森田正馬は、鎌倉円覚寺に参禅したか? (1)―釈宗演と釈宗活―

2016/12/08

 釈宗演、宗活(白黒)

         釈宗演(左)              釈宗活(右)
 

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 森田正馬は、明治43年に東京谷中の両忘会に入って座禅に通い、釈宗活のもとに参禅した。このことは、森田正馬全集第七巻に出ている「我が家の記録」や「年譜」、さらに野村章恒氏の『森田正馬評伝』によっても明らかである。たとえば『森田正馬評伝』の中の「人間像の彫塑」の章に摘記されている森田の日記の明治四十三年のくだりに、次のように記されている。
 「三月(注:二月の誤りか)五日(土)藤根氏(常吉、富士川遊氏助手)に誘われ谷中両志会(注:両忘会が正しい)に入会、釈宗活氏の提唱を聞き摂心中毎朝参禅す。考案(注:公案が正しい)は「父母未生以前の本来の面目如何」なり」。
 
 ところが、森田正馬は鎌倉円覚寺の釈宗演のもとに参禅した、という説もあるのである。
 鈴木知準は『現代の森田療法―理論と実際―』(白揚社、昭和52年5月刊)の中で分担執筆した「森田療法と禅」 という文中で、鎌倉円覚寺の釈宗演に参禅したと、二度も繰り返して記している。その二カ所を引用しておく。
・「明治に入って臨済禅の系統に廃仏毀釈の新政治の嵐の中を生き抜いた禅僧に鎌倉円覚寺の今北洪川、その弟子の釈宗演がある。ここに夏目漱石、鈴木大拙、西田幾多郎、若い日の森田も参禅している。これは明治20年代末から30年代のことであった。」
・「森田は「日々是好日」なる論文(注)の中で次のように述べている。「私は禅に関しては門外漢である。今からおよそ三十年近く前(明治三十六~三十七年)円覚寺の釈宗演のもとで禅の提唱を聴き参禅もした。公案は『父母未生前本来面目』で四度参禅していろいろ言ったが通過しない。禅の修行はそれきりであった。」」。
 さらに鈴木知準氏は、森田が鎌倉円覚寺の釈宗演のもとへ参禅したことについて二度も言及した、この「森田療法と禅」という文章と同一の稿を、自著『森田療法を語る』(誠信書房、昭和52年6月刊)にそのまま収めている。著者鈴木氏は、記した内容について確信を持っておられたように思われる。ところで、先に引いた鈴木氏の第二の文章において、氏が引用文献として注記しておられるのは、次のものである。
 
森田正馬 : 日々是好日. 神経質(旧) 六巻 146,1935.
 
 この文献に相当するものは、森田正馬全集 第七巻に「日々是好日」という題でそのまま収載されている。そこでこれを読むと、奇妙なことに、鈴木氏が引用した部分の中にあった筈の「円覚寺の釈宗演のもとで」という肝心の言葉が抜けていて、見当たらないのである。これはどういうことであろうか。これを強いて推測すると、二通りのことが考えられる。
①元の森田の文献の上に、鈴木氏が「円覚寺の釈宗演のもとで」という言葉を付け加えたものであり、元々なかったか―。
②「円覚寺の釈宗演のもとで」という言葉は、森田の元の文章に出てはいるが、その信憑性を疑った第七巻の編者(熊野明夫氏)によって、削除されたか―。
 そのいずれかであると考えられる。
 なお、森田によるこの文献は、鈴木氏の言うような「論文」というほどのものではなく、森田が昭和9年11月に三聖病院においておこなった講話の記録であり、これを書き起こしたものである。
 
 さて、そこで「神経質(旧)」誌の森田のその文献を参照する必要があるのだが、手元になく、急いで取り寄せている。数日後に入手予定なので、入手し次第、追ってこの稿の続きを記す予定である。
 
 ところで、鈴木氏が指摘しておられたこと―、森田が鎌倉円覚寺の釈宗演のもとに参禅した、という話は、以前から伝説化して巷間で信じられてきたのは事実である。三聖病院院長の宇佐晋一氏は、父の宇佐玄雄が僧医として進む道について助言を仰ぐために、釈宗演に直接会いに行ったというエピソードを語る際に、森田正馬が参禅した釈宗演その人である、と説明しておられた。私自身、そのような「伝説」に接しながら、一方で森田の日記などからは、谷中の両忘会に参加して釈宗活から公案を与えられたという記録があるので、森田の参禅については、ずっと不可解さを引きずってきた。谷中両忘会への参禅は、まず疑い難い。しかし、二者択一とせずに、森田は谷中の両忘会に参ずる前に、鎌倉円覚寺に参禅したことは、なかったのか。そのような疑問は晴れないでいる。
                                       (次回に続く)