第36回日本森田療法学会参加記(1) ―「無所住心」―

2018/09/13




 

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   去る8月31日から3日間、法政大学で第36回日本森田療法学会が開催されて、参加しました。
   学会では、自分は毎年のように何かの発表を重ねてきましたが、今年は発表をしませんでした。学会には表舞台だけでなく、裏機能があります。その裏機能にあやかろうと思いました。と言っても怪しい機能ではありません。全国から集まって来る方々と、学会場で自由に会って懇談することができます。それにあやかろうとしました。あるセッションに関わらせ頂いたので、気が抜けませんでしたけれども、今回は学会の機会に会えたらと願っていた何人かの方々と、実際にお会いしてお話しすることができました。そんな私的エピソードを二、三記しておきます。
 
   生活の発見会員でいらっしゃる台湾の徐玉章様に、熊本以来、一年ぶりにお会いしました。下村湖人のことを少し話題にしました。かつて総督府の統治下で、下村は校長として台中一中に赴任し、生徒たちのストライキに遭遇しましたが、その台中一中は徐様の出身校にあたるそうです。当時の記録も学校に残されているとのことでした。下村が台湾で管理的な学校教育に挫折した失敗体験は重要です。その体験を糧にして、下村は帰国後、青年たちと生活を共にする塾風教育を始めました。あたかも入院森田療法のはしりのようなものでした。徐様とそんな話しをしました。
 
   森田ピアスクエアを主宰なさっている竹林耕司先生にお会いできました。
   竹林先生から去る7月に玉著をご恵送頂いていました。『集まれ!勝手コラム・森田療法の世界に触れる身近な話』というご本です。書影を冒頭に掲げました。先生は、ご自身が開催しておられる交流会や森田原著読書会で、話し合ったポイントをオンライン機関誌に「勝手コラム」として掲載しておられますが、その原稿を集めて、本になさったものです。ここには、副題の通り、森田の教えに触れながら、それを実際に生かすことに徹する話ばかりが収められています。あるいは、実際に当たってみなければ、森田の教えは生きてこないという、スタンスで書かれているのです。たくさんの項目の中で、私は「無所住心」という見出しで書いておられる箇所に注目していました。
   ここで、東日本大震災の復興支援で岩手県の陸前高田市のサケマス孵化場にボランティアとして行かれたときのことを記されています。孵化した稚魚を生育させる水槽の清掃をグループの人たちと一緒におこなったという体験です。大きな水槽を最初は皆が茫然と眺めていたが、タワシやブラシでそれぞれに作業を始め、誰が仕切るわけでもないのに、次第に無言のうちに作業が進みだした。このような自然な流れが生まれたのは、すなわち対象物や、周囲の人の動きや自分の作業の進捗などをみつめて、ものそのものになりきっていたのだった。すべてを無意識にバランスよく感じ取っていた。それが「無所住心」であったろう。ものそのものになり、みつめることで、臨機応変な工夫や対処が自然に生まれてくる。作業の途中で稚魚の姿を実際に見せてもらって、水槽の清掃作業そのものが一層自分そのものになっていったと、――
   そのように書いておられます。
   ここで教えられたのは、「みつめる」という態度と「なりきる」という境地が、実に自然にひとつに融合していることです。
   禅における究極的境地を指して、三昧と言われます。なりきっている状態に相当します。一方、禅の課題は「己事究明」にあるとされ、自己をみつめよと言われます。つまり、禅において、なりきるということ、みつめるということ、この二つの課題は、そんなにたやすく融合してくれません。その矛盾に遭遇するところに禅の鍵があるのだと思います。このことは、こちらに引き受けて、改めて述べたいと思いますが、水槽作業の「無所住心」の体験に、みつめるとなりきるの融合を見せてくださったのに、刮目させられました。
   竹林先生とお会いして、そんな話しをしました。

森田正馬が参禅した老師、釈宗活―その人物と生涯(下)―

2018/08/23


晩年の釈宗活老師(雑誌「大乗禅」昭和42年3月号より)



釈宗活老師の「常住侍者」であった徳永恵直(芙蓉庵却来恵直老大姉)。河東節の山彦不二子師と同一人物。
宗活没後の昭和30年、81歳時の写真(西山松之助『家元ものがたり』より)。

 

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(承前)

 
5.「粋(いき)」を究めた人、釈宗活
   宗活は、幼少より、父から書画などの芸術を含む幅広い情操教育を受けて育った。禅に関心が傾いて今北洪川に弟子入りしたが、もともと芸術家として身を立てようとしていて、その頃、東京美術学校の学生であった(両忘会に参禅して宗活の弟子になり、出家して京都の大徳寺の管長になった後藤瑞巖の伝記、島崎義孝の著作による)。円覚寺に入ってからは、鎌倉彫の仏教彫刻を身につけた。参禅した夏目漱石に、三味線を弾いて大道ちょぼくれを歌って聞かせたという。
   西山松之助という江戸文化の研究者がいた。西山氏は、釈宗活老師に私淑して、学生の頃に擇木道場に住み込んでいた人である。自分は禅だけでなく、歌舞伎にも関心を持っていたのだが、宗活老師自身が歌舞伎に通じている方であったということを、回想として著書(『ある文人歴史家の軌跡』)で、聞き役の人に対して述べている。
   ――当時歌舞伎の女形の有名な役者がいて、それが宗活老師の親戚だったこともあって、老師は歌舞伎に詳しかった。
   また、宗活老師には、恵直(えちょく)さんという素晴らしい女性がおられた。恵直さんは奥さんだったかどうかはわからないけれど、新橋の医者の娘で、若いときから河東節をやっていて、歌、三味線ができた人で、知らない曲はなかった。河東節の名取名は山彦不二子といい、NHKの音のライブラリーに吹き込んだ曲が沢山残っている。老師はこの恵直さんから河東節を教えられた。
   老師は、古希になって一旦引退して、関西に移り、多田の隻履窟という住まいにいた。そこを訪れたら、昼間は老師は絵を描いていて、夜になると河東節が始まって、恵直さんが三味線を弾いて、助六を語る。――
   禅と歌舞伎がこういうふうに結びついていた。枯れている禅ではない、艶っぽい禅、色っぽい禅だった、というのである。
   隻履窟は、別名残夢荘と称され、兵庫県川辺郡多田村にあった田舎家である。現在は川西市内にあたるが、地図を見ると、人里離れた山間の地のようである。
   宗活老師は、昭和15年から3年間、ここに隠棲して、書画などを制作する遊戯三昧の日々を送った。山間の自然と書画と禅と河東節が溶け合った、粋(いき)の極致であった。


 

西山松之助著『家元ものがたり』



 
6.河東節の山彦不二子(禅の徳永恵直)
   西山松之助氏は『ある文人歴史家の軌跡』の中では、宗活師匠の侍者のような女性のことを、しきりに「恵直さん」と言っている。それは禅子としての道号だろうと推測されたが、西山氏は河東節の山彦不二子の面ばかりを語っていたので、浄瑠璃を語るお座敷の出身の女性かとも受け取れて、人物像として不明のところがあった。
   ちなみに、浄瑠璃のひとつである河東節は、代表的な江戸浄瑠璃で、歌舞伎の伴奏音楽としての地位にあったが、次第に常磐津などの他の節に人気を奪われ、お座敷で語られる浄瑠璃として、通の人たちに愛好されるようになっていた。したがって、河東節は吉原との関係が深かった。河東節のそのような背景もあり、山彦不二子(恵直さん)の経歴や宗活老師との出会いについて、ほとんどわからなかった。しかし、西山氏の別の著書『家元ものがたり』や、禅関係の文献から、この女性の人物像や老師との間柄が浮かび上がってきた。
   この人は、芳紀十九歳より、父の徳永医師と一緒に釈宗演の門に入って修行をしていたという。宗活老師がインドから帰朝したときに、東京での両忘会の再興を宗活老師に請いたいという嘆願書を、宗演老師に対して出した数人の在家の居士たちがいたが、その中に徳永父娘も加わっていた。この数人は、インドに渡る前から宗活を知っており、宗活に信頼を寄せていた人たちである。夏目漱石のように、円覚寺で宗演老師に参禅しながら、塔頭の帰源院で宗活の世話になった人たちがその主要メンバーであったと考えられる。徳永父娘は、娘の方が修行の進度が優れていて、「慧直」という道号を宗演老師から授かっていた。父娘は再興後の「両忘会」に参加し、日暮里の農家の建物を道場用に買い取って寄進している。若い愛娘に河東節を習わせ、禅の修行に連れて行って、修行では娘に遅れをとりながら、道場の建物を寄進した父親も、風流な人だったように思える。
   恵直は、宗活老師がサンフランシスコに布教に渡った折にも、共に渡米し、アメリカで修行を続けて印可を受け、芙蓉庵劫来慧直老大姉となった。
   こうして慧直(恵直)老大姉は、両忘会内における重要な人物のひとりになるとともに、個人的には宗活老師の「常住侍者」として仕えるようになっていく。宗活と恵直は、強い信頼関係によって結ばれていた。
   禅の方で老大姉になった恵直は、河東節においても、山彦栄子師匠より芸道を受け継ぎ、名取の山彦不二子となって、その分野で活躍した。
   禅においては宗活が師、河東節では恵直が師で、粋な関係の二人であった。

 

宗活老師が隠棲していた、兵庫県多田村の残夢荘
(雑誌「禅」平成17年2月号より)



 

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7. 在家禅(居士禅)の指導者であった釈宗活
   宗活は蘭方医の息子として生まれ、医家を継ぐべく育てられたが、相次ぐ両親の死で孤独を生き、その中で禅に活路を見いだした人である。出家したが、それは世をはかなんでのことではなく、また禅寺の住職になろうとしたわけでもなかった。円覚寺でひたすら修行をし続ける過程での、通過点としての出家得度に過ぎなかった。だから宗活は、出家しても一生住職にはならぬ、と自分から釘をさして、釈宗演から得度を受けた。「御身の富貴栄達を望まぬ。心を磨けよ」と言った母の遺言を胸に秘めていた宗活は、僧侶になろうとも、仏門の階段を上り、寺に安住する生活に身を置こうとしなかったのである。宗活は本当の禅を追求し、それを人びとに伝えようとした。自分は出家をしたけれども、在家者とともにあって、在家者の禅的生き方に尽くそうとした人である。
   遡れば、少年、入澤譲四郎だった頃、禅を志し、本郷の麟祥院で初めて今北洪川に出会ったのだったが、このときから両忘会との絆が生じていたと言える。両忘会は、明治8年に山岡鉄舟らが、禅の封建的体質を改め、寺院の殻を破って禅を在家者に開かれたものにしようと、麟祥院で今北洪川を師と仰いで、禅会を創設したものであった。洪川は数年後には円覚寺の管長になったが、麟祥院に指導に来ることがあったのであろう。譲四郎が麟祥院で洪川に会ったのは、明治22年のことである。洪川は明治25年に没しているので、両忘会は途切れてしまっていた。禅に関心のある一部の在家の文化人たちは、円覚寺の釈宗演老師のもとに参禅していた。徳永父娘が宗演に参禅したのも、宗活が塔頭で在家の参禅者の世話をしていたのも、その時期のことである。両忘会とも、徳永恵直とも不思議な糸で結ばれていた宗活は、こうして両忘会を再興して、在家禅の指導に尽くすことになった。
   組織としての両忘会は、大正14年に財団法人両忘協会となり、昭和13年には谷中にあった本部道場は、千葉県市川市に建築された新道場に移転した。それは森田正馬が没した年のことである。昭和14年、宗教団体法が施行されたことにより、宗教団体「両忘禅協会」が立ち上げられて宗活老師の弟子の立田英山老居士が代表者になったが、宗活を代表とする「両忘協会」は宗教団体を名乗らずに、そのまま存続することになった。組織の逆転した二本立てがここに起こっている。在家禅の組織が急いで宗教団体化することについて、宗活はおそらく慎重だったのであろう。
   古希を迎えた宗活は、昭和15年に関西の残夢荘(隻履窟)へと身を退き、三年を過ごした後、常住侍者の恵直とともに千葉県八幡の残夢荘(寓居)に移っていた。
   組織というものが、時代の流れの中で目標を見失わずに機能し続けることは難しい。戦後の昭和21年、宗教法人法の施行で、組織は宗教法人になることを選び、立田英山老居士を主管として「宗教法人 両忘禅協会」として登記をした。しかし、翌22年に釈宗活老師はその解散を宣告したのである。老師は、在家禅の宗教団体化や、指導者のあり方に厳しい目を向けていたのであった。ここにおいて、明治以来の両忘会の流れと、それに対する宗活老師の長年にわたる指導者としての関わりは、終焉を見た。
   しかし現実には大きな組織が残されていた。再び三たび立田英山老居士の主管で、新たに昭和23年に、「宗教法人 人間禅教団」が立ち上げられた。その「人間禅」は今日にまで続いている。
   宗活は、弟子の大木琢道に身を寄せて、千葉県八日市場の寓居で徳永恵直とともに最晩年を過ごし、昭和29年に遷化した。享年83歳。
   西山松之助氏は、昭和30年秋に、房州のその住まいに徳永恵直(山彦不二子)を訪ねている(『家元ものがたり』)。禅の道の奥底を究め、河東節の正統の継承者であるこの人は、81歳ながら端正でキビキビしていて、江戸っ子らしいイキが感じられたという(冒頭の写真)。西山氏は、「イキ」と書いているが、感じたのは、粋であり、心意気でもあったのであろう。
   なお今日、千葉県茂原市に両忘禅庵があるが、これは宗活没後に大木琢道の子孫により開設された禅道場である。宗活の遺した芸術作品の多くは、ここに保管されていると聞く。
 
   宗活は出家者でありながら、寺に入ることなく、また出家者であるがゆえに在家の生活に甘んじることなく、家を持たず、正式に家族を持たず、みずから禅に生きた人であった。在家者に対する禅指導を使命として、いわば非僧非俗、あるいは僧と俗のはざまに生きて、一方に偏することがなかった人であった。人柄は温かく、しかし禅の指導者となって人の上に立つ者に対しては、厳格に接した。
   宗活自身自分に厳しく、かつ自由に、無所得、無一物を生きたのである。
 
   森田正馬がかつて参禅した老師は、こんな人生を送ったのである。実に森田療法的な人生だったと言えるのではなかろうか。宗活老師は、森田の存命中は谷中墓地に接する道場に居続けたが、森田との再会の機会があったかどうかは不明であるし、宗活の生涯は戦後まで続いた。森田は明治43年の参禅時に宗活と交わっただけで、以後、時空を異にしている。二人の人生が接することはなかったけれども、宗活の生き方には、森田正馬が目指したものがあるように思われ、ここに紹介した。

(了)

森田正馬が参禅した老師、釈宗活―その人物と生涯(上)―

2018/08/16


雑誌「禅」平成17年2月号。
釈宗活老師についての特集が組まれている。


   同雑誌の巻頭に若き日の老師の写真が出ており、その写真には次のような説明文が付されている。
「生涯草庵に住み、母の遺言を守って、立身出世・富貴栄達を望まず、行雲に身を任せ、居士の教化に専心した。独立独歩の宗風を挙揚し、居士に嗣法する道を拓いた。」
 
 

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1. 森田正馬と釈宗活
   森田は、明治43年に谷中初音町にあった両忘会の釈宗活老師のもとに参禅した。
   その事実について、そして両忘会は旧谷中初音町二丁目にあったことや、当時のその地区の環境、また現在地との対照などについて、既にかなり詳細にわたって記してきた。また両忘会は在家者向けの禅道場で、釈宗活老師は在家禅に力を尽くした人であったことについても述べてきた。
   およそこれらのことをまとめて、第35回日本森田療法学会で発表した。
   それにしても、森田正馬は、生涯にただ一度参禅して相まみえた老師、釈宗活の印象を語っていない。だが語らなかっただけに、内面にその印象を秘め続けていたのかもしれない。ちなみに森田は、参禅から約10年後の大正13年に出版された、釈宗活の著書『臨済録講話』を読んだことを当時の日記に書きとめている。宗活老師への関心が長く続いていた証左である。
   その釈宗活老師はどんな人だったのであろう。ある程度は断片的に記したが、資料が乏しくて不明な点が多く、十分に把握しきれていない。最近、少しだが追加的に資料を入手した。これにても宗活老師についての伝記的全容に迫ることは到底できないが、不明だったところが少し埋められてきた。資料を参考に、参禅にまつわる森田の心理も推し量って書き加えつつ、宗活老師の人物像や生涯をおぼろげながら、たどってみたい。

 

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2. 釈宗活(入澤譲四郎)の生い立ち
   釈宗活、本名入澤譲四郎(1871-1954)は、東京麹町の蘭方医、入澤梅民の三男として生まれた。父方祖父の入澤貞蔵(貞意)も越後出身の江戸の蘭方医であった。入澤一族は信州の北条時頼・時宗の末裔にあたる越後の庄屋であったが、その家系からは医者が多く輩出している。譲四郎の祖父貞蔵(医者)の弟、健蔵(庄屋を継いでいた人)の次男、入澤圭介は池田家に養子に入り、池田謙斎と名乗った人で、西洋医学を学び、東大医学部の初代総理になった著名な人物である。
   同じ貞蔵の弟、健蔵(庄屋)の長男の、その息子である入澤達吉は医者で、東大内科教授になっている。この入澤達吉と釈宗活(入澤譲四郎)は、祖父が兄弟であるから、二人は「いとこの子」同士になる。入澤達吉は、東大生の森田正馬の診察をして「神経衰弱兼脚気」と診断した教授、その人である。そして森田は卒業後に、釈宗活のもとに参禅する。森田は、自分の生涯において出会った重要な二人の人物が、親族であることを知っていたであろうか。あるいは後日にでも知ったかもしれない。それはわからない。釈宗活自身は、短期間両忘会に参禅した若い医者が、学生時代に入澤達吉教授の診察を受けた男だったとは知らなかったであろう。
   入澤達吉は医師として優れた人物であったのみならず、人間的にも深みのある人だったようで、入澤一族に通じ合うような人間味を宗活老師もそなえていたのであろうと思われる。
   入澤一族の蘭方医の息子に生まれた宗活、すなわち譲四郎は、三男であったが、父は医家の後継ぎを託せるのは長男、次男でなく、この三男であると見込んで、幼少のときから漢籍、武術、書画、彫刻などにわたり、厳格な教育を施した。母からは深い慈愛を注がれて育ったが、11歳の時にその母は大病で急死した。臨終の際に、母は息子に言い遺した。「何よりもまず心の修行を第一に心がけよ。母は御身の富貴栄達を望まぬ。心を磨けよ。独立独歩、他に依頼心を起こしてはならぬ」と。母の最期のこの訓戒を子ども心に肝に銘じ、生涯を通じてそれを忘れずに生きたのであると、後年に宗活老師自身が語っている。
   さて母の死の翌年、12歳の時に父もまた病で急逝した。両親を失って孤児になった少年は、母の遺言を守り、ある教師の家に入って労働をしながら苦学した。しかし心身ともに病み衰え、神道や心学などに入って修養を試みるも適さず、禅の修行に関心を持つようになった。ちょうど叔母にあたる人が、鎌倉の今北洪川について参禅をしていたので、洪川が本郷の麟祥院に摂心の指導に来た折に叔母から紹介を受け、洪川に入門を許されて、円覚寺に入ることになった。譲四郎、20歳の時のことであった。

 

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3. 円覚寺における禅修行
   入澤譲四郎は、円覚寺の塔頭に入り、修行に打ち込み、かたわら扇谷に通い、運慶の流儀の仏教彫刻を学んだ。やがて洪川老師から石仏居士という名号を与えられた。その後洪川老師は没し、居士のままでいた譲四郎は、さらに修行を深めるために出家得度の必要に迫られた。母の遺言に従い独立独歩で生き、寺の住職になることを望まなかった彼は、一生寺に入って住職になることはしないという条件を自分の方からつけて、釈宗演老師のもとで23歳で得度を受けた。得度により宗活の法諱を授与され、また釈宗演の養子になって、釈宗活と名乗ることになった。その後も修行を続け、帰源院という塔頭の監理を任されて、摂心に参加するために外部から来て宿泊する人たちの世話をした。この体験は、後に「両忘会」の師家となって居士禅を鼓吹する因ともなった。
   夏目漱石が明治27年末に帰源院に宿泊して、釈宗活の世話になりながら、釈宗演に参禅したが、それはこの時期のことである。漱石は後に、小説『門』の中に、そのときの体験の記憶をそのままに描写している。小説中、宗活は宜道という名前で登場するが、漱石はこの若い禅僧が何年も厳しい修行に耐え続けていた様子や、宿泊者に丁寧に接してくれる優しい人柄の持ち主であったことを、書き記している。一方『談話』の中の「色気を去れよ」という題の話には、宗活のひょうきんな面が語られ、宗活さんは、白隠和尚の「大道ちょぼくれ」を聞かせてくれたなどと記している。漱石と宗活の交流はその後も続いたと言われるので、宗活が後年に東京に出てから、両者が会った可能性はあるが、定かではない。
   こうして円覚寺での約8年間の修行を経て、印可を受け、明治31年より宗活はインドに渡り、聖胎長養のごとき修行体験をする。インド僧とともに熱砂の上を歩いて托鉢をしたり、暴漢に襲われるような危険にも遭遇して、九死に一生を得たこともあった。インドで2年を過ごし、明治33年に帰朝した。

 

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4.「両忘会」の再興
   帰国すると、折しも、かつて帰源院で世話をした居士たち数名より、山岡鉄舟らによって明治のはじめに創設されて、中断されていた在家禅の「両忘会」の再開を望む拝請が円覚寺に届けられた。それを受けて、釈宗演老師の命により、宗活老師は早速東京に出て、「両忘会」再興の任に当たることとなった。
   まず明治33年に、山谷の湯屋の二階に仮の草庵を設け、34年に根岸に、さらに日暮里にと道場の場所を移動した。日暮里の道場は、元農家の一軒家で、両忘会再興の拝請に名を連ねた、新橋の医者、徳永道寿居士と娘の徳永恵直が買い取って、寄進したものであった。この徳永恵直は、浄瑠璃の河東節に秀で、禅にも励んだ女性で、後に宗活老師の侍者となって、生涯を共にすることになる運命の人である。
   また日暮里に両忘会があった時期の明治38年には、平塚らいてうが参禅している。らいてうは、その自伝に両忘会での参禅の体験とともに、若き釈宗活老師の気品ある指導について書いている。
   しかし、明治39年、アメリカのサンフランシスコで禅の布教に当たっている居士たちからの慫慂があり、渡米することになった。そして3年後の明治42年に帰朝、同43年より、谷中初音町二丁目の借家で両忘会を再開した。
   森田正馬が、藤根常吉の誘いで、両忘会に参禅をしたのはこのときである。森田はこの参禅について、日記にごく簡単に記しているだけである。摂心のときに早朝座禅に通い、午後は天龍院(同じ谷中地区にある妙心寺派の禅寺)で、提唱を聞き、また老師の前に3回くらい参じたが、公案は透過しなかったと言う。森田は、自分の療法は禅から出たものではない、たまたま一致するだけである、禅のことはわからないと、自己卑下をするばかりとなった。そして宗活老師の印象について、何も述べていないが、宗活老師への参禅によって、内心感じるところがあったのではなかろうか。宗活が入澤一族の人であることを知っていて、語ることを控えたとも考えられるが、単にそれだけであろうか。
   大正の初めには、両忘会のある居士によって、谷中墓地に隣接した天王寺の寺域に新築した道場用の建物が寄進された。擇木道場と命名されて、それまで借家を転々としていた両忘会は、その道場に落ち着いた。宗活老師はそこで指導を続けることになる。
   森田正馬は、谷中墓地を散策の場所として好み、弟子の佐藤政治と深夜に谷中墓地を歩きながら、神経質の治療について語り合ったと言われる。森田は、かつて参禅した谷中二丁目の両忘会がその近くの天王寺域内の道場に移転して、そこに釈宗活老師がいることを知らなかったはずはない。谷中墓地を散策すれば、宗活老師に出くわす可能性もある。森田は宗活老師を慕っていたのではないかとまで考えたくなる。
   名だたる禅僧、忽滑谷快天や、釈宗演をも批判して憚らなかった森田正馬にとって、釈宗活老師は別の存在だったようなのである。
 

(次回に続く)

高知の夏フェス―森田正馬没後80年墓前祭&記念講演会―

2018/07/19


黄昏の三人。
高知駅前に並び立つ、言わずと知れた幕末の土佐の三志士。



 

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   7月14日、京都では祇園祭の宵山が始まる。観光客が集まる喧騒を逃れたくて、高知に行った。7月14日はフランスではパリ祭である。高知のホテルの部屋のテレビで、“quatorze juillet”(7月14日)のシャンゼリゼ大通りの行進を観た。翌15日は「高知が生んだ世界的精神医学者 森田正馬 没後80年 墓前祭&記念講演会」(長いけれど、敬意を表して略さずに書いた)が開催される。まあ、今風に略せば、森フェスか。さて森フェスの当日。暑いったらない。高知の太陽が、カンカン。禅の洞山和尚は「寒時は闍黎を寒殺し、熱時は闍黎を熱殺す」と言った。寒い時は寒さになりきれ、熱い時は熱さになりきれ、と教えたのである。熱中症になったら熱中症になりきれと言うのであろうか。カミュの『異邦人』の主人公、ムルソーが、太陽のせいで人を殺したと言ったのを思い出した。太陽になりきったら、そんなことになる。まあ、物事は極端はいけないと思う。で、多少のキセルをしながら出席した。
 


記念講演会の前に、高知追手前高校吹奏楽部の演奏が行われた。



 

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   県立追手前高校の前身は、森田が卒業した旧制中学なので、つまりこの高校は森田の母校にあたる。無難な曲が演奏されていたので、私の音楽脳にはあまり響いてこなかった。洋ものの曲より、日本が生んだ名曲の演奏をなぜしないのだろう。ど演歌でも結構だ。
   いくつかの講演あり。没後80年の記念行事なので、文化講演会の色彩が濃くなっても仕方がないとは思う反面、生家をどのように生かし、どのように保存するかについて、具体的な報告がなされなかったことは、残念である。唯一、それを論じられた講演があったが、その講師は、NPO高知文化財研究所代表の方で、民間の立場から、総論的なことを述べられたに過ぎなかった。県や自治体から、生家の保存活用に向けて、現在ここまで事を運んでいるという報告は一切なかったのだ。とてもむなしい。記念講演会より、生家保存活用の進捗についての報告会の方が必要であろう。
 


三人衆の像がライトアップされだした。
左から武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎。みな人相が悪い。特に真ん中の人。これらは銅像かと思っていたが、中身は発泡スチロールで、表面はウレタンで特殊加工がしてあるらしい。つまり、張りぼてなのだ。腰につけた刀がものものしく、銃刀法違反であるが、これでは、迫力に欠ける。

 



龍馬と正馬は一字違い。人物はかなり違うが、子どもの頃、夜尿に悩んだらしいことは、よく似ている。

 


三人のシルエット。張りぼてには見えず、かっこいい。





記念講演会場の入り口にて。左から、生活の発見会本部の藤本様、熊本大学教授藤瀬先生、ひがメンタルクリニックの比嘉先生。

 
 
   15日夕には、熊本大学教授藤瀬先生、ひがメンタルクリニックの比嘉先生、正智会の畑野様と、土佐料理店で会食しながら、昨年の学会の成果である『森田療法と五高』の出版準備を進めるため、作戦を練った。秋には刊行に漕ぎ着けたい。
   深夜のテレビはワールドカップのフランス優勝のお祭り騒ぎである。
   どこもかしこもフェス、夏フェス。日本のふるさとの夏祭りが消えていく。友や家族と花火線香を楽しんだ、あの夏祭りへの郷愁。
   今回の森フェスの1週間後には、赤岡で、おどろおどろしい絵金祭りがある。8月には、全国に知られる、よさこい祭りが開催される。高知も夏フェスのシーズンである。
 


南国市の、故江淵弘明先生のお宅。



   禅に生き、禅に逝った知られざる森田療法家がいた。江淵弘明先生である。少年の頃から神経症に悩み、森田正馬の指導を受け、大学時代から相国寺の座禅会に入り、医師になってからも、生涯の大半にわたり相国寺での修行を続けた。その間を縫って、後進たちの森田療法的指導をした。そのご自宅は高知の南国市にあり、ご夫人は高齢だが、今も健在である。森田の生家から数キロの距離にある、そのお宅を訪ねて、江淵夫人にお会いした。
   鈴木知準診療所に入院した経験をお持ちで、かつて知準先生が高知に来られた時に江淵先生を紹介なさった人、香美市の山口博資様にもお会いできた。
   江淵弘明先生については、2年前の日本森田療法学会で報告した。
   以下のリンクより、その時のスライド画面を見ていただけます。

江渕弘明(こうめい)医師、禅に生きた森田療法家―その知られざる生涯と活動の軌跡―


江淵家のもうひとつの出入り口には、江淵弘明(建八) という亡きご主人のお名前も掲げておられる。

 
   「郵便物がくることがあるので」と、ご夫人はおっしゃっていた。
 


「ちょっと気づかう、そっと見守る」。高知駅で見かけた掲示。

 
   森田療法そのものだと思うようななにげない言葉を、駅などのポスターに見かけることがある。
 



「衝撃を与えないでください」。
龍馬空港にて。

 
   この人は、衝撃に弱いらしい。さらば龍馬、衝撃に弱い人。

第35回日本森田療法学会(熊本)印象記

2018/07/05




 
   2017年11月に熊本大学で開催された、第35回日本森田療法学会の印象記を執筆させて頂いたものが、雑誌「精神療法」6月号に掲載されました。編集部の方から、私のような者に執筆のご依頼を下さったもので、責任を感じてためらいましたが、ニュートラルな立場を守って印象記を書いてみようと考え、思い切って引き受けさせて頂いたものです。
 
   この学会は、熊本地震から一年半しか経っていない昨年(2017年)秋にに熊本大学で開催されました。学会長をなさった保健センター教授の藤瀬昇先生や、神経精神科のスタッフの方々のご苦労は、並大抵のものではなかったようです。
   私はたまたま、パネルディスカッションや、歴史部門でも発表させて頂いた経緯から、藤瀬会長や事務局長の遊亀先生との接点ができて、学会を開催なさったご苦労を垣間見ることができました。通常、学会に参加しても、準備や開催の水面下のご苦労はあまり見えないものですが、陰徳のようなご努力がなければ、学会は成立しません。
   新約聖書のルカ伝に、マルタとマリアの姉妹の話があります。イエス・キリストが彼女らの家を訪れたとき、妹のマリアはキリストの語る言葉に聴き入ったが、姉のマルタは接待に立ち働いた。これについて、エックハルトは、生活の中の活動を通して神に仕えた姉のマルタの態度をキリストは嘉したとする解釈を示したとされます。これは、禅にも森田療法にも通じる実践だと思います。震災からの復興もまだ途上の熊本で、学会が成立したのは、準備に従事なされたスタッフの皆様のご苦労があったからです。まず、そのような視点から学会印象記を書いてもよいと思ったのです。 学術発表に対する印象や評価は、聴く者の主観によって様々に変わり得ます。これについては、自分の卑見に流れることのないように慎重になりました。そのため、複数の方々の意見をヒアリングして、自分の意見もまじえながら、まとめることにしました。
   「高齢者」と「トラウマケア」についての、二つの重要なシンポジウムについては、少し辛口のコメントをしてしまいました。これは、学会に出席なさった関西の知人たちを問い詰めて、意見を交わした上でのことです。二つのシンポジウムを高く評価させて頂いたのですが、折角の森田療法の立場をこそ大切にする、ということを私たちは重んじたのです。
   短文にまとめた印象記の拙文の背景を、ここに説明いたしました。
   その拙文は、以下でお読み頂けます。
   よろしければ読んで下さい。

第35回日本森田療法学会印象記

森田正馬の生家を訪ねて、フランス人たちが行く( 続編)

2018/06/14


フランス人が部分撮影した絵金の屏風絵



 

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1. フランス人たちの冒険
   去る4月下旬、海の向こうからはるばると、森田正馬の生家を訪ねて、フランス人3人がやって来ました。四国へ、高知へ、そして野市へと、見知らぬ土地を動きまわって、よくぞ自力で野市入りしたものです。そんな無謀旅行を終えて、三人は帰国しました。
   今回ここに書き足しますのは、前回に書き落とした彼らの冒険旅行の成果の一部です。
   旅行中に撮りまくった写真を受け取った私は、生家保存会の事務局長の池本耕三様に鑑定して頂いたのでした。結果をばらしてしまえば、他の家を森田の生家と間違えたのでしたが、それはご愛嬌。その家も誰かの生家でしょう。野市まで来た三人は、この辺りを片っ端からうろつきまわった模様で、何枚も撮影した写真の中には、いくつも面白いものが映っていました。
   森田の生家から移転した新しい森田村塾や、かの地獄絵で知られる金剛寺、そして地獄絵との関わりがあるかもしれない絵金の、絵金蔵も訪れていたのです。


森田村塾。文字を読めないフランス人が撮影したポスト。


 

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2. 森田村塾
   森田村塾は、森田の生家を管理している香南市が、生家の建物を生かして開いた不登校の子どもたち向けの塾でした。しかし生家の建物の老朽化(耐震性に問題)のため、閉鎖して、市が最近、県道の反対側に新たに「教育支援センター森田村塾」(適応指導教室)を再開したものです。


森田村塾の玄関らしい。


 

森田村塾の遊び場。


 

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3. 金剛寺
   これも県道を挟んで生家の反対側の、比較的近い距離にある。「頌徳 森田正馬博士」という文字が刻まれた記念碑の横を入って行くと金剛寺がある。真言宗の寺院で、幼い森田がここで地獄絵を見て、死後の世界への恐怖を植え付けられたというエピソードでよく知られている。


上掲の写真の左上の部分の拡大したもの。菩薩像が見える。


 

写真の右上の部分を拡大したもの。赤い幟に、裏から読む「菩薩」らしき文字が見える。


 

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   森田正馬は、幼児期にこのお寺にあったおどろおどろしい地獄絵を見て、恐怖におののき、それが脳裏から離れず、長じても死の恐怖となったのでした。そのことは、森田自身が『神経質ノ本態及療法』の「附録」に記しているので、その一部を引用しておく。
 
   「或時、村の真言宗の寺、金剛寺の持佛堂で、地獄の絵の双幅を見た事がある。
三尺に六尺許りの画面である。極彩色の密画で、血の池、針の山、燒熱地獄の有様が画かれてある。堂内には、抹香で薰ぜられた一種異様の臭ひが漲つて居る。其絵と此臭ひとの複合した一種いふべからざる身の毛もよだつやうな恐ろしさは、今にも明かに其時の光景を眼前に彷彿させる事が出来る。
   此時以来、余は屡々死の恐怖に襲はれた。夜暗くして獨り寝に就く時などには、人が死ぬれば、親兄弟や自分の欲しいものなど、皆自分の思ふ通りにはならないで、心は空に迷ふものであらうか、或は何時までも永続して、限りなき夢のやうなものでもあらうか、など様々に思ひ悩みて、屡々悪夢に襲はれる事があつた。」
 
   金剛寺はその後改築されており、森田が見たという地獄絵は残っていません。したがって、誰が描いたどんな画風の地獄絵であったかは、知るよしもありません。しかし、野市からさほど遠くない赤岡町に、独特の色彩で妖しい絵を描いた狩野派の絵師がいました。絵金、すなわち絵師の金蔵です。金剛寺にあった地獄絵を描いたのは、絵金であった可能性は残っていますが、その根拠は見いだせないままです。


絵金蔵でフランス人、Blad BURKEY氏が撮影。絵金の屏風絵の部分を撮影したものです。(掲載責任者は岡本)



 

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4.地獄絵と絵金
   絵金(えきん)と呼ばれた絵師、金蔵は、独特の画風で知られた、幕末の異端の絵師でした。高知に生まれ、幼少より画才に長け、狩野派の絵師に師事して、その画風を学びます。山内藩の家老のお抱え絵師となりますが、狩野探幽の贋作を描いたとの汚名を着せられ、高知を追われます。空白の時期を経て、やがて彼は赤岡に戻り、酒蔵にこもって、屏風絵を描きました。武者絵や芝居の役者絵を主とし、真っ赤な鮮血とともに妖しく描いたその独特の画風は、異彩を放つものでした。金剛寺にあった地獄絵が彼の作ではなかったかと思われても、おかしくはありません。
   赤岡町には、絵金の描いた屏風を収蔵している「絵金蔵」があります。フランス人たちは、そこも訪れていました。その絵に無性に惹かれたと言います。精神科女医さんのご主人が撮った写真を何枚か送信してもらいました。屏風に描かれた人物を、ひとりひとりに絞って撮影しています。撮影の仕方が、独特な写真作品になっていますので、ここに掲げることを許していただきたいと思います。撮影者、Vlad BURKEY 氏は音楽家ですが、写真に関しても素人とは思えません。


絵金の屏風画の部分(フランス人のVlad BURKEY氏撮影)


 

同上


 

同上


 

同上


 

同上


 

同上


 

同上


 

同上


 

同上


 

同上


 

同上


 

同上


 

同上


 

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大阪の「かに道楽梅田店」にて(5月3日)。中央にNyl ERB 女史(精神分析家)、右にMuriel FALK-VAIRANT医師。撮影してくれたのが、VAIRANT医師の夫君のVlad BURKEY氏で、この人自身は映っていない。


 

同様の写真


森田正馬の生家を訪ねて、フランス人たちが行く。

2018/06/11



記事内の写真の説明
大阪の「かに道楽梅田店」にて、Nyl ERB女史と。(2018年5月3日)。女史の仲間の
Muriel Falk-Vairant医師(精神科女医)とそのご主人(音楽家)も一緒だった。

 

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   フランス語圏国際PSYCAUSE学会と交流を続けています。
   森田正馬没後80年の今年、7月15日に高知の野市町の生家の近くでの墓前祭などの行事が開催されることを、昨年来一応ニュースとして、PSYCAUSE側に伝えていました。もし、7月のその行事に外国人が参加するならしてもよいが、外国人を受け入れるような特別な準備がなされているわけではありませんと、予防線も張ってきました。
   ところが、日本愛に燃えるユニークな人もいるものです。ラカン派の精神分析家のニル・エルブ女史ときたら、今じゃ森田いのち。いても立ってもいられないのです。7月まで待てない。知人の女性精神科医とその旦那さんを誘って、3人で去る4月下旬から5月上旬まで、日本にやって来て、高知を中心に四国旅行をなさいました。
   もちろんお目当ては、森田正馬の生家とお墓です。確かに生と死は重要なことですから。7月の生家訪問や墓前祭に先駆けて、はるばるフランスから来てくれた人たちがいたことに、森田先生は草葉の陰できっとお喜びで、ニッコニコ。異界で笑顔恐怖の再発に悩んでおられるかもしれません。
   この人たちは、知らない四国をどうやって旅行するのかと、私はしきりに心配してあげたのでしたが、なんと精神科女医さんのご主人が、レンタカーを運転して、四国の田舎も山中もなんのその、ナビを見ながら見知らぬ土地を走り回ったというのでした。
   彼らが本当に森田の生家とお墓に到達したか。野市町を訪れて探しまわり、彼らが撮影した何枚もの写真を、私は記念行事の事務局長の池本耕三様に送信して、鑑定して頂いたのでした。その結果は言いますまい。まあいい線いっておりましたが。
   彼らは四国旅行を終えて、5月初めに最後の滞在地の大阪にやって来ました。5月3日に私は大阪に会いに行きました。彼らは梅田の曽根崎のOSホテルに宿泊していたので、容易に会うことができ、久闊を叙しながら、お初天神通りをぶらついて、「かに道楽」の梅田店に入って夕食を共にしました。連休の梅田の繁華街は人また人。お初天神の境内に入ると人はまばらです。どうしてこんな繁華街に神社ができたのかと、彼らは驚いています。繁華街が神社のそばにできたという見方ができないフランス人です。
   ニル・エルブ女史らは、フランスに帰国してから、高知探検談をPSYCAUSEのボスのボシュア博士に報告したようで、それをPSYCAUSEのホームページに記事として掲載すべく、その書き方について、ボシュア博士から私に相談がありました。しかし、結局彼らの森田生家とお墓の訪問の首尾については、読者に想像を逞しくしてもらうような書き方になりました。
   ボシュア博士の記事の文章とて、これも歯が浮くような書きっぷりです。恥ずかしいのは私ですが、フランス語を読まれる方は、下のリンクよりお読み下さい。これが、森田療法における日仏交流の、ひとつの見本なのです。
   誤解を避けるために、このような見本がすべてではないことを、強調しておきたいと思います。
   それにしても、こんな見本のパターンから窺える、日本愛、森田愛とは何なのしょうか。フランス人精神分析家たちは、自分たちを分析すべきです。
http://www.psycause.info/rencontre-a-osaka-avec-le-pr-shigeyoshi-okamoto-5-mai-2018/

「森田療法保存会」2018年総会・見学旅行参加記―高良武久の真鶴、森田正馬の熱海―

2018/06/07




 

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1.高良興生院・森田療法関連資料保存会
   「高良興生院・森田療法関連資料保存会」という重要な会がある。名称が長いので、略して「森田療法保存会」と言われたり、さらに通称として、「保存会」と呼ばれたりする。高良武久先生と高良興生院に関わる資料の保存に始まって、森田療法関連資料の保存や、森田療法に関する勉強などの集まりの開催もおこなっている会である。新宿区の旧高良興生院の建物の中に、会の本部がある。会員は関東在住者に限定されてはいず、九州にも会員になった人がいると聞いたのがきっかけで、私も数年前に入会させてもらった。この会には、高良先生が健在だった頃の高良興生院での勤務歴をお持ちの、ベテランの先生方が中心にいて下さり、また会の特徴として、組織がゆるやかで、外部との間に垣根がまったくない自由な雰囲気があるのがよい。
   去る5月27日、本会の2018年度の総会兼見学会に参加させてもらった。毎年この時期に総会が開かれるが、隔年に東京から日帰りのできる距離内の森田療法ゆかりの場所を訪ねて、そこで見学と総会が同時開催されているのである。今年は、真鶴半島にある高良武久先生の元別荘、さらに熱海の森田旅館跡地とその近くで森田の縁戚の方が開いておられる喫茶「M&M」を訪ねるという、総会を兼ねた一日旅行がおこなわれた。
 


高良先生の元別荘内の広間での、「保存会」の総会の風景(1)



 

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2. 真鶴にある高良武久先生の元別荘
   真鶴という小さな半島には、一度行ってみたいと思っていた。しかし想像するイメージと実際とは違う。移動する交通手段は車しかないのだが、小さな半島なので、道路まで狭い。高良邸は、半島の高台を登りつめて、そこから急斜面を少し下ったところにあった。傾斜地の上方に、贅を尽くした大きな建物が建てられている。ここに到着するのに、坂道を登ったり下ったり。その内部の大広間で、「保存会」の総会が開かれた。

 


同じく、「保存会」の総会の風景(2)



 
   大広間は、参加した十数人が一緒にゆったりと過ごせる、贅沢な空間である。部屋は海の方に向かって開放されている―、のだが、外には樹海のような木々があって、視界を遮っていて、海は見えない。この建物の管理をしている方が説明して下さったことには、屋外の樹木を伐採して、その始末をするのが何とも大変で、かなりの手前と費用を要したという。総会議事より(失礼)、説得力のある話であった。現在、伐採はされていないらしく、樹木は勢いよく天に向かって伸びている。それが自然の力というものである。高良先生は別荘として、どうしてこのような所を選ばれたのであろう、とつい思ってしまった。鹿児島出身の高良先生は、太平洋の海が恋しかったのであろうか。
 

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3. 熱海の森田旅館の跡地へ
   真鶴半島は平坦な地ではなかったが、熱海はまた、坂道の街である。高台と海岸の間の斜面に、起伏した街並みがある。そんな熱海の風情から、アルジェリアのカスバが彷彿とする。ジャン・ギャバンが主演した古いフランス映画、「望郷(ぺぺルモコ)」の、あのカスバである。
   しかし、実際には、坂道ばかりの街を徒歩で散策するのは、いささかとほほなのだ。森田正馬先生は、昭和8年に伊勢屋旅館を買い取って森田旅館にしたが、既に晩年に近かった。しかも宿痾を抱えている身としては、森田旅館にたどり着くのも楽ではなかったろうと思う。
 


熱海地図



 
   今回の「保存会」の見学は、主に吉田恵子様が企画して下さった。上に掲げた図は、吉田様から頂いた地図を拡大したものだが、そこに示したように(地図の下方)、森田旅館跡は海岸に近いところにある。現在は旅館跡は駐車場になっている。かつてはこの旅館の位置は市街地の端にあたり、海岸に面していたそうである。この旅館跡の前の道路よりも海寄りの地域の街は、後年にできたものである。
 

喫茶「M&M」を訪れたが、この写真は帰るところ。



 
4.熱海の喫茶「M&M」
   海岸近くに新たにできたその市街区域内で、森田旅館跡の前方(地図のさらに下方)に、「M&M」という喫茶がある。その喫茶のご主人は、森田正馬の縁戚(吉田恵子様によれば、正馬の甥孫)にあたる森田幹夫様である。
ご主人が、古いアルバムや森田正馬直筆の色紙、野村章恒直筆の色紙などを見せて下さった。
森田正馬筆の色紙は、写真に撮らせて頂いた。冒頭に掲げたものがそれで、「職業によって人の品性を定むるに非ず 従事する人の品性によって其職業の尊卑を生ず 形外」とある。年月は記されていない。同様のことを書いた色紙が知られており、それには昭和十年十一月と記されている。
 

森田旅館前での集合写真(昭和50年代のものらしい)。右上方に、「森田館」の文字が読める。中央左に長谷川洋三先生、中央右に永杉喜輔先生、後列に野村章恒先生とおぼしき人がおられる。


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   森田幹夫様が見せて下さった写真の中に、重要な人たちが映っている集合写真があった。上掲のものがそれである。鮮明ではないその写真を、さらに撮影した写真なので、残念ながら不鮮明だが、「森田館」の玄関前で撮影されたもので、昭和50年代のものらしい。長谷川洋三、永杉喜輔、そして野村章恒(推定)の各先生方の顔が見える。ほかにも重要な方がおられるかもしれない。
   一見して印象的なのは、熱海の「森田館」で、このような顔ぶれの中に永杉喜輔がいることである。水谷啓二没後において、永杉が森田療法の要人たちとなお交わり、「森田館」を訪れていた足跡に、喫茶「M&M」で期せずして遭遇した。私にとって新鮮な発見であった。永杉と長谷川との交流は、浅からぬものだったことを示す一枚の写真であった。
 
   この日の夜は、このカフェ「M&M」のすぐ近くの海岸で花火大会があり、夕方花火の音が鳴り始めていたが、後ろ髪を引かれながら、帰路についた。

谷中界隈散策―森田正馬参禅の足跡をたずねて―

2018/05/19

   森田正馬が、谷中の旧「初音町二丁目」にあった両忘会に参禅した事実、およびその旧「初音町二丁目」があった町域までは既に突きとめた。しかし、両忘会があった位置をピンポイントで見つけることは未だにできないでいる。
   高良興生院・森田療法関連資料保存会へ行った翌日の5月14日、両忘会のあった場所の特定を持ち越しながらも、谷中界隈を訪れた。
 
 


日暮里駅の東口駅前の猥雑さと正反対に、西口を出ると、雰囲気が変わる。御殿坂を登ると、谷中界隈がある。
 
 

初音小路、三たび。胡麻臭いレトロの雰囲気。
 
 

初音小路を通り過ぎて、「初音の道」を進むと、朝倉彫塑館がある。
 
 

朝倉彫塑館。その後方には、幸田露伴旧宅跡や、北原白秋旧宅がある。
 
 

初音の道
 
 

初音の道には、浄土宗の寺院があるが、これは新築のようである。
 
 

初音の道にあるレトロ調の店。
 
 

初音の道にある「初初音音」(正体不明)
 
 

三崎坂を下ると、山岡鉄舟が開いた全生庵(臨済宗国泰寺派)がある。中曽根康弘元首相や安倍晋三首相が座禅をしに行くことでも知られる。
 
 

全生庵
 
 

全生庵の向かい側に、天龍院(臨済宗妙心寺派)がある。釈宗活老師はここで提唱をおこない、森田正馬はそこに出席したと、日記にある。
 
 

天龍院
 
 

初音の森があった場所。
 
 

初音の森の一部を残し、児童公園になっている。
 
 

岡倉天心記念公園の入り口にある説明。
 
 

同公園内の六角堂
 
 

六角堂内にある岡倉天心像。
 
 

岡倉天心記念公園の入り口付近にある「旧谷中初音町四丁目」の説明
 
 

谷中ぎんざの方から階段を望む。
 
 

夕やけだんだん
 
 

夕やけだんだん
 
 

だんだんの上から谷中ぎんざを望む。
 
 

谷中には愛がある。

森田療法保存会での春の心の健康講座を担当させて頂きました

2018/05/17




   去る5月13日、東京の高良興生院・森田療法関連資料保存会で、ひがメンタルクリニックの比嘉千賀先生とともに、春の心の健康講座を担当させて頂きました。昨年の熊本における第35回日本森田療法学会で、比嘉先生といっしょにおこなったパネル・ディスカッションと同テーマのものを、東京においても再度発表する機会を与えて頂いたのでした。熊本までお越しになれなかった関東地方の方々が、さいわい多数ご出席下さいました。保存会のみならず、生活の発見会や啓心会OBの方々など、森田療法関係者各位が同じ会場にご参集下さったのです。このような場で表記の『社会教育と森田療法の合流―下村湖人らから水谷啓二へ』のような歴史的に意義あるテーマについて述べることができたのは有難くかつ光栄なことでした。
   今回は会場に来賓として、遠路おいで下さった熊本大学藤瀬昇教授や、下村湖人氏の縁戚の中嶋直子様や、永杉喜輔氏のご長男の永杉徹夫様や、社会教育研究者(桐生大学)の野口周一先生や、生活の発見会理事長の岡本清秋様らがご出席下さいました。晴れがましく、かつ実りある会だったと思います。
   講座後には、ご来賓の方々や、増野肇先生や、丸山晋先生といっしょに夕食会へ場所を変えて、奇しき縁で集った一同がしばし交流するひとときを持つことができました。
   この日の自分の発表は、昨年の熊本の学会での発表内容に基づきながら若干の修正や追加を加えたものでした。ここではその全内容を紹介するのを控えますが、冒頭部分のスライドと、最後のスライド(謝辞)だけを次に掲げておきます。
 








 
 
 
 
 

(中略)


 
 
 
 
 




 

   わざわざ東京までおいで下さった熊本大学の藤瀬昇教授が、思いがけずも昨年の学会でのパネル・ディスカッション時の写真を持ってきて下さって、感激しました。その写真を下に出しておきます。
 
   なお、昨年の学会におけるメインテーマであった「森田療法と五高」に関するいくつかの発表を論文化したものを、本にして出版する企画が、藤瀬昇教授を中心に進められています。その本に向けて、自分は、昨年の発表を、より深めた(つもりの)内容の原稿を用意しました。したがって、今回の発表内容は、いずれその出版物にてご一読頂ければ幸いです。

 



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