森田正馬が参禅した老師、釈宗活―その人物と生涯―【修正版】(下)

2021/12/19

 

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(承前)

 

5.「粋(いき)」を究めた人、釈宗活

宗活は、幼少より、父から書画などの芸術を含む幅広い情操教育を受けて育った。禅に関心が傾いて今北洪川に弟子入りしたが、もともと芸術家として身を立てようとしていて、その頃、東京美術学校の学生であった(両忘会に参禅して宗活の弟子になり、出家して京都の大徳寺の管長になった後藤瑞巖の伝記、島崎義孝の著作による)。円覚寺に入ってからは、鎌倉彫の仏教彫刻を身につけた。参禅した夏目漱石に、三味線を引いて大道ちょぼくれを歌って聞かせたという。
西山松之助という江戸文化の研究者がいた。西山氏は、釈宗活老師に私淑して、学生の頃に択木道場に住み込んでいた人である。自分は禅だけでなく、歌舞伎にも関心を持っていたところ、宗活老師自身が歌舞伎に通じている方であったということを、回想として著書(『ある文人歴史家の軌跡』)で、聞き役の人に対して述べている。
当時歌舞伎の女形の有名な役者がいて、それが宗活老師の親戚だったこともあって、老師は歌舞伎に詳しかった。
また、宗活老師には、恵直(えちょく)さんという素晴らしい女性がおられた。恵直さんは奥さんだったかどうかはわからないけれど、新橋の医者の娘で、若いときから河東節をやっていて、歌、三味線ができた人で、知らない曲はなかった。河東節の名取名は山彦不二子といい、NHKの音のライブラリーに吹き込んだ曲が沢山残っている。老師はこの恵直さんから河東節を教えられた。
老師は、古希になって一旦引退して、関西に移り、多田の隻履窟という住まいにいた。そこを訪れたら、昼間は老師は絵を描いていて、夜になると河東節が始まって、恵直さんが三味線を弾いて、助六を語る―。
禅と歌舞伎がこういうふうに結びついていた。枯れている禅ではない、艶っぽい禅、色っぽい禅だった、というのである。
隻履窟は、別名残夢荘で、兵庫県川辺郡多田村にあった田舎家である。現在は川西市内にあたるが、地図を見ても、人里離れた山間の地のようである。
宗活老師は、昭和15年から3年間、ここに隠棲して、書画などを制作する遊戯三昧の日々を送った。山間の自然と書画と禅と河東節が溶け合った、粋(いき)の極致であった。

 

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6.河東節の山彦不二子(禅の徳永恵直)

西山松之助氏は『ある文人歴史家の軌跡』の中では、宗活師匠の侍者のような女性のことを、しきりに「恵直さん」と言っている。それは禅子としての道号だろうと推測されたが、西山氏は河東節の山彦不二子の面ばかりを語っていたので、浄瑠璃を語るお座敷の出身の女性かとも受け取れて、人物像として不明のところがあった。
ちなみに、浄瑠璃のひとつである河東節は、代表的な江戸浄瑠璃で、歌舞伎の伴奏音楽としての地位にあったが、次第に常磐津などの他の節に人気を奪われ、お座敷で語られる浄瑠璃として、通の人たちに愛好されるようになっていた。したがって、河東節は吉原との関係が深かった。河東節のそのような背景もあり、山彦不二子(恵直さん)の経歴や宗活老師との出会いについて、ほとんどわからなかった。しかし、西山氏の別の著書『家元ものがたり』や、禅関係の文献から、この女性の人物像や老師との間柄が浮かび上がってきた。
この人は、芳紀十九歳より、父の徳永医師と一緒に釈宗演の門に入って修行をしていたという。宗活老師がインドから帰朝したときに、東京での両忘会の再興を宗活老師に請いたいという嘆願書を、宗演老師に対して出した数人の在家の居士たちがいたが、その中に徳永父娘も加わっていた。この数人は、インドに渡る前から宗活を知っており、宗活に信頼を寄せていた人たちである。夏目漱石のように、円覚寺で宗演老師に参禅しながら、塔頭の帰源院で宗活の世話になった人たちがその主要メンバーであったと考えられる。徳永父娘は、娘の方が修行の進度が優れていて、「慧直」という道号を宗演老師から授かっていた。父娘は再興後の「両忘会」に参加し、日暮里の農家の建物を道場用に買い取って寄進している。若い愛娘に河東節を習わせ、禅の修行に連れて行って、修行では娘に遅れをとりながら、道場の建物を寄進した父親も、風流な人だったように思える。
恵直は、宗活老師がサンフランシスコに布教に渡った折にも、共に渡米し、アメリカで修行を続けて印可を受け、芙蓉庵劫来慧直老大姉となった。
こうして慧直(恵直)老大姉は、両忘会内における重要な人物のひとりになるとともに、個人的には宗活老師の「常住侍者」として仕えるようになっていく。宗活と恵直は、強い信頼関係によって結ばれていた。
禅の方で老大姉になった恵直は、河東節においても、山彦栄子師匠より芸道を受け継ぎ、名取の山彦不二子となって、その分野で活躍した。
禅においては宗活が師、河東節では恵直が師で、粋な関係の二人であった。

 

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7. 在家禅(居士禅)の指導者であった釈宗活

宗活は蘭方医の息子として生まれ、医家を継ぐべく育てられたが、相次ぐ両親の死で孤独を生き、その中で禅に活路を見いだした人である。出家したが、それは世をはかなんでのことではなく、また禅寺の住職になろうとしたわけでもなかった。円覚寺でひたすら修行をし続ける過程での、通過点としての出家得度に過ぎなかった。だから宗活は、出家しても一生住職にはならぬ、と自分から釘をさして、釈宗演から得度を受けた。「御身の富貴栄達を望まぬ。心を磨けよ」と言った母の遺言を胸に秘めていた宗活は、僧侶になろうとも、仏門の階段を上り、寺に安住する生活に身を置こうとしなかったのである。宗活は本当の禅を追求し、それを人びとに伝えようとした。自分は出家をしたけれども、在家者とともにあって、在家者の禅的生き方に尽くそうとした人である。
遡れば、少年、入澤譲四郎だった頃、禅を志し、本郷の麟祥院で初めて今北洪川に出会ったのだったが、このときから両忘会との絆が生じていたと言える。両忘会は、明治8年に山岡鉄舟らが、禅の封建的体質を改め、寺院の殻を破って禅を在家者に開かれたものにしようと、麟祥院で今北洪川を師と仰いで、禅会を創設したものであった。洪川は数年後には円覚寺の管長になったが、麟祥院に指導に来ることがあったのであろう。譲四郎が麟祥院で洪川に会ったのは、明治22年のことである。洪川は明治25年に没しているので、両忘会は途切れてしまっていた。禅に関心のある一部の在家の文化人たちは、円覚寺の釈宗演老師のもとに参禅していた。徳永父娘が宗演に参禅したのも、宗活が塔頭で在家の参禅者の世話をしていたのも、その時期のことである。両忘会とも、徳永恵直とも不思議な糸で結ばれていた宗活は、こうして両忘会を再興して、在家禅の指導に尽くすことになった。
組織としての両忘会は、大正14年に財団法人両忘協会となり、昭和13年には谷中にあった本部道場は、千葉県市川市に建築された新道場に移転した。それは森田正馬が没した年のことである。昭和14年、宗教団体法が施行されたことにより、宗教団体「両忘禅協会」が立ち上げられて宗活老師の弟子の立田英山老居士が代表者になったが、宗活を代表とする「両忘協会」は宗教団体を名乗らずに、そのまま存続することになった。組織の逆転した二本立てがここに起こっている。在家禅の組織が急いで宗教団体化することについて、宗活はおそらく慎重だったのであろう。
古希を迎えた宗活は、昭和15年に関西の残夢荘(隻履窟)へと身を退き、三年を過ごした後、常住侍者の恵直とともに千葉県八幡の残夢荘(寓居)に移っていた。
組織というものが、時代の流れの中で目標を見失わずに機能し続けることは難しい。戦後の昭和21年、宗教法人法の施行で、組織は宗教法人になることを選び、立田英山老居士を主管として「宗教法人 両忘禅協会」として登記をした。しかし、翌22年に釈宗活老師はその解散を宣告したのである。老師は、在家禅の宗教団体化や、指導者のあり方に厳しい目を向けていたのであった。ここにおいて、明治以来の両忘会の流れと、それに対する宗活老師の長年にわたる指導者としての関わりは、終焉を見た。
しかし現実には大きな組織が残されていた。再び三たび立田英山老居士の主管で、新たに昭和23年に、「宗教法人 人間禅教団」が立ち上げられた。その「人間禅」は今日にまで続いている。
宗活は、弟子の大木琢堂に身を寄せて、千葉県八日市場の寓居で徳永恵直とともに最晩年を過ごし、昭和29年に遷化した。享年83歳。
西山松之助氏は、昭和30年秋に、房州のその住まいに徳永恵直(山彦不二子)を訪ねている(『家元ものがたり』)。禅の道の奥底を究め、河東節の正統の継承者であるこの人は、81歳ながら端正でキビキビしていて、江戸っ子らしいイキが感じられたという。西山氏は、「イキ」と書いているが、感じたのは、粋であり、心意気でもあったのであろう。
なお今日、千葉県茂原市に両忘禅庵があるが、これは宗活没後に大木琢堂の子孫により開設された禅道場である。宗活の遺した芸術作品の多くは、ここに保管されていると聞く。

宗活は出家者でありながら、寺に入ることなく、また出家者であるがゆえに在家の生活に甘んじることなく、家を持たず、正式に家族を持たず、みずから禅に生きた人であった。在家者に対する禅指導を使命として、いわば非僧非俗、あるいはむしろ僧と俗のはざまに生きて、一方に偏することがなかった人であった。人柄は温かく、しかし禅の指導者となって人の上に立つ者に対しては、厳格に接した。
宗活自身自分に厳しく、かつ自由に、無所得、無一物を生きたのである。

森田正馬がかつて参禅した老師は、こんな人生を送ったのである。実に森田療法的な人生だったと言えるのではなかろうか。

 

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8.釈宗活と森田正馬の再会

森田正馬は、明治43年の両忘会への参禅から20年近くを経た昭和3年の11月18日(日)の日記に、次のように記載している。
「古閑君ト共ニ上野両忘会記念会ニ出席、来賓総代トシテ祝辞ヲ読サル」
両忘会は、居士禅として独自に歩むため、大正14年には財団法人となり、名称を「両忘協会」にしている。法人化が成されて、一層多忙を極めていた宗活は、体調を崩し、千葉県市川市八幡に新築された「残夢荘」という庵に昭和2年に転居した。東京の擇木道場にも来て指導を続けたが、千葉と東京の二重生活となった。昭和3年の両忘会記念会とは、東京での活動の歴史を懐古しての集いであったろうか。森田が招かれたのには意味があったのである。来賓の総代として、祝辞を依頼されており、宗活老師に参禅歴のある慈恵医大教授として、老師から重要人物と目されたのである。ちなみに「我家の記録」によれば、森田は大正15年3月に釈宗活老師の『臨済録講話』を読んでおり、さらに昭和3年に、記念会への出席との前後関係は不明ながら、自著2冊、『神経質の本態及療法』と『神経衰弱及強迫観念の根治法』を宗活老師に贈っている。かつて明治43年に森田に参禅を勧めたのは、富士川游のもとに共に出入りして知り合った藤根常吉であったが、藤根はその後も両忘会に参禅し続け、会の幹部のひとりになっており、昭和3年の記念会への森田の招待も、藤根と宗活の合意によるものだったろう。森田は、昔自分は釈宗活老師に参禅して公案を通らなかったという話を形外会で数回持ち出しているが、それはこの記念会に招かれて以後のことであり、来賓という公的な出席だったとは言え、参禅した記憶を反芻する機会を与えられたに違いない。宗活とて、かつて参禅してくれた医師が教授として大成した姿に接して、感慨を覚えたことであろう。しかし、この記念会は、宗活が東京での生活に区切りをつけた時のことであり、ふたりにとって再会であるとともに、別れの始まりでもあった。
かくして、両人にとって、記念会での出会いはあったが、新たなドラマが展開されることはなかった。たとえそれでも、宗活の生き方には、森田正馬が目指したものがあるように思われ、そのような関心から、宗活の生涯をここまでたどってきた。

 

【 付記 】

 

1. 「釈宗活」についてのウィキペディア Wikipediaの情報について。
ウィキペディア Wikipediaの「釈宗活」の項に出ている情報には、誤謬が多い。「両忘会」は、何度も場所が変わったが、その場所と期間についての記載が正確ではない。数年前から、編集履歴を見守ってきたが、誤謬が繰り返され、「両忘会」が居を定めていた場所と期間を意図的に改竄しようとしているとさえ思われかねない編集ぶりであることを指摘しておく。

 

2. 谷中初音町二丁目における、森田が参禅した両忘会があった場所の特定について。
これについては、国民国会図書館のデジタルコレクションの中の、当時の東京市の地籍別の地図より、初音町二丁目の各地籍が判明した。しかし、両忘会があった土地の番地も地主名も不明のため、最終的な特定はできなかった。
そのため、まず千葉県茂原市に現存する両忘禅庵に問い合わせてみた。宗活が晩年に身を寄せた大木琢堂の子孫により開設された禅道場である。現在のご住職から返信をいただいたが、初音町二丁目における番地などにつながる情報に触れることはできなかった。一方、当時の両忘会の建物の写真があるとのことであったが、残念ながらその写真画像をいただくまでには至らなかった。今後の研究者がもし関心を持たれたら、この両忘禅庵に、森田が参禅した両忘庵の建物の写真が所蔵されていることに留意されるとよい。そのことをここに伝えておく。
もう一カ所、谷中の天龍院にも、かつての谷中初音町二丁目にあった両忘庵の場所の特定について、問い合わせた。天龍院は、全生庵の向かい側にある妙心寺派の禅寺で、両忘庵での接心の日の午後に宗活老師が提唱をおこなったという寺である。現在の住職が調べてくださったが、初音町二丁目に存在した両忘会についての情報は、天龍院にはなく、またご厚意で他の関係者にも尋ねてくださったが、一切不明とのことであった。

 

森田正馬が参禅した老師、釈宗活—その人物と生涯—【修正版】(上)

2021/12/18

釈宗活老師(50歳頃)

 

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1. 森田正馬と釈宗活

森田は、明治43年に谷中初音町にあった両忘会の釈宗活老師のもとに参禅した。
その事実について、そして両忘会は旧谷中初音町二丁目にあったことや、当時のその地区の環境、また現在地との対照などについて、既にかなり詳細にわたって記してきた。また両忘会は在家者向けの禅道場で、釈宗活老師は在家禅に力を尽くした人であったことについても述べてきた。
およそこれらのことをまとめて、第35会日本森田療法学会で発表した。
それにしても、森田正馬は、生涯にただ一度参禅して相まみえた老師、釈宗活の印象を語っていない。だが語らなかっただけに、内面にその印象を秘め続けていたのかもしれない。ちなみに森田は、参禅から約10年後の大正13年に出版された、釈宗活の著書『臨済録講話』を読んだことを当時の日記に書きとめている。宗活老師への関心が長く続いていた証左である。
その釈宗活老師はどんな人だったのであろう。ある程度は断片的に記したが、資料が乏しくて不明な点が多く、十分に把握しきれていない。最近、少しだが追加的に資料を入手した。これにても宗活老師についての伝記的全容に迫ることは到底できないが、不明だったところが少し埋められてきた。資料を参考に、参禅にまつわる森田の心理も推し量って書き加えつつ、宗活老師の人物像や生涯をおぼろげながら、たどってみたい。

 

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2.釈宗活(入澤譲四郎)の生い立ち

釈宗活、本名入澤譲四郎(1871-1954)は、東京麹町の蘭方医、入澤梅民の三男として生まれた。父方祖父の入澤貞蔵(貞意)も越後出身の江戸の蘭方医であった。入澤一族は信州の北条時頼・時宗の末裔にあたる越後の庄屋であったが、その家系からは医者が多く輩出している。譲四郎の祖父貞蔵(医者)の弟、健蔵(庄屋を継いでいた人)の次男、入澤圭介は池田家に養子に入り、池田謙斎と名乗った人で、西洋医学を学び、東大医学部の初代総理になった著名な人物である。
同じ貞蔵の弟、健蔵(庄屋)の長男の、その息子である入澤達吉は医者で、東大内科教授になっている。この入澤達吉と釈宗活(入澤譲四郎)は、祖父が兄弟であるから、二人は「いとこの子」同士になる。入澤達吉は、東大生の森田正馬の診察をして「神経衰弱兼脚気」と診断した教授、その人である。そして森田は卒業後に、釈宗活のもとに参禅する。森田は、自分の生涯において出会った重要な二人の人物が、親族であることを知っていたであろうか。あるいは後日にでも知ったかもしれない。それはわからない。釈宗活自身は、短期間両忘会に参禅した若い医者が、学生時代に入澤達吉教授の診察を受けた男だったとは知らなかったであろう。
入澤達吉は医師として優れた人物であったのみならず、人間的にも深みのある人だったようで、入澤一族に通じ合うような人間味を宗活老師もそなえていたのであろうと思われる。
入澤一族の蘭方医の息子に生まれた宗活、すなわち譲四郎は、三男であったが、父は医家の後継ぎを託せるのは長男、次男でなく、この三男であると見込んで、幼少のときから漢籍、武術、書画、彫刻などにわたり、厳格な教育を施した。母からは深い慈愛を注がれて育ったが、11歳の時にその母は大病で急死した。臨終の際に、母は息子に言い遺した。「何よりもまず心の修行を第一に心がけよ。母は御身の富貴栄達を望まぬ。心を磨けよ。独立独歩、他に依頼心を起こしてはならぬ」と。母の最期のこの訓戒を子ども心に肝に銘じ、生涯を通じてそれを忘れずに生きたのであると、後年に宗活老師自身が語っている。
さて母の死の翌年、12歳の時に父もまた病で急逝した。両親を失って孤児になった少年は、母の遺言を守り、ある教師の家に入って労働をしながら苦学した。しかし心身ともに病み衰え、神道や心学などに入って修養を試みるも適さず、禅の修行に関心を持つようになった。ちょうど叔母にあたる人が、鎌倉の今北洪川について参禅をしていたので、洪川が本郷の麟祥院に摂心の指導に来た折に叔母から紹介を受け、洪川に入門を許されて、円覚寺に入ることになった。譲四郎、20歳の時のことであった。

 

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3.円覚寺における禅修行

入澤譲四郎は、円覚寺の塔頭に入り、修行に打ち込み、かたわら扇谷に通い、運慶の流儀の仏教彫刻を学んだ。やがて洪川老師から石仏居士という名号を与えられた。その後洪川老師は没し、居士のままでいた譲四郎は、さらに修行を深めるために出家得度の必要に迫られた。母の遺言に従い独立独歩で生き、寺の住持になることを望まなかった彼は、一生寺に入って住職になることはしないという条件を自分の方からつけて、釈宗演老師のもとで23歳で得度を受けた。得度により宗活の法諱を授与され、また釈宗演の養子になって、釈宗活と名乗ることになった。その後も修行を続け、帰源院という塔頭の監理を任されて、摂心に参加するために外部から来て宿泊する人たちの世話をした。この体験は、後に「両忘会」の師家となって居士禅を鼓吹する因ともなった。
夏目漱石が明治27年末に帰源院に宿泊して、釈宗活の世話になりながら、釈宗演に参禅したが、それはこの時期のことである。漱石は後に、小説『門』の中に、そのときの体験の記憶をそのままに描写している。小説中、宗活は宜道という名前で登場するが、漱石はこの若い禅僧が何年も厳しい修行に耐え続けていた様子や、宿泊者に丁寧に接してくれる優しい人柄の持ち主であったことを、書き記している。一方『談話』の中の「色気を去れよ」という題の話には、宗活のひょうきんな面が語られ、宗活さんは、白隠和尚の「大道ちょぼくれ」を聞かせてくれたなどと記している。漱石と宗活の交流はその後も続いたと言われるので、宗活が後年に東京に出てから、両者が会った可能性はあるが、定かではない。
こうして円覚寺での約8年間の修行を経て、印可を受け、明治31年より宗活はインドに渡り、聖胎長養のごとき修行体験をする。インド僧とともに熱砂の上を歩いて托鉢をしたり、暴漢に襲われるような危険にも遭遇して、九死に一生を得たこともあった。インドで2年を過ごし、明治33年に帰朝した。

 

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4.「両忘会」の再興

帰国すると、折しも、かつて帰源院で世話をした居士たち数名より、かつて山岡鉄舟らによって創設されて、中断されていた在家禅の「両忘会」の再開を望む拝請が円覚寺に届けられた。それを受けて、釈宗演老師の命により、宗活老師は早速東京に出て、「両忘会」再興の任に当たることとなった。
まず明治33年に、山谷の湯屋の二階に仮の草庵を設け、34年に根岸に、さらに日暮里にと道場の場所を移動した。日暮里の道場は、元農家の一軒家で、両忘会再興の拝請に名を連ねた、新橋の医者、徳永道寿居士と娘の徳永恵直が買い取って、寄進したものであった。この徳永恵直は、浄瑠璃の河東節に秀で、禅にも励んだ女性で、後に宗活老師の侍者となって、生涯を共にすることになる運命の人である。
また日暮里に両忘会があった時期の明治38年には、平塚らいてうが参禅している。らいてうは、その自伝に両忘会での参禅の体験とともに、若き釈宗活老師の気品ある指導について書いている。
しかし、明治39年、アメリカのサンフランシスコで禅の布教に当たっている居士たちからの慫慂があり、渡米することになった。そして3年後の明治42年に帰朝、同43年より、谷中初音町二丁目の借家で両忘会を再開した。
森田正馬が、富士川游の弟子の藤根常吉の誘いで、両忘会に参禅をしたのはこのときである。森田はこの参禅について、日記にごく簡単に記しているだけである。摂心のときに早朝座禅に通い、午後は天龍院(同じ谷中地区にある妙心寺派の禅寺)で、提唱を聞き、また老師の前に3回くらい参じたが、公案は透過しなかったと言う。森田は、自分の療法は禅から出たものではない、たまたま一致するだけである、禅のことはわからないと、自己卑下をするばかりとなった。そして宗活老師の印象について、何も述べていないが、宗活老師への参禅によって、内心感じるところがあったのではなかろうか。宗活が入澤一族の人であることを知っていて、語ることを控えたとも考えられるが、単にそれだけであろうか。
大正の初めには、両忘会の田中大綱居士によって、谷中墓地に隣接した天王寺の寺域に新築した道場用の建物が寄進された。擇木道場と命名されて、それまで借家を転々としていた両忘会は、その道場に落ち着いて、宗活老師はそこで指導を続けた。
森田正馬は、谷中墓地を散策の場所として好み、弟子の佐藤政治と深夜に谷中墓地を歩きながら、神経質の治療について語り合ったと言われる。森田は、かつて参禅した谷中初音町二丁目の両忘会がその近くの天王寺域内の道場に移転して、そこに釈宗活老師がいることを知らなかったはずはない。谷中墓地を散策すれば、宗活老師に近づくことになる。森田は老師を慕っていた面があったのかとまで考えたくなる。
名だたる禅僧、忽滑谷快天や、釈宗演をも批判して憚らなかった森田正馬にとって、釈宗活老師は格別の存在だったであろうか。

 

(次回に続く)

 

 

スペイン風邪と森田療法(その1)—スペイン風邪に感染した森田正馬—

2021/03/11


雑誌「精神療法研究(神経質改題)」、第1巻第1号、昭和44年1月刊。
野村章恒著【資料】森田正馬の病歴」が掲載されている。


 
 

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スペイン風邪と森田療法(その1)
—スペイン風邪に感染した森田正馬—


 
1.はじめに
 
 森田正馬の創案になる森田療法は、大正8年(1919)から大正10年(1921)までくらいの間に成立したとされる。現在私たちは、療法成立百年という記念すべき時期にいる。
 ところで百年前と言えば、通称スペイン風邪と呼ばれた流行性感冒が地球上でパンデミックとして大流行をした時期であった。日本でも、大正7年に上陸したスペイン風邪は、以後数年間全国に流行して、多数の犠牲者を出した。死者数は世界で数千万人、日本では数十万人を数えた。その忌まわしいスペイン風邪のパンデミックから、ちょうど百年、今また新型コロナウイルス感染症というグローバル化時代のパンデミックが地球上で猛威を振るっている。折しも、森田療法の成立百年の時期でもある。これらのシンクロニシティは奇妙な偶然だろうか、あるいは意味があるのだろうか。
 だが神話的なことを言う意図はない。ただ少なくとも、百年前に森田療法を創始した森田正馬は、スペイン風邪のパンデミックの最中にいたのであり、著名人たちを含め、多くの日本人がスペイン風邪に感染したその時代に、森田正馬はスペイン風邪にどう対処していたのであろうか。人間森田がそこに見えるだろうか。
 あまり知られていないが、まず森田自身がスペイン風邪に感染したのであった。野村章恒は『森田正馬評伝』中の「人間像の彫塑」1)および森田の病歴についての資料の文献2)に、森田がスペイン風邪に感染したことを簡単に記載している。森田も、スペイン風邪と言う通称は使わずに、自身が流行性感冒に罹患したことを日記3)に記している。しかし、森田本人による記載もまた詳細を知るには不十分である。
 資料は少ないものの、森田は文化人として、医師として、またスペイン風邪感染者としてどのような態度を取ったのか。森田の場合、持病である難病、結核と切り離して考えることはできないが、神経質の療法を創った人間森田の生身の姿を、結核に加えてスペイン風邪との関係から、本稿でできる限りとらえてみようと試みる。
 さらには、スペイン風邪と森田療法に関連して、森田と同郷の文化人や、思想的共通性が認められる文化人が浮かび上がる。このような人物についても、引き続きこのシリーズとして取り上げたい。

 
 

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2. 森田正馬のスペイン風邪感染—日記等と文献的資料—
 
 文献的資料は、探索を試みたが、今のところ本人が残した日記等の書きものと、野村章恒が記載したものに限られる。それらを以下に紹介する。
A.森田自身による記録
 
A-① 日記
 森田は大正10年(1921)の4月9日の日記3)に、次のように記している。
 
 「四月九日、数日来流感ニテ発熱アリ。今朝ハ三七.五許ナリケレバ病ヲオシテ蓮光寺ニ「自欺ニ就テ」説教ス。之ヨリ再ビ発熱持続シ、自ラ右肺尖ノ笛声ヲ聴ク。病褥ニテアル事、一ヶ月許リ、其後肺尖異常ハ本ニ復セルモ、老人様咳嗽ヲ起シ今日ニ至ルモ治セズ」
 
 当時、流感と言えばスペイン風邪のことであろうから、スペイン風邪に罹患して1カ月療養したことを、詳細さに欠けるが書いていることになる。
 
A-②『我が家の記録』
 森田はまた、前年の大正9年(1920)には、正月に帰省した際に大患を得た。その前年末から下痢を起こしながら帰郷して、正月から血便、発熱をきたし、大病となって自宅で療養し、ようやく死線を越えた。日記には、この間の記録がないが、『我が家の記録』4)に次のように記されている。貴重な記述なので、長くなるが、その箇所の大半を引用する。
 
 大正九年(四十七才)
 一月、郷里、富家小学校ブランコ、スベリ臺ヲ寄付ス。凡百二十年圓余ナリ。
 昨年暮三十日帰郷、数日前ヨリ下痢アリシモ飲酒ヲ廃セズ、一月八日ニ至リ終ニ血便アリ。臥褥スルニ至ル。後更ニ発熱持続シ、初メちふすヲ疑ヒ後腸結核ヲ恐ル、一二ノ医師ハ結核性トナセリ。長クおも湯ノミヲ食セルガタメ衰弱甚ダシク臀ノ筋モ殆ンドナクナリヌ、妻ヤ妹モ殆ンド死ヲ豫記スル所アリキ。余ハ義弟眞鉏ヲシテ参考書ニヨリ結核ノ鑑別等ヲ論議シタリ。又既ニ死ヲ免レザルモノトスレバ書キ残シタキ自己ノ思想ヲ纏メン必要ヲモ感ジタリシモ、衰弱ノ時ニハ思想モマトマラズ、書クベキ気力モナキモノナルコトヲ知リキ。或時ハ若シ死スルトスレバ生前、死ニ近ズヒテ告別式モナサン、又新聞廣告モ死前ニ別辞ヲナサン、石碑ノ銘モ自ラ之ヲ書カンナド空想スルコトアリキ。
 後、思ヒ付キテ廣瀬君ニ症状ヲ通信シタルニ二月八日同君ヨリ「結核性ニアラズ、ちふす、肋膜炎ニアラズ、反復性大腸炎ナリ」トノ診断アリ。「粥ヲ食スベシ流動食タルベカラズ」トノ事ニテ、一同愁眉ヲ開キタリ。之ヨリ後発熱時々反復セルモ次第ニ軽快ニ向ヒ、臥褥七十余日ニシテ漸ク治シ三月三十日帰京ス。
 
 東京にいる友人の広瀬益三医師の、反復性大腸炎であり、重湯をやめて栄養をとるようにとの助言により、70日余りの臥床で回復し、3月末に帰京したことが書かれている。1月から3月までの3カ月間は日記は書けなかったと、森田はその3カ月の終わりに書き添えているが、治癒後帰京まで約半月の日数があったことを考えると、回復前後に日記を書いた可能性はある。後日森田はその部分を削除し、それをまとめ直して『我が家の記録』の方に収めたのであろう。
 
B. 野村章恒による記載
 
B-① 『森田正馬評伝』1)における記載
 野村は「評伝」中の「人間像の彫塑」の章の中で、次のような短い記述をしている。
 
 「大正九年頃には、いわゆるスペイン感冒のインフルエンザで、森田自身は重態からやっと命びろいをした」
 
 これをその通りに読むと、野村は、大正9年の1月から3月までの森田の大患を、反復性腸炎でなくスペイン風邪であったとみなしていたと受け取れる。
 
B-② 【資料】「森田正馬の病歴」2)に記されていること
 ここでは野村は次のように記している。
 
 「大正10年47才の春には、当時流行したスペイン感冒の流感に森田自身も罹患し、37度5分の微熱が出て約1ヶ月病臥したが、このとき森田自身は右肺尖部にパイフェンが聴こえたと書いている」
 
 ここでの野村の記述は、大正10年の森田の日記の転記のようだが、森田は書かなかった「スペイン風邪」という通称を野村が書き込んでいる。

 
 

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3. 森田はいつスペイン風邪に罹患したのか
 
 以上に列挙した森田自身と野村による計4カ所の記述には、いくつかの矛盾がある。そこで、それらの矛盾について見直さねばならない。
 森田自身が書いていることは、文字通りに読めば矛盾はない。彼は大正9年の1月から重症の反復性大腸炎に罹患し、70日余りの病臥で治癒した。その翌年の大正10年春には、流行性感冒に罹って1カ月間療養した、ということになるのである。
 しかしながら、大正9年の血便、発熱を伴った重病については、地元の医師から腸結核を疑われたようだった。そこで東京の広瀬医師との通信の結果、結核を否定されて安堵し、栄養摂取で快方に向かった。けれども広瀬医師が告げた診断名の反復性大腸炎とはどんな腸炎なのか。潰瘍性大腸炎の別名なのかもしれないけれど、曖昧な病名である。事実上肺結核の患者であった森田は体内での結核の拡大を極度に恐れていたが、この反復性大腸炎という診断で、広瀬医師は心身両面から森田を治したのであった。優れた臨床家であったと感服する。
 このときの正確な疾患名が何であったのかは不明である。腸結核を否定できなかったかもしれないし、スペイン風邪も否定できなかったと思われる。日本で流行したスペイン風邪について、内務省衛生局が出した調査報告書5)によれば、スペイン風邪は消化器系の症状を伴うことがあり、粘液血便から腸出血まで、さまざまな程度の血便が稀ならずみられたようである。したがってこの時の森田の病はスペイン風邪であった可能性も残る。ただし森田は、翌年の大正10年春に流行性感冒に罹患したと日記に書いており、スペイン風邪の再感染があり得たのだろうかと、釈然としないところがある。
 一方、野村は森田の大正9年1月からの大患を、根拠を添えずにスペイン風邪であったと書いている。腸結核の疑いの余地を埋めておくのが、恩師森田への評伝作者野村の思いやりなのであろうか。
 ともあれ、以上のように推測すると、森田が病んだ大正9年冬と大正10年春のいずれかはスペイン風邪であり、また可能性は少ないが、二度ともそうであったこと、なきにしもあらずということになる。

 
 

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4 .森田正馬と結核
 
 さて、新型コロナウイルスがパンデミックとして人類を襲っている今日、百年前のスペイン風邪に当時みずからも罹患した医師である森田が、その流行期に自他に対してどのように治療的、感染防止的に対処したのか、という関心がわれわれにある。
 しかし、基本的に重要なこととして、森田は青年時代に結核に感染し、それは宿痾となって遂に全治することなく、結核患者としての人生を生き抜いていたのであった。同じく主に呼吸器系を冒すスペイン風邪と比較すると、罹患者の致死率は、結核の方が明らかに高い。スペイン風邪を主役とするなら、結核は基礎疾患に位置づけられようが、感染防止に対してすべき配慮は両者において、かなり通じるところがある。森田とスペイン風邪のことを知っておくことも必要だが、結核患者である医師森田がどのように生きたのかを、この機会に改めて考え、その生き方を見直すことが必要である。
 病弱だった森田については、まず、少年時代から悩んださまざまな神経衰弱の症状が思い浮かぶ。そして中年を過ぎる頃からは、気管支喘息だと言いながら、かなり身体的に無理をしていたが、実際は肺結核であった。森田は、深刻なその疾患に対して一見無関心な様子であり、その無頓着さが奇異な印象を与えていた。それは不治の病を受け入れる精神的苦痛の抑圧、あるいは否認の機制によるものであったろうとみなしうる。しかし単なるそのような見方は、人間森田の深い内面に迫っていない。
 野村1)は、「明治時代の難病と森田正馬」と題して、正馬の生涯にわたる肺結核との闘いを深く掘り下げて記している。それを参考に、森田が、外見的な行動が与えた軽率な印象と裏腹に、肺結核と闘ってこそ切り開いた人生について、少しふれる。
 森田は大学を終えて巣鴨病院に入局した29歳のとき、初めて血痰を見、さらに同じ頃生命保険に加入するため保険医の診察を受けたが、肺尖カタルを指摘され、保険に加入できなかった。はじめて自分が肺結核に冒されていることを知ったのだが、その2ヶ月後には、巣鴨医局の先輩の吉川とピクニックのために徹夜で歩いて鎌倉へ行った。こんな無茶をしながら肺結核はその後あまり表面化していなかったが、やがて50歳頃、大量の血痰が繰り返し出て、また喀血もした。さらに咽頭痛をきたし、親しい内科医の広瀬医師に方針の決定を頼ったが、明快な答えを得られなかった。そのとき森田は、広瀬医師に依存して進取の姿勢に欠けていた自分に気づく。こうして新たに生じた心境について、森田は述べている。
 「広瀬君とて神様ではない。…このときに私の深刻なつきつめた思考は次のように、人生観を生きる意味に結論づけさせた。…それ活動は生命なり。活動なくして、そこに生命はない。…自分のなすべきことを成し遂げて、それによって、あと半年しか生きられないとしても、安静臥床によって三年ぐらいは生きのびると言われた場合は、私は前者を選ぶ。歳月の長短は私自身にとって同じ価値である。ノイローゼの患者は、人生の生きていることの意味を第一義として処するという決心がつかないで、徒らに症状にとらわれ将来のことを取越苦労し恐怖しているものが多い」6)
 森田が結核との闘病を経て、このような人生観に到達し、それが同時に森田療法の深化にもつながったことを野村は指摘している。そして野村は、結核に罹患していた著名人の生き方として、次の三つのタイプを挙げている。すなわち、自己隔離のストイックな療養生活を送った人たち、療養所に入って生産的な執筆活動をした人たち、そして宗教的布教家の賀川豊彦のように講壇からおりずに大衆に呼びかけ続けた人たちがあり、森田はさしづめ布教家タイプに属するとしている。
 九州大学の放射線教授で同大学の総長もつとめた入江英雄は、医学生時代の昭和6年に森田の診療所に入院したが、思い出として「森田自身、結核について無関心であったことを不思議に感じていた」と述べていたというが1)、先述のように、森田自身は50歳にしてみずからの結核を深く自覚して前向きに生きていたのである。
 昭和5年には、愛児の正一郎を結核で失っており、それは愛児の子どもの頃に正馬が結核を移した結果であった。悲しい巡り合わせである。森田はそれを悔やんで泣いた。そしてそれでも、前へ前へと進んだのである。
 
 

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5. 森田正馬と社会
 
 森田はこよなく郷土を愛した。生まれ育った野市の土地と親族や友達、小学校とお寺、近くにある田畑や山や川、そして学んだ中学校や高知の町。森田は熊本五高を経て、上京後は、遠路東京と高知を往復したが、彼にとって東京と高知は心理的にも家族的にも分かちがたい場所とて、つながっていた。蓬莱町の森田医院の従業員の多くは森田の親族であったらしい。
 故郷に錦を飾ると言えばものものしいが、郷里の小学校に大小の寄付をすることを、森田は無上の喜びとした。
 そんな森田であったから、東京にいても高知の動向に無関心であったはずはない。ただ日記には、郷里の動静や、また時局のことはあまり書いていない。日記は自身の日々の行動や知人との交流の記録に限定されていたようである。彼は人間が営む社会の出来事にいつも関心を寄せ、必要なら誰にでも手を差し伸べる人間愛の人であった。そのような人間像は、彼を知る他の人たちによって、記され語り継がれてきた。
 スペイン風邪の襲来時に森田はどうしていたかは、百年後の今湧いてきた関心事であり、調べてみたが、彼自身が感染して患者になっていたことが判明した。彼自身が無防備であったのかも知れず、笑うに笑えない。感染予防に万全を期すことをできなかったのであろう。彼は感染者にして医者だったが、開院当初の森田の診療所では、年間を通じての入院患者は10人程度であったから、集団感染を起こすような懸念はありえなかった。ちなみに森田診療所は、昭和2年に4床の有床診療所として届け出をしている7)。
 
 さてスペイン風邪は、郷里の高知でも猛威を振るった。その惨状は、宮尾登美子の小説『櫂』8)に事実がそのまま描写されている。およそウイルスから身を護れるような環境ではない貧民街に住み、今日食べる米もない人たちが次々と亡骸になっていった。森田が金剛寺でみた地獄絵ならぬ、高知の裏町にこの世の地獄のような実態があったことを森田は知っていたかどうかわからない。人間愛の人といえど、帰郷してみずから大病に呻吟していた森田と、高知の貧民街との間に、残念ながら接点はできなかった。
 
 

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6. おわりに
 
 森田正馬はスペイン風邪に罹患していたと言えば、トピックになるけれど、興味本位では軽々しい。ではその事実から何を読み取れるかと言うと、それはあまりはっきりしない。森田は感染したことを隠したわけではないが、積極的に公表もしていない。アメリカのベアードやヨーロッパのフロイトに反発していた森田は、西洋渡来のスペイン風邪を意識はしたろうが、無視したかったのではなかろうか。森田はスペイン風邪などという名称を使っていないし、表立って関心を向けた節もない。森田診療所は立ち上げたばかりで入院者は少なく、森田が不名誉な感染源になったこともなかったようだ。
 それよりも、森田の人生は結核との闘病の歴史であり、結核をみずからの宿命の病と自覚して、道を切り開いていった過程で、森田療法は深められていった。スペイン風邪の感染について調べてみて、結核と共に生き抜いた森田の姿が再照射されたのであった。
 
 

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<文 献>
1) 野村章恒 : 人間像の彫塑. 森田正馬評伝 ; 255-334, 白揚社, 1974
2) 野村章恒 【資料】森田正馬の病歴. 精神療法研究(神経質改題); 1 (1),1969
3) 森田正馬 : 大正十年四月九日の日記. 我が家の記録. 高良武久ら編 : 森田正馬全集 第七巻, 白揚社,1975
4) 森田正馬 : 我が家の記録. 高良武久ら編 : 森田正馬全集 第七巻, 白揚社, 1975
5) 内務省衛生局(編) : 流行性感冒―「スペイン風邪」大流行の記録. 平凡社, 2008
6) 文献1)で野村章恒が引用している森田の文の一部を再引用。
7) 野村章恒 : 森田療法普及宣伝時代. 森田正馬評伝; 176-241, 白揚社, 1974
8) 宮尾登美子 : 櫂. 中央公論社, 1974

森田療法における重要な仏教的用語(2)―「あるがまま」について(1)―

2020/09/30




 
 

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 遅くなりましたが、仏教をルーツとする語、「あるがまま」についての稿を掲げます。
 
 

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森田療法における重要な仏教的用語(2)―「あるがまま」について(1)―


 
1.はじめに―森田療法と「あるがまま」―
 
 「あるがまま」は、森田療法が重視する人間の生き方を示しており、まさしく本療法の要諦であると言える。従って「あるがまま」は、森田療法の本質を表すものとして、療法のキーワードのような扱いをされている。では「あるがまま」とは何かと言うと難解であり、説明しようとするほど「あるがまま」に観念的にとらわれて、「あるがまま」から遠ざかるという逆説に陥ってしまう。
 そのため「あるがまま」については、安易な解釈や、誤解や、困惑などの反応が起こりうる。そこで、言語的に説明できることの限界を知りつつも、「あるがまま」の本質へのアプローチがより可能になればと願って、「あるがまま」をめぐる諸問題の整理を試みる。
 なお「あるがまま」の類語として「ありのまま」があるが、両語のルーツは異なる。ところが、両語は、明治期以後に仏教的な意味あいを帯びる中で、類語となった。「あるがまま」や「ありのまま」にはそのような背景があり、従って以下、「ありのまま」も含めて、主に仏教的な視点から述べることになろう。
 
 

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2. 「あるがまま」と「ありのまま」―両語の異同―
 
 森田は「あるがまま」と教えたけれども、「ありのまま」と言ったりもしている。彼は両語を使い分けたのかどうか、明確ではない。また一般に、これら両語間の異同はどうなのか。語源と語義の歴史を知っておくことも必要である。そのため、いくつかの辞典に当たってみた。
 まず気づくのは、「ありのまま」は、平安時代より用いられてきた古語であるが、「あるがまま」は明治期以後の近・現代に、仏教との関係で新たに使用されだした用語であったことである。つまり明治以後の仏教思想に対応する新たな用語として、古語の「ありのまま」を当てる以外に、新たに「あるがまま」が現れたのである。そこで「ありのまま」と「あるがまま」は類語化して、かなり混同して用いられるようになる。このように「あるがまま」は、意外にも新しい用語だったので、現代の辞典に収録されるほどの市民権は、十分に与えられずに今日に至っている。たとえば、「広辞苑」では、最新の第七版(2018年)に「あるがまま」は漸く収録されたばかりである。
 そこで以下に、 ―
①まず辞典に収録された「ありのまま」の語とその説明を列挙し、―
②頻度は少ないが、辞典に収録された「あるがまま」の語とその解説も取り上げ、―
③さらに、解説文に「あるがまま」や「ありのまま」を含む仏教語の見出し語とその説明を拾い上げる。
 これらについて、順を追って記すことにする。
 
 

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①「ありのまま」
 
☆日本国語大辞典(縮刷版)第一巻(小学館、1979)
ありのまま【有儘】《名》(ラ変動詞「あり(有)」の連用形と格助詞「の」と、形式名詞「まま」の結びついたもの)
 あるとおりのさま。事実のとおり。ありてい。あるがまま。
※蜻蛉-中・天祿元年「おはしまして、問はせ給ひつれば、ありのままになんきこえさせつる」
※源氏-蛍「その人のうへとて、ありのままに言ひ出ずることこそなけれ」
※栄花-もとのしづく「かかりける晴の事に<略>ありのままの姿どもにて参れど」
※浮世草子・西鶴織留「つまる所は、喰ねばひだるいひだるいといふにぞ、ありのままなる法師とて、人皆勧進をとらせける」
※夜明け前<島崎藤村>第二部「地方(ぢがた)御役所で叱られてきたありのままを寿平次に告げに寄ったのは」
 
☆角川古語大辞典 第一巻(角川書店、1982)
ありのまま「有りの儘」形動ナリ
飾らずに、あるとおりのままであるさま。
「寺院の号…昔の人は…ただありのままにやすく付けるなり」〔徒然草・116〕
「人の物を問ひたるに…ありのままにいはんはをこがましとにや」〔徒然草・234〕
 
☆岩波古語辞典 補訂版(岩波書店、1990)
ありのまま【在りの儘】
(1)事実のとおり。あるがまま。
「ありのままに、『はや出でさせ給いひぬ。これかれも追ひてなむ参りぬる』と言ひつれば」<かげろふ中>
(2)あるもの全部。ありたけ。
「子どもをありのまま引き具して、夫婦もろともに左右門殿へ御礼にぞ参り給ひける」<伽・弥兵衛鼠>
 
☆広辞苑 第七版(岩波書店、2018)
ありのまま【有りの儘】
事実のまま。実際のありさまの通り。ありてい。
「ありのままに正直に答える」
 
<「ありのまま」の語についての注> : 辞典に現れた以上のような記載より、「ありのまま」は、平安文学においてすでに見られた和語であり、事実のとおりのことを示すとともに、ありてい、ありたけ、というもうひとつの意味も有していて、内面の開示と非開示の境界線上で意味を持つ言葉であることがわかる。また、ラ行変格活用のこの語の「あり」は連用形であり、時間の経過が含まれている。
 

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②「あるがまま」
 
☆大辞林 第三版(三省堂、2006)
在るが儘
実際にある、その状態のまま。ありのまま。
 
☆広辞苑 第七版(岩波書店、2018)
あるがまま【有る儘・在るがまま】
存在する通り。ありのまま。あるまま。
 
<「あるがまま」の語についての注> : この語は日常的に用いられているにもかかわらず、その仏教的な意味あいの難解さゆえか、公的に承認されず、一部の辞典にしか収録されていない。広辞苑では、第七版(2018)に初めて見出し語として取り上げられた。2014年に映画『アナと雪の女王』とその主題歌「レット・イット・ゴー~ありのままで~」が大ヒットしが、それにより、「ありのまま」の類語である「あるがまま」にも光が当てられたのであろうか。
 

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③「あるがまま」や「ありのまま」を解説文に含む仏教語の見出し語
 
・如実【岩波仏教辞典 第二版(岩波書店、2002)】
あるがまま、あるがままに、という意。(中略)<如実知見>はその真実・真如を真実・真如のままに知見すること、すなわち本当の智慧(般若)を表す。
 
・真如【岩波仏教辞典 第二版(岩波書店、2002)】
[サンスクリット tathatā]原義は、その通りであること、あるがままの道理。漢訳語は、真の、あるいは真であることの意で、無為自然の道を真として、俗世に対立させる老荘の真俗観をふまえた表現。
 
・自然法爾【大辞泉(小学館、2012)】
仏語。
(1)もののありのままの姿が真理にのっとっていること。
(2)浄土真宗で、阿弥陀仏の本願のはからいの中に包まれていること。
 
・自然法爾【浄土真宗辞典(本願寺出版社、2013)】
自然と法爾とは同義語で、ともに自ずからあるがままにあること、そのようにあることをいう。
 
<本項についての注>
代表的ないくつかの仏教関連の見出し語を挙げるにとどめたが、それらの語と「あるがまま」や「ありのまま」との関連を通して、両語は仏教思想と深く重なることがわかる。ただし、仏教思想は歴史的にいくつかの流れがあるので、どの流れと結びつくかで、「あるがまま」や「ありのまま」の意味の不一致も起こりうる。
 

次回に続く          

森田療法における重要な仏教的用語(1)<補遺> ― 「事実唯真」の典拠になった真言宗の「即事而真」についての<補遺> ―

2020/08/05




 

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 しばらく時間を置きましたが、前稿を追加的に補う<補遺>の稿を掲げておきます。

 

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<補遺>
 
 「事実唯真」の典拠となったと思われる真言宗の「即事而真」は、中国の仏教用語であるこの語が主に日本の真言宗に取り入れられたものであった。それは、中国の仏教文化の中で生まれた含みのある言葉で、時代とともに、帯びる意味合いが微妙に変化した経緯があった。「即事而真」の含蓄的な意味を理解するために、背景事情として、語の由来する流れを、追加的に少し書き加えることにする。
 とは言え、筆者は中国仏教史の専門から遠い門外の徒である。資料としては、信頼できると思われるいくつかの文献を参照して流れを把握した。それを大まかにまとめて記すことにする。
 
1. 中国における「即事而真」の思想の系譜
 
1)発端となった僧肇の思想
 言葉として表れた「即事而真」は、東晋の僧肇(そうじょう)(374または384-414)に発する。僧肇は老荘の学にも通じていた天才的な仏教僧で、鳩摩羅什に師事して仏典の漢訳を助けた人物である。自身の著作集に『肇論』がある。
 まず、『肇論』の中の「不真空論」の文章の末尾に、「道遠乎哉。触事而真(道遠からむや、事に触して真)」とある(注1、注2)。この「触事而真」は「即事而真」につながっていく言葉で、現実肯定的な中国仏教の特質を端的に表したものとして重要である(注1、注2)。
 さらにまた、同じ『肇論』の中の「涅槃無明論」には、「天地與我同根。萬物與我一體」(天地と我と同根、万物と我と一体)と、万物一体観が述べられている。これは、『荘子』の「斉物論」に出ている「天地與我並生。而萬物與我為一」(天地我と並び生ず、而して万物と我とを一と為す)に則ったものとみなされる。このように僧肇においては、天地や万物と我は一体であるという荘子に通じる思想も表現されている。
 ところで森田正馬(注3)は、ある古歌と自分の替え歌を並べて示している。「世の中に我というもの捨ててみよ 天地万物すべて我が物。」という古歌をまず出した。これは僧肇または荘子のような、我と外界の対立を超越した諦観を表した歌であろう。しかし森田は、これをもじって自分なりの歌に詠み替えた。「何事も物其のものになってみよ 天地万物すべて我がもの。」この後者の方が、超越的な諦観ではなく、なりきる境地を示しており、より森田的であり、療法的である。けれども、前者の僧肇的、荘子的思想も森田にまで届いていたことは注目される。
 いずれにしても、現実を肯定的に受け入れる中国の精神的風土のもとで、荘子の万物斉同的な世界観にも接近しつつ、「触事而真(即事而真)」と表現される仏教的特質が 僧肇において最初に表れたのだった。
 このような万物一体観の思想は、さらに自然と人間との一体観につながり、自然界の草木のようなものにも、人間と同じように仏性が存在するという草木成仏説に通じていったことも否めない(注4)。
 


左から、僧肇、荘子



 

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2) 北周の武帝の「即事而道」の思想(注5)
 仏教はインドから中国に受け入れられて、南北朝時代には華美な伽藍が建ち並び、仏教は隆盛を極めた。しかし、それは未だインドの仏教の外面的な受容にとどまっており、インドの仏教を理解した上で、中国人の魂の救済のために自分たちの仏教を打ち立てるには及ばないものであった。そのため、インド仏教を超克して中国独自の仏教の確立をはかるべく、南北朝の末から北周の武帝は、廃仏毀釈を断行した。廃仏によって、華美な寺院を整理し、堕落した僧侶や教団を粛清し、出家仏教そのものを否定して、在家仏教を積極的に肯定した。このような在家仏教の戒律として「貪らない心がけ」を仏教道徳として、儒仏一体論的な「至道」を示した。武帝は、その「至道」を説明するに、次の一言を以てした。
 「事に即して言わば、いずれの処か道に非ざらん。」つまり、この現実以外に道を行う場所はなく、この現実こそが真理実現の場であると言ったのである。武帝のこのような「即事而道」の教えは、大乗仏教の「煩悩即菩提」に通じ、また古くは僧肇に始まって、隋や唐で用いられる「即事而真」の思想を側面から支えたのであった。
 

3) 天台智顗の「即事而真」の思想
 天台宗は、「法華経」を中心に据えて中国で隋代に興った宗派であり、その実質的な開祖となったのが、天台智顗(ちぎ)(538-597)であった。おこなった講義は、『摩訶止観』『法華玄義』『法華文句』の三大部に編纂され、天台宗の根本聖典となった。
 そのうち、『摩訶止観』と『法華玄義』に「即事而真」の語が出てくる。智顗における「即事而真」の思想は、苦悩に満ちた現実がそのまま仏の世界となるのであり、現実を離れて真実が存在するのではないとするものであった。ありのままの現実の一切が実相として絶対肯定される。煩悩のままで、すべてが妙有の一真実の世界となる。『摩訶止観』ではそのような境地が示されている。『法華玄義』では、人間の心の善と悪を超える絶対の境地が『即事而真』の観点から取り上げられている。
 先の武帝の場合は、国家の治世を進めるに当たって民衆に説く「即事而道」であったが、天台智顗においては、人間の実存的な苦悩をとくに問題にするものであった。
 
 なお、ここで筆者としてあえて一言つけ加えておく。
 天台智顗における「即事而真」の思想については、主に鎌田茂雄氏の文献(注5)を参照しながら記した。ところが、とくに『摩訶止観』における境地は、「即事而真」の用語の意味範囲を出て、現実を絶対肯定しながら、現実を超越する理想的な境地が指し示されているように思えてならない。ちなみに、『総合仏教大辞典』(注6)の「即事而真」の項には、「天台宗では即事而真の語を通教で説く空の意味をあらわすのに用いる」とある。「空」として解するのが適切なのか、釈然としないものが残る。しかし自分の浅学ゆえかも知れず、この点はみずからの理解の課題として残すことにする。
 


左から、智顗、澄観



 

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4)華厳宗の智儼(ちごん)の「即事備真」の思想
 南北朝末から隋代にかけて成熟した「即事而真」の思想は、華厳宗においても、その時代を生きた第二祖の智儼(ちごん)(602-668)に継承された。智儼は、大乗仏教における「生死即涅槃」の考え方は、「即事備真」を表していると言った。「備」とは完全に具備していることであり、事に即することによって完全なる真が存在し得るという見地を示した。
 このように事と理の融即を重視する華厳の思想は、さらに続いて、第四祖の澄観(738-839)において、事と理の関係から法界が四つに分かれる、「四法界」の説が立てられた。
 「事法界」、「理法界」「理事無礙法界」、「事事無礙法界」の四法界である。華厳宗自体の立場はどこにあるのか、それが確固としないので、不明瞭な点がある。しかし、理を去った「事事無礙法界」は「即事而真」に当たるとするのが自然な見方である。これは、真言宗の立場からも認めているようであり(注7)、またそれは真言宗にとって、その「即事而真」の思想が天台宗のそれと異なることを言うに当たって、十分な根拠を提供することになろう。
 


左から、慧能、玄覚、石頭、良价



 

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5) 禅との接点
 
 西暦600年前後、南北朝末から隋代にかけての頃、北周の武帝による仏教の改革とほぼ時期を同じくして、菩提達磨が中国に入国して禅宗の開祖となった。即事而真の思想は、達磨に始まった禅宗の思想との間にも流れ込んだ。禅は事実をそのまま受容して、自己を尽くすことを旨とするものであろうから、即事而真と通じるのは自然である。
 両者の明らかな接点は、中国曹洞宗の淵源となった石頭希遷(700-790)の見解に遡る。希遷は、僧肇の『肇論』の中の句、「会万物為己者其聖人乎」(万物を会して己と為す者は聖人のみ)を読んで、深く心に感じ、『参同契』を著した。その題は「法は散らばり入り組んでいるが(交「参」)、本来全く一致して(同契)、融通し合っているという意味で、差別の現象と平等一如の実相とが相即円融する様を表している(注8)。そして『参同契』の中で、「理事参同回互、毎一門都有一切境界在」(理事は参同回互し、すべての門に一切の境界がある)、とした。
 中国曹洞宗の系譜は、六祖慧能の弟子の青原行思を発端とするが、その弟子の石頭希遷に至り、『参同契』によって「即事而真」思想と重なる禅的世界観が述べられたのであった。この思想の系譜として、その後、東山良价(807-869)が著した『寶鏡三昧』がよく知られている。
 一方、曹洞宗で重んじられる『証道歌』を著した永嘉玄覚(665-713)は、六祖慧能に指導を受けた人物であった。当時官吏であった魏靖という人物が、『証道歌』の序の言葉として「即事而真」と書いたとされる。このように、慧能の時代に既にこの語は、禅の領域に取り入れられている。以後禅家によって禅的な意味で用いられるようになった。主に曹洞宗系の分野で使われたように見受けるが、それは石頭以来の系譜によるものであったのか、事情は明らかではない。


空海



 

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2. 真言宗における「即事而真」の思想
 
 「即事而真」は、以上のような経緯を経て、わが国に入ってきたものであり、しかも、それはあたかも真言密教の専売特許のような特有の用語となってしまったのだった。では空海が独自にこの用語を中国からわが国に導入したのかというと、そうではない。空海の著作の中には「即事而真」の語は現れないのである。
 真言宗につながる経典の中で、この語が出てくるのは『大日経』の注解書である『大日経疏』の巻第一の冒頭部分の一節においてである。それを次に引用しておく(注9)。
 
「即事而真無有終尽(事に即してしかも真なり、終尽(しゅうじん)あることなし)」
 
 真言宗における「即事而真」の語の使用は、この『大日経疏』に拠って、空海の後進の学匠たちが取り入れたことによるとされる。しかし空海が『大日経疏』を読まなかったはずはなく、その中に出ている用語、「即事而真」になぜ言及しなかったのか。その理由は不明であるが、独自の思想体系を構築しようとしていた空海は、わが国で天台宗や華厳宗など、他の宗派にも導入されたこの用語の採用を保留したとも考えられる。
 いずれにせよ、真言宗の密教的思想と体験の中で、「即事而真」は重要な意味を帯びていく。空海は、『大日経』や『金剛頂経』などの密教経典を重んじ、宇宙的な大きな摂理と、多くのいのちある者たちの現世の生活をひとしなみに捉えた。そして大宇宙としての究極の真理は、大日如来として人格化され、小宇宙としての人々の中にも大日如来が内在する。そこには、すべての現象世界の事物がそのまま真実であるという思想があった(注10)。真言宗においては、「即事而真」は中国における現実重視の意を基本的に含みながらも、このような密教的な意味合いが加わっていた。
 
 「真言宗」でよく使われる「即事而真」の語について、密教的に付加された意味をやや強調して、以上に記した。そのことを考慮に入れても、真言宗の「即事而真」は、森田の造語の「事実唯真」に極めて意味が近いし、語義としては両者は同じと言ってよいほどである。また両者は同じような四字熟語的な言葉である。したがって「即事而真」が「事実唯真」の典拠になったと考えるのは自然ではなかろうか。森田は典拠を記していないが、真言宗を深く学んでいた森田が、「即事而真」の語を知らなかったはずはない。むしろ、療法向けの教えの言葉を造ったのであるから、密教思想の持ち込みを疑われることを避けるためにも、典拠に触れなかったと考えることができるのである。
 実際、森田の療法で「事実唯真」は重要な言葉として生かされるようになったが、森田はこの語を密教的な意味で使うことはなかった。
 真言密教との関係では、形外会で面白いことを話している(注11)。患者が屁理屈がうまく、初めから反抗してかかるような場合には、自分は喧嘩腰になることがあると言っているくだりで、「僕の田舎の家の寺は真言宗で、僕は中学校からその方の研究もボツボツやった。それで真言宗の祈祷者の心持は『施主は是れ未成の金剛薩陀。行者はこれ現成の大日如来』といって、『治してもらう者は、訳のわからぬ凡夫であるが、これを治してやる自分は、大日如来の代理であるぞ』という信念をもってする。」と述べている。この気合いが習慣になって、取れなくて困るとも言っている。森田らしさが溢れているエピソードである。また森田が、真言密教への関心を持ち続けていたのも事実である。
 しかし、こと「事実唯真」の言葉の説き方に関する限り、極めて合理的であったことは、多くの森田療法家の認めるところであろう。やはり「事実唯真」は、森田の親しんだ真言宗の「即事而真」を典拠として生まれたと推測してよかろうと思われる。

 
<注(文献)>
 

  • 1) 奥野光賢 : 吉蔵における僧肇説の引用について.印度学佛教学研究 34 ; 498-501,1986.
  • 2) 伊藤隆寿 : 吉蔵の儒教老荘批判. 印度学佛教学研究 34 ; 502-509,1986
  • 3) 森田正馬 : 精神修養に関する歌. 高良武久ほか編 : 森田正馬全集 第七巻 ; 453, 白揚社, 1975
  • 4) 鎌田茂雄 : 三論宗・牛頭禅・道教を結ぶ思想的系譜―草木成仏をてがかりとして―. 駒沢大学仏教学部研究紀要 26 ; 79-89, 1968
  • 5) 鎌田茂雄 : 第一部 華厳思想の本質. 鎌田茂雄,上田春平 : 仏教の本質 6 無限の世界観 <華厳> ; 20-196, 角川ソフィア文庫, 2006
  • 6) 堤玄立, 上別府茂, 吉岡司郎 編 : 総合佛教大辞典. 法蔵館, 2005
  • 7) 北川真寛,土居夏樹 : 「一乗経劫」について―即身成仏思想に関する問題―. 高野山大学密教文化研究所紀要 第19号 ; 43―70, 2006
  • 8) 中村元, 福永光司,田村芳朗,今野達, ほか編 : 岩波仏教辞典 第二版. 岩波書店,1989
  • 9) 宮坂宥勝 : 大日経疏(抄). 密教経典; 177-312, 講談社, 2011
  • 10) 松長有慶 : 密教の特質. 佛教学セミナー 31; 42-57, 1980
  • 11) 森田正馬 : 第46回形外会. 高良武久ほか編 : 森田正馬全集 第五巻; 540, 白揚社, 1975

森田療法における重要な仏教的用語(1)―「事実唯真」の典拠になった真言宗の「即事而真」―

2020/08/05




 

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<最初に>
 
 森田療法には、療法の鍵のようないくつかの重要な用語がある。それらは、日常的な平易な言葉を生かしたものだったり、森田自身による造語だったり、また深い思想がこめられた仏教的な用語だったりする。そのうち、とくに仏教的な用語の場合は、その深い意味がえてして難解なままに、私たちはなんとなく森田に倣って使っていることが多い。
 昨年秋の日本森田療法学会でのシンポジウムで、仏教や禅と森田療法について報告させて頂いて、その際に森田療法の中の重要な仏教用語についても述べたが、なにぶん限られた時間内にて、簡単な言及をするにとどまった。その抄録の小論文原稿は提出したので、問題がなければ学会雑誌の春号に掲載して頂く運びになるだろうけれど、発表は多彩な内容を含んでいたため、抄録でも、やはり個々の内容はそれぞれ簡潔に記さざるをえなかった。
 そのため、森田療法における仏教的用語について、省略した部分を補いつつ、より自由な記述で伝えたいという思いが残っている。療法の中の代表的な仏教的用語(実は仏教的用語であったと判明する言葉を含む)のうちで、代表的なものとして、学会シンポジウム時と同じく「事実唯真」、「あるがまま」、「煩悩即菩提」の三語を取り上げ、順に説明していきたい。学会で済ませた発表および学会雑誌向けの抄録論文と要旨は重なるだろうが、自由な視点から改めて書き直してみる。

 

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 森田療法における重要な仏教的用語(1)―「事実唯真」の典拠になった真言宗の「即事而真」一


 
1.「事実唯真」
 まず、森田療法の教えの真骨頂であると思えるような重要な用語に、「事実唯真」がある。森田は「非事実者非真也(事実に非ざるは真に非ざる也)」とも言い換えて教えた。それらの言葉はよく色紙などに揮毫して進呈しており、森田自身、この教えの言葉を重視していたことがわかる。この「事実唯真」という素朴な言葉は、森田療法ならではの教えとして、実に重い。
 森田は、「余は試みに『事実唯真』という標語を作って見たが、…」(注1)と書いているが、その典拠を記してはいない。そして続く次の文章では、「…事実は何とも動かす事が出来ないから、常に事実を事実として之を忍受し、服従しなければならない。」(注2)と付け加えている。さらに『論語』(学而第一)を引用し、「子夏が『賢を賢として、色に易へ』といったのは、『事実を事実として感情に誘惑されず』といふ事になるのである」と、述べている(注3)。しかしこれは、「事実唯真」を敷衍した引用であり、子夏の教えが「事実唯真」の典拠になったことを意味しない。
 


「非事実者非真也」。三聖病院に掲げられていた森田正馬の墨跡。



 

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2. 「事実唯真」の典拠についての従来の説
 森田による「事実唯真」の語の典拠については、従来二つほどの説がある。
 その第一は、聖徳太子の言葉「世間虚仮 唯仏是真」(天寿国繍帳)によるとするものである。森田療法の関係者の多くの人たちが、聖徳太子の言ったその言葉から来ていると思い込んでおられる節がある。しかし、その根拠は曖昧であり、聖徳太子の神話が独り歩きしているように思える。太子のこの言葉については、乱世の虚しさを前にして、仏にこそ真実を見るとするのが、一般的な解釈である。逆に森田のひそみにならえば、乱れた世間がそのまま真実世界であるはずなのである。
 三重野(注4)は、森田の「事実唯真」を重んじながら、言葉は事実と相違することを指摘するために、「私は聖徳太子の言葉『世間虚仮 ・ 唯仏是真』を真似て、『言語虚仮 ・ 事実是真』といって説明しています」と記している。論旨は一応わかるけれども、この言い換えを以て、「事実唯真」の典拠が聖徳太子の言葉であったということにはならない。世間は事実そのものであり、これを削除したら「事実唯真」から離反してしまう。太子の言葉に重ねて言語の虚しさを表現するところに無理があり、さらにそれを森田の「事実唯真」に近づけようとなさったのであれば、無理が重なっている。
 また井上(注5)は、森田から直接聴いた話としてでなく、三重野の意見を引き合いに出しながら、森田正馬は聖徳太子の言葉をもじって「事実唯真」と言ったと述べているが、論拠が薄弱である印象を免れない。
 第二に、森田正馬は祖父正直の墓碑銘を、ある漢学者の撰により建てたが、野村(注6)は、その墓碑銘の末尾の言葉、「一心所根 唯在真実」に、「努力即幸福」、「事実唯真」などの重要な森田の言葉が、祖父の生涯と重なって見えるとしている。しかし、そこから「事実唯真」の語が立脚する思想までは読み取り難い。
 


三聖病院内に掲げられていたもの。



 

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3. 「即事而真」
 ところで、真言宗の教えとしてしばしば出てくる言葉に、「即事而真(そくじにしん)」がある。真言宗では、『大日経』と『金剛頂経』の両経典が教理の基本として重視されるが、『大日経』の註解書である『大日経疏』に、この「即事而真」の言葉が出ている。「事に即してしかも真なり」で、現実世界の事実そのままが真理である、事実を措いてほかに真理はないという意である。現実を重視するこのような考え方は、中国で生まれたもので、「即事而真」の語や思想は、華厳思想や天台の『摩訶止観』や『法華玄義』に既に見られたものであった(注7)。したがって密教に特有の言葉ではなかったが、わが国では空海の継承者らによって真言密教に取り入れられて、その独自の言葉になった。世俗的活動を重んじる真言密教において、その実践的な生活面に通じる生きた言葉として定着したものである(注8)。
 真言仏教の専門書や啓蒙書に、この「即事而真」の語は出ており、森田がそれを知らなかったはずはない。
 この「即事而真」を典拠にして、森田は「事実唯真」の語を作ったと考えるのが、字義的、意味的に自然であろうと思われる。
 
<文献>

  • 注1) 森田正馬 : 神経質及神経衰弱症の療法. 高良武久, 大原健士郎, 中川四郎, 他 編 :森田正馬全集, 1 ; 384, 白揚社,東京, 1974.
  • 注2) 森田正馬 : 同上
  • 注3) 森田正馬 : 神経質及神経衰弱症の療法. 高良武久, 大原健士郎, 中川四郎, 他 編 :森田正馬全集, 1 ; 385, 白揚社,東京, 1974.
  • 注4) 三重野悌次郎 : 森田理論という人間学 ; 110-111, 春萌堂, 東京, 1999.
  • 注5) 井上常七 : 森田正馬先生から私が直接受けた指導(二). 生活の発見, 55(12) ; 44, 2011.
  • 注6) 野村章恒 : 森田正馬評伝 ; 19-20, 白揚社, 東京, 1974.
  • 注7) 鎌田茂雄 : 「即事而真」思想の成熟. 鎌田茂雄,上山春平 : 仏教の思想6 無限の世界観<華厳> ; 30-38, 角川書店,東京, 1969.
  • 注8) 松長有慶 : 密教の特質. 佛教学セミナー, 31 ; 54-57, 1980(5).

『仏教、禅の叡智と森田療法―「生老病死」の苦から「煩悩即菩提」へ―』PDF版

2020/05/31

 

仏教、禅の叡智と森田療法
―「生老病死」の苦から「煩悩即菩提」へ―

 
 
  昨年の日本森田療法学会のシンポジウムで、表記の題での発表をさせて頂きました。そのスライドは、先にこの欄に掲載している通りです。
  発表内容の抄録原稿が、日本森田療法学会雑誌、第31巻第1号に掲載され、そのPDF版も頂くことができました。
  下にPDF版へのリンクを付けておきますので、よろしければお読み下さい。そしてご批評頂けましたら、幸いです。
  通信は、「通信フォーム」からご自由にして頂くことができます。
 

PDF版へのリンク
 

第37回日本森田療法学会・シンポジウムⅠ-3「仏教、禅の叡智と森田療法―『生老病死』の苦から『煩悩即菩提』へ―」スライド再現

2019/10/08

学会のシンポジウムで発表した全スライドに、それぞれ説明も付け加えて、以下にそれを掲載します。

 

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 画面左下の画像は、三聖病院にあった某画伯による森田正馬の肖像画(森田の写真を模して描いたもの)。正確には、その絵の写真です。

 
 



 はじめに、として画面に記したことは、仏教や禅と森田療法との関係は、論じ尽くされていない重要なことがらであり、ここで体系的に述べることは困難ながら、いくつかの問題提起をしたいという、発表の意図を示しました。

 
 



 釈尊は、生老病死の四苦を体験しました。さらに愛別離苦などの後半の四つの苦を加えて、八苦と云われます。この苦に対して原始仏教は、「苦集滅道」という四諦を教えています。煩悩に執着して苦が起こるから、執着を滅して、中道を正しく歩むということです。釈尊は長年の修行の末にそのように悟ったわけです。親鸞も白隠も、悩みを経て、同様の悟り方をしています。宇佐玄雄は森田に療法名の案を問われて、釈尊の開悟にちなんで、自覚療法という提案をしています。
 しかし仏教においては、煩悩を否定して滅すべきか、あるいは執着を問題にするのかで、方向が異なるように、煩悩への態度がさまざまに、異なります。仏教と森田療法の関係も、煩悩についての思想を抜きにしては語れません。

 
 



 真言宗と森田正馬。
 真言宗は森田の生い立ちだけでなく、療法の成立にまで、深い関わりがあると思われます。正馬は、真言宗の金剛寺の檀家に生まれ、9歳頃に寺の地獄絵を見て恐怖した話はよく知られています。中学生のとき、「理趣経」を書写。五高時代には、「般若心経秘鍵」を愛しょう。東大生のとき、金剛寺の住職の窪の協力で、自選の経文を作成。医師になってからは、大正7年10月22日より5日間、真言宗の大僧正、權田雷斧の密教講習会に参加しており、そして大正8年頃、入院療法第一期の絶対臥褥に「真言宗の煩悩即菩提」を導入しました。

 
 



 真言宗ともかなり関係しますので、療法で用いられるいくつかの言葉の再考を試みます。まず「事実唯真」という森田が作った標語の典拠ですが、従来の説として、聖徳太子の言葉、「世間は虚仮、唯仏のみこれ真」、また森田正馬の祖父の墓石の墓碑銘がありますが、これらは、理由は略しますが、典拠として適切だとは考え難いです。
 真言宗の教えの言葉で、よく出てくるものに、「即事而真(そくじにしん)」があります。「事に即してしかも真なり」。事実の中にこそ真実があると言う、真言宗の現実重視を表す言葉です。

 
 



 「即事而真」の言葉の由来ですが、現実に道を見出そうとする中国古来よりの思想を根底として、華厳思想、「摩訶止観」、「法華玄義」に、この語は既に出ています。
 ところで真言宗にとっては、『大日経』と『金剛頂経』の二つの経典が重要ですが、『大日経』の注解書である『大日経疏』に「即事而真」が出ていて、空海の継承者たちによって取り入れられ、真言密教の専売特許のような用語になったものです。この語に基づいて森田は「事実唯真」と言ったと考えるのが、字義的にも意味的にも自然だろうと思います。

 
 



 「煩悩即菩提」について。これは大乗仏教で使われますが、経典や宗派によって意味が異なります。真言宗では、『金剛頂経』に含まれる『理趣経』に出ているそのような意味の教えを、空海が取り入れて、著書『十住心論』に「生死すなはち涅槃…、煩悩すなはち菩提…」と書いています。この空海の真言宗における煩悩観は、「煩悩なくして菩提はない」と、肯定的に捉えるものです。低次元の小欲、つまり煩悩がまずあって、リビドーが昇華するように、社会に尽くそうとする大欲になっていく。それが即身成仏とされます。
 なお、煩悩即菩提に関しては、維摩経や聖徳太子では「不断煩悩入涅槃」、親鸞では「不断煩悩得涅槃」、森田は親鸞に対しても批判的になり「不断煩悩即涅槃」と言いました。

 
 



 「あるがまま」も仏教語ですので、再考しておきます。森田は、神経質は矯正の努力が強すぎるので、方便として「あるがまま」であれと教えるが、この語を哲学的に論じては言葉尻の争いに堕す、と言っています。
 しかし、療法のキーワードのようなこの語について、一応知っておきたいと思います。サンスクリットで、「そのようなもの」を意味するタタータという語が、漢語で「如」、さらに「真如」 となり、和語で「あるがまま」になりました。「真如」はよく使う言葉ですが、意味は難解です。「如」が問題になりますが、ここでは、これ以上論じません。

 
 



 森田療法の成立に関することを、少し述べます。森田は井上円了から影響を受けています。仏教周辺の民間療法に関心を持ち、破邪顕正を経て、自然良能を生かすことを学び取りました。また円了による、心理療法としての禅の有用性についての指摘からも、森田は示唆を得たものと思われます。また大正5年に、呉秀三が精神療法について西洋の知見も記述した『精神療法』という著書が出版されました。森田はこの本から、臥褥、作業、不問など、多くを学び、仏教的な思想と融合させていきました。

 
 



 入院第一期の絶対臥褥について、です。森田の郷里の土佐では、嫁姑の間にいざこざが起こると、どちらかが三、四日、臥褥をしたという習慣があって、森田はそれをヒントにしたという話があって、『形外先生言行録』にある人が書いています。これは本当かもしれませんが、隔離された環境で臥褥をすれば、感情が静まるという感情の法則のレベルのことに過ぎないと思われます。
 それよりも絶対臥褥の目的として、第三番目に森田は「真言宗の煩悩即菩提」を取り入れ、精神的煩悶苦悩の根本的破壊を図ることが、本療法の眼目だとしました。これが実際にどのように成果を上げたのかが問題であり、十分に検証されたのかどうか、気になります。

 
 



 森田療法と禅の関係ですが、両者は似ているが全く同じではありません。なのに、その関係について黒白をつけねばならないかのような論議がなされてきたのは奇妙なことでした。かねてより禅に関心を持っていた森田は、神経衰弱の外来診療を始めてから、強迫観念の治療に難渋し、明治42年の論文で、それを「ケロケツ」に喩えて、禅の方からの治療的助言を求めています。そして翌年の明治43年に、自ら釈宗活老師に参禅したのです。
 森田は、寺院の中でなく、生活の中に生かす禅を求めていたので、宗活老師の在家禅は願うところでしたが、参禅は長続きしませんでした。また、作務が重視され、説得より体得に重きが置かれる、禅の修養は、入院の治療構造にうまく生かされたと言えます。

 
 



 さて、釈宗活老師ですが、私はこの人に関心を持ち、調べ得る限りのことを調べました。これは別途に発表したく思っていますし、また一昨年の本学会の一般演題で、あらましを報告しました。残念ながら釈宗活、そして宇佐玄雄についても、今回は簡略な紹介にとどめます。
 釈宗活は、円覚寺で今北洪川の下で修行をした人で、釈宗演の弟分に当たります。しかし釈宗演と異なり、封建的な禅の叢林を嫌い、一生寺の住職にはならないという信念を持ち、在家禅の道場である「両忘会」の指導に一生を貫いたのです。

 
 



 写真は、五十歳頃の釈宗活老師です。森田が明治43年に参禅したときの両忘会は、谷中初音町二丁目にありました。森田は「父母未生以前の本来の面目如何」という公案を課され、透過できず、数ヶ月でやめました。宗活の人柄は、厳しく、優しく、また風流をたしなむ粋な人でした。このような禅の指導者との交流が続かなかったことは、森田にとって大変惜しまれます。

 
 



 両忘会があった谷中の初音町二丁目というのは、旧町名ですが、現在地はおよそ特定されます。山の手線の日暮里駅の西側の尾根の通りに面しており、谷中の墓地の近くです。参禅後も森田は弟子の佐藤政治と夜中に谷中墓地界隈を散策しながら、神経衰弱の治療について語りあったようです。

 
 



 学会のシンポジウムにおいては、時間の制約があるため、このスライドは提示を略したものです。森田が東大入学後に東大内科を受診して、入澤達吉教授から「神経衰弱兼脚気」と診断されましたが、この入澤達吉教授と、釈宗活老師(本名は入澤譲四郎)とは、いとこの子同士で、蘭方医が何人も出た新潟の入澤一族に属する関係にあったのです。

 
 



 森田正馬と宇佐玄雄の交流について。
 宇佐玄雄の略歴を紹介します。三重県に生まれ、幼くして東福寺派の寺院の山渓寺の養子になり、中学生の頃より神経衰弱を経験。早稲田大学文学科を出て、一旦帰省し、大徳寺で修行の後、檀家の反対を押し切って慈恵医専に入学し、大正8年に卒業。奇しくもこれは、森田療法が誕生する年に当りました。
 宇佐は、慈恵医専の最終学年の大正7年より森田療法の成立を見守り、また一方では禅僧として森田に影響を与え始めました。宇佐は東大の呉の教室に入局後、大正11年より、東福寺内で三聖医院を開業、昭和2年に三聖病院になりました。森田は度々三聖病院に立ち寄り、宇佐との交流が続きました。なお宇佐は晩年には真宗思想に傾斜していったようです。

 
 



 これは禅僧としての宇佐玄雄先生の姿です。

 
 



 昭和8年4月に京都で神経学会があったとき、多くの人たちが三聖病院を訪れた際の、集合写真の一部です。学会で、精神分析と森田との論争が続いていた時期のことです。中央左から、幼少の宇佐晋一と母上、1人置いて野村章恒、宇佐玄雄、森田正馬の各先生です。

 
 



 禅語が禅のすべてではありませんけれども、参考までに宇佐玄雄が使った主な禅語を列挙してみました。そのうち、厳密ではないものの、森田が踏襲した言葉を青で表示しました。宇佐が使用した禅語の半数以上を森田が宇佐に倣って使っているので、禅に関して森田は宇佐に多くを学んだことがわかります。
 宇佐の特徴のひとつとして、沢庵禅師の『不動智神妙録』の剣禅一如の教えを重んじて、「心の置き所なし」や「無心」を説いています。『不動智神妙録』は、沢庵が柳生宗矩のために書いたものであり、伊賀出身の宇佐玄雄は、地理的に近い柳生の里にいた柳生一族に親近感を抱いていたのかもしれません。

 
 



 これは、三聖病院における「入院第一期療法中の注意」 書です。中身は森田正馬が宇佐玄雄にそっくり伝えたものでした。注意したいのは、(還元法)と書いてあることです。これは森田と宇佐のどちらの発想で書かれたものかわかりませんが、ともかく両者の合意によることは確かです。還元法ということは、赤ん坊のような無心に返ることを意味します。勤務医だった私たちも、院長に倣って、新しい入院患者さんが第一期の生活を始める際に、この注意書を示しながら、「症状に対して、手も足も出ない赤ん坊のような状態で臥褥の生活をして下さい」と指導していました。赤ん坊のような状態になるということは、一旦良性の退行をして無心の純な心を原点として、バリントの言うような「新規蒔き直し」(新規巻き直し)」を始めるのです。(第二期は外界へ向けての再出発になります)。
 ところで、このような赤ん坊のような状態に還元されるということは、森田が最初に入院療法を成立させたときに、絶対臥褥において、真言宗の煩悩即菩提で苦悩を破壊すると言った趣旨と異なります。赤ん坊のような無心にならざるを得ないことの方が、絶対臥褥ならではの重要な趣旨なのではないでしょうか。絶対臥褥の趣旨が進化していったと考えることができます。最初に多分森田が考えたような、絶対臥褥での煩悩破壊、即身成仏はかなり難しいだろうし、第二期、第三期の生活にもそれぞれの意義があります。また転回を体験する時期は、個々の人によって違います。
 森田はさらに、晩年になって、親鸞の「不断煩悩得涅槃」を「不断煩悩即涅槃」と言い換えました。不断煩悩のままで、涅槃が得られるという二段論法でなく、禅的な相即の一段論法にしてしまったのです。

 
 



 自力と他力について。森田正馬は道元について言及していませんが、鈴木知準先生が倉田百三から親鸞や道元の他力の教えを聞いたことをきっかけに、やがて自身の療法に道元を導入なさることになった、というエピソードの紹介です。
 鈴木は、昭和2年、17歳のとき、森田の下に入院中に、倉田が森田と会話しているのを一生懸命に聞き耳を立てて聞いていた。そして倉田が「もようされて生きる態度」とよく 言っていたことを思い出す、と『形外先生言行録』に書いています。鈴木はこの倉田の言葉にかなり強いインパクトを受け、後に道元の『正法眼蔵』を考究し、それを森田療法に生かすことになったのです。
 なお、倉田は『法然と親鸞の信仰』という著書(昭和9年)でも、「催されて生きる態度」と題して、「彼方より行われて」と道元が禅の立場から他力にふれたということを書いています。
 倉田は森田に対して、熱心に道元の禅における他力について述べたのに、森田はそれに反応した形跡がなく、倉田の言うことに聞き耳を立てていた若き鈴木知準がその影響を受けたのでした。

 
 



 禅でありながら、道元において、他力の思想が含まれていたことは、一般に知られているところです。とくに「わが身をも心をも、はなちわすれて、…」という『正法眼蔵』生死、に出ている言葉はよく知られているくだりです。それ以外にも、「法性の施為(もよおし)」というような言葉も『正法眼蔵』には出ています。禅と森田療法の関係を考えるに当たっては、森田が言及しなかったにせよ、道元禅も含めて考えるべきであり、森田療法は自力と他力が融合しているものであると思います。

 
 



 倉田は森田の治療を受け、「治らずして治った」という心境に達し、「運命を耐え忍ぼう」と言いますが、森田からは、まだ不十分であるとして批判されたのでした。それ後の倉田は一層煩悶を経て、右翼思想に走りました。そのような倉田が辿った悲劇を、森田療法の立場から考えることも必要です。発表では、このスライドについては省略しました。

 
 



 かつて、詩人のキーツが言ったネガティブ・ケイパビリティが、今日的視点から再注目されています。それは、苦を生きる智恵としての仏教や、さらには森田療法の中核にある智恵と同じであると、つくづく思います。
 スライド画面にそのことを簡潔に文章にして書きました。

 
 



 かつて三聖病院の床の間に掛けられていた、森田の墨跡です。
 「苦痛を苦痛し 喜悦を喜悦す 之を苦楽超然といふ」
 煩悩即菩提に通じる味わい深い言葉です。

 
 



 本発表では、全体として体系的なことを述べることはできなかったが、仏教、禅、森田療法に関して、明らかにされていなかったいろいろな問題について、考える糸口を提供しました。
 森田が、当初、真言宗の思想に則して絶対臥褥に「煩悩即菩提」を導入した意図は、どのように生かされたのか、その変遷について、少し考えてみましたが、この絶対臥褥の意義については、再検討をする必要があると思います。衰退しつつある入院森田療法を見直すために、絶対臥褥の意義を明らかにすることは不可欠なことでしょう。

宇佐玄雄と三宅鑛一 ―森田正馬と宇佐玄雄の交流に関連する挿話―

2019/08/16

 宇佐玄雄著、三宅鑛一校閲『精神病の看病法』昭和16年刊

 宇佐玄雄著、三宅鑛一校閲『精神病の看病法』昭和16年刊


 

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  慈恵医専に学んでいた禅僧、宇佐玄雄は、ちょうど森田正馬が入院療法を開始した大正8年に医専を卒業して医師になった。その年の前半は、森田のもとにたびたび通って診療を学んでいたが、同年9月に森田の好意で東大精神科助教授の三宅鑛一に紹介された。ちょうどこの時期に東大精神科の附属病院として、松沢病院が創設され、宇佐は三宅を通じて松沢病院の医員として、そこで研修や診療に携わることになった。松沢病院に通うのが建て前になったからであろうが、大正8年の秋から約一年間、宇佐は恩師の森田正馬に対しては、足が遠のきがちになっていたようである。森田の自宅で始められた「余の特殊療法」に立ち会って、直接それを見守る絶好の機会に恵まれていたにもかかわらず、殆どそれを逸している。少なくとも、森田の日記に見る限りでは、大正9年に宇佐が森田医院を訪れた回数は非常に少ない。尤も、大正9年の宇佐の来訪についての森田の記載を見落としていた箇所が、2回分あった。去る4月に提示した文章中にそれらを列記すべきところ、不手際にて漏れていたので、本日付けで、さかのぼって4月の文中に補足を加えた。しかしながら、それでもこの年には、宇佐は森田に無沙汰をしていた。見落としていた森田日記の記事の一つは、宇佐が三宅の使者として、森田に伝言を持ってきたという、次のような奇妙なものである。
 
  大正九年五月六日
  「宇佐君来り三宅君の伝言あり、余もし病のため慈恵の講義の困難ならば、一時、代り講義してもよけれど、Kl.は呉先生洋行のため三宅君が其代りをなすといふ、三宅君は之を好まずといふ、余は以前より自らKlをなさん事希望する処なり、」
 
  宇佐は三宅の使い走りのようになって、森田に会いに来ている。東大精神科医局に入局した新人医師として、三宅と自然にこのような関係になったのであろうか。あるいは宇佐は、森田が始めた特殊療法について、先輩の三宅の意見を聞く意図を持って、三宅に近づいていたのだろうか。
  ちなみに森田は、自身の療法の披露のため、大正9年末には宇佐らを自宅に招待し、大正10年末には三宅らを自宅に招待したのだった。
  宇佐は医師になった大正8年夏に、早速、円覚寺の釈宗演老師に面会し、自坊の住職を引き受けるべきか、医業をなすべきかについて助言を仰いでいる。宗演は、「寺を出なさい」と言ったという。お墨付きを得た宇佐は、医業を営む方針を決めただろうが、療法が誕生する時期に森田との出会いに恵まれて、しかしながら評価が定まっていない森田の療法を摂取すべきかどうか、大正9年の時点では慎重になっていたとすれば、それは当然のことだったとも言えよう。
  三宅鑛一との近い関係は、その後も長く続いたようで、宇佐は後年(昭和16年)に上梓した著書『精神病の看病法』の校閲を三宅に依頼している。三宅は呉の後任として、昭和11年まで東大精神科教授を務め、神経衰弱などいくつかの分野の研究で知られた人である。
  研究者としての三宅については、別途に述べたい。

森田正馬の日記に見る宇佐玄雄との出会い―「森田療法創始百年か」<その三>の追加資料―

2019/04/27


慈恵医専の学生時代の宇佐玄雄。医専附属病院にあたる(私立)東京病院(または慈恵院病院)での、ポリクリ風景で、診察医は内科教授らしい。 右から2人目、立っている人物が宇佐玄雄である。



 

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     森田正馬の日記に見る宇佐玄雄との出会い
                 ―「森田療法創始百年か」<その三>の追加資料―

 
  去る4月5日付けの原稿、「2019年の今年は『森田療法創始百年か』<その三>」の原稿内容は、森田正馬の日記を根拠の一部としています。ところが、この稿をアップロードした後に、森田の日記を改めて精細に見直した結果、宇佐玄雄との交流について記されている箇所が意外に多くあり、少なからず見落としていたことが判明しました。
  そこで参考までに、宇佐玄雄が慈恵医専に学び、さらに卒業後も2年余りまで、東京に滞在していた時期の、森田と宇佐の交流について、森田の日記に出ている記録のすべてを抜粋して、以下に掲げておきます。
  また、見落としていた日記の箇所を読んだことで、上記の<その三>の原稿(4月5日アップロード)の内容を修正する必要がおのずから生じました。そこで、その原稿を4月5日に据え置いたままで、修正箇所がわかるような書き方で、本日修正を加えて差し戻しました。
  ご了承下さい。
 

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  森田正馬の日記において、宇佐玄雄のことは、大正7年から大正10年までにわたって記入が見える。以下はそのすべての抜粋である。(網羅したつもりながら、なお遺漏がないとは限らない。また草書で書かれた森田の達筆の文字は判読し難く、誤読した字があるかもしれないことをお断りする。)
 
  森田正馬の日記中の宇佐玄雄についての記載を改めて確認したところ、二、三の見落としを発見した。以下にはそれらを補って修正版とした(2019年5月17日修正)。修正、追加した箇所を青字で記している。
 
追記(7月24日付)
  森田の日記を更に繰返して点検したところ、宇佐の来訪についての記載を、3ヵ所見落としていた。それらを、遅まきながら緑色の字で追加記入する。
 

――――――― ◇ ―――――――

 
【大正7年】
 
・ 六月九日(日)
      夜宇佐君来ル
・ 九月十一日(水)
      宇佐美君来ル
・ 九月二十二日(日)
      夜ハ池上、宇佐君来リ晩酌ヲ共ニス
・ 十月三十一日(木)
      午前病院ニ宇佐君、池上君来リ患者診察ノ稽古ヲナス
・ 十一月八日(金)
      夜佐藤君及宇佐君見舞ニ来ル
 
 
【大正八年】
 
・ 五月三日(土)
      宇佐君林君、病院ニ来リ精神病研究ノ指導ヲナス、宇佐君ト共ニ帰リ…
・ 五月六日(火)
      午後宇佐君ト同道、高木兼二〇ノ葬場ニ行ク、
・ 五月十七日(土)
      後藤君ト共ニ庭掃除ナドナス、宇佐君来ル
・ 五月十九日(月)
      夜ハ病院相談会、九時半帰ル、宇佐君催眠術稽古ノ為来リシモ後藤不在ニテ目的ヲ達セズシテ帰ル
・ 五月二十日(火)
      午後久亥、後藤君、宇佐君ト共ニ畜産博覧会ニ行ク、…
       宇佐君石原ト共ニ晩餐ヲナス、宇佐君ハ後藤君ニ就テ催眠術ノ演習ヲナス
・ 五月二十二日(木)
      宇佐君来リ共ニ晩酌ヲナシ十時就床、
・ 七月四日(金)
      慈恵院講義、夕方宇佐君ト共ニ病院ヨリ帰リ晩餐ヲ共ニス、
・ 九月八日(月)
      夜石島君、永松、宇佐君来ル、
・ 九月十一日(木)
      夜ハ正一、誕生日ニテ宮崎老夫人ヲ招キ、宇佐君モ来リ小宴ヲナス

  夜中村氏ヨリ化物屋敷ノ貸家アリトノ電話アリ、宇佐清水君ト共ニ之ヲ借ラントテ吉祥寺前ノ家主ニ行キシモ已ニ借人アリタリトノ事ナリ、化物ハ今日昔借リ来リタル一婦人ト四才女児ト一泊シテ〇〇或モノニ驚キ叫ビタルヨリ隣人ノ噂トナリ其人ハ翌日直チニ転居シタルヨリ終ニ新聞(二六)ニ出テ…小児ハ吐血シテ死シタリナド誇張サレアリタリトイフ、

・ 九月十三日(土)
      夕方宇佐君ノタメニ同君ト共ニ大学ニ三宅君ヲ訪ヒ宇佐君松沢病院医員トナル事ニ付キ相談ス、
・ 九月十九日(金)
      午後宇佐君ト共ニ大学ニ三宅君ヲ訪ヒ宇佐君ノ事ヲ依頼ス、
・ 九月二十九日(月)
      宇佐君病院ニ転居シ来ル
・ 十月二日(木)
      夕方宇佐君来ル
 
 
【大正九年】
 
・ 四月十日(土)
      宇佐君来ル
・ 五月五日(水)

  宇佐君来リ三宅君ノ伝言アリ、余若シ病ノタメ慈恵ノ講義ノ困難ナラバ、一時、代リ講義シテモヨケレド、Kl.ハ呉先生洋行ノタメ三宅君ガ其代リヲナストイフ、三宅君ハ之ヲ好マズトイフ、余ハ以前ヨリ自ラKl.ヲナサン事希望スル処ナリ、

・ 七月二十日(火)
      宇佐君根岸君来リ共ニ晩餐ヲナス、
・ 十二月十一日(土)
      夜ハ児玉、宇佐君ヲ招待シ岩田、中西、木村、根岸君ヲ招キ晩餐会ヲナシ、同病相喜ブ会トナス
・ 十二月二十六日(日)
      朝掃除ナドナス、宇佐君来ル
 
 
【大正十年】
 
・ 二月二十五日(金)
      宇佐君来テ藤原、重野君ト晩餐ヲ共ニス
・ 五月十日(火)
      中村、川崎、宇佐君来ル
・ 六月二日(木)
      夕方、宇佐中里実君〇、晩餐を饗す
・ 六月十五日(水)
      宇佐君来リ病室ノ設計ヲナス

 

――――――― ◇ ―――――――

 
〔注記〕
1. 大正7年日に、まだ学生だった宇佐は、夜森田家を訪れている。これがおそらく宇佐についての最初の記載だが、記載が簡潔なので、これが個人的交流の初回だとは思えない
2.大正7年9月11日には、「宇佐美君来ル」と記されており、おそらく「宇佐君」の誤記だろうが、まだ十分に名前を記憶してもらっていなかったところを見ると、交流が始まったのは、この大正7年からであろうと思われる。
3. 大正8年、宇佐は医師になり、ますます森田との交流を深めている。森田家を訪れて、晩餐を饗されたり、晩酌の相手をしたり、森田と森田夫人と共に出かけたり、森田の息子、正一郎の誕生日の宴に参加したり。また森田家へ、催眠術の練習に行っている。
4. 大正8年は、森田が神経質の特殊療法を始めた年なのに、森田と宇佐がその療法を話題にした記録は日記にはない。
5. 同年9月、森田は、宇佐が松沢病院の医員になれるように、本人を同伴して大学の三宅助教授に依頼に行っている。そのおかげで、宇佐は松沢病院に医員として入った模様。身分は不明。
6. 奇妙なことに、それ以後、宇佐は1年間以上森田日記にあまり登場しない。松沢病院に通うことになったためか、わからない。宇佐の生活に変化が起った可能性もある。森田の療法を一旦静観する姿勢を取った可能性もある。
7. 大正9年12月11日に、児玉昌医師と共に森田家に招かれ、森田の療法を受けた患者さんたちも同席して開かれた晩餐会に参加している。以後宇佐は、大正10年夏に東京を去るまで、森田の療法を学んだものと思われる。ただし、どのように熱心に学んだかは、森田の日記からは読み取れない。
8. 野村章恒は、森田の日記に、宇佐が大正10年の「六月には、病院の設計図を持参して、その計画の批評を仰いでいることが書かれている」と記しているが、日記を見ると、6月15日に「宇佐君来リ病室ノ設計ヲナス」とあり、病院の設計図を持参したのではない。

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