森田療法のディープな世界(10)―森田療法の「影」の部分としての「共感」、「共苦」―

2025/05/12

 

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1. はじめに
 
 森田療法の神髄に相当する領域にある問題として、四苦八苦に向き合うことを、繰り返し取り上げてきた。それは、苦悩を訴える患者に対する、治療者の対処の仕方を問うたのではなく、森田療法に則って、人は皆、苦をどう生きるのかという問いかけをしたものであった。人は孤独な存在者であるが、共に生きる生活者でもある。共に生きる関係性の中で、人と喜びや悲しみを共有し、共感しあって生きる生き方がある。共感は、他者の苦しみに向けられたものになれば、それは共苦というものになる。
 そこで、森田療法における共感や共苦について、今一度整理して、つけ加えておきたい。
 

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2 . 「共感」という用語について
 
 最初に、「共感」という言葉の意味に曖昧さが生じるのを防ぐため、その言葉が使われてきた事情について、少し述べておく。
 「共感」は英語の‘empathy ’とほぼ同義の用語で、他者の視点に立ち、その経験を理解し、感じる能力であるとされる。‘empathy’の語の由来については、まず哲学者のリップスによって、1903年にドイツ語の美学用語 ‘Einfühlung’ (感情移入)が心理学に適用され、さらに心理学者のティチェナーにより1909年に、‘Einfühlung’ の英語訳として ‘empathy’ の語が造り出されたものである。 わが国での「共感」という概念は、‘empathy’ と同義に、相手の立場に立って、相手の気持ちを想像するという意味合いで使われている。一方、類似した用語に ‘sympathy’(共感、同情) があり、この語は悲痛や困難な体験など、ネガティブな状況にある他者への心配の感情に限定して用いられる場合が多い。一般に同情や思いやりなどと言われるものに当たるが、自分の立場から相手に共感することを意味しており、‘empathy’ の意味での共感とはニュアンスを異にする。
 

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 岡田顕宏の「「共感」という語の起源と歴史について」という論文があり、この文字通りのことについて、詳細はこの文献に譲るが、わが国における「共感」という語の使用の歴史について述べているので、この点のみを紹介する。
 「共感」は19世紀後半に ‘sympathy’ の訳語として造られたが普及せず、続いて20世紀初頭に文学の領域で使用された時期があった。日常的な言葉として浸透し、使用されるようになったのは、1930年代中盤以降のことである、と言う。
 
 森田正馬は1938年に没したので、森田は生前には「共感」という語の日常的使用には接していず、従って当然のことながら、療法の指導にあたり、「共感」という用語いることはなかったはずである。ちなみに、森田の著作や形外会での発言の記録を洗い出しても、「共感」という言葉を見つけられない。では森田は「共感」に相当する心理作用をどのように表現していたのか、あるいはそのような心理作用を重視しなかったのか。われわれはその問題に遭遇した。その辺を探ることがこの拙稿の意図するところである。
 

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3. 森田正馬が重んじた「純な心」
 
 森田正馬は、人間に本来的に内在する「純な心」を重んじた。
 それは、人間の「本然の感情」で、「余は此治療中に、患者をして純なる心、自己本来の性状、自ら欺かざる心とかいふものを知らせるやうに導く」と言っている。また「純な心」は自然本能的の衝動としての自発的活動欲であるとして、モンテッソーリの幼児教育におけるように、自発的活動の増進をはかることを必要視した。さらに森田は、理想主義や気分本位から脱して、そのままの心から出発するところに自己が切り開かれていくと教えた。そして入院による隔離生活で、理想や価値観への拘泥のない自分自身になったときに、純な心が体験され、療法の進行中に、次第次第に、「純な心」で生きることが会得されると森田は述べて、療法における「純な心」の会得の重要性を強調している。
 

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 この稿では、森田療法における「共感」を問題にしているが、「共感」は他者との関係の中で「純な心」が発露して起こるものと理解できる。そこで、まず「純な心」について見直しておくべく、以上に、森田が重視した「純な心」について、肝要なところを略記した。
 さて、既に記したが、注目すべきことに、宇佐玄雄は、「惻隠の情」を「純な心」と同一視し、森田は、犬に噛み殺された兎への憐憫の情が「純な心」であると教えたのである。憐憫が深ければ「共苦」にもなる。つまり「共感」あるいは「共苦」の感情が、「純な心」の重要な特徴をなすと捉えたのであった。それを受けて、以下で、「純な心」と「共感や共苦」との関係に、できるだけ分け入る試みをしてみたい。
 

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4. 「純な心」としての「共感」
 
 森田は二種の「純な心」を示した。
 まず、理想や理屈などの夾雑物をまじえない、人間の自然な「自発的活動欲」を「純な心」とした。そして、そのままの心で生きるとき、「純な心」が会得されると言った。これが森田の教えた第一の「純な心」である。森田はさらに、犬に噛み殺された兎への憐憫を「純な心」であると教えた。これは「共感」や「共苦」に通じる側面であり、第二の「純な心」が提唱されたのである。それにしても、第二の「純な心」を後から付け足しているのは、収まりがよくないし、またこの第二の純な心について、日常生活や療法において、どのように生かされ、体験されているかについて、森田は何もフォローするような記載をしていないのである。「共感」という言葉がまだ使われていなかった時代であるが、それに相当する憐憫や同情の心理が「純な心」に通じることを森田自身が示したのであるから、第一と第二の二つの「純な心」をまとめて、取り上げる必要があった。第一は、個人の内部から発する自然な感情であるに対して、第二は他者との関係において生じる感情である。森田はこれらをまとめる作業をせず、第二の「純な心」を提起したにとどまって、中途半端になっているのである。
 その中途半端さ、曖昧さの問題は深掘りされて然るべきである。なぜなら、「共感」は森田療法にとって、必要な治療的要素であったのか、否かという確認作業につながるからである。もちろん、「共感」をおろそかにする森田療法など、あり得ないと思っているのであるが。
(空行)

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 「共感」という言葉は、まず英語の‘sympathy’ の訳語として、同情のような意味合いで造られたのであったが、普及せず、その後 ‘empathy’ の訳語として、1930年台後半以降に用いられることになったようであり、戦後に登場した言葉であるとも言われる。人間同士が水平の関係で自由に共感しあうことは、戦前の日本社会ではあまり許容されなかっことであろう。「共感」という言葉が市民権を得たのは、戦後の民主的な人間関係においてであった。森田が生きて、没した時代には、上下の人間関係の中で示されるものとして、同情や憐憫という言葉や態度はあったが、「共感」という言葉や概念は存在しなかった。では「共感」に相当する心理的態度 や行動は、どのようにあり得たのであろうか。もしそれが、文化的な制約を受けて定着していなかったのであれば、治療者としての森田を理解するにあたって、そのような背景事情を考慮する必要があることになる。
 

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 さらにまた、精神療法としての森田療法における治療者の資質としての共感性の問題がある。
 これについては、従来、あまり正面から論じられてこなかったように見受けられる。なぜこのことが本格的に論じられていないのだろう。禅修行において、師弟や修行者同士の間で、共感が問題にならないように、森田療法では、共感を論外のものとしているのであろうか。しかし、実際には、森田正馬と患者たちとの間には、暖かくて人間的な交流があり、また時には、森田の厳しい叱りがあった。森田と患者たちとの間には、共感が湧く契機が多分にあった。
 
 ただし、森田という人物は、われわれが ADHD と診断して、その病跡を論じたごとく(本ホームページ内の「ブログ」欄、および「研究ノート」欄参照)、その言動には奇矯で風変わりなところがあった。その奇矯さが、治療に予想外に組み込まれて、療法が成立したとわれわれは判断したほどであった。そんな森田であったから、患者との間には、思いがけない共感が発生したり、あるい危機的な感情が起こったりと、意想外な展開があったのではなかろうか。このように、療法の創始者の森田が人間的に独特であったから、治療者患者関係における「共感」は不安定で、客観的にわかりにくいものであったろう。ともあれ、森田は親しみやすくて、人間味があり、しかし厳格かつ権威的で、説得的な指導をする人だった。自分の療法を受けに来た患者たちであったから、愛ある態度で接しなかったはずはない。だが、十分な目配りができたかどうか、問題はあり、疎外された者もいた可能性がある。
 こうして、患者たちに対する森田の「共感」には、おそらくムラかあった。そして、その「共感」の内実は、主に殺された兎に憐憫を感じるレベルの、同情や慈悲の域のものであったものと思われる。「共苦」という意味での深い「共感」は、療法にどこまで取り入れられたのであろうか。不明さが残る。
 

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5. ADHDの人における「共感」、「共苦」
 
 療法の創始者、森田が示した共感性をもう少し問題にする。そのため、森田という人物を見直しておく必要がある。その独特の人物像については、多くのことが語られてきたが、われわれは病跡学的に森田をADHDと診断しているので、そのような視点から、改めて森田像を抽出してみたい。
 森田に学び、かつ、交流して、森田を学界の有名人に引き上げるために貢献した人として、中村古峡がいた。その中村は、みずからも治療者として開業したが、著書『神経衰弱はどうすれば全治するか』の序文で、森田の治療のしかたを激しく批判した。曰く―「博士がその患者に課せられる療養生活なるものが、あまりに博士一流の冷たい人生観と哲学とに囚はれ過ぎてゐるためか、(…)予期の結果を見るに至らず、却て失望と煩悶とからその症状を新たにして」、患者は中村の療養所に流れ込んでくるというのであった。
 森田との親交を経て、訣別することになった中村による森田の酷評である。具体性に欠けるが、森田の人生観と哲学の冷たさを指摘している点で、考えさせられるものが残る。ちなみに、森田の診療所に入院した患者の治癒率は高くなく、脱落者は意志薄弱として切り捨てられていたようであった。
 
 一方、今村新吉は、森田正馬のことを「勉強はしていないが、カンは良い」と評したそうである(日本森田療法学会会員で森田療法史の研究者の澤野啓一先生による)。確かに、学者、研究者としての森田正馬については、全集に掲載されている学術論文を一読しても、緻密な論理性に欠けていることがわかり、秀でているとは言い難い。しかし精神療法家としての森田は、持ち前のカンのよさによる優れた着想と神経質の治療の熱心さにより、独自の療法を創始したのであった。つけ加えるならば、その療法における典型的な症例の治癒のドラマは、森田が自宅に用意した、言わば箱庭のような治療の場を超えた時空間で展開した。療法の創始者であった森田は、いつの間にか療法のドラマの中のひとりの登場人物になっていた。つまり森田は、療法を支配する権威者であったり、療法の中に患者と共に登場する人であったりしたのだった。
 
 ところで、人間森田の生涯を遡れば、次のようなエピソードもあった。中学生のとき猫を殴り殺して、解剖をしたと、みずから回顧して記している。猫を殺したADHDの少年Mの内面で、その後、動物愛護の精神と生き物の命へ共感性が成長したのであろうか。治療者としての森田は、噛み殺された兎に憐憫の情を持つようにと諭す人になっていた。また高良武久によれば、飼っていたニワトリが逃げたとき、森田はニワトリを追わずに、なぜ逃げたかに興味を抱き、しきりにニワトリ小屋を点検していたそうである。兎が殺されたとき、飼育係の言い訳を叱った言葉と少し矛盾するようだが、そこが森田らしいところである。
 このような森田であったから、患者に対するその態度にはムラがあり、共感性は不安定なものであっただろうと想像がつく。
 

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 ところが面白いエピソードとして、森田はしばしば患者たちの前で、滑稽な余興を披露したのであった。そこで飾り気のない姿を見せて、互いに共感しあったことで、硬直しかねない治療者患者関係が円滑に進んだのである。余興には、相互に共感性が生じる点で、潤滑油のような治療効果があったものと思われる。
こうして、森田は患者たちの中に溶け込んで、生身の森田として彼らに共感したのであったが、また別の場面では、権威的な指導者の立場から、「共感」について、言葉で説得的な訓辞を垂れる森田もいたのである。兎への憐憫の垂訓がそうであったが、形外会(第5回)では、次のように語り、全快した人は後進も治るように犠牲心を発揮するようにと教えているのである。
 「どうか皆様も同病相憐むほかの患者のために、自分の病症やその治るに至った成り行きを詳しく打ち明けて、後進の人のために犠牲心を発揮してもらいたいのであります。」
 結局、森田が示した共感性は、上位の立場からの同情や憐憫とその教えを垂れるところにあったようであり、かつ折りに触れて、患者たちと親しく共感を交わすこともあったのであった。
 究極の「共感」としての「共苦」については、他者の心の深奥にまで入っていく「共感」は森田には馴染まないものであった。その辺に、共感性から見た森田の療法の特徴が浮かび上がる。
 

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6 . おわりに―療法の「影」としての「共感」、「共苦」
 
 森田療法は愛ある療法である。療法は厳格なものであったが、根本的に大きな人間愛に発していた。治療者森田は風変わりな人物で、ADHD の特徴を有していたが、人間への関心に満ち満ちていた。そこには、人間への「共感」があった。しかし、森田の人間関係には、むら気があって、安定した共感性があったとは言い難い。とりわけ、他者に「共苦」することは、森田の苦手とするところであったろう。ときには、彼は「共感」を説く人であり、またときには、彼は余興で「共感」に興ずる人であった。垂訓と余興は、森田の療法における「共感」の特徴であった。
 したがって、「共感」や「共苦」は、少なくとも療法の部分をなし、療法の表に出ない「影」のようなものであったと言える。
 けれどもそれは、「シャドー」という深い意味でも、森田療法の「影」をなしていたと見ることができる。
 森田療法は、「共感」や「共苦」を療法の無意識の次元に残して、過去から現在にまで引き摺ってきた。それは「シャドー」という「影」にほかならないものであろう。
 そんな感想を最後に記して、この稿を閉じることにする。
 
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【後記】
 
 森田療法における「共感」という問題は、古くて新しい、いささか厄介なものであった。しかし、森田療法について、深いご経験と学識を有しておられる名古屋のS氏と討論を交わす機会に恵まれ、氏から多くの示唆を与えられた。本稿のまとまりのなさや内容の不備は筆者の責任であるが、懲りずに終始毅然としたご助言をくださったS氏のご好意に対して、ここに深謝したい。

森田療法のディープな世界( 9 )―共苦すること ・ 森田療法の神髄についての再再論

2025/04/02

 

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1 . はじめに―共苦という視点へ― 
 
 先に、「森田療法のディープな世界( 8 )」 の稿で、森田療法の神髄は、療法が人生の四苦八苦の問題に向き合う覚悟を有するところにこそあるのであろうということを、僭越ながら書いた。もちろん、四苦八苦に悩む人々を苦と真正面から対決せしめよというような短絡的な意味ではなく、森田療法自体がこの問題を深く認識し、真摯に向き合うべきであるという意味のことを言ったのだった。
 これに対して、南條幸弘先生が、ブログ「神経質礼賛 2304 四苦八苦」(2025年1月9日)で、適切な応答の文章を記してくださった。
 先生は、「ニーチェのように人生の苦に対して敢然と立ち向かうのでなく、苦しいものは苦しいまま、それはそのままで、今やることをやっていく、というのが森田の姿勢である」と書いておられ、また森田は苦痛そのものになりきることを教えたと指摘しておられる。さらに先生は、神経質人間は苦に対して敏感であるから、「あえて苦を不問にふし、生の欲望を燃焼させる」ことで、現実への適応力を高めることになり、結果的に苦への有力な対処法になっていると指摘して、苦へのそのような対処は、いわば「かわしの受け」であるとおっしゃっている。「かわしの受け」とは、空手道で相手の攻撃を躱す防御技である。
 ここでの文脈は、治療者は、当事者の苦を不問に付して、苦に対する「かわしの受け」を当事者に覚えさせる、という意味になるのであろうが、このような指導が生の欲望の燃焼につながる展開の過程は、容易なものではない。治療者の介在が重要な要素となりうる。南條先生ご自身は、患者さんの辛さに共感し、ねぎらう人になっているとのことである。
 
 以上、南條先生のご発言を大きく取り上げたが、ここから四苦八苦の問題に対する森田療法の課題が抽出される。それはまず、治療的な立場にある人の介在とかかわりの重要性であり、治療者自身が苦を生きる人として、他者の苦に共感する感性、資質を有すべきことへの再認識の必要性である。さらに治療者であると否とに拘わらず、人は皆四苦八苦を避けることはできない存在であるがゆえに、苦を抱えた人間同士どう生きるかという問題につながっていく。他者の苦悩に共感し、共苦するところに森田療法の原点があるのではないだろうか。森田正馬が療法を創始したのは、神経質者の苦しみに共苦したからであったろう。
 この稿では、療法の神髄についての「再再論」として、「共苦」を中心に、森田療法の深みをさらに探ってみたい。
 

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2. 森田療法の特殊性と普遍性
 
 森田は自身の療法を「神経質に対する余の特殊療法」と称して、それは催眠術や説得療法で無暗に神経質の病症に肉迫するのをやめて、絶対臥褥に始まる治療法の系統を作って神経質の根本療法としたものであると述べている。そして、その方法は「通俗平凡であって、全く医術らしくもないものである」と言っている。つまり森田は、神経質を対象として、特殊な療法を作ったが平凡なものであるとしており、「特殊性」に両義性が読み取れるのである。
 また森田は、別の箇所で、自分の療法は東西を問わず、民間療法も含めて、あらゆる療法に手を出して、やってみた結果、自然にできたものであると言っているが、まったくその通りで、神経質についての森田自身の捉え方はあるものの、厳密な理論構築と十分な試行を経て、療法を完成させたのではなかった。経験的に生まれた療法だったのであり、そこに問題もあり、面白みもあった。
 

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 療法の初期に、谷田部夫人という不潔恐怖の難治の症例があったが、この人を治そうとして、森田は熱心さのあまり、この人を殴り飛ばしたことがあった。このような緊迫感の募る治療関係の中で、時が熟してこの患者は治癒したのであった。治療者と患者の双方から、窮して通じる「窮達」が起こったのだった。
 森田はこの出来事について、自身の治療理論とは別の「理外の理」によって、治癒したものであるとした。たしかに、患者を殴ったことは森田としても、ばつが悪い。だが、「神経質に対する余の特殊療法」として定めた枠を超えて起こった、迫真的なハプニングによって患者は治癒したのである。われわれは、森田が弁解気味に「理外の理」と言ったところに、神経質に対する特殊療法という枠を超えた、真実性を見る。その底には、患者に対する森田の共感や共苦から発するものがあったのであろう。対象を神経質に限っても、このように森田の特殊療法の枠がすべてではなく、その枠は拘束力を持たないように思われる。
 そこで、この枠の閾を下げるなら、理外の理の延長上で、療法を神経質に限らず、万人を対象とするものへと普遍化されると考えられるであろう。この療法の根底において、理論や治療の枠組みより以前に、「感じから出発する」という、感性、共感性、そして共苦が内在していることを重視せざるを得ないのである。
 

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 以上において、神経質に対する森田の特殊療法は、方法として絶対的なものではないことを指摘した。さらに今ひとつ、対象としての神経質は、人間一般と性質を異にする特殊なものであるのかという問題がある。
 人は誰しも四苦八苦を抱えて生きている。その中で、とくに神経質者は、生きている中で不安や苦悩に対して感受性が高くて治療を求めるがゆえに、治療対象になったのだったが、神経質の性質の特徴は、人間として異質なものではない。神経質者は、生老病死の苦にとくに敏感で、その分生きることにもとらわれを有している。森田の療法は、彼らに対して、苦を抱えながらも生き尽くすように仕向ける。結局、四苦八苦を生きることは神経質者に限らず、万人が遭遇する試練なのである。それに対して森田療法の教えるところは、たとえば次のような言葉に集約されるものであった。「苦痛を苦痛し 喜悦を喜悦す 之を苦楽超然といふ」。禅語にも似た高次の難解さがふんぷんとするのは頂けないが、苦楽のままに生き尽くすことを教えているのである。
 ともあれ、このように、森田療法の趣旨を振り返って見れば、療法の本質は、決してその特殊性にあるのではなく、万人に通じる普遍性にあることを知るのである。そして、その普遍性の中に含まれる重要な要素が、共感性であり、さらに共苦の姿勢や心性なのである。
 

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3. 共感性について―惻隠の情と純な心―
 
 宇佐玄雄は、「純な心」について次のように教えた。
 「若し井戸端で遊んでいる子供が井戸にはまったら、助ける気にならないからと言って、そのまま捨てて置くだろうか、誰でも助けるだろうと思う。これを人間の「純」な心と言い、また生の力でもある。」
 孟子は、人間には誰でも、他者の窮状を見て、いたたまれなく思う心があるとして、「惻隠」と言い、心に兆す自然な徳の感情のひとつであるとした。そして例として、幼児が井戸に落ちそうなのを見れば、誰でも哀れんで助けたい心(惻隠の情)が自然な感情として起こることを挙げた。宇佐玄雄は、まさにこの惻隠の心(惻隠の情)を純な心と同じものとみなして、それは生の根底にある力でもあると捉えたのだった。
 森田正馬自身においても、その指導の中に、宇佐玄雄の惻隠の情の教えと同様に、いのちを奪われた生きものへの憐憫の情を重んじた指導のエピソードがあった。ある入院生が兎の世話をしていたその隙に、猛犬が飛びこんで兎をかみ殺してしまった。小屋の造り方が悪いからこんなことになったと弁解する世話係に対して、森田は、可哀相なことをしたと思わないのかと激しく叱ったのだった。責任回避をするよりも、殺された兎の痛みを思い、憐憫の情が湧く。兎に対する共感であり、共苦している心、それが理屈抜きの純な心である。
 純な心については、岩田真理氏が、著書『森田正馬が語る森田療法』の中で次のように述べておられる。「森田療法の概念のなかで、重要でありながら理解しにくく、あまり論じられることのないのが、《純な心》である。」と。そしてさらに「この《純な心》の体得は、森田療法の一つのゴールでもあり、また核心でもある。」と。宇佐玄雄が、純な心を生の力と捉えていたことと重なる。
 他者の苦痛、苦しみをわがこととして共感する共苦の心は、純な心の重要な働きである。
 もちろん、苦しみだけに限らない。他者と苦楽を共有する共感性は、万人にあるはずのもので、森田療法の出発点は共感性にあると言っも過言ではない。そこで、共感性について少し考えてみる。
 

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 人間の持つ共感性、すなわち思いやりと言ってもよいこの心性は、さまざまな視点からこれを捉えることができる。仏教では慈悲の心を大切にする。その思想を表すものとして、釈尊が教えたとされる「四無量心」がある。それは「慈悲喜捨」であり、1) 人に与楽をする心(慈)、2) 人を憐んで、苦を抜いてやろうとする心(悲)、3) 人の幸福を共に喜ぶ心(喜)、4) 我欲を捨てた静かな心(捨)、という四通りの心を指している。これら四つの測り知れない無量の利他心に発して、他者を安楽にするところにみずからも安らぎを得るとされるのである。
 一方、仏教とは別に、共感性は心理学や脳科学の分野でも問題にされる。宗教も科学も、人間が生きていく上で重要なよすがであり、統合的に理解されて然るべきである。しかし、ここでは、科学的な面からの共感性の理解については、紙数を要するので簡単に触れるにとどめよう。
 発達心理学的に見ると、満1歳頃の乳児に現れる「やりもらい遊び」は、共感性の獲得を示す重要な行動である。たとえば、もらったおやつを自分の口元に当てて、食べずにそれを母親の口元に当てる。母親は喜んで、それをまたわが子の口元に持っいく。子は喜んでまたそれを母親の口元に当てるという動作が繰り返される。素朴な共感性の現れである。逆に、痛みを母親に共感してもらって安堵して、他者の痛みを察することを覚えていく。痛がっている幼児をなだめるために、母親が「痛いの痛いの飛んでいけ」と、まじないのような言葉をかける。自分の痛みに共感し、共苦してくれた母親の魔法に子は救われる。母子関係の中で生じるこのような出来事は、共苦によって救われる原初の体験となって、子は成長していくのである。
 脳科学の面からは、当然ながら共感性は脳の働きとして理解し説明される。それによって私たちは、共感性に対する信仰のような思い込みや、道徳的な決めつけから解放される。共感性は個々人の脳のそれぞれの働きであることを理解しておく必要があることを知る。その上で、私たちは、人間が生きていく中で仏教が教えるような慈悲は人間の重要な本性であることを認識する。
 そして、森田療法における純な心とは。
 それは森田正馬が療法を創始した過程で、自然に生まれた産物なので、平易なようで難解である。そのように指摘した上で、共感性や共苦は、その純な心のうちに含まれる重要な心性であると捉えておきたい。
 

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4. 石牟礼道子と水俣病
 
 公害病が社会問題になり出した、戦後の古い話である。昭和30年頃から熊本県の八代の海の沿岸で発生した水俣病は、多くの人たちの苦しみを生んだ。
 共苦について考えるとき、水俣病の人たちに共苦した地元の作家、石牟礼道子のことが私の脳裏に浮かぶ。
 生きることに悩み、自殺未遂の経験を有していたひとりの主婦が、水俣病の人たちの苦しみにふれて、文筆を通じ、また社会活動にも参加して、救済に奔走したのだった。石牟礼道子の水俣病への共苦の体験は主に、著書『苦界浄土 わが水俣病』(講談社、昭和44年) から読みとることができる。それは「悶々たる関心と控えめな使命感をもち、これを直視し記録しなければならぬという盲目的な衝動」(同書)に駆られて書かれたものであり、水俣病に中枢神経までも冒された患者の人たちの、心の内部にまで入り、憑依されたかのごとく、その人たちの心の声を言葉に紡いだものであった。
 石牟礼道子が没したのはまだ最近(2018年)のことである。水俣病は終わっていない。石牟礼の追悼の書、『新版 死を想う』の表紙の帯には、おそらく共著者の伊藤比呂美によって記された次のような言葉が並んでいる。
 「死に鈍感な者は、生にも鈍感である。」

 石牟礼道子は、死に敏感な人であり、したがって生にも敏感で、水俣病で苦しむ人たちの生のために後半生を尽くしたのであった。
 石牟礼は、十代の後半に小学校の代理教員になったが、この世に生きて教員の任務を果たすことに悩み、19歳のとき、服毒自殺をはかったが、一命を取り留めた。その後の人生も死と背中合わせだった。結婚したが、結婚後に、弟は鉄道自殺をし、自身もまた、希死念慮を抱き続けていた。そんな折に、奇病の存在を知り、衝撃を受け、水俣病患者を支援する市民会議の立ち上げに参加した。
 水俣病は、「チッソ」と言われた会社の工場が出した廃水物の中の有機水銀によって、海の魚介類を通じて発生したものであった。公害病としての認定、補償の問題は進まず、神経の障害を起こして奇病の烙印を押された患者たちは差別すら受け、悲惨な療養を強いられていた。支援者たちの活動の努力も容易に実らない。そんな状況の中に、石牟礼のように、ただひたすら共苦するばかりの関わりがあったのである。
 水俣の地には、「悶え加勢(もだえかせ)」という風習があった。苦しんでいる人がいるとき、自分も一緒に苦しんで、その人の家の前を行ったり来たりして一緒に苦しむ。そんな人がいて、苦しみに加勢してくれることで、相手は少しは楽になるという。このような「悶え加勢」をする精神が水俣の土地にあって、そんな加勢をする人たちは「悶え神」と呼ばれたそうである。大乗仏教における菩薩道に近いものを感じる。自殺未遂を繰り返していた石牟礼道子は、水俣病の苦しみに共苦して、「もだえかせ」の人となり、水俣病の人たちによって、みずからもまた救われたのであった。
 

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 私は、神経質や神経症を治そうとするばかりの森田療法に、何かしらもの足りなさを感じている。そのひとつに、このような人間同士の苦の共有の尊さの閑却があるのではないかと思う。それを想起してもらうべく、石牟礼道子と水俣病のことにふれた。
 

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5. 共苦について
 
 森田療法のディープな世界を探るつもりで、遅々として進まなかったが、その深みの追求を企図してきた。しかし、昨今の森田療法が抱えている問題は、その深さと浅さに限らない。広さと狭さという観点からも考えるべきであったと、今さらのように思っている。
 今日の森田療法の流れについて、葦の髄から天井を覗くようなことを述べるのをここで許して頂きたい。気づくのは、森田療法の形骸化と教条化の傾向である。つまり、一方では森田理論のダイジェスト版のようなものを学んで、それを取り入れて森田療法と称するような、皮相的な面が見て取れるのであり、それは療法の普及に貢献しているとは言え、療法の本質的な深さを置き去りにした、浅薄化、形骸化の傾向であると言わざるを得ない。
 またもう一方では、今日、時代の流れから次第に外れてきた森田療法の復権のために、その本質を墨守しようとして模索される教条化の傾向があるような印象を受ける。このような印象は的外れかもしれないのだが、教条化は深さを追求して、森田療法の本質への回帰を意識するがゆえに本質へのとらわれになりかねないのである。
 つまり、形骸化の傾向にも、教条化の傾向にも、本当の自然な深さを認め難いのである。
 ここにおいて、森田療法の広さの大切さを思わずにいられない。森田療法はどこにでもある。「随所に主となれば、立つ処皆真なり」(『臨済録』)と禅で言うごとく、どこにでもある森田療法を再発見することが必要なのである。
 
 そのように考えると、われわれは森田療法を絶対視して、森田の教えを教条として受け入れ、不自由に陥っていたことに気づく。森田正馬自身、自分の教えを鉄則とするなと教えていたのであったから、肝心なところを学び取りさえすれば、われわれはもっと自由に森田療法を生かし、森田療法の足りなさを補ってもよいのではなかろうか。
 森田の教えを取り上げても、そこには分かり難い点が多々残されている。
 少しその例を挙げておく。
 たとえば、共感性が重要な療法であるにもかかわらず、共感性についての教えが乏しい。森田は、「純な心」について繰り返し言及しており、共感性は「純な心」に含まれるものと理解することができる。ところが、「純な心」の例として、「過ちて皿を割り 驚きて之をつぎ合わせて見る 此れ純なる心也」という教えもあって、このような過失に随伴する心の現象までも「純な心」で括られてしまうと、当惑せざるを得ない。
 また「感じから出発せよ」と森田は教えたが、これは「純な心」に相当し、かつ共感性にも通じるものであろうと理解しておきたい。
 さらに、「苦楽超然」という重要な教えがあるが、これも難解であり、違和感を覚える。これは、ひとりの人間の内面的体験としての苦楽の共存、苦楽の止揚を指していると理解されるのであって、人間同士の間での苦楽の共有や共感を指していないのである。このように人間と人間の間での苦楽の共感は論外のことになっている点に不十分さを感じる。
 森田療法が禅に似ていることは、森田自身も認めたところであったが、両者の類似性や相違について、もっと慎重に吟味すべき点があったのであり、そのひとつが個人と集団の問題である。禅の修行は集団でおこなわれるが、修行体験はあくまでも個人的なものである。入院森田療法も集団でおこなわれるものであるけれども、個人療法であるという見方があった。それは明確にならないまま、入院療法は衰退したが、集団における社会的人間関係をどこまで重視したのであろうか。治療のための制約はあったろうが、人間の孤立を深め、世の中での人情や思いやりを育てない治療法であったなら、由々しいことであったと思う。
 

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 以上のような事情を背景として、共感性や共苦の重要性があるのである。そのことに気づいて頂きたくて、すでにここまでの文章中の随所にそのような趣旨のことを述べてきた。もはやほとんど説明を要さないところである。
 森田療法は、狭い診察室や面接室に閉じ込められるべきものではない。森田療法はもっと大きなものである。それは、日常の皆の生活の中における人間同士のふれあいの中にある。共感し共苦する体験によって、人は互いに救われ、互いに育み合っていく。そのような体験をする過程で、神経質や神経症を治そうという課題はもはや問題にならなくなる。
 石牟礼道子の生きづらさや希死念慮は、水俣病への共苦によって、その人たちに加勢する「もだえかせ」へとなった。他者のために悶えながら、彼女は救われたのであった。それは森田療法ではないとおっしゃる向きもあるかもしれない。ならばこれを森田療法と呼べばよい。森田正馬の森田療法は、こうして補われて然るべきであろう。しかし、付け足す部分を神髄と言うのは、我ながらおこがましい。葦の髄から出てきた発言と捉えられても致し方ないと思っている。
 

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 最後に、共苦について、医学哲学的な見方に少しふれて、やや長くなった稿を終えることにしたい。
 
 人間は苦悩する葦である。苦悩する存在者であるがゆえに人間なのである。
 V. フランクルは、人間を 「苦悩する人 ( Homo patiens )」と捉えて、苦悩することが人間の本質であると理解したのであった。だから、本質から逃避しようとすることは、森田の言うような思想の矛盾になる。
 精神科医の杉岡良彦は、最近の著書(『共苦する人間』) で、フランクルの「苦悩する人 ( Homo patiens )」という理解を引用しながら、「人間が本質的に一人では生きていくことができないこと、苦悩する人間は同じように苦悩する人々とのかかわりの中で生きていることに注目」して、「人間を特徴づける表現として、「共苦する人間( Homo compatiens)」を取り上げたい」としている。杉岡の著書は、医学哲学から宗教と医学を考えるものであり、森田療法や内観療法についても述べられているが、ここでは文献として掲げておくにとどめる。
 
 【文献】
1) 杉岡良彦 : 『共苦する人間』春秋社、2023
2) 杉岡良彦 : 医学哲学と臨床医学 : 森田療法・内観療法・ロゴセラピーと「広義の医学哲学」. 医学哲学医学倫理(35) ; 14-23, 2017

森田療法のディープな世界(8)―四苦八苦 ・ 森田療法の神髄についての再論―

2024/12/26

 

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はじめに
 
 森田療法とは何か。森田療法の神髄(真髄)とは何なのか。それは未だに私にとって不明確である。しかし自分なりに考えていることがある。
 これについては、とりあえず先に一文を草した。だがその駄文は、私見を上滑りしていて、療法の神髄を論じ尽くしていない不十分なものであった。補う必要を感じていたので、その意味でも再論を追加したい。
 

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1. 修養の三段階
 
 森田正馬は、修養には三段階があると言ったことがある。曰く―
Ⅰ. 苦しいままに働く (小学校卒業程度)
Ⅱ. 諸行無常を認識する (中学校卒業程度)
Ⅲ. 苦楽を超越して、「生命の躍動」になりきる (大学卒業程度)
 
 森田は、このように三段階を示し、苦楽の超越、生命の躍動を最上位とした。これらはすべて苦にかかわっており、苦を生きる過程の中で、三つの修養的体験があることが示されている。ただし、ⅠからⅡへ、ⅡからⅢへと段階的に上昇することをかならずしも意味してはいない。苦には様々な相があり、行きつ戻りつ、その中をさまよって、究極的には苦楽を超越する最上位の境位があるとされるのである。
 しかし、上昇したら人間はまた落ちる。なおった者はまた病むことになる。宇佐玄雄は「神経症から治ることもできるし、神経症になることもできるのが、本治りである」と言ったと聞くが、その通りなのである。苦を超越するのも、また苦に落ちるのも本物の人生である。
 苦しみながら、生きていく。森田療法は、そのような生き方にあるのであろう。
 

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2. 苦の海
 
 人間は皆、生老病死の苦を背負って生きており、死んでいく。神経質者は苦に敏感な人たちなので、森田療法が成立したが、この療法は神経質者のみならず、四苦八苦に苦しむ万人の生き方に関わる。暗いもの、深いもの、どうにもならない根源的な苦悩があり、森田療法はそれらを含み込んでいる。人生も世の中も、答えを出せない理不尽な不条理なことばかりである。その中で、苦楽の楽を求めるのが人の常で、しかし楽は続かず、苦の海に落ちて沈むのが人のさだめである。そこで仏教や禅が答えをあずけてしまう答えを示して、人を真実との直面から言わばはぐらかせてくれる。森田も「事実唯真」と言って、敢えてそのようなはぐらかせに乗ることにして、真実の追求をやめて、あるがままでよいことにしたのだった。なぜという哲学的な追求は人間を苦しめるし、不毛である。ひたすら生きるしかない。それが森田療法の智恵なのである。
 けれども、深い苦の海から這い上がって生きることは容易なことではない。森田療法の智恵はときには残酷でさえあり、そこに森田療法の問題が仄見える。
 

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3. 希望から絶望へ 
 
 森田正馬という人の個人的思想は、結構、苦楽の楽の方に傾いていたようである。いつも希望を持って生きようとする、明るさを求めるところが強かったようだ。死を控えた病の床にありながら、一喜一憂し、よくなったつもりで快気祝いを配ったエピソードなどあり、単純素朴過ぎてあわれを誘う。文脈は違うにせよ、あるがままですべてよしとする森田療法の思想は楽天的だと評されることがあるのも、むべなるかな。
 このように森田の療法には、物事の暗い面を捨象してしまう、言わばお目出たいところがあった。本来、森田療法は深い経験や思想から出たものであったが、森田自身、行動に慎重さを欠いたため、森田療法は楽天的だと見える面を作ってしまったし、実際そのような面があったのだった。しかし、希望は絶望に変わる時がくる。いよいよ臨終の時に至り、森田は「死にともない」と言って、泣きながら逝ったと伝えられている。希望を求めたけれど、助かるという願いは叶わず、絶望して生涯を終えたのだった。死なざるを得ないという、はぐらかせの効かない事実をどうしようもなかったのである。生老病死の四苦の森田療法は、実に森田の死とともに完成したのであった。
 四苦八苦の森田療法は、死にゆく人たちによってこそ、その真贋性がジャッジされるのかもしれない。
 

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4. 四苦八苦と森田療法
 
 ともあれ、人間は苦と共に生きて、そして死んでいく。それが、はぐらかせのない事実であり、真実である。苦を引きずり、苦に喘ぎながら、生きていくほかないのである。そんな人たちを相手に、治療者も苦を生きながら、互いに苦を共有し、患者と「同行二人」の道を歩むのが森田療法であろう。楽を求めるな、などと野暮なことは言わない。そんなことを言わずとも、現実には望み通りにならないことの方が多い。結局、どうしようもないことは諦めざるを得ない。辛く厳しいことであるが、諦めねばならないのである。見果てぬ夢を見て我に帰って、現実に打ちひしがれ、苦しさ、辛さを引きずって生きていくしかないのである。どこかに救いがあるのだろうか。たとえ救いがなくても、生きるほかない。同行者がなく、孤独であれば、犀の角のように独り歩まねばならない。
 森田療法は、そのような人生のダークな面をもっと汲み取るべきであろう。
 かつて私は、森田療法専門のS病院に勤務していた。それは絶望感が漲っているような雰囲気の病院であったが、そこに親和性を抱くのか、みずからも絶望感を背負ったような患者さんの受診が、稀ならずあった。少し例を出そう。若い男性で、母は芸妓さんであったが、父親はどこの誰であったのかわからない。母も亡くなり、自分は天涯孤独となって自殺未遂を繰り返して、この病院に入院した。しかし治癒することはなく、深い自己不全感を抱えたまま退院していった(実例をもとにした架空例)。また、自殺した人たちが多くいた。絶望してS病院に入院したが、頼みとする院長から、不問の指導を受けて、さらなる絶望の果てに死んでいったのだった。その数は知れない。勤務経験者として、やるせない想いが残っている。
 広く世間には、四苦八苦に苦しむ人たちは多い。心に深い傷を負った人たち、重い障害を抱えて生きる人たち、災害などで家族を失った人たち、そして災害などで亡くなった人たちへの鎮魂、自殺の防止の課題、などなど。四苦八苦への対応として、森田療法がなすべきことは多い。
 「あるがまま」、「苦楽超然」と言葉で観念的に教えるだけでは、むなしい。苦を生きる諦観を共有し、その奥にある生の欲望を伸ばして「苦楽超然」で生きていくところに、光が見えてくるのかもしれない。 かく言うのも言葉でしかない。入院森田療法というひとつの方法はあった。入院による修行的体験によって没我の境地に至らしめ、それによって苦悩との向き合い方を体得させるのである。筋書き通りにはいかないけれど、命が躍動するような体験があれば、また苦に落ちて苦悩するのであり、すべてが療法のうちであった。しかし、対象は神経質に限られていたし、また方法も入院に限られていた。
 そこで、改めて問いたい。人間の四苦八苦に対して、森田療法は何ができるのか。何をしてきたのか。四苦八苦に向き合ってこそ、森田療法であろう。このような自覚が、森田療法にはあるのだろうか。
 そんな問いかけに応えてくれるところにこそ、森田療法の神髄があるのだろうと思っている。

森田療法のディープな世界(7) ―S翁の森田療法についての深いお話―

2024/09/24

名古屋城
 

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はじめに

 
 S翁の紹介から始めよう。S翁は、名古屋方面における森田療法の重要人物のおひとりである。目立つことをお嫌いになる謙虚なお方で、このように紹介されること自体迷惑かもしれないのだが、そこを口説いて半身のご登場をお願いした。S翁(以下、S氏)は、若き日には初期の名古屋啓心会活動をなさっていたが、さらに鈴木診療所における修行的な体験を通じ、知準師からの薫習よろしきを得て、森田療法をご自身のものとした経験を有していらっしゃる。かつて東海地区における第二次生活の発見会の発足にかかわられたが、その後自由な立場で、絶えざる研鑽をお続けになり、後進の指導にも当たってこられた。氏は森田療法の経験者にして実に賢者である。
 私は以前に名古屋地区での森田療法の普及の歴史を調べていた折りに、この方にお会いする機会を得た。われわれは齢を同じくすることもあるが、それよりも氏の滋味溢れるお人柄、森田療法の経験の深さ、そして仏教などの東洋思想についての博識さは人を惹きつけてやまない。
 S氏は、美術の分野でも造詣が深く、ご自身も絵筆を振るわれ、名古屋のチャーチル会の指導者的な立場におられる。氏の中では、美術と森田療法はどのようにつながっているのだろうか。
 ともあれ、S氏は、若き日より本物の森田療法の道のりを辿ってこられた。そしてそのような経験に基づき、森田正馬の入院原法に発する本来の森田療法への深い想いを秘めておられる。氏は、森田療法についての本物の人でありながら、その本物さを決してひけらかそうとなさらない。本物さにかけては、私は到底S氏の足元に及ばないが、S氏の本物さを引き出すことにかけては、第一人者かもしれないと自負している。
 暑かった夏の日々、そんなS氏から、暑気払いと称して、何本かの意味深いメールをいただいた。氏の森田療法観が伝わってくる。しぶしぶながらのご了承を得たので、ご紹介させて頂く。
 

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7. S翁の森田療法についての深いお話
 
1. 時代と森田療法
 
【S氏のお話】
 森田療法も時代に相応したものでしょうが、森田正馬の時代と現在の時代相とはあまりにもかけ離れているように感じていますが、如何でしょう。
鈴木知準先生の所に入寮して、森田の原法を厳しく守っていると聴いていたのでしたが、これは少し違うのではないかと当時の私は思ったものでした。
 
絶対臥褥について。
① 毎日「診察」と言って鈴木と顔を合わせる。
(私が診察室の前まで行って「おはようございます」と挨拶をかわす) ―鈴木は真剣に私の佇まいを観察する。約1秒間。全寮生に混じってです。
② 2回ほど、先輩寮生の案内で風呂に行った。(夏の暑い時期で、衛生面を考えてか)
③ 不安障害タイプの人には投薬をしていた。
 
作業の療法期の様子
① 家庭療法ではなく、寮生活療法だった。30名から多いときには40名位になると、当番制の役割分担とせざるを得ないようで、主体的な作業の割合が少なくなっている。
② 朝、日本古典の朗読はない。
③ 体操や意識的な深呼吸さえさせなかった森田だが、ここではラジオ体操を、朝晩行った。静坐も毎日夕食後に行った。
④ 雨の日など、外で作業が出来ないときなど、寮生で歌を合唱した(旧制高校寮歌)。またかるた取りなどの遊びをした。
 
 このように想いかえしてみると、鈴木知準療法とも言えなくもない。
 高良興生院では、もっとくだけた調子で、卓球やミニゴルフもあったとか。
 テレビの前の机に女性の裸体の写真が載った雑誌が置いてあり、高良が職員を叱ったことがあったとか。詳しくは判りませんが、これも高良療法というようなものになっていたようです。
 
 ことほど左様に、昭和三十年代にはすでに時代に合わせた森田療法たらざるを得なくなっていた、と言えるのではないでしょうか。他の施設は判りませんが。
 
 しからば、現代ではどのように対処したらよいのか、ということですよね。
 森田療法学会では、そのような現代に適応した森田療法を応用した方法論を打ち出して欲しいです。
 
【ミニ解説】
 森田正馬が創始した入院原法の 森田療法こそ最重要であり、その本質を守り続ける必要があることは言うまでもない。ただ、時代の変遷に伴って社会的背景が変わるので、療法の本質が受け継がれていても、当然ながら療法の姿は変化を辿ってきたのであった。さらに森田正馬とそっくり同じの治療者をもう一度輩出させることは出来ないことであるし、その必要もない。人間森田から学び、かつ森田療法的に培われた豊かな人間性をそなえた治療者が存在することが必要である。
 S氏は、さりげない言葉で、森田療法のあり方に向けて、そのような意味の重要な指摘をしておられるのである。
 第二世代の森田療法として、高良武久とその高良興生院、同じく鈴木知準とその鈴木診療所があったが、これらを見ても、療法の本質を貫きながら、治療者それぞれの人間性の熟した味わいがあり、療法の構造にも独自性があらわれていた。第二世代において既にそのようであったのだから、今日には今日の、未来には未来の森田療法のあり方があるはずである。しかし、療法の生粋の本質は、時を超え、時代を超えていつまでも通じるものでなくてはならない。
くだけた言い方をすれば、森田療法を大切に生かし続けるために、外してもいいところといけないところ、あるいは、こだわらなくていいところとこだわるべきところがあるのである。
 S氏はこのようなことへの気づきの大切さを深く示唆なさっているのである。
 森田療法の臨床や研究が今日も活発に続けられているが、現実における森田療法の真贋性を常に問い続ける必要があるのではなかろうか。ミニ解説のつもりだったが、S氏に触発されて、ついこんなことまで書いてしまった。
 

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2. 「 アバウト理入」と「しっかり行入」
 
【S氏のお話】
 私達、神経質の体験者は内外の精神医学に通じているわけではありませんし、またそこまで知る必要はないですから、ただそういうものかと思うばかりです。
私の場合、森田療法の恩恵を受けて、師と信じた人の指導についていくのみでした。
 それでも半世紀経てば、あれやこれやと探求したり、自然と心療内科的な範囲の知識や研究論文が目に触れることになります。
 
 でも基本は、アバウト理入、しっかり行入、アバウト理入、しっかり行入の繰り返しです。これは私のオリジナルで、修行に入るのに理入と行入の二つの方法があると言われていて、アバウトはいい加減という意味ではなく、ざっと頭に入れておくということ。主になるのは行(身体を使って、そのものになりきること)です。
 こういう立場ですと、理論はどこから来ても私は追求する立場にないのです。いろいろな要素が組み合わさって森田療法が出来上がり、その恩恵だけを受ければそれ以上望むものはなく、ただ知的好奇心と若干の探求心に乗って、興味津々でさまざまな研究者の説を読むばかりです。
 
ただ一つだけ言えることは、森田療法で大切なことは、自分が本当に信頼できる師(医師)に出会うことだと思います。自分の心を全部投げ出して、すべてを任せる態度ができたとき、森田療法は半ば成立している、と考えています。歳を重ねるとそのことがだんだんとわかってきました。
 今の人は、そういう意味では不幸です。外来療法ではそういう関係が出来難いからです。
 師と言っても、依存性ができてしまうと危険ですが、人徳のある師は巧みにかわしているようです。
 
【ミニ解説】
 達磨大師によるとされる禅の典籍に『二入四行論』というものがあり、自己修養の入り方、行じ方が示されている。これによれば、修養に入る方法は、知識や認識から入る「理入」と現実における実践から入る「行入」 に大別されている。
 S氏はこの「二入」に託して、自身のオリジナルな修養への入り方として、柔らかい表現で「アバウト理入」と「しっかり行入」について述べておられるわけである。
禅や大乗仏教においては、知識や認識の根本は「無分別智」であるから、それ以上の賢しらな理論は無用である。仏教や禅を森田療法に生かすに当たっても、理論にこだわらないアバウト理入でよいことは、まことに的確なご指摘である。行入については『二入四行論』では四行として分けられているが、とにかくS氏のご意見のように、師を信じてしっかり修行するばかりである。
 
【S氏のお話の続き】
 「アバウト理入」、「しっかり行入」は、今の私が言っている言葉です。鈴木先生のところでは、「アバウト理入」、「よたよた行入」で、ちょろんと仕事に入る、よたよたでいい、仕事にイヤだイヤだと思って入っていく、そのうち嫌なものが嫌でなくなる。そういう過程を通ってきています。
 その時その時で、言葉が違ってきています。言葉とはそういうものだと認識してやりなさいと教えられてきました。
 
 「神経質を超えた人は、自分の言葉で森田を語ります。ものそのものになり切った時、あるがままもへちまもありません。森田の言葉が本当にわかったのは、この頃(60歳)ですよ」と鈴木知準先生。
 「忘れて行入」、「ぴったり理入」まではなかなか。神経質で一生が終わってしまった。ま、こんなものか、と思ったらかえって欲に乗って残りを楽しみながらやっていけるような気がします。
 
 【ミニ解説】
 解説は要らない。S氏の言葉を味わうのみ。
 

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3. むすんでひらいて―世間との折り合い―
 
【S氏のお話】
 「むすんでひらいて、てをうってむすんで、またひらいててをうって、、、」(古い童謡の歌詞)
 
 これは、「むすんで」が理です。「ひらいて」が行です。「てをうって」が理解です。その手を世間との折り合いに持っていくのです。これの繰り返しが森田療法です。
 そのように、粘ってやっていくのが体験者の本音です、と勝手に思っています。
 ただ、この歌詞には深い意味があるようですね。むすんでは神道、ひらいてはほどくで仏教。
 ほどくがほとけになったという説もあるようです。
 
 「むすんでひらいて」は面白い言葉ですね。玄侑宗久の本に、この言葉が取り上げられています。ヨーロッパやアメリカに同じメロディの歌があり、讃美歌になったりしています。原曲の作曲者はフランスの哲学者のルソーであったと言われていますが、その真偽は分からないそうです。
 それよりも、不思議なことには、わが国におけるこの歌の作詞者は誰であったのか、分からないそうです。
 明治三十年代から幼児教育の場で歌われていたとのこと。
 面白いことに、戦後マッカーサー統治下、禁止されていた神仏思想をひそかに普及させるため、児童に歌わせていたとも言われているようです。
 玄侑さんも、神は結ぶもの、仏はひらくものと捉えていて、さらに華厳の思想とも重ねています。
 
 私は、「むすんでひらいて」を、体験から森田療法で理解しています。
 人間が人間社会で生きていくためには、弊害が多いけれど、言葉の「結ぶ」機能がどうしても必要になる。しかし、人は、原初のほどけたエネルギッシュな状態、つまり混沌をどこかで覚えているのでしょう。そこへ繋がる回路を、もう一つの知性として蘇らせたのが、東洋の宗教でしょう、と玄侑さんは述べています。
 言葉をほどくということ。鈴木知準もそこを言っていたのだと思います。
 
 【ミニ解説】
 「むすんでひらいて」を森田療法で理解しておられるS氏は、極めて優れた着想力の持ち主である。画家としての感性が、こういうところでも働くのであろうか。
言葉による結びの機能と原初のエネルギーの流れが織りなすところに、人間社会がある。その中に理解を見出し、世間と折り合いをつけていくことが必要であると言う。これは平易な卓見であり、森田療法にとっても、重要な着地点である。森田療法における最終章とも言うべき治癒のあり方として、世間との折り合いを重んじている点で、秀逸なご指摘である。
 
 S氏の軽やかなお話から、いくつかの貴重なご教示を頂いた。皆様にそれをご披露することを許してくださったS氏のご厚意に深謝したい。

森田療法のディープな世界 (6) ― 森田療法におけるモザイク性と真実性について―

2024/07/19

晩年の森田正馬(世を去る2年前)
 

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はじめに
 

 「森田療法のディープな世界」と題するテーマを掲げ、昨年暮れから連載を始めました。大それたテーマです。どのように繰り広げていくのか、注目してくださっていた方もおられたかもしれません。ある程度書きましたが、その後更新が遅れていました。張本人の私自身、この深い世界の問題にどのように迫り、どう取り上げればよいのかと悩みつつ時間が過ぎていたのでした。だが森田療法のディープな世界には、探るべきいくつかの問題がさらに横たわっています。最近ますますそんなことを考え続けていた日々でした。その間にいくつかの課題に遭遇しました。
 たとえば、和田重正先生が重視なさった「まごころ」について。
 これは、松田高志先生( 神戸女学院大学名誉教授 )が和田重正先生の教育思想を受けて、ご自身も「まごころ」を重んじてお書きになったご著作をお届けくださったので、それに触発されたものでした。私は和田先生と松田先生の「まごころ」と森田正馬の「純な心」の関係についてかなり考え込むことになりました。この問題は残念ながら、1編の原稿として連載に加えることはできませんでした。
 その他にも森田療法について、さまざまなことを考えた日々でしたが、空白のままになっていたディープな世界についての欄は、今回、以下の稿をもって更新します。
 臥褥と作業を柱とする入院森田療法のモザイク的構造はどのようにして成立し、かつそれは療法の真実性へとどう深められたのであろうかという問題を取り上げる小論です。
 

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6. 森田療法におけるモザイク性と真実性について
 
1 ) モザイク性
 入院森田療法の構造を大きく見ると、臥褥療法と作業療法がその根幹をなしており、入院療法はこれらの組み合わせによって成り立っている。しかし、臥褥療法も作業療法も決して新しいものではなく、どちらもヨーロッパでは19世紀以来おこなわれていた。とりわけ、わが国にも導入された作業療法については、 森田は根岸病院や巣鴨病院で、これに積極的にかかわっていたのだから、新奇なものではない。森田による入院療法の成立は、臥褥と作業という既存の個々の別のものを材とした点で、いわばモザイクなのであった。しかし単にモザイクであるにとどまらず、臥褥と作業を有機的に組み合わせたところに療法の妙があった。
 
 モザイクの謗りを免れないところは、ほかにも多々ある。
 入院療法は、指導者である家父長の森田と協力者の妻がいて、その森田家の家庭的環境に患者が受け入れられる家庭的療法でもあった。モザイクというには大き過ぎる治療的要素であるが、臥褥や作業はこのような場で展開されたのであった。
 森田が関心のおもむくままに取り入れたと思われる、さまざまな治療的行為もあって、モザイクをなしていた。自身の学生のとき、定期試験に臨んで「必死必生」の体験をしたことから、森田は初期には、患者に「恐怖突入」の指導をしたことがあり、この「恐怖突入」はしばしば催眠暗示と組み合わせておこなわれた。このような治療的側面は、神経質の療法が編み出される中に滑り込み、やがて洗練される過程で消えていった。
 読書療法も取り入れられた。神経質者に森田の自著を読ませて、神経質を自覚させ、入院へと導入したようである。森田のもとには、読書力のある知的な人たちが多く入院したのはそのためである。マッチポンプもいいところではないかと、つい言いたくなる。
 入院患者に万葉集や古今集を読ませ、最終的には古事記の音読をさせた。これは読書療法の一種であったかもしれないが、神経質者の連綿とした思考過程 を切断し、今あるのみにする手法だったのであろうか。余興も治療のうちだったし、通信指導、日記指導など、マイナーな治療が多く取り入れられていた。
 

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2 ) 臥褥について
 臥褥療法は、森田自身の経験に基づいて自然におこなわれたようである。
 森田の郷里高知では、嫁姑のいさかいの後、片方が数日間寝込む風習があり、それをヒントに絶対臥褥をつくったと森田が言ったという話がある(『形外先生言行録』)。下世話な話だが、わからないでもない。
 また森田は、精神病治療において、躁的興奮状態の患者に絶対臥褥をさせて、治療効果をあげたことがあった。さらに躁病状態の中学生の患者や苦悶状態の中学生の患者にいずれも絶対臥褥をさせて、著効を得た。これらの臨床的経験から、臥褥療法を神経質の治療に導入することになったようである。
 しかし、神経質の場合、絶対臥褥の意義は興奮を鎮める効果を超えて、より深いものとなった。そこに森田の叡知があった。絶対臥褥の眼目は次のように記されている。
 「患者の精神的煩悶、苦悩を根本的に破壊し、余の謂はゆる煩悶即解脱の心境を体得せしむるにあるのである」と(「神経質ノ本態及療法」、森田正馬全集、第二巻)。森田はまた、別の箇所で絶対臥褥に「真言宗の煩悩即菩提」を導入したとも言っており、森田が育った宗教環境の中で吸収された思想と療法の成立は無関係でなかったと考えられる。ちなみに空海の煩悩観は、煩悩なくして涅槃はないと、煩悩を肯定的にとらえるものであり、低次元の小欲としての煩悩があって、修行により、あたかもリビドーが昇華するように現実社会に尽くそうとする大欲になっていく。それが菩提であり、即身成仏とされるものである。その凝縮的な体験が絶対臥褥期の煩悩即菩提である。それは到達点であり、始まりでもある。「新規蒔(巻)き直し」(マイケル・バリント)のような体験が始まるのである。
 森田によるこのような絶対臥褥の眼目を改めて重視すべきであろう。
 

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3 ) 作業について
 臥褥と並ぶもうひとつの大きな軸は作業である。森田は、根岸病院や巣鴨病院で、作業療法の指導にかかわっており、その経験を通じて、作業は人間としての生活そのものであることを理解していたのであり、それを神経質の療法に活かしたのであった。彼の作業観はおよそ次のようである。
 作業は人間の心身の自由な活動である。人間には食欲と同じように、本能として作業欲がある。人間は生きている境涯の中で起こる興味に動かされて、作業欲を発揮して、工夫、努力するものである。しかし実行してみないと、必ずしも興味が湧くとは限らない。作業は実際生活に適していることが望ましく、成果が上がれば、ますます自信と興味が起こり、一層努力し、無念無想で三昧に入る。それが自然に適応している姿であって、作業には高下も貴賎もない。かくの如く、作業は神聖なものである。
 
 「一日作(な)さざれば一日食らわず」。
 中国の禅僧、百丈懐海にこのような言葉があった。懐海は年老いても農耕作業をやめなかった。老骨に鞭打つように作務をするので、心配した周囲の人たちは、ついに懐海の農耕道具を隠してしまった。しかし作業をできなくなった懐海は、「一日作務をしなければ、一日食べるわけにいかない」と言って、食事もとらなくなってしまったという。
 「働かざるもの食うべからず」という古いキリスト教から出た言葉があるが、これは道徳的に労働の価値を重んじ、無為を戒めたものであり、百丈懐海の作業観とはまったく異なるものである。
 懐海の思想は 、「もったいない」の精神にも通じるであろうが、作業を人間本来の活動としている点で、懐海と森田正馬の間には共通の作業観があると言えよう。
 このような人間観、作業観に基づいて作業療法がおこなわれるとき、それは功利性のない、人間愛に満ちたものとなりうる。森田の作業療法は、そのような実践であった。
 神経質者は作業に価値観を結びつけて葛藤し、作業欲が抑制される。そのような点についても、神経質者に自覚を得させるために、実際の作業療法が活用されたのであった。
 

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4 ) 臥褥から作業へ
 臥褥療法と作業療法は、それぞれが別の療法として意義を有している。これらは本来異なるものである。したがって、療法における両者の同居は、一見大いなるモザイクと映る。しかし、神経質者は苦悩を抱えたままそれを受け入れて、生きるほかないのであるから、治療的にできるのは、そのような生き方をさせるような外界や境遇の選択や提供なのであった。そこで森田の才覚が働いたのであり、臥褥と作業の置き方や組み合わせに独自の工夫を示したのである。このへんに森田の偉大さが仄見える。同時にぎこちなさも感じないわけではない。
 さて、臥褥から作業へ、つまり静から動へと進む療法の過程で、作業の段階に入ると、心身の自由な自発的活動性が十分に発揮されることが望まれる。そのため作業欲を高めることが必要で、食欲を高めるために料理に工夫が凝らされるように、手段を講じるべきであると森田は言う。
 そこで講じられたのは、まず第一に患者を隔離して臥褥させ、行動を禁じて、無聊の体験をさせ、作業欲の誘発、喚起を図ったことであった。これは、第一期の絶対臥褥に重なるものである。しかし絶対臥褥の眼目は、あくまでも「煩悶即解脱」あるいは「煩悩即菩提」であったから、矛盾が生じている。森田は第一期の意義として無聊を謳ってはいないが、実際には第一期に関して無聊に触れる記述が出てくる。
 また森田は、小児の自発性を重んじたマリア・モンテッソーリの幼児教育に関心を持ち、その教育法に共鳴して、自分の療法に活用しようとしたところがあり、この点は注目される。しかし森田は本来、作業は心身の自由な自発的活動であるとする作業観を有していたのであり、そんな根本的なところでモンテッソーリの影響を受ける必要があったのかどうか。慎重に判断せねばならないであろう。また療法の第三期に向けて、作業欲を喚起するために、モンテッソーリの教育法をどう生かしたかも、判然としない。そのことと関連するが、森田はモンテッソーリの幼児教育法について、次のように記載している(『精神療法講義』)。
 「モンテッソーリ女史の幼稚園では、すべて児童に強いて物を教えるといふ事なく、小児の自発活動を興奮させる処の手段によるのであるが、怠惰で且つ悪戯などするやうな小児は之を譴責懲戒する等の事はなく、之を病人として安楽椅子に寝かせ、他の児童の活動する有様を見せて置くのである。」
集団に入って活動することができない知的障害児や発達障害児を安楽椅子に寝かせて、集団の動きを観察さると興味を抱いて活動に加わるというこの挿話は、隔離された臥褥療法とは無関係である。強いて言えば、入院第二期から第三期に移行する過程に、この安楽椅子の挿話とやや重なるところを見出すことができる程度である。軽作業しかできない入院第二期において、第三期の本格的作業を観察していると、自分も参加したいという作業欲が湧くのである。
 一方で、森田療法の誕生には、自発性を重視するモンテッソーリの教育が大きくかかわったとして、その影響を全面的にとらえる見方がある。モンテッソーリの教育法に触発された森田が、それを生かして療法を創造したとみなして、源を大幅にモンテッソーリに帰着させるものである( 畑野文夫氏著『森田療法はこうしてできた 続 ・ 森田療法の誕生』)。このような見方は、もちろんあるところまで適正であり、森田療法の誕生に踏みこむ労作を世に送られた著者に敬意を表したい。しかしどこまで両者を同一視できるのかという問題が残る。たとえば、森田の療法は家庭的療法であったことを、モンテッソーリとの関係でどうとらえるのであろうか。また教育や精神療法の背景には、人間観があるはずである。自発性を重視するという、ひとつの共通項だけで、両者の人間観の共通性を導き出すことはできない。両者の関係を慎重に対比して、さらに深く論じる必要があろう。

 

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5 ) 療法の真実性
 秋元波留夫は、著書『迷彩の道標』(1985)の中の「森田療法の誕生」と題する章で、この療法が森田正馬によっていかにして創案されたかについて、深くかつ適確な記述をしている。秋元はおよそ次のように指摘している。森田療法の特異性は、神経質の主要症状である恐怖、不安、苦痛を「あるがままに受け入れる」受容的心がまえの確立を治療の眼目としている点にあり、それを可能にするために外界の治療的セッティングが必要であった。そのため森田は、苦悩と対決する臥褥と自発的活動である作業をたくみに有機的に組み合わせて取り入れて、療法を創案したものであると。つまり、言ってみれば、臥褥と作業のモザイク性の必要性とその成功が秋元によって述べられているのである。
 しかし森田療法の真価は、単にモザイク性が成功した地点にあるのであろうか。むしろ、モザイク性は出発点だったのではないか。もとより森田はモザイクの範疇におさまりきれるような人でなかった。森田は、臥褥や作業を受け入れる治療の物理的な場を自宅に設定して、家庭的療法を開始したのだが、そこで 患者と生活を共にしたところに森田の真骨頂があった。
 森田家では人工的に設定された場であることを超えて、森田夫妻と入院患者たちとの共同生活が繰り広げられる中で、治療者の生身の人間性がいかんなく発揮された。たくまずして、人間森田が患者を薫陶した。森田の療法は、脚本のない療法であった。
 臨場感あふれるそんな場では、夫妻げんかも公開であった。入院患者たちの前で、本ものの夫婦げんかをすると、見ていた人たちに向かって、どちらが正しいか言えと森田は迫る。
 治療の場はあってないがごとくで、森田が患者と共に行くところ、あらゆる場へと広がりを見せた。森田は入院中に、見舞いに来た新弟子の医師に、自分の腸洗浄を見学させたエピソードもあった。
 このような治療者像は、臥褥と作業を統合したモザイク性に療法の完成を意図した当初のレベルをはるか超えたところに現出している。
 こうして、森田自身の意図をも超越したレベルに、森田ならではの療法の真実性があったと言わざるを得ない。森田が最初に設定した森田家という治療の場が、人工的な舞台性を失うには、さほど時間はかからなかった。そして同じ森田家における、治療者と患者の共同生活の場を自然な舞台として、本ものの人間ドラマが展開されたのであった。そこで森田と患者たちが交わった躍動的な姿に、森田療法の真実性を読み取ることができる。療法の真実性は、おのずからやって来た。
 森田の療法は、森田がたどり着いた臥褥と作業のモザイク性を到達点としていながら、治療者としての人間森田の存在により、モザイクにおのずから魂が吹き込まれたのである。森田が作った仏に森田の魂が入った入魂の療法、それが森田療法なのである。

森田療法のディープな世界(5)―森田療法の神髄というもの―

2024/02/18

三聖病院には、森田療法の神髄に迫るような独特の雰囲気が漂っていた。
 

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5. 森田療法の神髄というもの
 
 森田療法は、戦後に低迷期があったが、その後次第に見直されるようになった。精神医学の西洋化の中で、森田療法はやはり日本人に馴染む療法として復活した。とりわけ神経症については、西洋の精神医学より森田療法の方が実際の臨床に即応するという面もあった。そして療法の再評価の風潮は、森田療法の真髄、あるいは神髄を改めて明らかにしようとする流れにつながった。用語として、真髄と神髄があるが、ここではあえて神髄を採っておく。しかし最近では森田療法のその神髄とやらを問う人は少なくなった。この療法の中心、核心、あるいは本質と言ってよいものだろうが、それはどこにあるのか、わからないままに、わからないことに慣れてしまっている。もっとも、神髄はと問われても立ち所に答えられない、つかみ所のなさが、この療法にはある。神髄は重要だが、画然としない。それはそれで仕方がない。自分はどちらかと言えば、森田療法は神経質や神経症の療法に特化されるのではなく、万人の生き方にかかわるものであるとする見方を取っている。神経症者に限定せずに、人間として日々の生活をひたすら生き尽くすことを本位としていると思う。神髄は画然としなくてもいいが、森田療法を本気でやっていれば、神髄の深さへの認識が生じるのではなかろうか。この療法の神髄はディープであり、しかもそれは日常生活の中に深く流れているからディープなのである。南條幸弘先生のご著書『ソフト森田療法―しなやかに生きる』があるが、日常の中にある森田療法の深さを示している点で好著であった。
 

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 さて、森田療法の神髄なるものについて、私なりに不十分ながら少し具体的に触れておくことにする。森田療法にとって、大切なもの、重要なもの、貴重なものがある。欠落したら森田療法でなくなるものである。それを神髄とみなせば、ほぼ当たっているだろう。それが欠落している事態、つまり欠如態に接して、気づくことがある。神髄が行方不明になっていたと知って、愕然とするのである。
 露骨になるが、エピソードを出してみる。10年あまり前のこと、日本森田療法学会での総会で、あるやり取りがあったことを鮮明に記憶している。フロアから、あるNPO法人の医師が質問をされた。「自殺者3万人のこの時代に、日本森田療法学会はどう対処するのですか?」 これに対して理事長は「理事会ではかっておきます」とお答えになった。
 質問者のこの同じ医師は、別の年には、学会活動における資金問題について質問をされた。かつては森田正馬の金銭感覚がひとつの問題であったのだが、今日における学会の金銭感覚が問われたのであった。森田療法では、とりわけ生の欲望が重視される。その森田療法の学会の自殺防止についての姿勢や、学会活動と金銭というような現実の問題こそ、神髄から発するものでなければならない。神髄は観念的な二文字ではなく、森田療法についての信条や行動につながる立脚点であるはずである。神髄は足元にある。質問者は学会に対して「照顧脚下」を問いかけたのであった。
 

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 神髄の問題は、三聖病院でよく考えさせられたことでもあった。三聖病院は、いかにも神髄が棲んでいそうな雰囲気の病院で、そこには、神髄に触れたかのような感覚を引き起こす空気が流れていた。院内には「斯くあるべしといふ 猶ほ虚偽たり あるがままに有る即ち真実なり」と書かれた森田正馬の墨跡が掲げられていた。それは、「あるがまま」を療法の神髄として指し示すものであった。しかし「あるがまま」を対象化して、説明を加えれば「あるがまま」ではなくなる。それゆえ、言葉のない「あるがまま」の生活があるのみとして、無言に近い生活が推奨されていた。そのような病院の談話のない暗示的な雰囲気の中に、森田療法の神髄が漂っているように感じられたのだった。
 

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 森田療法の神髄の所在を、東洋的な思想の中に求めようとする向きもある。「自然に服従し 境遇に柔順なれ」といった森田の言葉が、療法を象徴するものとして、しばしば取り上げられる。それはまさしく的を射ているようなのだが、森田療法に対する思想的、観念的な机上の評価の域内にとどまりかねない。これは心すべきことであり、森田療法の神髄は、森田療法論から一歩出たところにこそあるのだと知るべきであろう。
 

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 かくして、手を変え品を変え、神髄をとらえようとしても、神髄は、あるいは神髄のそのまた神髄はするりとどこかに行ってしまうのである。われわれは、神髄を捕捉することを諦めて、日々の生活を孜々として歩むほかないのである。そこにいつの間にか、神髄が立ち現れているかもしれない。禅の「サトリ」はそんなものであると言われるけれども、森田療法の神髄探しもそれと似ているのである。

森田療法のディープな世界(4)―森田療法における治療者の条件―

2024/01/27

森田正馬と宇佐玄雄の肖像(三聖病院の作業室に掲げられていたもの)
 

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4. 森田療法における治療者の条件
 
 堅苦しい題目を掲げたが、なるべく難解にならないように書き進めたい。
 
1) 森田療法は療法か。
 森田療法は、単に理論や技法をもってする療法ではない。その点で他の精神療法とは大きく趣を異にする。医師である森田が、悩み多き神経質者を対象に、自身の「療法」を創始したので、そのままひとつの精神療法として収まりがついてしまった。だが、このような収まり方は、森田療法というもの自体にとって違和感のあるものである。森田療法は、私たち人間が苦楽と共に生きていく生活そのもの、人生そのものである。ではこの「療法」において、治療することとされること、つまり治療者患者関係はどのようにして成立するか。同様に治療者が治療者たりうるために必要な条件とは何か。森田療法が「療法」ならば、これらはその本質にかかわるがゆえに、問いたいことである。
 
 森田が創始した本療法は、治療者の自宅という家庭的な環境に患者が受け入れられて、父権的な治療者の指導を受けながら生活を共にするものであった。このような治療の場では、おのずから治療者の全人格が患者たちを前にしてあからさまに発揮された。たとえば、森田は患者たちの目の前でほんものの夫婦喧嘩をして、患者たちに対して、自分と妻のどちらが正しいか言えと迫ったのである。そこでは、精神療法やカウンセリングで問題にされるような、治療者の自己一致(ロジャース)とか自己開示とかいうレベルを超えて、真に迫る生きざまが、あるがままに展開されていたのだった。しかし森田正馬の原法以来、それを継承する多数の人たちが、多様にかかわってきた中で、本療法は変遷を見た。したがって、治療者のあり方を改めて見直すべき時に来ていると言えるだろう。
 ものものしくなったが、以下、主に森田療法における治療者の条件について、思いつくことを取り上げてみる。
 

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2) 治療者は神経質者であることが望ましいのか。
 森田療法は、体験を通じて体得されるものなのであるから、治療者は神経質者として治療経験を有している人であることが望ましいとして、それが重要視される面がある。しかし、神経質体験が絶対視され、それが治療者の必須の条件のごとくみなされるならば、それは偏見と言うべきで、許容し難い。森田療法は必ずしも、神経質本位制のものではなく、人間本位制のものなのである。したがって神経質であることが森田療法の治療者の条件になるかという、よくある神経質な問い立てはほとんど用をなさない。では誰でも治療者になり得るかと言うと、問題はそんなに簡単ではない。
 人間本位制の面から、治療者のあり方を問題にすることはできる。それは、私たちの日常における人間同士の交わりで起こる現象と変わらない。厳しく鍛えて育ててくれる人がいる。優しく察して包んでくれる人がいる。こんな人たちとの交わりによって、私たちは生かされ、救われている。逆の立場になって相手にかかわることもあるだろう。これが日常における私たちの森田療法的な体験である。
 森田療法における治療者の条件は、日常の延長として、日常の中にある森田療法を、患者たちを相手に凝縮的に再現できる人たり得ることである。それが、森田療法家であることの人間的な必要条件であろう。もちろん、ここで治療者の全人格が問われることになる。
 

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3) 家父長としての治療者
 森田正馬は、自身が始めた療法を振り返って、自然療法、体験療法、家庭的療法などと称した。自然療法や体験療法という呼び方は、療法の中身を端的に表していて、わかりやすい。一方、家庭的療法という地味な名称は、注目されにくい。しかし森田の療法は、自宅に入院を受け入れて、家族の一員として同居させ、家庭生活を共にしながら、家父長である治療者が、妻の協力も得て患者らを指導したものであった。このような治療の方法や内容は、他に類を見ない出色のものであった。入院原法の方式の特徴として、よく知られていながら、当時の古き大家族制の文化の中で行われたことであったとして、歴史的に一線を画して捉える向きが多い。確かに文化的背景が大家族的な療法を可能ならしめたひとつの要因であったとは言える。しかし、森田夫妻は家族としてふたりきりであり、大きな建物や広い地所を入手して、そこに従業員や入院患者を受け入れて、森田は大家族的な入院治療を実施したのであった。森田のそのような意図と行動力は驚嘆に値する。単に家庭的療法という名称から浮かびそうな、ありきたりのものではなかった。入院治療の原型として、重要な場と構造があり、そして家父長であり師であり、生身の人間である治療者と家族同然の患者たちとの間に、生き生きとした交流が展開された。治療者の厳しさを母性的に補う役割を果たす森田夫人もいた。入院患者が加わって、結果として大家族的な集団となったのだが、この森田療法を過去のものとしてに葬ってはならないと思う。
 
 4期からなる入院森田療法は、一気に出来上がったものではなく、森田が工夫を重ねて完成したものであった。
 わが国では、落語などの古典芸能や相撲などの世界において、家父長的大家族的集団の中で、師弟関係を軸として、弟子が育成されてきた。森田がそれを念頭においたかわからない。さらには禅の世界での上下の人間関係がある。わが国におけるそのような人間教育の歴史から見て、森田の療法はそれらに通じる面がある。と共に、逆に森田ならではの独特の人間の生かし方がある。まず制度ありきではなく、森田という治療者と患者が、療法の中で一体になって進むところに、その本領があったと思えるのである。
 
 一方、西洋においても、古典的な人間教育があったし、近年の自由な教育もあった。古くは、ドイツに職業教育としてギルドの徒弟制度があり、それは現代にもマイスター制として継承されている。わが国の師弟関係の教育に近いものがあるから視野に入れてもよいが、森田療法は神経質の療法として創始された点で、単純に比較することはできない。
 また、西洋の新しい教育の流れとの関係で、自分の小さな体験を言うと、かつてフランスで森田療法を紹介したとき、あるフランス人が、森田療法は自由を重視するフレネの教育に似ていると言った。私は意味がわからなかったが、森田療法において、感じから出発して、外界へ向けて自分を自由に生かすところが理解されたのかもしれなかった。
 森田がイタリアのマリア・モンテッソーリの教育に関心を持ち、その影響を受けたことはよく知られている。モンテッソーリは、集団に入って行動できない障害のある子どもを、まずは外部から集団を観察させて、興味が募ってきたところで自発性を生かして、集団の動きに入らせるという方法をとった。これにヒントを得て、森田は第2期の患者をまずは第3期の作業から距離をおいて観察をさせ、自発性を溜めて、第3期へと入らせたのであった。
 

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4) 治療者の純な心
 森田療法における治療者の条件として、その全人格が問われることをすでに述べたが、人格の中心にあるものは、純な心であろう。そこで、純な心についてふれておきたい。
 森田は、純な心の重要性を繰り返し教えている。純な心という呼称は、森田の独自のものだが、それは本来人間にあまねくそなわっている心性であるとともに、森田療法の根源にある重要なものである。純な心は、人間誰にでもある。あるいは、あるはずのものである。しかしその原型は素朴であり、未熟な性質にとどまっていることもある。また、それは内在しているのだが、すなおに発揮されないこともある。森田の言うごとく、いわゆる初一念にあたるのだが、第二念、第三念が発生して、初一念を打ち消してしまうのである。このように、純な心はひとつでありながら、育てられて質的に純化していく面がある。
 古歌に曰く、
 「生まれ子の次第次第に知恵づきて 仏に遠くなるぞ悲しき」。
 これは、赤ん坊に授かった純な心とその行方を、嘆きながら見守っているものと解せよう。成長とともに純な心が、変質することもあるのである。純な心は実はこのように複雑で流動的なものである。そんな純な心を大切にし、体験を通じて育て、陶冶すること、それが森田療法なのである。
 かつて子どもたちは、老人から、「困っている人を見たら助けてやれ、弱い者いじめをするな、人に迷惑をかけるな」と教えられた。森田療法に等しい古老の教えであるが、そんな古老たちは今はいない。
 現代社会において、純な心を失わずに、生かすこと。それが私たちの課題になっている。複雑な人間関係の中で、他者の気持ちを察して援助をできる人であるためには、自分の側に他者を察知するセンサーとしての感受性がなくてはならず、また共感的に理解できる感性が求められるし、さらには状況判断力や行動力も要る。現代社会ではこのような条件が必要となる。しかし人間であることに変わりはない。心の内奥にある貴重なものとしての純な心を、失わずに生かすことが、私たちの最大の課題である。
 助け合う方がうまく生きていける。辛いことは耐えるしか仕方がない。でも辛さを分かち合って生きていけば、少しでも救われる。辛い相手を放っておけなくて、同行二人の道のりを歩む。
 悟るとか治るとか自覚するとか言うのは、純な心に目覚め直すことではなかろうか。自利と利他の区別すらない、未分の世界である。虚飾にとらわれたり、我欲にまみれたりたりせずに、すなおに生きる。それが人間の自由というものである。そのような生活に精一杯にいそしんでいる人たちが、私たちにとっての師であると思う。人生の苦楽をそのままに、自分らしく生きているその人たちは、森田療法にこだわっている私たちより、おそらく一歩先にいるのだから。

森田療法のディープな世界(3) ―「悩む力」としての神経質の本態―

2023/12/24

 

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3. 「悩む力」としての神経質の本態
 
1 ) 療法の原点
 森田療法に禅に通じる面があることは一般に知られてきた。けれども、この問題に正面から迫ることは難しい。森田療法家の多くは禅を極めていないし、禅家たちの多くは森田療法を知らないようであるから、知らぬ者同士である。森田療法と禅の双方に精通して、両者の関係を明らかにできる権威者とては不在に等しい。
 療法の創始者、森田正馬自身においてさえ、その内面で禅への関心と批判が葛藤していた。森田正馬はいきなり禅を活用したのではなく、神経質の治療にあたって創意工夫をして、それが禅と重なっていったのだった。そこで療法の成立をさかのぼって、禅との関係の原点を神経質者の心理的特性に探ってみたい。
 

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2 ) 悩める葦
 人間は考える葦であると言われるが、人間は考えるがゆえに悩む。神経質者は、考える一茎の葦であるが、同時に悩める一茎の葦なのである。神経質者は悩みによって成長する。したがって神経質者には悩んで成長する特有の力があるとして、それを「悩む力」と呼ぶことができよう。ただし、その「悩む力」は、素質として体質的に秘められていると捉えうるのかどうか。その点は少し議論が必要であろう。
 

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3 ) 弱さを生きる
 人間は誰しも四苦八苦を生きねばならないか弱い存在である。そのような人生の苦に対して、神経質者はとくに敏感である。森田は神経質の特徴のある部分を指して、ヒポコンドリー性基調と称したが、これは神経質者のそのような敏感さを指してのことだったのであろう。何かにつけて悩みやすい、悩まざるをえない性質を有しているのである。ここまでは素質であり、神経質者は悩みを経験するように仕込まれている。そして、悩む経験から、悩みのままで生きていく力が育まれる。つまり「悩む人」としての生来的な特徴を有するがゆえに、「悩む力」を自己涵養する契機に恵まれているのである。
 

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 「悩む力」は弱さではなく、ひとつの強さなのである。森田正馬自身、形外会で「弱くなりきる」ことを教えているので、次にそれを引用しておく。
 
 「自分が小さい、劣等である、どうにもしかたがないと、行きづまった時に、そこに工夫も方法も、尽き果てて、弱くなりきる、という事になる。この時に自分の境遇上、ある場合に、行くべきところ・しなければならぬ事などに対して、静かにこれを見つめて、しかたなく、思いきってこれを実行する。これが突破するという事であり、「窮して通ず」という事である。」(第28回 形外会、森田正馬全集 第五巻、p.282)
 
 弱い自分のままで、しかたなく行動するとき、事態が突破され、「窮して通ず」になると、森田は教えている。禅では、悩みや苦しみの果てに、「大疑ありて大悟あり」という転回の境地があるとするが、「窮して通ず」という森田の教えは、「大疑ありて大悟あり」につながるものである。
 

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 森田は、苦痛とともに生きた人物の例として、正岡子規を挙げた。また少し長くなるが、形外会での森田の語りを以下に引用しておく。
 
 「正岡子規は、肺結核と脊椎カリエスで、永い年数、仰臥のままであった。そして運命を堪え忍ばずに、貧乏と苦痛とに泣いた。(…)それでも、歌や俳句や、随筆を書かずにはいられなかった。その病中に書かれたものは、ずいぶんの大部であり、それが生活の資にもなった。子規は不幸のどん底にありながら、運命を堪え忍ばずに、実に運命を切り開いていったということは、できないであろうか。これが安心立命ではあるまいか。」(第25回 形外会、森田正馬全集 第五巻、p. 261)
 
 正岡子規の生きざまは、森田が示した「弱くなりきる」ことを実際に体現した人物として、まざまざと私たちに迫ってくる。
 
 次に、一風変わった 博多の禅僧、仙厓義梵が柳の姿をよんだ狂句があるので取り上げておく。
 
 「気に入らぬ風もあろうに柳かな」
 
 風に吹かれるままに抵抗せずにしなっている柳の弱い姿は、即ち強靱さにほかならないのである。
 
 一方、意外にも最近の治療思想の中に、森田療法に通じる教えを見出すこともある。マインドフルネス瞑想の指導者、ジョン カバット-ジン Jon Kabat-Zinn は次のように教えている。
 
 ” You Have to Be Strong Enough to Be Weak ” (弱者でいられるだけの強さを持て)と。
 
 それは、いつの世にも重要な人間の生き方なのである。
 

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 以上に、森田療法で本来の治療対象とされた神経質というものに秘められた性質について考えてみた。神経質者は、「悩む人」としての生来的な特徴に発して、弱さを生き、「悩む力」を自己涵養できる人である。神経質の本態は、そのような素質から成長までの全過程にあるとみなすことができる。また、その治癒過程における禅的な契機についても少し触れた。

森田療法のディープな世界(2) ―わが森田療法との出会い―

2023/12/17


 

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2.わが森田療法との出会い
 
 私は京都の地で、三聖病院との出会いによって森田療法に入門した。神経質な人間であるから、勤務しながら自分も森田療法に救われたところが確かにあった。振り返っても感謝は尽きない。三聖病院には、ある種のディープな森田療法があって、それが私に染みたのである。そこは禅的色彩の濃い病院で、優しくて澄んだ眼をした院長が物静かに指導をしておられた。その姿を師と仰ぎ、自分はこの病院の独特の深みの中で、歳月を過ごしたのであった。しかしながら、三聖病院に浸っているうちに、医師としての自分の責任を自覚し、ここでの森田療法の独特のあり方について考えねばならないという因果に落ちていった。かくして、私にとって森田療法との出会いは、親和性から始まって、責任感に転化した。私は未だにこのような因果を引きずっている。因果に落ちず、因果を晦まさずに、三聖病院との出会いとそこでの体験を問い直しながら、森田療法のディープなあり方を探っていくことにする。
 

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 出会いには伏線があった。
 
 かつて反精神医学の嵐が吹き荒れ、大学における精神科の医局講座制は解体へと向かっていった。そのうねりに翻弄された世代のひとりであるが、研修には恵まれず、研究を罪悪視する風潮の中で、大学外の精神病院のいくつかに勤務することを余儀なくされ、旧態依然とした精神医療に浸かる年月を過ごした。いわゆる社会的入院の患者さんが多かったし、また慢性期の病勢が進み、生涯を病院内で過ごす運命にある人たちが多くいた。反精神医学の運動が、この人たちに対してどれだけの福音になるのか。活動する精神科医師たちの中には、挫折して自殺した人もいた。私は治療効果を上げることができない困難な精神障害の人たちを前にして、日々の臨床に虚しさと無力感を感じて、疲弊が募っていった。そんな悩みを、ある先輩に相談したことがある。「それを言う時は辞める時や」と先輩は答えた。燃え尽きた自分は、先輩に言われたごとく、精神医療の第一線から退いた。そして心身医学の領域に身を転じた。
 

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 自分は入局当初から、精神だけでなく、心身を一体のものとして捉える心身医学への関心を持ち続けていたという事情もあった。しかし今にして思えば、自分が燃え尽きたあの精神医療の第一線にこそ、森田療法があった。来る日来る日を病棟の中で過ごしている精神障害の人たちに、それぞれの人生がある。治療者は、その人たちと「同行」するという重要な役割を負う。そこに本物の森田療法があったのだ。最近になって、つくづくそんなことに気づき、忸怩たる思いでいる。
 

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 とにかく、私は新たに心身医学の領域に入っていった。と言っても、いわゆる心療内科は九州大学にしかなかった時代のことである。そこで私は心身医学の勉強のために九州大学に通ったこともある。しかし九州大学の池見教授は、大学の中で全人医療を唱えながら、一方で心療内科をさらに専門的に細分化しておられたので驚いた。そんな自分は、京都市内にある企業体内の病院に勤務し、職場で働く人たちの健康管理に従事した。そして、その病院の近くにあった三聖病院に、昭和49年から非常勤で勤務させてもらうことになった。数年後、フランスに心身医学や精神医学を学んだが、そこで逆にフランス人から日本の精神療法について問われる立場になった。その体験から改めてわが国の森田療法への関心が深まり、帰国後再び三聖病院に戻るとともに、フランス人に森田療法を伝える活動を開始した。しかしそのような当時の自分の浅はかさを、今は思わざるを得ない。
 
 まず、三聖病院に出会って、この病院に魅された自分がいた。禅寺を模した木造の古色蒼然とした建物の中に漂う不思議な雰囲気、院長の靜かなお人柄、一貫している禅的な教え。そこは現実離れした治療の場であった。その非現実性が禅と結びついていたのである。自分はその非現実性を現実に置き換える必要性に思い至ることなく、それを森田療法そのものとして、フランス人に伝えようとしていたのだった。 そして、そんな誤りへの悔いから目覚めていった過程に、もうひとつのわが森田療法との出会いがあったことを付け加えておかねばならない。

森田療法のディープな世界 (1)― 存在の深みにおけるディープな療法―

2023/12/11

 

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1. 存在の深みにおけるディープな療法
 
 人間は限りなく深い。森田療法という古めかしい療法は、いつの世も変わらず、人間のその存在の深みに迫る。
 森田療法は、臨床的には神経質の療法として確立された。そして、とらわれている生の欲望を解放し、創造性へ向けて可能性を拓くことがこの療法の趣旨であると理解されている。だが森田療法はそれだけのものではなかろう。人間は、人それぞれに、帰らぬもの、涸れたもの、失ったもの、そして悲しみや虚しさや理不尽なものを抱えながら、そのままに生きねばならないし、また死んでいかねばならない存在者である。森田自身、神経質の療法としながらも、療法の原点を釈尊が体験した「生老病死」の四苦に求め、かつ「煩悩即菩提」という仏教思想を生かして療法を始めたのであった。本来、このような深い次元に森田療法の本質があるのだと思う。
 

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 軽くて便宜的な森田療法を一概に否定はしない。大仰でなくていい。日常の生活の中に、深い森田療法の叡知が生かされていればいいのだから。更に言うなら、森田療法という療法名を知らずとも、人びとがそれぞれの人生を生き尽くしていればいいのだから。結局、森田療法に拘泥する必要はないのであるが、この療法にある折角の本質を忘れてはなるまい。本質的に人間は森田療法的にしか生きることはできないのである。
 

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 しかし、昨今、社会の精神病理に対して、深みに迫るアプローチは乏しく、それを追っかけるがごとく、森田療法も精神療法の浅瀬へと広がって行きつつある。深みに戻ろう。ディープな森田療法に戻ろうと言いたいのである。それは危険かも知れないし、祈りのようになってしまうかも知れない。しかし、浅瀬よりも深みであえぐ人をこそ救うべきではないか。森田療法の真髄もその深みにあるのだから、と思う。
 

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 私自身はと言えば、精神科医師として生涯 の後半になってから、京都のある病院で森田療法に初めてふれた。それは何かを秘める、または何も秘めていない不思議な禅的な療法で、いつしか私は自分の方向性をそんな森田療法に転じたのだった。
 私が出会ったその森田療法が、言うところのディープな森田療法を代表するものであったのかどうか。それは問題である。ともあれ、わが森田療法との出会いはそこにあったので、その体験と顛末を回顧して、次回以降に述べながら、それをよすがにディープな森田療法について考えていきたい。

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