自由を求めて生きた画家、高良真木(下) ―母娘葛藤と森田療法―

2019/05/18


真鶴半島(岬の先端の三ツ石)


 

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<本稿について>
  本稿は都合により、掲載が遅れましたが、連載として書き始めたシリーズの最後にあたります。シリーズの(上)は、2018年12月25日に、(中)は2月7日に掲載しました。

 
 

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1.偉大なる母、高良とみ女史
 
  戦後の昭和22年に、日本最初の女性参議院議員となって、反戦平和、女性解放の運動を進めていた高良とみ女史(1896-1993)は、昭和27年、国交のなかったソ連に渡航してモスクワ経済会議に出席し、さらに中国に入って太平洋地区平和会議に出席した。鉄のカーテンをこじ開け、竹のカーテンをくぐって、ソ連と中国への道を開いたことは、当時の日本社会にとって画期的な行動であり、その快挙はとりわけ日本の女性たちに勇気を与えたのだった。
  「私が尊敬する人は、ガンジーとタゴール、親友はネールと李徳全女史」と言ってはばからなかったと伝えられる。高良武久教授夫人で、娘たちの母であったこのようなとみ女史は、日本女性の中でも、希有のスケールの持ち主であった。
 

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  とみ女史(旧姓和田)の実母、和田邦子は敬虔なキリスト教徒で、婦人運動や社会運動に参加していた人であった。とみ女史はこの母の生き方を受け継いでいた。日本女子大在学中には、アジアで初めてノーベル賞を受賞したインドの詩人、タゴールが大学へ講演に来た。その際直接タゴールに接して深い敬愛の念を抱き、以後交流を続けることになった。大学卒業後、アメリカに留学して心理学を専攻し、学位を取得した。その間、ジェーン・アダムズに会い、セツルメントに代表されるその社会事業、平和運動、婦人運動に大きな影響を受けて、それがとみ女史の思想の根幹をなすことになる。母、和田邦子のキリスト教思想の影響に加えて、タゴールから薫陶を受けていたとみ女史は、アメリカに留学しても、資本主義社会の消費文明や拝金主義に染まることはなかった。
 
  帰国後、大正12年に九州帝大医学部精神科助手となり、そこで、高良武久医師と出会った。
  昭和2年、母校日本女子大学教授として迎えられ、日本社会における婦人問題の先覚者として、指導的な役割を担うことになった。また国内だけでなく、インドや中国を視野に入れ、アジアの平和運動にも関心を向けていく。
  昭和4年、高良武久先生は上京して根岸病院医長となり、この年にふたりは結婚式を挙げた。昭和5年には、長女真木が誕生している。
  こうして、とみ女史は妻となり母となったが、同時に日本の婦人たちの啓蒙のために指導的な活動に従事し続けた。女史は、女性と言えども、個人の解放のためや家庭の幸せのためだけに生きるものではないと考えていた。社会の半分を占める婦人が、社会のことや国家のことを考えぬことは罪悪であり、婦人が権利を獲得するのも、婦人が社会に貢献するためであると、女史は説いた。婦人解放を目的とする「青鞜」の同人らに共感を示さず、社会の人びとと分かち合う幸福を重視していた。
 
  しかし落とし穴が待っていた。日中戦争が始まり、大政翼賛会ができたとき、婦人議員としてそこに参加し、婦人の国家的任務への覚醒を力説した。ここにおいても、社会に貢献するという女史が理想とした婦人像は変わっていないことは注目に値する。しかし、翼賛会に参加したことは、結果として侵略戦争に加担した立場となった。女史は、後にこのことを顧みて、私の生涯の最大の汚点だったと言うのだが、その償いの思いを込めて、戦後には、日中友好など、アジアを中心とする平和運動に後半生を賭けたのであろうと思われる。
 


『非戦を生きる―高良とみ自伝』(1983)、表紙のカバーは高良真木画。


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  家族から見たとみ女史のことについては、『非戦を生きる―高良とみ自伝』(1983)の巻末に収められている、次女の高良留美子様による「『妻として母として』―内側から見た高良とみ」という一文、および『誕生を待つ生命―母と娘の愛と相克』(高良美世子 著、高良留美子 編著、2016)の高良留美子様による「解説」の文などが参考になる。以下の記述は、多くをそれらに負う。
  自伝『非戦を生きる』のプロローグで、女史は昭和27年に鉄のカーテンをくぐってモスクワに入ることができた体験に触れて、述べている。「私の中にある婦人の直感とも言うべきものでしょう。どうせ人間の住む世界ゆえ、そこには婦人が、妻として母として生きている、その世界ではどんな人間でも同じ心持ちだという信念があったのです。」
  自伝の文中にこのように「妻として母として」という言葉が何度か出てくるので、次女の高良留美子様が、それを姉の真木様に話したところ、「姉は最近の教科書問題になぞらえて、『それは歴史の改ざんだ』と叫んだ」そうである。娘たちから見れば、「妻として母として」という言葉は、とみ女史にはおよそ似つかわしくないものだったのである。母は子どもの教育には熱心で、羽仁もと子の思想に共鳴して子どもたちを自由学園に入れた。しかし子どもたちは母の温もりを感じたことがなかった。
  家庭の主婦である以上に、社会のために目覚めよと主張したとみ女史は、指導者であるが故に家庭人に甘んじることができなかったのである。「母として」の欠如は、子どもたちを心の孤児にした。
 
  当時の家庭内のとみ女史の姿は、歳月を経て戯画的に回想されている。「家の台所の流しの上の戸棚には、母が買い込んできたさまざまな機械や器具類が、がらくたとなってしまい込まれていた。(…)母が整理下手だったせいもあって、わたしたちは彼女が外でやっているらしい『生活の合理化』については、ほとんど信用していなかった。いやわたしたちがそれを信用しなかったのは、天井裏のがらくたのせいなどではなくて、彼女の存在そのものが、わたしたちにとって不合理そのものだったせいなのかもしれない。つまり、うっかりしているとわたしたち自身が『合理化』されてしまいそうな危険があったのである。母はわたしにとって初めての、強大な、いささか強大すぎる他者であり、愛憎の対象であり、たたかいの相手であった。」(高良留美子様の文より)。
 
  家族から見ると、女史が大きな行動力を発揮する前後には、沈黙と沈潜に浸った「うつ」の期間があったと言われる。それは戦中に大政翼賛会への出席をやめてから、敗戦後に参議院選挙に出るまでの時期と、三度目の選挙に落選してから最晩年に平和運動に復帰するまでの時期であったとされる。それは双極性と言えるほどの気分障害だったのかどうか、わからないし、判定するスケールもない。高良とみ女史は、そんなスケールの大きな人だったのである。
 


真鶴半島の先端


 

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2. 森田療法家の父、高良武久先生
 
  九州帝大医学部精神科の若き高良武久医師は、アメリカ帰りで同精神科助手になっていた3歳年上の和田とみと会った。ふたりは愛を育み、とみが九大を去って日本女子大に着任するまでの3年間、相聞歌のような詩を交わしていた(武久没後に発見されて、『高良武久詩集』として出版された)。とみの後を追うように、昭和4年に武久は上京して根岸病院医長となり、同年にふたりは結婚した。
  婦人運動や平和運動を精力的に続けるとみ女史と対照的に、武久先生は、七高(鹿児島の旧制第七高等学校)の学生時代には、神経質に悩み、詩作や読書に耽っていたことのある文学肌の人であった。とみ様は循環気質だったようだが、武久先生はシゾイド的で、思想的には自由主義者であった。おふたりの間には葛藤が生じないはずはなかったのだが、森田正馬の後継者として、森田療法家となった武久先生は、家庭においても父として、そしておそらくは夫としても、「あるがまま」の生活を送っておられた。
  しかし留美子様は『誕生を待つ生命』の「解説」文の中に、「父の淋しさ―尺八とヴァイオリンの合奏」という小見出しで、姉の真木が小学五年生のときに書いた「音楽」という作文には父の淋しさが滲み出ている、と書いて、その真木の作文を掲載しておられる。少し長いが、家族のことが伝わってくるので、そのまま引用させて頂く。

 

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  「父は古くから音楽、殊に日本音楽というものにしゅみがあった。それで尺八を前から愛し、六段等の名曲も吹く位に成って居た。又自分で尺八を作り月夜にバルコニーで物静かに千鳥などをひいて心を慰めていらっしゃった。それで私にことを習わないかとおっしゃり、何やらつづけ字の経文の如き字の尺八のふを一生けんめいに教えて下さった。が私にはそういう物をあつかう才能が無いがため二ヶ月位つまらないつまらないと思いながらもやっとおぼえたのは六段の初めの方だけである。それ程父は母のげいの無いためか、さみしがって居らっしゃった。
  ところが私も学校でヴァイオリンを習い始めて早くも一年をへて今ではどうやら十ぐらいの歌もひけるようになり、ふしを知って居る歌はつっかえつっかえひけるようになった。私は無しょうにうれしくなり毎晩々々おけいこのほかにいろいろ知って居るうたをひいてみる。
  すると父が尺八をもって出て来て、「まきちゃん。大分君ヶ代がひけるようになったね。一つ尺八をあわせて見よう。」といっていろいろの民間にはやる歌を集めたふを持って来て引き出す。ところが私の方は下からひき出したが父の方ではファからひき始める。まごついて又初めからファで出始めた。つゆのしとしとふる中にこの二人の奏する音のながれが雨の音に入りみだれて美しくちょうわする。
  後から後からいろいろの曲をひいたがヴァイオリンと尺八の音は兄弟でもあるかのようにちょうわして、しめった室にひびく。そうしてその音の中には他人にはわからない父子の愛が互いにむすびあってゆくような何となくなごやかなものが二つの楽器の間を往来して居た。又音楽に熱中する父の顔はいつになく赤らみ目がかがやいて居た。父は一個の医者としてよりも、一人の芸術的な才能にとんだ人だと自分でおっしゃった言葉が今さらのように思いうかんだ。雨ではあるがまどから半月があわく光って居る。緑のつたがわずかにゆれる程のささやかなかぜ。白くけむる雨がつたの葉にゆめのように光って居る。
  音楽はやんだ。父と私はにっこり笑った。そうして二人共ほほえましく語らいながら楽器をしまった。そうして互いに「おやすみなさい」をいってわかれた。しかし父のあの顔はおそらく私が音楽をするたびに思い出すであろう。(おわり)」

 

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  武久先生は、家族に対して責任感の強い人だった。ときには子どもたちの前で母の悪口を漏らしたが、最後に必ず付け加えた。「しかし、お母さんにはどこか人並みはずれたところがある。人のできることはできないが、人のできないことをやるところがある」と。
  残念ながら子どもたちに対して、すべてにわたっての理解者たりえなかったが、決して矯めることをせずに、自由な成長を見守った父親であった。
 


『野に帰ったバラ』(童話) 浜田糸衛 作、高良真木 絵 (1960)


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3. 高良真木の歩んだ道―自由を求めて―
 
1) 原体験―母なるものの不在―
  長女の真木が生まれたとき、母親のとみは母乳が出ず、近所に住んでいた南原繁氏(政治学者で、後に東大教授、東大総長)の夫人に母乳をもらったそうである。それは仕方のないことだったろうし、また生みの親自身も母乳が出ない寂しさを、その分だけ我が子との相互の愛着に振り向けることはできたはずである。だが、婦人たるものは妻として母として生きる以上に、社会のために生きねばならないというイデオロギーの持ち主であったとみ女史である。実際に、とみ女史の育児がどのようであったかはわからない。
  妹の高良留美子様によれば、母は自宅に不在がちであり、幼児期から妹は母代わりのような姉の後ろについて歩いていたという。また、留美子様はその姉の幼い頃の人形遊びに、彼女の原風景を見たという記憶について書いておられる。幼い真木様は、手足がもげて頭と胴体だけになったセルロイドの人形を布でくるみ、着替えさせては大切に可愛いがり、人を寄せ付けず、人形とふたりだけの世界に入り込んでいた。それが孤独な姉真木の原風景であったというのである。
  人形は、いわばイマジナリー・コンパニオン(想像上の仲間)であった。妹が見たその風景は、本人にとっては、母なるものの不在の中で、人形と共にいたわりあう夢想的な世界を形成した原体験であったろう。そして、真木様の内面に秘められたそのような中間的な体験領域は、やがて絵画へと向かっていったのであろう。
 

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2) 母からの解放を求めて
  自由学園在学中に終戦を迎えて、真木は昭和21年に日本女子大学附属高等女学校に転入学した。14歳だったそのときに反戦思想を書き綴った作文が、晩年に見つかっている。「我々は戦争の子であった。生まれて以来十数年というものは、我々の父母の時代によって日本が侵略主義の道を邁進していた時代だった。…」母のゆかりの日本女子大学の附属高女に入りながら、親の世代を突き放しているような文章であり、多感な少女の正義感が読み取れる。
  昭和22年には東京女子大学外国語科に入学し、昭和24年に渡米して、インディアナ州のクエーカー教のカレッジに転入学した。母に強く反発していた真木は、後に妹留美子様に、母から離れるための留学だったと語っている。真木の最晩年にインタビューをした早稲田大学の新保敦子氏によれば、「母親から一番遠いところへ留学」したかったと真木は言ったそうである。母はプロテスタントのクリスチャンだったのに対して、やや信仰の流れの異なるクエーカー教のカレッジを選んだとは言え、母の足跡をなぞるようにアメリカに留学し、キリスト教のカレッジに学んだことが、母親から「一番遠いところ」へ行ったことになったのであろうか。
  卒業して昭和27年に帰国し、翌28年には真木はコペンハーゲンで開催された世界婦人大会に母と共に参加した。途中で母や真木は、浜田糸衛を団長とするグループに入り、中国やソ連などを訪問している。続いて真木は一行と離れ、パリで美術留学の生活に入り、昭和30年に帰国した。
  しかし昭和32年には家を出て、浜田糸衛の宅に転居した。その後真鶴の別荘に移り住んで、そこで浜田と生涯にわたる長い共同生活を送ったのだった。
  母から一番遠いところへ行くために、母と同様にアメリカに留学し、母と共にコペンハーゲンや中国に行き、しかし母に反発し、母の同志で日中友好活動をしている浜田糸衛に心酔して、浜田と思想と行動を共にしたのだった。母からの解放を求めながら、解放されることはなかったのである。心中においては母なるものを希求し、そしてその不在ゆえに反発し、母なるものへの両価性を生き続けていたのであろう。
 

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3) 絵画と日中友好活動
  パリ留学時代の真木の絵は、孤独で幻想的で実存的な画風だったと言われる。ところが、昭和30年に帰国してから、たとえば山並みの上に赤い太陽が張りついて、実体のない空虚の中で出口を探して彷徨している自分の分身を描いているような、不思議な絵を描くようになり、やがて自然を対象とするリアリズムになっていった。しかしリアルを越えて自然に執着するような絵であった。木をみつめ、木と関係している―。原田光氏(岩手県立美術館長)は、『高良真木画集』に寄せた文章の中で、そのように評している。木をみつめ、木と関係している。洲之内徹もそのような絵に心をそそられたのであろう。高良真木にとって、自然とは何だったのか。
  真木にとっての自然は、日中友好の活動家で、童話作家でもあった浜田糸衛の童話に添えて描いた自然の絵と同じものであった。浜田糸衛は、戦前に京都の被差別部落で働き、上京して生田長江に師事してセツルメントで働き、満州に渡っていた時期があり、戦後は筋金入りの社会運動家として活動した人である。童話作家としての一面を持ち、同居していた浜田を、真木は尊敬し、昭和35年に出した『野に帰ったバラ』という童話の表紙絵や挿し絵を、初めて引き受けることになった。そのあらすじを簡単に紹介しておく。
  高度経済成長で町が病み、自然が壊されている時代の話。町から離れた自然の中の沼のあたりでは、沢山の生き物たちが平和に暮らしていた。あるとき、バラの化け物が現れて、トゲでガマの腹を刺した。しかし化け物は疲れきって沼のそばで倒れていたので、ドクダミ先生が診察に行った。ブリリアント・プリンセス・ローズという傲慢な名前で、指に金剛石をつけたこのバラは、心の傷から病気になったのだとドクダミ先生は診断する。そして太陽から不思議な力をもらい、夜空の星屑に金剛石よりも美しい魂の輝きを見たバラは、指にはめていた石を捨てた。彼女は普通の野バラとなり、自然の中で素朴な歌を歌いながら、子どもたちを育てる仕事をして歳月を重ねていくことになった。
  何という美しい、そして恐ろしい話であろう。浜田の創作に付き合い、表紙絵や挿し絵を描いた真木は、この本の初版が出た十数年後の新装版の「あとがき」に、バラのモデルは私であったことに気がついたと書いている。そしてそのことを受け入れて、「自然に帰る」ことの重要性について述べている。実際、彼女は浜田の影響の下で、日中友好活動に取り組み続けたのだった。文革の指導者、毛沢東を太陽として仰いで自然と共生しながら中国の農民が描いている下手な絵に憧れ、国内では、新潟の自然の風景とその中で生活している人たちを描いた佐藤哲三の絵に共感したのだった。
  真木は母に反抗しながら、母と比較にならない本物の左翼活動家の浜田によって、家出を正当化されたのである。もちろん責任は本人にあるが、浜田にこそ責任はあろう。『野に帰ったバラ』は、免疫に欠ける真木のような人を洗脳するという意味で、残酷童話であったと思われるのである。
 

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4) あるがまま―真の自由へ―
  高良武久先生は、とみ女史がクリスチャンであったためもあろうが、無宗教の立場を取り、自由なコスモポリタンを自認しておられた。森田正馬は仏教思想に通じ、禅語もよく引用したが、高良先生は療法から仏教の教えや禅語をなるべく除いて、新たな概念や用語を取り入れ、療法を整理なさったところがあった。しかし「あるがまま」という言葉を療法の中心に据えておられた。「あるがまま」は放恣、放逸と間違われやすく、分かり難いところがあるが、本来は仏教や禅の思想によっている。原始仏教における「如実知見」に当たるし、禅においては無数の表現がある。高良興生院の作業室に「正受不受」と書いた文字が掲げられていたそうだが、これは「あるがまま」に相当する禅語である。真宗なら「自然法爾」も同様の意味を持つ。
  武久先生の長女として、真木は森田療法をどのように捉えていたのだろう。「あるがまま」に生きていたのかどうか。彼女の生涯においては、母の支配から解放されて自由になるという大きな課題があったが、さらにそのような自由にとらわれて、一層不自由な生き方になっていたのではなかったか。
  自由には、なにかの束縛や支配から解放される自由と、なにかに向かっての自由とがある。これに対応して英語には、liberty と freedom のふたつの用語がある。真木は liberty にとらわれて、freedom を生きることに気づけない隘路を歩んでいたようであった。
 「あるがまま」に生きることは、自堕落に生きることではなく、二項対立的な対象の束縛から逃れて自由奔放になることでもない。禅における自由は、freedom に相当する。しかも字義的には、「みずからに由る」よりも、「おのずから由る」と理解できる。すなわち、固定されない自己のままで、作用していることが自由なのである。それが「あるがまま」であり、freedom の自由であり、森田療法的な生き方なのである。
  しかし、人間にはそれぞれの人生がある。森田療法の大家の長女であることを承知の上で、真木という人が、自分の尊厳において選択した生き方を、これ以上評することはできない。
  真木は浜田糸衛と共に真鶴の別荘に住んでいたが、敷地内には母とみ女史のための建物もあった。母の晩年の、介護を要するようになった数年間は、真鶴で真木が進んで介護をしたのだった。積年の母と娘の葛藤がほどけた数年間であったろう。
  平成5年に、とみ女史は召され、平成8年には武久先生が逝去された。その後、平成14年に真木は真鶴に共生型住宅(木の家)を建設し、「真鶴共生舎<木の家>」の運営を始めた。自然、人々、社会との共生の場を謳ったが、場所の不便さのため、入居する人は少なかったようである。少なくとも真木は、尊敬する浜田糸衛をそこで最期まで看取ったのだった。数十年間にわたる奇妙な女性同士の同居生活であった。浜田の方の責任を、私は改めて思わずにいられない。平成22年に浜田が没して、翌年の平成23年に真木も静かに世を去った。真の自由の行方はよくわからない。
 
  新保敦子氏によると、「真木の葬儀の時に、高良留美子が語ったエピソードによれば、真木にはアメリカで結婚しようとしていた恋人がいたが、結婚できず、真木が息を引き取る直前に、留美子は初めて、その人の名字を教えられた」というのである。戦後のことであるから、一旦帰国しても国際結婚はできたろうにと思うのだが、悲劇のヒロインとして人生に幕を引かれたようにも感じ取れる。人生というものは、おそらく辻褄の合わないものなのだろう。
 
< 主な文献 >
・ 高良留美子 : 高良真木という人. 『高良真木画集』求龍堂, 2010
・ 岸見勇美 : 『高良武久 森田療法完成への道』元就出版社,2013
・ 新保敦子 : 日中友好運動の過去・現在・未来―高良真木のオーラル・ヒストリーに依拠して―. 早稲田大学大学院教育学研究科紀要,第22号,51-66,2013
・ 高良とみ : 『非戦を生きる―高良とみ自伝』ドメス出版, 1983
・ 高良美世子,高良留美子『誕生を待つ生命― 母と娘の愛と相克』,自然食通信社,2016
 
 

佐藤哲三「みぞれ」(1953)。晩秋の黄昏の蒲原平野。画面のあちこちに農民たちや牛の姿が見える。


高良興生院・森田療法関連資料保存会の会報「あるがまま」のタイトルの文字の左に添えられている木の絵は、高良真木様が十代のときに描かれたものである。


森田正馬の日記に見る宇佐玄雄との出会い―「森田療法創始百年か」<その三>の追加資料―

2019/04/27


慈恵医専の学生時代の宇佐玄雄。医専附属病院にあたる(私立)東京病院(または慈恵院病院)での、ポリクリ風景で、診察医は内科教授らしい。 右から2人目、立っている人物が宇佐玄雄である。



 

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     森田正馬の日記に見る宇佐玄雄との出会い
                 ―「森田療法創始百年か」<その三>の追加資料―

 
  去る4月5日付けの原稿、「2019年の今年は『森田療法創始百年か』<その三>」の原稿内容は、森田正馬の日記を根拠の一部としています。ところが、この稿をアップロードした後に、森田の日記を改めて精細に見直した結果、宇佐玄雄との交流について記されている箇所が意外に多くあり、少なからず見落としていたことが判明しました。
  そこで参考までに、宇佐玄雄が慈恵医専に学び、さらに卒業後も2年余りまで、東京に滞在していた時期の、森田と宇佐の交流について、森田の日記に出ている記録のすべてを抜粋して、以下に掲げておきます。
  また、見落としていた日記の箇所を読んだことで、上記の<その三>の原稿(4月5日アップロード)の内容を修正する必要がおのずから生じました。そこで、その原稿を4月5日に据え置いたままで、修正箇所がわかるような書き方で、本日修正を加えて差し戻しました。
  ご了承下さい。
 

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  森田正馬の日記において、宇佐玄雄のことは、大正7年から大正10年までにわたって記入が見える。以下はそのすべての抜粋である。(網羅したつもりながら、なお遺漏がないとは限らない。また草書で書かれた森田の達筆の文字は判読し難く、誤読した字があるかもしれないことをお断りする。)
 
  森田正馬の日記中の宇佐玄雄についての記載を改めて確認したところ、二、三の見落としを発見した。以下にはそれらを補って修正版とした(2019年5月17日修正)。修正、追加した箇所を青字で記している。
 

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【大正7年】
 
・ 六月九日(日)
      夜宇佐君来ル
・ 九月十一日(水)
      宇佐美君来ル
・ 九月二十二日(日)
      夜ハ池上、宇佐君来リ晩酌ヲ共ニス
・ 十月三十一日(木)
      午前病院ニ宇佐君、池上君来リ患者診察ノ稽古ヲナス
・ 十一月八日(金)
      夜佐藤君及宇佐君見舞ニ来ル
 
 
【大正八年】
 
・ 五月三日(土)
      宇佐君林君、病院ニ来リ精神病研究ノ指導ヲナス、宇佐君ト共ニ帰リ…
・ 五月十七日(土)
      後藤君ト共ニ庭掃除ナドナス、宇佐君来ル
・ 五月十九日(月)
      夜ハ病院相談会、九時半帰ル、宇佐君催眠術稽古ノ為来リシモ後藤不在ニテ目的ヲ達セズシテ帰ル
・ 五月二十日(火)
      午後久亥、後藤君、宇佐君ト共ニ畜産博覧会ニ行ク、…
       宇佐君石原ト共ニ晩餐ヲナス、宇佐君ハ後藤君ニ就テ催眠術ノ演習ヲナス
・ 五月二十二日(木)
      宇佐君来リ共ニ晩酌ヲナシ十時就床、
・ 七月四日(金)
      慈恵院講義、夕方宇佐君ト共ニ病院ヨリ帰リ晩餐ヲ共ニス、
・ 九月八日(月)
      夜石島君、永松、宇佐君来ル、
・ 九月十一日(木)
      夜ハ正一、誕生日ニテ宮崎老夫人ヲ招キ、宇佐君モ来リ小宴ヲナス

  夜中村氏ヨリ化物屋敷ノ貸家アリトノ電話アリ、宇佐清水君ト共ニ之ヲ借ラントテ吉祥寺前ノ家主ニ行キシモ已ニ借人アリタリトノ事ナリ、化物ハ今日昔借リ来リタル一婦人ト四才女児ト一泊シテ〇〇或モノニ驚キ叫ビタルヨリ隣人ノ噂トナリ其人ハ翌日直チニ転居シタルヨリ終ニ新聞(二六)ニ出テ…小児ハ吐血シテ死シタリナド誇張サレアリタリトイフ、

・ 九月十三日(土)
      夕方宇佐君ノタメニ同君ト共ニ大学ニ三宅君ヲ訪ヒ宇佐君松沢病院医員トナル事ニ付キ相談ス、
・ 九月十九日(金)
      午後宇佐君ト共ニ大学ニ三宅君ヲ訪ヒ宇佐君ノ事ヲ依頼ス、
・ 九月二十九日(月)
      宇佐君病院ニ転居シ来ル
・ 十月二日(木)
      夕方宇佐君来ル
 
 
【大正九年】
 
・ 四月十日(土)
      宇佐君来ル
・ 十二月十一日(土)
      夜ハ児玉、宇佐君ヲ招待シ岩田、中西、木村、根岸君ヲ招キ晩餐会ヲナシ、同病相喜ブ会トナス
・ 十二月二十六日(日)
      朝掃除ナドナス、宇佐君来ル
 
 
【大正十年】
 
・ 二月二十五日(金)
      宇佐君来テ藤原、重野君ト晩餐ヲ共ニス
・ 五月十日(火)
      中村、川崎、宇佐君来ル
・ 六月二日(木)
      夕方、宇佐中里実君〇、晩餐を饗す
・ 六月十五日(水)
      宇佐君来リ病室ノ設計ヲナス

 

――――――― ◇ ―――――――

 
〔注記〕
1. 大正7年日に、まだ学生だった宇佐は、夜森田家を訪れている。これがおそらく宇佐についての最初の記載だが、記載が簡潔なので、これが個人的交流の初回だとは思えない
2.大正7年9月11日には、「宇佐美君来ル」と記されており、おそらく「宇佐君」の誤記だろうが、まだ十分に名前を記憶してもらっていなかったところを見ると、交流が始まったのは、この大正7年からであろうと思われる。
3. 大正8年、宇佐は医師になり、ますます森田との交流を深めている。森田家を訪れて、晩餐を饗されたり、晩酌の相手をしたり、森田と森田夫人と共に出かけたり、森田の息子、正一郎の誕生日の宴に参加したり。また森田家へ、催眠術の練習に行っている。
4. 大正8年は、森田が神経質の特殊療法を始めた年なのに、森田と宇佐がその療法を話題にした記録は日記にはない。
5. 同年9月、森田は、宇佐が松沢病院の医員になれるように、本人を同伴して大学の三宅助教授に依頼に行っている。そのおかげで、宇佐は松沢病院に医員として入った模様。身分は不明。
6. 奇妙なことに、それ以後、宇佐は1年間以上森田日記にほとんど出てこない。松沢病院に通うことになったためか、わからない。宇佐の生活に変化が起った可能性もある。
7. 大正9年12月11日に、児玉昌医師と共に森田家に招かれ、森田の療法を受けた患者さんたちも同席して開かれた晩餐会に参加している。以後宇佐は、大正10年夏に東京を去るまで、森田の療法を学んだものと思われる。ただし、どのように熱心に学んだかは、森田の日記からは読み取れない。
8. 野村章恒は、森田の日記に、宇佐が大正10年の「六月には、病院の設計図を持参して、その計画の批評を仰いでいることが書かれている」と記しているが、日記を見ると、6月15日に「宇佐君来リ病室ノ設計ヲナス」とあり、病院の設計図を持参したのではない。

2019年の今年は「森田療法創始百周年か」―森田療法考現学(5)―<補遺>

2019/04/08




 

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2019年の今年は「森田療法創始百年か」<補遺>


 
 <補遺1> 特殊療法の成績
 
  森田は、療法を成立させてから後に、治療成績をまとめた形にした最も早い発表として、次の報告を出している。
 
  「神経質に対する余の特殊療法成績」、日本之医界、第一五巻、第三九、四〇、四三号、大正十四年五月(『森田正馬全集第二巻』に収載)。
 
  ここで森田は、大正8年4月から同14年3月までの6年間に療法を施した86人を対象に、治療成績を記している。大まかなところを引用すれば、「普通神経質」では、全治57%、軽快38%、「強迫観念症」では、全治60%、軽快32%となっている。また、森田は、「『単に病を治癒するのみでなく自己の人性を治するを得た処の精神的一大転機であった』とは多くの患者の告白する所である」と述べている。さらに彼は、全治とは、症状を基準に診断するのではなく、苦楽を超越して生の欲望を追う境地のことなのであるということを指摘している。一方、治療の苦痛を恐れ、或いは不信を起こして途中退院した者が何人かあったが、その大半は意志薄弱者であり、治療成績の中に加えないとして、切り捨てている。このような入院治療の適応の問題は、森田が後世に残した課題となった。
  なお、残念ながら、絶対臥褥がどのように生かされたかについては、述べられていない。


 


 
 <補遺2> 宇佐玄雄が提案した療法名、「自覚療法」
 
  森田は療法の成績を報告した本稿の冒頭で、療法名は仮に「特殊療法」と言う名を用いるとしながら、「京都の宇佐君は『森田法による自覚療法』と称へて居る」と書いている。これより、宇佐玄雄が「自覚療法」と言う提案をしたのは、大正14年のこの報告より以前であったことがわかる。
  宇佐玄雄は、東京在留中の大正9年12月に、児玉昌博士とともに森田正馬宅に招かれている。一方で、今も御健在の御令息、宇佐晋一先生から次のようなエピソードを伺っている。
  父玄雄は、森田先生から「僕の療法を何と呼んだらいいだろう」と訊ねられて、「釈尊の開悟に匹敵すると考えて、『自覚療法』がよろしいでしょう」と答えたら、「それはよかろう」と仰った。同時にもうひとりの医員も同じ提案をしたが、森田先生は「これは宇佐君が言ったことにしておき給え」と仰った、というお話である。それはおそらく、大正9年に児玉昌博士とともに森田家を訪れたときのことであったろう。
  宇佐玄雄が「自覚療法」という療法名を提案して、森田がこれを肯定的に受けとめたことは、よく知られているが、意外に早い時期に森田と宇佐のそのやり取りがあったのである。また「自覚療法」の「自覚」については、禅に照合せねばならないと誰しも考えるので、難解で意味を測りかねるところもあったが、釈尊の「開悟」にちなんだ命名案だったと知れば、宇佐玄雄による命名の意味や、宇佐の療法観も明白に伝わってくるのである。
 

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2019年の今年は「森田療法創始百周年」か―森田療法考現学(5)― <その三>

2019/04/05


百周年

 

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2019年の今年は「森田療法創始百年か」<その三>


 
  (承前)
 
6. 宇佐玄雄の登場
 
1)東京への二度の遊学
  伊賀上野にある東福寺派の寺院、山渓寺の養子、宇佐玄雄(1886-1957)は早稲田大学文学科に学び、インド哲学を修めて帰郷後、大徳寺で修禅して得度を受けて禅僧となるも、さらに精神医学を志して、大正4年に慈恵医専に入学した。在学中には森田の講義を受講したはずであり、大正8年に慈恵医専を卒業した。そして同年より東大の呉秀三の教室に学び、先輩医師、森田正馬と改めて出会うことになる。
 
2)大正八年
  森田にとっては、大正8年は、永松婦長を自宅に同居させて治療に成功し、入院による特殊療法を進める契機に恵まれた画期的な年で、いわばセレンディピティが起こったのであったが、さらに本物の禅僧、宇佐が医師になって呉秀三の教室に入ってきたという、もうひとつの偶然も継起したのであった。
  森田はかねてより禅に関心を寄せ、明治43年に谷中の両忘会の釈宗活老師の下に参禅するなど、禅を体得して治療にも生かそうと模索していた。既述したように、明治42年には、神経衰弱について書いた雑誌原稿で、強迫観念を「桔驢橛」(原文表記のママ)に喩えて、治療には仏教家の示教を希むという本心を吐露していた。しかし結局は、催眠、説得などの試行錯誤を経て、自力で「煩悩即菩提」、「煩悶即解脱」を主眼とする療法にたどり着いたところであった。そんな折、若いが本物の禅僧が精神科医になって身近に現れたことは、頼もしいことであった。しかし、宇佐はいつから、どのようにして森田のもとに学んだのであろうか。
 
3)医師になる前後の宇佐玄雄
『人生に随順して―宇佐玄雄博士追悼録―』には、宇佐は大正8年9月30日より大正10年7月18日まで、東大医学部精神病学教室にて呉秀三教授の指導を受け、精神病学、神経病学を学んだとある。教室での身分は明記されていないが、期間が明記されているので、おそらくこれは正確な経歴である。東京では、医専の学生時代以来、漆間真学という日本通信社を創設したことで知られる人物の下で家庭教師をさせてもらい、さらに学資の提供まで受けていたが、医師になってからもさらに2年間、漆間に世話になりながら、東京に滞在したのだった。漆間を通じて社会の動きに接することができる利点もあったのであろう。
 
  ところで、森田の日記をよく調べてみると、宇佐が医専の最終学年の四年生であった大正7年に既に、宇佐についての記載がある。6月9日(日)に、「夜宇佐君来ル」とあり、これがおそらく日記において宇佐の名が出でくる最初のものである。日曜日の夜に宇佐は森田宅を訪れており、それがさりげなく記されているところから、この日が個人的交流の初回ではなく、精神病学の講義の熱心な受講生である宇佐は森田宅の訪問を認められる間柄になっていたという推測が成り立つ。
  この大正7年には、さらに9月、10月、11月に日記中に宇佐君の名が出てくる。
  大正8年に医専を卒業して宇佐が医師になってからも、森田の日記に5月以降、宇佐君の名がたびたび出てくる。宇佐は催眠術の演習のために森田家を訪れたり、森田夫人の久亥らと共に博覧会に出かけたり、正一郎の誕生日の宴に招かれたりしている。
  同年9月13日には、森田の日記に次のような記載がある。
  「夕方宇佐君ノタメニ同君ト共ニ大学ニ三宅君ヲ訪ヒ宇佐君松沢病院医員トナル事ニ付キ相談ス」
  同年9月19日にも次のような記載がある。
  「午後宇佐君ト共ニ大学ニ三宅君ヲ訪ヒ宇佐君ノ事ヲ依頼ス」
  9月29日には、「宇佐君病院ニ転居シ来ル」とある。
  そして10月2日に、「夕方宇佐君来ル」と記されている。森田の世話によって松沢病院の医員になれたことに対して、お礼の挨拶に行ったのであろう。その翌日の10月3日には松沢病院の開院式が行われた。
  しかし、その後宇佐はなぜか森田から遠ざかっている。大正9年4月に一度森田家に立ち寄っているが、おそらく挨拶の程度で、この年の12月に、森田から児玉昌と共に招かれるまで、長い無沙汰を続けたのだった。松沢病院にどの程度熱心に通ったのかもわからず、空白の1年2ヶ月であった。

 
4)神経衰弱
  ところで、ここまでの宇佐の人生を見ておくと、伊賀上野の山渓寺に幼くして養子に入った玄雄は、中学生以来神経衰弱に悩んでいた。転地療養のごとくに、早稲田に遊学させてもらい、卒業してもすぐに帰郷せず、東京からさらに千葉に転地療養したこともあった。ようやく帰郷して出家得度したものの、今度は医者になると言って、檀家の猛反対に合いながら、さらに医専に行かせてもらうというわがままを通したのだった。住職になりたくないという自坊への不適応と檀家との葛藤を引きずっていた宇佐は、医専を卒業して医師になった段階で、いよいよ身の振り方を決めねばならない時期に追い詰められていた。故郷を捨てるか、帰るか、迷いに悩まされていたのだった。大正8年は、宇佐にとってはそんな時期であったので、医師となった春から、晴れて森田のもとに直行して親しく学んだのかどうか、不明な部分が残されている。
 
5)進路
『人生に随順して―宇佐玄雄博士追悼録―』には、大正8年4月より慈恵医大教授森田正馬博士の指導を受けたと記載されている。しかし当時は慈恵医専であり、森田は学位を取得する以前であったのに、誤記されているから、記載内容自体の信憑性にも問題を感じざるを得ない。『禅・森田療法・京都―宇佐玄雄博士生誕百年記念講演集―』にも、玄雄のこの時期の経歴について、同じことが記されている。ただし、この後者の冊子には、玄雄は大正8年の夏に、鎌倉円覚寺管長、釈宗演老師に会いに行き、進路の相談をしたところ、老師から、山渓寺を出なさいと即座に勧められたという挿話が出ている。このお墨付きにより、開業へ向けての東福寺大本山の協力が得られることになるのである。
 
6)大いなる不覚
  こうして、進路の件は落着をみたのであった。そこで、以後はようやく森田の下に深入りして、療法の研修に一心に励むことになったかというと、そうでもない。宇佐はなお何らかの悩みを抱えていたのか、わからないところがある。
  それにしても、森田の療法に対する宇佐の不熱心や煮え切らなさは、何だったのだろう。ことによると、大正8年現在に、森田家では入院療法に成功して、神経質に対する入院による特殊療法が、一気に進められているという出来事を、重く受けとめていず、時差を置いてからその重要さを知ったのであろうか。もしそうなら、大正8年秋から大正9年秋まで、1年間油断して、森田と疎遠になっていたことは、禅僧にして医師、宇佐の大いなる不覚であったと言える。
 
7)結ばれた師弟の絆
  森田の日記に書きとめられた宇佐との交流について、野村章恒は『森田正馬評伝』に次のように記している。
 

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 「森田日記によると宇佐は東大精神科で研究していて、大正九年十二月十一日に、児玉昌博士とともに森田療法見学のために招かれている。また翌年六月には、病院の設計図を持参して、その計画の批評を仰いでいることが書かれている。」
  大正9年12月11日の日記そのものの写しを入手して確認したところ、次のように記されていた。
「夜ハ児玉、宇佐君ヲ招待シ岩田、中西、木村、根岸君ヲ招キ晩餐会ヲナシ、同病相喜ブ会トナス」。
 

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  大正9年12月には、森田の方からの招きを受けており、客人扱いであるから、禅僧として一目置かれたのか、医師として対等に扱われたのか、それとも同病者扱いであったのか、よくわからない。ともあれ、遅くともこの晩餐会の時点では改めて近しい間柄になっている。そして卒業後の2年間における、微妙な曲折を経て、宇佐は大正10年に東京を去り、不退転の決意を持って、翌大正11年より、東福寺内の塔頭にて三聖医院を開業したのだった。
  医専卒業後の2年間における宇佐の森田との交流の内実には、意外に不明なところがあったけれども、少なくとも、東京滞在最後の大正10年には、森田と宇佐の間に師弟の絆が深められたに違いない。そして宇佐が京都で森田の療法を継承する開業医になってから、両者の交流は互いに重要なものとなっていったのだった。
 

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7. 森田療法における仏教と禅
 
  高知で真言宗の寺院の檀家に生まれ、寺の近くで育った森田正馬は、少年時代より真言宗に慣れ親しんでいた。五高生時代には、旺盛な好奇心を発揮して仏教の書物を読み漁り、広く仏教的素養を身につけた。「是空」という雅号を使い出したのも、この時期からである。その後も仏教への関心は続き、それが神経質の療法に役立つことになった。
  森田は、神経質の病的心理の説明や療法の真髄を述べるに当たって、当初から自ら仏教的な思想や言葉で説明していた。さらに後には、宇佐玄雄に教えられた禅思想も入ってくる。そのへんを整理するために、森田が療法の初期に使用した仏教用語や禅語を、かいつまんで挙げてみる。
 
① 「桔驢橛」(正しくは「繋驢橛」)。強迫観念の病理を指して、明治42年の雑誌原稿にこれを用いた。佛語とのみ書いているが、禅語である。
② 「一波を以て一波を消さんと欲す、千波万漂交々起る」。禅語。大正8年12月刊の論文「神経質ノ療法」に。
③ 「佛教の煩悩即菩提」。上記と同じ大正8年12月の論文に。
④ 「真言宗の煩悩即菩提」。大正10年6月刊『神経質及神経衰弱症の療法』に。大乗仏教で広く言われる「煩悩即菩提」だが、ここで「真言宗の」と言い直しており、森田は真言宗に親和性を持っていたことがわかる。
⑤ 「心無罣礙」。般若心経の言葉。上記と同じ大正10年6月刊の『神経質及神経衰弱症の療法』に。
⑥ 「見惑頓断如破石、思惑難断如藕糸」。禅語。 上記と同じ大正10年6月刊の『神経質及神経衰弱症の療法』、及び大正11年1月刊『精神療法講義』に。
⑦ 「無所住心」。禅語。昭和3年刊『神経質ノ本態及療法』に。
 

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  こうして見ると、森田自身が、まず禅に通じていたこと、のみならず、真言宗の思想や般若心経など、大乗仏教にかなり深い素養があったことが窺える。
 
  ところが、宇佐と療法上の交流が始まった大正9年から10年頃からは、おそらく宇佐の影響を思わせる独特の禅語が出てくる。とくに「見惑頓断如破石、思惑難断如藕糸」がそうである。これは東福寺の円爾に学んだ禅僧、無住による鎌倉時代の仏教説話集、「雑談集」巻四に出ている一節である。東福寺派の禅僧、宇佐がよく持ち出した言葉である。「知らないための惑いは、理屈を知れば石を破ったように容易に断定できるが、思惑というものは感情が絡むので、恰も蓮の茎を折るとき糸を引いて断然と切ることが出来ないようなものだ」の意で、不安や煩悶にそのままなりきれと教えているのである。森田は早くも大正10年の著作にこれを書いているが、宇佐との交流が始まった中で教えられたとみなして、差し支えなかろう。
  この頃より以後、森田の発言や著作の中に、禅語が増加する。その大半は宇佐玄雄の影響によるものと思われる。
 
  一方、おそらく森田がみずから用いたのであろうと思われる禅語に、「無所住心」があるが、これに対して宇佐は沢庵禅師の『不動智神妙録』にある「心の置き所」にふれて、「心を何所にも置くな」と教えている。いずれも、金剛般若経の「応無所住而生其心」に基づいていて、同義語であるが、宇佐の教えの方に禅的な殺気が感じられる。このように本物の禅僧である宇佐の禅は、森田と比して微妙に異なる面もあったようだが、禅を療法の本質とする点で、両者は通じ合っていた。
 

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8. 大正10年11月の晩餐会
 
  さて、森田療法の創始あるいは成立の流れに話を戻す。
  森田の多年の苦心の末、時が至って大正8年に永松婦長の家庭的治療をきっかけに、入院による神経質の特殊療法が一気に動き出すことになった。それが効を奏したということを、森田は早速当時の著作に記してはいるが、その段階ではせっかくの治療経験を、複数の実例を生かして正確に報告していたわけではなかったのである。
  大正9年末に児玉と宇佐を自宅に招いて晩餐会をした1年後、大正10年に森田は東大の別の医師たちを晩餐会に招いて、療法について話し合っている。野村章恒(『森田正馬評伝』)には、次のように記されている。
 

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 「森田は大正十年十一月十日の日記に、東大教授(注:助教授の誤り)三宅鉱一博士と助教授杉田直樹博士を親しく自宅に招いて、森田式療法で治癒した数人の患者と一緒に晩餐をともにしながら座談会をひらいた。もちろん、このなかに両博士ともてこずった谷田部夫人の顔もまじっていたのであった。」
 

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  谷田部夫人と言えば、長年の重度の不潔恐怖が森田家での入院療法によって治癒した有名な症例である。入院の治療期限が近づいて、本人はようやく諦めのような心境になっていたが、その頃森田は、出し抜けに森田の母と共に銭湯に行かせたところ、患者は自分の体だけでなく、森田の母の背中まで流すことができたのだった。この患者は、その頃森田が治したい真剣さのあまりに、殴ったり突き飛ばしたりした相手であった。機が熟して「掛金が外れる」ような体験が起こった症例である。
  このような劇的な治癒症例を示されることが有用であることは言うまでもない。ただ、他の多くの入院例はどうだったのだろうか。また、第一期の絶対臥褥については、その実施経験が詳らかになっていない。
  したがって、晩餐会でどのような討論が交わされたのか、三宅や杉田が森田の療法をどのように評価したのか、重要なことであるが、残念ながら記録は残されていない。
  それにしても、大正8年から入院による療法を実施し続けて2年を経た時点で、座談の場で成果を示す晩餐会をもったことは、区切りとして意義あることだったと思われる。
 

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9. 森田正馬の学位論文と慈恵医大教授就任
 
  以上に記したように、「神経質に対する余の特殊療法」は開業医、森田の自宅入院の場で生まれたのであった。しかし森田は、その療法を世の研究者たちに問い、自身も療法を点検しながら、それを深めていく必要があった。
  折しも、大正10年10月に東京慈恵会医科大学の設置が認可されて、森田が精神病学を担当していた慈恵医専は、大学に昇格することになった。慈恵医科大学の誕生とともに、大学には教授たちが就任したが、そこに森田の名はなく、森田は大正14年に慈恵医大教授に就任している。このへんの事情について、野村章恒は『森田正馬評伝』に、実に曖昧模糊とした書き方をしている。これは事実を糊塗するものである。その点に注意を促すために、そのくだりを引用しておく。
 

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 「この頃、新大学令によって専門学校が大学に昇格することになって、私立東京慈恵会医学専門学校は、東京慈恵会医科大学となった。(…)森田は、もちろん教授として精神病学講座を主宰することになった。医科大学教授は、医学博士の学位のあるものという内規があったのであろうか、森田は、大正十年、「神経衰弱ノ本態」、「神経質ノ療法」(神経誌二〇巻六号)を発表した。続いて呉秀三教授在職二十五年論文集に、「神経質ノ本態及療法」として二つの論文をまとめて執筆した。」
 

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  同じ野村の本の巻末の年譜には、大正十一年一月に「母に励まされて学位論文として、『神経質の本態及療法』の執筆にかかる。」とある。
  なお、その後の経緯は、大正十二年に学位請求論文提出。大正十三年に医学博士号受領。大正十四年に慈恵医大教授に就任している。
  独自の治療の開発は、それをまとめることによって学位を取得でき、それによって文部省の審査を通過して教授に就任できるのだが、森田の場合、慈恵医専の大学昇格の時期が来ていたために、間合いの遅れが生じたのであった。このような俗なる事情が絡んでいたのである。
 
  結局、森田の療法が創始され、初期段階のものとして成立を見たのは、大正8年から大正10年の間、つまり1920年頃のことであったとみなすのが妥当ではなかろうか。
 

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10. まとめ
 
  森田正馬は、神経質者のとらわれの心理機制を禅語の「繋驢橛」に喩えて、理によって解決出来ないことを見抜き、大乗仏教(とりわけ真言宗)に学んだ「煩悩即菩提」の境地に至らしめるところに治療の要諦があると考えた。そして、模索の末に特殊療法を開発し、「煩悩即菩提」を体得する方法として、絶対臥褥を導入した。
  森田は、絶対臥褥の目的として、3項目を挙げた。その中には、臥褥と隔離によって感情が収まる、つまり「感情の法則」による「頓挫療法」の効果も含まれていた。しかし、森田は、絶対臥褥の本旨として「煩悩即菩提」を一層重視していった。森田は「煩悩則菩提」をもじって「煩悶即解脱」と言っている。
  そして、自身の療法は、絶対臥褥を原点として、煩悩になりきる体験療法と、自発的活動を伸ばす自然療法との両側面があることを示した。
  大正8年に永松婦長を自宅に同居させて以後は、系統的な入院療法を意欲的に進めて、治療効果をあげていったようである。ただし、森田は治療者として患者の後ろ盾になって、恐怖に突入させてやることを辞さなかった。
  入院の第一期としての絶対臥褥の実際の効用について、それを検証した報告は残念ながら乏しい。
  森田が入院による療法を創始、開発した頃に、奇しくも、禅僧宇佐玄雄は慈恵医専を卒業し、森田との出逢いに恵まれた。宇佐は京都で開業するが、以後2人は生涯にわたり、影響を与えあうことになった。
  森田は、大正10年に東大の医師たちを招いて、自分の療法の成果を話し合ったこともある。この療法は、大正8年から10年にかけての時期、1920年頃に、創始され、成立したとみなすのが妥当であろう。
 

(了)                    

注: 本稿を部分的に修正したことについて。
  4月5日に本稿を公開後に、森田の日記中に宇佐玄雄との交流に関わるいくつかの記述を見つけました。それに伴い、本文の内容を部分的に変更する必要が生じました。そこで、いくつかの箇所を修正し、わかりやすいように、書き直した、または書き加えた文章を青字にしています。ご了承をお願いいたします。4月27日


Hundred years paper colorful sign over dark blue. Vector illustration.

 

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2019年の今年は「森田療法創始百周年」か―森田療法考現学(5)― <その二>

2019/03/27




 

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2019年の今年は「森田療法創始百年か」<その二>


 
  (承前)
 
4. 「恐怖突入」と 「煩悶即解脱」
 
  森田は、患者の精神交互作用を打破して、「煩悩即菩提」あるいは「煩悶即解脱」の体験に導くために、あえて人為的に指示を加え、有無を言わせず恐怖に突入させる方法を用いた。これがヅボアと異なる森田一流の「説得療法」であり、「体験療法」なのであった。ヅボアは体験よりも論理を用いて神経症者の病的心理を解消させようとしたのに対して、森田は体験に重きを置き、患者に説得的に具体的方法を授けて、恐怖に直面させた。
  「恐怖破壊法」とも言い、行動療法におけるフラッディングと似ているが、「煩悶即解脱」に導くものである点で、やはり非なるものであった。したがって、森田が「体験療法」と言う場合、方法的に二重の意味があった。通院療法の段階で開発工夫していた「恐怖破壊法」と、もうひとつはもちろん、入院のとりわけ第一期の絶対臥褥において、恐怖と一体化せざるをえない体験を指していたことは言うまでもない。時系列的には前者(恐怖破壊法)が先行し、続いて入院による方法として後者ができた。
  前者、つまり相手に見合った教示を用いて「恐怖突入」をさせる方法も、症状を治すにはそれなりに手応えはあったようで、森田は入院療法を始めてからも「恐怖破壊法」を併用している。
  以下に、森田が呈示した「恐怖突入」に相当する症例の中から、「恐怖破壊法的」な治療例として、任意に3例を選んで、簡単に紹介する。
 

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  〔心悸亢進発作例〕(『神経質ノ本態及療法』大正十一年一月稿)。
  森田の恩師の某大学先生の夫人。多年、発作は夜間に多く起こって、横臥できず布団に凭れるのみ。往診をしたところ、今夜も発作が起こりそうだと言う。所謂「精神性心臓症」と診断して、次のような教示を授けた。「では今夜は最も発作の起こり易い横臥位をとり、発作を起こし、苦痛を忍びながら、発作の起こり方や経過を詳細に観察されよ。そしたら私は将来発作の起こらぬ方法を教えます」と。ところが患者は、発作を起こすことができず、朝までぐっすり眠ってしまったのだった。そこで森田は「これが体得というものです。従来は、発作を予期して、心惑い、徒らに苦痛を増大させていたのです。発作を逃れようとする卑怯をなくし、恐怖に飛び込んだので、発作はどこかへ去ってしまったのです」と説明してやったのであった。
 

♥      ♥      ♥

 
 〔胃痙攣様発作例〕(『神経質ノ本態及療法』大正十一年一月稿)。
  五十九歳女性。十年前に発病して、胃部に発作性に激痛が起こる。最近ひどくなり、朝夕にその発作がある。診察したところ、胃痙攣ではなく、ヒステリー球に近いものであった。発作への注意によって精神交互作用が起こり、予期感動から発作の起こる時刻まで定まっている。森田はこの患者を、大正10年3月に入院させた。そしてまず臥褥をさせて、次のように指示した。診察と治療のために必要だからとの口実の下に、予期の時間よりもなるべく早く、努めて発作を起こして見せなさいと。ところが、そのように命じると発作は起こらなくなってしまった。その後作業にも参加して、全治を迎えたのだった。
 

♥      ♥      ♥

 
 〔強迫観念症の例〕(『神経質及神経衰弱症の療法』第三十六例)。
  二十四歳、農家の未婚女性。十代後半より、自分が盗みをしたかのような窃盗恐怖や、火事恐怖など諸種強迫観念が起こり、家に閉じこもっていた。難治であったが、最も的確に治癒させたものである。患者は十五歳頃に呉服店で反物を新調したが、それを盗んだのではないかと気になり、箪笥にしまって着ることができず、ついには箪笥に触れることもできなくなっていた。大正10年4月より、2ヶ月の予定で入院療法を試みることにした。絶対臥褥を経て作業に移り、患者の苦痛の種となっていた衣服を国元から取り寄せさせた。入院して50日を経たある晩、突然森田は患者に、今夜この衣服を着て寝るべし、と命じた。今夜は当然徹夜の苦悶に悩むであろうが、その覚悟で忍耐しなさい、と命じた。然るに翌朝、患者は、昨夜はどうなることかと思ったが、案外何事もなく、いつの間にか眠ってしまった、と言って喜びに溢れていた。恐怖に突入して、恐怖の破壊を体験自得したのだった。掛け金が外れるような心境になったのである。その後患者は帰郷し、「気になることが出来ても、教えられた通りにやっています」と便りに書いてきた。この患者は、まもなく森田の家に来て、お手伝いとして立ち働くことになった。
 

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  以上の症例のうち、はじめの2例は発作性神経症に相当するが、いずれも予期恐怖が働いて精神交互作用が高じていたところを、暗示的とも言えるような教示の下に、恐怖に突入させ、恐怖が破壊される体験に導いている。最後の強迫観念の例では、入院して数十日を経て、もはや後に引けず、森田に身を任すほかない段階で、恐怖になりきらせ、恐怖との対立から解脱させたのである。見事に巧んだものである。森田との強い絆が治療的要因になった例でもある。退院後森田家の従業員になったのは、その証左で、転移が続いていたと言えよう。
  ここで想起するのは、雷恐怖の人に対する盤珪禅師の教えである。「驚きなばそのままにてよし、用心すればふたつになる」と盤珪は言った。恐怖は恐怖のままにして、恐怖と予期恐怖を対立させるなと盤珪は戒めたのだった。森田の場合は、わざとお膳立てをし、手の込んだ教示を用いて、意図的に恐怖に突入させているので、技法として不自然であったと言えるかもしれない。しかし、このような「恐怖破壊法」的な恐怖突入は、入院による特殊療法を始めた初期においても、療法のひとつの特徴をなしていたようである。熱意ある治療者の応援があったからこそ、患者は恐怖に突入して、「煩悩即菩提」、「煩悶即解脱」の境地に誘われたと言うことができよう。
 

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5. 家庭の不和による臥褥と「頓挫療法」について
 
  さて、入院による余の特殊療法を改めて考えるとき、今ひとつ分かりにくいのは、第一期に絶対臥褥を導入した森田の着想や意義についてである。森田がその目的として、第一)診断上の補助、第二)安静による身心の衰憊の調整、第三)精神的煩悶苦悩の根本的破壊、の三つを挙げていることはよく知られているが、それが早くも大正9年の著作(「精神療法ニ對スル着眼点ニ就テ」)に記されていることは既述した。しかし、三項目のうち、第一の診断上の補助は、これ自体が補助的な目的としか思えない。したがって第ニと第三のふたつの項目を問題にすべきであることになる。
 
  遡れば明治42年の著作において、森田は、強迫観念の病理について、その煩悶を理論を以て解脱させることは不可能であり、治療に難渋していることを告白的に記している。そしてその病理は仏教語で言うならば「繋驢橛(繋がれたる驢馬が廻り廻りて其杭にからまり動きも得ならぬ様」(禅語)に喩えられるとし、切に宗教家の示教を希うと、あからさまに書いているのである(「神経衰弱性精神病性體質」、人性、第五巻、第五-六号、明治四十ニ年五月-六月)。
  その後の仏教的禅的な展開を知る資料に乏しいけれども、催眠や説得療法を試みても効果をあげ得なかった森田が、いよいよ煩悩になりきる道を治療的に探って「絶対臥褥」に到達したのではなかろうか。禅の形に当てはめるならば、座禅を臥禅にしたものが絶対臥褥だとも言えようが、論を座禅につなぐ禅本位論は問題を狭くする。絶対臥褥という人間として原始の状態にして、「煩悩即菩提」を体得させようとしたのであろう。「煩悩即菩提」を自分は「煩悶即解脱」と言い換えるとしたところにも、森田らしさや、信念や、さらに彼自身の解脱的体験も込められたニュアンスさえ伝わってくるのである。かくして、絶対臥褥の目的の第三を理解することができる。
 
  さて、そうすると残る第二の身心の衰憊の調整という目的が宙に浮きかねない。だが、これにつながるであろう森田の断片的記述やエピソードがあるので、取り上げることにする。
 

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  帚木蓬生氏は、著書『生きる力 森田正馬15の提言』の中に、次のように書いておられる。
 
  「正馬がこの臥褥療法を思いついたのは、郷里の高知県の風習からのようです。土佐地方では昔から嫁姑の間にいざこざが起こると、どちらか一方が三、四日臥褥をする習慣があったそうです。臥褥が終わると、双方が歩み寄り、良い嫁姑の関係に戻るのです。」
 
  典拠を記しておられないので不審に思いながら、高知にそのような風習があったのかどうか、高知の森田の生家から遠くない地区にお住まいの高齢の知人らに問い合わせてみたが、そんな話は聞いたことがないとのご返事ばかりであった。ただ森田がそのようなことを言ったことはあったようで、かつて戦後に東京で森田療法に関わったご経験のある高齢の某氏の話では、そんな伝聞に接した記憶があるが、真偽はわからないままだったとのよしであった。ちなみに『形外先生言行録』には、昭和3年頃に森田の下に入院したI氏が、森田は郷里の嫁姑のいざこざでどちらかが三、四日臥褥することがよくあり、それをヒントに臥褥療法を始めた、と言っていたという回想を記しているくだりがある。
 
  嫁姑間のいざこざを臥褥で収まりをつけるというのは、高知のよく知られた風習であったかどうかはわからない。だがそれは森田の念頭にはあったようなのである。それをどのように読み解くかが問題である。そこで森田の著作を改めて読み直すと、似たような例として、家庭の不和で寝込む話が、繰り返し出てくることに気づく。
  それは、いずれも「臥褥療法」についての説明の中に出ている。異なる三つの著作のそれぞれに、同じ文章の一節が嵌め込まれているのである。その一節では、前半部分で、愛児を亡くした母親の悲痛や事業に失敗した人の煩悶に臥褥療法を応用できると述べて、引き続き次のように記述しているのである。
 

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  「よく聞く事であるが、或は家庭の不和のため、或は何か気にくはぬ事があって、一日も二日も寝込んだまま起きて来なかったといふ事がある。之は或は神経精神病性若くは変質性人格者の自然良能によるものかも知れない。即ち忿怒なり悲憤なり、總て激情は臥褥によって之を和らげる事が出来るのである。」
 
  この同じ文章が記されている著作とは、次の三つである。
・ 「精神療法ニ對スル着眼点ニ就テ(承前)」、医学中央雑誌、第三三〇号、大正九年七月。
・ 『神経質及神経衰弱症の療法』、大正十年六月。
・ 『精神療法講義』、大正十一年一月。
 
  上記の著作で、「臥褥療法」について述べられている内容は、かなり共通しており、要点はおよそ次の通りである。
  臥褥している状態では身体機能が安静になり、精神活動も平静になる。不安や苦悶に関係する刺激や機会のない環境に隔離して臥褥させると、短時間で精神的落ち着きが得られる。
  精神病で興奮状態の者を強制的に寝かせると、案外短時間で安定する。
  また自験例として、ある中学生が試験に落第して躁状態になり、絶対臥褥を命じたら、奏効した。また別の中学生で、ある事件により激しい苦悶状態になったものに対して、絶対臥褥を命じたら、数日間で著効を見た。いずれも刺激を遮断した室内で臥褥させたもので、臥褥療法は一方から見れば隔離療法である。このような絶対臥褥により、病的な、あるいは負の感動は増幅することなく、消失する。絶対臥褥は、実に「頓挫療法」と言ってもよい、と。
  この中学生の2例の経験から、自分は臥褥療法を種々の患者に生かして、効果をあげるようになった、と言う。
  このような文脈から、家庭の不和のために寝込むという話が出てくるのである。その文中に、神経精神病性若くは変質性人格者との用語が出ており、これは語弊があるが、当時森田は神経質を分類上そのように捉えていたのであった。いずれにせよ、森田は臥褥と隔離によって、「頓挫療法」と言えるほどに自然回復力が起こることを経験的に知ったのである。そのことへの着目が、入院療法の第一期を絶対臥褥としたひとつの理由になったと考えることもできよう。
  しかし、中学生2名の例や嫁姑のいざこざ後に寝込む話は、いわば対症療法的であり、森田が言った「感情の法則」だけでも説明できそうである。彼はすでに大正5年に、感情の特性について、感情は放任すれば自然に消失することや、感情は表出するに従い益々強盛になることを指摘していた(「常識に就て」、人性、第十二巻第四号、大正五年五月)。 したがって、以上の例や話が、自然療法として自発的活動を生かすこの療法の、原点になる絶対臥褥に見合ったものなのかどうか、疑わしい。
 

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  森田はつとに、入院第一期の絶対臥褥の目的として、三項目を挙げていた。この三項目は、先にふれたように、そのままではまとまりを欠いていて、わかり難い。
  ところで、昭和3年に出版された著書『神経質ノ本態及療法』における絶対臥褥についての記載を瞥見すると、従来通りに三項目が並べられているけれども、第二の心身の疲憊の調整については、感情の自然の経過による消失と説明されている。どうやら当初は、やはり感情の法則レベルの発想であったらしいことが判明する。
 
  一方、第三の精神的煩悶、苦悩の根本的破壊については、これを「本療法の眼目」と記して昇格させており、「煩悶即解脱の心境を体得せしむるにある」としている。ちなみにこの著作の原本は、大正11年に執筆された学位論文であるが、それが昭和3年に単行本として出版され、全集に収められているものである。
  ともあれ、系統的な入院療法は深い奥行きのあるもので、療法の開発後もなお、森田自身、試行錯誤を経験したであろう。療法もまた、森田と共に成長していったのである。
 
  嫁姑のいざこざと臥褥という下世話な話が、療法の絶対臥褥につながったかどうかは重要事ではなく、関係があるとすれば、感情の法則のような生理的レベルにおいてであろう。そして、森田自身、絶対臥褥の第二の目的としていた衰憊(疲憊)の調整は、相対的に重視しなくなっている。森田は自身が唱えた三項目に、まとまりがないことに気づいて多少困惑していたのかも知れない、と言ったら憶測に過ぎるだろうか。
 

(<その三>に続く)          


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2019年の今年は「森田療法創始百周年」か―森田療法考現学(5)― <その一>

2019/03/26




 

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2019年の今年は「森田療法創始百年か」<その一>


 
  森田正馬が自称した「神経質に対する余の特殊療法」、つまり森田療法は、いつ、どのようにして出来上がったのだろうか。
 
1. 森田療法の創始ということについて
 
  今から10年前、雑誌「臨床精神医学」の2009年3月号で、「森田療法の発展と課題」という特集が組まれており、その巻頭に北西憲二先生による「創始90周年を迎えた森田療法」という論文が掲載された。論文のキーワードのひとつとして、「森田療法創始90周年(the ninety anniversary of Morita therapy)」が挙げられ、本文では、冒頭に次のように記されている。
 
 「森田が試行錯誤の末に、入院森田療法という治療システムを作り上げたのが、1919年4月、46歳のときであった。今でいうパニック障害を1915年に1回の面接で治癒に導き、いち早く感情への認識と行動の関わりの重要性を見抜いた森田であったが、強迫性恐怖を呈するいわゆる対人恐怖にはほとほと手を焼いたらしい。それを臥褥から始まる治療システムによって治癒させることができたのである。この1919年を以て森田療法が創始された時期とすると、2009年はちょうど90年が経ったということになる。」
 
  明快な記載であり、これに従えば、2019年の今年は、まさに「森田療法創始百周年」にあたることになる。
 

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  しかし、歴史的に見て、入院森田療法の治療システムが1919年4月に作り上げられたのかどうかという点について、今少し検証が必要かもしれない。実際、森田療法は1919年(大正8年)に出来上がったとするのが従来より通説となってはいたが、一方で、森田が療法を創って実施を重ね、世に問うた過程があったことを視野に入れて、1919年だけに焦点化することを避ける見方もある。便宜上、1919年を“anniversary”としてもよいのだろうが、療法が出来上がったプロセスを見ることが必要である。
 
  たまたま「高良興生院・森田療法関連資料保存会」の、2019年「春の心の健康講座」の案内チラシに目をやったところ、「森田療法とは?」というコラムがあって、そこには次のように書かれている。
 「森田療法とは、西暦1920年頃、森田正馬(元・慈恵医大名誉教授)が生み出した、わが国が世界に誇るべき神経症の治療法である(以下略)。(当会パンフレット「森田療法とは」から抜粋)」。
 
  このように、歴史的視点を重んじる「保存会」(略称)では、森田療法は1920年頃に生み出されたという含みのある表記をしている。
 
  ともあれ、森田は、一朝一夕にして療法を作りえたのではなく、苦心と工夫を重ねて療法を編み出したのであった。それがいよいよ出来上がりに達していったのが、1919年(大正8年)からの数年間である。
  療法が出来上がっていったその数年間の過程について、以下に要点を見直しておきたい。
 

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2. 1919年(大正8年)のこと
 
  この年のことについて、野村章恒は『森田正馬評伝』に書いている。
 「大正八年は、正馬は四十六歳になり、精神科医として円熟期にはいった年で、自宅入院患者に対しても熱心に精神療法をほどこし、森田式神経質療法を確立した記念すべき年であった。」(以上、本文129ページ)。
  野村は、著書巻末の森田正馬の年譜においても、大正8年についてほぼ同様のことを記している。
 「神経質者の下宿通院療法を家庭入院にきりかえ、精神病恐怖、赤面恐怖、ヒポコンドリーの治験によって、神経衰弱および強迫観念の森田療法の理論と実際を確立した」と。
  いずれも、療法を確立したと記されているけれども、その断定的な表現ゆえに、かえって実証性が伝わってこない。年譜の方の記載では、治験によって確立したとしている点に、やや具体性が見えるが、不明点が残る。
 

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  さて当の森田正馬自身は、『我が家の記録』の同年4月12日のところに次のように記している。
 「此月、永松看護婦長ノ久シク神経衰弱ニ悩メルヲ余ノ家ニ静養セシメテ軽快ス。従来余ハ神経質患者ヲ近隣ニ下宿セシメテ之ヲ治療セルガ、此事アリテヨリ自宅ニ神経質ヲ治療スルノ便ヲ知リ、次第ニ入院ヲ許シ、此年十人ノ入院患者アリタリ。」
 
  以上を要するに、森田はそれまで神経質患者を近隣に下宿させて、通院療法を行っていて、十分な成果を上げてはいなかっが、大正8年4月に、神経衰弱だった巣鴨病院の永松婦長を自宅に住まわせて、家庭的療法を試みたところ、それが奏効したので、他の患者も順次自宅への入院療法に切り替えて、一定の成果を得だした、ということなのである。
  時が熟した偶然の到来であり、いわばセレンディピティが起こったのであった。ただし、永松婦長を自宅に同居させて、家事などの作業をさせたようだが、絶対臥褥から始めたかどうかはわからない。また他の患者についても、第一期から始まる構造化された入院療法を、どの程度適用したのかという問題が残る。そもそも、余の特殊療法と称した入院療法は、どのようにして創案されたものだったのか。
 

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3. 構造化された入院療法の創案と実施 ― 当時のいくつかの著作より―
 
  入院療法の創案と実施については、その当時の森田の著作から窺い知ることができる。
 
1)「神経質ノ療法」(成医会雑誌、第四五二号、大正八年十二月掲載)
 
  神経質者を自宅に入院させて、より本格的に特殊療法を開始した大正八年に、森田は早速リアルタイムで自身の療法について表記のような論文を書いている。
  これは「森田正馬全集」第一巻にも掲載されている(96-108ページ)。 入院森田療法が創案された時期に書かれたものとして重要な論文なので、この内容を以下にやや丁寧に紹介する。森田の論述の仕方に倣いつつ、要約的に述べる。
 
  まず神経質の療法は安静療法と訓練療法が根本療法であって、場合に応じて両者を選択加減するのである。それを前提として、余の考按せる特殊療法がある。
  自分は、多年種々の機会に種々の患者に応用をして、次第に療法の系統を作って、今日に至った。その方法は、一見平凡通俗で、次の通りである。
 

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  第一週(第一期)、絶対臥褥、
  第二週(第二期)、徐々に軽き作業、
  第三週(第三期)、稍重き身体的・精神的労作、
  第四週(第四期)、不規則生活による訓練、
 

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  以上であって、適応症は慢性神経衰弱症が主で、場合によっては強迫観念症にも用いる。
  この精神療法は、ヅボア(Duboisデュボア)氏の説得療法と大いに趣を異にする。ヅボア氏のように論理の力によって説破するというような困難なものではなく、事実を体験し、理屈を離れたる体得をさせるのである。フロイトのように精神分析によって原因を探るなどの手数も要さず、神経質という診断がつけばよいだけである。
 
  第一期の絶対臥褥は、単純に臥褥せしむるのみで、薬剤などの治療法を取り上げ、内部に起こってくるヒポコンドリーとか強迫観念による苦悶、不安を破壊しようとすることなく耐え忍び、経過に任せる。不快の連想に対して自らこれを破壊せんと努力することは、禅の語に「一波を以て一波を消さんと欲す、千波万漂交々起る」と言っているように、我心に我が心で対抗するようなものであるから、其の心は益々錯雑する。苦悩から逃れず、武術の奥義の「必死、必生」、兵法の「背水の陣」によって、仏教で言う「煩悩即菩提」に至る。それをもじって「煩悶即解脱」と自分は言う。神経質の患者は、苦痛を予期恐怖するから二倍の苦痛を覚え、さらにそれを恐怖すまじと煩悶するから、苦痛は三倍となる。煩悩を断ずるのでなく、煩悩の中に飛び込めば、煩悩が安楽となり解脱となる。
 
  第二期では、室外に出て外気にふれる生活をさせるが、まだ積極的に仕事を課すことはしない。活動が制限された状態に置くことで、身心の自発的活動を徴発する。モンテッソリー女史が幼児教育において、児童の自発的活動の生起を重んじたことと似ている。こうして仕事に興味が生じ、それからそれへと為さずにいられなくなる。そして第三期の本格的な作業につながっていく。
  要するに、最初は絶対臥褥により、煩悶を破壊し、次に作業療法により身心機能の自発的活動を促し、これを助長善導するという、いわゆる「自然療法」なのである。
 
  森田は、神経質に対する自分の特殊療法について、およそ以上のように説明している。彼自身、外来で説得的に治す方法を試みたけれども、あまり奏効しなかった苦労を経て、入院によるこのような特殊療法の創案に至ったのであった。
  療法の中核とも言うべき「煩悩即菩提」、「煩悶即解脱」を、入院第一期の絶対臥褥と重ね合わせているところからも、入院療法の重要性を改めて再認識させられる。
  なお、既にこの論文において、入院療法の意義や方法がかなり詳述されているが、実例は示されていない。また、自分の経験では著効を収めたと思うが、批評と教示を希望すると記している。
 

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2) 「精神療法ニ對スル著眼点ニ就テ」(医学中央雑誌、第三二九~三三〇号、大正九年七月掲載)
 
  これは森田正馬全集第一巻にも掲載されている(109-127ページ)。大正9年には、森田は年頭より反復性大腸炎の大患に罹り、病臥して、死線を越えたが、この年にこの原稿を出している。雑誌の性質もあってか、余の神経質の特殊療法については、ほとんど前著「神経質ノ療法」への参照を促していて、内容についての新たな記述は乏しい。ただ、絶対臥褥の目的として、次の三つを挙げていることは新たな記述である。すなわち診断上の補助、安静により身心の衰憊を調整すること、及び患者の精神的煩悶苦悩を根本的に破壊することである、としているのである。
 

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3)『神経質及神経衰弱症の療法』(大正十年六月刊)
 
  森田は大正9年秋より、自身の療法についてまとめる著作『神経質及神経衰弱症の療法』の執筆を開始して、翌年6月に出版した。
  この著書で森田は、2年前に書いた論文「神経質ノ療法」を下敷きにしながら、療法の趣旨や方法について、より一層、的確な記述を図っている。さらに、多くの症例を列挙していることも本書の特徴である。
  療法の「由来」については、自分は十五、六年も前より、神経質に対して催眠術と説得療法で突貫肉薄してきたけれども、うまくいかず、論理を以て感情を圧服せんとすることの矛盾を知った。そのため説得法を変化させ、絶対臥褥法を用いて著効を収めたことなどから、療法の系統を作ったのであると言う。
 
  療法の根本的意義としては、「自然療法」と「体験療法」という二つの重要な側面を示している。
  まず、「自然療法」とは、身心の自然機能を発揮させることである。療法の三期間は隔離療法として、精神の成り行きのままにして、誤想や臆断を破壊し拘泥を廃し、仏教で「心無罣礙(しんむけいげ)」(『般若心経』)と言われるような、とらわれやこだわりのない状態に置いて、身心の自然な活動を伸長させるのである。
 
  また「体験療法」は、「自然療法」と別のものではないが、とりわけ原点としての絶対臥褥の中に、「体験療法」が凝縮されている。「煩悩即菩提」、「煩悶即解脱」の体験がそうである。また森田は次のように述べている。「禅の語に『見惑頓断如破石、思惑難断如藕糸』といふ事があるが、見惑は理解で、石を破ったやうによく断定ができるが、思惑は恐れとか煩悶とか感情的のもので、之は恰も蓮の茎を折る時糸を引いて断然と断ち切る事の出来ないやうなものであるといふ意味である。」
  そして恐怖を去る方法は、恐怖を忘れ、逃れようとするのでなく、恐怖の中にそのまま飛び込むことであると言う。
  なお森田は、自分なりに説得療法の余地を残して、ヅボアは理論に重きを置くが、自分は体験に重きを置くと言い、そのような意味でも体験療法と称しているが、これについては後述する。
 
  この著作には約40例の症例が記載されている。すべてが入院療法の例とは限らず、また入院例でも、概して絶対臥褥の体験を読み取り難いといううらみを残す。
 

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4)『精神療法講義』(大正十一年一月刊)
 
  本書は精神療法全般について、主に身心同一論的立場から基礎理論を述べたもので、神経質に対する特殊療法については、わずかなページしか割いていず、新しいことは書いていない。
 
  これは大正十年に執筆されたものである。神経質に対する特殊療法は、臨床的積み重ねを課題としながら、その理論立ては、『神経質及神経衰弱症の療法』で一応のまとまりに達したものと推察される。
 

(<そのニ>に続く)          

 


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歴史は考現学である。―森田療法考現学(4)―

2019/02/21

< 最初におわび >
  「森田療法考現学」と題する文章を昨年から連載方式で掲載し始めましたが、続きを途切らせていました。書き続けたいことは多いのですが、他の記事と交錯しますので、整理をはかっているところです。
  森田療法考現学に該当する文章は今後、「研究ノート」欄に移動します。ブログ欄にも出す方がよいと判断する場合のみ、ブログ欄にも併載します。今回からのいくつかは、併載を予定する記事になります。ご了承下さい。
 

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<歴史と考現学の関係について>
  過去はひとつである。あるいは複雑であろうとも、同一のシリーズであった筈である。しかし、化石ひとつが発掘されたら歴史が変わる。化石なら化け物ではなくて、まあ確かな代物であるから、歴史を変えるかもしれない。ところが今日は、氾濫する情報によって歴史が変わる、あるいは変えられてしまう。遠慮がちに現れていた貴重な情報が、他の情報群の圧力に抑えられて再び闇に葬られる。
  最近気になっているものとして、ウィキペディアがある。たとえば、ウィキペディアの編集のしかたひとつで歴史が変わる。誤情報を出すのは可能だし、出さなくても、瑣末な情報でいっぱいにすれば、貴重な情報は出る余地を失う。
  もともと情報の少なかった史実については、それをどう読みとるかによって歴史が大きく変わる。低次元の意図的な書き替えや読み替えばかりを言っているのではない。歴史をどう読み、どう書くかは、現代人の慎重で柔軟な良識にかかっている。
  歴史とは考現学である。考現学のフィルターを経ずして、歴史を捉え得ない。
 
  以上に記したことは、とくに森田療法の分野に向けてのことではない。歴史というものに必ず含まれる考現学的要因に注意を促そうとした。
 

♥      ♥      ♥

 
  今回の記述はこれだけで打ち切り、次回より、森田療法の歴史について述べる。

自由を求めて生きた画家、高良眞木(中)―洲之内徹との不思議な関係―

2019/02/07

  本稿は、(上)の稿(2018.12.25)より続くものです。
  日数が空きましたので、前回の原稿へのリンクをつけておきます。
 
自由を求めて生きた画家、高良眞木(上)―画家たちの真鶴半島―
 
 
  (承前)
 


『洲之内徹 絵のある一生』(新潮社、2007)の表紙

『洲之内徹 絵のある一生』(新潮社、2007)の表紙



 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
5. 風変わりな美術エッセイスト、洲之内徹
 
  画家、高良眞木は、真鶴半島で中川一政に見いだされ、洲之内徹に育てられたという見方があった。森田療法の大家であった高良武久先生の長女の真木様が、家族内の葛藤を体験しながら、画家として、そして人間として成熟していかれた生涯に関心を持ち、調べているうちに、やはり画家としての眞木の背後にいた洲之内徹という人物の存在を無視できなくなった。
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
  洲之内徹とは。彼は銀座で小さな画廊を営む風変わりな人物であったが、「芸術新潮」に連載し続けた「気まぐれ美術館」という感性溢れる美術エッセイの自在な筆致が、美術家や文化人に注目されて、彼の名が知られるところとなった。小林秀雄は「今一番の評論家だ」と絶賛した。しかし洲之内自身は美術評論家を自任していなかった。随筆『絵の中の散歩』に彼は書いている。「どんな絵がいい絵かと訊かれて、ひと言で答えなければならないとしたら、私はこう答える。―買えなければ盗んでも自分のものにしたくなるような絵なら、まちがいなくいい絵である、と。」(「鳥海青児「うずら」」)。彼はそう言って憚らなかった。その名文句に彼の真骨頂があり、画廊の主でありながら、気に入った絵は人に売らずに自分のものにしてしまうのだった。
  同じ『絵のなかの散歩』の中に、絵を女に喩えて、惚れた男がその女の人には見えない本当のよさを見つけるようなものだと書き、さらには、埋もれた異才、時代が見逃している才能を発見するのは、批評家ではなく、目利きや蒐集家なのであると書いている(「山発さんの思い出」)。そして彼自身、一貫してそのような姿勢を取るのである。実際彼によって才能を見いだされた画家たちは多かった。洲之内は規範や基準にとらわれる評論家ではなく、自由に絵の中に画家のいのちを直感的に見る目利きであり、名伯楽であった。
 

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  このような並外れた感性の持ち主、洲之内は人間としていかなる人で、どんな生涯を送ったのか。人間洲之内は、およそ尋常な者ではなかったのである。彼の経歴をざっと辿ってみる。
  洲之内徹(1913-1987)は、松山市でクリスチャンの家庭に生まれ、東京美術学校建築科に入学し、日本プロレタリア美術同盟に参加、左翼活動をして検挙されて退学。松山に帰ったが左翼運動で逮捕され、留置場と刑務所で1年以上を過ごし、この間に読書に励んだ。獄中で転向を偽装して釈放され、その後志願して軍属となり、対共工作員として北支に渡った。共産党の経験を買われて軍部の情報の仕事を手伝っていたので、共産党で食っていた、とは本人自身の弁である」(「気まぐれ美術館」中の「羊の話」)。
 
  大陸においては日本軍人の立場で、中国人に対して残虐行為の限りを尽くす体験をしている。終戦後引き揚げてきて、日本で生活を再開した彼は、作家を志望して小説を書くようになる。そして中国で自分が経験した虐殺、強姦、略奪、放火などの所業を私小説として赤裸々に書いた。小説「砂」には、兵隊相手の慰安婦ではなく、市民の女性を襲って強姦することに新鮮な快感を覚えて、女を狙って村の中をうろつくという主人公の異常な行状が、淡々と書かれている。この作品は、なぜか芥川賞候補になった。彼の小説は都合三度、芥川賞候補となったが受賞を逸している。
 

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  彼の小説に対しては、車谷長吉の「洲之内徹の狷介」という一文が『絵のなかの散歩』の巻末にある。車谷は言う。私小説であろうとも、虚実皮膜の間に成立するものだが、洲之内の小説には「実」だけがあって「虚」がない。悪を突き詰めていけば、「浄土の光」が射してくるものだが、洲之内の小説ではそれが射して来ない。小説とは「人が人であることの謎」を書くのが本筋なのに、彼の小説はその謎に近づいていないと。さらに車谷は、透徹した目で「悪」を見据えた人の狷介な眼差しで絵を見ることによって、洲之内は絵の「目利き」になることができた、と言うのだが、この後半の指摘には、車谷の人柄の善人性が浮かび上がって、批評としては物足りない。風変わりであった人間洲之内を、「狷介」と評しながら、車谷は彼の内面を探っていない。
 

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  それを補うごとくに、大原富枝が『彼もまた神の愛でし子か』と題する洲之内の評伝を書いている。中国の女性への性的残虐行為を働いた日本兵はもちろん彼ひとりではなかった。しかし彼は、「敵方の女を凌辱するのは、生理ではなくて思想だと言うのである。もしそうなら、これは、人間をつくられた神にこそ訊いてみなければわからない」と、大原は造物主への問いとして、彼の人間性を厳しく批判している。さらに、酒の席で洲之内は、拳銃を使う場合での最も効果的な女の殺し方、などという話を披露したが、このような問題については、彼自身の哲学があったことを大原は取り上げて、「こと、女に関しては、洲之内徹のなかには、悪魔的と言っていい、救いようのない地獄があった、とわたしは思う」と言う。また小説 「砂」について、「洲之内徹のなかの人間性の破壊が、すでに深奥に達していて、いかに凄惨なものであったか、その様相を、いまわたしは改めて思っているのである」、そして「洲之内徹には、人間性において微量ながらも、無視できない不具性があった、とわたしは考えている」と、大原は決定的に記している。
  中国から帰国後の日本の生活でも、洲之内の女性関係は乱脈を極め、妻子がいながら、いわゆる女狂いをする。本妻の影は薄く、出版社の編集部の女性との間に子をもうけ、また画家、佐藤哲三の遺作を集めるために行った新潟の新発田では人妻との激しい恋愛に陥っている。婚外を含めて、生涯に少なくとも4人の女性に子を産ませている。
 

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  さて洲之内と絵との関係に話を戻す。作家として身を立てようとした洲之内は、小説を書き続けていたが、一方、田村泰次郎が銀座に開いた「現代画廊」に入り、ほどなく田村が手を引いたため、1961年からこの画廊を受け継いだ。
  作家を断念して美術畑に入った彼は、書きためたエッセイ『絵のなかの散歩』を1973年に出し、翌1974年より「芸術新潮」に「気まぐれ美術館」を連載し始めて、注目を浴びる。絵と画家に対して距離感を置かずに、感覚的な自分のまなざしを向けて縦横に書いた、いわば私小説的な美術エッセイのこの連載は、死を迎えるまで10年以上続けられた。


『絵の中の散歩』1973(左)と『気まぐれ美術館』1978(右)

『絵の中の散歩』1973(左)と『気まぐれ美術館』1978(右)



6. 高良眞木の絵に魅せられた洲之内徹
 
  高良真木と洲之内徹の出会いや、現代画廊での個展の開催などについて、以下、『高良眞木画集』の巻末年譜を参考にして記す。
 
  高良真木は、1971年に、浜田糸衛の旧知の佐藤哲三画伯夫人の縁で、洲之内徹と出会っている。そして早速その年に、銀座の現代画廊で「高良眞木油絵展」を開いた。眞木はその際に中川一政氏に絵を見てもらったのだった。売れ残った絵のひとつ、<土>が洲之内に買い上げられ、それは後に蒐集家でもある彼の「洲之内コレクション」に加えられた。
 
  1973年、現代画廊で「高良眞木 油絵と水彩展」を開いている。同年、作品<樹>が第1回美術ジャーナル賞を受賞。また同年、日本テレビ「美の世界」で、「樹の絵」と題して、高良眞木の絵画を取り上げ、洲之内や浜田を含むインタビューを加えた番組が放映された。
 
  1979年、「高良眞木 1979」展を現代画廊および各地で開催した。新潟県新発田市の、画家佐藤哲三ゆかりであり、洲之内のゆかりでもある「画廊たべ」でもこの個展を開催した。
 
  1983年、再び新潟県新発田市の「画廊たべ」で、「高良眞木展」を開き、浜田糸衛・高良眞木を囲む座談会を開いた。この座に洲之内がいたかどうか、不明であるが、彼と高良眞木との間には、佐藤哲三夫人や浜田糸衛の介在があったのだった。
 
  1987年10月のある日、洲之内は現代画廊での高良眞木展の打ち合わせのため、真鶴に来訪して終電で帰宅した。その翌朝倒れて意識不明となり入院、1週間後に死去した。洲之内がこの世で最後に見た絵は高良眞木のものであった。
 
  洲之内は、1971年に眞木との交流が始まってから、彼女の絵に注目して大いに期待を向けてた。しかし眞木は、日中友好協会の活動に意欲を示し、絵については貪欲さがない。洲之内の助言に応じつつも、つい「気まぐれ」さを発揮して、洲之内を嘆かせるという奇妙な関係が生じていた。

高良眞木 作 「樹」

高良眞木 作 「樹」



  眞木の絵に対する洲之内の評価は、彼の代表的な二つの美術エッセイに余すところなく記されているので、紹介する。
 
  まず『絵のなかの散歩』(1973)に、眞木の「樹」という作品を本の口絵に原色刷りで出しながら、「高良眞木「樹」」という一文で作品と作者を讃えている。洲之内は、眞木の「樹」の絵から関根正二のデッサンを思い出す、と言い、「この木には木の精が棲んでいる。汎神論的な世界である。」と書いている。さらに「この無数の枝の組み方がまた面白い。これはもう写生などというものではなく、思考の図式である。」として、枝の重なり具合を細かく描写しているが、洲之内に似合わずとってつけたようで、文章が死んでいる。これはどうしたことか。次に出てくる文章がすべてを示唆していよう。
  「高良さんという人は、絵も素晴らしいが、ご本人も実に素晴らしい。私の知る限りの女性の中で、最も魅力的な人である。」これは高良眞木様にとっても有り難迷惑な話である。
  洲之内は、東京の高良家に食事に招かれたことも書いており、眞木様について、「この人には、女らしい細かな心遣いもある。…彼女は真鶴のアトリエの庭から芹(せり)や蕗(ふき)を摘んできて、ちょっとした料理を添えてくれたりするのである」と記している。そして高良武久博士と高良とみ女史を両親にもつ育ちのよさや、アメリカやパリに留学した彼女の経歴に一目置いて、それにもかかわらず日本の油絵のどんな規格にも合わずに、真鶴で独りで勝手に自分の絵を描いているのが、高良さんの魅力である、と手放しで言う。
  洲之内は高良眞木の絵への期待を募らせる一方でなのである。当時、眞木は文化大革命の最中に中国を訪れたときの次のような体験を、ある雑誌に書いていた。
  ―ひとりの若い農民が、国慶節のポスターを作っていて、画面中心の毛沢東の写真のまわりにひまわりの花を描いていた。ひまわりは毛沢東という太陽にあこがれて咲く農民自身であった。私ならもっと巧くひまわりを描けるが、しかし「彼のように描くことはできない」と思って、農民の姿に感動した、というのである。眞木のこの文章を引用して、洲之内は農民とともに毛沢東の方を向いているひまわりのような高良眞木にじれったさを感じ、高良さんは自分自身の「樹」のようないい絵に向き合ってほしい、という慨嘆でこのエッセイは終わる。
 

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  さらに洲之内は「芸術新潮」誌上の「気まぐれ美術館」の連載第17回目(1977年)の「小田原と真鶴の間」という文章の後半で、高良眞木の絵、「ダリア」と「風景」を文中に白黒で掲載して、再び眞木の絵の魅力と、日中友好より絵に向き合ってほしいという、自分の石アタマの弁を述べている。
  「アルプ」という雑誌に出す絵を借りに真鶴を訪ねたら、高良とみ様にも会って、「眞木にもっと絵を描くよう、あなたからも仰有ってください」と言われたという。眞木は、中国の農民画の画集を持ち出してきた。少女たちが鶏の世話をしている養鶏場や、飼育係が按摩をしている大豚と仔豚もいる養豚場や、山のように収穫されたとうもろこしと皮をむく人々の絵を示して、彼女は言う。「自然はただ鑑賞される対象ではない。自然に働きかける生産者農民の眼だけがとらえることのできる自然がここにある。」と。
  洲之内は「私には紙芝居の上等くらいにしか見えないのである。そこが私は焦れったい。しかし、私はもう何も言わなかった。」と諦めの念を記している。そのまま折り合いのようなものができたのか、眞木との関係は洲之内の死まで続いた。
 
  中国の農民画に眞木が見た自然と人々や生き物との共生的関わりは、おそらく眞木に重要な変化をもたらした。そんな眞木から洲之内も何らかの救いをえたのではなかったか。
 

次回の(下)の稿に続く

 



五高出身の森田正馬が創始した、神経症の森田療法

2019/01/26

  『森田療法と熊本五高-森田正馬の足跡とその後-』の本を、昨年12月末に刊行しましたが、事実上、本年の年頭を飾る出版となりました。森田療法が1919年に創始されたとすると、2019年の今年は、森田療法創始百年の記念すべき年です。
  森田正馬は、高知の出身ですが、旧制熊本五高に3年間在学し、剛毅朴訥のその風土で青春を謳歌する中で精神医学を志したのでした。ここに森田療法への萌芽があったと言えます。
  熊本での森田正馬の生活には、これまであまり光が当てられてきませんでした。
  加えて、「生活の発見会」を創成した森田の重要な直弟子、水谷啓二も五高出身でしたし、さらに、日本の社会教育の初期の発展に重要な役割を果たした、田澤義鋪、下村湖人、永杉喜輔の3人もまた五高出身者だったのであり、その社会教育の流れが、水谷と合流して、「生活の発見会」の活動が大河となっていったのでした。
  今回出版した本には、五高と森田療法をめぐる多彩な内容が収められています。
  このような本書の出版について、熊本日日新聞が注目し、編者代表の熊本大学藤瀬昇教授へのインタビューを、去る1月16日の夕刊に掲載してくれました。その記事を閲覧して頂けるように、リンクをつけておきます。
 
新聞記事(熊本日日新聞2019年1月16日夕刊より)
 
  なお、同じ内容の記事が熊本日日新聞社のホームページにも、「神経症治療の創始者の足跡をたどる 藤瀬・熊本大保健センター長ら出版」と題して掲載されていますので、ご紹介しておきます(下にリンク)。
 
神経症治療法の創始者の足跡たどる 藤瀬・熊本大保健センター長ら出版

『森田療法と熊本五高―森田正馬の足跡とその後―』出版の再紹介―京都の片隅から―

2019/01/11




 
  『森田療法と五高―森田正馬の足跡とその後―』の本が、昨年12月25日付けで出版されましたので、改めてご紹介します。
  一昨年秋、熊本大学で、「森田療法と五高」をテーマに、藤瀬昇教授を大会長として、日本森田療法学会が開催されました。それを機に、関連するいくつかの珠玉の原稿を学会後に集めて、一冊の本として編んで出版したのが、この本なのです。
  ご縁を得て、編集の末端に関わらせて頂きましたが、さまざまな原稿を一冊の本にまとめる作業は、それは大変で、中心におられる藤瀬教授の地道なご苦労は、筆舌に尽くし難いものでありました。それだけに、熊本五高と森田正馬や森田療法について、このような類書のない本を上梓できたことは、私たちの喜びとするところです。

 五高在学中に森田正馬は精神医学への道を志した。剛毅朴訥の純なる風土で、森田療法への芽が吹いた。療法を継承して「生活の発見会」を創成した水谷啓二。水谷に合流した社会教育の下村湖人や永杉喜輔。何という巡り合わせ。彼らも皆、五高出身者であった。正馬の故郷は高知だが、森田療法の故郷は熊本である。

  おもて表紙の帯の部分に、本の主旨や中身を示す案内文を載せていますので、その部分を切り取って上に再度掲げました。
  下の画像は、目次ページです。著者たちと執筆された原稿のタイトルがわかります。



  京都の片隅より、くまモンに愛をこめて―
  裏表紙にくまモンの図をあしらうことを提案させてもらいました。



  この本は、アマゾンで購入していただけます。
  熊日出版のネット販売のサイトからも、購入できます。
http://shop.kumanichi-sv.net/shopdetail/000000001320

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