PRESENTATION DU MONASTERE RYUMON JI, TEMPLE ZEN (禅寺 龍門寺の紹介)

2020/08/25



 

 


 

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 森田療法に関心を有しておられるフランス人精神分析家(ラカン派)のニル・エルブ Nyl ERB 女史から、メールが届きました。PSYCAUSE というフランス語圏の国際学会の開催を6年前に京都で引き受けたことがありましたが、女史はそのときの参加者のひとりで、以来継続的な交流をしています。2年前、高知で森田正馬没後80年記念祭が開催された折り、その3ヶ月前にフランス人仲間と来日して高知に行き、大阪にも立ち寄られて、会いました。
 親日家で、森田療法や森田が調査をした土佐の犬神憑きにも、文化人類学的に関心を示しておられます。
 しかし、こと森田療法というものは、日本の文化的背景や治療理論に通じ、かつその臨床的経験なくして、わかるものではありません。そのため模索を続けてこられました。今年はまた、別のフランス人と一緒に日本に来られる予定だったのですが、COVID-19 のパンデミックのために、来日できなくなりました。
 女史は、「自分はこれまで自己分析を続けてきたが、その結果として自己分析をやめるのがよいという結論に達した。そのため、自分はこの機会にフランス国内の禅寺に入って禅体験をすることにする。そしてその後で、改めて森田療法に体験的に接近をはかりたいと思う」とメールで伝えてこられたのです。私は、これに対して大いに賛同の意を表しました。
 女史が在住しているコルマールはアルザスの一都市ですが、同じアルザスのストラスブールの郊外に、曹洞宗の RYUMON JI(龍門寺)という僧院があります。弟子丸泰仙老師の弟子に当たる禅僧が責任者を務めておられます。
 
 ニル女史は、自分が修行を予定している、この RYUMON JI 龍門寺の視聴覚的な紹介のドキュメントを送ってくれましたので、以下にリンクをつけておきます。是非開いてご覧下さい。動画もついています。フランス語の不得手な方でも、視覚的にこの禅寺の修行の模様がわかります。
 「オンライン禅」までありますから驚きます。新型コロナの感染防止のために急遽「オンライン禅」を始めたのではないようです。フランスでは、かなり以前から、学会でもスカイプを駆使していました。フランスはそんなオンライン大国なのです。
 そのうちにフランスで、オンライン入院森田療法ができるかもしれません!!
 
 リンク(RYUMON JI 龍門寺の紹介)
 
 
 さらに、このホームページの中に、6年前にニル・エルブ女史ら、フランス人が京都での学会に来たときの記事や、2年前に大阪で会ったときの記事がありますので、以下にそれらへのリンクもつけておきます。
 
 リンク(2018年、大阪)
 
 リンク(2016年、京都)

下村湖人がつくった「煙仲間」について

2020/08/23



 
 
下村湖人がつくった「煙仲間」について

 
 比嘉千賀先生が「生活の発見会」50周年記念講演の中で、下村湖人が社会教育活動の中でつくった「煙仲間」についてお話しになりました。この「煙仲間」については、私(岡本)自身、下村らの社会教育活動の流れをたどって報告をして来た中で述べたものですので、この「煙仲間」とはどのようなものであったか、責任上少し説明を加えることにします。
 
 「煙仲間」の由来は、戦前に田澤義鋪がつくった「壮年団」という、青年団を卒業した二十代後半以上の人たちが共に活動する集団に発する。戦時下で、自由と社会的良心を守ろうとしたこの活動は官憲に抑圧され、翼賛会に乗っ取られたために、下村湖人が協力して名称を変えて、この壮年団運動を引き継ぎ、存続させたのだった。
 下村湖人は、佐賀藩の「葉隠」の中にある歌から「煙」という文字を取って、集団の名称を「煙仲間」とし、活動の中身が見えないようにしたのである。その中身とは、軍国主義に反対し、人間の自由を尊重し、良心を持って地域や社会に貢献しようとしたものだった。
 
 敗戦で一旦潰えた「煙仲間」を、下村らは戦後に再び復活させた。新たな「煙仲間」も社会の良心、人間の自由と尊厳を守ろうとする点で戦前と同じ趣旨を貫いていた。ただ、戦前においては、右翼や戦争に走ろうとする軍部へのレジスタンス的な地下活動の色彩が濃かったが、戦後は逆転して、自由放逸、エログロの退廃的風潮に対して、道徳や倫理の回復、教化をはかろうとするものであった。「煙仲間」の拠り所は、常に社会の良心、人間の自由で、社会の精神がブレたらそれを真ん中へと正そうとするものであった。戦後においては、戦前のような弾圧はなくなっていたので、地下組織である必要もなくなった。しかし、履き違えられた自由の奔流を正す活動は時流に敗れて、活動は消滅していったのだった。
 
 そこで、改めて「煙仲間」とは、集団として如何なるものであったのか―。
 社会学や社会心理学の概念として、「準拠集団」というものがあり、「煙仲間」はひとつの準拠集団に当たるというのが私の見方である。「準拠集団」は “Reference Group” で、個人が集団の特質、規範、価値観などに refer し、それを自分の拠り所として摂取し、共有する、そんな集団のことである。「準拠集団」は「所属集団」に相対する概念である。「所属集団」とは、個人がある集団の静的な成員であるという、固定的な概念であるが、それに対して、集団の特徴や機能と個人が有機的関係で結ばれるのが、「準拠集団」である。
 所属集団は準拠集団と別であったり、同じであったり、部分的に重なったりする。例えば、大学や学校の学生、生徒は基本的に大学・学校という所属集団の一員である。校内の部活をしていれば、所属集団内のサブ集団が準拠集団である。学校外の暴走族に憧れ、そこに入っていたら、それが準拠集団である。
 
 煙仲間の場合、壮年団ないし青年団と煙仲間は、ふたつがほぼ重なっていて、所属集団と準拠集団がほとんど同じであった。
 「生活の発見会」の場合は、近年神経症の自助グループを標榜し、社会的にもそのように認知され、かつその成果を挙げ続けている集団なので、固定的な所属集団ではなく、準拠集団であるとみなすのが妥当である。ただ、自主的判断能力を欠く人が、神経症なら入会する会と考え、漫然と会員であり続けておられたら、当人にとって形だけの所属集団でしかなくなる。その辺のことは私にはわからないので、実態を云々し、生活の発見会の機能や活動についてものを言う資格は私にはない。言えることは、自助グループであれば、それはすなわち準拠集団にほかならず、準拠集団であれば、集団の質や機能や活性が、集団対会員の相互関係において、重要であり問題になるということである。一言で言えば、集団力が問われるということになろう。個人が自己向上を求めて、自分に合う準拠集団を求めているとする。そのニーズに合う集団の条件はどのようなものであろうか。準拠集団は複数あるかもしれないが、安易な意味においてではなく、自分を生かし、他者を生かし、自分たちも集団も互いに向上成長しあっていく、自由と活力のあるそのような準拠集団であることが、集団として基本的に求められる。その上に集団の特殊性が上乗せされる。そのような準拠集団が、クオリテイの高い魅力ある集団として、社会的に機能することができるであろうし、選ばれて然るべきであろう。
 
 医療としての森田療法と、生活の発見会は同じものではないでしょう。従って、生活の発見会は療法の会ではなく、生活の面において人間的に成長していこうという、つまり下村が言った「社会の良心」を共有して、社会に寄与する志を実際に生かそうとするのが、特徴であるはずではなかろうか。
 
 久田邦昭氏(教育学者)は、著書『教える思想』の中で、集団論の見地から、煙仲間は「メタ組織」だと言っている。これは、煙仲間という集団が一般社会に寄与するときの力動についての説明である。いざというときには、各人の所属集団の規範とは関係なく、発生した当面の問題の解決のために急遽、あたかも「自己組織化」して、組織を組み協力して活動し、目的を果たしたら平時に戻る。平時においては、趣味の会であれ、ボランティア仲間であれ、ゆるいつながりを持っている。それぞれが同じ所属集団にいるとは限らない。このような煙仲間は、未だ組織になっていないものだし、下村の言う社会の良心(純な心) だけは共有するが、ボーダーレスなゆるい集団と見て、私は「メタ集団」とみなしているが、「メタ組織」と呼ばれても、大きくは異ならない。
 思想、理想、感性などが関わるので、その点も難しいが、煙仲間の場合、歴史的には、社会の良心(純な心に相当するであろう)、友愛、自由、向上心、成長欲求、などを本質に置く必要があった。
 
 今日、コロナが広がっている社会で「自粛警察」が現れたが、これなどは異常な準拠集団ではなかろうか。

生活の発見会50周年記念講演(比嘉千賀先生)

2020/08/05



 

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 8月に予定されていた「生活の発見会」総会の開催が中止になりましたが、比嘉千賀先生による記念講演だけは、オンラインで配信されています。
 
 私(岡本)は以前に短期間、「生活の発見会」の協力医をさせて頂いた程度のご縁しかなかったのですが、「生活の発見会」の歴史に関心を持ち、それを拙著(「忘れられた森田療法」)に書きました。
 発見会のルーツは2つあって、ひとつは水谷啓二先生の「啓心会」の活動でしたが、もうひとつ、下村湖人らの社会教育の活動の流れもあって、これらの2つが合流して大河のようになったのが、最初に誕生した「生活の発見会」だったのです。
 社会教育の流れとは、森田正馬に10年ほど遅れて、熊本五高を卒業した、田澤義鋪、下村湖人、永杉喜輔の3人が戦前より順次関わり続けた、社会の中の教育運動でした。下村や永杉は、その活動を戦後に復活させました。永杉と水谷啓二は熊本五高での同級生でしたが、そんな折りにふたりは再会して、下村、永杉、水谷は意気投合します。こうして、社会教育と森田療法が合流して、「生活の発見会」になったのでした。
 森田正馬を筆頭に、田澤、下村、永杉、水谷の5人の人たちは、皆が旧制五高の出身者だったのです。
 
 3年前の2017年、日本森田療法学会が、熊本大学で、会長をなさった藤瀬昇教授の下で開催されました。そのとき、熊本五高出身者たちによる社会教育と森田療法の合流について、比嘉先生と岡本によるパネルディスカッションが組まれました。
 
 このたびの、生活の発見会50周年記念講演で、比嘉先生は3年前の学会でのパネルディスカッションの内容を再現する意図でお話しくださったのです。
 
 比嘉先生のオンラインでの講演は、「生活の発見会」のホームページから視聴できますが、以下にリンクをつけておきます。
 


リンク(生活の発見会ホームページへ)
 
リンク(YouTubeへ)

 
 
 さらに、熊本での学会の翌年の2018年に、熊本大学の藤瀬教授を中心に、『森田療法と熊本五高』と題する単行本を出しました。そこには、私たちがパネルディスカッション後に新たに書いた原稿が含まれています。比嘉先生のオンライン講演の視聴とともに、併せて読んでいただければ、幸いです。
 なお、この本の入手について、「お知らせ」に書いておきます。
 
 

コロナ危機の時代の森田療法(下) ―問われる森田療法の真贋―

2020/07/13



 

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コロナ危機の時代の森田療法(下)
―問われる森田療法の真贋―


 
1. オルテガ、西部邁の哲学と五木寛之氏 ―“Together and Alone”から“Alone and Together”へ―
 
 アフター・コロナ、あるいはウイズ・コロナの時代の人間の生き方について、五木寛之氏が言っておられることがある。それは、オルテガという20世紀のスペインの哲学者の思想を受けて、わが国の哲学者、西部邁氏(1939-2018)が書いていたことに関連する。
 
 ホセ・オルテガ・イ・ガセットは、著作『大衆の反逆』で、大衆による民主主義が暴走する状況を危惧し、それに対して、他者と対話し共存しようとする忍耐や寛容さを有する人の存在を、精神の貴族として重んじたのであった。わが国で西部邁は『大衆への反逆』を著しており、オルテガの思想に共鳴した哲学者として知られていた。西部はみずから精神の貴族の立場にいた人であった。ところが晩年において、その孤高の精神は救いがたい孤独となり、2018年に自裁(自死)を遂げた。それも多摩川べりを場所として選び、そこでふたりの弟子に自殺幇助をさせたという、いわくつきの自裁であった。西部はその前年に、自分の死の予告と決意の原稿を雑誌「正論」に寄せており、一年後に実行された彼の死を受けて、同誌の追悼特集に先の原稿(注1)が再掲載されたのである。
 
 五木寛之氏はこの遺稿を読み、西部がオルテガを引用しながら書いていたくだりに注目したと、いくつかの場で言及しておられる。そこで西部のこの遺稿を入手して読んでみたが、全体において既に自虐的な異様な文章である。自分は生涯を通じて、他者との団結を求めてエッセイを書き続けてきたにもかかわらず、何ぴととも団結できなかった自分を揶揄することができる、というような論調の文章なのである。その西部の遺稿中で、五木氏が注目したという箇所のみを、以下に抜粋引用しておく。
 
「(オルテガいうところの)「トゥゲザー・アンド・アローン」つまり「一緒に一人で」いるしかないのである。言い換えれば、「社交にのめり込みつつも内心ではつねにぽつねんとしている」ということだ。」
 
 このような文には、もはや精神貴族(ノブレス・オブリージュ)の誇りはなく、そこにあるのは、誇りの残渣と高齢のうつ病者の自嘲である。しかし、五木氏はこの文を読んで、「これだ」と思ったという。
 西部は、オルテガいうところの「トゥゲザー・アンド・アローン」と書いている。オルテガはそのような表記をして、しかも「一緒に一人で」、「内心ではつねにぽつねんと」というような意味を込めていたのだろうか。厳密に点検することが望ましい。オルテガの著作はスペイン語であるから、英訳書に“ Together and Alone ”という謳い文句的な表記があるかどうか、少し探したが、これは不明のままである。したがって、そのフレーズの有無や意味について、傍証を得られないが、死を予定しながら西部がオルテガを引用している文章を、そのまま受けとめておく。
 そして、五木氏の読み方を推測してみる。五木氏は、オルテガの系譜から西部を一旦切り取って、群集の中にいながら孤独に生きる者が体験する苦悩を西部に見た。そしてそこから折り返して、孤独者のままで大衆の一員になりきれば、一緒に生きる道が開ける可能性に着目したのではないか。五木氏は、「これだ」と思ったのである。そして、“ Together and Alone ”(「一緒にひとりで」)から “ Alone and Together ” (「ひとりで一緒に」)へという逆方向の道を示したのである。うつ病にとらわれた西部は力尽きて、死後に五木氏にヒントを提供したのであった。本当は、大衆の中で、ひとりぽつねんと生きるのではない、孤独を秘めながら大衆と生きるのであると。
 
 アフター・コロナ、あるいはウイズ・コロナの時代においても、生き方が根底から変わるものではない。人間は、これまで不自由なく一緒に生活できた“ Together ”の日常から、コロナとの遭遇により、半拘束的生活の中で、自由な対人交流が制限され、また別離をも強いられる非日常的な“ Alone ”を体験している。しかしそのような不条理を受容しながら、協力し合って“ Together ”のステージへと再び進むのである。
 同じ趣意をオルテガの思想に繋いで言い換えれば、改めて次のように表現できるだろうか。
 コロナ禍のもとで社会は混乱し、人間関係は不安定になり、協力関係を結ぶことも容易ではない状況が続いている。こんなとき、大衆と共にいて集団の和(“ Together ”)を形成し、同時にその中にいて同調的にならない孤独(“ Alone ”)の精神貴族が水先案内人として存在することが必要である。
 
 オルテガ、そして孤独に逝った西部も然り。大衆の中にいて、「和して同ぜず」。五木氏はそんな思想や生き方を再評価し、そこにコロナの時代の生き方への示唆を見た。
 それは、森田療法、あるいは「生活の発見会」の活動のあり方にも通じるように思われるので、ここに紹介した。
 
注1:
 西部邁 : 西部邁が本誌に全て書いていた「死」の予告と決意. 正論 通巻557号 : 138-153. 2018年4月.
(初出 平成29年1月号)
 


西部 邁



 

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2. 「生活の発見会」の「煙仲間」的機能への期待
 
「生活の発見会」は二度誕生した。
 まず、その最初の誕生に至るまでの経緯を簡単に振り返ることにする。それは、熊本の旧制五高出身者たちによって進められた、森田療法と、社会教育というふたつの潮流が、戦後に合流し、ひとつの大河になった歴史的なドラマであった。さらにその過程で、社会教育から「生活の発見会」の中へと流入した「煙仲間」の機能について見直したい。コロナ危機の時代の今、「生活の発見会」の中に秘められていた「煙仲間」の静かな活動の復活が期待される。
 
 森田正馬は熊本の旧制五高を卒業した。それから10年ばかり遅れて同じ五高から、社会教育の分野で重要な田澤義鋪、下村湖人、そして永杉喜輔の3人の人物が輩出して、社会教育の道を切り拓いていった。加えて、水谷啓二も五高出身で、永杉と同級で、当時水谷は神経症に悩んでいたが、やがて森田正馬の指導を受け、森田療法の継承者となり、後に「森田生活道の伝道者」と呼ばれるまでになった。
 
 昭和23年に、水谷は、戦後に社会教育活動の復活をはかろうとしている下村湖人とその弟子で旧友の永杉喜輔に巡り合った。そして水谷は人間下村の魅力に惹かれていく。森田正馬に薫陶を受け、森田療法は人間の再教育であることを熟知していた水谷にとって、みずからの「森田生活道」は、下村の社会教育と既に一体のものであった。戦前に始まった下村らの社会教育運動は、雑誌「新風土」を準機関誌としつつ、全国の青年団OB(壮年者)を主な仲間としていた。集団は、右翼や軍部の弾圧を避けるために、その実体が見えない洒脱な名称として、「葉隠」の中の歌に出てくる「煙」を取って、下村が「煙仲間」と名付けたものである。下村は戦後にも、この「煙仲間」を復活させていた。水谷は、当時居住していた横浜でみずから「戸塚懇話会」と称する煙仲間を立ち上げ、親しく下村に師事した。肝胆相照らして、下村や永杉もまた、森田療法に関心を寄せた。
 
 雑誌「新風土」は終戦前に廃刊となっていたが、下村や永杉の努力で、戦後に再度の創刊を果たした。しかしエログロの時代から、もはや取り残されて、数年で再び廃刊の憂き目をみた。下村は、ベストセラーの自著『次郎物語』の読者らを各地に訪ねて、「煙仲間」の活性化を図ろうとしたが、精力を必要とするその行動は困難を伴った。
 下村は、古稀の誕生日に歌を詠んだ。「大いなる道といふもの世にありと 思ふこころはいまだも消えず」。「煙仲間」運動を世に浸透させたいという願いは、やむところがなかったのである。だが、既に下村の体は病魔に侵されていて、昭和30年に彼は無念の生涯を閉じた。
 
 下村が逝って、翌昭和31年、水谷は「啓心会」を立ち上げて集会の開催を始め、その翌年の昭和32年には、雑誌を発刊した。この雑誌の誌名は、協力者の永杉喜輔(当時、群馬大学教授)の発案で「生活の発見」となったのである。その命名の由来は、拙著(注2)でも紹介したので略す。重要なのは、この雑誌の発刊の趣旨であり、水谷は「生活の発見」の創刊に当たって、趣意書を関係各方面に書き送った。その一部を抜粋する。
 
 「…私どもは精神医学あるいは心理学の面では森田正馬先生の教えを継ぎ、教育、教養および社会生活面では下村湖人先生の教えを継ぎ、下村先生の主宰された雑誌『新風土』の伝統を守りたいと思います。」つまり水谷は、森田療法と社会教育の両者をひとつの視野に入れて、生活の上に具現し、社会に広めていきたいという思いを、雑誌の創刊に託して表明したのである。
 永杉も、「生活の発見」創刊号の編集後記に同様のことを書いている。「水谷氏を中心とした「啓心会」と湖人先生を記念する「新風土会」の同人が協力してこの雑誌を出すことになった」と。
さらに永杉は、創刊100号記念特集号(昭和43年12月号)に雑誌の発展を願う言葉を書いている。その一部を抜粋する。「読者諸兄姉よ、どうか本雑誌を広めて下さい。…物心ともに不潔極わまる日本に一灯を掲げ、一隅を照らすもの、それが「生活の発見」である。」
こうして水谷は、独自の「生活の発見」誌を、100号を超えるまで刊行し続けた。雑誌の発行者は、創刊号以来、奥付に「水谷啓二方「生活の発見会」」となっていた。
 
 だが水谷は、森田療法と社会教育のさらなる発展をはかろうとする夢を残して、昭和45年に急逝した。
それを受けて、水谷の「生活の発見会」と「生活の発見」誌は、長谷川洋三氏に継承されて、再度の誕生となった。長谷川氏は、「生活の発見会」を運営するに当たり、当初は教育の路線を取ろうとしたが、やがて全国的な「自助グループ」へと変化して現在に至っている。
 
 さて改めて、「煙仲間」とは。それは先に概略を記したが、下村湖人がその活動にとくに力を入れた、拘束性のない自由で創造的な集団である。一見煙のようにはかなく、しかし脈々と流れる地下水のごとく、見えないところで社会の良心を共有しあっている。下村はよく「白鳥蘆花に入る」と説いたが、これは煙仲間の精神に通じる教えであった。禅語(『碧巌録』)の「白馬蘆花に入る」に拠っており、白馬が蘆花に入ると見分けはつかないが、存在しているという意であった。「白馬」を「白鳥」に変えて、より情趣ある句にしたのである。
 さて、ひとたび事が有れば、既存の団体や職場を超えて、匿名の地下組織となり、縁の下の力持ちとしての推進力を発揮して社会に寄与する。そのような集団的活動を効率的に進めるためには、集団外に指導者がいるのもよいが、集団内で主となる動きをする「主動者」が存在することが望ましいと下村は言う。オルテガが『大衆の反逆』で、さらに西部邁が『大衆への反逆』で述べている思想に通じるものがあるように思われる。下村は「葉隠」の精神貴族(ノブレス・オブリージュ)なのであった。
 
 下村から水谷が受け継いだ「煙仲間」は、水谷没後にどうなったのか。永杉はひとり、静岡で起こった「新生煙仲間」と行動を共にした。長谷川洋三氏以降の「生活の発見会」に、「煙仲間」はどのように伝わったのだろうか。森田が言った「法悦から犠牲心が発露する」という教えによって、後進のために力を尽くし、助力者原理に従って共に成長するということは、限りなく尊い。ただ一抹の懸念は、もし症状を治すことが第一義になれば、自由な前進が阻まれるということである。
 自助グループと煙仲間は、その点で根本的に性質を異にする。煙仲間は、症状を治すこととは一切関係なく、多少修養的なモティベーションをもった、気楽な友の会である。コロナの時代に、こんな自由な会が各所に伏在してほしいと心から願う。
 
注2:
岡本重慶『忘れられた森田療法』創元社.2015
参考文献:
藤瀬昇・比嘉千賀・岡本重慶 共編『森田療法と熊本五高』熊日出版,2018
 



 

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3. おわりに―森田療法100年、コロナ元年―
 
 森田療法が成立して100年、わが国のこの貴重な精神療法を守るために、先人たちによる誠実な努力、尽力が重ねられてきた。それに対して敬意を表することを忘れてはならないと思う。だからそれを軽率に踏みにじるような言辞を弄してはなるまい。
 ただし、この100年の間に、医療の事情や神経質者の特徴は変貌し、森田療法はかくも変化した現実にどのように対応すべきか、苦渋と苦難の道を歩んできた。やむを得ない迷走を続けてきたと言えるだろう。そこには澱のようなものも溜まっているかもしれない。
 思いがけないコロナの危機によって、それは白日の下に晒されるのだろうか? そして療法の真贋が問われるのであろうか?
 それは私のような不見識なものが判定できることでは到底ない。コロナ危機に遭遇して、見えてくるものがあるのであろうか。それとも、コロナ禍によって覆われてしまうものもあるのだろうか。いずれにしても冷静に判定を見守る時がきたように思う。

コロナ危機の時代の森田療法(中)―森田療法は不要不急か?―

2020/06/28




 

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コロナ危機の時代の森田療法(中)
―森田療法は不要不急か?―


 
1. 森田療法に空白なし
 
 2020年春、新型コロナウイルスの感染拡大により、三密の回避、不要不急の外出の自粛が要請された。神経症で受診を望んでいた患者さんらは、その間どうしていたのであろう。受診は不要不急に当たらないと考えて、通院を継続していたのであろうか。病院などにいけば、コロナウイルスに感染するリスクがある。そのため、一般に医療機関の外来受診者数は減ったと報道された。神経症を扱う診療部門ではどうなのか。
 
 神経質や神経症は、症状にとらわれ、さらにそれを治すことにとらわれる病態である。つまり、「治したがり病」である。だからその「治したがり病」を治すことが大事であるにもかかわらず、昨今は森田療法を含めて、治療者も症状を治すことに同調している。緊急事態宣言が発令され、三密回避や外出自粛を強化する要請が出たことは、神経症者が通院をやめて、「治したがり病」を共有している治療者患者関係を断ち切る絶好の機会の到来を意味した。これを機に治療へのとらわれから脱却できた人たちは、どれほどおられるであろうか。気になるところである。
 
 森田は曰わく、「休息は仕事の中止にあらず 仕事の転換にあり」と(注1)。 森田は状況に応じて仕事の切り換えをするところに休息があるのであって、中断の空白を要さないと言っているのである。コロナ禍で外出の自粛が要請され、場が在宅に移行しても、対応できる数々の課題があるはずである。
 
 元高良興生院院長の阿部亨先生は、森田療法ビデオ(注2)の中で、「森田療法は人生の空白を作らない」ものだと力説しておられる。今日、想定外のコロナ危機のもと、医療、経済その他、あらゆるところで社会が揺さぶられている。森田療法はこのような事態とは無関係だと決め込んで、森田療法に不意にバカンス期が訪れたかのような錯覚を起こしているような方々は、まさかおられないだろうけれど。また学会やセミナーが開催され難くなったことが一大事だと嘆くならば、そこでも勘どころを外している。学会やセミナーも重要だが、本当の森田療法は生活の中にある。すべての現実や事実が真実である。コロナウイルスの影響を受けているわれわれの生活が、例外であるはずはない。
 地球規模の危機のときに、行動が制約される条件下であろうとも、それぞれの人間が身辺から出発して、可能な方法で人とつながり、工夫し合えば、なすべきこと、できることを見つけ得るであろう。
 森田療法は人生に空白を作らずに、密に生きる療法である。従って森田療法に不要不急という空白はあり得ない。
 
 注1:
 森田の言葉、「休息は仕事の中止にあらず 仕事の転換にあり」は、ヒルティの『幸福論』(第一部)に拠っている可能性がある。ヒルティは、本当の休息は活動のさなかで、働く喜びを感じるところにある、と言っている。森田においては、若干意味が変化しているが、この拙論では、休息についての森田の言葉の意味に忠実に従っている。
 注2:
 阿部亨『悩める人への生きるヒント』(野中剛監督)、森田療法ビデオ全集 第4巻、(有)ランドスケープ発売、2016
 


阿部亨『悩める人への生きるヒント』(DVD)のジャケット



 
2. 車間距離と人間(じんかん)距離
 
 阿部亨先生は、同じく先のDVD『悩める人への生きるヒント』の中で、対人恐怖について述べ、人間関係には程よい距離が必要であることを指摘しておられる。若者は、人と距離のない関係が良い関係だと思い込み、その結果傷つけ合う体験をして対人恐怖になるが、ある程度の距離を保っている間柄が、社会的に健全な人間関係なのであると。ここで阿部先生は、中野翠という人が人間関係について書いていたことを紹介なさっている。中野翠という人はエッセイスト・コラムニストの女性であるが、「車に車間距離が必要であるように、人間同士にも車間距離のようなものが必要である」ということを書いているのだそうである。
 中野翠さんは、長年「サンデー毎日」のコラムなどに機知に富む文章を書き続けてきた人である。件の文章の探索を試みたが、著書が多数あって、見つけることができなかった。ともかく、この人は、ご自身が、人間車間距離を意識して生きておられるのであろう。ペンネームの翠は、尾崎翠にあやかっているそうである。第七官界を彷徨なさっているのであろうか、本名やプライバシーを隠し、テレビ出演の依頼も一切断ってこられた。落語を愛するオタク系で、対人関係の機微に面白さを見ておられるのだろう。だから人間への興味が文章になる。この人は対人恐怖を楽しんで生きている、その完成型の人のようである。
 人間において必要な「車間距離」とはよく言ったものであるが、これを「人間(じんかん)距離」と言い換えてもよいのではなかろうか。「人間」を「じんかん」と読むとき、それは世間、世の中を指す。東洋的な意味での社会である。市民の共同体である Society として社会を理解する以上に、「人間(じんかん)」として理解する社会は、物理的かつ心理的に距離ある人間同士のネットワークによって、それが成り立っていることがわかる。
 
 ウイルス感染を避けるために、互いに2メートル程度の物理的な Social Distance を取るように要請されている。けれども、心理的な Social Distance というものもあるので、両者の関係はどうなのか。心理的には、知らない者同士が会話をする、いわゆる社会的距離はざっと2メートル前後とみなされている。物理的であれ、心理的であれ、社会的距離とされるものはいずれも2メートル程度で、ほぼ一致しているのである。さらに心理的には、個体の周囲の1メートル強より以内の同心円は、パーソナル・スペースと言われる個体の心理的安全圏になっている。人が1メートル強よりも近づくと、パーソナル・スペースが侵され、不快感が惹起され、親しい者以外はそのスペースに立ち入れない。つまり、本来人間は心理的に一定の段階の距離を置き合って生活しているのであって、その距離の中に、飛沫感染に対する防御域も含まれているのである。
 
 コロナウイルスの感染を防ぐために殊更に言われた Social Distance は、都市生活における人間の異常な過密に対して発する必要のあるアラートであった。しかし、人間過密の都市環境を抜本的に変えることは困難である。あるいは、中野翠女史に学び、さらには対人恐怖の人たちに学ぶところが残されているのかも知れない。
 
 対人恐怖と言えば、さらにその中に、通常の対人恐怖よりも、人と接近するのが一層苦手で、ふれあい恐怖と言われる一群がある。症状としては、会食恐怖や雑談恐怖などがあり、歓談しながら人に接近せねばならないという、和やかさが求められる状況が苦手な心理である。ひきこもり系に近いところがあるが、この心理は広く社会人一般にも見ることもできる。何かにつけ頻繁に飲み食いの集いをする日本人特有の宴会文化があり、これに適応する「お付き合い」を苦痛とする人たちがいる。ふれあい恐怖の周辺に広く位置づけられる心理である。社交性という柔軟さを欠くので、健全だとは言えないものの、Social Distance の観点からは、このようなふれあい恐怖系の方が正統派である。むしろ宴会依存症的な文化の方が問題である。ともかく神経症的な症状をすべて異常と決めつけず、秘められている意味を見直して、無理な矯正に走らず、折り合いをつけることが必要である。
 



 
3. 人間の新たな課題 ― ゴリラより、神経質に学ぶ ―
 
 新型コロナウイルスが猖獗を極めつつある地球上のパンデミックの現象に対して、社会的文化的な立場から、多くの識者たちがコメントを発している。そのうち、去る5月にNHK・BS1で放送された番組「コロナ新時代への提言~変貌する人間・社会・倫理~」が、とくに注目された。
 しかし、机上の学問を専門とする識者の提言というものは、えてして解説にとどまる。イタリアでコロナの死亡者が相継ぐ中で、遺体となってしまう死者への敬意が失われていると指摘したその国の哲学者が、疫学的認識を欠いていたというエピソードが哲学者から紹介されたが、むなしく聴いた。日本人は、志村けんが亡くなったとき、臨終に立ち会えず、遺体にも対面できなかったご遺族が、火葬後にはじめて受け取った遺骨を抱いておられる姿を見た。それですべてが伝わってきた。
 人類学の立場からの山極寿一氏の発言を、期待して聴いた。山極氏の話は、前半では主に今日の危機状況が語られ、後半では人間社会の課題が示された。まず、山極氏の前半の話を、なるべく原文に忠実に、若干短縮して以下に紹介する。
 
 「文明が始まる前から、人類という種は信頼できる仲間を増やすように進化してきた。文明の発達とともに人々は移動し、人と人の関係を作っていった。そのために人が集まること、移動するということが条件となる。そこで国が作られ、国と国が連携し、今、グローバルな社会が地球上に実現した。ところが、今それが崩されようとしている。新型コロナウイルスの出現によって、われわれは接触を禁じられ、移動を禁じられた。そのため、社会の作り方が根底から覆されてしまった。人が接触せず、移動せずに、このグローバルな社会をどのように運営するのか。それがわれわれに突きつけられた課題である。」
 
 この前半部は、人間がグローバル化した社会を作ったという歴史の解説が主であった。一拍置いて、後半の発言を、多少要約しながら紹介する。
 
 「ゴリラは、日々顔の見える距離で、体を合わせて互いが同調し合い、仲間であることを確認して、少人数でまとまっている。一方、人間は進化の過程で『離れ合う』ことを社会のひとつの条件として認めた。(人間は言葉を手に入れたために『離れ合う』ことが可能になったが)、言葉だけに依存してきたわけではない。言葉は進化の過程では、後で出てきたものであり、信頼を担保できるコミュニケーション手段ではない。むしろ、身体と身体が共鳴し合う中で、信頼が形成されてきた。ところが今、生身の肉体を通じた共鳴によるコミュニケーションが失われようとしている。言葉だけで繋がる世界に放り出されたとき、人間はどうなるのか。」
 
 このように山極氏は問題を提起し、引き続き「人間は言葉の前に音楽を発明した。音楽は人と人との間を共鳴させる良い装置。」などとおっしゃった。そしてテレビ画面の半分には、楽器を抱えたミュージシャンの姿が映った。このような編集のパッチワークには、「間(ま)」というものがなくて、「間(ま)」が抜けている。ミュージシャンは、安倍総理のTwitterにコラボで出された青年であった。
 
 音楽もいいけれど、生活し辛くなった日常生活に誰しも戻るほかない。最近、厚生労働省が「新しい生活様式」の実践例という資料を出した。行動の仕方が事細かに記されているが、これは神経質な人のそれとまるで同じである。病原性のウイルスはいつどこにでもいる。どのような生活様式がよいか、神経質者はほとんど無意識に知っている。みんなが神経質者の行動に学べばよいのである。ただし神経質者は、ときどき神経症のおかしな症状を出す。日本中でみんなが Social Distance に強迫的にこだわり症状を示しているのと同じである。お互いに症状は笑いぐさにしよう。そして、神経質者の持ち前の生き方に学ぼう。神経質を生きることは堅実であり、創造的である。『神経質礼賛』という著書を出し、「神経質礼賛」というブログを連載し続けておられる精神科医師がおられる(注3、注4)。大いに学ぶべし。
 コロナウイルスは怖い。怖いままに気を配って行動するのである。
 
 「随処に主と作(な)れば、立処皆真なり」(臨済義玄)。
 
 
 注3:
 南条幸弘 著 『神経質礼賛』白揚社、2011
 注4:
 ブログ「神経質礼賛」(南条幸弘先生)

(下)に続く     

コロナ危機の時代の森田療法(上)―コロナ元年、私たちの受難―

2020/06/14


COVID-19 Novel Coronavirus virus infection spreading from Wuhan city, China. Asian woman wearing virus surgical face mask with text title. Chinese people walking to work at train station or airport.

 
 
 
 
 
 

コロナ危機の時代の森田療法(上)
―コロナ元年、私たちの受難―


1. コロナ元年
 
 令和の2年目はコロナ元年になった。新型コロナというしたたかなウィルスが登場して、人間がこれと共存して生きねばならないという、未曽有の試練と遭遇した、恐るべき元年となった。
 森田療法は、神経質の治療を端緒に始まった精神療法だが、単なる精神療法ではない。森田は「事実唯真」と言い、「自然に服従し、境遇に従順なれ」と言った。現実世界の、事実としての出来事、現象のすべてが、真実に他ならない。どんな不条理なことも、すべてが真実である。それが自然のことわりなのである。花鳥風月ならぬ、厳然たる自然の事態に服従して、その境遇に従順に生き抜け、と森田は教えてくれた。それは単なる神経質や神経症の症状の治し方をはるかに超えた、生きるということの教えである。
 人生は苦である。仏教では「生老病死」の四苦と言う。生を受けて生きれば、老いがあり、病に罹り、やがて死ぬことを避けられない。そしてその過程では、愛する人との別離や、欲しいものを求めても得られない苦しみなどを体験する。合わせて「四苦八苦」である。
 釈尊も親鸞も白隠も強迫観念に悩んだ神経質者だったと、森田は言っている。強迫観念に正確に当てはまるかどうかは、まあわからないが、実存的な深い悩みだ。ともかく、森田が教えてくれたこと―。それは、悩みを生きた先人たちが仏教の貴重な叡智を生みだした。そして、神経質者に限らず、苦や煩悩を有する私たち万人がそれに学びうるということなのであった。
 
 今、コロナ元年、間違いなく新たな苦難が始まった。予想だにしなかったような悪夢が現実の危機として、今ここにある。森田療法はこの状況にどう対応するのか。いや、そのような対岸の火事を見るような問いを立てること自体、おめでたいことかもしれない。第一線の医療に携わる方々の献身的な努力をはじめとして、さまざまな分野で多くの人たちが、森田療法を論じるまでもなく、コロナに対処する直接間接の必要事に取り組んでくださっている。そこに生きた森田療法がある。必要上とは言え、森田療法に研究的に関わっている私たちには、かなり後ろめたい話なのである。
 


 



 
2. コロナ狂騒曲
 
 1月下旬に横浜を出航したクルーズ船が、2月初めにウィルスとその感染者らを乗せて帰還し、横浜港に停泊した。あたかも黒船を迎えたごとく、この国の関係者は周章狼狽した。しかし、集団としての国民の心理は、危機に対して遅れて反応する。人びとの大半はテレビの画面にライブで映る大型船の姿をお茶の間劇場で他人ごとのように見入っていた。
 その後のことは言うまでもない。危機に対して遅れて反応する分だけ、冷静さが失われる。パニック反応が始まった。不安、恐怖、反動としての無関心や否認、感染者に対する無思慮な差別や非難。外出の自粛が要請され、自宅での巣ごもり中には、DVやアルコール依存症が問題になった。それは経済生活を襲った危機と無関係ではない。
 行政は市民のためである以前に保身的である。私は京都に近いA市に在住し、市役所の近くに居住している。4月某日に私は必要があって市役所に出向いたが、何かただならぬ雰囲気を感じた。その翌日、NHK総合で、A市市役所でクラスターが発生、というニュースが伝えられたので驚いた。市の役所は市民が利用する所である。クラスターが発生したら、まずそれを市民に伝える必要があろう。内部の感染者数が、クラスターと呼ばれるに足る一定人数に達しても、明らかな報道はNHKの全国放送が先を越した。集団感染はそれ以前から始まっていたことになる。そしてクラスターが報道されて10日ほど経ってから、A市市役所は庁舎を全面閉鎖した。すべてが後手の対応だった。A市を含むこの県の県民性もある程度、背景にあるかもしれない。感染者の人権が守られねばならないのは当然である。個人情報を開示したら、差別対象となり、本人や家族は生きづらくなる。そのためかあらぬか、行政内のクラスター発生の情報提供にも、行政は謙譲の美徳を発揮した。役所の近所に住む者には、灯台もと暗しだった。
 
 私はフランス人の知人(精神分析家)と親しくメール交換をしている。なので、フランスの情報の方が届いてくる。既に2月の時点で聞いたことだが、私たちの共通の知人(精神科医師)の勤務するフランスの精神科病院で集団感染が起こり、入院患者と職員ら、数十人が感染し、精神科医師1人が死亡したとのことであった。精神科病棟はまさに三密の環境であり、患者さんたちはしばしば自己管理能力に欠ける。はたして、その後わが国のいくつかの精神科病院でもクラスターが発生した。精神科の入院治療の場では、感染症に対する万全の予防対策を常に講じていることは容易ではない。その上クラスター発生後の対処には大きな困難が待ち受けている。それは、福祉施設の現場における問題に、ある程度通じるところがあるようだ。いずれにしても、一層の備えが必要であろう。
 



 
3. エッセンシャル・ワーカーの人たちに花束を
 
 全国の医療従事者たちは過酷な状況に置かれている。この人たちに対して国民は感謝のブルー・インパルスを贈りながら、同時にウィルス運搬者としてその人たちを忌避している。ずいぶん勝手なことだと思うが、人間はそんなものらしい。6月10日時点での、全国の医療機関における集団感染は102件、医師、看護師の感染は550人以上になるということを厚生労働相が述べた(6月11日、共同)。全国の累計感染者数に照らすと、医師、看護師の感染者はその約3%を占める勘定である。コロナの診療の第一線で働く医療従事者数を分母にするならば、感染確率は一段と高い数字になる筈である。感染リスクの極めて高いそんな現場で働いてくださっているのだ。
 
 森田正馬は、職業というものについて、色紙に次のような教えの言葉を揮毫している。 「職業によりて人の品性の定まるに非ず 従事する人の品性によって其職業は尊卑を生ず」。森田の教えはこのようである。その意味するところはおよそ理解できるが、よく考えると疑問も起こる。ひとつの理解として、なまじ地位が高そうな職業についても、それにあぐらをかいて、自分の品性を磨かなければ、その職業まで怪しくなるという警句である、と受け取ると分かりやすい。
 
 むしろ逆に、職業自体に尊卑というものがあるように、私は日頃から思っている。誤解を避けるために説明をせねばならない。車に乗らないので、電車で移動する私は、駅の公衆トイレに立ち寄ると、そこで黙々と清掃をなさっているおばさんたちの姿を見かける。私はこの人たちに敬意の念を抱いている。汚く、きつい仕事のひとつである。汚いものは汚い。でもそのような清掃を誰かがしてくれるから、社会生活が無事に動いている。以前に、「羽田空港が世界一清潔な空港である理由」として、ベテラン清掃員のNさんのことが、テレビなどで取り上げられた。Nさんは若いときの苦労を経て、清掃のアルバイトに出会い、最初は「生きるため」に働いていたが、やがて清掃の仕事にやりがいと楽しさを見いだしたという。そうは言っても、駅の公衆トイレの清掃員の皆の方々が、楽しくてしておられるであろうか。汚いけれど、きっと嫌々、必要なことをなさっているのだろう。それが尊いのである。
 
 便所掃除は分かりやすい例だが、人間社会が維持されるために、それを根底で支える不可欠な職業がいくつもある。コロナ禍のもとで、そのような職業がクローズアップされた。 農業、食品、交通、流通、電力、清掃などなど、そしてもちろん医療もだが、それらがその不可欠な職業に相当する。このような職業内容の仕事の従事者は、エッセンシャル・ワーカーと呼ばれている。
 エッセンシャル・ワーカーの仕事は、しばしばきつく、汚く、ときには危険を伴う。そんな仕事に本気で従事なさる人たちが社会には必要なのである。
 
 人間が人間らしく生きるために、同じく必要不可欠なものとして、さらに教育や文化がある。ただし緊急度の違いはある。このように見てくると、社会的な有事のときに見直されるという要因を含めて、職業に尊卑があるという見方はありうると思う。日頃光が当たらないが、尊い職業があることに気づくことが重要である。そしてそのような担い手に改めて感謝したい。
 
 尊卑の卑の面もある。事実上の賭博、その他人間を依存症に陥らせて利を得る業種がある。これは、主に国家が責任を受け止めてほしい。
 

(中)に続く     

SORRY AND WELCOME

2020/06/14




【連載原稿遅延のお詫び】
 いくつかの重要な連載原稿の掲載が遅延しています。
 当事務所の移転や、さらにコロナ生活の影響も多少こうむり、予定がかなり遅れました。ホームページ上では見えない水面下で、森田療法関係各位との交流など、地味なことを続けてはいますが。
 ともあれ、倉田百三のまとめや、仏教関係の連載の続きを、鋭意書き上げて公開します。
 
【原稿の掲載欄を種類別に】
 さて、今後は原稿の種類別に掲載欄を統一します。ご了承をお願いしておきます。
 オリジナルな研究に関わる原稿は、すべて「研究ノート」欄に掲載します。「ブログ」欄には、随筆、随想のような原稿を掲載したり、また、当研究所と交流して、原稿を寄せて下さる方々の玉稿などを掲載します。
 
【オンラインでの交流の推進】
 さらに、このご時世ですから、ソーシャル・ディスタンスを逆に生かして、オンラインで皆様に自由に意見交換をしあって頂く場の提供をする企画を考えています。(具体化はまだです)。
 
【随時、研究会などを】
 研究所は、バーチャルでなく、駅近で、また来て頂きやすい建物、部屋です。必要に応じて随時研究会を開きます。また単独でも、気楽にお話しに来ていただけます。ただし突然ではなく、あらかじめ、「通信フォーム」で、打ち合わせをお願いします。
 ただし、カウンセリングや診療には応じられません。
 研究レベルのご来談、ウェルカムです。
 
 それではよろしくお願いいたします。

森田療法における重要な仏教的用語(1)―「事実唯真」の典拠になった真言宗の「即事而真」―

2020/03/16

 
 


こちらの記事の内容は、研究ノートの欄へ移しました。
 
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清沢哲夫の詩、『道』―アントニオ猪木に影響を与えた真宗の他力思想―

2020/01/27


清沢哲夫 著『無常断章』昭和41年、法蔵館。


 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
 
< 清沢哲夫の詩、『道』―アントニオ猪木に影響を与えた真宗の他力思想― >
 
 現役時代には、「イ―チッ、二ーッ、サ―ンッ、ダァァァ―!!」で突っ走ったアントニオ猪木だったが、引退時には、リング上で『道』という意味深い詩を読み上げた。一躍有名になったその詩は、当初は一休禅師の作と言われた。猪木自身、『アントニオ猪木自伝』の中で引退セレモニーのときのことを回顧して、『最後に、新日本プロレスの道場訓にもしている、一休禅師の詩を読んだ。』と書いている。しかし、この詩は、清沢哲夫の『道』という詩に酷似しており、清沢の詩を一部改変して猪木が朗読したものである。
 まずは、猪木が朗読し、かつ自伝にも掲載している、一休の詩だというものを以下に掲げる。
 
 

『道』

 

アントニオ猪木(一休)

 
 この道を行けば
 どうなるものか
 危ぶむなかれ
 危ぶめば道はなし
 踏み出せば
 その一足が道となり
 その一足が道となる
 迷わず行けよ
 行けばわかるさ。
 
 次に、清沢哲夫の詩を掲げる。
 
 

『道』

 

清沢哲夫

 
 此の道を行けば
 どうなるのかと
 危ぶむなかれ
 危ぶめば道はなし
 ふみ出せば
 その一足が道となる
 その一足が道である
 
 わからなくても
 歩いて行け
 行けばわかるよ。
 
 この詩は、清沢哲夫が最初に暁烏敏の主宰紙『同帰』に昭和26年10月に出し、それを昭和41年に刊行した著書『無常断章』に収載したものである。
 清沢哲夫は、清沢満之を祖父にもつ深い真宗思想家、活動者であった。戦争を体験し、復員後は実家、愛知県碧南市の西方寺で形骸化した寺院制度を改革しようとしたが、周囲の反対にあい挫折を経験した。その頃、暁烏敏の孫娘と結婚している。また弟が精神病を発病したので、入院させた。『無常断章』中の「狂人」という文章には、次のように記されている。
 
 「弟の病に対する悲しみをこえる道は、自分も亦今現に寸分違わない世界にいるのだと知らされるのみであります。
 しかし自分の中にある狂気が知らされてくる時、一切の事物の上に明るい光がさしてきます。」(昭和27年1月)。
 
 『道』という詩を書いたのは、そのような時期のことであった。
 その後愛知県の寺を出て、暁烏が生前に在寺していた石川県の明達寺に移住した。ドイツ留学、大谷大学の教職を経て、暁烏姓となり明達寺の住職になった。
 
 清沢哲夫の『道』は、人事を尽くして天命に身を任せている自身の歩みを、読者に対して優しく包むように伝えている。
 猪木が朗読した詩では、いくつかの箇所で改変がなされており、とくに終わりの部分では、「わからなくても歩いて行け」(清沢)が「迷わず行けよ」(猪木)と変えられている。
 一休禅師には多くの道歌があり、迷いや道について歌ったものがいくつもある。けれども、一休の歌はたいてい一癖あって表現が屈折しており、「迷わず行けよ」などと一休が言ったりすることはない。しかし引退時の感懐として、リング上で叫びたかったことは、一休の教えにもまた通じたので、「迷わず行けよ」と分かり易い句を入れて一休の詩に仕立てて、清沢哲夫の名を伏せたのではないだろうか。猪木の背後に、禅と真宗に通暁した人物がいたと考えられる。清沢哲夫の詩を持ち出したのだから、真宗にかなり造詣の深い人であろうか。
 いずれにせよ、格闘家の引退に当たって、自力を超えて他力に委ねて歩む道の詩が取り上げられたことは、興味深い。格闘技においてさえ、究極的には自力と他力が融合する境地になるのである。
 そして最近、車椅子生活になったアントニオ猪木は、車椅子の生活者として「あるがままで」生きていく、と述べている。
 森田療法における「あるがまま」も、自力と他力を包含していることを、改めて思う。
 


クリニックではありません

2020/01/25


<クリニックではありません>
 
 当方は、クリニックではありません!
 診療を行うクリニックや心理カウンセリングを行う相談機関ではありません。
 
 当研究所の理念などは、ホームページの表紙にあたるページに明記している通りです。
 森田療法という優れた療法―というより生き方ですが―の意義とあり方に関心をお持ちの方々と、広い意味で、その研究上の交流をはかろうと意図しています。職種を問わず、同じ志しを有する方々と、日本中遠くても近くても、意見交換、情報交換をして、共に勉強しましょう、という提案をして、京都森田療法研究所という名のもとに、いわば研究交差点のような機能をしようとしています。それ以上でも、それ以下でもありません。
 
 これを書いているとき、たまたまブルガリアの心理学者からお手紙が届きました。
 台湾の方やフランスの方々とも交流があります。ヨーロッパは遠いですが、メールでのやりとりで、地球上の距離を越えて、かなり交流が可能です。そんな時代になりました。
 
 さて一方で、困る問題もありますので、ここに記しておきます。
 この研究所を森田療法のクリニックかカウンセリング機関とお間違えになる方も、一部にはいらっしゃるようなのです。京都地区で森田療法専門機関を探して、勘違いをなさるのかもしれませんが。
 
 受診機関を求めて、お困りのかたがたもいらっしゃることでしょう。そのようなかたがたのご不自由はお察しします。しかし京都地区も、森田療法の無医村ではないと思います。どうぞお間違えなきようにお願いします。ご本人様、ご家族様、また森田療法関係者のかたがたにお願いします。当方のホームページに明記している趣旨を正確にご理解下さい。そして早合点なさらないで下さい。
 ご理解のほどを、改めてお願いする次第です。
 

京都森田療法研究所

主宰者 岡本重慶

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