森田正馬の生家を訪ねて、フランス人たちが行く。

2018/06/11



記事内の写真の説明
大阪の「かに道楽梅田店」にて、Nyl ERB女史と。(2018年5月3日)。女史の仲間の
Muriel Falk-Vairant医師(精神科女医)とそのご主人(音楽家)も一緒だった。

 

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   フランス語圏国際PSYCAUSE学会と交流を続けています。
   森田正馬没後80年の今年、7月15日に高知の野市町の生家の近くでの墓前祭などの行事が開催されることを、昨年来一応ニュースとして、PSYCAUSE側に伝えていました。もし、7月のその行事に外国人が参加するならしてもよいが、外国人を受け入れるような特別な準備がなされているわけではありませんと、予防線も張ってきました。
   ところが、日本愛に燃えるユニークな人もいるものです。ラカン派の精神分析家のニル・エルブ女史ときたら、今じゃ森田いのち。いても立ってもいられないのです。7月まで待てない。知人の女性精神科医とその旦那さんを誘って、3人で去る4月下旬から5月上旬まで、日本にやって来て、高知を中心に四国旅行をなさいました。
   もちろんお目当ては、森田正馬の生家とお墓です。確かに生と死は重要なことですから。7月の生家訪問や墓前祭に先駆けて、はるばるフランスから来てくれた人たちがいたことに、森田先生は草葉の陰できっとお喜びで、ニッコニコ。異界で笑顔恐怖の再発に悩んでおられるかもしれません。
   この人たちは、知らない四国をどうやって旅行するのかと、私はしきりに心配してあげたのでしたが、なんと精神科女医さんのご主人が、レンタカーを運転して、四国の田舎も山中もなんのその、ナビを見ながら見知らぬ土地を走り回ったというのでした。
   彼らが本当に森田の生家とお墓に到達したか。野市町を訪れて探しまわり、彼らが撮影した何枚もの写真を、私は記念行事の事務局長の池本耕三様に送信して、鑑定して頂いたのでした。その結果は言いますまい。まあいい線いっておりましたが。
   彼らは四国旅行を終えて、5月初めに最後の滞在地の大阪にやって来ました。5月3日に私は大阪に会いに行きました。彼らは梅田の曽根崎のOSホテルに宿泊していたので、容易に会うことができ、久闊を叙しながら、お初天神通りをぶらついて、「かに道楽」の梅田店に入って夕食を共にしました。連休の梅田の繁華街は人また人。お初天神の境内に入ると人はまばらです。どうしてこんな繁華街に神社ができたのかと、彼らは驚いています。繁華街が神社のそばにできたという見方ができないフランス人です。
   ニル・エルブ女史らは、フランスに帰国してから、高知探検談をPSYCAUSEのボスのボシュア博士に報告したようで、それをPSYCAUSEのホームページに記事として掲載すべく、その書き方について、ボシュア博士から私に相談がありました。しかし、結局彼らの森田生家とお墓の訪問の首尾については、読者に想像を逞しくしてもらうような書き方になりました。
   ボシュア博士の記事の文章とて、これも歯が浮くような書きっぷりです。恥ずかしいのは私ですが、フランス語を読まれる方は、下のリンクよりお読み下さい。これが、森田療法における日仏交流の、ひとつの見本なのです。
   誤解を避けるために、このような見本がすべてではないことを、強調しておきたいと思います。
   それにしても、こんな見本のパターンから窺える、日本愛、森田愛とは何なのしょうか。フランス人精神分析家たちは、自分たちを分析すべきです。
http://www.psycause.info/rencontre-a-osaka-avec-le-pr-shigeyoshi-okamoto-5-mai-2018/

「森田療法保存会」2018年総会・見学旅行参加記―高良武久の真鶴、森田正馬の熱海―

2018/06/07




 

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1.高良興生院・森田療法関連資料保存会
   「高良興生院・森田療法関連資料保存会」という重要な会がある。名称が長いので、略して「森田療法保存会」と言われたり、さらに通称として、「保存会」と呼ばれたりする。高良武久先生と高良興生院に関わる資料の保存に始まって、森田療法関連資料の保存や、森田療法に関する勉強などの集まりの開催もおこなっている会である。新宿区の旧高良興生院の建物の中に、会の本部がある。会員は関東在住者に限定されてはいず、九州にも会員になった人がいると聞いたのがきっかけで、私も数年前に入会させてもらった。この会には、高良先生が健在だった頃の高良興生院での勤務歴をお持ちの、ベテランの先生方が中心にいて下さり、また会の特徴として、組織がゆるやかで、外部との間に垣根がまったくない自由な雰囲気があるのがよい。
   去る5月27日、本会の2018年度の総会兼見学会に参加させてもらった。毎年この時期に総会が開かれるが、隔年に東京から日帰りのできる距離内の森田療法ゆかりの場所を訪ねて、そこで見学と総会が同時開催されているのである。今年は、真鶴半島にある高良武久先生の元別荘、さらに熱海の森田旅館跡地とその近くで森田の縁戚の方が開いておられる喫茶「M&M」を訪ねるという、総会を兼ねた一日旅行がおこなわれた。
 


高良先生の元別荘内の広間での、「保存会」の総会の風景(1)



 

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2. 真鶴にある高良武久先生の元別荘
   真鶴という小さな半島には、一度行ってみたいと思っていた。しかし想像するイメージと実際とは違う。移動する交通手段は車しかないのだが、小さな半島なので、道路まで狭い。高良邸は、半島の高台を登りつめて、そこから急斜面を少し下ったところにあった。傾斜地の上方に、贅を尽くした大きな建物が建てられている。ここに到着するのに、坂道を登ったり下ったり。その内部の大広間で、「保存会」の総会が開かれた。

 


同じく、「保存会」の総会の風景(2)



 
   大広間は、参加した十数人が一緒にゆったりと過ごせる、贅沢な空間である。部屋は海の方に向かって開放されている―、のだが、外には樹海のような木々があって、視界を遮っていて、海は見えない。この建物の管理をしている方が説明して下さったことには、屋外の樹木を伐採して、その始末をするのが何とも大変で、かなりの手前と費用を要したという。総会議事より(失礼)、説得力のある話であった。現在、伐採はされていないらしく、樹木は勢いよく天に向かって伸びている。それが自然の力というものである。高良先生は別荘として、どうしてこのような所を選ばれたのであろう、とつい思ってしまった。鹿児島出身の高良先生は、太平洋の海が恋しかったのであろうか。
 

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3. 熱海の森田旅館の跡地へ
   真鶴半島は平坦な地ではなかったが、熱海はまた、坂道の街である。高台と海岸の間の斜面に、起伏した街並みがある。そんな熱海の風情から、アルジェリアのカスバが彷彿とする。ジャン・ギャバンが主演した古いフランス映画、「望郷(ぺぺルモコ)」の、あのカスバである。
   しかし、実際には、坂道ばかりの街を徒歩で散策するのは、いささかとほほなのだ。森田正馬先生は、昭和8年に伊勢屋旅館を買い取って森田旅館にしたが、既に晩年に近かった。しかも宿痾を抱えている身としては、森田旅館にたどり着くのも楽ではなかったろうと思う。
 


熱海地図



 
   今回の「保存会」の見学は、主に吉田恵子様が企画して下さった。上に掲げた図は、吉田様から頂いた地図を拡大したものだが、そこに示したように(地図の下方)、森田旅館跡は海岸に近いところにある。現在は旅館跡は駐車場になっている。かつてはこの旅館の位置は市街地の端にあたり、海岸に面していたそうである。この旅館跡の前の道路よりも海寄りの地域の街は、後年にできたものである。
 

喫茶「M&M」を訪れたが、この写真は帰るところ。



 
4.熱海の喫茶「M&M」
   海岸近くに新たにできたその市街区域内で、森田旅館跡の前方(地図のさらに下方)に、「M&M」という喫茶がある。その喫茶のご主人は、森田正馬の縁戚(吉田恵子様によれば、正馬の甥孫)にあたる森田幹夫様である。
ご主人が、古いアルバムや森田正馬直筆の色紙、野村章恒直筆の色紙などを見せて下さった。
森田正馬筆の色紙は、写真に撮らせて頂いた。冒頭に掲げたものがそれで、「職業によって人の品性を定むるに非ず 従事する人の品性によって其職業の尊卑を生ず 形外」とある。年月は記されていない。同様のことを書いた色紙が知られており、それには昭和十年十一月と記されている。
 

森田旅館前での集合写真(昭和50年代のものらしい)。右上方に、「森田館」の文字が読める。中央左に長谷川洋三先生、中央右に永杉喜輔先生、後列に野村章恒先生とおぼしき人がおられる。


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   森田幹夫様が見せて下さった写真の中に、重要な人たちが映っている集合写真があった。上掲のものがそれである。鮮明ではないその写真を、さらに撮影した写真なので、残念ながら不鮮明だが、「森田館」の玄関前で撮影されたもので、昭和50年代のものらしい。長谷川洋三、永杉喜輔、そして野村章恒(推定)の各先生方の顔が見える。ほかにも重要な方がおられるかもしれない。
   一見して印象的なのは、熱海の「森田館」で、このような顔ぶれの中に永杉喜輔がいることである。水谷啓二没後において、永杉が森田療法の要人たちとなお交わり、「森田館」を訪れていた足跡に、喫茶「M&M」で期せずして遭遇した。私にとって新鮮な発見であった。永杉と長谷川との交流は、浅からぬものだったことを示す一枚の写真であった。
 
   この日の夜は、このカフェ「M&M」のすぐ近くの海岸で花火大会があり、夕方花火の音が鳴り始めていたが、後ろ髪を引かれながら、帰路についた。

谷中界隈散策―森田正馬参禅の足跡をたずねて―

2018/05/19

   森田正馬が、谷中の旧「初音町二丁目」にあった両忘会に参禅した事実、およびその旧「初音町二丁目」があった町域までは既に突きとめた。しかし、両忘会があった位置をピンポイントで見つけることは未だにできないでいる。
   高良興生院・森田療法関連資料保存会へ行った翌日の5月14日、両忘会のあった場所の特定を持ち越しながらも、谷中界隈を訪れた。
 
 


日暮里駅の東口駅前の猥雑さと正反対に、西口を出ると、雰囲気が変わる。御殿坂を登ると、谷中界隈がある。
 
 

初音小路、三たび。胡麻臭いレトロの雰囲気。
 
 

初音小路を通り過ぎて、「初音の道」を進むと、朝倉彫塑館がある。
 
 

朝倉彫塑館。その後方には、幸田露伴旧宅跡や、北原白秋旧宅がある。
 
 

初音の道
 
 

初音の道には、浄土宗の寺院があるが、これは新築のようである。
 
 

初音の道にあるレトロ調の店。
 
 

初音の道にある「初初音音」(正体不明)
 
 

三崎坂を下ると、山岡鉄舟が開いた全生庵(臨済宗国泰寺派)がある。中曽根康弘元首相や安倍晋三首相が座禅をしに行くことでも知られる。
 
 

全生庵
 
 

全生庵の向かい側に、天龍院(臨済宗妙心寺派)がある。釈宗活老師はここで提唱をおこない、森田正馬はそこに出席したと、日記にある。
 
 

天龍院
 
 

初音の森があった場所。
 
 

初音の森の一部を残し、児童公園になっている。
 
 

岡倉天心記念公園の入り口にある説明。
 
 

同公園内の六角堂
 
 

六角堂内にある岡倉天心像。
 
 

岡倉天心記念公園の入り口付近にある「旧谷中初音町四丁目」の説明
 
 

谷中ぎんざの方から階段を望む。
 
 

夕やけだんだん
 
 

夕やけだんだん
 
 

だんだんの上から谷中ぎんざを望む。
 
 

谷中には愛がある。

森田療法保存会での春の心の健康講座を担当させて頂きました

2018/05/17




   去る5月13日、東京の高良興生院・森田療法関連資料保存会で、ひがメンタルクリニックの比嘉千賀先生とともに、春の心の健康講座を担当させて頂きました。昨年の熊本における第35回日本森田療法学会で、比嘉先生といっしょにおこなったパネル・ディスカッションと同テーマのものを、東京においても再度発表する機会を与えて頂いたのでした。熊本までお越しになれなかった関東地方の方々が、さいわい多数ご出席下さいました。保存会のみならず、生活の発見会や啓心会OBの方々など、森田療法関係者各位が同じ会場にご参集下さったのです。このような場で表記の『社会教育と森田療法の合流―下村湖人らから水谷啓二へ』のような歴史的に意義あるテーマについて述べることができたのは有難くかつ光栄なことでした。
   今回は会場に来賓として、遠路おいで下さった熊本大学藤瀬昇教授や、下村湖人氏の縁戚の中嶋直子様や、永杉喜輔氏のご長男の永杉徹夫様や、社会教育研究者(桐生大学)の野口周一先生や、生活の発見会理事長の岡本清秋様らがご出席下さいました。晴れがましく、かつ実りある会だったと思います。
   講座後には、ご来賓の方々や、増野肇先生や、丸山晋先生といっしょに夕食会へ場所を変えて、奇しき縁で集った一同がしばし交流するひとときを持つことができました。
   この日の自分の発表は、昨年の熊本の学会での発表内容に基づきながら若干の修正や追加を加えたものでした。ここではその全内容を紹介するのを控えますが、冒頭部分のスライドと、最後のスライド(謝辞)だけを次に掲げておきます。
 








 
 
 
 
 

(中略)


 
 
 
 
 




 

   わざわざ東京までおいで下さった熊本大学の藤瀬昇教授が、思いがけずも昨年の学会でのパネル・ディスカッション時の写真を持ってきて下さって、感激しました。その写真を下に出しておきます。
 
   なお、昨年の学会におけるメインテーマであった「森田療法と五高」に関するいくつかの発表を論文化したものを、本にして出版する企画が、藤瀬昇教授を中心に進められています。その本に向けて、自分は、昨年の発表を、より深めた(つもりの)内容の原稿を用意しました。したがって、今回の発表内容は、いずれその出版物にてご一読頂ければ幸いです。

 



みかん山にあった森田療法 ―「煙仲間」の生き証人を訪ねて―

2018/04/19


笑う「みかん山原人」こと、山梨通夫氏。「煙仲間」の元 リーダー、

今「山梨みかんトラストファーム 農園主」。



   少し戯作風に書きはじめます。書くことは、ほとんど信用できます。
 
1.「煙仲間」と森田療法
   皆さまは「煙仲間」をご存知であろうか。ご存知ない。それは残念である。
   では『次郎物語』とその作者、下村湖人をご存知であろうか。イチローなら知っているが、次郎は知らない。作者もご存知ない。いや、それは残念である。
   では永杉喜輔をご存知であろうか。それもご存知ない。いや、ますます残念である。
 

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   それでは、下村や永杉の紹介から始めねばならない。イチローはそろそろ落ち目のようだが、『次郎物語』は永遠なり。下村湖人は、その生みの親である。彼は、佐賀県は神埼町(現神埼市)の出身で、鍋島藩の『葉隠』の武士道精神を、みずからのうちに秘めているところがあった。剣道をたしなんだらしいが、これはあまり上手とは言えなかったようだ。神埼市と言えば、先日、市長選に邪道プロレスの大仁田厚氏が出馬して、落選した。当選していたら、武士道が邪道に変わるところだった。さて下村は作家であったが、社会教育家でもあり、彼は「煙仲間」という、善き人たちの集団をつくった。佐賀の鍋島藩の『葉隠』に出てくる「煙」の語にちなんで、「煙仲間」と命名したのだった。しかし佐賀には忍者がいたそうだから、下村は本当は忍術が好きで、忍者集団をつくりたかったのかもしれない。とにかく、「煙仲間」は善良な人たちの集団であった。
 

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   さて、永杉喜輔は、「生活の発見」誌の誌名の名付け親であり、「生活の発見会」にも関わった人物である。その永杉喜輔は、下村の弟子の社会教育者で、愉快な人だった。そして戦後に、下村と永杉と、加えて水谷啓二の三人が一緒になった。三人とも、熊本の旧制五高の出身者で、永杉と水谷は同級生であった。
 
   皆さまは水谷啓二をご存知であろう。森田正馬の直弟子で、「生活の発見会」の生みの親である。かくして、下村湖人、永杉喜輔、水谷啓二の三人が、戦後の東京で一緒になり、「煙仲間」と森田療法がいっしょくたになった。ちなみに森田正馬先生も熊本五高の出身である。みんなが五高出身者だとは、不思議な巡り合わせである。
 
   下村は昭和30年に世を去った。惜しいことに、水谷も昭和45年に没した。永杉は長生きして、平成の世まで、それも21世紀まで生きていた。群馬大学の教授をしていた人だが、「永杉さん」 と呼ばれて、多くの人たちから慕われた。下村没後には、永杉版の「煙仲間」が静岡で生まれて、会員は全国に広がった。永杉と共にあった長命な「煙仲間」だった。
 
   解散したのは、平成23年で、仲間の中心人物だった人は今なお健在である。静岡で、みかん山農園を営んでいる山梨通夫氏という人である。この生き証人に会いに行った。去る平成30年2月半ばのことだった。


「煙仲間」会報の、永杉喜輔追悼号(平成20年(2008)5月号)


2. 永杉喜輔が来た清水
   永杉喜輔は、群馬大学教授であったが、学識を振り回さず、本音の教育観を臆せずに述べる、「本当のことを言う」人であった。教育学の教授である永杉自身が、「教育用語は、教育界の方言だよ」と言った。象牙の塔の中や、机上の教育用語の羅列の中に、本当の教育はないということを、研究室の外へ出てあちこちで伝えた人であった。
 
   永杉と静岡県の人たちとの最初の縁はどうしてできたのか、知らないが、昭和49年、静岡県青年の船に、永杉も講師陣のひとりとして乗り込むことになった。
   当時、各府県が青年団員などの青年たちを対象に、船で1~2週間かけて、主に外国を訪問する「青年の船」が毎年のように企画されていた。訪問先は主にアジアの外国だったようだが、その国の人たちとの文化交流や史跡の見学などをし、往復の何日間かの船上では、講師たちの講義を聴いて学び、船内で参加者が生活を共にするという、研修体験をするものだった。
 



清水港には国際的なクルーズ船が出入りする。(写真はWikipediaより)。

 

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   静岡県は海に向かって開かれており、清水港は国際港湾で、国際的なクルーズ船が発着する。山梨通夫氏は、昭和49年に、清水港発、静岡県青年の船に参加したのだった。山梨氏は、その船上で永杉の講義を聴いて大いに魅せられる。
   以後、仲間たちと埼玉の永杉の自宅へ押しかけて行ったりして、私淑し、翌、昭和50年より、「煙仲間」を結成して、手作りで月刊の会誌を出し始めた。それは、戦前の軍国主義下で、自由を守るために下村が作った、地下のレジスタンスのような「煙仲間」ではなく、また戦後に下村が雑誌「新風土」を拠り所にして、乱れた人心を正そうとしたようなストイックなものでもなかった。静岡県内を中心に、青年団や青年団OBたちの絆をメインに、他の府県の人たちへと輪が広がっていった。
 
   年に一度は、静岡県で集会を開いていたようで、永杉がそこに来ることもあった。永杉は、ほぼ毎号の会誌にメッセージを寄せていた。会員たちは、それぞれの生活の体験や思いを自由に会誌に寄せていた。自然環境の保護や、原発問題への発言もあった。海外へNGOのボランティアとして参加しながら、現地から便りを書き送って来る人たちもあり、国内、国外でのボランティア活動の情報交換の機能も果たしていたようだ。
 

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   この「煙仲間」の構成は、当初は静岡県内の青年団の絆に発したが、次第に地理的空間を超えて、問題意識を共有するが、しかし互いに温度差があってよい、自由な関係が許容される会という性格を帯びていったような印象を受ける。それは「永杉さん」や主宰者の山梨氏の人柄によるのだろうし、その自由さが「煙」たる、新たな所以になっていたとも言えよう。情報化が進み、地域社会が空疎化していく中で、地縁でもなく、インターネット上でもなく、手作りの会誌でつながる優しさの関係に、癒やされるところがあったのかもしれない。ただし、このような推測は、十分な検証によってはいないことを、付け加えておく。
   会員数は、常時およそ百人以上いたようである。




   中心人物の山梨通夫氏は、元気で人間味のある人で、みかん山でみかんを栽培しながら、東南アジアに仲間を持っており、たびたびそちらへ出かけていく。アフガニスタンや南米にも行ったりする。土着性と放浪癖を併せ持っている。毎月の「煙仲間」の会誌の発行は、欠かさない。永杉は平成20年に没したが、そのときの「煙仲間」誌の永杉喜輔追悼特集号の写真を、先に掲げたが、永杉没後もしばらく「煙仲間」は続けられ、結局平成23年5月号をもって終刊となった。最終号は実に349号に達していた。昭和50年の創刊以来、36年間の長きにわたり刊行を続けられたのであった。
   社会教育研究者の野口周一先生から、この永杉・山梨版の「煙仲間」誌のバックナンバーを閲覧させて頂いた。さらに、山梨通夫氏をご紹介頂いたのだった。

みかん山(山梨みかんトラストファーム)の山荘(ゲストハウス)




3. みかん山での体験森田療法
   長い間「煙仲間」を主宰してきた山梨さんとは、一体どんな人なのだろう。気になっていた。宮澤賢治の童話の「やまなし」のような、不思議な人か? とにかく会ってみたかったので、平成30年2月半ばに静岡へお訪ねした。山梨様の本拠は、清水港の近くで、海に面した「みかん山」であるが、こちらの都合に合わせて、静岡市内まで出て来て下さった。写真を既に冒頭に出したので、その風貌はご覧の通りである。笑ってしゃべって飲んで、笑ってしゃべって飲む。「やまなし」ではなく、「みかん山原人」のような人であった。永杉さんに会い、「煙仲間」を始めたのが、二十代後半で、今は六十代半ばだという。青年団員だった頃の話なども伺ったけれど、とにかくこんな人に会えたことが、何よりも確かな収穫であった。長髪で気取っているのかと思ったら、散髪は年に一度しかしないと言う。会った次の週は、タイの農村に行くとおっしゃっていたから、多分タイで散髪屋に行くのだろう。タイに行きつけの散髪屋があるらしい。静岡市内で会って頂き、翌日はみかん山を訪れるはずだったが、こちらの事情が発生して中止させて頂き、みかん山は幻のままとなった。
 

帰りにみかんを沢山頂いた。これはその一部。



   みかんと共に、「みかん山から」という刊行物を何部か頂いた。「山梨みかんトラストファーム」発行の刊行物で、最新の2018年2月刊のものが、第114 号になっているから、これも「煙仲間」と同じくらいの歴史がありそうだ。
   この「山梨みかん山トラストファーム」にある山荘は、ゲストハウスになっていて、宿泊してみかん山農園で体験作業ができるようになっている。山梨様はあちこちの大学教員たちにも知られており、夏休みには、ゼミの学生たちが泊まりに来る。みかん山は、会員制になっていて、会員に対して、収穫したみかんと「みかん山から」の通信刊行物が届けられる。年に何度かの収穫祭には、会員たちが集まって来る。ほかにも、ワークショップと称して、囲炉裏を囲んで、何やら一緒にやったり、楽器を持って来てかき鳴らしたりしている。
   宿泊滞在は、自炊をせねばならない。風呂も自分らで炊く。便所は、おつりが来る方式のようで、溜まった肥えは農園を肥沃にする。
   ここに泊まりこめば、森田療法以上に森田療法的な生活を体験できるように思う。「煙仲間」は、下村によるもの、永杉によるものと、それぞれ違っても、どこかで森田療法につながってくるから、妙である。
 

   山梨様は、本当は孤独な人なのかもしれない。ふとそんなことを思う。「やまなし」と山梨様が重なる。
   できれば出直して、そんな山梨様のいるみかん山を訪れたいと思っている。
 

   以下、「みかん山から」(トラストファームの会報)に掲載された写真、いくつか。






「森田正馬が参禅した谷中の「両忘会」と釈宗活老師について」の余録(3)―谷中初音町二丁目の古地図とその環境―

2018/03/02


歌川広重 筆「天王寺」 (国立国会図書館デジタルコレクションの『江戸名勝図絵』より)。
五重塔は、幸田露伴の小説のモデルになったが、焼失した。
谷中初音町二丁目は、この天王寺の門前町としてできた区域の一部である。

 

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1. 谷中初音町二丁目の古地図と地籍
   先に示した旧町名地図で、谷中初音町二丁目の全体の位置はよくわかったが、区画内の各地籍はわからなかった。
   国立国会図書館のデジタルコレクションの中に、大正元年の東京市の地籍別の地図を見ることができた。その谷中の地図と、初音町二丁目の部分を拡大した図を、以下に掲げておく。
 


谷中初音町などの地籍地図


 

先の地図より、谷中初音町二丁目を、拡大して部分表示。



 

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   以上の地図より、初音町二丁目の土地は、短冊状に一番地から一八番にまで分かたれていることがわかる。地図上の一部には、所有者として人名や寺院名が出ている。


地籍台帳にある、地籍別の詳細。



 

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   地籍台帳には、地図だけでなく、地籍別の記載があり、初音町二丁目の各地籍ごとの所有者名が列記されている。しかし、両忘庵が使用していた借家の大家の名前がわからないので、ここにおいても残念ながら、番地の特定につながらない。やはり両忘会の番地を知る方向から迫らねばならないようだ。
 

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2. 「初音の道」とその環境
   番地がわからないままでも、なおこの界隈の環境的特徴について知ることができれば、参考になると思う。
   椎原ら(注)は、江戸明治の都市基盤の現在への継承についての研究において、「江戸・明治・大正・昭和の都市基盤が重層的に残る台東区谷中界隈」を対象として取り上げている。さらに町並みについては、「門前町屋型」の地区として、谷中の尾根道である、通称「初音の道」沿道に注目している。ここは、傾斜している谷中の町側からも、日暮里側からも高台にあたり、尾根を形成していて天王寺のへの参道にあたる。この沿道の東側が、谷中初音町二丁目なのである。著者らは、東側については、「天王寺の門前町として江戸初期から形成され、短冊型の敷地に表店と裏長屋で構成されていた」としているが、東側の敷地のすべてがそうであったとは限らない。
   さらに、西側および沿道一帯についての記載があるので、引用しておく。
 
 「西側沿道は、江戸期に谷中に転入してきた寺院が並び、その山門参道脇のひと皮の敷地を門前町屋としているケースが多い。西側北部は組屋敷があったところで、江戸の朱引線の際にあたり、やや不定形の街区に細工職人や歌舞伎役者などが住みこんでいた。明治になってその奥の村分地も宅地化され、路地が奥まで入り込んでいる。一帯は、江戸期から職人、芸人層が多い地区だが、明治になって上野が芸術の中心地になったことに呼応し、芸術家や作家などの文化人も多く居を構えた。」
 
   門前町屋型の、この「初音の道」沿道の東側が主に初音町二丁目で、向かい側は主に上三崎北町だったが、沿道は一体のものである。この界隈は、天王寺の門前町で、かつ寺町であり、町屋が並び、職人や芸人が住んでいたという町内の雰囲気が伝わってくる。
   やはり釈宗活老師に似合いそうなな場所柄である。
 
注 ) 椎原晶子、手嶋尚人、益田兼房 : 江戸明治の都市基盤継承地区における歴史的町並み、親しまれる環境の継承と阻害 ―台東区谷中 ・初音の道地区を事例に―. 2000年度第35回日本都市計画学会学術研究論文集 ; 799-804.
 

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明治時代の谷中天王寺の五重塔。
国立国会図書館デジタルコレクションの『東京景色写真版』(江木商店刊、明治26年)より。

 

「森田正馬が参禅した谷中の「両忘会」と釈宗活老師について」の余録(2)―湯屋の二階での禅―

2018/02/23


岡本綺堂は『風俗 明治東京物語』で「湯屋の二階」について書いている。



 

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   森田正馬が参禅した、谷中初音町二丁目の両忘会(両忘庵)は、二丁目内のどこに位置する、どんな建物だったのであろうか。ここまで調べれば、あと一息、その場所を突き止めたいものである。
   ところが、「釈宗活」に関する Wikipedia のページ内に、谷中初音町にあった両忘庵(両忘会)の建物に関する不可解な記載があるので、これを指摘して、説明を加えておかねばならない。
 
1. Wikipediaの問題の箇所
   釈宗活の生涯の項に、次のように記されている。
 「…2年間海外旅行を続け、1900年、帰国。日暮里駅の谷中墓地側の谷中初音町の湯屋の二階に居を設け、布教活動を開始した」。
   そしてこの文末に、その出典として、サイト人間禅擇木道場(下記のホームページ)が示されている。
 
http://takuboku.ningenzen.jp/modules/pico07/index.php?content_id=4
 

   しかし、このホームページには、谷中初音町についての記載はない。そればかりか、冒頭に、「『東京第一支部30年史』に記載されている文章から擇木道場の歴史を掲載します。」とあり、引き続き、その掲載文は、次の文で始まっている。
 
  「両忘会を再興した釈宗活老師は明治33年山谷の湯屋の二階に住まわれ、40数名の居士、禅子に法話をし参禅を聴きながら、自ら毎日巡錫されました。」
 
   出典として置かれているホームページが、Wikipediaに記載されている文章を支持していないのである。谷中初音町に両忘会があり、そこは湯屋の二階であったなどと、記されてはいない。加えて、最も初期には、釈宗活老師は山谷の湯屋の二階に住まわれたのであった、という素朴な記載が出現するので、それこそが事実であったと受け取れるのである。


サイト「人間禅擇木道場」の最初のページ(部分を表示)



 

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2. 湯屋の二階について
   インドやスリランカでの滞在から明治33年(1900年)に帰国された釈宗活老師が、山谷の湯屋の二階を仮寓にされたということは、隠すべきようなことではない。山谷は下町ではあったが、古地図を見ると当時の山谷の地域は広く、後年の山谷と雰囲気を異にする情緒があったようだ。
   加えて、湯屋の二階なるものには、江戸以来の風俗的な歴史が残っていたけれども、それは明治20年頃には閉じられている。従って、空き部屋になっている二階を間借りして、草庵にすることができたと理解すべきであろう。
   元はと言えば、湯屋の二階は、江戸の庶民の銭湯にまつわる風俗文化のひとつであった。
   岡本綺堂の『半七捕帳物』の中には、「湯屋の二階」の一編がある。また、岡本綺堂の『風俗 明治東京物語』には、湯屋の二階について記されているくだりがあるので、引用しておく。
 

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  「『浮世風呂』などにも湯屋の二階のことが書いてあるが、その時代の二階番は男が多かったらしい。ところが、江戸末期から若い女を置くようになって、その遺風は東京に及び、明治の初年にはたいていの湯屋に二階があって、そこには白粉臭い女が控えていて、二階に上がった客はそこで新聞を読み、将棋を指し、ラムネを飲み、麦湯を飲み、菓子を食ったりしていたのである。
   しかし、風紀取締まりの上から面白くない実例が往々発見されるので、明治十七、八年頃から禁止されてしまった。」
 

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   湯屋の二階とは、風呂上がりの男たちが階段を上がって、そこにたむろして、飲食や世間話をしていたが、風紀的にも問題のある場所だったようなのである。
   山谷なら、江戸以来のそんな銭湯文化が続いていたであろうが、二階での営業を禁じられた湯屋が、宗活老師に二階を貸したのである。
 
   一方、釈宗活老師が、アメリカから帰朝した明治42年頃に、谷中初音町二丁目で、湯屋が二階の間貸しをしていたかという疑問がある。谷中初音町二丁目について調べてみると、ここは江戸時代には天王寺の門前町の一部をなしていたらしい。それが明治の初期に、初音町が起立された際に、その二丁目として谷中に編入されている。したがって、江戸時代から住宅はあったようだが、ここは上野の高台であり、かつ寺院の門前という環境である。湯屋の二階なるものは、江戸の下町の銭湯文化が明治にまで残ったものだったが、遡って江戸時代といえども、この区域には、湯屋と湯屋の二階の営業は馴染まなかったように思われる。それゆえ、湯屋の二階の営業が禁止される明治十七、八年頃以前にも以後にも、二階の営業もおこなう湯屋が谷中初音町二丁目にはなかったと考えるのが自然である。
   森田正馬が明治43年に参禅した、谷中初音町二丁目の両忘会が、もしも湯屋の二階にあったのなら、それはそれで面白いことだが、残念ながら、そのような場所に両忘庵があった可能性は低いのである。
   むしろ、釈宗活は、山谷の湯屋の二階を庵とするほどの粋人だったのだろう。森田正馬もまたしかり、湯屋の二階で、下の浴場を気にしながらの座禅も、森田の好むところではなかったろうか。そんな風流な環境の両忘会だったらよかったのである。
 

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   大山鳴動して、あまり生産的なことが出て来ず、Wikipedia上の記事の一部が、事実に立脚していないことを、明らかにする結果となった。
   要約すれば―
   まず明治33年にインドやセイロンから帰国した釈宗活老師が、山谷の湯屋の二階を仮の草庵にしたという、人間禅擇木道場のサイトの記載は、そのまま受け入れるに足る。
   両忘会が谷中初音町(二丁目)に設けられたのは、宗活老師がインドなどから帰国された明治33年ではなく、アメリカから帰国された明治42年(またはその翌年の明治43年年初)のことである。
   谷中初音町二丁目は、地理的環境から湯屋の二階があった地域とは考え難く、ここでの両忘会が湯屋の二階にあったという記述は不自然であるし、その根拠もない。
 
   Wikipediaに書き込みをなさるのは、釈宗活の研究者か、あるいは人間禅の関係者の方ではなかろうかと推測する。ここに敢えて、記述に信憑性に欠けると思った点を指摘させて頂いた。
   こちらの指摘が誤りであれば、こちらこそ非を認めて、訂正せねばならないと思っています。
 
   いずれにせよ、釈宗活老師の生涯に、ひいては森田正馬の参禅にかかわる重要なことなのです。

「森田正馬が参禅した谷中の両忘会と釈宗活老師について」の余録(1)―初音町、両忘会のあった場所―

2018/02/02


「一華五葉」の表紙 (題字と絵は釈宗活によるものか)



 

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   森田正馬は、明治43年に、谷中初音町にあった両忘会の釈宗活老師のもとに参禅した。このことについては、第35回日本森田療法学会(熊本)で、一般演題としてその概略を報告した。ただし、掲げたテーマについては、多くの内容が含まれており、短時間で発表しきれるものではなかった。余録として、いくつかの問題を取り上げて、書き加えることにしたい。
 
 

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1.両忘会の由来
   両忘会という在家禅の会は、山岡鉄舟らによって明治8年に創設され、今北洪川を湯島の麟祥院に拝請して開かれたものであった。その後途絶えていたが、釈宗演老師の命を受けた釈宗活老師により、明治34年に両忘会の復興が果たされたのであった。
  
 
2.両忘会(両忘庵)の場所の変遷
   在家主義の禅会であるから、本拠地を寺院に置くはずのものではない。釈宗活老師は、まず準備期間として明治33年に、山谷の湯屋の二階を借りて住み、世情を観察して、訪れる少数の人たちに禅の指導をした。
   翌年より正式に両忘庵を開くことになるが、根岸、日暮里、谷中と、いずれも借家を転々としたようである。その正確な把握が難しくて悩まされた。だが、釈宗活老師は過去を回顧する講演を昭和九年におこなっており、その講演の記録を再録した文献(注)に遭遇した。それを一読したところ、その中に、両忘庵を開いてからの場所の移動について、宗活老師がみずから述べた記録に接することができた。主にそれによって判明した場所の変遷を整理すると、およそ次のようである。
  
(1)明治34年、根岸の里、御隠殿坂の辺りに、仮の草庵。
 
(2)狭隘になったので、日暮れの里に居を移した。
 
(3)更に日暮里で再移転(四百余坪の広い地所)
※明治38年に、平塚らいてうはここに参禅している。
◆宗活老師は、明治39年から42年まで、布教のため渡米。
 
(4)帰国後、谷中初音町に家を借り、法を挙揚し、参禅を聞いた。
◎森田正馬が明治43年に参禅したのは、谷中初音町のこの両忘庵である。
 
(5)大正4年に、田中大綱居士が、天王寺町に道場を新築して、寄進した。
  
注) 人間禅教団三十年史編纂委員会 編『人間禅教団三十年史』人間禅教団 刊、1978
  


旧町名地図上の谷中の「初音町二丁目」 (赤く塗った部分)



 
 

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3. 谷中初音町二丁目
   森田正馬は日記に、谷中初音町の両忘会に参禅したという記録を残しているが、どんな場所だったのだろう。それはわれわれにとって大きな関心事である。初音町は、現在の谷中には存在しない古い町名である。台東区の旧町名の地図で、その存在を確かめることができた。初音町は明治の初期に居住地として開発されて、谷中地区に編入された地域である。しかし、その初音町は、一丁目から四丁目まで、大きなエリアにわたる。
   さいわい、昨年擇木道場の杉山呼龍先生にお訊ねした際、初音町の両忘会道場は「二丁目」にあったらしい記録があると教えて頂いた。臨済宗円成会青年部が明治45年に発行した刊行物、「一華五葉」にそのような記事が見えるとのことであった。
 「一華五葉」については、国会図書館の蔵書検索をしたところ、デジタルで閲覧することができた(古い貴重な文献は、デジタル判をネット上で閲覧できるようになっている)。 円成会とは、東京市内の禅僧たちの組織で、その青年部の刊行物が「一華五葉」だが、定期刊行物でもないようで、まさに一度だけ咲いた華なのか、よくはわからない。ともあれ、この表紙には、「宗」「活」と判読できる印のある「一華五葉」の題字と、やはり「宗活」の署名のある「慧可断臂図」が出ている。内容としては、冒頭に、釈宗活による「佛成道法語 大燈国師臘八上堂」という提唱の文が寄稿されている。宗活は、明治45年の「新年頭の雑誌刊行するにつき…提唱筆記を寄贈して呉れとの依頼からこれを掲載することに致した」と書き始めて、大燈国師の法語についての提唱を綴っている。また鈴木大拙や釈宗演の寄稿文も掲載されている。
   そして刊行物の末尾の「彙報」欄に、「両忘會」の案内があり、次のように記述されている。
  「谷中初音町二丁目両忘庵にあり毎月五日より五日間と廿二日より三日づつ釈宗活老師が槐安國語を講ぜられ亦接心會がある。會員は帝大の學生が割合に多いとの評あり。亦會には輔教會なる後援会があって仲々盛大な方である。」
 「輔教會」とは居士たちの会であろうか。ちなみに、資産家の田中大綱居士が、大正4年に天王寺町に道場の建物を新築して寄進している。谷中初音町二丁目の借家の建物は、道場としては十分なものではなかったと推察される。しかし、周囲の環境はどうであったか、不明である。二丁目であったことは判明したので、台東区の旧町名の地図上に、二丁目の部分を赤く塗って、その位置を示した。山手線の日暮里駅の西側の後方にあたる細長くのびた区画である。
   その中のどこかにあった両忘会の場所と環境はどうだったのだろうか。昨年その地域を歩いてみたが、商店などは少ないひっそりとした家並みであった。もちろん、昔の風情がどれだけ残っているのか、わからない。またもし両忘会のあった番地を突き止めることができて、そこに相当する現在地をピンポイントで特定できても、建物や住人は変わっている筈である。しかし、その場所を特定することで、あるいは何らかの情報の入手につながるかも知れない。
   森田正馬が参禅した、おそらく唯一の禅道場の場所を知ることに、なおこだわっている。
   両忘会の場所として調べるよりは、そこに住んでいた釈宗活の住所を、住民台帳で調べることもできるはずである。
   以上は未完の調べの報告である。
 


初音小路は、旧初音町二丁目と三丁目の境目くらいにある。

ディープな東京の風情を残している。                              


謹賀新年

2018/01/05



社会教育としての森田療法 ―理解と伝え方の難しさ ―

2017/12/26




 
1. 海外からの反応
   前回、PsyCause(フランス語圏国際学会組織)へ森田療法についての最近の情報を伝えて、それがこの学会のホームページに掲載されたことを記した。この学会は、フランスだけに限らず、フランス語圏であるから、ホームページの記事は多くの国々の人たちに読まれる。果たして、フランス以外の国の人たちから反応があった。
   カナダの精神科医で、先住民の文化についての研究者であるという人から連絡が届いた。モンゴルのシャーマンについての研究のため現地調査に赴いて、帰国したばかりだが、森田療法に関心があるというのだった。森田正馬が、かつて郷里の土佐の犬神憑きの調査研究をしたことを知ってのことだろうかと、驚いた。あるいは、森田の写真から、シャーマンのような印象を感じ取ったのだろうか。モンゴルにはシャーマンが多く現存しているようであるし、このカナダの医師とは交流したいが、今はやり取りを中断しているところである。
   困ったのは、アフリカのコートジボアールの心理学者から届いた質問である。

 

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2. コートジボアールからの質問
   コートジボアールは、以前は象牙海岸と呼ばれたアフリカ西海岸の国だが、字の通りに訳語を当てると、国名が表意的になるので、それを避けて表音的に、コートジボアールと呼ぶことになっている。この国の最大都市、アビジャン Abidjan の大学の女性心理学者から、自身が従事しているらしい依存症、とりわけアルコール依存症の治療に関する質問が来た。このような患者の「社会的自己」が「人間的自己」を取り戻すようにするにはどうすればよいか、治療者として考えているのだが、森田療法からの提案をもらえないかと言うのである。
   アビジャンは人口も多く、近代化した都市で、アルコールの誘惑に負ける人たちが少なからずいて、治療に困難を抱えているのであろうと想像できる。したがって、これは尤もな質問である。
   しかし、社会教育との関係に立ち戻って、森田療法の本質を取り戻す必要性を言おうとした私の論旨に対して、噛み合うところがない。この質問者が、「社会的自己」と言うとき、社会は、人間が欲望に負ける悪の装置のような意味合いが強い。社会教育と言う場合の社会は、社会悪も含めて、時代により、文化により、変数となりうる社会を、例外なく意味する。厳しいがそう言わざるを得ない。
   このアビジャンの質問者は、自分がおこなっている治療法や、そこで工夫していることや、直面している困難について、書いておられない。森田療法は必ずしも、ある精神療法が奏功しない場合に、それに取って代わろうとするものではなく、治療者を励ますものになりうる。また、もしも精神療法を阻む要因が、制度や行政など別のところにあるならば、そちらに目を向けるのもまた、森田療法であろうと思われる。
   アビジャンからの質問に齟齬を感じながら、考えを重ねて、長い回答文を書いた。たどたどしいフランス語作文なので、そのままお目にかけられない。書いた作文の要点のみを、日本語に戻して、次に示しておく。

 

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3.治療者の「自己教育」について―質問に答える―
   森田療法のことに目を留めて頂いたのを感謝します。一見ありふれた質問を頂きました。しかし、ありふれたかに見えるこのような質問こそ、基本的な問題にぶつかるため、答え方に困って返事が遅れてしまいました。
   その基本的な難しさは、二段階にわたります。
   第一に、問題は森田療法の本質的なところにあります。この療法は、大まかには精神療法の一種ですが、厳密な意味では、人間の教育なのです。創始者の森田自身、療法の教育的な面を強調しました。症状を治すことをこの療法の目的としていず、人間的成長をはかることを重んじています。その成長の体験の中で、症状を治すという課題は、いつの間にか解消していくのです。このような視点から、治療者も患者も、症状を治そうとすることを、忘れねばなりません。しかし、それは治療者患者関係、もしくは師弟関係を破棄することを意味しません。早く症状を治してやろうとする関わりは、優しいが安易な愛にとどまりますが、社会の中で、人格が陶冶されていくのを、根気よく応援し、あまり手助けしない慎重な関わりには、深い教育的な愛があります。
   第二には、今日的な問題があります。森田療法を生んだ日本においてすら、上述のような森田療法の本質が軽視され、性急に症状を治そうとする風潮に流されて、森田療法の名の下に、しばしば他の対症療法がおこなわれています。森田療法と他の療法の併用や混合なら、それもいいでしょう。しかし、森田療法と他の療法の混同に至っては、容認し難いものです。
   だからこそ、森田療法は、教育、とりわけ社会教育に通じるその本質に回帰すべきなのです。日本においては、歴史的に、西洋から導入された学校教育制度が、社会の中での教育を置き去りにした経緯があり、その教育の危機を救うために、社会の中での学びの復権を目指して、社会教育の気運が高まり、それが継承されてきたのです。ところが、この社会教育も近年低調になるばかりです。
   だから、今こそ、森田療法の分野でも、教育の分野でも、社会教育の重要性を想起し、社会教育の復興をはからねばならないのです。
   そうは言っても、教育は難しいものです。とりわけ、他人を教育することは困難なことです。それに反して、自分を教育することは、不可能なことではない。そして、自らの教育(自己教育)に打ち込み続けることが、他者に対する教育者あるいは治療者となりうる資質の涵養になります。
   例えば、日常生活の中で必要なことをするということは、人間として当然求められることです。より卑近な例として、日常生活の中で、便所掃除は必要不可欠なものです。それをしない者、あるいはそれをしたくない者に、人の教育や治療に当たる資格があるかどうか、言うまでもないことです。
 
   このような答え方に対して、不快に思われるかもしれません。しかし、精一杯に考えて、ここでは率直に答えることにしました。ご賢察願います。
 

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4. 便所掃除の復権を求めて
   アフリカから届いた質問への答え方を、長い間考えあぐね、返事の作文を練ってメールをようやくあちらに送信した。そしたら、直ちに相手から電報のように短い受信の通知メールが来た。コートジボアールのアビジャンの便所の事情はどうなっているのだろうか。この人は便所掃除をしているだろうか。この奇妙なやり取りは、PsyCause の代表者のボシュア博士も把握しているから、このボスがどのような反応を示すか、見ものである。今のところ、ボスは沈黙を守っている。
   一方、日本の社会教育の専門家の方々とやり取りをしているが、こちらにおいても、教育者の自己教育や便所掃除の問題は、いまだに俎上に上らない。小金井の浴恩館で下村湖人が、黙々と便器の掃除をしていた光景を思い浮かべるのは、私だけではなかろうと思うのだが。

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