森田正馬は、鎌倉円覚寺に参禅したか?(補遺) ― 森田療法と居士禅(在家禅)についての再考 ―

2017/02/17

大仏

 
        釈宗活の絵筆になる、釈迦如来像。釈宗活著『性海一滴』(明治34年刊) の口絵より。
 

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 森田正馬が参禅したのは、両忘庵という釈宗活老師の居士禅(在家禅)の道場であった。
 もし森田が鎌倉円覚寺の釈宗演老師のもとに参禅していたとしても、自身が在家の立場に身を置いている以上、おそらく同じような体験をしていたと思われる。夏目漱石の参禅体験からもわかるように、外部の在家者が参禅を認められても、その参加の仕方は、雲水たちの仲間入りをして彼らと起居を共にし、作務に従事するという生活体験が待っているものではなかったのである。漱石は、円覚寺の塔頭に宿泊して、初日から老師より公案を与えられ、部屋で独座して、公案を見解し、老師との相見の時間に呼ばれたら、雲水の列に加わり、老師の前に参ずるというのが、参禅の日々の日課であった。
 このように出家を目的としないが、禅の参究を志す在家者に対する参禅の受け入れを本格化するために、釈宗演は弟子の釈宗活に命じて、東京で両忘会を再興して、在家者の参禅の指導に当たらせたのであった。
 この両忘会においても、主な修行内容は座禅と公案で、禅寺において雲水たちが作務に従事しながら集団で生活を送るような体験が重視されているものではなかったようである。
 

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 中国において、唐代には、僧は集団で農耕に勤しんで生活した。
 「一日作さざれば一日食らわず」と百丈懐海も言ったように、働くことが生活であり、その日常が即ち禅であった。しかし宋朝禅になると、公案が重んじられるようになる。日本の鎌倉仏教では、作務を重んじる唐代の禅と公案を重視する宋朝禅の両者が折衷的に取り入れられた。
 森田療法において重要なのは、抽象的な思索に走らず、生活の中で必要な作業をすることである。森田療法は、禅なら唐代の禅に近い。しかし、いわゆる居士禅と言えども、臨済禅の場合は公案をおろそかにするものではない。居士禅について、筆者である私の理解はおそらく不十分だろうから、不適切な指摘になるかもしれないけれども、敢えて言えば、森田正馬にとって、居士禅の修行のプログラムにおいて、作務よりも公案が重視されていることには、おそらく違和感があったのではないだろうか。
 このように、居士禅の道場における修行と森田療法の間に、一見ずれが認められたことは、問題であったと思う。逆に言えば、出家を目標とせず、市民の立場で禅への志向性を共有する両者の間で、相補性が模索されるべきだったのだと思う。

 

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 今日、入院森田療法を実施する診療の場が、極めて少なくなった。このような現状に鑑み、入院原法を復活させたいと思うことしきりである。だがそこには、いくつかの難関がある。難関のひとつに、作業(作務)の設定の仕方の問題がある。入院森田療法において作業を取り入れることは不可欠である。それも作業のための作業では不自然で、実際に生活で必要なことに従事してこそ本当の作業である。とってつけたようなプログラムがお膳立てされても意味がない。自分の手が必要とされる場で手を出してこそ、自分が生かされる。だからといって、治療費を支払って入院する患者さんが、病院の労務に使役されていると行政的に判断されるならば、問題が生じる。
 先述のように、居士禅の修行と森田療法の間には、作務もしくは作業の扱いに差異があるように見えた。それは作務の重要性についての問題であった。
 一方、森田療法が含む問題として、入院の場で用意されている、ややもすると不自然な作業と、現実の社会生活の中での厳しくて、かつ自然な作業との間にも、不協和がある。それはリハーサルや準備運動と本番の差のようである。つまり作業の質的な差異の問題になるのである。入院森田療法における作業のあり方を改めて考えさせられる。

 

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 こうして、森田療法の視点からすると、まずは居士禅(在家禅)における作務の位置づけへの問いが生じ、さらには、入院森田療法それ自体における、作業の本質についての見直しの課題に直面する。
 一体、居士禅の道場において、座禅や公案に取り組ませる参禅は、そこに目指すべき到達点を見ているのであろうか?あるいはそうではなくて、参禅を通過点として、各人が日々の実際生活に歩を進めることを大事としているのであろうか。居士禅たるもの、もちろん後者であることは言うまでもなかろう。「歩歩是道場」。日常の行動が即ち修行と捉え得るならば、居士禅(在家禅)と、森田療法には通じ合う部分があるはずである。この点については、双方の間であまり検討が交わされてこなかったようだ。遅蒔きながら、今後に残されている課題である。
 森田正馬が直接まみえた禅の老師は、釈宗活その人なのであった。居士禅と森田療法の融合の可能性という視点からすれば、生涯にわたって居士禅の指導に専念した釈宗活老師と、森田正馬の間に、たとえ公案は透過せずとも、人間同士として交流が生じなかったのは、惜しまれることである。釈宗活という人物については、それを窺い知る資料は乏しいが、禅思想については、残された著作よりそれを知ることができる。その紹介については稿を改めたいと思う。

 

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 かつて山岡鉄舟らによって創設され、釈宗活が主宰した両忘会は、両忘協会、両忘禅協会と組織を変え、戦後は釈宗活から離れて、「人間禅」という宗教法人の教団となって、全国的に活動がおこなわれている。
 一方、市民の人たちの間には、静かな禅ブームが続いていて、半ば観光と重なるきらいもあるが、京都などの古都の名刹で座禅の体験を求める人たちが後を絶たない。いずれにしても、禅に関心を持ち、禅に拠りどころを求めて生きようとする人たちは多い。諸事情により森田療法そのものが行き詰まって、サバイバルを模索してさまよっている今日、禅を媒介として、悩める人たちと共に森田療法も蘇生しうる時が来ているのではなかろうか。
 

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[改めて謝辞]
 両忘会、両忘庵の歴史について、擇木道場の責任ある地位の御方より、貴重なお教えを頂きました。改めて感謝申し上げます。
 その後上京する機会があり、谷中に向かいましたが、既に宵闇せまる頃でした。擇木道場には、改めてご挨拶に伺うことができたらと思っています。
 

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        宵闇せまれば悩みは涯なし。
        谷中の墓地と天王寺の間に、擇木道場への道筋を示す「禅」の掲示があった。