2015年10月12日の記事(一部修正後)の再掲載

2018/09/13

 佛教大学での過去の講義ノートの断片が古い資料の山の中から出てきました。大学院の臨床心理学専攻の学生相手に、森田療法の講義をしていた時のものです。書いた日付は2011年1月10日、東日本大震災の3ヵ月前です。ぐうたら者の私はめったに講義ノートを作りませんでした。学生への配布資料を兼ねて、講義ノート風の文を書くことはありました。これもその種の教室内公開用の講義ノート風資料で、自分の考えをまとめて学生にも配布したものでした。
 5年近く経った今、読み返すと、修正すべき点は若干ありますが、当時考えたことの骨子は多くは今につながっていますので、稚拙な点はご容赦願うとして、そのままで本欄に掲載しておきます。

 
 

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あるがまま/禅/森田療法

 

Ⅰ.「あるがまま 」について
 
「如実知見」が原始仏教の根本思想らしい。
「 とらわれのない心で、ありのままに(あるがままに)事物を見る」
「ありのままに」「あるがままに」は、真理を発見する(悟りに至る)根本的態度であるとされる。
ここで「あるがままに」は副詞であることに注意したい。
構文にすれば、「主体が・あるがままに・対象(客体)を・知見する」ということになる。
そうすると「主客一如」になるというのである
しかし一気にそう言ってしまうと曖昧さがいくつか残る。
まず「如実」が「あるがままに」にあたるが、=「真実の通りに正しく」 ということで、英語に直訳すれば、correctly,rightly,exactlyになる。前提として、正常な認知機能が不可欠な必要条件になるであろう。
また「対象(客体)」とは「ものごと」などと言われるが、「ものごと」とは何か。これは「事実としての現象」あるいは「真実」と考えておこう。仏教の言葉では「法」dharmaにあたる。「法」とは、「あらゆる存在」、「真理」、「不変にして普遍的な真実の道理」 の事である。
次に「知見する」とは、たとえ認知機能に異常がなくても、単に「認知する」ということと同じではなかろう。それは体験を経た経験的な智恵でなくてはならない。
「あるがまま」の原点を原始仏教にさかのぼって捉え直せば、以上のようになる。そこには、受動と能動の区別はない。主体と客体の対立から始まって、(真実世界の中にいる)主体が、真実としての客体を、真実の通りに、認得する、その成り行きが「あるがまま」である。人間は「法(のり)」を超えて生きることはできない、と考えれば決定論になる。「法(のり)」の中で生かされて、自分らしく生きると考えることもできる。
わが国においては、自然(しぜん)= 自然(じねん=おのずから然る)と捉える日本人の伝統的思惟のフィルターのかかった「あるがまま」のニュアンスがある。まずは原始仏教における「あるがまま」に最も近い用語としての「如実知見」が、補足的 な解釈を必要としたが、加えて日本的な意味合いが入り、かつ大和言葉で言うところの「あるがまま」は、曖昧で日本的で含蓄がある難解な言葉である。ちなみに鈴木大拙は英語で、“as it is”と訳したのだった。シンプルで忠実な訳語かも知れないが、含蓄を伝えることに成功しているのかどうか、不明さを残す。
 

Ⅱ.「純な心」と「経験智」
 
 森田は「「常識」は感情である 」と言った。「感じから出発せよ 」とも言った。しかし、「感じ」あるいは「知」には、素朴な次元から、経験に裏打ちされた深い「知(智恵)」の次元まである。

1. 「前意識的認知」…①先験的、生来的にある心の働き。「純な心」(赤ん坊的な自然な感情)。②あまり意識しないで、日常何となく知っている事もこのレベルにあたる(浅い認知)。
 

2. 「認知」…通常、認知と言われるもの。Cognition である。しかし生来的にではなく、脳の記憶に照合せねばならないならば、それは主観の入る再生的な認知であり、厳密には、Recognitionと言う方 が正確であろう。
 

3. 「メタ認知」…認知を認知する機能であると言われる。絶えず自分の認知の適否をチェックしていること。セルフ・モニタリング。神経症的完全主義を認知と同時進行でやっているようなもの。コンピューターなら必要な機能である。
 

4. 「教訓帰納」…失敗をバネにして、反省し、工夫を加えて新たに努力する。神経質者は内省心があり、かつ向上心が強いので、このようにして前進することが可能である。しかし反省が過度になり、不安も加わって「石橋を叩いて渡れない」ほどになることもある(とらわれの悪循環)。七転び八起きが必要である。
 

5. 「経験智」(「暗黙智」)…知識や単なる認知によらない、体験の積み重ねを経て、つまり経験によって会得し身につけた、 言葉を介して伝え難いような、深い智恵のこと。理屈やマニュアルは無用のレベル。分別から脱却している境地であり、分別 に覆われて、その下に隠れていた「純な心 」が再び現れて発揮される。この場合は、経験に基づいて他者に共感できるような、厚みのある深い純な心の発露である。このような境地に至ることの大切さを森田は教えた。しかしその教え方が難しい。療法の型も必要だが、治療者が人間的に成熟していること、より正確には、一層の 成熟を目指して常に精進している人であることが、必要である。“Learning by Teaching”(教えることで学ぶ)と言われるが、治療者はそれを体現し続けねばならない。一日の長ある者としてである。
 
 

Ⅲ.禅の流れと禅の本質
 
森田療法と関係ありそうな要点のみを略記する。

1.禅の流れ
仏教の原点において、釈尊は人間の苦しみ(四苦八苦)をどうすれば救えるのかと悩んで苦行をしたが、苦を苦として、生きていくしか仕方がないと悟った。釈尊は坐禅をし続けたが、煩悩にとらわれがちな自己を みつめる修行だった(「観想」)。そして「自灯明、法灯明」(自らを拠り所とせよ、法を拠り所とせよ)と言った。
 達磨大師を介して中国に伝わった仏教(禅)は、唐代に、生き生きした日常生活の中の行住坐臥の禅として花開いた。この時代には修行者は農耕に従事し、自給 自足の集団生活をしていた。自己をみつめる「静」の面と、集団で切磋琢磨し合いながら作業をする「動」の面があって、バ ランスのとれた修行が成立し機能していたのである。しかし宋代になり、儒教が官僚と結びついたために、禅も変質を蒙るこ とになった。禅は主に、公案禅と黙照禅に分かれた。そしてわが国には、この二つの流れの禅が鎌倉時代に入ってきた。公案 禅は臨済宗として武家文化の中に流入し、黙照禅は曹洞宗として、山中の寺院と農民社会に受け入れられた。(中国では儒教 の流れの一つである王陽明の陽明学は、禅との接点を有し、言 わば「行動する禅」である「事上の錬磨」を教えた)。日本の禅は、その後明治末から大正時代にかけて、文化人が禅(臨済宗の禅)に関心を持った。インテリの間での禅ブームで、例えば 夏目漱石もそうだった。
 そのような背景の中で森田も禅に関心を持ったのである。
 

2.禅の本質
 禅という言葉そのものには意味がない。禅という言葉が神秘的なニュアンスを帯びてしまっているから困る。元は“dhyāna”という梵語が、漢音に置き換え られて、「禅那」となり、「那」が抜け落ちて「禅」となった。意味としては「静慮」だと言われる。つまり、静かに自己を みつめること、内観、観想(瞑想ではない)である。禅の課題は「己事究明」にあるとも言われるが、同じ意味合いである。 坐禅は神秘的な悟りを開くためにするものではない。自動車には定期的に車検が必要であるのと同じように、人間はときどき 坐禅をして、自分はこれでいいのかと自己点検するのだ、と山田無文老師は言ったという。分かり易い名言である。
 中国では、さらに唐代に日常生活の中で作務に励む、動的な修行も重んじ られた。王陽明の「事上の錬磨」もその流れと見てよい。静と動の緩急が共に大事である。自己と現実を如実に知見すれば、 当然必要な行動へと促される。「上求菩提」の折り返しで、人を慈しむ「下化衆生」も、思い上がった思いやりではなく、自 然な行為に過ぎない。禅は中国で大乗仏教になったが、原始仏教と違って、生活と禅がつながったので、他者との苦楽の共有を重んじるようになったのであろうし、また自己を突き詰めるほどに、自他の区別がなくなるのである(自他不二、自他一如)。
 こうして、生き尽くすのが禅の本質なのであろう。「随所に主となれば、立つ処皆真」と臨済義玄は言った。状況にしたがって、そこで主体になれば、どんなスタンスも本物である、というような意味。まず自分のアイデンティティありきではなく、状況に応じて自在に状況の主人公になる、それが「あるがままに」生きるということである。
 
 

Ⅳ.森田正馬と禅
 

 森田は当時の文化人がそうであったように、ご多分にもれず禅にかぶれた。鎌倉の円覚寺に(脚注参照)何度か参禅したほどの熱の入れようであったが、公案には透過しなかった。そのための負け惜しみの可能性があるが、彼は自分の療法は禅から出たものではない、強迫観念の治療法を見つけたら、それがたまたま禅に一致するところがあっただけであると言ったのだった。森田は東西の様々な思想を取り入れて療法を創案したので、もちろん禅一色ではないのは確かであるが、その著作を紐解けば、至る所で仏教に関する引用をしており、その多くが禅の教えについての言及である。それも、神経質のとらわれの心理や、治癒機転や、治癒した姿などを示すための、 キーワードとして禅語を持ち出している。森田は禅の影響を受けたとみなすのが自然である。
 しかし禅の思想にも様々なものがあり、森田はそのような禅のすべてを無批判に受け入れたのではなかった。
 森田は正岡子規の生き方を高く評価していた。森田は子規について次のように言っている。「運命は堪え忍ぶにおよばぬ。…堪え忍んでも忍ばなくても結局は同様である。われわれはただ運命を切り開いていくべきである。正岡子規は肺結核と脊椎カリエスで、永い年数、仰臥のままであった。そして運命を堪え忍ばずに、貧乏と苦痛とに泣いた。…それでも歌や俳句や随筆を書かずにいられなかった。…それが生活の資にもなった。子規は不幸のどん底にありながら、運命を堪え忍ばずに、実に運命を切り開いていったということはできないであろうか。これが安心立命であるまいか」。この正岡子規は「禅は平気で死ぬことだと思っていたが、禅とは平気で生きることだとわかった」と言っている。「平気」という言葉は誤解を生むが、「苦しければ苦しいままに」という意味であろう。このような病床での子規の生き方が、森田に影響を与えている。
 森田は、坐禅は「無念無想」になろうとしてするものではない、「雑念即無想」でいいのだと言った。また「煩悩即菩提」 (大乗仏教の言葉)を取り上げ、意味は同じだが自分はそれを「煩悶即解脱」と言い換えたいと言った。「悟り」についても、それは高踏的な境地ではなく、日常において「火花を散らして必死で生きていくのが、悟り」であると言い、その意味で 「治癒」と「悟り」は同じものであると捉えた。どんな状況でも「生の欲望」に乗って生きるということを重んじた。また「自然服従」(「自然に服従し境遇に従順なれ」)、あるいは「事実唯真」(「事実に非ざるは真実に非ざるなり」)と教えた。これは既成の禅語ではなく森田が独自に作って用いた言葉であり、禅の本質的なところをうまく表現している。
 心というものについては「心は万境に随って転ず、転ずる処実に能く幽なり、流れに従って性を認得すれば無喜亦無憂なり」 (『景徳伝灯録』)をよく引用して、心の流動性を指摘し、公案のごときいたずらなる精神修養を否定して、王陽明の言うような「事上の禅」あるいは「事上の錬磨」を重視した。唐代の生活に根ざした禅や王陽明の実学的な禅が、森田による神経質の療法と軌を一にするものだったったようで ある。
 
 

Ⅴ.森田療法の中に生きている禅
 

1.修行(修養)の三形態
 A.日常生活の中での修行
 禅を知らず、森田療法も知らない人でも、実際の境遇で自分の人生を必死に生きていれば、それが本物の修行であり修養である。
 

 B.禅寺での修行
 実際の生活において煩悩や苦に耐えられない人が、一念発起し、出家し師について修行する。今日では、職業として僧侶になるために出家修行する人の方が多い、しかも禅僧になろうとする人も減っていると聞く。とにかく、禅寺は俗世間から隔離された特殊な場である。超俗的で、独善的な雰囲気なきにしもあらず。修行のために人工的にしつらえられた場所である。
 

 C.入院原法の森田療法による修養的療法の体験
 上記のAが最も純粋な本物の修行であることは言うまでもないのだが、誰しもしばしば苦悩に耐えられないことがある。だからと言って、そのために出家ばかりしてはいられない。そんな人たちのために、あるいはまた神経症的に苦しんでいる人たちのために、A+Bとして創案されたのが森田療法であると言えよう。
 

2.森田療法の中にある重要な禅的要素
a) 入院においては、実際の日常的生活に近い集団生活をするようになっている。その中で切磋琢磨して自分を磨く体験を する。
b) 和して同ぜず。「たった一人の集団生活」とも言われるように、個別に孤独に自己をみつめる体験をせねばならない。
c) 人間的な指導者の存在。治療者自身が人生経験を積み、なおかつ常に精進し続けている人でなければな らない。そのような人間的な治療者との師弟関係により、患者は薫陶を受けて成長のきっかけをつかむ。
d) 時が熟すことも必要である。「大疑ありて大悟あり」、あるいは「啐啄同時」と言われるように、患者自身の悩む体験があってこそ、治療者の指導が響く。小乗的体験を経て、大乗の恩恵にあずかることができる。
 
 

Ⅵ..何をどう治すのか
 

1.いわゆる神経症を治すということについて

 森田は神経症という用語を殆ど使っていない。当時、アメリカのベアードが神経衰弱という概念を提唱し、衰弱だから休養が必要だとした。これに対して森田はドイツ精神医学の影響もあったけれど、神経質の概念を唱えて、軽度の素質だが、その上に心理的とらわれの悪循環を起こしているのだから、休養を要せず、そのまま生活に努力することが大事だとした。症状を治すことを目標にしないのである。生活に励んでいるうちに、症状を治すという主観的課題が中心にならなくなる。結果として症状は治ることがあるし、治らないこともある。それだけのことだが、症状に苦しんだ体験がむしろ人間的にプラスになる。 森田療法は、症状を 治すという小さな事より、人間性を伸ばすという大きな事をする療法である。
 森田は既に神経質は身体的精神的な生来の素質はあると言っていたのだが、最近生物学的精神医学の進歩により、強迫性障害やパニック障害は生物学的要因によることが判明して、ある程度までは薬物も効果がある。もちろん二次的心理的加工も起こるので、精神療法は必要であろう。 しかしその精神療法も、精神分析や行動療法に始まって、ナンたら療法、カンたら療法が雨後の筍(たけのこ)みたいにいっぱい出てきた。皆さん競ってやればいい。患者を症状にこだわらせるばかりである。そんな現況をみて、神経症は治さずに放っておく のが一番ではなかろうかと、考える昨今である。(ちょっとキツいことを言ってるかナ)。
 悩みの種はある方がよい。アクトアウトする人はやむを得ず介入を要するが、治そうとし過ぎている風潮(患者も治療者も)への反動がいずれそのうち起こるのではなかろうか。とにかく軽い悩みの病理は治してやらないのが一番だ。
 
 
2.人生の「苦」について

 釈迦は四苦八苦からどうしたら逃れられるかと悩んで、出家して六年間苦行をした結果、苦のままに生きていくほかないと漸く悟った。人間は死ぬものだということくらい、小学生でも頭では知っている。しかしそんなことを本当に認識するに至るには、実際に悩み苦しむ体験を経なければいけないのである。そのために禅的修行や森田療法の修養的生活があるのである。森田は「釈迦は神経質の理想的大偉人だ」と言ったけれども、正確には神経症的な症状に悩んだというより、深い実存的な苦しみを体験した人であった。このような苦悩は人生につきものである。病名にすれば、神経症、うつ病、BPD、統合失調症、PTSDなどになるだろうが、そのほか障害をもつ人の悩み、障害児者の家族の悩み、グリーフワーク、ターミナルケア、自殺予防など。このような次元で森田療法はますます重要になりつつあるのである。実際には森田療法 の専門家の側には、未だこのような認識が十分に高まっているとは言えない。現状においてはフィールドでは皆さんどんな思想で「心のケア」とやらに関わっているのだろうか。ケアという視点から言えば、心の専門家より、医療に恵まれない国や地域で、必要な医療や看護に従事する一部の人たちの努力の方が、ずっと森田療法的である。
 
 

(2011年1月10日 記)

 
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脚注)言い訳がましくなるが、この原稿を書いた時点では、森田は円覚寺に参禅したと思っていた。そのように書いておられる鈴木知準説の影響が大きい。森田は谷中の両忘会の釈宗活老師に参禅したと日記や形外会で述べているが、円覚寺参禅の可能性も残ってはいる。しかし、その事実は今のところつかめない。(2018年9月 記)

「五高出身者たちの社会教育と森田療法 ―下村湖人らの「新風土」から水谷啓二の「生活の発見」へ―」事後抄録

2018/08/28

   昨年の第35回日本森田療法学会(熊本)におけるパネルディスカッションで発表した「五高出身者たちの社会教育と森田療法 ―下村湖人らの「新風土」から水谷啓二の「生活の発見」へ―」の事後抄録が、学会雑誌4月号に掲載されていますので、以下に読んで頂けるようにしておきます。


五高出身者たちの社会教育と森田療法 ―下村湖人らの「新風土」から水谷啓二の「生活の発見」へ―

 

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『知られざる森田療法―日仏交流の軌跡―』 ― (3) スピリチュアルないたみを生きた明恵上人―

2018/07/12


明恵上人が母として慕った仏眼仏母像



 

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   鎌倉時代の戦乱の世に、幼くして両親を失って、孤児となった紀州のある子どもは、京都の神護寺に預けられました。後に高山寺の住職になる明恵上人です。天涯孤独の明恵は、釈迦を父と仰ぎ、仏眼仏母像を母と慕いつつ、絶望の日々の中で自殺未遂や、自分の耳を切り取る自傷行為などを繰り返しながら、生き抜いて、やがて慈悲に目覚め、戦乱の世の不幸な人たちを救ったのでした。人間の存在そのものの深淵に絶望を抱えている人たちは、今の時代にも多くいます。そんな存在の苦を生きること、それこそ森田療法の原点です。スピリチュアルという言葉の使い方は難しいですが、精神の表層の葛藤ではなく、存在そのものの苦を、あえて「スピリチュアルないたみ」ととらえます。そして苦を生きた明恵上人の生き方は、過去から森田療法を照らしてくれるものであったと思うのです。
   明恵上人の「あるべきやうわ」という教えも、自分を受け入れ、おのれの分を尽くして生きることを示しています。森田療法と同じなのです。
   宮澤賢治の小説『注文の多い料理店』も、苦とともに生きることを忘れがちな日本人へのアフォリズムとして引用しました。
 

スピリチュアルないたみと森田療法

『知られざる森田療法―日仏交流の軌跡―』 ―(2)森田療法とアンリ・ベルクソン(H.Bergson)の哲学の関係について―

2018/07/05




 
   本書の中の、次の稿を紹介します。
「森田療法に対するベルクソンの哲学の影響について」。
   森田療法とアンリ・ベルクソンの哲学の関係については、かなり以前に日本森田療法学会で発表したことがあります。
   その後、フランスの精神医学雑誌に原著を書き下ろして1999年に掲載しました。その内容を一部改稿し、ほぼ原文のまま邦訳して、日本語原稿にしたものが本稿です。
   その全文を、以下より読んで頂けます。
 

「森田療法に対するベルクソンの哲学の影響について」

『知られざる森田療法―日仏交流の軌跡―』 ―(1) 本書について―

2018/06/28




 
   十年ほど前(2007年)に出した『知られざる森田療法―日仏交流の軌跡―』という小著があります。
   この本の内容については、我ながら恥ずかしいものがあるため、宣伝も弁解もせずに、無言を貫いてきましたが、今になってから敢えて一言しようと思います。
   自分は、1980年代に精神分析的な心身医学を学ぶためにフランスに留学しましたが、逆にフランス人たちから日本の精神療法について問われたのでした。それが大きなきっかけになりました。その時点で既に自分は日本では三聖病院に非常勤で一定年数関わっていましたから、改めてその経験を見直しながら、折りにふれて森田療法のことをフランス人に伝える役割に、細々と断続的に従事し始めたのです。それをある程度積み重ねた段階で、フランスへ森田療法を伝えた記録を集めて、日仏両語で一冊の本にまとめて、敢えて世に晒し、日本とフランスの両国の人たちの批判を仰ごうとしたのでした。紹介活動を始めて十年以上経ったこの時点で、自分自身、過去の紹介原稿は、読むに耐えなくなっていました。しかし、そんな紹介をしてきたのも事実なので、それらを収録しています。その意味で、出版時から既に恥ずかしい代物だったのです。
   一方、出版に間近い過去において、また出版時点において、発表したり書いたりした原稿も含まれています。もちろん欠点はあるものの、それらは現在読み直しても再評価に耐えそうで、むしろお読み頂いて恥ずかしくないと思うものです。ベルクソンの哲学と森田療法の関係、スピリチュアルないたみと森田療法、神経質概念や治癒概念の見直し、などについて書いた原稿がそうなのです。恥ずかしい小著について、著者として初めて口を開くゆえんです。これらの恥ずかしくない原稿は、恥ずかしい原稿とともに埋没する運命にありそうですので、恥ずかしくない原稿の方をみずから救済して、この欄に掲げて、日の目が当たるようにしようと思います。実はそれが恥ずかしいことかも知れないのですが。

 

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   最初に、まず序文、目次、そして後記を以下に読んで頂けるようにしておきます。2007年の時点における、三聖病院の森田療法についての筆者の描写にふれて頂く資料でもあります。我ながら建て前を重んじた文章になっていますけれども。ちなみに言えば、その後、三聖病院の森田療法は、宇佐療法と呼ばれるようになります。この経緯については、説明を要しますので、別途に詳述することにして、2007年においては、三聖病院における森田療法は独特のものであっても、宇佐療法と呼ばれていなかったということのみ記しておきます。

 


序、目次、後記

「五高出身者たちの社会教育」と森田療法 ―下村湖人『新風土』から水谷啓二の『生活の発見会』へ― 」(学会発表後のスライド紹介)

2017/11/30

   第35回日本森田療法学会(熊本)において、パネルディスカッションでの発表の際に提示させていただいたスライドを、以下に掲げておきます。

 

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ここに出した写真は、下村湖人の五高生のときのものである。
 
 



   発表者は禅的森田療法で知られる三聖病院に長年勤務していたが、ここでの発見会もしくは自助グループに対する批判に触れて、これはどういうことであろうかと考えてきた。その後、短期間ながら発見会の協力医にして頂いたことがあり、それを機に発見会の歴史を調べた。そして、奇しくも五高出身の人たちが担った社会教育の流れが、水谷啓二氏に合流したことを知った。これを改めて振り返ってみることは、今日的にも重要であろうと思う。
 
 



   社会教育とは、権威のある人が民衆を教化するものではない。福沢諭吉が言ったように、人間社会から学ぶということである。学校教育制度に従属せず、そこで得られないものを求め、疎外されている人たちの教育を取り戻し、個人や民衆が自治的に自分たちを高めていくことであって、それが社会教育の運動だったのである。
 
 



   まず、田沢義鋪は、佐賀県鹿島町出身で明治38年に五高を卒業しているが、小学校に早く入学したり、五高では落第したりしており、下村湖人とほぼ同級だった人である。東大法科を出て、田舎の勤労青年の自治生活の振興に寄与し、「青年団の父」と呼ばれ、さらに「壮年団」運動も興したが、政権から圧力を受けた。平和主義者で、ヒューマニストで、行動的な人だった。教育観として、「平凡道を非凡に進め」と言った。
 
 



   学生時代のエピソードだが、五高ではボート部で酒を飲んで退学処分になり、後に復学を認められたり、大相撲常陸山一行の熊本巡業の際、幕下力士に勝ったという武勇伝があったりする。下村湖人(当時の本名は、内田虎六郎)と親しい間柄だった。東大生時代には、日露戦争後の大陸を旅行して、日本人の残忍さを見て、「海外発展?それが何だ。日本は東洋のならずものになってはならない」と旅行記に書き、国民性を矯め直す必要性を痛感した。
 
 



   主な実績。東大を出て、内務省に入り、静岡県に赴任し、安倍郡の郡長になって、そこで教育から見捨てられている田舎青年たちに会い、大正3年蓮永寺という寺で、日本最初の青年団宿泊研修を実施した。また日本各地の青年団員を呼んで、明治神宮の造営を成功させた。さらに「日本青年館」を建設して、その分館である武蔵小金井の「浴恩館」に、「青年団講習所」を開設し、下村湖人を所長に招くことになった。社会教育家の任務として政治にも参与したが、「壮年団」が軍部に取られるなどの憂き目にあった。
 
 



   下村湖人(虎六郎、とらろくろう)は、佐賀県神埼郡千歳村の内田家に次男として生まれた。五高時代の親友に高田保馬と田澤義鋪がいた。下村は、名作『次郎物語』の作者として知られる文学者であった。中学生の時に、内田夕闇のペンネームで詩を書き、中央の詩壇に名を馳せていた。しかし下村の活動はさまざまな分野にわたり、東大卒業後は、郷里佐賀県や台湾で、中学校や高等学校の教員生活を体験し、挫折も味わっている。
   さらに思想家であり社会教育家であった。以下にその活動について、見ていこうとしている。青年団員の合宿指導や、「煙仲間」運動や、雑誌「新風土」による活動があったが、その前に、活動につながった言わば下村の人生の、心の「夕闇」について触れておこう。
 
 



   幼児期に里子に出されて、実家に帰っても実母に馴染めなかった体験は『次郎物語』第一部に描かれている。青年期には、家産が傾き、一家は熊本市内で酒屋を営むも、破綻。その後一家は離散に至ることになる。五高に入学したが、学資がなく、資産家の下村家から援助を受けた。五高生だった兄がいたが、精神を病み、湖人の入学と入れ違いに退学した。東大卒業後、郷里の佐賀県や台湾にも行って、長い教員生活を送ったが、学校教育の現場で葛藤や確執を経験している。その後情報を傾けた雑誌「新風土」は、戦前、戦後の時代背景もあって、二度廃刊に追い込まれた。
   悲劇の主人公のような人生であった。
 
 



 社会教育家としてのその思想について―
   学校教育は「切り花」のようなもので、雑草のように根のついた働く青年たちの教育こそ、真の教育である。教育というものは、単に自然にしておくことではなく、人為を加えて、それを新たな自然とすることである。そのような教育観を持っていた。
   「任運騰々」という良寛の禅語を引き合いに出したが、それは、運命に随順して、精一杯に自分を生かす、ということで、そのまま森田療法に通じる。また、田澤と同様に、「平凡道を非凡に歩め」と言ったのだった。
   なお、五高で漢文の野々口勝太郎教授から老荘思想を学んだことが、彼の思想に影響を与えたと、高田保馬は言っている。
 
 



   下村は「煙仲間」というものを提唱した。その趣旨は難解だが、実際に全国各地にそのような仲間が結成され、今から数年前まで、そのような集団は存在した。
   「煙仲間」のルーツは、軍部に乗っ取られた田澤の「壮年団」を受けて、下村が創った“地下組織”のようなものであった。佐賀の鍋島藩の「葉隠」に出ている歌の中の言葉に因んで、「煙」と命名したもので、忠節や忍ぶことを表しており、その対象は、郷土から始まって、広い人間愛にまで及ぶ。その理念の実現のためには、集団内部のメンバーの中に、指導的に動く人がいることが必要である。下村はこれを「列伍の指導者」と称した。指導者然としていない隠れた指導者であり、上下関係のない集団の中にいる任意の指導者のことである。仲間は、形のある集団の枠を超えて、超集団的にヨコに交わり、互いに情操を高め合う。
 
 



   下村のひそみにならえば、「白鳥芦下に入る」という禅語をもじった言葉が、「列伍の指導者」に代表される仲間たちの働きを象徴的に表している。「善行に轍跡なし」という老子の言葉も、煙仲間の活動の精神に触れるところがある。
   「煙仲間」を集団論的に見ると、さしあたり一種の「準拠集団」と捉え得る。さらに厳密にその集団としての特徴の把握を試みるなら、むしろ「メタ集団」と称する方が当を得ていよう。形ある集団に対する影の集団であり、集団がより良く機能するように、下部や内部から匿名的に寄与する善玉ウィルスたちのような集団である。
 
 



   下村の「煙仲間」と連動して刊行された雑誌に「新風土」があった。下村を中心に、教育その他の分野の随筆を掲載したものであったが、戦前の「新風土」(小山書店)は、昭和19年に終刊。戦後には、下村らの同人が「新風土」を再創刊したが、長く続けることはできなかった。
 
 



   さて、先述のように、下村は田澤に招かれて、小金井にある浴恩館の青年団講習所の所長になる。昭和8年からのことで、ここにも軍部からの圧力があった。
 
 



   しかし、そんな状況の中でも、青年たちと起居を共にする合宿生活は非常に有意義なものであった。
   下村は「塾風教育」と言ったが、それは『次郎物語』第五部のモデルになっている。自分たちは愉快に生きたい、そのために忍耐して、自主的に組織を創造して、建設的な生活をしようとするものである。これは入院森田療法に通じるもので、この塾風教育は圧巻だったと思われる。
   「道場至上主義」や「修養誇大妄想狂」を批判し、日常生活の真っ只中が禅教育の道場だと言っている。
   下村自身にとっても、浴恩館での塾風教育は、教員生活後の「新規蒔き直し」の体験となり、「煙仲間」を提唱する出発点になったのだった。
 
 



   小金井市に現在も残っている浴恩館の建物。現在は小金井市によって管理されている。本年6月にここを訪問した。
 
 



   浴恩館の建物の内部には、青年団の塾風教育が行われていたときの写真が展示されていた。その展示写真を撮影して学会でスライドで提示することを許可して頂いた。
   昭和8年の合宿生活風景で、これは食事風景。
 
 



   同じく、昭和8年、青年たちが剣道をしている写真。下村自身も剣道をたしなんだ。
 
 



   次に、永杉喜輔の人と業績について。
   熊本県玉名郡出身で、五高卒業後、京大の哲学科に進んだ。京大卒業後、浴恩館の青年団講習所に研究生として入った。それまで哲学用語ばかりを乱発していた永杉は、所長の下村が黙々と便所掃除をしているのを見て、痛撃を食らったのだった。以後、下村に師事して、生涯にわたり社会教育に情熱を傾けることになった。滋賀県の社会教育課長をしていた時期があったが、戦後に、進駐軍の干渉と対立した武勇伝を残して辞職。
   昭和22年から、下村と雑誌「新風土」の再創刊に携わった。昭和24 年から群馬大学の教授となり、社会教育活動を継続した。講演活動も多い。
   下村の没後は、煙仲間運動を継承している。この人の人柄の特徴は、言行一致していて、直情径行、本当のことを言う人だとして、多くの人たちから慕われたのだった。
 
 



   「煙仲間」は永杉も関わっているので、改めてその集団の成立事情を見ておきたい。戦前における下村の提唱と関連するものとしては、下村の提唱に呼応して結成されたものと、地域の既存の活動が「煙仲間」に相当すると評価されたものとがあった。後者については、外部からはわからない地域の人たちの輪が、無数にあったであろうと推測される。そう考えると、下村による「煙仲間」の理念と名称が高尚であるけれども、事実上、あちこちの地域には、そのように機能している普通の仲間たちがいたのであろうと思われるのである。
   戦後に下村の再提唱で結成されたものもある。昭和23年、下村と出会った水谷啓二は横浜で「戸塚懇話会」を創っている。
   永杉の影響によるものとしては、静岡県で山梨通夫氏らによって結成された「煙仲間」なるものがあり、その会報は、昭和55年6月から平成23年5月(349号)まで発行された。写真は、平成20年の永杉喜輔追悼特集号である。
 
 



   下村によって命名された「煙仲間」の「煙」にはメタファーが込められているので、今一度、理解し直したい。戦後には、軍部の弾圧を避けて「忍ぶ」必要はなくなり、自由や友愛を大切にする人たちの仲間という性格の集団になった。永杉は、そのような集団の性質を「友情の組織化」と言ったのだった。
 
 



   以上の特徴をさらに言い換えるなら、「煙仲間」とは「「純な心」を持って、平凡に生きている非凡な人たちの友愛の絆」、あるいは、その人たちの友の会と理解できるのではなかろうか。
   久田邦明氏は、「煙仲間」は「組織を批判する組織」であるという意味で、「メタ組織」と捉えているが、「純な心でつながりつつ、機に臨んで純な心を効力的に発揮する、ゆるやかな集団」という意味で、「メタ集団」と捉えたいと思う。
 
 



   ここで、全体に通底する思想として、平凡と非凡を取り上げる。
   下村湖人は、まず五高時代、弱冠21歳のときに「龍南会雑誌」に「凡夫」と題する論説文を書いている。その後、昭和9年6月に、随筆を集めた著書『凡人道』を上梓しているが、この中に「凡人道」という稿があり、そこで下村は次のように述べている。「凡人の道を丹念に修めれば、偉人になれる」と。
   一方、森田正馬は、「凡人主義」と称し、昭和9年7月15日の形外会で、次のように言っている。「凡人の修養されて偉くなったのが偉人である」と。下村が『凡人道』を出版した直後のことであり、発言が非常に似通っているので、森田は下村の本を読んで、その影響を受けた可能性があると推測される。参考までに、昭和11年に森田が書いた色紙には、「偉人は凡にして、天才は奇なり」とある。
   高良武久先生による「平凡の中の非凡」という墨跡もあり、これは、下村湖人や水谷啓二の思想を取り入れて書かれたものと思われる。
 
 



   下村、永杉から水谷へという流れを、整理してみる。水谷には、療法は人間の再教育だと言った森田から既に薫陶を受けていた下地があった。そして戦後に五高時代の友人、永杉と再会し、下村との出逢いにも恵まれた。水谷にとっては、森田生活道イコール社会教育だったのであろう。水谷は横浜で「戸塚懇話会」と称する煙仲間を結成した。また「新風土」にたびたび寄稿し、連載後に本になった『草土記』に対して、下村は「非凡なる平凡」と絶賛した。
   永杉は、京大の二年の時より森田正馬の著書を読んでいたという理解者であった。
   布留武郎という、京大での永杉の友人もいて、布留は元形外会会員であり、「新風土」のグループにも入っている人物だった。
   こうして、森田の教えと下村の教えが継承されてひとつになり、「生活の発見」誌が創刊されるに至る。
 
 



   昭和32年の、「生活の発見」誌の創刊のための趣意文に水谷は、森田の教えを継ぎ、下村の教えも継いで、雑誌「新風土」の伝統を守りたいということを述べている。
   また創刊号の編集後記に、永杉は、「水谷氏を中心とした『啓心会』と、湖人先生を記念する『新風土』会の人が協力して、この雑誌を出すことになった」と記している。なお創刊号の奥付には、発行者は、水谷啓二方「生活の発見会」となっている。
 
 



   「生活の発見」の100号を記念する昭和43年12月号に、永杉は、「生活の発見」の命名の由来を記すとともに、その文を次のように結んでいる。「読者諸兄姉よ、どうか本誌を広めて下さい。(云々)日本に一灯を掲げ、一隅を照らすもの、それが「生活の発見」である。」
   これが昭和43年の時点での永杉の、この雑誌への期待であったことがわかる。
 
 



   「煙仲間」に対応する機関誌または雑誌は、「新風土」であり、「生活の発見会」に対応する機関誌は「生活の発見」であったが、それらを時期にわけて一覧で示した。
 
 



   ここで「禅的集団」も取り上げて、「煙仲間」、「禅的集団」、「生活の発見会」という各集団を比較しようと試みて、記入できるところは記入してみたが、「生活の発見会」について記入するのは、私の力の及ばないところである。
 
 



   下村が逝去した前後あたりまでを、自分の発表の領域と考えたので、それ以後の動きについては疎いものの、多少知ったことを断片的に記した。
 
 



   ここまで述べてきたことより、以上のような知見や論点が導き出された。

「森田正馬が参禅した谷中の「両忘会」と釈宗活老師について」(学会で発表したスライド紹介)

2017/11/16

   上記のテーマについて、第35回日本森田療法学会で発表したスライドに、簡単な説明も再現してつけ加えておきます。




   最初に出しています画像は、釈宗活老師の写真です。
 
 



   森田療法が成立した歴史の中で、森田の参禅の体験は重要な意味を持つと思われますが、不明な点が多いままでした。
まず、いつ、どこへ参禅したのかについては、鎌倉の円覚寺の釈宗演のもとに参禅したという説があります。森田自身は、谷中の両忘会の釈宗活老師に参禅したと、形外会で言ったり、日記に書いたりしています。また、参禅した老師の人物や参禅体験はどうであったかも、重要です。
   これらについて調べたことは、当研究所のホームページ上に、詳しく掲載しましたが、ここではそれを要約して述べます。一方、今回の抄録の提出後に新たに判明したことも追加して述べます。
 
 



   鈴木知準氏は、森田正馬が鎌倉円覚寺の釈宗演のもとに参禅したという説を、確信的に、繰り返し述べられました。『現代の森田療法』という本の中などや、また三聖病院での特別講演においても、そう語られたのでした。しかし、調べてみても、その根拠を見いだすことはできなかったので、この説の採用は保留します。
 
 



   ここに出したのは、第22回形外会での発言ですが、ここだけでなく、森田は形外会で、複数回にわたって、自分は釈宗活老師に参禅して、「父母未生以前、自己本来の面目如何」という公案をもらったけれど、公案を透過しなかった、だから自分は禅の門外漢である、ということを述べているのです。
 
 



   これは、参禅のことを記した森田の日記の抜粋です。
   「明治四十三年二月五日、藤根氏に勧められ、両忘会に入会し、云々」
「六日、谷中初音町両忘会に参じ、云々、午後2時に天龍院で釈宗活師の提唱を聴いた、云々」とあります。両忘会の場所は、谷中初音町と書いています。
 
 



   両忘会について、説明しておきます。
   明治8年、在家の人々の禅修行の必要性、つまり在家主義を説く立場から、山岡鉄舟、中江兆民らが設立し、湯島の麟祥院に今北洪川を招いたのが発祥ですが、その後一旦途絶えていました。
   明治34年、釈宗活がその再興に関わりました。
   道場は借家で、場所を点々とします。最初は根岸、さらに日暮里。宗活の渡米を挟んで、明治43年に森田が参禅した時の所在地は、谷中初音町の二丁目であったことが、ある資料から判明しました。その後、大正4年に、谷中天王寺町に建物が新築され、「択木道場」と命名されましたが、両忘会の流れは続き、釈宗活は師家として指導を続けました。そして戦後に、宗活は引退し、「人間禅教団」となって、現在に至ります。
 
 



   谷中の、初音町という町名は、旧町名で、それは台東区の旧町名の地図に出ています。山手線の日暮里駅の裏手で、赤く塗った箇所が、その二丁目です。残念ながら、当時の両忘会の位置と環境をそれ以上に確かめることはできません。
 
 



釈宗活の生い立ちですが―
   明治4年に、東京麹町の蘭方医、入澤梅民の末子として出生。本名は入澤譲四郎であった。親は、兄たちよりも、この譲四郎を医者にして、医業を継がせようとして、厳格な教育を課した。しかし、少年期に両親は相次いで死亡した。母親は、「御身の富貴栄達は望まぬ。心を磨けよ」という遺言を残した。少年は、その遺言を胸に、苦学の道を歩んだ。また様々な芸道も身につけた。20歳で、円覚寺の今北洪川老師に入門。23歳で、「一生、寺院の住職にはならない」と、自分から条件をつけて、釈宗演老師の下で、出家得度した。得度後、塔頭の帰源院の監理を任された。そして明治34年(30歳)より、東京で、在家禅の道場である両忘会の再興に当たることになったのです。

 
 




   釈宗活の面影です。左上は、少年時代、16歳の時。右上は、50歳頃(大正10年頃)。左下は、釈宗演で、右下は、釈宗活、60歳頃の姿です。
 
 



   宗活に参禅した著名人として、夏目漱石や平塚らいてうがいました。漱石は、明治27年頃、円覚寺の釈宗演に参禅した際、釈宗活が監理している塔頭の帰源院に泊めてもらい、宗活の世話になります。その体験は、小説『門』に描かれています。釈宜道という名で登場する、修行熱心で折り目正しい若い僧侶は、釈宗活がモデルになっています。
   平塚らいてうは、明治38年から39年にかけて、両忘会に熱心に参禅しましたが、41年に、森田草平と心中未遂事件を起こして世間を騒がせ、在家の禅が批判されました。森田正馬が参禅したのは、そのような時期でした。
 
 



   ところで、新たに判明したことを、少し述べます。話は、まず森田が東大に入学した頃に遡ります。明治32年に、校医から脚気と診断されて不安になり、勉強が手に着きません。その頃、父より送金が遅れて、父への当てつけで、死んでやれと、猛勉強をしたら好成績を得たという伝説的な話があります。しかし、これで症状は雲散霧消したのではありません。その後、また心悸亢進が起こり、東大内科の脚気科の、入澤達吉教授に受診して、「神経衰弱兼脚気」と診断されたのでした。脚気への恐怖が、ヒポコンドリーを生んでいた様子が推測されます。
 
 



   森田を「神経衰弱兼脚気」と診断した、この入澤達吉教授と、森田が参禅した釈宗活こと、本名入澤譲四郎は、親族であることが判明しました。二人の家系を調べているうちに、繋がっていることがわかりました。達吉教授の父と譲四郎の父はいとこで、つまり達吉と譲四郎はいとこの子同士に当たります。
 
 



   入澤一族は、江戸時代から代々医師の家系で、特に入澤家から養子に出て、池田姓になった池田謙斎は、初代の東大医学部綜理になった重要な人物で、宗活の父の従弟に当たります。入澤達吉教授は池田謙斎の甥に当たります。
 
 



   主な人物を中心に簡略化した入澤一族の家系図です。入澤家は、江戸時代の越後の庄屋で、宗活の父、梅民は江戸の蘭学医でした。一族から、池田謙斎や、入澤達吉東大教授が出ています。
 
 



   以上、あれこれ言ったことを整理します。
・ 森田は、入澤一族の達吉教授から「神経衰弱兼脚気」と診断されたが、脚気への不安によるヒポコンドリーを暗示するような診断であった。
・ 参禅した釈宗活は、代々医者の入澤一族の人。
・ 医師になる筈だった宗活は、孤児となり、禅僧になったが、医師と同様に民衆を救おうとする使命感を持ち、寺院に入らず、在家禅の指導に専念した。芸道にも秀で、誠実な人物だった。
・ 森田が参禅した時の両忘会は、谷中初音町二丁目にあったが、それ以上の詳細はなお不明。
・ 森田は公案を透過しなかったが、宗活のような人物との出逢いは、おそらく貴重な体験であったと思われる。

森田正馬が参禅した谷中の「両忘会」と釈宗活老師について(抄録)

2017/10/26

第35回日本森田療法学会(熊本)で、一般演題として表記の題目で発表する内容の抄録を以下に掲げます。
 

♥      ♥      ♥

 

森田正馬が参禅した谷中の「両忘会」と釈宗活老師について
  
【はじめに】
   森田正馬は、明治43年に東京谷中の「両忘会」の釈宗活老師の下に参禅した。日記などから明らかな事実である。森田はここで公案を透過できなかった。しかし、そのような体験は、かえって貴重なものだったかも知れない。そこで「両忘会」と、釈宗活老師について調べたので報告する。
【森田の参禅についての鈴木知準氏の説】
   釈宗活は釈宗演と混同されやすい。宗活は鎌倉円覚寺の今北洪川の下で修行をしたが、兄弟子に宗演がいて、宗演は後に円覚寺管長になった。鈴木知準氏は、森田は釈宗演老師に参禅したと再三述べられたが、文献的根拠に乏しいので、その説は留保する。
【「両忘会」とは】
   明治8年、山岡鉄舟、中江兆民らの有志が、寺院の殻を破り在家禅を振興すべく、円覚寺の今北洪川老師を東京に招いて、その指導を受ける集いを開いた。これを「両忘会」と称したのが、その発祥である。この会は一旦途絶えていたが、明治34年、釈宗活老師が「両忘会」を再興した。宗活老師は、最初は根岸に草庵をもうけ、更に日暮里で借家を利用して道場とした(この時期に平塚らいてうが参禅している)。宗活老師は明治39年から42年まで布教のため渡米し、帰国後、谷中初音町の借家で道場を再開した。森田は明治43年2月の日記に「谷中初音町両忘會ニ参シ…」と記している。なおその後、資産家が谷中の墓地近くに新たな道場を寄進して、擇木道場と命名された。これは人間禅道場として現存している。
【釈宗活老師について】
   明治3年、東京の開業医の四男として出生。11歳のとき母が病死したが、母は「御身の富貴栄達は望まぬ。心を磨けよ」と言い遺した。翌年父も逝去し、孤児となった少年は母の遺言を胸に苦学の道を歩んだ。20歳で円覚寺の今北洪川老師に入門、23歳で「一生出世や寺院に住職することを望まぬ」と条件をつけて、宗演老師の下で出家した。塔頭、帰源院の監理を命じられ、摂心に来る人たちを宿泊させ、世話をして修行を助けた。ここで座禅をした夏目漱石も、小説『門』で宗活の人物像を描いている。宗活にとって、帰源院で宿泊者たちと法の兄弟の如くに過ごした体験が、後に「両忘会」で在家禅の師家をする自然な因縁となった。宗活は優しくかつ厳しい人物で、終生寺の住職になることはなかった。昭和29年帰寂。
【結び】
   たとえ公案を透過しなくても、釈宗活老師の下への森田の参禅は、無駄な体験ではなかったと思われる。

パネルディスカッション抄録

2017/10/26

パネルディスカッションのテーマ:
「五高と生活の発見会の誕生 ―― 森田療法を支えた九州男児たち ―― 」
 
司会:藤瀬 昇先生(熊本大学保健センター教授)
報告者:比嘉 千賀先生(ひがメンタルクリニック)、岡本 重慶
 
岡本の報告の抄録を以下に掲げます。
 

   ♥      ♥      ♥

 
題目:

五高出身者たちの社会教育と森田療法

― 下村湖人らの「新風土」から水谷啓二の「生活の発見」へ ―

 
 
報告者:岡本 重慶
 
報告者所属:京都森田療法研究所
 
抄録内容
 
Ⅰ. はじめに
   戦後の昭和23年より、森田生活道の伝道者、水谷啓二は、五高出身の社会教育者、下村湖人や永杉喜輔と交流していた。水谷の五高時代の友人、永杉との再会による縁であったが、五高から社会教育の分野で重要な人物が輩出した背景があった。本報告では、3人の五高出身の社会教育者たちの活動に光を当て、それが水谷の森田療法に流れ込んだ小史を述べる。
Ⅱ. 五高出身の社会教育者たち
1.田澤義鋪(1885-1944)、明治38年五高卒、同42年東大法科卒。
   田澤は官吏となって静岡県に赴任し、そこで田舎の青年たちが教育から見捨てられている現実を見た。以来、地域で青年が啓発し合う自治生活の必要性を痛感し、日本の青年団運動に貢献して、「青年の父」と呼ばれた。その指導は「平凡道を非凡に進め」と言ったことに尽きる。彼はさらに壮年団運動を興したが、官憲の圧力を受けた。
2.下村湖人(1884-1955)、明治39年五高卒、同42年東大英文科卒。
   名作『次郎物語』は自伝的小説として知られるが、作品としては家庭教育、学校教育や青年教育のあり方を世に問うた「社会教育」の書であった。森田療法の視点からとくに注目されるのは、第五部における塾風教育である。田澤に招かれて、小金井の浴恩館(青年団講習所)の所長を務めた体験がそのまま描かれており、指導者が青年たちと起居を共にする合宿生活は、入院森田療法さながらである。修養体験を日常生活に生かすことを重んじた指導も、森田療法に等しい。また田澤の壮年団教育を受けて、情操を深める自由な集団を提唱し、「葉隠」にちなんで「煙仲間」と称した。「白鳥芦花に入る」、あるいは「任運騰騰」(良寛の禅語)と教えたが、目立たず、あるがままに生きるという意であった。田澤と同様に「平凡道を非凡に歩め」と言い、下村の思想もそこに集約された。
3. 永杉喜輔(1909-2008)、昭和6年五高卒、昭和9年京大哲学科卒。
   哲学科を出た永杉は、青年団講習所の研究生として浴恩館に入った。哲学用語を乱発していた彼は、そこで下村が黙々と便所掃除をしている姿を見て、痛撃を食らう。以後下村に師事し、社会教育に情熱を傾けた。
Ⅲ. 下村湖人の「新風土」から水谷啓二の「生活の発見」へ
   戦前の雑誌、旧「新風土」が姿を消した戦後に、下村を中心に同人が集い、群馬大学教授の永杉の編集で、昭和23年に新たに「新風土」を創刊した。「日常的任務の実践を通して念々積誠の生活を実現」する誓願を掲げた。創刊の年に水谷啓二は下村に出会って、共鳴している。下村はこの雑誌に『次郎物語 第四部』を連載したが病を得て中断し、代わって水谷が神経症の額縁商人の人生を描いた『草土記』を連載した。だが、やがて雑誌は廃刊となり、水谷は原稿を補って本にした。これを祝して下村は、主人公の生き方と作者の描写を「非凡なる平凡」として激賞した。下村の没後、水谷は「啓心会」を立ち上げ、新たな雑誌を創刊した。永杉の発案で誌名を「生活の発見」として、森田療法と社会教育の二重の意図を雑誌に込めたのであった。
Ⅳ. おわりに:「平凡の中の非凡」
   高良武久教授も墨書したこの言葉に、教育と森田療法の融合した深い人間観を見る。

擇木道場を訪ねて―森田正馬が参禅した「両忘会」と釈宗活老師のこと―

2017/07/30

1. 森田正馬の参禅
   森田正馬は、形外会の席で、自分の禅体験を述べている。
  「釈宗活師の提唱を聴き、また参禅もした。そのときに『父母未生以前、自己本来の面目如何』という公案をもらった。三度参禅したけれども、公案を通過することができなかった」、「ただ物好きの野次馬にやっただけの事である」などと言っているのである。しかも、このような挫折体験のために、「私は禅のことは知らない」とか、自分の療法は「全く禅とは関係がない」と言い出す始末となった。
   森田の参禅については、彼の時代に文化人はよく鎌倉の円覚寺の釈宗演のもとに参禅したので、釈宗活という名が釈宗演と混同されて、結局森田の参禅についての正確な事実は、今日までほとんど不明のままであった。しかし、森田の日記を見ても、明治43年に谷中初音町の「両忘会」の釈宗活老師に参禅したと、明記されている。そこまでは疑いを入れないことである。
   では、森田が通った「両忘会」とは、どんな禅道場だったのか、そして釈宗活老師とはどんな人物だったのであろうか。
   昨年12月から今年の2月頃まで、森田の参禅体験の事実を明らかにするべく、調べを続けながら、判明したことを順を追って、詳細なレポートを本欄に連載し続けた。
   調べる中で、かつて釈宗活老師を師家と仰いでいた「両忘会」の流れがあり、それを受け継いでいる「擇木(たくぼく)道場」が、谷中7丁目に現存することを知った。しかし「両忘会」や釈宗活老師について不明な点があり、その道場に連絡を取って質問を向け、責任者の師家、杉山呼龍先生から回答を頂いた。
   しかし、そのときは通信によるやり取りのみで、擇木道場をお訪ねできずにいたのだった。遅ればせながらその失礼を謝し、また「両忘会」の歴史や釈宗活老師の人物像について、さらに教えて頂ければと、去る6月下旬に擇木道場をお訪ねした。
   先の連載の際に既に明らかにできたことは、本稿では重複を避け、新たに教えて頂いたことや、擇木道場を初めて訪問した体験を、少し記しておきたい。
 
2. 両忘会、擇木道場、そして人間禅へ
   擇木道場は、山手線の日暮里駅の最寄りで、谷中の墓地と天王寺という天台宗の寺院との間に位置している。
   道場をお訪ねしたら、師家の杉山呼龍先生が快くお迎えくださった。この杉山先生と対座してお話しを伺うことができ、両忘会の歴史や釈宗活老師のことについて、種々教えて頂いた。
   明治43年に森田正馬が、師家の釈宗活老師のもとに参禅した「両忘会」は、谷中初音町(旧町名)にあった。しかし大正3年に谷中天王寺町(旧町名)に新築の建物を得て、「両忘会」はここに移転した。そして道場名を擇木(たくぼく)道場と称するようになった。それが現存するこの擇木道場の由来である。
   当時は、なお「両忘会」であったが、その後大正末に財団法人「両忘協会」、また昭和12年には宗教団体「両忘禅協会」と組織変えをして、本部は千葉県市川市の新道場に移された。これにより、擇木道場は学生の寮になっていた時期がある。昭和24年に千葉の組織は、宗教法人「人間禅」となって、全国に支部を増やし、在家禅の振興がはかられて、今日に至る。この在家者による「人間禅」が始められるまでは、釈宗活老師は千葉において、両忘禅協会の師家として参禅者の指導を続けておられた。
   擇木道場は、千葉の本部に「人間禅」が成立してから後に、「人間禅東京支部」を名乗ることとなった。ともあれ擇木道場は、かつて釈宗活老師によって長年にわたり在家者の禅指導が行われた由緒ある道場である。
   要するに、森田正馬が参禅した「両忘会」なるものは、在家禅(居士禅)として戦後に独立組織となった「人間禅」の前身で、禅の老師を指導者と仰ぎ、在家者たちが集って参禅していた、禅組織だったのである。
   最初期の「両忘会」は、山岡鉄舟、中江兆民らの有志により、寺院の殻を破り在家禅を振興しようと、明治8年に湯島の麟祥院で、鎌倉から今川洪川老師を招いて、禅を学ぶ会が開かれたのだった。しかし、洪川が辞したために会は途絶えていた。
   その後、釈宗演の命により、釈宗活が明治34年に「両忘会」を再興したのである。その頃の道場は、借家を利用して、根岸、日暮里、谷中を点々と移転したようだった。先立っての本欄の連載に記したが、森田正馬が参禅した明治43年の時点の「両忘会」の場所は、谷中初音町(旧町名)二丁目であったと推測された。だが、その環境はよくわからない。森田が「両忘会」の場をどのように捉えていたか、また釈宗活老師にどのような印象を抱いたのか。自身にとって重要な体験だったに違いないのに、公案を透過しなかったことだけをポツリと言い、「両忘会」や釈宗活老師との出会いの体験について何も述べていないのは、なぜだろうか。そのへんに不思議なものが残る。
 
3. 在家禅(居士禅)の指導者、釈宗活老師
   釈宗活の名は、釈宗演の陰に隠れて、あまり知られず、またしばしば混同されている。だが、その人柄と、人を引きつける禅の提唱、さらに絵画、鎌倉彫りの彫刻や三味線などの多彩な芸道に秀でていたことでも、玄人受けする人だったようである。若き日に宗活老師を慕って擇木道場に住み込んで座禅をしたという西山松之助氏は、自著に、浄土真宗の近角常観と禅の釈宗活は、明治・大正を代表する二大宗教家だと言われた、とまで書いている。
   夏目漱石は、円覚寺の釈宗演のもとに参禅した体験を、小説『門』にかなり詳しく書いている。宗活は宗演から塔頭の帰源院の監理を委ねられ、外部から参禅に来る人たちを宿泊させて、その世話にあたることになった。漱石の参禅はこの頃のことで、『門』では、宗活は宜道という名の若い僧侶として描かれている。
  「紹介状を貰うときに東京で聞いたところによると、この宜道という坊さんは、大変性質のいい男で、今では修業も大分出来上がっているという話だった…」、
  「この矮小な若僧は、まだ出家をしない前、ただの俗人としてここへ修業に来た時、七日の間結跏したぎり少しも動かなかったのである。」、
  「この庵を預かるようになってから、もう二年になるが、まだ本式に床を延べて、楽に足を延ばして寝たことはないと言った。冬でも着物のまま壁にもたれて坐睡するだけだと言った。」
   一方、漱石の『談話』の中の「色気を去れよ」という題の話の中では、宗活の剽軽な面が語られている。
  「明治二十六年の猫も軒端に恋する春頃であった。私も色気が出て態々相州鎌倉の円覚寺まで出掛けたことがあるよ。(…)。
   如何なる機縁か、典座寮の宗活といふ僧と仲好しになって、老婆親切に色々教えて貰った。(…)。
   其の夜宗活さんが遊びに来て、面白いものを聞かしてくれた。白隠和尚の『大道ちょぼくれ』で、大に振っている。宗活さんは口を尖らしていふ。

〔中略〕(ママ)

   宗活さんは剽軽な坊さんだと思った。」
   さらに漱石は、参禅を回想し、「禅僧宗活に対す 一句」として、次の俳句をよんでいる。
  「其許は案山子に似たる和尚かな」
   意味を判じ難い句である。
   このような漱石の描写は、参禅体験者の目から見た釈宗活像である。
   かなり以前の、両忘禅協会の時代に、釈宗活老師が自叙伝を語られたことがあり、その記録が当時の会報に掲載された。間接資料でそれに接することができた。それによると、釈宗活は、東京麹町の開業医の四男として生まれた。本名は、入沢譲四郎であった。11歳のときに母が早逝したが、臨終のときに「よく聞けよ。母は御身の富貴栄達を望まぬ。心を磨け」と言い残した。引き続き翌年に父も他界した。以後、少年は母の遺言を守って、苦学し、ストイックに生きた。今北洪川について円覚寺に入り、出家したが、一生寺の住職にはならず、在家者に禅を伝えることをおのれの使命としたのだった。
   森田正馬はこのような禅僧との貴重な出会いに恵まれながら、参禅の途中で挫折してみずから去った。
   惜しむらくは、在家者の森田が、在家者への禅指導を一筋とする、願ってもない人、釈宗活老師に巡り会いながら、その縁に反して、この老師に師事できる貴重な機会を逸してしまったのである。
   ことによると、森田は後にそれを悔やんで臍を噛んだのではなかったろうか。だから、禅について自己を卑下する言葉が、口をついて出たのではなかったろうか。ちなみに森田は、後年に釈宗活老師の禅の著書を買って読んでいるのである。
 
4. 擇木道場の現在
   谷中界隈には、古い東京の風情が残っている。昇ったり降ったりと、坂が多い。山手と下町の重なりあった雰囲気がある。山岡鉄舟が開いた全生庵も谷中にあって、安倍総理が座禅をしに行くことでも知られている。天王寺には、幸田露伴の小説のモデルになった五重塔があったが、焼失してしまって今はない。江戸時代には、このお寺で、幕府公認の富籤の興行が行われていたらしい。
   さて、その天王寺のそばにある擇木道場にお邪魔した。大正4年に、両忘会のために道場を新築寄進されたものだが、老朽化により、平成になって建物は改築されたようである。
   道場の責任者の師家、杉山呼龍先生(仰月庵杉山呼龍老居士)は、温厚な御方であった。人間禅や擇木道場の沿革、釈宗活老師のことなど、親切に教えて下さった。道場内部も見学させて頂いた。寺院で感じる、あの独特の雰囲気がないのがいい。京都では、禅と言えば禅寺、そして禅寺と言えば、連想は座禅か観光かの二択となる。二択どころか、座禅と観光の両目的で、京都にやって来る人たちもいるから、かなわない。
   人間禅の擇木道場は、当然ながら禅寺の雰囲気に包まれていないし、観光とも無縁である。それだけで十分に無駄がなく、したがって禅の本質が問われることだろうと思う。日常生活との間に敷居のない、そんな禅道場を初めて見学させて頂くことができて、大変印象深かった。
   杉山呼龍先生のほかに、もうお一方、笠倉玉渓先生(慧日庵笠倉玉渓老禅子)にも、お目にかかることができた。禅の知識と経験に富んでおられる上、聡明で気品のある女性の指導者でいらっしゃる。笠倉先生は、人間禅の特命布教師に任命されて、各地で講演をなさっている。また、「禅フロンティア 日本文化研修道場」(本部は、擇木道場)の代表もつとめておられる。
   擇木道場では、摂心会をはじめ、座禅会、勉強会、講演会など、さまざまな行事が開催されている。音楽のライブと座禅が、コラボでおこなわれたこともある。
 「人間禅 擇木(たくぼく)道場」のホームページを開けば、さまざまな情報が満載されている。

 

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後記:本稿は、2016年12月8日から2017年2月17日にかけてブログ欄に連載した記事、「森田正馬は鎌倉円覚寺に参禅したか」の続編である。また本稿の内容は、(第4章を除き)「研究ノート」に相当するので、「研究ノート」欄にも掲載する。これらの内容は別途に発表を予定しており、ここでは発表に先立ち、ルポルタージュ風に紹介した。

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