森田療法のディープな世界(7) ―S翁の森田療法についての深いお話―

2024/09/24

名古屋城
 

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はじめに

 
 S翁の紹介から始めよう。S翁は、名古屋方面における森田療法の重要人物のおひとりである。目立つことをお嫌いになる謙虚なお方で、このように紹介されること自体迷惑かもしれないのだが、そこを口説いて半身のご登場をお願いした。S翁(以下、S氏)は、若き日には初期の名古屋啓心会活動をなさっていたが、さらに鈴木診療所における修行的な体験を通じ、知準師からの薫習よろしきを得て、森田療法をご自身のものとした経験を有していらっしゃる。かつて東海地区における第二次生活の発見会の発足にかかわられたが、その後自由な立場で、絶えざる研鑽をお続けになり、後進の指導にも当たってこられた。氏は森田療法の経験者にして実に賢者である。
 私は以前に名古屋地区での森田療法の普及の歴史を調べていた折りに、この方にお会いする機会を得た。われわれは齢を同じくすることもあるが、それよりも氏の滋味溢れるお人柄、森田療法の経験の深さ、そして仏教などの東洋思想についての博識さは人を惹きつけてやまない。
 S氏は、美術の分野でも造詣が深く、ご自身も絵筆を振るわれ、名古屋のチャーチル会の指導者的な立場におられる。氏の中では、美術と森田療法はどのようにつながっているのだろうか。
 ともあれ、S氏は、若き日より本物の森田療法の道のりを辿ってこられた。そしてそのような経験に基づき、森田正馬の入院原法に発する本来の森田療法への深い想いを秘めておられる。氏は、森田療法についての本物の人でありながら、その本物さを決してひけらかそうとなさらない。本物さにかけては、私は到底S氏の足元に及ばないが、S氏の本物さを引き出すことにかけては、第一人者かもしれないと自負している。
 暑かった夏の日々、そんなS氏から、暑気払いと称して、何本かの意味深いメールをいただいた。氏の森田療法観が伝わってくる。しぶしぶながらのご了承を得たので、ご紹介させて頂く。
 

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7. S翁の森田療法についての深いお話
 
1. 時代と森田療法
 
【S氏のお話】
 森田療法も時代に相応したものでしょうが、森田正馬の時代と現在の時代相とはあまりにもかけ離れているように感じていますが、如何でしょう。
鈴木知準先生の所に入寮して、森田の原法を厳しく守っていると聴いていたのでしたが、これは少し違うのではないかと当時の私は思ったものでした。
 
絶対臥褥について。
① 毎日「診察」と言って鈴木と顔を合わせる。
(私が診察室の前まで行って「おはようございます」と挨拶をかわす) ―鈴木は真剣に私の佇まいを観察する。約1秒間。全寮生に混じってです。
② 2回ほど、先輩寮生の案内で風呂に行った。(夏の暑い時期で、衛生面を考えてか)
③ 不安障害タイプの人には投薬をしていた。
 
作業の療法期の様子
① 家庭療法ではなく、寮生活療法だった。30名から多いときには40名位になると、当番制の役割分担とせざるを得ないようで、主体的な作業の割合が少なくなっている。
② 朝、日本古典の朗読はない。
③ 体操や意識的な深呼吸さえさせなかった森田だが、ここではラジオ体操を、朝晩行った。静坐も毎日夕食後に行った。
④ 雨の日など、外で作業が出来ないときなど、寮生で歌を合唱した(旧制高校寮歌)。またかるた取りなどの遊びをした。
 
 このように想いかえしてみると、鈴木知準療法とも言えなくもない。
 高良興生院では、もっとくだけた調子で、卓球やミニゴルフもあったとか。
 テレビの前の机に女性の裸体の写真が載った雑誌が置いてあり、高良が職員を叱ったことがあったとか。詳しくは判りませんが、これも高良療法というようなものになっていたようです。
 
 ことほど左様に、昭和三十年代にはすでに時代に合わせた森田療法たらざるを得なくなっていた、と言えるのではないでしょうか。他の施設は判りませんが。
 
 しからば、現代ではどのように対処したらよいのか、ということですよね。
 森田療法学会では、そのような現代に適応した森田療法を応用した方法論を打ち出して欲しいです。
 
【ミニ解説】
 森田正馬が創始した入院原法の 森田療法こそ最重要であり、その本質を守り続ける必要があることは言うまでもない。ただ、時代の変遷に伴って社会的背景が変わるので、療法の本質が受け継がれていても、当然ながら療法の姿は変化を辿ってきたのであった。さらに森田正馬とそっくり同じの治療者をもう一度輩出させることは出来ないことであるし、その必要もない。人間森田から学び、かつ森田療法的に培われた豊かな人間性をそなえた治療者が存在することが必要である。
 S氏は、さりげない言葉で、森田療法のあり方に向けて、そのような意味の重要な指摘をしておられるのである。
 第二世代の森田療法として、高良武久とその高良興生院、同じく鈴木知準とその鈴木診療所があったが、これらを見ても、療法の本質を貫きながら、治療者それぞれの人間性の熟した味わいがあり、療法の構造にも独自性があらわれていた。第二世代において既にそのようであったのだから、今日には今日の、未来には未来の森田療法のあり方があるはずである。しかし、療法の生粋の本質は、時を超え、時代を超えていつまでも通じるものでなくてはならない。
くだけた言い方をすれば、森田療法を大切に生かし続けるために、外してもいいところといけないところ、あるいは、こだわらなくていいところとこだわるべきところがあるのである。
 S氏はこのようなことへの気づきの大切さを深く示唆なさっているのである。
 森田療法の臨床や研究が今日も活発に続けられているが、現実における森田療法の真贋性を常に問い続ける必要があるのではなかろうか。ミニ解説のつもりだったが、S氏に触発されて、ついこんなことまで書いてしまった。
 

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2. 「 アバウト理入」と「しっかり行入」
 
【S氏のお話】
 私達、神経質の体験者は内外の精神医学に通じているわけではありませんし、またそこまで知る必要はないですから、ただそういうものかと思うばかりです。
私の場合、森田療法の恩恵を受けて、師と信じた人の指導についていくのみでした。
 それでも半世紀経てば、あれやこれやと探求したり、自然と心療内科的な範囲の知識や研究論文が目に触れることになります。
 
 でも基本は、アバウト理入、しっかり行入、アバウト理入、しっかり行入の繰り返しです。これは私のオリジナルで、修行に入るのに理入と行入の二つの方法があると言われていて、アバウトはいい加減という意味ではなく、ざっと頭に入れておくということ。主になるのは行(身体を使って、そのものになりきること)です。
 こういう立場ですと、理論はどこから来ても私は追求する立場にないのです。いろいろな要素が組み合わさって森田療法が出来上がり、その恩恵だけを受ければそれ以上望むものはなく、ただ知的好奇心と若干の探求心に乗って、興味津々でさまざまな研究者の説を読むばかりです。
 
ただ一つだけ言えることは、森田療法で大切なことは、自分が本当に信頼できる師(医師)に出会うことだと思います。自分の心を全部投げ出して、すべてを任せる態度ができたとき、森田療法は半ば成立している、と考えています。歳を重ねるとそのことがだんだんとわかってきました。
 今の人は、そういう意味では不幸です。外来療法ではそういう関係が出来難いからです。
 師と言っても、依存性ができてしまうと危険ですが、人徳のある師は巧みにかわしているようです。
 
【ミニ解説】
 達磨大師によるとされる禅の典籍に『二入四行論』というものがあり、自己修養の入り方、行じ方が示されている。これによれば、修養に入る方法は、知識や認識から入る「理入」と現実における実践から入る「行入」 に大別されている。
 S氏はこの「二入」に託して、自身のオリジナルな修養への入り方として、柔らかい表現で「アバウト理入」と「しっかり行入」について述べておられるわけである。
禅や大乗仏教においては、知識や認識の根本は「無分別智」であるから、それ以上の賢しらな理論は無用である。仏教や禅を森田療法に生かすに当たっても、理論にこだわらないアバウト理入でよいことは、まことに的確なご指摘である。行入については『二入四行論』では四行として分けられているが、とにかくS氏のご意見のように、師を信じてしっかり修行するばかりである。
 
【S氏のお話の続き】
 「アバウト理入」、「しっかり行入」は、今の私が言っている言葉です。鈴木先生のところでは、「アバウト理入」、「よたよた行入」で、ちょろんと仕事に入る、よたよたでいい、仕事にイヤだイヤだと思って入っていく、そのうち嫌なものが嫌でなくなる。そういう過程を通ってきています。
 その時その時で、言葉が違ってきています。言葉とはそういうものだと認識してやりなさいと教えられてきました。
 
 「神経質を超えた人は、自分の言葉で森田を語ります。ものそのものになり切った時、あるがままもへちまもありません。森田の言葉が本当にわかったのは、この頃(60歳)ですよ」と鈴木知準先生。
 「忘れて行入」、「ぴったり理入」まではなかなか。神経質で一生が終わってしまった。ま、こんなものか、と思ったらかえって欲に乗って残りを楽しみながらやっていけるような気がします。
 
 【ミニ解説】
 解説は要らない。S氏の言葉を味わうのみ。
 

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3. むすんでひらいて―世間との折り合い―
 
【S氏のお話】
 「むすんでひらいて、てをうってむすんで、またひらいててをうって、、、」(古い童謡の歌詞)
 
 これは、「むすんで」が理です。「ひらいて」が行です。「てをうって」が理解です。その手を世間との折り合いに持っていくのです。これの繰り返しが森田療法です。
 そのように、粘ってやっていくのが体験者の本音です、と勝手に思っています。
 ただ、この歌詞には深い意味があるようですね。むすんでは神道、ひらいてはほどくで仏教。
 ほどくがほとけになったという説もあるようです。
 
 「むすんでひらいて」は面白い言葉ですね。玄侑宗久の本に、この言葉が取り上げられています。ヨーロッパやアメリカに同じメロディの歌があり、讃美歌になったりしています。原曲の作曲者はフランスの哲学者のルソーであったと言われていますが、その真偽は分からないそうです。
 それよりも、不思議なことには、わが国におけるこの歌の作詞者は誰であったのか、分からないそうです。
 明治三十年代から幼児教育の場で歌われていたとのこと。
 面白いことに、戦後マッカーサー統治下、禁止されていた神仏思想をひそかに普及させるため、児童に歌わせていたとも言われているようです。
 玄侑さんも、神は結ぶもの、仏はひらくものと捉えていて、さらに華厳の思想とも重ねています。
 
 私は、「むすんでひらいて」を、体験から森田療法で理解しています。
 人間が人間社会で生きていくためには、弊害が多いけれど、言葉の「結ぶ」機能がどうしても必要になる。しかし、人は、原初のほどけたエネルギッシュな状態、つまり混沌をどこかで覚えているのでしょう。そこへ繋がる回路を、もう一つの知性として蘇らせたのが、東洋の宗教でしょう、と玄侑さんは述べています。
 言葉をほどくということ。鈴木知準もそこを言っていたのだと思います。
 
 【ミニ解説】
 「むすんでひらいて」を森田療法で理解しておられるS氏は、極めて優れた着想力の持ち主である。画家としての感性が、こういうところでも働くのであろうか。
言葉による結びの機能と原初のエネルギーの流れが織りなすところに、人間社会がある。その中に理解を見出し、世間と折り合いをつけていくことが必要であると言う。これは平易な卓見であり、森田療法にとっても、重要な着地点である。森田療法における最終章とも言うべき治癒のあり方として、世間との折り合いを重んじている点で、秀逸なご指摘である。
 
 S氏の軽やかなお話から、いくつかの貴重なご教示を頂いた。皆様にそれをご披露することを許してくださったS氏のご厚意に深謝したい。

森田療法のディープな世界 (6) ― 森田療法におけるモザイク性と真実性について―

2024/07/19

晩年の森田正馬(世を去る2年前)
 

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はじめに
 

 「森田療法のディープな世界」と題するテーマを掲げ、昨年暮れから連載を始めました。大それたテーマです。どのように繰り広げていくのか、注目してくださっていた方もおられたかもしれません。ある程度書きましたが、その後更新が遅れていました。張本人の私自身、この深い世界の問題にどのように迫り、どう取り上げればよいのかと悩みつつ時間が過ぎていたのでした。だが森田療法のディープな世界には、探るべきいくつかの問題がさらに横たわっています。最近ますますそんなことを考え続けていた日々でした。その間にいくつかの課題に遭遇しました。
 たとえば、和田重正先生が重視なさった「まごころ」について。
 これは、松田高志先生( 神戸女学院大学名誉教授 )が和田重正先生の教育思想を受けて、ご自身も「まごころ」を重んじてお書きになったご著作をお届けくださったので、それに触発されたものでした。私は和田先生と松田先生の「まごころ」と森田正馬の「純な心」の関係についてかなり考え込むことになりました。この問題は残念ながら、1編の原稿として連載に加えることはできませんでした。
 その他にも森田療法について、さまざまなことを考えた日々でしたが、空白のままになっていたディープな世界についての欄は、今回、以下の稿をもって更新します。
 臥褥と作業を柱とする入院森田療法のモザイク的構造はどのようにして成立し、かつそれは療法の真実性へとどう深められたのであろうかという問題を取り上げる小論です。
 

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6. 森田療法におけるモザイク性と真実性について
 
1 ) モザイク性
 入院森田療法の構造を大きく見ると、臥褥療法と作業療法がその根幹をなしており、入院療法はこれらの組み合わせによって成り立っている。しかし、臥褥療法も作業療法も決して新しいものではなく、どちらもヨーロッパでは19世紀以来おこなわれていた。とりわけ、わが国にも導入された作業療法については、 森田は根岸病院や巣鴨病院で、これに積極的にかかわっていたのだから、新奇なものではない。森田による入院療法の成立は、臥褥と作業という既存の個々の別のものを材とした点で、いわばモザイクなのであった。しかし単にモザイクであるにとどまらず、臥褥と作業を有機的に組み合わせたところに療法の妙があった。
 
 モザイクの謗りを免れないところは、ほかにも多々ある。
 入院療法は、指導者である家父長の森田と協力者の妻がいて、その森田家の家庭的環境に患者が受け入れられる家庭的療法でもあった。モザイクというには大き過ぎる治療的要素であるが、臥褥や作業はこのような場で展開されたのであった。
 森田が関心のおもむくままに取り入れたと思われる、さまざまな治療的行為もあって、モザイクをなしていた。自身の学生のとき、定期試験に臨んで「必死必生」の体験をしたことから、森田は初期には、患者に「恐怖突入」の指導をしたことがあり、この「恐怖突入」はしばしば催眠暗示と組み合わせておこなわれた。このような治療的側面は、神経質の療法が編み出される中に滑り込み、やがて洗練される過程で消えていった。
 読書療法も取り入れられた。神経質者に森田の自著を読ませて、神経質を自覚させ、入院へと導入したようである。森田のもとには、読書力のある知的な人たちが多く入院したのはそのためである。マッチポンプもいいところではないかと、つい言いたくなる。
 入院患者に万葉集や古今集を読ませ、最終的には古事記の音読をさせた。これは読書療法の一種であったかもしれないが、神経質者の連綿とした思考過程 を切断し、今あるのみにする手法だったのであろうか。余興も治療のうちだったし、通信指導、日記指導など、マイナーな治療が多く取り入れられていた。
 

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2 ) 臥褥について
 臥褥療法は、森田自身の経験に基づいて自然におこなわれたようである。
 森田の郷里高知では、嫁姑のいさかいの後、片方が数日間寝込む風習があり、それをヒントに絶対臥褥をつくったと森田が言ったという話がある(『形外先生言行録』)。下世話な話だが、わからないでもない。
 また森田は、精神病治療において、躁的興奮状態の患者に絶対臥褥をさせて、治療効果をあげたことがあった。さらに躁病状態の中学生の患者や苦悶状態の中学生の患者にいずれも絶対臥褥をさせて、著効を得た。これらの臨床的経験から、臥褥療法を神経質の治療に導入することになったようである。
 しかし、神経質の場合、絶対臥褥の意義は興奮を鎮める効果を超えて、より深いものとなった。そこに森田の叡知があった。絶対臥褥の眼目は次のように記されている。
 「患者の精神的煩悶、苦悩を根本的に破壊し、余の謂はゆる煩悶即解脱の心境を体得せしむるにあるのである」と(「神経質ノ本態及療法」、森田正馬全集、第二巻)。森田はまた、別の箇所で絶対臥褥に「真言宗の煩悩即菩提」を導入したとも言っており、森田が育った宗教環境の中で吸収された思想と療法の成立は無関係でなかったと考えられる。ちなみに空海の煩悩観は、煩悩なくして涅槃はないと、煩悩を肯定的にとらえるものであり、低次元の小欲としての煩悩があって、修行により、あたかもリビドーが昇華するように現実社会に尽くそうとする大欲になっていく。それが菩提であり、即身成仏とされるものである。その凝縮的な体験が絶対臥褥期の煩悩即菩提である。それは到達点であり、始まりでもある。「新規蒔(巻)き直し」(マイケル・バリント)のような体験が始まるのである。
 森田によるこのような絶対臥褥の眼目を改めて重視すべきであろう。
 

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3 ) 作業について
 臥褥と並ぶもうひとつの大きな軸は作業である。森田は、根岸病院や巣鴨病院で、作業療法の指導にかかわっており、その経験を通じて、作業は人間としての生活そのものであることを理解していたのであり、それを神経質の療法に活かしたのであった。彼の作業観はおよそ次のようである。
 作業は人間の心身の自由な活動である。人間には食欲と同じように、本能として作業欲がある。人間は生きている境涯の中で起こる興味に動かされて、作業欲を発揮して、工夫、努力するものである。しかし実行してみないと、必ずしも興味が湧くとは限らない。作業は実際生活に適していることが望ましく、成果が上がれば、ますます自信と興味が起こり、一層努力し、無念無想で三昧に入る。それが自然に適応している姿であって、作業には高下も貴賎もない。かくの如く、作業は神聖なものである。
 
 「一日作(な)さざれば一日食らわず」。
 中国の禅僧、百丈懐海にこのような言葉があった。懐海は年老いても農耕作業をやめなかった。老骨に鞭打つように作務をするので、心配した周囲の人たちは、ついに懐海の農耕道具を隠してしまった。しかし作業をできなくなった懐海は、「一日作務をしなければ、一日食べるわけにいかない」と言って、食事もとらなくなってしまったという。
 「働かざるもの食うべからず」という古いキリスト教から出た言葉があるが、これは道徳的に労働の価値を重んじ、無為を戒めたものであり、百丈懐海の作業観とはまったく異なるものである。
 懐海の思想は 、「もったいない」の精神にも通じるであろうが、作業を人間本来の活動としている点で、懐海と森田正馬の間には共通の作業観があると言えよう。
 このような人間観、作業観に基づいて作業療法がおこなわれるとき、それは功利性のない、人間愛に満ちたものとなりうる。森田の作業療法は、そのような実践であった。
 神経質者は作業に価値観を結びつけて葛藤し、作業欲が抑制される。そのような点についても、神経質者に自覚を得させるために、実際の作業療法が活用されたのであった。
 

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4 ) 臥褥から作業へ
 臥褥療法と作業療法は、それぞれが別の療法として意義を有している。これらは本来異なるものである。したがって、療法における両者の同居は、一見大いなるモザイクと映る。しかし、神経質者は苦悩を抱えたままそれを受け入れて、生きるほかないのであるから、治療的にできるのは、そのような生き方をさせるような外界や境遇の選択や提供なのであった。そこで森田の才覚が働いたのであり、臥褥と作業の置き方や組み合わせに独自の工夫を示したのである。このへんに森田の偉大さが仄見える。同時にぎこちなさも感じないわけではない。
 さて、臥褥から作業へ、つまり静から動へと進む療法の過程で、作業の段階に入ると、心身の自由な自発的活動性が十分に発揮されることが望まれる。そのため作業欲を高めることが必要で、食欲を高めるために料理に工夫が凝らされるように、手段を講じるべきであると森田は言う。
 そこで講じられたのは、まず第一に患者を隔離して臥褥させ、行動を禁じて、無聊の体験をさせ、作業欲の誘発、喚起を図ったことであった。これは、第一期の絶対臥褥に重なるものである。しかし絶対臥褥の眼目は、あくまでも「煩悶即解脱」あるいは「煩悩即菩提」であったから、矛盾が生じている。森田は第一期の意義として無聊を謳ってはいないが、実際には第一期に関して無聊に触れる記述が出てくる。
 また森田は、小児の自発性を重んじたマリア・モンテッソーリの幼児教育に関心を持ち、その教育法に共鳴して、自分の療法に活用しようとしたところがあり、この点は注目される。しかし森田は本来、作業は心身の自由な自発的活動であるとする作業観を有していたのであり、そんな根本的なところでモンテッソーリの影響を受ける必要があったのかどうか。慎重に判断せねばならないであろう。また療法の第三期に向けて、作業欲を喚起するために、モンテッソーリの教育法をどう生かしたかも、判然としない。そのことと関連するが、森田はモンテッソーリの幼児教育法について、次のように記載している(『精神療法講義』)。
 「モンテッソーリ女史の幼稚園では、すべて児童に強いて物を教えるといふ事なく、小児の自発活動を興奮させる処の手段によるのであるが、怠惰で且つ悪戯などするやうな小児は之を譴責懲戒する等の事はなく、之を病人として安楽椅子に寝かせ、他の児童の活動する有様を見せて置くのである。」
集団に入って活動することができない知的障害児や発達障害児を安楽椅子に寝かせて、集団の動きを観察さると興味を抱いて活動に加わるというこの挿話は、隔離された臥褥療法とは無関係である。強いて言えば、入院第二期から第三期に移行する過程に、この安楽椅子の挿話とやや重なるところを見出すことができる程度である。軽作業しかできない入院第二期において、第三期の本格的作業を観察していると、自分も参加したいという作業欲が湧くのである。
 一方で、森田療法の誕生には、自発性を重視するモンテッソーリの教育が大きくかかわったとして、その影響を全面的にとらえる見方がある。モンテッソーリの教育法に触発された森田が、それを生かして療法を創造したとみなして、源を大幅にモンテッソーリに帰着させるものである( 畑野文夫氏著『森田療法はこうしてできた 続 ・ 森田療法の誕生』)。このような見方は、もちろんあるところまで適正であり、森田療法の誕生に踏みこむ労作を世に送られた著者に敬意を表したい。しかしどこまで両者を同一視できるのかという問題が残る。たとえば、森田の療法は家庭的療法であったことを、モンテッソーリとの関係でどうとらえるのであろうか。また教育や精神療法の背景には、人間観があるはずである。自発性を重視するという、ひとつの共通項だけで、両者の人間観の共通性を導き出すことはできない。両者の関係を慎重に対比して、さらに深く論じる必要があろう。

 

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5 ) 療法の真実性
 秋元波留夫は、著書『迷彩の道標』(1985)の中の「森田療法の誕生」と題する章で、この療法が森田正馬によっていかにして創案されたかについて、深くかつ適確な記述をしている。秋元はおよそ次のように指摘している。森田療法の特異性は、神経質の主要症状である恐怖、不安、苦痛を「あるがままに受け入れる」受容的心がまえの確立を治療の眼目としている点にあり、それを可能にするために外界の治療的セッティングが必要であった。そのため森田は、苦悩と対決する臥褥と自発的活動である作業をたくみに有機的に組み合わせて取り入れて、療法を創案したものであると。つまり、言ってみれば、臥褥と作業のモザイク性の必要性とその成功が秋元によって述べられているのである。
 しかし森田療法の真価は、単にモザイク性が成功した地点にあるのであろうか。むしろ、モザイク性は出発点だったのではないか。もとより森田はモザイクの範疇におさまりきれるような人でなかった。森田は、臥褥や作業を受け入れる治療の物理的な場を自宅に設定して、家庭的療法を開始したのだが、そこで 患者と生活を共にしたところに森田の真骨頂があった。
 森田家では人工的に設定された場であることを超えて、森田夫妻と入院患者たちとの共同生活が繰り広げられる中で、治療者の生身の人間性がいかんなく発揮された。たくまずして、人間森田が患者を薫陶した。森田の療法は、脚本のない療法であった。
 臨場感あふれるそんな場では、夫妻げんかも公開であった。入院患者たちの前で、本ものの夫婦げんかをすると、見ていた人たちに向かって、どちらが正しいか言えと森田は迫る。
 治療の場はあってないがごとくで、森田が患者と共に行くところ、あらゆる場へと広がりを見せた。森田は入院中に、見舞いに来た新弟子の医師に、自分の腸洗浄を見学させたエピソードもあった。
 このような治療者像は、臥褥と作業を統合したモザイク性に療法の完成を意図した当初のレベルをはるか超えたところに現出している。
 こうして、森田自身の意図をも超越したレベルに、森田ならではの療法の真実性があったと言わざるを得ない。森田が最初に設定した森田家という治療の場が、人工的な舞台性を失うには、さほど時間はかからなかった。そして同じ森田家における、治療者と患者の共同生活の場を自然な舞台として、本ものの人間ドラマが展開されたのであった。そこで森田と患者たちが交わった躍動的な姿に、森田療法の真実性を読み取ることができる。療法の真実性は、おのずからやって来た。
 森田の療法は、森田がたどり着いた臥褥と作業のモザイク性を到達点としていながら、治療者としての人間森田の存在により、モザイクにおのずから魂が吹き込まれたのである。森田が作った仏に森田の魂が入った入魂の療法、それが森田療法なのである。

森田療法のディープな世界(5)―森田療法の神髄というもの―

2024/02/18

三聖病院には、森田療法の神髄に迫るような独特の雰囲気が漂っていた。
 

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5. 森田療法の神髄というもの
 
 森田療法は、戦後に低迷期があったが、その後次第に見直されるようになった。精神医学の西洋化の中で、森田療法はやはり日本人に馴染む療法として復活した。とりわけ神経症については、西洋の精神医学より森田療法の方が実際の臨床に即応するという面もあった。そして療法の再評価の風潮は、森田療法の真髄、あるいは神髄を改めて明らかにしようとする流れにつながった。用語として、真髄と神髄があるが、ここではあえて神髄を採っておく。しかし最近では森田療法のその神髄とやらを問う人は少なくなった。この療法の中心、核心、あるいは本質と言ってよいものだろうが、それはどこにあるのか、わからないままに、わからないことに慣れてしまっている。もっとも、神髄はと問われても立ち所に答えられない、つかみ所のなさが、この療法にはある。神髄は重要だが、画然としない。それはそれで仕方がない。自分はどちらかと言えば、森田療法は神経質や神経症の療法に特化されるのではなく、万人の生き方にかかわるものであるとする見方を取っている。神経症者に限定せずに、人間として日々の生活をひたすら生き尽くすことを本位としていると思う。神髄は画然としなくてもいいが、森田療法を本気でやっていれば、神髄の深さへの認識が生じるのではなかろうか。この療法の神髄はディープであり、しかもそれは日常生活の中に深く流れているからディープなのである。南條幸弘先生のご著書『ソフト森田療法―しなやかに生きる』があるが、日常の中にある森田療法の深さを示している点で好著であった。
 

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 さて、森田療法の神髄なるものについて、私なりに不十分ながら少し具体的に触れておくことにする。森田療法にとって、大切なもの、重要なもの、貴重なものがある。欠落したら森田療法でなくなるものである。それを神髄とみなせば、ほぼ当たっているだろう。それが欠落している事態、つまり欠如態に接して、気づくことがある。神髄が行方不明になっていたと知って、愕然とするのである。
 露骨になるが、エピソードを出してみる。10年あまり前のこと、日本森田療法学会での総会で、あるやり取りがあったことを鮮明に記憶している。フロアから、あるNPO法人の医師が質問をされた。「自殺者3万人のこの時代に、日本森田療法学会はどう対処するのですか?」 これに対して理事長は「理事会ではかっておきます」とお答えになった。
 質問者のこの同じ医師は、別の年には、学会活動における資金問題について質問をされた。かつては森田正馬の金銭感覚がひとつの問題であったのだが、今日における学会の金銭感覚が問われたのであった。森田療法では、とりわけ生の欲望が重視される。その森田療法の学会の自殺防止についての姿勢や、学会活動と金銭というような現実の問題こそ、神髄から発するものでなければならない。神髄は観念的な二文字ではなく、森田療法についての信条や行動につながる立脚点であるはずである。神髄は足元にある。質問者は学会に対して「照顧脚下」を問いかけたのであった。
 

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 神髄の問題は、三聖病院でよく考えさせられたことでもあった。三聖病院は、いかにも神髄が棲んでいそうな雰囲気の病院で、そこには、神髄に触れたかのような感覚を引き起こす空気が流れていた。院内には「斯くあるべしといふ 猶ほ虚偽たり あるがままに有る即ち真実なり」と書かれた森田正馬の墨跡が掲げられていた。それは、「あるがまま」を療法の神髄として指し示すものであった。しかし「あるがまま」を対象化して、説明を加えれば「あるがまま」ではなくなる。それゆえ、言葉のない「あるがまま」の生活があるのみとして、無言に近い生活が推奨されていた。そのような病院の談話のない暗示的な雰囲気の中に、森田療法の神髄が漂っているように感じられたのだった。
 

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 森田療法の神髄の所在を、東洋的な思想の中に求めようとする向きもある。「自然に服従し 境遇に柔順なれ」といった森田の言葉が、療法を象徴するものとして、しばしば取り上げられる。それはまさしく的を射ているようなのだが、森田療法に対する思想的、観念的な机上の評価の域内にとどまりかねない。これは心すべきことであり、森田療法の神髄は、森田療法論から一歩出たところにこそあるのだと知るべきであろう。
 

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 かくして、手を変え品を変え、神髄をとらえようとしても、神髄は、あるいは神髄のそのまた神髄はするりとどこかに行ってしまうのである。われわれは、神髄を捕捉することを諦めて、日々の生活を孜々として歩むほかないのである。そこにいつの間にか、神髄が立ち現れているかもしれない。禅の「サトリ」はそんなものであると言われるけれども、森田療法の神髄探しもそれと似ているのである。

森田療法のディープな世界(4)―森田療法における治療者の条件―

2024/01/27

森田正馬と宇佐玄雄の肖像(三聖病院の作業室に掲げられていたもの)
 

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4. 森田療法における治療者の条件
 
 堅苦しい題目を掲げたが、なるべく難解にならないように書き進めたい。
 
1) 森田療法は療法か。
 森田療法は、単に理論や技法をもってする療法ではない。その点で他の精神療法とは大きく趣を異にする。医師である森田が、悩み多き神経質者を対象に、自身の「療法」を創始したので、そのままひとつの精神療法として収まりがついてしまった。だが、このような収まり方は、森田療法というもの自体にとって違和感のあるものである。森田療法は、私たち人間が苦楽と共に生きていく生活そのもの、人生そのものである。ではこの「療法」において、治療することとされること、つまり治療者患者関係はどのようにして成立するか。同様に治療者が治療者たりうるために必要な条件とは何か。森田療法が「療法」ならば、これらはその本質にかかわるがゆえに、問いたいことである。
 
 森田が創始した本療法は、治療者の自宅という家庭的な環境に患者が受け入れられて、父権的な治療者の指導を受けながら生活を共にするものであった。このような治療の場では、おのずから治療者の全人格が患者たちを前にしてあからさまに発揮された。たとえば、森田は患者たちの目の前でほんものの夫婦喧嘩をして、患者たちに対して、自分と妻のどちらが正しいか言えと迫ったのである。そこでは、精神療法やカウンセリングで問題にされるような、治療者の自己一致(ロジャース)とか自己開示とかいうレベルを超えて、真に迫る生きざまが、あるがままに展開されていたのだった。しかし森田正馬の原法以来、それを継承する多数の人たちが、多様にかかわってきた中で、本療法は変遷を見た。したがって、治療者のあり方を改めて見直すべき時に来ていると言えるだろう。
 ものものしくなったが、以下、主に森田療法における治療者の条件について、思いつくことを取り上げてみる。
 

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2) 治療者は神経質者であることが望ましいのか。
 森田療法は、体験を通じて体得されるものなのであるから、治療者は神経質者として治療経験を有している人であることが望ましいとして、それが重要視される面がある。しかし、神経質体験が絶対視され、それが治療者の必須の条件のごとくみなされるならば、それは偏見と言うべきで、許容し難い。森田療法は必ずしも、神経質本位制のものではなく、人間本位制のものなのである。したがって神経質であることが森田療法の治療者の条件になるかという、よくある神経質な問い立てはほとんど用をなさない。では誰でも治療者になり得るかと言うと、問題はそんなに簡単ではない。
 人間本位制の面から、治療者のあり方を問題にすることはできる。それは、私たちの日常における人間同士の交わりで起こる現象と変わらない。厳しく鍛えて育ててくれる人がいる。優しく察して包んでくれる人がいる。こんな人たちとの交わりによって、私たちは生かされ、救われている。逆の立場になって相手にかかわることもあるだろう。これが日常における私たちの森田療法的な体験である。
 森田療法における治療者の条件は、日常の延長として、日常の中にある森田療法を、患者たちを相手に凝縮的に再現できる人たり得ることである。それが、森田療法家であることの人間的な必要条件であろう。もちろん、ここで治療者の全人格が問われることになる。
 

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3) 家父長としての治療者
 森田正馬は、自身が始めた療法を振り返って、自然療法、体験療法、家庭的療法などと称した。自然療法や体験療法という呼び方は、療法の中身を端的に表していて、わかりやすい。一方、家庭的療法という地味な名称は、注目されにくい。しかし森田の療法は、自宅に入院を受け入れて、家族の一員として同居させ、家庭生活を共にしながら、家父長である治療者が、妻の協力も得て患者らを指導したものであった。このような治療の方法や内容は、他に類を見ない出色のものであった。入院原法の方式の特徴として、よく知られていながら、当時の古き大家族制の文化の中で行われたことであったとして、歴史的に一線を画して捉える向きが多い。確かに文化的背景が大家族的な療法を可能ならしめたひとつの要因であったとは言える。しかし、森田夫妻は家族としてふたりきりであり、大きな建物や広い地所を入手して、そこに従業員や入院患者を受け入れて、森田は大家族的な入院治療を実施したのであった。森田のそのような意図と行動力は驚嘆に値する。単に家庭的療法という名称から浮かびそうな、ありきたりのものではなかった。入院治療の原型として、重要な場と構造があり、そして家父長であり師であり、生身の人間である治療者と家族同然の患者たちとの間に、生き生きとした交流が展開された。治療者の厳しさを母性的に補う役割を果たす森田夫人もいた。入院患者が加わって、結果として大家族的な集団となったのだが、この森田療法を過去のものとしてに葬ってはならないと思う。
 
 4期からなる入院森田療法は、一気に出来上がったものではなく、森田が工夫を重ねて完成したものであった。
 わが国では、落語などの古典芸能や相撲などの世界において、家父長的大家族的集団の中で、師弟関係を軸として、弟子が育成されてきた。森田がそれを念頭においたかわからない。さらには禅の世界での上下の人間関係がある。わが国におけるそのような人間教育の歴史から見て、森田の療法はそれらに通じる面がある。と共に、逆に森田ならではの独特の人間の生かし方がある。まず制度ありきではなく、森田という治療者と患者が、療法の中で一体になって進むところに、その本領があったと思えるのである。
 
 一方、西洋においても、古典的な人間教育があったし、近年の自由な教育もあった。古くは、ドイツに職業教育としてギルドの徒弟制度があり、それは現代にもマイスター制として継承されている。わが国の師弟関係の教育に近いものがあるから視野に入れてもよいが、森田療法は神経質の療法として創始された点で、単純に比較することはできない。
 また、西洋の新しい教育の流れとの関係で、自分の小さな体験を言うと、かつてフランスで森田療法を紹介したとき、あるフランス人が、森田療法は自由を重視するフレネの教育に似ていると言った。私は意味がわからなかったが、森田療法において、感じから出発して、外界へ向けて自分を自由に生かすところが理解されたのかもしれなかった。
 森田がイタリアのマリア・モンテッソーリの教育に関心を持ち、その影響を受けたことはよく知られている。モンテッソーリは、集団に入って行動できない障害のある子どもを、まずは外部から集団を観察させて、興味が募ってきたところで自発性を生かして、集団の動きに入らせるという方法をとった。これにヒントを得て、森田は第2期の患者をまずは第3期の作業から距離をおいて観察をさせ、自発性を溜めて、第3期へと入らせたのであった。
 

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4) 治療者の純な心
 森田療法における治療者の条件として、その全人格が問われることをすでに述べたが、人格の中心にあるものは、純な心であろう。そこで、純な心についてふれておきたい。
 森田は、純な心の重要性を繰り返し教えている。純な心という呼称は、森田の独自のものだが、それは本来人間にあまねくそなわっている心性であるとともに、森田療法の根源にある重要なものである。純な心は、人間誰にでもある。あるいは、あるはずのものである。しかしその原型は素朴であり、未熟な性質にとどまっていることもある。また、それは内在しているのだが、すなおに発揮されないこともある。森田の言うごとく、いわゆる初一念にあたるのだが、第二念、第三念が発生して、初一念を打ち消してしまうのである。このように、純な心はひとつでありながら、育てられて質的に純化していく面がある。
 古歌に曰く、
 「生まれ子の次第次第に知恵づきて 仏に遠くなるぞ悲しき」。
 これは、赤ん坊に授かった純な心とその行方を、嘆きながら見守っているものと解せよう。成長とともに純な心が、変質することもあるのである。純な心は実はこのように複雑で流動的なものである。そんな純な心を大切にし、体験を通じて育て、陶冶すること、それが森田療法なのである。
 かつて子どもたちは、老人から、「困っている人を見たら助けてやれ、弱い者いじめをするな、人に迷惑をかけるな」と教えられた。森田療法に等しい古老の教えであるが、そんな古老たちは今はいない。
 現代社会において、純な心を失わずに、生かすこと。それが私たちの課題になっている。複雑な人間関係の中で、他者の気持ちを察して援助をできる人であるためには、自分の側に他者を察知するセンサーとしての感受性がなくてはならず、また共感的に理解できる感性が求められるし、さらには状況判断力や行動力も要る。現代社会ではこのような条件が必要となる。しかし人間であることに変わりはない。心の内奥にある貴重なものとしての純な心を、失わずに生かすことが、私たちの最大の課題である。
 助け合う方がうまく生きていける。辛いことは耐えるしか仕方がない。でも辛さを分かち合って生きていけば、少しでも救われる。辛い相手を放っておけなくて、同行二人の道のりを歩む。
 悟るとか治るとか自覚するとか言うのは、純な心に目覚め直すことではなかろうか。自利と利他の区別すらない、未分の世界である。虚飾にとらわれたり、我欲にまみれたりたりせずに、すなおに生きる。それが人間の自由というものである。そのような生活に精一杯にいそしんでいる人たちが、私たちにとっての師であると思う。人生の苦楽をそのままに、自分らしく生きているその人たちは、森田療法にこだわっている私たちより、おそらく一歩先にいるのだから。

森田療法のディープな世界(3) ―「悩む力」としての神経質の本態―

2023/12/24

 

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3. 「悩む力」としての神経質の本態
 
1 ) 療法の原点
 森田療法に禅に通じる面があることは一般に知られてきた。けれども、この問題に正面から迫ることは難しい。森田療法家の多くは禅を極めていないし、禅家たちの多くは森田療法を知らないようであるから、知らぬ者同士である。森田療法と禅の双方に精通して、両者の関係を明らかにできる権威者とては不在に等しい。
 療法の創始者、森田正馬自身においてさえ、その内面で禅への関心と批判が葛藤していた。森田正馬はいきなり禅を活用したのではなく、神経質の治療にあたって創意工夫をして、それが禅と重なっていったのだった。そこで療法の成立をさかのぼって、禅との関係の原点を神経質者の心理的特性に探ってみたい。
 

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2 ) 悩める葦
 人間は考える葦であると言われるが、人間は考えるがゆえに悩む。神経質者は、考える一茎の葦であるが、同時に悩める一茎の葦なのである。神経質者は悩みによって成長する。したがって神経質者には悩んで成長する特有の力があるとして、それを「悩む力」と呼ぶことができよう。ただし、その「悩む力」は、素質として体質的に秘められていると捉えうるのかどうか。その点は少し議論が必要であろう。
 

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3 ) 弱さを生きる
 人間は誰しも四苦八苦を生きねばならないか弱い存在である。そのような人生の苦に対して、神経質者はとくに敏感である。森田は神経質の特徴のある部分を指して、ヒポコンドリー性基調と称したが、これは神経質者のそのような敏感さを指してのことだったのであろう。何かにつけて悩みやすい、悩まざるをえない性質を有しているのである。ここまでは素質であり、神経質者は悩みを経験するように仕込まれている。そして、悩む経験から、悩みのままで生きていく力が育まれる。つまり「悩む人」としての生来的な特徴を有するがゆえに、「悩む力」を自己涵養する契機に恵まれているのである。
 

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 「悩む力」は弱さではなく、ひとつの強さなのである。森田正馬自身、形外会で「弱くなりきる」ことを教えているので、次にそれを引用しておく。
 
 「自分が小さい、劣等である、どうにもしかたがないと、行きづまった時に、そこに工夫も方法も、尽き果てて、弱くなりきる、という事になる。この時に自分の境遇上、ある場合に、行くべきところ・しなければならぬ事などに対して、静かにこれを見つめて、しかたなく、思いきってこれを実行する。これが突破するという事であり、「窮して通ず」という事である。」(第28回 形外会、森田正馬全集 第五巻、p.282)
 
 弱い自分のままで、しかたなく行動するとき、事態が突破され、「窮して通ず」になると、森田は教えている。禅では、悩みや苦しみの果てに、「大疑ありて大悟あり」という転回の境地があるとするが、「窮して通ず」という森田の教えは、「大疑ありて大悟あり」につながるものである。
 

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 森田は、苦痛とともに生きた人物の例として、正岡子規を挙げた。また少し長くなるが、形外会での森田の語りを以下に引用しておく。
 
 「正岡子規は、肺結核と脊椎カリエスで、永い年数、仰臥のままであった。そして運命を堪え忍ばずに、貧乏と苦痛とに泣いた。(…)それでも、歌や俳句や、随筆を書かずにはいられなかった。その病中に書かれたものは、ずいぶんの大部であり、それが生活の資にもなった。子規は不幸のどん底にありながら、運命を堪え忍ばずに、実に運命を切り開いていったということは、できないであろうか。これが安心立命ではあるまいか。」(第25回 形外会、森田正馬全集 第五巻、p. 261)
 
 正岡子規の生きざまは、森田が示した「弱くなりきる」ことを実際に体現した人物として、まざまざと私たちに迫ってくる。
 
 次に、一風変わった 博多の禅僧、仙厓義梵が柳の姿をよんだ狂句があるので取り上げておく。
 
 「気に入らぬ風もあろうに柳かな」
 
 風に吹かれるままに抵抗せずにしなっている柳の弱い姿は、即ち強靱さにほかならないのである。
 
 一方、意外にも最近の治療思想の中に、森田療法に通じる教えを見出すこともある。マインドフルネス瞑想の指導者、ジョン カバット-ジン Jon Kabat-Zinn は次のように教えている。
 
 ” You Have to Be Strong Enough to Be Weak ” (弱者でいられるだけの強さを持て)と。
 
 それは、いつの世にも重要な人間の生き方なのである。
 

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 以上に、森田療法で本来の治療対象とされた神経質というものに秘められた性質について考えてみた。神経質者は、「悩む人」としての生来的な特徴に発して、弱さを生き、「悩む力」を自己涵養できる人である。神経質の本態は、そのような素質から成長までの全過程にあるとみなすことができる。また、その治癒過程における禅的な契機についても少し触れた。

森田療法のディープな世界(2) ―わが森田療法との出会い―

2023/12/17


 

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2.わが森田療法との出会い
 
 私は京都の地で、三聖病院との出会いによって森田療法に入門した。神経質な人間であるから、勤務しながら自分も森田療法に救われたところが確かにあった。振り返っても感謝は尽きない。三聖病院には、ある種のディープな森田療法があって、それが私に染みたのである。そこは禅的色彩の濃い病院で、優しくて澄んだ眼をした院長が物静かに指導をしておられた。その姿を師と仰ぎ、自分はこの病院の独特の深みの中で、歳月を過ごしたのであった。しかしながら、三聖病院に浸っているうちに、医師としての自分の責任を自覚し、ここでの森田療法の独特のあり方について考えねばならないという因果に落ちていった。かくして、私にとって森田療法との出会いは、親和性から始まって、責任感に転化した。私は未だにこのような因果を引きずっている。因果に落ちず、因果を晦まさずに、三聖病院との出会いとそこでの体験を問い直しながら、森田療法のディープなあり方を探っていくことにする。
 

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 出会いには伏線があった。
 
 かつて反精神医学の嵐が吹き荒れ、大学における精神科の医局講座制は解体へと向かっていった。そのうねりに翻弄された世代のひとりであるが、研修には恵まれず、研究を罪悪視する風潮の中で、大学外の精神病院のいくつかに勤務することを余儀なくされ、旧態依然とした精神医療に浸かる年月を過ごした。いわゆる社会的入院の患者さんが多かったし、また慢性期の病勢が進み、生涯を病院内で過ごす運命にある人たちが多くいた。反精神医学の運動が、この人たちに対してどれだけの福音になるのか。活動する精神科医師たちの中には、挫折して自殺した人もいた。私は治療効果を上げることができない困難な精神障害の人たちを前にして、日々の臨床に虚しさと無力感を感じて、疲弊が募っていった。そんな悩みを、ある先輩に相談したことがある。「それを言う時は辞める時や」と先輩は答えた。燃え尽きた自分は、先輩に言われたごとく、精神医療の第一線から退いた。そして心身医学の領域に身を転じた。
 

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 自分は入局当初から、精神だけでなく、心身を一体のものとして捉える心身医学への関心を持ち続けていたという事情もあった。しかし今にして思えば、自分が燃え尽きたあの精神医療の第一線にこそ、森田療法があった。来る日来る日を病棟の中で過ごしている精神障害の人たちに、それぞれの人生がある。治療者は、その人たちと「同行」するという重要な役割を負う。そこに本物の森田療法があったのだ。最近になって、つくづくそんなことに気づき、忸怩たる思いでいる。
 

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 とにかく、私は新たに心身医学の領域に入っていった。と言っても、いわゆる心療内科は九州大学にしかなかった時代のことである。そこで私は心身医学の勉強のために九州大学に通ったこともある。しかし九州大学の池見教授は、大学の中で全人医療を唱えながら、一方で心療内科をさらに専門的に細分化しておられたので驚いた。そんな自分は、京都市内にある企業体内の病院に勤務し、職場で働く人たちの健康管理に従事した。そして、その病院の近くにあった三聖病院に、昭和49年から非常勤で勤務させてもらうことになった。数年後、フランスに心身医学や精神医学を学んだが、そこで逆にフランス人から日本の精神療法について問われる立場になった。その体験から改めてわが国の森田療法への関心が深まり、帰国後再び三聖病院に戻るとともに、フランス人に森田療法を伝える活動を開始した。しかしそのような当時の自分の浅はかさを、今は思わざるを得ない。
 
 まず、三聖病院に出会って、この病院に魅された自分がいた。禅寺を模した木造の古色蒼然とした建物の中に漂う不思議な雰囲気、院長の靜かなお人柄、一貫している禅的な教え。そこは現実離れした治療の場であった。その非現実性が禅と結びついていたのである。自分はその非現実性を現実に置き換える必要性に思い至ることなく、それを森田療法そのものとして、フランス人に伝えようとしていたのだった。 そして、そんな誤りへの悔いから目覚めていった過程に、もうひとつのわが森田療法との出会いがあったことを付け加えておかねばならない。

森田療法のディープな世界 (1)― 存在の深みにおけるディープな療法―

2023/12/11

 

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1. 存在の深みにおけるディープな療法
 
 人間は限りなく深い。森田療法という古めかしい療法は、いつの世も変わらず、人間のその存在の深みに迫る。
 森田療法は、臨床的には神経質の療法として確立された。そして、とらわれている生の欲望を解放し、創造性へ向けて可能性を拓くことがこの療法の趣旨であると理解されている。だが森田療法はそれだけのものではなかろう。人間は、人それぞれに、帰らぬもの、涸れたもの、失ったもの、そして悲しみや虚しさや理不尽なものを抱えながら、そのままに生きねばならないし、また死んでいかねばならない存在者である。森田自身、神経質の療法としながらも、療法の原点を釈尊が体験した「生老病死」の四苦に求め、かつ「煩悩即菩提」という仏教思想を生かして療法を始めたのであった。本来、このような深い次元に森田療法の本質があるのだと思う。
 

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 軽くて便宜的な森田療法を一概に否定はしない。大仰でなくていい。日常の生活の中に、深い森田療法の叡知が生かされていればいいのだから。更に言うなら、森田療法という療法名を知らずとも、人びとがそれぞれの人生を生き尽くしていればいいのだから。結局、森田療法に拘泥する必要はないのであるが、この療法にある折角の本質を忘れてはなるまい。本質的に人間は森田療法的にしか生きることはできないのである。
 

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 しかし、昨今、社会の精神病理に対して、深みに迫るアプローチは乏しく、それを追っかけるがごとく、森田療法も精神療法の浅瀬へと広がって行きつつある。深みに戻ろう。ディープな森田療法に戻ろうと言いたいのである。それは危険かも知れないし、祈りのようになってしまうかも知れない。しかし、浅瀬よりも深みであえぐ人をこそ救うべきではないか。森田療法の真髄もその深みにあるのだから、と思う。
 

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 私自身はと言えば、精神科医師として生涯 の後半になってから、京都のある病院で森田療法に初めてふれた。それは何かを秘める、または何も秘めていない不思議な禅的な療法で、いつしか私は自分の方向性をそんな森田療法に転じたのだった。
 私が出会ったその森田療法が、言うところのディープな森田療法を代表するものであったのかどうか。それは問題である。ともあれ、わが森田療法との出会いはそこにあったので、その体験と顛末を回顧して、次回以降に述べながら、それをよすがにディープな森田療法について考えていきたい。

【興味ある新刊書を語る】南條幸弘先生著『しなやかに生きる ソフト森田療法』(白楊社、2023)

2023/09/14


 

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 南條幸弘先生は、森田療法の分野で、「神経質礼賛」のブログ活動の展開と同名の著書『神経質礼賛』(白楊社、2011)で、神経質の理解者として親しみを持たれ、広く知られている精神科医である。最近、南條ファン待望の新刊書が同じ白楊社から上梓された。それは『しなやかに生きる ソフト森田療法』と題される、とても「しなやか」な書である。その本の外見の印象を、いきなり述べることを許して頂こう。ソフトカバーの表紙には、緑を背景に小さな紅い花がそっと咲いている写真が出ていて、そのさりげない鮮やかさに視線を奪われる。先生はこの著書の中で、森田が引用した禅語「花紅柳緑(柳緑花紅)」について述べておられ、そこで紅と緑の対照に触れておられるのだが、その趣旨と呼応して、この表紙の写真が一層印象深く感じられる。(著書中で述べられているこの禅語に関することは、後述する。)
 

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 さてカバーの写真のみならず、この本が放つインパクトは、そのタイトルのネーミングにある。本書のメインタイトルは「ソフト森田療法」であり、「しなやかに生きる」はサブタイトルであると見受けるのだけれど、背表紙に「しなやかに生きる」は、より小さな活字ながら「ソフト森田療法」の上位に置かれているし、また表表紙には「ソフト森田療法」が大きな活字で縦書きで大書されて、メインタイトルの地位を保っているものの、不思議なことにその右側、つまり縦書きの場合に先行する行に「しなやかに生きる」が、小さな活字で添えられているのである。
 
 このようにメインタイトルとサブタイトルの表記において、両者の順列の境界を限りなく不明にしておられることに、筆者は静かなインパクトを受け、考え込んでしまった。出版社側には、必ずしもメインタイトルの下位にこだわらず、サブタイトルの意味や味わいが伝わるように、自由な位置を与える意図があるのだろうか。もちろんそれは、著者の意図するサブタイトルの意味が、汲み取られてのことであろう。そして南條先生のこのご著作の副題、「しなやかに生きる」には、先生の深い森田療法観が含まれているのであろう。タイトルのネーミングにおけるこのような副題の位置づけの妙から、その意味の深さが窺われるようだ。
 

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 ところが、この「しなやかに生きる」というフレーズについて、南條先生はあからさまに語っておられない。「しなやか」という言葉の語義は、辞書的には「柔軟さ」や「弾力性があること」を意味している。「自然に服従し、境遇に柔順なれ」という森田正馬の重要な教えがあるが、これは本書の中で取り上げておられ(第12章)、「しなやかに生きる」は、まさに森田のその教えに相当すると言えるかと思う。また柔軟さについては、禅僧の仙厓義梵の「堪忍柳画賛」における句、「気に入らぬ風もあろうに柳かな」があって、これも同じ章で、森田の教えとして紹介されている。暴風が吹いても、吹かれるままに自在にしなる柳は、「しなやかに生きる」姿そのものである。
 

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 しかし南條先生の森田療法一筋の長いご経験による一流の森田療法観が、ご著書の副題と重なっていると受け取るのが、最も自然かもしれない。それは、メインタイトルの「ソフト森田療法」の名称にもつながっているようである。
 「ソフト森田療法」については、本書の冒頭に説明があり、それは広い意味での森田療法、すなわち森田療法的アプローチということであると書いておられる。しかし、そのようにおっしゃる背景には、ご自身の足跡がある。浜松医大で先生が師事なさった大原健士郎教授は、精神科の入院治療のベースに森田療法を取り入れておられた。その「浜松方式」をご経験の上で、先生は三島森田病院で、神経症を対象とする森田療法の原法とともに、統合失調症などの人たちを中心とする精神科診療に従事してこられた。その三島森田病院において、デイケアの社会復帰プログラムに森田療法を応用する試みをなさったそうである。その取り組みとして、実際に生活上で困った場面で参考になる講義プランを用意し、「ワンポイント森田」と題してデイケアで実践なさったのだった。それに対して入院患者さんや多方面から大きな反響があった。そのような「ワンポイント森田」としてのかかわりの経験が、この著書の元になっている。
 
 ちなみに本書は、第1章 「不安に襲われる時」から始まって、計20章、困った場面が掲げられているが、これはそのような本書の成立に由来する。しかし各章では、症状というより、悩みの特質がまず述べられている。神経質/神経症における症状別の対処法というようなマニュアルの提供は意図されていない。また森田療法の理論的説明もほとんどなく、章ごとの後半で、「ソフト森田」として、森田療法の基本を生かして歩を進める対処法が示されているのである。それが本書の構成の特徴である。森田療法の原法に熟達しておられる南條先生にして、原法にとらわれず、森田療法を広く活用して、「しなやかに生きる」ことを勧め、ご自身も森田療法家として、「守破離」さながらに、しなやかな活動を展開なさっておられる。
 

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 筆者の知人、名古屋の杉本二郎氏は、森田療法についての豊かな経験と学識を有する方であるが、日ごろから南條先生のご活動に深い関心を示されている。この杉本氏から、改めてご意見が届いたので、次にご紹介しよう。
 
 「一言で南條先生の印象を申し上げれば、私たちより20年若いだけに、森田療法から軽やかに超えて、現代の情勢に合わせた神経質のあり方を提示しているように感じます。厳しい管理社会の中、少しずつ多様性の芽が出てきている社会情勢にあって、それに合わせるかたちで、神経質であっても、「それでいいではないか」、「日常生活をそれでやっていこう」という姿勢が顕著にみられる、と思っています。
 師匠の大原先生が「ネオ森田」を提唱なさった例にならって、「ソフト森田」という名づけ方をされたのかな、と思います。」
 
 「 南條先生が、他の先生がたと相違するところは、ご自身が森田療法を知る前に、「症状(対人恐怖とうつ)がありながらも、なすべきことをしていくほかない」として、結果的にすでに森田療法を実践しておられたことです。そしてそれで乗り越えられた点ではないでしょうか。これがあったればこそ、後にクライアントを直に健全な日常生活に引き込んで指導していく、ということができたのではないでしょうか。
 森田先生の言葉でも、要点だけ、生活指導の後に小出しにされています。そして、なるべく森田療法を看板にして表に出さないようにしていると、ブログにも書いてあったと思います。
 そんな南條先生のやり方が、逆に新しい時代の森田療法のあり方となって、道が開けていく可能性があると感じています。それが「ソフト森田療法」かもしれません。」
 
 「「しなやかに生きる」ということについては、『神経質礼賛』の中で、「ぶざまでよい、ダメ人間でよい、できることをやっていくだけである」と述べられているのが、近いかもしれません。それによって心が次第に開けていく、という見通しを持ってのことでしょうが。」
 
 杉本氏は、第二世代の鈴木知準先生に師事なさった方で、その経験をご自身の立脚点にしておられるが、南條先生のソフト森田療法に、未来に通じる新時代のものを見ておられて、興味深い。
 

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 著者の長年の経験の上に本書が誕生した背景事情や、出来上がった本書の構成は、向き合ってみると意外に複雑で、筆者としては、読者が本書の入り口で少し理解に手間取るかもしれないという、神経質な心配にとらわれたのだった。そのため、ここまで、あえて紙幅を取って、解説めいたことを総合的に書かせて頂いた。
 さて、通販の本書のページには、次のような説明が記されている。「各章は2部構成で、前半ではそれぞれの悩みの性質を、後半では森田療法の基本的な考え方とともに、すぐに取り入れられる対処法「ソフト森田」を解説。今日から役立つ森田療法の入門書です。」
 

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 このような入門案内に誘われて、筆者も、いざ入門した。そこで本書の内容について、部分的になるが、個人的に印象深く感じたくだりを、紹介したい。
 南條先生は、いろいろな悩みについて、東西の先人たちが体験したエピソードを多く紹介しておられ、その博識さで、楽しく読ませて頂ける。たとえば、第4章「意欲がわかない時」には、自由律の俳人、種田山頭火の俳句が示されているし、第6章「緊張して困る時」には、ノルウェーの作曲家グリーグがポケットの中のカエルの置物を握りしめて気持ちを落ち着かせたことや、大相撲の力士・高見盛の自分を奮い立たせる奇妙な動作が挙げられており、第7章「腹が立って仕方がない時」には、大隈重信の怒りの静め方や作曲家バッハの作曲が怒りの自己治療につながっていたことが紹介されている。音楽に造詣の深い先生は、さらに 別の章で作曲家マーラーの縁起恐怖にも言及されている。
 これらの悩みに対して一歩踏み込んで、各章 の後半では「ソフト森田」として、森田正馬の教えや、森田の生き方のエピソードや、南條先生自身の独自の意見などを紹介しつつ、次なる一手が解説されている。
 先の第4章では、森田正馬が「苦しいながら、我慢して勉強するのを、柔順という。(…)」(全集第五巻)と教えたことが引用され、第7章では、やはり森田が「腹の立つのはなんともしかたがないから、その衝動をジッと堪え忍んでいさえすれば、それが従順というものであります。」(全集第五巻)と教えたことが示されている。これらでは「柔順」が共通のキーワードになっていて、「ソフト森田」は必ずしも、各章ごとに独占されるものではない。
 

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 ところで、冒頭でふれた禅語「花紅柳緑(柳緑花紅)」について、著者は第9章「劣等感や挫折感に悩む時」で取り上げておられる。この言葉は本来は「柳は緑、花は紅」なのだが、花を先に出す方が印象的であり、森田も指導の際に 「花は紅、柳は緑」と言っていた。「あるがまま」という意味だが、南條先生自身は、もう一歩進めて理解したいとおっしゃる。「花」は外向的で積極的な人の象徴、「柳」は内向的で神経質な人の象徴であろう。「柳」は花のように鮮やかになれないが、強風にも枝をなびかせて、地味な風情を愉しませてくれる。神経質はそのような持ち味を生かしていけばよいという勧めである。仙厓義梵の「堪忍柳画賛」の趣にも通じようが、やはり流石のご指摘である。
 南條ファンお待ちかねの徳川家康論も、第17章「大きな失敗をしてしまった時」に出てくる。大失敗を生かして大成功した人物として、家康の人間像が紹介されている。
 
 最後に、筆者自身が親和性を持ったのは、第11章に出てくる「弱くなりきる」という森田の教えであった。
 それにしても、この本に魅されて、長い書評を書いてしまった。こんなときには、「ソフト森田」ではどうすればよろしいのだろう。

 

よみがえる森田療法

2023/04/09

 

 

 

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1. 森田療法の過去、現在、そして未来へ

 

 

 森田療法が成立して百年の歳月が経過した。私たちはその記念すべき時期にある。しかし、来し方百年の間に、森田の原法の療法は、時代や文化や医療の 変化とともに大きく様変わりした。入院原法 を維持している医療機関は減少の一途を辿っている。森田に続いて、かつて第二世代の宇佐玄雄、高良武久、水谷啓二、鈴木知準らの方々は、森田の療法を忠実に継承して入院施設を設け、精力的に入院原法を実施なさったのであった。その第二世代の方々も今は亡いが、そこに関わった弟子筋の人たちは、既に高齢ではあるが、失われた入院原法の価値を世に伝えるべく、力を尽くしておられる。
 その一方、今日行われている森田療法の主流は 、本質を忘れているとは言わないまでも、入院原法から大胆に離れ、単なる神経質の治療に拘泥せず、活動の場を教育や福祉や家族や日常生活の中へと広げて、森田療法を生かす旺んな活動へと移り変わっている。それもまたよきかなである。
 つまり、森田療法の本質的なところにこだわり、方法としての入院原法を重視し、それを遵守することを大事とする古い世代の人たちの懐古的な流れと、いたずらに森田療法の過去に拘泥せず、森田療法ならではの良さを広く前向きに活かそうとする近年の流れとのがあるわけで、両者には相容れない距離があるのが現実である。今後それはどうなっていくのであろうか。是非の区別をするのではなく、両者の融合をはかるところに森田療法の今後の進展があるのではなかろうか。そのような視点から、森田療法の未来について少し私見を記してみたい。

 

 

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2. 古き良き森田療法への郷愁

 

 

 森田療法の名は未だ色褪せることなく、今も日本独自の代表的な精神療法として世に知られている。しかしその知られ方が、次第に浅薄になってきていることは 否めない事実である。巷間に知られているのは、森田療法は神経質や神経症のとらわれの病理に対して、あるがままを教えるもので、入院原法は4期からなっていたという程度の表面的な知識レベルのことである。これでわが国独自の森田療法が、この国でよく知られ、理解されているということにはならない。
 この森田療法の入院の4期の構造はどのようにして出来上がり、その造りはまた療法の本質にどのように関わるものであるのかと、根本的なことを考えてこそ、森田療法の真の理解になる。懐古派の人たちが、単に古き良き森田療法が失われていくと嘆いても、その慨嘆の中身こそが問われるであろう。

 

 

 そこで森田正馬が始めた入院療法はいかなるものであったのか、その特徴を少し掘り下げてみたい。
 この療法の4段階からなる構成については、第一期から始まるその過程の流れに妙味があるのだが、森田自身が十分に説明を尽くしていないこともあって、一般に理解されていないところがある。とりわけ第一期と第二期の意義への理解が乏しいようである。第一期は森田の言ったように煩悩即菩提であり、煩悩になりきって過ごすのである。第二期は第三期の作業に向けての転換期であり、森田は第一期での無聊から外界に関心が転じ作業への参加に向かう時期としているけれども、第二期には森田が説明を尽くさなかった意義がある。内なる煩悩を見つめていた第一期から起床して外界を眺めるときの感覚はみずみずしく、自分が生まれ変わったような新生の体験が起こりうる。これについては、宇佐玄雄が第一期を還元法と称したところにその鍵があると思われる。あえて精神分析的な解釈を導入すれば、第一期に赤ん坊のような状態にまで戻って、以後新たな自分に遭遇していく過程は、M.バリントの言う「良性退行」に相当するものとして理解できる。第二期以降には 「新規蒔き直し(新規巻き直し)」 の体験が進む。このように心機一転していく心的過程は重要である。
 こうして入院の前半の第一期、第二期を経て起こりうる新生の体験があってこそ、以後の作業三昧の生活へと有効につながっていく。
 以上のような第一期、第二期の深い意義については、森田自身があまり説いていない上に、自身が実施した経験について、森田は具体的な記録をあまり残していない。そのためもあって、懐古派の人たちの理解があまり及んでいなかったと思われるが、第一期から第二期へと進んでいく過程に、入院原法の重要なひとつの意義がある。

 

 

 ところで、森田はその療法を言い換えて、自然療法、体験療法、家庭的療法などと称したのであるが、まず、自然療法とは療法の基本をなす「あるがまま」に生きることを表すものであろう。療法の構造としては、「家庭的療法」であることが重要である。「家庭的療法」 の中に師の父性とおかみさんの母性があり、そこで見守られながら第一期から第二期を過ごして、作業の体験的生活へと向かう。これがこの療法の重要なポイントである。懐古派の人たちが大切にすべきは、森田療法のこのような造りであるはずである。第三期の作業三昧の生活も重要で、そこで師弟の関係が一層展開されるが、強いて言えば森田療法の核心は家庭的療法であるところであると考えられる。
 以上が、古き良き森田療法の特徴である。

 

 

 ただしつけ加えるなら、森田の療法を受けに来た人たちは、主に当時のインテリたちであり、森田の著書をあらかじめ読んでいて、この医師による治療を直接受けてみたいと望んで入院したのであった。こうして人間森田に出会う機会に恵まれたのであった。これは幸運なことであったが、逆に言えば読書療法の延長に入院があったのであり、神経質さを思い知らせて入院に導くという、露骨な表現を引くなら、マッチポンプのごとき道筋が敷かれていたとも言えるので、その点は気になるところである。ちなみに、第二世代の森田療法家が行った入院療法も、読書による予備知識が前提になっていたようで、入院原法には神経質の悩みを知的に深めさせてから受け入れるという手法のもとで実施されていたのであれば、そこに少し不自然な感じが残るのである。

 

 

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3. 特化と拡散の間で

 

 古き良き入院原法の伝統を重んじ、その完全に近い復活を期待する人たちがおられることは述べた通りである。その周辺には、原法を重視しながらも、今日それを厳格に再現することの困難さを受けて、現実で可能な限り原法に近い療法を実践しようと努める療法家も少なくない。その試行錯誤の努力は評価されるべきである。ただ、そこにおける成否は療法の勘所をどこまて押さえるかにかかっている。当然のことだけれども、森田療法は根本的に自然療法である。外界の山川草木の自然のことではなく、「おのずからしかある」自然であり、「あるがまま」にある様態である。それを要諦として、森田による療法は、家庭的療法というかたちをとって進められた。その家庭的療法の中に、作業への打ち込みや師弟関係での直接的な指導など、体験療法があったのである。原法に近い療法を行うにあたっては、今日ではさまざまな制約がある。その中で、原法のどこを割愛し、どこを生かし続けるか、難しい問題だが、可能性を追求することはできるだろう。
 以上のように、頑なであれ柔軟であれ、森田療法の原法を基準とする立場においては、神経質・神経症の治療は森田療法こそが純一なものであり、森田療法の対象は神経質・神経症を専一とするという、療法と対象を相互に特化する捉え方が根底にある。そこではこだわり過ぎる努力は要らず、原法の真価を見失わないことが重要なのである。
 
 これに対して、今日では森田療法をさほど厳格には規定せず、しかし森田療法のカテゴリーの中で自由な活動を行う流れが広がっている。
 それは、まず精神科領域においては、神経質・神経症に限らず、それ以外の疾患や病理にも森田療法を適用し、医療では他の診療科でも療法が生かされるようになった。もちろん心理臨床や福祉の分野でも、森田療法が生かされつつある。さらに森田療法は本来教育と深く関わっているから、教育のさまざまな面で森田療法が活かされている。このように多方面へと森田療法は広がっているが、こうなると入院原法はその跡をとどめず、療法のエッセンスが部分的に抽出され、それぞれの場に生かされているのである。それは貴重な実用的活動であるが、療法のエッセンスの捉え方の深浅が問われうる。森田療法の深みが忘れられてはならないであろう。

 

 ひとつの例を挙げる。森田療法の原法には日記指導があった。だが森田自身は日記について、「これにより患者の精神的の状態を知るの頼りとす」と述べている程度で、日記に重要な治療意義を置いていなかったようである。日記が療法により生かされるようになったのは、第二世代の療法家が講話において入院者の日記の記載を題材として取り上げて、論評を加えるしきたりを作ったからであった。この流れにより、後年外来森田療法において、便法として日記指導が活用されるようになった。そしてそれはCBT(認知行動療法)が精神科診療に積極的に導入されるようになって、日記指導はCBTと軌を一にしていることが明らかになっていった。これは、原法で重んじられていなかったものが、日記療法と呼ばれて近年の森田療法のひとつの方法として拡大された一例である。もちろん日記指導の中に療法の本質が含まれているだろうとは思うが、体験そのものてはなく、言葉によって認知を促す療法となっている。ここでは、森田から離れてなお、療法の本質が忘れられずに保持されているかどうか。療法の一部が拡大されたり、療法が拡散したりしていくとき、本質の保持は必ずや問われるであろう。

 

 このように見てくると、森田療法の原法を守り、特化をはかり続ける流れと、森田療法の拡大的な活用をはかり、従って拡散を招く流れには、まずそれぞれの内部に問題が潜んでいることがわかる。そしてそれゆえに両者が融和して補い合って進む必要があると思われるのである。

 

 

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4. ユニバーサルで、そしてパーソナルなもの

 

 

 私の知人に外科系の医師がいて、彼がこう言った。医療はユニバーサルな方向へと進んでいるが、病む患者はみなパーソナルな存在であり、医療のユニバーサル化によって患者は置き去りにされていると思うと。この彼の意見に呼応して、森田療法の視点から少し述べておきたいと思う。
 医学が進歩し、それによって医療の質が高まれば、患者はその恩恵を受けることができる。しかし医者も患者もパーソナルな人間である。医師が患者に渡すのは、単なる技術的な「もの」や「こと」だけてはなく、治療者の人間性が、巧まず意図せずして言外に患者に伝わる。医学が人間の生と死を扱うものである以上、医学が進歩しようとも、医学で解決できないことはあまりにも多い。その医学の限界をわきまえて、医師は謙虚であらねばならない。このような医師患者関係の中に森田療法が生かされるとよい。森田療法という名称など知らなくても、医師自身が森田療法的に生きていることが重要である。森田療法は神経質・神経症の療法を超えて、精神科に限らず、すべての診療科における医師患者関係のあり方へ、そして医療の枠を出て周辺のすべての分野で生かされてしかるべきものである。知人の医師の発言と同様に、自分も日頃から感じていることを記した。

 

 

 では森田療法とは。ここで改めて森田療法の本質にかかわることに触れておきたい。それは、将来へ向けて、古きものと新しきもの、そして特化と拡散というふたつの方向性が、融和していくにあたって顧慮されるべき素朴な原点である。
 人間本来の原点としてのあるがままの姿を思い起こしてみる。赤ん坊は丸裸の虚飾のない姿で汚れなき心を持って生まれてくる。いわば赤ん坊は仏のような存在である。
 その乳児にもさまざまな能力がそなわっているが、満1歳頃に見られる「やりもらい動作」は特に注目に値する。この頃になると相手を意識し、おいしいおやつを自分で独占せず、相手(母)の口に入れに行き、相手が喜ぶとそれを見て嬉しがり、今度は相手(母)が赤ん坊の口におやつをあてがうと、赤ん坊はさらに喜び、喜びの共有が相乗的に起こる。このシーンは実に感動的であり、「やりもらい動作」と言われ、発達過程の初期に見られる人間同士の素朴な共感、共生の原点のような姿である。それは森田療法で言う「純な心」に相当し、仏教的に言うなら仏性に通じるであろう。それを失わず、初心を忘れずに生きていくことが貴重なことである。しかし大人たちの人間社会は残念ながら汚れて、赤ん坊以下に堕落しており、欲望や競争や攻撃性といったみにくい行動が渦巻いているのが現実である。
 古歌にもあるとおりである。「生まれ子の次第次第に知恵づきて 仏に遠くなるぞ悲しき」。
 そんな大人社会のみにくい現実を事実として認めざるをえず(森田の言う「事実唯真」)、その中で人と苦楽を共にして生きるほかないのである。日本の社会で、かつて古老たちは教えた。「困っている人を見たら助けてやれ」、「弱い者いじめをするな」、「人に迷惑をかけるな」と。これは倫理とか道徳を説く説教ではない。人を生かすことで自分も生かされる。そういう喜びを人生経験の豊かな老人が知恵として伝えたのであった。それは森田療法と重なる。森田療法の叡知とか真髄などと、ことさらに難しく言う必要もない。古老に教えられて自分の足元を見て気づく。それが森田療法である。禅で「脚下照顧」と言うが、自分の生き方はこれでよいのだろうか、大事なことを忘れていないだろうかと、おのれを見つめ直すことが必要である。単に「あるがまま」と言うだけでは、地に足がつかない生き方になることを私個人は危惧している。

 

 

 森田療法は生活の規範などと言うような教条的なものではなく、森田療法と言う名称すらことさらに必要でもなく、人間本来の自然な生き方を忘れずに大切にしようとする靜かな動きのようなものである。地下水脈と言ってもよい。地下水は広く深く、四方八方へと浸透していくのである。それは万人にとっての生き方にかかわるユニバーサルなものであり、かつ万人にとってのパーソナルな個々の教育あるいは自己教育にほかならないのである。

 

 

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5. よみがえる森田療法

 

 

 森田正馬は俗なる人であったから、みずから創始した療法を神経質に対する特殊療法として世に知らしめようとした。確かに神経質者は生きんがために「繋驢けつ」に陥るので、そこから解放して自由に生かしめるのが森田の療法なのであった。つまり生きるためのものであった。だから、本当のところは、対象を神経質に限定する必要もなければ、療法と呼ぶ必要すらもなかったのであった。森田の教えはかなり仏教に彩られている。しかしその思想は単なる仏教の受け売りではない。「事実唯真」、「自然に服従し、境遇に柔順なれ」などと教えた森田自身の言葉にその思想が凝縮されている。色紙に揮毫した言葉にも、独自の教えが躍如としている。森田療法の本質とでもいうものは、その辺から容易に知ることができる。

 

 

 かつて森田のもとで直接指導を受けられた第二世代の水谷啓二氏や鈴木知準氏らは、森田の療法の再現を目指してそれを継承なさったのであった。しかし現今においては、そのような形で療法を継承することはもはや困難である。一方、宇佐玄雄は禅僧であったから、東福寺山内に三聖病院を創建させ、禅的な森田療法を実施し、それは二代目宇佐晋一医師に引き継がれて、長年にわたって診療が続けられていた。
 その宇佐晋一先生によると、かつて天龍寺の平田精耕老師は、森田療法を仏教になぞらえて、無縁の大悲だと言われたそうである。無縁の衆生に対する仏の尊い慈悲であるという意である。治療として行われる森田療法の場には、人間としての治療者が居るし、居なければならない。仏教思想を導入するのもよいが、現実の人としての治療者の存在を問題にせずして、仏という観念的なものを持ち出し、無縁の大悲の呼称に甘んじているだけでは、森田療法から逸脱するだろう。森田正馬は血の通った、人間くさい治療者であった。森田は患者と共に生きた人だった。ときには患者を厳しく叱りながらも、治療者と患者が同行二人で進んだのであった。そのような人間的な療法であったことを忘れてはなるまい。

 

 

 入院療法の場の構造が 4段階になっていたからと言って、形式的にそれを踏襲すればよいとするのは浅薄である。しかし先述したように、かつての森田療法は、内弟子制のような師弟関係を軸とする家庭的療法だったのであり、その傘下における第一期から第二期にかけての過程で、みずみずしい新生の体験をすることができた。そんなところにこの療法のひとつの妙味があった。ここに一部を書き上げてみた森田療法の肝心なところは、今後も生かされていくことが望まれる。療法の特化をはかり続ける場合には、こだわるべきことだと思う。

 

 

 療法の特化をはかる方向においても、また拡大をはかる方向においても、捨て難い粋(すい)を共有して生かしていくことが肝要であろう。逆のことを言えば、療法の形骸的な部分にはこだわらなくともよい。守るべきを守って応用をはかれば、スリムにできるところもあろう。たとえば、物々しい建物、広大な庭や敷地は不可欠ではない。森田療法における作業は、本来森田邸宅で実生活として行われたものであった。医療行政による監督も厳しい今日、森田邸での作業を模する必要はない。医療機関内から追い出され、実社会を作業の場と心得ればよいのである。否、森田療法は究極的に療法を超越するものであるから、すべての場におけるすべての生活で森田療法的に生きていけばよい。かくして療法という枠にはまった森田療法は、本物の森田療法へとよみがえっていくであろう。

【寄稿】: 「森田正馬とウィリアム・ジェイムズ 雑感」 高頭直樹

2023/02/13

 

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【寄稿】

 

森田正馬とウィリアム・ジェイムズ 雑感

 

 

高頭 直樹

 

 森田正馬の著作には当時の欧米の最新の思想への言及が散見される。ベルクソンやウィリアム・ジェイムズなどである。こうした人々への関心は当時の知識人には共通していたともいえる。哲学者の西田幾多郎、作家の夏目漱石などにも特にこの二人の思想への言及が認められる。
 ジェイムズに関して言えば、西田や漱石が『心理学原理』に興味を示したのに対し、精神医学の専門家である森田の著作『迷信と妄想』をみると、『プラグマティズム』からの引用しか見当たらないのは不思議な気もする。また森田の関心からすれば、当時すでに邦訳も出版されていた『宗教的経験の諸相』への言及があってもよさそうに思うが、それも見当たらない。森田にとっては、ジェイムズの思想そのものには特に興味を惹かれるものではなかったのかもしれない。いずれにしろその経緯はわからない。事実として言えることは、森田がジェイムズの『プラグマティズム』からの引用を自説の展開に利用しているということであり、森田がジェイムズに「何らか」の関心をよせたということであろう。
 ところで、『プラグマティズム』は、ジェイムズの著作の中でも、特異な、というか厄介な問題を引き起こす結果となった。確かにこの著作は思想後進国であったアメリカの生んだ最初の独自の思想、プラグマティズムを世界に広め、プラグマティズムの第一人としてのジェイムズの名声を不動のものとした。その一方、「プラグマティズム」という名称の生みの親でもあり、ジェイムズに少なからぬ影響を与えた盟友パースとの決別をもたらすこととなった。単純にいえば、パースにとって、ジェイムズの『プラグマティズム』はあまりに「通俗化」された議論に成り下がってしまっているということであろう。パースはその後自分の立場を、ジェイムズとの違いを強調して、あえてプラグマティシズムという別の名で呼ぶようになる。
 「通俗化」の代表として指摘されるのは、ジェイムズの「真理論」だといわれる。バートランド・ラッセルなどは、その考えは滑稽だとさえ言って批判している(といって、ラッセルが全面的にジェイムズを否定したわけではないが)。その「真理論」というのがどういうものかというと、これも通俗的な言い換えになるが、「われわれにとって真理だということは、われわれにとってそれが有用だということだ」ということになる。これは哲学の伝統的考え方からすれば、とんでもないことだと受け止められた。「真理」とは、およそわれわれにとってとか、われわれがどのように考えるなどという「主観的」問題とは、まったく関係のない概念だと考えられて来たからである。それゆえ、ラッセルにいわせれば「滑稽」ということになったわけである。
 ちょっとまどろっこしくなるかもしれないが、ジェイムズの名誉のために言っておくと、この問題について彼自身が言っていることをこのような単純な形に言い換えること自体がそもそも問題だということが、近年の議論では盛んに指摘されており、むしろジェイムズの議論を積極的に評価する立場も多くなっている。特に彼の「保証された主張可能性」という概念は、パースの「究極的な意見の収斂」と共に、プラグマティズムの真理論の核心をなしている。いかなる判断もその可謬性を受け入れ、十分な時間をかけて議論の結果受け入れられるものこそが、「当面」(なぜなら、それもまた誤っている可能性を持っているわけであるから)の「真理」として主張可能だというのである。それゆえ、ジェイムズは別のところで真理とは「思考の運命」だとも呼んでいるのである。
 ただ、確かにジェイムズの議論の中には、「真理」とは「有用性」なり、と言っているように受け止められかねない側面もある。これは、ジェイムズ自身ある意味では意識的に、それまでの伝統的哲学への挑戦として、『プラグマティズム』を発表したからである。彼にとって、哲学に本来期待されることは、単なる知的な抽象的議論だけではなく、「われわれの限りある人生というこの現実世界に何らかの積極的関連」を持ちうることに他ならなかった。「知的な抽象的議論」と「経験的世界の具体的行動」とか、さらには科学と宗教とかを対立させる二元的発想に対し、ジェイムズはその連関を強調する「全体論」的考えを主張している。それゆえこの著作の副題には「ある古い考え方(哲学)のための新しい名前」と記されているのである。『プラグマティズム』の中で、特に森田の興味を引いたのもこうした「連続性」や「全体性」、あるいは直面する現実的経験での有用性を真理とするジェイムズの議論だったのであろう。森田がジェイムズの議論を正確に理解し得ていたかどうかは分からない。ただ、この著作の中に二人が出会う「何らか」のものがあったのであろう。
 蛇足ながら付け加えれば、ジェイムズは精神の不安定に悩み苦しみながら生涯を送った。特に青年時代、そのために一時学業を休止せざるを得ない事態にも陥っている。そうした苦しみからの解放を求めてか、あるいは神秘思想家スウェーデンボルグの信奉者であった父、ヘンリー・ジェイムズ・シニアの影響か、超常現象、神秘的体験などにも強い関心を示した。森田はジェイムズの著作に接したとき、ジェイムズのそうした苦しみや趣向に相通ずる「何らか」を、ジェイムズのそうした問題を扱った著作を読むまでもなく、直感したのかもしれない。ただこれはあくまで、私の「妄想」である。

 

 

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【著者について】高頭 直樹(たかとう なおき)、哲学
兵庫県立大学名誉教授、京都森田療法研究所客員研究員

 

 

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【解説】

 当研究所では、哲学界の重鎮である高頭直樹先生を、以前から客員研究員としてお迎えしています。東西の哲学について、その歴史から現在までに広く深い造詣を有しておられます。森田療法についてもその過去、そして現在を、東西の両視点から哲学的なメスで捌いてみせてくれる最適の学者なのです。森田療法については、「森田正馬の雅号『形外』の意味について」の学会発表を連名でおこなったことがあります。
 また、高頭先生がこれまで関わってこられたいくつもの研究対象のひとつにウィリアム・ジェイムズがあります。森田正馬は、ウィリアム・ジェイムズをたびたび引用していますが、森田とジェイムズについての本格的な論考は、調べた限り見当たりません。そこで、森田正馬とウィリアム・ジェイムズの関係について論じてほしいと依頼しました。そしたら、重い腰を上げて起草してくださったのです。しかし、「森田とジェイムズについて書いてくださったこの一文は、注目されるところとなります」と私が言った途端に、「注目されると困る」とおっしゃり、カタツムリが角を引っ込めるように、文章を削ってしまわれたのです。残念なことに、ここに公表できたのは削られた鉛筆の芯のような部分のみです。削っていかれる途中で私にくださったメール文の中に書かれた、削る人の弁が残っています。そこで、高頭先生には事後承諾をお願いするとして、それを以下に引いておきます。ただしこれは、森田とジェイムズについて私が持ち出した拙い問題提起に対するご意見でもあります。

 

 「ジェイムズの例の二分割(軟心と硬心)は、彼なりの伝統的思想の整理という文脈で読めます。その整理には細かいところで、いろいろ問題はあると思いますが、ともかく彼はこうした二分割では駄目だと議論を進めているのだと思います。
 正直、ジェイムズの議論を簡単に説明するのは私には無理です。せいぜい真理論をどう解釈するかと言うような問題を、まとめるくらいです。それも、「理想」に書いたように、パトナムの議論を借りながらぐらいです。
 パースとなると、また大変です。ほとんどは未発表の原稿のようなものですし、個人的にもジェイムズ以上に変人でしたから!
 パースの中には、すべてが語られているとも言えますが、手を出したらきりがないということにもなると言われています。」

 

 ジェイムズに対する森田の思想は、二元論の暫定的受容や二元論から離れていく主客未分の一元論になったりする点で、ジェイムズと異なりもし、一致もするのではないかという私の問いがありました。また「真理論」については、森田が多分に依拠した仏教思想における真理との異同について述べて頂きたいとも願いました。しかし、高頭先生はこれらについて深入りするには慎重な態度を取られました。ジェイムズの哲学の側から先頭を切って森田の思想を論ずることを控えようとなさったように思います。
 諸賢におかれましては、ご意見を高頭先生にぶつけて、高頭先生の森田-ジェイムズ論をもっと引き出して下さい。
(解説 : 岡本 重慶 記)

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