下村湖人の『次郎物語』と森田療法の接点 ―浴恩館を訪ねて―

2017/08/14


小金井市の(旧)浴恩館の建物と、下村湖人。


 

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   森田正馬は、昭和13年に60歳過ぎで没している。下村湖人は、ちょうどその頃、昭和8年から昭和12年までの間、武蔵小金井の「浴恩館」(日本青年館の分館)に付設された「青年団講習所」の所長として、集団合宿に集まった青年たちと起居を共にしていたのだった。その塾風生活における指導は、あたかも入院森田療法のようである。しかし森田と下村との間に交流があったわけではない。
   下村は森田と同じく熊本五高の出身者である。森田より10歳年下で、五高は森田の8年後に卒業して、東大英文科に進んでいる。
   二人の間に出会いが起こることはなかったが、下村の社会教育の活動は、弟子の永杉喜輔を通じて、やがて水谷啓二の森田療法に合流することになる。永杉と水谷は熊本五高の同級生であった。永杉は五高から京大の哲学科に進んだ後、浴恩館における下村の青年団講習所に学び、以後下村に師事し続けた。水谷は五高から東大の経済学部に入り、卒業後はジャーナリストになっていた。戦後に社会教育の立て直しを図ろうとする下村のもとにいた永杉は、かつての同級生の水谷と再会し、彼を下村に紹介した。こうして、下村が拓こうとする社会教育と、森田の生活道を追求していた水谷の活動が、軌を一にすることになるのである。


野口周一先生(左)と、浴恩館公園の入口で。


 

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   野口周一先生は、下村湖人や永杉喜輔らについての研究者であり、社会教育の実践者でもあるお方である。かつて下村が、戦後に創刊した社会教育のための雑誌、「新風土」は消滅し、行き着くところ、水谷啓二の雑誌「生活の発見」に、「新風土」の誓願を委ねるに至ったが、野口先生はその流れを追って、森田療法や「生活の発見会」に到達された。私はと言えば、森田療法における自助組織に関心を持って、「生活の発見会」のルーツを辿ったら、永杉喜輔に、そして下村湖人に遭遇することになった。こうして野口周一先生とのご縁ができたのである。
   去る6月の下旬、私は上京した折に小金井市の(旧)浴恩館を訪れた。関東在住の野口先生は、このとき親切にも、私の日程に合わせて浴恩館公園においでくださり、さらに公園の近くにお住まいになっている下村湖人の縁戚のお方をご紹介くださったのだった。縁戚のお方は、浴恩館公園美化サポーターとして、ボランティアで公園の美化に尽くしておられる中嶋直子様である。三人で公園に行き、野口先生と中嶋様に丁寧に説明していただきながら、(旧)浴恩館の館内や公園の敷地内を見学することができた。
   この浴恩館公園は、小金井市が所有しており、(旧)浴恩館の建物は、小金井市文化財センターになって、市内の考古資料などと共に、浴恩館だったときの資料や下村湖人に関するものが多く展示されている。青年団講習所で共同生活をしている青年たちの写真や、剣道の道場の写真も展示されていて、当時の研修生活が視覚的に伝わってくる。学術用に展示物の写真撮影を許可されたが、そのような写真は、残念ながらブログに出すことはできない。


空林荘跡


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   講師用宿舎として、空林荘という、こじんまりした瀟洒な建物があった。下村湖人がここに住まい、『次郎物語』の執筆の想を練り、第一部を書いた場所である。
   空林荘は、貴重な建物として、市の史跡に指定されていたが、平成25年3月に焼失した。
 


空林荘の解説看板



   空林荘の解説看板に記されている文章を、そのまま以下に転記しておく。
 

市史跡 空林荘

   この空林荘は、全国の青年団活動の中心であった財団法人日本青年館が、昭和5年にその分館として浴恩館(青年団講習所)を開設したとき、講師の宿舎として建てられたものです。
   青年教育の実践家として知られる下村湖人(1884~1955)は、昭和8年から同12年まで講習所の所長を務めました。    空林荘は下村湖人が講習生と寝食を共にし、指導にあたったところです。
   そのころ、「次郎物語」の執筆を始めた湖人はここで構想を練り、次郎の少年時代を記述しました。昭和29年に発表された第5部に登場する友愛塾と空林庵は、浴恩館と空林荘をモデルにしたものです。
   なお、空林荘は貴重な文学遺跡として市史跡に指定されましたが、平成25年3月に焼失しました。

平成26年3月

小金井市教育委員会

 


下村湖人の直筆が刻まれた歌碑。


 

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   「大いなる 道といふもの 世にありと 思ふこころは いまだも消えず」

   歌碑には、下村の書いた字体が、そのまま拡大されて刻まれているようだが、判読するのが難しい。刻まれているのは、上記の歌である。
   下村は戦前とほとんど変わることのない「新風土」の誓願を掲げていた。その一部を拾えば―、「個性の自律的前進が、同時に調和と統一への前進であり、全一なるものの歓びであるように行動したい。」、「伝統にはぐくまれ、歴史を呼吸しつつ、しかも生生発展(…)、新しき歴史と伝統とを創造したい。」と謳われている。
   しかし、伝統の上に個人の自律を模索する誓願にのっとって発行した雑誌「新風土」は、戦後の社会にあまり受け入れられることなく、廃刊のやむなきに至った。永杉によれば、下村は「甘かった」と嘆息したと言う。
   それでも、浴恩館での塾風生活体験を描いた『次郎物語 第五部』が、昭和29年4月に出版の運びとなった。
   その秋、昭和29年10月3日、古希の誕生日に、下村は「大いなる道…」の歌を詠んで、新たな前進を自身に誓ったが、その肉体は既に病に蝕まれており、翌年4月に世を去ったのだった。

擇木道場を訪ねて―森田正馬が参禅した「両忘会」と釈宗活老師のこと―

2017/07/30


擇木道場の玄関

 

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1. 森田正馬の参禅
   森田正馬は、形外会の席で、自分の禅体験を述べている。
  「釈宗活師の提唱を聴き、また参禅もした。そのときに『父母未生以前、自己本来の面目如何』という公案をもらった。三度参禅したけれども、公案を通過することができなかった」、「ただ物好きの野次馬にやっただけの事である」などと言っているのである。しかも、このような挫折体験のために、「私は禅のことは知らない」とか、自分の療法は「全く禅とは関係がない」と言い出す始末となった。
   森田の参禅については、彼の時代に文化人はよく鎌倉の円覚寺の釈宗演のもとに参禅したので、釈宗活という名が釈宗演と混同されて、結局森田の参禅についての正確な事実は、今日までほとんど不明のままであった。しかし、森田の日記を見ても、明治43年に谷中初音町の「両忘会」の釈宗活老師に参禅したと、明記されている。そこまでは疑いを入れないことである。
   では、森田が通った「両忘会」とは、どんな禅道場だったのか、そして釈宗活老師とはどんな人物だったのであろうか。
   昨年12月から今年の2月頃まで、森田の参禅体験の事実を明らかにするべく、調べを続けながら、判明したことを順を追って、詳細なレポートを本欄に連載し続けた。
   調べる中で、かつて釈宗活老師を師家と仰いでいた「両忘会」の流れがあり、それを受け継いでいる「擇木(たくぼく)道場」が、谷中7丁目に現存することを知った。しかし「両忘会」や釈宗活老師について不明な点があり、その道場に連絡を取って質問を向け、責任者の師家、杉山呼龍先生から回答を頂いた。
   しかし、そのときは通信によるやり取りのみで、擇木道場をお訪ねできずにいたのだった。遅ればせながらその失礼を謝し、また「両忘会」の歴史や釈宗活老師の人物像について、さらに教えて頂ければと、去る6月下旬に擇木道場をお訪ねした。
   先の連載の際に既に明らかにできたことは、本稿では重複を避け、新たに教えて頂いたことや、擇木道場を初めて訪問した体験を、少し記しておきたい。


擇木道場の玄関前で、師家の杉山呼龍先生と



 

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2. 両忘会、擇木道場、そして人間禅へ
   擇木道場は、山手線の日暮里駅の最寄りで、谷中の墓地と天王寺という天台宗の寺院との間に位置している。
   道場をお訪ねしたら、師家の杉山呼龍先生が快くお迎えくださった。この杉山先生と対座してお話しを伺うことができ、両忘会の歴史や釈宗活老師のことについて、種々教えて頂いた。
   明治43年に森田正馬が、師家の釈宗活老師のもとに参禅した「両忘会」は、谷中初音町(旧町名)にあった。しかし大正3年に谷中天王寺町(旧町名)に新築の建物を得て、「両忘会」はここに移転した。そして道場名を擇木(たくぼく)道場と称するようになった。それが現存するこの擇木道場の由来である。
   当時は、なお「両忘会」であったが、その後大正末に財団法人「両忘協会」、また昭和12年には宗教団体「両忘禅協会」と組織変えをして、本部は千葉県市川市の新道場に移された。これにより、擇木道場は学生の寮になっていた時期がある。昭和24年に千葉の組織は、宗教法人「人間禅」となって、全国に支部を増やし、在家禅の振興がはかられて、今日に至る。この在家者による「人間禅」が始められるまでは、釈宗活老師は千葉において、両忘禅協会の師家として参禅者の指導を続けておられた。
   擇木道場は、千葉の本部に「人間禅」が成立してから後に、「人間禅東京支部」を名乗ることとなった。ともあれ擇木道場は、かつて釈宗活老師によって長年にわたり在家者の禅指導が行われた由緒ある道場である。
   要するに、森田正馬が参禅した「両忘会」なるものは、在家禅(居士禅)として戦後に独立組織となった「人間禅」の前身で、禅の老師を指導者と仰ぎ、在家者たちが集って参禅していた、禅組織だったのである。
   最初期の「両忘会」は、山岡鉄舟、中江兆民らの有志により、寺院の殻を破り在家禅を振興しようと、明治8年に湯島の麟祥院で、鎌倉から今川洪川老師を招いて、禅を学ぶ会が開かれたのだった。しかし、洪川が辞したために会は途絶えていた。
   その後、釈宗演の命により、釈宗活が明治34年に「両忘会」を再興したのである。その頃の道場は、借家を利用して、根岸、日暮里、谷中を点々と移転したようだった。先立っての本欄の連載に記したが、森田正馬が参禅した明治43年の時点の「両忘会」の場所は、谷中初音町(旧町名)二丁目であったと推測された。だが、その環境はよくわからない。森田が「両忘会」の場をどのように捉えていたか、また釈宗活老師にどのような印象を抱いたのか。自身にとって重要な体験だったに違いないのに、公案を透過しなかったことだけをポツリと言い、「両忘会」や釈宗活老師との出会いの体験について何も述べていないのは、なぜだろうか。そのへんに不思議なものが残る。


釈宗活老師(著書『悟道の妙味』の口絵写真)



 

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3. 在家禅(居士禅)の指導者、釈宗活老師
   釈宗活の名は、釈宗演の陰に隠れて、あまり知られず、またしばしば混同されている。だが、その人柄と、人を引きつける禅の提唱、さらに絵画、鎌倉彫りの彫刻や三味線などの多彩な芸道に秀でていたことでも、玄人受けする人だったようである。若き日に宗活老師を慕って擇木道場に住み込んで座禅をしたという西山松之助氏は、自著に、浄土真宗の近角常観と禅の釈宗活は、明治・大正を代表する二大宗教家だと言われた、とまで書いている。
   夏目漱石は、円覚寺の釈宗演のもとに参禅した体験を、小説『門』にかなり詳しく書いている。宗活は宗演から塔頭の帰源院の監理を委ねられ、外部から参禅に来る人たちを宿泊させて、その世話にあたることになった。漱石の参禅はこの頃のことで、『門』では、宗活は宜道という名の若い僧侶として描かれている。
  「紹介状を貰うときに東京で聞いたところによると、この宜道という坊さんは、大変性質のいい男で、今では修業も大分出来上がっているという話だった…」、
  「この矮小な若僧は、まだ出家をしない前、ただの俗人としてここへ修業に来た時、七日の間結跏したぎり少しも動かなかったのである。」、
  「この庵を預かるようになってから、もう二年になるが、まだ本式に床を延べて、楽に足を延ばして寝たことはないと言った。冬でも着物のまま壁にもたれて坐睡するだけだと言った。」
   一方、漱石の『談話』の中の「色気を去れよ」という題の話の中では、宗活の剽軽な面が語られている。
  「明治二十六年の猫も軒端に恋する春頃であった。私も色気が出て態々相州鎌倉の円覚寺まで出掛けたことがあるよ。(…)。
   如何なる機縁か、典座寮の宗活といふ僧と仲好しになって、老婆親切に色々教えて貰った。(…)。
   其の夜宗活さんが遊びに来て、面白いものを聞かしてくれた。白隠和尚の『大道ちょぼくれ』で、大に振っている。宗活さんは口を尖らしていふ。

〔中略〕(ママ)

   宗活さんは剽軽な坊さんだと思った。」
   さらに漱石は、参禅を回想し、「禅僧宗活に対す 一句」として、次の俳句をよんでいる。
  「其許は案山子に似たる和尚かな」
   意味を判じ難い句である。
   このような漱石の描写は、参禅体験者の目から見た釈宗活像である。
   かなり以前の、両忘禅協会の時代に、釈宗活老師が自叙伝を語られたことがあり、その記録が当時の会報に掲載された。間接資料でそれに接することができた。それによると、釈宗活は、東京麹町の開業医の四男として生まれた。本名は、入沢譲四郎であった。11歳のときに母が早逝したが、臨終のときに「よく聞けよ。母は御身の富貴栄達を望まぬ。心を磨け」と言い残した。引き続き翌年に父も他界した。以後、少年は母の遺言を守って、苦学し、ストイックに生きた。今北洪川について円覚寺に入り、出家したが、一生寺の住職にはならず、在家者に禅を伝えることをおのれの使命としたのだった。
   森田正馬はこのような禅僧との貴重な出会いに恵まれながら、参禅の途中で挫折してみずから去った。
   惜しむらくは、在家者の森田が、在家者への禅指導を一筋とする、願ってもない人、釈宗活老師に巡り会いながら、その縁に反して、この老師に師事できる貴重な機会を逸してしまったのである。
   ことによると、森田は後にそれを悔やんで臍を噛んだのではなかったろうか。だから、禅について自己を卑下する言葉が、口をついて出たのではなかったろうか。ちなみに森田は、後年に釈宗活老師の禅の著書を買って読んでいるのである。


択木道場への方向を示す案内



 

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4. 擇木道場の現在
   谷中界隈には、古い東京の風情が残っている。昇ったり降ったりと、坂が多い。山手と下町の重なりあった雰囲気がある。山岡鉄舟が開いた全生庵も谷中にあって、安倍総理が座禅をしに行くことでも知られている。天王寺には、幸田露伴の小説のモデルになった五重塔があったが、焼失してしまって今はない。江戸時代には、このお寺で、幕府公認の富籤の興行が行われていたらしい。
   さて、その天王寺のそばにある擇木道場にお邪魔した。大正4年に、両忘会のために道場を新築寄進されたものだが、老朽化により、平成になって建物は改築されたようである。
   道場の責任者の師家、杉山呼龍先生(仰月庵杉山呼龍老居士)は、温厚な御方であった。人間禅や擇木道場の沿革、釈宗活老師のことなど、親切に教えて下さった。道場内部も見学させて頂いた。寺院で感じる、あの独特の雰囲気がないのがいい。京都では、禅と言えば禅寺、そして禅寺と言えば、連想は座禅か観光かの二択となる。二択どころか、座禅と観光の両目的で、京都にやって来る人たちもいるから、かなわない。
   人間禅の擇木道場は、当然ながら禅寺の雰囲気に包まれていないし、観光とも無縁である。それだけで十分に無駄がなく、したがって禅の本質が問われることだろうと思う。日常生活との間に敷居のない、そんな禅道場を初めて見学させて頂くことができて、大変印象深かった。
   杉山呼龍先生のほかに、もうお一方、笠倉玉渓先生(慧日庵笠倉玉渓老禅子)にも、お目にかかることができた。禅の知識と経験に富んでおられる上、聡明で気品のある女性の指導者でいらっしゃる。笠倉先生は、人間禅の特命布教師に任命されて、各地で講演をなさっている。また、「禅フロンティア 日本文化研修道場」(本部は、擇木道場)の代表もつとめておられる。
   擇木道場では、摂心会をはじめ、座禅会、勉強会、講演会など、さまざまな行事が開催されている。音楽のライブと座禅が、コラボでおこなわれたこともある。
 「人間禅 擇木(たくぼく)道場」のホームページを開けば、さまざまな情報が満載されている。
 
   講演の動画も多い。
   2015年は、擇木道場創建100周年にあたり、記念勉強会として、笠倉先生や杉山先生がなさった講演を、今も動画で視聴することができる。
   杉山先生の講演は、在家禅の発生と歴史についての、貴重な研究的内容の講演である。
   笠倉先生の講演は、基調として、現代人の生活の中に禅をどう生かせばよいか、をわかりやすく語っておられるものである。森田療法家が学ぶべき語り口にて、つくづく教えられる。
 
   このような動画(いずれも Youtube)を、以下に列挙しておく。キーワードだけでも容易にアクセスできるので、是非視聴されたい。
 
1. 人間禅 擇木道場 100周年記念勉強会
  ・第1回 「大乗仏教とは何か?」
   講師 慧日庵笠倉玉渓老禅子
(2015年10月10日)
 
  ・第2回 「在家禅の発生」
   講師 仰月庵杉山呼龍老居士
(2015年11月21日)
 
2. 「心がブレない生き方と禅」シリーズ
  ・「心がブレない生き方と禅3~ストレス、負のスパイラルからの脱出~」
   講師 慧日庵笠倉玉渓老禅子
  (2017年4月5日)
               この講演のみリンクをつけておきます
               心がブレない生き方と禅3

 
   その他いくつも、役立つ動画がある。

 

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後記:本稿は、2016年12月8日から2017年2月17日にかけてブログ欄に連載した記事、「森田正馬は鎌倉円覚寺に参禅したか」の続編である。また本稿の内容は、(第4章を除き)「研究ノート」に相当するので、「研究ノート」欄にも掲載する。これらの内容は別途に発表を予定しており、ここでは発表に先立ち、ルポルタージュ風に紹介した。

僧医、宇佐玄雄の禅的森田療法の講話について―〔若干の解説〕 ―

2017/07/24


猿沢の池と興福寺の五重塔


 

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   残っていた宇佐玄雄の講話音声を、部分的に抜粋して、先に6月11日、7月8日、7月10日のブログ上で聴いて頂けるようにしました。森田正馬が改まって還暦記念講演をレコードに吹き込んだのと違って、日常の講話を録音したものなので、不自然さがありません。概してわかりやすく話しておられますが、早口で、一部には難解なことを言っておられますし、説明不足だと思われる箇所もあります。そこで内容や用語などについて、解説的に若干の説明を加えておきます。

 

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   抜粋の小見出しでいうと、まず「あるがまま」は森田療法の基本的な教えであり、「そのまま前進」、「煩悩即菩提」のあたりは禅的立場からの指導で、森田正馬も、自分の言葉で「煩悶即解脱」と言い換えて指導している通りです。

 

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   「森田先生の教え」の箇所については、今日の治療者はこのようには言いにくいのが現実です。いわゆるパターナリズム(父権主義)的な療法の面が極端に出ていますから。森田先生は仏頂面をして話も聴いてくれない、と日記に書いた人に対して森田先生が言ったことについてのコメントがあります。これは「あるがまま」のはき違えを指摘していると同時に、あたかも禅における師弟関係のように、患者は治療者の権威に従わねばならぬと教えているように受け取れます。本来は、治療者から滲み出るものに対して、自然に敬意の念が湧くような関係ができるのが望ましいのではないでしょうか。パターナリズム的関係の遵守をこう単純に言語化している講話を聴くと、私(ども)としても隔世の感を覚えてしまいます。そうは言っても、パターナリズムを抜き去ったら、森田療法は骨抜きになってしまうと私は思っているものです。

 

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   「健康について」や「植物神経」のところでは、体のどこかの不具合に注意を向けると、感覚が鋭化し、悪循環が起こってしまうという、いわゆる精神交互作用について述べています。

   他に健康に関しては、音声を抜粋できませんでしたが、“ A sound mind in a sound body “―「健全なる身体に健全なる精神宿る」と訳されている―の諺にふれておられる箇所がありました。そこでは、精神を健康にするためには、まず体を健康にしなければならないという論法で考えがちな誤りを指摘しています。この句は、元は古代ローマの詩人、ユウェナリウスが言ったもので、その原意は深いようです。まあ、それはともかく、玄雄先生は、sound という英単語を、healthy と無頓着に言っておられて、ご愛嬌です。先の植物神経の項の後半では、卑近な例を出しておられて、伊賀出身の忍たま先生の面目躍如としています。面白いので、聴衆はゲラゲラ笑っています。このような例を出されると、分かりやすいのでしょう。こちらは倫理コードを気にして、“(卑近な例も)”と書き加えていたのを一旦削除しました。しかし、多分大丈夫にて削除した言葉を戻します。

 

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   「精神の対比現象」は、生と死、自と他、苦と楽などの分別のない一如の教えです。
   「カンチャクを嫌う」という言葉も話の端にあって、説明を要します。これは『信心銘』の冒頭にある次の文中の一部です。
   「至道難きこと無し、唯だ揀擇を嫌う」。ここに言う「揀擇」とは、より好みをすることで、読み方はいくつかあって、「ケンジャク」、あるいは「ケンタク」、あるいは「カンタク」と読まれます。玄雄先生は「カンタクを嫌う」と言ったのです。二分法でより好みをしてはいけない、という意味です。
   以上はすべて禅の本領であり、森田が「苦楽超然」と教えたことと同じです。

 

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   「うつすとも水は思はず うつるとも月は思はず 猿沢の池」。
   この古歌は、柳生宗厳(石舟斎)が、一族に残した剣の極意歌だと言われています。猿沢の池は、奈良の興福寺のそばにあって、そこからさほど遠くない地に柳生の里があります。宮本武蔵を小説に描いた吉川英治氏も、この歌を愛でていました。
   一方、「猿沢の池」でなく「広沢の池」となっている歌もあり、それは剣豪、塚原卜伝が詠んだ歌と伝えられています。いずれにせよ、剣の極意としての無心の境地を教えているものです。柳生流と奈良の猿沢の池にしておく方が風流なようですが、そもそも無心とは、風流、無風流の域のものではありますまい。
   猿沢の池からの連想で、玄雄先生は、「手を叩く、云々」の歌も引用しておられます。間髪を入れずに、と教えていますが、少し説明を補います。
   「手を打てば はいと答える 鳥逃げる 鯉は集まる 猿沢の池」という古歌があるのです。手を打って出す刺激音で、宿の女中さんはとっさに、はいと答えるし、鳥はたちどころに飛び立つし、魚は餌をもらえるかと集まってくるというのです。その心として、捉え方は相手によって千差万別であり、それぞれが思い思いに動くということを示しています。しかし玄雄先生は、この場合神経症者に対して、理屈抜きに即座に必要な行動をするようにと教えておられるのです。

 

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晩年だろうと思われる。


 

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   宇佐玄雄先生の言行のエピソードは、いろいろ知られていますが、不明な点も少なくありません。
   講話でこんなことを言っておられたという、指導の言葉はいくつか語り継がれていますが、たまたま録音された講話中に、それらが展開されているわけではありません。でも今回は、音声や語り口にふれてもらうのが趣旨でしたので、講話の解説はこれくらいにしておきます。
   これまで、こまごまと講話の音声をピックアップしてブログに上げました。通算すると30分くらいになるようです。
   ホームページのファイルの容量に左右されますが、講話の全体をアップロードすることができるかもしれませんし、またCDに落として個別にお渡しできるかもしれません。
   とりあえず、音声をピックアップしての提供とその解説は、これにて。

僧医、宇佐玄雄の禅的森田療法の講話音声(抜粋して公開) ( 3 )

2017/07/10


宇佐玄雄(晩年)


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   3回目になりますが、引き続いて、また宇佐玄雄の禅的森田療法の講話音声を、抜粋してアップロードします。
   三聖病院の閉院時に見つけた講話の録音テープとそれをMDに移したものは、約2時間分の中身がありますが、よく聴いてみると、編集した形跡があります。複数(と言っても2つくらい)の録音音声を継ぎ足して収めたものだろうと思われるのです。したがって、全体としては、まとまりには欠ける印象のある音声資料です。
   また、入院患者さんたちの日記を材料に、公開の場でコメントをするような形で話を進めておられますが、基本的には聴衆全員に向けて語っておられるものです。ここまで、3回にわたって、講話音声の部分的な抜粋をアップロードしているのですが、特定の個人に向けて話しておられる箇所や、やや散漫、あるいは聞き取り難いような箇所を避けて、比較的重要な内容だと思われる箇所をピックアップしています。
   そろそろ、「さわり」の部分が少なくなってきましたが、今回、残っていた「さわり」を3カ所ほど、抜粋して集めましたので、聴いて下さい。
   初回から今回まで、断片的な抜粋部分を並べてきました。それらの順序は、大まかには録音の最初の方から順を追って抜粋しようとしました。しかし、抜粋作業が結構大変だったので、厳密には順序通りいかず、概して順不同になっています。

 

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1. 精神の対比現象
 

 
 
2. 猿沢の池
 

 
 
3. 植物神経(卑近な例も)
 

 
 

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「うつすとも 水は思はず                
   うつるとも 月は思はず
                           猿沢の池」
                                    玄雄

僧医、宇佐玄雄の禅的森田療法の講話音声(抜粋して公開) ( 2 )

2017/07/08


鈴木大拙(左)と宇佐玄雄(中央)、その右には岡村美穂子
(昭和30年、大谷大学にて)
写真は講話と関係ありませんが、宇佐玄雄(晩年)の風貌を見て下さい



 

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   前回(6月11日)に続いて、宇佐玄雄の講話の録音音声の、他の部分を抜粋してアップロードします。講話は入院患者の日記へのコメントの部分が多いのですが、聴衆全員に向けて述べている、より普遍的な内容の部分をなるべく拾ってみました。中には、今日からすれば不適切な言葉遣いも出てきますが、資料としての特殊性にかんがみ、そのままにしています。

 

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   以下、各部分に、内容を表す仮の簡単な見出しをつけておきます。
 
1. 森田先生の教えについて
 

 
 
2. 健康とは
 

 
 

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来訪した外国人客に療法を説く宇佐玄雄(左側は通訳官)


僧医、宇佐玄雄の禅的森田療法の講話音声(抜粋して公開) ( 1 )

2017/06/11


講話をしている晩年の宇佐玄雄先生



 

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   去る2014年の12月末、禅的な森田療法で知られていた、京都の三聖病院が閉院したときのことです。
   病院は診療を閉じ、引き続き年明けに迫る建物の解体に向けて、急いで院内の大小の物品の片付けが行われました。その際、病院の歴史にかかわる重要な記念品や資料について、それらをまとめて保存しようとされることはありませんでした。記念品や資料は散逸する流れにあり、それを危惧した私は取り急ぎ仮の記念資料保存室を用意しました。しかし散逸の流れを食い止めることはできませんでした。院長は個人的に必要と判断された物はご自宅に持ち帰られ、一方記念の品々を一部の方々に分配なさったようです。
   そして新年まで二、三日を残すのみとなったとき、院長と事務方から、院内に残った雑多な物は、もはやすべて「ゴミ」であると宣言されました。それを聞いて、ハイエナ(?)たちが建物内に入ってきました。実際「ゴミ」の中には、貴重な物がまだあったわけです。私は、病院の元職員のF様の協力を得て、用意した保存室に捨てがたき物を急いで運びました。

   年の瀬も押し詰まり、最後の最後に「ゴミ」の点検を行った日のこと、既に電気も切られて薄暗い夕闇の中で、拾うように見つけたのが、宇佐玄雄の講話の録音テープとMDだったのです。
   当時そのことをブログに書いたら、読んで下さった南條幸弘先生が、宇佐玄雄の講話の音声を聴けるようになるとよいという趣旨のことを「神経質礼賛」のブログに書いて下さいました。そのことをずっと気にして歳月が経ちました。と言うのは、私はITに弱く、パソコンによるホームページの操作はすべてアルバイトに頼っているのが偽らざる現状ですし、まして古いテープとかMDの音声データをパソコンに移し、さらに音声をブログに出すというような一連の作業は、とても自分の手に負えるものではなかったのです。
 
   このたび、また三聖病院元職員のF様のご協力で、講話音声のデータがCD化されました。
   録音された講話の年月はわかりません。主に入院患者さんの日記に材を取って話をしていて、全体で2時間ほどに及びます。玄雄先生は早口でしゃべっておられます。病院のそばの東大路を通っていた市電の音も入っていて、うるさいですが当時が偲ばれます。
   このブログに音声をアップロードするのは初めてのことで、2時間分を一挙に扱うことについては技術的に可能かどうかわかりません。それに、全部を公開することの適否の問題もあります。さしあたり、今回は講話音声の一部の抜粋のみのアップロードを試みます。
   講話全体をCDに複製して、研究者各位に進呈したいとは思っています。(ただし複製の手作業に手間がかかりそうですが。)    なお、別の部分を抜粋してのブログへのアップロードは、また続ける予定です。
 
注)わかって頂きやすいように、ブログタイトルを変更しました。ブログの内容に変更はありません(7月1日)。
 

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   講話の抜粋部分の音声を、3カ所聴いて頂きます。 
各部分に相当する仮の題をつけておきます。
 

  1. あるがまま
  2.  

  3. そのまま前進
  4.  

  5. 煩悩即菩提

京都森田療法研究所の移転のお知らせ

2017/06/04

   6月1日より、京都森田療法研究所は移転しました。
   移転先の新住所や新しい電話番号は、このホームページのトップの下欄などに、既に出しています。旧住所は京都駅八条口(新幹線口)より近い距離にありましたが、このたび移転した新しい住所は、同じく京都駅八条口からさらに近くなり、徒歩1~2分の距離のマンションの一室ですが、京都駅からおそらく最も近いマンションです。その点、とても便利です。
   ただし、全館、完全に居住者用のマンションで、貸事務所ではありません。室内は事実上研究所事務所的に機能することを認められましたが、ポストなどに「京都森田療法研究所」という表示をすることは禁じられていますので、研究所名の表示をしていません。従いまして、郵便物を頂くときは、研究所名を省いて、「711号 岡本重慶」宛にして頂くとスムーズです。勿論「711号 京都森田療法研究所 岡本重慶」宛でも届くはずですが。とにかく「711号」の室番号と岡本重慶名を明記して頂くことで、郵便物は届きますので、よろしくお願いします。
   電話・FAX 番号も変わりました(既に表記)。
   メールアドレスは従来通りで変わっていません。

   なお当研究所は、クリニックや相談室でないことは、従来通りです。この点、お間違いのなきよう、ご理解をお願いします。そして、それをご理解の上で、当研究所とどうぞ気楽に交流して下さい。
   必要に応じて、研究会などを開きますが、そのような場合は、外部に会場を設けます。
   それでは、引き続き当研究所をよろしくお願いします。

丹後半島と丹後ふるさと病院における、森田療法の可能性 (下)

2017/05/12


 丹後ふるさと病院の玄関で(真ん中に、院長の瀬古敬先生)


丹後ふるさと病院の玄関で(真ん中に、院長の瀬古敬先生)


 

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   京都には、四季それぞれに趣があるらしい。市内はいつも観光客で溢れかえっている。
   観光とは別に、住みたい都市としても京都は人気がある。日経BP研究所によって都市住民を対象におこなわれた調査(2016)で、「将来住んでみたい自治体」のランキングは、1位:札幌市、2位:京都市、3位:横浜市であった。 
   一方、地域別にみた医療の充実度はどうであろうか。厚労省による都道府県別にみた人口10万対医師数が公表されている。平成26年末の調査では、第1位:京都府、第2位:東京都、第3位:徳島県であった。平成26年以前においても、これら3府県が上位を占める年度が続いていたようである。京都市は、山紫水明、交通の便に恵まれ、また府下の医師数の多さは都市部に集中しているであろうから、医療は充実した都市であることが見込まれる。住みたい都市として、全国で1、2位にランクアップされているのは無理もない。しかし京都市は、京都府全体からすれば、その南部の例外的な一局所である。京都市とその近郊を含む都市部に比して、それ以外の府下の状況は、格段に異なるのである。それは、北海道の道東にある札幌市と北海道全体との関係に似ているであろうか。京都市に対して、府下の北方の地域、札幌市に対して、広い道内の地域。同じではないにせよ、ひとつの自治体内に、全国の人たちが憧れる住みたい都市とそうではない地域があるという事情は似通っている。同じ都道府県内でも、環境が良くて、便利で、医療が整っていて、住みたいという憧れの対象になる都市から離れると、そこには正反対の地域がある。若者はその地を離れて都市に行き、地域は過疎化して、高齢者が残されていく。着任する医師も少なくなり、悪循環が起こる。
 
   日本海に面した京都府の北の地域、京丹後市は、そんな不本意な条件を抱えた田舎町である。丹後半島の東の入り海にある天橋立ばかりが、観光名所と知られ過ぎてしまったきらいがあるが、半島の大半が京丹後市である。青く澄んだ日本海と海水浴場のある海岸、歴史好きの人たち向けには、遺跡や古墳が多く、俗化していないのが何よりもいい。京都市からそれほど遠隔の地域ではないのに、都市化の波はここまで及んでない。
 
   「百聞は一見にしかず」で、面白いことに、ネット上で、ライブカメラに映されている京丹後市内の風物の映像を観ることができる。市民の方々の生活の模様を観ることはできないが、風景の他に、街並みも遠景で映されていて、道路を走っている車が見えたりする。この動画サイトへのリンクは禁じられているが、下記の名称のサイトを開けば、ライブの動画を観ることができる。
 

「京丹後市/自然街並み ライブカメラ」

 
   30年ほど前、京丹後市内のある地元のための病院では、院長も不在になるという危機に瀕していた。策を失った地元の代表者の方々が、京都市内の大学や公的病院に、医師の派遣を懇願に来たのだった。しかし日本海のほとりの経営も危うい病院に、赴任しようとする医者はいなかった。当時京都市民病院に勤務していた瀬古敬先生は、そんな状況を見て、放っておくに忍びず、みずから院長として赴任したのであった。以来30年が経つ。瀬古先生は、死ぬまでここでやるとおっしゃっている。
 

病院の外来で、瀬古先生と高齢の患者さん。

病院の外来で、瀬古先生と高齢の患者さん。


 

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   瀬古先生も私と同じように、フランスへに留学された経験がある。神経学が専門だったから、パリのサルペトリエール病院に学ばれたのである。今も寸暇を惜しんで、西洋の文献に目を通しておられる。毎週末に京都市内のご自宅に帰り、週末は研究会などに参加し、日曜午後から京丹後市に向かわれる。その生活を繰り返して30年。医師として生涯研修をし、研究をし、設備の整った医療機関で高度な診療をするには、京都市内で勤務する方がよいに決まっている。都会の生活を嫌って、世捨て人になろうとして、僻地の診療を生涯の仕事とされたのではない。必要とされているところに行って、医師としての自分を尽くされているのみである。本来、先生の専門は神経内科だが、京丹後市の第一線の病院に勤務しておられると、神経内科的疾患以外に、認知症はもちろん、精神疾患の患者さんの受診が多く、神経と精神の両面にわたって、広く診療を続けておられる。 
   先生と私は大学での同級生であるが、卒業後、専門を異にし、別の進路を歩んでいた。しかし、10年あまり前、ふとしたことから、先生は禅に関心を有し、折々に禅寺(妙心寺)に行って座禅をたしなんでおられることを知った。そして森田療法を共有するようになった。私が勤務していた三聖病院は、2年ばかり前に閉院となったし、そもそもそこでの内実は森田療法から宇佐療法に変容して、一部の特殊な患者さんたちから信奉されるものになってしまっていた。そのような悩みを抱えての勤務を続けていたのだったが、三聖病院の閉院により、今度は私は、「関西で入院森田療法を維持しなくてもよいのか」という無言の問いかけを、世間から感じることとなった。 
   私は、神経症は強いて人為的な手段を用いて治す必要はないという持論を有していたから、三聖病院に代わる入院森田療法施設の必要性については、内心懐疑的であった。安易に森田正馬の真似をした、形ばかりの入院森田療法の施設を造る必要があるなどとは、全く思っていない。「神経症者は、日本列島という神経症病棟に入院していればよい。いつかはそこで自分の生き方を思い出す」などとうそぶいている。顰蹙を買っているかもしれないが、わが本心である。だけど、神経症で悩んでいる人たちがおられることを知らないわけはない。さらに神経症という診断すら表面的に過ぎるような、深い不全感を奥底に抱えて、生きづらい日々をなんとか生きている人たちがおられることも知っている。だから真似事の入院施設よりも、有形無形に森田療法の本質を保持する場所や、人と人とのつながりが、大々的でなくともよいから、あるとよいとは、切実に思う。 
   現実に「生活の発見会」のような自助組織がある。私は、三聖病院の閉院前には「生活の発見会」の協力医にして頂いていた時期があったが、実際に深い交流をさせて頂くに至る前に、三聖病院の閉院に伴い、診療の受け皿としての「協力医」ではなくなった。でも有り難いことに「生活の発見会」の理事長様や事務局長様と交流させて頂けるようになった。 
   やりとりをさせて頂く中で、京都府の「生活の発見会」の事情を改めて知った。かつては府下の北部を含む組織があり、さらに京都市を中心とする「京都南」の組織があった。しかし現在では、「京都南」の組織が活動しているだけで、北部における発見会活動は休止している状態のようである。そこで、丹後ふるさと病院の院長、瀬古敬先生を「協力医」にと、昨年あえて「生活の発見会本部」に推薦させて頂いた。それを受け止めて頂いて、瀬古先生は「生活の発見会の協力医」に指定されている。京都府下の北部の発見会の会員様方が、丹後ふるさと病院の瀬古先生と遠慮なく交流なさることをお勧めしたいと思う。 
 

明け方の日本海海岸

明け方の日本海海岸


 

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   以上を長い前置きとして、丹後ふるさと病院における、入院森田療法、あるいは入院に準ずる方式での森田療法の可能性について、方針を示しておきたい。 
 
   ①入院について 
   瀬古先生は、三聖病院の閉院前後以降の私の苦境を察して、丹後ふるさと病院の病棟の個室の一部を入院森田療法用に供してもよいと、寛大な提案をして下さったのだった。そのご厚情に深い感謝の念を抱いている。ただし、有り難いご提案を生かすためには、さまざまな問題をクリアしなければならない。 
   入院という形態を取るならば、行政の監督下で許容されるように条件を満たさねばならない。例えば作業について、院内において、入院患者の使役とみなされかねない作業への従事は、タブーとなる。生活に必要なことこそが本当の作業なのに、無難な作業を用意するのが、入院森田療法の作業なのであろうか。この点は嘆かわしく、問題が残る。 
   入院は集団生活に意義があるが、ここで入院を受け入れる場合、最初はもちろん1人から始まり、人数が増えても数人までに制約される。 
   治療者の問題。多忙な瀬古先生に丸投げすることなどできないので、入院の第1号の方が来られるなら、その時点から、私が森田療法用の嘱託医師にして頂いて、病院に赴く。  
   入院受け入れ対象者は、最初は「生活の発見会」会員様(全国)を考えたが、地理的な事情を考えると、入院希望者はない可能性もある。したがって、発見会員様に限るという条件は外す。 
   発見会協力医である必要はないが、森田療法に通じておられる医師の責任に基づく紹介状を必要とする。 
   保険診療を適用するが、個室料金は1日につき数千円を要する。瀬古先生は個室料は取らなくてもよい、とおっしゃるけれど、規定通りの室料を取ってしかるべきだと私は言っている。 
   病院の入院患者の疾患や年齢層の特徴として、病棟内には認知症の高齢者が多い。 
   本院で、入院森田療法を受け入れる場合、上記のような事情の中での入院となる。このような条件下での入院を、生きた体験ができると捉えて入院を志願されるかどうかは、人によるだろうと思う。だから、特に関心をもつ人にしかお勧めしない。 
 
   ②丹後半島内に宿泊滞在して、病院に通院する方式 
   丹後ふるさと病院の森田療法医である瀬古先生との出会いと、丹後半島という地域への滞在を組み合わせる方法があるので、これについて記しておく。かつて森田正馬が自宅での入院療法を始める前に、患者さんを近隣に下宿させて、通院診療をおこなった。これと若干似ているが、趣旨は同じではない。森田の場合は、入院の形での診療を開業する前の、仮の方式だった。 
   しかし丹後半島内での宿泊滞在という提案は、いわば丹後半島全体を入院地とみなし、ここに自主入院して、この地で自由な行動をして、いろいろな体験をすることを重視する。宿泊先や行動のお膳立てはしないので、自主的に計画して頂きたい。宿はおそらく、民宿の比較的低料金のところを探すのがよいだろう。低料金の宿が見つかれば、病院の個室料金と大きくは変わらないであろう。地域で何をするか、何ができるかは、自身で考えてほしい。観光、ボランティア、アルバイト、歴史散歩、などなど。工夫をするのが森田療法である。 
   そして、丹後半島へでの滞在中、丹後ふるさと病院の瀬古先生の外来に通院なさるのがよい。瀬古先生は森田療法の講釈などなさらない。この先生は、人間が森田療法なのだから、会って何か感じるだけでいいのだ。 
   通院なさることが、あらかじめわかっていれば、私も病院に赴き、外来で会って、必要なら日記療法もさせてもらう。 
   半島内で自由に充実した滞在期間を過ごし、その間、丹後ふるさと病院の外来診療をインテンシブに活用なさればよいと思う。 
   これが、丹後半島での「宿泊滞在・自主行動・外来通院方式の森田療法」のプランの概略であり、その体験の勧めである。 
   奇抜過ぎると言われるかもしれない。お膳立てをしないので、そっけないと思われるかもしれない。しかし、われわれはそこまでご用意できないし、用意をしてあげるのがよいとも思っていない。鋳型のような規則に従わせるのではなく、自由を重んじるのが森田療法だと思うのである。生きづらい人は、この地においでになるとよい。 
 
   以上が、丹後半島と丹後ふるさと病院での森田療法の可能性である。 
 
   ここに記したことは、改めて、ホームページに掲示し直すかもしれないが、およそのことは略記した。もし真剣なご質問があれば、ご本人自身が、このホームページの「通信フォーム」から、必須項目だけでなく、全項目にご記入の上で、送信なされば、答え得ることはお答えする。 
   (なお、過去に何らかのお問い合わせメールを頂いた際に、迷惑メールと判定したものは、こちらに届きませんので、ご了承下さい)。

丹後半島と丹後ふるさと病院における、森田療法の可能性 (上)

2017/05/07


    経ヶ岬 灯台
    丹後半島の北端にある、経ヶ岬の灯台

     
     
       丹後半島の先端に、経ヶ岬がある。ここは京都府の、そして近畿地方の最北に位置する最果ての岬である。
       経ヶ岬には灯台がある。青い日本海を前に、白い灯台の姿が日に映える。しかし夜がくれば、灯台は暗闇に沈み、航行の安全を守るために、海に光を照らし続ける。
       一昔前のことだが、灯台守夫婦の生活を描いた『喜びも悲しみも幾歳月』という映画(昭和32年、木下恵介監督作品)が公開された。灯台はすべて辺境の地にあるが、そんな各地の灯台を転勤しながら、厳しい任務を果たし続ける灯台守のドラマは、人びとの心を打った。「妻とふたりで 沖行く船の 無事を祈って 灯をかざす 灯をかざす」と歌われた主題歌もヒットした。
       年代は下って、約30年後に、ストーリーを変えたリメイク版の映画『新・喜びも悲しみも幾歳月』(昭和61年、同じ木下恵介監督作品)が製作公開された。この映画の物語は、経ヶ岬灯台を舞台にして始まった。したがってそのロケも経ヶ岬で行われた。劇中の主人公はやがて転勤により経ヶ岬灯台を去って行くのだった。そんな展開にも似て、折しもこの映画のロケが終わった2年後の昭和63年に、経ヶ岬灯台は、灯台守の駐在しない無人管理に移行した。灯台の灯は消えないが、灯台を舞台とする人間ドラマの灯は、こうして過去へと流れ去っていった。
     

       ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

     

       さて灯台にまつわるロマンから、一転して経ヶ岬の地の現実に目を転じる。近畿の最北端にあり、日本海に向かって遮るものがなく、開かれた立地にあるこの岬は、北方の海空、とくに上空を監視、警戒するに適した場所である。古くは、太平洋戦争中には、海洋に向けて旧海軍の監視所があったが、戦後の昭和23年には、既に米軍レーダー基地が開設されていた。昭和33年以来、航空自衛隊の(埼玉の入間基地の)分屯基地となって、今日に至っている。近くの山上にはレーダーを配備している。自衛隊基地は灯台から少し西の方にある。この基地の役割は、「日本海に面した空の防人である」と謳われている。自衛隊の基地と言えば、日本中至る所にあるし、丹後半島の地元もそれを受け入れてしまっていたのである。
       ところが、最近、在日米軍京丹後通信所という、米軍レーダー基地が、航空自衛隊経ヶ岬分屯基地に隣接して設けられた。2014年に既にレーダーがそこに搬入された。同年12月には早くもレーダーの運用が開始された。このレーダーは、弾道ミサイルの探知と追尾を行うものであるとされる。朝鮮半島とアメリカとの間で、とりわけ緊張が高まっている今日、米軍のレーダー基地ができたことは、丹後半島に危機感を走らせているのではないかと思う。しかし地元の人たちが実際にそれをどう受け止めているのか、定かではない面もある。過疎化したこの地に生きている人たちは、明日のことをどう考えているのだろう。


    丹後王国物語
    『丹後王国物語~丹後は日本のふるさと』(平成25年刊)
    舞鶴市、宮津市、京丹後市など、丹後の複数の自治体からなる「丹後建国1300年記念事業実行委員会」編
    で刊行された大判の出版物の表紙。

     

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       灯台守の人たちのドラマに続いて、今一度、丹後半島のロマンの話をしよう。
       歴史を遡ること古代まで。丹後半島には王国があった。邪馬台国は丹後にあり、卑弥呼は丹後にいたのかもしれないのである。『丹後王国物語』の表紙には、次のようなフレーズが出ている。「卑弥呼は丹後にいた!? 大陸との交易の中心にあった高い文化と、強大な権力。これらを伝える無数の遺跡。浦島、羽衣など伝説の宝庫。 丹後はまさに日本のふるさとである。」
     
       このような歴史ロマンは、夢想の産物ではなく、古墳の存在や出土品などの事実に基づき、歴史学者によって提唱されている考え方である。丹後王国論の学説は、古代史を専門とする歴史学者の門脇禎二氏の著書『日本海域の古代史』 第六章「丹後王国論序説」(東京大学出版会、1986年)に詳しい。他にも、古代丹波の歴史研究をしておられる伴とし子氏による出版物がいくつかある。なお丹後王国と言う場合、年代的には、丹後国より先に丹波国が存在していて、丹波国の北部が、和銅6年(713年)に分国して丹後国となったものであるので、それを踏まえておく必要がある。丹後の地にあった王国の最盛期は、分国以前の時代にあたるので、それを考慮して、厳密には丹後王国でなく丹波王国と呼ばれることもある。先の『丹後王国物語』は、「丹後建国1300年記念事業実行委員会」によって編纂されているが、内容は建国以前の古代史のロマンを、マンガを添えつつ、解説によってコンパクトに詰め込んだものである。ともあれ、一読に値する。
     
       さて、丹後半島に古代王国があったことをまず雄弁に物語るのは、とくに古墳時代の4世紀頃に作られた数多くの古墳の存在である。そのうち、網野銚子山古墳(京丹後市にある、全長198mの前方後円墳)と、神明山古墳(京丹後市にある、全長190mの前方後円墳)の二つは、とくに大きく、日本海側にある古墳のうちで、前者は最大のもの、後者は第二の大きさのものとして位置づけられている。また、蛭子山一号墳(与謝野町にある、全長145mの前方後円墳)も大きい。網野銚子山古墳、神明山古墳、蛭子山一号墳は、丹後三大古墳とされるが、それらの規模からして、丹後半島には強大な権勢を誇る王族がいたことを証明するものである。古墳は大小あり、丹後半島全域には、約6000基の古墳がある。
     
       古墳、その他の遺跡から出る出土物もまた重要で、丹後地域では、鉄とガラスの出土が極めて多いことが、大きな特徴である。鉄剣などの鉄製品や、ガラス玉、水晶玉が多く出土しているが、それだけにとどまらない。弥生時代の、最古の製鉄所遺跡(京丹後市弥栄町の遠處遺跡)や、同じく弥生時代の、最古の玉造り工房跡(京丹後市弥栄町の奈良岡遺跡)も見つかっており、鉄やガラスの製造技術に長けた集団が古くからこの地にいて、その技術で鉄やガラスの製品を造り、大陸や内陸部と活発な交易をおこなっていたものと推測される。
     
       こうして、丹後半島では、古墳の規模から推定されるような強大な権力を持つ支配者がいて、鉄やガラスのものづくりの技術を有する文化があり、地理的には日本海に面して、大陸への表玄関として恵まれた条件にあった。この地には、弥生時代の中、後期から古墳時代にかけて、4世紀頃を最盛期とする古代王国があったと考えられるのである。
     
       厳密な名称としての丹後王国は、丹波王国から713年に分かれたものとされるが、門脇氏は丹波王国自体が6世紀に既にヤマト王権の支配下に入っていたと推測している。一方、丹波王国は強大で、その勢力は山城、近江、難波、大和にまで及んでいたとする説もある(『海部氏勘注系図』による伴とし子氏の説)。ちなみに丹波は、古来「たには」と読まれており、難波は「なには」であり、名称の上からは類縁を感じる。もちろん根拠を伴っていないが。いずれにしても、丹後の国と畿内との間になにがしかの交流がなかったはずはない。
     
       伊勢神宮の外宮には、豊受大神(とようけのおおかみ)が祀られている。この神は、もともと丹後の祖神であり、五穀の種を授ける食を司る神であった。丹後地方には、豊受大神を祀る神社が多くあって、信仰を集めているのである。この豊受大神は、雄略天皇の時代に伊勢に遷されたのであるという(『丹後王国物語』伴とし子氏執筆:第1部による)。丹後は「元伊勢」と呼ばれているが、その名称は、このような歴史的事情に基づいている。
     
       丹後に邪馬台国があり、卑弥呼が丹後にいたかどうかは、わからない。しかし、その可能性はないわけではない。邪馬台国の地理的条件として、海路で大陸と交流できる利便性が不可欠であったろう。その点では、邪馬台国畿内説は不自然に見える。畿内説が採られる場合、日本海に面した丹後王国(丹波王国)が、海陸を経由して畿内に通じる機能を果たす必要があったことを考慮に入れなければならないであろう。邪馬台国丹後説と畿内説は、関連しあう歴史ロマンである。
     

       ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

     
       丹後は日本のふるさとである。
       こんなふるさとの地に、丹後ふるさと病院がある。丹後ふるさと病院の院長の瀬古先生は、忘れられつつある日本人の原点を、森田療法と重ね合わせながら、日々の診療を進めておられるのである。本物の森田療法がそこにある。次回の稿でそれを記して、丹後半島と丹後ふるさと病院に皆様をお誘いしたい。

                                                          (以下次回)

「森田療法における『自然』と『体験』について」

2017/04/28

   去る4月23日、第6回関西森田療法研究会でのシンポジウムにおいて、総括的立場から発言した際のスライドを以下に提示し、説明を再現して書き添えておきます。(「お知らせ」欄参照)
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 




   シンポジウムにおけるそれぞれの御発表への感想もありながら、むしろ全体に通底する基本的な問題を提起することで、総括に代えさせて頂くこととする。
 
 
 


   このシンポジウムでは「体験」について論じておられる。そこでコメンテーターの自分も、体験を紹介し、指名して頂いた立場について述べておくのがよいかと思う。
   かつて反精神医学の嵐が吹き荒れ、大学における精神科の医局講座制は解体へと向かっていった。そのうねりに翻弄された世代のひとりであるが、研修には恵まれず、また研究を罪悪視する風潮の中で、大学外の精神病院のいくつかに勤務することを余儀なくされ、旧態依然とした精神医療に浸かる年月を過ごした。いわゆる社会的入院の患者さんが多かったし、また慢性期の病勢が進み、生涯を病院内で過ごす運命にある人たちが多くいた。反精神医学の運動が、この人たちに対してどれだけの福音になるのか。活動する精神科医師の中には、挫折して自殺した人もいた。私は積極的な活動をできないノンポリだったが、治療効果を上げることが困難な精神障害の人たちを前にして、日々の臨床に虚しさと無力感を感じて、疲弊が募っていった。そんな悩みを、ある先輩に相談したことがある。「それを言う時は辞める時や」と先輩は答えた。燃え尽きた自分は、先輩に言われたごとく、精神医療の第一線から退いた。そして心身医学の領域に身を転じた。
   自分は入局当初から、精神だけでなく、心身を一体のものとして捉える心身医学への関心を持ち続けていたという事情もあった。しかし今にして思えば、自分が燃え尽きたあの精神医療の第一線にこそ、森田療法があった。来る日来る日を病棟の中で過ごしている精神障害の人たちに、それぞれの人生がある。治療者は、その人たちと「同行」するという貴重な役割を負う。そこに本物の森田療法があったのだ。最近になって、つくづくそんなことに気づき、忸怩たる思いでいる。
    とにかく、私は新たに心身医学の領域に入っていった。と言っても、心療内科というようなものは九州大学にしかなかった時代のことである。全人医療的な診療に従事できる医療機関として、京都市内の逓信病院の健康管理科に勤務した。NTTになる以前の電電公社の病院である。全人医療と言えば聞こえはよいが、絶えずどさまわりのように、あちこちの電話局を巡回して、健康診断や、疾病を有しながら職場で勤務している人たちのケアなどを行った。医師の仲間たちからは、このような仕事は低く見られて、肩身が狭かった。心身医学の勉強のために九州大学に通ったこともある。しかし、九大の心療内科の池見教授は、大学の中で全人医療を唱え、一方で心療内科をさらに専門的に細分化しておられたので、驚いた。寂しい思いをしながら、自分はそれなりに、逓信病院で電電公社の職員として、7年間、全人医療に従事した。
   そして、逓信病院に勤務しながら、近くにあった三聖病院に、昭和49年から、非常勤で勤務させてもらうことになった。その後、フランスに心身医学や精神医学を学んだが、それを機に、わが国の森田療法を再認識することになった。
   帰国後、日本IBMの野洲工場の嘱託精神科医師として呼ばれて、16年間これを続けることになった。バブルの頂点から、翳りが見えだし、リストラが始まり、社員の労働条件は厳しくなるばかりだった。精神疾患の人たちの休養や復帰、勤務の仕方などについて、組織や上司や本人との間で調整をはかる役割を負った。外部の精神科主治医から出される診断書を受け取る立場にいて、外部の医者が書く無責任な診断書にはうんざりした。会社内で患者さんが置かれている現実を直視して判断せねばならず、それこそ、事実唯真に基づく健康管理に従事した。電電公社と日本IBMでの経験が、自分をリアリストにしてくれたと思う。それが自分なりの森田療法につながっている。
   なお数年前から、関西森田の会の方々と交流させて頂き、そんなご縁でこのシンポジウムに参加させて頂く巡り合わせになった。

 
 
 




   森田療法がどのようにして成立したものであったかを、まず簡単に振り返っておく。
   呉 秀三の著書で、あまり注目されていないもので、大正5年に刊行された『精神療法』がある。コピーを入手して持っているが、奥付が見つからず、発行所がはっきりしないので、私家本かもしれない。同じ時期に、呉は精神障害者の私宅監置の実況について調査して、発表しており、この重要な業績の陰に隠れて、『精神療法』はあまり注目されなかったのであろう。この著書で、呉は東西の様々な精神療法を網羅的に紹介しており、安静療法、隔離療法、そして安静療法については、褥臥から作業に移行させることに触れている。
   森田は、主にこの呉の『精神療法』の影響によって、自身の入院療法を構造化した可能性が高いと思われる。
 
 
 



   そこで、森田の療法の特色を振り返ってみたい。森田自身は、「余の特殊療法」と言っていただけで、療法の名称をつけていなかった。便宜的に「森田の療法」と自称したことは、あるにはある。「の」を取り除いて「森田療法」になったと言えなくもない。ともあれ、後世の人たちによって「森田療法」と呼ばれるようになった。これは実に厄介な名称である。まずは、森田の直弟子たちや後進たちの森田に対する思い入れ、つまり転移が丸出しになっているがごとき名称である。またこの療法に関心を抱く後世の人たちは、「森田療法」という名称にまつわりついているエディプス・コンプレックスか阿闍世・コンプレックスのような類いの呪縛を、多かれ少なかれ感じ取って、戸惑いをおぼえざるをえないのである。このような転移や呪縛を取り払って、この療法の基本を考え直す必要がある。
   森田は、余の特殊療法と言っただけでなく、「自然療法」であり「体験療法」であると言った。「自然」と「体験」をこの療法の中心に据えていたのである。
   「自然」は「しぜん」とも「じねん」とも読めるが、「自然」について、少し整理しておきたい。
   森田は、人間社会には、農村的な生活者である恒心階級と、都会的な生活者である虚栄階級とがあり、前者の方が人間らしくて健全であるとみなした。しかし、療法において、必ずしも農村や野外の大自然の中に出ていくことが不可欠だと考えていたのではなかった。森田は東京のど真ん中で開業し、患者さんを連れて浅草へ映画を観に行ったり、朝市で野菜の屑を拾ったり、乳母車を押させてマーケットに買い物に出かけたりした。
   自然というとき、まずそれは森羅万象的な宇宙的現象を指す。マクロコスモスからミクロコスモスまで、すべてがここに含まれており、人間の心身も生物学的、脳科学的に見る限り、このような自然の一部を構成している。マクロからミクロまで、すべてが自然科学の対象としてある。一方主体の生き方を問題にするとき、西洋では、神の被造物として、人間対自然の対立の歴史があった。しかし東洋的日本的な自然観には、客体としての自然と主体としての人間の心を一体として融合的に捉える優れた叡智がある。とりわけ日本文化には、自分の情感を自然の風物に投影するほどの精神的風土がある。そこにある湿っぽさは日本的に過ぎるけれども、禅や仏教の教えも、森田療法における教えも、基本的には、そのような自然観に通じる。このような自然は、「しぜん」と言うより、「じねん」と言われるものに当たる。外界も自己も、すべてが一体になって「あるがまま」にあるのである。
 
 
 



   日本的自然観では、人間は自然(しぜん)の中に包摂されており、主体としての人間も、自然(しぜん)の中に生かされて、生きている。自然(しぜん)と人間との対立はなく、すべては「おのずから然る」のである。
   大徳寺の開山の大燈国師は、その歌の中で、自然に落ちている雨垂れをそのまま感じている状態を「おのずから」と言った。鈴木大拙はこれを「あるがまま」と解し、“as-it-is”と訳して、アメリカに紹介した。訳語の適否はあろうが、西洋的自然観との相違が表現されている。
 
 
 



   西洋的世界観においては、外界の自然と、能動的にみずから生きる人間が二極化しているが、東洋的ないし日本的には、自然(じねん)の世界の中に、人間は能動と受動の区別を超えて、生きている。その、おのずからなる姿が、「あるがまま」である。
 
 
 



   森田の指導を受けて、在野の教育者となった和田重正先生は、神奈川県の南足柄郡の山中に、寄宿教育塾「一心寮」を設立して、学校ではできない生活体験を生かす教育を推進された。大自然の中に包まれた寮での、さらに野外での貴重な体験があった。とりわけ「かくあるべし」という道徳教育がまかり通った時代には、このような環境での生活の体験は、子どもの欲望を自由に伸ばすために、極めて有用であった。
   これは単に都会を出て、転地をして大自然に触れることが不可欠であるとするような思想に基づくものではなかった。
 
 
 



   神戸女学院大学教授(現名誉教授)の松田高志先生は、和田重正先生の教育を継承して、奈良県御所市で「関西くだかけ農園」の活動を昨年まで継続された。農業の生産に実地に従事する体験を重視して行われたのであり、いたずらに野外に出ることを至上とする思想に拠って行われたものではない。

 
 
 




   森田は、自然と体験を、不可分のつながるものと考えていた。絶対的臥褥を経て作業にいそしむ中で、心身の自発的活動が促進されるのが、「自然療法」であり、「体験療法」でもあった。
   野外へ出る体験が無上であるのではない。必要次第で外にも出て行く。
   日常生活のすべてが体験である。しかし体験は個別のものである上に、その質は常に同じというわけではない。見れども見えず、であったものに、あるときハッと気づくことがある。
   とにかく、物事は体験しないと始まらないことが多い。そして体験は、いつも今ここにある。今に生きる、あるいは今を生きることが大事である。
 
 
 



   「今ここで自分の足もとを見よ」という「照顧脚下」の禅語が、三聖病院の玄関の下駄箱のそばに掲げられていた。スリッパを揃えて置きなさい、という意味にしか受け取れなかったようだ。三聖病院のスリッパ伝説のひとつである。
 
 
 



   その三聖病院には、しばしば外部から体験入院をしに来る人たちがいた。国内からは、心理系の人たちが主だったが、そもそも院長をカリスマ視する先入観を有していて、体験入院の動機に偏りのある人が多かった。外国人が体験入院を希望することもあったが、禅のイメージを先に膨らませてやってくる。そのような体験入院は、いわば邪道で、体験入院でなく、必要に迫られての入院体験の方が、ずっと本物なのであった。つまり、やむにやまれず入院なさる患者さんたちこそ、本物の体験をなさっていたのだが、その人たちの体験とて、個人ごとにさまざまであった。体験とはそういうものなのである。
   そして「体験」を経ることで「経験」として身につき、さらに「経験智」と言うべき智恵のようなものが深まることになる。
   仏教が教えるごとく、人生には四苦八苦がある。苦を生き抜くことが森田療法の智恵であり実践である。仏教的に言えば、森田療法は、「苦集滅道」という「四諦」の療法である。
   体験が重要だからと言っても、一回きりの人生における苦を、練習のようにシミュレーションすることはできない。究極の体験は、個別のものでしかない。擬似的な体験訓練としては、集団で生活を共にして、切磋琢磨し合い、共感や共苦を体験することはできるだろう。たとえば禅寺での修行生活はそのようなものかもしれない。樽にたくさん芋を入れて洗えば、芋は角がとれて丸くなっていく。集団生活の中で、社会性が涵養されるようなものである。
   まあ、あれこれやってみればよい。一見無駄な体験のようなことも、案外役に立つのかもしれない。「無用の用」である。
   結局、体験とは、主客が分かち難い一体になる事態のことである。ちなみに森田療法が認知行動療法と異なるひとつの局面は、体験の試行錯誤を繰り返す中で、その効率性をその都度主体に認知的にフィードバックするかどうかの点にあり、森田療法ではそれを急がず、経験がおのずから深化するにまかせるところに真骨頂があるのではなかろうか。その方が本当に智恵として身につくのである。

 
 
 




   蘇東坡の有名な詩で、森田は色紙にも揮毫しているし、日頃からこれを教えていたようだった。
   幻想の域にとどまっていたものがあったが、それを実際に体験してみたら、格別にどうということはなかった。同じ自分だが、幻想が経験に変わった。悟りの前後もそんなものであると言われる。
 
 
 



   森田療法はまた、家庭的療法でもある。それは森田自身がそのように自負したところである。しかし客観的に見ると、自然療法であり、体験療法でもある療法を、自宅を入院の場として実施したから、家庭的療法の構造になったものと思われる。瓢箪から駒が出たようだけれど、森田療法ならではの妙味がここにある。
   厳父あるいは師としての治療者がいるパターナリズム的関係を軸として、慈母的な人が介在して、治療構造を支えている。入院している者同士の人間関係もある。これは、わが国の古典芸能の分野でみられた徒弟制度的な内弟子制に似ていた。そのような家族的構造の中で、人間的な育成が行われたのであった。森田が自分の療法は人間の再教育であると言ったゆえんである。

 
 
 




   さて、療法の根本のところに今一度立ち戻ってみる。
   この療法は、本来人間には、心身の活動が自発的に発揮される働きがあることを、基本に据えている。
   森田は、恩師の東大病理学の三浦守治教授が、およそ病の療法は自然良能を幇助するところにあると語った言葉を重んじ、これを継承したのであった。幇助するとは、余計なことをして邪魔をせず、見守り、励まし、同行することなのであろう。
   自然良能を生かす治療観は、優れて東洋的日本的な智恵に拠っている。
 
 
 



   森田療法は、やはり禅や仏教や日本的東洋的思想との関係が深い。
   森田は、自身の療法と禅との関係を否定したが、それは一部の禅者の思想や人格や、また制度的な弊に対する反発であったようだし、かつ医学者としては、自説に科学の装いを凝らす必要があったからであろうと推測される。
   「あるがまま」という仏教的な基本思想に加えて、「煩悩即菩提」(大乗仏教)を引用しつつ、それを自分なりに言い換えて「煩悶即解脱」という熱心さである。また、禅の悟りはわからないと言いながらも、自身から見た「悟り」と、「治癒」とを同一視している。火花を散らして働いているというような動的な状態がそうなのである。
   禅では、「気に入らぬ風もあろうに柳かな」という博多の僧、仙厓義梵の句にあるように、しなって折れずに生きることを教えている。
   近年、マインドフルネスの研究者として知られるカバット・ジンは、“You have to be strong enough to be weak”と言っている。
   最近ようやく西洋で resilienceレジリエンスという力が注目されるようになった。これらは東洋で古くから重視されていた自然良能のことにほかならない。
 
 
 



   森田療法の本質は、およそここまでに言及したが、繰り返して見ておく。
   マクロコスモスからミクロコスモスまで、森羅万象としての自然は、人体をも含んで、自然科学の対象となる。しかし、主体としての人間は、自然(しぜん)の中に包摂されているあり方を、自然(じねん)と受けとめ、あるがままに生きるだけなのである。森田は、禅語を頻繁に引用したが、森田自身の言葉の方が、療法の本質を表している。曰わく、「自然に服従し、境遇に柔順なれ」、「事実唯真」である。
   また森田療法は、神経質や神経症の療法であるより以上に、人生の四苦八苦という、深い存在の苦悩への療法である。諦観を必要とするが、あざなえる縄のごとき苦楽のある人生を、自然良能を発揮して生きるのみである。
   森田療法は、心に対する自然科学ではなくて、「心の自然」に対する科学なのである。
 
 
 



   「苦痛を苦痛し 喜悦を喜悦す 之を苦楽超然といふ」。森田正馬筆の墨跡である。苦と楽は、剥がし難い両面であり、それぞれになりきりながら生きるのが、人生であると教えている。

 
 
 




   以前、ある皮膚科の老ベテラン医師から聞いた寓話のような話を思い出す。
   仏教で言うなら、「応病与薬」である。「人を見て法を説く」、あるいは「対機説法」という教えにも通じる。皮膚科の上医の場合が、まさに「応病与薬」的であるが、中医においては、何もしないでそのままにする。それも、経験によって培われた叡智と実力がなければできることではない。自然良能を生かそうとしてのことである。
 
 
 



   上に掲げた画面は、過去のある講演で出したものだが、敢えてそれをここに再掲した。自分の信条となっている森田療法観だからである。
   説明すればくどくなるので、お読み願うとして、森田療法は万人のためのものであることを、強調しておきたいと思う。
 
 
 



   これも同じく、過去の講演で出した画面の再掲であり、これまた自分の持論である。それは森田自身が、自説を鉄則とするな、と言ったことに基づく。臨済義玄の「殺仏殺祖」を思い起こす。われわれは、森田の療法の原点にあった本質を踏まえつつ、温故知新をはかればよい。
 
 
 



   森田療法は、日常の中にある、素朴でいかに大切なものであるかを示すために、明治生まれのあるおばあさんが孫に教えたという三つの教えを引き合いに出した。孫というのは私と同世代の知人であり、その人から聞いた話である。彼は体育の教授で、研究者としては、およそスマートではなく、がさつな人だったが、人間味があった。森田療法のモも知らない祖母に教えられて育った体育教師は、彼もまた森田療法のモも知らず、がさつで口が悪い酒飲みであったが、森田療法に通じるような人だったのである。
 
 
 



   森田療法の治療者の条件ということが、問題にされることがある。そして、まず古き良き森田を知る人たちを中心に、治療者は元当事者で治療を受けた経験者こそが、療法に従事することが望ましいという意見が、一方にある。また他方では、そのように元患者であったことが条件になるのではなく、むしろその逆であり、徒弟制度的で前時代的な場や、自閉的で排他的な場での入院経験は有害無益であって、そのような前時代的な場での入院経験も、研修体験も無用である、そして、外来森田療法が中心となった新時代向けの研修制度を整備することで、治療者を養成することが現実的であるとする方向性がある。
   入院森田療法が本来のものであるのだが、治療者の養成の難しさや、保険制度によってこの診療を実施することの不可能性という深刻な問題に直面している。外来森田療法は、形式的には可能であるが、その限定的な枠の中で、森田療法を形骸化することなく、本質を今日的にどのように生かしうるのか、という試練にさらされている。
   以上のいずれの方向を選ぼうとも、森田療法は今受難の時代にある。
   ただ、ここで一言いたいことがあって、入院森田か外来森田かという、形式的な選択を問題にすることもさることながら、大切なことは治療者の「照顧脚下」である。森田療法は万人の生き方に関わるものであり、誰しも、一生が精進の連続である。生涯完成することはない未完成のままで、必死で生き続ける。森田療法の治療関係は、治療者が患者を薫陶するものであるから、患者より一日の長のあるものとして、生きていなければ治療者たりえないであろう。
   治療者は、患者を小手先の技法で治すのではない。人間力で患者に劣ったら、治療になりえない。治療者が人間として成長することが必要である。
   難しいことではあるが、森田療法は治療者の自己教育に始まるのである。
 
 
 



   『荘子』に「渾沌」 という含蓄のある話がある。目、耳、鼻、口の七つの穴がない渾沌という名の帝がいた。渾沌を知る二人の帝がいて、彼らは何でも性急に整えないと気が済まない人たちで、彼らは渾沌に七つの穴を開けてやる方がよいと考え、一日にひとつずつ、渾沌に穴を開けていった。そしたら渾沌は七日目に死んでしまったのである。

 
 
 




   現代の森田療法は、渾沌のような状況にあるのではなかろうか。
   将来を望み見て、意欲的に森田療法を研鑽中の方々は、進もうとするあまり、道に迷うこともあるだろう。でも物事はそんなにすっきりするとは限らない。
   渾沌のままで、そのままたゆまずに模索を続けてほしいと願うものである。