権を目指して、社会教育の気運が高まり、それが継承されてきたのです。ところが、この社会教育も近年低調になるばかりです。
   だから、今こそ、森田療法の分野でも、教育の分野でも、社会教育の重要性を想起し、社会教育の復興をはからねばならないのです。
   そうは言っても、教育は難しいものです。とりわけ、他人を教育することは困難なことです。それに反して、自分を教育することは、不可能なことではない。そして、自らの教育(自己教育)に打ち込み続けることが、他者に対する教育者あるいは治療者となりうる資質の涵養になります。
   例えば、日常生活の中で必要なことをするということは、人間として当然求められることです。より卑近な例として、日常生活の中で、便所掃除は必要不可欠なものです。それをしない者、あるいはそれをしたくない者に、人の教育や治療に当たる資格があるかどうか、言うまでもないことです。
 
   このような答え方に対して、不快に思われるかもしれません。しかし、精一杯に考えて、ここでは率直に答えることにしました。ご賢察願います。
 

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4. 便所掃除の復権を求めて
   アフリカから届いた質問への答え方を、長い間考えあぐね、返事の作文を練ってメールをようやくあちらに送信した。そしたら、直ちに相手から電報のように短い受信の通知メールが来た。コートジボアールのアビジャンの便所の事情はどうなっているのだろうか。この人は便所掃除をしているだろうか。この奇妙なやり取りは、PsyCause の代表者のボシュア博士も把握しているから、このボスがどのような反応を示すか、見ものである。今のところ、ボスは沈黙を守っている。
   一方、日本の社会教育の専門家の方々とやり取りをしているが、こちらにおいても、教育者の自己教育や便所掃除の問題は、いまだに俎上に上らない。小金井の浴恩館で下村湖人が、黙々と便器の掃除をしていた光景を思い浮かべるのは、私だけではなかろうと思うのだが。

「社会教育」をフランス人にどう伝えるか?

2017/11/30


フランスから世界を見つめるくまモン



   森田療法と本質を共有するところのある「社会教育」であるが、その漠たる名称のために、わが国内においても、「社会教育」は分かり難い日陰の分野になっているのが実態である。外国に伝える難しさは尚更である。ひとつの試みとその事の顛末をご紹介する。
 
   フランス語圏の PSYCAUSE という国際学会組織と交流しているが、日本の森田療法の最近の動向について情報を届けて欲しいと、相手側のボスから要請を受けていた。熊本で開催された森田療法学会が済むまで待ってもらった。学会後に、来年に高知で開催される森田正馬没後80年の記念行事のお知らせなど、自分が学会で発表させて頂いたことも含めて、メールで情報を書き送った。
   さて、そこで社会教育と森田療法の類縁性について言及したのだが、早速「社会教育」のフランス語訳に困ったというわけである。とりあえずピッタリした訳語ではないことを承知の上で、“ l’éducation populaire ” という語を当てた。「大衆教育」を意味するこの用語はフランス語として存在する。そのために逆に、日本における“l’éducation populaire “とはどういうものであるか、という問いが返されてきた。
   説明に窮して、社会教育の専門の方々にもご相談した。しかし素人の質問はしばしば専門家を困らせる。つまるところ、「社会教育」についての既成の定義に帰着するのだが、教科書的な定義が幾通りかあることは私自身も知っていた。しかし本質的に森田療法に通じるものを見て、そのニュアンスを生き生きした言葉で伝えたい自分としては、建て前的な定義はむなしい。日本語としてむなしい定義をフランス語に移すのはさらにむなしい。困り果てていたら、フランスのボスからまたメールがきた。“l’éducation populaire” と“au Japon”の検索語でネットを調べたら、 “kominkan”(公民館)についての論文が見つかったと言う。まるで鬼の首を取ったかのような感触が伝わってきた。あちら様の方が生き生きしているじゃないか、と思った。ボスは、ここまでの情報に基づいて、PSYCAUSE学会のホームページに一文を草して出そうとしていると言う。そんなに生き生きされても、これでは、三段論法式に、「森田療法は公民館である」ということになりかねない。
   焦った私は、そこで自分なりに考えた。「社会教育」という日本語の語源にまで遡って、まずは原義を教えて、理解のずれを防ごうとして、我流の作文を急いで書き綴って送信した。そして、この用語が本来伝えるべくして伝えきれていない意味的な欠落部分は、社会生活における人間性の涵養の重要性であるということも付け加えておいた。公民館活動は重要だが、社会教育の実践のひとつの場であり、方法である。
   さて、そのメールを送信した1時間後に、学会のホームページに、送ったばかりの私のコメントを取り入れたボスの文章が現れた。
   時間と空間の隔たりがなくなったような、11月27日の体験であった。
 
   PSYCAUSEの学会ホームページに出た、その記事は、以下のアドレスよりご覧頂くことができます。
   http://www.psycause.info/

社会教育活動と森田療法が合流した歴史を考えることをめぐって

2017/11/23


  田澤義鋪(45歳)       下村湖人(浴恩館時代)  


   去る11月上旬、第35会日本森田療法学会が、熊本五高出身者である森田正馬ゆかりの熊本大学において開催された。
  
1. 五高の奇跡
   森田正馬の直弟子で、森田療法を継承した水谷啓二も五高出身者であった。一方社会教育の流れがあって、それが戦後に水谷の森田療法に合流したのだが、その社会教育活動の重要な担い手だった3人の人物、田澤義鋪、下村湖人、永杉喜輔の3人もまた五高出身者だったのである。
   剛毅木訥の校風で知られた五高にして、武夫原頭に立つごとく地に足のついた大物たちを生んだのであろうか。

 

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2.社会教育という用語について
   社会教育という用語がおよそ意味するであろうことの、重要性をわれわれは知りつつ、同時にこの用語につきまとっている不明瞭性を感じざるを得ない。社会教育という四文字は日本語としておさまりが良いけれども、意味は曖昧である。「社会」は形容詞なのか、名詞なのか。形容詞ならば、その意味は、あやふやで捉え難い。ここで思い起こすのは、「対人恐怖」のかつての英訳語、“social phobia”である。これは“social”という形容詞を英語訳に持ち込んだことで本来の意味を晦渋にしてしまった例であった。
   社会教育の「社会」が名詞ならば、「社会」と「教育」の関係について説明がなされねばならない。教育の対象としての「社会」であるなら、社会より上位に絶対的な教育者が存在することが前提になるが、それは人間ではなくなる。社会を超越した人間などいないからである。このような意味を帯びるとき、「社会教育」は非人間的なものとなる。
   逆に「社会」が人間を「教育」するという意味ならば、わからなくはない。人間は社会の中で育ち、教えられ、学びあって成長していくものだからである。ただし、この場合も、「社会」は人間の集団であるから、個々の成員を疎外するような人間不在の社会集団であってはならないことは勿論である。
   わが国においては、社会教育の発生について、それなりの歴史があった。明治の時期に西洋の学校教育制度が導入されたことを背景として、派生的に生じた問題が、その後に社会教育と言われるものにつながっていく。福澤諭吉は、学校教育に対して、人間社会から学ぶという意味で、「人間社会教育」と言った。「社会教育」という用語の始まりであったとされる。ただしこれは来るべき資本主義社会を担う中産階級が、学校教育だけに飽きたらずに、人間社会を学校として、自己教育的に研鑽する必要を説いたもので、より下層の人々を視野に入れるものではなかったと言われる。天は人の下に人をつくっていたようである。その後、学校教育へ向けての就学促進のための親教育や、一般成人に対する教育の必要性も重視されるようになり、それらは「通俗教育」と称された。しかし、教育に恵まれない貧困層を視野に入れる立場から、改めて「社会教育」の必要性が認識されて、「通俗教育」に代わって「社会教育」という用語を大正時代から公的に用いるようになった。
   田澤、下村、永杉が関わった社会教育は、戦前におけるこのような歴史的流れに発していた。社会教育と言っても、その「社会」は戦前、戦時下、戦後へと変化して行ったのは当然である。

 

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3.社会教育と森田療法の関係について
   当初における、社会教育という概念や用語の登場は、その時代の事情に拠るものであったことを、上に述べた。しかし、社会教育における「社会」を、時代に応じた変数と考えれば、曖昧な用語なりに、社会教育を有効語として用いることはできるだろう。また森田療法は、本来教育的な療法であるから、両者が合流し、かつ相互補完的になる可能性は、十分に考えられるであろう。

 

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4.「社会教育」の語の外国語訳の難しさについて
   先に縷々述べたごとく、「社会教育」の用語の晦渋さを容認して、この語を使用する、いわば“日本的な”立場を取ることにした。しかるに、外国語に訳す段になると、そうはいかず、この用語の曖昧さが再浮上するのである。
   フランス語圏のある学会と交流していて、日本の森田療法の最近の事情について、情報を届けて欲しいと、最近強く要望されていた。しかし先般の熊本での学会もあったこととて、その学会のニュースも含めて、森田療法の情報の提供を学会後まで待ってもらった。そして学会直後に、ニュースを書き送った。その中には、社会教育と森田療法に関わる、自分が行った発表についても記しておいたのである。ここで「社会教育」をフランス語でどう書くかが問題であった。適切な訳語がない。やむを得ず、“ l’education populaire “と書いた。しかし案の定、謂わんとする意味が相手に通じない。相手は、曰わく「大変興味があるので、その語が意味するところを詳しく説明してくれないか」。なかなか面倒なことにて困っている始末だ。

 

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5.「生活の発見」の「再発見」から「再再発見」へ
   ある成り行きから、「生活の発見会」と雑誌「生活の発見」の歴史を調べてみたことがあるのだが、今回改めてそれを辿り直した。そのルーツは水谷啓二氏に遡るものであった。そこにはドラマがあった。水谷氏は熊本五高時代の友人で、社会教育活動をしていた永杉喜輔氏と、再会する。水谷はさらに永杉の師の社会教育者、下村湖人にも出会って、磁石のように吸い寄せられていったのだった。下村は、五高以来の盟友の田澤義鋪に従い、彼の亡き後、社会教育の指導者として道を拓きつつあった。だが宰相下村は昭和30年に没した。水谷は31年に啓心会を開き、翌32年に、雑誌を創刊した。その雑誌は永杉の案により、「生活の発見」と命名され、この雑誌の刊行の趣旨として、森田正馬の生活道と下村湖人の社会教育の両者を継承することが謳われた。雑誌の刊行の主体は、水谷方の「生活の発見会」とされた。
   同じ五高出身者たちによる社会教育の流れが、水谷の森田療法に合流したのである。このような歴史を知ることは、すなわち「生活の発見」の「再発見」にほかならない。
   まずは、そのような歴史の説明が必要である。しかし、歴史が明らかにしたように、社会教育を摂取した流れの上に立って、森田療法は、今日においてどのように歩を進めるべきだろうか。「再再発見」の課題に直面しているのである。それは、社会教育の今日的課題と、重なるところがあるかもしれない。
   日本における社会教育の成立事情は、独特のものであった、という言説により、社会教育という用語の曖昧さと、外国に伝える難しさを言う識者がおられるようである。だが、社会教育も、森田療法も、最も本質的な部分では、国際的に通じ合うようなものがあるのではなかろうか。そう考えて模索しているところである。

 

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※ なお、参考までに、第35回日本森田療法学会(熊本)におけるパネルディスカッションで発表した際のスライドを、「研究ノート」欄に提示しようとしています。(本稿より数日ずれる見込み)。

くまモンに叱られて ―熊本での日本森田療法学会に参加しました―

2017/11/16


由緒ある五高記念館。残念ながら、この建物の内部に地震の被害が及んだそうで、今なお、入館して展示物などを見せて頂くことはできない状態である。



 

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   去る11月10日、11日、12日の3日間、熊本大学黒髪キャンパスで開催された第35回日本森田療法学会に参加しました。学会場のキャンパスには、旧制五高記念館の赤レンガの由緒ある建物もあり、歴史のおもむきが漂っていました。五高は、もちろん森田正馬の出身校です。五高生たちの青春に想いを馳せることのできる、そんなキャンパスで開催された学会でした。
   熊本は、災害からの復興に取り組んでおられる県でもあり、そんな中で学会開催のご準備をして下さった、大会長の熊本大学保健センターの藤瀬教授やスタッフの方々の御苦労はさぞかし大変だったことと拝察しています。一会員として、感謝している次第です。3日間の会期中は、大会長はじめ、スタッフの方々の温かさのように、天候に恵まれて、快晴の熊本に全国から大勢の会員たちが集まったのでした。


五高記念館の向かい側の建物群が学会場になっていた。



 

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   自分はと言えば、重責ある発表の任を与えて頂きました。五高出身者たちの社会教育の活動が、水谷啓二の「生活の発見」誌とその活動に合流する系譜についての、比嘉千賀先生とのパネルディスカッションでした。事前の抄録は、先に「研究ノート」欄に掲載しました。
   パネルディスカッションなるものの、ディスカッションをどうするかは、ケースバイケースでしょうが、不慣れにて、準備に大変困惑しました。まずは、五高出身の田澤義鋪、下村湖人、永杉喜輔の社会教育とはどんな活動だったのか、そしてそれが同じく五高出身の水谷啓二の森田療法にどのように合流したか、歴史的なその内容を皆様にご理解頂けるように説明しなければなりません。それを踏まえてのディスカッションに進むというのが建て前です。でも、社会教育の歴史的流れは、短時間に語るには深過ぎました。それでも、それなりに、短時間で話し切れるように、最初から要約的に伝える工夫をすればできたのかもしれません。その辺の要領が足りなかったようです。時計は容赦してくれません。短時間に沢山詰め込むのは、やはり無理というものでした。予定していた発表の最後の辺りは端折って打ち切るという無様な始末と相成りました。
   ディスカッションどころじゃなくなりましたが、幸い前日に比嘉先生とお話しする機会を頂き、そこで事前に「ディスカッション」をすることができました。観客なしの、ノーピープル・ディスカッションですが、そのときに少し自分なりに整理できたことがありました。当日の短時間のディスカッション・タイムでは、その一端を述べました。
   それは、集団合宿研修の系譜についてです。医者が中心になると、権威的になりがちなので、ここでは、森田正馬の自宅に入院した原法の集団をも省いて、非医師たちが行った集団合宿の流れを、たどることができました。
   まずは、田澤義鋪が大正3年に静岡県の蓮永寺で行った、青年たちの合宿研修が発端としてありました。次に、昭和8年から、下村は小金井の浴恩館で青年団講習所の所長として、合宿指導を行っています。永杉もそこに参加しました。そして戦後に、水谷は啓心寮を開きます。水谷没後、長谷川洋三は龍穏寺で生活の発見会の合宿勉強会を開催しました。その後小田原で和田重正は、はじめ塾や一心寮で、親や子どもたちの合宿を開催したのでした。
 

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   なお、まず、一般演題として発表した下記について、そのスライドのシリーズに説明を付けて、「研究ノート欄」に掲載しておきます。
   「森田正馬が参禅した谷中の「両忘会」と釈宗活老師について」
   パネルディスカッションの発表内容は、追って掲載します。


帰途につくとき、新幹線熊本駅構内の巨大なくまモンに叱られた。
発表のしかたがまずかったぞ、と。


五高生との交流から学んだ禅僧、澤木興道 ―森田療法の視点から―

2017/09/16



澤木興道(昭和15年、大法輪閣刊、澤木興道『證道歌を語る』の表紙より)

 

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1. 異僧、澤木興道
   澤木興道は、自坊や自分の家や家族を持たず、各地を行脚して、民衆に参禅指導をした曹洞宗の僧侶で、「宿無し興道」という異名で知られている。日露戦争に出征して、敵兵を斬ったり、撃ち殺したりした経験がある禅僧としても知られる。澤木自身も日露戦争で重傷を負って除隊されたが、その翌年に再度出征している。
   森田正馬は、戦争をしかたのない事実と捉え、出征した弟の徳弥に対して、「匹夫の蛮勇を鼓して、敵前の前に進み出て」、犬死にするようなことはするなと諭したのだった。そして徳弥は殉死した。与謝野晶子が弟に、「君、死に給ふことなかれ」という反戦詩を贈った頃のことである。
   仏教のうち、禅宗は歴史的に見て右翼的で、国策としての戦争に同調した面があった。
   澤木自身は、禅僧として、自身の戦争体験をどうとらえていたのだろう。それを抜きにして澤木興道の禅を考え難い。私はこのような禅僧に危険なものを感じて、関心の外へと排除していた。
   ともかく、そんな負のイメージしか伴わない人だったが、ふと知ったことがある。それは、澤木興道が大正の頃に、旧制の熊本五高の学生たちと交流していたことがあり、その体験が澤木の生涯のひとつの大きな転機になったという、意外なエピソードである。
   最近、自分は森田療法と社会教育の関係を考える中で、歴史的に、これらの両領域において、幾人もの重要な人物が、森田正馬の母校、熊本五高から輩出している事実を知った。それで五高に注目が及び、調べる中で、五高出身者ではないが、生涯の一時期に熊本に滞在していた澤木興道と五高生の交流のエピソードに出くわしたのである。


熊本市内の万日山上での澤木興道老師
(昭和42年、大法輪閣刊『澤木興道全集 別巻一』より)


 

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2. 澤木興道、熊本までの半生
   澤木興道の熊本での生活は、三十歳代後半から始まる。そこに至るまでの澤木の半生を、まず簡単に辿っておく。
   明治13年に、三重県津市で、人力車の金具の製造を家業とする家の4人の子どもの末子として生まれる。4歳のとき母が死亡、7歳のとき父も死亡して、一家離散となり、親戚に預けられたが、その直後にその家の主も急死した。そこで知り合い筋の澤木という男の養子に入った。この澤木は、三重県一身田町の遊郭の裏町で、提灯屋をしながら賭場を開帳しているような人物だった。その界隈は詐欺師、香具師、博徒らの巣窟のような場所だった。小学生で賭場の張り番をさせられた。近所の女郎屋の二階で年配の男が急死した騒ぎがあり、その現場を見に行った。男の死体のそばに茫然と座っている遊女、駆けつけて泣き叫んでいる男の妻女。それを目の当たりにして、子ども心にようやく無常を観じたという。小学校を出ると、提灯の張り替え、寄席の下足番や賭博場でのぼた餅売りなど、日夜あらゆることをした。数十人の侠客連が縄張り争いで斬り合いをしているのを見たこともある。その始末の使い走りを自分が買って出た。
   次第にこのような生活環境から出たくなり、家出を重ね、16歳で永平寺まで行って、そこに入れてもらった。翌年、17歳で、永平寺で知り合った僧の紹介で熊本県の天草の宗心寺に行き、澤田興法のもとで出家得度し、以後澤木興道を名乗った。
   明治33年、20歳で入営して兵隊となり、兵役の生活が足かけ7年続く。その間、明治37年に出征し、「日露戦争を通じて、わしなども腹一ぱい人殺しをしてきた」という経験をする。戦争が終わり、28歳より足かけ6年、法隆寺勧学院で、唯識学を中心に仏教一般の勉強をした。さらに34歳より足かけ3年、法隆寺の末寺の空き寺の成福寺に住み込んで、独りで座禅ばかりをして過ごした。
   そして奇縁により、大正5年、36歳で熊本市の曹洞宗大慈寺に僧堂講師として招かれて、赴任したのだった。この熊本時代に五高生と交流する。大慈寺を出てからも、市内の万日山上の家で居候をした。50歳を過ぎて駒沢大学教授に呼ばれることになるが、それまで熊本を本拠とする生活が長く続いたのだった。


唐津海岸に五高生らとともに海水浴に遊んだ澤木興道老師(50歳頃)
(写真は同上書より)

 

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3.五高生たちとの日々

   旧制高等学校の学生たちは、バンカラ、弊衣破帽といった形容で知られる自由奔放な、ユースカルチャーを謳歌していた。それは全国的に共通だったが、とりわけナンバースクールの高校、それも奇数の番号の高校において、独自の特徴があったようである。
   熊本五高には、五高独特の校風があり、「剛毅木訥」と言われていた。
   そんな五高へ講演に呼ばれたことが、学生たちとの親しい交流の始まりになった。この坊主何を言うつもりか、といった調子で聴きにきた連中に、開口一番「諸君から色気と食い気を除いたら何が残るか」と言ったら、びっくりして彼らは熱心に話を聴き始めた、という。以来学生たちは、大慈寺へ座禅をしに来るようになった。
  「和尚さん、座禅は何のためにするのですか」とある学生が訊くので、「座禅をしても何にもならん」と答えたら、ぼやきながら帰ったが、再び姿を現して、「和尚さん、何にもならぬことをしに来ました」と言って座禅を続けるようになった。また、ある学生に、長時間かけて仏教の説明をしてやったが、「なんにもわからん」と言う。女郎屋へ行った帰りに、心境を訴えに来る者もいる。どこへ行くにも、五高生が五人、十人とついてきて、大飯を食うので財布を空にさせられた。
   澤木興道は、このような自然児五高生に教えながら学んだということを、弟子による聞き書きの書『禅に生きる澤木興道』の中で言っている。
   澤木自身の内面が五高生によって揺さぶられたのである。その辺のことを述べているくだりを、少し長くなるが、次に引用しておく。
 「打てば響くように座禅する者があるかと思うと、無茶苦茶に女郎買いする者もおって、その連中が続々やってくるので、兵隊以来、勉強と座禅で神経が細くなっていたわしも、見事に作り直された。いやも応もなく再出発をしなければならなくなって、かえって生き甲斐を感じた。」
 「第一、仏教というものに別に用事のない手合いだ。だから、こちらが坊主根性で相手したんでは、てんで話にならぬ。(…)相手は既成宗教的臭みは全然受け付けない。既成概念で片付けようとしようものなら、すぐにそれを剥ぎ取りにくる。素っ裸になって見せないと承知しない。容赦なく素っ裸を強要する。本当のことを言っても、もっと本当のことを言えと言って迫ってくる。だからわしは中途半端なところで糊塗することができなかった。こちら側に少しでも作りものがあると、とことんまで剥ぎ取らないと承知しないお客様である。そこで、自分を取り繕うことは、わしはできぬようになった。また自分というものを作ってはならぬと思うようになった。どこまでも作りものを作らないで進んでゆく、その溌剌たる生活こそ真実なものである。」
   このような述懐から、剛毅木訥の五高生との交渉が、澤木の人生の重要な転機になったことが伝わってくる。
 「彼らに出逢わなかったら、ついに既成宗教的な一線を脱することができずに終わったかもしれない」と言っている。
   大慈寺には数年間滞在した。やがてそこを出て、熊本市内の借家で参禅道場を一年間開いたが、ある奇特な人が、熊本駅裏の万日山の頂上にある別邸を使わせてくれることになり、そこの「居候」となった。以来、万日山を拠点に、各地に赴いて座禅の指導や説法をした。自然児五高生との交流によって開眼した澤木興道の、「移動僧堂」、あるいは「宿無し興道」と称された新たな人生の始まりであった。
   森田療法は、禅思想には教えられるところが多い。しかし、禅の教条的で、かつ形式を重んじる面にはついて行き難いというジレンマもあるから、僧が民衆の中に入ってくる普段着のような禅には親和性を覚える。欲も金も持たない「宿なし興道」の禅に、虚飾のない生き生きした魅力を感じるのである。


五高生らと由布岳に登った澤木興道老師(大正15年、46歳)
(写真は同上書より)


 

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4.禅僧の戦争体験と思想 ―森田正馬と対比して―
   ところで、考え直しておかねばならないことがある。上に記した澤木興道と五高生たちとの交流のエピソードを、父親のような世代の男が、息子のような学生たちと裸の付き合いをした痛快な話として、おしまいにすることができるだろうか。残念ながら、ここでめでたく話を閉じるわけにはいかない。
   澤木は学生たちによって、素っ裸にされ、「兵隊以来、勉強と座禅で神経が細くなっていたわしも、見事に作り直された」と言うが、どんな「わし」がどのように作り直されたのであろうか。純粋無垢な五高生たちに、自分が日露戦争で体験した戦争の悲劇や罪悪を伝えただろうか。
   万日山に長居をしていた澤木は、昭和10年に駒沢大学からの要請により、熊本に別れを告げて、同大学の教授となった。やがて軍靴の音が響き始めて、日本は侵略戦争に向かう時代のことである。五高の自然児たちの運命はどうなったのであろうか。駒沢大学の澤木は、軍事政権の近くに身を置くことを辞さなかった。
   昭和10年代の澤木は、戦争について、いくつかの発言をしている。自分は、日露戦争で兵隊に行けば人殺しも名人の方であった、と言っている。しかしそれは、自分が生まれつき胆力があったからに過ぎず、座禅で胆力をつけたのではないと付け加える。この文脈で、座禅は仏行であるが、戦争は無間の業であり、仏行と戦争は反対のものとして、区別する見解を述べている。ところがその見解は一貫しない。驚くべきことに、戦場における殺戮を、仏教思想によって合法化しているいくつかの発言に遭遇する。少年の頃、やくざたちの斬り合いを見たというこの人の原体験が、つい重なって見えてしまう。任侠道と仏道と戦争が一緒になっているかのようである。とにかく悲しい話だ。
   さて、森田療法の立場から禅に求めていることがある。それは禅語の断片や禅の難解な思想ではない。座禅の警策でもない。問題は禅者の生き方である。
   澤木興道の後半生については、もはやここでは論じ尽くせない。稿を改めるほかなかろう。
   一方、森田正馬の戦争に対する考え方はどうだったか。森田は反戦主義者だったという単純な捉え方をして、美化する風潮があるようである。果たしてそうか。森田は、与謝野晶子のように、反戦思想を詠嘆的に謳うことはしなかった。出征した弟、徳弥に対して、無駄に命を落とすなと言っただけでなく、敵前逃亡をするなとも諭しているのである。彼は弟に対して、「怯懦と匹夫の蛮勇とは、どちらも男子として最も賤しむべきものである」と教えた(野村章恒『森田正馬評伝』による)。戦場へ赴く肉親に対して、なんと厳しいことを言ったものかと思う。
   森田は、暴力や戦争に賛成しているわけではないが、世の中の事実であり現象であると言って、それを受け入れている。
 「戦争は世界に絶えない。事実であるから、善くとも悪くともしかたがない。兵法は、戦わずして勝つのが上乗であって、国には軍備が整って、外交で勝つのが、上策であろうと思う。」と述べている(第42回形外会)。同様のことを、第46回形外会でも、「読んで字の如き平和論や無戦論は社会人心の本然性を無視した屁理屈である。」と言い、武力を充実させて、「戦わずして勝つ」の平和を説いている。
   戦争というものを、森田正馬はこのように捉えていた。彼は極めて現実主義的な思想の持ち主だったと思う。しかし、事実として戦争が起これば、澤木興道が体験したような事態に直面するわけである。
   澤木の戦争体験と発言は、禅僧の戦争責任につながるが、弟を戦争でうしなった森田の思想は、森田療法とも絡んで、われわれに迫ってくるのである。


澤木興道(昭和31年、誠信書房刊、酒井得元『禅に生きる澤木興道』より)


 

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〈主要文献〉
 
1) 澤木興道と五高生の交流に関するもの
 ・澤木興道 : 禅に生きる. 誠信書房. 昭和31年
 ・酒井得元 : 澤木興道 聞き書き. 講談社. 昭和59年
 
2) 澤木興道と戦争に関するもの
 ・澤木興道 : 證道歌を語る. 大法輪閣. 昭和15年
 ・ブライアン・アンドルー・ヴィクトリア : 禅と戦争. 光人社. 平成13年
 ・遠藤 誠 : 今のお寺に仏教はない. 現代書館. 平成7年
 ・市川白弦 : 仏教者の戦争責任. 春秋社. 昭和45年
 ・松岡由香子 : 「禅と戦争責任」-沢木興道老師のアポロギア. ネット上の文献(掲載誌不明. 未出版原稿か?)
 ・松岡由香子 : 「禅と戦争責任」(続き)-沢木興道老師のアポロギア. 第二部 禅と戦争. ネット上の文献(掲載誌不明. 未出版原稿か?)
 ・澤木興道 : 生死のあきらめ方.
 ・澤木興道全集. 大法輪閣.
 
3) 森田正馬の戦争に対する考え方
 ・森田正馬全集 第五巻. 白揚社.
 ・野村章恒 : 森田正馬評伝. 白揚社.

森田療法と社会教育をめぐる精神的風土 ― 「いごっそう」、「もっこす」、「葉隠(いひゅうもん)」 ―

2017/08/29


高松光彦著『九州の精神的風土』葦書房、平成4年刊


 

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   森田正馬が、自分の療法は人間の再教育であると言い、療法の教育的な面を重んじていたことはよく知られている。森田はモンテッソーリの幼児教育や、藤村トヨ女史が行っていた体育など、教育に広く関心を寄せていたのであった。そして何よりも自宅に患者を入院させて、本物の夫婦喧嘩まで公開しながら、自分たちの家庭を教育の場として、実際に即した指導をおこなった。このような家庭教育的な療法を身をもって体験し、それを継承していた水谷啓二の森田療法と、下村湖人や永杉喜輔の社会教育が合流することになる。家庭教育と社会教育は、別物ではない。これらが相互補完的になって教育が充実する。
 

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   そこで、唐突かもしれないが、高知出身の森田正馬が創案した療法と、下村、永杉ら、九州の五高出身者たちに発した社会教育の流れとの関係を、精神的風土の面から考えてみる。水谷啓二の著書、『あるがままに生きる』(昭和46年刊)の中に「もっこすといごっそ」という見出しの注目すべき一文があるので、それを取り上げておきたい。
   水谷は、高知県在住の精神科医、沢田淳氏から『いごっそう考』という本を贈られたので、読んでみて、興味深く感じたというのである。沢田淳という人は、慈恵医大卒の精神科医で、高良武久教授の弟子にあたり、郷里の高知県に帰って、浪越診療所で森田療法の開業をしていた人物である。森田正馬は高知県出身だったし、水谷啓二は熊本県の出身者だった。だから森田は「いごっそう」で、水谷は「もっこす」であったと即断するのはさておいて、水谷は沢田の著書に対して、感想を述べているので、次にそれを要約して紹介する。
   ―― 沢田氏は言っている。〈いごっそう〉は明朗闊達であるが、ときに重大事に出くわせば、他人の毀誉褒貶に重きを置かず、不変の信念をもって、正義に向かってまっしぐらに生命をかける、と。そのように、むしろへそ曲がりとも言えるほどの頑固さで、自分の信念を貫こうとするところは、肥後のもっこすも同じではないだろうか。それが極端になれば、〈偏屈〉となって厄介視されるけれども、豊かな人間味と高い知性とに裏づけられていれば、不撓不屈の精神をもって、創造的な事業を成し遂げてゆく底力ともなるであろう。現代の文化の中に感じられる欺瞞性を看破して、日本古来の純粋な精神に根ざした、新しい創造的な文化を開拓していくのは、「もっこす」的あるいは「いごっそう」的な人たちではあるまいか。――
   以上が、水谷啓二自身の感想の概要である。ちなみに著書『あるがままに生きる』は、昭和45年に急逝するまで、水谷が熊本日日新聞に「宗教随想」として連載していた原稿が集められ、病没の翌46年に出版されたものである。八面六臂の活躍をしながら、森田の生活道をまっしぐらに生きて逝った水谷氏自身、氏の一文に照らせば、よき「もっこす」だったと言えるであろう。
 

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   それにしても、人はさまざまであり、伝説的な県民性で安易に人を見るのは慎まねばならないのだが、精神的風土によって形成される人の気風の特色は、なきにしもあらずであると思う。
   水谷と五高での同級生で、下村湖人に師事して、社会教育に貢献した永杉喜輔(群馬大学教授、のちに名誉教授)もまた、熊本県出身者である。永杉は京大の哲学科に学んで、観念的な哲学用語を振り回していた青年だったが、卒業後、小金井の浴恩館で、五高の先輩であった下村が主宰する青年団の講習生活に加わり、便所掃除をしている下村の姿を見て、開眼したのだった。以後、あまり日の当たらない社会教育の道を、熱意を持って駆け続けたのである。永杉も「もっこす」と称されてよい人物であった。
 

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   ところで、下村湖人は九州男児であるが、熊本ではなく佐賀県の出身である。もともと彼は、文学肌でロマンチストの若者であった。中学生のときに、既に中央で頭角を表し、その名を世に知られていた天才詩人であった。しかし早熟な下村の神経は繊細であった。孤独な思索の中に入りがちな彼であったが、五高時代に同じ佐賀県人である2人のよき友人に恵まれた。彼らとの心の交流によって、高校時代の下村は人間的に成長していった。

   ひとりは、佐賀中学で同窓だった高田保馬である。高田は、後に京大に進み社会学を専攻して京大教授(のちに名誉教授)になった人物である。五高時代の下村にとって、高田は胸襟を開いて付き合うことのできた無二の親友であった。二人は、共に校友会誌「龍南」の編集委員になり、また寮では同室であった。二人は、時には同じ布団にくるまって寝た。しかし、高田はやがて病気で休学したので、生活を共にすることはできなくなる。それでも二人の友情は長く続き、互いに生涯を通じての友となった。小金井市の(旧)浴恩館には、青年団講習所所長時代に高田が訪れて、両人が一緒におさまった写真が残されている。
 

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   もうひとりの友人は、これまた佐賀県出身の田澤義鋪(よしはる)である。田澤は、下村より先に五高に入学した一年上の先輩であったが、ボート部の選手で、学校の禁酒令を破って酒を飲み、退学となった。その後復学を認められ、一学年遅れて下村と同学年となったために、以後身近な関係になったのである。文武両道に長け、正義感が強くて豪胆な田澤に、自分にないものを見て下村は心酔した。田澤も、詩人としての下村の天賦の才と、葉隠のように秘めたその武士的な気質に敬意を払っていた。田澤は東大の法科に進み、卒業後に官吏になるが、官界の枠にはまらず、国内の青年たちに対する教育の必要性を感じ、青年団運動の指導者となった。下村は同じく東大を出たが、一旦郷里の佐賀県や台湾での教員生活を経験してから、田澤の世話で青年団講習所の所長を引き受けることになった。こうして田澤と下村の二人は、五高以来の歳月を経て、志を共有し、青年たちへの社会教育を共に推進することなった。
   田澤から受けた鼓吹なくして、下村の人生を賭けた社会教育活動はなかったであろう。葉隠のように、耐え忍んで活動する武士道的な気質は、下村において顕著であった。一方、剛毅で、尚武の気性に富む田澤もまた武士のようであったが、彼の剛毅な気質は、肥後「もっこす」にも通じるものであったと言えよう。
 

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   肥前(佐賀)の気風は俗には「いひゅうもん(異風者)」と言い、尚武の気性を有し、剛毅朴訥、一徹で、角が立ち、融通がきかず、協調性に欠け、保守的などの気質特徴を指すらしい(高松光彦『九州の精神的風土』より)。「いごっそう」や「もっこす」と反対であるような印象を受けるけれども、同じものを裏面から見た特徴のようでもある。
   ともあれ、「いごっそう」、「もっこす」、そして「葉隠の精神、もしくは、いひゅうもん」は、根底にある共通する気風の上に、若干のスペクトラムの差を見ているのではなかろうか。
   日本の社会教育を開拓した人材が、こぞって熊本五高から輩出しているので、その背景にあるかもしれない九州人の精神的気質について、少し考えてみた。五高が生んだ社会教育者たち、田澤義鋪、下村湖人、永杉喜輔、さらに水谷啓二といった人物の列伝については、改めて触れたい。
 

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沢田淳著『いごっそう考』高知新聞社、昭和43年


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