謹賀新年

2020/01/12




ご挨拶
 皆さま、明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 
年頭の所感
 昨年は、災害の多い年でした。人間的な生き方、取り組みである森田療法は、災害を無くするような万能のものではないことは、言うまでもありません。
 ただ、言えることは、森田療法は神経質や神経症の症状を治す精神療法だという思いこみが蔓延しがちな風潮の中で、森田療法のあり方が問われているということです。災害の、人為ではいかんともし難い現実を前にして、それでもそれをどうするかと考え、動けることがもしあれば動き、そして祈る。それが森田療法だと思います。
 さらに言うならば、現代において、森田療法が対象とする心の病理は神経症だけでなく、あれやらこれやらと増加した、だから森田療法を生かす場が広がったと、やりがいを感じて活動を拡大しようとする、それは重要なことですが、それが目的化したら、少し違うと思うのです。森田療法は、それを施したり教えたりする専門家と、施されたり教えられたりする人たちとの二分法の上に成り立っていたら、本当の森田療法ではないでしょう。それだけは確かなことです。もちろん、対象への取り組みという二分法から始まって、その二分法が乗り越えられていくのでしょうから、性急に批判すべきことかどうか、わかりませんが。
 ともあれ、災害の多かった昨年は、森田療法にとってとくに試練の年であったと思います。そして森田療法の試練は、今後も続きます。
 当方(京都森田療法研究所)は、いろんな意味での体力の不足のため、活動面で制約を抱えていて、それが残念なところですが、それなりに微力を尽くしていきたいと思います。
 昨年、森田療法の「考現学」を課題として掲げて、研究的な原稿をそれに連動させようと試みました。恥ずかしいことに、それが中途半端な形で止まっています。先述した森田療法のあらまほしい本当のあり方を探るという点で、こちらの思いはひとつです。本年は、その整理をつけていかねばなりません。
 竜頭蛇尾になってはいけません。長広舌はこれくらいにしておきます。
 
お願い、あるいはお誘い
 上記の長広舌で、当方の意図しているところを、およそお分かり頂けたかと思います。それはこのホームページの表記のページにも、理念として書いている通りです。机上の論に終わるような高尚な研究をすることを目標にしてはいません。実際の必要につながる研究をしようとしています。またその表現の形は、多様であってよいと思います。当初、定期的な研究会の継続的な開催を試みましたが、やってみると、中身の薄い集いになりかねず、そのため随時、必要に応じて、少人数で会って話し合い、交流をしています。どうぞ皆さまにおかれましては、気楽に当方にアプローチして下さい。大小、何でも持ち込んで下さい。どうぞご遠慮なく! 遠慮してためらう人こそ、お会いして交流すると、意義ある成果が生まれます。一方、こちらの趣旨を無視して飛び込んできそうな方は、まず自分の足元をご覧下さい。そして、こちらはクリニックやカウンセリング機関ではありませんから、患者様として受診したい御方は、こちらでは対応しておりませんので、その点はどうぞご理解下さいますように。
 
 
 それでは今年もどうぞよろしくお願い致します。
 

令和二年元旦
  京都森田療法研究所
   主宰者   岡本重慶
   研究員   一同

森田療法における自力と他力(Ⅴ)―倉田百三の天国と地獄(2)―

2019/12/27




 
 
 承前
 
9. 庄原、父が浄瑠璃を語った町
 広島の内陸部の田舎町、庄原は江戸時代から農産物と海産物の交易が行われた市場町であった。そのため閉鎖性はなく、人情も温和であり、山間の田舎でありながら文化的に開かれた町であった。倉田百三は、この庄原の呉服商の家に、6人の姉妹たちの間に挟まれた独り息子として生を受けた。
 母ルイは長女で、商家を継ぐため百三の父、百平を他家から婿養子に迎えた(百平は倉田家の先代を襲名して吾作と改名している)。倉田は「私の母は牛のやうな、本能的な母親だった。無学であったし、新しいものに応変していくことが出来なかったが、家の習慣をよく守り、勤勉で自分の享楽を思はず、しきたりというものに保護されて、過ちなく日を送っていた」(『光り合ういのち』)と記しているが、母のことはあまり詳細には語っていない。しかし、父について倉田は次のように感慨のこもった書き方をしている。
 
 「父は正直な、謙虚な玉のやうな人間であった。人と争ふこと、曲がったことの出来ない、羊のような人間で、全く平和の子であったが、それだけ小胆者であった。それが、善、悪ともに私に遺伝した。そして私の場合では自己批判と超克とによって、大胆となること、敢へて人と争ふこと、悪にも耐へ得ることの自己鍛錬の課題となってあらはれて来るのだ。父は義理堅く、節約で、几帳面で、…決して豪放でなかったが優美を愛した。花を活け、三味線を弾き、義太夫をよくした。 」、「父は浄瑠璃が好きで自分で語り、三味線をひいた。…私の文学の素地、その根本基調はたしかに浄瑠璃からきたものだ。私の感情教育、美的教育はその義理人情のムードと共に浄瑠璃によって養われたものだ。」(いずれも『光り合ういのち』)。
 
 男勝りで牛のように家業に精を出す母に対して、温順な父は世知に疎く商才に欠けていた。しかし父は道徳的には厳しくて、時には百三を叱ることもあったという。
 庄原で子ども時代を過ごした百三は、この父から受けた影響が大きい。父から遺伝的に継承した弱気を克服することを生涯の課題として意識し、一方で父譲りの感性や情操が、文学や思想の素地に生かされたことを自認している。倉田が、いわゆる神経質であったのかどうか、わからないが、彼の強気と弱気の混じった執着的な性格は少年期に培われたものと思われる。
 
 小学校を経て、三次の中学校に入った倉田は、その町の叔母の夫妻の家に下宿したが、三次は真宗の町で、叔母夫妻はその熱心な信徒であった。だが寺の檀家総代をしている叔父は人に厳しく、叔母は叔父にいびられながら信仰がいのちになっている。そんな夫妻のもとに下宿した倉田は、とても真宗に関心を持つことは出来なかった。彼は暗い生活から脱して華やかな港町の尾道へ行ってみたくなり、中学三年の夏より休学し、尾道にいる姉を頼って、その町で一年間を過ごした。所詮は卑俗な商都だったが、尾道での生活は倉田の姿勢を変えた。復学した倉田は「獰猛」をモットーとし、柔道や相撲の稽古に励み、文武両道で友人たちを追い抜く存在となった。そして学校当局にも反抗的なポーズを取って、教師たちから持て余された。父に似た弱気を克服するために、強さを誇示した最初のエピソードであった。
 力、宗教性、愛欲、さらには美。これらが倉田の後の生涯を通じての主題となるが、中学時代には力で勝利した。自力を謳歌した少年時代であった。
 

『光り合ういのち』昭和32年、現代社


<文献>

  • 倉田百三 :『光り合ういのち わが生いたちの記』1957、現代社
  • 鈴木範久 :『倉田百三 近代日本人と宗教』1970、大明堂

 

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10.聖と性
 意気軒昂として倉田は一高の文科に入学した。同学年には、矢内原忠雄や芥川龍之介らがいたが、並み居る秀才たちの中で、自分は首席になってみせると倉田は豪語して猛勉強をした。その結果、第一学年を終えた時、倉田は見事に首席になった。しかし、倉田の目標はそれだけでとどまらず、ショーペンハウエルの哲学の影響を受け、立身出世して力を手に入れたいという欲望に駆られて、彼は法科に転じた。だが、そこに待っていたのは、欲望を追って哲学を捨てた虚しさであった。そんな時、彼は西田幾太郎の『善の研究』を読んで感動する。主客未分の「純粋経験」に出会って、倉田は自身の我への執着から脱することが出来た思いになり、涙した。哲学者とは語義的には愛智者のことだが、西田のように、生に向き合う愛生者をこそ哲学者と呼びたい、と倉田は喜びの言葉を発した。そのような体験を機に、倉田は再び文科に復帰した。
 
 けれども西田の哲学に向き合っているうちに、倉田は心の底にただならぬ動揺を感じ始める。そこには霊肉を併せての生命への憧憬がない。西田への敬慕と要請との複雑な気持ちを抱えた倉田は、明治45年9月に京都の西田幾太郎宅を訪れて、面会した。その後倉田は綿々とした手紙を西田に書き送っている(『生きんとて』)。以下はその抜粋である。
 
 「ただ書斎に蟄居して読書三昧に日を送るばかりでなく…祇園の色街に美しいおとなしい妓を呼んで艶やかな黒髪に顔を埋めて眠ったりするやうな哲学者になって頂きたい。…先生よ、先生は若かりし時恋愛の思ひ出はありませぬか。あるに違ひないと思ひます。何卒語って聞かせて下さい。」
 
 西田哲学は、生身の熱い欲望を霊に一致させ、哲学たらしめたい倉田の期待に応えるものではなかったのだった。以後倉田の生活は荒み、酒に浸り、学校を休み、霊肉の一致を求めて、紅灯にむなしく女を探す日々を過ごした。そんな折り、妹の同級生の女性と出会って急速に親しくなり、倉田は救われた。
 また、その頃『校友会雑誌』の編集委員になった倉田は、就任の辞を掲載して、その冒頭に次のような文を書いた。
 
 「我等は何よりもさきに獣でなければならない。原始の野を徘徊する獣でなければならない。うなりの空と冷めたき大地との間に生まれ出で、太陽を仰ぎ、霧を吸ひ、黒土を踏みて生きる Naturkind でなければならない。我等は複雑なる文明の様式が迫まる一切の“技巧”を斥けて、“自然”のままなる命が生きたい。」
 
 倉田のこの文章は不穏当であるとして校内で問題になり、一高自治会の間で鉄拳制裁の論さえ出たと言われる。学校当局側も、次号の同雑誌に謝罪文を掲載した。
 このような事件があっても自然児であろうとする倉田だったが、学校の欠席の多かった彼は落第した。また恋人は去って行った。さらに結核に罹患していることが判明した。こうして失意の倉田は、一高を退学して郷里に帰って行った。
 

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 退学、失恋、結核の発病という三重苦を抱いて、自宅の近くの一軒家に籠もって療養を始めた倉田の心は次第にキリスト教に接近し、町の教会に通うようになった。庄原には、彼の幼児期からキリスト教アライアンス派の教会があって、子ども心に親しみを覚えていた。一高時代の校長は新渡戸稲三で、学校にキリスト教的な校風が漂っていた。倉田は安易な信仰を批判したが、当時から内心にはキリスト教への畏敬の念を宿していた。自然児としての本能的な愛の挫折を経験して、意識的、努力的なキリスト教の愛を真の愛と信じるに至った。キリスト教徒であり看護婦であるお絹さんに会ったのは、この時期のことである。二人で讃美歌を歌い、祈祷をして、愛を深めていったが、ここで神への信仰と性愛との葛藤に悩むことになった。
 
 この頃、倉田は綱島梁川の著作を通じて西田天香の存在を知った。倉田は当初西田をクリスチャンと考えたようだが、ともあれ宗教的な体験を求めて、大正4年末より京都の一灯園に入ったのだった。一灯園は、私有財産は認められず、自己を捨て、托鉢と労働をして他者に奉仕して生活をする共同体であった。倉田は熱心に労働に勤しんだ。しかし、物心ともにすべてを捨てる生活は、倉田における性や美の欲求には遠過ぎて、数カ月で彼は園を去らざるを得なかった。自己を殺す自力が求められる一灯園に代わって、倉田には他力が必要であった。
 
 一灯園に入る前後に、彼は、大須賀秀道の『歎異鈔真髄』や清沢満之の『歎異抄講話』を読んでいた。こうして親鸞への関心を深めた倉田は、『出家とその弟子』を執筆した。
 しかしながら、倉田は真宗の思想の核心を未だ自分のものにしたわけではなく、また作品の上に真宗思想の正確な表現をしたわけでもなかった。この作品は、自身が抱えていた愛や病や救いの問題を前にして、自己救済のために書いた創作であり、その頃象徴的な意味で彼が言った「心の中に寺を建てる」作業の試みであった。親鸞の悩みを人間的なものとして描き、さらにキリスト教思想を重ね合わせた奔放な創作は、読者を魅了するとともに、真宗の側からの批判を招いた。作中の親鸞に「運命を受け取ろう」と言わせているところに、絶対他力への契機は読み取れず、煩悩と自力にとらわれている作者の姿勢が露出している。
 亀井勝一郎氏は、作者の倉田は自己の信仰の不徹底を責めているのであり、特定の宗派に属さずに独特の宗教的遍歴を試みたのであるという評し方をして、倉田を受け入れている。
 倉田の宗教的遍歴は女性遍歴と交錯して、なおも続く。
 
<文献>

  • 鈴木範久 : 同前
  • 倉田百三 : 『生きんとて』1956、角川書店
  • 中西清三 : 『倉田百三の生涯』1977、春秋社
  • 安部大悟 : 『生は流星の如く 倉田百三について』1959、法象文化研究所
  • 亀井勝一郎 : 『倉田百三』1956、現代文芸社

 

(Ⅵ)に続く                                        

 



森田療法における自力と他力(Ⅳ)―倉田百三の天国と地獄(1)―

2019/12/07

『出家とその弟子』第三幕第一場。
(『日本戯曲全集』第44巻、春陽堂、1929)


 

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承前

 
8. 森田療法と真宗―森田正馬と倉田百三の関係に見る―
 森田療法と禅の関係についてはここで言うまでもないが、森田が親鸞を幾度も引用している通り、森田療法は真宗にも親和性がある。しかし、森田正馬と真宗との出会いの事情や、真宗が森田療法に取り入れられた経緯は、厳密に言うと不明で、不思議な点が残されている。それが判然としていないこと自体に不可解さがある。そのため、森田療法と真宗の関係について、著者または報告者が両分野に通じている人であることを条件として、資料を探索したけれども、それを満たす本格的な文献らしきものは、ほとんど見当たらなかった。
 
 尤も、森田療法が成立した大正期の文化的背景を視野に入れれば、両者が近くなった関係をある程度推測することは可能である。世はあたかも大正の親鸞ブームであった。そしてそのブームの中心にあったのは、「親鸞もの」に代表される大正宗教小説の流行であった。親鸞という聖人の心の中に棲む凡夫としての人間的な煩悩と葛藤を描いた文学が、デモクラシーに目覚めた教養者層の人たちに広く受け入れられたのである。
 この「親鸞もの」として最初に登場したのが、ほかならぬ大正6年に出版された倉田百三の『出家とその弟子』(戯曲)であった。引き続いて、石丸梧平の『人間親鸞』などが出たけれども、『出家とその弟子』は他の追随を許さず、倉田百三は一躍時代の寵児となった。この戯曲は昭和8年の京都大丸劇場での初演を皮切りに、あちこちで上演された。
 読む戯曲としてのこの作品は、何カ国語にも訳されて海外でも愛読者を得た。スイスから、ロマン・ロランは倉田に絶賛の手紙を送り、洋の東西を隔てても、原罪への自覚や大いなるものへの帰依は、キリスト教と仏教に通じ合うものであるという見解を示して、倉田に共感を伝えた。そのロマン・ロランは、宗教的感情を「大洋感情(le sentiment océanique)」と称して肯定的に捉えていて、そこには、他力、あるいは甘えにも通じるものがあった。この「太洋感情」は、自我を重視する立場にあるフロイトから、発達的に未熟なものとして批判され、両者が相容れなかったエピソードがある。ここに提起される自我と宗教感情の融合の問題は、それを持て余した倉田が『出家とその弟子』たちに悩みを預けた課題でもあった。そして登場者たちは読者に答えを委ねるという、たらい回しの作品であった。
 それを見抜くかのように、国内の文壇の一部からは、聖者にもある性欲の悩みを盛って宗教のレッテルを貼ったものに過ぎないと貶されたが、それにしてもこの作品は、大正期の人心に感銘を与えたのであり、倉田自身、時代精神の中で煩悶する青年を象徴する作家としての評価を得たと言えよう。倉田は実に大正の親鸞ブームの火付け役だったのである。
 


ロマン・ロラン


 
 かくして一躍有名人となり、若くして天国を経験した倉田百三が、やがて「神経質者の天国」に陥って、森田のもとを受診したのは昭和2年である。出世作を出して10年後のことであった。
 ところで、森田の著作を見ると、昭和2年の倉田との出会い以前には、真宗への言及らしきものはほとんどなく、倉田の来院を契機に真宗や親鸞を語り出している。森田は治療者として倉田を指導しながら、倉田に触発されて真宗への関心を深めていったと言えそうである。ただこの場合、倉田は思想的遍歴をしている途上の人であり、森田が接したのは、主に強迫観念に悩む時期の倉田なのであった。その後も倉田が形外会に参ずることはあり、自分が「はからい」の業を経た体験などを語っていた。
 
 しかし昭和11年の第62回形外会に参席した倉田は、変貌した自身の内面をのぞかせた。彼は自分の信ずるところがあって政治運動をやっていると言い、「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏で切って行く」というのはよい言葉である、と述べている。これを受けて森田は、倉田の著書の中に「『念仏申さるるようにやればよい。いやしくも念仏を申し得るならば、共産党のテロでも・ファッショでも構わぬ』という事がある。非常に感心しました」と応じている。実際に、この時期の倉田は、右翼活動に関わり出していたのであった。
 
 われわれは、森田療法と真宗の関係については、このような倉田と森田の間の、重大にして喜劇的な掛け合いから離れて、別の角度から見直さねばなるまい。倉田だけでなく、真宗の優れた学者や僧侶の識見にも照らして、森田は真宗を療法に生かしうる可能性を確かめる必要があった。もしそのような手順が不足していたのなら、大変遺憾なことであったと言わざるを得ない。
 
< 文献 >

  • 倉田百三 : 出家とその弟子. 角川書店、1961
  • フロイト(中山元 訳) : 幻想の未来/文化への不満. 光文社、2007

以下(Ⅴ)に続く            




森田療法における自力と他力(Ⅲ)―倉田百三から他力を教えられた鈴木知準―

2019/11/23




 

承前

 
7. 倉田百三と会った17歳の鈴木知準
 鈴木知準は、十代で森田正馬の下に入院した経験を有し、以後森田に私淑し、医師となって鈴木診療所を開設して、入院森田療法を継承したことで知られる。
 鈴木の療法は、まさに森田のそれを祖述したものであったから、そこでの指導は、いきおい禅に通じる面があった。森田における禅とのかかわりは、臨済禅に限られていたが、鈴木は道元禅をも深く考究し、かつそれを療法に生かしたので、その分、森田以上に禅的であったと言えるかもしれない。森田は道元禅と接触せず、ひとり鈴木だけが道元禅に関わったのはなぜだろう。明快な答えはないが、少なくとも鈴木が道元禅にも通じる他力の思想を知るきっかけとなったエピソードがある。それは、森田医院に入院中の少年鈴木が、そこで出会った倉田百三から受けた新鮮なインパクトであった。

 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
 鈴木は、『形外先生言行録』に、「森田先生に指導されたことども」という稿を寄せ、さまざまな思い出を書いている。その中で、「倉田百三氏と森田先生の問答をうかがう」と題する項に、自分が入院中だった昭和2年4月の、日曜ごとに倉田百三がやってきて、森田正馬と問答をしていたが、入院生も同席を認められて、それを聞くことができたという貴重な体験が記されている。以下、そのくだりを引用しておく。
 

   ♥      ♥      ♥      ♥

 
 「…日曜のたびに 倉田百三氏が午後やってこられて森田先生と問答される。倉田氏はそのころ強迫観念の最中であった。四月の日曜日に三回くらい来られたと思う。その頃は森田先生のお宅は旧いお家で座敷の前も三尺の廊下であった。倉田氏は高下駄で紋付き、小倉の袴すがたであり、あごひげをはやしておられた。先生との問答の前はその三尺の廊下に黙然として坐していた。倉田氏が来られる折は文学青年であられた野村先生もいつも同席であった。森田先生はわれわれ入院生にも同席をすすめ、その問答を聞かせた。これはわれわれ若いものを将来大きくのばそうとする配慮であったろう。誠に何ものにもかええない、うれしい有がたいことであった。
 私はその頃十七歳の少年であったが、名ある文学者だとのことで、耳を立てて聞いたものです。倉田さんがよく言われた「もようされて生きる態度」ということばが今でも倉田さんの声として耳の底に残っている。若い私には理解することの困難な問答がたくさんあったが、その「もようされて生きる」ということは、今の私にははっきりとわかる。親鸞の「自然法爾」とは正にそのことであり、神経質をのりこして後、親鸞のその生きる態度がはっきりとわかるものである。」
 


昭和2年、森田医院に来院した倉田百三を囲んで。前列、柱より右へ、倉田百三、森田正馬、息子正一郎、鈴木知準。(この写真は、野村章恒著『森田正馬評伝』より転載させて頂いた)


 

   ♥      ♥      ♥      ♥

 
 鈴木少年は、倉田から「もようされて生きる態度」という意味深い言葉を聞いて感銘を受けたのであった。倉田がそれを親鸞の教えとして述べたのか、道元の名を出したのかどうかはわからない。つまり厳密に言うと、その言葉を発した際の倉田の意識はわからない。鈴木は後年に『形外先生言行録』にその思い出を記しつつ、倉田の言葉を親鸞の「自然法爾」と重ねている。しかし、そもそも「自然法爾」は神格化された阿弥陀仏が既に希薄化して「自然」に吸収された親鸞晩年の思想であり、道元の言う「法」に通じるものになっていたと言える。実際、倉田は『法然と親鸞の信仰』(昭和9年刊)の中の「歎異抄講評」の章では、道元を持ち出し、阿弥陀如来よりも、「法」を説いているのである。そのくだりを少し抜粋引用しておく。
 

   ♥      ♥      ♥      ♥

 
 「念仏は申すのではない。『申さるる』のである。この我を失うて、受け身になる所に宗教生活の秘義があるのだ。
 『彼方より行われて』と禅では道元が言っている。小さな我が出しゃばらずに、大きな宇宙が我を通して運行するのだ。自分が行じるのではない。『法』が行じるのだ。宇宙の理法、生命の法則が自然と顕現してくるのだ。…自分の力で善を行うのではない。催されて行う結果が善なのである。…また自分が行わずに、宇宙の理法、『法(のり)』、み仏が催して行ぜしめるということは、日常のどんな些末な行為も宇宙の圧力で行うということになるので…充実して力がこもっている。」




 昭和2年の春に鈴木が出会った頃の倉田は、『冬鶯』を書いた直後であり、その小説の主人公のごとく、我執を去り、他力に随順して生きる清々しい境地になっていて、その高揚感が「催されて生きる態度」と声高に言わしめたのかも知れない。しかし、せっかく森田のもとへ来て、入院森田療法の体験をせずに到達した「治らずに治らった」という体験は心的次元におけるものに過ぎなかった。生活に根ざさない心的体験は流動する。倉田は、なおも危ういものを抱えていた。「はからい」の業が尽きて治った境地になろうとも、他力に任せきって生きていくには「はからい」が頭をもたげる。そしてその事態を自力で支える必要があった。こうして他力を追求し続けて、常に自力を振り絞らざるを得なかった倉田は、自分の心的な弱さを補強するために、体力を鍛えようとした。さらには法的自然主義を唱えて、その原理的な思想と行動に走る。こうして倉田は、森田の診療を受けた後、他力を奉じて生きるために、自力のやりくりを必要とする矛盾を抱えて、挫折を繰り返すことになるのだった。
 
 かつて森田医院で接点を有した倉田と鈴木のふたりは、人生の明暗を分かつことになった。鈴木は入院体験を契機に、初志を貫き、時を経て治療者になるが、少年時代の倉田との出会いをひとつの原体験として、自力と他力が不可分な道元を取り入れ、独自の治療を推進した。森田の療法にはなかった道元禅の作務の清規や只管打坐を、入院生活の行の面に生かし、また『正法眼蔵』の中にある他力の思想を入院生に教えた。鈴木は、よく知られている次のような道元の言葉を示すことが多かった。
 「ただわが身をも心をも、はなち忘れて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる」(『正法眼蔵』生死)。
 この中で言われる「仏のかたよりおこなわれて」とは、「催されて生きる」こととまったく同義なのである。
 
<文献>

  • 森田正馬生誕生百年記念事業会 : 『形外先生言行録 森田正馬の思い出』、1975
  • 倉田百三 : 歎異抄講評、『新版 法然と親鸞の信仰』講談社、2018(最初の刊行は、大東出版社より、1934)

 

以下 (Ⅳ)に続く

森田療法における自力と他力(Ⅱ)―「治らずに治った」倉田百三―

2019/11/09


倉田百三著『神経質者の天国』



 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
 
〔今回の稿の、最初に〕
 このシリーズ稿の、(Ⅰ)を9月上旬に掲載しましたが、都合により、続きの稿の掲載がこのように遅れました。
 資料を調べながら続きをまとめようとしているうちに、倉田と森田療法のかかわりは、彼の人生のほんのひとコマにしか過ぎなかったということを、改めて思い知ることになりました。
 曲折があったその生涯と思想的な遍歴を視野に入れずに、強迫観念に悩んで森田療法を受けたある時期のことだけを切り取ってとかく言うのは、狭い見方にならないだろうか。「治らずに治った」と言った彼の言葉を俎上に載せ、それに対する森田の批判をなぞるだけでは、甚だ空虚な「倉田と森田療法」論になるのではなかろうか。そんな危惧を感じざるを得なくなりました。今までそのような論議がいかに多かったことか。倉田が森田療法を通過して行ったのは数カ月間だけです。従って森田療法が彼の生涯に責任を持つことなど、おそらくできなかったかも知れません。いや、たとえ短期間であっても、森田療法との出逢いは質的に重要な意義があったのだ、という反論も聞こえてきそうです。ならば、そのへんも深く考える必要があります。
 いずれにせよ、彼の生活歴、病前歴、病後歴から、森田療法が学ぶことはあるでしょう。さいわいにというべきか、彼が有名人だったおかげで、その生涯の全貌がほぼ明るみに出ており、しかも、本人は自分の内面を、作家としての筆力で描写しています。生涯のある時期に森田療法を受けた人物の、その生涯と魂の遍歴を知ることのできる恰好のケースです。つまり人の人生に関わった森田療法の意義について、見直すことのできる数少ない症例なのです。そのようなことをつくづく考えました。
 しかし、この拙文を書き出した趣旨は、森田療法における自力と他力ですから、ここではそれをまとめるために、引き続き原稿を補っていきます。
 なお、シリーズの順番の表記を、(上)(下)から、ローマ数字に変更します。この稿は(Ⅱ)として、(Ⅲ)以下の稿をさらに近日中に追加します。
 
 ともあれ、今回の文は、9月に掲載した(Ⅰ)に続くものなので、それと併せてお読みくだされば、幸いです。
 (Ⅰ)は以下にリンクをつけておきます。
 


森田療法における自力と他力(Ⅰ)―倉田百三の魂の遍歴―
 
 

かつて三聖病院の玄関にあった欄間


 
 承前
 
5. 宇佐玄雄の治療を受けた倉田百三 ―不問にされた「倉田のモモやん」―
 大正15年秋に、小林参三郎の静座療法を受けるために京都の済世病院に入院した倉田は、小林の急死で静座を受けられぬまま、済世病院を退院せず、三聖医院の宇佐玄雄のもとで通院治療を受けたのだった。このことは既に触れたが、翌年に森田から受ける療法と明らかに異なり、宇佐玄雄は徹底した不問で倉田に接したのであった。倉田は父危篤のため急遽京都を去って行ったが、厳しい宇佐の治療が奏功する兆しが見えてきた時期の、惜しまれる中断であった。注目されてしかるべきエピソードなので、今一度書き留めておく。
 大正11年に東福寺内に開院した三聖医院は、既に大正13年より塔頭の龍眠庵を病室として入院療法を開始していた。しかし、倉田は東寺の敷地内にあった済世病院に入院の身柄を置き続けながら、三聖病院に歩いて通院して、玄雄の診察を受け、さらにデイケアのごとく入院第三期の人たちの作業に加わることになった。なぜ三聖医院に入院しなかったのか。済世病院では亡き小林の夫人も静座療法の心得のある人だったので、倉田は夫人から指導を受けたいという静座への執着を残しており、入院森田療法を受けるほどの覚悟を有してはいなかったのである。そんな状態で三聖医院へ変則的な通院をし、宇佐の診察を受けたのだが、待たされた上に、ほとんど話も聞いてもらえなかったと倉田は書いている。宇佐は、相手が高名な作家であろうとも、敢えて不問療法で接した。済世病院に入院中の倉田が夜間に症状を募らせて、往診の要請があっても、宇佐はそれに応じることはなかった。ヒポコンドリーを不問に付したのである。倉田は三聖医院に通っても、病身のためか作業に従事したようでもないが、「倉田のモモやん」(実名は「モモゾウ」である)と呼ばれて、掃除などの作業をしている入院患者の仲間には入っていたらしい。また、かなりの距離を歩いて通院したこともあり、病身をかばう日常横臥の生活から次第に解放されようとしていた。
 そんなとき父危篤の報が入り、藤沢へ帰って行ったが、三聖医院における宇佐玄雄の治療は出色のものであった。観照生活だとか統覚不能だとかいう本人の講釈に、治療者として取り合わなかったのである。作家であろうとなかろうと、日々の生活がある。倉田がそれを取り戻せそうな矢先に三聖医院の治療は中断された。
 

東福寺の紅葉



 
6. 森田正馬の治療を受けた倉田百三一「治らずに治った」体験―
 この年の12月に大正天皇が崩御され、明けて昭和2年、早々に倉田は父を見送り、2月に森田正馬への受診を開始した。
 森田は日曜日に倉田を迎えて会い、後には通常の外来診療に受診した彼に会い、治療は日記を用いての指導であった。同年5月まで倉田は通院し、計7回程度の診察であったという。
 このような治療の仕方については、最初から疑問が生じる。森田はなぜ彼を入院させなかったのであろうか。通院なら、日曜日に迎えるとは、著名人である彼に対する特別なはからいだったのであろうか。日記を無制限に書かせたとすれば、それが強迫観念を助長しかねないことは考慮されたであろうか。まして倉田は作家である。あるいは深読みすれば、手記を書かせることで、敢えて強迫観念の中に没入させたのであろうか。とにかく症例倉田に対しては、宇佐の治療と森田の治療は対照的であった。それを倉田はどう受け止めたのか、わからないが、不問ではなかった森田の療法を受け入れたのだった。
 だが日記を媒介にしながら、森田が具体的にどのように指導したのかについては、ほとんど記録がない。森田は、後年の昭和12年に、「倉田百三氏の悩みたる強迫観念に対する心理的解説」という長い原稿を、雑誌「神経質」に掲載したが、症状についての解説が主で、神経質の治療については、「其症状を治さうとする一切の手段を放棄させて、ひたすらに其苦悩煩悶を忍受してつつ、仕事もして、人の為すべき事をやらせるやうにする」と記している程度である。ただ、倉田には強迫観念に苦悩しながら原稿を書かせたところ、『冬鶯』という作品が出来て、それは倉田自身にとっても会心の作になったという挿話を紹介している。そして、苦悩のままに欲望を発揮したこの体験により、倉田は全治したという森田の見解が述べられている。
 けれども『冬鶯』はそれほど評価されるべき作品なのか。読んでみると、実に重苦しい。神経質者はかく治るべしという、当為の小説である。当為から自由になるはずの森田療法が、当為化されているような印象を受けるのだが、深読みに過ぎるだろうか。
 倉田が治癒に向かった心的過程は、彼自身が如実に語ったり書いたりしている。
 「はからいは、はからいの業の尽きるまでは止まないこと、はからいの止むとき、そのままの忍受が具現すること、そして依然として苦しみはありながら、それが苦しみではなくなって、苦しみから解き放たれる、ということであります」(「倉田百三氏の体験を中心に」、森田正馬『自覚と悟りへの道』)。
 「(強迫観念の)苦しみを苦しみとして受け容れるよりほかなく、その打ち捨てた絶対忍受の生活態度を体得するに至り、心機一転して、いわばその体得の結果副産物として、多年の病気が治った次第なのです」(『絶対的生活』)。
 そして、倉田は「治らずに治った私の体験」という文章を収めた著書『神経質者の天国』の末尾に、次のように書いた。
 「『我々は運命を耐え忍ぼう。』自分が最後に、此の記述を閉じる語はこれである。」
 森田はこの言葉を厳しく批判し、正岡子規を例に挙げながら、形外会の場などで、運命は切り開いていくものであると強調した。「運命は耐え忍ぶに及ばぬ。正岡子規は、肺結核と脊椎カリエスで、永い年数、仰臥のままであった。そして運命に耐え忍ばずに、貧乏と苦痛とに泣いた。…それでも歌や俳句や随筆を書かずにはいられなかった。…子規は不幸のどん底にありながら、運命に耐え忍ばずに、実に運命を切り開いていったということはできないであろうか。これが安心立命ではあるまいか。」(昭和9年、第25回形外会)。森田はこのように言うのだった。その真意は、入院森田療法の場合と同じく、苦悩の絶対的忍受と欲望を発揮する行動の調和を重視するところにあったろう。倉田の「治らずに治った体験」も、「運命を耐え忍ぼう」も、体験者にして言える言葉であり、認めてしかるべきだったように思われる。しかし、そこに極限を求める危うさがあって、森田はそれを見抜いたのであろうか。だとしたら、森田は慧眼である。
 以後の倉田は、他力の信奉の延長としての法的自然主義の思想を深めて、政治的活動に関わり、皮肉にも行動の人となっていったのであった。
 
<文献>

  • 倉田百三 :『神経質者の天国』、先進社、1932
  • 倉田百三 :『絶対的生活』、文理書院、1933
  • 倉田百三 :『冬鶯』、先進社、1931
  • 森田正馬 : 倉田百三氏の強迫観念に対する心理的解説. 「神経質」8(2)~8(4)、1937.2~1937.4 (森田正馬全集 第三巻、1974 所収)
  • 森田正馬 : 「倉田百三氏の体験を中心に」、『自覚と悟りへの道』、白揚社、1959

 

以下、(Ⅲ)に続く。                                        

森田療法と芸術の秋 ―「チャーチル会名古屋秋季展」、本日より―

2019/10/22

 

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 チャーチル会という絵画を愛好する人たちの会がある。この会は、70年ほど前に生まれ、政治家でありアマチュア画家として知られたウィンストン・チャーチル卿に、その名前を冠することを認められたという歴史と由緒のあるアマチュア画家の会である。アマチュアとは素人を意味しない。仕事(ジョブ)あるいは職業(プロフェッション)としてでなく、何かを深く愛好する人たちのことである。
 チャーチル会名古屋の秋季展が、本日10月22日から27日まで、名古屋市内で開催される。会の代表者は杉本二郎様である。杉本様は、吉川英治の『新平家物語』の挿し絵を描かれたことなどで知られる杉本健吉画伯の甥御様である。芸術家のご一族出身のサラブレッドで、素人目にもいい絵をお描きになる。絵は愛好家だが、かつての本職は映画人で、東映の本社に定年まで勤務しておられたそうである。
 私は4年ほど前に、森田療法の分野でお知り合いになる機会に恵まれた。江渕弘明という医師で禅に生きた森田療法家が、活動された実績をたどっていたら、その足跡は京都から名古屋へと向かっていたことが判明した。それでそれまでまったく知らなかった名古屋における森田療法の活動の流れに接することになった。それがご縁であった。一昔前に、名古屋啓心会や初期の(新)生活の発見会名古屋集談会で、指導的立場で活動しておられた人が杉本二郎様であった。森田療法のことに深く精通しておられるし、なんとも誠実で親切なお方である。先だって浜松での日本森田療法学会で、仏教と森田療法について発表する重責を与えられたが、準備段階で杉本様の胸をお借りし、多くを教えて頂いた。私はこの方との出会いを有り難く思い、一目も二目も置いている。

 

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 森田療法における自力と他力の問題を、倉田百三の生涯を中心にして考えようと、ブログに文章を途中まで書いたが、続きを掲載するのが遅れている。学会では倉田のことにも触れたが、盛り沢山の内容を取り上げた中で、とても倉田のことに深入りはできなかった。というより、森田療法と倉田の問題は、宗教や芸術が絡んでいることもあって、複雑である。それに倉田は本当に森田療法を受けたと言えるのであろうか。病身のためもあったかもしれないが、入院はせず、主に日曜日に特別に森田の診察を何度か受けた、つまり例外的な扱いに浴していたようである。もちろん倉田は、森田の指導を熱心に受け止め、興が湧かなくてもとにかく執筆せよという森田の助言に従って、小説『冬鶯』を書いた。その結果、倉田は自分として大変気に入った作品を書けたと言っている。しかしこの作品は、読んでみると、主人公は神経質を絵に描いたような暗い男である。絵に描いたと言うより、文字通りそのまま文章に書いたものである。世評はどうだったのだろう。評価は読む人によるだろうが、私(たち)からすれば、神経質者はかく治癒すべしという当為の小説のようで、息苦しい。
 この1ヶ月後に、入院中の鈴木知準は、倉田が森田に対して「催されて生きる」という言葉で他力を語っている声に耳を傾けたのであった。倉田は、親鸞や道元の他力の思想にいつ、どのように関心を持つようになったのだろう。『冬鶯』とどう繋がるのだろう。倉田から他力を説かれて、森田はどう反応したのだろう。不可解なことが多い。
 結局倉田は「治らずして治る」という、名言(迷言ではない)を残すことになる。到達点の正直な表現であろう。倉田はやはり特別な患者であったから、後日森田は症例倉田について、詳細に書いたり論じたりしている。しかし、日記を用いて治療したと言うが、治療のプロセスをほとんど書いていない。「治らずに治る」という言葉の綾を批判するばかりのようで、残念ながら森田から伝わってくるものは薄い。森田療法にとって、倉田が来てくれたことは大きなエピソードだったが、倉田本人にすれば、生涯の一コマに過ぎなかった。遍歴をするのが倉田の業だったとも言えるかもしれないが。ともかくも、人生の後半は、自力と他力の間をぶれながら、倉田は無理な道を登り、かつ堕ちていくのである。難しい事例なので、まとめ難くて私は格闘していた。
 これは裏原稿だが、ブログの表原稿は近日まとめ終えたい。
 作家ではないが、画家でいらっしゃる杉本様ならどうおっしゃるだろう。チャーチル会名古屋秋季展に行って、杉本様にお会いしたいと思っている。

 

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付記1
 ブログ連載の間に、この記事を挟みましたが、遅れている連載稿の続きは近日掲載します。

 
付記2
 10月5日に日本森田療法学会のシンポジウムで発表した「仏教、禅の叡智と森田療法―『生老病死』の苦から『煩悩即菩提』へ―」のスライド一覧と説明を「研究ノート」欄に出しました。

森田療法における自力と他力(Ⅰ)―倉田百三の魂の遍歴―

2019/09/07


倉田百三



 
1. 自力と他力
  「自由とは独立独行なり 奉仕さるるを願はざる処に自由あり」。森田正馬のこのような墨跡が、以前に三聖病院に掲げられていたことがあった。これは禅的な言い方のようだが、森田らしい味わいに欠ける言葉で、いわば野暮ったい感じがする。しかし、わがままで依存心の強い神経症者に対する、直截な教えであろうと解しうる。自ら努力をせずに、いわゆる他力本願に堕しているところに、自由な生き方はないと教えているのである。
  もちろん人間は、百パーセント自力で生きていくことなど不可能である。しかし、精一杯に自力を尽くして生きてこそ、向上することができ、おのずから生きがいも生じるというものである。それは当然の前提であるが、それでも人間は究極において、生死を他力に委ねるほかにどうしようもない存在である。
  森田は、まずは自己中心的で依存的な神経症者を自立せしめるために、野暮な教えも辞さなかったが、より深い人生観として、森田自身、結核を抱え、愛児を失い、人生の苦闘を経て自力の尽きるところ、なお死は恐れざるを得ず、という自然服従の境地に至っていたのであった。
  このような自力と他力の問題について、『出家とその弟子』で知られる作家で、森田療法に関わりのあった神経症者、悩める倉田百三の精神の遍歴を取り上げてみる。倉田には、宇佐玄雄や森田正馬との治療的関わりがあったのみならず、森田のもとに入院中だった学生時代の鈴木知準に対して先輩としての出会いもあった。鈴木は倉田から親鸞より道元に至るの他力の思想の洗礼を受けたのである。
  倉田百三と森田療法とのこのような交わりをたどることで、自力と他力の問題を考えようとする。



 

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2. 倉田百三の懊悩
  一高に入って文学活動をしていた倉田は、結核に罹患して退学し、療養生活を送ったが、その時期にお絹さんという女性と恋愛を経験する。その後京都の西田天香の一灯園に入って修養的生活を体験するも、矛盾を感じて去ることになった。数年後、戯曲『出家とその弟子』を書き、空前のベストセラーとなり、大正の親鸞ブームに火をつけた。そしてさらに戯曲、小説、宗教論などの執筆を続け、彼自身、親鸞に深く思いを入れ、人間苦が救済される道として、他力の信仰に宗教的関心を有していたのだった。
  しかし、大正15年(37歳)に、その3年ほど前から始まっていた強迫神経症的症状が、顕著に現れ出した。統覚不能(離人症的症状)、不眠恐怖、耳鳴り恐怖、計算恐怖、いろは恐怖、物象回転などであった。
  この頃、同じ神経症者の知人の中西清三宛ての書簡に、永平寺や南禅寺の禅者によい指導者がいるという情報を伝え、「(見性にいたる禅の修行とくらべて)真宗の解脱も他力の信心が手に入るまでは同じ苦しみと思います。…計らうまいとしては駄目なのですから、進退極ります。」と記している。
  こうして、自分も禅修行を考慮に入れていたらしい倉田だったが、たまたま京都の済世病院院長、小林参三郎の著書『生命の神秘』などを入手して読み、静坐すれば自分の力でない自然の力が働いて、自ずと強迫観念が治ると記されていることに惹かれて、この大正15年秋、小林の病院を訪れたのだった。
 
<参考文献>
・ 森田正馬 : 「倉田百三氏の強迫観念に対する心理的解説」(『森田正馬全集』 第三巻)、1975
・ 倉田百三 : 『神経質者の天国』、先進社、1932
 
 

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岡田虎二郎の写真


 
 

著書『岡田式静坐法』



 
3. 岡田虎二郎の静坐法
  倉田は、大正15年に静坐法を求めて京都の済世病院の小林参三郎のもとに受診した。それというのも、静坐法は、岡田虎二郎(1872-1920)が小林より先に東京でおこなっていたのだが、大正9年に岡田は病没し、岡田を継承した小林が京都で静坐法をおこなっていたからであった。
  ここで岡田虎二郎について少し述べておく。彼は白隠の内観法に倣い、肚で呼吸して丹田に気を集める健康法として静坐法を開発し、心身病弱者の救済を銘打ち、明治40年代の初めよりそれを東京で始めたのであった。これが次第に評判になり、関心を持った実業之日本社の記者が熱心に取材して、明治45年に『岡田式静坐法』という単行本を出版した。この本は大ベストセラーとなり、静坐法は著名人たちを含む多くの人たちの関心を集めるところとなった。岡田は日暮里の本行寺を本拠として、都内をはじめ多くの場所で静坐会を開いた。しかし過労も加わってか、岡田は50代で病没した。森田正馬は岡田式静坐法を見学に行ったが、催眠暗示的な手法とみなして、あまり評価しなかったようである。
 
<文献>
・ 岡田虎二郎:『岡田式静坐法』、実業之日本社、1912
 

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小林参三郎の面影


 

著書『生命の神秘』


 

4. 京都における倉田百三―小林参三郎と宇佐玄雄―
  小林参三郎(1863-1926)は、兵庫県出身で、医師を志して上京し、医師資格を取得後に渡米し、医科大学で外科を専攻した。長年アメリカに滞在し、ハワイで日本人病院を設立した。またハワイで西本願寺の開教使と会って感化を受け、仏教に帰依することになった。以後仏教書を読み、物理的治療だけでなく、信仰による精神療法の併用の必要性を痛感するようになった。一時帰国した際、真言宗による慈善病院設立計画を聞き、京都の東寺の敷地内での済世病院設立計画に参加し、40代で帰国して院長となった。
  小林は、科学の生み出した物質的治療が重視される医療を批判し、患者の精神状態に配慮する必要性を説いた。また人間は「天与の生きんとする力」、すなわち「自然良能」を具えていると言った。その天賦の力のことを、「自然の良医」あるいは「本具のドクトル」とも称したのだった。そして、このような能力を養う方法として、小林は岡田式静坐法を採用したのである。
  倉田百三が済世病院を受診したのは、大正15年秋のことである。しかし、入院した倉田は、すぐに静坐をさせてもらえず、まず森田療法の第一期のように臥褥を命じられたのであった。
  小林は宗派にこだわらず、仏教者と広く交流しており、禅僧で医師の三聖医院院長、宇佐玄雄ともすでに知人の間柄であった。また森田正馬が三聖医院に来訪した際には、小林も三聖医院に来て、小林は森田とも交わっていた。こうして、森田療法を知っていた小林は、入院患者に対して、静坐体験への導入として臥褥を設けていたのである。
  ところが小林は、倉田が入院して一週間後に心臓病で急逝してしまった。倉田は静坐をできぬまま、院長不在の病院に入院し続け、三聖医院に通って作業のみに参加することになった。そこでの宇佐玄雄の指導は厳しかった。倉田は、この時期のことを、『神経質者の天国』におよそ次のように書いている。
  それは京都の秋から冬にかけてのことだった。自分は十数年来、日常横臥の身で、冬は外出せず、外出すればマスクをはめて、風邪を引かぬように用心していたものだった。「それが、強迫観念と闘う必要上、全然やり方を変えねばならなかったので、マスクなどはめると、宇佐氏にひやかされるので、はめられない。私が常住起坐しておれるようになったのは、まったくこのためでした。…(入院中の済世病院から)宇佐氏の病院まで通ふのが、初め、危ぶまれたものが、だんだんと歩けるようになり、雪の積もっている山道を、嵐山から清瀧まで歩けたというようなことになりだしたのでした。」
  こうして、宇佐の指導に効果の兆しが見えだしたとき、父の病状悪化の知らせが入り、倉田は関東に帰って行った。
 
<文献>
・小林参三郎:『生命の神秘』、春秋社、1922
 


済世病院の当時の外観


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(Ⅱ)に続く                                        

フランス人精神科医師、FEDERMANN先生との交流について

2019/08/16




 
  フランス人精神科医師、FEDERMANN 先生と、メールなどで交流中です。昨年秋にこの先生との交流が始まったとき、ブログ記事でそのことを紹介しました。改めて、その記事のリンクを以下に設けておきます。その中から、FEDERMANN 先生のYouTube動画も見ることが出来ます。
 
 
森田療法の考現学的研究についての予備的試論―考古学から考現学へ―(3)
 
 
  FEDERMANN 先生は、ストラスブールで精神科診療の第一線で活動しておられます。中でも移民や不法入国者たちのメンタルヘルスにかかわり、医療に恵まれない彼らのアルコール依存や薬物依存やその他の精神障害に対して、無料で診療活動をなさっています。そして彼らを励ましておられます。時代遅れのフランスの赤髭です。
  夫人も精神科医師でしたが、残念ながら、数年前にある患者に殺害されました。しかし、その後もFEDERMANN 先生は、社会の底辺にいる人たちへのケアを続けています。彼の活動は、二本のドキュメンタリー映画になり、フランスの映画館で上映されています。
  私はあるフランスの雑誌に、森田療法の視点から、治療者の「純な心」の大切さについて書いたことがあり、FEDERMANN 先生はそれを読んで共鳴して下さいました。
  今年、この人を日本に招く計画でしたが、スケジュールに無理があり、来年には日本に来てもらいます。
 

宇佐玄雄と三宅鑛一 ―森田正馬と宇佐玄雄の交流に関連する挿話―

2019/07/24

 宇佐玄雄著、三宅鑛一校閲『精神病の看病法』昭和16年刊

 宇佐玄雄著、三宅鑛一校閲『精神病の看病法』昭和16年刊


 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 

  慈恵医専に学んでいた禅僧、宇佐玄雄は、ちょうど森田正馬が入院療法を開始した大正8年に医専を卒業して医師になった。その年の前半は、森田のもとにたびたび通って診療を学んでいたが、同年9月に森田の好意で東大精神科助教授の三宅鑛一に紹介された。ちょうどこの時期に東大精神科の附属病院として、松沢病院が創設され、宇佐は三宅を通じて松沢病院の医員として、そこで研修や診療に携わることになった。松沢病院に通うのが建て前になったからであろうが、大正8年の秋から約一年間、宇佐は恩師の森田正馬に対しては、足が遠のきがちになっていたようである。森田の自宅で始められた「余の特殊療法」に立ち会って、直接それを見守る絶好の機会に恵まれていたにもかかわらず、殆どそれを逸している。少なくとも、森田の日記に見る限りでは、大正9年に宇佐が森田医院を訪れた回数は非常に少ない。尤も、大正9年の宇佐の来訪についての森田の記載を見落としていた箇所が、2回分あった。去る4月に提示した文章中にそれらを列記すべきところ、不手際にて漏れていたので、本日付けで、さかのぼって4月の文中に補足を加えた。しかしながら、それでもこの年には、宇佐は森田に無沙汰をしていた。見落としていた森田日記の記事の一つは、宇佐が三宅の使者として、森田に伝言を持ってきたという、次のような奇妙なものである。
 
  大正九年五月六日
  「宇佐君来り三宅君の伝言あり、余もし病のため慈恵の講義の困難ならば、一時、代り講義してもよけれど、Kl.は呉先生洋行のため三宅君が其代りをなすといふ、三宅君は之を好まずといふ、余は以前より自らKlをなさん事希望する処なり、」
 
  宇佐は三宅の使い走りのようになって、森田に会いに来ている。東大精神科医局に入局した新人医師として、三宅と自然にこのような関係になったのであろうか。あるいは宇佐は、森田が始めた特殊療法について、先輩の三宅の意見を聞く意図を持って、三宅に近づいていたのだろうか。
  ちなみに森田は、自身の療法の披露のため、大正9年末には宇佐らを自宅に招待し、大正10年末には三宅らを自宅に招待したのだった。
  宇佐は医師になった大正8年夏に、早速、円覚寺の釈宗演老師に面会し、自坊の住職を引き受けるべきか、医業をなすべきかについて助言を仰いでいる。宗演は、「寺を出なさい」と言ったという。お墨付きを得た宇佐は、医業を営む方針を決めただろうが、療法が誕生する時期に森田との出会いに恵まれて、しかしながら評価が定まっていない森田の療法を摂取すべきかどうか、大正9年の時点では慎重になっていたとすれば、それは当然のことだったとも言えよう。
  三宅鑛一との近い関係は、その後も長く続いたようで、宇佐は後年(昭和16年)に上梓した著書『精神病の看病法』の校閲を三宅に依頼している。三宅は呉の後任として、昭和11年まで東大精神科教授を務め、神経衰弱などいくつかの分野の研究で知られた人である。
  研究者としての三宅については、別途に述べたい。

自由を求めて生きた画家、高良真木(下) ―母娘葛藤と森田療法―

2019/05/18


真鶴半島(岬の先端の三ツ石)


 

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<本稿について>
  本稿は都合により、掲載が遅れましたが、連載として書き始めたシリーズの最後にあたります。シリーズの(上)は、2018年12月25日に、(中)は2月7日に掲載しました。
  (上)と(中)の原稿へのリンクを、以下につけておきます。
 
自由を求めて生きた画家、高良眞木(上)―画家たちの真鶴半島―
 
自由を求めて生きた画家、高良眞木(中)―洲之内徹との不思議な関係―

 
 

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1.偉大なる母、高良とみ女史
 
  戦後の昭和22年に、日本最初の女性参議院議員となって、反戦平和、女性解放の運動を進めていた高良とみ女史(1896-1993)は、昭和27年、国交のなかったソ連に渡航してモスクワ経済会議に出席し、さらに中国に入って太平洋地区平和会議に出席した。鉄のカーテンをこじ開け、竹のカーテンをくぐって、ソ連と中国への道を開いたことは、当時の日本社会にとって画期的な行動であり、その快挙はとりわけ日本の女性たちに勇気を与えたのだった。
  「私が尊敬する人は、ガンジーとタゴール、親友はネールと李徳全女史」と言ってはばからなかったと伝えられる。高良武久教授夫人で、娘たちの母であったこのようなとみ女史は、日本女性の中でも、希有のスケールの持ち主であった。
 

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  とみ女史(旧姓和田)の実母、和田邦子は敬虔なキリスト教徒で、婦人運動や社会運動に参加していた人であった。とみ女史はこの母の生き方を受け継いでいた。日本女子大在学中には、アジアで初めてノーベル賞を受賞したインドの詩人、タゴールが大学へ講演に来た。その際直接タゴールに接して深い敬愛の念を抱き、以後交流を続けることになった。大学卒業後、アメリカに留学して心理学を専攻し、学位を取得した。その間、ジェーン・アダムズに会い、セツルメントに代表されるその社会事業、平和運動、婦人運動に大きな影響を受けて、それがとみ女史の思想の根幹をなすことになる。母、和田邦子のキリスト教思想の影響に加えて、タゴールから薫陶を受けていたとみ女史は、アメリカに留学しても、資本主義社会の消費文明や拝金主義に染まることはなかった。
 
  帰国後、大正12年に九州帝大医学部精神科助手となり、そこで、高良武久医師と出会った。
  昭和2年、母校日本女子大学教授として迎えられ、日本社会における婦人問題の先覚者として、指導的な役割を担うことになった。また国内だけでなく、インドや中国を視野に入れ、アジアの平和運動にも関心を向けていく。
  昭和4年、高良武久先生は上京して根岸病院医長となり、この年にふたりは結婚式を挙げた。昭和5年には、長女真木が誕生している。
  こうして、とみ女史は妻となり母となったが、同時に日本の婦人たちの啓蒙のために指導的な活動に従事し続けた。女史は、女性と言えども、個人の解放のためや家庭の幸せのためだけに生きるものではないと考えていた。社会の半分を占める婦人が、社会のことや国家のことを考えぬことは罪悪であり、婦人が権利を獲得するのも、婦人が社会に貢献するためであると、女史は説いた。婦人解放を目的とする「青鞜」の同人らに共感を示さず、社会の人びとと分かち合う幸福を重視していた。
 
  しかし落とし穴が待っていた。日中戦争が始まり、大政翼賛会ができたとき、婦人議員としてそこに参加し、婦人の国家的任務への覚醒を力説した。ここにおいても、社会に貢献するという女史が理想とした婦人像は変わっていないことは注目に値する。しかし、翼賛会に参加したことは、結果として侵略戦争に加担した立場となった。女史は、後にこのことを顧みて、私の生涯の最大の汚点だったと言うのだが、その償いの思いを込めて、戦後には、日中友好など、アジアを中心とする平和運動に後半生を賭けたのであろうと思われる。
 


『非戦を生きる―高良とみ自伝』(1983)、表紙のカバーは高良真木画。


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  家族から見たとみ女史のことについては、『非戦を生きる―高良とみ自伝』(1983)の巻末に収められている、次女の高良留美子様による「『妻として母として』―内側から見た高良とみ」という一文、および『誕生を待つ生命―母と娘の愛と相克』(高良美世子 著、高良留美子 編著、2016)の高良留美子様による「解説」の文などが参考になる。以下の記述は、多くをそれらに負う。
  自伝『非戦を生きる』のプロローグで、女史は昭和27年に鉄のカーテンをくぐってモスクワに入ることができた体験に触れて、述べている。「私の中にある婦人の直感とも言うべきものでしょう。どうせ人間の住む世界ゆえ、そこには婦人が、妻として母として生きている、その世界ではどんな人間でも同じ心持ちだという信念があったのです。」
  自伝の文中にこのように「妻として母として」という言葉が何度か出てくるので、次女の高良留美子様が、それを姉の真木様に話したところ、「姉は最近の教科書問題になぞらえて、『それは歴史の改ざんだ』と叫んだ」そうである。娘たちから見れば、「妻として母として」という言葉は、とみ女史にはおよそ似つかわしくないものだったのである。母は子どもの教育には熱心で、羽仁もと子の思想に共鳴して子どもたちを自由学園に入れた。しかし子どもたちは母の温もりを感じたことがなかった。
  家庭の主婦である以上に、社会のために目覚めよと主張したとみ女史は、指導者であるが故に家庭人に甘んじることができなかったのである。「母として」の欠如は、子どもたちを心の孤児にした。
 
  当時の家庭内のとみ女史の姿は、歳月を経て戯画的に回想されている。「家の台所の流しの上の戸棚には、母が買い込んできたさまざまな機械や器具類が、がらくたとなってしまい込まれていた。(…)母が整理下手だったせいもあって、わたしたちは彼女が外でやっているらしい『生活の合理化』については、ほとんど信用していなかった。いやわたしたちがそれを信用しなかったのは、天井裏のがらくたのせいなどではなくて、彼女の存在そのものが、わたしたちにとって不合理そのものだったせいなのかもしれない。つまり、うっかりしているとわたしたち自身が『合理化』されてしまいそうな危険があったのである。母はわたしにとって初めての、強大な、いささか強大すぎる他者であり、愛憎の対象であり、たたかいの相手であった。」(高良留美子様の文より)。
 
  家族から見ると、女史が大きな行動力を発揮する前後には、沈黙と沈潜に浸った「うつ」の期間があったと言われる。それは戦中に大政翼賛会への出席をやめてから、敗戦後に参議院選挙に出るまでの時期と、三度目の選挙に落選してから最晩年に平和運動に復帰するまでの時期であったとされる。それは双極性と言えるほどの気分障害だったのかどうか、わからないし、判定するスケールもない。高良とみ女史は、そんなスケールの大きな人だったのである。
 


真鶴半島の先端


 

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2. 森田療法家の父、高良武久先生
 
  九州帝大医学部精神科の若き高良武久医師は、アメリカ帰りで同精神科助手になっていた3歳年上の和田とみと会った。ふたりは愛を育み、とみが九大を去って日本女子大に着任するまでの3年間、相聞歌のような詩を交わしていた(武久没後に発見されて、『高良武久詩集』として出版された)。とみの後を追うように、昭和4年に武久は上京して根岸病院医長となり、同年にふたりは結婚した。
  婦人運動や平和運動を精力的に続けるとみ女史と対照的に、武久先生は、七高(鹿児島の旧制第七高等学校)の学生時代には、神経質に悩み、詩作や読書に耽っていたことのある文学肌の人であった。とみ様は循環気質だったようだが、武久先生はシゾイド的で、思想的には自由主義者であった。おふたりの間には葛藤が生じないはずはなかったのだが、森田正馬の後継者として、森田療法家となった武久先生は、家庭においても父として、そしておそらくは夫としても、「あるがまま」の生活を送っておられた。
  しかし留美子様は『誕生を待つ生命』の「解説」文の中に、「父の淋しさ―尺八とヴァイオリンの合奏」という小見出しで、姉の真木が小学五年生のときに書いた「音楽」という作文には父の淋しさが滲み出ている、と書いて、その真木の作文を掲載しておられる。少し長いが、家族のことが伝わってくるので、そのまま引用させて頂く。

 

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  「父は古くから音楽、殊に日本音楽というものにしゅみがあった。それで尺八を前から愛し、六段等の名曲も吹く位に成って居た。又自分で尺八を作り月夜にバルコニーで物静かに千鳥などをひいて心を慰めていらっしゃった。それで私にことを習わないかとおっしゃり、何やらつづけ字の経文の如き字の尺八のふを一生けんめいに教えて下さった。が私にはそういう物をあつかう才能が無いがため二ヶ月位つまらないつまらないと思いながらもやっとおぼえたのは六段の初めの方だけである。それ程父は母のげいの無いためか、さみしがって居らっしゃった。
  ところが私も学校でヴァイオリンを習い始めて早くも一年をへて今ではどうやら十ぐらいの歌もひけるようになり、ふしを知って居る歌はつっかえつっかえひけるようになった。私は無しょうにうれしくなり毎晩々々おけいこのほかにいろいろ知って居るうたをひいてみる。
  すると父が尺八をもって出て来て、「まきちゃん。大分君ヶ代がひけるようになったね。一つ尺八をあわせて見よう。」といっていろいろの民間にはやる歌を集めたふを持って来て引き出す。ところが私の方は下からひき出したが父の方ではファからひき始める。まごついて又初めからファで出始めた。つゆのしとしとふる中にこの二人の奏する音のながれが雨の音に入りみだれて美しくちょうわする。
  後から後からいろいろの曲をひいたがヴァイオリンと尺八の音は兄弟でもあるかのようにちょうわして、しめった室にひびく。そうしてその音の中には他人にはわからない父子の愛が互いにむすびあってゆくような何となくなごやかなものが二つの楽器の間を往来して居た。又音楽に熱中する父の顔はいつになく赤らみ目がかがやいて居た。父は一個の医者としてよりも、一人の芸術的な才能にとんだ人だと自分でおっしゃった言葉が今さらのように思いうかんだ。雨ではあるがまどから半月があわく光って居る。緑のつたがわずかにゆれる程のささやかなかぜ。白くけむる雨がつたの葉にゆめのように光って居る。
  音楽はやんだ。父と私はにっこり笑った。そうして二人共ほほえましく語らいながら楽器をしまった。そうして互いに「おやすみなさい」をいってわかれた。しかし父のあの顔はおそらく私が音楽をするたびに思い出すであろう。(おわり)」

 

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  武久先生は、家族に対して責任感の強い人だった。ときには子どもたちの前で母の悪口を漏らしたが、最後に必ず付け加えた。「しかし、お母さんにはどこか人並みはずれたところがある。人のできることはできないが、人のできないことをやるところがある」と。
  残念ながら子どもたちに対して、すべてにわたっての理解者たりえなかったが、決して矯めることをせずに、自由な成長を見守った父親であった。
 


『野に帰ったバラ』(童話) 浜田糸衛 作、高良真木 絵 (1960)


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3. 高良真木の歩んだ道―自由を求めて―
 
1) 原体験―母なるものの不在―
  長女の真木が生まれたとき、母親のとみは母乳が出ず、近所に住んでいた南原繁氏(政治学者で、後に東大教授、東大総長)の夫人に母乳をもらったそうである。それは仕方のないことだったろうし、また生みの親自身も母乳が出ない寂しさを、その分だけ我が子との相互の愛着に振り向けることはできたはずである。だが、婦人たるものは妻として母として生きる以上に、社会のために生きねばならないというイデオロギーの持ち主であったとみ女史である。実際に、とみ女史の育児がどのようであったかはわからない。
  妹の高良留美子様によれば、母は自宅に不在がちであり、幼児期から妹は母代わりのような姉の後ろについて歩いていたという。また、留美子様はその姉の幼い頃の人形遊びに、彼女の原風景を見たという記憶について書いておられる。幼い真木様は、手足がもげて頭と胴体だけになったセルロイドの人形を布でくるみ、着替えさせては大切に可愛いがり、人を寄せ付けず、人形とふたりだけの世界に入り込んでいた。それが孤独な姉真木の原風景であったというのである。
  人形は、いわばイマジナリー・コンパニオン(想像上の仲間)であった。妹が見たその風景は、本人にとっては、母なるものの不在の中で、人形と共にいたわりあう夢想的な世界を形成した原体験であったろう。そして、真木様の内面に秘められたそのような中間的な体験領域は、やがて絵画へと向かっていったのであろう。
 

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2) 母からの解放を求めて
  自由学園在学中に終戦を迎えて、真木は昭和21年に日本女子大学附属高等女学校に転入学した。14歳だったそのときに反戦思想を書き綴った作文が、晩年に見つかっている。「我々は戦争の子であった。生まれて以来十数年というものは、我々の父母の時代によって日本が侵略主義の道を邁進していた時代だった。…」母のゆかりの日本女子大学の附属高女に入りながら、親の世代を突き放しているような文章であり、多感な少女の正義感が読み取れる。
  昭和22年には東京女子大学外国語科に入学し、昭和24年に渡米して、インディアナ州のクエーカー教のカレッジに転入学した。母に強く反発していた真木は、後に妹留美子様に、母から離れるための留学だったと語っている。真木の最晩年にインタビューをした早稲田大学の新保敦子氏によれば、「母親から一番遠いところへ留学」したかったと真木は言ったそうである。母はプロテスタントのクリスチャンだったのに対して、やや信仰の流れの異なるクエーカー教のカレッジを選んだとは言え、母の足跡をなぞるようにアメリカに留学し、キリスト教のカレッジに学んだことが、母親から「一番遠いところ」へ行ったことになったのであろうか。
  卒業して昭和27年に帰国し、翌28年には真木はコペンハーゲンで開催された世界婦人大会に母と共に参加した。途中で母や真木は、浜田糸衛を団長とするグループに入り、中国やソ連などを訪問している。続いて真木は一行と離れ、パリで美術留学の生活に入り、昭和30年に帰国した。
  しかし昭和32年には家を出て、浜田糸衛の宅に転居した。その後真鶴の別荘に移り住んで、そこで浜田と生涯にわたる長い共同生活を送ったのだった。
  母から一番遠いところへ行くために、母と同様にアメリカに留学し、母と共にコペンハーゲンや中国に行き、しかし母に反発し、母の同志で日中友好活動をしている浜田糸衛に心酔して、浜田と思想と行動を共にしたのだった。母からの解放を求めながら、解放されることはなかったのである。心中においては母なるものを希求し、そしてその不在ゆえに反発し、母なるものへの両価性を生き続けていたのであろう。
 

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3) 絵画と日中友好活動
  パリ留学時代の真木の絵は、孤独で幻想的で実存的な画風だったと言われる。ところが、昭和30年に帰国してから、たとえば山並みの上に赤い太陽が張りついて、実体のない空虚の中で出口を探して彷徨している自分の分身を描いているような、不思議な絵を描くようになり、やがて自然を対象とするリアリズムになっていった。しかしリアルを越えて自然に執着するような絵であった。木をみつめ、木と関係している―。原田光氏(岩手県立美術館長)は、『高良真木画集』に寄せた文章の中で、そのように評している。木をみつめ、木と関係している。洲之内徹もそのような絵に心をそそられたのであろう。高良真木にとって、自然とは何だったのか。
  真木にとっての自然は、日中友好の活動家で、童話作家でもあった浜田糸衛の童話に添えて描いた自然の絵と同じものであった。浜田糸衛は、戦前に京都の被差別部落で働き、上京して生田長江に師事してセツルメントで働き、満州に渡っていた時期があり、戦後は筋金入りの社会運動家として活動した人である。童話作家としての一面を持ち、同居していた浜田を、真木は尊敬し、昭和35年に出した『野に帰ったバラ』という童話の表紙絵や挿し絵を、初めて引き受けることになった。そのあらすじを簡単に紹介しておく。
  高度経済成長で町が病み、自然が壊されている時代の話。町から離れた自然の中の沼のあたりでは、沢山の生き物たちが平和に暮らしていた。あるとき、バラの化け物が現れて、トゲでガマの腹を刺した。しかし化け物は疲れきって沼のそばで倒れていたので、ドクダミ先生が診察に行った。ブリリアント・プリンセス・ローズという傲慢な名前で、指に金剛石をつけたこのバラは、心の傷から病気になったのだとドクダミ先生は診断する。そして太陽から不思議な力をもらい、夜空の星屑に金剛石よりも美しい魂の輝きを見たバラは、指にはめていた石を捨てた。彼女は普通の野バラとなり、自然の中で素朴な歌を歌いながら、子どもたちを育てる仕事をして歳月を重ねていくことになった。
  何という美しい、そして恐ろしい話であろう。浜田の創作に付き合い、表紙絵や挿し絵を描いた真木は、この本の初版が出た十数年後の新装版の「あとがき」に、バラのモデルは私であったことに気がついたと書いている。そしてそのことを受け入れて、「自然に帰る」ことの重要性について述べている。実際、彼女は浜田の影響の下で、日中友好活動に取り組み続けたのだった。文革の指導者、毛沢東を太陽として仰いで自然と共生しながら中国の農民が描いている下手な絵に憧れ、国内では、新潟の自然の風景とその中で生活している人たちを描いた佐藤哲三の絵に共感したのだった。
  真木は母に反抗しながら、母と比較にならない本物の左翼活動家の浜田によって、家出を正当化されたのである。もちろん責任は本人にあるが、浜田にこそ責任はあろう。『野に帰ったバラ』は、免疫に欠ける真木のような人を洗脳するという意味で、残酷童話であったと思われるのである。
 

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4) あるがまま―真の自由へ―
  高良武久先生は、とみ女史がクリスチャンであったためもあろうが、無宗教の立場を取り、自由なコスモポリタンを自認しておられた。森田正馬は仏教思想に通じ、禅語もよく引用したが、高良先生は療法から仏教の教えや禅語をなるべく除いて、新たな概念や用語を取り入れ、療法を整理なさったところがあった。しかし「あるがまま」という言葉を療法の中心に据えておられた。「あるがまま」は放恣、放逸と間違われやすく、分かり難いところがあるが、本来は仏教や禅の思想によっている。原始仏教における「如実知見」に当たるし、禅においては無数の表現がある。高良興生院の作業室に「正受不受」と書いた文字が掲げられていたそうだが、これは「あるがまま」に相当する禅語である。真宗なら「自然法爾」も同様の意味を持つ。
  武久先生の長女として、真木は森田療法をどのように捉えていたのだろう。「あるがまま」に生きていたのかどうか。彼女の生涯においては、母の支配から解放されて自由になるという大きな課題があったが、さらにそのような自由にとらわれて、一層不自由な生き方になっていたのではなかったか。
  自由には、なにかの束縛や支配から解放される自由と、なにかに向かっての自由とがある。これに対応して英語には、liberty と freedom のふたつの用語がある。真木は liberty にとらわれて、freedom を生きることに気づけない隘路を歩んでいたようであった。
 「あるがまま」に生きることは、自堕落に生きることではなく、二項対立的な対象の束縛から逃れて自由奔放になることでもない。禅における自由は、freedom に相当する。しかも字義的には、「みずからに由る」よりも、「おのずから由る」と理解できる。すなわち、固定されない自己のままで、作用していることが自由なのである。それが「あるがまま」であり、freedom の自由であり、森田療法的な生き方なのである。
  しかし、人間にはそれぞれの人生がある。森田療法の大家の長女であることを承知の上で、真木という人が、自分の尊厳において選択した生き方を、これ以上評することはできない。
  真木は浜田糸衛と共に真鶴の別荘に住んでいたが、敷地内には母とみ女史のための建物もあった。母の晩年の、介護を要するようになった数年間は、真鶴で真木が進んで介護をしたのだった。積年の母と娘の葛藤がほどけた数年間であったろう。
  平成5年に、とみ女史は召され、平成8年には武久先生が逝去された。その後、平成14年に真木は真鶴に共生型住宅(木の家)を建設し、「真鶴共生舎<木の家>」の運営を始めた。自然、人々、社会との共生の場を謳ったが、場所の不便さのため、入居する人は少なかったようである。少なくとも真木は、尊敬する浜田糸衛をそこで最期まで看取ったのだった。数十年間にわたる奇妙な女性同士の同居生活であった。浜田の方の責任を、私は改めて思わずにいられない。平成22年に浜田が没して、翌年の平成23年に真木も静かに世を去った。真の自由の行方はよくわからない。
 
  新保敦子氏によると、「真木の葬儀の時に、高良留美子が語ったエピソードによれば、真木にはアメリカで結婚しようとしていた恋人がいたが、結婚できず、真木が息を引き取る直前に、留美子は初めて、その人の名字を教えられた」というのである。戦後のことであるから、一旦帰国しても国際結婚はできたろうにと思うのだが、悲劇のヒロインとして人生に幕を引かれたようにも感じ取れる。人生というものは、おそらく辻褄の合わないものなのだろう。
 
< 主な文献 >
・ 高良留美子 : 高良真木という人. 『高良真木画集』求龍堂, 2010
・ 岸見勇美 : 『高良武久 森田療法完成への道』元就出版社,2013
・ 新保敦子 : 日中友好運動の過去・現在・未来―高良真木のオーラル・ヒストリーに依拠して―. 早稲田大学大学院教育学研究科紀要,第22号,51-66,2013
・ 高良とみ : 『非戦を生きる―高良とみ自伝』ドメス出版, 1983
・ 高良美世子,高良留美子『誕生を待つ生命― 母と娘の愛と相克』,自然食通信社,2016
 
 

佐藤哲三「みぞれ」(1953)。晩秋の黄昏の蒲原平野。画面のあちこちに農民たちや牛の姿が見える。


高良興生院・森田療法関連資料保存会の会報「あるがまま」のタイトルの文字の左に添えられている木の絵は、高良真木様が十代のときに描かれたものである。


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