仏教界の未解決事件、「大乗起信論」パッチワーク説に新たな動き―森田療法の立場から見る―

2020/09/18




 
 

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 まず言っておくと、私はもともと仏教とその雰囲気を生理的に好かない、仏教の門外漢である。仏教にみずから興味を持って学んできた経験に乏しく、仏教学の動向に感想を述べる資格とてはない。元は田舎の村落の出身で、残念ながら、そこでの檀家制度や葬式仏教の土着的な地域の文化には暗い思い出がつきまとっている。だから仏教嫌いになっていたのに、何の因果か人生後半になって森田療法につかまった。それも禅の色濃い病院に勤務した経験から、禅思想が身近になり、その延長で花園大学で少し学ばせて頂いた。さらに、因果なことに佛教大学に奉職して、昔の田舎のお寺の記憶に引き戻された。それで仏教コンプレックスに陥った次第である。
 
 いきなりくどく書いたけれど、仏教コンプレックスの中でも、仏教の根本思想は自分の人生観に摂り入れられた。少なくとも、そのことは言っておきたい。一方、難解な仏教の用語や思想にはついていけない。ただし、森田療法との関わりを有している者として、ややこしい仏教思想も知らないでは済まされない。そんな面倒な立場から、仏教を見ている。たとえば「真如」という神秘的で難解な言葉の意味や概念が、どのようであろうと、個人としての私には何の関係もない。

 

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 森田療法は、禅、真言宗、真宗などの複数の宗派にわたって仏教と接している。また仏教との接点を掘り下げるなら、インドや中国における仏教思想を歴史的に知らねばならない。森田正馬に影響を与えた井上円了を含み、井上哲次郎ら、明治期の仏教哲学者たちは「大乗起信論」を受け入れ、それに依拠していた。「大乗起信論」は、インドの仏教哲学者、馬鳴(メミョウ)の作であり、それが漢訳されたものとみなされ、中国のみならず日本の仏教思想にも大きな影響を与えてきた典籍である。ところが以前より、その成立事情について疑問が投げかけられていた。そして最近、3年前に、「大乗起信論」は漢文仏教文献をつなぎ合わせたパッチワークであることを明らかにした、大竹晋氏による研究成果が公表された。
 それは次の文献である。
 
 大竹 晋 : 大乗起信論成立問題の研究―『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク. 国書刊行会. 2017
 
 

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 著者、大竹氏によれば、「大乗起信論」の内容は、インド語を知らない中国人が中国語で書かれた文献だけを使って切り貼りして、自分の考えも書き加えて編纂したものであり、さらにその人物は自分の名前を出さず、作者名を古代インドの馬鳴に仮託して、「大乗起信論」を世に出したのである。それなりに、当時の中国仏教思想の書として意味なくはないが、しかし「大乗起信論」は古代インドに発する大乗仏教の真髄を伝える書とされてきた位置づけから、外される事態になりそうだ。このような研究結果を出し得たのは、ふたつの鍵に恵まれたからだと言う。ひとつは、コンピューターの発達により、検索機能を使えば「大乗起信論」の中の用語を他の中国文献に見つけることができるようになった―。またもうひとつは、敦煌で見つかった仏教文献が近年利用可能になったことがある―、と言う。ともあれ、このようにして出された研究結果は客観的であり、揺るがし難いデータである。それをどのように判定するかで、今後議論が湧き上がるであろう。揺らぐのは仏教の方かもしれない。
 
 「大乗起信論」とインド大乗仏教は、かくして別のものになった。そこで、大竹氏自身、両者の思想を比較しておられる。上の著書の中には、「『大乗起信論』における奇説」という一章がもうけられていて、その中ではとくに「あらゆる諸法を真如と見なす説」という一節があることに注目したい。大竹氏の指摘のひとつは、インド大乗仏教においては、法に内在する属性が真如なのに、「大乗起信論」においては、あらゆる法が真如なのである、という矛盾である。

 

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 私は先に書いたようなバチアタリ者で、「真如」がどうであれ、私には関係はないと言ったが、そうもいかない。森田療法の立場から、仏教語としての「あるがまま」について考えている昨今である。するとどうしても「真如」という難儀な言葉に遭遇する。tathatā からの系譜の「如(真如)」は属性ではなかったのか? 手にする仏教書によって、「真如」の説明は一致していない。そのため、ますます「真如」に手を焼いていたとき、一週間前に大竹氏のパッチワーク説の書に接した。それにしても、「真如」という言葉そのものが中国で発明されたものではなかったか…。そしてさらに思う。「法」と「真如」の曖昧な関係は、なぜこれまで識者によって問題にされなかったのか。これは「大乗起信論パッチワーク説」に先立つ問題ではなかったのだろうか。
 
 兎にも角にも「大乗起信論」に対する果敢な「パッチワーク」説は、仏教界に一石を投じたようだ。周囲はまだ静観しているようだが、佐々木閑氏は、自著(『大乗仏教』NHK出版新書、2019)の最終章で大竹氏の「パッチワーク」説を肯定的に論じておわれる。
 
 「あるがまま」と「真如」は、面倒な言葉の双璧である。
 
 


   

【再掲】禅の「十牛図」と森田療法─正馬先生の「心牛」探しの旅─【前編】

2020/08/27

 第23回日本精神障害者リハビリテーション学会(高知)で講演をおこなった際のパワーポイント・スライドを、以下に提示し(一部割愛)、適宜に説明を再現しておきます。
 長さの関係で、前編と後編に分けて掲載します。
 

 以下は、2015年に行ったある講演のスライドですが、「十牛図」の絵のみ、今回(2020年8月23日)差し替えて、全体の構成はこのままで掲載し続けます。新たに差し替えた絵は、杉本二郎画伯に描いて頂いた貴重なものです。出版化を予定している前段階で、今からこの絵を先出しすることを、杉本画伯にご諒承いただいたものです。著作権を侵害なさらないように願います。

 
 

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01
 高知と精神医療との関係について考えると、高知は、わが国を代表する精神療法である森田療法の創始者、森田正馬が輩出した地であることを思い出します。
 
 
 

02
 香南市野市町に現在も残っている森田正馬の生家。赤壁が見える棟から右方は改築された部分にあたりますが、その左側は手を加えられていない昔のままの建物です。写真に写っていない、さらに左側には蔵があります。これらの部分は老朽化しています。文化財のようなこの建物が朽ち果てるのを防ぐことが焦眉の急となり、本年、「森田正馬生家保存を願う会」が発足しました。ご親族の森田敬子様が、会の事務局長をなさっています。
 森田療法を理解するには、森田正馬の生涯を知る必要がありますが、その生涯のルーツがここにあるのです。
 
 
 

03
 発表項目として示すごとく、用意はしたけれど、この学会でどのような視点から森田療法について述べればよいのか、迷っていました。しかし、この講演前日におこなわれた、精神医療における病院から地域への移行についてのシンポジウム(土佐弁で「地域移行て何ながよ」)を聴き、このような発想や取り組みは森田療法と同じではないか、と感じました。わが意を得たりと思いました。
 
 
 

04
 森田療法は、単に神経質や神経症の療法であるより以上に、万人の生き方に関わります。
「森田療法って、何ながよ」、「自由に生きることながよ」。ただし自由とは、放恣、放縦のことでなく。それは、ひたすら自分を尽くして生き抜くことです。その点において、森田療法は禅につながるのです。禅も「自由に生きることながよ」。
 
 
 

05
 よくある先入観は、教科書的な本に書いてありそうな説明のレベルのものです。誤っていなくても、表層的理解に流れます。症状は、流動している心のひとつの姿だから、「あるがまま」。そういうことであって、「あるがまま」は治す手段ではないのです。
専門レベルでは、認知行動療法との異同が問題になります。認知行動療法は症状を治す指向性から出発している。森田療法の森田療法たるところは、人間の存在の深い苦悩に関わるものであることです。第三世代の(認知)行動療法との違いは、森田療法はエクササイズではなく、生活そのものであることです。
 
 
 

06
 治療者が相手を薫陶する点で、パターナリズムが軸になってはいる。しかし父なる治療者を乗り越えていくのが森田療法。治療者、患者の区別なく、森田療法はみんなの自己教育。そういう大事なことが、教科書に書いていない、だから言いたいこと。
 
 
 

07
 「あるがまま」と言わざるをえないけれど、言えば頭での理解になる。歌の文句の方が、感じることができたりする。1年前には「ありのまま」と歌う「アナ雪」が流行った。今年は森進一が「あるがままに生きる」という新曲を歌っている。柳の下に二匹目のどじょうがいるかどうかは、わかりません。
 苦を苦とし、楽を楽として、逆らわずに生きるのが、あるがまま。古い「水戸黄門」の番組の歌にもありました、「人生 楽ありゃ苦もあるさ」。
 苦に遭えば苦を生き抜くほかありません。森田療法は「生きる」療法です。
 最近とくに思うことがあります。「生きる」療法を生んだ日本で、なぜ自殺が多いのか。日本人のメンタリテイは自殺に向かう閾値が低いから、森田正馬は「生きる」療法を創ったのか。とにかく自殺が多い現実を前に、私たちはどうしたらよいのかという問題がある。この場合、森田療法の専門家というものは、あまり役に立たない。ひとりの専門家より、百人の普通の人たちが、身近なところから手をつけていく方が、ずっとよい。大体、森田療法の専門家というのは奇妙なもので、それは人間の専門家というのが存在したら奇妙なのと同じです。
 
 
 

08
 森田は、自分の療法は禅から出たものではないなどと言いました。そこには、わが国の医学の西洋化の中で、自分の療法が異端視されることを避ける意図が働いていたし、また参禅したけれど、公案に透過しなかった経験による禅コンプレックスを抱えていたことがあったと思われます。実際には、仏教や禅の教えを重視し、それをたびたび引き合いに出して指導したのでした。
 
 
 

09
 このような森田の療法は、「自然科学」ではなかったけれど、「科学」であり、固定的な対象にならない心の流動性を科学する、「心の自然」の「科学」であったと言えます。
 
 
 

10
 ここに森田が書いた色紙がある。判読しやすいように、そのまま画面に転記した。
 まず、作者不詳の禅の古い歌が引用されている。これは京の鴨の河原で座禅をしている人物が、四条や五条の大橋を往来する人たちを見上げている構図であるとみなし得る。河原に座している修行者にとって、橋上を往き来する人たちが「深山木(みやまぎ)」に見えるという境地が詠まれているが、森田はこれを痛烈に批判している。木が橋の上を歩いているわけがない。山中で座禅を組む人が河原に来てみれば、橋上を歩く人が木同然に見えるとは、いかにも臭い衒いだという、そんな批判です。それで、某禅師をもじって、「形外蝉子」と自称し上の歌を皮肉っています。「形外」はもちろん森田の雅号。人は人と見るのが自然です。
 さて俎上に載せられた禅の古歌は、二つのセットになった古歌の片方なのです。全体は同じ文句だが、最後の部分が異なり、「…深山木と見て」となっている歌と、「…そのままに見て」と言い換えている歌があるのです。後者は前者を批判しており、深山幽谷で独座しているのが本物の禅なのではない、市井で人をそのままに見る、それこそ本当の禅だという歌です。後者は、一休の作だという説もありますが、定かではありません。
 つまり、形外蝉師殿は、後者の歌を下敷きにしていて、オリジナルとは言い難く、むしろパロディですが、禅を深く学んでいなければ、こんな遊び心ある禅批判はできません。森田の禅の造詣の深さと禅観が、現れている例として提示しました。
 
 
 

11
 ここにまた古歌があります。これは森田正馬という人と直接関係しませんが、森田療法と深く関わります。生まれたばかりの赤子にそなわっている仏性が、成長とともに悪知恵がついて次第に失われていく。そういうことを嘆く歌です。赤子に生来的にある仏性とは、森田の言う「純な心」と同じものだとみなせます。生まれついたときから、本来誰しも汚れを知らない、純粋で真っ白で、すなおな心を持っているのです。ところが長じるにつれて、欲の世界にまみれつつ、我が肥大して、純な心は内面に奥深く押し込められてしまうのです。
 森田療法はこの純な心の回復を重視します。その課題は、 失った「すなおな自己」を探す心の旅である「十牛図」に通じていくのです。
 
 
 

12
 禅の「十牛図」は、自分という存在者の卑小な内面で世界一周をするごとく、心の成長の過程を辿る階梯を象徴的に図示しています。中国で創られたもので、日常生活の身近にいる動物である牛を、自分(自己)になぞらえて、自分探しをする、いわゆる「己事究明」の諸相を象徴的に描いています。
 
 
 


 「十牛図」は中国で宋代に創られました。廓庵によるものが有名で、鎌倉時代にわが国に入り、しかし廓庵の図そのものは伝わらず不明のまま、そのモチーフに従って、わが国で複数の画家により「十牛図」が描かれたものです。そのうち、代表的なものとして、周文という人によって描かれ、それが後代に伝わったもの(伝周文)がありました。一方版画による「十牛図」も発見され、天理大学に保存されています(作者不詳)。周文の図も、天理大学に保存されている版画の「十牛図」も、それぞれ一長一短があります。そこで、両者の興味を引く点を抽出し、試みにそれらの特色をひとつに合成してみたイラストを用意しました。
 この「十牛図」のイラストのシリーズには、特徴として、タネ仕掛け、ちょっとあります。分かり易いように、あらかじめそれらをバラしておきます。まず最初は黒かった牛の色が、途中から白くなること。図を囲む黒い枠が、最後の第十図では白くなること、またその第十図では初めて複数(二人)の人物が登場することです。
 
 
 


 「十牛図」は心の成長の階梯を表していますが、一段ずつ確実に上に登れる階段のようなものではありません。双六のように逆戻りすることもあり、また双六のような、めでたし、めでたしの上がりで終わるものでもありません。上へ上昇した上がり(仏教で言う「上求菩提」)がゴールではなく、下界に戻らねばなりません(下化衆生)。調子に乗って下山すると、衆生の済度をするどころか、油断して地獄に転落するかもしれません。「十牛図」の入り口は、地獄を見た人の生き直しにも開かれています。底辺に地獄を置くと、「十牛図」は、下から出発して、時計のように(あるいは時計の逆周りに)ぐるぐるまわる周回のプロセスを示しているとみなせます。
 
 
 


 自分のあり方に何も悩んでいない脳天気の人は、さしあたり機が熟しませんが、神経質のような内省性の強い人は、自己を模索します。「十牛図」の全体のモチーフは、見失った自分探し、つまり「己事究明」なのです。
 この十の図にわたる「己事究明」の展開は、大まかに三つの段階に分けることができるでしょう。
 第一のステージは、「自己を探す」過程です。それは、牧童がいなくなった牛を探す様になぞらえて描かれています。第一図「尋牛」がその始まりです。「十牛図」は絵だけでなく、文章も添えられていますが、第一図の序文に皮肉が込められた言葉があります。「もともと失ってもいないのに、何でまた追尋するのだろう」と。「照顧脚下」(自分の足下を見よ)ができないのが人の性(さが)で、自分探しのお遍路が始まるのです。やがて牛の足跡を見つけ(第二図)、体が見え(第三図)、ついに暴れる牛を捕獲します(第四図)。そこでは、真の自己を捕まえたという達成感が生じます。しかし真の自己は捕捉の対象たりえないものです。黒牛を捕獲した牧童は、真の自己を捕捉したと思い、悟ったつもりの第一の夢を見ているのです。そこには我の高揚があります。牧童が達したのは、「我執」の域に過ぎません。
 
 
 


 第四図から第五図の間には、長い精進のプロセスがあったと見るべきであり、第五図「牧牛」では、牛の色は「白化」しています。この図からは、「自己を陶冶する」という第二のステージになります。白く純化した牛に乗って、心の奥底へと回帰します(第六図「騎牛帰家」)。そして白い牛の姿も昇華して消えて、人牛は一体化し、清明なる月の下に、山中の庵で独座して、高踏的な悟りの境地に至ります(第七図「忘牛存人」)。「我執」という第一の夢から覚めて、諸法無我、諸行無常を知り、無を認識しているという段階にあるのです。聖位とも言われる境地です。修行を重ねて到達する「上求菩提」の域ですが、悟り至上主義的な第二の夢の中にいるのです。
 
 
 


 次に、第八図以降が、「真の自己を生きる」第三のステージになります。ここで、いくつかの問題があらわになっていきます。第八図「人牛倶忘」で、何も描かれていない空一円相になることは、廓庵十牛図に共通です。第七図まで連綿と継続し、聖位にまで至った展開は、ここで無へと開放的に切り替えられます。無を頭で認識していた人も姿を消し、本当の無そのものになります。無は自由そのものです。無の次に、自然の本源が現出します。森田正馬が「柳は緑、花は紅」という禅語をよく引用したごとく、主客一体の「あるがまま」の姿です。
 そして最後の第十図「入鄽垂手」に至って、ドラマチックな変化が起こります。入鄽垂手とは、市井に入り手を差し伸べて人に慈しみを向けるという意味ですが、図では二人の人物が描かれています。左には、布袋さんのような腹をしたメタボの人物が、酒のかめを手に、悠然としています。これこそ、自分の心牛を尋ね歩いた元牧童が、遍歴を経て進化を遂げた姿です。その前には、これから尋牛の旅に出るのかもしれない新たな牧童のような人が佇んでいます。元牧童は、上りつめた聖位の境での、悟りを至上とする第二の夢から覚め、下山して日常生活に戻ってきたのです。ただ者ではないただの人になりました。「下化衆生」の境位にあります。真の自己は、ここでメタボの人と一体になっていますが、眼前にいるしょぼくれた人が、他者として重要な役割を果たしています。他者がいてこそ自己が自己になる。相手が、下化衆生をさせてくれているのです。大所高所から降りてきた人が、上から目線で下界の庶民を救ってやるというニュアンスが、もし出ると、あまりいただけません。ちなみに森田療法にはパターナリズムの軸がありますが、それは硬直した軸ではありません。
 さて、この第十図では、これまで円相の図を囲んでいた周囲の枠が黒色だったのに、最後に白くなったことに気づきます。これはどういうことなのか。黒かった枠は、壁のような仕切りがあったことを意味し、図が展開した円相は、円窓だったのではないか。壁の内側に引きこもっている自分がいて、壁に開けられた円い窓から、外で展開する自分劇場を眺めていたのではないか。第十図で、内側と外側を隔てていた壁は消えて、ひきこもりの自分は外へ出た。自分劇場を見ていた自分も同時に布袋さんになったのです。あるいは右側の牧童になったとみなしてもよいでしょう。この「十牛図」は、複雑な3Dの構造になっていたのです。
 
 
 


 3Dの構造は、第十図において劇的に明らかにされました。暗い部屋に引きこもって、円い窓からおずおずと外を覗き、自分劇場に見入っていた自分が布袋になってしまいました。布袋さんは元神経衰弱の引きこもりだった。新たな牧童にも、また繰り返す自分探しの出発が予示されています。神経衰弱は治ったり再発したり。それが人生、セ・ラ・ヴィ です。
 

                                   (前編 了)

【再掲】禅の「十牛図」と森田療法─正馬先生の「心牛」探しの旅─【後編】

2020/08/27


 以下は、2015年に行ったある講演のスライドですが、「十牛図」の絵のみ、今回(2020年8月23日)差し替えて、全体の構成はこのままで掲載し続けます。新たに差し替えた絵は、杉本二郎画伯に描いて頂いた貴重なものです。出版化を予定している前段階で、今からこの絵を先出しすることを、杉本画伯にご諒承いただいたものです。著作権を侵害なさらないように願います。

 
 
 森田療法は、世に認知されている数多くの精神療法のうちで、名称に創案者の人名が冠された唯一の療法です。しかし、それは単に心を病む人たちに対する精神療法であるにとどまらず、古来よりのすべての人間の生き方そのものです。精神科医師になった森田正馬は、自身が神経衰弱の状態になって悩んだ経験を生かして、この精神療法を創りました。自分自身が、森田療法を生きた第一号のケースでした。つまり、森田療法とは、治療者である以前に、「悩んで、そして生きた当事者であった森田」によって創られた療法という意味で、森田の名がついた療法であると理解する方が自然だと思われるのです。
 そこで、森田療法の基礎事例としての森田正馬の生涯を、「十牛図」に対照しながら、挿話的に辿ってみます。

 
 

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 それは、父に反抗した青年が、やがて悩める人たちの父となった物語です。
 
 
 

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 先に、十牛図の階梯を三段階に分けて理解しましたが、それに対応するごとく、森田の生涯も、同様に三段階に分けて捉えることができると思います。
 おそらくそれは偶然ではなく、ライフステージは、大まかに三段階があるように思われるのです。我もしくは自我を獲得することが主題になる第一のステージ、思慮分別をわきまえるに至る第二のステージ、そして老成した人になる第三のステージです。
 まずは森田正馬の生涯の第一の段階です。高知県香美郡冨家村(現 香南市野市町)に出生。おとなしい無口な子で、小学校の成績は良かったとも、良くなかったとも言われるが、とにかく神童のように優秀な子ではなかった。そのため小学校教員をしたことのある父から厳しく勉学を強いられ、かえって勉強嫌いになっていった。9歳頃、村の金剛寺という真言宗の寺の地獄絵を見て恐怖を感じ、それが原体験となって、生と死の問題を考えるようになり、長じてもたびたび不安を覚えることになったという。
 夜尿があって12歳頃まで続いた。
 農業を営んでいた父は、正馬の中学校への進学にすぐには賛成しなかっので、遅れて中学校に入学。中学校時代から神経衰弱の症状が起こりだした。友人と一緒に東京へ出奔して苦学を志すが挫折して帰郷。さらに、旧制高校に入るために、高知出身の大阪の医師、大黒田龍が奨学金を出すという養子縁組に、親に無断で応募して養子になった。親に知られて、養子縁組を解消し、中学校卒業後は旧制熊本高等学校に入学。この旧制高校時代に、仏教哲学を学び、関心を深めていく。
 東大医学部に進学したが、神経衰弱症状のため勉強が手につかず、父の学資の仕送りが遅れているせいにして、父への面当てに、死んでやれと、神経衰弱の薬の服用を止め、必死で勉強したら、試験に好成績を得て、神経衰弱の症状も吹っ飛んでしまった。これは有名なエピソードで、この自身の体験が森田療法を生む契機になったと言われる。
 しかしこんな話から、当時は実にわがままな青年であったことが、よくわかる。暴れている黒牛そのものである。
 
 
 

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 生涯の第二段階。
 医師になり、初めて他者を治療する立場の人になった。仕事が人を作っていったのでしょう。
 父への感謝と尊敬の念が湧き、初めて手にした百円紙幣を父に送ったのでした。
 神経衰弱に対しては、試行錯誤の末に、大正8年、45歳で自分の療法を確立します。
 さらに大病にかかり、死を覚悟します。四十代にして、ようやく「死は恐れざるをえず」という悟ったのです。こうして、我執から離れていきました。
 白牛になり、さらに牛は消え失せる段階にまで達しました。
 
 
 

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 生涯の第三段階。
 いよいよ森田の面目躍如となります。自宅に入院させた患者と生活を共にし続け、自ら先頭に立って動き、時には叱り、常に患者を慈しみました。郷里の母校、冨家小学校に寄付を重ねて、晩年には講堂を建てました。人間愛の人、森田は「今親鸞」 と慕われたのでした。
 死の床においても、「死にたくない」と言い、また高熱にうなされて意識がなくなったとき(せん妄状態)、こんな夢を見ていたと、周りにいる人たちに身をもって教える死の臨床講義をしたのでした。本物のデス・エデュケーシです。教えるも、教えられるも、森田療法は死ぬまで続くものなのです。
 
 
 


 森田正馬が患者さんたちと起居を共にした生活は、まさに「十牛図」の第十図の「入鄽垂手」に相当します。森田は禅に関心を持ちながら、無念無想に浸るようなたぐいの座禅を嫌いました。禅の修行に人工的な不自然さを見ていたようです。生活の中にある自然な禅を実践していたのでしょう。「十牛図」と対照しても、森田の生涯を考えるに当って、教本的な二次元の教えは平板で、3Dの世界に出ていく実践にその面目が、最も生き生きと見て取れます。患者と一緒に買い物に出たり、浅草へ映画を見に行ったり、熱海の観梅に出かけたりして、実際に即して指導しました。病身の森田は乳母車に乗って患者と買い物に出かけましたが、恥ずかしい格好よりも、市場の狭い通路を通るには乳母車が好都合だったからです。
 
 
 

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 弟子や従業員さんたちに囲まれている、病も篤い森田正馬です。
 
 
 

35
 森田が創案し、実践した療法─森田自身は「余の療法」と呼び、没後に「森田療法」と呼ばれるようになった─は、決して特殊な療法ではありません。
 人生には必ず悩みがある。悩みは神経質な人たちに現れやすい。一方森田の療法は、すべての人たちの人生に対応するものだけれど、精神医学の立場からは、悩める神経衰弱(神経質)の人たちが、さしあたり対象になった。そのような成立の事情から、後年、森田療法は神経質(神経衰弱)の療法だという固定観念が生じたようです。
 しかし、森田は治療対象として、まずは神経質に焦点を当てたけれども、それに終始することなく、神経質の表層の心の病理の治療もさることながら、生老病死の苦と共に生き抜くことを教えているのです。そしてさらに、治療者の人間性の重要性を力説したのです。
 
 
 

36
 十牛図の三段階と、森田の生涯の三段階が対応するものとして、理解したのでしたが、森田自身、修養には三段階があると言っているのです。
 学歴になぞらえるのは語弊があるのですが、スライドでは、森田の言い方に忠実にそのまま紹介しました。
 我慢すれば見返りが得られると、自己中的な功利的期待が働くのは、初級程度で、我にとらわれている。黒い牛さんの域。
 諸行無常を頭で認識する知力を持つのは中級程度で、我を捨てて無我になりましたという、分かったつもりの心境。白い牛さんの域。
 さらに苦楽をあるがままに受け入れて、生の欲望(生の躍動)になりきって、無心に生きるのが、上級程度です。無心の段階に、もはや牛はいません。
 
 
 

37
 森田正馬の人間的成長の軌跡を「父親殺しpatricide」として捉えることができます。もちろんここでの「父親殺し」とは精神分析で言うような意味でです。
 心身ともに弱い子どもだった正馬は、青年になって「疾風怒涛」の反抗期を迎えます。しかし父は偉大な存在でした。父への反発は続きましたが、医師になって後、自分を一人前にしてくれた父への感謝の念がふつふつと湧きだしたのでした。父への反抗は父に及ばない子どものすることです。父に感謝し、父に盲従もせず、大きな人間になっていくのが、父を越えることになるのです。森田正馬は大きな器の治療者になり、患者に対して、厳父として慈父として、父性愛を発揮しました。
 森田療法は父性を軸とする療法であると言えます。その点では禅に似ています。内観療法や真宗において母性が重要なのと対照的です。
 
 
 

38
 『臨済録』にも「父親殺し」に相当する教えがあります。仏に対しても、師に対しても、両親に対しても、感謝や尊敬を忘れてはならないが、偏愛、盲従盲信に陥ることなく、差別なく人に目を向け、広く学び、不断の努力をして前進せよと教えているのです。
 
 
 

39
 森田が実際に弟子たちに教えた言葉を掲げました。自分に盲従せずに、自分を越えていけ、と教えたのです。ここに父性愛の極致を見ることができます。
 改まって教えた言葉をここに引用しましたが、日常の卑近なやりとりの中で、いつも森田は治療者に盲従することの愚を戒めました。たとえば「わしが、『三遍回ってワンと言え』と言ったら君はそうするのか」と叱って、治療者に盲従せずに、自己判断をするように諭したそうです。
 
 
 

40
 森田は独自の療法を創りましたが、その技法の独自性をいたずらに誇ったのではありません。彼は治療者の人間性を重視しました。
 彼は「間接療法」が重要だと言いました。「間接療法」とは、どんな療法であれ、それを施す技法や技術より、それをおこなう治療者の人間性や人生観が間接的に隠し味として如何に重要であるかを強調したものです。まず第一に、森田の自身の療法において、治療者の自己研鑽を不可欠だとしているのです。そしてそれは、他の療法にも押し広げて言えることだとしているのです。後世において、そのような森田の治療観が忘れられがちになっているのは、残念なことです。
 
 
 

41
 事例など、追加的に述べたいことを少し補足します。
 
 
 

42_b
 事例の中身の記述部分は都合により削除しました。しかしタイトルから概要をわかって頂けるでしょう。わが息子をいとしく思う身体障害の高齢の母と、社会的生産性はないけれど、母の在宅介護をし続けた当事者の例です。二人での家庭内生活は幸せでした。これをマザコンというなかれ。親子のひきこもりというなかれ。二人三脚のどこが問題でしょう。幸せにはいろんな形があっていいのです。
 
 
 

43
 「苦痛を苦痛し 喜悦を喜悦す 之を苦楽超然といふ」
 この言葉からも、森田の基本的な思想と教えがわかります。神経質や神経症の症状を治す療法だなどとは言っていません。水戸黄門の主題歌と同じなのです。そこで、それをもう一度、「人生 楽ありゃ苦もあるさ」。
 
 
 

44
 最後に森田療法の本質を、短い言葉で記しました。森田療法にとらわれ、それを頑なに追求するほど、がんじがらめになって、森田療法本来の自由から遠ざかってしまうのです。ある禅の先生は、森田療法は禅と同じではないかと言ってくださったのでした。
 
 
 

                                   (後編 了)

 

 以上の講演では、先行する以下の発表が下敷きになっている。

 

1.禅の「十牛図」と森田療法における治癒過程の比較検討 森田正馬自身の生き方を基礎事例として. 第27回日本森田療法学会(一般口演),2009(同抄録:日本森田療法学会雑誌.21(1);73,2010).

 
2.A Comparison between “the Ten Ox-herding Pictures” of Zen and “the Cure” in Morita Therapy: Shoma Morita’s Life as the Basic Case. 第7回国際森田療法学会,メルボルン,2010年3月.

 
3.禅の「十牛図」と森田療法における治癒過程の比較検討 ─森田正馬自身の生き方を基礎事例として─ 京都森田療法研究所web掲載論文,2010.

 
4.禅の十牛図と森田療法 ─悟りとは?そして治癒とは?─ 第12回総合社会科学会(特別講演),2010年6月,東京.

PRESENTATION DU MONASTERE RYUMON JI, TEMPLE ZEN (禅寺 龍門寺の紹介)

2020/08/25



 

 


 

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 森田療法に関心を有しておられるフランス人精神分析家(ラカン派)のニル・エルブ Nyl ERB 女史から、メールが届きました。PSYCAUSE というフランス語圏の国際学会の開催を6年前に京都で引き受けたことがありましたが、女史はそのときの参加者のひとりで、以来継続的な交流をしています。2年前、高知で森田正馬没後80年記念祭が開催された折り、その3ヶ月前にフランス人仲間と来日して高知に行き、大阪にも立ち寄られて、会いました。
 親日家で、森田療法や森田が調査をした土佐の犬神憑きにも、文化人類学的に関心を示しておられます。
 しかし、こと森田療法というものは、日本の文化的背景や治療理論に通じ、かつその臨床的経験なくして、わかるものではありません。そのため模索を続けてこられました。今年はまた、別のフランス人と一緒に日本に来られる予定だったのですが、COVID-19 のパンデミックのために、来日できなくなりました。
 女史は、「自分はこれまで自己分析を続けてきたが、その結果として自己分析をやめるのがよいという結論に達した。そのため、自分はこの機会にフランス国内の禅寺に入って禅体験をすることにする。そしてその後で、改めて森田療法に体験的に接近をはかりたいと思う」とメールで伝えてこられたのです。私は、これに対して大いに賛同の意を表しました。
 女史が在住しているコルマールはアルザスの一都市ですが、同じアルザスのストラスブールの郊外に、曹洞宗の RYUMON JI(龍門寺)という僧院があります。弟子丸泰仙老師の弟子に当たる禅僧が責任者を務めておられます。
 
 ニル女史は、自分が修行を予定している、この RYUMON JI 龍門寺の視聴覚的な紹介のドキュメントを送ってくれましたので、以下にリンクをつけておきます。是非開いてご覧下さい。動画もついています。フランス語の不得手な方でも、視覚的にこの禅寺の修行の模様がわかります。
 「オンライン禅」までありますから驚きます。新型コロナの感染防止のために急遽「オンライン禅」を始めたのではないようです。フランスでは、かなり以前から、学会でもスカイプを駆使していました。フランスはそんなオンライン大国なのです。
 そのうちにフランスで、オンライン入院森田療法ができるかもしれません!!
 
 リンク(RYUMON JI 龍門寺の紹介)
 
 
 さらに、このホームページの中に、6年前にニル・エルブ女史ら、フランス人が京都での学会に来たときの記事や、2年前に大阪で会ったときの記事がありますので、以下にそれらへのリンクもつけておきます。
 
 リンク(2018年、大阪)
 
 リンク(2016年、京都)

下村湖人がつくった「煙仲間」について

2020/08/23



 
 
下村湖人がつくった「煙仲間」について

 
 比嘉千賀先生が「生活の発見会」50周年記念講演の中で、下村湖人が社会教育活動の中でつくった「煙仲間」についてお話しになりました。この「煙仲間」については、私(岡本)自身、下村らの社会教育活動の流れをたどって報告をして来た中で述べたものですので、この「煙仲間」とはどのようなものであったか、責任上少し説明を加えることにします。
 
 「煙仲間」の由来は、戦前に田澤義鋪がつくった「壮年団」という、青年団を卒業した二十代後半以上の人たちが共に活動する集団に発する。戦時下で、自由と社会的良心を守ろうとしたこの活動は官憲に抑圧され、翼賛会に乗っ取られたために、下村湖人が協力して名称を変えて、この壮年団運動を引き継ぎ、存続させたのだった。
 下村湖人は、佐賀藩の「葉隠」の中にある歌から「煙」という文字を取って、集団の名称を「煙仲間」とし、活動の中身が見えないようにしたのである。その中身とは、軍国主義に反対し、人間の自由を尊重し、良心を持って地域や社会に貢献しようとしたものだった。
 
 敗戦で一旦潰えた「煙仲間」を、下村らは戦後に再び復活させた。新たな「煙仲間」も社会の良心、人間の自由と尊厳を守ろうとする点で戦前と同じ趣旨を貫いていた。ただ、戦前においては、右翼や戦争に走ろうとする軍部へのレジスタンス的な地下活動の色彩が濃かったが、戦後は逆転して、自由放逸、エログロの退廃的風潮に対して、道徳や倫理の回復、教化をはかろうとするものであった。「煙仲間」の拠り所は、常に社会の良心、人間の自由で、社会の精神がブレたらそれを真ん中へと正そうとするものであった。戦後においては、戦前のような弾圧はなくなっていたので、地下組織である必要もなくなった。しかし、履き違えられた自由の奔流を正す活動は時流に敗れて、活動は消滅していったのだった。
 
 そこで、改めて「煙仲間」とは、集団として如何なるものであったのか―。
 社会学や社会心理学の概念として、「準拠集団」というものがあり、「煙仲間」はひとつの準拠集団に当たるというのが私の見方である。「準拠集団」は “Reference Group” で、個人が集団の特質、規範、価値観などに refer し、それを自分の拠り所として摂取し、共有する、そんな集団のことである。「準拠集団」は「所属集団」に相対する概念である。「所属集団」とは、個人がある集団の静的な成員であるという、固定的な概念であるが、それに対して、集団の特徴や機能と個人が有機的関係で結ばれるのが、「準拠集団」である。
 所属集団は準拠集団と別であったり、同じであったり、部分的に重なったりする。例えば、大学や学校の学生、生徒は基本的に大学・学校という所属集団の一員である。校内の部活をしていれば、所属集団内のサブ集団が準拠集団である。学校外の暴走族に憧れ、そこに入っていたら、それが準拠集団である。
 
 煙仲間の場合、壮年団ないし青年団と煙仲間は、ふたつがほぼ重なっていて、所属集団と準拠集団がほとんど同じであった。
 「生活の発見会」の場合は、近年神経症の自助グループを標榜し、社会的にもそのように認知され、かつその成果を挙げ続けている集団なので、固定的な所属集団ではなく、準拠集団であるとみなすのが妥当である。ただ、自主的判断能力を欠く人が、神経症なら入会する会と考え、漫然と会員であり続けておられたら、当人にとって形だけの所属集団でしかなくなる。その辺のことは私にはわからないので、実態を云々し、生活の発見会の機能や活動についてものを言う資格は私にはない。言えることは、自助グループであれば、それはすなわち準拠集団にほかならず、準拠集団であれば、集団の質や機能や活性が、集団対会員の相互関係において、重要であり問題になるということである。一言で言えば、集団力が問われるということになろう。個人が自己向上を求めて、自分に合う準拠集団を求めているとする。そのニーズに合う集団の条件はどのようなものであろうか。準拠集団は複数あるかもしれないが、安易な意味においてではなく、自分を生かし、他者を生かし、自分たちも集団も互いに向上成長しあっていく、自由と活力のあるそのような準拠集団であることが、集団として基本的に求められる。その上に集団の特殊性が上乗せされる。そのような準拠集団が、クオリテイの高い魅力ある集団として、社会的に機能することができるであろうし、選ばれて然るべきであろう。
 
 医療としての森田療法と、生活の発見会は同じものではないでしょう。従って、生活の発見会は療法の会ではなく、生活の面において人間的に成長していこうという、つまり下村が言った「社会の良心」を共有して、社会に寄与する志を実際に生かそうとするのが、特徴であるはずではなかろうか。
 
 久田邦昭氏(教育学者)は、著書『教える思想』の中で、集団論の見地から、煙仲間は「メタ組織」だと言っている。これは、煙仲間という集団が一般社会に寄与するときの力動についての説明である。いざというときには、各人の所属集団の規範とは関係なく、発生した当面の問題の解決のために急遽、あたかも「自己組織化」して、組織を組み協力して活動し、目的を果たしたら平時に戻る。平時においては、趣味の会であれ、ボランティア仲間であれ、ゆるいつながりを持っている。それぞれが同じ所属集団にいるとは限らない。このような煙仲間は、未だ組織になっていないものだし、下村の言う社会の良心(純な心) だけは共有するが、ボーダーレスなゆるい集団と見て、私は「メタ集団」とみなしているが、「メタ組織」と呼ばれても、大きくは異ならない。
 思想、理想、感性などが関わるので、その点も難しいが、煙仲間の場合、歴史的には、社会の良心(純な心に相当するであろう)、友愛、自由、向上心、成長欲求、などを本質に置く必要があった。
 
 今日、コロナが広がっている社会で「自粛警察」が現れたが、これなどは異常な準拠集団ではなかろうか。

生活の発見会50周年記念講演(比嘉千賀先生)

2020/08/05



 

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 8月に予定されていた「生活の発見会」総会の開催が中止になりましたが、比嘉千賀先生による記念講演だけは、オンラインで配信されています。
 
 私(岡本)は以前に短期間、「生活の発見会」の協力医をさせて頂いた程度のご縁しかなかったのですが、「生活の発見会」の歴史に関心を持ち、それを拙著(「忘れられた森田療法」)に書きました。
 発見会のルーツは2つあって、ひとつは水谷啓二先生の「啓心会」の活動でしたが、もうひとつ、下村湖人らの社会教育の活動の流れもあって、これらの2つが合流して大河のようになったのが、最初に誕生した「生活の発見会」だったのです。
 社会教育の流れとは、森田正馬に10年ほど遅れて、熊本五高を卒業した、田澤義鋪、下村湖人、永杉喜輔の3人が戦前より順次関わり続けた、社会の中の教育運動でした。下村や永杉は、その活動を戦後に復活させました。永杉と水谷啓二は熊本五高での同級生でしたが、そんな折りにふたりは再会して、下村、永杉、水谷は意気投合します。こうして、社会教育と森田療法が合流して、「生活の発見会」になったのでした。
 森田正馬を筆頭に、田澤、下村、永杉、水谷の5人の人たちは、皆が旧制五高の出身者だったのです。
 
 3年前の2017年、日本森田療法学会が、熊本大学で、会長をなさった藤瀬昇教授の下で開催されました。そのとき、熊本五高出身者たちによる社会教育と森田療法の合流について、比嘉先生と岡本によるパネルディスカッションが組まれました。
 
 このたびの、生活の発見会50周年記念講演で、比嘉先生は3年前の学会でのパネルディスカッションの内容を再現する意図でお話しくださったのです。
 
 比嘉先生のオンラインでの講演は、「生活の発見会」のホームページから視聴できますが、以下にリンクをつけておきます。
 


リンク(生活の発見会ホームページへ)
 
リンク(YouTubeへ)

 
 
 さらに、熊本での学会の翌年の2018年に、熊本大学の藤瀬教授を中心に、『森田療法と熊本五高』と題する単行本を出しました。そこには、私たちがパネルディスカッション後に新たに書いた原稿が含まれています。比嘉先生のオンライン講演の視聴とともに、併せて読んでいただければ、幸いです。
 なお、この本の入手について、「お知らせ」に書いておきます。
 
 

コロナ危機の時代の森田療法(下) ―問われる森田療法の真贋―

2020/07/13



 

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コロナ危機の時代の森田療法(下)
―問われる森田療法の真贋―


 
1. オルテガ、西部邁の哲学と五木寛之氏 ―“Together and Alone”から“Alone and Together”へ―
 
 アフター・コロナ、あるいはウイズ・コロナの時代の人間の生き方について、五木寛之氏が言っておられることがある。それは、オルテガという20世紀のスペインの哲学者の思想を受けて、わが国の哲学者、西部邁氏(1939-2018)が書いていたことに関連する。
 
 ホセ・オルテガ・イ・ガセットは、著作『大衆の反逆』で、大衆による民主主義が暴走する状況を危惧し、それに対して、他者と対話し共存しようとする忍耐や寛容さを有する人の存在を、精神の貴族として重んじたのであった。わが国で西部邁は『大衆への反逆』を著しており、オルテガの思想に共鳴した哲学者として知られていた。西部はみずから精神の貴族の立場にいた人であった。ところが晩年において、その孤高の精神は救いがたい孤独となり、2018年に自裁(自死)を遂げた。それも多摩川べりを場所として選び、そこでふたりの弟子に自殺幇助をさせたという、いわくつきの自裁であった。西部はその前年に、自分の死の予告と決意の原稿を雑誌「正論」に寄せており、一年後に実行された彼の死を受けて、同誌の追悼特集に先の原稿(注1)が再掲載されたのである。
 
 五木寛之氏はこの遺稿を読み、西部がオルテガを引用しながら書いていたくだりに注目したと、いくつかの場で言及しておられる。そこで西部のこの遺稿を入手して読んでみたが、全体において既に自虐的な異様な文章である。自分は生涯を通じて、他者との団結を求めてエッセイを書き続けてきたにもかかわらず、何ぴととも団結できなかった自分を揶揄することができる、というような論調の文章なのである。その西部の遺稿中で、五木氏が注目したという箇所のみを、以下に抜粋引用しておく。
 
「(オルテガいうところの)「トゥゲザー・アンド・アローン」つまり「一緒に一人で」いるしかないのである。言い換えれば、「社交にのめり込みつつも内心ではつねにぽつねんとしている」ということだ。」
 
 このような文には、もはや精神貴族(ノブレス・オブリージュ)の誇りはなく、そこにあるのは、誇りの残渣と高齢のうつ病者の自嘲である。しかし、五木氏はこの文を読んで、「これだ」と思ったという。
 西部は、オルテガいうところの「トゥゲザー・アンド・アローン」と書いている。オルテガはそのような表記をして、しかも「一緒に一人で」、「内心ではつねにぽつねんと」というような意味を込めていたのだろうか。厳密に点検することが望ましい。オルテガの著作はスペイン語であるから、英訳書に“ Together and Alone ”という謳い文句的な表記があるかどうか、少し探したが、これは不明のままである。したがって、そのフレーズの有無や意味について、傍証を得られないが、死を予定しながら西部がオルテガを引用している文章を、そのまま受けとめておく。
 そして、五木氏の読み方を推測してみる。五木氏は、オルテガの系譜から西部を一旦切り取って、群集の中にいながら孤独に生きる者が体験する苦悩を西部に見た。そしてそこから折り返して、孤独者のままで大衆の一員になりきれば、一緒に生きる道が開ける可能性に着目したのではないか。五木氏は、「これだ」と思ったのである。そして、“ Together and Alone ”(「一緒にひとりで」)から “ Alone and Together ” (「ひとりで一緒に」)へという逆方向の道を示したのである。うつ病にとらわれた西部は力尽きて、死後に五木氏にヒントを提供したのであった。本当は、大衆の中で、ひとりぽつねんと生きるのではない、孤独を秘めながら大衆と生きるのであると。
 
 アフター・コロナ、あるいはウイズ・コロナの時代においても、生き方が根底から変わるものではない。人間は、これまで不自由なく一緒に生活できた“ Together ”の日常から、コロナとの遭遇により、半拘束的生活の中で、自由な対人交流が制限され、また別離をも強いられる非日常的な“ Alone ”を体験している。しかしそのような不条理を受容しながら、協力し合って“ Together ”のステージへと再び進むのである。
 同じ趣意をオルテガの思想に繋いで言い換えれば、改めて次のように表現できるだろうか。
 コロナ禍のもとで社会は混乱し、人間関係は不安定になり、協力関係を結ぶことも容易ではない状況が続いている。こんなとき、大衆と共にいて集団の和(“ Together ”)を形成し、同時にその中にいて同調的にならない孤独(“ Alone ”)の精神貴族が水先案内人として存在することが必要である。
 
 オルテガ、そして孤独に逝った西部も然り。大衆の中にいて、「和して同ぜず」。五木氏はそんな思想や生き方を再評価し、そこにコロナの時代の生き方への示唆を見た。
 それは、森田療法、あるいは「生活の発見会」の活動のあり方にも通じるように思われるので、ここに紹介した。
 
注1:
 西部邁 : 西部邁が本誌に全て書いていた「死」の予告と決意. 正論 通巻557号 : 138-153. 2018年4月.
(初出 平成29年1月号)
 


西部 邁



 

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2. 「生活の発見会」の「煙仲間」的機能への期待
 
「生活の発見会」は二度誕生した。
 まず、その最初の誕生に至るまでの経緯を簡単に振り返ることにする。それは、熊本の旧制五高出身者たちによって進められた、森田療法と、社会教育というふたつの潮流が、戦後に合流し、ひとつの大河になった歴史的なドラマであった。さらにその過程で、社会教育から「生活の発見会」の中へと流入した「煙仲間」の機能について見直したい。コロナ危機の時代の今、「生活の発見会」の中に秘められていた「煙仲間」の静かな活動の復活が期待される。
 
 森田正馬は熊本の旧制五高を卒業した。それから10年ばかり遅れて同じ五高から、社会教育の分野で重要な田澤義鋪、下村湖人、そして永杉喜輔の3人の人物が輩出して、社会教育の道を切り拓いていった。加えて、水谷啓二も五高出身で、永杉と同級で、当時水谷は神経症に悩んでいたが、やがて森田正馬の指導を受け、森田療法の継承者となり、後に「森田生活道の伝道者」と呼ばれるまでになった。
 
 昭和23年に、水谷は、戦後に社会教育活動の復活をはかろうとしている下村湖人とその弟子で旧友の永杉喜輔に巡り合った。そして水谷は人間下村の魅力に惹かれていく。森田正馬に薫陶を受け、森田療法は人間の再教育であることを熟知していた水谷にとって、みずからの「森田生活道」は、下村の社会教育と既に一体のものであった。戦前に始まった下村らの社会教育運動は、雑誌「新風土」を準機関誌としつつ、全国の青年団OB(壮年者)を主な仲間としていた。集団は、右翼や軍部の弾圧を避けるために、その実体が見えない洒脱な名称として、「葉隠」の中の歌に出てくる「煙」を取って、下村が「煙仲間」と名付けたものである。下村は戦後にも、この「煙仲間」を復活させていた。水谷は、当時居住していた横浜でみずから「戸塚懇話会」と称する煙仲間を立ち上げ、親しく下村に師事した。肝胆相照らして、下村や永杉もまた、森田療法に関心を寄せた。
 
 雑誌「新風土」は終戦前に廃刊となっていたが、下村や永杉の努力で、戦後に再度の創刊を果たした。しかしエログロの時代から、もはや取り残されて、数年で再び廃刊の憂き目をみた。下村は、ベストセラーの自著『次郎物語』の読者らを各地に訪ねて、「煙仲間」の活性化を図ろうとしたが、精力を必要とするその行動は困難を伴った。
 下村は、古稀の誕生日に歌を詠んだ。「大いなる道といふもの世にありと 思ふこころはいまだも消えず」。「煙仲間」運動を世に浸透させたいという願いは、やむところがなかったのである。だが、既に下村の体は病魔に侵されていて、昭和30年に彼は無念の生涯を閉じた。
 
 下村が逝って、翌昭和31年、水谷は「啓心会」を立ち上げて集会の開催を始め、その翌年の昭和32年には、雑誌を発刊した。この雑誌の誌名は、協力者の永杉喜輔(当時、群馬大学教授)の発案で「生活の発見」となったのである。その命名の由来は、拙著(注2)でも紹介したので略す。重要なのは、この雑誌の発刊の趣旨であり、水谷は「生活の発見」の創刊に当たって、趣意書を関係各方面に書き送った。その一部を抜粋する。
 
 「…私どもは精神医学あるいは心理学の面では森田正馬先生の教えを継ぎ、教育、教養および社会生活面では下村湖人先生の教えを継ぎ、下村先生の主宰された雑誌『新風土』の伝統を守りたいと思います。」つまり水谷は、森田療法と社会教育の両者をひとつの視野に入れて、生活の上に具現し、社会に広めていきたいという思いを、雑誌の創刊に託して表明したのである。
 永杉も、「生活の発見」創刊号の編集後記に同様のことを書いている。「水谷氏を中心とした「啓心会」と湖人先生を記念する「新風土会」の同人が協力してこの雑誌を出すことになった」と。
さらに永杉は、創刊100号記念特集号(昭和43年12月号)に雑誌の発展を願う言葉を書いている。その一部を抜粋する。「読者諸兄姉よ、どうか本雑誌を広めて下さい。…物心ともに不潔極わまる日本に一灯を掲げ、一隅を照らすもの、それが「生活の発見」である。」
こうして水谷は、独自の「生活の発見」誌を、100号を超えるまで刊行し続けた。雑誌の発行者は、創刊号以来、奥付に「水谷啓二方「生活の発見会」」となっていた。
 
 だが水谷は、森田療法と社会教育のさらなる発展をはかろうとする夢を残して、昭和45年に急逝した。
それを受けて、水谷の「生活の発見会」と「生活の発見」誌は、長谷川洋三氏に継承されて、再度の誕生となった。長谷川氏は、「生活の発見会」を運営するに当たり、当初は教育の路線を取ろうとしたが、やがて全国的な「自助グループ」へと変化して現在に至っている。
 
 さて改めて、「煙仲間」とは。それは先に概略を記したが、下村湖人がその活動にとくに力を入れた、拘束性のない自由で創造的な集団である。一見煙のようにはかなく、しかし脈々と流れる地下水のごとく、見えないところで社会の良心を共有しあっている。下村はよく「白鳥蘆花に入る」と説いたが、これは煙仲間の精神に通じる教えであった。禅語(『碧巌録』)の「白馬蘆花に入る」に拠っており、白馬が蘆花に入ると見分けはつかないが、存在しているという意であった。「白馬」を「白鳥」に変えて、より情趣ある句にしたのである。
 さて、ひとたび事が有れば、既存の団体や職場を超えて、匿名の地下組織となり、縁の下の力持ちとしての推進力を発揮して社会に寄与する。そのような集団的活動を効率的に進めるためには、集団外に指導者がいるのもよいが、集団内で主となる動きをする「主動者」が存在することが望ましいと下村は言う。オルテガが『大衆の反逆』で、さらに西部邁が『大衆への反逆』で述べている思想に通じるものがあるように思われる。下村は「葉隠」の精神貴族(ノブレス・オブリージュ)なのであった。
 
 下村から水谷が受け継いだ「煙仲間」は、水谷没後にどうなったのか。永杉はひとり、静岡で起こった「新生煙仲間」と行動を共にした。長谷川洋三氏以降の「生活の発見会」に、「煙仲間」はどのように伝わったのだろうか。森田が言った「法悦から犠牲心が発露する」という教えによって、後進のために力を尽くし、助力者原理に従って共に成長するということは、限りなく尊い。ただ一抹の懸念は、もし症状を治すことが第一義になれば、自由な前進が阻まれるということである。
 自助グループと煙仲間は、その点で根本的に性質を異にする。煙仲間は、症状を治すこととは一切関係なく、多少修養的なモティベーションをもった、気楽な友の会である。コロナの時代に、こんな自由な会が各所に伏在してほしいと心から願う。
 
注2:
岡本重慶『忘れられた森田療法』創元社.2015
参考文献:
藤瀬昇・比嘉千賀・岡本重慶 共編『森田療法と熊本五高』熊日出版,2018
 



 

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3. おわりに―森田療法100年、コロナ元年―
 
 森田療法が成立して100年、わが国のこの貴重な精神療法を守るために、先人たちによる誠実な努力、尽力が重ねられてきた。それに対して敬意を表することを忘れてはならないと思う。だからそれを軽率に踏みにじるような言辞を弄してはなるまい。
 ただし、この100年の間に、医療の事情や神経質者の特徴は変貌し、森田療法はかくも変化した現実にどのように対応すべきか、苦渋と苦難の道を歩んできた。やむを得ない迷走を続けてきたと言えるだろう。そこには澱のようなものも溜まっているかもしれない。
 思いがけないコロナの危機によって、それは白日の下に晒されるのだろうか? そして療法の真贋が問われるのであろうか?
 それは私のような不見識なものが判定できることでは到底ない。コロナ危機に遭遇して、見えてくるものがあるのであろうか。それとも、コロナ禍によって覆われてしまうものもあるのだろうか。いずれにしても冷静に判定を見守る時がきたように思う。

コロナ危機の時代の森田療法(中)―森田療法は不要不急か?―

2020/06/28




 

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コロナ危機の時代の森田療法(中)
―森田療法は不要不急か?―


 
1. 森田療法に空白なし
 
 2020年春、新型コロナウイルスの感染拡大により、三密の回避、不要不急の外出の自粛が要請された。神経症で受診を望んでいた患者さんらは、その間どうしていたのであろう。受診は不要不急に当たらないと考えて、通院を継続していたのであろうか。病院などにいけば、コロナウイルスに感染するリスクがある。そのため、一般に医療機関の外来受診者数は減ったと報道された。神経症を扱う診療部門ではどうなのか。
 
 神経質や神経症は、症状にとらわれ、さらにそれを治すことにとらわれる病態である。つまり、「治したがり病」である。だからその「治したがり病」を治すことが大事であるにもかかわらず、昨今は森田療法を含めて、治療者も症状を治すことに同調している。緊急事態宣言が発令され、三密回避や外出自粛を強化する要請が出たことは、神経症者が通院をやめて、「治したがり病」を共有している治療者患者関係を断ち切る絶好の機会の到来を意味した。これを機に治療へのとらわれから脱却できた人たちは、どれほどおられるであろうか。気になるところである。
 
 森田は曰わく、「休息は仕事の中止にあらず 仕事の転換にあり」と(注1)。 森田は状況に応じて仕事の切り換えをするところに休息があるのであって、中断の空白を要さないと言っているのである。コロナ禍で外出の自粛が要請され、場が在宅に移行しても、対応できる数々の課題があるはずである。
 
 元高良興生院院長の阿部亨先生は、森田療法ビデオ(注2)の中で、「森田療法は人生の空白を作らない」ものだと力説しておられる。今日、想定外のコロナ危機のもと、医療、経済その他、あらゆるところで社会が揺さぶられている。森田療法はこのような事態とは無関係だと決め込んで、森田療法に不意にバカンス期が訪れたかのような錯覚を起こしているような方々は、まさかおられないだろうけれど。また学会やセミナーが開催され難くなったことが一大事だと嘆くならば、そこでも勘どころを外している。学会やセミナーも重要だが、本当の森田療法は生活の中にある。すべての現実や事実が真実である。コロナウイルスの影響を受けているわれわれの生活が、例外であるはずはない。
 地球規模の危機のときに、行動が制約される条件下であろうとも、それぞれの人間が身辺から出発して、可能な方法で人とつながり、工夫し合えば、なすべきこと、できることを見つけ得るであろう。
 森田療法は人生に空白を作らずに、密に生きる療法である。従って森田療法に不要不急という空白はあり得ない。
 
 注1:
 森田の言葉、「休息は仕事の中止にあらず 仕事の転換にあり」は、ヒルティの『幸福論』(第一部)に拠っている可能性がある。ヒルティは、本当の休息は活動のさなかで、働く喜びを感じるところにある、と言っている。森田においては、若干意味が変化しているが、この拙論では、休息についての森田の言葉の意味に忠実に従っている。
 注2:
 阿部亨『悩める人への生きるヒント』(野中剛監督)、森田療法ビデオ全集 第4巻、(有)ランドスケープ発売、2016
 


阿部亨『悩める人への生きるヒント』(DVD)のジャケット



 
2. 車間距離と人間(じんかん)距離
 
 阿部亨先生は、同じく先のDVD『悩める人への生きるヒント』の中で、対人恐怖について述べ、人間関係には程よい距離が必要であることを指摘しておられる。若者は、人と距離のない関係が良い関係だと思い込み、その結果傷つけ合う体験をして対人恐怖になるが、ある程度の距離を保っている間柄が、社会的に健全な人間関係なのであると。ここで阿部先生は、中野翠という人が人間関係について書いていたことを紹介なさっている。中野翠という人はエッセイスト・コラムニストの女性であるが、「車に車間距離が必要であるように、人間同士にも車間距離のようなものが必要である」ということを書いているのだそうである。
 中野翠さんは、長年「サンデー毎日」のコラムなどに機知に富む文章を書き続けてきた人である。件の文章の探索を試みたが、著書が多数あって、見つけることができなかった。ともかく、この人は、ご自身が、人間車間距離を意識して生きておられるのであろう。ペンネームの翠は、尾崎翠にあやかっているそうである。第七官界を彷徨なさっているのであろうか、本名やプライバシーを隠し、テレビ出演の依頼も一切断ってこられた。落語を愛するオタク系で、対人関係の機微に面白さを見ておられるのだろう。だから人間への興味が文章になる。この人は対人恐怖を楽しんで生きている、その完成型の人のようである。
 人間において必要な「車間距離」とはよく言ったものであるが、これを「人間(じんかん)距離」と言い換えてもよいのではなかろうか。「人間」を「じんかん」と読むとき、それは世間、世の中を指す。東洋的な意味での社会である。市民の共同体である Society として社会を理解する以上に、「人間(じんかん)」として理解する社会は、物理的かつ心理的に距離ある人間同士のネットワークによって、それが成り立っていることがわかる。
 
 ウイルス感染を避けるために、互いに2メートル程度の物理的な Social Distance を取るように要請されている。けれども、心理的な Social Distance というものもあるので、両者の関係はどうなのか。心理的には、知らない者同士が会話をする、いわゆる社会的距離はざっと2メートル前後とみなされている。物理的であれ、心理的であれ、社会的距離とされるものはいずれも2メートル程度で、ほぼ一致しているのである。さらに心理的には、個体の周囲の1メートル強より以内の同心円は、パーソナル・スペースと言われる個体の心理的安全圏になっている。人が1メートル強よりも近づくと、パーソナル・スペースが侵され、不快感が惹起され、親しい者以外はそのスペースに立ち入れない。つまり、本来人間は心理的に一定の段階の距離を置き合って生活しているのであって、その距離の中に、飛沫感染に対する防御域も含まれているのである。
 
 コロナウイルスの感染を防ぐために殊更に言われた Social Distance は、都市生活における人間の異常な過密に対して発する必要のあるアラートであった。しかし、人間過密の都市環境を抜本的に変えることは困難である。あるいは、中野翠女史に学び、さらには対人恐怖の人たちに学ぶところが残されているのかも知れない。
 
 対人恐怖と言えば、さらにその中に、通常の対人恐怖よりも、人と接近するのが一層苦手で、ふれあい恐怖と言われる一群がある。症状としては、会食恐怖や雑談恐怖などがあり、歓談しながら人に接近せねばならないという、和やかさが求められる状況が苦手な心理である。ひきこもり系に近いところがあるが、この心理は広く社会人一般にも見ることもできる。何かにつけ頻繁に飲み食いの集いをする日本人特有の宴会文化があり、これに適応する「お付き合い」を苦痛とする人たちがいる。ふれあい恐怖の周辺に広く位置づけられる心理である。社交性という柔軟さを欠くので、健全だとは言えないものの、Social Distance の観点からは、このようなふれあい恐怖系の方が正統派である。むしろ宴会依存症的な文化の方が問題である。ともかく神経症的な症状をすべて異常と決めつけず、秘められている意味を見直して、無理な矯正に走らず、折り合いをつけることが必要である。
 



 
3. 人間の新たな課題 ― ゴリラより、神経質に学ぶ ―
 
 新型コロナウイルスが猖獗を極めつつある地球上のパンデミックの現象に対して、社会的文化的な立場から、多くの識者たちがコメントを発している。そのうち、去る5月にNHK・BS1で放送された番組「コロナ新時代への提言~変貌する人間・社会・倫理~」が、とくに注目された。
 しかし、机上の学問を専門とする識者の提言というものは、えてして解説にとどまる。イタリアでコロナの死亡者が相継ぐ中で、遺体となってしまう死者への敬意が失われていると指摘したその国の哲学者が、疫学的認識を欠いていたというエピソードが哲学者から紹介されたが、むなしく聴いた。日本人は、志村けんが亡くなったとき、臨終に立ち会えず、遺体にも対面できなかったご遺族が、火葬後にはじめて受け取った遺骨を抱いておられる姿を見た。それですべてが伝わってきた。
 人類学の立場からの山極寿一氏の発言を、期待して聴いた。山極氏の話は、前半では主に今日の危機状況が語られ、後半では人間社会の課題が示された。まず、山極氏の前半の話を、なるべく原文に忠実に、若干短縮して以下に紹介する。
 
 「文明が始まる前から、人類という種は信頼できる仲間を増やすように進化してきた。文明の発達とともに人々は移動し、人と人の関係を作っていった。そのために人が集まること、移動するということが条件となる。そこで国が作られ、国と国が連携し、今、グローバルな社会が地球上に実現した。ところが、今それが崩されようとしている。新型コロナウイルスの出現によって、われわれは接触を禁じられ、移動を禁じられた。そのため、社会の作り方が根底から覆されてしまった。人が接触せず、移動せずに、このグローバルな社会をどのように運営するのか。それがわれわれに突きつけられた課題である。」
 
 この前半部は、人間がグローバル化した社会を作ったという歴史の解説が主であった。一拍置いて、後半の発言を、多少要約しながら紹介する。
 
 「ゴリラは、日々顔の見える距離で、体を合わせて互いが同調し合い、仲間であることを確認して、少人数でまとまっている。一方、人間は進化の過程で『離れ合う』ことを社会のひとつの条件として認めた。(人間は言葉を手に入れたために『離れ合う』ことが可能になったが)、言葉だけに依存してきたわけではない。言葉は進化の過程では、後で出てきたものであり、信頼を担保できるコミュニケーション手段ではない。むしろ、身体と身体が共鳴し合う中で、信頼が形成されてきた。ところが今、生身の肉体を通じた共鳴によるコミュニケーションが失われようとしている。言葉だけで繋がる世界に放り出されたとき、人間はどうなるのか。」
 
 このように山極氏は問題を提起し、引き続き「人間は言葉の前に音楽を発明した。音楽は人と人との間を共鳴させる良い装置。」などとおっしゃった。そしてテレビ画面の半分には、楽器を抱えたミュージシャンの姿が映った。このような編集のパッチワークには、「間(ま)」というものがなくて、「間(ま)」が抜けている。ミュージシャンは、安倍総理のTwitterにコラボで出された青年であった。
 
 音楽もいいけれど、生活し辛くなった日常生活に誰しも戻るほかない。最近、厚生労働省が「新しい生活様式」の実践例という資料を出した。行動の仕方が事細かに記されているが、これは神経質な人のそれとまるで同じである。病原性のウイルスはいつどこにでもいる。どのような生活様式がよいか、神経質者はほとんど無意識に知っている。みんなが神経質者の行動に学べばよいのである。ただし神経質者は、ときどき神経症のおかしな症状を出す。日本中でみんなが Social Distance に強迫的にこだわり症状を示しているのと同じである。お互いに症状は笑いぐさにしよう。そして、神経質者の持ち前の生き方に学ぼう。神経質を生きることは堅実であり、創造的である。『神経質礼賛』という著書を出し、「神経質礼賛」というブログを連載し続けておられる精神科医師がおられる(注3、注4)。大いに学ぶべし。
 コロナウイルスは怖い。怖いままに気を配って行動するのである。
 
 「随処に主と作(な)れば、立処皆真なり」(臨済義玄)。
 
 
 注3:
 南条幸弘 著 『神経質礼賛』白揚社、2011
 注4:
 ブログ「神経質礼賛」(南条幸弘先生)

(下)に続く     

コロナ危機の時代の森田療法(上)―コロナ元年、私たちの受難―

2020/06/14


COVID-19 Novel Coronavirus virus infection spreading from Wuhan city, China. Asian woman wearing virus surgical face mask with text title. Chinese people walking to work at train station or airport.

 
 
 
 
 
 

コロナ危機の時代の森田療法(上)
―コロナ元年、私たちの受難―


1. コロナ元年
 
 令和の2年目はコロナ元年になった。新型コロナというしたたかなウィルスが登場して、人間がこれと共存して生きねばならないという、未曽有の試練と遭遇した、恐るべき元年となった。
 森田療法は、神経質の治療を端緒に始まった精神療法だが、単なる精神療法ではない。森田は「事実唯真」と言い、「自然に服従し、境遇に従順なれ」と言った。現実世界の、事実としての出来事、現象のすべてが、真実に他ならない。どんな不条理なことも、すべてが真実である。それが自然のことわりなのである。花鳥風月ならぬ、厳然たる自然の事態に服従して、その境遇に従順に生き抜け、と森田は教えてくれた。それは単なる神経質や神経症の症状の治し方をはるかに超えた、生きるということの教えである。
 人生は苦である。仏教では「生老病死」の四苦と言う。生を受けて生きれば、老いがあり、病に罹り、やがて死ぬことを避けられない。そしてその過程では、愛する人との別離や、欲しいものを求めても得られない苦しみなどを体験する。合わせて「四苦八苦」である。
 釈尊も親鸞も白隠も強迫観念に悩んだ神経質者だったと、森田は言っている。強迫観念に正確に当てはまるかどうかは、まあわからないが、実存的な深い悩みだ。ともかく、森田が教えてくれたこと―。それは、悩みを生きた先人たちが仏教の貴重な叡智を生みだした。そして、神経質者に限らず、苦や煩悩を有する私たち万人がそれに学びうるということなのであった。
 
 今、コロナ元年、間違いなく新たな苦難が始まった。予想だにしなかったような悪夢が現実の危機として、今ここにある。森田療法はこの状況にどう対応するのか。いや、そのような対岸の火事を見るような問いを立てること自体、おめでたいことかもしれない。第一線の医療に携わる方々の献身的な努力をはじめとして、さまざまな分野で多くの人たちが、森田療法を論じるまでもなく、コロナに対処する直接間接の必要事に取り組んでくださっている。そこに生きた森田療法がある。必要上とは言え、森田療法に研究的に関わっている私たちには、かなり後ろめたい話なのである。
 


 



 
2. コロナ狂騒曲
 
 1月下旬に横浜を出航したクルーズ船が、2月初めにウィルスとその感染者らを乗せて帰還し、横浜港に停泊した。あたかも黒船を迎えたごとく、この国の関係者は周章狼狽した。しかし、集団としての国民の心理は、危機に対して遅れて反応する。人びとの大半はテレビの画面にライブで映る大型船の姿をお茶の間劇場で他人ごとのように見入っていた。
 その後のことは言うまでもない。危機に対して遅れて反応する分だけ、冷静さが失われる。パニック反応が始まった。不安、恐怖、反動としての無関心や否認、感染者に対する無思慮な差別や非難。外出の自粛が要請され、自宅での巣ごもり中には、DVやアルコール依存症が問題になった。それは経済生活を襲った危機と無関係ではない。
 行政は市民のためである以前に保身的である。私は京都に近いA市に在住し、市役所の近くに居住している。4月某日に私は必要があって市役所に出向いたが、何かただならぬ雰囲気を感じた。その翌日、NHK総合で、A市市役所でクラスターが発生、というニュースが伝えられたので驚いた。市の役所は市民が利用する所である。クラスターが発生したら、まずそれを市民に伝える必要があろう。内部の感染者数が、クラスターと呼ばれるに足る一定人数に達しても、明らかな報道はNHKの全国放送が先を越した。集団感染はそれ以前から始まっていたことになる。そしてクラスターが報道されて10日ほど経ってから、A市市役所は庁舎を全面閉鎖した。すべてが後手の対応だった。A市を含むこの県の県民性もある程度、背景にあるかもしれない。感染者の人権が守られねばならないのは当然である。個人情報を開示したら、差別対象となり、本人や家族は生きづらくなる。そのためかあらぬか、行政内のクラスター発生の情報提供にも、行政は謙譲の美徳を発揮した。役所の近所に住む者には、灯台もと暗しだった。
 
 私はフランス人の知人(精神分析家)と親しくメール交換をしている。なので、フランスの情報の方が届いてくる。既に2月の時点で聞いたことだが、私たちの共通の知人(精神科医師)の勤務するフランスの精神科病院で集団感染が起こり、入院患者と職員ら、数十人が感染し、精神科医師1人が死亡したとのことであった。精神科病棟はまさに三密の環境であり、患者さんたちはしばしば自己管理能力に欠ける。はたして、その後わが国のいくつかの精神科病院でもクラスターが発生した。精神科の入院治療の場では、感染症に対する万全の予防対策を常に講じていることは容易ではない。その上クラスター発生後の対処には大きな困難が待ち受けている。それは、福祉施設の現場における問題に、ある程度通じるところがあるようだ。いずれにしても、一層の備えが必要であろう。
 



 
3. エッセンシャル・ワーカーの人たちに花束を
 
 全国の医療従事者たちは過酷な状況に置かれている。この人たちに対して国民は感謝のブルー・インパルスを贈りながら、同時にウィルス運搬者としてその人たちを忌避している。ずいぶん勝手なことだと思うが、人間はそんなものらしい。6月10日時点での、全国の医療機関における集団感染は102件、医師、看護師の感染は550人以上になるということを厚生労働相が述べた(6月11日、共同)。全国の累計感染者数に照らすと、医師、看護師の感染者はその約3%を占める勘定である。コロナの診療の第一線で働く医療従事者数を分母にするならば、感染確率は一段と高い数字になる筈である。感染リスクの極めて高いそんな現場で働いてくださっているのだ。
 
 森田正馬は、職業というものについて、色紙に次のような教えの言葉を揮毫している。 「職業によりて人の品性の定まるに非ず 従事する人の品性によって其職業は尊卑を生ず」。森田の教えはこのようである。その意味するところはおよそ理解できるが、よく考えると疑問も起こる。ひとつの理解として、なまじ地位が高そうな職業についても、それにあぐらをかいて、自分の品性を磨かなければ、その職業まで怪しくなるという警句である、と受け取ると分かりやすい。
 
 むしろ逆に、職業自体に尊卑というものがあるように、私は日頃から思っている。誤解を避けるために説明をせねばならない。車に乗らないので、電車で移動する私は、駅の公衆トイレに立ち寄ると、そこで黙々と清掃をなさっているおばさんたちの姿を見かける。私はこの人たちに敬意の念を抱いている。汚く、きつい仕事のひとつである。汚いものは汚い。でもそのような清掃を誰かがしてくれるから、社会生活が無事に動いている。以前に、「羽田空港が世界一清潔な空港である理由」として、ベテラン清掃員のNさんのことが、テレビなどで取り上げられた。Nさんは若いときの苦労を経て、清掃のアルバイトに出会い、最初は「生きるため」に働いていたが、やがて清掃の仕事にやりがいと楽しさを見いだしたという。そうは言っても、駅の公衆トイレの清掃員の皆の方々が、楽しくてしておられるであろうか。汚いけれど、きっと嫌々、必要なことをなさっているのだろう。それが尊いのである。
 
 便所掃除は分かりやすい例だが、人間社会が維持されるために、それを根底で支える不可欠な職業がいくつもある。コロナ禍のもとで、そのような職業がクローズアップされた。 農業、食品、交通、流通、電力、清掃などなど、そしてもちろん医療もだが、それらがその不可欠な職業に相当する。このような職業内容の仕事の従事者は、エッセンシャル・ワーカーと呼ばれている。
 エッセンシャル・ワーカーの仕事は、しばしばきつく、汚く、ときには危険を伴う。そんな仕事に本気で従事なさる人たちが社会には必要なのである。
 
 人間が人間らしく生きるために、同じく必要不可欠なものとして、さらに教育や文化がある。ただし緊急度の違いはある。このように見てくると、社会的な有事のときに見直されるという要因を含めて、職業に尊卑があるという見方はありうると思う。日頃光が当たらないが、尊い職業があることに気づくことが重要である。そしてそのような担い手に改めて感謝したい。
 
 尊卑の卑の面もある。事実上の賭博、その他人間を依存症に陥らせて利を得る業種がある。これは、主に国家が責任を受け止めてほしい。
 

(中)に続く     

SORRY AND WELCOME

2020/06/14




【連載原稿遅延のお詫び】
 いくつかの重要な連載原稿の掲載が遅延しています。
 当事務所の移転や、さらにコロナ生活の影響も多少こうむり、予定がかなり遅れました。ホームページ上では見えない水面下で、森田療法関係各位との交流など、地味なことを続けてはいますが。
 ともあれ、倉田百三のまとめや、仏教関係の連載の続きを、鋭意書き上げて公開します。
 
【原稿の掲載欄を種類別に】
 さて、今後は原稿の種類別に掲載欄を統一します。ご了承をお願いしておきます。
 オリジナルな研究に関わる原稿は、すべて「研究ノート」欄に掲載します。「ブログ」欄には、随筆、随想のような原稿を掲載したり、また、当研究所と交流して、原稿を寄せて下さる方々の玉稿などを掲載します。
 
【オンラインでの交流の推進】
 さらに、このご時世ですから、ソーシャル・ディスタンスを逆に生かして、オンラインで皆様に自由に意見交換をしあって頂く場の提供をする企画を考えています。(具体化はまだです)。
 
【随時、研究会などを】
 研究所は、バーチャルでなく、駅近で、また来て頂きやすい建物、部屋です。必要に応じて随時研究会を開きます。また単独でも、気楽にお話しに来ていただけます。ただし突然ではなく、あらかじめ、「通信フォーム」で、打ち合わせをお願いします。
 ただし、カウンセリングや診療には応じられません。
 研究レベルのご来談、ウェルカムです。
 
 それではよろしくお願いいたします。

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