森田正馬の日記は誰のもの―研究資料としての森田の日記の流通について―

2021/12/17

 

 

 

森田正馬は、明治26年、中学生だった19歳のときの冬休みより日記をつけ始めた。翌年、大病になった時期には中断したり、断続的にはなるが、日記の記入は継続される。日記の内容は、日常の体験、自分の行状や健康状態、家族のこと、交友、読書記録などである。とくに一念発起して書き始めたようでもないこの日記は、実に晩年に至るまで克明に書き続けられた。後に森田は記録魔だったとまで言われるに至ったほどである。野村章恒は『森田正馬評伝』の中で、森田が昭和11年12月18日および昭和12年9月29日の日記に愛弟子の古閑義之のことを書いているくだりを、短いながら引用しているので、森田は死の前年の9月の時点ではまだ日記を綴っていたことがわかる。日記は、大正末で大学ノート( 四六判 )36冊に及ぶが、残されているのは昭和4年までで、以後のものは戦火で焼失したと言われる。また戦後まで熱海の森田旅館に保管されていたが、熱海大火で一部焼失したのだとも言われる。
ともあれ、このように若かりし頃から晩年まで、生涯にわたる日記が残されていると、日記自体が自伝になるし、その人が生きた証しとしてのモニュメントになり、近親者にとっては、その人の人生のページをめくって懐かしむよすがとしての貴重な遺品になる。著名人であれば、日記が研究資料としての価値を帯びる。
概して日本人はよく日記をつける。ドナルド・キーンは戦没した日本兵の日記を見て、日本人が日記を付ける行為は、日本の伝統の中に確固たる地位を占めていると指摘した(『百代の過客―日記にみる日本人―』講談社、2011)。しかし、書く本人は常に死後のことを意識して日記を書くとは限らない。それは、日本人が青年期に対社会的というより、社会に適応すべき自己に向き合って、書きとどめおく自己の記録なのであろうか。

 

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森田正馬は、適応を志向する人ではなく、疾風怒涛を生きる若者だったが、自らのレゾン・デートル(存在理由)を明らかにするために、中学校卒業間近い頃から、日記を書き出したのは不自然なことではなかった。五高時代の友人の寺田寅彦も、少年時代から晩年まで日記を書き続けていて、五高時代の森田の蛮行を日記に綴っている。寺田の日記は、その全集に収録されているが、未だに「正式な公表」をされないまま、問題を残しているのは、森田正馬の日記なのである。
森田療法は、創始者、森田正馬が自称「神経質」者として生きた人生を根源とする。そこに分け入るには、森田の生涯を知ることが必要である。晩年の約10年間の分が欠けているとは言え、明治26年(19歳)から昭和4年(54歳)までの35年間の日記が残されている。それは森田療法の歴史上の極めて貴重な史料として、三島森田病院に所蔵されているのである。三島森田病院は、昭和34年に森田正馬の甥であり養子でもあった森田秀俊医師によって開設された病院で、森田の日記はこの病院に保管されてきた。森田の没後、おそらく熱海で井上常七氏が日記を預かっていて、それが森田秀俊医師に託されたのではなかろうか。日記は三島森田病院において、門外不出のものになっていたようである。

こうして森田の日記は病院に保管され続け、少なくとも公的には、研究者たちの閲覧に供されない期間が続いてきたのはどうしてだろう。さまざまな事情が考えられる。日記を公にすれば、本人の素顔や家族のプライバシーが露わになる。たとえば、世界的にベストセラーになったユダヤ系ドイツ人の少女の『アンネの日記』でも、母への憎しみの言葉や性の目覚めについての表現などは、編集上削除して出版された。
森田の場合、夫婦のまぐわいのあった日の日記に、ドイツ語の Begattung の頭文字の B を符丁として記入し、年末にそれを集計したりする念の入れようをした部分もある。しかしこのような箇所を削除すれば、史料としての価値を失うので、公表する以上は、そんな卑近なことまで露わになることを避けられない。また生涯にわたる森田の日記は長すぎるし、事実としてあったことを叙事的、断片的に記し続けていて、読み物としては出版には適さない。行書で書かれた記述を正しく活字に移す作業も、困難を伴うであろう。そのように考えると、日記が三島森田病院の中で非公開史料として眠っていたのも理解できる。

 

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そんな森田の日記が入っていたパンドラの函が、ついに開けられる時期が訪れる。
まず昭和45年に文光堂から大原健士郎、藍沢鎮雄、岩井寛の共著の『森田療法』が 刊行されたが、この中に「森田正馬の生涯」と題する章がある。この章は、森田自身が日記の重要部分を再録しつつまとめた「我が家の記録」について、紹介すべき箇所を多く抜粋し、森田直筆の図や記録の写真をふんだんに添えながら、それらの掲載に紙数を当てている。「神経質」誌に掲載された「正一郎の思ひ出」や「久亥の思ひ出」も一部引用されているが、ともかくこの章は、森田の日記そのものを保留して、その周辺の日記に準ずる森田自身の書き物を媒介にして、その生涯を伝えようと意図したものであった。

同じ昭和40年代に、白揚社から『森田正馬全集』の出版が準備されるとともに、『森田正馬評伝』も同時に出版されることになり、野村章恒氏が執筆を引き受けている。この『評伝』の執筆に当たっては、三島森田病院の許可のもとに、野村氏が森田正馬の日記を資料として活用することになったようである。その頃には、ゼロックスによるコピーが可能になっており、野村氏は日記の現物を参照したのみならず、ゼロックスによる日記のコピーにも携わっていた。そのことがわかる記述が、『評伝』の中に見られる。大正末に森田が京都の三聖病院を訪れた際に、東寺の済世病院で静座法を行っていた小林参三郎医師と森田が出会った経緯について、昭和45年にある医師から野村章恒に問い合わせの手紙が届いた。それに応えようと野村は当該時期の森田の日記を調べたのだが、「大正十四年はただ今現物がゼロックス屋に出してありますので未点検です」と相手に返事を書き送った。つまり昭和45年の時点で、三島森田病院と野村章恒氏は合意して、森田の日記のコピーをゼロックス屋に発注していたのである。
昭和30年代後半に、わが国で富士ゼロックス社が設立され、オフィス向けに複写機の販売を開始し、昭和45年にはゼロックスの 「ビューティフル」 キャンペーンを展開して、販売の促進をはかっている。複製技術が生活の中に入ってきたのである。こうしてコピー文化が普及する中で、森田正馬の日記という、ひとつしかない個人的資料が、ひとつしかないがゆえに、ついに複製されることになったのだった。それはビューティフルな英断だったのであろうか。日記のコピーの部数は当然複数部であったはずで、それらは森田療法の重鎮の方々に進呈された。その相手方としては、たまたま筆者が知っただけで、藤田千尋、水谷啓二、鈴木知準といったお名前があがる。
かくして、要人らに配布された日記のコピーは、それが秘蔵されている三島森田病院に、日記の実物の閲覧を願い出る敷居の高さの解消に役立ち、配布を受けた方々の責任のもとに、周囲の研究者たちに日記のコピーの閲覧を認めるというビューティフルな便宜に益したのであった。しかし、その際、要人らがお持ちのコピーがさらにコピーされて、外部に出ていった可能性はある。このへんは闇の中である。

 

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コピー文化の次に到来したのは社会の情報化で、20世紀末から、パソコンやインターネットが生活の中に普及した。森田正馬の日記もその洗礼を受け、データ化されて、保存と流通に供されることになったのである。こうして、もうひとつのビューティフルな物語が始まった。データ化の拠点となり得たのは、日記のオリジナルを所有しておられる三島森田病院をはじめとして、コピーの提供を受け、それを所有している要人ないしその関連の機関であった。これらの複数の機関のどこでいつデータ化が行われたか、全容は不明である。しかし日記をデータ化するには、まず厖大な量の日記のコピーをスキャンする手作業から始めねばならず、手間を要する。さらにそれを CD-ROM に収める作業も技術と時間を要したので、資料の CD-ROM 化は業者に依頼する必要があった。情報化の流れの中で、森田の日記の CD-ROM 化が行われることになったが、その責任と業者に支払う費用を考慮すれば、やはり安易に行い得ることではなかった。だから CD-ROM 化をプロジェクトとして実施したのは、少数の機関に限られたであろう。

 

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東京に「高良興生院・森田療法関連資料保存会」(通称「保存会」)がある。この「保存会」では、その設立の趣旨に沿って事業として日記の CD-ROM 化が行われた。これについては、藤田千尋先生が、「保存会」から2006年に出された「野村章恒先生と竹山恒寿先生」という刊行物への寄稿文の中で、保存会の役割と数年来のの実践を振り返って、行ってきたさまざまな事業の報告に加えて、さらに次のように記しておられるのである。「また森田先生の日記をCD-ROM化する収録作業も進めてきました。これらの成果の背景にはメンタルヘルス岡本記念財団のご支援があり、また、会員の皆様や保存会役員諸氏の熱心なご協力があったことは申すまでもありません。」 藤田先生のこの文章が掲載された出版物は、保存会が出した私家版だが、閉ざされたものではなく、森田療法関係者の閲覧に向けて発行されたものである。保存会の使命として森田の日記の CD-ROM 化を実施したという、森田療法関係者への報告だったと理解できる。
ただしこの事業の結果として、森田正馬の日記は、形あるモノとしては1枚のCDになり、また形もない情報のデータとなり、見えない流通が危惧される状態になったのである。それに、日記のコピーやデータ化されたものを何ぴとかが所有すれば、世俗的な権威と結びつくことも懸念され、そのような場合には流通が不当になる。それらはおそらく藤田先生が予期されなかった事態であろうと思われる。
さらに付け加えるなら、CD-ROM 化は「保存会」だけで行われたわけではないので、どこで制作されたかによって、日記のページの一部が欠落していたり、していなかったりする。たとえば重要なある時期の日記部分が、CD-ROM 化に際してなぜ欠落の対象になったのかと、考えながら読み比べることになる。

 

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自分は森田療法の歴史に関心を持ったきた者として、日記を参照したくても、数年前までは容易にできず、困った経験をしてきた。約10年前に「保存会」に関心を持ち、入会させていただいた。日記の CD-ROM 化は完了した時期の入会だが、研究上の必要性についてのご理解のもと、日記のデータの入手について便宜をはかっていただいた。そんな立場にいる自分だから「保存会」には大変感謝しているし、また「保存会」がその任務として、日記の CD-ROM 化の事業をなさった事情も知ることになった。それを書くことは本稿の趣旨として許されるであろうと、勝手ながら判断して書かせていただいた。日記のデータ化は、時代の流れとして必要で不可避なものとなっていたのであり、まさに「保存会」がその任を負っていたのだから。
ただし、もどかしく思っていたことはある。それは無論、日記をデータ化した後の情報管理である。データは地下の闇の中で流通しているかもしれない。多少遅きに失するかもしれないのだが、日記のデータの活用を必要とする真摯な研究者たちには、明朗な形で提供してあげられるように、そして日記の流通が世俗的な人脈と別に、公的に行われるように、オリジナルが所蔵されている三島森田病院との提携のもと、「保存会」がデータの流通管理に積極的に関わってくださることを願っている。
そして、研究上日記の閲覧を望まれる方は堂々と「保存会」に相談や依頼をなさればよい。快く応対していただけるはずである。

 

森田正馬の日記は誰のものなのか。今、ご遺族や三島森田病院や、森田療法関係者が考え合うべきときであると思う。

ひと夏の経験(下)ー大原の里でー

2021/09/20

大原の里の彼岸花

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1.大手術ならぬ大検査を経て

怪我の原因はと言えば、自分の不注意で、高所から独りでボディスラムをやらかした結果であった。「手遅れ医者」という落語がある。二階から落ちて運び込まれた怪我人に対して、「手遅れじゃ。二階から落ちる前に連れてこい」という噺である。

しかしA病院では、「手遅れじゃ」とは言わずに、大げさな検査をしてくれた。アレルギー体質の有無を単純に問題にすれば、私はアレルギーの塊であり、全身の造影剤検査などできるはずがない。腰部のトラブルは、手術不要というより手術不能であった。こうして大手術でなく大検査を受けて、地獄の黙示録の中にいるような体験をした。若い主治医に、ヨード系造影剤と譫妄との因果関係のことを言ったが、彼はやみくもに否定した。そして「忘れてください」と言った。そんなひと夏の前半が過ぎて、お盆を迎えた頃、レハビリテーション専門の病院へと転院した。

 

2. 大原の里で

転院先は京都大原の、三千院の少し手前にある大原記念病院で、そこでひと夏の後半の経験をした。個室でパソコンを使えるレハビリ病院を探したら、少し遠いがこの病院が見つかったのだった。
山の中の静かな佇まいの病院だが、もとは特別養護老人ホームで、そこに老健施設とレハビリ病院が増築されたらしい。数十年の歴史をもつ病院で、建物の外観は古色蒼然としているし、内部構造は狭苦しい。入院患者も大半が高齢者である。実際に理学療法や作業療法のいわゆるレハビリを受けているのは、それらの患者の全員ではないように見えた。
しかしレハビリについては、広いレハビリテーション用のホールがあって、その中の雰囲気は病棟とがらりと変わる。

 

3. 「生きてます! 以上!」

レハビリの広いホールにはPTやOTの若いスタッフが大勢いて、患者たちのレハビリ指導に個別に熱心に取り組んでいた。ここには、活気といのちが満ち溢れている。1日3回、毎日そのホールに連れて行かれた。A病院での恐るべき体験は内科的であり、そこでの残念な問題は自分の内科的知識で直視できてあまりあったが、こちらの病院でのレハビリは外科的レベルである。若いスタッフと言えども、多くの点で私よりプロフェッショナルであった。ときどき医学的に考えてしまう私の理屈は、後から考えると誤っていたことがあって恥いっている。もっと厳しくしてもらってもよかったと思うが、それも私の勝手である。
片方の脚を失って義足になった人もレハビリを受けていた。プロレスラーの柴田勝頼は、大試合で死闘をして、硬膜下血腫の重傷を負い、手術を受けたが、半盲の症状が後遺症として残った。彼が、「生きてます! 以上!」とリングで挨拶をしたのを思い出す。病院のレハビリルームでは、みんなが生きていた。

 

4.作業療法と森田療法

病院の敷地内には農園もあって、農業は作業療法にも取り入れられていた。収穫した野菜は病院食の食材として生かされているそうである。OT(作業療法士)の人たちは、森田療法のことを少し知っていた。レハビリの一環で農園のそばを歩いたこともあった。赤いサルビアの花が咲いていた。
レハビリを完全に卒業できたわけではないが、9月になり、そろそろこのへんで退院させて頂くことにした。退院時には、お世話になった職員様が見送って下さり、花まで頂いた。
レハビリはこつこつとやらなければならない。ひとりで続けることはなかなか大変である。森田療法と同じである。

 

退院時に頂いた花

 

ひと夏の経験(上)―桃色看護師に会った―

2021/09/13

もう秋、揺れる黄色コスモス

 

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いつしか時は流れて、もう秋。
以下に書きとめることは、ひと夏に経験したことの一部のほぼ実録である。

 

1.ジャイアント馬場にボディスラムをされた

去る7月16日、これは確か父親の命日で、あの世から呼ばれたのではあるまいが、その日にとんでもない体験が私を待っていた。

高齢者の転倒事故は自宅内で起こることが多いと言われるが、見事にそれを証明した。天井に近い高さにある電気器具を、高所に上がって修理した。無事に修理したが、その次が無事ではなかった。足を踏み外して転落し床の上に背面から落ちた。強烈なボディスラムを喰らったような体験である。それもジャイアント馬場から力まかせに叩きつけられた如くであった。そう言えば、ジャイアント馬場は優しい人であったから、あの身長で二階からぶつけるようなボディスラムは実際にはしなかったのではないか。彼が相手にボディスラムをした場面は私の記憶にはないのだ。

とにかく私の体の背面は床にしたたかに叩きつけられた。そしてこの世のものとは思えない激痛が腰部に走って、身動きできなくなった。別棟に住む家族がやっと気づいて、近所の外科の開業医を呼んだが、この医者は、ぎっくり腰だからアリナミンを出しますとのたまった。これにはなんとも恐れ入った。そんなわけで、絶対に乗りたくなかった救急車に、ついに乗ることになり、A病院へと運ばれるにまかせた。そして救命救急外来の患者となった。

 

2.ヨード系造影剤の副作用とインフォームド・コンセントの重要性

ここから先は、ぎっくり腰だからアリナミンと言うような、おめでたい話ではない。悪夢のような現実であった。

ここで、まず新型コロナの抗原検査がおこなわれたのは当然のことである。結果は陰性であった。さて担ぎ込まれたのは、腰部を背面から打撲して、その部位の激痛を訴えている患者である。考えられるのは腰部の外科的損傷であるから、局部あたりのX線撮影をするところだが、これが棚上げである。採血検査がおこなわれて、炎症反応が認められた。また軽度の発熱もあった。高所からの転落後、自宅で喘ぎ、アリナミン医者に振り回されている間に、既に一昼夜以上の時間が経過していたから、炎症は起こる、多少の熱も出るだろうと私は思う。

ところが救急外来のAIのような感じの医者は、発熱やら炎症反応にこだわった。AI医者恐るべし。全身の血管造影検査をすると言い出した。何ゆえに、この状況でそんな検査なのか。また造影剤にはヨードが入っている。それが脳を含む全身の細胞に届く。したがって、全身の臓器に大小の副作用を起こしうる。この検査は必要性と副作用について、十分なIC(インフォームド・コンセント)に基づいて、慎重に実施されるべきものである。腰の激痛に耐えながらも、本人の私はその副作用についての疑問を口にした。するとAI医者は、「数千回に一回、ボソボソ」と言った。この間およそ数十秒。

この検査は同意書を必要とする重大なレベルの検査である。同意書は、患者側と病院側が交換し、さらに写しを第三者機構にも提出する必要があり、計三通作成される。本人の私は署名捺印どころではないので、待合室で待機していた医学に無知の家族が代わって署名捺印させられた。そして患者(家族)側が写しを受け取ることはなかった。造影剤は遂に体内に注入された。どんどん時間は経っていき、既に深夜で答えの出ない救急外来受診に疑問も湧き、私も家族もそれを口にした。何のために救急外来でこんな検査ですかと。そこでようやくAI医者は整形外科に連絡を取り、お出ましになった整形外科の当直医の主導で、腰部のCTなどのX線撮影が初めておこなわれた。その結果が腰部の骨の由々しいものであったことは言うまでもない。かくして私は整形外科の入院患者となる権利を得たのだった。

 

3.桃色看護師に会った

少し不謹慎な見出しをつけた。それにつられて読んでくださっているお方には、期待を裏切るが、私が書いていることは医学に尽きる。

整形外科的に大変な損傷を負った。だが、私は同時にヨード系造影剤の重い副作用に見舞われた。だからここでは、ヨード系造影剤の副作用を自ら体験した当事者として、またその体験に基づき、ヨードの副作用について検討する医師として、二重の視点から書いておきたい。

深夜の入院から明けて翌日、私は病室に来てくれた主治医と会話していた。いや会話していると思っていた。しかしふと気がつくと、目の前にいるはずの主治医はいない。看護師長さんが来てくれて会話していたつもりだったが、気づけば師長さんもいない。言わば白昼夢である。あ、これはまずい、造影剤の副作用か、譫妄状態にならなければいいが、と心配を覚えた。そしてその翌日から、憂慮した通りの事態になった。以前からかかりつけの呼吸器科からもらっていた薬が家の中にあったので、家族はそれをかき集めて、A病院に持参した。気管支喘息を有する私がもらった薬の中には、使用に注意を要するものもあった。入院のときに主治医はそのような持参薬にこだわった。医師である患者は、まあ病院にとって厄介で、構えた態度でマークされた。

そんな雰囲気の中で、私は夢幻的体験をしたから、その内容は病院の管理体制や職員さんたちの動きのことや、それらがデフォルメされたものとなり、それらは漠然とした恐怖に満ち満ちていた。入院患者の立場としては、排泄のことが非常に気になるもので、みっともないが、スカトロに関する悪夢的体験もした。自分のことを棚に上げて、看護詰め所の方から流れてきた汚水が病室を襲い、隣室に逃げようと私は暴挙を働いた。遂にはコロナウイルスが人類を破滅させて、日本にも終末の時がきた。私が体験した地獄の黙示録では、国中が糞尿のヘドロになっていた。時間的空間的に脈絡のない断片的な視覚像が、走馬灯のようにめぐりめぐった。日本の日付は今日であるが、地球上を走って、昨日の式典に参加してこいと、誰かが命令している。グーグル地図の上を走ろうとしても、呼吸器の病気持ちの私には、とても無理であった。

譫妄状態はおよそ二昼夜続いたが、ほとんど現実と非現実のあわいにいて、二重見当識が働き、かなりの部分を記憶している。白衣の天使である看護師さんたちの服装が、ピンク色に見えたのだが、これは譫妄が収まってから顕著になった症状である。職員さんたちが、コスプレのように頭上に光りもののついた髪飾りを載せているように見えたが、これも同様である。このような色覚の異常や錯視は、主に譫妄のピークが過ぎてからの体験で、これらは長く尾を引いて、三週間ほど続いたが、譫妄の名残として残っていた症状である可能性がある。逆に考えれば、譫妄の核にあったものかもしれない。自分自身は、視覚的に鋭敏であることを自覚しているが、その鋭敏さがヨード系造影剤の副作用の受け皿になってしまったのかもしれない。

 

4. 改めて、ヨード系造影剤の副作用について

この問題について、改めて整理をしておく。

A病院では、「CT検査における造影剤投与に関する説明書」というものが、患者宛てに渡されて、同意する場合はその末尾の欄に患者が署名捺印するようになっている。患者側のこちらは家族が代理署名したが、この説明書兼同意書の写しを受け取っていない。事が終わってからであるが、この説明書のコピーを整形外科の主治医がくれたので、説明書(A病院作成)の内容を読むことはできた。そこには、重篤な副作用として、呼吸困難、意識障害などが記載されており、さらにアレルギー体質者、さらに気管支喘息を有する者においては、副作用の発現率は約10倍になると明記されている。私はまさにその体質の該当者であり、事前にこれを説明されたら、このような検査を受けることなど、有り得なかった。

ヨード系造影剤の副作用については、知人の神経内科医に尋ねてみた。彼によれば、この副作用については、意識障害、譫妄、錯感覚などが知られており、私の症状の出現と経過からして、副作用であったと判断することは正しいと言う。いまひとり、解剖学・生理学の実験系の研究者の意見を聞いた。この先生は、サルにヨード系造影剤を入れる実験をしていて、副作用の発現には明らかに体質的個体差があり、したがってアレルギー体質の人は、ヨード系造影剤による検査は受けるべきではないとのことであった。世にアレルギー体質の人たちは多い。ヨード系造影剤を使用する検査は受けないように進言する。医療行為によって人の健康が害されることがある。自分の健康は自分で護らねばならないのだ。
ヨード系造影剤にはご注意を。

「森田正馬と森田療法」(拙稿)について

2021/09/12

 

メディカルレビュー社発行の「精神科臨床 Legato レガート」という雑誌があります。この雑誌の本年8月号(Vol.7/No.2)に、「森田正馬と森田療法」と題する拙稿を掲載して頂きました。「古典」という欄に収められたものですが、森田療法は古くて新しく生きているものです。この雑誌は、精神科の一般誌ですから、森田療法にあまりご関心がなかった先生方にも、関心を寄せていただけるようにと考えて、そんな語り口の文を書かせて頂きました。短い文章ですが、著作権はメディカルレビュー社に帰属しますので、このホームページを通じてお読み頂くことはできません。

別冊(抜き刷り)は多数手元にありますので、もしご関心の向きは、このホームページの通信欄からご一報下されば、お送りできます。

寄稿文の紹介(千葉県の菊地武始様より)

2021/09/11

当研究所のホームページには、全国からさまざまなお便りやご意見を頂いています。
そのほとんどが、ホームページの水面下での岡本との個人的なやり取りで終始してしまいがちです。
私は、ブログ欄が皆様の意見交換の場としてご利用頂けたらよいと思っています。
当方は管理人にあたりますので、必要最小限の管理はさせて頂きますが。
以前はお手紙を頂いていた千葉県の菊地武始様から、最近メールが届きました。
かつての高良興生院での体験を振り返って記述なさっています。
文責はご自身で持ってほしいとの条件の上で、このメール文の公開にご同意がありましたので、
以下に同氏のメール文を公開させて頂きます。(岡本 記)

 

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<以下、菊地様から頂いたメール>

岡本先生、ご無沙汰しております。高良興生院出身の千葉の菊地です(67才、男性)。
研究所のブログや研究ノートを拝見しながら、猛暑やコロナ禍のなか、相変わらずお元気にご活躍のことと推察致します。

森田療法百年となり、今回「忘れられた森田療法」を再読致しまして、岡本先生の原点森田への回帰の意気込みを改めて感じたところです。

私は、思えば遥か半世紀も前、不安神経症(呼吸恐怖)を抱えながら高良興生院に入院したのが昭和44年、以来50年を経ても未だにそのなごりを(日常生活に支障ない程度に)ひきずっております。
我が人生の大きな支えとなっている森田療法への愛着は何とも断ちがたいものです。
同療法が年々考え方や形を変えながら拡がって行くなかで、真正森田の精神が失われていくように感じ、何とも歯がゆい思いがあります。
それはただ単に昔を懐かしむあまりなのか、年代的に真正森田により近い時期に同療法に向き合えた我々の世代の言わば特権なのか、何れにせよ寂しい思いにかわりはありません。
私の場合は、森田の直弟子に当たる高良武久先生の薫陶を直接受けた最後の世代と自負しておりますが、高良興生院では森田の宗教色を弱めた療法だったようで、当時すでに脱森田の兆候があったのでしょう。
今も手元に残る当時の木彫りの板には「君子不器」「不安常住」と毛筆で書かれていますが、高良先生はじめ諸先生方には禅的な教えや指導はされなかったように記憶しています。

さて森田の真髄は、神経症・強迫観念の苦しみをそのまま苦しみ、日々やるべきことに努力するということになると思いますが、すべての患者は最初は必ずこの症状を何とかなくそう、症状から逃げ出そうと努力するところから始まります。そして取っ掛かりが入院療法であれ認知行動療法であれ、様々、紆余曲折を経て治るべき人は結局はここ「あるがまま」に帰着することと思われます。
そのようなことは百も承知、二百も合点のことなのですが、だとすると、我々素人の市井の神経症経験者が何かお役にたちたい、経験を生かしたいと希望しても、ほとんど何も助言できないことになります。
例えば生活の発見会に参加しても、現在苦しんでいる患者さんたちには、症状を苦しんでください、日々の仕事に努力してくださいと言うだけで終わってしまいます。
そう考えて、空しい思いをしている今日このごろです。

この半世紀を懐かしさも交えて振り返りながら、ご無沙汰している岡本先生に一報しようと思い、メールしました。

つたない思いと文面ですが、返信頂ければ幸いです。

 

菊地

岸見勇美先生に―、散らない桜

2021/04/03


この桜は散りません


 
 

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  恥ずかしながら、私は何かにつけて、つい反応が遅れる困った人間です。嬉しいこと、悲しいこと、苦しいこと、内面では人一倍に感じ取りながら、反応を言動に表すのに時差が生じてしまうことがあります。精神科の仕事をしていた職業病的習い性もあるのかもしれませんが、いささか困ったものです。嬉しいときには、それを黙ってしみじみと感じるのです。もちろん相手には感謝の気持ちでいっぱいになりますが、行動的な表現が遅れたらいけないです。悲しいときはなおさらに、胸に秘め込んでしまいます。
 嬉しかった経験としては、もう数年も前に、拙著に対して、岸見勇美先生が、丁寧な書評を書いて送って下さったことがありました。森田療法の分野で著名な作家のあの岸見先生です。もちろん丁重にお礼は申し上げましたが、後から考えてみたら、頂いたそんな玉文を公的に出して皆様にお読み頂いてこそ、その文章が生かされたのだと気づきました。
 そんな鈍い頭で、今更ながら岸美先生から頂いた文章をここに皆様にご披露させて頂こうと思いつきました。
 岸美先生本当にありがとうございました。数年後の今、改めてお礼申し上げます。
 
 岸美先生の文章は、拙著『忘れられた森田療法』への書評です。
 以下にそれを出しますので、お読みいただけます。
 
 
 岸見先生の書評

三聖病院閉院時の宇佐晋一先生最後の講話について(解説)

2021/04/02

 




 
 
 

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三聖病院閉院時の宇佐晋一先生最後の講話について(解説)


 
 

 平成26年の三聖病院閉院時に宇佐先生最後の講話を撮影した動画のデータが手元に残っていたので、すでに6年経っているものの、先般このブログ欄にその動画シリーズを出した。
 その解説をつい怠っていたところ、有り難いことに南條幸弘先生が、ブログ「神経質礼賛」の No.1844 から3回ほどにわたって、丁寧なコメントを記してくださった。おかげさまで、それで十分過ぎる解説を頂いたことになった。だから、屋上屋を架すようなことになるけれど、裏コメントを少しだけ披瀝しよう。
 
 まず、「しゃべる人は治りません」という教えについて。
 入院中の人たちは、症状のことなどをおしゃべりしていないで、作業をしなさいと、まあそういう意味に受け取っておけばそれでよいと言えばよい。
 ただ、この教えは最初は宇佐玄雄によるもので、玄雄筆の文字が木彫りになって、長らく院内に掲げられていた。ところが晋一先生の代になってからのこと、かなり以前だが、ある患者がその板を叩き割ってしまったらしい。それで板はなくなったが、その「しゃべる人は治りません」というせっかくの教えを残すために、半紙に墨書されて、何枚にも複写されて院内に掲示されていたというわけである。墨書の筆跡は晋一先生のものではない。誰が墨書したのだろうか。そこで、ある入院患者さんが日記で晋一先生に尋ねたら、ある女性が書いたとのみ、お答えになったそうであった。患者が割った板は、玄雄先生の文字が彫られたものだったが、晋一先生の代になり、その文字の意味が晋一先生の教えの意味合いに変化してからのことであった。
 結局、この言葉の意味としては、玄雄先生は、小人閑居してしゃべっていないで、作業をせよ、ということであったようだが、しかし、晋一先生になってからは、多少意味が変わった。言葉が神経症をつくる、言葉のないところに神経症は絶対不成立であるとされ、言葉のない世界をのみ肯定されたのであった。これは徹底した不問に通じるものであった。そこには原理的で、鬼気迫るようなものがあった。この言葉のない世界や不問のことについては、私は稿を改めるつもりである。ともあれ、同じ「しゃべる人は治りません」でも、宇佐玄雄先生と晋一先生の間において、意味合いの変化があったと見てよいだろう。
 
 次に「わからないで居る」の教えについて。
 南條先生は、これを森田正馬の指導と重ねてご理解くださっている。森田は、理屈でわからなくても強情をやめて、治療者に素直に従えば治るのだという教え方をしていた。森田だけでなく、宇佐玄雄の指導もそうだったのだが、二代目宇佐晋一先生の一流の禅的思想は、必ずしも森田や玄雄に合致するものではなかったようで、微妙に意味合いを異にした。簡単に言えば、「わからずに居る」は、禅原理主義的と言うほかなく、自己の心についてみずからわかるということはあり得ず、知的理解以前の、そのままの境地にあることを指していた。わかるとわからないの区別はない。禅で言う「無分別智」である。
 
 ところが、さらに付け加えるべきことに、晋一先生は、ある時から、ご友人の心理学者の示唆を得て、自己意識と他者意識という心理学的用語と概念をも導入なさった。自己意識にとらわれず、他者を重んじる意識に徹すべしという思想であった。これは自己と他者の二分法そのものであり、無分別の智ではない。禅では「自他一如」、「自他不二」と教える。野球のイチローさんでさえ「自他一如」と言っているくらいである。
率直に言って、講話などで長年にわたり、伝えてくださった教えの内容は、このような変遷があった。
 
 そこで改めて変遷をたどれば、宇佐玄雄が説いたような、理屈を言わずに作業をすれば治るという教えから、その上に晋一先生の「無分別智」(分別をしないところに智がある)、あるいは「虚妄分別」(分別することは虚妄なのである)という原理的教えが説かれた。禅僧の御尊父は案外平易な教えを説かれたが、二世の御子息の方ががより禅的で難解な教えを説かれて、そこでそれをわかりやすく言い直したのが、「わからずに居る」なのであった。しかしながら、その機微はどれだけ入院患者さんたちに伝わったであろうか。患者さんはすべてが神経症圏とは限らない。思考障害を有する人たちも少なからずいたから、今にして言わせてもらえば、「わからずに居る」は少し危険な惹句であるように感じられた。さらにその上に、自己意識と他者意識という二元論が加わったのであるから、物議を醸した経緯がある。この不統一は惜しくてならない。
 ともあれ、三聖病院に勤務したことのある者として、不可解なものを引きずっている。6年前の最後の講話を今更持ち出したのも、そんな自分の無意識がさせたようなものである。
 南條先生がお書きくださったコメントは、正統的な森田療法の立場からこのように見える、という範のような推論を示してくださったのだと思う。しかし三聖病院は少し次元を異にするところに存立していた。
 今なお改めて顧みる必要があると思っている。

三聖病院閉院時の、宇佐晋一院長の講話 (動画撮影、その3)

2021/03/01




 平成26年12月26日。三聖病院の百年に近い診療の歴史の幕を閉じる最後の日。その1日は決して特別な長い日ではなく、いつものように日中の診療は終わった。
 初冬の日は短い。宵闇と共に、病院の夜がきた。三聖病院は夜甦る。やがて最後の最後の院長の講話の時間がきた。集まった人たちは粛々と聴いていたが、講話はいつもと変わらないようなお話であった。少なくとも、最後の講話も淡々としていて、劇的な盛り上がりも演出もないものであった。
 院長も疲労の色を隠せなかったように窺われた。しかし、以前から、「講話は本来なくてもよいものです」との前置きでポツリポツリと話をなさっていた院長の真意が証明された最後の講話であった。宇佐先生らしい幕の引き方であった。このときに出席しておられた方々はどう受けとめられたであろう。また今回始めて視聴される方々はどう感じられるであろうか。
 
 なお講話の最後の数分間は、残念ながら録画から落ちたが、講話後に特別なセレモニーとてなく、院長はいつものように背中を丸めて、部屋を出ていったのである。
 
 最後まで入院を続けていた粘り組の数人の修養生たちは、この夜も病院に泊まったようだった。明けて27日、もはや朝食も出なくなった病院からようやく彼らは去っていった。
 

(リンク) 閉院間際の講話③ 平成26年12月26日(金)

三聖病院閉院時の、宇佐晋一院長の講話 (動画撮影、その2)

2021/02/21


狸のいる中庭



 
 院長講話は、週3回、日曜午後、水曜夜、金曜夜に行われていた。
 最後の診療日である平成26年12月26日(金)を迎える最後の1週間の3回の講話、つまり、12月21日(日曜)、24日(水曜)、26日(金曜)の講話を録画した。今回2回目として視聴して頂くのは、24日(水曜日)の夜の講話である。
 従来、日曜日午後の講話には、外から訪れる方々(退院後の、あるいは外来通院の人たちなど)も参加しやすいので、院長は日曜講話では、なるべく一回で話がまとまるよう、さほど厳密ではないが、意識しておられたようである。水曜と金曜は夜なので、入院中の人たち(修養生)が主な対象であった。しかし、動画撮影をした最後の3回は、会場には立錐の余地なく、人が詰めかけていた。21日と24日は百人になんなんとし、最後の26日は百人前後だったろうか。動画撮影は会場の中心に三脚を立てておこなった。岡本が機材を準備し、撮影の際は二、三人の若い男性修養生に手伝ってもらった。講話の時間には、すでに夜の帳がすっかり降りて、庭に控えている狸の姿も見えない。ひょっとしたらこの夜は、狸が院長に化けて講話をしたのかもしれないから、とくと見極めてほしい。
 とにかく、24日の講話を視聴して下さい。今回も1時間あまりの講話を数回の連続で撮影して、一旦YouTubeにあげたものにリンクをつけています。

 
(リンク) 閉院間際の講話② 平成26年12月24日(水)
 

三聖病院閉院時の、宇佐晋一院長の講話(動画撮影、その1)

2021/02/10




 
 三聖病院は宇佐玄雄先生によって東福寺山内の塔頭、旧三聖寺の建物と立地を生かして、昭和2年に創設された。
 30年後、昭和32年に玄雄先生の遷化により御子息の宇佐晋一先生が、29歳で二代目院長に就任して、禅的森田療法を継承し、孜々としてその診療の実績を重ねてこられたのであった。父子二代で、築かれたその歴史は、先に大正11年に開院された三聖医院にまでさかのぼれば、90年を超えていた。だが光陰人を待つことなし。諸般の事情を受けて、三聖病院は、平成26年(2014年)の暮も12月末、その歴史の幕を閉じた。そのときなお宇佐晋一先生はご健在であったことは喜びとせねばならない。
 平成26年12月末の、病院の診療最後の週も、いつもの如く、宇佐晋一先生の講話はおこなわれた。その週の3回の講話を録画していたので、それらをYouTubeに出し、ブログにリンクして、供覧に資そうとする。しかし、撮影した動画をYouTubeに出す作業に伴う困難のため、講話1回分が、数本の動画に分かれる。今回のブログではまず、平成26年12月21日(日)の1回分の講話にあたる数本のYouTubeにリンクをつける。第2回分、第3回分が残されているが、それらはこの後の連載となる。
 

閉院間際の講話① 平成26年12月21日(日)
 

 なお、講話の内容についての説明は、講話の動画のシリーズ連載後に追って記そうと思う。

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