擇木道場を訪ねて―森田正馬が参禅した「両忘会」と釈宗活老師のこと―

2017/07/30

1. 森田正馬の参禅
   森田正馬は、形外会の席で、自分の禅体験を述べている。
  「釈宗活師の提唱を聴き、また参禅もした。そのときに『父母未生以前、自己本来の面目如何』という公案をもらった。三度参禅したけれども、公案を通過することができなかった」、「ただ物好きの野次馬にやっただけの事である」などと言っているのである。しかも、このような挫折体験のために、「私は禅のことは知らない」とか、自分の療法は「全く禅とは関係がない」と言い出す始末となった。
   森田の参禅については、彼の時代に文化人はよく鎌倉の円覚寺の釈宗演のもとに参禅したので、釈宗活という名が釈宗演と混同されて、結局森田の参禅についての正確な事実は、今日までほとんど不明のままであった。しかし、森田の日記を見ても、明治43年に谷中初音町の「両忘会」の釈宗活老師に参禅したと、明記されている。そこまでは疑いを入れないことである。
   では、森田が通った「両忘会」とは、どんな禅道場だったのか、そして釈宗活老師とはどんな人物だったのであろうか。
   昨年12月から今年の2月頃まで、森田の参禅体験の事実を明らかにするべく、調べを続けながら、判明したことを順を追って、詳細なレポートを本欄に連載し続けた。
   調べる中で、かつて釈宗活老師を師家と仰いでいた「両忘会」の流れがあり、それを受け継いでいる「擇木(たくぼく)道場」が、谷中7丁目に現存することを知った。しかし「両忘会」や釈宗活老師について不明な点があり、その道場に連絡を取って質問を向け、責任者の師家、杉山呼龍先生から回答を頂いた。
   しかし、そのときは通信によるやり取りのみで、擇木道場をお訪ねできずにいたのだった。遅ればせながらその失礼を謝し、また「両忘会」の歴史や釈宗活老師の人物像について、さらに教えて頂ければと、去る6月下旬に擇木道場をお訪ねした。
   先の連載の際に既に明らかにできたことは、本稿では重複を避け、新たに教えて頂いたことや、擇木道場を初めて訪問した体験を、少し記しておきたい。
 
2. 両忘会、擇木道場、そして人間禅へ
   擇木道場は、山手線の日暮里駅の最寄りで、谷中の墓地と天王寺という天台宗の寺院との間に位置している。
   道場をお訪ねしたら、師家の杉山呼龍先生が快くお迎えくださった。この杉山先生と対座してお話しを伺うことができ、両忘会の歴史や釈宗活老師のことについて、種々教えて頂いた。
   明治43年に森田正馬が、師家の釈宗活老師のもとに参禅した「両忘会」は、谷中初音町(旧町名)にあった。しかし大正3年に谷中天王寺町(旧町名)に新築の建物を得て、「両忘会」はここに移転した。そして道場名を擇木(たくぼく)道場と称するようになった。それが現存するこの擇木道場の由来である。
   当時は、なお「両忘会」であったが、その後大正末に財団法人「両忘協会」、また昭和12年には宗教団体「両忘禅協会」と組織変えをして、本部は千葉県市川市の新道場に移された。これにより、擇木道場は学生の寮になっていた時期がある。昭和24年に千葉の組織は、宗教法人「人間禅」となって、全国に支部を増やし、在家禅の振興がはかられて、今日に至る。この在家者による「人間禅」が始められるまでは、釈宗活老師は千葉において、両忘禅協会の師家として参禅者の指導を続けておられた。
   擇木道場は、千葉の本部に「人間禅」が成立してから後に、「人間禅東京支部」を名乗ることとなった。ともあれ擇木道場は、かつて釈宗活老師によって長年にわたり在家者の禅指導が行われた由緒ある道場である。
   要するに、森田正馬が参禅した「両忘会」なるものは、在家禅(居士禅)として戦後に独立組織となった「人間禅」の前身で、禅の老師を指導者と仰ぎ、在家者たちが集って参禅していた、禅組織だったのである。
   最初期の「両忘会」は、山岡鉄舟、中江兆民らの有志により、寺院の殻を破り在家禅を振興しようと、明治8年に湯島の麟祥院で、鎌倉から今川洪川老師を招いて、禅を学ぶ会が開かれたのだった。しかし、洪川が辞したために会は途絶えていた。
   その後、釈宗演の命により、釈宗活が明治34年に「両忘会」を再興したのである。その頃の道場は、借家を利用して、根岸、日暮里、谷中を点々と移転したようだった。先立っての本欄の連載に記したが、森田正馬が参禅した明治43年の時点の「両忘会」の場所は、谷中初音町(旧町名)二丁目であったと推測された。だが、その環境はよくわからない。森田が「両忘会」の場をどのように捉えていたか、また釈宗活老師にどのような印象を抱いたのか。自身にとって重要な体験だったに違いないのに、公案を透過しなかったことだけをポツリと言い、「両忘会」や釈宗活老師との出会いの体験について何も述べていないのは、なぜだろうか。そのへんに不思議なものが残る。
 
3. 在家禅(居士禅)の指導者、釈宗活老師
   釈宗活の名は、釈宗演の陰に隠れて、あまり知られず、またしばしば混同されている。だが、その人柄と、人を引きつける禅の提唱、さらに絵画、鎌倉彫りの彫刻や三味線などの多彩な芸道に秀でていたことでも、玄人受けする人だったようである。若き日に宗活老師を慕って擇木道場に住み込んで座禅をしたという西山松之助氏は、自著に、浄土真宗の近角常観と禅の釈宗活は、明治・大正を代表する二大宗教家だと言われた、とまで書いている。
   夏目漱石は、円覚寺の釈宗演のもとに参禅した体験を、小説『門』にかなり詳しく書いている。宗活は宗演から塔頭の帰源院の監理を委ねられ、外部から参禅に来る人たちを宿泊させて、その世話にあたることになった。漱石の参禅はこの頃のことで、『門』では、宗活は宜道という名の若い僧侶として描かれている。
  「紹介状を貰うときに東京で聞いたところによると、この宜道という坊さんは、大変性質のいい男で、今では修業も大分出来上がっているという話だった…」、
  「この矮小な若僧は、まだ出家をしない前、ただの俗人としてここへ修業に来た時、七日の間結跏したぎり少しも動かなかったのである。」、
  「この庵を預かるようになってから、もう二年になるが、まだ本式に床を延べて、楽に足を延ばして寝たことはないと言った。冬でも着物のまま壁にもたれて坐睡するだけだと言った。」
   一方、漱石の『談話』の中の「色気を去れよ」という題の話の中では、宗活の剽軽な面が語られている。
  「明治二十六年の猫も軒端に恋する春頃であった。私も色気が出て態々相州鎌倉の円覚寺まで出掛けたことがあるよ。(…)。
   如何なる機縁か、典座寮の宗活といふ僧と仲好しになって、老婆親切に色々教えて貰った。(…)。
   其の夜宗活さんが遊びに来て、面白いものを聞かしてくれた。白隠和尚の『大道ちょぼくれ』で、大に振っている。宗活さんは口を尖らしていふ。

〔中略〕(ママ)

   宗活さんは剽軽な坊さんだと思った。」
   さらに漱石は、参禅を回想し、「禅僧宗活に対す 一句」として、次の俳句をよんでいる。
  「其許は案山子に似たる和尚かな」
   意味を判じ難い句である。
   このような漱石の描写は、参禅体験者の目から見た釈宗活像である。
   かなり以前の、両忘禅協会の時代に、釈宗活老師が自叙伝を語られたことがあり、その記録が当時の会報に掲載された。間接資料でそれに接することができた。それによると、釈宗活は、東京麹町の開業医の四男として生まれた。本名は、入沢譲四郎であった。11歳のときに母が早逝したが、臨終のときに「よく聞けよ。母は御身の富貴栄達を望まぬ。心を磨け」と言い残した。引き続き翌年に父も他界した。以後、少年は母の遺言を守って、苦学し、ストイックに生きた。今北洪川について円覚寺に入り、出家したが、一生寺の住職にはならず、在家者に禅を伝えることをおのれの使命としたのだった。
   森田正馬はこのような禅僧との貴重な出会いに恵まれながら、参禅の途中で挫折してみずから去った。
   惜しむらくは、在家者の森田が、在家者への禅指導を一筋とする、願ってもない人、釈宗活老師に巡り会いながら、その縁に反して、この老師に師事できる貴重な機会を逸してしまったのである。
   ことによると、森田は後にそれを悔やんで臍を噛んだのではなかったろうか。だから、禅について自己を卑下する言葉が、口をついて出たのではなかったろうか。ちなみに森田は、後年に釈宗活老師の禅の著書を買って読んでいるのである。
 
4. 擇木道場の現在
   谷中界隈には、古い東京の風情が残っている。昇ったり降ったりと、坂が多い。山手と下町の重なりあった雰囲気がある。山岡鉄舟が開いた全生庵も谷中にあって、安倍総理が座禅をしに行くことでも知られている。天王寺には、幸田露伴の小説のモデルになった五重塔があったが、焼失してしまって今はない。江戸時代には、このお寺で、幕府公認の富籤の興行が行われていたらしい。
   さて、その天王寺のそばにある擇木道場にお邪魔した。大正4年に、両忘会のために道場を新築寄進されたものだが、老朽化により、平成になって建物は改築されたようである。
   道場の責任者の師家、杉山呼龍先生(仰月庵杉山呼龍老居士)は、温厚な御方であった。人間禅や擇木道場の沿革、釈宗活老師のことなど、親切に教えて下さった。道場内部も見学させて頂いた。寺院で感じる、あの独特の雰囲気がないのがいい。京都では、禅と言えば禅寺、そして禅寺と言えば、連想は座禅か観光かの二択となる。二択どころか、座禅と観光の両目的で、京都にやって来る人たちもいるから、かなわない。
   人間禅の擇木道場は、当然ながら禅寺の雰囲気に包まれていないし、観光とも無縁である。それだけで十分に無駄がなく、したがって禅の本質が問われることだろうと思う。日常生活との間に敷居のない、そんな禅道場を初めて見学させて頂くことができて、大変印象深かった。
   杉山呼龍先生のほかに、もうお一方、笠倉玉渓先生(慧日庵笠倉玉渓老禅子)にも、お目にかかることができた。禅の知識と経験に富んでおられる上、聡明で気品のある女性の指導者でいらっしゃる。笠倉先生は、人間禅の特命布教師に任命されて、各地で講演をなさっている。また、「禅フロンティア 日本文化研修道場」(本部は、擇木道場)の代表もつとめておられる。
   擇木道場では、摂心会をはじめ、座禅会、勉強会、講演会など、さまざまな行事が開催されている。音楽のライブと座禅が、コラボでおこなわれたこともある。
 「人間禅 擇木(たくぼく)道場」のホームページを開けば、さまざまな情報が満載されている。

 

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後記:本稿は、2016年12月8日から2017年2月17日にかけてブログ欄に連載した記事、「森田正馬は鎌倉円覚寺に参禅したか」の続編である。また本稿の内容は、(第4章を除き)「研究ノート」に相当するので、「研究ノート」欄にも掲載する。これらの内容は別途に発表を予定しており、ここでは発表に先立ち、ルポルタージュ風に紹介した。

瀬古敬先生の「あるがまま」についての原稿(仏文)

2017/05/27

   2014年に京都で開催したフランス語圏国際PSYCAUSE学会における瀬古敬先生の発表が翌2015年にPSYCAUSE誌(日本特集号)に改めて掲載されました。
   瀬古先生の森田療法観の紹介の意味で、それを以下に掲げておきます。
 


原稿1

原稿2

海野 順「「私の十牛図」~神経症的なアルコール依存症者への森田療法的アプローチ~」(掲載先:『Frontiers in Alcoholism』Vol.5 No.1,2017年1月)

2017/03/04

雑誌本文

 
 メディカルレビュー社の雑誌、『Frontiers in Alcoholism』,Vol.5 No.1(2017年1月)に掲載された、海野 順著「「私の十牛図」~神経症的なアルコール依存症者への森田療法的アプローチ~」の全文を読んで頂けます(メディカルレビュー社の同誌のご厚意による)。
 
 閲覧は以下のリンクより。
 Clinical Report「私の十牛図」

 

江渕弘明(こうめい)医師、禅に生きた森田療法家―その知られざる生涯と活動の軌跡―

2016/12/03

 平成28年11月26日、第34回日本森田療法学会(東京)で、表記のような題目の発表をしました。そこで提示したスライド画面をそのまま以下に再現し、発表時に述べたと同じような説明を画面の下に書き加えておきます。
 

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 写真は、江渕弘明先生、70歳の時の姿です(室戸の海岸で昭和61年に撮影されたもの)。
 
 
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 「子曰わく、故きをたずねて新しきを知る。以て師となるべし。」と『論語』にあります。その「以て師となるべし」という視点から、今回、江渕弘明医師という傑出した、知られざる森田療法家がおられたということを、紹介します。
 ご夫人は健在で、このような発表をすることについては、最初は「行に生き、行に逝った人なので、そっとしておいて」とおっしゃいましたが、私は「その存在を歴史にとどめることは、江渕先生のためではなく、森田療法のためです」と言って御願いして、この発表に応じて頂いたのでした。
 
 
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 江渕先生の本名は、建八(けんぱち)、その後、弘明(こうめい)という号を名乗られることになります。
 (小学生の時以来、神経症的体験に悩まれたことがおありで、そのことは、鈴木診療所の雑誌「今に生きる」に寄稿された文章の中にご自身で記しておられます。)
 森田正馬のところを受診して、森田の家で家庭生活を共にする経験(いわゆる家庭入院)をなさったと間接的に聞きますが、その時期を含めて確たる実証が、今のところありません。森田の診療を受けたことがあると、後進たちに言っておられたようなので、少なくとも森田医院を受診して、森田に会われたことは事実です。明らかに入院であったかどうか、またその時期は、旧制中学の頃かと推測されるものの、いつであったかについても、確たることは未だ分からず、確認中です。
 旧制高校に入学なさってまもなく、肺結核が発見され、静養に入るも、その後喉頭結核も患い、入院を経て、自宅近くで隔離療養を続けられました。このような結核の療養生活は10年に及んだ。
 (神経症もさることながら、青年期に長年月にわたって結核の病苦を味わい続けた日々の体験は、人生において神経症より以上に深いものであったと思われる。)
 長い療養を終えた後、一旦、大谷大学に入学なさるも、京都大学医学部に入り、40歳で卒業。
 学生時代より、相国寺の座禅会(智勝会)に参加されました。
 
 
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 41歳で医師となり、京大病院第三内科に入局。
 3年後、高知県土佐市に帰郷して、実家の江渕診療所や土佐市民病院に勤務された。
 この時期には、森田療法で開業することを考えておられたよしだが、実現に至らず。
 昭和43年(52歳)より、宇和島の大隆寺で2年間修行され、同45年(54歳)より、京都に来て相国寺の僧堂に入られた。ここでの修行生活は、実に約20年に及ぶこととなる。
 僧堂を拠点に、座禅会(智勝会)の後進たちを森田療法的に指導しつつ、鈴木知準先生や和田重正先生と交流、さらに名古屋における「啓心会」、「まみず会」(和田重正先生の流れ)、「生活の発見会・集談会」と交流された。
 昭和58年、67歳時に、梶谷宗忍老師より印可を受けられた。
 その後、平成の初めに僧堂を出て帰郷され、江渕診療所や他の病院にも勤務された。
 そして平成10年2月、82歳で逝去された。
 
 
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 相国寺で雲水さんたちと共に修行なさっていた江渕先生の姿。
 
 
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 江渕先生は、ほかの森田療法の人たちとの関係で、どのような場所に位置づけられるかを示す相関図。
 森田正馬の指導を受けられた、和田重正、江渕弘明、鈴木知準の3人の方々が並び、さらに名古屋の方々、関西の松田高志教授へとつながります。
 
 
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 若い頃(昭和38年?)に鈴木診療所に入院された高知のY様が、退院後に鈴木先生夫妻を高知に招待され、その際に江渕先生を鈴木先生に紹介なさったのが、お二方の最初の出会いだったとのこと(今も健在であるY氏談を、つい先日江渕先生のご夫人が教えて下さいました)。以来、禅に関心を有する森田療法家同士として、お二人は交流されることになります。
 鈴木診療所の機関誌「今に生きる」に、江渕先生は10回寄稿されており、短文ながらそれらの稿には、禅に裏打ちされた深い森田療法観が読み取れます。
 鈴木先生は、森田があまり言わなかった「遮断」ということを強調されたようで、その影響によるものか、江渕先生も「遮断」という語彙を出されましたが、意味合いは鈴木先生の場合と同じではないようです。江渕先生における「遮断」は、外的空間的遮断よりも、内面的な姿勢を意味しています。
 
 
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 和田重正先生は、在野の教育家として知られる。十代より人生問題に悩み、森田正馬のもとに入院された。しかし入院で解決を得たのではなく、煩悶を抱き続けておられた。戦後、小田原で青少年向けに「はじめ塾」を、さらに山北町で寄宿生活塾「一心寮」を開き、家庭教育を重んじて「くだかけ会」や「家庭教育を見直す会」の活動を進め、子どもたちと同行(どうぎょう)する「同行教育」や、かくあるべしというような道徳教育を批判して、人生や生活を重んじる「人生科」の教育を、提唱、実践されたのだった。
 また小田原の近くの曹洞宗の最乗寺の余語翠巖老師と交流なさっていた。
 さらに、和田先生の思想の普及をはかる「まみず会」があって、和田先生の教育に関心を持たれた江渕先生は、ご自身の方からこの「まみず会」に近づかれたように思われますが、最初の接点はなお不明です。
 
 
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 昭和51年に、江渕先生は前述の高知のY様と共に、一心寮に和田先生をたずねて行かれました。
 翌年、和田先生は高知を訪問され、江渕家にも宿泊されたのです。
 
 
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 和田重正先生の教育は、江渕先生の媒介によって、関西の教育学者、松田高志先生に継承されました。神戸女学院大学の松田先生は、京都大学学生の時に、相国寺の座禅会(智勝会)で江渕先生より森田療法の指導を受け、かつ江渕先生から和田先生に引き合わされ、以後和田先生の教育を受け継いで、関西における「くだかけ会」の中心人物として活動されて、今日に至ります。
 和田重正先生の父上の本家は奈良県御所市にあり、松田先生は、その和田家の農地を借りて、「関西くだかけ農園」の活動を続けてこられました。
 
 
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 奈良県御所市の「関西くだかけ農園」の活動のひとコマ。教育学者の松田先生は、学生を連れて、このように野に出る活動をしておられたのです。
 
 
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 さて、あまり知られていないエピソードのひとつとして、名古屋の森田療法の関係者の方々と江渕先生の交流がありました。名古屋には、「名古屋くだかけ会」や「東海まみず会」があり、今飯田保氏がそれらの会の運営を引き受けておられました。江渕先生は、まずここに関わっておられたのです。
 また昭和40年代初めより、水谷啓二先生の「生活の発見」誌を読んで勉強する「名古屋啓心会」があり、杉本二郎氏、椛島武雄氏らがその中におられました。しかし水谷先生の急逝により、長谷川洋三先生の意を受けて、昭和46年に「生活の発見会」の「名古屋集談会」が立ち上げられることになり、杉本氏、椛島氏らが世話人になられたのでした。そして杉本二郎氏が、江渕弘明先生に、講師や助言の依頼をなさり、昭和60年頃まで指導に来てもらっていたそうです。杉本二郎氏は健在で、お会いして親しくお話を伺うことができました。
 江渕先生は控え目なお方で、ひけらかすような講演や講話をなさることは少なく、個々の質問に対しては、的確で具体的な助言をして下さったとのことです。
 
 
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 名古屋集談会の三周年の記念写真。中央に長谷川洋三先生、左横に江渕弘明先生、右後方に杉本二郎氏がおられます。
 
 
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 江渕弘明先生がお書きになったものの中から、その思想の一端を拾って紹介しておきます。
 「森田曰ク、能動ハ迷イ、受け身ハ真」。この言葉は度々おっしゃっています。「自然服従」、「あるがまま」という意味だと思われます。
 世間は「ウラ」で、世が「モト」だから、「世間事ハ捨テオキ」、「キョロツクナ」(人為でやりくりしようとするな、の意)。「ナムアミダブツ ト ブチカマス」。「なむあみだぶつ ハ 一切ノ行ヲ摂ス」。これらはすべて「遮断」を意味するものです。あるいは「不問」とも言えるでしょう。あるいは「大死一番」に当たるでしょう。
 森田療法は「モト」を培う療法であるとされます。
 禅の究極は「なむあみだぶつ」に通じ、それは「森田道」と同じだとされます。
 
 

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 相国寺の理解ある梶谷宗忍老師のもとで、長年修行を続けられた江渕先生は、老師より印可を受けられます。出家はなさらず居士のままでした。その後たまたま昭和61年に、老師代理として、慰霊祭の導師を務められました。当時雲水で後輩格だった、ある禅師様によれば、金襴の袈裟衣を着て式典に臨むことになった江渕先生は、「わしは、恥ずかしい。猿回しの猿のようじゃ。断ろうか」と言われたそうです。それに対して後輩だった禅師様は、「常日頃人にはあるがまま、恥ずかしいままとか、なりきるとか、思いきるとか、キョロつかないとか言って、自分こそ思いきったら」と言ったら、「うーん、そうじゃな」と言って、この慰霊祭に行かれたのだそうです。このような話から、江渕先生の人間味が伝わってきます。
 

 
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 江渕弘明先生は、「禅、森田道、本質全く一なり」と言って、生涯を修行に打ち込まれました。73歳で僧堂を出て、帰郷されてからは、残りの人生は医師としての診療に従事されました。82歳で逝かれますが、その最晩年に、先生は「ナムアミダブツ、ウチコム」と紙片に書かれていたそうです。
 
※後記
 以上、各画面について、学会で限られた短時間内に発表した際よりも、やや詳しく説明を加えました。

「現実逃避型のアルコール依存症患者に対する森田療法的アプローチ」

2016/10/22

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 平成28年10月8日に、日本アルコール・アディクション医学会(東京)で、臨床研究員の海野順医師がおこなった発表のスライド画像を以下に提示します。
 

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雑誌 PsyCause の日本特集( Cahier japonais )の論文抜粋

2016/05/05

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雑誌 PsyCause の日本特集( Cahier japonais )より、森田療法に関係する記事と論文の数編を、本欄で読んで頂けます。

                                                                抜粋論文

森田正馬の名、「正馬」の呼称(読み方)について─「しょうま」と「まさたけ」─

2016/02/15

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 昨年は高知にご縁ができました。発足したばかりの「森田正馬生家保存を願う会」に入会し、秋には倉敷での森田療法学会に参加したその足で、高知県の森田正馬の生家を初めて訪問しました。そのとき、「生家保存を願う会」の事務局長で森田正馬のご親族の森田敬子様にお目にかかることができました。12月には高知市内で開催された日本精神障害者リハビリテーション学会に呼ばれて、森田正馬についての話をしましたが、その会場に森田敬子様もおいで下さり、さらに翌日には、野市町で開かれた森田療法セミナーに出席しました。おかげでご縁ができて、ご親族のこのお方と交流させて頂くようになりました。お会いしたり、また通信もさせて頂いた中で、森田様はご親族の立場から、当然なのでしょうが、「正馬」の名前は長年「しょうま」と呼ばれてきたのに、近年「まさたけ」と言われることが多く、呼称(読み方)の混乱が起こっていることを憂慮しておられることを知りました。
 確かに呼称の不統一は、あまねく混乱を招きます。そこでこのことを少し考えてみることにします。

 
 

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1.1年前に、出版社から「正馬」のふりがなを求められたこと
 
 私自身は以前から、「しょうま」という読み方しかしていず、したがってあまり問題意識を持っていなかったのでした。ところが、1年前のこと、たまたま小著を上梓するにあたり、出版社の編集部の方と「正馬」の読み方について、やりとりをする機会が生じました。その出版社では、有名無名を問わず、人名については本の中の初出の箇所で必ずふりがなを打つ方針にしておられたのです。校正刷りを見たら、「まさたけ」とふりがながつけられていました。出生以来幼い頃は「まさたけ」だったという話はあるにせよ、その後はずっと「しょうま」で通ってきたのだから、ことさらに「まさたけ」とふりがなを打つのは不適切だと思いました。
 そこで、ふりがなをつけるならば、「しょうま」にしてほしい旨を、私は出版社に伝えました。しかし出版界では「まさたけ」と読むことになっているとの回答を頂きました。それに対して私は、「しょうま」と音読するのが無難であるという見解を伝えたのです。とりあえずそのときの折衷案として、正馬にはふりがなを付さないということで落着したのですが、その代わりに、そのページの余白に、読み方についての私の見解なるものを急遽記入するように要請されたのでした。
 私の見解というのは、人名、とくに男性の名前の読み方(呼び方)についての、常識的と言ってよいであろう一般論です。そもそも戸籍謄本には、名前のふりがなはつけられていません。それがひとつの混乱のもとですが、それに先立つ問題として、森田正馬が出生した明治の初期に、戸籍謄本がすでに存在したかどうかという疑問もあります。
 ともあれ、戸籍謄本があっても、そこに名前のふりがなは付されないというわが国の事情を踏まえて、私は人名の読みについて二通りの見解を持っています。
 まず第一は、訓読と音読のどちらも可能だろうということです。日本語の語感として、訓読の方が柔らかみがあるので、子どもに対しては訓読みで呼ぶ方が優しい。けれど大人であれば、名を音読する方が、風格ある響きが出る。さらにデリケートなことを言えば、大人でも近親者や親しい人から、訓読みで呼ばれると、心理的距離の近さが確認されるし、一方大人同士の間柄では、音読で呼ぶと距離感が読めないが、無難な呼び方になる。
 要するに、まず言いたいことは、名前には訓読と音読の二通りがあって、使い分けがなされているということなのです。公的な文書の上では、訓読か音読かひとつの名前を一貫して使用せざるを得ませんが、だからと言って、片方の名前が簡単に消滅するわけではありません。このように私の持論としての第一の見解は、人名の「訓読・音読二通り説」なのです。
 今日においても、一部の森田療法研究者や出版関係者から「まさたけ」と呼ばれて(読まれて)いますが、それは、出生時に「まさたけ」という訓読みでの届けがなされたらしいから、二者択一的にそれを正式な名とみなすという、蓋然性に依っています。仮に届け出が史実であったとしても、訓読は概して子ども向けに相当するので、それを避けて、大人用の音読である「しょうま」を採るのがよいとするのが、私のこの第一の「音訓両読説」です。
 次に、第二の視点からの見解があります。大人の名は音読する方が無難であるという意味のことを、上述しましたが、そのような世間的常識とも関連します。敬意を表して相手の名を呼ぶ(読む、書く)場合には、その名を音読するのが古くからのわが国のしきたりです。つまり尊称として音読するのです。知人であってもなくても、また著名人であってもなくても、当該人物への敬意を、その名の呼び方(読み方、書き方)に込めて音読するという美風が従来よりわが国にあるのです。
 これが私の第二の見解、「音読尊称説」です。森田正馬のような偉大な人物に対しては、呼称に尊称を用いるべきです。その見地から、音読で「しょうま」と呼ぶのが適切だと思うのです。
 小著の中で「まさたけ」のふりがなを避けた理由は以上の通りでしたが、校正時には余白のスペースに簡単なコメントしか書けませんでした。そのため、ここにやや詳しく、自分の見解を述べました。
 以上の私見を補うため、次に、森田正馬が生まれた時代に戸籍の制度はどうなっており、正馬は地元で実際にどう呼ばれていたか、さらに医師になった森田がどう呼ばれ、没後に後世の人たちは彼をどう呼んできたかということについて、若干のことを記しておきます。

 
 

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2.古い資料の調査による命名確認の可能性と、ご親族らの見解について
 
 まず森田正馬自身が、昭和11年の第五十八回形外会で、次のように語った記録があります(『森田正馬全集』第五巻)。
 「私の名は、本当は正馬(ショウマ)ではなく、マサタケと読みます。馬の一字名もあるが、その時はタケシと読みます。」
 「本当はショウマではなく」ということは、実際には「ショウマ」で通っているということを意味しています。しかし「本当は…マサタケ」だという陳述にこだわる人たちもいて、呼称の混乱が起こることになりました。
 森田正馬についての伝記の代表的な著作、『森田正馬評伝』(野村章恒 著)では、正馬の名前にふりがなはつけられていず、読み方についての言及は一切されていません。そして同書に次のような記載があります。
 「明治十年末に戸籍法ができ届出をした戸主は祖父の森田正直であった。」 この野村氏の一文では、戸籍や届出に触れられているが、説明が尽くされていないので、明治初期の戸籍について、少し調べたことを書き留めます。
 

 明治4年に初めて戸籍法が制定され、翌明治5年に最初の戸籍(壬申戸籍)が編製された。しかしこの戸籍は江戸時代の人別帳を踏襲しており、戸口調査を目的とするもので、戸長に管理が委ねられていた。
 地域の行政面では、明治11年に制定された郡区町村編制法が、高知県で翌明治12年より施行されたことにより、森田の生家のある富家村を含んで、行政区画としての香美郡が発足し、郡役所が赤岡村に設置された。したがって、この明治12年以降は、戸籍も郡役場の管理下に置かれて、郡役場へ戸籍内容の届け出がおこなわれることになった。しかし戸籍と言っても、中身は旧態依然とした壬申戸籍であった。その後明治19年の戸籍法で、出生・死亡の届け出の強化が規定された。さらに明治31年の戸籍法では、民事身分を登録する戸籍へと、戸籍の性質の改善がはかられた。
 

 このような明治の戸籍制度の歴史の中で、高知県の香美郡において、出生に関する届け出が役所に出されるようになったのは、明治12年以降のことで、最も早い場合で明治12年であり、まして名前の傍訓(ふりがな)の記入が求められた、もしくはその記入が可能であったとは、当時の戸籍の性質からして想定し難いと思われます。
 したがって、先に引用した野村章恒氏の、戸籍法や届け出についての記述は、正確さを欠いているように思えます。「明治十年末に戸籍法ができ」という記載は理解し難く、正確を期すなら、明治11年に郡区町村編制法が公布され、翌12年に行政区画としての郡が発足して郡役場ができて、以後、戸籍の届け出が始まった、とすべきです。そして、もし明治12年に祖父が戸籍の届け出をしたとしても、明治7年に生まれた正馬はそのとき満5歳、数え年なら6歳であり、幼名の光(みつ)が使われていたであろう年齢です。これを逆に考えれば、この届け出を機に戸籍上の名を「正馬」と固定したと見ることもできます。しかし戸籍は壬申戸籍を原型としており、名前に傍訓を付すべき趣旨のものではなかったのです。
 ちなみに時代が下って昭和の戦後になると、新しい戸籍法により出生届の手続きが定められました。その届においては名前の傍訓の記入を希望すれば記入可能となり、傍訓が住民基本台帳に移記されるようになりました。しかし、依然として戸籍謄本に傍訓は記入されません。いずれにせよそれは戦後の制度であり、明治時代には出生届そのものがなかったのです。
 そのようなわけで、戸籍に関連する公的な古い資料を調査して、正馬の幻の傍訓を見つけ出すという可能性は、まずないということがわかったのです。

 

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 ところで、高知県で地域の文芸誌「文芸香美」が刊行されており、平成20年度の第33号から3回にわたって「森田正馬特集」が組まれました。この中に、徳弘 博氏による「森田正馬博士のことなど」と題する連載稿があります。この稿において徳弘氏は、正馬の読み方について自身で言及することを保留しておられます。ただし、連載稿の冒頭の箇所に、広辞苑に出ている「森田正馬(もりたまさたけ)」という、ふりがなつきの項目見出しと説明文が、引用の形でそのまま掲げられています。また連載の最終回の稿の巻末に森田正馬年譜が付されており、その最初の項には次のような記述があります。
 「…幼名 光(みつ)と呼ばれた。父22歳、母26歳(明治10年戸籍法施行により祖父正直が光を正馬(まさたけ)と届出)」。
 このように戸籍に関して、先に引用した野村章恒氏の記述に酷似した、届出についての短文が、括弧に入れて添えられています。しかもここでは、野村氏の文にはなかった「まさたけ」というふりがなが登場します。徳弘氏のこのような記述はどんな根拠に基づいているのか、不明です。広辞苑にまで「まさたけ」というふりがなが現れて、地元の人たちにも呼称の混乱が波及した現象が、少なくともその背景にあるように思われます。

 

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 届出の史実への言及はどうしても信憑性の問題がつきまといます。実際に家族から、親族から、地元の人たちから、どのように呼ばれていたのかという事実こそ重んじられねばなりません。
 森田と同じく高知の出身で、昭和8年に東大医学部に入った、森田の後輩にあたる、坂本 昭なる人物がいました。
 この人は東大の学生時代に、対人恐怖や赤面恐怖に悩み、森田の形外会に参加しながら、その指導を受け、「森田家の学僕」(自称)となりました。精神科でなく内科を専攻しましたが、その後高知市長になったほどの人物です。この坂本 昭氏が「森田正馬先生のことども」という随筆(注1)の冒頭で、正馬の呼称について述べておられるので、そのくだりを次に引用します。
 「正馬をショウマと呼ぶかマサタケと読むかは、慈恵大精神科教室のみならず、多くの関係者の問題であった。土佐には動物名の多いことはよく知られている。(…)正馬の名も馬をもとにしてつけられている。正確を期するならマサタケであろうが、普通一般にはショウマで通ってしまった。御存命中の母上が、ショウマと呼んでいたことから、呼び名はショウマでよかろうと思う。」
 あっさりとした文章ですが、「御存命中の母上が」と書かれているところから、母親の亀はその晩年に至るまで、正馬をショウマと呼び続けていたことが窺われます。
 しかし、これを本人の幼少期にまで遡って推測してみれば、幼名の「光(みつ)」から本名の「正馬」へと昇格した頃には、過渡的に「まさたけ」と呼ばれていたとしても決しておかしくはないのです。長じるとともに「しょうま」になったと考えておくのが、むしろ自然です。
 ご家族のみならず、かつて地元で同時代の人たちからどう呼ばれていたのでしょうか。これについて、確たるものではありませんが、ある程度の証言があります。
 野市町の生家の近くにお住まいで、かつ「現代の古老」にあたる世代の小松亮氏は、平成3年6月に地元の有線放送で、森田正馬についての話を提供され、その原稿は翌年「生活の発見」誌(注2)に掲載されました。その稿の末尾に森田正馬の呼称についての簡単な言及があります。「兎田の古老は博士(ハカセ)さん博士(ハカセ)さんと申して遺徳を偲んでおられました。(…)今は地元でもショウマさんショウマさんと呼んでいます…。」
 また、森田正馬の治療を受けた後、その高弟として、森田療法の生き証人になっておられた井上常七氏が正馬の呼称に言及なさった記録もあります。平成8年の京都の三省会における井上氏の講演の記録が、「生活の発見」誌の平成21年4月号から連載(転載)されており(注3)、その中に呼称のことが述べられています。「「まさたけ」なんて奥さんからも聞いたことがないし、森田のお母さんの亀さんからは、しょうまをよろしく頼むよと私に言うんですね」。 また「わが子が野次馬になったら困ると思って親父がつけた名前だと森田が言うのです。…『野次馬にならざれかしと親心 特につけけんわが名正馬と』こういう歌があるんです」。井上氏はまた、自身の土佐訪問時のこと(その時期は不明)にふれて「私が土佐に行った時も土佐の人たちから決して「まさたけ」とは聞いたことはないのです。村の人はしょうまさんと言うんですよ」。井上氏は以上のように述べて、全面的に「しょうま」の呼称の正当性を支持しておられます。
 このように、家族から「しょうま」と呼ばれ、またかくも偉大な人物が郷土から輩出したことを誇りとする地元の人たちは、古くから敬愛の念を込めて「しょうまさん」と呼び慣わしてきたようです。先般、ご親族の森田敬子様からも、そのようなお話を伺いました。「しょうま」という呼称や読み方で統一されることを願っておられる所以なのです。
 

注1: 坂本 昭 「森田先生のことども」『坂本 昭 エッセイ集 自由と民権』土佐芸術村叢書、 土佐芸術村出版局 刊、 1974
注2: 小松 亮 「わが郷土の人 森田正馬(その二)」、生活の発見、平成4年10月号。
注3: 井上常七「形なきものに事実を観る」(一、二)、生活の発見、平成21年4月号および5月号(「三省会報」第66号、〈1996年7月発行〉より転載)。

 
 

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3.医師としての「正馬」の呼称
 
 森田がみずから形外会で「本当は…マサタケ」だと言ったエピソードは、事実無根であるとは考え難いですが、自称他称ともに「しょうま」であることを前提に、宴会で隠し芸を披露するかのように、昔話を持ち出したほどのものではなかったでしょうか。
 また、森田正馬の愛弟子であり、かつ弟子の最後の存命者であった瀬戸行子様のお世話を、他界される2011年までしておられた吉田恵子様によれば、瀬戸様は、「森田正馬先生は『しょうま』であり、『まさたけ』なんて聞いたことがない」 と証言なさっていたそうです。そのことについては、2012年の第30回日本森田療法学会で、吉田恵子様(高良興生院・森田療法関係資料保存会)らが発表されました(注4)。また南條幸弘先生もご自身のブログ「神経質礼賛」(注5)で、正馬の呼称の問題を取り上げて、井上常七氏が「生活の発見」誌(注3に同じ)において、「しょうま」の呼称を重視しておられたことを指摘なさっています。そして井上氏が「マサタケなんて聞いたことがない。完全な誤りです。皆さんはショウマと言ってください」と言ったくだりを引用なさっています。同時に師であった大原健士郎先生は「まさたけ」という読み方を採っておられたことにも事実として言及しておられます。
 ともあれ、医師である森田が、「しょうま」の呼称で通ってきたことは、大方の証言よりして明らかだと思われます。
 

注4: 吉田恵子、織田孝正 「瀬戸行子、森田正馬(しょうま)と過ごした日々―「瀬戸さんのような人は、僕の事をずっと考えるんじゃろうのう、かわいそうじゃ」」(一般口演)、第30回日本森田療法学会(東京)、2012(学会後の抄録は、日本森田療法学会雑誌;24(1)、p 96、2013)
注5: 南條幸弘先生のブログ「神経質礼賛」420、森田マサタケかショウマか。2009年4月27日。

 
 

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4.出版物に見る「正馬」の読み方
 

4-1.日本語出版物に見る「正馬」のふりがな
 調べについては、新刊書を除き、十年以上前に刊行された森田療法関係の出版物で、手元にあったもの、数十点を対象にしました。最近の出版物では、慎重を期してか、多くのものが、ふりがなを打つことを避けています。古い出版物でも、一貫してふりがなを打たない著者(たとえば、鈴木知準先生)がおられ、ふりがなのない出版物は水面下に残しました。
 
 

4-1-1.「まさたけ」を採用したもの
 

  1)森田正馬、水谷啓二『神経質問答』白揚社、1960。
  2)水谷啓二『胆力〈度胸〉がつく本』青春出版社、1967。
  3)大原健士郎、藍沢鎮雄、岩井寛『森田療法』文光堂、1970。
  4)長谷川洋三『森田式精神健康法』ビジネス社、1974。
  5)加藤正明ら編『精神医学事典』弘文堂、1975。
  6)辻村明『私はノイローゼに勝った』ごま書房、1979。
  7)青木薫久『心配症をなおす本』KKベストセラーズ、1979。
  8)長谷川和夫、岩井寛『森田式生活術』ごま書房、1979。
  9)長谷川和夫『マイナスの心をプラスに転じる法』ごま書房、および同著者『森田療法入門』ごま書房、いずれ
 も1993。
 10)辻村明『自分と戦った人々』高木書房、1993。
 11)辻村明『体験・森田療法』ごま書房、1995。
 12)渡辺利夫『神経症の時代』TBSブリタニカ、1996。
 13)大原浩一、大原健士郎『森田療法とネオモリタセラピー』日本文化科学社、1993。
 14)大原健士郎:森田正馬の業績.雑誌「精神医学」;42(8)855-861,2000。
 15)大原健士郎『人間関係に自信がつくクスリ』三笠書房、1996、および同著者『心が強くなるクスリ』同書
 房、2000。
 16)大原健士郎著、講談社刊行の本『あるがままに生きる』1994、『とらわれる生き方、あるがままの生き
 方』1996、『神経質性格、その正常と異常』1997、『こころを楽にする生き方』1997、その他。
 17)大原健士郎『神経質性格、その正常と異常』星和書店、2007。
 18)ディヴィッド・K・レイノルズ『生活オンチにならない』白揚社、2000。
 19)増野肇『森田療法と心の自然治癒力』白揚社、2001。
 

 ざっと以上ですが、森田療法についての出版物を網羅して調べたものではありません。しかし、「まさたけ」という読み方を採る著者のお名前や、その読み方に呼応した出版社名が浮上しているのがわかります。
 

4-1-2.「しょうま」を採用したもの
 

  1)森田正馬、水谷啓二『自覚と悟りへの道』(旧版)白揚社、1959。
   ※この本の巻末の著者紹介に、「せいま」とふりがなが打たれているのです。
  2)森田正馬『神経質の本態と療法』白揚社、1960。
  3)高良武久『森田療法のすすめ』白揚社、1976。
  4)岩井寛『森田療法』講談社、1986。
  5)森田正馬『新版・神経質の本態と療法』白揚社、2004。
  6)森田正馬『神経衰弱と強迫観念の根治法』白揚社、2008。
 

 手元にあった、和洋、計約50冊ほどの森田療法の本が調べの対象ですが、およそランダムなサンプル群とみなせると思います。ここまででわかったのは、「しょうま」より「まさたけ」の方が多かったことです。
 
 

4-2.欧文出版物に見る「正馬」の表記
 

  1)『高良武久著作集』第Ⅱ巻、白揚社、1988。
高良武久による欧文論文4点(英文3点、仏文1点)が、上記の著作集に収められおり、これらにおいては、すべて Shoma の表記で統一されている。
  2)Momoshige MIURA and Shin-ichi Usa : A Psychotherapy of Neurosis, Morita Therapy. Yonago Acta medica ; 14(1),1-7, 1970
 ― Shoma と表記されている。
  3) David K.Reynolds : Morita Psychotherapy. University of California Press, Berkeley, 1976
 ― Shoma と表記されている。
  4)Chihiro Fujita : Morita Therapy. IGAKU-SHOIN, Tokyo・New York, 1986
 ― shoma(masatake) と表記されている。
  5) Shoma Morita:Shinkeishitsu. ( Traduction par Mamoru Onishi ,Nariakira Moriyama, Gilbert Vila et Hiroaki Ota). Institut Synthélabo,1997
  6)SHOMA MORITA : MORITA THERAPY AND THE TRUE NATURE OF ANXIETY-BASED DISORDERS(SHINKEISHITHU).(translated by AKIHISA KONDO,edited by PEG LE VINE), State University of New York Press, 1998
 ― Shoma と表記されている。ただし出生時の名前を、Masatake と記している。
  7)Lothar Katz,Naoki Watanabe (Hg.) : Die Morita-Therapie im Gespräch. Psychosozial-Verlag,Giessen,1999
 ― 本書では、まず編者らに Masatake(Shoma) と 単に Shoma の二通りの記載がみられる。また収められた複数の論文の著者の中で、S.Aizawa は Masatake の表記を選んでいるが、他の著者は shoma と記載している。本として不統一のため、編者は困られたものと推測される。なお本の中に出てくる文献欄で森田の著作の著者名は、すべて Morita,S.になっている。
 森田の没後にドイツの雑誌に掲載された、森田の論文なるものも、文献欄に出ているが、著者名は Morita,S.である。
 
 このように欧文では、shoma との表記が多い。
 なお、筆者自身もフランス向けの複数の論文において、常に Shoma という表記を用いてきました。
 
 

4-3.本人による名前のローマ字表記
 

 これについては、澤野啓一先生が第25回日本森田療法学会で発表されました(注6)。学会抄録には、次のように記されています。「森田が生前に公表した論文や図書などに記載した「Shoma」という英文や独文によるローマ字表記(自筆署名を含む)を供覧した。またこれにより、改めて本来の「しょうま」という「読み・呼称」に戻すことを提案した」。この学会の際に澤野先生がスライドで提示された画像資料の一部をご提供頂きました。先生のご了承を頂いて、本稿の冒頭にそれを出しています。
 

注6:澤野啓一 「 森田正馬(しょうま)の学位副論文と、瞳孔反射の研究(森田療法誕生の土壌と、森田正馬の生い立ち、及び関心事)(その7)」(一般口演),第25回日本森田療法学会(東京),2007(学会後の抄録は、日本森田療法学会雑誌;19(1),p80,2008)

 
 

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5.若干の検討
 

 「しょうま」か「まさたけ」かという、古くて新しい議論は必要なのかも知れないけれど、それはまるで神経質を地で行くだけのようで、従来私自身の関心事ではありませんでした。というより、人名の呼称や読み方については、自分なりの認識を持っていて、それで事足りると思っていたからです。それを本稿の最初の部分に書きました。それは、ものものしく言うと、「音訓両読説」および「音読尊称説」です。つまり、森田正馬のような偉大な人物の名は、音読して然るべきだと思っていたのです。高知の地元でも、敬愛の念を込めて「しょうまさん」と呼ばれてきたそうですから、矛盾しません。しかし、第五十八回形外会で森田正馬自身が、「私の名は、本当はショウマ」だと言った記録が引き金になったのか、次世代以降の多くの識者によって「マサタケ」という読み方が用いられていました。実際に出版物に見る「正馬」の呼称をざっと調べてみて、「しょうま」より「まさたけ」の方が明らかに多いようで、少し驚きました。それについては、大原健士郎先生が、講談社から一連の書物を出された中で、積極的に「まさたけ」とふりがなを打つ個人的キャンペーンをなさいましたし、同じく大原先生は雑誌「精神医学」に掲載なされた論文「森田正馬の業績」(2000)で、形外会での森田自身の発言に忠実に「まさたけ」説を積極的に推し、さらにその論文を、追って星和書店から出た『神経質性格、その正常と異常』(2007)の冒頭に再掲なさいました。しかし、「まさたけ」という読み方を採った方々は、大原先生以前に何人もおられました。大原先生はその流れの中で目立った人であったに過ぎません。また厳しい指摘になるかもしれませんが、本を手がける出版社側も、見識を求められます。「せいま」、「まさたけ」、「しょうま」と、三通りのふりがなを使ってこられた出版社もありました。人名辞典の類がバイブルではありませんし、著者との意見交換は不可欠でしょう。最近は「ふりがな」を避ける傾向があるものの、従来のふりがなは「まさたけ」の方が優勢で、そちらが主流だったのです。
 さてそうなると、人名の読み方についての私ひとりの認識をひけらかすだけでは済みません。
 そこで、敢えて重箱の隅をつついてみることにしました。出生時に「まさたけ」と正式に命名されたのならば、当時の戸籍もしくはそれに準じる文書に、そのような命名の記録があって、今日それを突き止めることは可能か否か?
 これについては、明治の戸籍制度を知ることが前提になります。明治5年に最初の戸籍(壬申戸籍)が編製されましたが、身分帳に等しく、届け出の制度もありませんでした。しかし明治12年に行政区画として郡と郡役場ができたので、それに伴い、出生や死亡の届け出の制度が開始されました。とは言え、戸籍の内容はなお壬申戸籍同然で、傍訓をも届ける権利はおそらくありませんでした。森田家としても、まずは一家の戸籍を初めて届け出たわけで、その一員として明治7年に両親の下に出生した「正馬」という長男がいるということが、正馬について届け出られたすべてであったろうと思われます。いずれにせよ、一般に当時の戸籍は、身分差別的な記載があるため、仮に残っていても、閲覧は許可されないようです。
 むしろここで考えられることは、幼名の「光(みつ)」だったものが、正式に「正馬」として届けられたということです。その後、その名はしばらくは「まさたけ」と呼ばれたことでしょう。そして年齢を重ねるほどに、いつしか「しょうま」と呼ばれるのが自然になったのだろうと思われます。「まさたけ」であれ「しょうま」であれ、戸籍に関わる文書を探索して、証拠づけることはできません。けれども、成長とともに名前が変化していく古くからの風習が、明治時代になお生きていたという見方ができます。私的な認識としての「音訓両読」および「音読尊称」とも矛盾しません。
 南條幸弘先生も、先に引用したブログに、そんなことを議論するよりも、森田療法の普及・発展に力を入れた方がよい、と記しておられます。同感ですが、議論に区切りをつけるための一助として、敢えて重箱の隅をつつきました。つついた成果は乏しいものでしたが、地元では過去も今も、「しょうま」としか呼ばれていないこと、一方学術的には欧文で「正馬」をローマ字で記載する際に不統一が起こると、人物を同定できなくなる、などを一応考慮しながら、落ち着くべきところに落ち着けばよいと思います。(了)
 


付記
 本稿は、最初、2月15日にアップロードしましたが、文献の追加挿入など若干の修正を加えて、2月29日にアップロードをし直しました。

 
 

禅の「十牛図」と森田療法─正馬先生の「心牛」探しの旅─【後編】

2015/12/28

 森田療法は、世に認知されている数多くの精神療法のうちで、名称に創案者の人名が冠された唯一の療法です。しかし、それは単に心を病む人たちに対する精神療法であるにとどまらず、古来よりのすべての人間の生き方そのものです。精神科医師になった森田正馬は、自身が神経衰弱の状態になって悩んだ経験を生かして、この精神療法を創りました。自分自身が、森田療法を生きた第一号のケースでした。つまり、森田療法とは、治療者である以前に、「悩んで、そして生きた当事者であった森田」によって創られた療法という意味で、森田の名がついた療法であると理解する方が自然だと思われるのです。
 そこで、森田療法の基礎事例としての森田正馬の生涯を、「十牛図」に対照しながら、挿話的に辿ってみます。

 
 

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 それは、父に反抗した青年が、やがて悩める人たちの父となった物語です。
 
 
 

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 先に、十牛図の階梯を三段階に分けて理解しましたが、それに対応するごとく、森田の生涯も、同様に三段階に分けて捉えることができると思います。
 おそらくそれは偶然ではなく、ライフステージは、大まかに三段階があるように思われるのです。我もしくは自我を獲得することが主題になる第一のステージ、思慮分別をわきまえるに至る第二のステージ、そして老成した人になる第三のステージです。
 まずは森田正馬の生涯の第一の段階です。高知県香美郡冨家村(現 香南市野市町)に出生。おとなしい無口な子で、小学校の成績は良かったとも、良くなかったとも言われるが、とにかく神童のように優秀な子ではなかった。そのため小学校教員をしたことのある父から厳しく勉学を強いられ、かえって勉強嫌いになっていった。9歳頃、村の金剛寺という真言宗の寺の地獄絵を見て恐怖を感じ、それが原体験となって、生と死の問題を考えるようになり、長じてもたびたび不安を覚えることになったという。
 夜尿があって12歳頃まで続いた。
 農業を営んでいた父は、正馬の中学校への進学にすぐには賛成しなかっので、遅れて中学校に入学。中学校時代から神経衰弱の症状が起こりだした。友人と一緒に東京へ出奔して苦学を志すが挫折して帰郷。さらに、旧制高校に入るために、高知出身の大阪の医師、大黒田龍が奨学金を出すという養子縁組に、親に無断で応募して養子になった。親に知られて、養子縁組を解消し、中学校卒業後は旧制熊本高等学校に入学。この旧制高校時代に、仏教哲学を学び、関心を深めていく。
 東大医学部に進学したが、神経衰弱症状のため勉強が手につかず、父の学資の仕送りが遅れているせいにして、父への面当てに、死んでやれと、神経衰弱の薬の服用を止め、必死で勉強したら、試験に好成績を得て、神経衰弱の症状も吹っ飛んでしまった。これは有名なエピソードで、この自身の体験が森田療法を生む契機になったと言われる。
 しかしこんな話から、当時は実にわがままな青年であったことが、よくわかる。暴れている黒牛そのものである。
 
 
 

31
 生涯の第二段階。
 医師になり、初めて他者を治療する立場の人になった。仕事が人を作っていったのでしょう。
 父への感謝と尊敬の念が湧き、初めて手にした百円紙幣を父に送ったのでした。
 神経衰弱に対しては、試行錯誤の末に、大正8年、45歳で自分の療法を確立します。
 さらに大病にかかり、死を覚悟します。四十代にして、ようやく「死は恐れざるをえず」という悟ったのです。こうして、我執から離れていきました。
 白牛になり、さらに牛は消え失せる段階にまで達しました。
 
 
 

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 生涯の第三段階。
 いよいよ森田の面目躍如となります。自宅に入院させた患者と生活を共にし続け、自ら先頭に立って動き、時には叱り、常に患者を慈しみました。郷里の母校、冨家小学校に寄付を重ねて、晩年には講堂を建てました。人間愛の人、森田は「今親鸞」 と慕われたのでした。
 死の床においても、「死にたくない」と言い、また高熱にうなされて意識がなくなったとき(せん妄状態)、こんな夢を見ていたと、周りにいる人たちに身をもって教える死の臨床講義をしたのでした。本物のデス・エデュケーシです。教えるも、教えられるも、森田療法は死ぬまで続くものなのです。
 
 
 

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 森田正馬が患者さんたちと起居を共にした生活は、まさに「十牛図」の第十図の「入鄽垂手」に相当します。森田は禅に関心を持ちながら、無念無想に浸るようなたぐいの座禅を嫌いました。禅の修行に人工的な不自然さを見ていたようです。生活の中にある自然な禅を実践していたのでしょう。「十牛図」と対照しても、森田の生涯を考えるに当って、教本的な二次元の教えは平板で、3Dの世界に出ていく実践にその面目が、最も生き生きと見て取れます。患者と一緒に買い物に出たり、浅草へ映画を見に行ったり、熱海の観梅に出かけたりして、実際に即して指導しました。病身の森田は乳母車に乗って患者と買い物に出かけましたが、恥ずかしい格好よりも、市場の狭い通路を通るには乳母車が好都合だったからです。
 
 
 

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 弟子や従業員さんたちに囲まれている、病も篤い森田正馬です。
 
 
 

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 森田が創案し、実践した療法─森田自身は「余の療法」と呼び、没後に「森田療法」と呼ばれるようになった─は、決して特殊な療法ではありません。
 人生には必ず悩みがある。悩みは神経質な人たちに現れやすい。一方森田の療法は、すべての人たちの人生に対応するものだけれど、精神医学の立場からは、悩める神経衰弱(神経質)の人たちが、さしあたり対象になった。そのような成立の事情から、後年、森田療法は神経質(神経衰弱)の療法だという固定観念が生じたようです。
 しかし、森田は治療対象として、まずは神経質に焦点を当てたけれども、それに終始することなく、神経質の表層の心の病理の治療もさることながら、生老病死の苦と共に生き抜くことを教えているのです。そしてさらに、治療者の人間性の重要性を力説したのです。
 
 
 

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 十牛図の三段階と、森田の生涯の三段階が対応するものとして、理解したのでしたが、森田自身、修養には三段階があると言っているのです。
 学歴になぞらえるのは語弊があるのですが、スライドでは、森田の言い方に忠実にそのまま紹介しました。
 我慢すれば見返りが得られると、自己中的な功利的期待が働くのは、初級程度で、我にとらわれている。黒い牛さんの域。
 諸行無常を頭で認識する知力を持つのは中級程度で、我を捨てて無我になりましたという、分かったつもりの心境。白い牛さんの域。
 さらに苦楽をあるがままに受け入れて、生の欲望(生の躍動)になりきって、無心に生きるのが、上級程度です。無心の段階に、もはや牛はいません。
 
 
 

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 森田正馬の人間的成長の軌跡を「父親殺しpatricide」として捉えることができます。もちろんここでの「父親殺し」とは精神分析で言うような意味でです。
 心身ともに弱い子どもだった正馬は、青年になって「疾風怒涛」の反抗期を迎えます。しかし父は偉大な存在でした。父への反発は続きましたが、医師になって後、自分を一人前にしてくれた父への感謝の念がふつふつと湧きだしたのでした。父への反抗は父に及ばない子どものすることです。父に感謝し、父に盲従もせず、大きな人間になっていくのが、父を越えることになるのです。森田正馬は大きな器の治療者になり、患者に対して、厳父として慈父として、父性愛を発揮しました。
 森田療法は父性を軸とする療法であると言えます。その点では禅に似ています。内観療法や真宗において母性が重要なのと対照的です。
 
 
 

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 『臨済録』にも「父親殺し」に相当する教えがあります。仏に対しても、師に対しても、両親に対しても、感謝や尊敬を忘れてはならないが、偏愛、盲従盲信に陥ることなく、差別なく人に目を向け、広く学び、不断の努力をして前進せよと教えているのです。
 
 
 

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 森田が実際に弟子たちに教えた言葉を掲げました。自分に盲従せずに、自分を越えていけ、と教えたのです。ここに父性愛の極致を見ることができます。
 改まって教えた言葉をここに引用しましたが、日常の卑近なやりとりの中で、いつも森田は治療者に盲従することの愚を戒めました。たとえば「わしが、『三遍回ってワンと言え』と言ったら君はそうするのか」と叱って、治療者に盲従せずに、自己判断をするように諭したそうです。
 
 
 

40
 森田は独自の療法を創りましたが、その技法の独自性をいたずらに誇ったのではありません。彼は治療者の人間性を重視しました。
 彼は「間接療法」が重要だと言いました。「間接療法」とは、どんな療法であれ、それを施す技法や技術より、それをおこなう治療者の人間性や人生観が間接的に隠し味として如何に重要であるかを強調したものです。まず第一に、森田の自身の療法において、治療者の自己研鑽を不可欠だとしているのです。そしてそれは、他の療法にも押し広げて言えることだとしているのです。後世において、そのような森田の治療観が忘れられがちになっているのは、残念なことです。
 
 
 

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 事例など、追加的に述べたいことを少し補足します。
 
 
 

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 事例の中身の記述部分は都合により削除しました。しかしタイトルから概要をわかって頂けるでしょう。わが息子をいとしく思う身体障害の高齢の母と、社会的生産性はないけれど、母の在宅介護をし続けた当事者の例です。二人での家庭内生活は幸せでした。これをマザコンというなかれ。親子のひきこもりというなかれ。二人三脚のどこが問題でしょう。幸せにはいろんな形があっていいのです。
 
 
 

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 「苦痛を苦痛し 喜悦を喜悦す 之を苦楽超然といふ」
 この言葉からも、森田の基本的な思想と教えがわかります。神経質や神経症の症状を治す療法だなどとは言っていません。水戸黄門の主題歌と同じなのです。そこで、それをもう一度、「人生 楽ありゃ苦もあるさ」。
 
 
 

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 最後に森田療法の本質を、短い言葉で記しました。森田療法にとらわれ、それを頑なに追求するほど、がんじがらめになって、森田療法本来の自由から遠ざかってしまうのです。ある禅の先生は、森田療法は禅と同じではないかと言ってくださったのでした。
 
 
 

                                   (後編 了)

 

 以上の講演では、先行する以下の発表が下敷きになっている。

 

1.禅の「十牛図」と森田療法における治癒過程の比較検討 森田正馬自身の生き方を基礎事例として. 第27回日本森田療法学会(一般口演),2009(同抄録:日本森田療法学会雑誌.21(1);73,2010).

 
2.A Comparison between “the Ten Ox-herding Pictures” of Zen and “the Cure” in Morita Therapy: Shoma Morita’s Life as the Basic Case. 第7回国際森田療法学会,メルボルン,2010年3月.

 
3.禅の「十牛図」と森田療法における治癒過程の比較検討 ─森田正馬自身の生き方を基礎事例として─ 京都森田療法研究所web掲載論文,2010.

 
4.禅の十牛図と森田療法 ─悟りとは?そして治癒とは?─ 第12回総合社会科学会(特別講演),2010年6月,東京.

禅の「十牛図」と森田療法─正馬先生の「心牛」探しの旅─【前編】

2015/12/24

 第23回日本精神障害者リハビリテーション学会(高知)で講演をおこなった際のパワーポイント・スライドを、以下に提示し(一部割愛)、適宜に説明を再現しておきます。
 長さの関係で、前編と後編に分け、ここでは先ず前編を掲載します。

 
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
 

01
 高知と精神医療との関係について考えると、高知は、わが国を代表する精神療法である森田療法の創始者、森田正馬が輩出した地であることを思い出します。
 
 
 

02
 香南市野市町に現在も残っている森田正馬の生家。赤壁が見える棟から右方は改築された部分にあたりますが、その左側は手を加えられていない昔のままの建物です。写真に写っていない、さらに左側には蔵があります。これらの部分は老朽化しています。文化財のようなこの建物が朽ち果てるのを防ぐことが焦眉の急となり、本年、「森田正馬生家保存を願う会」が発足しました。ご親族の森田敬子様が、会の事務局長をなさっています。
 森田療法を理解するには、森田正馬の生涯を知る必要がありますが、その生涯のルーツがここにあるのです。
 
 
 

03
 発表項目として示すごとく、用意はしたけれど、この学会でどのような視点から森田療法について述べればよいのか、迷っていました。しかし、この講演前日におこなわれた、精神医療における病院から地域への移行についてのシンポジウム(土佐弁で「地域移行て何ながよ」)を聴き、このような発想や取り組みは森田療法と同じではないか、と感じました。わが意を得たりと思いました。
 
 
 

04
 森田療法は、単に神経質や神経症の療法であるより以上に、万人の生き方に関わります。
「森田療法って、何ながよ」、「自由に生きることながよ」。ただし自由とは、放恣、放縦のことでなく。それは、ひたすら自分を尽くして生き抜くことです。その点において、森田療法は禅につながるのです。禅も「自由に生きることながよ」。
 
 
 

05
 よくある先入観は、教科書的な本に書いてありそうな説明のレベルのものです。誤っていなくても、表層的理解に流れます。症状は、流動している心のひとつの姿だから、「あるがまま」。そういうことであって、「あるがまま」は治す手段ではないのです。
専門レベルでは、認知行動療法との異同が問題になります。認知行動療法は症状を治す指向性から出発している。森田療法の森田療法たるところは、人間の存在の深い苦悩に関わるものであることです。第三世代の(認知)行動療法との違いは、森田療法はエクササイズではなく、生活そのものであることです。
 
 
 

06
 治療者が相手を薫陶する点で、パターナリズムが軸になってはいる。しかし父なる治療者を乗り越えていくのが森田療法。治療者、患者の区別なく、森田療法はみんなの自己教育。そういう大事なことが、教科書に書いていない、だから言いたいこと。
 
 
 

07
 「あるがまま」と言わざるをえないけれど、言えば頭での理解になる。歌の文句の方が、感じることができたりする。1年前には「ありのまま」と歌う「アナ雪」が流行った。今年は森進一が「あるがままに生きる」という新曲を歌っている。柳の下に二匹目のどじょうがいるかどうかは、わかりません。
 苦を苦とし、楽を楽として、逆らわずに生きるのが、あるがまま。古い「水戸黄門」の番組の歌にもありました、「人生 楽ありゃ苦もあるさ」。
 苦に遭えば苦を生き抜くほかありません。森田療法は「生きる」療法です。
 最近とくに思うことがあります。「生きる」療法を生んだ日本で、なぜ自殺が多いのか。日本人のメンタリテイは自殺に向かう閾値が低いから、森田正馬は「生きる」療法を創ったのか。とにかく自殺が多い現実を前に、私たちはどうしたらよいのかという問題がある。この場合、森田療法の専門家というものは、あまり役に立たない。ひとりの専門家より、百人の普通の人たちが、身近なところから手をつけていく方が、ずっとよい。大体、森田療法の専門家というのは奇妙なもので、それは人間の専門家というのが存在したら奇妙なのと同じです。
 
 
 

08
 森田は、自分の療法は禅から出たものではないなどと言いました。そこには、わが国の医学の西洋化の中で、自分の療法が異端視されることを避ける意図が働いていたし、また参禅したけれど、公案に透過しなかった経験による禅コンプレックスを抱えていたことがあったと思われます。実際には、仏教や禅の教えを重視し、それをたびたび引き合いに出して指導したのでした。
 
 
 

09
 このような森田の療法は、「自然科学」ではなかったけれど、「科学」であり、固定的な対象にならない心の流動性を科学する、「心の自然」の「科学」であったと言えます。
 
 
 

10
 ここに森田が書いた色紙がある。判読しやすいように、そのまま画面に転記した。
 まず、作者不詳の禅の古い歌が引用されている。これは京の鴨の河原で座禅をしている人物が、四条や五条の大橋を往来する人たちを見上げている構図であるとみなし得る。河原に座している修行者にとって、橋上を往き来する人たちが「深山木(みやまぎ)」に見えるという境地が詠まれているが、森田はこれを痛烈に批判している。木が橋の上を歩いているわけがない。山中で座禅を組む人が河原に来てみれば、橋上を歩く人が木同然に見えるとは、いかにも臭い衒いだという、そんな批判です。それで、某禅師をもじって、「形外蝉子」と自称し上の歌を皮肉っています。「形外」はもちろん森田の雅号。人は人と見るのが自然です。
 さて俎上に載せられた禅の古歌は、二つのセットになった古歌の片方なのです。全体は同じ文句だが、最後の部分が異なり、「…深山木と見て」となっている歌と、「…そのままに見て」と言い換えている歌があるのです。後者は前者を批判しており、深山幽谷で独座しているのが本物の禅なのではない、市井で人をそのままに見る、それこそ本当の禅だという歌です。後者は、一休の作だという説もありますが、定かではありません。
 つまり、形外蝉師殿は、後者の歌を下敷きにしていて、オリジナルとは言い難く、むしろパロディですが、禅を深く学んでいなければ、こんな遊び心ある禅批判はできません。森田の禅の造詣の深さと禅観が、現れている例として提示しました。
 
 
 

11
 ここにまた古歌があります。これは森田正馬という人と直接関係しませんが、森田療法と深く関わります。生まれたばかりの赤子にそなわっている仏性が、成長とともに悪知恵がついて次第に失われていく。そういうことを嘆く歌です。赤子に生来的にある仏性とは、森田の言う「純な心」と同じものだとみなせます。生まれついたときから、本来誰しも汚れを知らない、純粋で真っ白で、すなおな心を持っているのです。ところが長じるにつれて、欲の世界にまみれつつ、我が肥大して、純な心は内面に奥深く押し込められてしまうのです。
 森田療法はこの純な心の回復を重視します。その課題は、 失った「すなおな自己」を探す心の旅である「十牛図」に通じていくのです。
 
 
 

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 禅の「十牛図」は、自分という存在者の卑小な内面で世界一周をするごとく、心の成長の過程を辿る階梯を象徴的に図示しています。中国で創られたもので、日常生活の身近にいる動物である牛を、自分(自己)になぞらえて、自分探しをする、いわゆる「己事究明」の諸相を象徴的に描いています。
 
 
 

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 「十牛図」は中国で宋代に創られました。廓庵によるものが有名で、鎌倉時代にわが国に入り、しかし廓庵の図そのものは伝わらず不明のまま、そのモチーフに従って、わが国で複数の画家により「十牛図」が描かれたものです。そのうち、代表的なものとして、周文という人によって描かれ、それが後代に伝わったもの(伝周文)がありました。一方版画による「十牛図」も発見され、天理大学に保存されています(作者不詳)。周文の図も、天理大学に保存されている版画の「十牛図」も、それぞれ一長一短があります。そこで、両者の興味を引く点を抽出し、試みにそれらの特色をひとつに合成してみたイラストを用意しました。
 この「十牛図」のイラストのシリーズには、特徴として、タネ仕掛け、ちょっとあります。分かり易いように、あらかじめそれらをバラしておきます。まず最初は黒かった牛の色が、途中から白くなること。図を囲む黒い枠が、最後の第十図では白くなること、またその第十図では初めて複数(二人)の人物が登場することです。
 
 
 

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 「十牛図」は心の成長の階梯を表していますが、一段ずつ確実に上に登れる階段のようなものではありません。双六のように逆戻りすることもあり、また双六のような、めでたし、めでたしの上がりで終わるものでもありません。上へ上昇した上がり(仏教で言う「上求菩提」)がゴールではなく、下界に戻らねばなりません(下化衆生)。調子に乗って下山すると、衆生の済度をするどころか、油断して地獄に転落するかもしれません。「十牛図」の入り口は、地獄を見た人の生き直しにも開かれています。底辺に地獄を置くと、「十牛図」は、下から出発して、時計のように(あるいは時計の逆周りに)ぐるぐるまわる周回のプロセスを示しているとみなせます。
 
 
 

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 自分のあり方に何も悩んでいない脳天気の人は、さしあたり機が熟しませんが、神経質のような内省性の強い人は、自己を模索します。「十牛図」の全体のモチーフは、見失った自分探し、つまり「己事究明」なのです。
 この十の図にわたる「己事究明」の展開は、大まかに三つの段階に分けることができるでしょう。
 第一のステージは、「自己を探す」過程です。それは、牧童がいなくなった牛を探す様になぞらえて描かれています。第一図「尋牛」がその始まりです。「十牛図」は絵だけでなく、文章も添えられていますが、第一図の序文に皮肉が込められた言葉があります。「もともと失ってもいないのに、何でまた追尋するのだろう」と。「照顧脚下」(自分の足下を見よ)ができないのが人の性(さが)で、自分探しのお遍路が始まるのです。やがて牛の足跡を見つけ(第二図)、体が見え(第三図)、ついに暴れる牛を捕獲します(第四図)。そこでは、真の自己を捕まえたという達成感が生じます。しかし真の自己は捕捉の対象たりえないものです。黒牛を捕獲した牧童は、真の自己を捕捉したと思い、悟ったつもりの第一の夢を見ているのです。そこには我の高揚があります。牧童が達したのは、「我執」の域に過ぎません。
 
 
 

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 第四図から第五図の間には、長い精進のプロセスがあったと見るべきであり、第五図「牧牛」では、牛の色は「白化」しています。この図からは、「自己を陶冶する」という第二のステージになります。白く純化した牛に乗って、心の奥底へと回帰します(第六図「騎牛帰家」)。そして白い牛の姿も昇華して消えて、人牛は一体化し、清明なる月の下に、山中の庵で独座して、高踏的な悟りの境地に至ります(第七図「忘牛存人」)。「我執」という第一の夢から覚めて、諸法無我、諸行無常を知り、無を認識しているという段階にあるのです。聖位とも言われる境地です。修行を重ねて到達する「上求菩提」の域ですが、悟り至上主義的な第二の夢の中にいるのです。
 
 
 

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 次に、第八図以降が、「真の自己を生きる」第三のステージになります。ここで、いくつかの問題があらわになっていきます。第八図「人牛倶忘」で、何も描かれていない空一円相になることは、廓庵十牛図に共通です。第七図まで連綿と継続し、聖位にまで至った展開は、ここで無へと開放的に切り替えられます。無を頭で認識していた人も姿を消し、本当の無そのものになります。無は自由そのものです。無の次に、自然の本源が現出します。森田正馬が「柳は緑、花は紅」という禅語をよく引用したごとく、主客一体の「あるがまま」の姿です。
 そして最後の第十図「入鄽垂手」に至って、ドラマチックな変化が起こります。入鄽垂手とは、市井に入り手を差し伸べて人に慈しみを向けるという意味ですが、図では二人の人物が描かれています。左には、布袋さんのような腹をしたメタボの人物が、酒のかめを手に、悠然としています。これこそ、自分の心牛を尋ね歩いた元牧童が、遍歴を経て進化を遂げた姿です。その前には、これから尋牛の旅に出るのかもしれない新たな牧童のような人が佇んでいます。元牧童は、上りつめた聖位の境での、悟りを至上とする第二の夢から覚め、下山して日常生活に戻ってきたのです。ただ者ではないただの人になりました。「下化衆生」の境位にあります。真の自己は、ここでメタボの人と一体になっていますが、眼前にいるしょぼくれた人が、他者として重要な役割を果たしています。他者がいてこそ自己が自己になる。相手が、下化衆生をさせてくれているのです。大所高所から降りてきた人が、上から目線で下界の庶民を救ってやるというニュアンスが、もし出ると、あまりいただけません。ちなみに森田療法にはパターナリズムの軸がありますが、それは硬直した軸ではありません。
 さて、この第十図では、これまで円相の図を囲んでいた周囲の枠が黒色だったのに、最後に白くなったことに気づきます。これはどういうことなのか。黒かった枠は、壁のような仕切りがあったことを意味し、図が展開した円相は、円窓だったのではないか。壁の内側に引きこもっている自分がいて、壁に開けられた円い窓から、外で展開する自分劇場を眺めていたのではないか。第十図で、内側と外側を隔てていた壁は消えて、ひきこもりの自分は外へ出た。自分劇場を見ていた自分も同時に布袋さんになったのです。あるいは右側の牧童になったとみなしてもよいでしょう。この「十牛図」は、複雑な3Dの構造になっていたのです。
 
 
 

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 3Dの構造は、第十図において劇的に明らかにされました。暗い部屋に引きこもって、円い窓からおずおずと外を覗き、自分劇場に見入っていた自分が布袋になってしまいました。布袋さんは元神経衰弱の引きこもりだった。新たな牧童にも、また繰り返す自分探しの出発が予示されています。神経衰弱は治ったり再発したり。それが人生、セ・ラ・ヴィ です。
 

                                   (前編 了)

三聖病院が存在したことの歴史的意義について ─平成26年末の閉院を受けて─

2015/10/19

 第33回日本森田療法学会(倉敷)で平成27年10月16日に、一般演題として発表したものを再現します。

 
 

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 私は、この三聖病院に、非常勤でしたが、昨年まで約40年間勤務した立場から、この発表をいたします。

 
 


 
 

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 森田正馬の直弟子、禅僧で精神科医の宇佐玄雄によって、禅的色彩の濃い森田療法施設として、三聖病院が大正11年に東福寺内に創設され、その後三聖病院となり、昭和32年に二代目の宇佐晋一院長に継承され、通算約90年の長きにわたって禅的な入院原法の診療が継続されました。しかし昨年末、遂にその歴史に幕を閉じたので、この機会に本院が森田療法史上に存在した意義を考えてみたいと思います。
 なお、この発表では、森田療法の中に禅的思想が含まれていることは自明と考えた上で、本院におけるその展開を顧みます。

 
 


 
 

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 初代院長の宇佐玄雄先生は、自身が神経衰弱に罹患したことを原体験とし、悩める人に一律に禅を説くだけでは不十分で、精神医学を取り入れる必要性を痛感して、慈恵医専に学びました。大正8年に卒業し、折しも療法を確立した森田との数奇な出会いに恵まれます。森田は、開業した玄雄を応援し、また玄雄から禅を学んだのでした。
 玄雄は、説き伏せる説得ではなく、接するという意味での得がよいとしましたが、この辺に、精神療法的姿勢が見えます。また、治癒への「こつ」は善光寺床下のお戒壇巡りのように暗闇を進むところにあると教えましたが、この辺は禅的です。また晩年は真宗に傾倒し、「不断煩悩得涅槃」、「自然即時入必定」といった『正信偈』の言葉をよく引用しました。禅だけでは厳し過ぎるので、包容的な面も導入したのかもしれません。

 
 


 
 

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 これは宇佐玄雄の日記指導ですが、コメントの例として、画面の左側には、「自己診断をやめて指導通りに従って居れば必ず治ります」と書いてあります。接する接得よりは、説く説得のニュアンスの方が強い感じを受けます。

 
 


 
 

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 右は、晩年の玄雄先生の写真で、左は、「一殺多生」という真宗大谷派で戦時に用いられた、ちょっと物騒な言葉ですが、これを玄雄先生が色紙に書かれたもので、厳しい面があらわれています。

 
 


 
 

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 これは、厨房で割烹着をつけて田楽の作り方を教える宇佐玄雄です。患者と共に入浴したり、行事のときには掛け合い漫才をしたりする庶民的な面も有しておられました。

 
 


 
 

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 次に宇佐晋一先生ですが、昭和32年に玄雄の逝去に伴い、30歳になる直前の29歳から院長になり、禅的色彩の濃い療法を継承されました。その一方で、その頃京大精神科で行われるようになっていたECTや薬物療法を導入されたので、精神病院としての顔も持つようになりました。
 しかし天龍寺の平田精耕老師から「禅を花とするなら森田療法は造花だ」と評されて、療法を花に近づけようと精進なさったそうで、より原理的な「禅的森田療法」へと向かいました。この療法の大きな特徴は「不問」に尽きました。“Dharma-Centered Therapy”だと仰ったこともあって、これはさすがだと思いました。しかし治療者患者関係については、人間的関係は「ない」とされるので、治療者はかえって崇拝の対象になり、理想化転移が起りがちでした。「宇佐療法」という呼称が積極的に用いられるようになったのもそのためです。

 
 


 
 

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 これは玄関を入ったところに掲げられていた扁額で、「説きおわれるなり」という禅語です。最初から説きおわっているので、話はありませんぞ、と「不問」の接遇を示しています。

 
 


 
 

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 入院での修養生活は、第1期から第3期または第4期までの入院原法が維持されていました。その中での特徴と言えば、院長の講話と美術スライドが、それぞれ週3回あり、昔かわらず古事記の音読が指示されており、日記指導は作業についての工夫と実践が評価されるものでした。心についての言語化や問答は一切ない生活です。

 
 


 
 

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 修養生と呼ばれる入院患者に向けて、このような掲示がしてありました。「たった一人の集団生活」、「しゃべる人は治りません」。これ以外に「話しかける人には答えないのが親切」という掲示もありました。

 
 


 
 

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 次に、宇佐父子の特徴を改めて整理してみます。
 まず、森田正馬に照らして、宇佐玄雄の特徴を示します。
 治療の場と構造は、森田が自宅において家父長と内弟子のような関わりを持ったのに対して、玄雄は、禅寺風建物を場として修養的生活をさせながら、森田同様に身近な存在者として指導しました。治療関係は、森田は説得療法の限界を知って自分の療法を始めたにも拘らず、なお説得的なところがあったようですが、玄雄の場合、接する接得だと言いながら、説明し、説いてやる説得に流れていた節があります。この辺に、治療者としての二人の人柄に似たものを感じます。
 家庭的療法という面では、玄雄の場合、自宅ではなく病院ですので、森田と同じようにいかなかったのは、やむをえません。
 治療者像は、厳父でありかつ慈父であったこと、および治癒の過程は、実際生活の中で人間的な薫陶が進むところにあったことは、両者において同じでした。

 
 


 
 

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 宇佐父子の比較です。禅寺風建物の場で、禅的生活が用意されていたことは全く同じですが、玄雄の身近な指導と異なり、二代目では「不問」の徹底により、接する接得も希薄な関係性のない関係となり、従って家庭的ではない療法になっていました。治療者は、しばしば崇拝の対象になり、理想化転移の起った状態が、ひとつの治癒のタイプになっていました。また、二代目は戦後の医師でしたから、薬物やECTも導入されました。

 
 


 
 

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 これは、森田と宇佐父子の三人を、ひとつの対照表にしたものです。重複しますので、説明を略します。

 
 


 
 

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 まとめのようなことを言いますと、玄雄先生は、禅に精神医学を加えて、森田療法を継承された。晋一先生は、戦後の精神医療を取り入れつつ、一方禅を原理的に追求なさった。
 二人の治療者像は対照的だったが、三聖病院が入院原法のサバイバーとして、90年余を生き抜いた功績は大きい。

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