森田正馬の日記に見る宇佐玄雄との出会い―「森田療法創始百年か」<その三>の追加資料―

2019/04/27


慈恵医専の学生時代の宇佐玄雄。医専附属病院にあたる私立東京病院(森田は日記に慈恵院病院と書いている)での、ポリクリ風景で、診察医は内科教授らしい。 右から2人目、立っている人物が宇佐玄雄である。



 

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     森田正馬の日記に見る宇佐玄雄との出会い
                 ―「森田療法創始百年か」<その三>の追加資料―

 
  去る4月5日付けの原稿、「2019年の今年は『森田療法創始百年か』<その三>」の原稿内容は、森田正馬の日記を根拠の一部としています。ところが、この稿をアップロードした後に、森田の日記を改めて精細に見直した結果、宇佐玄雄との交流について記されている箇所が意外に多くあり、少なからず見落としていたことが判明しました。
  そこで参考までに、宇佐玄雄が慈恵医専に学び、さらに卒業後も2年余りまで、東京に滞在していた時期の、森田と宇佐の交流について、森田の日記に出ている記録のすべてを抜粋して、以下に掲げておきます。
  また、見落としていた日記の箇所を読んだことで、上記の<その三>の原稿(4月5日アップロード)の内容を修正する必要がおのずから生じました。そこで、その原稿を4月5日に据え置いたままで、修正箇所がわかるような書き方で、本日修正を加えて差し戻しました。
  ご了承下さい。
 

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  森田正馬の日記において、宇佐玄雄のことは、大正7年から大正10年までにわたって記入が見える。以下はそのすべての抜粋である。(網羅したつもりながら、なお遺漏がないとは限らない。また草書で書かれた森田の達筆の文字は判読し難く、誤読した字があるかもしれないことをお断りする。)
 
  森田正馬の日記中の宇佐玄雄についての記載を改めて確認したところ、二、三の見落としを発見した。以下にはそれらを補って修正版とした(2019年5月17日修正)。修正、追加した箇所を青字で記している。
 

――――――― ◇ ―――――――

 
【大正7年】
 
・ 六月九日(日)
      夜宇佐君来ル
・ 九月十一日(水)
      宇佐美君来ル
・ 九月二十二日(日)
      夜ハ池上、宇佐君来リ晩酌ヲ共ニス
・ 十月三十一日(木)
      午前病院ニ宇佐君、池上君来リ患者診察ノ稽古ヲナス
・ 十一月八日(金)
      夜佐藤君及宇佐君見舞ニ来ル
 
 
【大正八年】
 
・ 五月三日(土)
      宇佐君林君、病院ニ来リ精神病研究ノ指導ヲナス、宇佐君ト共ニ帰リ…
・ 五月十七日(土)
      後藤君ト共ニ庭掃除ナドナス、宇佐君来ル
・ 五月十九日(月)
      夜ハ病院相談会、九時半帰ル、宇佐君催眠術稽古ノ為来リシモ後藤不在ニテ目的ヲ達セズシテ帰ル
・ 五月二十日(火)
      午後久亥、後藤君、宇佐君ト共ニ畜産博覧会ニ行ク、…
       宇佐君石原ト共ニ晩餐ヲナス、宇佐君ハ後藤君ニ就テ催眠術ノ演習ヲナス
・ 五月二十二日(木)
      宇佐君来リ共ニ晩酌ヲナシ十時就床、
・ 七月四日(金)
      慈恵院講義、夕方宇佐君ト共ニ病院ヨリ帰リ晩餐ヲ共ニス、
・ 九月八日(月)
      夜石島君、永松、宇佐君来ル、
・ 九月十一日(木)
      夜ハ正一、誕生日ニテ宮崎老夫人ヲ招キ、宇佐君モ来リ小宴ヲナス

  夜中村氏ヨリ化物屋敷ノ貸家アリトノ電話アリ、宇佐清水君ト共ニ之ヲ借ラントテ吉祥寺前ノ家主ニ行キシモ已ニ借人アリタリトノ事ナリ、化物ハ今日昔借リ来リタル一婦人ト四才女児ト一泊シテ〇〇或モノニ驚キ叫ビタルヨリ隣人ノ噂トナリ其人ハ翌日直チニ転居シタルヨリ終ニ新聞(二六)ニ出テ…小児ハ吐血シテ死シタリナド誇張サレアリタリトイフ、

・ 九月十三日(土)
      夕方宇佐君ノタメニ同君ト共ニ大学ニ三宅君ヲ訪ヒ宇佐君松沢病院医員トナル事ニ付キ相談ス、
・ 九月十九日(金)
      午後宇佐君ト共ニ大学ニ三宅君ヲ訪ヒ宇佐君ノ事ヲ依頼ス、
・ 九月二十九日(月)
      宇佐君病院ニ転居シ来ル
・ 十月二日(木)
      夕方宇佐君来ル
 
 
【大正九年】
 
・ 四月十日(土)
      宇佐君来ル
・ 十二月十一日(土)
      夜ハ児玉、宇佐君ヲ招待シ岩田、中西、木村、根岸君ヲ招キ晩餐会ヲナシ、同病相喜ブ会トナス
・ 十二月二十六日(日)
      朝掃除ナドナス、宇佐君来ル
 
 
【大正十年】
 
・ 二月二十五日(金)
      宇佐君来テ藤原、重野君ト晩餐ヲ共ニス
・ 五月十日(火)
      中村、川崎、宇佐君来ル
・ 六月二日(木)
      夕方、宇佐中里実君〇、晩餐を饗す
・ 六月十五日(水)
      宇佐君来リ病室ノ設計ヲナス

 

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〔注記〕
1. 大正7年日に、まだ学生だった宇佐は、夜森田家を訪れている。これがおそらく宇佐についての最初の記載だが、記載が簡潔なので、これが個人的交流の初回だとは思えない
2.大正7年9月11日には、「宇佐美君来ル」と記されており、おそらく「宇佐君」の誤記だろうが、まだ十分に名前を記憶してもらっていなかったところを見ると、交流が始まったのは、この大正7年からであろうと思われる。
3. 大正8年、宇佐は医師になり、ますます森田との交流を深めている。森田家を訪れて、晩餐を饗されたり、晩酌の相手をしたり、森田と森田夫人と共に出かけたり、森田の息子、正一郎の誕生日の宴に参加したり。また森田家へ、催眠術の練習に行っている。
4. 大正8年は、森田が神経質の特殊療法を始めた年なのに、森田と宇佐がその療法を話題にした記録は日記にはない。
5. 同年9月、森田は、宇佐が松沢病院の医員になれるように、本人を同伴して大学の三宅助教授に依頼に行っている。そのおかげで、宇佐は松沢病院に医員として入った模様。身分は不明。
6. 奇妙なことに、それ以後、宇佐は1年間以上森田日記にほとんど出てこない。松沢病院に通うことになったためか、わからない。宇佐の生活に変化が起った可能性もある。
7. 大正9年12月11日に、児玉昌医師と共に森田家に招かれ、森田の療法を受けた患者さんたちも同席して開かれた晩餐会に参加している。以後宇佐は、大正10年夏に東京を去るまで、森田の療法を学んだものと思われる。ただし、どのように熱心に学んだかは、森田の日記からは読み取れない。
8. 野村章恒は、森田の日記に、宇佐が大正10年の「六月には、病院の設計図を持参して、その計画の批評を仰いでいることが書かれている」と記しているが、日記を見ると、6月15日に「宇佐君来リ病室ノ設計ヲナス」とあり、病院の設計図を持参したのではない。

2019年の今年は「森田療法創始百周年か」―森田療法考現学(5)―<補遺>

2019/04/08




 

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2019年の今年は「森田療法創始百年か」<補遺>


 
 <補遺1> 特殊療法の成績
 
  森田は、療法を成立させてから後に、治療成績をまとめた形にした最も早い発表として、次の報告を出している。
 
  「神経質に対する余の特殊療法成績」、日本之医界、第一五巻、第三九、四〇、四三号、大正十四年五月(『森田正馬全集第二巻』に収載)。
 
  ここで森田は、大正8年4月から同14年3月までの6年間に療法を施した86人を対象に、治療成績を記している。大まかなところを引用すれば、「普通神経質」では、全治57%、軽快38%、「強迫観念症」では、全治60%、軽快32%となっている。また、森田は、「『単に病を治癒するのみでなく自己の人性を治するを得た処の精神的一大転機であった』とは多くの患者の告白する所である」と述べている。さらに彼は、全治とは、症状を基準に診断するのではなく、苦楽を超越して生の欲望を追う境地のことなのであるということを指摘している。一方、治療の苦痛を恐れ、或いは不信を起こして途中退院した者が何人かあったが、その大半は意志薄弱者であり、治療成績の中に加えないとして、切り捨てている。このような入院治療の適応の問題は、森田が後世に残した課題となった。
  なお、残念ながら、絶対臥褥がどのように生かされたかについては、述べられていない。


 


 
 <補遺2> 宇佐玄雄が提案した療法名、「自覚療法」
 
  森田は療法の成績を報告した本稿の冒頭で、療法名は仮に「特殊療法」と言う名を用いるとしながら、「京都の宇佐君は『森田法による自覚療法』と称へて居る」と書いている。これより、宇佐玄雄が「自覚療法」と言う提案をしたのは、大正14年のこの報告より以前であったことがわかる。
  宇佐玄雄は、東京在留中の大正9年12月に、児玉昌博士とともに森田正馬宅に招かれている。一方で、今も御健在の御令息、宇佐晋一先生から次のようなエピソードを伺っている。
  父玄雄は、森田先生から「僕の療法を何と呼んだらいいだろう」と訊ねられて、「釈尊の開悟に匹敵すると考えて、『自覚療法』がよろしいでしょう」と答えたら、「それはよかろう」と仰った。同時にもうひとりの医員も同じ提案をしたが、森田先生は「これは宇佐君が言ったことにしておき給え」と仰った、というお話である。それはおそらく、大正9年に児玉昌博士とともに森田家を訪れたときのことであったろう。
  宇佐玄雄が「自覚療法」という療法名を提案して、森田がこれを肯定的に受けとめたことは、よく知られているが、意外に早い時期に森田と宇佐のそのやり取りがあったのである。また「自覚療法」の「自覚」については、禅に照合せねばならないと誰しも考えるので、難解で意味を測りかねるところもあったが、釈尊の「開悟」にちなんだ命名案だったと知れば、宇佐玄雄による命名の意味や、宇佐の療法観も明白に伝わってくるのである。
 

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2019年の今年は「森田療法創始百周年」か―森田療法考現学(5)― <その三>

2019/04/05


百周年

 

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2019年の今年は「森田療法創始百年か」<その三>


 
  (承前)
 
6. 宇佐玄雄の登場
 
1)東京への二度の遊学
  伊賀上野にある東福寺派の寺院、山渓寺の養子、宇佐玄雄(1886-1957)は早稲田大学文学科に学び、インド哲学を修めて帰郷後、大徳寺で修禅して得度を受けて禅僧となるも、さらに精神医学を志して、大正4年に慈恵医専に入学した。在学中には森田の講義を受講したはずであり、大正8年に慈恵医専を卒業した。そして同年より東大の呉秀三の教室に学び、先輩医師、森田正馬と改めて出会うことになる。
 
2)大正八年
  森田にとっては、大正8年は、永松婦長を自宅に同居させて治療に成功し、入院による特殊療法を進める契機に恵まれた画期的な年で、いわばセレンディピティが起こったのであったが、さらに本物の禅僧、宇佐が医師になって呉秀三の教室に入ってきたという、もうひとつの偶然も継起したのであった。
  森田はかねてより禅に関心を寄せ、明治43年に谷中の両忘会の釈宗活老師の下に参禅するなど、禅を体得して治療にも生かそうと模索していた。既述したように、明治42年には、神経衰弱について書いた雑誌原稿で、強迫観念を「桔驢橛」(原文表記のママ)に喩えて、治療には仏教家の示教を希むという本心を吐露していた。しかし結局は、催眠、説得などの試行錯誤を経て、自力で「煩悩即菩提」、「煩悶即解脱」を主眼とする療法にたどり着いたところであった。そんな折、若いが本物の禅僧が精神科医になって身近に現れたことは、頼もしいことであった。しかし、宇佐はいつから、どのようにして森田のもとに学んだのであろうか。
 
3)医師になる前後の宇佐玄雄
『人生に随順して―宇佐玄雄博士追悼録―』には、宇佐は大正8年9月30日より大正10年7月18日まで、東大医学部精神病学教室にて呉秀三教授の指導を受け、精神病学、神経病学を学んだとある。教室での身分は明記されていないが、期間が明記されているので、おそらくこれは正確な経歴である。東京では、医専の学生時代以来、漆間真学という日本通信社を創設したことで知られる人物の下で家庭教師をさせてもらい、さらに学資の提供まで受けていたが、医師になってからもさらに2年間、漆間に世話になりながら、東京に滞在したのだった。漆間を通じて社会の動きに接することができる利点もあったのであろう。
 
  ところで、森田の日記をよく調べてみると、大正7年5月3日(土)に次のような記載がある。
  「宇佐君林君病院ニ来リ精神病研究ノ指導ヲナス、宇佐君ト共ニ帰リ晩酌シ…」。
  医専で講義を受けている四年生の5月に、宇佐が個人的に森田の指導を乞いに行ったのである。おそらくこれが森田との交流の始まりである。
  この大正7年には、さらに6月、10月、11月に日記中に宇佐君の名が出てくる。
  大正8年に医専を卒業して宇佐が医師になってからも、森田の日記に5月以降、宇佐君の名がたびたび出てくる。宇佐は催眠術の演習のために森田家を訪れたり、森田夫人の久亥らと共に博覧会に出かけたり、正一郎の誕生日の宴に招かれたりしている。
  同年9月13日には、森田の日記に次のような記載がある。
  「夕方宇佐君ノタメニ同君ト共ニ大学ニ三宅君ヲ訪ヒ宇佐君松沢病院医員トナル事ニ付キ相談ス」
  同年9月19日にも次のような記載がある。
  「午後宇佐君ト共ニ大学ニ三宅君ヲ訪ヒ宇佐君ノ事ヲ依頼ス」
  9月29日には、「宇佐君病院ニ転居シ来ル」とある。
  そして10月2日に、「夕方宇佐君来ル」と記されている。森田の世話によって松沢病院の医員になれたことに対して、お礼の挨拶に行ったのであろう。その翌日の10月3日には松沢病院の開院式が行われた。
  しかし、その後宇佐はなぜか森田から遠ざかっている。大正9年4月に一度森田家に立ち寄っているが、おそらく挨拶の程度で、この年の12月に、森田から児玉昌と共に招かれるまで、長い無沙汰を続けたのだった。松沢病院にどの程度熱心に通ったのかもわからず、空白の1年2ヶ月であった。

 
4)神経衰弱
  ところで、ここまでの宇佐の人生を見ておくと、伊賀上野の山渓寺に幼くして養子に入った玄雄は、中学生以来神経衰弱に悩んでいた。転地療養のごとくに、早稲田に遊学させてもらい、卒業してもすぐに帰郷せず、東京からさらに千葉に転地療養したこともあった。ようやく帰郷して出家得度したものの、今度は医者になると言って、檀家の猛反対に合いながら、さらに医専に行かせてもらうというわがままを通したのだった。住職になりたくないという自坊への不適応と檀家との葛藤を引きずっていた宇佐は、医専を卒業して医師になった段階で、いよいよ身の振り方を決めねばならない時期に追い詰められていた。故郷を捨てるか、帰るか、迷いに悩まされていたのだった。大正8年は、宇佐にとってはそんな時期であったので、医師となった春から、晴れて森田のもとに直行して親しく学んだのかどうか、不明な部分が残されている。
 
5)進路
『人生に随順して―宇佐玄雄博士追悼録―』には、大正8年4月より慈恵医大教授森田正馬博士の指導を受けたと記載されている。しかし当時は慈恵医専であり、森田は学位を取得する以前であったのに、誤記されているから、記載内容自体の信憑性にも問題を感じざるを得ない。『禅・森田療法・京都―宇佐玄雄博士生誕百年記念講演集―』にも、玄雄のこの時期の経歴について、同じことが記されている。ただし、この後者の冊子には、玄雄は大正8年の夏に、鎌倉円覚寺管長、釈宗演老師に会いに行き、進路の相談をしたところ、老師から、山渓寺を出なさいと即座に勧められたという挿話が出ている。このお墨付きにより、開業へ向けての東福寺大本山の協力が得られることになるのである。
 
6)大いなる不覚
  こうして、進路の件は落着をみたのであった。そこで、以後はようやく森田の下に深入りして、療法の研修に一心に励むことになったかというと、そうでもない。宇佐はなお何らかの悩みを抱えていたのか、わからないところがある。
  それにしても、森田の療法に対する宇佐の不熱心や煮え切らなさは、何だったのだろう。ことによると、大正8年現在に、森田家では入院療法に成功して、神経質に対する入院による特殊療法が、一気に進められているという出来事を、重く受けとめていず、時差を置いてからその重要さを知ったのであろうか。もしそうなら、大正8年秋から大正9年秋まで、1年間油断して、森田と疎遠になっていたことは、禅僧にして医師、宇佐の大いなる不覚であったと言える。
 
7)結ばれた師弟の絆
  森田の日記には、大正9年末から宇佐の名前が出てくる。野村章恒の『森田正馬評伝』には次のように記されている。
 

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 「森田日記によると宇佐は東大精神科で研究していて、大正九年十二月十一日に、児玉昌博士とともに森田療法見学のために招かれている。また翌年六月には、病院の設計図を持参して、その計画の批評を仰いでいることが書かれている。」
  大正9年12月11日の日記そのものの写しを入手して確認したところ、次のように記されていた。
「夜ハ児玉、宇佐君ヲ招待シ岩田、中西、木村、根岸君ヲ招キ晩餐会ヲナシ、同病相喜ブ会トナス」。
 

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  大正9年12月には、森田の方からの招きを受けており、客人扱いであるから、禅僧として一目置かれたのか、医師として対等に扱われたのか、それとも同病者扱いであったのか、よくわからない。ともあれ、遅くともこの晩餐会の時点では改めて近しい間柄になっている。そして卒業後の2年間における、微妙な曲折を経て、宇佐は大正10年に東京を去り、不退転の決意を持って、翌大正11年より、東福寺内の塔頭にて三聖医院を開業したのだった。
  医専卒業後の2年間における宇佐の森田との交流の内実には、意外に不明なところがあったけれども、少なくとも、東京滞在最後の大正10年には、森田と宇佐の間に師弟の絆が深められたに違いない。そして宇佐が京都で森田の療法を継承する開業医になってから、両者の交流は互いに重要なものとなっていったのだった。
 

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7. 森田療法における仏教と禅
 
  高知で真言宗の寺院の檀家に生まれ、寺の近くで育った森田正馬は、少年時代より真言宗に慣れ親しんでいた。五高生時代には、旺盛な好奇心を発揮して仏教の書物を読み漁り、広く仏教的素養を身につけた。「是空」という雅号を使い出したのも、この時期からである。その後も仏教への関心は続き、それが神経質の療法に役立つことになった。
  森田は、神経質の病的心理の説明や療法の真髄を述べるに当たって、当初から自ら仏教的な思想や言葉で説明していた。さらに後には、宇佐玄雄に教えられた禅思想も入ってくる。そのへんを整理するために、森田が療法の初期に使用した仏教用語や禅語を、かいつまんで挙げてみる。
 
① 「桔驢橛」(正しくは「繋驢橛」)。強迫観念の病理を指して、明治42年の雑誌原稿にこれを用いた。佛語とのみ書いているが、禅語である。
② 「一波を以て一波を消さんと欲す、千波万漂交々起る」。禅語。大正8年12月刊の論文「神経質ノ療法」に。
③ 「佛教の煩悩即菩提」。上記と同じ大正8年12月の論文に。
④ 「真言宗の煩悩即菩提」。大正10年6月刊『神経質及神経衰弱症の療法』に。大乗仏教で広く言われる「煩悩即菩提」だが、ここで「真言宗の」と言い直しており、森田は真言宗に親和性を持っていたことがわかる。
⑤ 「心無罣礙」。般若心経の言葉。上記と同じ大正10年6月刊の『神経質及神経衰弱症の療法』に。
⑥ 「見惑頓断如破石、思惑難断如藕糸」。禅語。 上記と同じ大正10年6月刊の『神経質及神経衰弱症の療法』、及び大正11年1月刊『精神療法講義』に。
⑦ 「無所住心」。禅語。昭和3年刊『神経質ノ本態及療法』に。
 

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  こうして見ると、森田自身が、まず禅に通じていたこと、のみならず、真言宗の思想や般若心経など、大乗仏教にかなり深い素養があったことが窺える。
 
  ところが、宇佐と療法上の交流が始まった大正9年から10年頃からは、おそらく宇佐の影響を思わせる独特の禅語が出てくる。とくに「見惑頓断如破石、思惑難断如藕糸」がそうである。これは東福寺の円爾に学んだ禅僧、無住による鎌倉時代の仏教説話集、「雑談集」巻四に出ている一節である。東福寺派の禅僧、宇佐がよく持ち出した言葉である。「知らないための惑いは、理屈を知れば石を破ったように容易に断定できるが、思惑というものは感情が絡むので、恰も蓮の茎を折るとき糸を引いて断然と切ることが出来ないようなものだ」の意で、不安や煩悶にそのままなりきれと教えているのである。森田は早くも大正10年の著作にこれを書いているが、宇佐との交流が始まった中で教えられたとみなして、差し支えなかろう。
  この頃より以後、森田の発言や著作の中に、禅語が増加する。その大半は宇佐玄雄の影響によるものと思われる。
 
  一方、おそらく森田がみずから用いたのであろうと思われる禅語に、「無所住心」があるが、これに対して宇佐は沢庵禅師の『不動智神妙録』にある「心の置き所」にふれて、「心を何所にも置くな」と教えている。いずれも、金剛般若経の「応無所住而生其心」に基づいていて、同義語であるが、宇佐の教えの方に禅的な殺気が感じられる。このように本物の禅僧である宇佐の禅は、森田と比して微妙に異なる面もあったようだが、禅を療法の本質とする点で、両者は通じ合っていた。
 

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8. 大正10年11月の晩餐会
 
  さて、森田療法の創始あるいは成立の流れに話を戻す。
  森田の多年の苦心の末、時が至って大正8年に永松婦長の家庭的治療をきっかけに、入院による神経質の特殊療法が一気に動き出すことになった。それが効を奏したということを、森田は早速当時の著作に記してはいるが、その段階ではせっかくの治療経験を、複数の実例を生かして正確に報告していたわけではなかったのである。
  大正9年末に児玉と宇佐を自宅に招いて晩餐会をした1年後、大正10年に森田は東大の別の医師たちを晩餐会に招いて、療法について話し合っている。野村章恒(『森田正馬評伝』)には、次のように記されている。
 

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 「森田は大正十年十一月十日の日記に、東大教授(注:助教授の誤り)三宅鉱一博士と助教授杉田直樹博士を親しく自宅に招いて、森田式療法で治癒した数人の患者と一緒に晩餐をともにしながら座談会をひらいた。もちろん、このなかに両博士ともてこずった谷田部夫人の顔もまじっていたのであった。」
 

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  谷田部夫人と言えば、長年の重度の不潔恐怖が森田家での入院療法によって治癒した有名な症例である。入院の治療期限が近づいて、本人はようやく諦めのような心境になっていたが、その頃森田は、出し抜けに森田の母と共に銭湯に行かせたところ、患者は自分の体だけでなく、森田の母の背中まで流すことができたのだった。この患者は、その頃森田が治したい真剣さのあまりに、殴ったり突き飛ばしたりした相手であった。機が熟して「掛金が外れる」ような体験が起こった症例である。
  このような劇的な治癒症例を示されることが有用であることは言うまでもない。ただ、他の多くの入院例はどうだったのだろうか。また、第一期の絶対臥褥については、その実施経験が詳らかになっていない。
  したがって、晩餐会でどのような討論が交わされたのか、三宅や杉田が森田の療法をどのように評価したのか、重要なことであるが、残念ながら記録は残されていない。
  それにしても、大正8年から入院による療法を実施し続けて2年を経た時点で、座談の場で成果を示す晩餐会をもったことは、区切りとして意義あることだったと思われる。
 

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9. 森田正馬の学位論文と慈恵医大教授就任
 
  以上に記したように、「神経質に対する余の特殊療法」は開業医、森田の自宅入院の場で生まれたのであった。しかし森田は、その療法を世の研究者たちに問い、自身も療法を点検しながら、それを深めていく必要があった。
  折しも、大正10年10月に東京慈恵会医科大学の設置が認可されて、森田が精神病学を担当していた慈恵医専は、大学に昇格することになった。慈恵医科大学の誕生とともに、大学には教授たちが就任したが、そこに森田の名はなく、森田は大正14年に慈恵医大教授に就任している。このへんの事情について、野村章恒は『森田正馬評伝』に、実に曖昧模糊とした書き方をしている。これは事実を糊塗するものである。その点に注意を促すために、そのくだりを引用しておく。
 

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 「この頃、新大学令によって専門学校が大学に昇格することになって、私立東京慈恵会医学専門学校は、東京慈恵会医科大学となった。(…)森田は、もちろん教授として精神病学講座を主宰することになった。医科大学教授は、医学博士の学位のあるものという内規があったのであろうか、森田は、大正十年、「神経衰弱ノ本態」、「神経質ノ療法」(神経誌二〇巻六号)を発表した。続いて呉秀三教授在職二十五年論文集に、「神経質ノ本態及療法」として二つの論文をまとめて執筆した。」
 

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  同じ野村の本の巻末の年譜には、大正十一年一月に「母に励まされて学位論文として、『神経質の本態及療法』の執筆にかかる。」とある。
  なお、その後の経緯は、大正十二年に学位請求論文提出。大正十三年に医学博士号受領。大正十四年に慈恵医大教授に就任している。
  独自の治療の開発は、それをまとめることによって学位を取得でき、それによって文部省の審査を通過して教授に就任できるのだが、森田の場合、慈恵医専の大学昇格の時期が来ていたために、間合いの遅れが生じたのであった。このような俗なる事情が絡んでいたのである。
 
  結局、森田の療法が創始され、初期段階のものとして成立を見たのは、大正8年から大正10年の間、つまり1920年頃のことであったとみなすのが妥当ではなかろうか。
 

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10. まとめ
 
  森田正馬は、神経質者のとらわれの心理機制を禅語の「繋驢橛」に喩えて、理によって解決出来ないことを見抜き、大乗仏教(とりわけ真言宗)に学んだ「煩悩即菩提」の境地に至らしめるところに治療の要諦があると考えた。そして、模索の末に特殊療法を開発し、「煩悩即菩提」を体得する方法として、絶対臥褥を導入した。
  森田は、絶対臥褥の目的として、3項目を挙げた。その中には、臥褥と隔離によって感情が収まる、つまり「感情の法則」による「頓挫療法」の効果も含まれていた。しかし、森田は、絶対臥褥の本旨として「煩悩即菩提」を一層重視していった。森田は「煩悩則菩提」をもじって「煩悶即解脱」と言っている。
  そして、自身の療法は、絶対臥褥を原点として、煩悩になりきる体験療法と、自発的活動を伸ばす自然療法との両側面があることを示した。
  大正8年に永松婦長を自宅に同居させて以後は、系統的な入院療法を意欲的に進めて、治療効果をあげていったようである。ただし、森田は治療者として患者の後ろ盾になって、恐怖に突入させてやることを辞さなかった。
  入院の第一期としての絶対臥褥の実際の効用について、それを検証した報告は残念ながら乏しい。
  森田が入院による療法を創始、開発した頃に、奇しくも、禅僧宇佐玄雄は慈恵医専を卒業し、森田との出逢いに恵まれた。宇佐は京都で開業するが、以後2人は生涯にわたり、影響を与えあうことになった。
  森田は、大正10年に東大の医師たちを招いて、自分の療法の成果を話し合ったこともある。この療法は、大正8年から10年にかけての時期、1920年頃に、創始され、成立したとみなすのが妥当であろう。
 

(了)                    

注: 本稿を部分的に修正したことについて。
  4月5日に本稿を公開後に、森田の日記中に宇佐玄雄との交流に関わるいくつかの記述を見つけました。それに伴い、本文の内容を部分的に変更する必要が生じました。そこで、いくつかの箇所を修正し、わかりやすいように、書き直した、または書き加えた文章を青字にしています。ご了承をお願いいたします。4月27日


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2019年の今年は「森田療法創始百周年」か―森田療法考現学(5)― <その二>

2019/04/05




 

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2019年の今年は「森田療法創始百年か」<その二>


 
  (承前)
 
4. 「恐怖突入」と 「煩悶即解脱」
 
  森田は、患者の精神交互作用を打破して、「煩悩即菩提」あるいは「煩悶即解脱」の体験に導くために、あえて人為的に指示を加え、有無を言わせず恐怖に突入させる方法を用いた。これがヅボアと異なる森田一流の「説得療法」であり、「体験療法」なのであった。ヅボアは体験よりも論理を用いて神経症者の病的心理を解消させようとしたのに対して、森田は体験に重きを置き、患者に説得的に具体的方法を授けて、恐怖に直面させた。
  「恐怖破壊法」とも言い、行動療法におけるフラッディングと似ているが、「煩悶即解脱」に導くものである点で、やはり非なるものであった。したがって、森田が「体験療法」と言う場合、方法的に二重の意味があった。通院療法の段階で開発工夫していた「恐怖破壊法」と、もうひとつはもちろん、入院のとりわけ第一期の絶対臥褥において、恐怖と一体化せざるをえない体験を指していたことは言うまでもない。時系列的には前者(恐怖破壊法)が先行し、続いて入院による方法として後者ができた。
  前者、つまり相手に見合った教示を用いて「恐怖突入」をさせる方法も、症状を治すにはそれなりに手応えはあったようで、森田は入院療法を始めてからも「恐怖破壊法」を併用している。
  以下に、森田が呈示した「恐怖突入」に相当する症例の中から、「恐怖破壊法的」な治療例として、任意に3例を選んで、簡単に紹介する。
 

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  〔心悸亢進発作例〕(『神経質ノ本態及療法』大正十一年一月稿)。
  森田の恩師の某大学先生の夫人。多年、発作は夜間に多く起こって、横臥できず布団に凭れるのみ。往診をしたところ、今夜も発作が起こりそうだと言う。所謂「精神性心臓症」と診断して、次のような教示を授けた。「では今夜は最も発作の起こり易い横臥位をとり、発作を起こし、苦痛を忍びながら、発作の起こり方や経過を詳細に観察されよ。そしたら私は将来発作の起こらぬ方法を教えます」と。ところが患者は、発作を起こすことができず、朝までぐっすり眠ってしまったのだった。そこで森田は「これが体得というものです。従来は、発作を予期して、心惑い、徒らに苦痛を増大させていたのです。発作を逃れようとする卑怯をなくし、恐怖に飛び込んだので、発作はどこかへ去ってしまったのです」と説明してやったのであった。
 

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 〔胃痙攣様発作例〕(『神経質ノ本態及療法』大正十一年一月稿)。
  五十九歳女性。十年前に発病して、胃部に発作性に激痛が起こる。最近ひどくなり、朝夕にその発作がある。診察したところ、胃痙攣ではなく、ヒステリー球に近いものであった。発作への注意によって精神交互作用が起こり、予期感動から発作の起こる時刻まで定まっている。森田はこの患者を、大正10年3月に入院させた。そしてまず臥褥をさせて、次のように指示した。診察と治療のために必要だからとの口実の下に、予期の時間よりもなるべく早く、努めて発作を起こして見せなさいと。ところが、そのように命じると発作は起こらなくなってしまった。その後作業にも参加して、全治を迎えたのだった。
 

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 〔強迫観念症の例〕(『神経質及神経衰弱症の療法』第三十六例)。
  二十四歳、農家の未婚女性。十代後半より、自分が盗みをしたかのような窃盗恐怖や、火事恐怖など諸種強迫観念が起こり、家に閉じこもっていた。難治であったが、最も的確に治癒させたものである。患者は十五歳頃に呉服店で反物を新調したが、それを盗んだのではないかと気になり、箪笥にしまって着ることができず、ついには箪笥に触れることもできなくなっていた。大正10年4月より、2ヶ月の予定で入院療法を試みることにした。絶対臥褥を経て作業に移り、患者の苦痛の種となっていた衣服を国元から取り寄せさせた。入院して50日を経たある晩、突然森田は患者に、今夜この衣服を着て寝るべし、と命じた。今夜は当然徹夜の苦悶に悩むであろうが、その覚悟で忍耐しなさい、と命じた。然るに翌朝、患者は、昨夜はどうなることかと思ったが、案外何事もなく、いつの間にか眠ってしまった、と言って喜びに溢れていた。恐怖に突入して、恐怖の破壊を体験自得したのだった。掛け金が外れるような心境になったのである。その後患者は帰郷し、「気になることが出来ても、教えられた通りにやっています」と便りに書いてきた。この患者は、まもなく森田の家に来て、お手伝いとして立ち働くことになった。
 

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  以上の症例のうち、はじめの2例は発作性神経症に相当するが、いずれも予期恐怖が働いて精神交互作用が高じていたところを、暗示的とも言えるような教示の下に、恐怖に突入させ、恐怖が破壊される体験に導いている。最後の強迫観念の例では、入院して数十日を経て、もはや後に引けず、森田に身を任すほかない段階で、恐怖になりきらせ、恐怖との対立から解脱させたのである。見事に巧んだものである。森田との強い絆が治療的要因になった例でもある。退院後森田家の従業員になったのは、その証左で、転移が続いていたと言えよう。
  ここで想起するのは、雷恐怖の人に対する盤珪禅師の教えである。「驚きなばそのままにてよし、用心すればふたつになる」と盤珪は言った。恐怖は恐怖のままにして、恐怖と予期恐怖を対立させるなと盤珪は戒めたのだった。森田の場合は、わざとお膳立てをし、手の込んだ教示を用いて、意図的に恐怖に突入させているので、技法として不自然であったと言えるかもしれない。しかし、このような「恐怖破壊法」的な恐怖突入は、入院による特殊療法を始めた初期においても、療法のひとつの特徴をなしていたようである。熱意ある治療者の応援があったからこそ、患者は恐怖に突入して、「煩悩即菩提」、「煩悶即解脱」の境地に誘われたと言うことができよう。
 

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5. 家庭の不和による臥褥と「頓挫療法」について
 
  さて、入院による余の特殊療法を改めて考えるとき、今ひとつ分かりにくいのは、第一期に絶対臥褥を導入した森田の着想や意義についてである。森田がその目的として、第一)診断上の補助、第二)安静による身心の衰憊の調整、第三)精神的煩悶苦悩の根本的破壊、の三つを挙げていることはよく知られているが、それが早くも大正9年の著作(「精神療法ニ對スル着眼点ニ就テ」)に記されていることは既述した。しかし、三項目のうち、第一の診断上の補助は、これ自体が補助的な目的としか思えない。したがって第ニと第三のふたつの項目を問題にすべきであることになる。
 
  遡れば明治42年の著作において、森田は、強迫観念の病理について、その煩悶を理論を以て解脱させることは不可能であり、治療に難渋していることを告白的に記している。そしてその病理は仏教語で言うならば「繋驢橛(繋がれたる驢馬が廻り廻りて其杭にからまり動きも得ならぬ様」(禅語)に喩えられるとし、切に宗教家の示教を希うと、あからさまに書いているのである(「神経衰弱性精神病性體質」、人性、第五巻、第五-六号、明治四十ニ年五月-六月)。
  その後の仏教的禅的な展開を知る資料に乏しいけれども、催眠や説得療法を試みても効果をあげ得なかった森田が、いよいよ煩悩になりきる道を治療的に探って「絶対臥褥」に到達したのではなかろうか。禅の形に当てはめるならば、座禅を臥禅にしたものが絶対臥褥だとも言えようが、論を座禅につなぐ禅本位論は問題を狭くする。絶対臥褥という人間として原始の状態にして、「煩悩即菩提」を体得させようとしたのであろう。「煩悩即菩提」を自分は「煩悶即解脱」と言い換えるとしたところにも、森田らしさや、信念や、さらに彼自身の解脱的体験も込められたニュアンスさえ伝わってくるのである。かくして、絶対臥褥の目的の第三を理解することができる。
 
  さて、そうすると残る第二の身心の衰憊の調整という目的が宙に浮きかねない。だが、これにつながるであろう森田の断片的記述やエピソードがあるので、取り上げることにする。
 

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  帚木蓬生氏は、著書『生きる力 森田正馬15の提言』の中に、次のように書いておられる。
 
  「正馬がこの臥褥療法を思いついたのは、郷里の高知県の風習からのようです。土佐地方では昔から嫁姑の間にいざこざが起こると、どちらか一方が三、四日臥褥をする習慣があったそうです。臥褥が終わると、双方が歩み寄り、良い嫁姑の関係に戻るのです。」
 
  典拠を記しておられないので不審に思いながら、高知にそのような風習があったのかどうか、高知の森田の生家から遠くない地区にお住まいの高齢の知人らに問い合わせてみたが、そんな話は聞いたことがないとのご返事ばかりであった。ただ森田がそのようなことを言ったことはあったようで、かつて戦後に東京で森田療法に関わったご経験のある高齢の某氏の話では、そんな伝聞に接した記憶があるが、真偽はわからないままだったとのよしであった。ちなみに『形外先生言行録』には、昭和3年頃に森田の下に入院したI氏が、森田は郷里の嫁姑のいざこざでどちらかが三、四日臥褥することがよくあり、それをヒントに臥褥療法を始めた、と言っていたという回想を記しているくだりがある。
 
  嫁姑間のいざこざを臥褥で収まりをつけるというのは、高知のよく知られた風習であったかどうかはわからない。だがそれは森田の念頭にはあったようなのである。それをどのように読み解くかが問題である。そこで森田の著作を改めて読み直すと、似たような例として、家庭の不和で寝込む話が、繰り返し出てくることに気づく。
  それは、いずれも「臥褥療法」についての説明の中に出ている。異なる三つの著作のそれぞれに、同じ文章の一節が嵌め込まれているのである。その一節では、前半部分で、愛児を亡くした母親の悲痛や事業に失敗した人の煩悶に臥褥療法を応用できると述べて、引き続き次のように記述しているのである。
 

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  「よく聞く事であるが、或は家庭の不和のため、或は何か気にくはぬ事があって、一日も二日も寝込んだまま起きて来なかったといふ事がある。之は或は神経精神病性若くは変質性人格者の自然良能によるものかも知れない。即ち忿怒なり悲憤なり、總て激情は臥褥によって之を和らげる事が出来るのである。」
 
  この同じ文章が記されている著作とは、次の三つである。
・ 「精神療法ニ對スル着眼点ニ就テ(承前)」、医学中央雑誌、第三三〇号、大正九年七月。
・ 『神経質及神経衰弱症の療法』、大正十年六月。
・ 『精神療法講義』、大正十一年一月。
 
  上記の著作で、「臥褥療法」について述べられている内容は、かなり共通しており、要点はおよそ次の通りである。
  臥褥している状態では身体機能が安静になり、精神活動も平静になる。不安や苦悶に関係する刺激や機会のない環境に隔離して臥褥させると、短時間で精神的落ち着きが得られる。
  精神病で興奮状態の者を強制的に寝かせると、案外短時間で安定する。
  また自験例として、ある中学生が試験に落第して躁状態になり、絶対臥褥を命じたら、奏効した。また別の中学生で、ある事件により激しい苦悶状態になったものに対して、絶対臥褥を命じたら、数日間で著効を見た。いずれも刺激を遮断した室内で臥褥させたもので、臥褥療法は一方から見れば隔離療法である。このような絶対臥褥により、病的な、あるいは負の感動は増幅することなく、消失する。絶対臥褥は、実に「頓挫療法」と言ってもよい、と。
  この中学生の2例の経験から、自分は臥褥療法を種々の患者に生かして、効果をあげるようになった、と言う。
  このような文脈から、家庭の不和のために寝込むという話が出てくるのである。その文中に、神経精神病性若くは変質性人格者との用語が出ており、これは語弊があるが、当時森田は神経質を分類上そのように捉えていたのであった。いずれにせよ、森田は臥褥と隔離によって、「頓挫療法」と言えるほどに自然回復力が起こることを経験的に知ったのである。そのことへの着目が、入院療法の第一期を絶対臥褥としたひとつの理由になったと考えることもできよう。
  しかし、中学生2名の例や嫁姑のいざこざ後に寝込む話は、いわば対症療法的であり、森田が言った「感情の法則」だけでも説明できそうである。彼はすでに大正5年に、感情の特性について、感情は放任すれば自然に消失することや、感情は表出するに従い益々強盛になることを指摘していた(「常識に就て」、人性、第十二巻第四号、大正五年五月)。 したがって、以上の例や話が、自然療法として自発的活動を生かすこの療法の、原点になる絶対臥褥に見合ったものなのかどうか、疑わしい。
 

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  森田はつとに、入院第一期の絶対臥褥の目的として、三項目を挙げていた。この三項目は、先にふれたように、そのままではまとまりを欠いていて、わかり難い。
  ところで、昭和3年に出版された著書『神経質ノ本態及療法』における絶対臥褥についての記載を瞥見すると、従来通りに三項目が並べられているけれども、第二の心身の疲憊の調整については、感情の自然の経過による消失と説明されている。どうやら当初は、やはり感情の法則レベルの発想であったらしいことが判明する。
 
  一方、第三の精神的煩悶、苦悩の根本的破壊については、これを「本療法の眼目」と記して昇格させており、「煩悶即解脱の心境を体得せしむるにある」としている。ちなみにこの著作の原本は、大正11年に執筆された学位論文であるが、それが昭和3年に単行本として出版され、全集に収められているものである。
  ともあれ、系統的な入院療法は深い奥行きのあるもので、療法の開発後もなお、森田自身、試行錯誤を経験したであろう。療法もまた、森田と共に成長していったのである。
 
  嫁姑のいざこざと臥褥という下世話な話が、療法の絶対臥褥につながったかどうかは重要事ではなく、関係があるとすれば、感情の法則のような生理的レベルにおいてであろう。そして、森田自身、絶対臥褥の第二の目的としていた衰憊(疲憊)の調整は、相対的に重視しなくなっている。森田は自身が唱えた三項目に、まとまりがないことに気づいて多少困惑していたのかも知れない、と言ったら憶測に過ぎるだろうか。
 

(<その三>に続く)          


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2019年の今年は「森田療法創始百周年」か―森田療法考現学(5)― <その一>

2019/04/05




 

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2019年の今年は「森田療法創始百年か」<その一>


 
  森田正馬が自称した「神経質に対する余の特殊療法」、つまり森田療法は、いつ、どのようにして出来上がったのだろうか。
 
1. 森田療法の創始ということについて
 
  今から10年前、雑誌「臨床精神医学」の2009年3月号で、「森田療法の発展と課題」という特集が組まれており、その巻頭に北西憲二先生による「創始90周年を迎えた森田療法」という論文が掲載された。論文のキーワードのひとつとして、「森田療法創始90周年(the ninety anniversary of Morita therapy)」が挙げられ、本文では、冒頭に次のように記されている。
 
 「森田が試行錯誤の末に、入院森田療法という治療システムを作り上げたのが、1919年4月、46歳のときであった。今でいうパニック障害を1915年に1回の面接で治癒に導き、いち早く感情への認識と行動の関わりの重要性を見抜いた森田であったが、強迫性恐怖を呈するいわゆる対人恐怖にはほとほと手を焼いたらしい。それを臥褥から始まる治療システムによって治癒させることができたのである。この1919年を以て森田療法が創始された時期とすると、2009年はちょうど90年が経ったということになる。」
 
  明快な記載であり、これに従えば、2019年の今年は、まさに「森田療法創始百周年」にあたることになる。
 

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  しかし、歴史的に見て、入院森田療法の治療システムが1919年4月に作り上げられたのかどうかという点について、今少し検証が必要かもしれない。実際、森田療法は1919年(大正8年)に出来上がったとするのが従来より通説となってはいたが、一方で、森田が療法を創って実施を重ね、世に問うた過程があったことを視野に入れて、1919年だけに焦点化することを避ける見方もある。便宜上、1919年を“anniversary”としてもよいのだろうが、療法が出来上がったプロセスを見ることが必要である。
 
  たまたま「高良興生院・森田療法関連資料保存会」の、2019年「春の心の健康講座」の案内チラシに目をやったところ、「森田療法とは?」というコラムがあって、そこには次のように書かれている。
 「森田療法とは、西暦1920年頃、森田正馬(元・慈恵医大名誉教授)が生み出した、わが国が世界に誇るべき神経症の治療法である(以下略)。(当会パンフレット「森田療法とは」から抜粋)」。
 
  このように、歴史的視点を重んじる「保存会」(略称)では、森田療法は1920年頃に生み出されたという含みのある表記をしている。
 
  ともあれ、森田は、一朝一夕にして療法を作りえたのではなく、苦心と工夫を重ねて療法を編み出したのであった。それがいよいよ出来上がりに達していったのが、1919年(大正8年)からの数年間である。
  療法が出来上がっていったその数年間の過程について、以下に要点を見直しておきたい。
 

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2. 1919年(大正8年)のこと
 
  この年のことについて、野村章恒は『森田正馬評伝』に書いている。
 「大正八年は、正馬は四十六歳になり、精神科医として円熟期にはいった年で、自宅入院患者に対しても熱心に精神療法をほどこし、森田式神経質療法を確立した記念すべき年であった。」(以上、本文129ページ)。
  野村は、著書巻末の森田正馬の年譜においても、大正8年についてほぼ同様のことを記している。
 「神経質者の下宿通院療法を家庭入院にきりかえ、精神病恐怖、赤面恐怖、ヒポコンドリーの治験によって、神経衰弱および強迫観念の森田療法の理論と実際を確立した」と。
  いずれも、療法を確立したと記されているけれども、その断定的な表現ゆえに、かえって実証性が伝わってこない。年譜の方の記載では、治験によって確立したとしている点に、やや具体性が見えるが、不明点が残る。
 

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  さて当の森田正馬自身は、『我が家の記録』の同年4月12日のところに次のように記している。
 「此月、永松看護婦長ノ久シク神経衰弱ニ悩メルヲ余ノ家ニ静養セシメテ軽快ス。従来余ハ神経質患者ヲ近隣ニ下宿セシメテ之ヲ治療セルガ、此事アリテヨリ自宅ニ神経質ヲ治療スルノ便ヲ知リ、次第ニ入院ヲ許シ、此年十人ノ入院患者アリタリ。」
 
  以上を要するに、森田はそれまで神経質患者を近隣に下宿させて、通院療法を行っていて、十分な成果を上げてはいなかっが、大正8年4月に、神経衰弱だった巣鴨病院の永松婦長を自宅に住まわせて、家庭的療法を試みたところ、それが奏効したので、他の患者も順次自宅への入院療法に切り替えて、一定の成果を得だした、ということなのである。
  時が熟した偶然の到来であり、いわばセレンディピティが起こったのであった。ただし、永松婦長を自宅に同居させて、家事などの作業をさせたようだが、絶対臥褥から始めたかどうかはわからない。また他の患者についても、第一期から始まる構造化された入院療法を、どの程度適用したのかという問題が残る。そもそも、余の特殊療法と称した入院療法は、どのようにして創案されたものだったのか。
 

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3. 構造化された入院療法の創案と実施 ― 当時のいくつかの著作より―
 
  入院療法の創案と実施については、その当時の森田の著作から窺い知ることができる。
 
1)「神経質ノ療法」(成医会雑誌、第四五二号、大正八年十二月掲載)
 
  神経質者を自宅に入院させて、より本格的に特殊療法を開始した大正八年に、森田は早速リアルタイムで自身の療法について表記のような論文を書いている。
  これは「森田正馬全集」第一巻にも掲載されている(96-108ページ)。 入院森田療法が創案された時期に書かれたものとして重要な論文なので、この内容を以下にやや丁寧に紹介する。森田の論述の仕方に倣いつつ、要約的に述べる。
 
  まず神経質の療法は安静療法と訓練療法が根本療法であって、場合に応じて両者を選択加減するのである。それを前提として、余の考按せる特殊療法がある。
  自分は、多年種々の機会に種々の患者に応用をして、次第に療法の系統を作って、今日に至った。その方法は、一見平凡通俗で、次の通りである。
 

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  第一週(第一期)、絶対臥褥、
  第二週(第二期)、徐々に軽き作業、
  第三週(第三期)、稍重き身体的・精神的労作、
  第四週(第四期)、不規則生活による訓練、
 

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  以上であって、適応症は慢性神経衰弱症が主で、場合によっては強迫観念症にも用いる。
  この精神療法は、ヅボア(Duboisデュボア)氏の説得療法と大いに趣を異にする。ヅボア氏のように論理の力によって説破するというような困難なものではなく、事実を体験し、理屈を離れたる体得をさせるのである。フロイトのように精神分析によって原因を探るなどの手数も要さず、神経質という診断がつけばよいだけである。
 
  第一期の絶対臥褥は、単純に臥褥せしむるのみで、薬剤などの治療法を取り上げ、内部に起こってくるヒポコンドリーとか強迫観念による苦悶、不安を破壊しようとすることなく耐え忍び、経過に任せる。不快の連想に対して自らこれを破壊せんと努力することは、禅の語に「一波を以て一波を消さんと欲す、千波万漂交々起る」と言っているように、我心に我が心で対抗するようなものであるから、其の心は益々錯雑する。苦悩から逃れず、武術の奥義の「必死、必生」、兵法の「背水の陣」によって、仏教で言う「煩悩即菩提」に至る。それをもじって「煩悶即解脱」と自分は言う。神経質の患者は、苦痛を予期恐怖するから二倍の苦痛を覚え、さらにそれを恐怖すまじと煩悶するから、苦痛は三倍となる。煩悩を断ずるのでなく、煩悩の中に飛び込めば、煩悩が安楽となり解脱となる。
 
  第二期では、室外に出て外気にふれる生活をさせるが、まだ積極的に仕事を課すことはしない。活動が制限された状態に置くことで、身心の自発的活動を徴発する。モンテッソリー女史が幼児教育において、児童の自発的活動の生起を重んじたことと似ている。こうして仕事に興味が生じ、それからそれへと為さずにいられなくなる。そして第三期の本格的な作業につながっていく。
  要するに、最初は絶対臥褥により、煩悶を破壊し、次に作業療法により身心機能の自発的活動を促し、これを助長善導するという、いわゆる「自然療法」なのである。
 
  森田は、神経質に対する自分の特殊療法について、およそ以上のように説明している。彼自身、外来で説得的に治す方法を試みたけれども、あまり奏効しなかった苦労を経て、入院によるこのような特殊療法の創案に至ったのであった。
  療法の中核とも言うべき「煩悩即菩提」、「煩悶即解脱」を、入院第一期の絶対臥褥と重ね合わせているところからも、入院療法の重要性を改めて再認識させられる。
  なお、既にこの論文において、入院療法の意義や方法がかなり詳述されているが、実例は示されていない。また、自分の経験では著効を収めたと思うが、批評と教示を希望すると記している。
 

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2) 「精神療法ニ對スル著眼点ニ就テ」(医学中央雑誌、第三二九~三三〇号、大正九年七月掲載)
 
  これは森田正馬全集第一巻にも掲載されている(109-127ページ)。大正9年には、森田は年頭より反復性大腸炎の大患に罹り、病臥して、死線を越えたが、この年にこの原稿を出している。雑誌の性質もあってか、余の神経質の特殊療法については、ほとんど前著「神経質ノ療法」への参照を促していて、内容についての新たな記述は乏しい。ただ、絶対臥褥の目的として、次の三つを挙げていることは新たな記述である。すなわち診断上の補助、安静により身心の衰憊を調整すること、及び患者の精神的煩悶苦悩を根本的に破壊することである、としているのである。
 

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3)『神経質及神経衰弱症の療法』(大正十年六月刊)
 
  森田は大正9年秋より、自身の療法についてまとめる著作『神経質及神経衰弱症の療法』の執筆を開始して、翌年6月に出版した。
  この著書で森田は、2年前に書いた論文「神経質ノ療法」を下敷きにしながら、療法の趣旨や方法について、より一層、的確な記述を図っている。さらに、多くの症例を列挙していることも本書の特徴である。
  療法の「由来」については、自分は十五、六年も前より、神経質に対して催眠術と説得療法で突貫肉薄してきたけれども、うまくいかず、論理を以て感情を圧服せんとすることの矛盾を知った。そのため説得法を変化させ、絶対臥褥法を用いて著効を収めたことなどから、療法の系統を作ったのであると言う。
 
  療法の根本的意義としては、「自然療法」と「体験療法」という二つの重要な側面を示している。
  まず、「自然療法」とは、身心の自然機能を発揮させることである。療法の三期間は隔離療法として、精神の成り行きのままにして、誤想や臆断を破壊し拘泥を廃し、仏教で「心無罣礙(しんむけいげ)」(『般若心経』)と言われるような、とらわれやこだわりのない状態に置いて、身心の自然な活動を伸長させるのである。
 
  また「体験療法」は、「自然療法」と別のものではないが、とりわけ原点としての絶対臥褥の中に、「体験療法」が凝縮されている。「煩悩即菩提」、「煩悶即解脱」の体験がそうである。また森田は次のように述べている。「禅の語に『見惑頓断如破石、思惑難断如藕糸』といふ事があるが、見惑は理解で、石を破ったやうによく断定ができるが、思惑は恐れとか煩悶とか感情的のもので、之は恰も蓮の茎を折る時糸を引いて断然と断ち切る事の出来ないやうなものであるといふ意味である。」
  そして恐怖を去る方法は、恐怖を忘れ、逃れようとするのでなく、恐怖の中にそのまま飛び込むことであると言う。
  なお森田は、自分なりに説得療法の余地を残して、ヅボアは理論に重きを置くが、自分は体験に重きを置くと言い、そのような意味でも体験療法と称しているが、これについては後述する。
 
  この著作には約40例の症例が記載されている。すべてが入院療法の例とは限らず、また入院例でも、概して絶対臥褥の体験を読み取り難いといううらみを残す。
 

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4)『精神療法講義』(大正十一年一月刊)
 
  本書は精神療法全般について、主に身心同一論的立場から基礎理論を述べたもので、神経質に対する特殊療法については、わずかなページしか割いていず、新しいことは書いていない。
 
  これは大正十年に執筆されたものである。神経質に対する特殊療法は、臨床的積み重ねを課題としながら、その理論立ては、『神経質及神経衰弱症の療法』で一応のまとまりに達したものと推察される。
 

(<そのニ>に続く)          

 


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歴史は考現学である。―森田療法考現学(4)―

2019/02/21

< 最初におわび >
  「森田療法考現学」と題する文章を昨年から連載方式で掲載し始めましたが、続きを途切らせていました。書き続けたいことは多いのですが、他の記事と交錯しますので、整理をはかっているところです。
  森田療法考現学に該当する文章は今後、「研究ノート」欄に移動します。ブログ欄にも出す方がよいと判断する場合のみ、ブログ欄にも併載します。今回からのいくつかは、併載を予定する記事になります。ご了承下さい。
 

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<歴史と考現学の関係について>
  過去はひとつである。あるいは複雑であろうとも、同一のシリーズであった筈である。しかし、化石ひとつが発掘されたら歴史が変わる。化石なら化け物ではなくて、まあ確かな代物であるから、歴史を変えるかもしれない。ところが今日は、氾濫する情報によって歴史が変わる、あるいは変えられてしまう。遠慮がちに現れていた貴重な情報が、他の情報群の圧力に抑えられて再び闇に葬られる。
  最近気になっているものとして、ウィキペディアがある。たとえば、ウィキペディアの編集のしかたひとつで歴史が変わる。誤情報を出すのは可能だし、出さなくても、瑣末な情報でいっぱいにすれば、貴重な情報は出る余地を失う。
  もともと情報の少なかった史実については、それをどう読みとるかによって歴史が大きく変わる。低次元の意図的な書き替えや読み替えばかりを言っているのではない。歴史をどう読み、どう書くかは、現代人の慎重で柔軟な良識にかかっている。
  歴史とは考現学である。考現学のフィルターを経ずして、歴史を捉え得ない。
 
  以上に記したことは、とくに森田療法の分野に向けてのことではない。歴史というものに必ず含まれる考現学的要因に注意を促そうとした。
 

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  今回の記述はこれだけで打ち切り、次回より、森田療法の歴史について述べる。

2015年10月12日の記事(一部修正後)の再掲載

2018/09/13

 佛教大学での過去の講義ノートの断片が古い資料の山の中から出てきました。大学院の臨床心理学専攻の学生相手に、森田療法の講義をしていた時のものです。書いた日付は2011年1月10日、東日本大震災の3ヵ月前です。ぐうたら者の私はめったに講義ノートを作りませんでした。学生への配布資料を兼ねて、講義ノート風の文を書くことはありました。これもその種の教室内公開用の講義ノート風資料で、自分の考えをまとめて学生にも配布したものでした。
 5年近く経った今、読み返すと、修正すべき点は若干ありますが、当時考えたことの骨子は多くは今につながっていますので、稚拙な点はご容赦願うとして、そのままで本欄に掲載しておきます。

 
 

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あるがまま/禅/森田療法

 

Ⅰ.「あるがまま 」について
 
「如実知見」が原始仏教の根本思想らしい。
「 とらわれのない心で、ありのままに(あるがままに)事物を見る」
「ありのままに」「あるがままに」は、真理を発見する(悟りに至る)根本的態度であるとされる。
ここで「あるがままに」は副詞であることに注意したい。
構文にすれば、「主体が・あるがままに・対象(客体)を・知見する」ということになる。
そうすると「主客一如」になるというのである
しかし一気にそう言ってしまうと曖昧さがいくつか残る。
まず「如実」が「あるがままに」にあたるが、=「真実の通りに正しく」 ということで、英語に直訳すれば、correctly,rightly,exactlyになる。前提として、正常な認知機能が不可欠な必要条件になるであろう。
また「対象(客体)」とは「ものごと」などと言われるが、「ものごと」とは何か。これは「事実としての現象」あるいは「真実」と考えておこう。仏教の言葉では「法」dharmaにあたる。「法」とは、「あらゆる存在」、「真理」、「不変にして普遍的な真実の道理」 の事である。
次に「知見する」とは、たとえ認知機能に異常がなくても、単に「認知する」ということと同じではなかろう。それは体験を経た経験的な智恵でなくてはならない。
「あるがまま」の原点を原始仏教にさかのぼって捉え直せば、以上のようになる。そこには、受動と能動の区別はない。主体と客体の対立から始まって、(真実世界の中にいる)主体が、真実としての客体を、真実の通りに、認得する、その成り行きが「あるがまま」である。人間は「法(のり)」を超えて生きることはできない、と考えれば決定論になる。「法(のり)」の中で生かされて、自分らしく生きると考えることもできる。
わが国においては、自然(しぜん)= 自然(じねん=おのずから然る)と捉える日本人の伝統的思惟のフィルターのかかった「あるがまま」のニュアンスがある。まずは原始仏教における「あるがまま」に最も近い用語としての「如実知見」が、補足的 な解釈を必要としたが、加えて日本的な意味合いが入り、かつ大和言葉で言うところの「あるがまま」は、曖昧で日本的で含蓄がある難解な言葉である。ちなみに鈴木大拙は英語で、“as it is”と訳したのだった。シンプルで忠実な訳語かも知れないが、含蓄を伝えることに成功しているのかどうか、不明さを残す。
 

Ⅱ.「純な心」と「経験智」
 
 森田は「「常識」は感情である 」と言った。「感じから出発せよ 」とも言った。しかし、「感じ」あるいは「知」には、素朴な次元から、経験に裏打ちされた深い「知(智恵)」の次元まである。

1. 「前意識的認知」…①先験的、生来的にある心の働き。「純な心」(赤ん坊的な自然な感情)。②あまり意識しないで、日常何となく知っている事もこのレベルにあたる(浅い認知)。
 

2. 「認知」…通常、認知と言われるもの。Cognition である。しかし生来的にではなく、脳の記憶に照合せねばならないならば、それは主観の入る再生的な認知であり、厳密には、Recognitionと言う方 が正確であろう。
 

3. 「メタ認知」…認知を認知する機能であると言われる。絶えず自分の認知の適否をチェックしていること。セルフ・モニタリング。神経症的完全主義を認知と同時進行でやっているようなもの。コンピューターなら必要な機能である。
 

4. 「教訓帰納」…失敗をバネにして、反省し、工夫を加えて新たに努力する。神経質者は内省心があり、かつ向上心が強いので、このようにして前進することが可能である。しかし反省が過度になり、不安も加わって「石橋を叩いて渡れない」ほどになることもある(とらわれの悪循環)。七転び八起きが必要である。
 

5. 「経験智」(「暗黙智」)…知識や単なる認知によらない、体験の積み重ねを経て、つまり経験によって会得し身につけた、 言葉を介して伝え難いような、深い智恵のこと。理屈やマニュアルは無用のレベル。分別から脱却している境地であり、分別 に覆われて、その下に隠れていた「純な心 」が再び現れて発揮される。この場合は、経験に基づいて他者に共感できるような、厚みのある深い純な心の発露である。このような境地に至ることの大切さを森田は教えた。しかしその教え方が難しい。療法の型も必要だが、治療者が人間的に成熟していること、より正確には、一層の 成熟を目指して常に精進している人であることが、必要である。“Learning by Teaching”(教えることで学ぶ)と言われるが、治療者はそれを体現し続けねばならない。一日の長ある者としてである。
 
 

Ⅲ.禅の流れと禅の本質
 
森田療法と関係ありそうな要点のみを略記する。

1.禅の流れ
仏教の原点において、釈尊は人間の苦しみ(四苦八苦)をどうすれば救えるのかと悩んで苦行をしたが、苦を苦として、生きていくしか仕方がないと悟った。釈尊は坐禅をし続けたが、煩悩にとらわれがちな自己を みつめる修行だった(「観想」)。そして「自灯明、法灯明」(自らを拠り所とせよ、法を拠り所とせよ)と言った。
 達磨大師を介して中国に伝わった仏教(禅)は、唐代に、生き生きした日常生活の中の行住坐臥の禅として花開いた。この時代には修行者は農耕に従事し、自給 自足の集団生活をしていた。自己をみつめる「静」の面と、集団で切磋琢磨し合いながら作業をする「動」の面があって、バ ランスのとれた修行が成立し機能していたのである。しかし宋代になり、儒教が官僚と結びついたために、禅も変質を蒙るこ とになった。禅は主に、公案禅と黙照禅に分かれた。そしてわが国には、この二つの流れの禅が鎌倉時代に入ってきた。公案 禅は臨済宗として武家文化の中に流入し、黙照禅は曹洞宗として、山中の寺院と農民社会に受け入れられた。(中国では儒教 の流れの一つである王陽明の陽明学は、禅との接点を有し、言 わば「行動する禅」である「事上の錬磨」を教えた)。日本の禅は、その後明治末から大正時代にかけて、文化人が禅(臨済宗の禅)に関心を持った。インテリの間での禅ブームで、例えば 夏目漱石もそうだった。
 そのような背景の中で森田も禅に関心を持ったのである。
 

2.禅の本質
 禅という言葉そのものには意味がない。禅という言葉が神秘的なニュアンスを帯びてしまっているから困る。元は“dhyāna”という梵語が、漢音に置き換え られて、「禅那」となり、「那」が抜け落ちて「禅」となった。意味としては「静慮」だと言われる。つまり、静かに自己を みつめること、内観、観想(瞑想ではない)である。禅の課題は「己事究明」にあるとも言われるが、同じ意味合いである。 坐禅は神秘的な悟りを開くためにするものではない。自動車には定期的に車検が必要であるのと同じように、人間はときどき 坐禅をして、自分はこれでいいのかと自己点検するのだ、と山田無文老師は言ったという。分かり易い名言である。
 中国では、さらに唐代に日常生活の中で作務に励む、動的な修行も重んじ られた。王陽明の「事上の錬磨」もその流れと見てよい。静と動の緩急が共に大事である。自己と現実を如実に知見すれば、 当然必要な行動へと促される。「上求菩提」の折り返しで、人を慈しむ「下化衆生」も、思い上がった思いやりではなく、自 然な行為に過ぎない。禅は中国で大乗仏教になったが、原始仏教と違って、生活と禅がつながったので、他者との苦楽の共有を重んじるようになったのであろうし、また自己を突き詰めるほどに、自他の区別がなくなるのである(自他不二、自他一如)。
 こうして、生き尽くすのが禅の本質なのであろう。「随所に主となれば、立つ処皆真」と臨済義玄は言った。状況にしたがって、そこで主体になれば、どんなスタンスも本物である、というような意味。まず自分のアイデンティティありきではなく、状況に応じて自在に状況の主人公になる、それが「あるがままに」生きるということである。
 
 

Ⅳ.森田正馬と禅
 

 森田は当時の文化人がそうであったように、ご多分にもれず禅にかぶれた。鎌倉の円覚寺に(脚注参照)何度か参禅したほどの熱の入れようであったが、公案には透過しなかった。そのための負け惜しみの可能性があるが、彼は自分の療法は禅から出たものではない、強迫観念の治療法を見つけたら、それがたまたま禅に一致するところがあっただけであると言ったのだった。森田は東西の様々な思想を取り入れて療法を創案したので、もちろん禅一色ではないのは確かであるが、その著作を紐解けば、至る所で仏教に関する引用をしており、その多くが禅の教えについての言及である。それも、神経質のとらわれの心理や、治癒機転や、治癒した姿などを示すための、 キーワードとして禅語を持ち出している。森田は禅の影響を受けたとみなすのが自然である。
 しかし禅の思想にも様々なものがあり、森田はそのような禅のすべてを無批判に受け入れたのではなかった。
 森田は正岡子規の生き方を高く評価していた。森田は子規について次のように言っている。「運命は堪え忍ぶにおよばぬ。…堪え忍んでも忍ばなくても結局は同様である。われわれはただ運命を切り開いていくべきである。正岡子規は肺結核と脊椎カリエスで、永い年数、仰臥のままであった。そして運命を堪え忍ばずに、貧乏と苦痛とに泣いた。…それでも歌や俳句や随筆を書かずにいられなかった。…それが生活の資にもなった。子規は不幸のどん底にありながら、運命を堪え忍ばずに、実に運命を切り開いていったということはできないであろうか。これが安心立命であるまいか」。この正岡子規は「禅は平気で死ぬことだと思っていたが、禅とは平気で生きることだとわかった」と言っている。「平気」という言葉は誤解を生むが、「苦しければ苦しいままに」という意味であろう。このような病床での子規の生き方が、森田に影響を与えている。
 森田は、坐禅は「無念無想」になろうとしてするものではない、「雑念即無想」でいいのだと言った。また「煩悩即菩提」 (大乗仏教の言葉)を取り上げ、意味は同じだが自分はそれを「煩悶即解脱」と言い換えたいと言った。「悟り」についても、それは高踏的な境地ではなく、日常において「火花を散らして必死で生きていくのが、悟り」であると言い、その意味で 「治癒」と「悟り」は同じものであると捉えた。どんな状況でも「生の欲望」に乗って生きるということを重んじた。また「自然服従」(「自然に服従し境遇に従順なれ」)、あるいは「事実唯真」(「事実に非ざるは真実に非ざるなり」)と教えた。これは既成の禅語ではなく森田が独自に作って用いた言葉であり、禅の本質的なところをうまく表現している。
 心というものについては「心は万境に随って転ず、転ずる処実に能く幽なり、流れに従って性を認得すれば無喜亦無憂なり」 (『景徳伝灯録』)をよく引用して、心の流動性を指摘し、公案のごときいたずらなる精神修養を否定して、王陽明の言うような「事上の禅」あるいは「事上の錬磨」を重視した。唐代の生活に根ざした禅や王陽明の実学的な禅が、森田による神経質の療法と軌を一にするものだったったようで ある。
 
 

Ⅴ.森田療法の中に生きている禅
 

1.修行(修養)の三形態
 A.日常生活の中での修行
 禅を知らず、森田療法も知らない人でも、実際の境遇で自分の人生を必死に生きていれば、それが本物の修行であり修養である。
 

 B.禅寺での修行
 実際の生活において煩悩や苦に耐えられない人が、一念発起し、出家し師について修行する。今日では、職業として僧侶になるために出家修行する人の方が多い、しかも禅僧になろうとする人も減っていると聞く。とにかく、禅寺は俗世間から隔離された特殊な場である。超俗的で、独善的な雰囲気なきにしもあらず。修行のために人工的にしつらえられた場所である。
 

 C.入院原法の森田療法による修養的療法の体験
 上記のAが最も純粋な本物の修行であることは言うまでもないのだが、誰しもしばしば苦悩に耐えられないことがある。だからと言って、そのために出家ばかりしてはいられない。そんな人たちのために、あるいはまた神経症的に苦しんでいる人たちのために、A+Bとして創案されたのが森田療法であると言えよう。
 

2.森田療法の中にある重要な禅的要素
a) 入院においては、実際の日常的生活に近い集団生活をするようになっている。その中で切磋琢磨して自分を磨く体験を する。
b) 和して同ぜず。「たった一人の集団生活」とも言われるように、個別に孤独に自己をみつめる体験をせねばならない。
c) 人間的な指導者の存在。治療者自身が人生経験を積み、なおかつ常に精進し続けている人でなければな らない。そのような人間的な治療者との師弟関係により、患者は薫陶を受けて成長のきっかけをつかむ。
d) 時が熟すことも必要である。「大疑ありて大悟あり」、あるいは「啐啄同時」と言われるように、患者自身の悩む体験があってこそ、治療者の指導が響く。小乗的体験を経て、大乗の恩恵にあずかることができる。
 
 

Ⅵ..何をどう治すのか
 

1.いわゆる神経症を治すということについて

 森田は神経症という用語を殆ど使っていない。当時、アメリカのベアードが神経衰弱という概念を提唱し、衰弱だから休養が必要だとした。これに対して森田はドイツ精神医学の影響もあったけれど、神経質の概念を唱えて、軽度の素質だが、その上に心理的とらわれの悪循環を起こしているのだから、休養を要せず、そのまま生活に努力することが大事だとした。症状を治すことを目標にしないのである。生活に励んでいるうちに、症状を治すという主観的課題が中心にならなくなる。結果として症状は治ることがあるし、治らないこともある。それだけのことだが、症状に苦しんだ体験がむしろ人間的にプラスになる。 森田療法は、症状を 治すという小さな事より、人間性を伸ばすという大きな事をする療法である。
 森田は既に神経質は身体的精神的な生来の素質はあると言っていたのだが、最近生物学的精神医学の進歩により、強迫性障害やパニック障害は生物学的要因によることが判明して、ある程度までは薬物も効果がある。もちろん二次的心理的加工も起こるので、精神療法は必要であろう。 しかしその精神療法も、精神分析や行動療法に始まって、ナンたら療法、カンたら療法が雨後の筍(たけのこ)みたいにいっぱい出てきた。皆さん競ってやればいい。患者を症状にこだわらせるばかりである。そんな現況をみて、神経症は治さずに放っておく のが一番ではなかろうかと、考える昨今である。(ちょっとキツいことを言ってるかナ)。
 悩みの種はある方がよい。アクトアウトする人はやむを得ず介入を要するが、治そうとし過ぎている風潮(患者も治療者も)への反動がいずれそのうち起こるのではなかろうか。とにかく軽い悩みの病理は治してやらないのが一番だ。
 
 
2.人生の「苦」について

 釈迦は四苦八苦からどうしたら逃れられるかと悩んで、出家して六年間苦行をした結果、苦のままに生きていくほかないと漸く悟った。人間は死ぬものだということくらい、小学生でも頭では知っている。しかしそんなことを本当に認識するに至るには、実際に悩み苦しむ体験を経なければいけないのである。そのために禅的修行や森田療法の修養的生活があるのである。森田は「釈迦は神経質の理想的大偉人だ」と言ったけれども、正確には神経症的な症状に悩んだというより、深い実存的な苦しみを体験した人であった。このような苦悩は人生につきものである。病名にすれば、神経症、うつ病、BPD、統合失調症、PTSDなどになるだろうが、そのほか障害をもつ人の悩み、障害児者の家族の悩み、グリーフワーク、ターミナルケア、自殺予防など。このような次元で森田療法はますます重要になりつつあるのである。実際には森田療法 の専門家の側には、未だこのような認識が十分に高まっているとは言えない。現状においてはフィールドでは皆さんどんな思想で「心のケア」とやらに関わっているのだろうか。ケアという視点から言えば、心の専門家より、医療に恵まれない国や地域で、必要な医療や看護に従事する一部の人たちの努力の方が、ずっと森田療法的である。
 
 

(2011年1月10日 記)

 
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脚注)言い訳がましくなるが、この原稿を書いた時点では、森田は円覚寺に参禅したと思っていた。そのように書いておられる鈴木知準説の影響が大きい。森田は谷中の両忘会の釈宗活老師に参禅したと日記や形外会で述べているが、円覚寺参禅の可能性も残ってはいる。しかし、その事実は今のところつかめない。(2018年9月 記)

「五高出身者たちの社会教育と森田療法 ―下村湖人らの「新風土」から水谷啓二の「生活の発見」へ―」事後抄録

2018/08/28

   昨年の第35回日本森田療法学会(熊本)におけるパネルディスカッションで発表した「五高出身者たちの社会教育と森田療法 ―下村湖人らの「新風土」から水谷啓二の「生活の発見」へ―」の事後抄録が、学会雑誌4月号に掲載されていますので、以下に読んで頂けるようにしておきます。


五高出身者たちの社会教育と森田療法 ―下村湖人らの「新風土」から水谷啓二の「生活の発見」へ―

 

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『知られざる森田療法―日仏交流の軌跡―』 ― (3) スピリチュアルないたみを生きた明恵上人―

2018/07/12


明恵上人が母として慕った仏眼仏母像



 

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   鎌倉時代の戦乱の世に、幼くして両親を失って、孤児となった紀州のある子どもは、京都の神護寺に預けられました。後に高山寺の住職になる明恵上人です。天涯孤独の明恵は、釈迦を父と仰ぎ、仏眼仏母像を母と慕いつつ、絶望の日々の中で自殺未遂や、自分の耳を切り取る自傷行為などを繰り返しながら、生き抜いて、やがて慈悲に目覚め、戦乱の世の不幸な人たちを救ったのでした。人間の存在そのものの深淵に絶望を抱えている人たちは、今の時代にも多くいます。そんな存在の苦を生きること、それこそ森田療法の原点です。スピリチュアルという言葉の使い方は難しいですが、精神の表層の葛藤ではなく、存在そのものの苦を、あえて「スピリチュアルないたみ」ととらえます。そして苦を生きた明恵上人の生き方は、過去から森田療法を照らしてくれるものであったと思うのです。
   明恵上人の「あるべきやうわ」という教えも、自分を受け入れ、おのれの分を尽くして生きることを示しています。森田療法と同じなのです。
   宮澤賢治の小説『注文の多い料理店』も、苦とともに生きることを忘れがちな日本人へのアフォリズムとして引用しました。
 

スピリチュアルないたみと森田療法

『知られざる森田療法―日仏交流の軌跡―』 ―(2)森田療法とアンリ・ベルクソン(H.Bergson)の哲学の関係について―

2018/07/05




 
   本書の中の、次の稿を紹介します。
「森田療法に対するベルクソンの哲学の影響について」。
   森田療法とアンリ・ベルクソンの哲学の関係については、かなり以前に日本森田療法学会で発表したことがあります。
   その後、フランスの精神医学雑誌に原著を書き下ろして1999年に掲載しました。その内容を一部改稿し、ほぼ原文のまま邦訳して、日本語原稿にしたものが本稿です。
   その全文を、以下より読んで頂けます。
 

「森田療法に対するベルクソンの哲学の影響について」

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