森田療法における自力と他力(Ⅱ)―「治らずに治った」倉田百三―

2019/11/09


倉田百三著『神経質者の天国』



 

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〔今回の稿の、最初に〕
 このシリーズ稿の、(Ⅰ)を9月上旬に掲載しましたが、都合により、続きの稿の掲載がこのように遅れました。
 資料を調べながら続きをまとめようとしているうちに、倉田と森田療法のかかわりは、彼の人生のほんのひとコマにしか過ぎなかったということを、改めて思い知ることになりました。
 曲折があったその生涯と思想的な遍歴を視野に入れずに、強迫観念に悩んで森田療法を受けたある時期のことだけを切り取ってとかく言うのは、狭い見方にならないだろうか。「治らずに治った」と言った彼の言葉を俎上に載せ、それに対する森田の批判をなぞるだけでは、甚だ空虚な「倉田と森田療法」論になるのではなかろうか。そんな危惧を感じざるを得なくなりました。今までそのような論議がいかに多かったことか。倉田が森田療法を通過して行ったのは数カ月間だけです。従って森田療法が彼の生涯に責任を持つことなど、おそらくできなかったかも知れません。いや、たとえ短期間であっても、森田療法との出逢いは質的に重要な意義があったのだ、という反論も聞こえてきそうです。ならば、そのへんも深く考える必要があります。
 いずれにせよ、彼の生活歴、病前歴、病後歴から、森田療法が学ぶことはあるでしょう。さいわいにというべきか、彼が有名人だったおかげで、その生涯の全貌がほぼ明るみに出ており、しかも、本人は自分の内面を、作家としての筆力で描写しています。生涯のある時期に森田療法を受けた人物の、その生涯と魂の遍歴を知ることのできる恰好のケースです。つまり人の人生に関わった森田療法の意義について、見直すことのできる数少ない症例なのです。そのようなことをつくづく考えました。
 しかし、この拙文を書き出した趣旨は、森田療法における自力と他力ですから、ここではそれをまとめるために、引き続き原稿を補っていきます。
 なお、シリーズの順番の表記を、(上)(下)から、ローマ数字に変更します。この稿は(Ⅱ)として、(Ⅲ)以下の稿をさらに近日中に追加します。
 
 ともあれ、今回の文は、9月に掲載した(Ⅰ)に続くものなので、それと併せてお読みくだされば、幸いです。
 (Ⅰ)は以下にリンクをつけておきます。
 


森田療法における自力と他力(Ⅰ)―倉田百三の魂の遍歴―
 
 

かつて三聖病院の玄関にあった欄間


 
 承前
 
5. 宇佐玄雄の治療を受けた倉田百三 ―不問にされた「倉田のモモやん」―
 大正15年秋に、小林参三郎の静座療法を受けるために京都の済世病院に入院した倉田は、小林の急死で静座を受けられぬまま、済世病院を退院せず、三聖医院の宇佐玄雄のもとで通院治療を受けたのだった。このことは既に触れたが、翌年に森田から受ける療法と明らかに異なり、宇佐玄雄は徹底した不問で倉田に接したのであった。倉田は父危篤のため急遽京都を去って行ったが、厳しい宇佐の治療が奏功する兆しが見えてきた時期の、惜しまれる中断であった。注目されてしかるべきエピソードなので、今一度書き留めておく。
 大正11年に東福寺内に開院した三聖医院は、既に大正13年より塔頭の龍眠庵を病室として入院療法を開始していた。しかし、倉田は東寺の敷地内にあった済世病院に入院の身柄を置き続けながら、三聖病院に歩いて通院して、玄雄の診察を受け、さらにデイケアのごとく入院第三期の人たちの作業に加わることになった。なぜ三聖医院に入院しなかったのか。済世病院では亡き小林の夫人も静座療法の心得のある人だったので、倉田は夫人から指導を受けたいという静座への執着を残しており、入院森田療法を受けるほどの覚悟を有してはいなかったのである。そんな状態で三聖医院へ変則的な通院をし、宇佐の診察を受けたのだが、待たされた上に、ほとんど話も聞いてもらえなかったと倉田は書いている。宇佐は、相手が高名な作家であろうとも、敢えて不問療法で接した。済世病院に入院中の倉田が夜間に症状を募らせて、往診の要請があっても、宇佐はそれに応じることはなかった。ヒポコンドリーを不問に付したのである。倉田は三聖医院に通っても、病身のためか作業に従事したようでもないが、「倉田のモモやん」(実名は「モモゾウ」である)と呼ばれて、掃除などの作業をしている入院患者の仲間には入っていたらしい。また、かなりの距離を歩いて通院したこともあり、病身をかばう日常横臥の生活から次第に解放されようとしていた。
 そんなとき父危篤の報が入り、藤沢へ帰って行ったが、三聖医院における宇佐玄雄の治療は出色のものであった。観照生活だとか統覚不能だとかいう本人の講釈に、治療者として取り合わなかったのである。作家であろうとなかろうと、日々の生活がある。倉田がそれを取り戻せそうな矢先に三聖医院の治療は中断された。
 

東福寺の紅葉



 
6. 森田正馬の治療を受けた倉田百三一「治らずに治った」体験―
 この年の12月に大正天皇が崩御され、明けて昭和2年、早々に倉田は父を見送り、2月に森田正馬への受診を開始した。
 森田は日曜日に倉田を迎えて会い、後には通常の外来診療に受診した彼に会い、治療は日記を用いての指導であった。同年5月まで倉田は通院し、計7回程度の診察であったという。
 このような治療の仕方については、最初から疑問が生じる。森田はなぜ彼を入院させなかったのであろうか。通院なら、日曜日に迎えるとは、著名人である彼に対する特別なはからいだったのであろうか。日記を無制限に書かせたとすれば、それが強迫観念を助長しかねないことは考慮されたであろうか。まして倉田は作家である。あるいは深読みすれば、手記を書かせることで、敢えて強迫観念の中に没入させたのであろうか。とにかく症例倉田に対しては、宇佐の治療と森田の治療は対照的であった。それを倉田はどう受け止めたのか、わからないが、不問ではなかった森田の療法を受け入れたのだった。
 だが日記を媒介にしながら、森田が具体的にどのように指導したのかについては、ほとんど記録がない。森田は、後年の昭和12年に、「倉田百三氏の悩みたる強迫観念に対する心理的解説」という長い原稿を、雑誌「神経質」に掲載したが、症状についての解説が主で、神経質の治療については、「其症状を治さうとする一切の手段を放棄させて、ひたすらに其苦悩煩悶を忍受してつつ、仕事もして、人の為すべき事をやらせるやうにする」と記している程度である。ただ、倉田には強迫観念に苦悩しながら原稿を書かせたところ、『冬鶯』という作品が出来て、それは倉田自身にとっても会心の作になったという挿話を紹介している。そして、苦悩のままに欲望を発揮したこの体験により、倉田は全治したという森田の見解が述べられている。
 けれども『冬鶯』はそれほど評価されるべき作品なのか。読んでみると、実に重苦しい。神経質者はかく治るべしという、当為の小説である。当為から自由になるはずの森田療法が、当為化されているような印象を受けるのだが、深読みに過ぎるだろうか。
 倉田が治癒に向かった心的過程は、彼自身が如実に語ったり書いたりしている。
 「はからいは、はからいの業の尽きるまでは止まないこと、はからいの止むとき、そのままの忍受が具現すること、そして依然として苦しみはありながら、それが苦しみではなくなって、苦しみから解き放たれる、ということであります」(「倉田百三氏の体験を中心に」、森田正馬『自覚と悟りへの道』)。
 「(強迫観念の)苦しみを苦しみとして受け容れるよりほかなく、その打ち捨てた絶対忍受の生活態度を体得するに至り、心機一転して、いわばその体得の結果副産物として、多年の病気が治った次第なのです」(『絶対的生活』)。
 そして、倉田は「治らずに治った私の体験」という文章を収めた著書『神経質者の天国』の末尾に、次のように書いた。
 「『我々は運命を耐え忍ぼう。』自分が最後に、此の記述を閉じる語はこれである。」
 森田はこの言葉を厳しく批判し、正岡子規を例に挙げながら、形外会の場などで、運命は切り開いていくものであると強調した。「運命は耐え忍ぶに及ばぬ。正岡子規は、肺結核と脊椎カリエスで、永い年数、仰臥のままであった。そして運命に耐え忍ばずに、貧乏と苦痛とに泣いた。…それでも歌や俳句や随筆を書かずにはいられなかった。…子規は不幸のどん底にありながら、運命に耐え忍ばずに、実に運命を切り開いていったということはできないであろうか。これが安心立命ではあるまいか。」(昭和9年、第25回形外会)。森田はこのように言うのだった。その真意は、入院森田療法の場合と同じく、苦悩の絶対的忍受と欲望を発揮する行動の調和を重視するところにあったろう。倉田の「治らずに治った体験」も、「運命を耐え忍ぼう」も、体験者にして言える言葉であり、認めてしかるべきだったように思われる。しかし、そこに極限を求める危うさがあって、森田はそれを見抜いたのであろうか。だとしたら、森田は慧眼である。
 以後の倉田は、他力の信奉の延長としての法的自然主義の思想を深めて、政治的活動に関わり、皮肉にも行動の人となっていったのであった。
 
<文献>

  • 倉田百三 :『神経質者の天国』、先進社、1932
  • 倉田百三 :『絶対的生活』、文理書院、1933
  • 倉田百三 :『冬鶯』、先進社、1931
  • 森田正馬 : 倉田百三氏の強迫観念に対する心理的解説. 「神経質」8(2)~8(4)、1937.2~1937.4 (森田正馬全集 第三巻、1974 所収)
  • 森田正馬 : 「倉田百三氏の体験を中心に」、『自覚と悟りへの道』、白揚社、1959

 

以下、(Ⅲ)に続く。                                        

森田療法と芸術の秋 ―「チャーチル会名古屋秋季展」、本日より―

2019/10/22

 

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 チャーチル会という絵画を愛好する人たちの会がある。この会は、70年ほど前に生まれ、政治家でありアマチュア画家として知られたウィンストン・チャーチル卿に、その名前を冠することを認められたという歴史と由緒のあるアマチュア画家の会である。アマチュアとは素人を意味しない。仕事(ジョブ)あるいは職業(プロフェッション)としてでなく、何かを深く愛好する人たちのことである。
 チャーチル会名古屋の秋季展が、本日10月22日から27日まで、名古屋市内で開催される。会の代表者は杉本二郎様である。杉本様は、吉川英治の『新平家物語』の挿し絵を描かれたことなどで知られる杉本健吉画伯の甥御様である。芸術家のご一族出身のサラブレッドで、素人目にもいい絵をお描きになる。絵は愛好家だが、かつての本職は映画人で、東映の本社に定年まで勤務しておられたそうである。
 私は4年ほど前に、森田療法の分野でお知り合いになる機会に恵まれた。江渕弘明という医師で禅に生きた森田療法家が、活動された実績をたどっていたら、その足跡は京都から名古屋へと向かっていたことが判明した。それでそれまでまったく知らなかった名古屋における森田療法の活動の流れに接することになった。それがご縁であった。一昔前に、名古屋啓心会や初期の(新)生活の発見会名古屋集談会で、指導的立場で活動しておられた人が杉本二郎様であった。森田療法のことに深く精通しておられるし、なんとも誠実で親切なお方である。先だって浜松での日本森田療法学会で、仏教と森田療法について発表する重責を与えられたが、準備段階で杉本様の胸をお借りし、多くを教えて頂いた。私はこの方との出会いを有り難く思い、一目も二目も置いている。

 

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 森田療法における自力と他力の問題を、倉田百三の生涯を中心にして考えようと、ブログに文章を途中まで書いたが、続きを掲載するのが遅れている。学会では倉田のことにも触れたが、盛り沢山の内容を取り上げた中で、とても倉田のことに深入りはできなかった。というより、森田療法と倉田の問題は、宗教や芸術が絡んでいることもあって、複雑である。それに倉田は本当に森田療法を受けたと言えるのであろうか。病身のためもあったかもしれないが、入院はせず、主に日曜日に特別に森田の診察を何度か受けた、つまり例外的な扱いに浴していたようである。もちろん倉田は、森田の指導を熱心に受け止め、興が湧かなくてもとにかく執筆せよという森田の助言に従って、小説『冬鶯』を書いた。その結果、倉田は自分として大変気に入った作品を書けたと言っている。しかしこの作品は、読んでみると、主人公は神経質を絵に描いたような暗い男である。絵に描いたと言うより、文字通りそのまま文章に書いたものである。世評はどうだったのだろう。評価は読む人によるだろうが、私(たち)からすれば、神経質者はかく治癒すべしという当為の小説のようで、息苦しい。
 この1ヶ月後に、入院中の鈴木知準は、倉田が森田に対して「催されて生きる」という道元の言葉を語っている声に耳を傾けたのであった。倉田は、道元の他力の思想にいつ、どのように関心を持つようになったのだろう。『冬鶯』とどう繋がるのだろう。倉田から道元を説かれて、森田はどう反応したのだろう。不可解なことが多い。
 結局倉田は「治らずして治る」という、名言(迷言ではない)を残すことになる。到達点の正直な表現であろう。倉田はやはり特別な患者であったから、後日森田は症例倉田について、詳細に書いたり論じたりしている。しかし、日記を用いて治療したと言うが、治療のプロセスをほとんど書いていない。「治らずに治る」という言葉の綾を批判するばかりのようで、残念ながら森田から伝わってくるものは薄い。森田療法にとって、倉田が来てくれたことは大きなエピソードだったが、倉田本人にすれば、生涯の一コマに過ぎなかった。遍歴をするのが倉田の業だったとも言えるかもしれないが。ともかくも、人生の後半は、自力と他力の間をぶれながら、倉田は無理な道を登り、かつ堕ちていくのである。難しい事例なので、まとめ難くて私は格闘していた。
 これは裏原稿だが、ブログの表原稿は近日まとめ終えたい。
 作家ではないが、画家でいらっしゃる杉本様ならどうおっしゃるだろう。チャーチル会名古屋秋季展に行って、杉本様にお会いしたいと思っている。

 

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付記1
 ブログ連載の間に、この記事を挟みましたが、遅れている連載稿の続きは近日掲載します。

 
付記2
 10月5日に日本森田療法学会のシンポジウムで発表した「仏教、禅の叡智と森田療法―『生老病死』の苦から『煩悩即菩提』へ―」のスライド一覧と説明を「研究ノート」欄に出しました。

森田療法における自力と他力(Ⅰ)―倉田百三の魂の遍歴―

2019/09/07


倉田百三



 
1. 自力と他力
  「自由とは独立独行なり 奉仕さるるを願はざる処に自由あり」。森田正馬のこのような墨跡が、以前に三聖病院に掲げられていたことがあった。これは禅的な言い方のようだが、森田らしい味わいに欠ける言葉で、いわば野暮ったい感じがする。しかし、わがままで依存心の強い神経症者に対する、直截な教えであろうと解しうる。自ら努力をせずに、いわゆる他力本願に堕しているところに、自由な生き方はないと教えているのである。
  もちろん人間は、百パーセント自力で生きていくことなど不可能である。しかし、精一杯に自力を尽くして生きてこそ、向上することができ、おのずから生きがいも生じるというものである。それは当然の前提であるが、それでも人間は究極において、生死を他力に委ねるほかにどうしようもない存在である。
  森田は、まずは自己中心的で依存的な神経症者を自立せしめるために、野暮な教えも辞さなかったが、より深い人生観として、森田自身、結核を抱え、愛児を失い、人生の苦闘を経て自力の尽きるところ、なお死は恐れざるを得ず、という自然服従の境地に至っていたのであった。
  このような自力と他力の問題について、『出家とその弟子』で知られる作家で、森田療法に関わりのあった神経症者、悩める倉田百三の精神の遍歴を取り上げてみる。倉田には、宇佐玄雄や森田正馬との治療的関わりがあったのみならず、森田のもとに入院中だった学生時代の鈴木知準に対して先輩としての出会いもあった。鈴木は倉田から道元の他力の思想の洗礼を受けたのである。
  倉田百三と森田療法とのこのような交わりをたどることで、自力と他力の問題を考えようとする。



 

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2. 倉田百三の懊悩
  一高に入って文学活動をしていた倉田は、結核に罹患して退学し、療養生活を送ったが、その時期にお絹さんという女性と恋愛を経験する。その後京都の西田天香の一灯園に入って修養的生活を体験するも、矛盾を感じて去ることになった。数年後、戯曲『出家とその弟子』を書き、空前のベストセラーとなり、大正の親鸞ブームに火をつけた。そしてさらに戯曲、小説、宗教論などの執筆を続け、彼自身、親鸞を尊崇し、人間苦が救済される道は、真宗の他力の信仰以外にないという宗教観を有していた。
  大正15年(37歳)に、その3年ほど前から始まっていた強迫神経症的症状が、顕著に現れ出した。統覚不能(離人症的症状)、不眠恐怖、耳鳴り恐怖、計算恐怖、いろは恐怖、物象回転などであった。
  この頃、同じ神経症者の知人の中西清三宛ての書簡に、永平寺や南禅寺の禅者によい指導者がいるという情報を伝え、「(見性にいたる禅の修行とくらべて)真宗の解脱も他力の信心が手に入るまでは同じ苦しみと思います。…計らうまいとしては駄目なのですから、進退極ります。」と記している。
  こうして、自分も禅修行を考慮に入れていたらしい倉田だったが、たまたま京都の済世病院院長、小林参三郎の著書『生命の神秘』などを入手して読み、静坐すれば自分の力でない自然の力が働いて、自ずと強迫観念が治ると記されていることに惹かれて、この大正15年秋、小林の病院を訪れたのだった。
 
<参考文献>
・ 森田正馬 : 「倉田百三氏の強迫観念に対する心理的解説」(『森田正馬全集』 第三巻)、1975
・ 倉田百三 : 『神経質者の天国』、先進社、1932
 
 

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岡田虎二郎の写真


 
 

著書『岡田式静坐法』



 
3. 岡田虎二郎の静坐法
  倉田は、大正15年に静坐法を求めて京都の済世病院の小林参三郎のもとに受診した。それというのも、静坐法は、岡田虎二郎(1872-1920)が小林より先に東京でおこなっていたのだが、大正9年に岡田は病没し、岡田を継承した小林が京都で静坐法をおこなっていたからであった。
  ここで岡田虎二郎について少し述べておく。彼は白隠の内観法に倣い、肚で呼吸して丹田に気を集める健康法として静坐法を開発し、心身病弱者の救済を銘打ち、明治40年代の初めよりそれを東京で始めたのであった。これが次第に評判になり、関心を持った実業之日本社の記者が熱心に取材して、明治45年に『岡田式静坐法』という単行本を出版した。この本は大ベストセラーとなり、静坐法は著名人たちを含む多くの人たちの関心を集めるところとなった。岡田は日暮里の本行寺を本拠として、都内をはじめ多くの場所で静坐会を開いた。しかし過労も加わってか、岡田は50代で病没した。森田正馬は岡田式静坐法を見学に行ったが、催眠暗示的な手法とみなして、あまり評価しなかったようである。
 
<文献>
・ 岡田虎二郎:『岡田式静坐法』、実業之日本社、1912
 

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小林参三郎の面影


 

著書『生命の神秘』


 

4. 京都における倉田百三―小林参三郎と宇佐玄雄―
  小林参三郎(1863-1926)は、兵庫県出身で、医師を志して上京し、医師資格を取得後に渡米し、医科大学で外科を専攻した。長年アメリカに滞在し、ハワイで日本人病院を設立した。またハワイで西本願寺の開教使と会って感化を受け、仏教に帰依することになった。以後仏教書を読み、物理的治療だけでなく、信仰による精神療法の併用の必要性を痛感するようになった。一時帰国した際、真言宗による慈善病院設立計画を聞き、京都の東寺の敷地内での済世病院設立計画に参加し、40代で帰国して院長となった。
  小林は、科学の生み出した物質的治療が重視される医療を批判し、患者の精神状態に配慮する必要性を説いた。また人間は「天与の生きんとする力」、すなわち「自然良能」を具えていると言った。その天賦の力のことを、「自然の良医」あるいは「本具のドクトル」とも称したのだった。そして、このような能力を養う方法として、小林は岡田式静坐法を採用したのである。
  倉田百三が済世病院を受診したのは、大正15年秋のことである。しかし、入院した倉田は、すぐに静坐をさせてもらえず、まず森田療法の第一期のように臥褥を命じられたのであった。
  小林は宗派にこだわらず、仏教者と広く交流しており、禅僧で医師の三聖医院院長、宇佐玄雄ともすでに知人の間柄であった。また森田正馬が三聖医院に来訪した際には、小林も三聖医院に来て、小林は森田とも交わっていた。こうして、森田療法を知っていた小林は、入院患者に対して、静坐体験への導入として臥褥を設けていたのである。
  ところが小林は、倉田が入院して一週間後に心臓病で急逝してしまった。倉田は静坐をできぬまま、院長不在の病院に入院し続け、三聖医院に通って作業のみに参加することになった。そこでの宇佐玄雄の指導は厳しかった。倉田は、この時期のことを、『神経質者の天国』におよそ次のように書いている。
  それは京都の秋から冬にかけてのことだった。自分は十数年来、日常横臥の身で、冬は外出せず、外出すればマスクをはめて、風邪を引かぬように用心していたものだった。「それが、強迫観念と闘う必要上、全然やり方を変えねばならなかったので、マスクなどはめると、宇佐氏にひやかされるので、はめられない。私が常住起坐しておれるようになったのは、まったくこのためでした。…(入院中の済世病院から)宇佐氏の病院まで通ふのが、初め、危ぶまれたものが、だんだんと歩けるようになり、雪の積もっている山道を、嵐山から清瀧まで歩けたというようなことになりだしたのでした。」
  こうして、宇佐の指導に効果の兆しが見えだしたとき、父の病状悪化の知らせが入り、倉田は関東に帰って行った。
 
<文献>
・小林参三郎:『生命の神秘』、春秋社、1922
 


済世病院の当時の外観


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(Ⅱ)に続く                                        

フランス人精神科医師、FEDERMANN先生との交流について

2019/08/16




 
  フランス人精神科医師、FEDERMANN 先生と、メールなどで交流中です。昨年秋にこの先生との交流が始まったとき、ブログ記事でそのことを紹介しました。改めて、その記事のリンクを以下に設けておきます。その中から、FEDERMANN 先生のYouTube動画も見ることが出来ます。
 
 
森田療法の考現学的研究についての予備的試論―考古学から考現学へ―(3)
 
 
  FEDERMANN 先生は、ストラスブールで精神科診療の第一線で活動しておられます。中でも移民や不法入国者たちのメンタルヘルスにかかわり、医療に恵まれない彼らのアルコール依存や薬物依存やその他の精神障害に対して、無料で診療活動をなさっています。そして彼らを励ましておられます。時代遅れのフランスの赤髭です。
  夫人も精神科医師でしたが、残念ながら、数年前にある患者に殺害されました。しかし、その後もFEDERMANN 先生は、社会の底辺にいる人たちへのケアを続けています。彼の活動は、二本のドキュメンタリー映画になり、フランスの映画館で上映されています。
  私はあるフランスの雑誌に、森田療法の視点から、治療者の「純な心」の大切さについて書いたことがあり、FEDERMANN 先生はそれを読んで共鳴して下さいました。
  今年、この人を日本に招く計画でしたが、スケジュールに無理があり、来年には日本に来てもらいます。
 

宇佐玄雄と三宅鑛一 ―森田正馬と宇佐玄雄の交流に関連する挿話―

2019/07/24

 宇佐玄雄著、三宅鑛一校閲『精神病の看病法』昭和16年刊

 宇佐玄雄著、三宅鑛一校閲『精神病の看病法』昭和16年刊


 

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  慈恵医専に学んでいた禅僧、宇佐玄雄は、ちょうど森田正馬が入院療法を開始した大正8年に医専を卒業して医師になった。その年の前半は、森田のもとにたびたび通って診療を学んでいたが、同年9月に森田の好意で東大精神科助教授の三宅鑛一に紹介された。ちょうどこの時期に東大精神科の附属病院として、松沢病院が創設され、宇佐は三宅を通じて松沢病院の医員として、そこで研修や診療に携わることになった。松沢病院に通うのが建て前になったからであろうが、大正8年の秋から約一年間、宇佐は恩師の森田正馬に対しては、足が遠のきがちになっていたようである。森田の自宅で始められた「余の特殊療法」に立ち会って、直接それを見守る絶好の機会に恵まれていたにもかかわらず、殆どそれを逸している。少なくとも、森田の日記に見る限りでは、大正9年に宇佐が森田医院を訪れた回数は非常に少ない。尤も、大正9年の宇佐の来訪についての森田の記載を見落としていた箇所が、2回分あった。去る4月に提示した文章中にそれらを列記すべきところ、不手際にて漏れていたので、本日付けで、さかのぼって4月の文中に補足を加えた。しかしながら、それでもこの年には、宇佐は森田に無沙汰をしていた。見落としていた森田日記の記事の一つは、宇佐が三宅の使者として、森田に伝言を持ってきたという、次のような奇妙なものである。
 
  大正九年五月六日
  「宇佐君来り三宅君の伝言あり、余もし病のため慈恵の講義の困難ならば、一時、代り講義してもよけれど、Kl.は呉先生洋行のため三宅君が其代りをなすといふ、三宅君は之を好まずといふ、余は以前より自らKlをなさん事希望する処なり、」
 
  宇佐は三宅の使い走りのようになって、森田に会いに来ている。東大精神科医局に入局した新人医師として、三宅と自然にこのような関係になったのであろうか。あるいは宇佐は、森田が始めた特殊療法について、先輩の三宅の意見を聞く意図を持って、三宅に近づいていたのだろうか。
  ちなみに森田は、自身の療法の披露のため、大正9年末には宇佐らを自宅に招待し、大正10年末には三宅らを自宅に招待したのだった。
  宇佐は医師になった大正8年夏に、早速、円覚寺の釈宗演老師に面会し、自坊の住職を引き受けるべきか、医業をなすべきかについて助言を仰いでいる。宗演は、「寺を出なさい」と言ったという。お墨付きを得た宇佐は、医業を営む方針を決めただろうが、療法が誕生する時期に森田との出会いに恵まれて、しかしながら評価が定まっていない森田の療法を摂取すべきかどうか、大正9年の時点では慎重になっていたとすれば、それは当然のことだったとも言えよう。
  三宅鑛一との近い関係は、その後も長く続いたようで、宇佐は後年(昭和16年)に上梓した著書『精神病の看病法』の校閲を三宅に依頼している。三宅は呉の後任として、昭和11年まで東大精神科教授を務め、神経衰弱などいくつかの分野の研究で知られた人である。
  研究者としての三宅については、別途に述べたい。

自由を求めて生きた画家、高良真木(下) ―母娘葛藤と森田療法―

2019/05/18


真鶴半島(岬の先端の三ツ石)


 

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<本稿について>
  本稿は都合により、掲載が遅れましたが、連載として書き始めたシリーズの最後にあたります。シリーズの(上)は、2018年12月25日に、(中)は2月7日に掲載しました。
  (上)と(中)の原稿へのリンクを、以下につけておきます。
 
自由を求めて生きた画家、高良眞木(上)―画家たちの真鶴半島―
 
自由を求めて生きた画家、高良眞木(中)―洲之内徹との不思議な関係―

 
 

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1.偉大なる母、高良とみ女史
 
  戦後の昭和22年に、日本最初の女性参議院議員となって、反戦平和、女性解放の運動を進めていた高良とみ女史(1896-1993)は、昭和27年、国交のなかったソ連に渡航してモスクワ経済会議に出席し、さらに中国に入って太平洋地区平和会議に出席した。鉄のカーテンをこじ開け、竹のカーテンをくぐって、ソ連と中国への道を開いたことは、当時の日本社会にとって画期的な行動であり、その快挙はとりわけ日本の女性たちに勇気を与えたのだった。
  「私が尊敬する人は、ガンジーとタゴール、親友はネールと李徳全女史」と言ってはばからなかったと伝えられる。高良武久教授夫人で、娘たちの母であったこのようなとみ女史は、日本女性の中でも、希有のスケールの持ち主であった。
 

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  とみ女史(旧姓和田)の実母、和田邦子は敬虔なキリスト教徒で、婦人運動や社会運動に参加していた人であった。とみ女史はこの母の生き方を受け継いでいた。日本女子大在学中には、アジアで初めてノーベル賞を受賞したインドの詩人、タゴールが大学へ講演に来た。その際直接タゴールに接して深い敬愛の念を抱き、以後交流を続けることになった。大学卒業後、アメリカに留学して心理学を専攻し、学位を取得した。その間、ジェーン・アダムズに会い、セツルメントに代表されるその社会事業、平和運動、婦人運動に大きな影響を受けて、それがとみ女史の思想の根幹をなすことになる。母、和田邦子のキリスト教思想の影響に加えて、タゴールから薫陶を受けていたとみ女史は、アメリカに留学しても、資本主義社会の消費文明や拝金主義に染まることはなかった。
 
  帰国後、大正12年に九州帝大医学部精神科助手となり、そこで、高良武久医師と出会った。
  昭和2年、母校日本女子大学教授として迎えられ、日本社会における婦人問題の先覚者として、指導的な役割を担うことになった。また国内だけでなく、インドや中国を視野に入れ、アジアの平和運動にも関心を向けていく。
  昭和4年、高良武久先生は上京して根岸病院医長となり、この年にふたりは結婚式を挙げた。昭和5年には、長女真木が誕生している。
  こうして、とみ女史は妻となり母となったが、同時に日本の婦人たちの啓蒙のために指導的な活動に従事し続けた。女史は、女性と言えども、個人の解放のためや家庭の幸せのためだけに生きるものではないと考えていた。社会の半分を占める婦人が、社会のことや国家のことを考えぬことは罪悪であり、婦人が権利を獲得するのも、婦人が社会に貢献するためであると、女史は説いた。婦人解放を目的とする「青鞜」の同人らに共感を示さず、社会の人びとと分かち合う幸福を重視していた。
 
  しかし落とし穴が待っていた。日中戦争が始まり、大政翼賛会ができたとき、婦人議員としてそこに参加し、婦人の国家的任務への覚醒を力説した。ここにおいても、社会に貢献するという女史が理想とした婦人像は変わっていないことは注目に値する。しかし、翼賛会に参加したことは、結果として侵略戦争に加担した立場となった。女史は、後にこのことを顧みて、私の生涯の最大の汚点だったと言うのだが、その償いの思いを込めて、戦後には、日中友好など、アジアを中心とする平和運動に後半生を賭けたのであろうと思われる。
 


『非戦を生きる―高良とみ自伝』(1983)、表紙のカバーは高良真木画。


♥      ♥      ♥

 
 
  家族から見たとみ女史のことについては、『非戦を生きる―高良とみ自伝』(1983)の巻末に収められている、次女の高良留美子様による「『妻として母として』―内側から見た高良とみ」という一文、および『誕生を待つ生命―母と娘の愛と相克』(高良美世子 著、高良留美子 編著、2016)の高良留美子様による「解説」の文などが参考になる。以下の記述は、多くをそれらに負う。
  自伝『非戦を生きる』のプロローグで、女史は昭和27年に鉄のカーテンをくぐってモスクワに入ることができた体験に触れて、述べている。「私の中にある婦人の直感とも言うべきものでしょう。どうせ人間の住む世界ゆえ、そこには婦人が、妻として母として生きている、その世界ではどんな人間でも同じ心持ちだという信念があったのです。」
  自伝の文中にこのように「妻として母として」という言葉が何度か出てくるので、次女の高良留美子様が、それを姉の真木様に話したところ、「姉は最近の教科書問題になぞらえて、『それは歴史の改ざんだ』と叫んだ」そうである。娘たちから見れば、「妻として母として」という言葉は、とみ女史にはおよそ似つかわしくないものだったのである。母は子どもの教育には熱心で、羽仁もと子の思想に共鳴して子どもたちを自由学園に入れた。しかし子どもたちは母の温もりを感じたことがなかった。
  家庭の主婦である以上に、社会のために目覚めよと主張したとみ女史は、指導者であるが故に家庭人に甘んじることができなかったのである。「母として」の欠如は、子どもたちを心の孤児にした。
 
  当時の家庭内のとみ女史の姿は、歳月を経て戯画的に回想されている。「家の台所の流しの上の戸棚には、母が買い込んできたさまざまな機械や器具類が、がらくたとなってしまい込まれていた。(…)母が整理下手だったせいもあって、わたしたちは彼女が外でやっているらしい『生活の合理化』については、ほとんど信用していなかった。いやわたしたちがそれを信用しなかったのは、天井裏のがらくたのせいなどではなくて、彼女の存在そのものが、わたしたちにとって不合理そのものだったせいなのかもしれない。つまり、うっかりしているとわたしたち自身が『合理化』されてしまいそうな危険があったのである。母はわたしにとって初めての、強大な、いささか強大すぎる他者であり、愛憎の対象であり、たたかいの相手であった。」(高良留美子様の文より)。
 
  家族から見ると、女史が大きな行動力を発揮する前後には、沈黙と沈潜に浸った「うつ」の期間があったと言われる。それは戦中に大政翼賛会への出席をやめてから、敗戦後に参議院選挙に出るまでの時期と、三度目の選挙に落選してから最晩年に平和運動に復帰するまでの時期であったとされる。それは双極性と言えるほどの気分障害だったのかどうか、わからないし、判定するスケールもない。高良とみ女史は、そんなスケールの大きな人だったのである。
 


真鶴半島の先端


 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
 
2. 森田療法家の父、高良武久先生
 
  九州帝大医学部精神科の若き高良武久医師は、アメリカ帰りで同精神科助手になっていた3歳年上の和田とみと会った。ふたりは愛を育み、とみが九大を去って日本女子大に着任するまでの3年間、相聞歌のような詩を交わしていた(武久没後に発見されて、『高良武久詩集』として出版された)。とみの後を追うように、昭和4年に武久は上京して根岸病院医長となり、同年にふたりは結婚した。
  婦人運動や平和運動を精力的に続けるとみ女史と対照的に、武久先生は、七高(鹿児島の旧制第七高等学校)の学生時代には、神経質に悩み、詩作や読書に耽っていたことのある文学肌の人であった。とみ様は循環気質だったようだが、武久先生はシゾイド的で、思想的には自由主義者であった。おふたりの間には葛藤が生じないはずはなかったのだが、森田正馬の後継者として、森田療法家となった武久先生は、家庭においても父として、そしておそらくは夫としても、「あるがまま」の生活を送っておられた。
  しかし留美子様は『誕生を待つ生命』の「解説」文の中に、「父の淋しさ―尺八とヴァイオリンの合奏」という小見出しで、姉の真木が小学五年生のときに書いた「音楽」という作文には父の淋しさが滲み出ている、と書いて、その真木の作文を掲載しておられる。少し長いが、家族のことが伝わってくるので、そのまま引用させて頂く。

 

♥      ♥      ♥

 
 
  「父は古くから音楽、殊に日本音楽というものにしゅみがあった。それで尺八を前から愛し、六段等の名曲も吹く位に成って居た。又自分で尺八を作り月夜にバルコニーで物静かに千鳥などをひいて心を慰めていらっしゃった。それで私にことを習わないかとおっしゃり、何やらつづけ字の経文の如き字の尺八のふを一生けんめいに教えて下さった。が私にはそういう物をあつかう才能が無いがため二ヶ月位つまらないつまらないと思いながらもやっとおぼえたのは六段の初めの方だけである。それ程父は母のげいの無いためか、さみしがって居らっしゃった。
  ところが私も学校でヴァイオリンを習い始めて早くも一年をへて今ではどうやら十ぐらいの歌もひけるようになり、ふしを知って居る歌はつっかえつっかえひけるようになった。私は無しょうにうれしくなり毎晩々々おけいこのほかにいろいろ知って居るうたをひいてみる。
  すると父が尺八をもって出て来て、「まきちゃん。大分君ヶ代がひけるようになったね。一つ尺八をあわせて見よう。」といっていろいろの民間にはやる歌を集めたふを持って来て引き出す。ところが私の方は下からひき出したが父の方ではファからひき始める。まごついて又初めからファで出始めた。つゆのしとしとふる中にこの二人の奏する音のながれが雨の音に入りみだれて美しくちょうわする。
  後から後からいろいろの曲をひいたがヴァイオリンと尺八の音は兄弟でもあるかのようにちょうわして、しめった室にひびく。そうしてその音の中には他人にはわからない父子の愛が互いにむすびあってゆくような何となくなごやかなものが二つの楽器の間を往来して居た。又音楽に熱中する父の顔はいつになく赤らみ目がかがやいて居た。父は一個の医者としてよりも、一人の芸術的な才能にとんだ人だと自分でおっしゃった言葉が今さらのように思いうかんだ。雨ではあるがまどから半月があわく光って居る。緑のつたがわずかにゆれる程のささやかなかぜ。白くけむる雨がつたの葉にゆめのように光って居る。
  音楽はやんだ。父と私はにっこり笑った。そうして二人共ほほえましく語らいながら楽器をしまった。そうして互いに「おやすみなさい」をいってわかれた。しかし父のあの顔はおそらく私が音楽をするたびに思い出すであろう。(おわり)」

 

♥      ♥      ♥

 
 
  武久先生は、家族に対して責任感の強い人だった。ときには子どもたちの前で母の悪口を漏らしたが、最後に必ず付け加えた。「しかし、お母さんにはどこか人並みはずれたところがある。人のできることはできないが、人のできないことをやるところがある」と。
  残念ながら子どもたちに対して、すべてにわたっての理解者たりえなかったが、決して矯めることをせずに、自由な成長を見守った父親であった。
 


『野に帰ったバラ』(童話) 浜田糸衛 作、高良真木 絵 (1960)


   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
 
3. 高良真木の歩んだ道―自由を求めて―
 
1) 原体験―母なるものの不在―
  長女の真木が生まれたとき、母親のとみは母乳が出ず、近所に住んでいた南原繁氏(政治学者で、後に東大教授、東大総長)の夫人に母乳をもらったそうである。それは仕方のないことだったろうし、また生みの親自身も母乳が出ない寂しさを、その分だけ我が子との相互の愛着に振り向けることはできたはずである。だが、婦人たるものは妻として母として生きる以上に、社会のために生きねばならないというイデオロギーの持ち主であったとみ女史である。実際に、とみ女史の育児がどのようであったかはわからない。
  妹の高良留美子様によれば、母は自宅に不在がちであり、幼児期から妹は母代わりのような姉の後ろについて歩いていたという。また、留美子様はその姉の幼い頃の人形遊びに、彼女の原風景を見たという記憶について書いておられる。幼い真木様は、手足がもげて頭と胴体だけになったセルロイドの人形を布でくるみ、着替えさせては大切に可愛いがり、人を寄せ付けず、人形とふたりだけの世界に入り込んでいた。それが孤独な姉真木の原風景であったというのである。
  人形は、いわばイマジナリー・コンパニオン(想像上の仲間)であった。妹が見たその風景は、本人にとっては、母なるものの不在の中で、人形と共にいたわりあう夢想的な世界を形成した原体験であったろう。そして、真木様の内面に秘められたそのような中間的な体験領域は、やがて絵画へと向かっていったのであろう。
 

♥      ♥      ♥

 
2) 母からの解放を求めて
  自由学園在学中に終戦を迎えて、真木は昭和21年に日本女子大学附属高等女学校に転入学した。14歳だったそのときに反戦思想を書き綴った作文が、晩年に見つかっている。「我々は戦争の子であった。生まれて以来十数年というものは、我々の父母の時代によって日本が侵略主義の道を邁進していた時代だった。…」母のゆかりの日本女子大学の附属高女に入りながら、親の世代を突き放しているような文章であり、多感な少女の正義感が読み取れる。
  昭和22年には東京女子大学外国語科に入学し、昭和24年に渡米して、インディアナ州のクエーカー教のカレッジに転入学した。母に強く反発していた真木は、後に妹留美子様に、母から離れるための留学だったと語っている。真木の最晩年にインタビューをした早稲田大学の新保敦子氏によれば、「母親から一番遠いところへ留学」したかったと真木は言ったそうである。母はプロテスタントのクリスチャンだったのに対して、やや信仰の流れの異なるクエーカー教のカレッジを選んだとは言え、母の足跡をなぞるようにアメリカに留学し、キリスト教のカレッジに学んだことが、母親から「一番遠いところ」へ行ったことになったのであろうか。
  卒業して昭和27年に帰国し、翌28年には真木はコペンハーゲンで開催された世界婦人大会に母と共に参加した。途中で母や真木は、浜田糸衛を団長とするグループに入り、中国やソ連などを訪問している。続いて真木は一行と離れ、パリで美術留学の生活に入り、昭和30年に帰国した。
  しかし昭和32年には家を出て、浜田糸衛の宅に転居した。その後真鶴の別荘に移り住んで、そこで浜田と生涯にわたる長い共同生活を送ったのだった。
  母から一番遠いところへ行くために、母と同様にアメリカに留学し、母と共にコペンハーゲンや中国に行き、しかし母に反発し、母の同志で日中友好活動をしている浜田糸衛に心酔して、浜田と思想と行動を共にしたのだった。母からの解放を求めながら、解放されることはなかったのである。心中においては母なるものを希求し、そしてその不在ゆえに反発し、母なるものへの両価性を生き続けていたのであろう。
 

♥      ♥      ♥

 
3) 絵画と日中友好活動
  パリ留学時代の真木の絵は、孤独で幻想的で実存的な画風だったと言われる。ところが、昭和30年に帰国してから、たとえば山並みの上に赤い太陽が張りついて、実体のない空虚の中で出口を探して彷徨している自分の分身を描いているような、不思議な絵を描くようになり、やがて自然を対象とするリアリズムになっていった。しかしリアルを越えて自然に執着するような絵であった。木をみつめ、木と関係している―。原田光氏(岩手県立美術館長)は、『高良真木画集』に寄せた文章の中で、そのように評している。木をみつめ、木と関係している。洲之内徹もそのような絵に心をそそられたのであろう。高良真木にとって、自然とは何だったのか。
  真木にとっての自然は、日中友好の活動家で、童話作家でもあった浜田糸衛の童話に添えて描いた自然の絵と同じものであった。浜田糸衛は、戦前に京都の被差別部落で働き、上京して生田長江に師事してセツルメントで働き、満州に渡っていた時期があり、戦後は筋金入りの社会運動家として活動した人である。童話作家としての一面を持ち、同居していた浜田を、真木は尊敬し、昭和35年に出した『野に帰ったバラ』という童話の表紙絵や挿し絵を、初めて引き受けることになった。そのあらすじを簡単に紹介しておく。
  高度経済成長で町が病み、自然が壊されている時代の話。町から離れた自然の中の沼のあたりでは、沢山の生き物たちが平和に暮らしていた。あるとき、バラの化け物が現れて、トゲでガマの腹を刺した。しかし化け物は疲れきって沼のそばで倒れていたので、ドクダミ先生が診察に行った。ブリリアント・プリンセス・ローズという傲慢な名前で、指に金剛石をつけたこのバラは、心の傷から病気になったのだとドクダミ先生は診断する。そして太陽から不思議な力をもらい、夜空の星屑に金剛石よりも美しい魂の輝きを見たバラは、指にはめていた石を捨てた。彼女は普通の野バラとなり、自然の中で素朴な歌を歌いながら、子どもたちを育てる仕事をして歳月を重ねていくことになった。
  何という美しい、そして恐ろしい話であろう。浜田の創作に付き合い、表紙絵や挿し絵を描いた真木は、この本の初版が出た十数年後の新装版の「あとがき」に、バラのモデルは私であったことに気がついたと書いている。そしてそのことを受け入れて、「自然に帰る」ことの重要性について述べている。実際、彼女は浜田の影響の下で、日中友好活動に取り組み続けたのだった。文革の指導者、毛沢東を太陽として仰いで自然と共生しながら中国の農民が描いている下手な絵に憧れ、国内では、新潟の自然の風景とその中で生活している人たちを描いた佐藤哲三の絵に共感したのだった。
  真木は母に反抗しながら、母と比較にならない本物の左翼活動家の浜田によって、家出を正当化されたのである。もちろん責任は本人にあるが、浜田にこそ責任はあろう。『野に帰ったバラ』は、免疫に欠ける真木のような人を洗脳するという意味で、残酷童話であったと思われるのである。
 

♥      ♥      ♥

 
4) あるがまま―真の自由へ―
  高良武久先生は、とみ女史がクリスチャンであったためもあろうが、無宗教の立場を取り、自由なコスモポリタンを自認しておられた。森田正馬は仏教思想に通じ、禅語もよく引用したが、高良先生は療法から仏教の教えや禅語をなるべく除いて、新たな概念や用語を取り入れ、療法を整理なさったところがあった。しかし「あるがまま」という言葉を療法の中心に据えておられた。「あるがまま」は放恣、放逸と間違われやすく、分かり難いところがあるが、本来は仏教や禅の思想によっている。原始仏教における「如実知見」に当たるし、禅においては無数の表現がある。高良興生院の作業室に「正受不受」と書いた文字が掲げられていたそうだが、これは「あるがまま」に相当する禅語である。真宗なら「自然法爾」も同様の意味を持つ。
  武久先生の長女として、真木は森田療法をどのように捉えていたのだろう。「あるがまま」に生きていたのかどうか。彼女の生涯においては、母の支配から解放されて自由になるという大きな課題があったが、さらにそのような自由にとらわれて、一層不自由な生き方になっていたのではなかったか。
  自由には、なにかの束縛や支配から解放される自由と、なにかに向かっての自由とがある。これに対応して英語には、liberty と freedom のふたつの用語がある。真木は liberty にとらわれて、freedom を生きることに気づけない隘路を歩んでいたようであった。
 「あるがまま」に生きることは、自堕落に生きることではなく、二項対立的な対象の束縛から逃れて自由奔放になることでもない。禅における自由は、freedom に相当する。しかも字義的には、「みずからに由る」よりも、「おのずから由る」と理解できる。すなわち、固定されない自己のままで、作用していることが自由なのである。それが「あるがまま」であり、freedom の自由であり、森田療法的な生き方なのである。
  しかし、人間にはそれぞれの人生がある。森田療法の大家の長女であることを承知の上で、真木という人が、自分の尊厳において選択した生き方を、これ以上評することはできない。
  真木は浜田糸衛と共に真鶴の別荘に住んでいたが、敷地内には母とみ女史のための建物もあった。母の晩年の、介護を要するようになった数年間は、真鶴で真木が進んで介護をしたのだった。積年の母と娘の葛藤がほどけた数年間であったろう。
  平成5年に、とみ女史は召され、平成8年には武久先生が逝去された。その後、平成14年に真木は真鶴に共生型住宅(木の家)を建設し、「真鶴共生舎<木の家>」の運営を始めた。自然、人々、社会との共生の場を謳ったが、場所の不便さのため、入居する人は少なかったようである。少なくとも真木は、尊敬する浜田糸衛をそこで最期まで看取ったのだった。数十年間にわたる奇妙な女性同士の同居生活であった。浜田の方の責任を、私は改めて思わずにいられない。平成22年に浜田が没して、翌年の平成23年に真木も静かに世を去った。真の自由の行方はよくわからない。
 
  新保敦子氏によると、「真木の葬儀の時に、高良留美子が語ったエピソードによれば、真木にはアメリカで結婚しようとしていた恋人がいたが、結婚できず、真木が息を引き取る直前に、留美子は初めて、その人の名字を教えられた」というのである。戦後のことであるから、一旦帰国しても国際結婚はできたろうにと思うのだが、悲劇のヒロインとして人生に幕を引かれたようにも感じ取れる。人生というものは、おそらく辻褄の合わないものなのだろう。
 
< 主な文献 >
・ 高良留美子 : 高良真木という人. 『高良真木画集』求龍堂, 2010
・ 岸見勇美 : 『高良武久 森田療法完成への道』元就出版社,2013
・ 新保敦子 : 日中友好運動の過去・現在・未来―高良真木のオーラル・ヒストリーに依拠して―. 早稲田大学大学院教育学研究科紀要,第22号,51-66,2013
・ 高良とみ : 『非戦を生きる―高良とみ自伝』ドメス出版, 1983
・ 高良美世子,高良留美子『誕生を待つ生命― 母と娘の愛と相克』,自然食通信社,2016
 
 

佐藤哲三「みぞれ」(1953)。晩秋の黄昏の蒲原平野。画面のあちこちに農民たちや牛の姿が見える。


高良興生院・森田療法関連資料保存会の会報「あるがまま」のタイトルの文字の左に添えられている木の絵は、高良真木様が十代のときに描かれたものである。


森田正馬の日記に見る宇佐玄雄との出会い―「森田療法創始百年か」<その三>の追加資料―

2019/04/27


慈恵医専の学生時代の宇佐玄雄。医専附属病院にあたる(私立)東京病院(または慈恵院病院)での、ポリクリ風景で、診察医は内科教授らしい。 右から2人目、立っている人物が宇佐玄雄である。



 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 

     森田正馬の日記に見る宇佐玄雄との出会い
                 ―「森田療法創始百年か」<その三>の追加資料―

 
  去る4月5日付けの原稿、「2019年の今年は『森田療法創始百年か』<その三>」の原稿内容は、森田正馬の日記を根拠の一部としています。ところが、この稿をアップロードした後に、森田の日記を改めて精細に見直した結果、宇佐玄雄との交流について記されている箇所が意外に多くあり、少なからず見落としていたことが判明しました。
  そこで参考までに、宇佐玄雄が慈恵医専に学び、さらに卒業後も2年余りまで、東京に滞在していた時期の、森田と宇佐の交流について、森田の日記に出ている記録のすべてを抜粋して、以下に掲げておきます。
  また、見落としていた日記の箇所を読んだことで、上記の<その三>の原稿(4月5日アップロード)の内容を修正する必要がおのずから生じました。そこで、その原稿を4月5日に据え置いたままで、修正箇所がわかるような書き方で、本日修正を加えて差し戻しました。
  ご了承下さい。
 

♥      ♥      ♥

 
  森田正馬の日記において、宇佐玄雄のことは、大正7年から大正10年までにわたって記入が見える。以下はそのすべての抜粋である。(網羅したつもりながら、なお遺漏がないとは限らない。また草書で書かれた森田の達筆の文字は判読し難く、誤読した字があるかもしれないことをお断りする。)
 
  森田正馬の日記中の宇佐玄雄についての記載を改めて確認したところ、二、三の見落としを発見した。以下にはそれらを補って修正版とした(2019年5月17日修正)。修正、追加した箇所を青字で記している。
 
追記(7月24日付)
  森田の日記を更に繰返して点検したところ、宇佐の来訪についての記載を、3ヵ所見落としていた。それらを、遅まきながら緑色の字で追加記入する。
 

――――――― ◇ ―――――――

 
【大正7年】
 
・ 六月九日(日)
      夜宇佐君来ル
・ 九月十一日(水)
      宇佐美君来ル
・ 九月二十二日(日)
      夜ハ池上、宇佐君来リ晩酌ヲ共ニス
・ 十月三十一日(木)
      午前病院ニ宇佐君、池上君来リ患者診察ノ稽古ヲナス
・ 十一月八日(金)
      夜佐藤君及宇佐君見舞ニ来ル
 
 
【大正八年】
 
・ 五月三日(土)
      宇佐君林君、病院ニ来リ精神病研究ノ指導ヲナス、宇佐君ト共ニ帰リ…
・ 五月六日(火)
      午後宇佐君ト同道、高木兼二〇ノ葬場ニ行ク、
・ 五月十七日(土)
      後藤君ト共ニ庭掃除ナドナス、宇佐君来ル
・ 五月十九日(月)
      夜ハ病院相談会、九時半帰ル、宇佐君催眠術稽古ノ為来リシモ後藤不在ニテ目的ヲ達セズシテ帰ル
・ 五月二十日(火)
      午後久亥、後藤君、宇佐君ト共ニ畜産博覧会ニ行ク、…
       宇佐君石原ト共ニ晩餐ヲナス、宇佐君ハ後藤君ニ就テ催眠術ノ演習ヲナス
・ 五月二十二日(木)
      宇佐君来リ共ニ晩酌ヲナシ十時就床、
・ 七月四日(金)
      慈恵院講義、夕方宇佐君ト共ニ病院ヨリ帰リ晩餐ヲ共ニス、
・ 九月八日(月)
      夜石島君、永松、宇佐君来ル、
・ 九月十一日(木)
      夜ハ正一、誕生日ニテ宮崎老夫人ヲ招キ、宇佐君モ来リ小宴ヲナス

  夜中村氏ヨリ化物屋敷ノ貸家アリトノ電話アリ、宇佐清水君ト共ニ之ヲ借ラントテ吉祥寺前ノ家主ニ行キシモ已ニ借人アリタリトノ事ナリ、化物ハ今日昔借リ来リタル一婦人ト四才女児ト一泊シテ〇〇或モノニ驚キ叫ビタルヨリ隣人ノ噂トナリ其人ハ翌日直チニ転居シタルヨリ終ニ新聞(二六)ニ出テ…小児ハ吐血シテ死シタリナド誇張サレアリタリトイフ、

・ 九月十三日(土)
      夕方宇佐君ノタメニ同君ト共ニ大学ニ三宅君ヲ訪ヒ宇佐君松沢病院医員トナル事ニ付キ相談ス、
・ 九月十九日(金)
      午後宇佐君ト共ニ大学ニ三宅君ヲ訪ヒ宇佐君ノ事ヲ依頼ス、
・ 九月二十九日(月)
      宇佐君病院ニ転居シ来ル
・ 十月二日(木)
      夕方宇佐君来ル
 
 
【大正九年】
 
・ 四月十日(土)
      宇佐君来ル
・ 五月五日(水)

  宇佐君来リ三宅君ノ伝言アリ、余若シ病ノタメ慈恵ノ講義ノ困難ナラバ、一時、代リ講義シテモヨケレド、Kl.ハ呉先生洋行ノタメ三宅君ガ其代リヲナストイフ、三宅君ハ之ヲ好マズトイフ、余ハ以前ヨリ自ラKl.ヲナサン事希望スル処ナリ、

・ 七月二十日(火)
      宇佐君根岸君来リ共ニ晩餐ヲナス、
・ 十二月十一日(土)
      夜ハ児玉、宇佐君ヲ招待シ岩田、中西、木村、根岸君ヲ招キ晩餐会ヲナシ、同病相喜ブ会トナス
・ 十二月二十六日(日)
      朝掃除ナドナス、宇佐君来ル
 
 
【大正十年】
 
・ 二月二十五日(金)
      宇佐君来テ藤原、重野君ト晩餐ヲ共ニス
・ 五月十日(火)
      中村、川崎、宇佐君来ル
・ 六月二日(木)
      夕方、宇佐中里実君〇、晩餐を饗す
・ 六月十五日(水)
      宇佐君来リ病室ノ設計ヲナス

 

――――――― ◇ ―――――――

 
〔注記〕
1. 大正7年日に、まだ学生だった宇佐は、夜森田家を訪れている。これがおそらく宇佐についての最初の記載だが、記載が簡潔なので、これが個人的交流の初回だとは思えない
2.大正7年9月11日には、「宇佐美君来ル」と記されており、おそらく「宇佐君」の誤記だろうが、まだ十分に名前を記憶してもらっていなかったところを見ると、交流が始まったのは、この大正7年からであろうと思われる。
3. 大正8年、宇佐は医師になり、ますます森田との交流を深めている。森田家を訪れて、晩餐を饗されたり、晩酌の相手をしたり、森田と森田夫人と共に出かけたり、森田の息子、正一郎の誕生日の宴に参加したり。また森田家へ、催眠術の練習に行っている。
4. 大正8年は、森田が神経質の特殊療法を始めた年なのに、森田と宇佐がその療法を話題にした記録は日記にはない。
5. 同年9月、森田は、宇佐が松沢病院の医員になれるように、本人を同伴して大学の三宅助教授に依頼に行っている。そのおかげで、宇佐は松沢病院に医員として入った模様。身分は不明。
6. 奇妙なことに、それ以後、宇佐は1年間以上森田日記にあまり登場しない。松沢病院に通うことになったためか、わからない。宇佐の生活に変化が起った可能性もある。森田の療法を一旦静観する姿勢を取った可能性もある。
7. 大正9年12月11日に、児玉昌医師と共に森田家に招かれ、森田の療法を受けた患者さんたちも同席して開かれた晩餐会に参加している。以後宇佐は、大正10年夏に東京を去るまで、森田の療法を学んだものと思われる。ただし、どのように熱心に学んだかは、森田の日記からは読み取れない。
8. 野村章恒は、森田の日記に、宇佐が大正10年の「六月には、病院の設計図を持参して、その計画の批評を仰いでいることが書かれている」と記しているが、日記を見ると、6月15日に「宇佐君来リ病室ノ設計ヲナス」とあり、病院の設計図を持参したのではない。

2019年の今年は「森田療法創始百周年か」―森田療法考現学(5)―<補遺>

2019/04/08




 

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2019年の今年は「森田療法創始百年か」<補遺>


 
 <補遺1> 特殊療法の成績
 
  森田は、療法を成立させてから後に、治療成績をまとめた形にした最も早い発表として、次の報告を出している。
 
  「神経質に対する余の特殊療法成績」、日本之医界、第一五巻、第三九、四〇、四三号、大正十四年五月(『森田正馬全集第二巻』に収載)。
 
  ここで森田は、大正8年4月から同14年3月までの6年間に療法を施した86人を対象に、治療成績を記している。大まかなところを引用すれば、「普通神経質」では、全治57%、軽快38%、「強迫観念症」では、全治60%、軽快32%となっている。また、森田は、「『単に病を治癒するのみでなく自己の人性を治するを得た処の精神的一大転機であった』とは多くの患者の告白する所である」と述べている。さらに彼は、全治とは、症状を基準に診断するのではなく、苦楽を超越して生の欲望を追う境地のことなのであるということを指摘している。一方、治療の苦痛を恐れ、或いは不信を起こして途中退院した者が何人かあったが、その大半は意志薄弱者であり、治療成績の中に加えないとして、切り捨てている。このような入院治療の適応の問題は、森田が後世に残した課題となった。
  なお、残念ながら、絶対臥褥がどのように生かされたかについては、述べられていない。


 


 
 <補遺2> 宇佐玄雄が提案した療法名、「自覚療法」
 
  森田は療法の成績を報告した本稿の冒頭で、療法名は仮に「特殊療法」と言う名を用いるとしながら、「京都の宇佐君は『森田法による自覚療法』と称へて居る」と書いている。これより、宇佐玄雄が「自覚療法」と言う提案をしたのは、大正14年のこの報告より以前であったことがわかる。
  宇佐玄雄は、東京在留中の大正9年12月に、児玉昌博士とともに森田正馬宅に招かれている。一方で、今も御健在の御令息、宇佐晋一先生から次のようなエピソードを伺っている。
  父玄雄は、森田先生から「僕の療法を何と呼んだらいいだろう」と訊ねられて、「釈尊の開悟に匹敵すると考えて、『自覚療法』がよろしいでしょう」と答えたら、「それはよかろう」と仰った。同時にもうひとりの医員も同じ提案をしたが、森田先生は「これは宇佐君が言ったことにしておき給え」と仰った、というお話である。それはおそらく、大正9年に児玉昌博士とともに森田家を訪れたときのことであったろう。
  宇佐玄雄が「自覚療法」という療法名を提案して、森田がこれを肯定的に受けとめたことは、よく知られているが、意外に早い時期に森田と宇佐のそのやり取りがあったのである。また「自覚療法」の「自覚」については、禅に照合せねばならないと誰しも考えるので、難解で意味を測りかねるところもあったが、釈尊の「開悟」にちなんだ命名案だったと知れば、宇佐玄雄による命名の意味や、宇佐の療法観も明白に伝わってくるのである。
 

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2019年の今年は「森田療法創始百周年」か―森田療法考現学(5)― <その三>

2019/04/05


百周年

 

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2019年の今年は「森田療法創始百年か」<その三>


 
  (承前)
 
6. 宇佐玄雄の登場
 
1)東京への二度の遊学
  伊賀上野にある東福寺派の寺院、山渓寺の養子、宇佐玄雄(1886-1957)は早稲田大学文学科に学び、インド哲学を修めて帰郷後、大徳寺で修禅して得度を受けて禅僧となるも、さらに精神医学を志して、大正4年に慈恵医専に入学した。在学中には森田の講義を受講したはずであり、大正8年に慈恵医専を卒業した。そして同年より東大の呉秀三の教室に学び、先輩医師、森田正馬と改めて出会うことになる。
 
2)大正八年
  森田にとっては、大正8年は、永松婦長を自宅に同居させて治療に成功し、入院による特殊療法を進める契機に恵まれた画期的な年で、いわばセレンディピティが起こったのであったが、さらに本物の禅僧、宇佐が医師になって呉秀三の教室に入ってきたという、もうひとつの偶然も継起したのであった。
  森田はかねてより禅に関心を寄せ、明治43年に谷中の両忘会の釈宗活老師の下に参禅するなど、禅を体得して治療にも生かそうと模索していた。既述したように、明治42年には、神経衰弱について書いた雑誌原稿で、強迫観念を「桔驢橛」(原文表記のママ)に喩えて、治療には仏教家の示教を希むという本心を吐露していた。しかし結局は、催眠、説得などの試行錯誤を経て、自力で「煩悩即菩提」、「煩悶即解脱」を主眼とする療法にたどり着いたところであった。そんな折、若いが本物の禅僧が精神科医になって身近に現れたことは、頼もしいことであった。しかし、宇佐はいつから、どのようにして森田のもとに学んだのであろうか。
 
3)医師になる前後の宇佐玄雄
『人生に随順して―宇佐玄雄博士追悼録―』には、宇佐は大正8年9月30日より大正10年7月18日まで、東大医学部精神病学教室にて呉秀三教授の指導を受け、精神病学、神経病学を学んだとある。教室での身分は明記されていないが、期間が明記されているので、おそらくこれは正確な経歴である。東京では、医専の学生時代以来、漆間真学という日本通信社を創設したことで知られる人物の下で家庭教師をさせてもらい、さらに学資の提供まで受けていたが、医師になってからもさらに2年間、漆間に世話になりながら、東京に滞在したのだった。漆間を通じて社会の動きに接することができる利点もあったのであろう。
 
  ところで、森田の日記をよく調べてみると、宇佐が医専の最終学年の四年生であった大正7年に既に、宇佐についての記載がある。6月9日(日)に、「夜宇佐君来ル」とあり、これがおそらく日記において宇佐の名が出でくる最初のものである。日曜日の夜に宇佐は森田宅を訪れており、それがさりげなく記されているところから、この日が個人的交流の初回ではなく、精神病学の講義の熱心な受講生である宇佐は森田宅の訪問を認められる間柄になっていたという推測が成り立つ。
  この大正7年には、さらに9月、10月、11月に日記中に宇佐君の名が出てくる。
  大正8年に医専を卒業して宇佐が医師になってからも、森田の日記に5月以降、宇佐君の名がたびたび出てくる。宇佐は催眠術の演習のために森田家を訪れたり、森田夫人の久亥らと共に博覧会に出かけたり、正一郎の誕生日の宴に招かれたりしている。
  同年9月13日には、森田の日記に次のような記載がある。
  「夕方宇佐君ノタメニ同君ト共ニ大学ニ三宅君ヲ訪ヒ宇佐君松沢病院医員トナル事ニ付キ相談ス」
  同年9月19日にも次のような記載がある。
  「午後宇佐君ト共ニ大学ニ三宅君ヲ訪ヒ宇佐君ノ事ヲ依頼ス」
  9月29日には、「宇佐君病院ニ転居シ来ル」とある。
  そして10月2日に、「夕方宇佐君来ル」と記されている。森田の世話によって松沢病院の医員になれたことに対して、お礼の挨拶に行ったのであろう。その翌日の10月3日には松沢病院の開院式が行われた。
  しかし、その後宇佐はなぜか森田から遠ざかっている。大正9年4月に一度森田家に立ち寄っているが、おそらく挨拶の程度であろう。その後は、この年の12月に、森田から児玉昌と共に招かれるまでに、2度森田家を訪れているが、そのうち1度は三宅鉱一の伝言をたずさえて、使者としての訪問であった。松沢病院にどの程度熱心に通ったのかもわからず、半ば空白の1年2ヶ月であった。

 
4)神経衰弱
  ところで、ここまでの宇佐の人生を見ておくと、伊賀上野の山渓寺に幼くして養子に入った玄雄は、中学生以来神経衰弱に悩んでいた。転地療養のごとくに、早稲田に遊学させてもらい、卒業してもすぐに帰郷せず、東京からさらに千葉に転地療養したこともあった。ようやく帰郷して出家得度したものの、今度は医者になると言って、檀家の猛反対に合いながら、さらに医専に行かせてもらうというわがままを通したのだった。住職になりたくないという自坊への不適応と檀家との葛藤を引きずっていた宇佐は、医専を卒業して医師になった段階で、いよいよ身の振り方を決めねばならない時期に追い詰められていた。故郷を捨てるか、帰るか、迷いに悩まされていたのだった。大正8年は、宇佐にとってはそんな時期であったので、医師となった春から、晴れて森田のもとに直行して親しく学んだのかどうか、不明な部分が残されている。
 
5)進路
『人生に随順して―宇佐玄雄博士追悼録―』には、大正8年4月より慈恵医大教授森田正馬博士の指導を受けたと記載されている。しかし当時は慈恵医専であり、森田は学位を取得する以前であったのに、誤記されているから、記載内容自体の信憑性にも問題を感じざるを得ない。『禅・森田療法・京都―宇佐玄雄博士生誕百年記念講演集―』にも、玄雄のこの時期の経歴について、同じことが記されている。ただし、この後者の冊子には、玄雄は大正8年の夏に、鎌倉円覚寺管長、釈宗演老師に会いに行き、進路の相談をしたところ、老師から、山渓寺を出なさいと即座に勧められたという挿話が出ている。このお墨付きにより、開業へ向けての東福寺大本山の協力が得られることになるのである。
 
6)大いなる不覚か、静観か。
  こうして、進路の件は落着をみたのであった。そこで、以後はようやく森田の下に深入りして、療法の研修に一心に励むことになったかというと、そうでもない。宇佐はなお何らかの悩みを抱えていたのか、わからないところがある。
  それにしても、森田の療法に対する宇佐の不熱心や煮え切らなさは、何だったのだろう。ことによると、大正8年現在に、森田家では入院療法に成功して、神経質に対する入院による特殊療法が、一気に進められているという出来事を、重く受けとめていず、時差を置いてからその重要さを知ったのであろうか。もしそうなら、大正8年秋から大正9年まで、森田とやや疎遠になっていたことは、禅僧にして医師、宇佐の大いなる不覚であったのか。それとも慎重に静観していたのだろうか。
 
7)結ばれた師弟の絆
  森田の日記に書きとめられた宇佐との交流について、野村章恒は『森田正馬評伝』に次のように記している。
 

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 「森田日記によると宇佐は東大精神科で研究していて、大正九年十二月十一日に、児玉昌博士とともに森田療法見学のために招かれている。また翌年六月には、病院の設計図を持参して、その計画の批評を仰いでいることが書かれている。」
  大正9年12月11日の日記そのものの写しを入手して確認したところ、次のように記されていた。
「夜ハ児玉、宇佐君ヲ招待シ岩田、中西、木村、根岸君ヲ招キ晩餐会ヲナシ、同病相喜ブ会トナス」。
 

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  大正9年12月には、森田の方からの招きを受けており、客人扱いであるから、禅僧として一目置かれたのか、医師として対等に扱われたのか、それとも同病者扱いであったのか、よくわからない。ともあれ、遅くともこの晩餐会の時点では改めて近しい間柄になっている。そして卒業後の2年間における、微妙な曲折を経て、宇佐は大正10年に東京を去り、不退転の決意を持って、翌大正11年より、東福寺内の塔頭にて三聖医院を開業したのだった。
  医専卒業後の2年間における宇佐の森田との交流の内実には、意外に不明なところがあったけれども、少なくとも、東京滞在最後の大正10年には、森田と宇佐の間に師弟の絆が深められたに違いない。そして宇佐が京都で森田の療法を継承する開業医になってから、両者の交流は互いに重要なものとなっていったのだった。
 

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7. 森田療法における仏教と禅
 
  高知で真言宗の寺院の檀家に生まれ、寺の近くで育った森田正馬は、少年時代より真言宗に慣れ親しんでいた。五高生時代には、旺盛な好奇心を発揮して仏教の書物を読み漁り、広く仏教的素養を身につけた。「是空」という雅号を使い出したのも、この時期からである。その後も仏教への関心は続き、それが神経質の療法に役立つことになった。
  森田は、神経質の病的心理の説明や療法の真髄を述べるに当たって、当初から自ら仏教的な思想や言葉で説明していた。さらに後には、宇佐玄雄に教えられた禅思想も入ってくる。そのへんを整理するために、森田が療法の初期に使用した仏教用語や禅語を、かいつまんで挙げてみる。
 
① 「桔驢橛」(正しくは「繋驢橛」)。強迫観念の病理を指して、明治42年の雑誌原稿にこれを用いた。佛語とのみ書いているが、禅語である。
② 「一波を以て一波を消さんと欲す、千波万漂交々起る」。禅語。大正8年12月刊の論文「神経質ノ療法」に。
③ 「佛教の煩悩即菩提」。上記と同じ大正8年12月の論文に。
④ 「真言宗の煩悩即菩提」。大正10年6月刊『神経質及神経衰弱症の療法』に。大乗仏教で広く言われる「煩悩即菩提」だが、ここで「真言宗の」と言い直しており、森田は真言宗に親和性を持っていたことがわかる。
⑤ 「心無罣礙」。般若心経の言葉。上記と同じ大正10年6月刊の『神経質及神経衰弱症の療法』に。
⑥ 「見惑頓断如破石、思惑難断如藕糸」。禅語。 上記と同じ大正10年6月刊の『神経質及神経衰弱症の療法』、及び大正11年1月刊『精神療法講義』に。
⑦ 「無所住心」。禅語。昭和3年刊『神経質ノ本態及療法』に。
 

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  こうして見ると、森田自身が、まず禅に通じていたこと、のみならず、真言宗の思想や般若心経など、大乗仏教にかなり深い素養があったことが窺える。
 
  ところが、宇佐と療法上の交流が始まった大正9年から10年頃からは、おそらく宇佐の影響を思わせる独特の禅語が出てくる。とくに「見惑頓断如破石、思惑難断如藕糸」がそうである。これは東福寺の円爾に学んだ禅僧、無住による鎌倉時代の仏教説話集、「雑談集」巻四に出ている一節である。東福寺派の禅僧、宇佐がよく持ち出した言葉である。「知らないための惑いは、理屈を知れば石を破ったように容易に断定できるが、思惑というものは感情が絡むので、恰も蓮の茎を折るとき糸を引いて断然と切ることが出来ないようなものだ」の意で、不安や煩悶にそのままなりきれと教えているのである。森田は早くも大正10年の著作にこれを書いているが、宇佐との交流が始まった中で教えられたとみなして、差し支えなかろう。
  この頃より以後、森田の発言や著作の中に、禅語が増加する。その大半は宇佐玄雄の影響によるものと思われる。
 
  一方、おそらく森田がみずから用いたのであろうと思われる禅語に、「無所住心」があるが、これに対して宇佐は沢庵禅師の『不動智神妙録』にある「心の置き所」にふれて、「心を何所にも置くな」と教えている。いずれも、金剛般若経の「応無所住而生其心」に基づいていて、同義語であるが、宇佐の教えの方に禅的な殺気が感じられる。このように本物の禅僧である宇佐の禅は、森田と比して微妙に異なる面もあったようだが、禅を療法の本質とする点で、両者は通じ合っていた。
 

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8. 大正10年11月の晩餐会
 
  さて、森田療法の創始あるいは成立の流れに話を戻す。
  森田の多年の苦心の末、時が至って大正8年に永松婦長の家庭的治療をきっかけに、入院による神経質の特殊療法が一気に動き出すことになった。それが効を奏したということを、森田は早速当時の著作に記してはいるが、その段階ではせっかくの治療経験を、複数の実例を生かして正確に報告していたわけではなかったのである。
  大正9年末に児玉と宇佐を自宅に招いて晩餐会をした1年後、大正10年に森田は東大の別の医師たちを晩餐会に招いて、療法について話し合っている。野村章恒(『森田正馬評伝』)には、次のように記されている。
 

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 「森田は大正十年十一月十日の日記に、東大教授(注:助教授の誤り)三宅鉱一博士と助教授杉田直樹博士を親しく自宅に招いて、森田式療法で治癒した数人の患者と一緒に晩餐をともにしながら座談会をひらいた。もちろん、このなかに両博士ともてこずった谷田部夫人の顔もまじっていたのであった。」
 

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  谷田部夫人と言えば、長年の重度の不潔恐怖が森田家での入院療法によって治癒した有名な症例である。入院の治療期限が近づいて、本人はようやく諦めのような心境になっていたが、その頃森田は、出し抜けに森田の母と共に銭湯に行かせたところ、患者は自分の体だけでなく、森田の母の背中まで流すことができたのだった。この患者は、その頃森田が治したい真剣さのあまりに、殴ったり突き飛ばしたりした相手であった。機が熟して「掛金が外れる」ような体験が起こった症例である。
  このような劇的な治癒症例を示されることが有用であることは言うまでもない。ただ、他の多くの入院例はどうだったのだろうか。また、第一期の絶対臥褥については、その実施経験が詳らかになっていない。
  したがって、晩餐会でどのような討論が交わされたのか、三宅や杉田が森田の療法をどのように評価したのか、重要なことであるが、残念ながら記録は残されていない。
  それにしても、大正8年から入院による療法を実施し続けて2年を経た時点で、座談の場で成果を示す晩餐会をもったことは、区切りとして意義あることだったと思われる。
 

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9. 森田正馬の学位論文と慈恵医大教授就任
 
  以上に記したように、「神経質に対する余の特殊療法」は開業医、森田の自宅入院の場で生まれたのであった。しかし森田は、その療法を世の研究者たちに問い、自身も療法を点検しながら、それを深めていく必要があった。
  折しも、大正10年10月に東京慈恵会医科大学の設置が認可されて、森田が精神病学を担当していた慈恵医専は、大学に昇格することになった。慈恵医科大学の誕生とともに、大学には教授たちが就任したが、そこに森田の名はなく、森田は大正14年に慈恵医大教授に就任している。このへんの事情について、野村章恒は『森田正馬評伝』に、実に曖昧模糊とした書き方をしている。これは事実を糊塗するものである。その点に注意を促すために、そのくだりを引用しておく。
 

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 「この頃、新大学令によって専門学校が大学に昇格することになって、私立東京慈恵会医学専門学校は、東京慈恵会医科大学となった。(…)森田は、もちろん教授として精神病学講座を主宰することになった。医科大学教授は、医学博士の学位のあるものという内規があったのであろうか、森田は、大正十年、「神経衰弱ノ本態」、「神経質ノ療法」(神経誌二〇巻六号)を発表した。続いて呉秀三教授在職二十五年論文集に、「神経質ノ本態及療法」として二つの論文をまとめて執筆した。」
 

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  同じ野村の本の巻末の年譜には、大正十一年一月に「母に励まされて学位論文として、『神経質の本態及療法』の執筆にかかる。」とある。
  なお、その後の経緯は、大正十二年に学位請求論文提出。大正十三年に医学博士号受領。大正十四年に慈恵医大教授に就任している。
  独自の治療の開発は、それをまとめることによって学位を取得でき、それによって文部省の審査を通過して教授に就任できるのだが、森田の場合、慈恵医専の大学昇格の時期が来ていたために、間合いの遅れが生じたのであった。このような俗なる事情が絡んでいたのである。
 
  結局、森田の療法が創始され、初期段階のものとして成立を見たのは、大正8年から大正10年の間、つまり1920年頃のことであったとみなすのが妥当ではなかろうか。
 

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10. まとめ
 
  森田正馬は、神経質者のとらわれの心理機制を禅語の「繋驢橛」に喩えて、理によって解決出来ないことを見抜き、大乗仏教(とりわけ真言宗)に学んだ「煩悩即菩提」の境地に至らしめるところに治療の要諦があると考えた。そして、模索の末に特殊療法を開発し、「煩悩即菩提」を体得する方法として、絶対臥褥を導入した。
  森田は、絶対臥褥の目的として、3項目を挙げた。その中には、臥褥と隔離によって感情が収まる、つまり「感情の法則」による「頓挫療法」の効果も含まれていた。しかし、森田は、絶対臥褥の本旨として「煩悩即菩提」を一層重視していった。森田は「煩悩則菩提」をもじって「煩悶即解脱」と言っている。
  そして、自身の療法は、絶対臥褥を原点として、煩悩になりきる体験療法と、自発的活動を伸ばす自然療法との両側面があることを示した。
  大正8年に永松婦長を自宅に同居させて以後は、系統的な入院療法を意欲的に進めて、治療効果をあげていったようである。ただし、森田は治療者として患者の後ろ盾になって、恐怖に突入させてやることを辞さなかった。
  入院の第一期としての絶対臥褥の実際の効用について、それを検証した報告は残念ながら乏しい。
  森田が入院による療法を創始、開発した頃に、奇しくも、禅僧宇佐玄雄は慈恵医専を卒業し、森田との出逢いに恵まれた。宇佐は京都で開業するが、以後2人は生涯にわたり、影響を与えあうことになった。
  森田は、大正10年に東大の医師たちを招いて、自分の療法の成果を話し合ったこともある。この療法は、大正8年から10年にかけての時期、1920年頃に、創始され、成立したとみなすのが妥当であろう。
 

(了)                    

注: 本稿を部分的に修正したことについて。
  4月5日に本稿を公開後に、森田の日記中に宇佐玄雄との交流に関わるいくつかの記述を見つけました。それに伴い、本文の内容を部分的に変更する必要が生じました。そこで、いくつかの箇所を修正し、わかりやすいように、書き直した、または書き加えた文章を青字にしています。ご了承をお願いいたします。4月27日
 
注2: 本稿のごく一部を、更に修正しました。
  その後、森田の日記をなおも読み直したところ、とくに大正九年における宇佐との出会いの記載を2回分ほど見落としていたことが判明しました。二人の交流についての重要な部分ですので、それを文中に緑で補足しました(7月24日)。


Hundred years paper colorful sign over dark blue. Vector illustration.

 

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2019年の今年は「森田療法創始百周年」か―森田療法考現学(5)― <その二>

2019/03/27




 

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2019年の今年は「森田療法創始百年か」<その二>


 
  (承前)
 
4. 「恐怖突入」と 「煩悶即解脱」
 
  森田は、患者の精神交互作用を打破して、「煩悩即菩提」あるいは「煩悶即解脱」の体験に導くために、あえて人為的に指示を加え、有無を言わせず恐怖に突入させる方法を用いた。これがヅボアと異なる森田一流の「説得療法」であり、「体験療法」なのであった。ヅボアは体験よりも論理を用いて神経症者の病的心理を解消させようとしたのに対して、森田は体験に重きを置き、患者に説得的に具体的方法を授けて、恐怖に直面させた。
  「恐怖破壊法」とも言い、行動療法におけるフラッディングと似ているが、「煩悶即解脱」に導くものである点で、やはり非なるものであった。したがって、森田が「体験療法」と言う場合、方法的に二重の意味があった。通院療法の段階で開発工夫していた「恐怖破壊法」と、もうひとつはもちろん、入院のとりわけ第一期の絶対臥褥において、恐怖と一体化せざるをえない体験を指していたことは言うまでもない。時系列的には前者(恐怖破壊法)が先行し、続いて入院による方法として後者ができた。
  前者、つまり相手に見合った教示を用いて「恐怖突入」をさせる方法も、症状を治すにはそれなりに手応えはあったようで、森田は入院療法を始めてからも「恐怖破壊法」を併用している。
  以下に、森田が呈示した「恐怖突入」に相当する症例の中から、「恐怖破壊法的」な治療例として、任意に3例を選んで、簡単に紹介する。
 

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  〔心悸亢進発作例〕(『神経質ノ本態及療法』大正十一年一月稿)。
  森田の恩師の某大学先生の夫人。多年、発作は夜間に多く起こって、横臥できず布団に凭れるのみ。往診をしたところ、今夜も発作が起こりそうだと言う。所謂「精神性心臓症」と診断して、次のような教示を授けた。「では今夜は最も発作の起こり易い横臥位をとり、発作を起こし、苦痛を忍びながら、発作の起こり方や経過を詳細に観察されよ。そしたら私は将来発作の起こらぬ方法を教えます」と。ところが患者は、発作を起こすことができず、朝までぐっすり眠ってしまったのだった。そこで森田は「これが体得というものです。従来は、発作を予期して、心惑い、徒らに苦痛を増大させていたのです。発作を逃れようとする卑怯をなくし、恐怖に飛び込んだので、発作はどこかへ去ってしまったのです」と説明してやったのであった。
 

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 〔胃痙攣様発作例〕(『神経質ノ本態及療法』大正十一年一月稿)。
  五十九歳女性。十年前に発病して、胃部に発作性に激痛が起こる。最近ひどくなり、朝夕にその発作がある。診察したところ、胃痙攣ではなく、ヒステリー球に近いものであった。発作への注意によって精神交互作用が起こり、予期感動から発作の起こる時刻まで定まっている。森田はこの患者を、大正10年3月に入院させた。そしてまず臥褥をさせて、次のように指示した。診察と治療のために必要だからとの口実の下に、予期の時間よりもなるべく早く、努めて発作を起こして見せなさいと。ところが、そのように命じると発作は起こらなくなってしまった。その後作業にも参加して、全治を迎えたのだった。
 

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 〔強迫観念症の例〕(『神経質及神経衰弱症の療法』第三十六例)。
  二十四歳、農家の未婚女性。十代後半より、自分が盗みをしたかのような窃盗恐怖や、火事恐怖など諸種強迫観念が起こり、家に閉じこもっていた。難治であったが、最も的確に治癒させたものである。患者は十五歳頃に呉服店で反物を新調したが、それを盗んだのではないかと気になり、箪笥にしまって着ることができず、ついには箪笥に触れることもできなくなっていた。大正10年4月より、2ヶ月の予定で入院療法を試みることにした。絶対臥褥を経て作業に移り、患者の苦痛の種となっていた衣服を国元から取り寄せさせた。入院して50日を経たある晩、突然森田は患者に、今夜この衣服を着て寝るべし、と命じた。今夜は当然徹夜の苦悶に悩むであろうが、その覚悟で忍耐しなさい、と命じた。然るに翌朝、患者は、昨夜はどうなることかと思ったが、案外何事もなく、いつの間にか眠ってしまった、と言って喜びに溢れていた。恐怖に突入して、恐怖の破壊を体験自得したのだった。掛け金が外れるような心境になったのである。その後患者は帰郷し、「気になることが出来ても、教えられた通りにやっています」と便りに書いてきた。この患者は、まもなく森田の家に来て、お手伝いとして立ち働くことになった。
 

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  以上の症例のうち、はじめの2例は発作性神経症に相当するが、いずれも予期恐怖が働いて精神交互作用が高じていたところを、暗示的とも言えるような教示の下に、恐怖に突入させ、恐怖が破壊される体験に導いている。最後の強迫観念の例では、入院して数十日を経て、もはや後に引けず、森田に身を任すほかない段階で、恐怖になりきらせ、恐怖との対立から解脱させたのである。見事に巧んだものである。森田との強い絆が治療的要因になった例でもある。退院後森田家の従業員になったのは、その証左で、転移が続いていたと言えよう。
  ここで想起するのは、雷恐怖の人に対する盤珪禅師の教えである。「驚きなばそのままにてよし、用心すればふたつになる」と盤珪は言った。恐怖は恐怖のままにして、恐怖と予期恐怖を対立させるなと盤珪は戒めたのだった。森田の場合は、わざとお膳立てをし、手の込んだ教示を用いて、意図的に恐怖に突入させているので、技法として不自然であったと言えるかもしれない。しかし、このような「恐怖破壊法」的な恐怖突入は、入院による特殊療法を始めた初期においても、療法のひとつの特徴をなしていたようである。熱意ある治療者の応援があったからこそ、患者は恐怖に突入して、「煩悩即菩提」、「煩悶即解脱」の境地に誘われたと言うことができよう。
 

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5. 家庭の不和による臥褥と「頓挫療法」について
 
  さて、入院による余の特殊療法を改めて考えるとき、今ひとつ分かりにくいのは、第一期に絶対臥褥を導入した森田の着想や意義についてである。森田がその目的として、第一)診断上の補助、第二)安静による身心の衰憊の調整、第三)精神的煩悶苦悩の根本的破壊、の三つを挙げていることはよく知られているが、それが早くも大正9年の著作(「精神療法ニ對スル着眼点ニ就テ」)に記されていることは既述した。しかし、三項目のうち、第一の診断上の補助は、これ自体が補助的な目的としか思えない。したがって第ニと第三のふたつの項目を問題にすべきであることになる。
 
  遡れば明治42年の著作において、森田は、強迫観念の病理について、その煩悶を理論を以て解脱させることは不可能であり、治療に難渋していることを告白的に記している。そしてその病理は仏教語で言うならば「繋驢橛(繋がれたる驢馬が廻り廻りて其杭にからまり動きも得ならぬ様」(禅語)に喩えられるとし、切に宗教家の示教を希うと、あからさまに書いているのである(「神経衰弱性精神病性體質」、人性、第五巻、第五-六号、明治四十ニ年五月-六月)。
  その後の仏教的禅的な展開を知る資料に乏しいけれども、催眠や説得療法を試みても効果をあげ得なかった森田が、いよいよ煩悩になりきる道を治療的に探って「絶対臥褥」に到達したのではなかろうか。禅の形に当てはめるならば、座禅を臥禅にしたものが絶対臥褥だとも言えようが、論を座禅につなぐ禅本位論は問題を狭くする。絶対臥褥という人間として原始の状態にして、「煩悩即菩提」を体得させようとしたのであろう。「煩悩即菩提」を自分は「煩悶即解脱」と言い換えるとしたところにも、森田らしさや、信念や、さらに彼自身の解脱的体験も込められたニュアンスさえ伝わってくるのである。かくして、絶対臥褥の目的の第三を理解することができる。
 
  さて、そうすると残る第二の身心の衰憊の調整という目的が宙に浮きかねない。だが、これにつながるであろう森田の断片的記述やエピソードがあるので、取り上げることにする。
 

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  帚木蓬生氏は、著書『生きる力 森田正馬15の提言』の中に、次のように書いておられる。
 
  「正馬がこの臥褥療法を思いついたのは、郷里の高知県の風習からのようです。土佐地方では昔から嫁姑の間にいざこざが起こると、どちらか一方が三、四日臥褥をする習慣があったそうです。臥褥が終わると、双方が歩み寄り、良い嫁姑の関係に戻るのです。」
 
  典拠を記しておられないので不審に思いながら、高知にそのような風習があったのかどうか、高知の森田の生家から遠くない地区にお住まいの高齢の知人らに問い合わせてみたが、そんな話は聞いたことがないとのご返事ばかりであった。ただ森田がそのようなことを言ったことはあったようで、かつて戦後に東京で森田療法に関わったご経験のある高齢の某氏の話では、そんな伝聞に接した記憶があるが、真偽はわからないままだったとのよしであった。ちなみに『形外先生言行録』には、昭和3年頃に森田の下に入院したI氏が、森田は郷里の嫁姑のいざこざでどちらかが三、四日臥褥することがよくあり、それをヒントに臥褥療法を始めた、と言っていたという回想を記しているくだりがある。
 
  嫁姑間のいざこざを臥褥で収まりをつけるというのは、高知のよく知られた風習であったかどうかはわからない。だがそれは森田の念頭にはあったようなのである。それをどのように読み解くかが問題である。そこで森田の著作を改めて読み直すと、似たような例として、家庭の不和で寝込む話が、繰り返し出てくることに気づく。
  それは、いずれも「臥褥療法」についての説明の中に出ている。異なる三つの著作のそれぞれに、同じ文章の一節が嵌め込まれているのである。その一節では、前半部分で、愛児を亡くした母親の悲痛や事業に失敗した人の煩悶に臥褥療法を応用できると述べて、引き続き次のように記述しているのである。
 

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  「よく聞く事であるが、或は家庭の不和のため、或は何か気にくはぬ事があって、一日も二日も寝込んだまま起きて来なかったといふ事がある。之は或は神経精神病性若くは変質性人格者の自然良能によるものかも知れない。即ち忿怒なり悲憤なり、總て激情は臥褥によって之を和らげる事が出来るのである。」
 
  この同じ文章が記されている著作とは、次の三つである。
・ 「精神療法ニ對スル着眼点ニ就テ(承前)」、医学中央雑誌、第三三〇号、大正九年七月。
・ 『神経質及神経衰弱症の療法』、大正十年六月。
・ 『精神療法講義』、大正十一年一月。
 
  上記の著作で、「臥褥療法」について述べられている内容は、かなり共通しており、要点はおよそ次の通りである。
  臥褥している状態では身体機能が安静になり、精神活動も平静になる。不安や苦悶に関係する刺激や機会のない環境に隔離して臥褥させると、短時間で精神的落ち着きが得られる。
  精神病で興奮状態の者を強制的に寝かせると、案外短時間で安定する。
  また自験例として、ある中学生が試験に落第して躁状態になり、絶対臥褥を命じたら、奏効した。また別の中学生で、ある事件により激しい苦悶状態になったものに対して、絶対臥褥を命じたら、数日間で著効を見た。いずれも刺激を遮断した室内で臥褥させたもので、臥褥療法は一方から見れば隔離療法である。このような絶対臥褥により、病的な、あるいは負の感動は増幅することなく、消失する。絶対臥褥は、実に「頓挫療法」と言ってもよい、と。
  この中学生の2例の経験から、自分は臥褥療法を種々の患者に生かして、効果をあげるようになった、と言う。
  このような文脈から、家庭の不和のために寝込むという話が出てくるのである。その文中に、神経精神病性若くは変質性人格者との用語が出ており、これは語弊があるが、当時森田は神経質を分類上そのように捉えていたのであった。いずれにせよ、森田は臥褥と隔離によって、「頓挫療法」と言えるほどに自然回復力が起こることを経験的に知ったのである。そのことへの着目が、入院療法の第一期を絶対臥褥としたひとつの理由になったと考えることもできよう。
  しかし、中学生2名の例や嫁姑のいざこざ後に寝込む話は、いわば対症療法的であり、森田が言った「感情の法則」だけでも説明できそうである。彼はすでに大正5年に、感情の特性について、感情は放任すれば自然に消失することや、感情は表出するに従い益々強盛になることを指摘していた(「常識に就て」、人性、第十二巻第四号、大正五年五月)。 したがって、以上の例や話が、自然療法として自発的活動を生かすこの療法の、原点になる絶対臥褥に見合ったものなのかどうか、疑わしい。
 

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  森田はつとに、入院第一期の絶対臥褥の目的として、三項目を挙げていた。この三項目は、先にふれたように、そのままではまとまりを欠いていて、わかり難い。
  ところで、昭和3年に出版された著書『神経質ノ本態及療法』における絶対臥褥についての記載を瞥見すると、従来通りに三項目が並べられているけれども、第二の心身の疲憊の調整については、感情の自然の経過による消失と説明されている。どうやら当初は、やはり感情の法則レベルの発想であったらしいことが判明する。
 
  一方、第三の精神的煩悶、苦悩の根本的破壊については、これを「本療法の眼目」と記して昇格させており、「煩悶即解脱の心境を体得せしむるにある」としている。ちなみにこの著作の原本は、大正11年に執筆された学位論文であるが、それが昭和3年に単行本として出版され、全集に収められているものである。
  ともあれ、系統的な入院療法は深い奥行きのあるもので、療法の開発後もなお、森田自身、試行錯誤を経験したであろう。療法もまた、森田と共に成長していったのである。
 
  嫁姑のいざこざと臥褥という下世話な話が、療法の絶対臥褥につながったかどうかは重要事ではなく、関係があるとすれば、感情の法則のような生理的レベルにおいてであろう。そして、森田自身、絶対臥褥の第二の目的としていた衰憊(疲憊)の調整は、相対的に重視しなくなっている。森田は自身が唱えた三項目に、まとまりがないことに気づいて多少困惑していたのかも知れない、と言ったら憶測に過ぎるだろうか。
 

(<その三>に続く)          


Hundred years paper colorful sign over dark blue. Vector illustration.

 

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