森田正馬の病跡をめぐる杉本二郎氏との対談(第4回)―ADHDが森田療法になるとき―

2022/11/04

 

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【前回に続き、杉本二郎様との濃厚なオンライン対談を文章化して掲載します】

 

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1. ADHDという光と影

 

森田が創始した療法の場に、奇人あるいはADHDの人、森田自身が存在しており、それが療法の大きなエレメントをなしていました。前回に引き続き、療法のそのような部分について検討します。
森田は、自分が創始した「療法」について、複数の著作で詳しく述べていますが、療法に反映される治療者の人間的なあり方については、触れていません。けれども森田が予定した療法の約束事の外で、しばしば治療者と患者の間に生きたドラマが起こっているのです。ところが奇妙なことに、森田はそのような出来事について療法として意味を認めていなかったかのようでした。
例えば、ある症例(後述)では、森田は治りのよくないその女性を殴ったり、突き飛ばして泣かせたりしたことがありました。当の森田は「治療法のためでなく」、自分の「気合いから出たこと」だとうそぶいていますが、そのような出来事がひとつの契機となって、患者は治癒していったのです。かなりおめでたい話ですが、案外このような挿話に森田の療法の真髄が窺えるのです。患者をよく叱ったことも、森田ならではの指導であったと言えます。気合いや叱りを示す行為には、何ほどかADHDの性質が関わっていたでしょう。
ADHDについて、まずわれわれは、森田という人における神経質という特質とADHDという特質の両者が相補的に働いて、神経質の療法として構造化された形跡を、その指導法の中に見いだします。と同時に、規格化した療法をみずから超える治療者の気合いに、療法の面白さを見るのです。
その辺の機微に迫るには、療法の場にいた生身の森田の動きをできるだけ知る必要があります。しかし森田に接した経験のある方々は生存しておられません。森田の直弟子だった第二世代の森田療法家の鈴木知準氏や水谷啓二氏らに指導を受けて、間接的に森田の療法を体感した方々はおられます。杉本二郎様は、鈴木学校に学んだ貴重な体験がおありで、知準師の身近でその聲咳に接し、そこで受けた薫育の体験を通じて、向こうに森田自身の療法を感じ取ってこられました。ただし森田の影響を受けた鈴木知準氏の療法が、どこまで森田の療法と同じであったかという問題があります。この問題について、私と杉本様はオンラインで議論をしてきました。両者は合わせ鏡になっているとは、杉本様の見方です。鈴木知準氏が行った療法の中には、不意打ち的な手法があり、とりわけそこに森田との異同が問題になります。そこで鈴木知準氏の療法についても述べて、森田の療法との関係を検討します。
ここにざっと書き上げたような諸点について、以下にやや詳しく論じます。
ADHDという鍵概念が加わったことで、まとまりを欠いていた従来の森田正馬像が新たな相貌を見せ、療法の影だった部分に光が当たることになるのではないかと思います。

 

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2. 固有の性格と病理の関係

 

私たちは森田正馬における神経質とADHDという二重の精神病理に着目していますが、その下敷きとして、本来の固有の性格があったはずで、その点を見直しておく必要があります。
神経質は後に本人の自認したところで、中学生の頃から神経衰弱的な症状を抱えていて、その心気的な悩み方は神経質な性格として、固有の性格につながっていたと見ることができます。
一方、ADHDは今回初めて私たちが森田に差し向けている診断です。それは従来本人の固有の性格と見られていた特徴とどのような関係にあるでしょうか。遡れば、乳児期に見られた疎通性の障害は、発達障害を予示していた如くですが、幼年期については父の厳しい家庭教育の下に育ったこと以外には、十分な情報がありません。中学に入ってから、電気通信学校に入ろうとして家出して上京したり、高等学校に進学するために大阪の医者の養子になろうとしたりした突飛な行動は、神経質者がなし得るものではなく、ADHDを示す特徴的なエピソードであったと捉えることができました。このような若き日の森田の人間的な面について、野村章恒氏の『森田正馬評伝』などによって、描かれている主な特徴を取り上げておきます。

 

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野村氏は、例えば森田が五高を卒業して郷里で過ごした休みの日々に、様々な知人を無遠慮に訪ねて遊び回った行動に材を取り、村人と鰻釣りに出かけたり、三味線や弓の稽古をしたり、気が多く、天真爛漫、天衣無縫なところに、彼のじっとしていない、何でも見ておこう、何でも知りたいという気性が窺われると述べています。そして「正馬の奇人、変人といわれるゆえんの一つは、相手の人の社会的地位とか、職業とか、年齢とかいうことを超越して、人間同志として赤裸々な心で親しんだということである」と記しています。
こうして野村氏は、森田が天性の人間好きであったことを讃え、「このような開放的で明朗さが、彼が精神科医になったのち、対人恐怖などの神経質症の人達を立ち直らせるのに大きな力になったものと思われる」と指摘し、われとわが身を縛っている神経質者は「森田という人間から放射される、太陽の光線のような温かい、しかも虚偽を許さない純真な光に触れて、はじめて自分自身を縛っていた恐ろしい虚偽に気がつき、次第にそれが解けはじめた」と記しているのです。

 

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ここに描写されている若き森田の人間的特性は、神経質を「陰」とすれば、その対極の「陽」の方にあたり、かつADHDに通じるように見えるのです。
しかし、若き森田におけるADHDが、すべてこのように明るいものだったわけではありません。五高二年時には、自分の性格が原因で友人たちに疎んじられて悩んだ経験をしています。明治31年1月10日の日記には次のような記録があります。
「夜は渡辺と共に胸襟を開きて語る、渡辺は余に対して嘗て不快の事時々ありしも今は余の性情を知り、奇人なる事を知りて以来余に対して不平なし、凡そ余の言語挙動は外を飾らず、思ふがままにすればなりといふ。」
相手は森田が「奇人」であることを知って納得したという、奇妙な仲直りをしています。
また、五高卒業間近い頃、土佐会の某学生が遊郭に上がったことが判明し、会の幹事である森田が先頭に立ち、当の学生を土佐会から退会させたのみならず、退学に追い込んでいます。郷土の名誉という正義を振りかざし、前途ある同級生を卒業目前に退学させたのは、森田の側の若気の至りと言えるようで、冷酷な行為でした。さらに東大に入った第一学年時、森田は土佐同志会の新幹事に選ばれ、ここでまた吉原の遊郭に行く軟派学生数名を除名退会処分にすべきであると提議し、その問題に真剣に取り組んでいます。会では甲論乙駁があり、退会者が出るほどだったようで、処分問題に異様なまでに熱心に取り組んだ森田の方が際立っている印象を受けます。

 

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天真爛漫で人間好きの森田、そして妥協なき厳しい森田。これらはいずれも、今日的な診断眼をもってすると、ADHDの特徴と重なって見えるのです。結局、森田の本来の固有の性格とみなされてきた特徴は、多かれ少なかれ、ADHDと剥がし難く表裏一体をなしていたようです。けれども、そのADHDは、厳しい面を含みながらも、年齢を重ねるとともに、次第に露骨さは減り、行動力のような長所は生かされ、人間味ある個性へと一体化していったと見ることができます。

 

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3. 神経質とADHDの相補性

 

自縄自縛になっている神経質者の陰性の病理に対して、森田のような天真爛漫な陽性の人間的特質が、治療効果を発揮し得ることは、野村氏の言葉を借りて、先に記しました。ところが森田自身において、その内界には、神経質という陰性の部分と、奇人、あるいはADHDにあたる陽性の部分が同居していたのです。神経質には、内面に悩みを秘める深い力があり、だからこそ陰性なのです。したがってふたつの病理が内部で、自己治療的に相互に作用したことが考えられます。
そこで神経質とADHDの特徴の概略を、以下に比較対照的に示して、さらに両者が相補的に作用し合った可能性について述べます。

 

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[表] 神 経 質 と A D H D の 特 徴 の 大 ま か な 比 較

 

【神 経 質】        【A D H D】

 

陰性、内向        陽性、外向

 

内省性          行動性

 

とらわれ         不注意

 

自尊心、慎重       好奇心、多動

 

不安           衝動性

 

集中困難         過剰集中

 

不自然、 不自由       自然、自由

 

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もしも仮に、神経質の反対のものとしてどんな病理を想起しますか? と謎をかければ、ADHDが浮上するでしょうし、逆にADHDの反対は? と問えば、おそらく神経質という答えが出るのではないでしょうか。これは印象の次元での両者の対立性ですから、より明確に両者を比較する必要があります。
上の表に、神経質とADHDにおける心理面や行動面での特徴について、なるべく同じベクトル上にあたるものを取り上げて並べてみました。ベクトル上で双方の特徴が重なるものはなく、相反する特徴が対極をなす傾向が認められます。ここに掲げている両者におけるいくつかの特徴は、説明を要さないでしょうが、ADHDについて少しだけ書き加えておきます。

 

ADHDには注意の障害があり、一言で不注意と記しましたが、注意を周囲に配分しながら、必要な事柄に注意を向けて持続することが困難な障害です。神経質では、とらわれの悪循環を起こす機制として、森田が精神交互作用と称したものがあります。気になる違和感に注意を向けるほど、その感覚が増悪し、そのためますます注意を集中することになることを指しています。神経質とADHDでは、このように注意の病理が異なります。またADHDでは、好奇心に左右されて気が散ります。逆に言えば、好奇心の対象へのとらわれで、興味を伴えば過剰集中を続けることもあります。
さらにつけ加えると、ADHDでは、自然に自分の感じから出発し、感情のおもむくままに行動します。自己を点検するところのない唯我独尊的な自由人です。神経質者は、内省的なあまりに、かくあるべしという当為にこだわり、自縄自縛に陥る不自然、不自由なところがあって、この点もADHDと対照的です。

 

ところで、ADHDの人たちに特徴的な性格、もしくはパーソナリテイというものがあるのかどうか、調べましたが、そのような文献は乏しく、とりあえず、ネット上で次のような英文論文を見いだしました。これは、アメリカで2017年に刊行されたある資料集(Personality and Individual Differences)に収められた文献で、元はオランダの雑誌に英文で掲載された以下のような論文です。

 

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Rapson Gomes, George Van Doorn, Shaun Watson et al : Cloninger’s personality dimensions and ADHD: A meta-analytic review. (Cloningerのパーソナリテイ次元とADHD: メタ分析的レビュー)

 

この論文は、約20編の文献資料を分析したレビューであり、抽出された結果のうち、主な所見としては、ADHDにおいてはクロニンジャーのNovelty-Seeking(新奇性追求)との間に顕著な正の相関、およびSelf-Directedness(自己志向)との間に顕著な負の相関があったとされます。Temperament(気質)としての新奇性追求の高さは、本来ADHDの特性のひとつとされるものなので、これは当然の結果でしょう。一方、Character(性格)としての自己志向の低さは、予測はされるものの、ADHDの特徴的な傾向として、十分に論じ尽くされていないと思われる点を示す所見として注目されます。

 

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なお、ADHDを対象としていないが、森田神経質傾向とASD傾向との関連についての次のような論文が、最近わが国で出ています。

 

岩崎 進一、出口 裕彦 : 成人における森田神経質傾向とASD傾向との関連について. 日本森田療法学会雑誌 30 ; 121-127, 2019

 

任意の同一の対象に次のような2つの調査を実施して、関連性を調べています。ASD傾向については自閉症スペクトラム指数日本版(AQ-J)を用いて、その下位尺度を含む得点を出し、また森田神経質傾向については、森田神経質調査票(北西らによる)を用いて、総得点と下位尺度(とらわれの機制、弱力的傾向、強力的傾向)の各得点を算出し、2つの調査結果の間の関連性を統計学的に調べています。その結果の主な点として、森田神経質傾向のうちの弱力性(ヒポコンドリー性など)とASD傾向との間に相関を認めています。これについて、森田神経質とASDは概念は別でも、両者は同意義であり、生来のASD傾向が森田神経質の弱力性を形作っている可能性があると指摘しています。森田神経質の強力性(生の欲望)については、ASDとの相関を認めていません。
しかし、私たちの立場から見て、森田神経質は弱力性の領域を通じてASDと地続きであるとすれば、ADHDも同じ地平で捉え得ると推論できます。ASDにとって、またADHDにとっても、森田神経質の強力性の特質としての、生の欲望を涵養することが課題になるのです。

 

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さて、古くから土佐の人たちの気質や県民性を表すものとして、「いごっそう」と「はちきん」がありました。土佐の男は「いごっそう」で、頑固者、強情、負けず嫌い、偏屈、へそ曲がりなどの特徴を有し、土佐の女は「はちきん」で、明るく、勝ち気、世話好き、男勝りなどの特徴をもつとされました。いずれにも、生の欲望が満ちています。大原氏は、森田は「いごっそう」であり、母の亀と妻の久亥は「はちきん」であったこと、また森田が療法を創始して大成するに至るまでの過程では、「はちきん」であった母と妻の献身的な世話によるところが大であったということを指摘しておられます(前出の大原氏の論文「森田正馬の病跡(Ⅰ)」および「森田正馬の病跡」(Ⅱ)参照)。
その通りだと思いますが、少し補っておく必要があります。森田は確かに「いごっそう」に当たりましたが、その内面は必ずしも強いものではなく、弱さを抱えていました。神経質の内向する陰性の弱さ、ADHDの外向的だが、不安定な陽性の弱さとを秘めていたのです。そしてこれらの弱さを強さに変えていくことが、森田における生涯の課題となり、その過程で神経質の療法を生み出すことができたのです。
それを外側から、家族として支えたのが、母の亀であり妻の久亥だったのです。亀は森田を溺愛し、森田は成人後も母に依存的でした。大学一年のときに心臓の症状に悩み、死ぬ気で猛勉強をしたら試験は合格し、症状は吹っ飛んだという「必死必生」の体験後、母は上京して森田と同居したのでした。そして森田はまた心悸亢進発作を起こし、母に助けられたのでした。後に、森田は大正10年に慈恵医大の教授の候補者となりながら、文部省の審査に落選しています。その折りに、落胆している森田を励まして翌年から学位論文の執筆をさせたのも、母の亀でした。妻の久亥もまた、短気でわがままな正馬を護って、内助の功を果たし、家庭的な療法の母性的役割を担って、療法の成立に貢献しました。このように、身内のふたりの「はちきん」の助力のおかげで、森田は内面で自らを内省して矛盾を整理し、治療者として自己を深めていくことができたのです。

 

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こうして、神経質に悩んだ森田が成長して、神経質の療法を創始するに至った過程で、外的な要因として家族の支えがあったのでしたが、療法の誕生を可能にした森田の内的な要因とその働きを明らかにしなければなりません。しかし、神経質者が神経質を治そうとすればするほど、「けろけつ」に陥ってしまうことは森田自身が指摘した通りです。当事者が治療者になって神経質の療法を生み出そうと力んでも、「けろけつ」に陥ることに変わりはないでしょう。したがって、神経質の療法を生み出すには、森田自身が神経質であったという契機以外に、内面において、もうひとつの力が働く必要がありました。そのもうひとつの力となったのがADHDだったのです。こうして森田の内面では、神経質とADHDが相互に補い合う方向へと進展し、結果として療法へと止揚されていったと考えられます。
内面に両極があるので、一方に偏れば、それは中和されます。心や行動は動くものなので、動的な特徴はADHDに現れやすく、不適切な動きが過剰に出れば、神経質がそれを制御します。また静的な面で、神経質がとらわれに陥って、動きが取れなくなっていれば、ADHDがそれを打破するといった具合です。
このように、森田の内面で神経質とADHDが相補的に進展したと思われる心的現象の中でも、とりわけ療法の真髄に当たる境地について、それを神経質とADHDが止揚された域のものとして捉えることができます。
森田が、禅語の「無所住心」を引用し、四方八方に気を配ることを示した教えなどがそれに当たるので、次にそれらを取り上げます。

 

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4. ADHDが森田療法になるとき

 

森田において、その療法は、大別して、患者への教えと治療者の存在という両面で成り立っていたと思われます。そして、その両面において、ADHD的な心性が生かされていたのを見て取ることができます。そこで、以下、これら両面について触れることにします。

 

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1) 四方八方に気を配る―「無所住心」の教え―

 

森田は、いくつかの自作の言葉を色紙に書いています。その中にこのようなものがあります。

 

「四方八方に気を配るとき即ち心静穏なり 自転車の走れる時 即ち倒れざるが如し」(昭和七年)

 

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また、森田は著書『生の欲望』(昭和9年、人文書院)の中で、「心は八方に働く」ということに触れて、次のように述べています(全集第七巻、p395)。

 

「又物事をするに、常に心が、其事にばかり集中しなければならぬといふ事も、必ずしも其言葉のままではいけない。聖徳太子は、同時に八人の訴を聴かれたとの事であるが、実際に心の盛なる活動は、八方に心を配らなければならない。それでなければ、真の精神緊張といふものは出来ないのである。」

 

このように、心を一カ所に集中するのではなく、四方八方に気を配って、注意が自由自在に活動できる状態にあるとき、真の精神緊張があるとしているのです。
さらに森田は、この境地を禅の「無所住心」と重ねて捉えています。『神経質ノ本態及療法』の中で「無所住心」について述べている箇所を、少し長くなりますが、次に引用しておきます。(全集第二巻)

 

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「尚ほ吾人の健康なる注意作用に就いて考ふるに、禅に『応に無所住にして、其心を生ずべし』といふ語がある。無所住心とは、吾人の注意が、或る一点に固着、集注することなく、而かも全精神が、常に活動して、注意の緊張、遍満して居る状態であろうかと思われる。此の状態にありて、吾人は初めて、事に触れ、物に接し、臨機応変、直ちに最も適切なる行動を以て、之に対応することが出来る。

 

例えば電車に乗りて、釣り革を持たず、読書しながら、電車の動止に倒れず、乗換場を忘れず、掏児にかからず、其時々の変化に応ずることの出来るのは、此無所住心であるときに初めて出来る事である。此時に当り、若し其の一条件だにも、其注意を固着して居たとすれば、其処に必ず何かの失策を起すやうになるのである。尚ほ電車に乗るときの此無所住心の状態は、どうして出来るかといへば、身体全重量を一方の足にて支へ、他方の足は浮き足にして、爪先立ちにし、体操の時の「休め」の姿勢を採り、其まま、平気で、何の心構へもなく所謂「捨身」の態度で居さへすればよい。此身体の姿勢と、心の態度とは、心身の不安定の状況にあるものである。従って其ために、精神は全般に緊張して、外界の変化に応じ、注意が自由自在に活動する事の出来る状態である。

 

凡そ神経質の症状は、注意が其方にのみ執着することによりて起るものであるから、其療法は、患者の精神の自然発動を促し、以て其活動を広く外界に向はしめ、限局性の注意失調を去りて、結局之を此無所住心の境涯に導くことにあるのである。是れ余の神経質に対する特殊療法の発足点である。」

 

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金剛経にある「応に無所住にして、其心を生ずべし」に由来する「無所住心」は重要な禅語です。以上に引用した森田の文章は、強いて三つの段落に分けて掲げました。
その最初の箇所に、彼は「健康な注意作用」の見地から、「無所住心」について説明しています。
第二の段落においては、奇妙とも思われる例を出します。電車に乗るときの無所住心の状態を、姿勢などで説明し、心身の不安定な状況にあるために、精神は緊張して外界の変化に応じ、注意が自由自在に活動できる状態であるとしています。
そして第三の段落で、神経質の療法は、症状に向けられている注意を外界に向かわしめ、無所住心の境涯に導くことにあると述べているのです。

 

ところで、金剛経による本来の「無所住心」の意味内容は、森田が示したそれと同じではありません。この点については、三聖病院に閉院前に研修に来ておられた精神科医師のM.R.氏が、ご自身のブログ「禅と森田療法」の中で「無所住心について、森田正馬の誤り。」と題する記事(2018.10.14)において鋭く指摘されました。私なりにパラフレーズすれば、森田流の無所住心では、内面にとらわれている心が外界に導かれ、外界の対象に向かって注意が自由自在に活動する精神状態のことを指していますが、それは、本来の無所住心ではありません。心には外界というような対象がないのです。

 

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水を差すようですが、そのことを知った上で、森田流「無所住心」は、それはそれで、重要ですから、先の引用文に従って論を進めましょう。森田の書いた「無所住心」は、臨床的に重要な概念です。それもまた高次なレベルの境地であり、療法の核心に触れるという意味で重要です。そして一読して、驚くべきことに、治療者森田自身におけるADHDの注意力の課題や神経質のとらわれの課題が、この森田流無所住心において、見事に解消されてしまっているのです。

 

森田自身、自分流であれ、無所住心という高次の境地に至るには、ADHD的な注意力の障害と神経質な面でのとらわれが、手枷や足枷になってもおかしくなかったはずです。しかし、ADHDには、神経質のようにひとつのことにとらわれ続けることなく、今を生きるという利点があり、また神経質が自縄自縛になっているとき、動くのは今だと、自発性を刺激することができます。また神経質は内省性を生かして、ADHDの不注意さを修正することができます。あちこちに気が散る傾向は、一概に否定せず、四方八方に気を配るように工夫していけるかもしれません。森田流無所住心は、注意作用に着眼しており、電車の中での無所住心などという突飛な例も出てきますが、そこに森田の苦心の跡が見えます。森田流無所住心は、既にして、われわれが想定した神経質とADHDの止揚の産物だったとみなし得るのではないでしょうか。

 

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「四方八方に気を配る」必要を、実際に弟子に教えた分かりやすい例があります。森田の高弟であった井上常七氏が、森田から受けた教えを回想して記された珠玉の著作『森田歎異抄』があり(三省会報第85号、2001年7月刊より数回にわたって掲載され、後に「生活の発見」誌にも掲載)。この中に次のようなエピソードが出ています。
唯一つのことに心を統一できず、雑念が心に浮かんでいた自分(井上)に対して、森田は教えてくれた。「そば屋の配達の出前持ちは、そばのザルを高く積んで、肩に担ぎ、自転車に乗ってくる。注意は手にも足にも、肩にもそれぞれ注がれていて、また、そのいずれにも固着していない。分かったか?」と。しかし、その場では分からず、その後先生から指示された複数の作業を支障なくやることができて、気づいた。「同時にあれこれ心が散るのは、必要な心の働きであって、これこそ正常の心であることを体得したのである」と井上氏は記しています。

 

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もうひとつ、三聖病院を通じて知った森田の教えを記しておきます。宇佐晋一先生が、講話の中で話されたことが記憶に残っているのです。それは、「一時に多事」という言葉です。英語の俚諺に、“ One Thing at a Time.”があり、日本語訳では「一時に一事」と言われていて、同時にあまり多くのことをやろうとすると、中途半端に終わってしまうので、その都度一つのことに集中しなさいと教えているものです。このような教えを是とせず、森田療法の立場からは、四方八方に気を配り、同時に多事をなせと勧めているのです。“One Thing at aTime.” をもじると、“ Many Things at a Time.”であり、「一時に多事」となるのでした。このもじった表現を、森田療法の分野で誰が言い出したのか、はっきり聴いていなかったので、今回改めて宇佐晋一先生にお訊ねしたところ、「一時に多事」と父、宇佐玄雄が言っていたが、森田先生から聴いたものと思うとのことでした。

 

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2) 治療者の気合い―理外の理―

 

療法の内容について、知的な面から教えることもさることながら、森田療法においては、療法の場に治療者が生身で存在することが、とりわけ重要です。この点について、大原健士郎氏は次のように述べておられます。(森田正馬の病跡(Ⅱ)、日本病跡学会雑誌 第37号、1989)。

 

「森田が考案した森田療法は、冷酷な治療者が忠実に施行すると、極めてスパルタ的で、暖か味のない、苛酷な治療になってしまう。しかし、森田正馬のように、人情家で、暖かく、時にはユーモラスな性格の治療者が施行すると、すばらしい治療効果をあげることができるし、かりに患者を叱責するにしても、いわゆる「愛の鞭」的な効果を発揮するのである。」

 

これは重要な指摘です。森田療法とは、森田が創始した療法ですが、森田が実施した療法であり、極論すれば、一代限りだったかもしれないところに面白みが詰め込まれています。とりわけ森田が試行と発案を同時に進めた療法の初期においては、予定調和のない手探りの中で、患者との間に、生々しい関係が展開されました。それを代表する一例を挙げておきます。

 

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〔症例 Y 57歳、女性、不潔恐怖〕
難治だった不潔恐怖を抱え、森田の自宅に入院し、その気合いのこもった治療によって全治することができたケースとして知られる、谷田部夫人です。
夫人は20年以上前から不潔恐怖に悩んでおり、数年前からあちこちの精神病院で入院治療を受けたが治らず、森田の家庭療法を受けるべく、家人が連れ込んできたものでした。森田は一年間を条件にこれを受け入れました。しかし、患者は不潔恐怖と梅毒恐怖のため、物に触れるにも手袋をし、食品に毒が入っていないということを、人に言わせないと気がすまず、治そうとする意志を欠き、安逸を求めるばかりで、森田の療法の適用が困難な状態が続きます。これに対して、有毒かどうかを人にたずねても相手にしないなど、不問的な処置で応じると、次第にそれに耐えられようになっていきます。
困難だった入浴については、森田が数回洗ってやり、洗い方を教えたら、自分で入浴できるようになりました。一年間の期限が近づいたある日、劇的なことが起こります。

 

以下、そのくだりは森田の著作『神経質及神経衰弱症の療法』(全集 第一巻)から引用します。

 

「或日患者に出し抜けに、余の母と共に銭湯に行くやうに厳命した。機は既に熟して居たのであるから、患者は直ちに之を実行した。其の時患者は独りで身体を洗ひ、其の上に余の母の背中を流してくれた。然も自分の手拭いで人の身体を洗ってやったのである。銭湯に行くのは実に患者が二十余年来初めての出来事であった。心機一転、思ひがけなく平気で楽に出来たのである。患者の悦びは一通りではない。成程『掛金がはづれる』とは、此処であったかと悟ったのである。」
(中略)
「 患者が治癒する前、一ヶ月許りの間には、余が患者を一度は殴り、一度は突き飛ばして患者が泣き出した事がある。此の辺の事は固より治療の方法でもなければ、患者を驚かすためでもない。只患者を治したいといふ余の真剣の気合から出たものである。今は此の事も患者の治癒の幸福と共に、患者の感謝の話の種になって居る。理外の理の存する処である。」

 

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この不潔恐怖の谷田部夫人は、森田が家庭的療法を熱心におこない、劇的な転回により治った症例として知られています。熱心なあまり、森田はこの患者を殴ったことがありましたが、それは、治したいという真剣な気合いから出たものであり、理外の理であったと森田は述べています。治してやろうとする熱意は、森田みずから入浴の手伝いをしてやるなど、ためらいのない行為にもあらわれていて、その流れの中で相手を殴ってしまったことがわかります。医師が患者を殴るような行為は、そこだけを切り取れば、倫理的に許されることではありません。しかし、人を救い、人を育てることにみずからをなげうっていた治療者森田には、気合いがあるばかりだったのです。そして患者はもはや治るしかなかったのです。
森田はまた人をよく叱りましたが、それは対機説法的であり、その場での気合いとしての叱りでした。殴るのも叱るのも、一見奇行のようですが、必ずしも奇行として括りきれない治療の根幹に触れるところがあったのです。

 

人を救い、人を育て、生の欲望に則って生きるように導く療法の治療者になった森田にとって、そのような治療者であることが彼の使命になっていました。森田の内面にあった神経質者としての自己の脆弱性やADHD的な自己の脆弱性は、いつしか成熟した自己として融合していました。
ただし、森田における療法への執念、そして衝動的に発揮された森田ならではの気合いは、彼の内なるADHDの精力によるところが大きかったのではないか、と見ることができます。

 

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5. 森田正馬の父親殺し

 

最後に残されている大きな問題があります。精神療法においては、治療者の自己( therapeutic self )が常に問題になります。とりわけ人間の再教育であり、治療者の人間味がたくまずして相手を薫陶する森田療法においては、治療者の自己が問われます。われわれは、森田の病跡をとらえる立場から、森田の内面の神経質とADHDの行方を追ってきましたが、森田自身の自己はどのように形成されたのかという大きな問題が残っています。
森田自身にとって心の師はいたのでしょうか。答えはおそらく否です。あるいは、師に代わるものとして、父の存在があったと言えるかも知れません。父の存在と格闘し続け、医師になって、神経質の療法を探り続ける暗中模索の暗がりの中で、自灯明、法灯明を見つけて、あるがままの境地をわがものにしていったのではないでしょうか。
井上常七氏によれば、森田は後進に対して次のように檄を飛ばし、森田に固執せずに進むようにと鼓舞したのでした。(「大観音横丁の思い出」、森田正馬評伝 月報、白揚社、1974)。
「森田の学説は、これを打破して前進することが森田の精神である。今後細部の研究がまちがえている。僕の説を鉄則として固執してはならぬ。」
それでも、森田を慕った弟子たちは、師に近づこうとしました。とくに、療法を継承して森田療法家になった高弟たちは、療法の再現に努めたようです。たとえば、三聖病院の宇佐玄雄は、森田の教えを祖述することに徹しました。ただし、禅僧である宇佐は、療法の体験は教外別伝のものであることを知っていました。

 

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鈴木知準氏においてはどうだったのでしょう。この点について、鈴木学校の体験者である杉本二郎様と、何度も議論を繰り返してきました。原法に忠実な森田療法を行った鈴木氏ですが、診療所においては、時に寮生に対して、不意打ちで理不尽な指示をしたり、理不尽な体験に陥れたりする指導をなさったことがあるそうです。「不意打ち療法」とでも称すべきこのやり方は、鈴木氏が治療戦略として、意識的になさったものでした。森田が治療の場で示した奇行的な言動が、しばしば治療的な効用を発揮しましたが、鈴木氏はその踏襲を試み、不意打ちをかけて、入院生の内面でとらわれに固着している心が外へ向かって動くように、契機を与えたのです。杉本様は、鈴木氏の療法の中にあったこのような戦略は、森田の療法と「合わせ鏡」になっていたという見方を示されました。鈴木氏が行った「打ち込み的助言」も然りで、森田が間髪を入れずに叱った指導に対応し、「言葉で殴る」と鈴木氏自身がおっしゃったそうです。
確かにそこには森田の療法が彷彿とするし、森田の療法をモデルとなさった努力が見て取れます。

 

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森田自身は、療法をほとんど自然態で行っていたのであり、その療法は自己流でした。では自己流の森田の、治療者としての自己( therapeutic self )はどのように育まれたのか、改めて問題にします。
われわれは、やはり森田正馬の成長の物語に立ち戻らねばなりません。それは森田自身の父親殺しの物語です。その生涯においては、父なるものとの対決が通奏低音になっていました。父の正文は、事情はわかりませんが、森田家に婿養子として入り、年上で再婚の亀の伴侶となった人です。農業に従事して一家を支える大黒柱となる役割を負った父は、その生涯を素直に受け入れ、日々黙々と働き続けました。いごっそうと言うには当たらず、地に足を着けて地道に歩んだ父は、現実の人であり、その人生はいわば森田療法的でした。
子どもの頃の森田は、小学校の代用教員もしていた父から、勉強を強いられましたが、その後、学業成績は振るわず、父は進学に反対し、学費を出し渋ります。乗り越え難い父に対する反抗心は募ります。中学生時の家出、五高入学時に学費を出してくれる他人との養子契約と、父に反抗する暴挙に出ました。さらに、神経衰弱状態にあった大学一年の試験時には、父への面当てと称して、死ぬ気で猛勉強をしました。児戯的な反抗です。
やがて医師になり、人を救う治療者の立場を経験するに伴い、次第に森田の自己は成長していったのです。治療者としての自覚、患者への思いやり、さらに一家を支え、自分を医師にしてくれた父への感謝の念が、ふつふつと湧き上がってきたようでした。医師になって4年目、33歳のとき、新しく発行された百円紙幣を父に送って、感謝を示しました。

 

家庭的療法を行うようになった森田は、患者に対して父権的に接しましたが、人情に厚く、患者から慕われ、「今親鸞」とまで呼ばれました。父に反抗していた森田が、悩める人たちの父になったのです。けれども自分に盲従することを戒め、森田の説を鉄則とせず、これを打破して前進せよと説いたのです。そこには、『臨済録』の「殺仏殺祖」の教えに通じるものがありました。そのような境地に、森田の治療者としての自己がありました。それは、神経質とADHDが統合された究極の境地として、可能だったと思います。
そして「父親殺し」を原点とする森田の反骨の精神は、生涯を通じてその後も遺憾なく発揮されたのです。

 

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【注】 「森田正馬の父親殺し」については、本稿に先立ち、これまでに、いくつかの原稿や講演の中で述べてきました。
それらを以下に示しておきます。

 

1) 禅の「十牛図」と森田療法における治癒過程の比較検討―森田正馬自身の生き方を基礎事例として―.第27回日本森田療法学会(一般口演)、2009.
同抄録:日本森田療法学会雑誌.21(1);73,2010
2) A Comparison between“the Ten Ox-herding Pictures” of Zen and“the Cure” in Morita Therapy : Shoma Morita’s Life as the Basic Case. 第7回国際森田療法学会,メルボルン,2010年3月.
3) 禅の「十牛図」と森田療法における治癒過程の比較検討―森田正馬自身の生き方を基礎事例として―.京都森田療法研究所web掲載論文,2010.
4) 禅の十牛図と森田療法―悟りとは? そして治癒とは?―.第12回総合社会科学会(特別講演),2010年5月,東京.
5) 禅の「十牛図」と森田療法―正馬先生の「心牛」探しの旅―.第23回日本精神障害者リハビリテーション学会(高知)特別講演,2015年12月5日.
6) 森田正馬と森田療法. 精神科臨床 Legato.7(6) ; 50-53,2021

 

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6. おわりに― 精神医学史に現れたトリックスター ―

 

森田正馬が、稀代の変人、奇人であったことは今更言うまでもありません。しかし、森田はただ者ではなかったのです。当時の西高東低の精神医学の分野では、無批判に西洋の学説が受け入れられる風潮がありましたが、独立独歩の道を歩む森田は、みずからも一度は影響を受けた西洋の神経質論や神経衰弱論に対して勇猛果敢に批判を向けました。フロイトの精神分析を奉ずる丸井清泰氏と論争をして学会を騒がせ、ベアードの神経衰弱説に反論を加えます。これらは必ずしも高次の反論ではなかったのですが、論争の舞台に立って人を騒がせるところは、森田の独壇場でした。憎めない、得な性分で、人と争っても可笑しさを誘ってしまうのです。

 

神経質論は、森田にとって終生の重要課題でしたが、重要課題であるがゆえにか、模索を続けて、彼が提示する神経質の概念規定には変遷があり、完全を極めてはいません。初期には森田は、ベアードの、神経機能が興奮し易く、また疲労し易いという神経衰弱説を受け入れました。しかし、次第に症状の心理的、主観的な面に着目し、それに対応する素質は、神経衰弱から、虚弱な体質である神経質へとシフトさせます。そして素質と心理的、主観的症状をつなぐ要因として、内省的気質を挙げました。
一方、九州大学の下田光造氏は、神経質の原因は幼児期の養育にあるという、森田と異なる説を出していましたが、森田は第四十回 形外会(昭和八月十二月十七日)において、「神経質は、養育の結果というよりはやはり素質である」ということを述べて、下田氏に対して反論を返しています。
そして翌昭和9年に、還暦記念講演として、神経質について語っています。下田氏への反論との脈絡がやや不明ですが、とにかくこの講演で森田は、次のように語っています。神経衰弱と言われてきた病は、気のせいで起るものであって、ベアードの言ったような神経の衰弱から起るものではなく、特殊の気質の人に起るもので、自分はこれを神経質と名づけたのであると。
特殊の気質とは、自己内省的気質を指していますが、さまざまな症状は他動的に起るのではなく、自分自身の心から自動的に起るということを力説し、「この私の発見はコペルニクスの地動説にも比較することができるかと思います」と堂々と述べているのです。

 

しかしこの森田の自負は、正確さを欠いています。森田に先駆けて、わが国で最初に「神経質」を論じた精神科医師がいました。同じ東大の呉の門下で、森田の後輩にあたる中村譲でした。中村は、著書『神経質と其療法』(明治45年)において、神経質の心理機制として、みずから煩悶を増幅させる「相互呼応」を挙げています。(拙著『忘れられた森田療法』参照)。神経質の症状が自動的に起ることを発見したコペルニクスは、森田ではなかったのです。森田がコペルニクスを自称し、周囲がそれを容認してきたのは、森田療法史のダークサイドの中の物語です。森田の偉大さは、治療者として患者と関わった人間森田の情熱であり、気合いでした。奇人としての面が治療的に発揮されたところに森田の面目がありました。

 

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発達障害の臨床を専門的に行っておられる精神科医師、岩波明氏は、ADHDといわゆるトリックスターとの近い関係を指摘し、「沈滞した閉塞状況を打ち破るのは、ADHDの気質をそなえたトリックスターたちである。彼らはためらわずに決断し、突進を繰り返すのであるが、その過剰な試みは、新しい活路を切り開く契機になるのだと思う」と述べておられ(ご自身のブログ)、さらに著書(『発達障害という才能』SB新書、2021)で詳解されています。
精神医学の歴史の中で、およそ森田正馬のようなユニークな医師はいませんでした。この人の行くところ、愛があり、奇行あり、その奇人ぶりは枯れ木に花を咲かせるかのごとく、人々を救いました。偽物でありながら、コペルニクスを名乗って憚らなかったところもご愛嬌です。
東大精神科教室の師であった呉秀三は、わが国の精神障害者を座敷牢から解放する快挙をなして、精神障害者の父となった人でした。森田は、神経質者が心中の見えない鎖に縛られているそのとらわれから、神経質者たちを解放することに貢献し、神経質者の父となったのでした。
あるがままに生き抜く療法を導入し、形外会での余興と区別されない人生を、踊るがごとく自由に生きた森田正馬は、まさに精神医学史上のトリックスターであったと言えるでしょう。

 

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「荘子」の中に、畸人について書かれたくだりがあります。孔子は、弟子から畸人とはと問われて、こう答えています。
「畸人トハ人ニ畸ニシテ、而シテ天ニヒトシ」
畸人というものは、人からは畸人であるとしか見られないが、天に最も近い存在であり、自然の理法にかなった生き方をする人である、というのです。
これまた、さながら森田正馬の生き方のようです。ADHDにもつながるところがあるかもしれません。

 

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【付記】
1. 森田正馬の病跡学を論じる本稿として、発達障害、ADHDという診断名を書き込んで、本稿を公表することにつき、ご遺族の御了承を頂きました。
2. 本連載原稿の著作権は、京都森田療法研究所並びに著者の岡本重慶および杉本二郎に帰属します。
3. 大胆なことも書いています。御意見、ご批判をお待ちします。通信フォームからどうぞ。
4. 共著者の2人はWeb上で濃密な討論を繰り返しましたが、成果のすべてを原稿に書けたわけではありません。追って補遺の原稿を出すかどうか、検討中です。

森田正馬の病跡をめぐる杉本二郎氏との対談(第3回)―療法に組み込まれた治療者の奇行―

2022/08/13

 

乳母車の森田正馬

 

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1. 前説

 

対談形式をとった本稿のシリーズ第2回の掲載から、久しく時間が経過しました。第2回までにおいて、森田正馬自身の生涯に発達障害、とりわけADHDの特徴が認められたことを指摘し、それが療法の創造に関わったことを述べたのでした。
私たちは、森田を過大評価も過小評価もしたくありません。従来の評価のしかたの中にあった問題に疑問をもち、それを洗い直した上で再評価したいのです。森田の教えの中核の部分の秀逸さを否定するのではなく、従来いたずらに森田を盲信し神格化して虚像を見ているところがあったようなので、それを見直しています。実像は、人間愛に加えて、奇行と無頓着な面のある人だったのであり、その奇行と無頓着さの由来するところは、発達障害、とりわけADHDであった、ということが第2回までの到達点でした。
大原健士郎氏の説では、森田の神経質を部分的に否定しながら、その置き換えの診断を欠いているところがあり、そこを埋めるのが私たちの作業だったのです。

森田は自称神経質で、神経質の治療に関心を持ちました。しかし、その行動は、石橋を叩いても渡らないような神経質者のそれではなく、ADHDに特有の探究と執念によって、療法を創造したのです。
このような森田療法の創造者、森田は、療法を創った森田と療法を使った森田に一応分けることができて、第2回までに取り上げたのは、療法を創った森田の方でした。一方、使った森田、つまり療法の構造の中に自らを組み入れ、治療者として療法を推進した森田がいました。それは療法の創案という地平を超えて、療法の構造の中にいて生身の治療者として患者と関わった森田です。この治療者、森田の場合においても、実にこのADHDらしき奇人ぶりと、独特の奇行が治療的効果を上げたのではないかと考えられるのです。

 

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私たちの対談原稿を第3回にまで延長したのは、そのためです。森田正馬という人の性格や愛すべき人間味のすべてが、発達障害に彩られているなどと、もちろん私たちは思っていません。しかし、奇矯な言動や風変わりだった挙措など、ADHDと考えると腑に落ちるところが多々あり、しかも、それが神経質の治療に役立ったことを凝視してみようと思うのです。こうして、森田のADHDの特質は、療法の創始に貢献したのみならず、その奇人ぶりが神経質の治療に適合したことを明らかにすれば、森田正馬の病跡にダブルの結論が出るのではないかという見方をしています。
このダブルの後半への着想は、対談者のふたりのうちの杉本二郎様に負うところ大で、杉本様に対談を引っ張ってもらおうとしたのでした。それで、対談原稿を準備するため、水面下で大いに熱のこもったメール交換を2カ月ほど続けましたが、そこで両人は、やや燃え尽きました。討論し過ぎた感あり、対談の形を留めて圧縮するのが難しく、要約化して、岡本の文責で文章化することになりました。対談の成果であることに変わりはありません。

 

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2. 猫を殺した少年M

 

話は遡ります。
私は、中学生のときに猫を殺してその解剖をした人物を3人知っています。ひとりは、誰しも知っている神戸の少年Aです。いまひとりは、かなり以前に勤務していた精神科病院の外来で診察した、当時中学1年だった少年です。小学生のとき、学校の理科室の戸棚に保管されていた青酸カリを持ち出し、校庭の池に撒いたら鯉が全部死んでしまったという。学校の劇薬管理のずさんさに驚いたが、とにかく動物を殺害する行為はその後エスカレートし、最近は猫の生体解剖をしたというのでした。外見はニコニコして可愛い少年でした。入院させたら、激しい幻聴と独語が起こり、統合失調症と診断しました。軽快退院したが、十年後に自ら命を断ってしまいました。
もうひとりは、誰あろう、明治時代に中学生だった高知の少年M、森田正馬の十代のときのエピソードです。

 

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私たちがここに掲載している森田正馬の病跡の記事を、南條幸弘先生がお読みくださって、ご自身のブログ「神経質礼賛 1988 神経質? 無頓着? (森田正馬 ADHD説)」にコメントをお出しいただいています。南條先生もADHD説を肯定的にとらえて、中学生時代に森田が猫を撲殺して解剖した挿話を追加的に紹介なさっているのです。
南條先生のブログ文の一部を紹介します。

「現代の精神医学からすれば、森田先生ADHD説は有力な考え方になるだろうと思う。私が森田正馬全集の中で気になったのは、第4巻・通信指導の中にある次の記述である。」

そして引き続き、第4巻・通信指導の当該箇所を引用なさっていますので、南條先生の引用を再引用します。

 

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「(猫いらずで猫を毒殺して以来怨みを恐れる人からの手紙に対する森田の返事)
猫を殺すとか蛇を殺すとか言ふ事は、恐ろしさに、悩まれる事の多いものです。それは、昔から、種々の怪奇的・講談的・迷信の言伝へがあるからです。
小生も昔、中学時代に、猫を殴り殺して、解剖的研究をなし、其の後猫は祟るといふ言ひ伝へに、長い間恐怖した事があります。
常識的・或は科学的にはそんな事はあるべき筈はないけれども、迷信といふものは、中々人の心をおののかすものです。それが迷信の迷信たる所以であります。…」(森田正馬全集 第4巻 pp.420-421)

南條先生のコメントはさらに続くので、それも引用します。

「現代ならば重大事件の「少年A」と同様にみられてしまう恐れがある。当時は今ほど動物愛護の概念はなかったであろうが、猫を殴り殺して解剖するのは尋常とは言い難い。思い付きで突っ走ってしまった行動だろうか。このエピソードもADHD説で説明できるかもしれない。もっとも、ADHDであったとしても(森田)神経質は別の視点からの人間理解であり、それが否定されるわけではないし、森田先生の評価を下げるものではなく、神経質に加えてADHDも活かした人生を送られたと評価することができるかと思う。」

 

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中学生時代から「変人にして剽軽者」の特徴を発揮しだした森田だったが、猫を撲殺して解剖したのは、変人や剽軽では済されない異常な行為でした。やはりADHDとして理解せざるを得ない行動でしょう。しかし、そんな残虐な行為の経験を経て、森田は命への畏敬に目覚めていきます。療法家になった後年の森田は、医院で飼っていた兎が犬に噛み殺されたとき、言い訳をする世話係の患者に対して、殺された兎を可哀想と思わないのかと叱る、憐憫の情の厚い人でした。
思春期以降、森田の変人、奇人ぶりも成長し、変遷して、奇行が療法に溶け込んでいきます。その流れを追っていきたいと思います。

 

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3. 森田正馬における奇行―ADHDの人として、人間として―

 

『世界変人型録』(ジェイ・ロバート・ナッシュ著・小鷹信光 編訳、草思社、1984)という稀書があります。 この書には、「奇人憲章」として、奇人と認められるための六つの条件が示されています。それをざっと紹介すると次のようになります。

1) どこか人に愛され、畏怖される人間である。
2) 奇人は、生涯を通じて奇人たる人である。
3) その奇行は一時的でなく、日常的に行われる。
4) 奇人は夢見る人である。
5) 奇人は、その行為によって社会に強い衝撃を与える。
6) 奇人の行為は意図的でなく、自然体の中で遂行される。

森田正馬という人を、ここに示された奇人の6条件に照らしてみると、かなりの点で適合していると言えそうです。森田療法の世界に限らず、洋の東西を問わない文化の中で、奇人として認知されるような人間群像の中に入るかもしれません。

発達障害の臨床研究を専門となさっている岩波明医師は、ADHDの特質をそなえた人たちが、文化人類学の分野で注目されてきた「トリックスター」の役割を現実においてしばしば演じ、社会の閉塞状況を打ち破る活動をしていることを指摘しておられます。トリックスターとは、本来「道化」にあたり、世界の既成の秩序を破壊して、新しい活路を切り開く文化創造的な英雄や装置のことです。
先ほど示した奇人の6条件の中に、「社会に強い衝撃を与える」ことも挙げられていることを顧慮すると、ADHDが「トリックスター」に通じるという特徴は、奇人という見方と重なってくるのです。さらに森田正馬においては、奇人ぶりや、その奇行が、療法の中に必要な生(なま)の装置として、患者に治療的に影響を与えたと考えられます。森田のトリックスター性については、後述します。

 

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さて、森田の奇行については、従来、エピソードとして周知されており、また治療的見地からも、意表を突くような指導の仕方として知られながら、あまり深く論じられてきませんでした。
岩田真理氏は著書『森田正馬が語る森田療法』(白揚社、2003)において森田の奇行を取り上げ、その中で述べておられます。神経質者は他者の評価や視線に沿って行動しようとするが、「彼(森田)の奇行の大部分は、他者の視線よりも自分のニーズに従うところから生まれてくるものだったろう。その意図は「先生」の思いがけない行動から受ける衝撃とともに、確実に入院生に伝わったのではないだろうか」と。それは、人からエキセントリック(奇矯)と見られようとも、自分の欲求や必要に従って素直に行動した自然な姿にほかならず、それは、非常識だったと断ずることはできません。このような奇行の例として、晩年の病身の森田が、必要に迫られて考案した身体的移動手段などがあり、言わば、当を得た奇行として理解できます。乳母車に乗ったのも、その一例です。

一方、井上常七氏によれば、「森田の指導は形式と画一を戒めたのが特色であるが、時にはその必要も認めた」のでした。「バイブルが有り難いのではない。その教えが尊いのだ。バイブルで鼻をかむこともできるが、人前ではやらない。信用を失うから。社会のきまりを無視することも出来ぬものだ。」と教えたそうです。ここには、意外感はあるものの、現実の社会的常識に従って、奇行にも節度を示した一面が窺えます。(森田正馬評伝 月報、昭和49年5月)

 

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しかしながら、説明や理解の困難な奔放さが奇行の奇行たるゆえんである、と言うこともできます。そこで、森田にみられた奇行の全容を改めて対象にして、それらの奇行の発生について、人間森田の性質とともに、ADHDとの関係も視野に入れて、便宜上類型化して、理解を試みたいと思います。

1) 天性のような奇行(ADHDとの関係が濃い)
2) 遊戯的な奇行(自身の性格+ADHD)
3) 合理的な奇行(ニーズや欲求に従う)
4) 実生活を見せた奇行(生身の治療者として)

ここでは即興的に分けてみたので、絶対的な分類と言えるかどうか、やや無責任ですが、ともあれ森田の奇行についての以上の4分類に少し説明を加えます。

 

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1) 【天性のような奇行】

これは、ADHDの表現形とみなしてよいような行動の数々です。
目立つものとして、中学時代に猫を撲殺して解剖したことや、大学生の時に、ハッピを着込み、鑑札も持たずに車夫の真似事をして東京の公道を走るというむちゃなことをしたのは、ADHDの行為でしょうが、医師になる前のことでした。その後も森田の行動は、無邪気、児戯的で、好奇心の赴くままに手を出し、ときにはむきになってはまってしまうのでしたが、そんな行動はADHDとの関係が濃厚です。たとえば、懐中時計を入手して、それを自慢にしていたエピソードはよく知られています。この時計は本郷の時計屋に見本として出してあったものでした。森田家に仕えていた田原綾氏(看護師)は、次のように書き残しています。
「(森田は)この時計がほしくて譲ってくれるよう懇願したが、これは見本だからどうしても駄目だと言うのを、何回も何回も言って求めたものです。外出の時など電車の中でゆうゆうとポケットから出して、人目につく様に見せ、車中の人が大笑いするとうれしそうにニコニコしながら、しまわれた時計です。これには、はずかしくて一緒に行くのをいやがった患者や、ついて行くのを逃げ出した人など色々エピソードがかくされています。」(三島森田病院ホームページより)
このように森田は憎めない人でしたが、短気で癇癪を起こす面もありました。何事かに耽ってしまう面と、その反面で注意が及ばない面もあったようです。病身なのにアルコールに依存気味になったり、愛児に結核を移してしまって不注意に泣く森田でしたが、そんな欠点だらけで生きている「先生」の必死さが、患者たちにじかに伝わったのでした。

森田がよく教えた自作の標語に次のような言葉があります。
「休息は仕事の中止にあらず、仕事の転換にあり。」
私は以前からこの言葉を理解しかねていました。これは森田一流のものとみなせば、わかってきます。皮肉な理解ですが、ADHD的な行動の自在さを肯定しているのかもしないし、あるいは、随時注意を転換する必要性を指摘して、ADHDを自戒しているのかもしれないのです。

 

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2) 【遊戯的な奇行】

これは日常的によく見られたもので、遊び心に富む森田の性格をベースに、ADHD的傾向も加わって、ユーモラスな味わいのある様々なエピソードが生じました。
医院の玄関に貼った「下されもの」の壁紙はその一例で、気の利かない神経質者への端的な教えとして合理的でしたが、一種の遊びだったと思われます。「下されもの」の貼り紙には内容の異なるいくつかのバージョンが用意されていたようで、その中には、「貰って困るもの、一、鮮魚、…」と書かれていたものがありました。鮮魚は有り難迷惑の筆頭です。笑ってこれを読み、応用を利かせることが必要なのです。この鮮魚バージョンの続きには、「貰って結構なもの、一、現金、…」とあり、医院の外来を受診した患者さんがこの貼り紙を見てうんざりしたという話が伝えられています(高橋毅一郎「閑話休題」、日本医事新報、第2190号、昭和40年4月16日)。森田劇場に入って来た外来者が、玄関の貼り紙を見て度肝を抜かれたのも、笑い話のうちです。
ちなみに、写真として残されている「下されもの」の記載は、やはり遊び心で書いたに相違なく、内容に矛盾があります。対談者の杉本二郎様も、その点を指摘しておられます。
「困るもののうちに果物があり、困らぬもののうちに「りんご」が入っている。うれしきものの中にチョコレートが入っているが、これは困るものの菓子ではないのか。女中に反物などは、商品券を使って購入できるので、商品券も必ずしも困りものではないはず。要するに書いてあることがバラバラで本気で人に伝える目的で掲げたのではないと思う。ブラックユーモアになっている。」と。
形外会で、率先して余興を披露して、自分が楽しみ、かつ一同を喜ばせたことなども、この種の奇行ですし、ひいては、精神分析の丸井清泰と論争を展開して学会を森田劇場にしてしまったのも、スケールの大きな奇行でした。

 

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3)【合理的な奇行】

森田の奇行は、自己の欲求に素直に従った行動として理解できるものが多く、その点は岩田氏のご指摘があるので、既に紹介しました。そのような奇行は、合目的的な行動であり、動機の合理性への注目があります。付け加えるなら、人目には恥ずかしくても、恥ずかしいままに異様と見える行為をなした、その自然服従的な態度に、弟子たちは教えられたのです。

 

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4)【実生活を見せた奇行】

森田は、生身の姿で身をもって弟子に教える治療者でした。
昭和12年に森田が悪性大腸炎になり、慈恵付属病院に入院したとき、見舞いに行った「最後の弟子」中川四郎氏は、森田が洗腸を受けるところに出くわしたのでした。急いで病室を出ようとするのを森田は呼び止めて、勉強のために見ておけと言ったのです。中川氏は、「私はただ恐縮して、古閑先生が洗腸される森田先生

の臀部をくい入るように眺めていた」と記しています。(『形外先生言行録』)。さらに中川氏は書き加えています。「先生のお宅の治療的雰囲気は森田療法の何たるかを教えてくれたとともに、先生が身をもって示して下さった学問の厳しさは、その後の私の一生をたえることなく鞭打っているのを覚える」と。(同書)。弟子の勉強のために自分の洗腸を見せたという、これほど厳粛な奇行があるでしょうか。

また、森田は自宅で入院患者と共に生活をしながら、風呂焚きや飯炊きのみならず、便所の肥汲みもみずからおこないました。水谷啓二氏は、入院中の日記に、掃除や風呂焚きをしていた森田が話してくれたことを書きとめています。「自分は君等に手本を示すためにゴミを整理して燃やしているのではない。気になって、掃除せずにいられないからやっているのである。之が最良の手本になる。手本を示す事を目的として、事をなせば、必ず本当の手本にはならない」との言葉に、水谷はなるほどと頷けたと記しています。(「入院患者の日記から(二)」、森田正馬全集 第4巻、p.157)。
森田が患者たちの目の前で、本物の夫婦喧嘩をして、「どちらが正しいか言え」とその場にいる人たちに迫ったという挿話もあり、手本を示したのではないという意味では最も説得力があります。
そして死期が近づいたとき、森田は「死にたくない」と言って泣き、「凡人の死をよく見ておきなさい」と悲痛な態度で言い、自分の死に方をも弟子たちに見せながら逝ったのです。

 

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奇行は、奇人と言われる人の行動を部分的に切り取ったものです。そこで森田の奇行をさしあたり類型化して諸相を描写し、それらが患者に対する直接指導において、ときには意外で、ときには感動的で、大きな効用があったことを示しました。それらを見れば、森田自身の奇行が療法の中におのずから組み込まれていたことがわかります。つまり、生身の治療者の存在が暗黙のうちに仕込まれており、だから「森田療法」なのかもしれません。人間森田への興味が尽きないところです。
その森田は、自宅を開放して治療をおこなっていたので、私生活と療法はつながっているひとつのものでした。ですから、生活者であり治療者であった森田のことは、多くの人たちによって知られ、そして語られてきました。とは言え、その大半において森田を伝説化する語りの側面や、オマージュとしての讃辞の側面があります。素顔に肉迫する資料が必ずしも出揃っているわけではありません。

 

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4. 方程式のない療法―「旧形外会人の座談会」より―

 

森田医院に入院した経験者(旧形外会会員)の人たちが、森田のことを語った座談会の記録があります。
昭和43年12月1日に「第41回東京雑談会」が鈴木診療所で開催されました。出席者の大半は鈴木診療所の関係者、つまり元入院生(鈴木学校OB)や当時の入院生らでしたが、外部から旧形外会会員の方々が数人参加されました。「東京雑談会」の終了後、当日来席した数人の旧形外会会員を囲んで、鈴木学校OBとともに忘年会が開かれました。旧形外会のメンバーは、山野井房一郎、林要一郎、河原宗次郎、亀谷勇、中原武夫の5人だった模様で、この人たちが多く発言した部分が、鈴木診療所発行の「今に生きる」誌の翌、昭和44年4月号に、「旧形外会人の座談会」と題して掲載されたのです。少人数ながら、旧形外会人が自由に回想を語っておられるので、非常に貴重な記録になっています。

まず山野井氏がこう述べています。「先生は、わしは目下の者には強くあたる。これはと思う目上の人とか、利害関係の強い人にはへつらうと言われたそうです。そこで日高さんが、それでは道徳に反するじゃありませんかと質問したところ、「お前はまだ分からんか、そんな風だから治らないのだ」と一喝されたそうです。…「これがわしの本当の気持だ」とこう言ってお教えになったというわけなんです。」 山野井氏が紹介したこのような話は、教えの真髄に触れていますが、形外会での説教的な指導と軌を一にしています。
この座談会の、より重要なところは、森田の指導が自分たちに与えた強力なインパクトが、出席者たちからそれぞれ直截に語られていることです。亀谷氏の発言に、「森田の指導には方程式というものがない」という表現があり、一言にすれば、「方程式のない療法」だったと言えるのでしょう。以下、森田の指導についての出席者たちの主な発言を、抜粋して紹介します。

 

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亀谷 :
先生は弟子を指導される時には、お医者さんであろうが、われわれ一般患者であろうが区別なくその場で指導されたですね。
山野井 :
時と処と人とを問わず、森田先生は教えられましたね。
中原
亀谷さん、森田先生の旅のお伴をして帰ったら、病気になって寝込んだというのは。
亀谷 :
それは気が疲れますからね。
鈴木知準 :
とても細かく意識が動くんです。追いつかないんだ、われわれが。
亀谷 :
どこで先生に叱られるか分からないんですよ。汽車の中で言うし、自動車の中で言うし、或いは店先でも言うし、もうへまなことをするとすぐその場で叱られるんです。
鈴木 :
亀谷君が叱られやすかったことは、それは非常に先生が亀谷君に親しかったからですよ。遠慮する人には言わんですね。
亀谷 :
先生はやはり自分の側の者で叱りやすい者と叱りにくい者とがあるということを、ちゃんと計算していましたね。
林(発言要約) :
先生は非常に人の心の機微をみておられた。病人を見舞いに行っても、正直に言いながら、細かい心遣いをせよと教えられた。それじゃどうするんですかという質問は禁句だった。その時々の感じから出発するということだった。
亀谷 :
煎じ詰めれば、その感じから出発したことが、いわゆる小笠原流なりその礼法に叶うということですね。
林(発言要約) :
細かいというか、鋭いというか、難しい顔をして所かまわず叱った。一緒に作業している時にぽかっと言う、食事をしている時にぽかっと言う。受ける方にも機会があるので、それを聞いて掴んでおくと得をする。
鈴木 :
先生は、その時聞き入れられるような人に対して言っているんで、言ったって感じないような人には言わないですよ。
亀谷 :
森田の指導には方程式というものがないわけです。
林 :
ごちゃごちゃ引っ張り廻されるという感じが非常にしましたね。
鈴木 :
変わるというのは場合によって変わるんですから、つかみにくいんです。先生はテンポが早くて入院生の方はわかりませんね。
亀谷 :
森田先生の教えってのは、是非、善悪、正邪、そういうものから超越しているでしょう。ですから結局、何がなんだか分からない時もありますね。
鈴木 :
親鸞あたりにしても、道元にしても、宗教者ってのは皆そうですね。
林 :
作業療法には、先生は最も重点をおかれて気合いが充実していましたね。
山野井 :
昭和四年、私どもが入院した時は、肥汲みをなさいましたものね。

 

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旧形外会人らの発言から伝わってくるのは、彼らは入院して森田の生活態度に学び、森田から直接指導を受ける体験をしたいという念願を動機として入院したということです。そのためもあるのか、発言は治療者としての森田の言動についてのことが中心になっています。森田の家庭生活のことはほとんど触れられていませんが、ひとつだけエピソードが語られているので、紹介しておきます。

「亀谷 :
先生と奥さんとが一緒に出るときにはタイミングが合わないで大変だったですね。車が玄関へ来てるでしょ。先生は帽子をかぶってステッキを持って、一生懸命、玄関で貧乏ゆすりをしているんですよ。奥さんは車が来てからお茶漬けを一杯食べてそれから出るんですね。そういう時はこっちは中に入って気が気じゃなかったですね。」

貧乏ゆすりと言えば、ADHDの人によく見られる動作ですが、いちいちそのように結びつけなくともよいでしょう。森田らしい姿が目に浮かんできます。

 

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さて対談者らが口を揃えて語っているのは、森田はその指導において、叱る人であり、その叱り方がいかに厳しかったかということです。療法の中では森田の独特の奇行が機能していたことを、私たちは知りましたが、奇行の主たる奇人の深い人格描写をこの対談の中に見ようとすると、その期待は外れます。患者とともに遊戯三昧を楽しんだ森田と厳格だった森田は同一人なのですが、座談会は厳しかった森田の方を語る雰囲気に流れてしまっているのです。
ともあれ、いつでも、どこでも、何かにつけて弟子たちに対して、事細かく、せわしく、口やかましく叱りました。言わば叱り魔です。どうやらこれ自体、一種の奇行であり、奇人の所行だったのではないでしょうか。
しかし森田は、厳しいながらも叱れば感じ取るような相手には言うが、言っても無駄な人には言わないというふうに、案外人を見て叱っていたところがありました。釈尊は人を見て法を説きましたが、森田の場合もそのような姿勢での「対機説法」だったのです。厳し過ぎるところに持ち前の短気も重なった叱りをされるとたまりませんけれども、厳父森田の中には慈父森田も潜んでいたのです。基本的に人間好きであり、神経質者をいとおしみながら、体験させる療法を熱心に推し進めていました。その中での叱り魔ぶりは、森田の裏返しの人間愛だったと言えるでしょう。

 

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ここに掲げた対談とは別に、杉本二郎様から聞いた話を付け加えおきます。それは堀滋美氏が入院なさっていたときのエピソードです。
「大学の講義について行くとき、堀滋美氏がハイヤーを呼びにやらされ、この堀氏は吃音恐怖でなかなか言葉を先方に出せなかった。そこで水谷啓二氏に頼んで呼んでもらった。すかさず森田は堀氏を外し大学の講義に連れていかなかった。裂帛の気合いです。一秒もかからず「君、もういい」です。堀氏は二階に駆け上がり泣いたといいます。そして、それを機に心が開けてきた、と言っています。」
こういう叱り方を、森田はごく自然にできる人だったのです。厳しいが冷たいとは言えない、心の転回へと相手を導く叱り方でした。

 

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【第3回もなお未完で、次回に続くの弁】

神経質を自認していながら奇行の人であった森田の病跡に私たちは注目して、ADHD圏の人であったということを、本稿のシリーズの前半で指摘しました。しかしADHDという診断をもって森田の病跡は完結されるべきものではありません。森田ならではのADHD的な奇行は、治療者自身の生身のかかわりとして、入院療法の構造の中に組み込まれていた事実に目を向けるところに森田の病跡学の第二の意義があると捉えています。そして、それについて述べつつありますが、まだ論じ尽くせていません。
ただ、念のためここで少し述べておけば、奇行を治療構造の一要因とみなす時点で、われわれは奇行を病理として差別化する思想を超えています。病理性を認めながら、病理性を問題にしません。奇行が、もしくはADHDが神経質の療法の中の必要な要因へと、如何に止揚されていったのか、そのことが問題です。それをもう少し考えねばなりません。

そこで、この第3回で一旦ポーズをおき、さらに次回(第4回)を設けて、「ADHDが森田療法になるとき」について論じて、このシリーズの終止符をそこまで延ばしたいと思います。

 

(第3回 了)

 

 

森田正馬の病跡をめぐる杉本二郎氏との対談(第2回)―見られるADHDの特徴―

2022/04/22

 

 

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1. 大原健士郎氏の説

 

岡本:

森田正馬の病跡に関する文献は非常に少なく、かなり以前に大原健士郎氏が、日本病跡学雑誌に「森田正馬の病跡」について書いておられたと記憶しますが、杉本様は大原氏の著書の中で森田の病跡についての論考をお読みになったそうですね。

それをご紹介くださいますでしょうか。

 

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杉本:

大原は、著書『「不安と憂うつ」の精神病理』(講談社、1996)で、森田は森田神経質であったことが定説になっていて、高弟の高良武久も「完成された森田神経質」であったと回想していると述べながら、大原は疑問を呈しています。「正馬の母親はどちらかというと、クレッチマーのいう循環気質で、何度となくうつ病を思わせる状態になったことがあること、父親は下田光造のいう執着性格だったこと、森田自身も森田神経質によく見られるいじけた点がなく(…中略…)、ユーモラスでおちゃめな面が多く、自分本位でなく、対他的配慮が目立ったことなどから森田神経質というより執着性格ないしは循環気質だった可能性も強い」と。

長い間私は、森田は当時神経衰弱と言われ、その治療法もなかった時代に、自分も神経質性格だったので、その治療法を完成させるのを生涯の目的として、あらゆる治療法を試し、ついに独創的で画期的な森田療法を発見したのだと思っていました。それがどうも違っていたようです。

こんなエピソードがあります。

館野健という方が医学生の頃森田の家に下宿していたのですね。大学卒業試験の準備をせねばならない時期に、館野は声楽の勉強をしていて、夜、庭に出て発声法の練習をしていて、二階の森田の病室( 病で臥せっていた )までとどいてしまったのです。

館野はこの大切な時期に発声練習などして叱られるのではないかと思ったら、森田は「君は声楽をやっているそうですな。僕も試験勉強中に三味線を習ったことがあります」と。

そしてまた、「何にでも手を出しなさい。僕の療法も西洋医学の療法といわず民間療法といわず、あらゆる療法に手を出してやってみた結果、自然にできたもので、はじめからつくりだそうと思ってやったことではありません」と言い、また「僕ははじめから(森田)療法を作ろうと思って努力したわけではない。何にでも手を出していろいろ興味にまかせてやっているうちに偶然(森田)療法を発見したに過ぎない」と言ったとも。

そして館野は「幸運の女神がほほえまなければ、森田先生は一介の無名の変わり者の町医者として一生を終えられたかも知れない」と述べています。(『形外先生言行録』より)

 

普通われわれ神経質者は、一流の大学へ入学したい、ぜひ弁護士になってみたいなどとある目的を持って計画を立て、綿密な予定表の通りにならなかったり、ある困難にぶつかってそのあげく煩悶したりして神経症症状を強めていくというパターンが多いのではないでしょうか。それと森田は随分違いますね。

もっとも、人の性格は一色にすべて仕分けできるものではなく、いろいろな要素が絡みあっているでしょうし、成長するにつれ各要素の消長も出てくると思われますが、森田のエピソードや行動をみていくと、森田は神経質性格だけではなく、何か強烈な変わった性格の持ち主だったと考えざるを得ませんね。

 

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岡本:

大原健士郎の著書『「不安とうつ」の精神病理』に出ている森田の病跡について紹介して頂きました。まず森田の父は「執着性格」で母は「循環気質」であり、森田は神経質というより執着性格ないし循環気質だった可能性があるという大原氏の説ですね。そろそろ森田の病跡を本格的に論じていきたいと思います。森田は自分の若い頃、試験前でも三味線の練習をしたことがあるから、何にでも関心を持ちなさいと館野氏に言ったというエピソードも出してくださいましたが、この話の読み方は難しいです。病跡学的な検証はまず良し悪しの価値観をまじえない客観的分析から始めねばなりません。ここでは森田を讃えている館野氏の発言の中で、若き日の森田はさまざまなことに好奇心を持って手を出した人だったというエピソードを頂いておきます。

さて、森田の病跡学に関する文献としては、同じ大原氏によるものがいくつか出てきます。そこで、大原氏によるそのような文献をまず以下に列挙して、次に説明を加えることにします。

 

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① 「人間「森田正馬」と森田療法」. 『森田療法―理論と実際―』, 精神科 MOOK No.19. 金剛出版, 1987

② 「森田正馬の病跡(Ⅰ)―森田の性格特徴と森田療法の起源―.日本病跡学雑誌 37号,1989

③ 「森田正馬の病跡(Ⅱ)―土佐の女性(はちきん)と家庭的療法―. 日本病跡学雑誌 37号,1989

④「森田正馬の人と業績」.『森田療法』,目でみる精神医学シリーズ―3,世界保健通信社,1990

⑤「森田正馬の病跡―その生き方と治療論―」,日本病跡学雑誌, 46号,1993

⑥『「不安と憂うつ」の精神病理』,講談社, 1996

⑦『神経質性格、その正常と異常―森田療法の科学』, 講談社, 1997

⑧『神経質性格、その正常と異常―森田療法入門』,星和書店,2007

 

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このように大原氏による、森田正馬の人物誌や病跡についての著作がいくつも見られます。ただし、内容は重なり合っている部分が多いので、それをざっとまとめる形で紹介します。

まず大原氏は、正馬の両親について、性格特徴を明らかにしようとしています。

正馬の母の亀は、結婚歴があり、別れて森田家に戻っていましたが、父の正文は21歳のときに、地元の郷士、塩井家から入り婿として来て、4歳年上で再婚の亀と結婚しました。婿として来るまでの20年間のことは、「我が家の記録」にも一切記されていませんが、正文は森田家に来て、慣れない農作業に独力で従事しました。誠実な正直者で、独立独歩の精神が旺盛でした。井戸を掘ったが水が出ないので、かなり遠くの丘の麓に清水の溜池をつくり、そこから家まで土管を敷き、7年をかけて水を導入したという逸話があります。熱中したらそれ一筋になるようでした。養蚕をしていて、病んだ蚕を観察し出したら、他の作業も忘れてしまうほどだったと言われます。小学校の代理教員もしており、自宅では正馬に厳しい教育をしました。

下田光造が提唱した性格特性に「執着性格」があります。大原氏は、正文はこの「執着性格」にあたると指摘しました。

下田は、「執着性格」の特徴として、仕事熱心、凝り性、徹底的、正直、几帳面などを挙げており、うつ病に親和性のある病前性格としていますが、うつ病になるとは限りません。

一方、母の亀は勝ち気、活発で男勝り、少しせっかちながら、熱心な働き者で、いわゆる土佐の「はちきん」でした。また人情にあつく、世話好きでした。大原氏は、母の亀は「循環気質」にあたる人だったとみなしています。「循環気質」とは、躁うつ病やうつ病に親和性のある気質として、クレッチマーが提唱したもので、社交的、善良、親切、活発、明朗、ユーモアなどの特徴が挙げられます。亀は実際に実母が亡くなったときなどに、うつ病になったエピソードがあります。

大原氏は森田の両親のそれぞれの性格特徴を、以上のように指摘しています。

 

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2.森田の「無頓着」な性格

 

岡本:

さらに大原氏は、森田自身の性格について独自の見解を示します。まず高良武久が森田は「完成された神経質だった」と回想していることに、疑問を投げかけています。

そして「伝説のように伝えられている森田正馬の「神経質」の性格」に疑義を呈して、神経質によくあるうじうじしたところがなく、大ざっぱで「無頓着」過ぎるところがあったという見方を展開しているのです。確かに森田の無頓着さの例は、枚挙に暇がありません。大原氏がとくに問題視しているのは、森田が自分の名前の読み方は「マサタケ」なのか「ショウマ」なのか、どちらでもよく無頓着だった点です。また原稿の執筆の際、原稿用紙の書き損じをせずに書き続けたことなど、神経質者には、とてもできない芸当です。けれども書いた原稿には、やはり中身の不統一や書き間違いがあったようで、さもありなんと思われます。持病の結核に対しては、大事をとり続けねばならないのに、療養のしかたはいい加減でした。食べ物や飲酒についても、摂生ができていません。そんな森田の無頓着さは、あちこちで見られました。

このように、森田の性格として、大原氏により「無頓着」が指摘されていますが、ほかに次のような特徴が列挙されています。

 

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1)「純な心」の人。

素直に自分の感情を表現し、自然に逆らわずに生きた人であった。

2)合理主義者

独断的で理屈っぽいが、言動はすべて建設的な姿勢で一貫していた。

3)好奇心(探求心)

幼い頃より好奇心が強く、奇術、奇蹟、迷信などにも興味を持ち、自分で手を出して確認した。遊びや芸事でも気の多さを示した。探求心の例として、高良武久によれば、ある日飼っていたニワトリが逃げたが、森田はニワトリを追うよりも、「なぜ逃げたか」に興味を抱き、しきりにトリ小屋をチェックして訝っていた。

4)負けず嫌い

しつこく、粘着的で、負け嫌いであった。

5)人間愛の人

誰に対しても人間愛を示し、森田療法の背景には、慈父としての人間愛があった。

 

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大原氏は、森田の性格特徴をこのように捉えながら、さらに「無頓着」を問題にしているのです。

ところで、高良武久が回想的に述べた「完成された神経質」という森田評については、その意味が、私たちにはわかりにくい、といううらみがあります。その「完成された神経質」という難解な像に対して、大原氏は森田像として「無頓着」の提示をはかったのです。では、森田における「無頓着」はその性格の中でどのように位置づけられるのか?

結局、大原氏は、森田のパーソナリティを考えるにあたり、両親の性格の継承として捉えています。つまり森田は父の「執着性格」と母の「循環気質」を併せ持っているとみなせます。強い探求心は父親ゆずりであり、オッチョコチョイでユーモラスで人情家だったところは母親ゆずりであったと言えます。このように、森田のパーソナリティを両親から受け継いだものとして、理解することが可能になります。

しかし、「無頓着」な性癖は、どこから来たものでしょうか? そして、それが神経質の療法の創案にどのようにつながったのかでしょうか?

「無頓着」に着目した大原氏自身、その答えを保留しておられるようです。

大原氏は最終的には、森田はわがままで、母や妻に対して依存心が強く、自分本位であったという見方を示し、神経質傾向を全否定することには慎重になっています(『神経質性格、その正常と異常―森田療法入門』、2007)。しかしそれでもなお、神経質なら考えられない「無頓着な面」があったことや、医院の玄関に「下されもの」の張り紙をしたような奇行への再注目を促し、「複雑な神経質」であったという一応の結論づけをしています。

私たちは、まず奇行への注目から、森田に対する新たな理解をはかろうと考えましたが、さらに無頓着への注目も加えると、森田理解が深まりそうです。そして、新たな理解として、発達障害、とくにADHDとの関係を考えざるをえないと思います。

つい講義調で長くなっていますが、杉本様はどうお考えですか。

 

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杉本:

森田の病跡についての、大原氏の説を詳しく解説していただいてありがとうございました。森田は神経質者であったとする従来の見方に反論し、大原氏は「無頓着」を指摘しておられたのですね。今日、なぜかこの「無頓着」説はあまり顧みられていませんね。私も初めて知りました。でも、言われて見れば、森田には無頓着なところが多々あったようです。ただ、無頓着というのは、何かに熱中していると、他のことに無頓着になってしまう傾向であるかも知れません。無頓着だけを切り離して捉えてよいのかどうかだと思います。つまり、無頓着は、態度の一面だけを見ている可能性もあるのではないでしょうか。

そう言えば、森田の父にはそんなところがあったようなエピソードが紹介されていますね。

私たちの森田の奇行への注目は、単に神経質では片付かず、無頓着に絡む病理の問題へとつながってきたのですね。それは発達障害、とくにADHDに相当するようですが、そのような私たちの見方を改めて開示して、さらに医学的視点からそれを補強してくださいますか。

 

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3.森田における発達障害、とくにADHDについて

 

岡本:
それでは、昨年(令和3年)来、杉本様に伝えて、一緒に(主にオンラインで)語り合ってきた森田正馬発達障害説、さらにはADHD説について、述べます。杉本様が、森田は何か強烈な変わった性格の持ち主だったと考えざるを得ないとおっしゃることと、きっと符合していくことでしょう。
発達障害の中の、ひとつの代表的な特性群として、「ADHD(注意欠陥多動性障害)」があります。次のような主要な症状が挙げられます。

1)不注意で気が散りやすい(注意集中困難)。
2)多動で衝動的。空気を読めず、思いつくとすぐに行動してしまう。
3)過剰集中。いったんある課題に熱中すると、過剰なまでにそれに取り組む傾向。内面に好奇心がいつも生起し続けていて、そのような特性は、一時的に外部からの刺激に衝動的に反応するだけで止むことはない。興味のある課題に熱中し出すと、それについての思考が脳内をめぐり、それにしたがって課題をやり遂げるために、行動のパワーが全開になる。そのため、状況に応じた切り換えは困難になる。

以上に、ADHDの症状の特徴をおよそ三つに分けて、私なりの理解に基づいて大まかな書きようをしました。ただし、理解を求めておきたいことがあります。そもそも発達障害という概念(したがってADHDという概念も)は、生物学的医学に依拠しており、脳の性質に関わりますが、それは人間としての価値観を伴うものでは一切ないということです。
さて、このようなADHDの大まかな診断項目に森田がどこまで該当するか、決めつけることを急がず、森田正馬という人の性質について、出生から成人後まで見直す必要があります。『我が家の記録』に、簡潔な自伝が出ていますので、主にそれに基づいて、出生以後の健康状態などをたどってみます。

 

 

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『我が家の記録』の冒頭に、きわめて重要な記載があるので、それを引用転記します。

「幼児殆ンド泣ク事ナク室内ニ閉ヂ込ミ置ケバ獨リ遊ビアキテ眠リ、或ハ獨リ佛壇ノ下ノ押入ノ内ニ眠リ居タルコトナドアリタリトイフ。
塩井ノ祖母、余リ此児ノ泣カザルヲ見テ或時「此子ハ馬鹿ニアラズヤ」トイヘルヲ後ニ家ノ祖母甚シク不快ニ思ヒテ「此家ニハ決シテ馬鹿ノ出来ル事ハナイ」トテ憤リタル事アリトイフ。」

泣かずに独り遊びをして、佛壇の下の押入に入って眠っていたことなどあり、あまりにも泣かないのを見て、父方の祖母は、馬鹿の子ができたのではないかと訝ったというのです。このように幼児が人とコミュニケーションを求めず、泣くことが殆どなく、独り遊びをしている様子からは、今日的な視点からすれば、通常発達障害の存在が疑われてしかるべきでしょう。森田の時代に発達障害という概念がなかったために、森田はそのような疑いを差し挟むことを知らずに、みずから率直に記載したものと思われます。もちろんこの記載だけで断定することはできませんが、発達障害、そのうちASD(自閉症スペクトラム障害)との親和性を思わせるエピソードではあります。

 

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小学校に入学した頃は成績優秀でした。しかし、小学校教師の父はしつけや教育が厳しいので、勉強嫌い、学校嫌いになっていきます。その父は農事繁忙で教師をやめ、我が子の教育も顧みなくなりました。小学校を出て、2年間無為に過ごした後、中学校に入学します。
小児期の病歴として、夜尿があり、14歳頃になってもなお年に2、3回はあったと森田自身記しています。同じ高知出身だった坂本龍馬も夜尿があったので、森田は龍馬に親しみをおぼえたようです。ちなみに、夜尿はADHDと併存する確率が高いことが指摘されています。坂本龍馬はADHDが疑われる著名人のひとりです。

 

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関心事については、少年時代に村の寺で地獄絵を見てより、生死の問題を考え、哲学や宗教に関心を持ち、迷信、奇術、奇蹟、骨相、人相、易学などに関心が及びます。一方、実学的なことにも興味があり、中学時代は将来電気工学を学び、発明家になろうと考えていました。中学三年のとき、学資を制限する父に腹を立て、家出をして無断で友人と上京するという大胆な行動を示し、郵便電信学校に入ることを志して東京で自活生活を始めました。しかし生活に挫折して、帰郷し、中学校に復学しています。森田は発明王エジソンに憧れたようです。長じてからも森田はエジソンを高く評価して、形外会などで引き合いに出しています。われわれの完全欲や向上心は自然の勢力であり、それを持ちこたえて工夫努力することが自然への服従である。エジソンはそれをなして発明家になったと、再三教えています。

また進路について、中学三年時の家出に続いて、高等学校入学の際にも大胆な行動をしています。父は進学に賛成せず、高知出身の大阪の医者が養子になることを条件に奨学金を出すことを知り、独断で応募して奨学金を受け、熊本五高の医科に入学しました。しかし養子契約は親にばれて、契約を解消し、従妹をめとることを条件に父が学資を出すことになりました。こんな縁で結ばれた従妹の妻が、森田を支え、後に家庭的療法である療法を進めるにあたって重要な役割を果たすことになったのです。

 

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父に対する反抗と絡んで思い切った行動をしたエピソードが、もうひとつあります。東大医学部に入ってから、一学年末の定期試験を控えて準備が遅れ、試験が近づいて一層気が散り、集中困難の状態になった―。以前からあった神経衰弱の症状の再発として治療を受けていたが、この頃父からの送金が遅れていた―。そのため、父へのあてつけに死んでやれと、服薬をやめ、「必死必生」の猛勉強をした―。その結果、意外にも好成績を修めて進級でき、神経衰弱の症状も雲散霧消したというものです。しかし、このエピソードには問題があります。まずは段取りが悪く、試験の準備に取りかかるのが遅れ、そのために直前になって焦って、集中困難になったのであろうと思われます。さらに父へのあてつけの心理は幼稚であり、猛勉強をしたから間に合ったということに過ぎません。ただし、「恐怖突入」の体験をしたことは、後に療法に生かされていきました。

 

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さて青年期から目立ってきたみずからの性癖について、森田は次のように記しています。「余ハ変人ニシテ剽軽者ナリキ。」
中学時代に、侠客のような格好をしたり、「心」の文字をあしらった紋付きの着物と羽織を着たら、それが学生間で流行になったと記しています。変わった服装つまり異装をする癖は、後年にも見られ、詰め襟の服装にこだわったのもその例です。
熊本五高時代には伯耆流居合術をやり、初伝を受け、真剣を手に入れ、友人たちの前で振り回して見せるのでした。何にでも好奇心を持って手を出す性癖を有し、それが森田らしいところでしたが、一貫性はありません。医師になってから女子体操学校に講義に行ったときなど、テニスやダンスまでしています。何か新しいことに手を出すとき、しばしば自身を野次馬と称しています。とにかく気の多い人でした。
しかし、自身の体験を契機に、「神経質」の療法に力を注ぐようになります。熱心さのあまり、衝動的、攻撃的な言動を示すこともありました。たとえば、強迫症状の手洗いをやめない女性患者に腹を立て、殴ったら症状が治ってしまったという話もあります。晩年になってから学会で精神分析の丸井に仕掛けた論争は、名物になりました。「神経質」の療法の追求は生涯を通じての課題になっていたのです。彼におけるその「神経質」の真贋性をわれわれは問題にしています。

 

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4. なお残る森田の神経質傾向

 

杉本:
森田の時代に発達障害という概念はなかったので、自伝を書くにあたり、そのようなことを考慮に入れなかったし、30年程度前に大原氏が森田の病跡を執筆された時期にも、なお発達障害への認識は十分に普及していなかったようで、その視点は導入されていなかったのですね。そして今日では理解が進み、ようやく発達障害も視野にいれた検討が可能になったのですね。
ADHDについての説明と、森田の自伝などから、エピソードをいくつも紹介してくださったので、それらを対照すると、森田は発達障害、とくにADHDに該当することが、改めてわかりました。
しかし、大原氏が、森田は神経質でなく、その反対の無頓着な性格だったと指摘する発言をなさったことについては感じることがあるのです。無頓着、つまり無関心になる態度は、今日的に見ると発達障害圏の、とりわけADHDの人に見られる特徴のひとつとみなしうる解釈ができるのですね。
その論旨はよくわかります。ただ、一方それでもって森田には神経質素質やそういう性格傾向はなかったのだと言ってしまうと、少し疑問が湧いてくる感じがします。発達障害は生物学的医学に依拠している脳の性質であり、人としての尊厳に関わるものではないことは当然ですから、注目されることに何の問題もありませんが、だからと言って森田が神経質でなかったと言い切れるのかどうか、私には疑問が残ります。要するに、発達障害圏内の人で神経質傾向のある人がいてもおかしくないと思うのです。
なぜ私がこのように考えるかと言うと、今まで森田の本を読んできて、とくに「形外会の記録」などから、直感的にこの人は神経質を生涯持ち続けた人だとわかります。そのように体感的にしか言えませんが、神経質のとらわれで苦しい体験を経てきた人以外に理解できないところがあるのです。
発達障害でも濃淡があるでしょうし、神経質にも深浅あり、性格も複雑に絡み合って皆一様ではありません。時代を経て神経質の特徴の消長も起こるし、ひとりひとりが多様で多彩ですから、一概に森田は神経質でなかったと言い切る見方をすると浅くなると思うのです。

 

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岡本:
ごもっともですね。
一応大原氏の発言のしかたについて補足しておくと、「神経質? 無頓着?」という疑問符つきの見出しで、慎重な書き方をしておられます。しかしやはり二者択一的な発想である印象は受けます。
最初に大原氏による森田正馬の病跡についての著書を杉本様が紹介してくださったのでしたが、大原氏の説を読み込んだら、神経質と無頓着と発達障害の三者の関係を考えざるを得なくなりました。また杉本様は、森田がたとえ発達障害であっても、彼が神経質であったことを排除することはできないという、貴重な発言をしてくださいました。そのへんのことを、もう少し述べてくださいますか。

 

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杉本:
森田のさまざまな奇行は、発達障害説によって解明され、なるほどそういうことかと納得できますが、自分として体験的には気がかりな点が残っています。とくにとらわれの最中にある神経質者同士が話し合ったり、一緒に寮生活(森田療法など)したりすると何となく「自分と同じ神経質者だ」と感じで大体わかるのですが、若き日の森田と出会うことができたら、どんな印象を持ったでしょうかね。
『神経質礼賛』を著した南條幸弘氏は自身のブログで冗談めかしてですが、相手が神経質者だと「共振回路で電圧がピークになるような感じです」とお互いにわかりあえると述べています。
森田の高弟、高良武久は森田の印象を( 老成した時期ですが )次のように語っています(『人間の性格』より)。
「人によっては全然博士とともにいることができなかった。どうしても窮屈でたまらないのである。そんな人はどちらかというと、非神経質的な人々であったように思う。神経質傾向の人はよく博士に理解され、また博士をよく理解した。そうして博士から計り知れないほどの心の糧を吸収したのである。」
結局、さまざまな奇行があった森田は、発達障害の範囲のとくにADHD傾向の人であったが、併せて神経質素質を持ち合わせていたのではないか、その多様性から森田療法を発見し、自らも人生の達人の域にまで達したのではないかということです。

 

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5. ここまでのまとめとして

 

岡本:
従来、森田は本人が神経質であったという根強い見方があるとともに、森田に奇行が見られたことは周知のこととして、伝説化してきました。そして、奇行は微笑ましいとともに、実は療法として合理的な教えに富むものであったとして、評価されてきました。そこにおいて、神経質と奇行の関係を深く問題にされることはなかったと言えるでしょう。
神経質者は、森田のように社会的に目立つ奇行をするものなのだろうか。あるいは、平気で奇行をする人は神経質に該当するだろうか。私たちはまずそのへんに疑問を持ちました。
一方、大原健士郎氏は、人間愛の人であったと森田の性格特徴を評価した上で、森田は神経質ではなく、無頓着な人であったと指摘しました。大原氏は、最終的には、森田には神経質な面もあって、複雑な神経質であったと自説を修正しているようですが、森田は無頓着な性格であったという見方を撤回したのではありません。
かくして、森田における「奇行」と「無頓着」をどう捉えるかが、問題になりました。そして「奇行」と「無頓着」について理解する鍵として、私たちは森田に、発達障害、とりわけADHDの特徴を見たのです。
安易に、いたずらに診断的な見方をしてはならないし、理解するためにあえて診断的な見方をする場合でも、慎重でなくてはならないと思います。また臆断が入ってもいけないと思います。そのようなことを自問自答しつつ、森田における「奇行」と「無頓着」を理解しうる鍵となりそうな見方として、私たちはやはり、発達障害、とくにADHDであった可能性を考えざるを得ません。
先に、発達障害のうちのADHDについて、基本的なことを記述し、さらに森田正馬の自伝などからその個性を窺い知ることのできる挿話のいくつかを書き記しました。両者を対照するとき、多くの点で森田にADHDの特徴が見られたことがわかります。より具体的に、それを簡単に整理して、以下に付け加えておきます。

 

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<ADHDがプラスに働いた面>
・ ADHDで旺盛な好奇心を持ち、さまざまなことに関心を向け、みずから手を出して実証し、「破邪顕正」を経て療法を創始した。
・ 過剰集中の継続の成果で、療法ができた。
・ 神経質者と反対に、空気を読めず(読まず)、自由奔放な行動をして見せ(多動)、自分の感情や関心に従って素直に行動するように促した。そのような森田の行動は奇行となることもあった。
・ 何事にも関心、研究心を持って、工夫しながら取り組むことで創造が生まれることを実際に則して教えた(好奇心、多動から創造へ)。ADHDであったエジソンを評価した。
・ 過剰集中の反面には無頓着があった。しかし、無頓着はおおらかさにも通じ、とらわれのない姿でもあった。

<ADHDがマイナスに働いた面>
・ 気が多く、持続力がなく、集中できなくなって、みずからを窮地に追い込んだ体験―
① 大学一年のとき、期末試験の準備の勉強に集中できなくなってしまったこと。
② 両忘会の釈宗活老師のもとに参禅したが、長続きせずにやめてしまったこと。公案を透過できなかったと言うが、問答以前の持続性の問題であったろう。

 

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【付記 : 無頓着の意味について】
「無頓着」という言葉は、今日、「無関心、気にかけない」という意味で、「神経質」の対語として用いられています。しかし「無頓着」の言葉の語源は元は仏教語の「貪著」にあります。それは貪欲に執着することを意味します。そして「貪著」を否定する言葉が「無貪著(無頓着)」なのです。大原氏は、神経質の対語として、無関心の意味で無頓着と言われたものでしょうが、仏教語として用いる場合は、執着から離れる境地を表す言葉になります。従って、療法として考えるとき、「無頓着」は別の重要な意味をも帯びることになりえます。

 

(第2回 了)

 

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【後記】
第2回を終えた後で、対談者のふたりは、なお討論を続けています。
結局、森田のADHDという本人の自覚しない異常性が患者に対して治療的に働いて、森田ならではの療法となったと考えられる、ということについてです。つまり、治療者のADHDが治療的要素となって、療法の土壌ができたと考えることができるのか。そういった病跡学的な評価に関してです。このことについて、次回に更に取り上げたいと思います。森田療法が生まれた土壌について、深い思索を重ねておられる杉本様に主導して頂く予定です(岡本 記)

 

森田正馬の病跡をめぐる杉本二郎氏との対談(第1回)―「神経質」と「発達障害」―

2022/04/19

杉本二郎氏の近影(右)

 

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【杉本二郎氏との対談に先立って】

 

森田療法とは、一体どんな療法なのか―。
それは、森田正馬によって創始された療法である。彼は精神療法についての研究に基づき、さまざまな試行錯誤や、工夫を重ねて、神経質に対する独自の療法を創り上げた。だから森田療法と命名された―。
そのように理解しておけば一応は正しい。と同時に単にそのように理解するだけでは表面的に過ぎる。森田療法を記号化された療法名のレベルで理解するのみでは、療法が形骸化する。森田自身、自分の療法を、自然療法とか、体験療法とか、家庭的療法などと呼び換えてもよいとしながらも、結局神経質に対する「余の特殊療法」としか言わなかった。まれに自分の療法という意味で、みずから「森田の療法」と称したくらいであった。つまり「俺流」の療法だったのである。
私たちがもっと理解すべきは、その「俺流」のところである。そのためには森田正馬の生涯についてもっと知りたいものである。幸い森田は日記を書き残している。また同時代の人たちによる評伝の類の資料も、多くはないが存在する。またそれらに基づく二次資料もある。しかし、それらの中で森田像は美化されて、実像が虚像になっている面もなきにしもあらずであろう。私たちはできるだけ、先人たちが触れないできた人間森田正馬の実像の、人間臭い面白いところを隠すのではなく、その覆いをはがし、そんな森田ならではの「俺流」の治療を今更ながらに味わいたい。
人間森田については、さまざまなエピソードが知られている。庶民的で、人間愛に満ちた、飾り気のない人であった。しかしかなりの変人、奇人であったようだ。そのような森田の人間性の独自さが、評価さるべき「俺流」の療法にどうつながったのだろう。
つまり私たちは、病跡学的視点から人間森田による療法の創造を探りたいのである。

病跡に関連して、あるエピソードを先に紹介する。筆者(岡本)が佛教大学の現役教員だったとき、私のゼミの森田療法に関心をもつある男子学生が、森田正馬全集の第七巻を読んで言った。「この人は幼稚な人ですねえ」。森田療法の深みをまだ知らない初心者の学生だったが、学生から語り口が幼稚だと言われるような一面が確かに森田にはあると言えよう。それは10年ほど前の話である。もちろん教師である自分が、森田の性格の独特さに気づいていないわけはなかった。それよりさらに以前に、大原健士郎氏による森田正馬の病跡についての論文が出たことがあった。ここで大原氏は、森田は神経質ではなく、むしろ無頓着であったと指摘しておられた( これについては、以下の対談の中で触れるはずである )。
森田という偉大なる人物について、病跡学という視点から論ずることはタブー視されてきたのだろうか。本格的に論じた文献には、大原以後遭遇しない。
しかし、おそらく多くの研究者が気づいておられるであろうと想定するが、筆者の判断をあえてここに記すことにする。
知られている多くの言行から、森田正馬は発達障害の圏内の人であったと考えている。さらに絞れば、その特性はADHDに当たると思う。ここでは唐突な書きようをするが、十分に検討した上でそう見立てているつもりである。( 昨年、精神科雑誌 “Legato”8月号に「森田正馬と森田療法」という小論を寄稿させて頂いたが、その末尾に、発達障害説を一言付け加えておいた。原稿の性質上、ADHDと踏み込んで記すことは控えた )。
発達障害やADHDという診断のことについては、対談の中で論じていく。

 

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前置きが長くなってしまった。杉本二郎様のことを述べねばならない。

名古屋に、森田療法に深く精通なさっている杉本二郎様というお方がいらっしゃる。森田療法の分野での深いご経験を有し、長年後進を指導なさり、さらに絶えざるご研鑽をお続けになっている。正知会の会員でいらっしゃるが、経験者にして実に賢者である。かつては名古屋啓心会で指導者をなさり、東京の東映映画会社本社勤務、名古屋のラジオ放送局勤務をご経験なさり、その傍ら、森田療法に関わり続けてこられた。杉本様は、吉川英治作の『新平家物語』の挿し絵などで知られる著名な画家、杉本健吉画伯の甥ご様である。ご自身も絵筆を振るわれ、名古屋のチャーチル会の指導的立場におられる。この杉本様と数年前にご縁を得て、お付き合い頂いている。私は森田療法でわからないことがあると、つい杉本様に甘えて尋ね、教えて頂くというわがままな癖がついてしまった。これは慎まねばならないことだが、昨年来、森田正馬発達障害説をお伝えして、メールを交わし、やりとりを続けてきた。そのオンライン上の対談的な交流は、このところ密になってきた。
そこで、最近のやりとりを少し巻き戻してホームページ上に再現しておきましょう、ということになった。それがリアルタイムのやりとりに追いついて、つながっていくか。予測はできないところがあるが、杉本氏とのオンライン対談の記録を、まずは現在より少し遡った辺から再スタートすることにする。

 

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1. 俺流のふたり―森田正馬と落合博満

 

杉本:
私は初期の名古屋啓心会活動をしたり、またそのあとは森田療法を受けたりして、気がついたら半世紀以上経ってしまいました。その間多くの神経質の仲間、そして森田先生から指導を受けられた先輩達と逢いました。老年になって今思うことは、森田先生の全集など事あるごとに開いては読み、先生の評伝も新旧のものを繰り返し手にとっていますが、私達と森田正馬先生とは少し性格が異なるのではないかという疑問をもちました。
無論、森田療法は神経症の素晴らしい画期的治療法であることは疑う余地はないと思っています。
ただ「俺流」というのはどうでしょう。森田療法自体は、さまざまな試行錯誤の上、科学的知見に基づいて構造的に組み立てられた普遍的な療法じゃないでしょうか。
それから、なんと言っても、先生の奇行の数々はどうとらえたらいいのかということがあります。長い間気になっています。天才にはありがちなものでむしろ微笑ましいのですが、私の出会った神経質性格の仲間たちでこのような奇行や、興味の対象をくるくる変える人に出会ったことがないからです。
仲間達と何回か集団で、雑談会に出たり、一緒に生活したりしましたが、会が盛り上がって、そのあと例えば東京音頭を踊りだすといったような神経質者に出会ったことがないですね。
果たして森田先生は純粋の神経質者だったかどうか、どの部類に属する性格の持ち主だったのか知りたいところです。たしかに、心悸亢進など私たちと同じ症状を持っておられたことはご著書でよくわかりますが、もっと天才的な通常とはことなる複雑な性格の持ち主なのではないかということを考えるのです。

神経質で色んなタイプの人がいます。ちなみに私は不安神経症だと鈴木先生に診断を受け、そして治していただきました。先生から「君は強迫観念が理解できないかもしれないな」と言われましたが、ごく普通の森田神経質性格だと思っています。

 

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岡本 :
森田正馬は神経質だったと言われるが、本当にそうだったのかという彼自身の性格のことについて、また奇行が目立つ人であったことをどう考えればよいかという点について問題提起を頂きました。これらは、話し合いの核心になる重要な問題ですから、このあと、ご自身のご意見も自由に披露してください。
その前に、私は「余の特殊療法」は、いわば「俺流」の療法だったと言いましたが、森田は科学的知見に基づいて普遍化できる療法を組み立てたのだから、「俺流」と言って然るべきか、その適否について、指摘を頂きました。軽口でそう言ったのは過去の発言の再現ではなく、この場が初めてですが、これについて説明責任を果たします。
「俺流」とは、プロ野球の中日ドラゴンズの球団に、選手として、また後に監督として在籍してその名を馳せた名古屋ゆかりの偉大なる野球人、落合博満氏の代名詞になっている言葉です。だから、まずは名古屋方面の方に対するリップサービスとして持ち出したのでした。しかしそれは、ゆえなしとしません。落合氏は、球界では変人として通った人で、その点森田正馬に似ています。変人ぶりは両者に共通であったかどうかは一概には言えませんが。
落合氏の特徴は、簡単に言うと、プロとしての自覚に基づき、野球を勉強し、研究し、野球における科学を追求し、野球に科学を持ち込んだ第一人者でした。そして科学の限界を知って現実に直面し、自分の道を切り拓いた人でした。
指揮官になってからは、球界の悪弊を排し、管理野球を嫌い、選手たちの自由を重んじました。そして科学的な取り組みを教えながらも、その先は選手が体得するように、言葉少なに促したのです。プロの世界は結果がすべてで、それは本番でやるしかなく、グラウンドでは賭けに出ざるをえません。リスクがつきものですが、責任の大半は起用する監督の自分が負ってやるという温情の人でした。しかし、選手自身は現実を見極めねばなりません。その意味で冷徹な指揮官でもありました。立場上、人前ではポーカーフェイスのようなところがあったけれど、別の場では、抑えきれない感情が堰を切り、大声で泣くこともあったそうです。
選手時代の落合氏は三冠王を3度取得しており、3度目に取った三十代はじめに、『なんと言われようとオレ流さ』という本(講談社、1986)を出しています。落合式では、「オレ流」と書くようです。この「オレ流」の人は、自分が特別な指導者に恵まれたわけではありません。学生野球をしていた頃には、野球部内の体罰の横行などむなしい体験をして、それが反面教師になり、孤独な努力を経てプロ野球への入団にこぎつけました。
スポーツでは、よく「心技体」の調和の必要性が言われます。このうち技術や体力は、かなり資質や素質によるところがありますが、「心」の部分がどんなスポーツでも問われます。優れた指導者に恵まれれば幸いですが、まずは自分が、今で言われる「やる気、本気、根気」を持つ必要性があります。そうすれば、おのずから研究心が湧いてくるでしょう。師がいたとしても、頼れるのは自分だけです。いや、その自分さえ頼れません。スポーツの場合、自分の体は研究や管理の重要な対象になります。自分の体に合わせて、どのように練習をするか、方法を見つけねばなりません。そこに「オレ流」の研ぎ澄まされた「心」の働きが生かされているのです。「心、技、体」はつながって結果を生みます。「心」はおのずから働いてしかるべきで、本来切り離して扱うものではありません。それに徹するのが、おそらく「オレ流」なのでしょう。
不安をどうするかというような、心を対象化する課題が入り込む余地はありません。ですから、「オレ流」は、困ったときに、たとえば「禅頼み」をするような取り組みとは無縁です。しかし、「オレ流」は自他に責任があります。「オレ流」をチェックしている「オレ」が必要です。そんな落合氏を助けていたのが、姉さん女房の夫人だったようです。森田正馬には治療の協力者だった妻、久亥がいました。
そう考えると、落合氏の「オレ流(俺流)」と森田の「余の特殊療法」の間に、決定的な違いはあるでしょうか。むしろ両者はかなり通じ合うものであるように思えるのです。
ちなみに、落合氏が口にした普通の発言の中に、森田療法の立場から名言と受け取れるものがありました。それをいくつか、引用しておきます。

・「何でもできる人はいない」
・「いいんじゃない、うんと苦しめば。そんな簡単な世界じゃないよ」
・「信じて投げて打たれるのはいい。…一番いけないのは、やる前から打たれたらどうしようと考えること」
・「『まあ、しょうがない』と思うだけでは、しょうがないだけの選手で終わってしまう」

 

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以上が私の説明ですが、やりとりの最初からいきなり脱線してしまいました。軌道修正をお願いいたします。

 

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杉本:
いやぁ。ドラゴンズを話題に引っ張り出していただいて嬉しいですね。
そういう独自の探求を成し遂げた「オレ流」なら森田先生と落合博満氏の共通点は、たしかに感じます。単なる自分勝手なだけのオレ流ではないのですね。
私も、選手でドラゴンズにやってきた落合博満氏は最初から変わった人だなと感じました。
まず最初に打撃フォーム。振り幅のコンパクトな所謂「神主打法」、あれは相当な強い体幹と腕力がなければ出来ないし、バットにボールを当てる確率はそれでグンとあがりますよね。それを人に見せることなく陰でコツコツ積み上げたものだと聞いています。相当な試行錯誤があったのでしょう。
それと一番変わった人だと感じたのは、落合氏が監督になってからの采配です。
2007年、ドラゴンズがセ・リーグで勝ち上がり、日本シリーズの対日本ハム戦でのことでした。ドラゴンズが日本一に王手をかけた第5戦。ドラゴンズの山井大介投手は8回までパーフェクトピッチング。1ー0 であと9回表の3人を打ち取れば完全試合達成です。その時落合監督は、なんと山井に代えて押さえの岩瀬投手に登板させたのです。
落合監督の采配に球場全体が唖然とし、そして呆然となったのをテレビで観ていて感じました。
今まで日本シリーズで完全試合が達成されたことはないのです。また今まで完全試合を前にその投手を交代させた監督もいない。
それは勝つという一点だけ見据えれば、クローザーの岩瀬投手を出した方が確率が高いことは間違いない。その落合監督の勝ちへのこだわり、執着心に一般とは変わった性格をみるのです。まさに冷徹な指導者です。
この件には「理解出来ない」と言う野球人が多かったのも事実です。
私が名古屋のラジオ局時代、仕事の関係で元ドラゴンズの選手、谷澤健一氏(当時野球評論家)と知り合いだったのですが、彼も「あれはないよな」と言っていました。
もっとも、落合監督の後の談話では「山井は指の血豆が潰れ、自分から交代を求めた」とのことでしたが、山井投手は最初は「いけます」とコーチに告げているのです。
完全試合を前にした投手に血豆が潰れたぐらいで「どうだ調子は?」と訊くこと自体おかしなことではないでしょうか。
山井投手は、これは代えられるなと直感的に思ったのでしょう。
余談ですが、マウンドに向かった岩瀬投手は顔面蒼白だったそうです。予期不安の大きい神経質者はプロ野球選手には向かないかもしれませんね。

長くなりましたが、天才落合氏には、少なくとも森田先生と共通する「変わった人」だなという認識があります。
ただ森田先生の行動には時により愛嬌があります。落合氏の私生活はわかりませんので、なんとも言えませんが。
物事に対する大変なこだわりはお互いに共通するものがあるとはいえ、森田先生には、例えば電車の中で、わざと見せびらかすように大きな懐中時計を出して見みたりして、なんともご愛嬌です。
冗談ですが、落合氏の場合は「かあちゃん」(妻)が大きな役割を果たしていたのかもしれないけど。

 

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岡本:
森田正馬先生と落合博満氏というふたりの偉大な人物を、時代を超えて変人という視点から取り上げました。落合氏についても興味はつきませんが、ここでは落合論はさておいて、森田のことを掘り下げましょう。すでにご指摘くださったように、森田の変人、奇人ぶりは巷間よく知られていました。その森田は自身が神経質者であったと言い、かつ神経質概念を提唱した人でもありました。両者は入れ子の構造になりますから、森田が純粋な神経質者であったかどうかについて、彼自身の言説から検証するのは困難です。引っ込み思案になりがちな神経質者にはとてもできないような奇抜な行動をする人でしたから、典型的な神経質者であったとみなすには無理があります。では森田のパーソナリティの特徴はと考えるとき、おっしゃるように、やはり変人、奇人の面に手がかりがあると思われます。
さまざまなエピソードがあります。たとえば、見舞いの贈り物のしかたついて書き記した「下されもの」の張り紙を玄関に掲示したことはよく知られています。こんな示し方は一見非常識だけれど、気がつかない神経症者に対する合理的な教えであったとして、今日でも森田を讃えるために引き合いに出されます。しかしそれは本当に適切な指導だったのでしょうか。考えてみれば、このような露骨な掲示は、社会的に見て異様だったと言わざるを得ませんね。
先入観を持たずに、森田の言行をもっと洗い直して、人間森田を貶めようとするのではなく、再評価したいものですね。

 

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2. 奇行は神経質の特徴なのか?

 

杉本:
森田の好奇心からの奇行というか、変わった行動については、多々伝えられていますが、私が驚いたことがありますので、述べてみます。
正知会会長の畑野文夫氏が大著『森田療法の誕生』であるエピソードを紹介しています。同氏は「さして重要ではないが正馬の一面がうかがえる」と前置きして、森田の日記の一部を引用しながらその「奇行」を披露なさっています。
妻、久亥との東京での生活が始まった頃の1901年(明治34年)、森田は大学4年の学生でした。そこへ同郷で藤次という男が法律を学びたいと森田を頼って上京してきたのです。
まず職探しをしてやったが、書生の口が見つかりません。そこで車夫にさせようと警察へ同行して鑑札を取得させました。
そして稽古です。藤次は森田を乗せて上野へ行きます。運よく客が見つかり藤次は車夫として客を乗せました。そこまでは、森田は面倒見の良い人という感じです。
その3日後のこと、森田は自らハッピを被り車夫の格好で藤次を乗せて上野へ行くのです。何と森田は車夫になりきっています。上野ではあいにく客が見つからず、こともあろうに大学の赤門前で客待ちをするのです。客は見つからず、自分が車夫になって、藤次を乗せてスタコラと帰宅しました。車夫になりきって車を走らせるこの行為は奇行と言うか、何と言うか、驚きそのものです。
私は、学生時代にあの近くに下宿していましたので、多少は地形が分かりますが、かなりの坂道があったように記憶します。初めて車を引くとなると、バランスを取って上がったり下がったりして走り、かなりの力と技術がいると思われ、難しいのとまた危険な行為でもあると考えられます。しかし、それ以上に問題なのは、鑑札を持っていない森田が市中で車夫の真似をしたことで、幸い客は乗りませんでしたが、遊び心も度が過ぎて、この行為は常軌を逸していたと言わざるを得ません。
畑野氏は「当時のエリート、東京帝国大学の学生で車引きをした者が果たして他にいただろうか…」と述べておられます。

その頃の森田の日記の原文が手元にありますので、この日(明治34年12月29日)のことを書いたくだりを以下に引用掲載しておきます。

 

「十二月二十九日(土)、夜、余ハハッピヲ被リ車夫ノ出立ニテ藤次ヲ乗セテ上野ニ行キ、後余ハ車ヲヒキ藤次ハ後ヨリ従ヒテ客ヲ求メタレドモ得ズ、上野ニ藤次ト共ニ牛めしヲ食ヒ少シク酒ヲ傾ケ更ニ出テ客ヲ求タレドモ得ズ、再ビ大学赤門辺ヨリ藤次ヲ乗セ他ノ車夫ニ劣ラズ走リテ藤次ヲ驚カセタリ」

 

森田のこのような行為を神経質性格とからめて理解できるのかと悩むところです。
これら奇矯とも思われる森田の行動と独特の性格は、後年に家庭的療法とも言われる治療を実施する際に大きく役立っていくのではないかと思われます。「奇行」の意外性は「余の療法」の「場」における技法の重要なエレメントになっているのではないかと思うのです。しかし、このような逆説的価値の問題は、今一挙には語れませんので、追って述べさせてください。

 

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岡本:
森田がハッピを着て車夫の真似事をしたエピソードは、森田を美化するタネにはならないから、森田を崇拝する人たちも取り上げなかったのでしょうね。杉本様は、森田の言動の特徴に神経質というより、やはり奇矯さを見ながら、それが療法の要素になったとして、逆説的に評価しようとなさいます。興味深いところですが、改めてお聴きするとして、森田は神経質であったのか否か、あるいは別のカテゴリーに入るのかという、病跡学的な診断レベルの話しを続けたいと思います。

 

(第2回に続く)

森田正馬の目移り―座禅から静座法へ―

2022/03/07

森田が谷中の両忘会に参禅した明治43年、折しも両忘会と目と鼻の先の本行寺で岡田虎二郎が行っている静座法が注目を浴びていた。参禅をやめた森田は早速そちらを見学に行った。そこで、今書いているこの記事も少々脱線して、静座法と森田療法の関連について、主な人々の相関について記しておく。

 

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・岡田虎二郎と静座法。岡田は愛知県田原町出身。農業をしていたが、突然アメリカに遊学して、帰国後、日本の伝統文化も西洋文明も否定し、個人の内側から湧き出る内的霊性を重視し、東京に出て、明治末より日暮里の本行寺という真宗の寺を借りて、静座法を始めた。多くの人たちに知られるところとなった。

 

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・森田正馬は、明治43年に2月から5月頃まで谷中の両忘会に参禅したが、同年7月に、岡田虎二郎の静座法を見学に行っている。静座法がおこなわれていた本行寺は、谷中墓地の向かい側にあり、両忘会があった谷中初音町二丁目にもきわめて近い。森田は両忘会から、本行寺へと目移りしたと言われてもしかたあるまい。

 

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・京都に小林参三郎という医者がいて、彼も静座法をやった。小林は、兵庫県出身で、東京に出て医師資格を取った後、渡米し、サンフランシスコの大学で医学を研究し、学位取得、外科を専門とした。その後ハワイで日本人慈善病院を設立、一時帰国して郷里に戻ったときに、真言宗の僧侶と会い、その後真言宗との関係が続く。明治41年に帰国し、真言宗の慈善病院設立の動きに加わり、明治42年に、京都の東寺に建設された済世病院の院長となる。真宗の僧侶たちとも交流した。最初は、霊術的な治療をしていたが、小林は夫人と共に上京して岡田式静座法を学び、大正二年より、岡田を京都に招いて、済世病院や各所で静座会を開いた。

・宇佐玄雄が初めて小林に会ったのはいつかわからないが、森田が大正14年に三聖病院を訪れた時に、小林も三聖病院に来て森田の診察を見学し、森田は小林のところに行って晩餐を共にした(森田の日記に記録あり)。

・岡田虎二郎は、大正九年に病没。

 

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・倉田百三は、小林の著書を読んで、静座をしたくなり、大正14年に済世病院に入院したが、入院して一週間後に小林参三郎は急逝した。倉田は、ここで静座に入る前に臥褥療法を受けていた。これは、小林が森田療法を自分で真似たのか、森田、または宇佐に相談して倉田向けに森田療法的に臥褥をさせたのか、または病弱な倉田のために臥褥から始めさせたのか、不明。倉田は静座をさせて欲しいと、小林夫人に強く願い出たが、結局済世病院に入院を続けながら、三聖病院に通院した。倉田は、ここで宇佐玄雄から厳しい指導を受けたことを『神経質者の天国』」に書いている。父の病の悪化のため、済世病院に入院しながらの三聖病院通院は短期間で切り上げて、倉田は藤沢に帰った。その後も、彼は京都の小林夫人を度々訪れている。三聖病院には来ず。

・倉田は父の没後の昭和2年に森田診療所を受診。日曜日ごとに森田の診察を受けに来た。この時期に、入院中だった若き鈴木知準先生は倉田にお会いになった。

・ 岡田、小林、森田、宇佐、倉田の関係はおよそ以上のとおりである。

 

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・ 宇佐は、建て前としては、自分の療法はひたすら森田の祖述であると言っていた。しかし、晩年には、真宗思想に傾いた(真宗的と言っても、不断煩悩得涅槃、また自然即時入必定、などの頓悟に似た原理的な厳しい易行の教え)。

・ 宇佐が真宗に傾いた原因のひとつとして、小林とその周囲にいた仏教者たちの超宗派的な姿勢の影響があったかもしれない。小林や小林夫人の静座法は、仏教各宗派と近い関係にありながらも、仏教とやや距離を置き、精神的に深い問題は仏教に委ねるという関係を作っていた。ちょうど、白隠の内観や軟その法は、禅そのものではなかったという関係に似ている。仏教との間に相補的な棲み分けがなされていた。

・ 結局、森田が静座法をどのようにとらえたかについては、よくわからない。

長続きしなかった森田正馬の参禅―禅に対する奇妙な態度―

2022/01/16

釈宗活 著『性海一滴』(明治34年)

 

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1. 森田正馬の禅観

 

森田正馬は、明治43年に谷中の両忘会の釈宗活老師に参禅したが、参禅はあまり長続きせず、また与えられた公案も透過できなかった。参禅した日々のことは、日記にごく手短に記されているが、内面的にどのような体験をしたのかについては、森田は何も書き残していないので、不明な点が残っている。しかし、参禅した事実については、後年に形外会で繰り返し言及している。最初は昭和6年の第17回形外会での発言であり、次のように述べている。

「私は二十余年前に、釈宗活師について、三、四回、参禅した事がある。考案は「父母未生以前、自己本来の面目如何」という事であったが、ついに一度も通過する事はできなかった。ただの野次馬であるから、本当の事のわかるはずがないのであります。」

形外会で、禅についての自分の立場や見解を述べるべき場面で、まず自分は釈宗活老師に参禅したが、考案(記録のママ)を通過できなかったので、物好きの野次馬であり、禅の悟りのことなどわからない、というほぼ毎度同じ紋切り型の弁明的な言葉を、計4度述べているのである。
ただ、このような自己卑下とも見える前置きに続いて、自身の禅観が開陳されていることもあって、その点は興味を引く。前出の昭和6年の形外会では、前置きの弁明の後に、禅のあり方に対する敢然とした批判の発言が続いている。森田の禅観がわかるので、その部分を引用しておく。

 

「禅と僕のところとの相違は、禅では坐禅で坐っていて、ユートピアとか、平常心是道とか三昧とか、自分自身の気分の中に、それを得ようとする。私のは、それと全く違う。気分を根本的に排斥して、日常生活の実際に、ユートピアを得ようとする。で、気分の方はややもすれば、野狐禅に陥りやすく、私の方は間違っても、実際的の向上心になるのである。」

 

昭和3年に森田は釈宗活老師と再会する機会に恵まれていて、形外会で参禅体験についての弁明を持ち出したのはそれ以後のことである。いちいち卑屈なようにも見えるが、決して釈老師への批判ではなく、入門の段階で参禅をまっとうしなかった自身への謙虚な悔いを枕として、その上で自分が到達した禅観を自由に述べたのであろう。たとえば、上に引用した森田の語りには、その面目が躍如としている。

だが、あえて付け加えるなら、禅に対する森田の舌鋒には勝ち誇ったようなところがある。自分の療法は禅から出たのではなく、神経質の研究から出た心理的原理から、禅の語を便利に説明に用いるようになったに過ぎないと言う。実際、森田は禅への造詣が深く、それゆえに安易に混同されることを嫌ったのであろう。しかし、それにしても、禅に対する構えがやや不自然である。症例として、禅をやり公案を百も通っている心悸亢進症の弁護士は、家で坐禅をしていれば「平常心是道」になれるが、電車の中では平常心になれないという例を挙げ、自分の神経質の療法は、禅の修行や説得だけではできない治療法なのであるという自負を示している。禅への仮借のない批判は、釈宗演や忽滑谷快天のような高名な禅家の著作物にまで及んだ。
このような森田の禅観は、みずからの参禅体験とどのようにつながっているのだろうか。

 

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2. 森田正馬の参禅はなぜ長続きしなかったのか。

 

宗活老師への参禅を遡ること約10年、東大の第一学年の学生であった森田は、明治32年春、学年末の試験を控えて友人たちと箱根の禅寺、宝泉寺に試験勉強のために下宿をした。坐禅にいそしみながら、勉強に専念したのかと思いきや、勉強に身を入れず、箱根や小田原を連日歩きまわる始末であった。その結果、6月の試験期には苦境を迎え、勉強が一層手につかず、父の送金遅れを理由に「死んでやれ」と必死必生の体験をしたエピソードにつながっていく。
ともあれ、勉強のために滞在した禅寺で、昼間は散策に羽を伸ばし、夜は住職と語り合った。ある日の日記に次のような記述が見える。和尚に対して「余曰く、もし禅が一部の人にのみ行はれ、これにのみ一生を終わるものならんには、そは人生の禅にあらずして、禅のための禅、ひとつの芸術にして床の置物たらん。事業に、学問に、政治に、軍事にこの禅が活用されてこそ初めて人生の禅たるべし。…など様々の屁理屈を並べて興がりたり。」
学生時代から仏教を深く学び、かつ追求していた森田が抱かざるを得なかった禅への疑問であり、それを和尚にぶつけたのであった。だが禅寺を選んで宿泊したのなら、たとえ作法としてでも、なぜそこで坐禅をしなかったのか。そして和尚に対する礼儀をわきまえない挑戦的な発言は、非常識のそしりを免れない。勉強目的で滞在しながら勉強に集中しなかった自業自得の怠慢に加えて、禅寺に宿泊して禅をけなすという非礼さには、脱線しやすい森田の性癖が現れている。

医師になって神経質や強迫観念の患者の診療にあたるようになった森田は、改めて仏教や禅の生かし方の問題に直面する。
宗活老師に参禅する前年の明治42年の論文、「神経衰弱性精神病性體質」(雑誌『人性』第5巻、第5-6号、1909)では、強迫観念の患者が人生に煩悶した例を示し、このような煩悶者を解脱せしめるために、宗教家の示教を希うしかないという次のような文章を付け加えているのである。

 

「是等患者ノ如キモノヲ煩悶者トシテ宗教家モ大二説アラン、余ハ切二識者ノ示教ヲ希フ、是等患者ガ其煩悶ヲ解脱セントスル二理論的ノ解決ヲ以テセントスルハ已に其病的心理状態ノ性質二鑑ミルモ容易二其不可能ナル事ヲ知ルヲ得ベシ。佛語ヲ藉リテ之ヲ喩フレバ其所謂結驢(繋ガレタル驢馬ガ廻リ々々テ其杭二カラマリ動キモ得ナラヌ様)トモイフベカラン、…。」

 

かくして、10年前に若き学生の森田が箱根の禅寺の住職に臆面もなくぶつけた「人生の禅」という課題は、煩悶する患者の人生を前にして惑う治療者、森田自身に差し戻されたのである。
しかし、この頃の森田は仏教や禅の活用に心血を注いでいたわけではなかった。明治42年には心象学会に入り、山伏の火渡りや熱湯術を見ており、自分も手を熱湯の中に入れて火傷を負った。しきりに催眠術をやっていた時期でもあり、また女子体操学校に入り浸っていて、講義をするだけでなくテニスをしたり、夜は舞踏会に参加したりと大わらわであった。
一方明治40年(34歳)頃から富士川游と知り合い、住所が近くでもあり、富士川のもとに出入りするようになった。そして富士川の助手格であり、釈宗活の両忘会にも関わっていた藤根常吉の勧めで、明治43年から両忘会に参禅することになったのである。森田は日記に参禅のことを淡々と手短にしか書いていないが、参禅についての日記のすべての記述を以下に抽出して紹介する。

 

二月五日
藤根常吉氏二勧メラレ、両忘会二入會シ、槐安国語の提唱ヲ聴キ参禅ス。藤根氏ト共二帰リ晩酌ス。
六日(日)
谷中初音町両忘會二参シ摂心中、毎朝参禅スル事トナル。考案ハ「父母未生以前、自己本来ノ面目如何」ナリ。午後二時天龍院二釈宗活師ノ禅海一瀾第二則ノ提唱ヲ聴ク。
七日
朝、参禅、師曰、禅ハ理ヲ以テ推ス二非ス、身ヲ以テ考案ト一致スル二アリ。三昧二入ルベシ。坐禅ヲ怠ル勿レト。
八日
六時起床、両忘会二坐禅ス。午後提唱二出席。
九日
午後両忘会提唱、摂心終リ午後茶礼アリ。
三月六日(日)
藤根氏(彌生町二)余ノタメ二余ノ朝寝ヲ起シ二来ル。昨日余ガ参禅ヲ怠リタルガタメナリ。毎月摂心ハ五日ヨリ五日間、二十二日ヨリ三日間ナリ。
五月十六日
坐禅ス。
十七日
坐禅。

 

参禅についての日記の記録は、以上ですべてである。熱心に参加したとは到底思えない。坐禅を怠る勿れと老師から言われたにもかかわらず、休むことが多いので、藤根常吉に心配をかけたりしている。日記に見る限りでは、摂心への参加はせいぜい3カ月程度であった。
強迫観念の患者の人生の煩悶を前にして、宗教家の示教を求めた森田のもとに、在家禅の指導者の釈宗活老師との出会いという願ってもない縁が訪れたのである。まさに正念場であった。ところが、森田においては、大事なことから逸れてしまう奇妙な傾向があった。
尤も、森田の療法と重なっていったのは、大乗仏教の根本である「煩悩即菩提」であり、公案と格闘し、坐禅をして見解に達する禅ではなかったのは確かである。デマルティーノに倣って言えば、神経症における悩みこそナチュラルな公案であり、わざわざ与えられる公案は神経症を模して人工的に人を疑団に陥れるものである。ナチュラルな公案によって大疑を体験してこそ、ナチュラルな大悟に至る。神経質や神経症を対象とした森田は、ナチュラルな公案の道に療法を切り拓いていった。坐禅と公案を重んじた宗活老師とまったく同じ道を歩んだのではないが、到達するところは同じなのであった。結果論としての両者のこのような違いと、森田が参禅に長続きしなかった、持ち前の脱線癖とは、区別されるべきである。この点は、森田の病跡という見地から、さらに論じ続けるべきことであろう。

謹賀新年―歩いても歩いても Bonne Année! ―

2022/01/16

歩いても、歩いても。

 

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Bonne Année!
明けましておめでとうございます。ご挨拶が遅れましたが、当研究所はこんなペースで活動しています。
森田療法は百年の節目を越えて、これから新たな歩を踏み出さねばなりません。歴史を振り返りつつ、温故知新の道を歩まねばなりません。焦らず、たゆむことなく。
こちらでは診療はしていませんが、その分じっくりと自分を見つめ、森田療法を見つめることをわれわれのつとめとしています。集って一緒に勉強もしたいと思います。また国内国外を問わず、オンラインで自由に交流を深めたいと思います。なにしろ、ローカルにとらわれないオンラインでの交流は、この研究所がコロナ以前から進めてきた方法ですから。
そして自分たちなりの小さな気づきをお伝えしていきたいと思います。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
歩いても歩いても、Bonne Année! すなわち、日日是好日です。

 

平成4年1月

 

京都森田療法研究所
主宰者 岡本重慶
研究員 一同
協力者 一同

森田正馬が参禅した老師、釈宗活―その人物と生涯―【修正版】(下)

2021/12/19

 

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(承前)

 

5.「粋(いき)」を究めた人、釈宗活

宗活は、幼少より、父から書画などの芸術を含む幅広い情操教育を受けて育った。禅に関心が傾いて今北洪川に弟子入りしたが、もともと芸術家として身を立てようとしていて、その頃、東京美術学校の学生であった(両忘会に参禅して宗活の弟子になり、出家して京都の大徳寺の管長になった後藤瑞巖の伝記、島崎義孝の著作による)。円覚寺に入ってからは、鎌倉彫の仏教彫刻を身につけた。参禅した夏目漱石に、三味線を引いて大道ちょぼくれを歌って聞かせたという。
西山松之助という江戸文化の研究者がいた。西山氏は、釈宗活老師に私淑して、学生の頃に択木道場に住み込んでいた人である。自分は禅だけでなく、歌舞伎にも関心を持っていたところ、宗活老師自身が歌舞伎に通じている方であったということを、回想として著書(『ある文人歴史家の軌跡』)で、聞き役の人に対して述べている。
当時歌舞伎の女形の有名な役者がいて、それが宗活老師の親戚だったこともあって、老師は歌舞伎に詳しかった。
また、宗活老師には、恵直(えちょく)さんという素晴らしい女性がおられた。恵直さんは奥さんだったかどうかはわからないけれど、新橋の医者の娘で、若いときから河東節をやっていて、歌、三味線ができた人で、知らない曲はなかった。河東節の名取名は山彦不二子といい、NHKの音のライブラリーに吹き込んだ曲が沢山残っている。老師はこの恵直さんから河東節を教えられた。
老師は、古希になって一旦引退して、関西に移り、多田の隻履窟という住まいにいた。そこを訪れたら、昼間は老師は絵を描いていて、夜になると河東節が始まって、恵直さんが三味線を弾いて、助六を語る―。
禅と歌舞伎がこういうふうに結びついていた。枯れている禅ではない、艶っぽい禅、色っぽい禅だった、というのである。
隻履窟は、別名残夢荘で、兵庫県川辺郡多田村にあった田舎家である。現在は川西市内にあたるが、地図を見ても、人里離れた山間の地のようである。
宗活老師は、昭和15年から3年間、ここに隠棲して、書画などを制作する遊戯三昧の日々を送った。山間の自然と書画と禅と河東節が溶け合った、粋(いき)の極致であった。

 

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6.河東節の山彦不二子(禅の徳永恵直)

西山松之助氏は『ある文人歴史家の軌跡』の中では、宗活師匠の侍者のような女性のことを、しきりに「恵直さん」と言っている。それは禅子としての道号だろうと推測されたが、西山氏は河東節の山彦不二子の面ばかりを語っていたので、浄瑠璃を語るお座敷の出身の女性かとも受け取れて、人物像として不明のところがあった。
ちなみに、浄瑠璃のひとつである河東節は、代表的な江戸浄瑠璃で、歌舞伎の伴奏音楽としての地位にあったが、次第に常磐津などの他の節に人気を奪われ、お座敷で語られる浄瑠璃として、通の人たちに愛好されるようになっていた。したがって、河東節は吉原との関係が深かった。河東節のそのような背景もあり、山彦不二子(恵直さん)の経歴や宗活老師との出会いについて、ほとんどわからなかった。しかし、西山氏の別の著書『家元ものがたり』や、禅関係の文献から、この女性の人物像や老師との間柄が浮かび上がってきた。
この人は、芳紀十九歳より、父の徳永医師と一緒に釈宗演の門に入って修行をしていたという。宗活老師がインドから帰朝したときに、東京での両忘会の再興を宗活老師に請いたいという嘆願書を、宗演老師に対して出した数人の在家の居士たちがいたが、その中に徳永父娘も加わっていた。この数人は、インドに渡る前から宗活を知っており、宗活に信頼を寄せていた人たちである。夏目漱石のように、円覚寺で宗演老師に参禅しながら、塔頭の帰源院で宗活の世話になった人たちがその主要メンバーであったと考えられる。徳永父娘は、娘の方が修行の進度が優れていて、「慧直」という道号を宗演老師から授かっていた。父娘は再興後の「両忘会」に参加し、日暮里の農家の建物を道場用に買い取って寄進している。若い愛娘に河東節を習わせ、禅の修行に連れて行って、修行では娘に遅れをとりながら、道場の建物を寄進した父親も、風流な人だったように思える。
恵直は、宗活老師がサンフランシスコに布教に渡った折にも、共に渡米し、アメリカで修行を続けて印可を受け、芙蓉庵劫来慧直老大姉となった。
こうして慧直(恵直)老大姉は、両忘会内における重要な人物のひとりになるとともに、個人的には宗活老師の「常住侍者」として仕えるようになっていく。宗活と恵直は、強い信頼関係によって結ばれていた。
禅の方で老大姉になった恵直は、河東節においても、山彦栄子師匠より芸道を受け継ぎ、名取の山彦不二子となって、その分野で活躍した。
禅においては宗活が師、河東節では恵直が師で、粋な関係の二人であった。

 

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7. 在家禅(居士禅)の指導者であった釈宗活

宗活は蘭方医の息子として生まれ、医家を継ぐべく育てられたが、相次ぐ両親の死で孤独を生き、その中で禅に活路を見いだした人である。出家したが、それは世をはかなんでのことではなく、また禅寺の住職になろうとしたわけでもなかった。円覚寺でひたすら修行をし続ける過程での、通過点としての出家得度に過ぎなかった。だから宗活は、出家しても一生住職にはならぬ、と自分から釘をさして、釈宗演から得度を受けた。「御身の富貴栄達を望まぬ。心を磨けよ」と言った母の遺言を胸に秘めていた宗活は、僧侶になろうとも、仏門の階段を上り、寺に安住する生活に身を置こうとしなかったのである。宗活は本当の禅を追求し、それを人びとに伝えようとした。自分は出家をしたけれども、在家者とともにあって、在家者の禅的生き方に尽くそうとした人である。
遡れば、少年、入澤譲四郎だった頃、禅を志し、本郷の麟祥院で初めて今北洪川に出会ったのだったが、このときから両忘会との絆が生じていたと言える。両忘会は、明治8年に山岡鉄舟らが、禅の封建的体質を改め、寺院の殻を破って禅を在家者に開かれたものにしようと、麟祥院で今北洪川を師と仰いで、禅会を創設したものであった。洪川は数年後には円覚寺の管長になったが、麟祥院に指導に来ることがあったのであろう。譲四郎が麟祥院で洪川に会ったのは、明治22年のことである。洪川は明治25年に没しているので、両忘会は途切れてしまっていた。禅に関心のある一部の在家の文化人たちは、円覚寺の釈宗演老師のもとに参禅していた。徳永父娘が宗演に参禅したのも、宗活が塔頭で在家の参禅者の世話をしていたのも、その時期のことである。両忘会とも、徳永恵直とも不思議な糸で結ばれていた宗活は、こうして両忘会を再興して、在家禅の指導に尽くすことになった。
組織としての両忘会は、大正14年に財団法人両忘協会となり、昭和13年には谷中にあった本部道場は、千葉県市川市に建築された新道場に移転した。それは森田正馬が没した年のことである。昭和14年、宗教団体法が施行されたことにより、宗教団体「両忘禅協会」が立ち上げられて宗活老師の弟子の立田英山老居士が代表者になったが、宗活を代表とする「両忘協会」は宗教団体を名乗らずに、そのまま存続することになった。組織の逆転した二本立てがここに起こっている。在家禅の組織が急いで宗教団体化することについて、宗活はおそらく慎重だったのであろう。
古希を迎えた宗活は、昭和15年に関西の残夢荘(隻履窟)へと身を退き、三年を過ごした後、常住侍者の恵直とともに千葉県八幡の残夢荘(寓居)に移っていた。
組織というものが、時代の流れの中で目標を見失わずに機能し続けることは難しい。戦後の昭和21年、宗教法人法の施行で、組織は宗教法人になることを選び、立田英山老居士を主管として「宗教法人 両忘禅協会」として登記をした。しかし、翌22年に釈宗活老師はその解散を宣告したのである。老師は、在家禅の宗教団体化や、指導者のあり方に厳しい目を向けていたのであった。ここにおいて、明治以来の両忘会の流れと、それに対する宗活老師の長年にわたる指導者としての関わりは、終焉を見た。
しかし現実には大きな組織が残されていた。再び三たび立田英山老居士の主管で、新たに昭和23年に、「宗教法人 人間禅教団」が立ち上げられた。その「人間禅」は今日にまで続いている。
宗活は、弟子の大木琢堂に身を寄せて、千葉県八日市場の寓居で徳永恵直とともに最晩年を過ごし、昭和29年に遷化した。享年83歳。
西山松之助氏は、昭和30年秋に、房州のその住まいに徳永恵直(山彦不二子)を訪ねている(『家元ものがたり』)。禅の道の奥底を究め、河東節の正統の継承者であるこの人は、81歳ながら端正でキビキビしていて、江戸っ子らしいイキが感じられたという。西山氏は、「イキ」と書いているが、感じたのは、粋であり、心意気でもあったのであろう。
なお今日、千葉県茂原市に両忘禅庵があるが、これは宗活没後に大木琢堂の子孫により開設された禅道場である。宗活の遺した芸術作品の多くは、ここに保管されていると聞く。

宗活は出家者でありながら、寺に入ることなく、また出家者であるがゆえに在家の生活に甘んじることなく、家を持たず、正式に家族を持たず、みずから禅に生きた人であった。在家者に対する禅指導を使命として、いわば非僧非俗、あるいはむしろ僧と俗のはざまに生きて、一方に偏することがなかった人であった。人柄は温かく、しかし禅の指導者となって人の上に立つ者に対しては、厳格に接した。
宗活自身自分に厳しく、かつ自由に、無所得、無一物を生きたのである。

森田正馬がかつて参禅した老師は、こんな人生を送ったのである。実に森田療法的な人生だったと言えるのではなかろうか。

 

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8.釈宗活と森田正馬の再会

森田正馬は、明治43年の両忘会への参禅から20年近くを経た昭和3年の11月18日(日)の日記に、次のように記載している。
「古閑君ト共ニ上野両忘会記念会ニ出席、来賓総代トシテ祝辞ヲ読サル」
両忘会は、居士禅として独自に歩むため、大正14年には財団法人となり、名称を「両忘協会」にしている。法人化が成されて、一層多忙を極めていた宗活は、体調を崩し、千葉県市川市八幡に新築された「残夢荘」という庵に昭和2年に転居した。東京の擇木道場にも来て指導を続けたが、千葉と東京の二重生活となった。昭和3年の両忘会記念会とは、東京での活動の歴史を懐古しての集いであったろうか。森田が招かれたのには意味があったのである。来賓の総代として、祝辞を依頼されており、宗活老師に参禅歴のある慈恵医大教授として、老師から重要人物と目されたのである。ちなみに「我家の記録」によれば、森田は大正15年3月に釈宗活老師の『臨済録講話』を読んでおり、さらに昭和3年に、記念会への出席との前後関係は不明ながら、自著2冊、『神経質の本態及療法』と『神経衰弱及強迫観念の根治法』を宗活老師に贈っている。かつて明治43年に森田に参禅を勧めたのは、富士川游のもとに共に出入りして知り合った藤根常吉であったが、藤根はその後も両忘会に参禅し続け、会の幹部のひとりになっており、昭和3年の記念会への森田の招待も、藤根と宗活の合意によるものだったろう。森田は、昔自分は釈宗活老師に参禅して公案を通らなかったという話を形外会で数回持ち出しているが、それはこの記念会に招かれて以後のことであり、来賓という公的な出席だったとは言え、参禅した記憶を反芻する機会を与えられたに違いない。宗活とて、かつて参禅してくれた医師が教授として大成した姿に接して、感慨を覚えたことであろう。しかし、この記念会は、宗活が東京での生活に区切りをつけた時のことであり、ふたりにとって再会であるとともに、別れの始まりでもあった。
かくして、両人にとって、記念会での出会いはあったが、新たなドラマが展開されることはなかった。たとえそれでも、宗活の生き方には、森田正馬が目指したものがあるように思われ、そのような関心から、宗活の生涯をここまでたどってきた。

 

【 付記 】

 

1. 「釈宗活」についてのウィキペディア Wikipediaの情報について。
ウィキペディア Wikipediaの「釈宗活」の項に出ている情報には、誤謬が多い。「両忘会」は、何度も場所が変わったが、その場所と期間についての記載が正確ではない。数年前から、編集履歴を見守ってきたが、誤謬が繰り返され、「両忘会」が居を定めていた場所と期間を意図的に改竄しようとしているとさえ思われかねない編集ぶりであることを指摘しておく。

 

2. 谷中初音町二丁目における、森田が参禅した両忘会があった場所の特定について。
これについては、国立国会図書館のデジタルコレクションの中の、当時の東京市の地籍別の地図より、初音町二丁目の各地籍が判明した。しかし、両忘会があった土地の番地も地主名も不明のため、最終的な特定はできなかった。
そのため、まず千葉県茂原市に現存する両忘禅庵に問い合わせてみた。宗活が晩年に身を寄せた大木琢堂の子孫により開設された禅道場である。現在のご住職から返信をいただいたが、初音町二丁目における番地などにつながる情報に触れることはできなかった。一方、当時の両忘会の建物の写真があるとのことであったが、残念ながらその写真画像をいただくまでには至らなかった。今後の研究者がもし関心を持たれたら、この両忘禅庵に、森田が参禅した両忘庵の建物の写真が所蔵されていることに留意されるとよい。そのことをここに伝えておく。
もう一カ所、谷中の天龍院にも、かつての谷中初音町二丁目にあった両忘庵の場所の特定について、問い合わせた。天龍院は、全生庵の向かい側にある妙心寺派の禅寺で、両忘庵での接心の日の午後に宗活老師が提唱をおこなったという寺である。現在の住職が調べてくださったが、初音町二丁目に存在した両忘会についての情報は、天龍院にはなく、またご厚意で他の関係者にも尋ねてくださったが、一切不明とのことであった。

 

森田正馬が参禅した老師、釈宗活—その人物と生涯—【修正版】(上)

2021/12/18

釈宗活老師(50歳頃)

 

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1. 森田正馬と釈宗活

森田は、明治43年に谷中初音町にあった両忘会の釈宗活老師のもとに参禅した。
その事実について、そして両忘会は旧谷中初音町二丁目にあったことや、当時のその地区の環境、また現在地との対照などについて、既にかなり詳細にわたって記してきた。また両忘会は在家者向けの禅道場で、釈宗活老師は在家禅に力を尽くした人であったことについても述べてきた。
およそこれらのことをまとめて、第35会日本森田療法学会で発表した。
それにしても、森田正馬は、生涯にただ一度参禅して相まみえた老師、釈宗活の印象を語っていない。だが語らなかっただけに、内面にその印象を秘め続けていたのかもしれない。ちなみに森田は、参禅から約10年後の大正13年に出版された、釈宗活の著書『臨済録講話』を読んだことを当時の日記に書きとめている。宗活老師への関心が長く続いていた証左である。
その釈宗活老師はどんな人だったのであろう。ある程度は断片的に記したが、資料が乏しくて不明な点が多く、十分に把握しきれていない。最近、少しだが追加的に資料を入手した。これにても宗活老師についての伝記的全容に迫ることは到底できないが、不明だったところが少し埋められてきた。資料を参考に、参禅にまつわる森田の心理も推し量って書き加えつつ、宗活老師の人物像や生涯をおぼろげながら、たどってみたい。

 

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2.釈宗活(入澤譲四郎)の生い立ち

釈宗活、本名入澤譲四郎(1871-1954)は、東京麹町の蘭方医、入澤梅民の三男として生まれた。父方祖父の入澤貞蔵(貞意)も越後出身の江戸の蘭方医であった。入澤一族は信州の北条時頼・時宗の末裔にあたる越後の庄屋であったが、その家系からは医者が多く輩出している。譲四郎の祖父貞蔵(医者)の弟、健蔵(庄屋を継いでいた人)の次男、入澤圭介は池田家に養子に入り、池田謙斎と名乗った人で、西洋医学を学び、東大医学部の初代総理になった著名な人物である。
同じ貞蔵の弟、健蔵(庄屋)の長男の、その息子である入澤達吉は医者で、東大内科教授になっている。この入澤達吉と釈宗活(入澤譲四郎)は、祖父が兄弟であるから、二人は「いとこの子」同士になる。入澤達吉は、東大生の森田正馬の診察をして「神経衰弱兼脚気」と診断した教授、その人である。そして森田は卒業後に、釈宗活のもとに参禅する。森田は、自分の生涯において出会った重要な二人の人物が、親族であることを知っていたであろうか。あるいは後日にでも知ったかもしれない。それはわからない。釈宗活自身は、短期間両忘会に参禅した若い医者が、学生時代に入澤達吉教授の診察を受けた男だったとは知らなかったであろう。
入澤達吉は医師として優れた人物であったのみならず、人間的にも深みのある人だったようで、入澤一族に通じ合うような人間味を宗活老師もそなえていたのであろうと思われる。
入澤一族の蘭方医の息子に生まれた宗活、すなわち譲四郎は、三男であったが、父は医家の後継ぎを託せるのは長男、次男でなく、この三男であると見込んで、幼少のときから漢籍、武術、書画、彫刻などにわたり、厳格な教育を施した。母からは深い慈愛を注がれて育ったが、11歳の時にその母は大病で急死した。臨終の際に、母は息子に言い遺した。「何よりもまず心の修行を第一に心がけよ。母は御身の富貴栄達を望まぬ。心を磨けよ。独立独歩、他に依頼心を起こしてはならぬ」と。母の最期のこの訓戒を子ども心に肝に銘じ、生涯を通じてそれを忘れずに生きたのであると、後年に宗活老師自身が語っている。
さて母の死の翌年、12歳の時に父もまた病で急逝した。両親を失って孤児になった少年は、母の遺言を守り、ある教師の家に入って労働をしながら苦学した。しかし心身ともに病み衰え、神道や心学などに入って修養を試みるも適さず、禅の修行に関心を持つようになった。ちょうど叔母にあたる人が、鎌倉の今北洪川について参禅をしていたので、洪川が本郷の麟祥院に摂心の指導に来た折に叔母から紹介を受け、洪川に入門を許されて、円覚寺に入ることになった。譲四郎、20歳の時のことであった。

 

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3.円覚寺における禅修行

入澤譲四郎は、円覚寺の塔頭に入り、修行に打ち込み、かたわら扇谷に通い、運慶の流儀の仏教彫刻を学んだ。やがて洪川老師から石仏居士という名号を与えられた。その後洪川老師は没し、居士のままでいた譲四郎は、さらに修行を深めるために出家得度の必要に迫られた。母の遺言に従い独立独歩で生き、寺の住持になることを望まなかった彼は、一生寺に入って住職になることはしないという条件を自分の方からつけて、釈宗演老師のもとで23歳で得度を受けた。得度により宗活の法諱を授与され、また釈宗演の養子になって、釈宗活と名乗ることになった。その後も修行を続け、帰源院という塔頭の監理を任されて、摂心に参加するために外部から来て宿泊する人たちの世話をした。この体験は、後に「両忘会」の師家となって居士禅を鼓吹する因ともなった。
夏目漱石が明治27年末に帰源院に宿泊して、釈宗活の世話になりながら、釈宗演に参禅したが、それはこの時期のことである。漱石は後に、小説『門』の中に、そのときの体験の記憶をそのままに描写している。小説中、宗活は宜道という名前で登場するが、漱石はこの若い禅僧が何年も厳しい修行に耐え続けていた様子や、宿泊者に丁寧に接してくれる優しい人柄の持ち主であったことを、書き記している。一方『談話』の中の「色気を去れよ」という題の話には、宗活のひょうきんな面が語られ、宗活さんは、白隠和尚の「大道ちょぼくれ」を聞かせてくれたなどと記している。漱石と宗活の交流はその後も続いたと言われるので、宗活が後年に東京に出てから、両者が会った可能性はあるが、定かではない。
こうして円覚寺での約8年間の修行を経て、印可を受け、明治31年より宗活はインドに渡り、聖胎長養のごとき修行体験をする。インド僧とともに熱砂の上を歩いて托鉢をしたり、暴漢に襲われるような危険にも遭遇して、九死に一生を得たこともあった。インドで2年を過ごし、明治33年に帰朝した。

 

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4.「両忘会」の再興

帰国すると、折しも、かつて帰源院で世話をした居士たち数名より、かつて山岡鉄舟らによって創設されて、中断されていた在家禅の「両忘会」の再開を望む拝請が円覚寺に届けられた。それを受けて、釈宗演老師の命により、宗活老師は早速東京に出て、「両忘会」再興の任に当たることとなった。
まず明治33年に、山谷の湯屋の二階に仮の草庵を設け、34年に根岸に、さらに日暮里にと道場の場所を移動した。日暮里の道場は、元農家の一軒家で、両忘会再興の拝請に名を連ねた、新橋の医者、徳永道寿居士と娘の徳永恵直が買い取って、寄進したものであった。この徳永恵直は、浄瑠璃の河東節に秀で、禅にも励んだ女性で、後に宗活老師の侍者となって、生涯を共にすることになる運命の人である。
また日暮里に両忘会があった時期の明治38年には、平塚らいてうが参禅している。らいてうは、その自伝に両忘会での参禅の体験とともに、若き釈宗活老師の気品ある指導について書いている。
しかし、明治39年、アメリカのサンフランシスコで禅の布教に当たっている居士たちからの慫慂があり、渡米することになった。そして3年後の明治42年に帰朝、同43年より、谷中初音町二丁目の借家で両忘会を再開した。
森田正馬が、富士川游の弟子の藤根常吉の誘いで、両忘会に参禅をしたのはこのときである。森田はこの参禅について、日記にごく簡単に記しているだけである。摂心のときに早朝座禅に通い、午後は天龍院(同じ谷中地区にある妙心寺派の禅寺)で、提唱を聞き、また老師の前に3回くらい参じたが、公案は透過しなかったと言う。森田は、自分の療法は禅から出たものではない、たまたま一致するだけである、禅のことはわからないと、自己卑下をするばかりとなった。そして宗活老師の印象について、何も述べていないが、宗活老師への参禅によって、内心感じるところがあったのではなかろうか。宗活が入澤一族の人であることを知っていて、語ることを控えたとも考えられるが、単にそれだけであろうか。
大正の初めには、両忘会の田中大綱居士によって、谷中墓地に隣接した天王寺の寺域に新築した道場用の建物が寄進された。擇木道場と命名されて、それまで借家を転々としていた両忘会は、その道場に落ち着いて、宗活老師はそこで指導を続けた。
森田正馬は、谷中墓地を散策の場所として好み、弟子の佐藤政治と深夜に谷中墓地を歩きながら、神経質の治療について語り合ったと言われる。森田は、かつて参禅した谷中初音町二丁目の両忘会がその近くの天王寺域内の道場に移転して、そこに釈宗活老師がいることを知らなかったはずはない。谷中墓地を散策すれば、宗活老師に近づくことになる。森田は老師を慕っていた面があったのかとまで考えたくなる。
名だたる禅僧、忽滑谷快天や、釈宗演をも批判して憚らなかった森田正馬にとって、釈宗活老師は格別の存在だったであろうか。

 

(次回に続く)

 

 

森田正馬の日記は誰のもの―研究資料としての森田の日記の流通について―

2021/12/17

 

 

 

森田正馬は、明治26年、中学生だった19歳のときの冬休みより日記をつけ始めた。翌年、大病になった時期には中断したり、断続的にはなるが、日記の記入は継続される。日記の内容は、日常の体験、自分の行状や健康状態、家族のこと、交友、読書記録などである。とくに一念発起して書き始めたようでもないこの日記は、実に晩年に至るまで克明に書き続けられた。後に森田は記録魔だったとまで言われるに至ったほどである。野村章恒は『森田正馬評伝』の中で、森田が昭和11年12月18日および昭和12年9月29日の日記に愛弟子の古閑義之のことを書いているくだりを、短いながら引用しているので、森田は死の前年の9月の時点ではまだ日記を綴っていたことがわかる。日記は、大正末で大学ノート( 四六判 )36冊に及ぶが、残されているのは昭和4年までで、以後のものは戦火で焼失したと言われる。また戦後まで熱海の森田旅館に保管されていたが、熱海大火で一部焼失したのだとも言われる。
ともあれ、このように若かりし頃から晩年まで、生涯にわたる日記が残されていると、日記自体が自伝になるし、その人が生きた証しとしてのモニュメントになり、近親者にとっては、その人の人生のページをめくって懐かしむよすがとしての貴重な遺品になる。著名人であれば、日記が研究資料としての価値を帯びる。
概して日本人はよく日記をつける。ドナルド・キーンは戦没した日本兵の日記を見て、日本人が日記を付ける行為は、日本の伝統の中に確固たる地位を占めていると指摘した(『百代の過客―日記にみる日本人―』講談社、2011)。しかし、書く本人は常に死後のことを意識して日記を書くとは限らない。それは、日本人が青年期に対社会的というより、社会に適応すべき自己に向き合って、書きとどめおく自己の記録なのであろうか。

 

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森田正馬は、適応を志向する人ではなく、疾風怒涛を生きる若者だったが、自らのレゾン・デートル(存在理由)を明らかにするために、中学校卒業間近い頃から、日記を書き出したのは不自然なことではなかった。五高時代の友人の寺田寅彦も、少年時代から晩年まで日記を書き続けていて、五高時代の森田の蛮行を日記に綴っている。寺田の日記は、その全集に収録されているが、未だに「正式な公表」をされないまま、問題を残しているのは、森田正馬の日記なのである。
森田療法は、創始者、森田正馬が自称「神経質」者として生きた人生を根源とする。そこに分け入るには、森田の生涯を知ることが必要である。晩年の約10年間の分が欠けているとは言え、明治26年(19歳)から昭和4年(54歳)までの35年間の日記が残されている。それは森田療法の歴史上の極めて貴重な史料として、三島森田病院に所蔵されているのである。三島森田病院は、昭和34年に森田正馬の甥であり養子でもあった森田秀俊医師によって開設された病院で、森田の日記はこの病院に保管されてきた。森田の没後、おそらく熱海で井上常七氏が日記を預かっていて、それが森田秀俊医師に託されたのではなかろうか。日記は三島森田病院において、門外不出のものになっていたようである。

こうして森田の日記は病院に保管され続け、少なくとも公的には、研究者たちの閲覧に供されない期間が続いてきたのはどうしてだろう。さまざまな事情が考えられる。日記を公にすれば、本人の素顔や家族のプライバシーが露わになる。たとえば、世界的にベストセラーになったユダヤ系ドイツ人の少女の『アンネの日記』でも、母への憎しみの言葉や性の目覚めについての表現などは、編集上削除して出版された。
森田の場合、夫婦のまぐわいのあった日の日記に、ドイツ語の Begattung の頭文字の B を符丁として記入し、年末にそれを集計したりする念の入れようをした部分もある。しかしこのような箇所を削除すれば、史料としての価値を失うので、公表する以上は、そんな卑近なことまで露わになることを避けられない。また生涯にわたる森田の日記は長すぎるし、事実としてあったことを叙事的、断片的に記し続けていて、読み物としては出版には適さない。行書で書かれた記述を正しく活字に移す作業も、困難を伴うであろう。そのように考えると、日記が三島森田病院の中で非公開史料として眠っていたのも理解できる。

 

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そんな森田の日記が入っていたパンドラの函が、ついに開けられる時期が訪れる。
まず昭和45年に文光堂から大原健士郎、藍沢鎮雄、岩井寛の共著の『森田療法』が 刊行されたが、この中に「森田正馬の生涯」と題する章がある。この章は、森田自身が日記の重要部分を再録しつつまとめた「我が家の記録」について、紹介すべき箇所を多く抜粋し、森田直筆の図や記録の写真をふんだんに添えながら、それらの掲載に紙数を当てている。「神経質」誌に掲載された「正一郎の思ひ出」や「久亥の思ひ出」も一部引用されているが、ともかくこの章は、森田の日記そのものを保留して、その周辺の日記に準ずる森田自身の書き物を媒介にして、その生涯を伝えようと意図したものであった。

同じ昭和40年代に、白揚社から『森田正馬全集』の出版が準備されるとともに、『森田正馬評伝』も同時に出版されることになり、野村章恒氏が執筆を引き受けている。この『評伝』の執筆に当たっては、三島森田病院の許可のもとに、野村氏が森田正馬の日記を資料として活用することになったようである。その頃には、ゼロックスによるコピーが可能になっており、野村氏は日記の現物を参照したのみならず、ゼロックスによる日記のコピーにも携わっていた。そのことがわかる記述が、『評伝』の中に見られる。大正末に森田が京都の三聖病院を訪れた際に、東寺の済世病院で静座法を行っていた小林参三郎医師と森田が出会った経緯について、昭和45年にある医師から野村章恒に問い合わせの手紙が届いた。それに応えようと野村は当該時期の森田の日記を調べたのだが、「大正十四年はただ今現物がゼロックス屋に出してありますので未点検です」と相手に返事を書き送った。つまり昭和45年の時点で、三島森田病院と野村章恒氏は合意して、森田の日記のコピーをゼロックス屋に発注していたのである。
昭和30年代後半に、わが国で富士ゼロックス社が設立され、オフィス向けに複写機の販売を開始し、昭和45年にはゼロックスの 「ビューティフル」 キャンペーンを展開して、販売の促進をはかっている。複製技術が生活の中に入ってきたのである。こうしてコピー文化が普及する中で、森田正馬の日記という、ひとつしかない個人的資料が、ひとつしかないがゆえに、ついに複製されることになったのだった。それはビューティフルな英断だったのであろうか。日記のコピーの部数は当然複数部であったはずで、それらは森田療法の重鎮の方々に進呈された。その相手方としては、たまたま筆者が知っただけで、藤田千尋、水谷啓二、鈴木知準といったお名前があがる。
かくして、要人らに配布された日記のコピーは、それが秘蔵されている三島森田病院に、日記の実物の閲覧を願い出る敷居の高さの解消に役立ち、配布を受けた方々の責任のもとに、周囲の研究者たちに日記のコピーの閲覧を認めるというビューティフルな便宜に益したのであった。しかし、その際、要人らがお持ちのコピーがさらにコピーされて、外部に出ていった可能性はある。このへんは闇の中である。

 

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コピー文化の次に到来したのは社会の情報化で、20世紀末から、パソコンやインターネットが生活の中に普及した。森田正馬の日記もその洗礼を受け、データ化されて、保存と流通に供されることになったのである。こうして、もうひとつのビューティフルな物語が始まった。データ化の拠点となり得たのは、日記のオリジナルを所有しておられる三島森田病院をはじめとして、コピーの提供を受け、それを所有している要人ないしその関連の機関であった。これらの複数の機関のどこでいつデータ化が行われたか、全容は不明である。しかし日記をデータ化するには、まず厖大な量の日記のコピーをスキャンする手作業から始めねばならず、手間を要する。さらにそれを CD-ROM に収める作業も技術と時間を要したので、資料の CD-ROM 化は業者に依頼する必要があった。情報化の流れの中で、森田の日記の CD-ROM 化が行われることになったが、その責任と業者に支払う費用を考慮すれば、やはり安易に行い得ることではなかった。だから CD-ROM 化をプロジェクトとして実施したのは、少数の機関に限られたであろう。

 

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東京に「高良興生院・森田療法関連資料保存会」(通称「保存会」)がある。この「保存会」では、その設立の趣旨に沿って事業として日記の CD-ROM 化が行われた。これについては、藤田千尋先生が、「保存会」から2006年に出された「野村章恒先生と竹山恒寿先生」という刊行物への寄稿文の中で、保存会の役割と数年来のの実践を振り返って、行ってきたさまざまな事業の報告に加えて、さらに次のように記しておられるのである。「また森田先生の日記をCD-ROM化する収録作業も進めてきました。これらの成果の背景にはメンタルヘルス岡本記念財団のご支援があり、また、会員の皆様や保存会役員諸氏の熱心なご協力があったことは申すまでもありません。」 藤田先生のこの文章が掲載された出版物は、保存会が出した私家版だが、閉ざされたものではなく、森田療法関係者の閲覧に向けて発行されたものである。保存会の使命として森田の日記の CD-ROM 化を実施したという、森田療法関係者への報告だったと理解できる。
ただしこの事業の結果として、森田正馬の日記は、形あるモノとしては1枚のCDになり、また形もない情報のデータとなり、見えない流通が危惧される状態になったのである。それに、日記のコピーやデータ化されたものを何ぴとかが所有すれば、世俗的な権威と結びつくことも懸念され、そのような場合には流通が不当になる。それらはおそらく藤田先生が予期されなかった事態であろうと思われる。
さらに付け加えるなら、CD-ROM 化は「保存会」だけで行われたわけではないので、どこで制作されたかによって、日記のページの一部が欠落していたり、していなかったりする。たとえば重要なある時期の日記部分が、CD-ROM 化に際してなぜ欠落の対象になったのかと、考えながら読み比べることになる。

 

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自分は森田療法の歴史に関心を持ったきた者として、日記を参照したくても、数年前までは容易にできず、困った経験をしてきた。約10年前に「保存会」に関心を持ち、入会させていただいた。日記の CD-ROM 化は完了した時期の入会だが、研究上の必要性についてのご理解のもと、日記のデータの入手について便宜をはかっていただいた。そんな立場にいる自分だから「保存会」には大変感謝しているし、また「保存会」がその任務として、日記の CD-ROM 化の事業をなさった事情も知ることになった。それを書くことは本稿の趣旨として許されるであろうと、勝手ながら判断して書かせていただいた。日記のデータ化は、時代の流れとして必要で不可避なものとなっていたのであり、まさに「保存会」がその任を負っていたのだから。
ただし、もどかしく思っていたことはある。それは無論、日記をデータ化した後の情報管理である。データは地下の闇の中で流通しているかもしれない。多少遅きに失するかもしれないのだが、日記のデータの活用を必要とする真摯な研究者たちには、明朗な形で提供してあげられるように、そして日記の流通が世俗的な人脈と別に、公的に行われるように、オリジナルが所蔵されている三島森田病院との提携のもと、「保存会」がデータの流通管理に積極的に関わってくださることを願っている。
そして、研究上日記の閲覧を望まれる方は堂々と「保存会」に相談や依頼をなさればよい。快く応対していただけるはずである。

 

森田正馬の日記は誰のものなのか。今、ご遺族や三島森田病院や、森田療法関係者が考え合うべきときであると思う。

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