森田療法のディープな世界(3) ―「悩む力」としての神経質の本態―

2023/12/24

 

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3. 「悩む力」としての神経質の本態
 
1 ) 療法の原点
 森田療法に禅に通じる面があることは一般に知られてきた。けれども、この問題に正面から迫ることは難しい。森田療法家の多くは禅を極めていないし、禅家たちの多くは森田療法を知らないようであるから、知らぬ者同士である。森田療法と禅の双方に精通して、両者の関係を明らかにできる権威者とては不在に等しい。
 療法の創始者、森田正馬自身においてさえ、その内面で禅への関心と批判が葛藤していた。森田正馬はいきなり禅を活用したのではなく、神経質の治療にあたって創意工夫をして、それが禅と重なっていったのだった。そこで療法の成立をさかのぼって、禅との関係の原点を神経質者の心理的特性に探ってみたい。
 

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2 ) 悩める葦
 人間は考える葦であると言われるが、人間は考えるがゆえに悩む。神経質者は、考える一茎の葦であるが、同時に悩める一茎の葦なのである。神経質者は悩みによって成長する。したがって神経質者には悩んで成長する特有の力があるとして、それを「悩む力」と呼ぶことができよう。ただし、その「悩む力」は、素質として体質的に秘められていると捉えうるのかどうか。その点は少し議論が必要であろう。
 

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3 ) 弱さを生きる
 人間は誰しも四苦八苦を生きねばならないか弱い存在である。そのような人生の苦に対して、神経質者はとくに敏感である。森田は神経質の特徴のある部分を指して、ヒポコンドリー性基調と称したが、これは神経質者のそのような敏感さを指してのことだったのであろう。何かにつけて悩みやすい、悩まざるをえない性質を有しているのである。ここまでは素質であり、神経質者は悩みを経験するように仕込まれている。そして、悩む経験から、悩みのままで生きていく力が育まれる。つまり「悩む人」としての生来的な特徴を有するがゆえに、「悩む力」を自己涵養する契機に恵まれているのである。
 

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 「悩む力」は弱さではなく、ひとつの強さなのである。森田正馬自身、形外会で「弱くなりきる」ことを教えているので、次にそれを引用しておく。
 
 「自分が小さい、劣等である、どうにもしかたがないと、行きづまった時に、そこに工夫も方法も、尽き果てて、弱くなりきる、という事になる。この時に自分の境遇上、ある場合に、行くべきところ・しなければならぬ事などに対して、静かにこれを見つめて、しかたなく、思いきってこれを実行する。これが突破するという事であり、「窮して通ず」という事である。」(第28回 形外会、森田正馬全集 第五巻、p.282)
 
 弱い自分のままで、しかたなく行動するとき、事態が突破され、「窮して通ず」になると、森田は教えている。禅では、悩みや苦しみの果てに、「大疑ありて大悟あり」という転回の境地があるとするが、「窮して通ず」という森田の教えは、「大疑ありて大悟あり」につながるものである。
 

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 森田は、苦痛とともに生きた人物の例として、正岡子規を挙げた。また少し長くなるが、形外会での森田の語りを以下に引用しておく。
 
 「正岡子規は、肺結核と脊椎カリエスで、永い年数、仰臥のままであった。そして運命を堪え忍ばずに、貧乏と苦痛とに泣いた。(…)それでも、歌や俳句や、随筆を書かずにはいられなかった。その病中に書かれたものは、ずいぶんの大部であり、それが生活の資にもなった。子規は不幸のどん底にありながら、運命を堪え忍ばずに、実に運命を切り開いていったということは、できないであろうか。これが安心立命ではあるまいか。」(第25回 形外会、森田正馬全集 第五巻、p. 261)
 
 正岡子規の生きざまは、森田が示した「弱くなりきる」ことを実際に体現した人物として、まざまざと私たちに迫ってくる。
 
 次に、一風変わった 博多の禅僧、仙厓義梵が柳の姿をよんだ狂句があるので取り上げておく。
 
 「気に入らぬ風もあろうに柳かな」
 
 風に吹かれるままに抵抗せずにしなっている柳の弱い姿は、即ち強靱さにほかならないのである。
 
 一方、意外にも最近の治療思想の中に、森田療法に通じる教えを見出すこともある。マインドフルネス瞑想の指導者、ジョン カバット-ジン Jon Kabat-Zinn は次のように教えている。
 
 ” You Have to Be Strong Enough to Be Weak ” (弱者でいられるだけの強さを持て)と。
 
 それは、いつの世にも重要な人間の生き方なのである。
 

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 以上に、森田療法で本来の治療対象とされた神経質というものに秘められた性質について考えてみた。神経質者は、「悩む人」としての生来的な特徴に発して、弱さを生き、「悩む力」を自己涵養できる人である。神経質の本態は、そのような素質から成長までの全過程にあるとみなすことができる。また、その治癒過程における禅的な契機についても少し触れた。