アルコール依存症に対する森田療法
2016/10/15
2016年10月8日、日本アルコール・アディクション医学会(東京)
(発表している 海野 順 医師)
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1.依存を生きる
臨済義玄は、自由自在に躍動し、ありのままに生きる人のことを「無依の道人(むえのどうにん)」と言った。難解だが、仏性を体現して何にもとらわれない十全の人のことである。
森田正馬は、「自由」とは独立独行であり、他者の奉仕を求めるところに自由はないと言った。主体性なくして、わがままなばかりで人を頼みにしていては、本当の自分らしい生き方はできないという戒めである。
臨済や森田に共通するものは、依存やとらわれのあるところに自由はなく、依存やとらわれから離れてこそ、自由で健全な生き方があるという教えである。そこには尤もな道理が説かれていると言わねばならない。しかしまた、実際には、それは難しい道である。無依の道とはどんな道であろうか。
人は愛に渇き、生に執着し、傷ついては癒やしを求め、群れて共生し、互いに共依存し、社会集団に帰属し、神に祈り、仏に帰依して日々を生きている。人間は独りで生きられよう筈もない、か弱い存在である。人は皆、いわば依存症を生きているのである。
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2.三聖病院での経験
何かに依存しなければ生きるのが難しい人間であってみれば、神経症圏内の人たちの中に、さまざまな依存の病理があって当然だと思う。
森田療法の三聖病院で長年勤務した経験を持つので、思い返してみるのだが、そこで出会った依存症の患者さんの数は、さほど多いものではない。その中で、アルコール依存症の患者さんの受診はコンスタントにあった。しかし、閉鎖病棟はないし、入院はすべて任意入院で、自分の意志で入院する人たちに限られていたので、アルコール依存症だからと言っても、とくに目立つことなく、特別な扱いもされなかった。院内に酒を持ち込んで自室で飲んでいる者だけは、強制退院させることになっていた。無断外出はタテマエ上禁止されていたが、実際は外出は自由になっていたので、アルコール依存症者であろうとなかろうと、夕方に一杯飲み屋に出かける者たちがいた。年末には、忘年会をすると言って、入院患者(修養生)の仲間たちが、連れ立って院外の飲み屋に出かけて行った。それが修養の実態であった。飲酒に関しては、入院母集団がこんなであったから、アルコール依存症者はあまり目立つ存在にならなかった。自室での飲酒は厳禁だったことを除けば、断酒という厳しい掟がないために、かえってほだされて、緩やかにアルコール依存が軽快していく効果があったのであろうか。そこのところは、よくわからないままである。
それより、三聖病院は、カリスマ性を帯びた「院長先生」への依存が生じる温床のような場であった。か弱き人間の中でも、とりわけか弱い神経症圏の患者さんにとって、「不問」の環境で黙って君臨なさっていた「院長先生」は、まさに偶像のようで、崇拝の対象となった。こうして関係依存が醸成された。
アルコール依存症でも、神経症と言うより、気の荒いパーソナリティ障害に近い人たちは、アルコールという物質への依存を「院長先生」への関係依存に変えて、競って「院長先生」を守る忠臣となり、用心棒になった。治療者の責任をつくづく考えさせられた。
私自身は、自分が外来で治療に当たっていた女性のアルコール依存症の患者さんのことが記憶に新しい。神経症ではなく、境界性パーソナリティ障害だった。
幼児期に両親と別れて、波乱の生い立ちを経て、十代よりホステス、男性遍歴、アルコール依存、非合法薬物依存という半生を経て、その後は薬物を断ち、その筋の人たちとの交わりから逃れて、子どもを育てながらみずから立ち直って生きようとする意志を持った人であった。以前にいた社会から足を洗った代わりに、アルコール依存が重症化し、摂食障害も伴っていた。子育てを理由に、自助組織への参加も入院も拒み、かれこれ数年間、私の外来に来た。
過去の交友関係から逃れようとしても、逃れ切れなかったり、身に覚えがないことで突然警察が家宅捜査に来たりした。そんなことがあるたびに自暴自棄になり、飲酒が増した。自殺未遂も起こした。情緒不安定だが、この人物の内面には、立ち直ろうとする糸のような意志が続いているのが見えた。子どもたちといるのが、生きがいのようだった。過去からの誘惑には負けないでいる。それでこちらも腹を決めて付き合った。まず森田療法ありきではない。森田療法だからどんな技法で、ということではない。不問でなく、話を聴いてやるしかなかった。こちらからは詮索しない不問の姿勢を取った。受診の間隔が途切れたとき、死んだのかと密かに心配した。そしたら、死にたくて遠くの地まで出奔したけれど、帰ってきたと言って姿を現した。
当方への初診後数年経ち、波乱は徐々に緩やかになり、酒量も多少減ってきた。通院も間隔が空くようになった。しかしまだ何が起こるか、わからない。そんなとき、病院は閉院を迎えた。そしてこの患者さんとの別れの時が来た。
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3.海野 順医師の学会発表
若手ながら、アルコール依存症を中心に依存症の診療に従事し、森田療法的アプローチを取り入れている精神科医師がいる。聖和錦秀会 阪和いずみ病院の海野 順医師である。京都森田療法研究所の臨床研究員にもなってくれている。海野医師は、去る10月8日に、平成28年度日本アルコール・アディクション医学会学術総会で、次のような題目の発表をなされた。
「現実逃避型のアルコール依存症患者に対する森田療法的アプローチ」
既に発表された際のスライド画像を、このホームページの「研究ノート」欄に提示しておく予定なので、研究発表のあらましは、いずれスライド画面より読み取っていただけると思う。
発表の背景として、次のような事情があったという。所属病院の位置する大阪では、病院外部には、自助グループや作業所などの社会資源があって、行動療法的に機能している。また院内では、認知行動療法中心のテキストを用いた治療が体系化している。しかし、神経症者においては、知性化によって解決を図ろうとするため、実際には行動が後回しになりやすく、失敗するケースが複数浮上している。そのため、神経症的な患者に対して、森田療法的アプローチをして有効性を認めたとのことで、そのような症例についての報告がなされた。
治療については、院内、院外での自助グループにおいては、概して指導者が、説明的、説得的になり、かつメンバーに対して体験の語りを強いて勧める傾向があり、ややもすると個々の神経症的患者の内面の進展にそぐわないことになり、その点を考慮して治療を進める必要がある。そのような観点から、まずは治療関係において、基本的信頼 basic trust を築いた上で、「不問」を旨とし、患者みずからが過去や現在の現実を、あるがままに受けとめて、歩を進めていくことを重んじる。そのために、治療者は患者の存在を無条件に肯定し、その同行者となる。
このような治療者患者関係を媒介するものとして、海野医師は、独自の発案で禅の「十牛図」を用いた。その用い方も斬新である。「十牛図」の詳解を敢えてせず、各図の名称を目次のごとく示して、目次の意味を教えるのみにする。そして呈示した十枚の図のうちで、現在の自分に対応する図を選んでもらい、その状況について話題にする、というものである。
私は、海野医師のこの臨床的試みがおこなわれていたことを予め十分に知っていたわけではなく、学会発表の少し前に詳細を知ることになった。改めて私も、依存症に対する精神療法に関心を持ち、いくつかの文献を読んだ。そして、大嶋栄子先生の「女性のアディクションへの援助」という文献(精神科治療学、Vol.8、増刊号、2013)を読み、そこに書いておられることと、「十牛図」の発想とが通じることに驚いたのだった。大嶋先生が記しておられることを、最終章の一部を引用して、示しておく。
「何年にもわたるこうした辛さを乗り切っていくには、自分がいま、長い人生(life)のどのあたりにたたずんでどちらへ行こうとしているか、それを指し示す案内板のようなものが必要だ。(…)そして道中を同行する人がいるとなお良い。同行者とは途中で異なる道を歩むこともあるが、行く先で別の同行者と出会うこともある。」
もしかして大嶋栄子先生のこのようなご指摘に合わせて、「十牛図」の活用を着想したかもしれないと思ったが、海野医師は、大嶋先生の文献を事前にまったく知らなかったよしである。面白い思想的符合に、私はいささか驚いた。そして、ベテランと若手の二人の臨床家の治療的思想に、森田療法の立場から大いに共鳴したのだった。
さて、このような治療者患者関係は、森田療法的な「不問」と深く関わることに、再度言及しておきたい。
「不問」は、重層的な意味を含んでいるのである。
1)<治療者患者関係における、患者の訴えに対する不問>
神経症の患者さんの執拗な愁訴をいくら聴いてやっても、生産的な結果にならないから、聴かずに置く、という意味で通常使うことが多い。
2)<本人が自分自身の心の整理をつけられないまま、それを問題にするのをやめて前進>
反省するのはよいことだが、ほどほどでよい。後悔することや、トラウマを想起することもあろうけれど、「心に解決なし」である。そのままで、今を生き、一歩ずつ踏み出して歩いて行こう、という促し。
3)<治療者や指導者にとっての心得としての不問>
患者さんやメンバーさんの心の中に、土足で立ち入るような無神経なことをしないこと。相手を察して、問い詰めない。追い詰めない。ほどよい距離で「同行」する。
「十牛図」を四国八十八カ所のお遍路になぞらえたら、患者と治療者は「同行二人(どうぎょうににん)」で、「十牛図」を呈示している治療者が、当面は弘法大師役。しかし禅では、臨済義玄が「殺仏殺祖」を言ったように、弟子は師を乗り越えて行く。森田療法もしかりである。「十牛図」とお遍路には、微妙な重なりと相違があるようだ。
以上、文責はすべて岡本にある。