「森田療法における『自然』と『体験』について」

2017/04/28

   去る4月23日、第6回関西森田療法研究会でのシンポジウムにおいて、総括的立場から発言した際のスライドを以下に提示し、説明を再現して書き添えておきます。(「お知らせ」欄参照)
 

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   シンポジウムにおけるそれぞれの御発表への感想もありながら、むしろ全体に通底する基本的な問題を提起することで、総括に代えさせて頂くこととする。
 
 
 


   このシンポジウムでは「体験」について論じておられる。そこでコメンテーターの自分も、体験を紹介し、指名して頂いた立場について述べておくのがよいかと思う。
   かつて反精神医学の嵐が吹き荒れ、大学における精神科の医局講座制は解体へと向かっていった。そのうねりに翻弄された世代のひとりであるが、研修には恵まれず、また研究を罪悪視する風潮の中で、大学外の精神病院のいくつかに勤務することを余儀なくされ、旧態依然とした精神医療に浸かる年月を過ごした。いわゆる社会的入院の患者さんが多かったし、また慢性期の病勢が進み、生涯を病院内で過ごす運命にある人たちが多くいた。反精神医学の運動が、この人たちに対してどれだけの福音になるのか。活動する精神科医師の中には、挫折して自殺した人もいた。私は積極的な活動をできないノンポリだったが、治療効果を上げることが困難な精神障害の人たちを前にして、日々の臨床に虚しさと無力感を感じて、疲弊が募っていった。そんな悩みを、ある先輩に相談したことがある。「それを言う時は辞める時や」と先輩は答えた。燃え尽きた自分は、先輩に言われたごとく、精神医療の第一線から退いた。そして心身医学の領域に身を転じた。
   自分は入局当初から、精神だけでなく、心身を一体のものとして捉える心身医学への関心を持ち続けていたという事情もあった。しかし今にして思えば、自分が燃え尽きたあの精神医療の第一線にこそ、森田療法があった。来る日来る日を病棟の中で過ごしている精神障害の人たちに、それぞれの人生がある。治療者は、その人たちと「同行」するという貴重な役割を負う。そこに本物の森田療法があったのだ。最近になって、つくづくそんなことに気づき、忸怩たる思いでいる。
    とにかく、私は新たに心身医学の領域に入っていった。と言っても、心療内科というようなものは九州大学にしかなかった時代のことである。全人医療的な診療に従事できる医療機関として、京都市内の逓信病院の健康管理科に勤務した。NTTになる以前の電電公社の病院である。全人医療と言えば聞こえはよいが、絶えずどさまわりのように、あちこちの電話局を巡回して、健康診断や、疾病を有しながら職場で勤務している人たちのケアなどを行った。医師の仲間たちからは、このような仕事は低く見られて、肩身が狭かった。心身医学の勉強のために九州大学に通ったこともある。しかし、九大の心療内科の池見教授は、大学の中で全人医療を唱え、一方で心療内科をさらに専門的に細分化しておられたので、驚いた。寂しい思いをしながら、自分はそれなりに、逓信病院で電電公社の職員として、7年間、全人医療に従事した。
   そして、逓信病院に勤務しながら、近くにあった三聖病院に、昭和49年から、非常勤で勤務させてもらうことになった。その後、フランスに心身医学や精神医学を学んだが、それを機に、わが国の森田療法を再認識することになった。
   帰国後、日本IBMの野洲工場の嘱託精神科医師として呼ばれて、16年間これを続けることになった。バブルの頂点から、翳りが見えだし、リストラが始まり、社員の労働条件は厳しくなるばかりだった。精神疾患の人たちの休養や復帰、勤務の仕方などについて、組織や上司や本人との間で調整をはかる役割を負った。外部の精神科主治医から出される診断書を受け取る立場にいて、外部の医者が書く無責任な診断書にはうんざりした。会社内で患者さんが置かれている現実を直視して判断せねばならず、それこそ、事実唯真に基づく健康管理に従事した。電電公社と日本IBMでの経験が、自分をリアリストにしてくれたと思う。それが自分なりの森田療法につながっている。
   なお数年前から、関西森田の会の方々と交流させて頂き、そんなご縁でこのシンポジウムに参加させて頂く巡り合わせになった。

 
 
 




   森田療法がどのようにして成立したものであったかを、まず簡単に振り返っておく。
   呉 秀三の著書で、あまり注目されていないもので、大正5年に刊行された『精神療法』がある。コピーを入手して持っているが、奥付が見つからず、発行所がはっきりしないので、私家本かもしれない。同じ時期に、呉は精神障害者の私宅監置の実況について調査して、発表しており、この重要な業績の陰に隠れて、『精神療法』はあまり注目されなかったのであろう。この著書で、呉は東西の様々な精神療法を網羅的に紹介しており、安静療法、隔離療法、そして安静療法については、褥臥から作業に移行させることに触れている。
   森田は、主にこの呉の『精神療法』の影響によって、自身の入院療法を構造化した可能性が高いと思われる。
 
 
 



   そこで、森田の療法の特色を振り返ってみたい。森田自身は、「余の特殊療法」と言っていただけで、療法の名称をつけていなかった。便宜的に「森田の療法」と自称したことは、あるにはある。「の」を取り除いて「森田療法」になったと言えなくもない。ともあれ、後世の人たちによって「森田療法」と呼ばれるようになった。これは実に厄介な名称である。まずは、森田の直弟子たちや後進たちの森田に対する思い入れ、つまり転移が丸出しになっているがごとき名称である。またこの療法に関心を抱く後世の人たちは、「森田療法」という名称にまつわりついているエディプス・コンプレックスか阿闍世・コンプレックスのような類いの呪縛を、多かれ少なかれ感じ取って、戸惑いをおぼえざるをえないのである。このような転移や呪縛を取り払って、この療法の基本を考え直す必要がある。
   森田は、余の特殊療法と言っただけでなく、「自然療法」であり「体験療法」であると言った。「自然」と「体験」をこの療法の中心に据えていたのである。
   「自然」は「しぜん」とも「じねん」とも読めるが、「自然」について、少し整理しておきたい。
   森田は、人間社会には、農村的な生活者である恒心階級と、都会的な生活者である虚栄階級とがあり、前者の方が人間らしくて健全であるとみなした。しかし、療法において、必ずしも農村や野外の大自然の中に出ていくことが不可欠だと考えていたのではなかった。森田は東京のど真ん中で開業し、患者さんを連れて浅草へ映画を観に行ったり、朝市で野菜の屑を拾ったり、乳母車を押させてマーケットに買い物に出かけたりした。
   自然というとき、まずそれは森羅万象的な宇宙的現象を指す。マクロコスモスからミクロコスモスまで、すべてがここに含まれており、人間の心身も生物学的、脳科学的に見る限り、このような自然の一部を構成している。マクロからミクロまで、すべてが自然科学の対象としてある。一方主体の生き方を問題にするとき、西洋では、神の被造物として、人間対自然の対立の歴史があった。しかし東洋的日本的な自然観には、客体としての自然と主体としての人間の心を一体として融合的に捉える優れた叡智がある。とりわけ日本文化には、自分の情感を自然の風物に投影するほどの精神的風土がある。そこにある湿っぽさは日本的に過ぎるけれども、禅や仏教の教えも、森田療法における教えも、基本的には、そのような自然観に通じる。このような自然は、「しぜん」と言うより、「じねん」と言われるものに当たる。外界も自己も、すべてが一体になって「あるがまま」にあるのである。
 
 
 



   日本的自然観では、人間は自然(しぜん)の中に包摂されており、主体としての人間も、自然(しぜん)の中に生かされて、生きている。自然(しぜん)と人間との対立はなく、すべては「おのずから然る」のである。
   大徳寺の開山の大燈国師は、その歌の中で、自然に落ちている雨垂れをそのまま感じている状態を「おのずから」と言った。鈴木大拙はこれを「あるがまま」と解し、“as-it-is”と訳して、アメリカに紹介した。訳語の適否はあろうが、西洋的自然観との相違が表現されている。
 
 
 



   西洋的世界観においては、外界の自然と、能動的にみずから生きる人間が二極化しているが、東洋的ないし日本的には、自然(じねん)の世界の中に、人間は能動と受動の区別を超えて、生きている。その、おのずからなる姿が、「あるがまま」である。
 
 
 



   森田の指導を受けて、在野の教育者となった和田重正先生は、神奈川県の南足柄郡の山中に、寄宿教育塾「一心寮」を設立して、学校ではできない生活体験を生かす教育を推進された。大自然の中に包まれた寮での、さらに野外での貴重な体験があった。とりわけ「かくあるべし」という道徳教育がまかり通った時代には、このような環境での生活の体験は、子どもの欲望を自由に伸ばすために、極めて有用であった。
   これは単に都会を出て、転地をして大自然に触れることが不可欠であるとするような思想に基づくものではなかった。
 
 
 



   神戸女学院大学教授(現名誉教授)の松田高志先生は、和田重正先生の教育を継承して、奈良県御所市で「関西くだかけ農園」の活動を昨年まで継続された。農業の生産に実地に従事する体験を重視して行われたのであり、いたずらに野外に出ることを至上とする思想に拠って行われたものではない。

 
 
 




   森田は、自然と体験を、不可分のつながるものと考えていた。絶対的臥褥を経て作業にいそしむ中で、心身の自発的活動が促進されるのが、「自然療法」であり、「体験療法」でもあった。
   野外へ出る体験が無上であるのではない。必要次第で外にも出て行く。
   日常生活のすべてが体験である。しかし体験は個別のものである上に、その質は常に同じというわけではない。見れども見えず、であったものに、あるときハッと気づくことがある。
   とにかく、物事は体験しないと始まらないことが多い。そして体験は、いつも今ここにある。今に生きる、あるいは今を生きることが大事である。
 
 
 



   「今ここで自分の足もとを見よ」という「照顧脚下」の禅語が、三聖病院の玄関の下駄箱のそばに掲げられていた。スリッパを揃えて置きなさい、という意味にしか受け取れなかったようだ。三聖病院のスリッパ伝説のひとつである。
 
 
 



   その三聖病院には、しばしば外部から体験入院をしに来る人たちがいた。国内からは、心理系の人たちが主だったが、そもそも院長をカリスマ視する先入観を有していて、体験入院の動機に偏りのある人が多かった。外国人が体験入院を希望することもあったが、禅のイメージを先に膨らませてやってくる。そのような体験入院は、いわば邪道で、体験入院でなく、必要に迫られての入院体験の方が、ずっと本物なのであった。つまり、やむにやまれず入院なさる患者さんたちこそ、本物の体験をなさっていたのだが、その人たちの体験とて、個人ごとにさまざまであった。体験とはそういうものなのである。
   そして「体験」を経ることで「経験」として身につき、さらに「経験智」と言うべき智恵のようなものが深まることになる。
   仏教が教えるごとく、人生には四苦八苦がある。苦を生き抜くことが森田療法の智恵であり実践である。仏教的に言えば、森田療法は、「苦集滅道」という「四諦」の療法である。
   体験が重要だからと言っても、一回きりの人生における苦を、練習のようにシミュレーションすることはできない。究極の体験は、個別のものでしかない。擬似的な体験訓練としては、集団で生活を共にして、切磋琢磨し合い、共感や共苦を体験することはできるだろう。たとえば禅寺での修行生活はそのようなものかもしれない。樽にたくさん芋を入れて洗えば、芋は角がとれて丸くなっていく。集団生活の中で、社会性が涵養されるようなものである。
   まあ、あれこれやってみればよい。一見無駄な体験のようなことも、案外役に立つのかもしれない。「無用の用」である。
   結局、体験とは、主客が分かち難い一体になる事態のことである。ちなみに森田療法が認知行動療法と異なるひとつの局面は、体験の試行錯誤を繰り返す中で、その効率性をその都度主体に認知的にフィードバックするかどうかの点にあり、森田療法ではそれを急がず、経験がおのずから深化するにまかせるところに真骨頂があるのではなかろうか。その方が本当に智恵として身につくのである。

 
 
 




   蘇東坡の有名な詩で、森田は色紙にも揮毫しているし、日頃からこれを教えていたようだった。
   幻想の域にとどまっていたものがあったが、それを実際に体験してみたら、格別にどうということはなかった。同じ自分だが、幻想が経験に変わった。悟りの前後もそんなものであると言われる。
 
 
 



   森田療法はまた、家庭的療法でもある。それは森田自身がそのように自負したところである。しかし客観的に見ると、自然療法であり、体験療法でもある療法を、自宅を入院の場として実施したから、家庭的療法の構造になったものと思われる。瓢箪から駒が出たようだけれど、森田療法ならではの妙味がここにある。
   厳父あるいは師としての治療者がいるパターナリズム的関係を軸として、慈母的な人が介在して、治療構造を支えている。入院している者同士の人間関係もある。これは、わが国の古典芸能の分野でみられた徒弟制度的な内弟子制に似ていた。そのような家族的構造の中で、人間的な育成が行われたのであった。森田が自分の療法は人間の再教育であると言ったゆえんである。

 
 
 




   さて、療法の根本のところに今一度立ち戻ってみる。
   この療法は、本来人間には、心身の活動が自発的に発揮される働きがあることを、基本に据えている。
   森田は、恩師の東大病理学の三浦守治教授が、およそ病の療法は自然良能を幇助するところにあると語った言葉を重んじ、これを継承したのであった。幇助するとは、余計なことをして邪魔をせず、見守り、励まし、同行することなのであろう。
   自然良能を生かす治療観は、優れて東洋的日本的な智恵に拠っている。
 
 
 



   森田療法は、やはり禅や仏教や日本的東洋的思想との関係が深い。
   森田は、自身の療法と禅との関係を否定したが、それは一部の禅者の思想や人格や、また制度的な弊に対する反発であったようだし、かつ医学者としては、自説に科学の装いを凝らす必要があったからであろうと推測される。
   「あるがまま」という仏教的な基本思想に加えて、「煩悩即菩提」(大乗仏教)を引用しつつ、それを自分なりに言い換えて「煩悶即解脱」という熱心さである。また、禅の悟りはわからないと言いながらも、自身から見た「悟り」と、「治癒」とを同一視している。火花を散らして働いているというような動的な状態がそうなのである。
   禅では、「気に入らぬ風もあろうに柳かな」という博多の僧、仙厓義梵の句にあるように、しなって折れずに生きることを教えている。
   近年、マインドフルネスの研究者として知られるカバット・ジンは、“You have to be strong enough to be weak”と言っている。
   最近ようやく西洋で resilienceレジリエンスという力が注目されるようになった。これらは東洋で古くから重視されていた自然良能のことにほかならない。
 
 
 



   森田療法の本質は、およそここまでに言及したが、繰り返して見ておく。
   マクロコスモスからミクロコスモスまで、森羅万象としての自然は、人体をも含んで、自然科学の対象となる。しかし、主体としての人間は、自然(しぜん)の中に包摂されているあり方を、自然(じねん)と受けとめ、あるがままに生きるだけなのである。森田は、禅語を頻繁に引用したが、森田自身の言葉の方が、療法の本質を表している。曰わく、「自然に服従し、境遇に柔順なれ」、「事実唯真」である。
   また森田療法は、神経質や神経症の療法であるより以上に、人生の四苦八苦という、深い存在の苦悩への療法である。諦観を必要とするが、あざなえる縄のごとき苦楽のある人生を、自然良能を発揮して生きるのみである。
   森田療法は、心に対する自然科学ではなくて、「心の自然」に対する科学なのである。
 
 
 



   「苦痛を苦痛し 喜悦を喜悦す 之を苦楽超然といふ」。森田正馬筆の墨跡である。苦と楽は、剥がし難い両面であり、それぞれになりきりながら生きるのが、人生であると教えている。

 
 
 




   以前、ある皮膚科の老ベテラン医師から聞いた寓話のような話を思い出す。
   仏教で言うなら、「応病与薬」である。「人を見て法を説く」、あるいは「対機説法」という教えにも通じる。皮膚科の上医の場合が、まさに「応病与薬」的であるが、中医においては、何もしないでそのままにする。それも、経験によって培われた叡智と実力がなければできることではない。自然良能を生かそうとしてのことである。
 
 
 



   上に掲げた画面は、過去のある講演で出したものだが、敢えてそれをここに再掲した。自分の信条となっている森田療法観だからである。
   説明すればくどくなるので、お読み願うとして、森田療法は万人のためのものであることを、強調しておきたいと思う。
 
 
 



   これも同じく、過去の講演で出した画面の再掲であり、これまた自分の持論である。それは森田自身が、自説を鉄則とするな、と言ったことに基づく。臨済義玄の「殺仏殺祖」を思い起こす。われわれは、森田の療法の原点にあった本質を踏まえつつ、温故知新をはかればよい。
 
 
 



   森田療法は、日常の中にある、素朴でいかに大切なものであるかを示すために、明治生まれのあるおばあさんが孫に教えたという三つの教えを引き合いに出した。孫というのは私と同世代の知人であり、その人から聞いた話である。彼は体育の教授で、研究者としては、およそスマートではなく、がさつな人だったが、人間味があった。森田療法のモも知らない祖母に教えられて育った体育教師は、彼もまた森田療法のモも知らず、がさつで口が悪い酒飲みであったが、森田療法に通じるような人だったのである。
 
 
 



   森田療法の治療者の条件ということが、問題にされることがある。そして、まず古き良き森田を知る人たちを中心に、治療者は元当事者で治療を受けた経験者こそが、療法に従事することが望ましいという意見が、一方にある。また他方では、そのように元患者であったことが条件になるのではなく、むしろその逆であり、徒弟制度的で前時代的な場や、自閉的で排他的な場での入院経験は有害無益であって、そのような前時代的な場での入院経験も、研修体験も無用である、そして、外来森田療法が中心となった新時代向けの研修制度を整備することで、治療者を養成することが現実的であるとする方向性がある。
   入院森田療法が本来のものであるのだが、治療者の養成の難しさや、保険制度によってこの診療を実施することの不可能性という深刻な問題に直面している。外来森田療法は、形式的には可能であるが、その限定的な枠の中で、森田療法を形骸化することなく、本質を今日的にどのように生かしうるのか、という試練にさらされている。
   以上のいずれの方向を選ぼうとも、森田療法は今受難の時代にある。
   ただ、ここで一言いたいことがあって、入院森田か外来森田かという、形式的な選択を問題にすることもさることながら、大切なことは治療者の「照顧脚下」である。森田療法は万人の生き方に関わるものであり、誰しも、一生が精進の連続である。生涯完成することはない未完成のままで、必死で生き続ける。森田療法の治療関係は、治療者が患者を薫陶するものであるから、患者より一日の長のあるものとして、生きていなければ治療者たりえないであろう。
   治療者は、患者を小手先の技法で治すのではない。人間力で患者に劣ったら、治療になりえない。治療者が人間として成長することが必要である。
   難しいことではあるが、森田療法は治療者の自己教育に始まるのである。
 
 
 



   『荘子』に「渾沌」 という含蓄のある話がある。目、耳、鼻、口の七つの穴がない渾沌という名の帝がいた。渾沌を知る二人の帝がいて、彼らは何でも性急に整えないと気が済まない人たちで、彼らは渾沌に七つの穴を開けてやる方がよいと考え、一日にひとつずつ、渾沌に穴を開けていった。そしたら渾沌は七日目に死んでしまったのである。

 
 
 




   現代の森田療法は、渾沌のような状況にあるのではなかろうか。
   将来を望み見て、意欲的に森田療法を研鑽中の方々は、進もうとするあまり、道に迷うこともあるだろう。でも物事はそんなにすっきりするとは限らない。
   渾沌のままで、そのままたゆまずに模索を続けてほしいと願うものである。

丹後ふるさと病院と、院長の瀬古 敬 先生ー嘱託研究員の再紹介ー

2017/04/15

病院の裏山から望む琴引ガ浜と日本海(3月30日撮影)

病院の裏山から望む琴引ガ浜と日本海(3月30日撮影)


 

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丹後ふるさと病院の院長、瀬古 敬 先生に嘱託研究員になって頂いている。瀬古先生は神経内科の医師だが、森田療法に関心を持ってくださっている。そして、何よりも、京都府の北の僻地、京丹後市の丹後ふるさと病院に長年にわたって勤務して、過疎地の地域医療に貢献しておられる。そのような実践が、森田療法そのものである。
丹後ふるさと病院と瀬古先生のことについては、数年前に本欄で紹介したが、ここに改めて再紹介したい。
 

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瀬古 敬先生(嘱託研究員)

1965年 京都大学医学部卒業
京都市立病院神経内科部長を経て、
88年 京都府網野町の佐久間病院院長就任
95年 特定医療法人三青園理事長・丹後ふるさと病院院長就任(佐久間病院を再編・名称変更したもの)、現在に至る
医学博士、日本内科学会認定専門医、日本神経学会認定専門医、日本森田療法学会会員

写真はMD/EYEの特別インタビュー記事より

写真はMD/EYEの特別インタビュー記事より

 
安保闘争の嵐が吹き荒れ、東大の安田講堂が燃えた昭和のあの時代。医学部では、インターン闘争や医局解体運動に、医学生や若き医師たちは、考え、活動し、そして傷つきました。瀬古先生や私(岡本)はそんな記憶を共有しています。若い頃から瀬古先生は、質実剛健で、自分でものを考える人でした。宮沢賢治の詩を好んで読んでおられたように記憶しています。瀬古先生によれば、私は自分の下宿にニーチェの本を置いていたそうです。私自身はニーチェを熱心に読んだ記憶はなく、精神科に関心を持ち始めていた私は、生意気にもニーチェの病跡学の本を読んでいた可能性があります。精神医学のはしかに罹って、それを専攻したようなもので、我が身の浅はかさを思います。
医師になり、互いに異なる専門の道を進み、数十年を経ましたが、瀬古先生のお人柄は変わっていません。むしろ思考力、判断力はますます充実し、行動力は衰えを見せるところがありません。二十年以上前より、京都府下の、日本海に面した北の過疎地の病院の院長になり、地域医療に献身的に従事し続けておられます。精神科でなくとも、このような一般医療の第一線での臨床こそ、本物の森田療法の実践であると感じ入り、研究員に加わって下さるように懇請したのです。
それで改めて出会って話す機会が増えました。聞けば、寸暇を見つけては禅寺へ座禅に通っておられた経験もあるそうでした。この先生は、頭が森田療法なのではなく、人間が森田療法なのです。ちなみに最近は、ニーチェを読んでおられます。もちろん深い読み方をなさっています。森田正馬はニーチェに対してやや批判的でしたが、ニーチェのような凄みある覚悟を奥底に秘めていなければ、医師として充実した後半生を、過疎地の医療と福祉に捧げ続ける意志を貫徹することなどできないでしょう。
以下では、ある医学雑誌に掲載された、瀬古 敬先生への特別インタビュー記事を要約して(掲載後のことは若干加筆して)、先生の活動を紹介します。

丹後ふるさと病院院長
瀬古 敬先生に聞く
「過疎地の認知症診療の実際」

(主に雑誌 Medical Doctor 2012年2月号に基づく)

かに漁や丹後ちりめんで知られる京丹後市網野町は、高齢化率が30パーセント近い過疎地域だ。
丹後ふるさと病院は、同地区で唯一の病院として、認知症患者の診療に積極的に取り組んでいる。本年4月には、病院の隣接地に特別養護老人ホーム「ふるさと」も増設され、医療、介護の複合的なシステムで地域の高齢者を支援する体制が整った。しかし進む過疎化の中で相対的に増加し続ける認知症者のケアのニーズへの対応、医師や看護師など人的資源の確保、加えて病院や福祉施設の経営基盤など、困難な問題を抱えている。そんな事情の中で、地域の期待に応えようと、瀬古先生は日々努力をなさっている。

京丹後市

京丹後市

 

― 病院設立の経緯について
瀬古) 京都府は、対人口比で見ると全国で有数の医師過剰地域です。しかし京都府は南北の縦に長い自治体で、京都市は南に位置し、医師の大半は京都市内またはその周辺に集中しています。丹後半島が典型的な過疎地、医師不足地域であることは、全国的に知られていません。「京都に過疎地なんてあるのですか」と聞かれたりします。
病院がほとんどなかった丹後地域に、地元の有志の方々の努力で「佐久間病院」が誕生しました。その後私は、地元の有力者の方々から頼まれて、どこか温かみのあるその人たちの依頼を断りきれず、院長として協力させていただくことになりました。そして病院を地域の網野町とのジョイントベンチャーのような形で運営しようという構想を地道に話し合い、95年に公的性格の強い特定医療法人の承認を取得して、新しく「丹後ふるさと病院」になりました。

― 地域の認知症の実態について
瀬古) 14年前にWHOの調査がありましたが、当時の日本では、アルツハイマー型認知症より血管型認知症の方が多かったのです。しかし当地域では、その頃から、血管型よりアルツハイマー型の方が多いという結果が出ています。その理由ははっきりしませんが、日本海のおいしい魚食の習慣が関係しているのではないかと考えられます。血管型認知症の発症率が低いのではないかということです。
このように相対的にアルツハイマー型認知症が多いということと関連して、徘徊などの周辺症状が多く見られます。薬物もある程度有効ですが、認知症を治癒させるという期待に応えるほどの効果はありません。むしろ周辺症状などへの対応策を中心に、ご家族の方々と知恵を絞り、艱難を共有して努力しているのが現状です。

― 医療と介護の複合化について
瀬古) 過疎地の病院では、1人の医師がなるべく広い領域を診療しなければならないという面があります。しかし専門的な診療もまた必要なので、当病院はかなり多数の診療科を有しています。専門的な診療については、遠くの大学病院などから医師を非常勤で派遣してもらっているのが実情です。
当病院の患者さんの7割は75歳以上です。高齢者では認知症はありふれた病気(Common Disease)です。こうした方々には、高血圧、糖尿病など多数の合併症があります。この年齢層では癌も、Common Diseaseです。そのため当病院では、往診や訪問看護や介護センターを手がけてきました。もちろん私自身も往診しています。しかしそれだけでは間に合わないため、地域の包括支援センター、グループホーム、老健施設、老人ホーム、訪問看護ステーションなどと連携して対応しています。地域の診療所や施設と連携して勉強会も始めました。
本年4月には病院の隣接地に、特別養護老人ホーム「ふるさと」を開設しました。医療機関に近接している特徴を生かした施設にしようと思っています。

紹介後の感想
インタビュー記事では公言しておられませんが、ご自身が理事長の重責を負っている法人の傘下での、この特養の開設が、まさに苦渋の決断だったことは、察して余りあります。
神経症の治療としての森田療法を守り続けることも必要です。だが、医者であってみれば、森田正馬のような人と志を同じくして、時を超え、場所や立場を異にして、平成の今を森田のように生きることができたら、それほど尊いことはありません。そんな貴重な志を持つ医者、瀬古先生が身近におられることを有り難く思っています。
(岡本:2012年7月22日記載のブログの再掲)
 

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病院の玄関

病院の玄関


 
病院のほぼ全景

病院のほぼ全景


 
病院の隣に、特別養護老人ホーム「ふるさと」もある。 瀬古先生は、特定医療法人「三青園」の理事長で、法人内の2つの組織、病院と特養の管理者を務めておられる。

病院の隣に、特別養護老人ホーム「ふるさと」もある。
瀬古先生は、特定医療法人「三青園」の理事長で、法人内の2つの組織、病院と特養の管理者を務めておられる。


 
病院の前には、離れ湖という淡水湖がある。

病院の前には、離れ湖という淡水湖がある。


 
3月末に病院を訪問した。画像は、すべてその時に撮影したもの。
丹後ふるさと病院ホームページ

「関西森田・体験会」の見学体験

2017/04/10


 

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関西の森田療法事情は、いささかややこしい。誰が言い出したか、関西は森田療法の不毛の地だと、久しく言われ続けてきた。京都には三聖病院という、伝統ある病院があったにもかかわらず、ある筋からはさような病院は存在しないものとして、ネグレクトされてきた。その背景は読めるので、むべなるかな、と思う。森田療法ならぬ宇佐療法が、独特の禅的体験の重視により、異彩を放ち過ぎていたからである。
さて関西における今日の事情はどうか。三聖は既に滅びた。たとえその亡霊は、まだ少々残っていようとも。とにかく入院森田療法は名実ともに関西の地から消え去った。代わって活発化しているのは、森田療法の知識としての情報化活動である。

森田療法は、本来人為の巧みによってなされる療法ではなく、自然な体験によって身につくものにほかならない。森田は、この療法を自然療法、あるいは体験療法と呼んだのだった。われわれの生活の中のIT化、情報化が進んでも、バーチャルな病院に入院して、何かを体得するというわけにはいかない。禅語を引き合いに出すなら、「冷暖自知」である。人生で経験する重要なことの多くは、間接情報からでなく、みずからの感覚を通して体験的に知ることによって、はじめて身につくものである。

さて、数年前から、関西にちょっと面白い会ができた。治療者、患者、研究者、市民のそれぞれの間にある垣根を取り払い、森田的な本質を共に追求しようと意図するもので、堺市のナカノ花クリニックの仲野実先生を中心とする「関西森田の会」がそれである。

最初この会は、自由な勉強会、兼飲み会であったが、昨年から、集団で森田的生活体験を共有しようと、大阪府南部の古民家で、月一度週末に合宿生活をしている。治療者、教員、看護師、当事者ら、10人余りのグループでの週末合宿体験である。

去る3月25日に、私は見学の立場でここに参加させて頂いた。以下はその見学体験の報告である。

 

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弘川寺

大阪府の南東部の山裾に弘川寺という真言宗の寺院がある。寺の下方には、何軒かの民家が並んでいる。その中にN先生の御実家であった古民家がある。この家はとりわけ旧家の風情を残している。ここが合宿の場である。

 

 

土曜日昼過ぎから合宿が始まった。なにやら打ち合わせをしている。

 

 

塀の外部の草引きをしている人がいる。

 

 

玄関前庭の草引き

玄関前庭の草引き

家屋の内外で、皆が思い思いに清掃作業をしていた。そのあと、数人は山へ薪を拾い集めに行った。また一部の人たちは、スーパーへ食材を買い出しに行った。
私はひとりで、近くの弘川寺へ行った。

 

 

弘川寺

弘川寺


大阪と奈良の間にある山系のうちに、金剛山がある。古くは修験道が行われていた山らしい。
弘川寺は、その山裾、南河内郡河南町弘川にある真言宗醍醐派の寺院で、役行者を開基とする。
西行がこの地を訪れて、滞在中に没した終焉の地としても知られる。お寺の近くには、西行の墓も、西行記念館もある。

 

 

弘川寺の隣接地
弘川寺の隣接地(N先生の所有地らしい)には、切った丸太を組み立てて拵えた西行歌碑がある。丸太組みの上には、西行がこの地で詠んだ名歌をしたためた某書家の墨跡が、掲げられている。
「さひしさに たへたる人の またもあれな 庵りならへん ふゆの山さと」 西行

 

(寂しさに 堪へたる人の またもあれな 庵ならべむ 冬の山里)

 

孤独に耐え抜いて生き続けてきた西行が、自分と同じ経験をしてきた人が誰かいたら、庵を並べたいものだと、放浪の果ての晩年の孤独な心境を吐露した歌である。こんな寂しい歌を残して、西行は世を去った。

 

 

弘川の地は山裾だけれど、都市部より標高はかなり高く、3月下旬になっても夜になると底冷えがする。拾い集めた薪をストーブにくべて暖をとる。

 

 

買ってきた食材で、夕食の準備をしている。みずから包丁で野菜を刻んでいるハナクリニック院長、N先生の姿が右方に見える。

 

 

調理した料理が出来上がって、食卓に並べられた。これから、夕食が始まる。私は見学者だったが、一緒に食事にあずかった。食材も新鮮だったが、作った人たちの手間と心がこもっていることがわかるので、一層美味しい。
既に夜も9時となり、私はこのへんで辞去させていただいた。夕食の後片付けを済ませたら、いつも深夜まで話が弾むそうである。
森田療法の有志たちによるこの体験的合宿には、禅的清規のようなものは一切ない。自由な合宿であるが、参加者の自己規制が働いて、集団はおのずから自律的なものとなっている。
このような合宿の意義を問うてみる価値はありそうである。

森田正馬は、鎌倉円覚寺に参禅したか?(補遺) ― 森田療法と居士禅(在家禅)についての再考 ―

2017/02/17

大仏

 
        釈宗活の絵筆になる、釈迦如来像。釈宗活著『性海一滴』(明治34年刊) の口絵より。
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
 森田正馬が参禅したのは、両忘庵という釈宗活老師の居士禅(在家禅)の道場であった。
 もし森田が鎌倉円覚寺の釈宗演老師のもとに参禅していたとしても、自身が在家の立場に身を置いている以上、おそらく同じような体験をしていたと思われる。夏目漱石の参禅体験からもわかるように、外部の在家者が参禅を認められても、その参加の仕方は、雲水たちの仲間入りをして彼らと起居を共にし、作務に従事するという生活体験が待っているものではなかったのである。漱石は、円覚寺の塔頭に宿泊して、初日から老師より公案を与えられ、部屋で独座して、公案を見解し、老師との相見の時間に呼ばれたら、雲水の列に加わり、老師の前に参ずるというのが、参禅の日々の日課であった。
 このように出家を目的としないが、禅の参究を志す在家者に対する参禅の受け入れを本格化するために、釈宗演は弟子の釈宗活に命じて、東京で両忘会を再興して、在家者の参禅の指導に当たらせたのであった。
 この両忘会においても、主な修行内容は座禅と公案で、禅寺において雲水たちが作務に従事しながら集団で生活を送るような体験が重視されているものではなかったようである。
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
 中国において、唐代には、僧は集団で農耕に勤しんで生活した。
 「一日作さざれば一日食らわず」と百丈懐海も言ったように、働くことが生活であり、その日常が即ち禅であった。しかし宋朝禅になると、公案が重んじられるようになる。日本の鎌倉仏教では、作務を重んじる唐代の禅と公案を重視する宋朝禅の両者が折衷的に取り入れられた。
 森田療法において重要なのは、抽象的な思索に走らず、生活の中で必要な作業をすることである。森田療法は、禅なら唐代の禅に近い。しかし、いわゆる居士禅と言えども、臨済禅の場合は公案をおろそかにするものではない。居士禅について、筆者である私の理解はおそらく不十分だろうから、不適切な指摘になるかもしれないけれども、敢えて言えば、森田正馬にとって、居士禅の修行のプログラムにおいて、作務よりも公案が重視されていることには、おそらく違和感があったのではないだろうか。
 このように、居士禅の道場における修行と森田療法の間に、一見ずれが認められたことは、問題であったと思う。逆に言えば、出家を目標とせず、市民の立場で禅への志向性を共有する両者の間で、相補性が模索されるべきだったのだと思う。

 

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 今日、入院森田療法を実施する診療の場が、極めて少なくなった。このような現状に鑑み、入院原法を復活させたいと思うことしきりである。だがそこには、いくつかの難関がある。難関のひとつに、作業(作務)の設定の仕方の問題がある。入院森田療法において作業を取り入れることは不可欠である。それも作業のための作業では不自然で、実際に生活で必要なことに従事してこそ本当の作業である。とってつけたようなプログラムがお膳立てされても意味がない。自分の手が必要とされる場で手を出してこそ、自分が生かされる。だからといって、治療費を支払って入院する患者さんが、病院の労務に使役されていると行政的に判断されるならば、問題が生じる。
 先述のように、居士禅の修行と森田療法の間には、作務もしくは作業の扱いに差異があるように見えた。それは作務の重要性についての問題であった。
 一方、森田療法が含む問題として、入院の場で用意されている、ややもすると不自然な作業と、現実の社会生活の中での厳しくて、かつ自然な作業との間にも、不協和がある。それはリハーサルや準備運動と本番の差のようである。つまり作業の質的な差異の問題になるのである。入院森田療法における作業のあり方を改めて考えさせられる。

 

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 こうして、森田療法の視点からすると、まずは居士禅(在家禅)における作務の位置づけへの問いが生じ、さらには、入院森田療法それ自体における、作業の本質についての見直しの課題に直面する。
 一体、居士禅の道場において、座禅や公案に取り組ませる参禅は、そこに目指すべき到達点を見ているのであろうか?あるいはそうではなくて、参禅を通過点として、各人が日々の実際生活に歩を進めることを大事としているのであろうか。居士禅たるもの、もちろん後者であることは言うまでもなかろう。「歩歩是道場」。日常の行動が即ち修行と捉え得るならば、居士禅(在家禅)と、森田療法には通じ合う部分があるはずである。この点については、双方の間であまり検討が交わされてこなかったようだ。遅蒔きながら、今後に残されている課題である。
 森田正馬が直接まみえた禅の老師は、釈宗活その人なのであった。居士禅と森田療法の融合の可能性という視点からすれば、生涯にわたって居士禅の指導に専念した釈宗活老師と、森田正馬の間に、たとえ公案は透過せずとも、人間同士として交流が生じなかったのは、惜しまれることである。釈宗活という人物については、それを窺い知る資料は乏しいが、禅思想については、残された著作よりそれを知ることができる。その紹介については稿を改めたいと思う。

 

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 かつて山岡鉄舟らによって創設され、釈宗活が主宰した両忘会は、両忘協会、両忘禅協会と組織を変え、戦後は釈宗活から離れて、「人間禅」という宗教法人の教団となって、全国的に活動がおこなわれている。
 一方、市民の人たちの間には、静かな禅ブームが続いていて、半ば観光と重なるきらいもあるが、京都などの古都の名刹で座禅の体験を求める人たちが後を絶たない。いずれにしても、禅に関心を持ち、禅に拠りどころを求めて生きようとする人たちは多い。諸事情により森田療法そのものが行き詰まって、サバイバルを模索してさまよっている今日、禅を媒介として、悩める人たちと共に森田療法も蘇生しうる時が来ているのではなかろうか。
 

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[改めて謝辞]
 両忘会、両忘庵の歴史について、擇木道場の責任ある地位の御方より、貴重なお教えを頂きました。改めて感謝申し上げます。
 その後上京する機会があり、谷中に向かいましたが、既に宵闇せまる頃でした。擇木道場には、改めてご挨拶に伺うことができたらと思っています。
 

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        宵闇せまれば悩みは涯なし。
        谷中の墓地と天王寺の間に、擇木道場への道筋を示す「禅」の掲示があった。

森田正馬は、鎌倉円覚寺に参禅したか?(4)―居士禅における参禅の意義とは―

2017/01/21

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        宵闇せまれば悩みは涯なし。
       「初音小路」は、(旧)谷中初音町界隈に、今もある下町の「聖地」である。
 

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 かつて両忘庵が所在した場所を執拗に調べたら、それは(旧)谷中初音町二丁目にあったことが判明した。判明した経緯は後述する。そこは日暮里の近くで、山手におけるレトロの風情をとどめる町並みが残存している地域である。(旧)谷中初音町の辺縁で、日暮里に接する地区が、かつての二丁目である。両忘庵はそこにあった。同じこの(旧)谷中初音町二丁目のはずれ(三丁目か?)には、下町情緒を残す飲食街が、ひっそりと今もある。その名も「初音小路」。だが明治ではなくて、実は昭和の戦後の姿をとどめている小路らしい。明治は遠くなった。それでも「初音」の名には、明治がある。「初音小路」は、やはり見えない明治の面影を偲ばせる聖地である。
 ことのついでに触れるなら、明治の谷中初音町の町名の由来は、(旧)初音町四丁目に森があって、そこに鶯谷という地名が存したことによるとされる(上野にあるもうひとつの鶯谷にあらず)。現代のオタクたちが愛してやまないあのヴォーカロイドは、その名を明治の谷中の初音町にあやかっていることになる。初音町は、やはり聖地なのだ。
 その聖地の領域に両忘庵があった。いや両忘庵があったという意味でも、谷中初音町は聖地なのである。
 

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 両忘庵の所在地は、(旧)谷中にあったと言われながら、これまで漠としていた。しかし森田が参禅した時期以後の両忘庵の変遷を追うと、少し見えてきたものがあった。
 釈宗活が指導に当たっていた初音町の(二丁目にあったらしき)両忘庵の建物が、手狭でかつ古くなっていたため、大正4年に、宗活に参禅していた田中大綱居士なる資産家が、谷中墓地の近くの天王寺寺域に新しい道場の建物を建築して、これを釈宗活老師に寄進した。以来この建物は「擇木(たくぼく)道場」と名づけられた。ここで両忘会は維持されるが、擇木道場の成立により、道場としての両忘庵はなくなったことになる。しかし、その後も釈宗活を最高指導者と仰ぎつつ、大正から昭和にかけて、両忘協会、両忘禅協会と組織を変えていった。戦後には宗活老師から離れて「人間禅」を標榜することになる。その本部は千葉県市川市にある。しかし谷中墓地の近くにある「擇木道場」は、田中居士によって宗活老師に寄進された建物を改築したものの、そこを不動の場所と定めて、移転することなく、今も「擇木道場」を名乗り続けて、「人間禅」に属しながら、東京における居士禅の伝統的専門道場として機能している。顧みれば、田中居士が両忘会の発展のためにおこなった、新築建物の寄進は、両忘会から擇木道場の居士禅、さらに全国的な「人間禅」へと発展する契機をなしたのである。
 

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 ともあれ、「擇木道場」は釈宗活の禅をルーツとしていた。したがって、明治末期における両忘庵の立地や両忘会の活動については、現存するこの道場(現 谷中七丁目、旧 天王寺町)がなんらかの情報を有しておられるだろうと考えた。そこで、このたび、思い切ってこの道場に直接問い合わせをさせていただいた。お尋ねしたのは、両忘会と全生庵とのつながりの有無、両忘庵のあった場所、両忘庵と擇木道場の位置関係などであった。歴史に関するこのような唐突な質問に対して、擇木道場の責任ある地位の御方から、懇切なる回答を頂戴することができた(この場においても、感謝の意を表します)。お答えによれば―
 
・ 両忘会と全生庵との交流は、判然としないが、おそらく関係は薄かった。
・ 最も最初に釈宗活老師が、両忘会を開いたのは、「御隠殿坂下」と言われた場所であった。
・ 以前に湯島の麟祥院を訪ねた折に、明治45年に発行された「臨済宗円成会青年部」の会報「一華五葉」を閲覧したが、そこに「両忘会」の住所は、「谷中初音町二丁目」とあった。
 
 重要なポイントを含むこのような情報は貴重である。 「御隠殿坂下(ごいんでんさかした)」と呼ばれた地域は、日暮里駅の東にあたり、当時は文人たちが好んでそこに居住していたようである。正岡子規もその地にいたことがある。しかしそこは谷中ではなく、根岸に属していた。釈宗活は根岸に居を構えた、という伝承があるので、みずからの庵として、ここに居を定めたと考え得る。そして住居と別に、座禅の道場としての両忘庵を、谷中初音町に開設したのであろう。それが日暮里に接する「(旧)谷中初音町二丁目」だったと考えられる。平塚らいてうが、「田んぼの中の一軒家」と言い、森田正馬が両忘会の場所を初音町と書いていたことが、すべて符合することになるのである。両忘庵の位置は、大正4年に新築道場の寄進に伴う移転が起こるために、住所の追跡が困難であったが、初音町二丁目から墓地の近くへ移転したのであり、それは現在も擇木道場がある場所にほかならない。当時はそこは天王寺町だったので、両忘庵(両忘会)は、初音町から忽然と姿を消したのである。移転先の擇木道場は、御隠殿坂下と初音町二丁目のちょうど中間地点にあたり、墓地や寺院のある閑静な地域で、禅道場を設けるにふさわしい場である。将来への存続の可能性をも見据えた賢明な立地の選択であった。
 
 両忘庵のありかを探して右往左往したが、結局それは(旧)谷中初音町二丁目の中にあったことが判明した。ともあれ、森田が参禅した明治43年の頃の、(旧)谷中初音町二丁目の両忘庵は、もちろん禅寺ではなくて、民家を利用しており、提唱だけは、天龍院の場を借りておこなわれたのであった。両忘庵が、座禅に最適な場であったとは思えないけれども、可もなく不可もないような環境だったのではなかろうか。
 問題は座禅をする環境のことよりも、もっと根本的なところにある。在家者にとって、禅の修行とは。あるいは在家者が容易に公案を授けられておこなう参禅とは。円覚寺の釈宗演に参禅した夏目漱石も、また両忘庵の釈宗活に参禅した平塚らいてうも、初日から公案を与えられた。同じく森田もそうだった。修行とは、公案とは、参禅とは。森田はそのような基本的な疑問に直面したのではなかったろうか。そのように思えてならない。参禅したかどうかが、主題ではなくなるのである。
 

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 野村章恒氏は、『森田正馬評伝』を出すより先に、雑誌「精神療法研究」に〔資料〕として「森田正馬の業績」という原稿を2回に分けて掲載しておられる。「森田正馬の業績(一)―森田療法確立まで―」(精神療法研究、1(2)、1969)の中には、森田の行動のエピソードが記されている。医師になって巣鴨の医局に入った明治36年、健康診断で肺結核を発見されながら、彼は「医局の吉川氏と共に東京から鎌倉まで夜中行軍をしたりして」安静養生をしなかったという。このことは『評伝』にも、「徹夜ハイキングで鎌倉までいった」とあっさりと書かれている。目的地が円覚寺であったかどうかは、知るよしもない。
 明治43年には両忘会に参禅したが、その頃の森田は、催眠術に入れ込んでおり、また岡田式静坐法の見学もしたりと、多彩な方面に関心を分散させている。在家者向けに、座禅と公庵を用意され過ぎた参禅のメニューは、おそらく森田の興味を惹きつけるものではなかったように見える。彼は、釈宗演を辛辣に批判したが、釈宗活を嫌ったわけではない。その提唱には関心を持ち、後年になってから、出版されたその講話録を読んでいる。前出の野村氏の同文献(精神療法研究、1(2)、1969)によると、大正の初め頃には、助手の佐藤政治を相手に酒を飲んで谷中の墓地に出かけ、夜中の2時頃まで神経症治療の話をしていたことがたびたびあったと、佐藤の未亡人が語ったと言う。釈宗活とのなんらかの関係が続いていたかどうかはわからないが、谷中の墓地は森田にとって、お気に入りの場所だったようだ。
 釈宗活の名は、釈宗演とよく混同されるが、二人の人物像はかなり異なるように思われる。伝記について、とりわけ釈宗活のことがわからないので、軽率なことは言えないが、釈宗演は国際的舞台に打って出たような人であったのに対し、釈宗活は自分も海外への禅布教に赴いたとは言え、一片の野心もなく、居士禅の布教を素直に引き受けて生きた、寛容な老師だったようだ。居士禅のあり方をどう考えていたのか、よくわからないが、戦後には「人間禅」から離れることになる。若き日の宗活の苦労話とその人がらについては、漱石が『門』の中に挿話的に書いている。
 森田は、宗活老師に参禅して公案を通らなかった。幸いにも通らなかったからこそ、森田は禅にとらわれず、禅から自由でいることができた。何事からも自由でいるのが、禅の極致である。かくして森田は、自分のことを物好きの野次馬だと言い、自分の治療法は「全く禅とは関係がない」とうそぶくことができたのであった。
 

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【まとめにかえて】
 森田正馬が、鎌倉円覚寺の釈宗演老師のもとに参禅したかどうかは、ちょっとした謎のままでした。その辺を明らかにできたらと思って、昨年の12月初めから、調べをしながら、同時進行で文章を書き綴ってきました。調査を終えてからまとめるという常識を破り、何が判明するか、しないか、われながら行方も知れぬ、ミステリートレインのような連載文は4回にわたりました。無責任な報告文にお付き合いくださってありがとうございました。まさに無責任な進め方ではありましたが、その間、精一杯の調べをしました。
 メンタルヘルス岡本記念財団に、森田の日記を閲覧させていただきに通ったり、「(旧)神経質」誌の高価な合本を古書店から購入したり、谷中の擇木道場へ不躾な問い合わせをさせて頂いたり、高良興生院・森田療法関連資料保存会から遠隔地での図書の閲覧に便宜をはかって頂いたり、また上京して、同保存会へ図書閲覧にお邪魔したり、夜の谷中の町を徘徊したり。
 
 名古屋の杉本二郎様からは、適切なご助言をたびたび頂戴しました。感謝しております。
 
 肝心の内容については、まとめは困難で、森田が鎌倉円覚寺に参禅したかどうかは不明のままです。谷中の両忘会には参禅しましたが、われわれが森田にとっての禅を考えるとき、彼が参禅したかどうかの追求は、もはや主題をなさないことに思い至ったのでした。森田が公案を透過しなかったのは、ラッキーでした。スティグマを背負ったら、自由に禅の世界に遊ぶことはできないからです。
 

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       宵闇せまれば悩みは涯なし。
       ここは谷中の夜の天王寺。釈迦如来坐像がライトアップされて、神秘的な魅力が漂っている。

森田正馬は、鎌倉円覚寺に参禅したか?(3)―谷中の両忘会への参禅体験について―

2017/01/13

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釈宗活 著『臨済録講話』大正13年刊

 
 森田正馬は、明治43年に両忘会の釈宗活のもとに参禅し、長続きしなかった。しかし彼の日記には、大正15年に釈宗活のこの本を読んだという記録がある。森田は禅や釈宗活への関心を持ち続けていたのである。
 

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 森田が鎌倉円覚寺に参禅したかどうかについては不明な点が多い。けれども、谷中の両忘会における釈宗活への参禅は、森田にとって大きな体験であったと思われるので、これについて今一度見直しておきたい。そのあらましは、森田の「日記」や「我が家の記録」に記されているので、先に便宜上、野村章恒氏の著作より再引用した。この度、改めて正確を期すため、森田の日記(写し)を直接閲覧したので、当該箇所をまず次に正確に引用しておく。
 
「明治四十三年二月五日
 藤根常吉氏ニ勧メラレ、両忘会ニ入會シ、槐安國語ノ提唱ヲ聴キ参禅ス、藤根氏ト共ニ帰リ晩酌ス、
 
六日(日)
 谷中初音町両忘會ニ参シ、摂心中、毎朝参禅スル事トナル、考案ハ「父母未生以前、自己本来ノ面目如何」ナリ、午後ニ時天龍院ニ釈宗活師ノ禅海一瀾第二則ノ提唱ヲ聴ク、
 
七日
 朝参禅、師曰、禅ハ理ヲ以テ推スニ非ズ、身ヲ以テ考案ト一致スルニアリ、三昧ニ入ルベシ、坐禅ヲ怠ル勿レト、…」
 
 以上の日記の記載から、いくつかのことがわかる。森田はこの年の2月初旬の摂心の期間より、両忘會に入って、谷中の初音町にある坐禅の道場とも言うべき場所に通い出したこと。釈宗演が漱石に課したと同じ公案、「父母未生以前、自己本来ノ面目如何」を釈宗活から与えられたこと。釈宗活という老師の指導のしかたについての素描からわかる、その人物像の片鱗。そして午後は、朝の坐禅の場所ではなく、天龍院で老師の提唱がおこなわれたらしいこと、などである。

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 ところで、「両忘會」なるものは、どういうものであったのか、沿革をたどってみる。それは、在家の人々に対する禅指導の必要性を説く在家主義を標榜し、その活動をする組織で、明治8年に、山岡鉄舟、勝海舟、中江兆民らの有志の居士たちが、今北洪川老師(鎌倉円覚寺初代管長)を拝請して、東京湯島の麟祥院で、宗派によらない参禅会を結成して、これを両忘會と名付けたことが始まりであった(以下では、両忘会と表記する)。禅に参ずる集いとしては「両忘え」と読んでよいのだろうが、組織の意味で「両忘かい」と読んでおく。
 一方、会の中心人物のひとり、山岡鉄舟は、やはり在家居士の立場から、明治維新に殉じた人々の菩提を弔うために、寺の建立を発願し、臨済宗国泰寺の僧侶越叟を開山とし、みずから開基となって、明治16年に台東区谷中に全生庵を建立した。そして山岡は、明治21年に病没している。
 湯島の麟祥院で創設された両忘会の活動は、その後いったん途絶えた状態になっていたようである。途絶えた原因は、中心人物の山岡鉄舟が、全生庵の建立に力を注いでいたためか、あるいは山岡の死去によるのか、あるいは全生庵の僧侶との関係か、わからないが、湯島の両忘会と山岡による谷中の全生庵建立との間に、矛盾はなかったはずである。私自身、山岡鉄舟は両忘会の設置場所を湯島の麟祥院から谷中の全生庵に移したものと、思い込み、森田が谷中の両忘会に参禅した先は、全生庵であったろうと憶測していたのだった。しかし調べてみたところ、両忘会の活動の場が全生庵にあった形跡は現れてこない。それでも、山岡鉄舟が没するまでは、両忘会は全生庵につながっていたのではないか、という推測を今も抱いている。
 全生庵は、臨済宗でも国泰寺に属していた僧を開山として仰いだが、折しも臨済宗内では明治38年に国泰寺派が成立する流れにあったので、山岡亡き後の全生庵は、宗派を越える参禅を主旨とする両忘会とは、必ずしも軌を一にできない微妙な関係にあったことも考えられる。こうして、両忘会が休眠状態になっている状況下で、問題の地、谷中で全生庵を半ば囲繞するかのように、両忘会が復活するのである。

 

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 円覚寺の釈宗活は、管長の釈宗演より印可を受けて、表徳号「両忘庵」を授かるとともに、東京の両忘会の再興をはかるように命を受けた。それにより、明治35年に釈宗活は谷中に草庵を結んで、両忘会を継承し、在家の人たちの禅指導にあたることになった。草庵を結んだ、と伝承されているが、その場所は日暮里とも谷中とも言われる田舎めいた区域の、貸家の一軒家であった。平塚らいてうは、明治38年、日本女子大学の学生のときにここへ参禅しており、自伝の中でこの両忘庵と宗活老師について触れているので、少し引用しておく。
 
 「私はこの友の紹介で、(…)日暮里の田んぼの中の一軒家、「両忘庵」の風雅な門をくぐっていました。いよいよ釈宗活老師というお坊さんについて座禅の修行をすることになったのです。
 迷いも悟りも両つながら忘れるという両忘庵には、当時の若い帝大生が多く集まって座禅をしていました。鎌倉円覚寺管長釈宗演老師の高弟だという宗活老師が、どんなお年寄りかと思ったところ、まだ三十を少し出た位の青年僧だったので、意外な感じに打たれました。何でも高校時代、人生問題に悩んで、学業を捨てて、禅門に走り、出家した方だとかひとから聞いていましたけれど……。何度も畳に額をすりつけるような最敬礼を教えられた通りにして、この老師から「父母未生以前の自己本来の面目」という公案をいただきました。「さあ、あちらへ行って坐り方をよく教わってしっかりやりなさい」老師の言葉はたったこれだけのものでした。(…)
 両忘庵の参禅は、朝五時から六時位までで、冬の朝は提灯をつけて家を出て、牛乳配達か新聞配達しか通らない暗い淋しい道を歩かねばなりませんでした。」(平塚らいてう著『作家の自伝 8・平塚らいてう』日本図書センター 刊、1994 )。
 
 このような文章から、両忘庵の地理的環境や、早朝におこなわれていた宗活による座禅指導の雰囲気が伝わってくる。
 平塚らいてうは、翌年大学を卒業して再び参禅し、見性の体験をして公案を透過する。それにより慧薫という安名を受けるに至った。しかしその結果、おそらく自己に陶酔したような境地、禅で言えば、勝境(勝ち誇ったような魔の心境)が続き、明治41年に、夏目漱石の弟子の森田草平と心中未遂事件を起こす。デカダンスの文学に影響を受けて、ダヌンツィオの『死の勝利』を地でいったようなこの醜聞は世を騒がした。漱石は「狂気じみた芝居」だとこれを酷評した。マスコミは、野狐禅の「禅学令嬢」と呼んだ。この出来事は、東京に根付き始めていた居士(在家)禅のあり方にも警鐘を鳴らすことになった。
 森田正馬は、この2年後に参禅するのだが、彼にとって平塚らいてうの行動は、在家者における禅を予め冷静に考える材料になったことであろう。
 この頃の釈宗活は、明治39年より4年間の予定で、アメリカに渡って禅の布教活動をしていた。明治41年の一時帰国を挟んで、かの地で布教を続けたが、目的を達成できず、明治42年に帰国し、両忘庵で在家の人たちの指導に復帰した。そのような時期の明治43年に森田は参禅したのだった。
 

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 さて、両忘庵は、釈宗活の号であるとともに禅道場の名称でもある。この道場の開設の地として、谷中を選択したことについては、わけがあったのであろうか。釈宗演の指示によったのだろうが、そこにはどんな必然性があったのか。あったとすれば、全生庵との関係が考えられる。それは山岡鉄舟の実績への郷愁、全生庵との連携の必要意識、逆に国泰寺派への対抗意識、などなど想像は膨らむが、あえてこの地に草庵を結んだ何らかの理由について、これ以上はこだわらないことにする。
 ただ、この谷中の地で、まず両忘庵の正確な場所が不明であり、森田の日記によれば、提唱は天龍院でおこなわれたようであるし、さらに森田は、谷中初音町に参したと記している。このように参禅の場がはっきりしないのは、いささか奇妙である。瑣末なことのようでもあるが、参禅の場を洗い直してみたい。
 初音町という町名は、現在の谷中には存在しない旧町名である。これについては、「台東区ホームページ」の「台東区の旧町名について」というサイトから、現在の住所と旧町名の新旧を対照的に同定できる。現在の谷中のどこが、旧初音町にあたるか、わかるのである。両忘庵(推定)、天龍院、そして全生庵も含み、初音町に入るのは?
 意外にも、初音町に所在するのは、全生庵だけのように判定される。新旧の住所の対照に、念のため見直しの点検を要するとは思うが、ストーリーは混迷に入る。
 今回はここまでにして、もう一度結末を書き直すことにしたい。
 
                                         (さらにもう少し次回に)

謹賀新年

2017/01/08

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           謹 賀 新 年

 
     本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 
                                        京都森田療法研究所
                                         主宰者  岡本重慶
                                         研究員  一同
                                         協力者  一同
 
   この研究所活動を始めて5年になります。
   昨年は、いくつかの研究課題を追う過程で、沢山の新たな人々との出会いに恵まれました。
   そして新たな課題に遭遇しました。
   ご縁に感謝しながら、今年も歩を進めます。
 
   皆々様のご清福を祈ります。  

森田正馬は、鎌倉円覚寺に参禅したか?(2) ―鈴木知準氏の森田正馬円覚寺参禅説について―

2016/12/27

 

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 最初に、前回の稿で述べたことを繰り返しておく。 森田正馬は、明治43年に谷中の両忘会に入り、釈宗活のもとに参禅したことは、事実として疑いを入れない。しかし、一方で、鎌倉円覚寺の釈宗演のもとに参禅したという説がある。これを声高に強調なさったのは、鈴木知準氏である。その根拠として鈴木氏は、森田自身が「円覚寺の釈宗演のもとで」参禅したと述べた文献があるとして、次のものを挙げておられる。
 森田正馬 : 日々是好日. 神経質(旧)六巻 146,1935.
 この文献に相当するものは、森田正馬全集第七巻に収載されているのだが、奇妙なことに、鈴木先生のおっしゃる「円覚寺の釈宗演のもとで」という肝心の言葉はない。
 この不一致は何を意味するのか。そこには、さまざまなことが考えられる。端的に言えば、そのような文言があった筈だという鈴木氏の思い込みか、さもなければ、編集者の判断により、その文言の削除がおこなわれたか、という推論を立ててみたのだった。
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
 さて、前回手許になかった「神経質(旧)」誌(昭和10年4月号)の森田自身の文献、「日々是好日」にようやくたどり着いて、該当する文章を読んだ。そこには鈴木氏のおっしゃった「円覚寺の釈宗演のもとで」という言葉は、ついぞ見当たらなかった。森田正馬はかく語りき、と鈴木氏が示した文献中で、森田はかく語ってはいなかったのである。鈴木氏の言説に、実に単純な齟齬があった、と言わねばならない。森田がかく語ったという鈴木氏の言説は、昭和52年の氏の著作に見られるのだが、さらに付け加えれば、昭和51年に三聖病院の、宇佐玄雄生誕九十周年・三聖病院開院五十周年記念講演会に招かれて、その場においても全く同じことを述べておられ、それは昭和52年の三省会報第4号(昭和52年4月8日)に掲載されている。
 これらに先立って、森田の「日々是好日」という文献は、昭和50年に森田正馬全集第七巻に、熊野明夫氏の編集により収載されており、それは「神経質(旧)」誌に昭和10年に掲載された元の文献の再掲で、両方を照らしてチェックしてみたが、いずれにも、「円覚寺の釈宗演のもとで」という文言はない。ここにおいて、第七巻の編集者の熊野氏の作為が働いた可能性は消えて、問題はやはり元になった森田の文献の引用の正確性に差し戻される。誤った引用をすれば、そこに責任が発生する。にも拘わらず鈴木氏は、ためらうところなく、「森田は『円覚寺の釈宗演のもとで』参禅をしたと言っている」と、熱く語ったり書いたりなさっている。このけれんみのない語りは、一体何を意味するものであろうか。これは鈴木氏における単なる思い込み、あるいは記憶の錯誤の類のものであろうか。それとも、もっと深い確信的根拠に基づいてのことであろうか。真相はどこにあるのであろう。
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
 ところで、昭和10年の「神経質(旧)」誌上の森田の文献は、書き下ろされたたものではない。森田は、前年秋に高知に帰省する途中で、三聖病院で一泊してそこで講話をおこなっており、それが書き起こされた講話録である。おそらく書き取りをもとに起草されたものであろう。そして、その起草文は、まず三聖病院から刊行されていた機関誌に掲載されて、それが森田のもとに届けられて、「神経質(旧)」誌に転載されたとみるのが妥当である。また森田自身、この雑誌の編集発行者であったし、自分の講話録であるから、目を通して内容を確認した筈である。だが、ちょうどこの雑誌が編集された時期には、森田は熱海で病臥中で、編集は竹山恒寿氏によっておこなわれている。このような過程で、原稿の文言の脱落が起こった可能性もないではない。それにしても、鈴木氏がそこまで深読みしておられたかどうか、定かではない。とにかく鈴木氏の引用しておられる文言は、どこにもないのである。
 森田が三聖病院で「日々是好日」と題する講話をおこなったのは、昭和9年11月23日のことで、この高知への帰省の旅には、井上常七氏や、布留氏、野田氏が同行し、共に三聖病院に宿泊して、森田の講話を聴いておられた。このような方々や、竹山恒寿氏、熊野明夫氏は、森田が円覚寺の釈宗演のもとに参禅したか否かを知っておられたに相違ない。井上常七氏や熊野明夫氏らの生前に、証言を頂いていなかったとしたら、大変悔やまれる。また熊野明夫氏は、鈴木氏の愛弟子だった方と聞くが、鈴木氏との間で、森田円覚寺参禅説について、後日に討論は交わされなかったのであろうか。鈴木氏や熊野氏の周囲におられた方々が、ご存知であったら是非お教え頂きたいものである。

 

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 さらに無視できないことが残っている。鈴木氏における文言の引用の矛盾をあげつらうにとどまらず、引用に依拠しない鈴木氏の文脈にも注意を向けておきたい。前回に、森田の円覚寺参禅説を述べた氏の文章の二カ所を抜粋して示したが、その第一の文章を、前回より少し長めに引用してみる。
 「明治に入って臨済禅の系統に廃仏毀釈の新政治の嵐の中を生きぬいた禅僧に鎌倉円覚寺の今北洪川、その弟子の釈宗演がある。ここに夏目漱石、鈴木大拙、西田幾多郎、若い日の森田正馬も参禅している。これは明治二十年代から三十年代のことであった。(…)禅が日本文化に影響をあたえ出したのは、鎌倉時代からといわれる。(…)日本人の生き方、特に武士道、更に心学や武芸も強く影響された。森田もまたこの文化的影響下に育ったことになる。」
 この文章は、森田の「日々是好日」の文献に拠らずに、森田の円覚寺参禅説が述べられているので、引用の矛盾を免れているが、具体的根拠には欠けている。当時の文化的背景と森田の関心を考え合わせて、森田は必然的に円覚寺に参禅したと、ずばりと言い切るレトリックになっている。具体的証拠を示さずに、断定的に言うことには問題があるが、私自身も、森田が鎌倉円覚寺に、もし参禅を試みなかったとしたら、むしろその方が不思議なことであると思っている。
 森田の日記を調べてみても、円覚寺に関する記述は一切見られない。しかし、森田は箱根あたりの禅寺を観光的に見物したことも日記に記しているほどなので、禅への関心は窺われる。東京から遠くはない鎌倉の円覚寺を訪れたことが一度もなかったとは、到底考えられない。円覚寺のあたりを散策して、そのたたずまいを見たことくらいはあったろうに、と思う。円覚寺については、あえて日記に書かなかったか、書いてから削除したかという憶測が働いてしまう。そんな不自然さに関して、ひとつ想定されることとして、森田の希望に反して円覚寺への参禅が叶わなかった可能性が考えられる。
 円覚寺に参禅した文化人として、よく引き合いに出されるのは夏目漱石である。漱石は『門』にその体験を書いている。主人公、宗助は紹介状を持参して参禅を許可されている。受け入れられた宗助は、雲水たちと修行をともにしたのではなく、小説中で「一窓庵」と呼ばれる塔頭、帰源院に下宿して、典座寮の僧侶で釈宗活をモデルとした「釈宜道」に食事などの世話になって、老師から与えられた「父母未生以前の自己本来の面目如何」の公案を見解しながら、塔頭内で独座し、時間がきたら老師の釈宗演に相まみえるという体験をしたのだった。
 私は当時の円覚寺のことをまったく知らないので、あえて想像でものを言うことになってしまうが、市民に向けて開かれた座禅会のようなものはなくて、外部からは、主に一部の文化人だけが、客分のように受け入れられていたのではなかったろうか。そう考えると、円覚寺は、無名の若者であった森田が参禅を受け入れられるほどに、開かれてはいなかったのではないか、という推測が成り立つ。その後、釈宗演の命を受けて、釈宗活が東京の谷中で、在家者を対象とする、いわゆる居士禅の両忘会を主宰したので、森田も参加することになるが、釈宗演自身は、居士禅を専らとする人ではなく、仏教界における権力者のような人物であった。森田にとって円覚寺は狭き門であったのみならず、彼自身にとって、釈宗演は、一向に魅力を感じられない人物だったのではなかろうか。
 ちなみに、森田は釈宗演の名を伏せながら、明らかに宗演を批判する文章を書いているのである。
 釈宗演は、明治34年に「修養座右の銘」と称する、いくつかの言葉を作っている。森田は釈宗演という作者名は出さずに、それらのものものしい句に対して、「あたかも無念無想になれと命令するようなもの」であると、このような教えの愚を批判している(『神経質及神経衰弱症の療法』)。

 

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 鈴木氏の指摘するように、当時の日本の文化的背景を視野に入れると、森田が円覚寺のような格式ある禅寺で、一度は参禅の体験をしようと志したであろうことは、想像に難くない。ここまでは鈴木氏の文脈の通りであると思われる。しかるに現実には、夏目漱石と異なり、円覚寺の門は狭く、加えて森田は、釈宗演という老師に人間的魅力を感じることができなかったのではないかと推測されるのである。以上、想像を逞しくして書いてみた。その結果、円覚寺での参禅はなかったとみる方向性に傾いてしまったが、参禅について事実はどうだったかわからない。
 いずれにせよ、森田は決して禅への関心が薄かったのではなく、参禅については、師と場に恵まれなかったのは事実であろう。さらに、究極の禅的修行は、日常生活にあるという認識を有していて、禅寺に入る参禅を絶対不可欠としない柔軟な思想の持ち主であったのも、事実であったろうと考えられる。

                                          (あと少し次回に続く)

アフリカのコトヌー(ベナン)での学会で話題になった森田療法

2016/12/20

 去る11月の下旬にアフリカのコトヌー(ベナン)で開催された学会に招かれたPsyCauseの代表者、Jean-Paul BOSSUAT 先生は、日本の森田療法について、その療法のあらましを述べ、閉院前の三聖病院を訪問した体験についても話されました。聴衆は200 人ほどいて、その大半はアフリカの人たちであったが、彼らは森田療法に強い関心を示してくれたとのことです。アフリカの方々が、森田療法にどのように関心を持ってくれたのか、詳細はまだよくわかりませんが、BOSSUAT先生は以上のような報告をPsyCauseのホームページのサイトに記しておられますので、紹介しておきます。
 

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 La Pre Josiane Ezin Houngbé reçoit à dîner, au soir de la première journée de congrès, dans une salle du CNHU de Cotonou, le directeur de la revue Psy Cause et sa femme ainsi qu’un certain nombre de conférenciers et intervenants. Au cours des échanges lors de ce moment convivial, Le Pr Tognon ainsi que d’autres congressistes venus de Parakou, ville du centre Bénin où s’était déroulé le premier congrès de Psy Cause en Afrique Subsaharienne en 2008, ont exprimé leur souhait de la création rapide au Bénin d’une antenne Psy Cause Bénin. En effet, alors que la Côte d’Ivoire et le Cameroun en 2012, puis le Togo en 2015 et le Sénégal en 2016, ont mis en place une structure Psy Cause, il conviendrait, selon nos interlocuteurs, qu’au Bénin où Psy Cause a une histoire très ancienne, il en soit de même.
 
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 Lors de ce repas, le directeur de la revue Psy Cause a également eu des échanges avec des conférenciers venus de Belgique et de France, en particulier avec une sexologue de Bruxelles, Mme Martine Laloux, qui, dans l’après midi en plénière, a fait une communication très applaudie, intitulée « Impact de la maladie chronique sur la sexualité ». Les nombreuses discussions qui ont suivi avec la salle, en avaient fait une conférence très interactive. Heureuse de découvrir notre revue, elle nous a fait part, lors de ce dîner, de son intention de garder le contact, d’intervenir sur notre site et d’en parler autour d’elle en Belgique.
 
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 Tout au long des trois journées du congrès, ont eu lieu des échanges sur le fonctionnement de la revue Psy Cause. Principalement avec les Prs Jean Marie Yéo Ténéna (Côte d’Ivoire), Arouna Ouedraogo (Burkina Faso) et Aïda Sylla (Sénégal). Le Pr Jean Marie Yéo Ténéna, secrétaire de rédaction à l’Afrique Subsaharienne dans la revue Psy Cause, note que le nombre des articles adressés à la revue est bien supérieur à nos capacités de publication, ce qui, d’ailleurs, est un signe de succès. Il considère que nous devons mieux organiser la sélection des articles, ce qui renforcera la crédibilité de notre revue … et sera dans l’intérêt des auteurs. Le Pr Arouna Ouedraogo, Président de la Société Africaine de Santé Mentale, est en accord avec un renforcement de la sélection des articles.
 

 La Pr Aïda Sylla approuve également cette orientation. Elle est, de plus, favorable à ce que l’Ecole de Dakar pilote une demande de référencement au medline. La revue Psy Cause a déjà ses marques, en Afrique avec le CAMES, en France avec l’ASCODOPSY. La voie du référencement va se poursuivre et l’Afrique sera au cœur du processus. Au même moment, le Pr Mamadou Habib Thiam nous adresse depuis Dakar un courriel nous informant de l’avancement du second numéro Spécial Sénégal qui devrait paraître au premier semestre 2017. En ajoutant des échanges, en cours de congrès, avec le Pr André Tabo (Centrafrique) qui confirme la mise en place imminente à Bangui de Psy Cause Centrafrique, la richesse des rencontres à Cotonou du 22 au 24 novembre 2016 mesure le positionnement de Psy Cause en Afrique Subsaharienne francophone.
 
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 Nous poursuivons ce second volet avec la communication du directeur de la revue en plénière le 24 novembre « La thérapie de Morita à l’Hôpital Sanseï (Kyoto) ». Le Dr Jean Paul Bossuat introduit son propos en rappelant que sa présence à Cotonou en ce 24 novembre 2016 est un retour aux sources d’une vocation africaine de la revue. Dès 2003 en effet, le Pr René Gualbert Ahyi, alors qu’il était le seul psychiatre universitaire béninois, s’était adressé à la revue Psy Cause. À cette époque, le Centre Hospitalier de Montfavet (Avignon), dans lequel Psy Cause était reconnue comme une revue d’établissement, soutenait le développement de la psychiatrie béninoise. Notre revue ouvrait alors largement ses pages à des publications béninoises. Agrégé en 2006, le Pr Mathieu Tognidé soutenait en 2007 notre projet de congrès à Parakou réalisé en 2008 en partenariat avec l’université de cette ville. Il insistait ensuite pour que Psy Cause s’ouvre à l’Afrique, obtenant à cette fin une reconnaissance du CAMES. Ce sera une réalité à partir de 2010 et définitivement formalisé en septembre 2012. Autant dire que le Pr Mathieu Tognidé, auquel ce colloque de santé mentale rend hommage, a été au cœur de la transformation de Psy Cause en revue francophone internationale.
 
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 Le Dr Jean Paul Bossuat présente ensuite la thérapie fondée par le psychiatre japonais Morita dans les années 1920. Au croisement d’influences occidentales américaines et tout particulièrement allemandes avec Kraepelin, et orientales avec la voie bouddhiste de l’éveil dans sa version Zen, elle a donné lieu à la construction en 1922 de l’Hôpital Sanseï, spécialisé dans cette thérapie, dans l’enceinte d’un temple zen de Kyoto. Le fondateur de cet établissement, le Dr Genn-yu Usa, bonze et psychiatre, était un disciple direct de Morita. À son décès en 1957, la direction de cet hôpital est reprise par son fils. Des patients venaient de l’ensemble du Japon et de la Corée pour bénéficier de cette thérapie pratiquée dans le cadre d’une hospitalisation qui comportait quatre étapes : le coucher absolu, l’observation du monde extérieur, le travail et la vie sociale compliquée.

 
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 En octobre 2014, la revue/association francophone Psy Cause tenait à Kyoto son IXème congrès international. Il était présidé par le Pr Shigeyoshi Okamoto, spécialiste de la thérapie de Morita, formé à Sainte Anne et rencontré à Paris lors d’un congrès de « philosophie et psychiatrie » le 28 juin 2001. Ce congrès de Kyoto rassemblait des intervenants japonais se référant de l’approche bouddhiste ou lacaniens (une école lacanienne francophone très vivante existe au Japon). Deux courants de la clinique française inspiraient les participants japonais : le phénoménologie et la psychanalyse lacanienne. Un événement donnait à ce congrès un sens particulier : la décision de la fermeture de l’Hôpital Sanseï par son directeur devenu trop âgé pour poursuivre. Il n’était pas question de transmission mais de démolition : la pelleteuse rasait l’hôpital quasi centenaire, quelques semaines après le passage des congressistes de Psy Cause venus de France et du Canada. Ce congrès de Kyoto avait donné lieu à une cérémonie de clôture de cette expérience thérapeutique qui s’origine aux débuts du siècle dernier. Le Pr Shigeyoshi Okamoto n’a pas été autorisé à préserver de quoi constituer un musée, le directeur souhaitant la disparition totale de tout ce qui se rattache au lieu de soin. Un « Cahier Japonais » a rassemblé des textes du colloque et d’autres auteurs japonais dans le N°70 de Psy Cause. Largement diffusé au Japon, il porte un témoignage d’éléments constitutifs du patrimoine de la psychiatrie japonaise.
 
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 Cette communication a interpelé l’auditoire béninois, en particulier le Pr René Gualbert Ahyi, sur la question de la transmission de pratiques thérapeutiques inspirées par la culture ancestrale face au choc de la « modernité ». Ce qui vient de se jouer à l’Hôpital Sanseï peut très bien survenir en Afrique. Le thème de la mondialisation a, de façon récurrente, été évoqué lors du colloque. Elle a pour véhicule l’univers numérique via internet.
 
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 Lors de l’ultime séance plénière, après une communication très vivante intitulée « Education sexuelle en Afrique », le Pr Arouna Ouedraogo, en tant que Président de la Société Africaine de Santé Mentale, convie les congressistes au second congrès de la SASM à Yamoussoukro du 6 au 9 mars 2017. Le Dr Jean Paul Bossuat, modérateur de la séance, annonce alors que la revue/association francophone Psy Cause sera représentée à Yamoussoukro, en tant que partenaire officielle de la SASM.

Jean Paul Bossuat

“ PsyCause et le Japon : 15 années d’échanges “(“ PsyCause と日本 : 15年間の交流 “)

2016/12/17

 PsyCause という、フランス語圏国際学会組織と交流を始めて15年になります。
 このほど、PsyCauseのホームページのサイトに、組織の代表者のJean-Paul BOSSUAT 先生が、日本との過去15年間の交流を回顧する記事を出して下さいました。
 PsyCause のホームページのアドレスは、当ホームページの「リンク」欄の冒頭に掲げていますので、いつでもアクセスしてもらうことが可能ですが、以下に改めてリンクをつけておきます。
 
http://www.psycause.info/
 
 この回顧の記事で、BOSSUAT先生は写真とともに過去15年の交流の経緯を明快にまとめて書いて下さっています。こちらの記憶がおぼろげになっていることまで再現されているので、情報の整理と保存の能力にも驚いています。
 
 森田療法の分野での日仏交流は、古くは高良武久先生のパリでの講演に始まり、以後20世紀末まで、日本からフランスへ向けての交流ならぬ一方通行的な紹介活動が、散発的に続けられてきました(その中には、不肖自分もいました)。森田正馬の著書の翻訳がなされたのは、その時代の最大の成果だったと言えますが。
 さて、一方的な紹介活動は、20世紀末をもって終息に向かいました。それを受けて、21世紀のグローバル化の時代に、電子化された通信機能を活用して、私たちはPsyCauseのネットワークの中で、インターネットやメールで森田療法について国際的に討論を交わすことが可能となりました。一方2年前には、フランス人たちは日本を訪れて、閉院間近い三聖病院をリアルに見届けるという的確な行動力を示しました。画像とともに、そのような体験を記した BOSSUAT 先生の回顧の文は、森田療法についての国際的討論を経ながら、遂にリアルタイムで閉院前夜の三聖病院を訪れて、フランス人の立場から、森田療法の歴史のひとつの幕引きに立ち会った貴重な生き証人の記録でもあります。
 以下にその記事を、貼り付けておきます。
 

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 Psy Cause a officiellement affirmé sa vocation francophone internationale à partir de 2010 et l’a inscrite dans ses statuts en septembre 2012. Cette évolution à partir d’une revue locale française est le fruit d’une longue histoire. Notre présence francophone en extrême orient, comme en Afrique ou au Canada, a des racines qui s’originent dans les premières années de la revue. Tout a commencé à Paris lors de la cinquième Conférence internationale Philosophie et Psychiatrie qui se déroulait du 28 au 30 juin 2001 à la Faculté des Saints Pères sur le thème : « Douleur et dépression ». Le comité scientifique était coordonné par un Professeur de Marseille spécialiste de la phénoménologie, Jean Naudin. Le directeur de la revue Psy Cause, le Dr Jean Paul Bossuat faisait le déplacement accompagné d’un collègue, le Dr Rémi Picard. Ce dernier était un jeune psychiatre dans le service du directeur de Psy Cause au Centre Hospitalier de Montfavet. Il se préparait au concours pour être psychiatre des hôpitaux, et nous effectuions ensemble une communication à ce colloque. Le Dr Rémi Picard est aujourd’hui Président de la CME du Centre Hospitalier de Montfavet.
 
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 Une conférence très originale avait retenu notre attention, le second jour de colloque, intitulée « La douleur spirituelle et la thérapie de Morita ». Nous n’avions jamais entendu parler de cette thérapie japonaise. L’auteur, le Dr Shigeyoshi Okamoto, psychiatre et Professeur de santé mentale à l’Université Bouddhiste de Kyoto, avait su captiver son auditoire et nous donner l’envie de le connaître. Ce sera chose faite lors de la soirée de gala de ce même jour aux Jardins de Bagatelle. Le courant est passé : nous avons parlé de cette thérapie japonaise, de Kyoto et également de la revue Psy Cause. Le Pr Shigeyoshi Okamoto adressera le 16 décembre 2001 une lettre au directeur de Psy Cause : « j’ai bien reçu un exemplaire du dernier numéro de votre revue et je vous en remercie vivement. Je vous suis aussi reconnaissant de votre amabilité de m’avoir ajouté parmi les correspondants associés. » Il ajoutera son espoir de notre venue, tous les deux, au congrès mondial de psychiatrie à Yokohama l’année suivante. Nous avions à l’époque dans l’ourse de Psy Cause, une rubrique réservée aux étrangers, les « correspondants associés ». Cette même année 2001, en juillet, le directeur de la revue effectuait une tournée dans des établissements du Québec à l’invitation du Dr Raymond Tempier. Là aussi, étaient semés des prémices qui allaient germer douze années plus tard.
 
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 Dix années après ce colloque parisien et d’envoi régulier de notre revue, en 2011, le lien avait été préservé. Le Pr Shigeyoshi Okamoto nous signale par courrier le 17 février son changement d’adresse et son intérêt pour la lecture de Psy Cause. Il nous informe également de sa prise de fonction dans l’Hôpital Sanseï spécialisé dans la thérapie de Morita à Kyoto. C’est l’époque où nous mettons en place un comité de rédaction international francophone et nous lui proposons d’y faire son entrée. Il nous répond par mail le 21 mars 2011 : « Je suis très honoré et en même temps confus (…) car je ne maîtrise pas bien la langue française (…) » Il répond aussi à notre suggestion d’organiser à Kyoto un séminaire Psy Cause sur la thérapie de Morita : « votre proposition (…) m’intéresse beaucoup. En pratiquant la thérapie de Morita à l’Hôpital Sanseï, hôpital spécialisé dans cette thérapie beaucoup inspirée du Zen, je m’occupe depuis longtemps de l’échange franco-japonais au niveau de cette thérapie. »
 
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 Il nous informe alors d’une difficulté rencontrée avec la Société Franco-Japonaise de Médecine qui fonctionne dans le cadre de la psychiatrie : « la source de cette société remonte à la rencontre de quelques psychiatres japonais avec Henri Ey. Les activités de cette société se sont limitées à des échanges entre les psychiatres de la région parisienne et ceux de la région de Tokyo. Extraordinairement, en 2004, cette société organisait un colloque intitulé « Journée de la Thérapie de Morita » dans notre hôpital à Kyoto. » Mais, ajoute le Pr Okamoto, cette journée n’a « pas été bien appréciée » à cause de problèmes tels que « la différence des cultures, la difficulté de communication, une préparation imparfaite dans l’organisation. » De plus, la publication des écrits en France n’a pu être réalisée. Depuis ce relatif échec, nous écrit le Pr Okamoto en ce 21 mars 2011, « je n’ai pu développer, malgré mon désir, l’échange franco-japonais sur la thérapie de Morita », et conclut « j’apprécie beaucoup votre proposition (…). Il faudrait préparer prudemment ce séminaire pour le réaliser avec succès. » Quatre jours plus tard, le 25 mars 2011, il nous poste une carte postale représentant l’œuvre de Camille Claudel « L’abandon », sur laquelle il nous écrit : « La région de Kyoto reste intacte, épargnée par le désastre (Fukushima). En revanche, notre hôpital « périmé » court vers sa ruine. Venez et regardez le avant sa disparition. »
 L’année 2011 est également, pour notre revue/association celle de la montée en puissance de la communication numérique. Le site est doublé depuis l’automne 2010 d’un blog plus convivial, plus journalistique. Le contenu du blog sera par la suite, en janvier 2013, intégralement transféré dans le nouveau site psycause.info qui regroupera les diverses fonctions. Deux articles présentent sur le blog la thérapie de Morita. Le premier, en date du 29 juillet 2011 évoque un projet de séminaire Psy Cause, sur la thérapie de Morita à Kyoto. Le second, en date du 30 août 2011, parle des réactions par courriels au premier texte, et de la réponse du Pr Okamoto. Ces deux textes sont à lire dans la rubrique « Asie » accessible en cliquant sur la barre du haut de notre site.
 
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 Notre entrée en extrême orient se fera par le Cambodge en novembre 2012. Invité au congrès de Siem Réap, le Pr Okamoto ne pourra se déplacer pour des raisons de santé. Sa communication sur la thérapie de Morita sera lue et présentée aux congressistes par le directeur de Psy Cause. L’une des congressistes au Cambodge, la Dr Catherine Lesourd, pédopsychiatre en Martinique, vient en juin 2013 à Kyoto, rencontre le Pr Okamoto et visite l’Hôpital Sanseï. Lors du congrès Psy Cause d’Ottawa en octobre 2013, elle se porte volontaire avec la Dr Patricia Princet pour manager au nom de Psy Cause un congrès à Kyoto présidé par le Pr Okamoto. Le projet de 2011 va prendre forme et devenir un événement historique.
  
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 Notre congrès Psy Cause à Kyoto en octobre 2014 est contemporain de la décision de fermeture de l’hôpital Sanseï. Le Pr Okamoto s’adresse le 19 octobre aux congressistes par ces mots : « En tant que responsable de l’organisation, du côté japonais, je voudrais d’abord souhaiter la bienvenue à Kyoto au congrès de Psy Cause, à tous les ressortissants de pays francophones ici présents. Je voudrais aussi les remercier d’être venus de si loin jusqu’ici. Ma gratitude va aussi aux Japonais qui participent avec assiduité, bien qu’il s’agisse d’un colloque en langue étrangère. Quant à moi, Shigeyoshi Okamoto, cela fait une dizaine d’années que j’ai des échanges avec ce mouvement. Notamment, j’avais eu l’honneur d’être invité à faire une conférence sur « La thérapie de Morita et le bouddhisme » au congrès qui s’est tenu au Cambodge en 2012. Mais mon état de santé s’étant aggravé, je n’ai malheureusement pas pu être présent en personne, dérangeant ainsi grandement les membres de Psy Cause. Je voudrais donc saisir l’occasion qui m’est donnée ici pour leur renouveler toutes mes excuses. Cette année, deux ans ayant passé, j’ai dû accepter la tenue de ce congrès, pour me faire pardonner.(…) Je dois par ailleurs ajouter que l’Hôpital Sansei, qui est l’hôpital le plus traditionnel pour la Thérapie de Morita, fermera ses portes à la fin de cette année. La décision a été prise à la fin de septembre. L’histoire de la Thérapie de Morita évolue depuis le passé jusqu’à présent et du présent vers l’avenir. En voyant les dernières images de l’Hôpital Sansei en activité et en réfléchissant ensemble à la signification historique de cet hôpital, je voudrais que ce congrès soit mémorable. »
  
 Cette première journée de colloque, le Pr Shigeyoshi Okamoto nous brosse le panorama de la Thérapie de Morita au Japon aujourd’hui : 300 médecins pratiquent la Thérapie de Morita au Japon. Peu réfèrent leurs soins à la philosophie du Zen. Les autres ont pris de la distance avec cette philosophie qui est à la base de cette thérapie et ne savent pas ce qui est pratiqué à l’hôpital Sansei qui est un élément attesté dans l’historique de cette thérapie. Il nous présente un film construit sur l’hospitalisation à Sansei d’un garçon qui a une phobie d’autrui, qui met en évidence une thérapie qui permet un lâcher prise de la jouissance sans changer la problématique névrotique sous-jascente qui est mise à distance, en moins de trois semaines. Le patient, libéré d’une pathologie invalidante, peut ensuite valoriser pleinement son talent artistique.
 
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 La seconde journée de colloque est particulièrement solennelle avec la venue d’un grand maître Zen très connu au Japon, Maître Eshin Nishimura. Le Pr Okamoto en précise le contexte : « la fermeture en décembre de cette année de l’Hôpital Sansei a été décidée comme un baisser de rideau sur une longue histoire de 92 ans. » Après un historique de l’Hôpital Sanseï ouvert en 1922 par un psychiatre bonze zen et disciple du psychiatre japonais Morita, il présente le maître zen : « si j’ai demandé à Maître Nishimura de nous donner une conférence, ce n’est pas parce qu’il est le plus grand spécialiste japonais du Zen mais parce que je voudrais qu’en le voyant en chair et en os, vous ressentiez par vos cinq sens le Zen vivant qui émane de sa personne. »
 
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 La troisième journée, le 21 octobre, est une visite de l’Hôpital Sanseï qui sera la dernière. Le directeur, le Dr Shin-ichi Usa, nous attend debout sur le perron, appuyé sur une canne, du haut de ses 88 ans, le visage emprunt de gravité. Nous avons devant nous un homme qui, dans les dix premières années de son enfance, fut un contemporain du Dr Morita. Son père, fondateur de cet établissement conçu pour mettre en pratique les idées du Dr Morita, lui a passé le flambeau à sa mort en 1957. Cet homme en tant que second directeur, a maintenu l’œuvre de son père pendant 57 ans. Il nous invite à visiter l’œuvre de toute une vie et au delà. Une maxime est affichée dans le hall d’entrée : « Seule la réalité est la vérité ».
 Ce congrès a été chargé d’émotion et la communication a été intense malgré les filtres culturels. Nous avons tous eu conscience de vivre un moment particulier de l’histoire de la psychiatrie japonaise. Les communicants japonais ont tenu à s’exprimer en langue française, ce qui a positionné notre événement dans le registre de la Francophonie.
 Ce congrès de Kyoto a rassemblé des intervenants japonais se référant de l’approche bouddhiste ou lacanienne (une école lacanienne francophone très vivante existe au Japon). Divers courants de la clinique française les ont inspiré : Henri Ey, la phénoménologie et la psychanalyse lacanienne. Ce croisement des références a été voulu par le Pr Okamoto qui se définit davantage comme francophile que comme francophone.
 
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 Les lendemains de ce colloque sont difficiles pour le Pr Okamoto avec la fermeture puis la destruction de l’Hôpital Sanseï. La pelleteuse rase le bâtiment centenaire dès février 2015. Le dernier directeur de cet établissement a tenu à ne pas laisser de trace de cette expérience thérapeutique qui plonge ses racines dans les années 1920. Il ne s’est pas soucié de transmettre des documents pour le musée que désire constituer le Pr Okamoto qui souhaite, lui, préserver la mémoire de la thérapie de Morita traditionnelle.
 
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 Le 4 septembre 2015, le Pr Okamoto nous écrit : « Après notre congrès de Kyoto, la fermeture de l’Hôpital Sanseï puis la démolition de son bâtiment ont suscité des problèmes quant à la nécessité de la conservation des divers documents historiques. Car le lieu de cet hôpital est vraiment important dans l’histoire de la thérapie de Morita, la création de cet hôpital remontant à l’ère de Shoma Morita. Le Dr Usa père, disciple de Morita, a fondé cet établissement sur le terrain du temple Tohukuji en introduisant le Zen auquel Morita attachait de l’importance, le considérant comme l’essence de sa thérapie. Au final, cet important hôpital a désormais disparu. » Or, nous confie le Pr Okamoto, cette destruction n’a suscité que de l’indifférence quant à la nécessité d’en conserver des documents, ajoutant : « personne n’a tenté de les conserver sauf moi. Même le directeur a été indifférent quant à cette nécessité. Moi tout seul ai fait tout ce que j’ai pu. J’ai épuisé mes possibilités et en ai été beaucoup fatigué. Cela a été ma bataille. »
 
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 La construction du « Cahier japonais », dossier spécial Japon dans le N°70, revêt donc un rôle important dans cette dynamique de transmission. Le Pr Okamoto s’y investit sans ménager ses efforts, aidé par Mme Nyl Erb, notre nouvelle chargée de mission pour l’extrême orient. Cette dernière était venue à notre congrès de Kyoto grâce à google. Elle effectuait une recherche sur la thérapie de Morita et la seule occurrence disponible via internet était Psy Cause. Ethnopsychanalyste passionnée par la culture japonaise, elle s’est, après notre congrès dans la capitale impériale du Japon, portée volontaire pour faire le lien avec les professionnels de ce pays, et a apporté sa précieuse contribution quant à la réalisation d’un dossier en langue française très complet intégrant la thérapie de Morita, le Zen, la psychanalyse au Japon, et des données anthropologiques. Le Pr Okamoto a lui même tenu à la publication de trois articles dans lesquels les auteurs se réfèrent à la psychanalyse lacanienne. Le N°70 sera diffusé à partir d’avril 2016. Le Pr Okamoto nous écrit le 6 juin 2016 : « Nous, les auteurs japonais, avons reçu l’envoi du N°70 de la revue Psy Cause le 27 mai. Envoi dont nous sommes vraiment reconnaissants. » Il nous fait part de la satisfaction des auteurs quant à la présentation avec des photos en couleur, de leurs articles. Et il nous commande une livraison d’exemplaires « pour offrir ce numéro à plusieurs collègues japonais, en mémoire de la fermeture de l’Hôpital Sanseï. »
 
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 Le 24 octobre 2016, le directeur de la revue Psy Cause, invité à Cotonou au congrès béninois de santé mentale, communique sur la thérapie de Morita à l’Hôpital Sanseï avec pour base, entre autres, les écrits du N°70 et le congrès de Kyoto. La question de la transmission d’une thérapie associée à des bases culturelles est au centre des échanges avec la salle car elle trouve beaucoup d’écho en Afrique Subsaharienne. Autant dire que les professionnels africains vont suivre avec attention le devenir de la thérapie de Morita au Japon.
 

Jean Paul Bossuat
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