雑誌 PsyCause 日本特集号が出ました

2016/05/05

 2014年10月に京都で開催した「フランス語圏内国際PSYCAUSE学会」での、日本人の発表原稿を論文化したものを中心に、他の日本人の先生方にも寄稿して頂いて、雑誌 PsyCause の日本特集が成立しました。正確には、2つの特集が収められていて、そのうちの主要特集が、Cahier japonais です(もうひとつの特集はアフリカ)。本誌は昨年(2015年)の最終号なのですが、発行が遅れたものです。この号より、全論文にカラー写真が添えられて、内容だけでなく見栄えも美しく仕上がりました。
 

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         雑誌の表紙。2014年秋、閉院間近い三聖病院にフランス人たちが訪れた。
         写真はその際にフランス人が撮影した宇佐晋一先生。

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         目次のページ。Cahier japonaisの各論文の著者と論文タイトルをご覧あれ。
         画像を拡大すると読みやすくなります。

 
 なお、森田療法に関係のある論文のみ、「研究ノート」の欄で読んで頂けるようにしておきます。

森田療法「サ・エ・ラ」~(4) 『迷いの道に咲く花は』 : 蜂たちの「人生いろいろ」~

2016/04/24

迷いの

 

 かつて「この世の花」というヒット曲で、一世を風靡した女性歌手がいた。「からたちの花」も咲かせた。そして50代の坂にさしかかろうとするときに、「人生いろいろ、男もいろいろ、女だっていろいろ咲き乱れるの」と歌って、人びとの心をつかんだ。時の内閣総理大臣までが、国会答弁で「人生いろいろ」と言った。
 「お千代さん」と親しまれた歌手、島倉千代子さん自身の人生にもいろいろなことがあったようである。花は咲き、花は散る。お千代さんは癌で逝った。
  ほぼ、そんなお千代さん世代の老(若)男女、十数人が、花園大学禅文化研究所所長の西村惠信先生の膝下に、週一度禅を学びに通っている。
 この勉強会(研究会)は、約20年前に始まったらしい。西村惠信先生という「善知識」のお人がらを慕い、その該博な禅知識に魅せられた人たちが、集っている会である。それは通称、「BEE(ビー)の会」と呼ばれている。その名称の由来は、花の蜜を吸おうとして蜂たちがやって来るごとくに、西村先生という大輪の花のもとにメンバーたちが集まっているからだそうである。私も蜂たちの仲間入りをして2年になる。「入ったら出られない蟻地獄かもしれないから、蟻の会」と、私はどこかで冗談を言ったことがあるが、これはブラック過ぎる冗談なので、訂正せねばならない。西村先生の度量は大きい。来る者は拒まず、去る者は追わず。過去20年間に、多くの人たちが吸い寄せられて、しかしそれぞれの事情で会を離れている蜂たちも少なくない。ときどき出戻りの蜂もやって来る。そんな開かれた会で、場の雰囲気も自由そのものである。メンバーたちが師と対等にものを言い、ときには師の説明に対して「違う」と言って、それを正す。だから寄ってたかって師を刺す蜂の会のように見えて、私は最初驚いたものだった。もちろん礼を失してはならないのは言うまでもないのだが、禅の大家を囲んでこんなに自由にものを言える会があるのは、有り難いという一言に尽きる。
 会ではこれまでに様々なテキストを読んできたようだが、現在は『信心銘』について元代に書かれた『信心銘中峯廣録』という書物の原典を読んでいる。漢文を読みこなせない自分には、これは格別に難解で、およそ歯が立たない。なのでやりとりの話だけを聴いているが、週一度通うその度ごとに、一匹の蜂としてなにかを教えられる。とにかく有り難い会である。
 

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            西村惠信先生ご自身筆、蜂の絵

 

 今年は臨済禅師1150年、白隠禅師250年遠諱記念で、禅の文化や思想を見直す催しが相次いでいる。4月から京都国立博物館で、「禅ー心をかたちにー」という特別展が開かれており、先週、西村先生とBEEの会のメンバーがこぞって博物館に行った。館内は、集められた臨済禅の形象で満ち満ちていて、それらに圧倒される。それにしても、「心をかたちに」ということは、意味深長である。
 日本画の橋本雅邦は、「無心」を重んじた。そして、画の真相は形よりもその神にある、と言った。森田正馬は、そのような橋本の美術思想に感銘を受けて、雅号を「形外」としたのだった(そう確信した事情は、小著『忘れられた森田療法』に書き留めておいた)。博物館内には、橋本が批判した狩野派の画家の絵もあった。橋本雅邦や森田正馬なら、こんなさまざまな禅の「心のかたち」をどう見るだろうか。そんなことを思いながら博物館を出た。

 

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 昨年、西村惠信先生は、BEEの会の老(若)男女たちにおっしゃった。「皆さんはこうして勉強会に来てくれていますが、それぞれに理由や動機があるはずだから、皆でそれを書いて本にしませんか」。それで私家版で文集を出すことが決まった。刊行は昨年末に予定されていたが、やや遅れて、今年の3月に『迷いの道に咲く花は』という書名で日の目を見た。その命名は西村先生による。「迷悟一如」と同じ意の、「悟りは迷いの道に咲く花である」という某禅者の言葉から、本のタイトルをおつけになったのである。題字も表紙の絵も、文中に添えられている挿し絵も、すべて西村先生の筆になる。
 この本の中にはさまざまな花が咲いている。「赤く咲く花、青い花、この世に咲く花数々あれど」、咲いた花はやがて散る。「迷いの道に咲く花は」、まさに人生いろいろである。

 

 同書の内容のうち、わが拙文の部分は、昨年このホームページに先行的に紹介した文章と同じものです。三聖病院での勤務体験より、森田療法から禅へと「己事」の「究明」に向かわざるをえなくなった事情を書き記した一文です。花ではありませんが、その部分を以下にPDFで収めておきます。
 

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「エッケ・ホモ(この人を見よ)―私が蜂になった理由―」
 
 
 

IT入力のアルバイト・スタッフ(非常勤)募集

2016/03/31

 この記事については、「お知らせ」欄をご覧下さい。

「ささやかな」研究所の「ささやかな」活動―京都森田療法研究所活動報告―

2016/03/31

 森田療法の分野に、こんな研究所があってもよいだろう。小さな規模で大きな夢を。いや、大きくなくても一寸の虫として五分の魂を生かせればいい―。そう思って活動を始めました。
 
1.一寸の虫の五分の魂による三つの理念
 ・森田療法の「温故知新」。
 ・学際的研究。
 ・生活の体験の中に智恵を深め合う。
 
 ホームページの冒頭に掲げている通り、こんな三つの理念の下に、ささやかな研究所を平成24年の1月末にスタートさせました。活動が円滑に進まないこともある現実に直面しつつ、4年余りが経ちました。年度変わりを1月とするか、4月とするか、どちらでもよいのですが、4月を迎える今の季節は、気分も新たになる節目です。気分本位でも、この機会に過去の4年余りの「ささやかな」活動を振り返り、そして4月からの新たな継続を、事実本位に見据えていきます。
 

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2.これまでの4年間の活動
 まず、過去4年間の年ごとに、おこなった主要なことを列記します。
 
 ●平成24年
 森田療法についての日頃の考えをホームページに記述して発信することを開始。全国の方々と自由に討論できることを期待した。反応は多少。一方、地域的拠点の京都を中心に、関西圏内で交流できるオフ会的研究会の組織を模索するも、反応は消極的でした。しかし、森田療法の生かし方に関心をお持ちの方々が、随時個人的に訪れてくださるようになりました。「朋、遠方より来たる有り」。

 ●平成25年
 以前から関わっていたフランスとの国際交流が活発化。

 ●平成26年
 フランス語圏国際学会組織 PSYCAUSE の第10回国際学会会長を引き受けることになり、10月に京都で学会を開催した。
 12月に三聖病院閉院。病院の歴史的資料の保存のために、三聖病院記念館設立の要を感じて、孤軍奮闘を始めた。
 波瀾万丈の1年だった。

 ●平成27年
 たった独りでの三聖病院記念館設立は成らず。代わって個人的に「スペース・レア 三聖病院記念品保存室」を設けた。
 課題だった研究所の年報のような出版物の刊行ができず、個人の著書『忘れられた森田療法―歴史と本質を思い出す―』を世に問うた。
 前年の PSYCAUSE国際学会(京都)の成果を掲載する学会機関誌の日本特集号の編集に関わる。年末の予定だったその雑誌の刊行が遅れている。

 ●平成28年
 「スペース・レア 三聖病院記念品保存室」閉室のやむなきに至る。
 前出の雑誌の日本特集号は、4月に発行される予定。
 
 当初より、研究所の活動の趣旨として、国内での地道な活動に繋がる三つの理念を謳うにとどめ、国際交流を掲げるのを控えていました。しかし、以前からやりとりのあったフランス側は、極東の日本に関心を寄せ続けていました。森田療法の紹介については、皮相に流れぬよう慎重を期していましが、メールの通信で森田療法のことに言及しようものなら、相手は満を持したように食いついてきます。結果的にグローバル化の波に乗ってしまいました。京都での国際学会開催を引き受けざるを得なくなり、また、折しも閉院間際の三聖病院に、フランス人の団体の訪問を受け入れるというハプニングを実現させました。このような国際交流が蔵する意義を問う考察については、拙著(『忘れられた森田療法』)の中に 記しておきました。
 学際的な交流や研究は、(哲学、禅、教育の分野の方々と)国内で進めています。
 「温故知新」は、主に主宰者が問題意識として終始持ち続けています。
 最も難しいのは、地域における森田療法の研究交流や日常的活動です。今後の課題として浮上しています。

 

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3.会計報告
 平成24年 : 収入 ゼロ 支出 多額
 平成25年 : 収入 ゼロ 支出 多額
 平成26年 : 収入 ゼロ 支出 多額
 平成27年 : 収入 ゼロ 支出 多額    以上
 
 

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4.今後の活動について
 京都駅八条口の間近にあるワンルームマンションの一室が事務所です。居住用のマンションですが、このような入居を認めてもらっているのです。ネット上でクリニックとよく間違えられます。診療やカウンセリングを求めるメールや電話をよく受けますが、診療行為は行っていないため、応じきれないでいます。手狭な一室で事務処理や情報発信をしていますが、京都駅に近くて便利なのは何よりなのです。スタッフとしては、名のみでなく嘱託や客員などの研究員として、研究を共にしてくださる方々を擁し、さらに外部からのボランティアの方にも助けられ、その点は恵まれています。
 小規模ながら、過去4年間、精一杯に活動をしてきました。ただし地域に根ざす活動の問題があります。これについては、無関心であった訳はなく、ニーズに対して私たちは何をできるかを模索してきました。しかし現実には、できないでいました。重たいこの課題を持ち続けていきます。
 4年を経て所期の志は変わっていないので、おそらく今後も変わりません。志を同じくする方がおられたら、この研究所を乗っ取って欲しい、本気でそう思っています。

 

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5.運営の問題
 より卑近なことですが、実は重要で、様々な問題を抱えています。
 安定した組織にするために、法人化することを検討しています。その前に経済的基盤を整えねばなりません。
 また実務的には、ITを扱うスタッフにこと欠いています。主宰者はパソコン音痴なのです。メールの送受信だけはできるので、数少ない語彙での下手な作文で、自宅に居ながらにして毎日のようにフランスとやりとりしていますが、せいぜいそんなことしかできません。研究所にいるご主人様、兼留守番は、大きなデスクトップの1台のパソコンです。彼は(フランス語で、ordinateurは男性名詞なので)、彼自身に届くメール文が怪しいと認識するや、直ちに迷惑メールとして扱ってくれる優れものです。しかし森田療法の研究までは引き受けてくれません。はて、どうしたらよいのでしょうか。

前回の記事を別欄に。および「正馬」の呼称の件。

2016/03/14

1)“Physician, heal thyself”と題した2月8日付の記事は、森田療法についての研究と実践に関心をお持ちの多くの方々に閲覧して頂きたくて、しばらくの間、本欄のトップに置き続けてきました。引き続き目に留めて下さることを願い、その主要部分(書評と書評への応答)を、「お知らせ」欄に再掲載しました。
 より高次の観点からの御叱正、御意見を待ち望んでいます。
 なおブログ題にしていた“Physician, heal thyself”は、本来は新約聖書中の『ルカによる福音書』第4章に、諺として出てくる言葉です。「医者よ、自分を治せ」、あるいは「医者よ、自分を癒せ」と訳されています。ルカは自身が医者だったようですが、上記のフレーズはルカ自身の言葉ではなく、キリストの言行が記述されている中で諺として出てきます。味わい深いフレーズではあります。

 

2)森田正馬の名前は、「しょうま」か「まさたけ」かということは、議論され続けてきました。この問題について発言するほどの関心を有していなかった自分ですが、きっかけがあってこのことについて調べて、一文を草しました。それは、2月15日付で、「研究ノート」欄に掲載しています。

森田療法 「サ・エ・ラ」~(3)Physician, heal thyself~

2016/02/08

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 古い話。大学の医学部を卒業するとき、クラスの皆が一文を寄稿しあって、お別れの文集を作った。「何十年先の自分は、どこかの病院の院長になっている」とか書いたクラスメイトもいたけれど、自分はそんなに先をイメージできなかった。何を書いてよいやらわからなかった自分は、思いついてちょっと気障なことを書いた。そのころ、医者が主人公のある三文小説(翻訳書)を読んだので、その原題をぱくって題目にした。” Physician, heal thyself “である。卒業後は精神医学を選ぶ方針になっていたことと関係があっただろうと思う。そして中身は、ドッペルゲンガーのことについて書いた。と言っても、精神病理学的なことを書いたのではない。何科を専攻するにせよ、医者たる者は、自分が自分を見つめて葛藤することが大切であると思う、というようなえらそうなことを書いた。そんなことをふと思い出しているが、神経質の良き面ともいうべき内省性の必要さを言ったことになる。
 当時の私は、西洋の精神医学に興味を持ったばかりで、森田療法のモも知らず、森田療法のモにも関心はなかった。奇妙なものである。その後、フランス精神医学との関わりを迂回路として、森田療法にたどり着くことになるのだった。
 大学卒業の前後は、紛争の嵐が吹き荒れていて、「自己批判」などという言葉を互いに突きつけるとげとげしいユース・カルチャーが蔓延していた。ノンポリの私は困って辟易していた。困っていたら、ラートロス(困惑的)だなどと「批判」された。反精神医学の旗を掲げる人たちが、精神医学用語を使って批判するので、なおさら困惑したものだった。
 ところで医学部の同級会は、いまだに毎年開かれており、今年も先日出席した。みんな好々爺になり、大昔の「自己批判」を追及しあった嵐は恩讐の彼方に消え、生きている出席者たちが集まった。物故者はもちろん欠席だが、生きているのか世を去ったのかわからない欠席者もいる。さて、同級会のスピーチでは、医者同士が自分の病気の話ばかりしあった。精神科というマイナーな診療科を専攻した私は、クラス会では、何となく肩身が狭かったものだが、年齢を重ねると、うつ病などを患った経験者が増えて、精神科がみんなの身近になったようで、距離がうんと接近した。一方、数年前には、整形外科の医者で、診察室の椅子から転落して大腿骨を骨折して患者として入院し、患者の気持ちが初めてわかった、と言った者がいたが、今年は同じ整形外科の別の医者がこんなスピーチをした。
「腰痛で困っていたので、手術をして脊椎に金属を入れたんやけど、余計に痛くなったわ。皆さん、手術だけはするものやないで。」(その手術は自分でしたんか?と質問あり)。「自分で手術するのは無理やわ」。
 と、こういうことは、実は精神科にも当てはまる。もちろん自分のことは、誰にとっても厄介なものである。しかし外科医が自分の手術をできないのと違って、語弊のある「自己批判」は別として、内省的な自己批判や自己批評は、難しいけれどできるだろうし、しなければならないと思う。
 

 一年近く前に、小著『忘れられた森田療法』を上梓したが、雑誌「精神療法」の昨年の10月号に本書について、書評を頂いた。評者の先生は存じ上げていたので、雑誌上を借る前に直接討論をできればありがたかった、という思いに駆られた。
 また互いの見解の齟齬の片方のみが、不特定多数の読者の目に触れるところとなったことに鑑みて、著者側からの応答も許容して頂けるだろうと思い、寄稿した一文が、同誌の本年の2月号に掲載された。願わくば『忘れられた…』を思い出して頂き、「書評」と「応答」を対比した上で、さらなるご批評、さらなるご批判を頂ければ望外のしあわせです。
 
  書評                                      応答  応答(続)
 
 批評と批判の違いや、適切な批評や批判は文化として必要なのだということを、このところ考え続けていました。
 そんなとき、ネット上で、「批評・批判」についての面白いブログ記事に出会いましたので、参考までに、そのブログ記事へのリンクを以下に置いておきます。
 

人生かっぽ ─佐藤大地ブログ

 
 森田療法は難しいものです。「己事究明」を課題とする禅につながり、自己をみつめるという原点に立ち戻ることを避けて通れません。
 治療側に立つ者ならばなおさらのこと、自己批評、自己批判を続けていかなければいけないと、自戒しています。

森田療法 「サ・エ・ラ」~(2)「禅的森田療法(宇佐療法)」をどう見ますか?~

2016/02/01

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      宇佐玄雄による三聖病院(改築前)のスケッチ

 

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 約90年間続いた三聖病院は、一昨年の12月末に診療を閉じたが、明けて昨年の1月に最後の整理を終えて、2月にさしかかる時に、建物の解体工事が開始された。ちょうど1年前のことである。
 私自身は非常勤の立場で長年この病院にかかわりながら、ここでの森田療法はどういうものなのだろうと、ずっと考え続けた。他に本務を持ちながらの勤務だったので、どっぷり浸からずに、ほどほどの距離で、この病院を体験し、かつ見つめてきたとは思う。途中で勤務の中断もあったけれど、ざっと40年間は長い経験だった。間違いなくここで森田療法について学ばせてもらったことがある。また正直に言って学べなかったこともある。それらは他の場で若干報告した。ひとつの場で何もかもすべてを習得できるとは限らないから、学べなかったこともあると言っても許されると思う。生意気な言い方をすれば、学べなかった不足感が尾を引いているのは、自分が初級から徐々に中級程度に進級できて、目が開かれてきたからかもしれないし、あるいは見方に偏向が生じているからかもしれない。両方の可能性もある。
 しかしながら、私のような者の立場からは、外部の人たちに比べて、また患者様の側の人たちに比べて、病院の全体像を見ることができた。だからそれなりの三聖病院観ができた。逆に言うと、外部の方々や患者様側の方々は、限られた情報しか得られない立場で、三聖病院をどのように見ておられたのだろうと思う。
 今はもう、皆が三聖病院を知り、自由に評価して、森田療法史上に位置づける試みをなさればよいのではないだろうか。そのために、自分の見方を押しつけず、いくつかの異なる情報の存在をお知らせするのがよいと思うような次第である。
 三聖情報はネット上にうようよあるが、狂信から弾劾まで、さまざまなベクトルに及ぶ。そこで、かいつまんで、あれやこれや、いくつか列挙しておく。参考になさって、評価はそれぞれご自由になさればよいことだ。そろそろ、そんな時期になったと思う。
 今アクセスして読んで頂いているのは、ささやかながら研究所のブログのページでありますから、研究をそそのかします。

 

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 以下、いずれもネット上で検索できるものだけを示す(順不同)。
 
1.「森田療法って何だ?」+「ふじたろう」で検索。
   入院体験記あり。
 
2.「三聖病院」+「講話録」で検索。
   このブログでは、以前の院長のいくつかの講話の音声が聴けるようになっている。
 
3.「森田療法の誤解をとく」
   過去に三聖病院に入院体験を有する某氏の、禅的森田療法についてのコメント。
    ・解放させるもの・束縛させるもの
    ・要するに自分いじめ
    ・ムダに悩ませる人(不都合な真実 3)
    ・不都合な真実
 
4.「京都」+「電気ショックの実態」で検索。
 
5.DVD(ドキュメンタリー映画)『ヒポクラテスと蓮の花』『宇佐療法という宇宙』
 
 他にも多々ありますが、とりあえずこれくらいを列挙しておきます。
 任意のひとつだけにとらわれたら、偏狭な見方になること、請け合います。

「担雪埋井」 ─三聖病院記念品保存室(スペース・レア)、閉室報告─

2016/01/25

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 横向きに前進せよ。作った人には気の毒だが、この種のものは、保存困難のため廃棄せざるをえなかった。

 

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 一年前、三聖病院の閉院を受けて、貴重な記念品や史料をとりあえず保存する受け皿が必要との認識より、「三聖病院記念品保存室」を、病院の隣地の賃貸マンション(スペース・レア)に設けて、一年間維持しました。しかし、先の記事にてお知らせした通り、1月24日に閉室しましたので報告しておきます。
 当初、開室することになった際に、「「シシュポスの神話」のようなことをするのですか」、と評してくださった方がおられました。しかし実際には二階へ上がって降りられなくなったのです。二階どころか、スペース・レアでは三階の部屋まで借りてしまった。そしてそのベランダから撮影した解体されゆく病院の建物の写真だけが、三階の産物となったのでした。
その後、私たちのしていることを、「「担雪埋井(たんせつまいせい)」ですね」と言ってくださった方もありました。
 「担雪埋井」とは禅語で、雪を持ち運んで井戸を埋めようとするのだが、雪は溶けてしまって、いくら雪を持って行っても井戸は埋まらない、ということを意味します。その表面上の語義は、何かをなそうと努力しても、そんなに簡単に報われるものではないという意ですが、必ずしもその空しさの指摘にとどまるものではありません。物事はそううまくいくものではないけれども、無駄になること、愚直なこともせざるを得ない場合があるのだ、という深い教えのようなのです。
 三聖病院の元職員の藤岡様のご協力を得て、この一年間、私たちがしたことは「担雪埋井」だったのでしょうか。まあ苦い経験でしたが。とは言え、病院建物の解体直前に、ごみの山の中から拾い上げて保存した物の中には、重要な史料と言えるようなものも少しはありましたから、すべてが淡雪のように溶けて流れて消えたわけでもありますまい。
 藤岡(旧姓吉久)一二三様は、かなり以前に病院に事務職員として勤務なさっていた方です。まったく人さまざまだと思います。退職して久しいのに、甲斐甲斐しく動いてくださったばかりか、経費の面でも協力してくださいました。私ひとりで一年間の「担雪埋井」をすることは困難だったと思います。

 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 

 さて、閉室により、物品の大半を廃棄しましたが、なお捨てがたい一部のものは残しています。それらの内訳を記しておきます。

 
・長机(全部で15脚あった)の7脚は、京都市内の小規模な業者さんに無料で引き取られた。ものづくりの台に使うらしい。長机の残りと講話机は引き取り手なく、廃棄物として処分した。
・書生机10脚はリサイクル業者が引き取った(無料)。
・禅語や仏教語などを彫った板は基本的に捨てないことにし、三聖病院に縁のあった治療者が、治療環境に役立てるように渡してあげる方向。
・修養生が作業として彫った木札類。沢山あったが半分は廃棄した。残りは未処分なるも、森田療法に関心を持つ外国人や、その他の人たちに予定。
・額。約10点あったが、かさばるので半分は廃棄した。半分保存中(森田正馬の模写図の額は高知の森田の生家に渡すことも考慮)。
・入浴表示の木の工作品やその他の工作品。廃棄した。
・高松塚古墳パネルと古い洗濯板。廃棄した。
・「今に生きる」のバックナンバー。保存しており、関心者あれば渡すことに。
・自治会関係書類。保存中。
・宇佐玄雄の講話録音テープ。保存中。
・部屋の番号札。保存中。
・病院建物の簡易平面図。保存。
・その他の雑物。廃棄した。

 
※以上のうち、保存と記したものは、そのすべてをとりあえず、狭いながらも京都森田療法研究所内で預かって、藤岡様を共同管理人として、保存を引き受けることにします。公私を区別するため、われわれの私宅に置くことを避けます。研究所内での保管に移動が起こったときはこのホームページで知らせます。   以上

「三聖病院記念品保存室(スペース・レア)」閉室(続報・急告)

2016/01/17

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「三聖病院記念品保存室(スペース・レア)」閉室(続報・急告

 

 三聖病院は、森田療法が大正8年頃に成立した3年後の大正11年に母体が開院され、その後平成26年まで92年間にわたり、伝統的な原法を維持し続けた貴重な病院です。その閉院時、病院の歴史的資料(史料)の保存という重要な課題がありました。
 以下、このブログ記事は、元三聖病院関係者各位(元職員、元患者様、現三省会員様ら)に宛てての、取り急いでのお知らせです。このブログは、三聖病院とは関係のない京都森田療法研究所から、病院の元医師であった者がその責任と使命において発信しています。病院の同窓会でもあればよいのですが、それもなく、別れ別れになってしまった病院の元関係者同士が連絡しあう術が他にないからです。
 しかし、このブログは不特定の閲覧者の方々がお読みになります。そのため、それもやむを得ないこととし、不特定多数の方々もご一緒に考えて下さればいいと思う、二重の意味を込めて発信します。(病院の元関係者同士の閉じられた集合体内での通信ならば、書いてよい赤裸々な内部的に過ぎる情報は、当然ここでは控えます)。
 さて1年前の閉院に当たり、病院とその関係者がなすべき最も大事なことは何だったでしょうか。ここまで書けば、それは歴然としていることがおわかりでしょう。閉院と時間差を置かずに病院の建物が解体されるに際して、散逸と消滅の危機に瀕している貴重な史料の保存を図ることでした。三聖病院が、一医療法人としての裁量で処理してしまう問題ではありませんでした。それは森田療法史上に大きな位置づけをなされる病院の、使命であり社会的責任でした。以前より三聖病院は、自らその歴史を語るとき、WHOから二度視察を受け、海外からの見学は二十何か国からにのぼる、と病院の自己紹介を繰り返してきたのです。森田療法の歴史を担ってきた国際的に重要な病院であると自負してきたのです。その病院が閉じるに当たっては、如何に重要な病院であったかを示す史料を後世に向けて保存する責任があったことは明らかです。足跡を残さず、忍者のように消え失せるのは無責任なことです。
 一昨年秋、京都でPSYCAUSEというフランス語圏国際組織の学会の開催を京都で引き受け、そのときプログラムに沿って彼らに三聖病院を見学させました。折しもそれは三聖病院の年末の閉院が発表された直後に当たりました。かくして彼らは、この病院を訪れた最後の外国人グループとなったのですが、彼らの言ったことがあります。「この歴史ある病院の史料を保存する記念館を創る必要があるのではないですか」。外国人からそのような意見が提出されたのです。
 また年が明けて平成27年2月、閉院がようやく一般に知れた時期のこと、国内の複数の文化人から、「病院の史料の保存は無事におこなわれているのですか」という問い合わせの声が相次ぎました。外部の識者は心配してくださっていたのです。その識者の方々というのは、日本森田療法学会内部の方々ではありませんでした。学会内部の方々は、院長と不肖、私(岡本)とで史料保存について対策を講じているだろうから、任せるほかないとおそらく思っておられ、学会からの問い合わせはありませんでした。危惧して問い合わせて下さったのは、医学史関係の複数の識者からでした。
 しかしその方々も、病院関係のどの筋に尋ねたらよいか、困られたようでした。病院の関係者と言えども、様々な関係の人がいて的確な説明が得られなかったようです。閉院と建物解体に向けてカウントダウンが進む中で、院内側で史料の保存にむけて策を講じるべく必死になっていたのは、私のような者でした。外部の精神科医師や文化人の声が、K大精神科を通じてようやく私に届きましたが、かなり時間が経ってからでした。
 ともあれ、WHOから二度も視察を受けたほどの、日本を代表する森田療法専門病院であるがゆえに、史料の保存について、外部からの関心は大きく、内部ではそのような関心は払われないという、奇妙な逆転現象が起こっていたのです。本来なら、病院の解散が決まったらその時点から、記念品や資料を保存するための記念館またはそれに類する受け皿を創るために予算を組み、閉院に合わせて準備をして然るべきです。しかしそのような手立ては一切おこなわれませんでした。とるものもとりあえず、私は記念品や資料を仮にでも収めるために、私費で賃貸する物件を探し回りました。(それに便乗して物件を売りつけようとする向きがありましたが、これは論外のことでした)。茶番と言うべきか、トリックスターの出現と言うべきか、あるいは私がトリックスターだったのか。
 結局、病院に隣接する賃貸マンション三室を借る目処をつけて、院長と相談しました。そして、院長の賛同により、マンション「スペース・レア」3室の賃貸に踏み切ったのです。これについては、元病院職員の藤岡様が経費の一部負担や管理面で献身的に尽力して下さったことを書き添えねばなりません。
 しかし、病院が無くなり、記念品や資料を「スペース・レア」に預かるべき時がきて、思いがけないことが起こりました。病院の記念品のうち、一部の貴重品は院長のご自宅に、残る記念品は、「平等施一切」そのままに周囲の人たちに分配、進呈されてしまったのでした。この病院では最後までトリックスターが競演しているようでした。
 解体寸前の建物内には、後は誰が持ち帰ってもよいというゴミの山が残されました。でもその中には、実際には歴史的に保存すべきいくつかのものがあったのです。私たちは、その中から大切なものを選び出して、「スペース・レア」に運び入れました。また、ゴミの山の中から宝探しをしようと群がってきた人たちがいましたが、彼らが持ち帰らない物がありました。それは多くの机類です。入院患者(修養生)さんたちが作業室で過ごした日常の生活と切り離せない長机の数々。また病棟の各室に残っていた数々の書生机、さらに院長の講話に使った机。これら机のすべてを、人手を借りながらマンションに搬入しました。さらに建物に残っていた物がありました。病棟の各部屋の番号札です。無くなっていたものもありますが、掛けられたまま残っていたすべての札を保存しました。建物に釘で固定されていた板が少しありました。宇佐玄雄の墨跡を浮き彫りにした古い木の板です。打ち付けられていたので外せないものもありましたが、外せたものは保存しました。ゴミ扱いされていた書類の山の中から、入院中の自治会関係の資料も見つけました。玄雄先生の昔の講話の録音のダビングのようなテープも拾いました。
 こうして「三聖病院記念品保存室(スペース・レア)」に、雑多な様々なものを集めて、ささやかな展示室にして、一年が経ちました。しかし誰から何の援助も頂かず、私費で家賃を払い続けるには限度があります。苦しい出費の一年間でした。バトンをどこにつなぐこともできません。
 それゆえ、ここに「三聖病院記念品保存室(スペース・レア)」の閉室決定の続報を出す次第です。
 この報告は、京都森田療法研究所のホームページを借りて、そのブログとして出していますが、他に広報の手段がないからであって、研究所とは何の関係もない報告であることをお断りしておきます。

 

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 次に、急告と記したのは、保存していた物品に関することです。
 院長にとって保存を要する品で、かつお宅に保存可能な余地があれば、そちらに運び入れる提案をしました。しかし、その余地もないし、すべて進呈した物であるから、自由に処理するようにとのことでした。ボランティアとして預かっていた当方としても、これ以上保管は困難です。きたる1月24日をもって、退去しますので、残念ながらすべての物品の処分を適宜に検討します。ただし部屋の番号札ばかりは処分し難いので、あとしばらくの間、京都森田療法研究所で預かる予定です。残っている札の番号は、以前に当研究所のブログに出した札の写真でわかります。ご自分が過ごされた部屋の番号を記念に保存したく思われる方は、京都森田療法研究所の「通信フォーム」を通じて連絡下されば、渡す方法を相談の上、進呈いたします。ご連絡の際は、三聖病院の資料の保存がなされなかったことへの、感想や意見をご記入願います。番号札以外の物は、24日までに処分しますが、もしも関心があれば、大至急にお申し越し下されば、対応できる可能性もあります。しかしそれは保証の限りではありません。
 参考までに、保存していた品々の大まかなリストを以下に記しておきます。
 

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・長机 15脚 ・書生机 10脚 ・講話用机 1脚
・禅語や仏教語などを彫った板(「言語道断非去来今」、「照顧脚下」、「平等施一切」、「眼横鼻直」、「歩々是道場」などなど多数)
・修養生が作業として彫った木札類(かなり多数)
・額(撃竹、ようこそようこそ、森田と玄雄の写真の模写図、晋一先生の学生時代の恩師の肖像画、涙骨筆の色紙の額、玄雄の三聖医院開業を祝って贈られた色紙の額(大正11年)、忍耐、真実)
・高松塚古墳の壁画の模写を貼り付けた大きなパネル板
・三聖寺跡で発見された古い洗濯板(江戸時代?)
・院内の診察室などの札
・入浴表示の木工品
・三聖病院と書かれた寒暖計
・鈴木知準診療所から進呈を受けた「今に生きる」のバックナンバー
・自治会関係書類
 
 ※他にも書き漏らしがあるかもしれません。只今処理に追われています。

三聖病院の「5番の部屋」の思い出

2016/01/09

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 「時人を待たず」と言う。一年前に閉じられた三聖病院は、既に影も形もないが、代わって駐車場と化したその場では、駐車時間を計るコインパーキングのメーターが時を刻んでいる。病院が閉じられて暦は確実に一年を経たのである。とは言え、一部の人々の、少なくとも自分の脳内の記憶は、その不可思議な病院の上をさまよっている。
 この異次元の病院に長い年月にわたって勤務した職員は少数で、医師を含め、自ら中途で辞めていった人たちは多い。一年前の閉院時の、病院最後のお別れ会では、勤務歴の浅い平成の顔ぶればかりが並んでいた。18歳から勤務していた受付のおねえさんは、いつの間にかアラサーになっていたし、過去の精神科の勤務経験は不足で、年齢に不足はなくて中途就職でやってきた看護師さんたちは、言葉は悪いが沈殿したままで最後を迎えたのだったが、みんな平成組である。だから、ほんの一部の院長の側近を除いては、もはや病院の歴史とは無縁の人たちばかりであった。いつ潰れるかわからない予兆を感じながら、惰性のように閉院まで居残った人たちの最後の集いは、言わば、ばば抜きのゲームの敗者の会であった。その人たちは、会が終わると、そそくさと姿を消した。その余韻のなさに、一層虚しさを覚えずにいられなかった。
それは昨日のことのようである。脳内の記憶は、針のない脳内時計に左右されているようで、時計の時間の経過と共に流れてはいない。この一年間、脳内時計が止まり、記憶が移り変わっていない。そのオブセッションを追い出すために、少し書いておく。

 

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 自分は昭和40年代の終わり頃、この不思議な病院の近くの某病院に勤務していた。近いという縁で、当直勤務に呼ばれることになった。世の中、人生、すべて縁で動いている。森田療法とやらに、まったくもって─、全然─、毫も─、関心を有さなかった自分が、当直を引き受けることになった。夜間当直と心得て、夕方病院へ赴くと、昼間の院長の外来患者が、まだぞろぞろと待合室に溜まっていて、外来診療の続きを引き受ける羽目になった。いかにも禅的で、生死(しょうじ)二つなしの病院だと後にわかっていくのだが、まずは昼夜の二つの区別がない病院だと知ったのだった。夜が更けても外来が終わらず、ずっと待ち続けていた初診の患者さんが、「終電に間に合いませんので」と言って帰っていくこともあった。
 やがて昼間の外来診療も担当するようになり、また入院のおこぼれの診察もした。そして海外留学を挟んで、かれこれ40年、その大半は大学に奉職し、某企業の嘱託もし、それらと並行しての勤務だった。大学での学生の教育と企業でのメンタルヘルスケアに、森田療法の病院との連携を生かすことができたのは、有り難かった。病院では非常勤にて、肩身が狭かったけれど、非常勤でなければ40年間、閉院まで勤め抜くことはできなかったろうし、また年期が入ると、病院への思い入れが深まり、診療や運営のしかたが心配でならなかった。思い余っていくつかの進言をしたこともある。しかし動かし難い現実の壁もあり、実りにはつながらなかった。
 自分は単に「関与しながらの観察者」を気取っていたのではない。責任者としての役割を継承すべきか、迷い続けていた。けれど、現実検討を含む諸般は、自分をその方向へと押さなかったのである。そんな過去を振り返ると、やるせなくなる。
 オブセッションは続く。そこで一臨床医として経験した思い出の端々も次に書きとめてみる。

 
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 入院治療については、事実上院長だけが主治医であったので、原法の入院生活にうまく適応できずに、アクト・アウトやドロップ・アウトしそうな人たちをケアするという、脇役的なことをした。外来診療は、自分独自にやっていた。長い歳月が経つので、多くの人たちを診療したわけだけれど、忘れてしまった人たちの方が多い。忘却と記憶の分かれ目はどこにあるのだろう。多分それは、相手と、私自身と、三聖病院という場との三つの要因が絡み合っているのだろうと思う。
 小さな病院なので、院長は院長室を兼ねる第一診察室で診察をしていた。院長以外の治療者は、曜日を分けて勤務し、第二診察室で診察していた。この第二診の部屋は畳部屋で、来客が訪れたときの応接間でもあったが、普段は診察に使用して、患者さんは床の間を背に来客が座る椅子席に座ってもらっていた。患者さんを賓客として遇していたのである。だが、それを理解する人は少なかった。スリッパを脱がずに畳の上に踏み込んでくる人、コートを脱がず、あるいは帽子を被ったままで座る人、テーブルに頬杖をつく人、テーブルの上に大きなカバンを置く人、カルテを覗き込んで記載に指図をする人、携帯電話をマナーモードにもしていず、電話が鳴ったら診察中に相手としゃべる人、容易に逆ギレする人、等々、態度だけでも人さまざまであった。実はおごそかな応接間なのだが、たたずまいは古くて質素なので、その畳部屋に入ると、病院らしくないその雰囲気に緊張がほどけて、人間の本性があらわになりやすかった。
 この部屋には、「第二診察室」と記された札が掛かってはいたが、「5」と書いた札も掛けられていた。この外来棟には、事務室や看護詰所や治療室や第一診察室などが並んでいたのだが、それぞれの室名とは別に、なぜか通し番号が付されて、入院患者さんが作ったらしい番号札が掛けられていたのである。通し番号の必要性については、私は最後まで分からなかった。数字にこだわる強迫的な人がしたとしか思えない。
 第二診で外来の診察をするとき、受付のおねえさんは、待合室の方向に向かって、「〇〇さぁーん、5番の部屋に入ってくださーい」と大声で叫ぶ。受付付近で待っていると顔がさすから、待合室の死角に隠れて座っている人もいるので、大声で叫ばないと聞こえないのである。おかげで、その名前は周囲に知れ渡る。名を呼ばれた〇〇さんは、5番の部屋を探し、5と彫られた幼稚園児向けのような木札の方が、第二診察室と明示された札より優位にあるのだという認知を働かせて、部屋に入ってくる。ここまでに既にそんなトンチキがあるので、入室時に脱いだスリッパを廊下に揃えず、跳ね飛ばすように放っていることが多い。禅寺を模した造りになっていて、緊張感を持って粛々と行動をするべき場なのに、外来患者はむしろ退行しやすい流れになっていた。だから、精神分析の視点から言うと、外来の導入部では患者さんの抵抗が起こりにくい場であった。そんな場では、患者さんは素直に自分を見せてくれる。そこでのさまざま人たちとの出会いを思い出す。

 

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 両親がいず、孤独で自殺願望を持ちながら、「よさこい」の踊りのグループに入っていたある若い女性が、リーダーに連れられて来たことがあった。彼女は「こんな畳の部屋に入ると落ち着く」と言って泣いた。畳部屋は、アットホームな場でもあった。
 三聖病院の地理的環境は、京都駅の南東にあたり、周囲は下町が多い。外来には地域の方々が割合多く通院していて、私はそんな方々と比較的うまが合った。理屈っぽい人には、理屈で返さない治療をするのに工夫を要するが、庶民的な方々は理屈を言わないので、私も素で接することができた。南條幸弘先生が『神経質礼賛』のブログに「半不問」ということを書いておられたが、私は確かにそれが多い。在日の方々が私の外来に気安く通院してくれた。言うまでもなく、この人たちは被差別の歴史を背負っている。深い問題は話題以前の「あうん」である。症状の辛さは聴いた。主な話は日常のことや世間話であった。だがあるとき、それはオリンピックが開催されているときだったが、「うつ」の、ある北朝鮮二世の一人暮らしの高齢女性が、会話の中で、「なんで国同士が試合をせなあかんのやろ」と呟いた。私は答えを失った。この人の中に流れている深くて暗い川が垣間見えた。
 やはり在日で、統合失調症の三十代の女性の外来患者さんがいた。この病院では統合失調症の治療に十分なことを尽くせないので、自分はそのような患者さんの初診受け入れを控えていた。私の外来に来ていた統合失調症者は、院長の外来から溢れて、私の外来に流れてきて、いつしか定着した人たちである。三十代だがアラフォーのその在日女性もそうだった。家業のキムチの製造を手伝っていたが、異常が目立ち、仕事もできなくなっていた。来るたびに彼女は支離滅裂な言葉で、アラン・ドロンのことばかり言った。アラン・ドロンに似た外人に誘われたとも言う。悲しい女性のさがが伝わってきた。他の精神科機関への受診を一切拒み、三聖病院だけにこだわって長年通院を続けていた。私の外来に来るようになって歳月は浅かったが、増悪が限界へ来ていた。母親の希望もあり、他の精神科病院に入院させることになった。統合失調症の人は、なぜか三聖病院を本能的に好む。本院での統合失調症の診療に対する慎重派の私だったが、しかし三聖病院に愛着してくれる人を、精神病院送りにするのはつらいものがあった。最後の別れの日に、母と娘が一緒に小さな鉢植えの勿忘草をくれた。古い話だが、アラン・ドロンにひとりで熱を上げていた人のことを記憶している。
 思い出を探れば、あの人、この人、忘却の淵に沈んでいない人たちが次次と浮かぶ。苦い記憶を、あと少しだけ記しておこう。
 ある初診の女性が夫に伴われて、私の外来に来た。夫が口を切り、妻は「うつ」だから入院させてほしいと言った。妻なる人は確かに「うつ」で、茫然と沈んでいた。夫はある聖職者で、その聖職上関わりのある業種の女性と親密な間柄になっておられた。このような人間関係の中にある妻の立場の人を、単に患者として入院させることには問題がある。三聖病院なら入院させてくれると踏んで来たようだった。だが私は、外来でのカウンセリング的対応ならさせて頂くと言って、入院を断った。夫は私をただならぬ表情で睨みつけた。その後、夫妻は二度と現れることはなかった。家族的な問題が、その中のひとりの成員の病理に置換されて、その人を隔離するために病院を利用しようとされることがある。家族内の問題に、医者の側からどこまで立ち入るべきかは難しい問題である。

 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 

 「5番の部屋」で私は、入院中に精神的に危機に遭遇していて、カウンセリング的に対応する必要のある人たちのために、院内外来のようなこともしていた。そこで出会ったのは、不問を根底に据える禅的森田(宇佐)療法では救済されない人たちであった。その中に、寡症状的な統合失調症で、自殺衝動に襲われる、ある青年がいた。放っておけず定期的に面接を繰り返した。だが私の面接は彼の心の緊急に対応できなかった。ある夜、彼は病院を出て、近くのビルの上から身を投げた。気立てのよい青年であった。忘れられないあの人、この人がいるが、5番の部屋への来室者で、とりわけ忘れ難いのは彼のことである。自殺は、禅的森田療法にとっての課題であった。これは単なる回想ではなく、未だに振り返らねばならない問題のひとつである。
 5番の部屋の思い出を中心に、三聖病院にまつわる感慨深い記憶の一部をここに記した。

 
 

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「5番の部屋」(第二診察室)は、廊下の中ほどの向かって右側にあった。