関西で生きている森田正馬の教育―和田重正先生から松田高志先生へ―

2016/05/15

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              松田高志先生 著『いのち輝く子ら―心で見る教育入門―』

 

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 知る人は少ない。
 森田正馬の本物の教育が、静かに関西に到達して、この地の一隅に根づき、神戸女学院大学の松田高志先生を中心として、それは脈々と生きていた。
 

1. 関西で発見、森田正馬の教育
 森田正馬に直接指導された経験を生かし、神奈川県の小田原で、在野における教育活動に一生を捧げた和田重正という人がいた。そしてその和田に直接師事された方が関西におられる。神戸女学院大学教授(現 名誉教授)の松田高志先生である。松田先生は、和田重正を経由して森田正馬の孫弟子にあたるわけで、森田の、そして和田の教育を継承し、その真髄をご自身の教育に生かし続けてこられた。森田療法の表舞台には登場なさらなかったので、松田先生の地道な教育活動は療法の主流の側からほとんど脚光を浴びることはなかった。けれども、神戸の大学や奈良県の農場で、長年にわたり「いのち輝く」教育の活動を実践してこられたのだった。

 

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2. 松田先生のご自宅を訪問して
 かつて神戸女学院大学に在学中に、松田先生の研究室のゼミ生だったK様(女史だが、様づけでお許しいただく)は、花園大学禅文化研究所の職員で、禅文化のお仕事に携わっておられる。10年近く前、私は禅関係の行事に参加して、K様とお話しする機会があったときに、松田先生のことや和田重正氏のことを教えていただいた。私にとってそれは初めて聞くお話だった。森田療法に関わるひとつの重要な流れなのに、そのことを認識するまでに少し時間がかかった。恥ずかしい話である。
 その後、森田正馬の次世代の人たちの活動について調べる機会があり、その方向から和田重正という教育者がいたことを知るに至る。こうして和田の流れを汲む関西の人であり、K様から伺っていた松田高志先生へと、関心が改めて収斂した。そこで先生に一度お目にかかりたく、ご連絡を取った。
 しかし、その松田先生は、2年前に思いがけない病を得て入院され、昨年ようやく退院なさって、その後は在宅でリハビリ生活を送っておられた。さいわい、K様ら元同級生の方々が同行して下さり、去る3月下旬に宝塚市のご自宅を訪問した。

 松田先生は京都大学教育学部のご出身で、ご自分の人生問題に悩みながら、教育の基盤としての教育人間学を専攻してこられたのだった。そんな中で和田重正氏と出会い、その教育観と生きた実践に触れ、以後長年和田重正に師事しつつ、教育の思想と実践を身近な全体として捉え、地道な活動を続けてこられた。数年前に神戸女学院大学をご定年になり、スローライフをますます充実した活動に生かそうとしておられた。
 しかしその矢先に、突然急な病に襲われ、思いもよらない体験をなさったようである。長い入院生活を経て、昨年退院され、現在はご自宅から通院してリハビリを続けるというスローライフを送っておられる。
 お宅を訪問したときは、車椅子に腰掛けて受け答えをして下さった。お聴きしたいこと、お尋ねしたいことが沢山あり、つい私ひとりが長時間にわたり松田先生を独占し、先生はお疲れになったに違いない。反省しきり。
 リハビリ中の松田先生がおられるだけで、その存在感は大きいけれど、やがて全快を見込めるようにて、現役に復帰して下さる日が遠くないことを、ひたすら願うばかりである。
 
 

いのちのシャワー

                松田高志先生 著『いのちのシャワー』

 
 
3.高志先生の高き志の行方
 松田先生は若き日に悩みを体験された。そして人びととの貴重な出会いに恵まれて、求めていた奥深い教育は、「ありのまま」に生きるという、身近な生活そのものにあることに気づかれたのだった。それは先生個人の内面の軌跡に関わるが、ご自身の人生のことについては、文章にしたり、語ったりしておられる。雑誌「禅文化」の207号、208号(いずれも2008年刊)に、人生の転機や人生における出会いについて、自らの経験を書き記しておられるので、それに拠りながら簡単に先生のことを以下に部分的に紹介する。
 
 
 高志少年は、理想の教育をするという夢を抱き、大学の教育学部に入学した。しかし大学に入ってから、学生生活に悩むことになる。
 悩みを抱えたまま大学院に進学。たまたま相国寺の坐禅会(智勝会)の掲示を見て、坐禅に参加し、熱心に通い続けた。
 当時相国寺には、僧堂に住み込んで雲水たちと一緒に修行している医師がいた。江渕弘明という森田療法をやっている医師だった。あるとき、その江渕先生の方から声をかけてくださって、「ありのまま」に生きればいいのだと教えられた。それで少し前向きになることができた。
 さらに幸運なことが起こる。大学の指導教官の後任として、智勝会の大先輩の上田閑照先生が教育学部に就任されて、親しく指導を受けることになった。
 その後ドイツに留学し、帰国後に江渕先生に再会する。そのころ、和田重正の著書『葦かびの萌えいずるごとく』を気に入って読んでいたが、不思議なことに、江渕先生からその本を薦められた。江渕先生は森田療法を通じて和田先生と親しかったのである。江渕先生は、和田先生が関西に講演に来るから紹介しようと言ってくれた。奈良での講演会で和田先生に紹介された。そして和田先生の私塾「はじめ塾」の合宿所「一心寮」での夏の合宿に来るよう勧められて、その夏に参加した。そこで生活を重視している和田先生の教育に触れて、以後十数年、和田先生に師事することになった。
 
 
 和田重正氏が開いた「一心寮」は、想像するに、森田正馬の入院原法と重なるところが多かったのではないだろうか。禅寺での修行のような規則づくめではなく、合宿としてある程度の規律を保ちながら、その中で自由に手分けして作業をし、講話を聴き、話し合いもするという、押しつけられない生活の中で、いのちの力が自然に発露する体験ができるのであろう。失礼な言い方になるかも知れないが、松田先生は、いわばここで森田療法の入院のごとき体験をなさったのだと思う。
 また、松田先生は、和田重正氏が発足させた「家庭教育を見直す会」(くだかけ会)の活動を関西で引き受ける中心人物として、和田に協力なさり、奈良県の御所市にある和田の本家の農場を借りて、「関西くだかけ農園」を教育に活用なさった。神戸女学院大学の学生たちを連れてここに通い、野菜や米を作ったそうである。そして学生たちは、先生の家に集まり、収穫した米でおにぎりを作って食べたそうである。

 
 

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             和田重正 著 『葦かびの萌えいずるごとく』(柏樹社 刊、昭和39年)

 
 
4. 江渕弘明先生のことについて
 若き日の松田先生が、悩みつつ相国寺の坐禅会に通っておられたときに、僧堂で修行を重ねておられた江渕先生が、森田療法の指導をなさったという。さらに何年か後に、江渕先生は、和田重正先生に松田先生を紹介して、両者を結ぶ絆を作られたキーパーソンである。松田先生から伺ったお話から察するに、江渕先生は和田重正と同世代にあたる人である。
 重要な人物であるが、ここではこれ以上の言及をひかえておく。
 

かびめもえいずる

           和田重正 著 『葦かびの萌えいずるごとく』新版(地湧社 刊、平成26年)

 
 
5. 和田重正氏と「はじめ塾」・「一心寮」、「くだかけ会」
 和田重正は、両親が教職者である教育一家の次男として、鎌倉で生まれた。父がアメリカに留学中に、重正7歳のとき、母は病死した。幼くして母をなくした悲しみは少年の心に深い影を落とした。旧制浦和高校在学中の17歳頃から以後、長い年月、人生の問題に悩んだ。昭和4年に東大法学部を卒業するも、就職をせず、屁理屈ばかり考えて現実を避け、玉突き屋に通っていた。苦しみは高じて自室に引きこもり、自殺念慮を抱き、遂に遺書まで認めたのだった。
 そんなとき、部屋の外に咲き始めている桃の花を見て、新鮮ないのちが湧き上がる喜びを感じ、新生の体験をした。入院森田療法に喩えるなら、第二期の体験に似ているように思われる。重正は森田正馬のもとに入院したこともあったが、そのときに劇的に救われることはなかった。しかし、森田から与えられた「事実唯真」、「ありのまま」という言葉を自分の中で温め続けていたという。それが盤珪禅師が梅の花の香で悟ったような体験に通じたのだった。
 心機一転した重正は、教育の道を志す。昭和12年に東京で父の屋敷内に、寄宿寮「一誠寮」を開き、昭和17年に小田原に疎開して、その地で「はじめ塾」を開いた。通学と寄宿教育を扱った。 昭和39年には、「はじめ塾」の合宿所として、西丹沢に「一心寮」を開設した。
 このような和田重正の教育の根本は、生活体験の中で、自他の区別のない「いのち」に目覚めることであった。自己を犠牲にして他者に尽くすべし、というような外圧的な道徳教育の教条性を批判するものであった。逆説的に、和田の教育は、自己の欲望を深く追求することを大切にした。外面でなく、自己の内面に本心がある。目先のケチなことにとらわれず、本心を取り戻そう。本心は、湧き上がるいのちの力であり、成長への欲望、他者と喜びを共有したい希求である。生活の中でそれを回復し、発揮しあって、気持ちよくなろうとする教育なのであった。和田はこのような教育を、道徳教育と対置して、「人生科」と言ったのだった。
 この和田の教育を知って、親たちや子どもたちが、「はじめ塾」と「一心寮」に数多く集ったのだった。
 和田はさらに学校における教育の危機的状況に対して、視点を家庭に向け、父母たちを対象に「家庭教育を見直す会」を昭和53年に立ち上げた。それは「くだかけ会」と称され、機関誌「くだかけ」が発行され、各地で集いが開催された。「くだかけ」とは、ニワトリの古語で、母ドリがエサを欲しがるヒヨコに心をくだく、心をかけるの掛け言葉なのである。
 平成5年に和田重正は没した。「はじめ塾」は重正の長男の重宏氏を経て、そのご子息の正宏氏に受け継がれ、「一心寮」は「くだかけ生活舎」となって、重正の次男の重良氏に受け継がれている。 松田先生は、「一心寮」や「くだかけ会」と関わってこられた流れより、現在も「くだかけ会」(会と組織の名称)との交流を保たれている。

 
 

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            大阪くだかけ会の開催を報じた、昭和58年の京都新聞の記事。

雑誌 PsyCause 日本特集号が出ました

2016/05/05

 2014年10月に京都で開催した「フランス語圏内国際PSYCAUSE学会」での、日本人の発表原稿を論文化したものを中心に、他の日本人の先生方にも寄稿して頂いて、雑誌 PsyCause の日本特集が成立しました。正確には、2つの特集が収められていて、そのうちの主要特集が、Cahier japonais です(もうひとつの特集はアフリカ)。本誌は昨年(2015年)の最終号なのですが、発行が遅れたものです。この号より、全論文にカラー写真が添えられて、内容だけでなく見栄えも美しく仕上がりました。
 

表紙画像

         雑誌の表紙。2014年秋、閉院間近い三聖病院にフランス人たちが訪れた。
         写真はその際にフランス人が撮影した宇佐晋一先生。

目次画像

         目次のページ。Cahier japonaisの各論文の著者と論文タイトルをご覧あれ。
         画像を拡大すると読みやすくなります。

 
 なお、森田療法に関係のある論文のみ、「研究ノート」の欄で読んで頂けるようにしておきます。

森田療法「サ・エ・ラ」~(4) 『迷いの道に咲く花は』 : 蜂たちの「人生いろいろ」~

2016/04/24

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 かつて「この世の花」というヒット曲で、一世を風靡した女性歌手がいた。「からたちの花」も咲かせた。そして50代の坂にさしかかろうとするときに、「人生いろいろ、男もいろいろ、女だっていろいろ咲き乱れるの」と歌って、人びとの心をつかんだ。時の内閣総理大臣までが、国会答弁で「人生いろいろ」と言った。
 「お千代さん」と親しまれた歌手、島倉千代子さん自身の人生にもいろいろなことがあったようである。花は咲き、花は散る。お千代さんは癌で逝った。
  ほぼ、そんなお千代さん世代の老(若)男女、十数人が、花園大学禅文化研究所所長の西村惠信先生の膝下に、週一度禅を学びに通っている。
 この勉強会(研究会)は、約20年前に始まったらしい。西村惠信先生という「善知識」のお人がらを慕い、その該博な禅知識に魅せられた人たちが、集っている会である。それは通称、「BEE(ビー)の会」と呼ばれている。その名称の由来は、花の蜜を吸おうとして蜂たちがやって来るごとくに、西村先生という大輪の花のもとにメンバーたちが集まっているからだそうである。私も蜂たちの仲間入りをして2年になる。「入ったら出られない蟻地獄かもしれないから、蟻の会」と、私はどこかで冗談を言ったことがあるが、これはブラック過ぎる冗談なので、訂正せねばならない。西村先生の度量は大きい。来る者は拒まず、去る者は追わず。過去20年間に、多くの人たちが吸い寄せられて、しかしそれぞれの事情で会を離れている蜂たちも少なくない。ときどき出戻りの蜂もやって来る。そんな開かれた会で、場の雰囲気も自由そのものである。メンバーたちが師と対等にものを言い、ときには師の説明に対して「違う」と言って、それを正す。だから寄ってたかって師を刺す蜂の会のように見えて、私は最初驚いたものだった。もちろん礼を失してはならないのは言うまでもないのだが、禅の大家を囲んでこんなに自由にものを言える会があるのは、有り難いという一言に尽きる。
 会ではこれまでに様々なテキストを読んできたようだが、現在は『信心銘』について元代に書かれた『信心銘中峯廣録』という書物の原典を読んでいる。漢文を読みこなせない自分には、これは格別に難解で、およそ歯が立たない。なのでやりとりの話だけを聴いているが、週一度通うその度ごとに、一匹の蜂としてなにかを教えられる。とにかく有り難い会である。
 

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            西村惠信先生ご自身筆、蜂の絵

 

 今年は臨済禅師1150年、白隠禅師250年遠諱記念で、禅の文化や思想を見直す催しが相次いでいる。4月から京都国立博物館で、「禅ー心をかたちにー」という特別展が開かれており、先週、西村先生とBEEの会のメンバーがこぞって博物館に行った。館内は、集められた臨済禅の形象で満ち満ちていて、それらに圧倒される。それにしても、「心をかたちに」ということは、意味深長である。
 日本画の橋本雅邦は、「無心」を重んじた。そして、画の真相は形よりもその神にある、と言った。森田正馬は、そのような橋本の美術思想に感銘を受けて、雅号を「形外」としたのだった(そう確信した事情は、小著『忘れられた森田療法』に書き留めておいた)。博物館内には、橋本が批判した狩野派の画家の絵もあった。橋本雅邦や森田正馬なら、こんなさまざまな禅の「心のかたち」をどう見るだろうか。そんなことを思いながら博物館を出た。

 

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 昨年、西村惠信先生は、BEEの会の老(若)男女たちにおっしゃった。「皆さんはこうして勉強会に来てくれていますが、それぞれに理由や動機があるはずだから、皆でそれを書いて本にしませんか」。それで私家版で文集を出すことが決まった。刊行は昨年末に予定されていたが、やや遅れて、今年の3月に『迷いの道に咲く花は』という書名で日の目を見た。その命名は西村先生による。「迷悟一如」と同じ意の、「悟りは迷いの道に咲く花である」という某禅者の言葉から、本のタイトルをおつけになったのである。題字も表紙の絵も、文中に添えられている挿し絵も、すべて西村先生の筆になる。
 この本の中にはさまざまな花が咲いている。「赤く咲く花、青い花、この世に咲く花数々あれど」、咲いた花はやがて散る。「迷いの道に咲く花は」、まさに人生いろいろである。

 

 同書の内容のうち、わが拙文の部分は、昨年このホームページに先行的に紹介した文章と同じものです。三聖病院での勤務体験より、森田療法から禅へと「己事」の「究明」に向かわざるをえなくなった事情を書き記した一文です。花ではありませんが、その部分を以下にPDFで収めておきます。
 

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「エッケ・ホモ(この人を見よ)―私が蜂になった理由―」
 
 
 

IT入力のアルバイト・スタッフ(非常勤)募集

2016/03/31

 この記事については、「お知らせ」欄をご覧下さい。

「ささやかな」研究所の「ささやかな」活動―京都森田療法研究所活動報告―

2016/03/31

 森田療法の分野に、こんな研究所があってもよいだろう。小さな規模で大きな夢を。いや、大きくなくても一寸の虫として五分の魂を生かせればいい―。そう思って活動を始めました。
 
1.一寸の虫の五分の魂による三つの理念
 ・森田療法の「温故知新」。
 ・学際的研究。
 ・生活の体験の中に智恵を深め合う。
 
 ホームページの冒頭に掲げている通り、こんな三つの理念の下に、ささやかな研究所を平成24年の1月末にスタートさせました。活動が円滑に進まないこともある現実に直面しつつ、4年余りが経ちました。年度変わりを1月とするか、4月とするか、どちらでもよいのですが、4月を迎える今の季節は、気分も新たになる節目です。気分本位でも、この機会に過去の4年余りの「ささやかな」活動を振り返り、そして4月からの新たな継続を、事実本位に見据えていきます。
 

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2.これまでの4年間の活動
 まず、過去4年間の年ごとに、おこなった主要なことを列記します。
 
 ●平成24年
 森田療法についての日頃の考えをホームページに記述して発信することを開始。全国の方々と自由に討論できることを期待した。反応は多少。一方、地域的拠点の京都を中心に、関西圏内で交流できるオフ会的研究会の組織を模索するも、反応は消極的でした。しかし、森田療法の生かし方に関心をお持ちの方々が、随時個人的に訪れてくださるようになりました。「朋、遠方より来たる有り」。

 ●平成25年
 以前から関わっていたフランスとの国際交流が活発化。

 ●平成26年
 フランス語圏国際学会組織 PSYCAUSE の第10回国際学会会長を引き受けることになり、10月に京都で学会を開催した。
 12月に三聖病院閉院。病院の歴史的資料の保存のために、三聖病院記念館設立の要を感じて、孤軍奮闘を始めた。
 波瀾万丈の1年だった。

 ●平成27年
 たった独りでの三聖病院記念館設立は成らず。代わって個人的に「スペース・レア 三聖病院記念品保存室」を設けた。
 課題だった研究所の年報のような出版物の刊行ができず、個人の著書『忘れられた森田療法―歴史と本質を思い出す―』を世に問うた。
 前年の PSYCAUSE国際学会(京都)の成果を掲載する学会機関誌の日本特集号の編集に関わる。年末の予定だったその雑誌の刊行が遅れている。

 ●平成28年
 「スペース・レア 三聖病院記念品保存室」閉室のやむなきに至る。
 前出の雑誌の日本特集号は、4月に発行される予定。
 
 当初より、研究所の活動の趣旨として、国内での地道な活動に繋がる三つの理念を謳うにとどめ、国際交流を掲げるのを控えていました。しかし、以前からやりとりのあったフランス側は、極東の日本に関心を寄せ続けていました。森田療法の紹介については、皮相に流れぬよう慎重を期していましが、メールの通信で森田療法のことに言及しようものなら、相手は満を持したように食いついてきます。結果的にグローバル化の波に乗ってしまいました。京都での国際学会開催を引き受けざるを得なくなり、また、折しも閉院間際の三聖病院に、フランス人の団体の訪問を受け入れるというハプニングを実現させました。このような国際交流が蔵する意義を問う考察については、拙著(『忘れられた森田療法』)の中に 記しておきました。
 学際的な交流や研究は、(哲学、禅、教育の分野の方々と)国内で進めています。
 「温故知新」は、主に主宰者が問題意識として終始持ち続けています。
 最も難しいのは、地域における森田療法の研究交流や日常的活動です。今後の課題として浮上しています。

 

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3.会計報告
 平成24年 : 収入 ゼロ 支出 多額
 平成25年 : 収入 ゼロ 支出 多額
 平成26年 : 収入 ゼロ 支出 多額
 平成27年 : 収入 ゼロ 支出 多額    以上
 
 

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4.今後の活動について
 京都駅八条口の間近にあるワンルームマンションの一室が事務所です。居住用のマンションですが、このような入居を認めてもらっているのです。ネット上でクリニックとよく間違えられます。診療やカウンセリングを求めるメールや電話をよく受けますが、診療行為は行っていないため、応じきれないでいます。手狭な一室で事務処理や情報発信をしていますが、京都駅に近くて便利なのは何よりなのです。スタッフとしては、名のみでなく嘱託や客員などの研究員として、研究を共にしてくださる方々を擁し、さらに外部からのボランティアの方にも助けられ、その点は恵まれています。
 小規模ながら、過去4年間、精一杯に活動をしてきました。ただし地域に根ざす活動の問題があります。これについては、無関心であった訳はなく、ニーズに対して私たちは何をできるかを模索してきました。しかし現実には、できないでいました。重たいこの課題を持ち続けていきます。
 4年を経て所期の志は変わっていないので、おそらく今後も変わりません。志を同じくする方がおられたら、この研究所を乗っ取って欲しい、本気でそう思っています。

 

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5.運営の問題
 より卑近なことですが、実は重要で、様々な問題を抱えています。
 安定した組織にするために、法人化することを検討しています。その前に経済的基盤を整えねばなりません。
 また実務的には、ITを扱うスタッフにこと欠いています。主宰者はパソコン音痴なのです。メールの送受信だけはできるので、数少ない語彙での下手な作文で、自宅に居ながらにして毎日のようにフランスとやりとりしていますが、せいぜいそんなことしかできません。研究所にいるご主人様、兼留守番は、大きなデスクトップの1台のパソコンです。彼は(フランス語で、ordinateurは男性名詞なので)、彼自身に届くメール文が怪しいと認識するや、直ちに迷惑メールとして扱ってくれる優れものです。しかし森田療法の研究までは引き受けてくれません。はて、どうしたらよいのでしょうか。

前回の記事を別欄に。および「正馬」の呼称の件。

2016/03/14

1)“Physician, heal thyself”と題した2月8日付の記事は、森田療法についての研究と実践に関心をお持ちの多くの方々に閲覧して頂きたくて、しばらくの間、本欄のトップに置き続けてきました。引き続き目に留めて下さることを願い、その主要部分(書評と書評への応答)を、「お知らせ」欄に再掲載しました。
 より高次の観点からの御叱正、御意見を待ち望んでいます。
 なおブログ題にしていた“Physician, heal thyself”は、本来は新約聖書中の『ルカによる福音書』第4章に、諺として出てくる言葉です。「医者よ、自分を治せ」、あるいは「医者よ、自分を癒せ」と訳されています。ルカは自身が医者だったようですが、上記のフレーズはルカ自身の言葉ではなく、キリストの言行が記述されている中で諺として出てきます。味わい深いフレーズではあります。

 

2)森田正馬の名前は、「しょうま」か「まさたけ」かということは、議論され続けてきました。この問題について発言するほどの関心を有していなかった自分ですが、きっかけがあってこのことについて調べて、一文を草しました。それは、2月15日付で、「研究ノート」欄に掲載しています。

森田療法 「サ・エ・ラ」~(3)Physician, heal thyself~

2016/02/08

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 古い話。大学の医学部を卒業するとき、クラスの皆が一文を寄稿しあって、お別れの文集を作った。「何十年先の自分は、どこかの病院の院長になっている」とか書いたクラスメイトもいたけれど、自分はそんなに先をイメージできなかった。何を書いてよいやらわからなかった自分は、思いついてちょっと気障なことを書いた。そのころ、医者が主人公のある三文小説(翻訳書)を読んだので、その原題をぱくって題目にした。” Physician, heal thyself “である。卒業後は精神医学を選ぶ方針になっていたことと関係があっただろうと思う。そして中身は、ドッペルゲンガーのことについて書いた。と言っても、精神病理学的なことを書いたのではない。何科を専攻するにせよ、医者たる者は、自分が自分を見つめて葛藤することが大切であると思う、というようなえらそうなことを書いた。そんなことをふと思い出しているが、神経質の良き面ともいうべき内省性の必要さを言ったことになる。
 当時の私は、西洋の精神医学に興味を持ったばかりで、森田療法のモも知らず、森田療法のモにも関心はなかった。奇妙なものである。その後、フランス精神医学との関わりを迂回路として、森田療法にたどり着くことになるのだった。
 大学卒業の前後は、紛争の嵐が吹き荒れていて、「自己批判」などという言葉を互いに突きつけるとげとげしいユース・カルチャーが蔓延していた。ノンポリの私は困って辟易していた。困っていたら、ラートロス(困惑的)だなどと「批判」された。反精神医学の旗を掲げる人たちが、精神医学用語を使って批判するので、なおさら困惑したものだった。
 ところで医学部の同級会は、いまだに毎年開かれており、今年も先日出席した。みんな好々爺になり、大昔の「自己批判」を追及しあった嵐は恩讐の彼方に消え、生きている出席者たちが集まった。物故者はもちろん欠席だが、生きているのか世を去ったのかわからない欠席者もいる。さて、同級会のスピーチでは、医者同士が自分の病気の話ばかりしあった。精神科というマイナーな診療科を専攻した私は、クラス会では、何となく肩身が狭かったものだが、年齢を重ねると、うつ病などを患った経験者が増えて、精神科がみんなの身近になったようで、距離がうんと接近した。一方、数年前には、整形外科の医者で、診察室の椅子から転落して大腿骨を骨折して患者として入院し、患者の気持ちが初めてわかった、と言った者がいたが、今年は同じ整形外科の別の医者がこんなスピーチをした。
「腰痛で困っていたので、手術をして脊椎に金属を入れたんやけど、余計に痛くなったわ。皆さん、手術だけはするものやないで。」(その手術は自分でしたんか?と質問あり)。「自分で手術するのは無理やわ」。
 と、こういうことは、実は精神科にも当てはまる。もちろん自分のことは、誰にとっても厄介なものである。しかし外科医が自分の手術をできないのと違って、語弊のある「自己批判」は別として、内省的な自己批判や自己批評は、難しいけれどできるだろうし、しなければならないと思う。
 

 一年近く前に、小著『忘れられた森田療法』を上梓したが、雑誌「精神療法」の昨年の10月号に本書について、書評を頂いた。評者の先生は存じ上げていたので、雑誌上を借る前に直接討論をできればありがたかった、という思いに駆られた。
 また互いの見解の齟齬の片方のみが、不特定多数の読者の目に触れるところとなったことに鑑みて、著者側からの応答も許容して頂けるだろうと思い、寄稿した一文が、同誌の本年の2月号に掲載された。願わくば『忘れられた…』を思い出して頂き、「書評」と「応答」を対比した上で、さらなるご批評、さらなるご批判を頂ければ望外のしあわせです。
 
  書評                                      応答  応答(続)
 
 批評と批判の違いや、適切な批評や批判は文化として必要なのだということを、このところ考え続けていました。
 そんなとき、ネット上で、「批評・批判」についての面白いブログ記事に出会いましたので、参考までに、そのブログ記事へのリンクを以下に置いておきます。
 

人生かっぽ ─佐藤大地ブログ

 
 森田療法は難しいものです。「己事究明」を課題とする禅につながり、自己をみつめるという原点に立ち戻ることを避けて通れません。
 治療側に立つ者ならばなおさらのこと、自己批評、自己批判を続けていかなければいけないと、自戒しています。

森田療法 「サ・エ・ラ」~(2)「禅的森田療法(宇佐療法)」をどう見ますか?~

2016/02/01

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      宇佐玄雄による三聖病院(改築前)のスケッチ

 

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 約90年間続いた三聖病院は、一昨年の12月末に診療を閉じたが、明けて昨年の1月に最後の整理を終えて、2月にさしかかる時に、建物の解体工事が開始された。ちょうど1年前のことである。
 私自身は非常勤の立場で長年この病院にかかわりながら、ここでの森田療法はどういうものなのだろうと、ずっと考え続けた。他に本務を持ちながらの勤務だったので、どっぷり浸からずに、ほどほどの距離で、この病院を体験し、かつ見つめてきたとは思う。途中で勤務の中断もあったけれど、ざっと40年間は長い経験だった。間違いなくここで森田療法について学ばせてもらったことがある。また正直に言って学べなかったこともある。それらは他の場で若干報告した。ひとつの場で何もかもすべてを習得できるとは限らないから、学べなかったこともあると言っても許されると思う。生意気な言い方をすれば、学べなかった不足感が尾を引いているのは、自分が初級から徐々に中級程度に進級できて、目が開かれてきたからかもしれないし、あるいは見方に偏向が生じているからかもしれない。両方の可能性もある。
 しかしながら、私のような者の立場からは、外部の人たちに比べて、また患者様の側の人たちに比べて、病院の全体像を見ることができた。だからそれなりの三聖病院観ができた。逆に言うと、外部の方々や患者様側の方々は、限られた情報しか得られない立場で、三聖病院をどのように見ておられたのだろうと思う。
 今はもう、皆が三聖病院を知り、自由に評価して、森田療法史上に位置づける試みをなさればよいのではないだろうか。そのために、自分の見方を押しつけず、いくつかの異なる情報の存在をお知らせするのがよいと思うような次第である。
 三聖情報はネット上にうようよあるが、狂信から弾劾まで、さまざまなベクトルに及ぶ。そこで、かいつまんで、あれやこれや、いくつか列挙しておく。参考になさって、評価はそれぞれご自由になさればよいことだ。そろそろ、そんな時期になったと思う。
 今アクセスして読んで頂いているのは、ささやかながら研究所のブログのページでありますから、研究をそそのかします。

 

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 以下、いずれもネット上で検索できるものだけを示す(順不同)。
 
1.「森田療法って何だ?」+「ふじたろう」で検索。
   入院体験記あり。
 
2.「三聖病院」+「講話録」で検索。
   このブログでは、以前の院長のいくつかの講話の音声が聴けるようになっている。
 
3.「森田療法の誤解をとく」
   過去に三聖病院に入院体験を有する某氏の、禅的森田療法についてのコメント。
    ・解放させるもの・束縛させるもの
    ・要するに自分いじめ
    ・ムダに悩ませる人(不都合な真実 3)
    ・不都合な真実
 
4.「京都」+「電気ショックの実態」で検索。
 
5.DVD(ドキュメンタリー映画)『ヒポクラテスと蓮の花』『宇佐療法という宇宙』
 
 他にも多々ありますが、とりあえずこれくらいを列挙しておきます。
 任意のひとつだけにとらわれたら、偏狭な見方になること、請け合います。

「担雪埋井」 ─三聖病院記念品保存室(スペース・レア)、閉室報告─

2016/01/25

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 横向きに前進せよ。作った人には気の毒だが、この種のものは、保存困難のため廃棄せざるをえなかった。

 

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 一年前、三聖病院の閉院を受けて、貴重な記念品や史料をとりあえず保存する受け皿が必要との認識より、「三聖病院記念品保存室」を、病院の隣地の賃貸マンション(スペース・レア)に設けて、一年間維持しました。しかし、先の記事にてお知らせした通り、1月24日に閉室しましたので報告しておきます。
 当初、開室することになった際に、「「シシュポスの神話」のようなことをするのですか」、と評してくださった方がおられました。しかし実際には二階へ上がって降りられなくなったのです。二階どころか、スペース・レアでは三階の部屋まで借りてしまった。そしてそのベランダから撮影した解体されゆく病院の建物の写真だけが、三階の産物となったのでした。
その後、私たちのしていることを、「「担雪埋井(たんせつまいせい)」ですね」と言ってくださった方もありました。
 「担雪埋井」とは禅語で、雪を持ち運んで井戸を埋めようとするのだが、雪は溶けてしまって、いくら雪を持って行っても井戸は埋まらない、ということを意味します。その表面上の語義は、何かをなそうと努力しても、そんなに簡単に報われるものではないという意ですが、必ずしもその空しさの指摘にとどまるものではありません。物事はそううまくいくものではないけれども、無駄になること、愚直なこともせざるを得ない場合があるのだ、という深い教えのようなのです。
 三聖病院の元職員の藤岡様のご協力を得て、この一年間、私たちがしたことは「担雪埋井」だったのでしょうか。まあ苦い経験でしたが。とは言え、病院建物の解体直前に、ごみの山の中から拾い上げて保存した物の中には、重要な史料と言えるようなものも少しはありましたから、すべてが淡雪のように溶けて流れて消えたわけでもありますまい。
 藤岡(旧姓吉久)一二三様は、かなり以前に病院に事務職員として勤務なさっていた方です。まったく人さまざまだと思います。退職して久しいのに、甲斐甲斐しく動いてくださったばかりか、経費の面でも協力してくださいました。私ひとりで一年間の「担雪埋井」をすることは困難だったと思います。

 

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 さて、閉室により、物品の大半を廃棄しましたが、なお捨てがたい一部のものは残しています。それらの内訳を記しておきます。

 
・長机(全部で15脚あった)の7脚は、京都市内の小規模な業者さんに無料で引き取られた。ものづくりの台に使うらしい。長机の残りと講話机は引き取り手なく、廃棄物として処分した。
・書生机10脚はリサイクル業者が引き取った(無料)。
・禅語や仏教語などを彫った板は基本的に捨てないことにし、三聖病院に縁のあった治療者が、治療環境に役立てるように渡してあげる方向。
・修養生が作業として彫った木札類。沢山あったが半分は廃棄した。残りは未処分なるも、森田療法に関心を持つ外国人や、その他の人たちに予定。
・額。約10点あったが、かさばるので半分は廃棄した。半分保存中(森田正馬の模写図の額は高知の森田の生家に渡すことも考慮)。
・入浴表示の木の工作品やその他の工作品。廃棄した。
・高松塚古墳パネルと古い洗濯板。廃棄した。
・「今に生きる」のバックナンバー。保存しており、関心者あれば渡すことに。
・自治会関係書類。保存中。
・宇佐玄雄の講話録音テープ。保存中。
・部屋の番号札。保存中。
・病院建物の簡易平面図。保存。
・その他の雑物。廃棄した。

 
※以上のうち、保存と記したものは、そのすべてをとりあえず、狭いながらも京都森田療法研究所内で預かって、藤岡様を共同管理人として、保存を引き受けることにします。公私を区別するため、われわれの私宅に置くことを避けます。研究所内での保管に移動が起こったときはこのホームページで知らせます。   以上

「三聖病院記念品保存室(スペース・レア)」閉室(続報・急告)

2016/01/17

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「三聖病院記念品保存室(スペース・レア)」閉室(続報・急告

 

 三聖病院は、森田療法が大正8年頃に成立した3年後の大正11年に母体が開院され、その後平成26年まで92年間にわたり、伝統的な原法を維持し続けた貴重な病院です。その閉院時、病院の歴史的資料(史料)の保存という重要な課題がありました。
 以下、このブログ記事は、元三聖病院関係者各位(元職員、元患者様、現三省会員様ら)に宛てての、取り急いでのお知らせです。このブログは、三聖病院とは関係のない京都森田療法研究所から、病院の元医師であった者がその責任と使命において発信しています。病院の同窓会でもあればよいのですが、それもなく、別れ別れになってしまった病院の元関係者同士が連絡しあう術が他にないからです。
 しかし、このブログは不特定の閲覧者の方々がお読みになります。そのため、それもやむを得ないこととし、不特定多数の方々もご一緒に考えて下さればいいと思う、二重の意味を込めて発信します。(病院の元関係者同士の閉じられた集合体内での通信ならば、書いてよい赤裸々な内部的に過ぎる情報は、当然ここでは控えます)。
 さて1年前の閉院に当たり、病院とその関係者がなすべき最も大事なことは何だったでしょうか。ここまで書けば、それは歴然としていることがおわかりでしょう。閉院と時間差を置かずに病院の建物が解体されるに際して、散逸と消滅の危機に瀕している貴重な史料の保存を図ることでした。三聖病院が、一医療法人としての裁量で処理してしまう問題ではありませんでした。それは森田療法史上に大きな位置づけをなされる病院の、使命であり社会的責任でした。以前より三聖病院は、自らその歴史を語るとき、WHOから二度視察を受け、海外からの見学は二十何か国からにのぼる、と病院の自己紹介を繰り返してきたのです。森田療法の歴史を担ってきた国際的に重要な病院であると自負してきたのです。その病院が閉じるに当たっては、如何に重要な病院であったかを示す史料を後世に向けて保存する責任があったことは明らかです。足跡を残さず、忍者のように消え失せるのは無責任なことです。
 一昨年秋、京都でPSYCAUSEというフランス語圏国際組織の学会の開催を京都で引き受け、そのときプログラムに沿って彼らに三聖病院を見学させました。折しもそれは三聖病院の年末の閉院が発表された直後に当たりました。かくして彼らは、この病院を訪れた最後の外国人グループとなったのですが、彼らの言ったことがあります。「この歴史ある病院の史料を保存する記念館を創る必要があるのではないですか」。外国人からそのような意見が提出されたのです。
 また年が明けて平成27年2月、閉院がようやく一般に知れた時期のこと、国内の複数の文化人から、「病院の史料の保存は無事におこなわれているのですか」という問い合わせの声が相次ぎました。外部の識者は心配してくださっていたのです。その識者の方々というのは、日本森田療法学会内部の方々ではありませんでした。学会内部の方々は、院長と不肖、私(岡本)とで史料保存について対策を講じているだろうから、任せるほかないとおそらく思っておられ、学会からの問い合わせはありませんでした。危惧して問い合わせて下さったのは、医学史関係の複数の識者からでした。
 しかしその方々も、病院関係のどの筋に尋ねたらよいか、困られたようでした。病院の関係者と言えども、様々な関係の人がいて的確な説明が得られなかったようです。閉院と建物解体に向けてカウントダウンが進む中で、院内側で史料の保存にむけて策を講じるべく必死になっていたのは、私のような者でした。外部の精神科医師や文化人の声が、K大精神科を通じてようやく私に届きましたが、かなり時間が経ってからでした。
 ともあれ、WHOから二度も視察を受けたほどの、日本を代表する森田療法専門病院であるがゆえに、史料の保存について、外部からの関心は大きく、内部ではそのような関心は払われないという、奇妙な逆転現象が起こっていたのです。本来なら、病院の解散が決まったらその時点から、記念品や資料を保存するための記念館またはそれに類する受け皿を創るために予算を組み、閉院に合わせて準備をして然るべきです。しかしそのような手立ては一切おこなわれませんでした。とるものもとりあえず、私は記念品や資料を仮にでも収めるために、私費で賃貸する物件を探し回りました。(それに便乗して物件を売りつけようとする向きがありましたが、これは論外のことでした)。茶番と言うべきか、トリックスターの出現と言うべきか、あるいは私がトリックスターだったのか。
 結局、病院に隣接する賃貸マンション三室を借る目処をつけて、院長と相談しました。そして、院長の賛同により、マンション「スペース・レア」3室の賃貸に踏み切ったのです。これについては、元病院職員の藤岡様が経費の一部負担や管理面で献身的に尽力して下さったことを書き添えねばなりません。
 しかし、病院が無くなり、記念品や資料を「スペース・レア」に預かるべき時がきて、思いがけないことが起こりました。病院の記念品のうち、一部の貴重品は院長のご自宅に、残る記念品は、「平等施一切」そのままに周囲の人たちに分配、進呈されてしまったのでした。この病院では最後までトリックスターが競演しているようでした。
 解体寸前の建物内には、後は誰が持ち帰ってもよいというゴミの山が残されました。でもその中には、実際には歴史的に保存すべきいくつかのものがあったのです。私たちは、その中から大切なものを選び出して、「スペース・レア」に運び入れました。また、ゴミの山の中から宝探しをしようと群がってきた人たちがいましたが、彼らが持ち帰らない物がありました。それは多くの机類です。入院患者(修養生)さんたちが作業室で過ごした日常の生活と切り離せない長机の数々。また病棟の各室に残っていた数々の書生机、さらに院長の講話に使った机。これら机のすべてを、人手を借りながらマンションに搬入しました。さらに建物に残っていた物がありました。病棟の各部屋の番号札です。無くなっていたものもありますが、掛けられたまま残っていたすべての札を保存しました。建物に釘で固定されていた板が少しありました。宇佐玄雄の墨跡を浮き彫りにした古い木の板です。打ち付けられていたので外せないものもありましたが、外せたものは保存しました。ゴミ扱いされていた書類の山の中から、入院中の自治会関係の資料も見つけました。玄雄先生の昔の講話の録音のダビングのようなテープも拾いました。
 こうして「三聖病院記念品保存室(スペース・レア)」に、雑多な様々なものを集めて、ささやかな展示室にして、一年が経ちました。しかし誰から何の援助も頂かず、私費で家賃を払い続けるには限度があります。苦しい出費の一年間でした。バトンをどこにつなぐこともできません。
 それゆえ、ここに「三聖病院記念品保存室(スペース・レア)」の閉室決定の続報を出す次第です。
 この報告は、京都森田療法研究所のホームページを借りて、そのブログとして出していますが、他に広報の手段がないからであって、研究所とは何の関係もない報告であることをお断りしておきます。

 

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 次に、急告と記したのは、保存していた物品に関することです。
 院長にとって保存を要する品で、かつお宅に保存可能な余地があれば、そちらに運び入れる提案をしました。しかし、その余地もないし、すべて進呈した物であるから、自由に処理するようにとのことでした。ボランティアとして預かっていた当方としても、これ以上保管は困難です。きたる1月24日をもって、退去しますので、残念ながらすべての物品の処分を適宜に検討します。ただし部屋の番号札ばかりは処分し難いので、あとしばらくの間、京都森田療法研究所で預かる予定です。残っている札の番号は、以前に当研究所のブログに出した札の写真でわかります。ご自分が過ごされた部屋の番号を記念に保存したく思われる方は、京都森田療法研究所の「通信フォーム」を通じて連絡下されば、渡す方法を相談の上、進呈いたします。ご連絡の際は、三聖病院の資料の保存がなされなかったことへの、感想や意見をご記入願います。番号札以外の物は、24日までに処分しますが、もしも関心があれば、大至急にお申し越し下されば、対応できる可能性もあります。しかしそれは保証の限りではありません。
 参考までに、保存していた品々の大まかなリストを以下に記しておきます。
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 

・長机 15脚 ・書生机 10脚 ・講話用机 1脚
・禅語や仏教語などを彫った板(「言語道断非去来今」、「照顧脚下」、「平等施一切」、「眼横鼻直」、「歩々是道場」などなど多数)
・修養生が作業として彫った木札類(かなり多数)
・額(撃竹、ようこそようこそ、森田と玄雄の写真の模写図、晋一先生の学生時代の恩師の肖像画、涙骨筆の色紙の額、玄雄の三聖医院開業を祝って贈られた色紙の額(大正11年)、忍耐、真実)
・高松塚古墳の壁画の模写を貼り付けた大きなパネル板
・三聖寺跡で発見された古い洗濯板(江戸時代?)
・院内の診察室などの札
・入浴表示の木工品
・三聖病院と書かれた寒暖計
・鈴木知準診療所から進呈を受けた「今に生きる」のバックナンバー
・自治会関係書類
 
 ※他にも書き漏らしがあるかもしれません。只今処理に追われています。