「江渕弘明医師、禅に生きた森田療法家―その知られざる生涯と活動の軌跡―」の発表について

2016/12/03

 生涯のほぼすべてを、森田療法と禅で生き抜いた森田療法医がおられました。
 江渕弘明医師(1916[大正5]-1998[平成10])。
 少年期に始まる神経症的体験をきっかけにして、森田療法に触れ、さらに青年期の10年にもおよぶ結核療養生活の体験から、森田療法や禅の世界に一層深く入っていかれたものと思われます。
 私たちにとって、さほど遠い過去の世代の人ではありません。なのに、療病十年、僧堂での修行生活二十年、森田療法について研究的な発信をされることもなかったためか、ほとんど知られていない人物です。修行中には、僧堂から出て一部の森田療法の関係者たちと交流なさってはいました。その足跡をたどることでこの希有な人物に迫ろうとしました。森田療法にとって禅とは、森田療法家にとって修行とは。われわれはこの先生から多くを学ぶことができます。
 去る11月26日、第34回日本森田療法学会(東京)で、その発表をしたのでした。しかし、一般演題の限られた時間内に、江渕先生に関するすべてを述べることはできませんでした。残念ながら、うわべをなぞるだけの発表になりました。それにもかかわらず、江渕家のご親族の方々、4人様がご来聴下さり、恐縮しました。そして勿論留意するとは言え、江渕家のプライバシーにある程度は関わるかもしれないこの発表についての、私の強いお願いに、同意して下さいましたご夫人とご親族の方々に、改めて心から感謝しています。
 
 学会当日に提示したスライドは、「研究ノート」欄に再現し、説明を書き込みました。学会の限られた時間枠内で話したことよりも、若干説明文が膨れた部分もあります。そこでは新規の追加説明を加えたことになりました。
 
 江渕弘明先生は、長年の修行体験を経て、「禅、森田道、本質全て一なり」という境地を得ておられました。そして修行も熟したその頃に、老師から印可を受けられました。
 ところで、その何年か後に、ひとつのエピソードがあります。江渕先生は、ある企業グループの慰霊祭に、老師代理として導師を務める大役を任されました。そこへ行くために金襴の袈裟衣を着せられた先生は、後輩のある僧に向かって言われます。「わしゃ、恥ずかしい。猿回しの猿のようじゃ。断ろうか」。そしたら後輩の僧から逆に諫められるのです。「常日頃から、人には、あるがままとか、恥ずかしいままとか、なりきるとか、思いきるとか言っていて。自分が思いきったらどうですか」と。
 人間は何年修行をしても、悟り澄ました聖人になれるものではないし、悟り澄ませばよいわけでもない、ということを江渕先生は教えて下さいます。
 「わしゃ、恥ずかしい」。それが「禅、森田道、本質全く一なり」ということなのでしょう。
 学会当日は、そんな挿話まで紹介できなかったのです。

アルコール依存症に対する森田療法

2016/10/15

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2016年10月8日、日本アルコール・アディクション医学会(東京)
(発表している 海野 順 医師)
 

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1.依存を生きる
 臨済義玄は、自由自在に躍動し、ありのままに生きる人のことを「無依の道人(むえのどうにん)」と言った。難解だが、仏性を体現して何にもとらわれない十全の人のことである。
 森田正馬は、「自由」とは独立独行であり、他者の奉仕を求めるところに自由はないと言った。主体性なくして、わがままなばかりで人を頼みにしていては、本当の自分らしい生き方はできないという戒めである。
 臨済や森田に共通するものは、依存やとらわれのあるところに自由はなく、依存やとらわれから離れてこそ、自由で健全な生き方があるという教えである。そこには尤もな道理が説かれていると言わねばならない。しかしまた、実際には、それは難しい道である。無依の道とはどんな道であろうか。
 人は愛に渇き、生に執着し、傷ついては癒やしを求め、群れて共生し、互いに共依存し、社会集団に帰属し、神に祈り、仏に帰依して日々を生きている。人間は独りで生きられよう筈もない、か弱い存在である。人は皆、いわば依存症を生きているのである。
 

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2.三聖病院での経験
 何かに依存しなければ生きるのが難しい人間であってみれば、神経症圏内の人たちの中に、さまざまな依存の病理があって当然だと思う。
 森田療法の三聖病院で長年勤務した経験を持つので、思い返してみるのだが、そこで出会った依存症の患者さんの数は、さほど多いものではない。その中で、アルコール依存症の患者さんの受診はコンスタントにあった。しかし、閉鎖病棟はないし、入院はすべて任意入院で、自分の意志で入院する人たちに限られていたので、アルコール依存症だからと言っても、とくに目立つことなく、特別な扱いもされなかった。院内に酒を持ち込んで自室で飲んでいる者だけは、強制退院させることになっていた。無断外出はタテマエ上禁止されていたが、実際は外出は自由になっていたので、アルコール依存症者であろうとなかろうと、夕方に一杯飲み屋に出かける者たちがいた。年末には、忘年会をすると言って、入院患者(修養生)の仲間たちが、連れ立って院外の飲み屋に出かけて行った。それが修養の実態であった。飲酒に関しては、入院母集団がこんなであったから、アルコール依存症者はあまり目立つ存在にならなかった。自室での飲酒は厳禁だったことを除けば、断酒という厳しい掟がないために、かえってほだされて、緩やかにアルコール依存が軽快していく効果があったのであろうか。そこのところは、よくわからないままである。
 それより、三聖病院は、カリスマ性を帯びた「院長先生」への依存が生じる温床のような場であった。か弱き人間の中でも、とりわけか弱い神経症圏の患者さんにとって、「不問」の環境で黙って君臨なさっていた「院長先生」は、まさに偶像のようで、崇拝の対象となった。こうして関係依存が醸成された。
 アルコール依存症でも、神経症と言うより、気の荒いパーソナリティ障害に近い人たちは、アルコールという物質への依存を「院長先生」への関係依存に変えて、競って「院長先生」を守る忠臣となり、用心棒になった。治療者の責任をつくづく考えさせられた。
 私自身は、自分が外来で治療に当たっていた女性のアルコール依存症の患者さんのことが記憶に新しい。神経症ではなく、境界性パーソナリティ障害だった。
 幼児期に両親と別れて、波乱の生い立ちを経て、十代よりホステス、男性遍歴、アルコール依存、非合法薬物依存という半生を経て、その後は薬物を断ち、その筋の人たちとの交わりから逃れて、子どもを育てながらみずから立ち直って生きようとする意志を持った人であった。以前にいた社会から足を洗った代わりに、アルコール依存が重症化し、摂食障害も伴っていた。子育てを理由に、自助組織への参加も入院も拒み、かれこれ数年間、私の外来に来た。
 過去の交友関係から逃れようとしても、逃れ切れなかったり、身に覚えがないことで突然警察が家宅捜査に来たりした。そんなことがあるたびに自暴自棄になり、飲酒が増した。自殺未遂も起こした。情緒不安定だが、この人物の内面には、立ち直ろうとする糸のような意志が続いているのが見えた。子どもたちといるのが、生きがいのようだった。過去からの誘惑には負けないでいる。それでこちらも腹を決めて付き合った。まず森田療法ありきではない。森田療法だからどんな技法で、ということではない。不問でなく、話を聴いてやるしかなかった。こちらからは詮索しない不問の姿勢を取った。受診の間隔が途切れたとき、死んだのかと密かに心配した。そしたら、死にたくて遠くの地まで出奔したけれど、帰ってきたと言って姿を現した。
 当方への初診後数年経ち、波乱は徐々に緩やかになり、酒量も多少減ってきた。通院も間隔が空くようになった。しかしまだ何が起こるか、わからない。そんなとき、病院は閉院を迎えた。そしてこの患者さんとの別れの時が来た。
 

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3.海野 順医師の学会発表
 若手ながら、アルコール依存症を中心に依存症の診療に従事し、森田療法的アプローチを取り入れている精神科医師がいる。聖和錦秀会 阪和いずみ病院の海野 順医師である。京都森田療法研究所の臨床研究員にもなってくれている。海野医師は、去る10月8日に、平成28年度日本アルコール・アディクション医学会学術総会で、次のような題目の発表をなされた。
 
 「現実逃避型のアルコール依存症患者に対する森田療法的アプローチ」
 
 既に発表された際のスライド画像を、このホームページの「研究ノート」欄に提示しておく予定なので、研究発表のあらましは、いずれスライド画面より読み取っていただけると思う。
 発表の背景として、次のような事情があったという。所属病院の位置する大阪では、病院外部には、自助グループや作業所などの社会資源があって、行動療法的に機能している。また院内では、認知行動療法中心のテキストを用いた治療が体系化している。しかし、神経症者においては、知性化によって解決を図ろうとするため、実際には行動が後回しになりやすく、失敗するケースが複数浮上している。そのため、神経症的な患者に対して、森田療法的アプローチをして有効性を認めたとのことで、そのような症例についての報告がなされた。
 治療については、院内、院外での自助グループにおいては、概して指導者が、説明的、説得的になり、かつメンバーに対して体験の語りを強いて勧める傾向があり、ややもすると個々の神経症的患者の内面の進展にそぐわないことになり、その点を考慮して治療を進める必要がある。そのような観点から、まずは治療関係において、基本的信頼 basic trust を築いた上で、「不問」を旨とし、患者みずからが過去や現在の現実を、あるがままに受けとめて、歩を進めていくことを重んじる。そのために、治療者は患者の存在を無条件に肯定し、その同行者となる。
 このような治療者患者関係を媒介するものとして、海野医師は、独自の発案で禅の「十牛図」を用いた。その用い方も斬新である。「十牛図」の詳解を敢えてせず、各図の名称を目次のごとく示して、目次の意味を教えるのみにする。そして呈示した十枚の図のうちで、現在の自分に対応する図を選んでもらい、その状況について話題にする、というものである。
 私は、海野医師のこの臨床的試みがおこなわれていたことを予め十分に知っていたわけではなく、学会発表の少し前に詳細を知ることになった。改めて私も、依存症に対する精神療法に関心を持ち、いくつかの文献を読んだ。そして、大嶋栄子先生の「女性のアディクションへの援助」という文献(精神科治療学、Vol.8、増刊号、2013)を読み、そこに書いておられることと、「十牛図」の発想とが通じることに驚いたのだった。大嶋先生が記しておられることを、最終章の一部を引用して、示しておく。
 「何年にもわたるこうした辛さを乗り切っていくには、自分がいま、長い人生(life)のどのあたりにたたずんでどちらへ行こうとしているか、それを指し示す案内板のようなものが必要だ。(…)そして道中を同行する人がいるとなお良い。同行者とは途中で異なる道を歩むこともあるが、行く先で別の同行者と出会うこともある。」
 もしかして大嶋栄子先生のこのようなご指摘に合わせて、「十牛図」の活用を着想したかもしれないと思ったが、海野医師は、大嶋先生の文献を事前にまったく知らなかったよしである。面白い思想的符合に、私はいささか驚いた。そして、ベテランと若手の二人の臨床家の治療的思想に、森田療法の立場から大いに共鳴したのだった。
 さて、このような治療者患者関係は、森田療法的な「不問」と深く関わることに、再度言及しておきたい。
 「不問」は、重層的な意味を含んでいるのである。
1)<治療者患者関係における、患者の訴えに対する不問>
 神経症の患者さんの執拗な愁訴をいくら聴いてやっても、生産的な結果にならないから、聴かずに置く、という意味で通常使うことが多い。
2)<本人が自分自身の心の整理をつけられないまま、それを問題にするのをやめて前進>
 反省するのはよいことだが、ほどほどでよい。後悔することや、トラウマを想起することもあろうけれど、「心に解決なし」である。そのままで、今を生き、一歩ずつ踏み出して歩いて行こう、という促し。
3)<治療者や指導者にとっての心得としての不問>
 患者さんやメンバーさんの心の中に、土足で立ち入るような無神経なことをしないこと。相手を察して、問い詰めない。追い詰めない。ほどよい距離で「同行」する。
 「十牛図」を四国八十八カ所のお遍路になぞらえたら、患者と治療者は「同行二人(どうぎょうににん)」で、「十牛図」を呈示している治療者が、当面は弘法大師役。しかし禅では、臨済義玄が「殺仏殺祖」を言ったように、弟子は師を乗り越えて行く。森田療法もしかりである。「十牛図」とお遍路には、微妙な重なりと相違があるようだ。
 
 以上、文責はすべて岡本にある。

「忘れられた森田療法(La Thérapie de Morita Oubliée)」―フランス語原稿(雑誌に既発表)の日本語訳―

2016/09/10

 表題原稿のフランス語の原文は、雑誌 PSYCAUSE 70号の日本特集のうちの巻頭に掲載されました。それは、このHPの「研究ノート」欄から、原文でお読み頂けます。
 しかし、森田療法のことについてフランス語で外国人向けに一体どんなことを書いたのかと、ご関心を持って下さる方もおられるかもしれません。今頃ふとそう思いました。そこで、遅ればせながら、日本語に戻した原稿をここに披露しておきます。何のことはない、お読み頂いたらわかります。
 PSYCAUSE誌のこの日本特集は、一昨年秋、京都で開催された国際学会に基づいています。その際、学会参加者たちの三聖病院の訪問を受け入れる日程は予め組んでいました。ところが、彼らの京都入りとほぼ同時に、三聖病院の閉院が発表されました。かくして、PSYCAUSE学会の人たちは、期せずして、歴史ある三聖病院を訪れた最後の外国人グループとなったのでした。私の以下の一文は、そのような背景を視野に入れて草したものです。また立場上、あまり紙幅を取らぬように、特集の導入として短い小論を書きました。
 しかしながら、あえて「忘れられた森田療法」―過去形でなく「忘れられる森田療法」と言うべきかも知れませんが―に執拗なまでにこだわり、既刊の小著と同タイトルにしたのには、訳があります。両者の内容は違います。しかし、そこに通じている私の思いは同じなのです。
 どうも前口上が長くなりまして、あいすみません。
 

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              忘れられた森田療法 La Thérapie de Morita Oubliée  
                                              
                                          Shigeyoshi OKAMOTO 
 
 
 去る2014年10月、第10回 PsyCauseフランス語圏内国際学会が、「文化間の出会い」という基調テーマのもとに日本の京都で開催された。この国際学会のひとつの大きな目的は、日本の独自の精神療法である森田療法について、京都にあるその療法の伝統的な施設である三聖病院を訪問して、実際の診療を見学して直接それを学び、そのような見学体験を通じて討論を交わすというところにあった。
 ところが、この三聖病院は、同じこの年(2014年)の12月末に廃院になることが、学会が開催される直前に公表された。こうして、学会のために海外からやって来たフランス語圏の人たちは、図らずも三聖病院を訪問した最後の外国人となったのである。
 
1.森田療法の「ひとつの終わり」
 三聖病院は、森田正馬によって森田療法が創始された直後の1922年(大正11年)に、彼の弟子の禅僧で精神科医師の宇佐玄雄によって開設された(最初は診療所で、1927年(昭和2年)から病院)。その後、息子の二代目院長に受け継がれて、三聖病院は森田療法の最も伝統的なサバイバーとして、通算92年間、役割を果たし続けて、遂にその歴史の幕を閉じることになったのである。昨今の日本では、文化や文明のめまぐるしい変化に伴い、伝統的な森田療法を維持する施設は既に殆ど消滅し、とりわけ、禅を生かした森田療法の施設は、既に三聖病院だけになっていた。20世紀末以来、森田療法は、新しい時代の要請に応じて、入院よりも外来での治療が主流となり、薬物療法や他の精神療法と併用される方向へと変化していた。そのような新しい動向が進む中で、伝統的な森田療法を代表する専門病院であった三聖病院が、2014年末に閉鎖したことは、この療法の一つの終焉を象徴する出来事であった。
 
2. 森田療法の「本当の始まり」
 ところで、三聖病院の廃院は、伝統的な森田療法の精神の終焉をも意味するのであろうか? 否、決してそうとは思えない。神経症的な病理に対して、禅寺におけるような作法や雰囲気を、薬の代わりに用いて暗示的に治療する療法は確かに終わりを迎えた。そして、それはまた、神経症の症状が禅的な「悟り」によって治ると思いこむ人たちを誘惑する〈迷妄の集いの場〉の提供の終わりでもあった。それらの終焉により、覆われて見えにくくなっていた森田療法の本当のエスプリ(本質)が、これを機に現れて、今後一層そのエスプリ(本質)が評価され、万人の人生の中にそれが生かされることが望まれる。
 これまで、特に外国人に対して、森田療法は“神経質(SHINKEISHITSU)”の治療法として紹介されてきた。確かに、この療法を創始した森田は、神経質の治療である点を力説した。けれども、そのような表面的な力説のために、この療法に含まれているせっかくの深い本質が、日本においても見落とされがちになっていたことは否めない。まして外国人に対して、紹介に従事する日本人たちが、この療法の本質部分を慎重に説明することなく、単に“神経質(SHINKEISHITSU)”の治療という表層だけを紹介することで、おそらく誤解を与えていたに違いないことは、非常に残念である。
 実際、森田がこの療法を、最初は“神経質(SHINKEISHITSU)”の治療法として開始したことは事実である。しかし “神経質 (SHINKEISHITSU)”の症状としての不安の心的メカニズムの中に、人間の存在に関わる根源的な不安が潜んでいることに気づいて、仏教的な智恵を療法に取り入れて、治療としての深みを増していったのだった。精神科医として診療に携わっていた彼は、概して“神経質(SHINKEISHITSU)”の患者を治療するに止まらざるをえなかったが、自分の療法はすべての人間の再教育だということも力説したのだった。
 そこで、次にこの療法に含まれる二層的な意義について、さらに述べておく必要がある。それはまず “神経質(SHINKEISHITSU)” の治療法であったのだが、さらに神経質の患者だけに限らない、すべての人間の生き方に関わる深い智恵でもある。以下では、森田療法における、このような二層性について言及する。
 
3. “神経質(SHINKEISHITSU)” とその治療
 森田療法は、人名が療法の名称になっている点で例外的な精神療法である上、“神経質(SHINKEISHITSU)”という日本語での名称を与えられた素質あるいは病理を治療対象にし、しかも禅と関係があるのも確かなので、外国人の方々にとって、この療法は、当然ながら大変理解し難いことであろう。そのため、ここで、まず森田が治療の対象にした“神経質(SHINKEISHITSU)”とは何かについて説明する。それは決して森田自身の新しく作った用語(新作語)ではなく、ドイツ語圏の精神医学の用語“Nervosität”の日本語への訳語であった。それは、ドイツのクレペリンKraepelinによる、彼の独自の精神医学体系の中で、ある一つの病的な性質を表す用語として規定されていたものであった。その用語と概念は、Kraepelinの下に留学した東京大学の精神医学の教授の呉秀三によって、日本に導入された。呉の弟子だった森田は、主に彼からそれを学んだのであった。そして森田は“Nervosität(SHINKEISHITSU)”の特徴としての素質や症状を知った上で、不安に傾き易いその素質が惹起する心気的な悪循環の心的機制に焦点を当て、その悪循環によって症状が固定化するというかなり力動的な捉え方を示した。こうして、“Nervosität”の概念を踏襲しながら、その精神病理について柔軟な理解の仕方をする立場から、森田は彼独自の療法を創案したのである。結局、“神経質(SHINKEISHITSU)”という用語は、“Nervosität”の訳語以外の何でもなかったが、その精神病理を、クレペリンよりも柔軟に捉えたところに森田の卓見があったのである。
 とは言え、森田の捉えた“神経質(SHINKEISHITSU)”とは、神経症になりやすい素質あるいは神経症そのものと別のものではない。一般にこのような心性においては、人一倍、不安に対して敏感で、不安を治そうとして、かえって不安に埋没して、生活が膠着し、クオリティ・オブ・ライフを低下させるばかりとなる。そこで、森田療法では、不安が治らなければ治らないまま、ただそのまま生活するように、治療者患者関係の中で言葉少なに促す。解決しない心を引きずりながら、歩き出す中で、新しい花が咲いたり、実がなったりするのである。
 
4.人生の苦悩に対する森田療法
 神経質や神経症の精神病理に起因せずとも、誰しも人生に苦しみを体験する。そのような避けがたい苦悩に対処する、森田療法の第二の層について述べておきたい。
 仏教によれば、人間はこの世で八つの苦の試練を受けるさだめにある。
 第一の苦は、「生」そのものである。生がなぜ第一の苦なのか? 人間は自分の意志によって、生まれてくるのではなく、絶対受動的に生を享ける。親も、先天的な心身の素質も、境遇も、一切自分の意志で選択することはできなかったのである。生まれてきた自分の存在理由を理解できなくても、生への執着が起こる。だが、日常生活の中で、種々の不合理な体験をすることは多い。そのために人生に懐疑的になり、不遇な運命に対するルサンチマンが起こる。このような生の苦は、人間の存在そのものにかかわる最も根源的な苦である。第二は、「老」の苦。第三は「病」の苦。第四は「死」の苦である。八苦のうち、以上の前半の四苦は、人間の存在の根源にかかわるものである。
 第五は、愛する人との別離、第六は憎悪すべき相手との邂逅、第七は求める対象を得ることの不可能性、第八は、心身の活動に伴う煩悩や葛藤である。これら後半の四苦は、日常の生活の中で体験されるものである。
 以上の八苦は万人にとって不可避なものであり、それゆえにこれらを否認せずに受容して、生きることを仏教は教えている。
 苦は楽を生み出し、楽は苦の種になる。両者は剥がし難い表裏一体のものである。仏教はもっぱら苦に虐げられて生きることを強いるのではない。苦にも楽にも素直に一体化して、自然のままに生きるところに人間の自由があることに気づくのが、仏教の智恵なのである。
 どんなに科学技術が進歩して社会生活の利便性が高まり、先端医療が開発されて、新しい治療が発見されても、人間は必ず死を迎える。にもかかわらず、科学の進歩は、人間に錯覚的な万能感を与えた。そのような万能感と、仏教の示す八苦との間の懸隔は広がっていくばかりである。現代人のメンタリティの特徴として、苦に対する耐性が低下しており、心的外傷に過敏になっていて、それを弾力的に受け止めて自己修復する柔軟な機能である、いわゆる “レジリエンス” の力に欠けている。現代人は他者の攻撃性に対して、容易に挫けるか、あるいは反撃する習性を獲得してしまった。他者を友とみなさず、他者は敵とみなされがちである。残念ながら、他者は敵対者の属性を帯びていることが多いのが現実である。日本では、子どもたちは集団で、弱い子どもをいじめ、いじめられた子どもが自殺する事件が後を絶たない。学校の教員たちも、親たちも、子どもの教育に責任を持とうとしない。大人たちの自殺も頻繁に起こり続けている。これが、生きることを重んじる森田療法を生んだ国、日本の現実である。
 神経質や神経症の治療を、病院やクリニックの診察室でおこなうことも必要だが、森田療法は、狭義の精神療法であることから脱皮して、教育や福祉や企業の中に浸透することが望まれる。しかし、それは教条としての森田療法を押しつけようとするのではない。森田療法は、本来専門分野たりえない筈のもので、権威的な専門家を必要としない。たとえ専門家がいたとしても、他者の苦悩を救い、他者を教育することは容易なことではない。ではどうするのか?そのように自分に問いかけることが、契機となる。そこで人は自分と自分の置かれている状況を見つめれば、素直な心に目覚める。素直な心に目覚めたら、やむにやまれなくなって、何かに向かって動き出さざるをえなくなるであろう。
 こうして第一歩を踏み出すのである。その歩みは、自己のためか他者のためか分かち難い自然な動きである。治療者対患者という役割的関係も消滅する。
 こうして、精神療法の枠を出て、森田療法という名称さえ失い、苦悩をもつ人間同士として出会いを経験するところに、森田療法はその深みを増していく。
 このような森田療法の本質的な部分は、今日までほとんど忘れられていたように見える。療法の本質を含みながら、同時に形骸化してもいた伝統的森田療法が衰退して、その歴史に幕を下ろした今日、そのエスプリ(本質)が改めて思い出されて、森田療法にとらわれない森田療法の静かなルネサンスが新たに始まるであろう。

アタラクシー、瞑想、禅、そして森田療法(その3) ― 比較文化的に見る禅と森田療法 ―

2016/09/03

 夏の間、ブログの更新が途切れていましたが、前回までの連載に引き続き、
 まとめに代えて、その最終回の稿を出しておきます。
 

france zen⑥画像

       RYUMON-JI(龍門寺)の庭の龍。
       ドラゴンは西洋においても『ヨハネの黙示録』にも出てくる伝説上の動物である。
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
1.西洋に導入されている禅
1-1.フランスにおける禅への関心

 
 一昨年(2014年)、京都で私たちが開催したフランス語圏「PSYCAUSE国際学会」で、丹後ふるさと病院院長の瀬古敬先生は、「森田療法における『あるがまま』の背景にあるもの」について発表して下さいました。その中で瀬古先生は、フランスと日本のそれぞれの文化における、自然と人間の関係について述べ、その対照的な例として、ベルサイユ宮殿と修学院離宮を提示されました。17世紀に太陽王と呼ばれたルイ14世は、絶対王政を誇り、自然をも制服する神の子として豪華な宮殿を建築し、広大な人工的庭園を造営して、それを権力の象徴としました。同じ17世紀に、後水尾上皇の意により京都の比叡山麓に、離宮と、その周辺の自然を生かした広大な庭園が造営されました。前者には、自然を制服して、その人為の力を誇示する人間の生き方を、後者には、自然と調和する人間の生き方を見て取ることができます。瀬古先生は、修学院離宮の庭園を「あるがまま」のひとつの原型として示されたのでした。
 フランス革命によって王政は廃止され、人権を手に入れたフランス人は「解放 Liberté」としての自由を手に入れました。しかしその後、「自我の勝利」を謳うフロイトの精神分析を歓迎したフランス人たちは、望んでフロイト王朝の支配下に入り、自我の囚われ人となったのでした。そんな閉塞感を打破しようとして起こったのが、1968年のパリ五月革命だったと見ることもできるでしょう。1960年代後半から1970年代前半にかけての、権力に対するあの異議申し立て運動は、やがて弾圧されて終息します。当事者たちの間には敗北感と共に、ある種のカタルシスによる虚脱感が蔓延したのでした。ヒッピー族が現れたのもそのひとつの現象です。
 時あたかもその頃に、弟子丸泰仙禅師は、ヨーロッパで積極的に曹洞宗の禅を広めていました。精神的拠り所を求めていた当時の人たちに、自我に囚われない禅という生き方は魅力的なものとして受け入れられたのでした。
 禅は、キリスト教における “méditation メディタシオン” や、東南アジアから移入された小乗仏教などと、ややもすると混同されがちです。またフランス語化した“ZEN”は、フランス人の生活の中に俗化して普及し、日本的な芸術や芸能、東洋的な代替医療や健康法などを、広く指すものとなっています。本物の禅が適切に理解されて受け入れられているならば、フランス的な禅やZENの文化が生まれることを、咎め立てする必要はありません。
 そこで改めて、フランスにおける本来の禅の受け入れ事情のことにふれておきます。
 この国に導入されている禅の大半は、曹洞宗の禅であることは既に述べました。修証一等を旨とし、座禅をすること、修行し続けること自体が悟りであるとする曹洞禅は、公案を介さない「非思量」を重んじるので、“méditation” や瞑想から、あまり無理なく入っていけるのでしょう。彼らの修行の様子を直接見たこともない自分として、その修行についてコメントする力はありません。でもたまたま気になっていることがあります。それは道元の重要な教えの語句のフランス語訳についてです。
 
「仏道をならふといふは、自己をならふなり。
 自己をならふといふは、自己をわわするるなり。
 自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
 万法に証せらるるといふは、
 自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」
                           (『正法眼蔵』現成公案)
 
 これは、一言では「身心脱落」と言われる、道元の最も重要な教えのひとつです。
 このフランス語訳が、ストラスブールの禅仏教センターの案内冊子に出ており、その部分を画像にして、下に掲げました。ここで気になるのは、道元の言葉の最後の部分、「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」のフランス語訳についてです。それは次のように記されています。
 
 “c’est dépouiller son propre corps et son propre esprit comme le corps et l’esprit de l’autre.”
 
 「脱落せしむる」の訳として“dépouiller”という他動詞の一語を当てるのは、直訳として正しいと思います。しかし道元の教えのこのくだりの原意としては、主語があって、それが目的語に対して他動詞的に行為をおこなうという能動的関係の成立ではなく、むしろ「おのずから脱落する」ことを指していると受け取れるのです。自己の身心と他己の身心の区別もなくなり、かつそれらはおのずから脱落してしまうのです。そのように考えると、別の試訳として、再帰動詞(代名動詞)の方を用いて、さらに“laisser”を入れて、次のような文章にすればどうかと思うのです。
 
 “c’est se laisser dépouiller de son corps et de son esprit ainsi que du corps et de l’esprit de l’autre.”
 
 私の方が当然無知ですから、とんでもない勘違いをしているかも知れませんが、あえて試験の答案のつもりで書いてみました。フランス側の訳文が記された案内冊子は、その禅仏教センターとつながりのある Nyl ERB 女史から頂いたものですので、女史を通じて先方の見解を伺いたく、既に女史に伝えました。恥をかくのは私かも知れませんが、このリアルタイムのやり取りの結果は後日報告します。
 一方、臨済宗の禅は、曹洞宗に遅れてフランスに導入されました。神戸の祥福寺で修行をした妙心寺派のフランス人僧侶、太寛常慈禅師が、1975年よりヨーロッパで布教を始めました。太寛禅師は1976年に山田無文老師より臨済宗妙心寺派のヨーロッパ代表に任命され、アルデッシュ県に「碧巌山正法寺(la “Falaise Verte”,le temple Shobo-ji)」を創立しました。1989年には臨済宗の開教師となり、妙心寺との緊密な関係のもとに、正法寺の禅堂を維持し続けています。
 曹洞宗と臨済宗の違いを、とりわけ西洋人の立場から見ると、只管打坐の行を本位とする曹洞禅の方がより入り易く、片や思想的に複雑で、かつ公案を用いる臨済禅の方は、敷居が高い感じがするのではないかと思われます。
 法政大学のフィリップ・ジョルディ教授は、「フランスにおける臨済宗の受容過程での課題」というフランス語の論文(注)で、臨済宗がフランス文化に導入されるに当たっての問題を深く論じておられます。その内容の詳細についての紹介は別の機会に譲ることにして、同氏が歴史的視点から、西洋における仏教の受容の問題に言及しておられる箇所があり、示唆深いので、取り上げておきます。
 
 仏教は古代ギリシャ・ローマ時代より西方に入っており、ギリシャ仏教が、奇跡的にもクシャーナ朝やガンダーラ王国で数世紀にわたって続いたのだった。しかしその後は多様なヨーロッパ思想の中で、仏教は寸断されたり再解釈されたりして、変質することになった。ショーペンハウエルやニーチェのように、その哲学思想を部分的に仏教に拠っていた人たちに継承されたけれども、既に仏教は本来のものではなくなっていた。
 このように、過去において仏教は、西洋に無事に受容されてから後に変質を蒙った経緯があったが、逆に性急な移植によって起こるかも知れない失敗にも心しなければならない。東洋の伝統文化をいたずらに西洋に適用しようとする誘惑に駆られることは、えてして危険である。東洋の伝統文化を西洋に同化させる過程において、本質が失われては意味がない。西洋の文化的土壌に東洋の伝統文化の本質の種を蒔く。そこで新しいものが生まれる。無理な移植を強いるならば、同化されることなく、新たに生まれるはずのものは、生まれる前に死んでしまうだろう。そのような愚を避けるためには、東洋の伝統を道具化しないこと。そして西洋の文化的条件をわきまえることが必要である。
 これは西洋における禅の受容において、留意せねばならないことである。
 
 フィリップ・ジョルディ氏は、かなり辛口のコメントをしておられます。なおここでは、同氏の文意に沿って筆者なりの書き方をしました。
 禅の移植もまた、「あるがまま」がよろしいようです。
 
 注) JORDY Philippe : De quelques difficultés majeures dans la réception du Zen Rinzai en France (フランスにおける臨済宗の受容過程での課題). 法政大学国際文化・国際文化情報学会『異文化』(論文編),11;7-37,2010 .

 
 
france zen文書

ストラスブールの禅仏教センターの案内冊子に出ている道元の言葉のフランス語訳。
 
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1-2.アメリカにおける禅への関心
 
 西洋でも、アメリカにおける仏教や禅の受容の流れはフランスの場合と若干違いますので、対比のためにアメリカのことにも少しふれておきます。
 アメリカ合衆国の独立100周年 (1876年)を記念して、自由の女神像がフランスからアメリカに1886年に贈られました。フランス語で “Statue de la Liberté”と呼ばれる像で、したがって英語では “Statue of Liberty”と命名されました。フランス生まれの “Liberty”という名の女神が、高く差し上げる松明で世界を照らしているのですが、それは以後のアメリカの行方を暗示していたかのごとくです。
 禅の課題もまた「自由」にあると言えます。ただし漢字としての「自由」は含蓄が深く、“Liberty”がそれにあたるとは思えません。フランス語の “Liberté”は束縛、拘束、抑圧などからの“解放”を意味します。英語には、それと同じ “Liberty”の他に、「自由」を意味する語として “Freedom”があります。“Liberty”は「~から解放される」という受動的な自由であるに対して、“Freedom”は、より能動的なニュアンスを帯びた自由を表す言葉です。この “Freedom”の方が、禅における「己事究明」の果ての「自由」につながるように思われます。アメリカ人は、自由の女神像のことを “Miss Freedom”という愛称で呼ぶこともあるようですが、フリーダム嬢の松明に照らされて、アメリカでは比較的自由に禅が広がっていきました。
 1893年にシカゴで万国宗教会議が開催され、鎌倉円覚寺の釈宗演率いる日本の仏教団が、そこに参加しました。年譜的には、これは日本仏教、とくに禅が、アメリカの公的な場にはじめてお目見えする機会を得たイベントでした。釈宗演はこの会議で、アメリカの宗教研究者、ポール・ケーラス Paul Carusと知り合います。ポール・ケーラスの著作のひとつ『カルマ Karma』は、釈宗演の弟子の鈴木大拙によって邦訳され、『因果の小車』の題で出版されました。それは芥川龍之介が『蜘蛛の糸』を書く題材となったものです。そして鈴木大拙は、釈宗演の推薦により、渡米してポール・ケーラスのもとに行き、彼の出版社で編集に携わることになります。
 他に釈宗演の門下の僧侶や、釈宗活 (森田正馬が参加した「両忘会」を主宰していた人物) の門弟も、活動の足跡を残しています。このようにアメリカでは、臨済禅の方が曹洞禅より早く上陸しましたが、独特の公案禅をアメリカにどのように馴染ませようとしたのか、詳らかではありません。
 ところで鈴木大拙は、僧侶ではないため、禅の実践的な普及に関わることはなかったものの、戦前および戦後の二度にわたり、長期間アメリカに滞在し、主に哲学的な立場から禅思想についての英文の著作を出し、講演活動も行いました。この大拙を通じて、いわば神秘的な日本の禅思想や文化に関心を深めた人たちは少なくなかったのです。大拙の影響による禅的なものへの関心を伏線として、戦後の50年代から60年代にかけて、社会体制を否定し人間性の解放を求めたビート世代は、仏教に惹かれ、続いて若者たちの間に広がったカウンターカルチャーの中で、日本の禅や東洋の瞑想が彼らの心を捉えました。実地の禅を示さなかった鈴木大拙に代わって、ヒッピーたちが実験的に禅的行動をしてみせたと言っても、過言ではないでしょう。難解で神秘的な思想を伝えて、アメリカ人に合うような修行の実際を十分に示さなかった点に、臨済宗の問題が露呈したように見えます。
 禅の普及については、臨済宗に遅れて北米に進出した曹洞宗の着実な活動に、むしろその成果を見ることができます。1959年に、曹洞宗の鈴木俊隆老師が、サンフランシスコの日本人街にある桑港寺に、住職として着任しました。折しも、続いていた反体制運動の波は、日系アメリカ人のための桑港寺にも届き、座禅をしにやってくる非日系のアメリカ人たちが増えて、混乱が生じるほどになりました。鈴木大拙に比して、「リトル・スズキ」と自称したという謙虚な鈴木俊隆師でしたが、座禅に来る非日系人に厳しい規矩を課して只管打座を命じ、混乱を収拾します。その一方で現地の参禅者向けに修行の場を用意する必要性を感じ、桑港寺の近くに「発心寺」を開き、さらに1967年には、タサハラに建設した本格的な修行道場としての「禅心寺」を中心に、「サンフランシスコ禅センター」を創設しました。こうしてアメリカにおける禅は、1960年代より、理論から実践へと移行していきました。
 鈴木俊隆師の他にも、日本から派遣された前角大山なる曹洞宗の老師もいて、このような初代の日本人指導者のもとで育成されたアメリカ人の禅僧が、アメリカに固有の禅を創造していきます。
 たとえば、アメリカ人のローリー大道老師によってニューヨーク郊外に「マウンテン禅院」が創設されましたが、大道老師は過去に臨済禅との接点を有し、前角老師から曹洞禅を継承し、さらにチベット仏教の影響も受けているのです。また、日本では曹洞、臨済の双方を取り入れた原田祖岳を受け継いで、安谷白雲が鎌倉に設立した三宝教団がありますが、その安谷師は1960年代にアメリカに渡ります。ハワイ、そしてロサンゼルスへと入り、伝統にとらわれない禅を伝えました。アメリカ人のニーズに合った安谷師の指導により、その流れを継ぐ弟子たちが育ち、彼らが指導者となって今では国内に複数の拠点ができ、アメリカ人在家者が馴染みやすい禅として、多くの人たちに受け入れられています。三宝教団は、日本で既に伝統の垣根を越境していた禅が、国境を越えて自由の国アメリカで活路を開いた例でもあります。
 近年、カリフォルニア州のシリコンバレーに集まっているIT企業の従事者を中心に、アメリカ人の禅への関心はますます高まっていると言われています。決まって引き合いに出されるのは、2011年に早逝した、アップルの創業者、スティーブ・ジョブズのことです。ジョブズは友人とアップル社を設立したものの、1985年に会社を追われて失意に陥り、以前から知っていたロスアルトス市の乙川弘文老師の指導を仰ぎます。乙川老師は、鈴木俊隆老師がサンフランシスコ禅センターを創設した際に、日本から呼び寄せられた曹洞宗の僧侶ですが、その後はロスアルトス市内の「俳句禅堂」の住職をしていて、ジョブズはそこに出入りしていたのです。乙川師の下でジョブズがどのような修行をして、どのような境地を得たのか分かり難い点はありますが、彼は新たに立ち上げたネクスト社に戻り、再びIT開発の最前線に立ちます。
 ジョブズは、少年時代より高い知能と独自の発想ができ、その非凡な能力によりITの開発をして、若き成功者になりました。しかし性格的には、かなり問題を有していたようです。彼は「シンプルであることは、複雑であることより難しい」ということを、改めて禅から学び直したと見ることもできます。しかし挫折したときの彼は、禅によって自分をみつめる体験に恵まれたのではないでしょうか。乙川師自身も風変わりな人だったと言われますから、波長が合ったのかもしれず、師の理解を得て、ジョブズは自分を矯めていったのではないかと推測します。
 シリコンバレーのIT企業では、社員たちに向けて、瞑想 (メディテーション) やマインドフルネスが導入されていると聞きます。高度な知的作業をするに当たって、無駄な思考は省き、必要な思考に集中することは必要ですから、思考の効率化を図るエクササイズとしては、瞑想もマインドフルネスも有用でしょう。しかしそれらと禅は同義ではなく、自分の人生を見つめ尽くして、それを今に収斂させるのが禅ではないかと思うのです。ITと禅を一挙に結びつけるのは、短絡的ではないでしょうか。
 アメリカにおける禅の流れを大まかに記してきましたが、その中に見られる特徴を以下に改めて略記しておきます。
 伝統のない自由の国、アメリカでは、禅は自由に受け入れられ、自由な展開を示しました。臨済宗、曹洞宗という宗派を超えることはタブーではなくなり、むしろ自由な融合が起こっています。
 鈴木大拙による東洋の神秘のような教えだけでは飽きたらず、当然のこととしてプラクティスが求められるようになりました。ただそこには、実際を重視するアメリカ人の気風が見て取れます。そんなアメリカ人を惹きつけたのは、神秘性を残しつつ、同時に実用的でもある瞑想(メディテーション)だったのです。アメリカにおける瞑想には、禅、チベット仏教、東南アジアの仏教の三つの流れが合流しています。しかし宗教色のない実用的な瞑想として受け入れられたのは、マインドフルネス瞑想でした。それは脳科学的にも有効性があるとされ、禅とは一線を画して仕事や生活の中で活用されているようです。
 このような流れの中に、伝統から解放されてフリーダムの道を歩むアメリカを見ることができます。
 奇妙なことに、森田療法のアメリカへの導入は低調であるように見受けます。森田療法のすべてが禅であるとは言いませんが、アメリカで禅に関わっている人たちは、森田療法をどう捉えているのか、気になるところです。

 参考文献
1.ケネス・タナカ : アメリカ仏教―仏教も変わる、アメリカも変わる― . 武蔵野大学出版会, 2010.
2.石井清純,角田泰隆 : 禅と林檎― スティーブ・ジョブズという生き方―. ミヤオビパブリッシング, 2012.
3.岩本明美 : アメリカ禅の誕生―ローリー大道老師のマウンテン禅院―. 東アジア文化交渉研究別冊 6,11-31,2010.

 
 
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2.禅の「悟り」と森田療法における「治癒」への理解の問題

 
 最後に、またフランス側の森田療法理解の問題に戻ります。
 このシリーズ稿で、先にニル・エルブNyl ERB 女史が森田療法の治癒状態を禅と重ねつつ、「アタラクシー」に似た境地として理解していたことについて述べました。何をか言わんや、ですが、彼ら彼女らにとっては、禅や森田療法についての情報と体験が少なくて、そのような理解のしかたが精一杯のところだったのです。まして、京都の三聖病院の禅的森田療法、つまり宇佐療法からの入門を経由して、本物の森田療法を理解するという課題は必要でしたが、フランス人にとっては容易なことではなかったようです。Nyl ERB 女史も三聖病院という鬼門を入り、魔境に陥ってしまったのです。
 そこで私は、アタラクシーとの比較対比が可能な、ひとつの禅の境地として、快川和尚の放ったと言われる言葉、「心頭を滅却すれば火もまた涼し」(正確には、後述するように「火も自ずから涼し」)を引用し、このような高踏的境地を指し示すことの非妥当性を、あえて指摘しておいたのでした。そして最後にその問題に立ち戻らねばならないと思って、ここまで保留してきたというわけです。
 宇佐玄雄も森田正馬も、治癒の境地を示すために禅で言う「無寒暑」を引き合いに出しています。『碧巌録』第四十三則の「洞山寒暑廻避」の「本則」に、ある僧と洞山良价との次のようなやり取りがあります。
 僧「寒暑到来せば如何にか廻避せん」。
 洞山「何ぞ寒暑無き処にゆかざる」。
 僧「如何なるか是れ寒暑無き処」。
 洞山「寒き時は闍黎を寒殺し、熱き時は闍黎を熱殺す」。
 読みやすいように一部表記を改めましたが、以上のような洞山良价の教えが出ているのです。「闍黎」とは、僧のことで「あなた自身を」というような意味であり、また「殺」は表現の誇張であって、「なりきってしまえ」と言っているのです。短く言えば「寒時寒殺、熱時熱殺」で、「熱い時は熱さになりきり、寒い時は寒さになりきれ」ということです。(禅は誇張した言葉で、持って回ったことを言います。「言うは易く行うは難し」ということにならないように、わざわざ難解な表現をするのだろうか、と言いたくなりますが…)。ともかく、これは森田も常に教えていた「なりきる」ということを言っています。
 さらに「本則」の次の「評唱」に、「心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」という洞山の教えの句が出てくるのです。火刑にされる前に、快川和尚は脳裏に浮かんだ『碧巌録』のこの句を言ったという伝説のような話です。猛暑の到来と火刑とはわけが違いますが、禅の寓意を理解するほかありません。
 森田正馬は、禅でいう「悟り」をなるたけ平易に理解して、その限りにおいて、療法における治癒と禅における悟りとを同一視しました。森田は、禅の難解さを嫌い、悟りを素朴に捉えて、「すべての行動が自由自在で、最も適切に働く時の状態」が「悟り」の境地だとみなして、これを治癒と同等視しました。「自由自在」が放恣を意味するのではないことは、言うまでもありません。「随所に主となれば立処皆真なり」(臨済義玄)というような自由を生きることなのでしょう。
 フランス人にとっての自由、アメリカ人にとっての自由、日本人にとっての自由、これらの差異を理解しながら、建設的に対話を続けていくことが必要です。
 
 付記
 本稿では、森田療法へのフランス人の反応として、雑誌 PSYCAUSE に現れた Nyl ERB女史らの発表を取り上げましたが、フランス人たちからの森田療法への反響は、以前からさまざまありました。中でも面白かったのは、ディディエ・ブルジョア Didier BOURGEOIS という精神科医師は、「日本の森田療法はエグザイルEXILEだ。『正常病』だ」という、事実上筆者に向けた批判をしてくれました。このような毒舌の方が、おめでたい「アタラクシー」より、はるかに面白いのです。この毒の利いた語りは、小著『忘れられた森田療法』で紹介したことがあります。この毒舌精神科医は、最近沈黙しています。高齢で、焼きが回ったのでしょうか。
 フランスから、もっと毒矢が飛んでくることを期待しているのです。

 
 

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無心(RYUMON-JI 龍門寺の猫)

アタラクシー、瞑想、禅、そして森田療法(その2)―フランス人におけるアタラクシーへの親和性と仏教の受容について―

2016/07/08

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フランスに禅(曹洞宗)を広めた僧侶、弟子丸泰仙禅師(1914-1982)

(写真は、ストラスブールの禅仏教センターの案内冊子より)

 

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1. フランス人にとってのアタラクシー
 前回、Nyl ERB 女史とのやりとりをほぼリアルタイムで紹介しました。しかし通信が一段落するはずの結末に至って、天然気味のこの女史は、見事に討論をひっくり返してくれました。
 そこで二つの問題が、今更のように持ち出されました。まず第一に、日常生活で必死に働いている状態こそが悟りだと、森田正馬が言ったとのことだけれど、自分は疑問に思う。野中剛監督の三聖病院のドキュメンタリー映画には、主人公がアタラクシーの境地に導かれる過程が描かれていたように受け取った。だから、やはり森田療法はアタラクシーを求める療法ではないのですか? と。第二に、森田療法における治癒とは何なのですか? 一生懸命働くのも結構ですが、それが最良の人生ですか? と。
 どうもアタラクシーが女史の固定観念になっているらしく、手のうちが見えてきました。一方、森田療法における治癒の概念に関することは、より高次の問いかけです。
 そこで、今一度回答のメッセージを、メール送信しましたので、冗漫になりますが、その内容を以下に紹介します。

 〈当方からNyl ERB女史へ〉
 「改めて差し向けられたご質問に、お答えします。
 森田療法の目指すものがアタラクシーであるか? 答えは、ノンです。 森田療法の真髄は、苦を抱えて生き抜くところにあります。この世で苦を避けることは不可能なのですから。もちろん、人生、苦ばかりではありません。生きていれば、コインの両面のように、苦があれば楽もあります。森田療法はマゾを志向しているのではないのです。禅もまた然りです。楽しいことを素直に楽しみ、苦しいことをそのまま受け入れ、「あるがまま(ARUGAMAMA)」に生きていく、それが人生です。「ARU」とは “l’être”を意味し、「まま」とは、「無条件に、理屈抜きに、自然のままに」ということを意味します。
 ところで、三聖病院における森田療法は、本来の森田療法から偏して、過剰に禅の装いをし、独特の教義に傾いていて、宇佐療法と称されるまでになっていました。入院中の規則として雑談は禁じられていましたが、技法的な不問にとどまらず、言語的にも非言語的にも、コミュニケーションそのものがない自閉的な不問の世界だったのです。また禅では、まずは己事究明を課題とし、その果てに自他不二に至るものですが、三聖病院では、最初から自己意識を持つことを否定し、他者意識を持つことを肯定する二分法的指導がおこなわれていました。同じ病院に勤務している医師や他の職員にとっても、院長とのコミュニケーションは難しいものがありました。こうして外見的に神秘性をまとった院長像は、患者さんたちの崇拝を集め、元入院患者たちの会は、院長を教祖の如くに仰ぐカルト的な集団をなしていました。
 このような三聖病院のドキュメンタリー映画を制作された野中剛監督は、自身の先入観や印象を加えることなく、事実としての病院を撮影対象とし、それを映像として提供して、病院への評価は観客に委ねようとされたのです。
 ところが残念なことに、この映画を視聴した人たちの大半においては、映像の奥までを観ていず、映像の表面だけを追って病院を賛美し、不適切な鑑賞しかできないでいるのです。この映画は最後の結末が重要なのですが、多くの人たちは、映画を最後まで観ていません。熱心に映画を鑑賞していれば、最後までじっくり観て然るべきですが。
 主人公の入院患者さんは、病院の暗示的な環境の中で、教祖のような院長の敬虔な信者のようになってしまいました。心の安らぎを期待して映画を観ている人たちには、主人公が治療者を崇拝するようになった状態が、まさしく治癒であるように見えて、めでたしめでたしと思ってしまうのでしょう。しかし、主人公の陶酔的な心理状態は、非現実的な夢想の域を出ません。実際彼は、退院後に周囲の人たちに対して、院長への崇拝を語り続けたため、友人たちから奇異の目を向けられます。そして心理的に混乱していたため、野中監督は、一年間ほど定期的に彼に会い、マインドコントロールが落ちるまで、フォローされたのです。映画の最後の部分には、退院後のこのような顛末がさりげなく収められています。
 主人公が入院中に体験した陶酔的な心理状態は、アタラクシーに近いのでしょうか。西洋人がこの映画を観て、アタラクシーを連想しても、無理からぬことだと思います。ただし、それは宇佐療法の場合のことであって、本物の森田療法はアタラクシーにいざなうものではありません。

 次に、森田療法における治癒とは、という問題についてです。これは、われわれにとっても重要な課題です。同時にこれは単純なことでもあります。アタラクシーにこだわれば、この答えは見えなくなります。
 本来、森田療法は神経症の症状を特異的に治すための方法なのではなく、人生の苦楽を生きる智恵としてあるものです。「あるがまま」ということが、つい忘れられがちになります。苦を楽に変えたいのは人情ですが、できないことであり、それにとらわれてあがくと、神経症になります。言い換えれば、神経症は「治したがり病」であり、森田療法はそれを治してやります。
 宇佐療法では感情を排しますが、それとうらはらに、本物の森田療法は感情の生き生きした動きを大切にします。行動もまた大切ですが、素朴な感情が自然に適切な行動につながるのです。
 こうして森田療法は万人の生き方に必要なもの―、あるいは既に世の中の多くの人たちが、たとえ森田療法という名称を知らずとも、そのような智恵を持って生きているに違いないのです。
 この療法を、神経症の治療という狭い領域に閉じ込めるべきではありません。苦悩があってこそ人間は成長するものなので、神経症というものは必ずしも治す必要はないと思います。森田療法の、あるいは仏教の智恵は、万人の人生にとって必要です。」(6月29日)。
 以上が私の書き送った答えです。
 
  Nyl ERB 女史は、精神分析と森田療法を対立させて考えながらも、森田療法を西洋的なアタラクシーの方へ引っ張って理解しようとしたのでした。自由、平等を原則とするフランス社会で、生きていくためには個の確立が求められることは理解できます。そして個の確立のために精神分析を拠り所とするフランス人の心理も、精神分析的に理解できます。しかし、フランス社会では、心を合理的に扱う精神分析があるその反面で、興味深いことに、東洋の仏教的な思想や体験への関心が少なからず浸透しているのです。小乗仏教(上座部仏教)、禅(曹洞禅)、瞑想がその主なものです。瞑想につながるものとして、ダライ・ラマのチベット仏教やティク・ナット・ハンのベトナムの禅もかなり入ってきています。これらに共通するものを、強いて西洋の既存の概念に照らすと、アタラクシーが持ち出されることになるようです。
 

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曹洞宗で使われる禅語「非思量」の掛け軸と、面壁して座禅をする僧侶。

(写真は、ストラスブールの禅仏教センターの案内冊子)

 

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2.瞑想について
 まず瞑想というものは、本来禅の座禅とは別のものであり、主に小乗仏教(上座部仏教)において、戒律を守り、煩悩を断つ厳しい修行の一環としておこなわれてきたものです。またインドにおいては、古くからヨーガの瞑想がおこなわれていました。
 これらはフランスに導入されて、méditation(メディタシオン)と呼ばれ、ストレスなどに対するセラピーとして流布することになりました。しかし、méditation は西洋の言葉であり、西洋ではキリスト教の信者が、神に祈り神をイメージすることが méditationだったのです。したがってフランスにおいてméditation と言われるもは、複合的な意味合いを持つことになります。
 一方、禅と瞑想は、わが国においてさえ混同されやすいものですが、フランスでは両者は融合しているのが現実です。フランスには、20世紀後半に、弟子丸泰仙という禅僧によって、曹洞宗の禅が広められました。黙照禅と言われ、ただひたすらに只管打座の修行をする曹洞宗の禅は、フランス人からすれば、それはキリスト教の méditation にも、また小乗仏教の瞑想にも通じるように見えたものと思われます。そのような親和性を接点として、フランスには曹洞宗の禅が根付いています。
 森田療法は、曹洞宗の禅とも無関係ではありませんが、フランス人がもし méditation と森田療法を同一視すれば、アタラクシーを連想される場合と同様に、理解にずれが生じることになります。
 ともあれ、フランスにおいて、東洋的な宗教や思想が受け入れられている現状を知っておくことは必要です。
 

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アルザスの曹洞宗の禅寺、RYUMON-JI(龍門寺)の庭と小道。寺の敷地は広い。

 

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3.アルザスの禅寺(龍門寺)とストラスブールの禅仏教センター
 さて森田療法と近い関係にある禅は、フランスでどのように普及しているのでしょうか。フランスの禅事情に通暁しているわけではありませんが、アルザスに在住するNyl ERB女史から、アルザス地方にRYUMON-JI(龍門寺)と禅仏教センターという、曹洞宗の二つの重要な禅施設があることを聞いています。
 しかし、まずフランス全土には、どのような禅施設が存在するのでしょうか。これについては、インターネット上に“Zen Centers in France”というサイト(最終アップロードは2008年)があり、禅施設がリストアップされていますので、情報として完全と言えないにせよ、これがかなり参考になります。
 この資料には、フランス国内の82カ所の禅施設が挙げられています(個人的な禅の集いのレベルのものは無数にあるようですが、それらはこのリストに含まれていませんので、そういう意味では一応信頼に足る資料です)。そこでこの資料に基づき、禅の宗派別に見ると、このうち明らかに曹洞宗を標榜している施設が56件あります。その内訳としては、弟子丸泰仙の流れを名乗るものが46件、それ以外のものが10件です。これだけを見ても、フランス国内の禅施設の約三分の二が曹洞宗であり、さらにその大半が弟子丸泰仙の系譜に属することがわかります。
 臨済宗を標榜している禅施設は、4件に過ぎません。これらはすべて、Taikan JOJI(太寛常慈)というフランス人の臨済僧妙心寺派の開教師によって興された施設です。
 それ以外には、曹洞宗と臨済宗の双方の融合した禅を名乗るもの4件、ベトナムのティク・ナット・ハンの流れのもの4件、キリスト教のスピリチュアリティと融合した禅を名乗るもの3件、残りの11件は標榜不明です。なお上記の全82件のうち、temple(寺院)を標榜するものが、5件あり、曹洞宗寺院3つ、臨済宗寺院1つ、宗派不明1つです。曹洞宗寺院では、ロワール河の近く、ブロア市の近郊のヴァレールに弟子丸泰仙自身が曹洞宗の拠点として開いた禅道尼苑が知られており、そしてストラスブール郊外のヴァイテルスヴィラーには、弟子丸の重要な弟子によって開かれた龍門寺があります。これらが曹洞宗寺院の双璧をなしています。臨済宗寺院は、上述した太寛常慈によって開かれたものです。
 このように概観すると、龍門寺はフランスの曹洞禅の重要な寺院であることが、改めてわかります。
 残念ながら、自分は訪問したこともありませんので、資料に拠りながら、龍門寺と、ストラスブールの禅仏教センターのことを簡単に紹介しておきます。
 幕末の日仏修好通商条約以来、主にアルザス地方が商業のみならず、文化的にも日仏交流の地となった歴史があり、アルザスは日本との馴染みの深い地方です。龍門寺ができるより早く、1970年にストラスブールに、弟子丸泰仙の直弟子のひとり、ジャン・ショーゲン・ベイビー禅師によって、Centre de Bouddhisme Zen(禅仏教センター)が設立されました。ここでは、仏教者であるか否かを問わず、世俗の市民も歓迎し、はじめての人には手ほどきをしながら、毎日座禅をおこなっています。曹洞禅は、“méditation-zen”と称され、座禅は“méditation assise”と言われています。このセンターは龍門寺と連携しています。泊まり込んで僧堂での生活をし、摂心に参加する人は、龍門寺に行ってそれを体験をすることができるのです。
 このセンター及び龍門寺に共通する禅へのいざないとして、次のような説明がに記されています。
 「 二千年以上前に、シャカムニ・ブッダは、méditationにより覚醒体験をして、この世の苦の原因を知り、苦から自由になる法を説きました。…今への集中、個人の責任感への気づき、慈悲への目覚め、忍耐、感謝の念が座禅の重要な意義で、これらによって日々の生活への具体的な答えがもたらされるのです」。
 RYUMON-JI(龍門寺)は、ストラスブールの郊外に、弟子丸泰仙の重要な弟子、Olivier Reigen Wang-Genh オリヴィエ・レイゲン・ワン-ゲン禅師によって、1999年に開かれました。この方は、曹洞宗の布教使であり、国際禅協会副会長、フランス仏教ユニオンの会長で、フランスにおける曹洞宗の重鎮です。
 龍門寺は広大な敷地を持ち、様々な目的の複数の建物、石庭などの庭、植物の菜園などもあります。ここでは僧侶、尼僧、一般人ら、数十人が、規律正しく日課を守って集団生活をしていて、毎月摂心がおこなわれています。このような規模、規律、指導内容を見ても、本格的な修行生活が用意されていることがわかります。
 出家、得度を目的とせずとも、志せば一般市民もここでの生活集団に受け入れられることは大きな魅力です。méditationとは何なのかという疑問も残りますが、入院森田療法が衰退の途を辿りつつある今日、このような修行生活をできる場があることは、羨ましい気がします。
 

提唱

龍門寺における指導者の提唱

アタラクシー、瞑想、禅、そして森田療法(その1) ― Nyl ERB 女史らの論文紹介後に著者と交わした討論―

2016/06/23

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        アルザスには曹洞宗の禅寺、RYUMON-JI(龍門寺)がある。そこでおこなわれている摂心。
            (写真はRYUMON-JIの案内冊子より)
 

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1.「アタラクシーと精神分析」(前回の紹介論文)を受けて
 先に、Nyl ERB 女史らの「アタラクシーと精神分析」という珠玉論文を紹介しました。それは精神分析の立場から森田療法について、論考を試みたものでした。ただし、その立論に対して、いくつかの問題を指摘せざるを得ませんでした。とりわけ、森田療法を正面から論じきることを保留し、アタラクシーという古代ギリシア哲学の用語を森田療法に当てて、それと精神分析を対比した点に、問題を含んでいたのです。
 辛辣ながら、前回そのようなコメントを書きました。
 ちょうどそれを書いた直後(6月11日)に、Nyl ERB 女史からメールが届き、こちらの懸念している“アタラクシーと森田療法の関係”について、ご自身の立場からの説明が記されていました。
 それを皮切りに、女史との間で、メールでメッセージをやりとりして討論を交わしました。文化を異にする者同士、逐一討論することは必要です。短い論文に書かれていなかった空白部分を、かなり埋める共同作業をすることができたのです。
 それらを次に紹介します。
 

蓮

         ストラスブールにある Centre de bouddhisme Zen 禅仏教センター(曹洞宗系)の案内冊子。
        Méditationの文字が大書されている。
 
2.私たちのやりとり
〈Nyl ERB女史より〉
 「アタラクシーと禅は、実際には別のものだろうと思っています。西洋でも、その志を持つ人は禅に触れる体験をしているわけですけれど、ヨーロッパにおける存在の哲学は、禅や仏教と本来対極にあるものです。フランスでは、誰もが ZEN に興味を持っています。しかし、それはあまりにも俗化した次元での関心であり、ZENを深く知ってのことではありません。厳密な意味においては、私自身も禅を語る資格はないので、アタラクシーに関係づけて述べておく方が適切だと考えたのです。また、言葉を媒介にする精神分析に対して、沈黙によるアプローチをするという森田療法が目指す境地は、アタラクシーに近いのではないかと推測したのです。でも、森田療法を理解することは難しいです。森田療法は、知的に理解するものではなく、体験的に知るものでありましょう。われわれの間にある差異もまた、差異を知ることで一層理解し合えるのではないかと思います。」(6月11日)
 
 このようなメッセージをもらったことで、違いを理解しようとしてくれる柔軟な姿勢を読み取ることができ、その姿勢こそ評価するに足ると思いました。
 

   ♥      ♥      ♥

 
そこで、アタラクシーと森田療法の関係について、こちらから意見や疑問を投げかけることにして、およそ次のような内容のメール文を書き送りました。
 
〈当方より女史へ〉
 「精神分析と森田療法の比較検討は、古くて新しい問題です。先行研究は少なからずありますが、多くは言い古された指摘にとどまっています。そんな中で、森田療法の目指すものを、アタラクシーとほぼ同一視した、唐突とも思えるような論考に触れて、私は戸惑いを覚えました。森田療法を禅と重ね、禅をアタラクシーにつないでいることは察しがつきます。それにしても、森田療法もしくは禅と、アタラクシーとの異同を、もう少し明確にして論を運ぶべきであったのではないでしょうか。したがってその点を論じる必要性が残されています。そのため、ひとつの手がかりをこちらから提供します。それは禅における究極の境地とされる『悟り Satori』についてであり、かつそれがアタラクシーとどう関係するかを、点検してはどうかという問題提起なのです。
 禅の体験の究極の境地は、『悟り(Satori)』であるとされます。悟りとは、主体としての自己が客体としての自己と対決し、その二元的対立の果てに、『真の自己』の境地に至るものです。それは、心身や主客や自他や生死の二元的対立のない、あるがままの自己である境地です。そこにおいては、悟りと迷いの二元論的対立すらありません。迷いの渦中で必死に生きている状態が悟りであり、逆に悟りを開いたと思って自負するとき、既に迷いの中に転落しているのです。
 人生に煩悩はつきものです。あるがままとは、煩悩を超越することではなく、煩悩に執着しないでそのまま生きることを意味します。禅の修行において、座禅がおこなわれるのは、心身がひとつになった状態で、あるがままの自己を体験する方便として、座禅が定着したものだからです。座禅や禅の修行は、煩悩を超越した神聖な境地を目指すものではなく、人間としてあるがままに生きようとする努力を、方法として凝縮したものであり、それ以上の特殊なものではありません。
 禅と禅における悟りについて、基本的に以上のように理解した上で、アタラクシーと対比する必要があるでしょう。
 しかし、その前に追加すれば、禅の悟りというものにも、さまざまな捉え方があるのです。ひとつの有名な例を紹介します。
 かつて戦乱の時代に、戦に巻き込まれて火炙りの刑に処せられた有名な禅僧がいました。快川(Kaisen)というその僧侶は、火刑にされる前に、次のような辞世の言葉を残しました。
 『心頭を滅却すれば、火もまた涼し』
 禅の悟りをあえてアタラクシーと重ねるならば、火を涼しいとする境地はアタラクシーに相当するのでしょうか?
 しかしながら、火は熱いのが当たり前です。殺されたくない、死にたくないのが当たり前です。森田正馬なら、火を涼しいとわざわざ言うような悟りを、きっと受け入れなかったでしょう。森田は、治癒と禅の悟りを同一視しました。ただし森田は、『生きるために火花を散らして働くようになったのを悟り』と捉えたのです。悟りについての森田の見解はおそらく的確です。火を涼しいという悟りは、凡人にとって無用のものだと、私は考えています。
 以上に述べたことを考慮して、アタラクシーと禅と森田療法を対比してほしいと思います。」(6月13日)
 

   ♥      ♥      ♥

 
以上のような私からのメッセージは、女史にある程度まで通じたようで、反応のメールをもらいました。彼女の発言は、先の論文内容よりも深まってきました。しかし理解と同時に新たな誤解も発生し、彼女からの疑義も呈されています。
 ともあれ、彼女からのメッセージを紹介します。
 
〈再び Nyl ERB 女史より〉
 「あなたが禅について書いてくれたことをよく読み返しました。そしてその結果、厳密な意味での禅思想と、ヨーロッパで一般に安易におこなわれている禅の思想とを、混同すべきでないことを改めて知りました。
 ヨーロッパにおける禅は、当面のストレスや不安を解消するのに役立つメディタシオン(瞑想)につながっています。それはある種の流行現象ですが、実利的なもので、医師もそれを活用しています。以前はルラクサシオン(リラクゼーション)と呼ばれていたものに当たります。このメディタシオン(瞑想)は、インドの仏教の僧堂で僧侶のもとで修行した人たちによって、ヨーロッパにもたらされたものです。
 さて、禅思想がとりわけ仏教の本質に触れるものであることは言うまでもないようですが、その哲学は、自己への畏敬と、satoriと呼ばれる覚醒体験に至るような生の高揚にあるということを知りました。そのような禅が探求するのは、絶対的な生そのものになりきるために、煩雑な生を空にする法なのであろうと私は考えます。だからこそ、火炙りになる僧をして、火は涼しいと言わしめたのではないでしょうか。
 アタラクシーは、このような究極の至福の追求に類しますが、satoriの境地に達するものではありません。
 森田療法の対象患者は神経質で、悪しき生を生きており、satoriの追求からほど遠く、単に幸福になりたいと念願しているだけである―、だから森田療法はその願望を実現してやるために、彼らをsatoriへの道へと導いてやる、ということでしょうか―。
 ところが、私はあなたのメールをまた読み直してみて、とんでもない勘違いをしていることに気づきました。森田は治癒とsatoriを同一視した。彼によれば、必死で生きている状態そのものがsatoriなのである、と書いてあるからです。
 より良い幸福の追求は精神療法のひとつの本旨であり、それを描いている野中剛監督の(三聖病院)の映画から、ある種のアタラクシーを感じ取れますが、そのようなアタラクシーとも懸隔があることになるのでしょうか。
 先の小論で私は、精神療法間の対比として、森田療法と精神分析の違いを述べました。しかし、一体、精神療法あるいは森田療法の営みは治癒を可能にすると信じるべきなのでしょうか? 私は懐疑的になっています。絶えず極度に緊張して生活することは、確かにより良いひとつの生き方かもしれませんが、それで最良の人生を取り戻すことになるのでしょうか! 私は疑問に思います。
 是非あなたの考えを知らせてください。」(6月20日)
 
 メッセージの終わり近くなって、混乱と疑問が噴出しています。
 
〔女史の混乱〕
 一旦は整理がついたかに見えた、アタラクシーと森田療法や禅との関係が、再度混乱しています。その原因として、ひとつには、禅の本物の悟りは日常生活を必死に生きている状態にこそあるという見方が、まだ腑に落ちていないらしいということがあります。さらに三聖病院のドキュメンタリー映画を観た女史は、そこではアタラクシーが主題になっているかのような印象を受けたようで、その記憶がよみがえった模様なのです。女史は熱心な人なので、これらのことについては、もっと根気よく伝え続ければ、理解を得られるはずです。
 
〔女史の疑問〕
 もうひとつ、大きな問題は、森田療法における治癒とは何かということを、女史が突きつけてきたことです。フランス人が、いきなりこの問題に飛びついてきました。
 これはわれわれにとっても大問題です。近年、私自身も思っています。森田療法は神経症の治療という狭い領域にとどまる必要はない。極論すれば、例外的な場合を除いて、神経症を治療対象にする必要はない。森田療法はみんなのものである。万人の人生とともにある智恵として、社会のあちこちで現に生かされているであろうし、より一層生かされるとよい。森田療法は人間が呼吸している空気のようなもので、特別なものではないけれど、不可欠なものである。そのような柔軟な見方、生かし方が、とりわけ忘れられています。(手前味噌になりますが、そんなことを昨年小著に記しました)。
 味噌臭くなりましたが、この問題も、賢明な女史は理解してくれるはずです。
 かくして、やりとりはまだ続きますが、本日はここまでです。
 

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注記
 最後になりましたが、文中で度々用いてきたアタラクシー(英語読みでは、アタラクシア)という言葉の語義を、念のため書き添えておきます。
 〔ataraxie(仏)、ataraxia(英)〕
 古代ギリシアのエピクロス派が用いた言葉で、語源からは、何ものにも邪魔されない状態のことであり、外界から煩わされない精神の平静、安定を指した用語である。エピクロス派はこのような状態に快楽があるとし、それを理想の境地として追求した。
 

本日5

「アタラクシーと精神分析」― Nyl ERB, Muriel Falk VAIRANT 著の論文について ―

2016/06/12

二人

 
 雑誌PsyCause日本特集号に掲載された論文の一つ、Nyl ERB女史(精神分析家)とMuriel Falk VAIRANT医師による“Ataraxie et psychanalyse”(「アタラクシーと精神分析」)という論文の要旨とその内容について紹介します。
 まず、論文のRésuméを原文のまま掲げ、続いてコメントを書き加えます。
 

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文章

 

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 著者らは、森田療法を精神分析と対比して、まず、両者は人間を幸福に至らしめんとする点では相通じることを認めています。ただし、両者は思想や道筋を、かなり異にしているということを指摘して、次のように言います。
 
 精神分析では、個人の歴史における過去の体験を取り上げる。そこでの基本的手法は言語である。対話によって欲動を変化させ、思考に自由を与えて、個の自我を再構築をはかるのである。
 古代ギリシャのアゴラは、公衆の議論の場であった。集団の中での個々人の対話の積み重ねによって、西洋の民主社会ができた。西洋の建築においては、個々に分析された細部からなる構築によって、華麗にして重厚な建築物ができた。宗教の次元でも、キリスト教では、過去の出来事の中で歴史選択がなされてきた物語としての聖書が、重きをなしている。
 個人の精神分析においても然り。言語による対話によって、過去からの解放をはかり、それを起点に、新たな人生に立ち向かわせる。その試練を経て、穏やかな幸福がもたらされるのである。
 一方、森田療法は、主体をアタラクシーの境地に到達させようとするものだと、著者らは言う。アタラクシーとは、ギリシャ語を語源としており、あらゆる苦悩を超越した魂の深い静寂の境地のことであり、それが森田療法における幸福なのであると。
 そして森田療法の治療の方法として、次のような特徴を挙げている。
 入院森田療法では、僧院のような環境で、規律のもとに行われ、まず、沈黙が課せられる。しゃべることの禁止によって、他者との関係性は遮断され、自己を見つめる瞑想のような体験が惹起される。次に視点を外界に移し、観察し感じたことを日記に書き、それに対して治療者の助言が与えられる。このような徒弟奉公的な営みに、ある種の充実や至福が感得される。沈黙はまた、思考を停止させ、ある種の脈絡のない思考と、瞑想的で理性によらない覚醒体験へと通じていく。このような心的過程は、精神分析ではありえないものである。
 森田療法のそのような仏教的治療哲学においては、個は個として存在しえず、集団の中に差し戻されるのである、と。
 
 こうして著者らは、精神分析と森田療法の間に見られる相違は、それぞれの療法が依拠する文化の相違によるとして、日本における仏教について言及して、次のように述べています。
 
 仏教の基本的原則として、教義と実践がある。
 仏教の教義は、多くは、段階的な指導のかたちで教示される。ブッダは、まずわれわれの眼に現実の姿を見せつけ、次いで新たにその分析をさせ、究極においては、ブッダ自身が事物を見ているような見方、つまり《あるがまま》に見る見方へと吾人が到達できるように教えたもうた。
 仏教の実践面においては、さまざまな修行や霊的な訓練があるが、仏教者たちはそれを生かして、個別の体験から仏教の教えの意義を知って、霊的な道を前進し、目標としての悟りと解脱の境地に達するのである。
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
 以上で、著者らの論文内容を、日本語文で要約的に紹介しました。原文の記述の順序に、必ずしも従っていませんが、内容を忠実に再現するように努めて記述しました。短い論文なので、ほぼ全体を漏らさず紹介したことになります。
 さて、この論文では、精神分析についての説明は的確で、教科書的であり、われわれにとってもお馴染みのものです。問題は、著者らの森田療法の捉え方です。私たちはその理解のしかたに大いに困惑を覚えるのです。
 この論文で、森田療法の目指すものは、苦悩を超越したスピリチュアルな静寂と安らぎの境地であると捉えられています。そしてその境地を指して、古代ギリシャ哲学由来のアタラクシー(ataraxie)という語が当てられています。フランスでは、ZENの体験は、しばしば ataraxie という言葉とその概念で説明されることがあると聞きます。このような禅理解のしかたが生じる思想的背景には、それなりの歴史的事情があるでしょう。まずヨーロッパに入ってきた仏教は、旧植民地であった東南アジアの南伝仏教、つまり小乗仏教(上座部仏教)でした。その後、日本から禅が導入されましたが、それは曹洞宗の禅でした。もちろん小乗仏教と曹洞禅は、仏教としてかなり異なります。しかし、いずれにおいても、俗界を離れてひたすら修行に打ち込むことが重んじられる点では、相通じるところがあるので、フランス人にとって、区別が困難だったことでしょう。仏教に超俗的な自己研鑽を見た彼らは、自分たちの文化の中にあるキリスト教的な瞑想と似通うものを、(小乗)仏教や(曹洞宗的)禅に見たのです。そしてそこに見たものをさらに深く理解しようとして、古代ギリシャ哲学にまで遡り、アタラクシーという用語や概念を持ち出すことになったのだと思われます。
 近年、ティク・ナット・ハン師のような、小乗、大乗の区別を超えた偉大な指導者がフランスにおける仏教に影響を与えていて、日常における瞑想(メディテーション/メディタシオン)が推奨されています。セクトにこだわらない大らかな仏教が、受け入れられるのは、望ましいことです。しかし、禅については、なお理解困難なままに、フランス人はためらいながら、それを瞑想(メディテーション/メディタシオン)という行いに結びつけるとともに、その究極の体験を知的分別で説明しようとして、アタラクシーという哲学用語を当てるのです。
 本論文の著者らも、禅仏教の目指す境地として、同様の先入観を持っていたことが、期せずして明らかになりました。つまり、森田療法と禅の関係をある程度知った段階で、性急にも一足飛びに、森田療法をアタラクシーに結びつけてしまったのです。論文においては、森田療法なるものについて若干の記述があるのですが、それがどのようにアタラクシーに繋がるのか、記述に脈絡がありません。
 しかしこの著者らが言葉足らずに書いた森田療法の説明は、実は三聖病院でおこなわれていた療法の特徴を記述したものにほかならず、そのような意味では、意外にも描写は的を射ているのです。彼女ら(著者ら)は、一昨年秋に京都に来て三聖病院を訪問した PSYCAUSE のグループの中にいた人たちで、それなりにこの病院を鋭い眼で分析的に観察したようです。言うまでもなく、三聖病院の独特の禅的森田療法に、森田療法の普遍的な本質があるかどうか、それには肯んじ難いものが残ります。京都に来たフランス人たちを、閉院間際の三聖病院に連れて行くのが、私には精一杯の「おもてなし」でした。その結果、熱心に訪問に加わった本論文の著者らにより、三聖病院の事実がフランス人の眼で冷徹に指摘されたことは、思いがけない収穫だと考えます。
 それにしても、三聖病院の療法の営みと、アタラクシーを直結させて考えるには、かなりの無理があります。森田療法の本質を禅に近いものとして、彼ら、彼女らに紹介してきたのは私自身なのですから、著者らが森田療法を禅との関係で理解しようと努めてくれることについては、私自身それを好ましく思うものです。しかしながら、一挙にアタラクシーに持っていく理解のしかたを提示されると、私は伝え方の不首尾に責任を感じますが、同時にやはり違和感を禁じ得ません。著者らは、そのように論を運ぶ根拠を有していないはずです。何を以てアタラクシーとするのか、残念ながら、彼女らの論旨には、空白があります。導かれる結論が突飛なのです。禅あるいは森田療法をアタラクシーとみなす先入観ありき、の論文の印象を拭えません。
 

 そのため、森田療法と禅について、改めて若干のことを補わねばなりません。
 森田正馬が「煩悩即菩提」という禅語を引用して教えたように、煩悩を抱えて生きること、そのままで悟りなのです。苦を苦とし、苦のままに生きるほかありません。悟りというものは、不可解なものです。苦悩を超越した域に至福の境地があるのかどうか、そのような命題にわれわれは関わる必要はありません。少なくとも、そのような境地の追求は、森田療法から逸脱していきます。
 森田正馬は、治癒と禅における悟りを同一視しました。ただし、森田は、「生きるために火花を散らして働くようになったのを悟り」というとしており、それが即ち治癒の姿なのです。悟り澄ました至高の心的境地を問題にしているのではありません。アタラクシーは論外のことになります。
 この辺の重大事については、日本人でも、とくに神経症の罠にはまっている人たちが、しばしば誤解をするところです。ましてフランス人に理解してもらうことは容易ではありません。でも同じ生身の人間同士、やりとりを重ねることによって、きっと理解してもらえるだろうと思っています。
 
 なお、禅の悟りの境地の捉え方について付言すれば、禅の思想的立場によっても微妙に異なると思われる節があります。禅の悟りをアタラクシーと捉えてしまう陥穽は、禅の悟りの問題と西洋の知との相対性の中に潜んでいるのかも知れません。
 ここでは長くなるので、稿を改めたいと思っています。
                                             (6月11日 記)
 

追記1.

 紹介した論文の著者のひとり、Nyl ERB 女史とは随時メールのやりとりをしていますが、上記の文章を書き終えた6月11日の夜、女史は彼女らがアタラクシーという用語を持ち出した理由についての説明を書き送ってきました。その趣旨の紹介を含め、アタラクシー、禅、森田療法について、次回にコメントを追加する予定です。
 
追加2.

 森田療法へのフランス人の反応に関しては、小著(『忘れられた森田療法』)の最終章に記しました。森田療法の日仏交流にご関心を持って下されば、参照して頂けると幸いです。今ここに書いていることは、その交流の流れの続きを、リアルタイムで補足的に報告しているものです。
 

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Nyl ERB女史(中央)とMuriel Falk VAIRANT医師(右)。 2014年10月20日、京都での PSYCAUSE学会にて。
 

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Muriel Falk VAIRANT 医師(写真左)。2014年10月21日、三聖病院にて。

‟ Les psy causent ” ー 心は「すったもんだ」 ー

2016/06/04

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  雑誌 PsyCauseの日本特集号が刊行されたことを、先日のブログでお知らせしました。

  この特集は、一昨年(2014年)秋に京都において、森田療法を主なテーマとして国際PsyCause学会を開催したことに端を発します。学会の成果を中心に、翌年(2015年)の学会誌に日本特集を組もうという企画が生まれたのでした。そして“Cahier Japonais”(日本についての論考)の号がやっと日の目を見ました。2015年の最終号ですが、刊行が遅れて、本年3月末に出たものです。

  この号の編集には当方も介入しました。しかし相手方には、特集号の刊行を、今後のさらなる日仏交流につなぐ礎石にしようとする目論みがありました。京都を中心とするわれわれ西日本の少人数のグループには、そんな相手の希望に応じるだけの組織力がありません。この特集号の発行の水面下には、相手方との間にそのような葛藤がありました。フランス語圏とは言え、国際的な学会組織とわれわれ少人数が渡り合うのはかなり無理があって、骨が折れます。

  実を言えば、一昨年に学会を引き受けざるを得なくなった時点で、日本国内の francophone のプシ関係の先生方や、あるいは個人を超えて組織として PsyCause学会と趣旨を共有するところが多いと思われる日本の学会、とりわけ「多文化間精神医学会」のような学会組織に、交流をお引き受け願えればと、内心考え続けてきました。しかし当面の学会開催、三聖病院の閉院という事態、日本特集号編集など、すったもんだで現在に至ります。

  日本特集のこの号には、雑誌の各論文にカラー写真が添えられました(陰の声あり:文章が主体か、カラー写真が主体か)。それはよいとしても(陰の声:よいかどうかわからない)、日本側から寄稿した論文に添えられた写真の大半は、一昨年にフランス人たちが来訪したときに、京都や奈良の観光に出かけて撮影したものです。写真としてはまずまず美しく撮れています(陰の声:写真は真実を写しているか)。極めつけは雑誌の表紙の写真です。フランス人たちは、日本語の表意文字としての「観光」を知らないようでした。「光」を観るより「影」を観よ。雑誌を観た感想として、これからそういう皮肉を相手に届けようと思うのですが…(陰の声:野暮なこと)。

  雑誌の表紙には、小さな文字で書いてあります。“Les psy causent”と。幸いなるかな、日本語の読めない精神分析家たち。こちらのすったもんだも知らないで。

でも心はいつもすったもんだでよいのです(陰の声:よいも悪いもない)。
 
 ※ いくつかの論文の要旨を、追って紹介していく予定です。

                                

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関西で生きている森田正馬の教育―和田重正先生から松田高志先生へ―

2016/05/15

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              松田高志先生 著『いのち輝く子ら―心で見る教育入門―』

 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
 

 知る人は少ない。
 森田正馬の本物の教育が、静かに関西に到達して、この地の一隅に根づき、神戸女学院大学の松田高志先生を中心として、それは脈々と生きていた。
 

1. 関西で発見、森田正馬の教育
 森田正馬に直接指導された経験を生かし、神奈川県の小田原で、在野における教育活動に一生を捧げた和田重正という人がいた。そしてその和田に直接師事された方が関西におられる。神戸女学院大学教授(現 名誉教授)の松田高志先生である。松田先生は、和田重正を経由して森田正馬の孫弟子にあたるわけで、森田の、そして和田の教育を継承し、その真髄をご自身の教育に生かし続けてこられた。森田療法の表舞台には登場なさらなかったので、松田先生の地道な教育活動は療法の主流の側からほとんど脚光を浴びることはなかった。けれども、神戸の大学や奈良県の農場で、長年にわたり「いのち輝く」教育の活動を実践してこられたのだった。

 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
 

2. 松田先生のご自宅を訪問して
 かつて神戸女学院大学に在学中に、松田先生の研究室のゼミ生だったK様(女史だが、様づけでお許しいただく)は、花園大学禅文化研究所の職員で、禅文化のお仕事に携わっておられる。10年近く前、私は禅関係の行事に参加して、K様とお話しする機会があったときに、松田先生のことや和田重正氏のことを教えていただいた。私にとってそれは初めて聞くお話だった。森田療法に関わるひとつの重要な流れなのに、そのことを認識するまでに少し時間がかかった。恥ずかしい話である。
 その後、森田正馬の次世代の人たちの活動について調べる機会があり、その方向から和田重正という教育者がいたことを知るに至る。こうして和田の流れを汲む関西の人であり、K様から伺っていた松田高志先生へと、関心が改めて収斂した。そこで先生に一度お目にかかりたく、ご連絡を取った。
 しかし、その松田先生は、2年前に思いがけない病を得て入院され、昨年ようやく退院なさって、その後は在宅でリハビリ生活を送っておられた。さいわい、K様ら元同級生の方々が同行して下さり、去る3月下旬に宝塚市のご自宅を訪問した。

 松田先生は京都大学教育学部のご出身で、ご自分の人生問題に悩みながら、教育の基盤としての教育人間学を専攻してこられたのだった。そんな中で和田重正氏と出会い、その教育観と生きた実践に触れ、以後長年和田重正に師事しつつ、教育の思想と実践を身近な全体として捉え、地道な活動を続けてこられた。数年前に神戸女学院大学をご定年になり、スローライフをますます充実した活動に生かそうとしておられた。
 しかしその矢先に、突然急な病に襲われ、思いもよらない体験をなさったようである。長い入院生活を経て、昨年退院され、現在はご自宅から通院してリハビリを続けるというスローライフを送っておられる。
 お宅を訪問したときは、車椅子に腰掛けて受け答えをして下さった。お聴きしたいこと、お尋ねしたいことが沢山あり、つい私ひとりが長時間にわたり松田先生を独占し、先生はお疲れになったに違いない。反省しきり。
 リハビリ中の松田先生がおられるだけで、その存在感は大きいけれど、やがて全快を見込めるようにて、現役に復帰して下さる日が遠くないことを、ひたすら願うばかりである。
 
 

いのちのシャワー

                松田高志先生 著『いのちのシャワー』

 
 
3.高志先生の高き志の行方
 松田先生は若き日に悩みを体験された。そして人びととの貴重な出会いに恵まれて、求めていた奥深い教育は、「ありのまま」に生きるという、身近な生活そのものにあることに気づかれたのだった。それは先生個人の内面の軌跡に関わるが、ご自身の人生のことについては、文章にしたり、語ったりしておられる。雑誌「禅文化」の207号、208号(いずれも2008年刊)に、人生の転機や人生における出会いについて、自らの経験を書き記しておられるので、それに拠りながら簡単に先生のことを以下に部分的に紹介する。
 
 
 高志少年は、理想の教育をするという夢を抱き、大学の教育学部に入学した。しかし大学に入ってから、学生生活に悩むことになる。
 悩みを抱えたまま大学院に進学。たまたま相国寺の坐禅会(智勝会)の掲示を見て、坐禅に参加し、熱心に通い続けた。
 当時相国寺には、僧堂に住み込んで雲水たちと一緒に修行している医師がいた。江渕弘明という森田療法をやっている医師だった。あるとき、その江渕先生の方から声をかけてくださって、「ありのまま」に生きればいいのだと教えられた。それで少し前向きになることができた。
 さらに幸運なことが起こる。大学の指導教官の後任として、智勝会の大先輩の上田閑照先生が教育学部に就任されて、親しく指導を受けることになった。
 その後ドイツに留学し、帰国後に江渕先生に再会する。そのころ、和田重正の著書『葦かびの萌えいずるごとく』を気に入って読んでいたが、不思議なことに、江渕先生からその本を薦められた。江渕先生は森田療法を通じて和田先生と親しかったのである。江渕先生は、和田先生が関西に講演に来るから紹介しようと言ってくれた。奈良での講演会で和田先生に紹介された。そして和田先生の私塾「はじめ塾」の合宿所「一心寮」での夏の合宿に来るよう勧められて、その夏に参加した。そこで生活を重視している和田先生の教育に触れて、以後十数年、和田先生に師事することになった。
 
 
 和田重正氏が開いた「一心寮」は、想像するに、森田正馬の入院原法と重なるところが多かったのではないだろうか。禅寺での修行のような規則づくめではなく、合宿としてある程度の規律を保ちながら、その中で自由に手分けして作業をし、講話を聴き、話し合いもするという、押しつけられない生活の中で、いのちの力が自然に発露する体験ができるのであろう。失礼な言い方になるかも知れないが、松田先生は、いわばここで森田療法の入院のごとき体験をなさったのだと思う。
 また、松田先生は、和田重正氏が発足させた「家庭教育を見直す会」(くだかけ会)の活動を関西で引き受ける中心人物として、和田に協力なさり、奈良県の御所市にある和田の本家の農場を借りて、「関西くだかけ農園」を教育に活用なさった。神戸女学院大学の学生たちを連れてここに通い、野菜や米を作ったそうである。そして学生たちは、先生の家に集まり、収穫した米でおにぎりを作って食べたそうである。

 
 

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             和田重正 著 『葦かびの萌えいずるごとく』(柏樹社 刊、昭和39年)

 
 
4. 江渕弘明先生のことについて
 若き日の松田先生が、悩みつつ相国寺の坐禅会に通っておられたときに、僧堂で修行を重ねておられた江渕先生が、森田療法の指導をなさったという。さらに何年か後に、江渕先生は、和田重正先生に松田先生を紹介して、両者を結ぶ絆を作られたキーパーソンである。松田先生から伺ったお話から察するに、江渕先生は和田重正と同世代にあたる人である。
 重要な人物であるが、ここではこれ以上の言及をひかえておく。
 

かびめもえいずる

           和田重正 著 『葦かびの萌えいずるごとく』新版(地湧社 刊、平成26年)

 
 
5. 和田重正氏と「はじめ塾」・「一心寮」、「くだかけ会」
 和田重正は、両親が教職者である教育一家の次男として、鎌倉で生まれた。父がアメリカに留学中に、重正7歳のとき、母は病死した。幼くして母をなくした悲しみは少年の心に深い影を落とした。旧制浦和高校在学中の17歳頃から以後、長い年月、人生の問題に悩んだ。昭和4年に東大法学部を卒業するも、就職をせず、屁理屈ばかり考えて現実を避け、玉突き屋に通っていた。苦しみは高じて自室に引きこもり、自殺念慮を抱き、遂に遺書まで認めたのだった。
 そんなとき、部屋の外に咲き始めている桃の花を見て、新鮮ないのちが湧き上がる喜びを感じ、新生の体験をした。入院森田療法に喩えるなら、第二期の体験に似ているように思われる。重正は森田正馬のもとに入院したこともあったが、そのときに劇的に救われることはなかった。しかし、森田から与えられた「事実唯真」、「ありのまま」という言葉を自分の中で温め続けていたという。それが盤珪禅師が梅の花の香で悟ったような体験に通じたのだった。
 心機一転した重正は、教育の道を志す。昭和12年に東京で父の屋敷内に、寄宿寮「一誠寮」を開き、昭和17年に小田原に疎開して、その地で「はじめ塾」を開いた。通学と寄宿教育を扱った。 昭和39年には、「はじめ塾」の合宿所として、西丹沢に「一心寮」を開設した。
 このような和田重正の教育の根本は、生活体験の中で、自他の区別のない「いのち」に目覚めることであった。自己を犠牲にして他者に尽くすべし、というような外圧的な道徳教育の教条性を批判するものであった。逆説的に、和田の教育は、自己の欲望を深く追求することを大切にした。外面でなく、自己の内面に本心がある。目先のケチなことにとらわれず、本心を取り戻そう。本心は、湧き上がるいのちの力であり、成長への欲望、他者と喜びを共有したい希求である。生活の中でそれを回復し、発揮しあって、気持ちよくなろうとする教育なのであった。和田はこのような教育を、道徳教育と対置して、「人生科」と言ったのだった。
 この和田の教育を知って、親たちや子どもたちが、「はじめ塾」と「一心寮」に数多く集ったのだった。
 和田はさらに学校における教育の危機的状況に対して、視点を家庭に向け、父母たちを対象に「家庭教育を見直す会」を昭和53年に立ち上げた。それは「くだかけ会」と称され、機関誌「くだかけ」が発行され、各地で集いが開催された。「くだかけ」とは、ニワトリの古語で、母ドリがエサを欲しがるヒヨコに心をくだく、心をかけるの掛け言葉なのである。
 平成5年に和田重正は没した。「はじめ塾」は重正の長男の重宏氏を経て、そのご子息の正宏氏に受け継がれ、「一心寮」は「くだかけ生活舎」となって、重正の次男の重良氏に受け継がれている。 松田先生は、「一心寮」や「くだかけ会」と関わってこられた流れより、現在も「くだかけ会」(会と組織の名称)との交流を保たれている。

 
 

訂正版2

            大阪くだかけ会の開催を報じた、昭和58年の京都新聞の記事。

雑誌 PsyCause 日本特集号が出ました

2016/05/05

 2014年10月に京都で開催した「フランス語圏内国際PSYCAUSE学会」での、日本人の発表原稿を論文化したものを中心に、他の日本人の先生方にも寄稿して頂いて、雑誌 PsyCause の日本特集が成立しました。正確には、2つの特集が収められていて、そのうちの主要特集が、Cahier japonais です(もうひとつの特集はアフリカ)。本誌は昨年(2015年)の最終号なのですが、発行が遅れたものです。この号より、全論文にカラー写真が添えられて、内容だけでなく見栄えも美しく仕上がりました。
 

表紙画像

         雑誌の表紙。2014年秋、閉院間近い三聖病院にフランス人たちが訪れた。
         写真はその際にフランス人が撮影した宇佐晋一先生。

目次画像

         目次のページ。Cahier japonaisの各論文の著者と論文タイトルをご覧あれ。
         画像を拡大すると読みやすくなります。

 
 なお、森田療法に関係のある論文のみ、「研究ノート」の欄で読んで頂けるようにしておきます。

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