自由を求めて生きた画家、高良眞木(中)―洲之内徹との不思議な関係―

2019/02/07

  本稿は、(上)の稿(2018.12.25)より続くものです。
  日数が空きましたので、前回の原稿へのリンクをつけておきます。
 
自由を求めて生きた画家、高良眞木(上)―画家たちの真鶴半島―
 
 
  (承前)
 


『洲之内徹 絵のある一生』(新潮社、2007)の表紙

『洲之内徹 絵のある一生』(新潮社、2007)の表紙



 

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5. 風変わりな美術エッセイスト、洲之内徹
 
  画家、高良眞木は、真鶴半島で中川一政に見いだされ、洲之内徹に育てられたという見方があった。森田療法の大家であった高良武久先生の長女の真木様が、家族内の葛藤を体験しながら、画家として、そして人間として成熟していかれた生涯に関心を持ち、調べているうちに、やはり画家としての眞木の背後にいた洲之内徹という人物の存在を無視できなくなった。
 

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  洲之内徹とは。彼は銀座で小さな画廊を営む風変わりな人物であったが、「芸術新潮」に連載し続けた「気まぐれ美術館」という感性溢れる美術エッセイの自在な筆致が、美術家や文化人に注目されて、彼の名が知られるところとなった。小林秀雄は「今一番の評論家だ」と絶賛した。しかし洲之内自身は美術評論家を自任していなかった。随筆『絵の中の散歩』に彼は書いている。「どんな絵がいい絵かと訊かれて、ひと言で答えなければならないとしたら、私はこう答える。―買えなければ盗んでも自分のものにしたくなるような絵なら、まちがいなくいい絵である、と。」(「鳥海青児「うずら」」)。彼はそう言って憚らなかった。その名文句に彼の真骨頂があり、画廊の主でありながら、気に入った絵は人に売らずに自分のものにしてしまうのだった。
  同じ『絵のなかの散歩』の中に、絵を女に喩えて、惚れた男がその女の人には見えない本当のよさを見つけるようなものだと書き、さらには、埋もれた異才、時代が見逃している才能を発見するのは、批評家ではなく、目利きや蒐集家なのであると書いている(「山発さんの思い出」)。そして彼自身、一貫してそのような姿勢を取るのである。実際彼によって才能を見いだされた画家たちは多かった。洲之内は規範や基準にとらわれる評論家ではなく、自由に絵の中に画家のいのちを直感的に見る目利きであり、名伯楽であった。
 

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  このような並外れた感性の持ち主、洲之内は人間としていかなる人で、どんな生涯を送ったのか。人間洲之内は、およそ尋常な者ではなかったのである。彼の経歴をざっと辿ってみる。
  洲之内徹(1913-1987)は、松山市でクリスチャンの家庭に生まれ、東京美術学校建築科に入学し、日本プロレタリア美術同盟に参加、左翼活動をして検挙されて退学。松山に帰ったが左翼運動で逮捕され、留置場と刑務所で1年以上を過ごし、この間に読書に励んだ。獄中で転向を偽装して釈放され、その後志願して軍属となり、対共工作員として北支に渡った。共産党の経験を買われて軍部の情報の仕事を手伝っていたので、共産党で食っていた、とは本人自身の弁である」(「気まぐれ美術館」中の「羊の話」)。
 
  大陸においては日本軍人の立場で、中国人に対して残虐行為の限りを尽くす体験をしている。終戦後引き揚げてきて、日本で生活を再開した彼は、作家を志望して小説を書くようになる。そして中国で自分が経験した虐殺、強姦、略奪、放火などの所業を私小説として赤裸々に書いた。小説「砂」には、兵隊相手の慰安婦ではなく、市民の女性を襲って強姦することに新鮮な快感を覚えて、女を狙って村の中をうろつくという主人公の異常な行状が、淡々と書かれている。この作品は、なぜか芥川賞候補になった。彼の小説は都合三度、芥川賞候補となったが受賞を逸している。
 

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  彼の小説に対しては、車谷長吉の「洲之内徹の狷介」という一文が『絵のなかの散歩』の巻末にある。車谷は言う。私小説であろうとも、虚実皮膜の間に成立するものだが、洲之内の小説には「実」だけがあって「虚」がない。悪を突き詰めていけば、「浄土の光」が射してくるものだが、洲之内の小説ではそれが射して来ない。小説とは「人が人であることの謎」を書くのが本筋なのに、彼の小説はその謎に近づいていないと。さらに車谷は、透徹した目で「悪」を見据えた人の狷介な眼差しで絵を見ることによって、洲之内は絵の「目利き」になることができた、と言うのだが、この後半の指摘には、車谷の人柄の善人性が浮かび上がって、批評としては物足りない。風変わりであった人間洲之内を、「狷介」と評しながら、車谷は彼の内面を探っていない。
 

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  それを補うごとくに、大原富枝が『彼もまた神の愛でし子か』と題する洲之内の評伝を書いている。中国の女性への性的残虐行為を働いた日本兵はもちろん彼ひとりではなかった。しかし彼は、「敵方の女を凌辱するのは、生理ではなくて思想だと言うのである。もしそうなら、これは、人間をつくられた神にこそ訊いてみなければわからない」と、大原は造物主への問いとして、彼の人間性を厳しく批判している。さらに、酒の席で洲之内は、拳銃を使う場合での最も効果的な女の殺し方、などという話を披露したが、このような問題については、彼自身の哲学があったことを大原は取り上げて、「こと、女に関しては、洲之内徹のなかには、悪魔的と言っていい、救いようのない地獄があった、とわたしは思う」と言う。また小説 「砂」について、「洲之内徹のなかの人間性の破壊が、すでに深奥に達していて、いかに凄惨なものであったか、その様相を、いまわたしは改めて思っているのである」、そして「洲之内徹には、人間性において微量ながらも、無視できない不具性があった、とわたしは考えている」と、大原は決定的に記している。
  中国から帰国後の日本の生活でも、洲之内の女性関係は乱脈を極め、妻子がいながら、いわゆる女狂いをする。本妻の影は薄く、出版社の編集部の女性との間に子をもうけ、また画家、佐藤哲三の遺作を集めるために行った新潟の新発田では人妻との激しい恋愛に陥っている。婚外を含めて、生涯に少なくとも4人の女性に子を産ませている。
 

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  さて洲之内と絵との関係に話を戻す。作家として身を立てようとした洲之内は、小説を書き続けていたが、一方、田村泰次郎が銀座に開いた「現代画廊」に入り、ほどなく田村が手を引いたため、1961年からこの画廊を受け継いだ。
  作家を断念して美術畑に入った彼は、書きためたエッセイ『絵のなかの散歩』を1973年に出し、翌1974年より「芸術新潮」に「気まぐれ美術館」を連載し始めて、注目を浴びる。絵と画家に対して距離感を置かずに、感覚的な自分のまなざしを向けて縦横に書いた、いわば私小説的な美術エッセイのこの連載は、死を迎えるまで10年以上続けられた。


『絵の中の散歩』1973(左)と『気まぐれ美術館』1978(右)

『絵の中の散歩』1973(左)と『気まぐれ美術館』1978(右)



6. 高良眞木の絵に魅せられた洲之内徹
 
  高良真木と洲之内徹の出会いや、現代画廊での個展の開催などについて、以下、『高良眞木画集』の巻末年譜を参考にして記す。
 
  高良真木は、1971年に、浜田糸衛の旧知の佐藤哲三画伯夫人の縁で、洲之内徹と出会っている。そして早速その年に、銀座の現代画廊で「高良眞木油絵展」を開いた。眞木はその際に中川一政氏に絵を見てもらったのだった。売れ残った絵のひとつ、<土>が洲之内に買い上げられ、それは後に蒐集家でもある彼の「洲之内コレクション」に加えられた。
 
  1973年、現代画廊で「高良眞木 油絵と水彩展」を開いている。同年、作品<樹>が第1回美術ジャーナル賞を受賞。また同年、日本テレビ「美の世界」で、「樹の絵」と題して、高良眞木の絵画を取り上げ、洲之内や浜田を含むインタビューを加えた番組が放映された。
 
  1979年、「高良眞木 1979」展を現代画廊および各地で開催した。新潟県新発田市の、画家佐藤哲三ゆかりであり、洲之内のゆかりでもある「画廊たべ」でもこの個展を開催した。
 
  1983年、再び新潟県新発田市の「画廊たべ」で、「高良眞木展」を開き、浜田糸衛・高良眞木を囲む座談会を開いた。この座に洲之内がいたかどうか、不明であるが、彼と高良眞木との間には、佐藤哲三夫人や浜田糸衛の介在があったのだった。
 
  1987年10月のある日、洲之内は現代画廊での高良眞木展の打ち合わせのため、真鶴に来訪して終電で帰宅した。その翌朝倒れて意識不明となり入院、1週間後に死去した。洲之内がこの世で最後に見た絵は高良眞木のものであった。
 
  洲之内は、1971年に眞木との交流が始まってから、彼女の絵に注目して大いに期待を向けてた。しかし眞木は、日中友好協会の活動に意欲を示し、絵については貪欲さがない。洲之内の助言に応じつつも、つい「気まぐれ」さを発揮して、洲之内を嘆かせるという奇妙な関係が生じていた。

高良眞木 作 「樹」

高良眞木 作 「樹」



  眞木の絵に対する洲之内の評価は、彼の代表的な二つの美術エッセイに余すところなく記されているので、紹介する。
 
  まず『絵のなかの散歩』(1973)に、眞木の「樹」という作品を本の口絵に原色刷りで出しながら、「高良眞木「樹」」という一文で作品と作者を讃えている。洲之内は、眞木の「樹」の絵から関根正二のデッサンを思い出す、と言い、「この木には木の精が棲んでいる。汎神論的な世界である。」と書いている。さらに「この無数の枝の組み方がまた面白い。これはもう写生などというものではなく、思考の図式である。」として、枝の重なり具合を細かく描写しているが、洲之内に似合わずとってつけたようで、文章が死んでいる。これはどうしたことか。次に出てくる文章がすべてを示唆していよう。
  「高良さんという人は、絵も素晴らしいが、ご本人も実に素晴らしい。私の知る限りの女性の中で、最も魅力的な人である。」これは高良眞木様にとっても有り難迷惑な話である。
  洲之内は、東京の高良家に食事に招かれたことも書いており、眞木様について、「この人には、女らしい細かな心遣いもある。…彼女は真鶴のアトリエの庭から芹(せり)や蕗(ふき)を摘んできて、ちょっとした料理を添えてくれたりするのである」と記している。そして高良武久博士と高良とみ女史を両親にもつ育ちのよさや、アメリカやパリに留学した彼女の経歴に一目置いて、それにもかかわらず日本の油絵のどんな規格にも合わずに、真鶴で独りで勝手に自分の絵を描いているのが、高良さんの魅力である、と手放しで言う。
  洲之内は高良眞木の絵への期待を募らせる一方でなのである。当時、眞木は文化大革命の最中に中国を訪れたときの次のような体験を、ある雑誌に書いていた。
  ―ひとりの若い農民が、国慶節のポスターを作っていて、画面中心の毛沢東の写真のまわりにひまわりの花を描いていた。ひまわりは毛沢東という太陽にあこがれて咲く農民自身であった。私ならもっと巧くひまわりを描けるが、しかし「彼のように描くことはできない」と思って、農民の姿に感動した、というのである。眞木のこの文章を引用して、洲之内は農民とともに毛沢東の方を向いているひまわりのような高良眞木にじれったさを感じ、高良さんは自分自身の「樹」のようないい絵に向き合ってほしい、という慨嘆でこのエッセイは終わる。
 

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  さらに洲之内は「芸術新潮」誌上の「気まぐれ美術館」の連載第17回目(1977年)の「小田原と真鶴の間」という文章の後半で、高良眞木の絵、「ダリア」と「風景」を文中に白黒で掲載して、再び眞木の絵の魅力と、日中友好より絵に向き合ってほしいという、自分の石アタマの弁を述べている。
  「アルプ」という雑誌に出す絵を借りに真鶴を訪ねたら、高良とみ様にも会って、「眞木にもっと絵を描くよう、あなたからも仰有ってください」と言われたという。眞木は、中国の農民画の画集を持ち出してきた。少女たちが鶏の世話をしている養鶏場や、飼育係が按摩をしている大豚と仔豚もいる養豚場や、山のように収穫されたとうもろこしと皮をむく人々の絵を示して、彼女は言う。「自然はただ鑑賞される対象ではない。自然に働きかける生産者農民の眼だけがとらえることのできる自然がここにある。」と。
  洲之内は「私には紙芝居の上等くらいにしか見えないのである。そこが私は焦れったい。しかし、私はもう何も言わなかった。」と諦めの念を記している。そのまま折り合いのようなものができたのか、眞木との関係は洲之内の死まで続いた。
 
  中国の農民画に眞木が見た自然と人々や生き物との共生的関わりは、おそらく眞木に重要な変化をもたらした。そんな眞木から洲之内も何らかの救いをえたのではなかったか。
 

次回の(下)の稿に続く

 



五高出身の森田正馬が創始した、神経症の森田療法

2019/01/26

  『森田療法と熊本五高-森田正馬の足跡とその後-』の本を、昨年12月末に刊行しましたが、事実上、本年の年頭を飾る出版となりました。森田療法が1919年に創始されたとすると、2019年の今年は、森田療法創始百年の記念すべき年です。
  森田正馬は、高知の出身ですが、旧制熊本五高に3年間在学し、剛毅朴訥のその風土で青春を謳歌する中で精神医学を志したのでした。ここに森田療法への萌芽があったと言えます。
  熊本での森田正馬の生活には、これまであまり光が当てられてきませんでした。
  加えて、「生活の発見会」を創成した森田の重要な直弟子、水谷啓二も五高出身でしたし、さらに、日本の社会教育の初期の発展に重要な役割を果たした、田澤義鋪、下村湖人、永杉喜輔の3人もまた五高出身者だったのであり、その社会教育の流れが、水谷と合流して、「生活の発見会」の活動が大河となっていったのでした。
  今回出版した本には、五高と森田療法をめぐる多彩な内容が収められています。
  このような本書の出版について、熊本日日新聞が注目し、編者代表の熊本大学藤瀬昇教授へのインタビューを、去る1月16日の夕刊に掲載してくれました。その記事を閲覧して頂けるように、リンクをつけておきます。
 
新聞記事(熊本日日新聞2019年1月16日夕刊より)
 
  なお、同じ内容の記事が熊本日日新聞社のホームページにも、「神経症治療の創始者の足跡をたどる 藤瀬・熊本大保健センター長ら出版」と題して掲載されていますので、ご紹介しておきます(下にリンク)。
 
神経症治療法の創始者の足跡たどる 藤瀬・熊本大保健センター長ら出版

『森田療法と熊本五高―森田正馬の足跡とその後―』出版の再紹介―京都の片隅から―

2019/01/11




 
  『森田療法と五高―森田正馬の足跡とその後―』の本が、昨年12月25日付けで出版されましたので、改めてご紹介します。
  一昨年秋、熊本大学で、「森田療法と五高」をテーマに、藤瀬昇教授を大会長として、日本森田療法学会が開催されました。それを機に、関連するいくつかの珠玉の原稿を学会後に集めて、一冊の本として編んで出版したのが、この本なのです。
  ご縁を得て、編集の末端に関わらせて頂きましたが、さまざまな原稿を一冊の本にまとめる作業は、それは大変で、中心におられる藤瀬教授の地道なご苦労は、筆舌に尽くし難いものでありました。それだけに、熊本五高と森田正馬や森田療法について、このような類書のない本を上梓できたことは、私たちの喜びとするところです。

 五高在学中に森田正馬は精神医学への道を志した。剛毅朴訥の純なる風土で、森田療法への芽が吹いた。療法を継承して「生活の発見会」を創成した水谷啓二。水谷に合流した社会教育の下村湖人や永杉喜輔。何という巡り合わせ。彼らも皆、五高出身者であった。正馬の故郷は高知だが、森田療法の故郷は熊本である。

  おもて表紙の帯の部分に、本の主旨や中身を示す案内文を載せていますので、その部分を切り取って上に再度掲げました。
  下の画像は、目次ページです。著者たちと執筆された原稿のタイトルがわかります。



  京都の片隅より、くまモンに愛をこめて―
  裏表紙にくまモンの図をあしらうことを提案させてもらいました。



  この本は、アマゾンで購入していただけます。
  熊日出版のネット販売のサイトからも、購入できます。
http://shop.kumanichi-sv.net/shopdetail/000000001320

謹賀新年 Bonne Année !

2019/01/01




 
  明けましておめでとうございます。
Bonne Année !
平成から次の新しい時代を迎えるこの2019年が、皆様にとってしあわせな年でありますように祈念いたします。
 
  早いもので、この研究所も開所して7年が経ちました。その間、こつこつ細々とやってきましたが、力量や努力が足りず、いくつかの目標をなかなか達成しきれないでいます。
  昨年は、熊本大学の藤瀬教授を中心とする『森田療法と熊本五高―森田正馬の足跡とその後―』の出版が主な課題でしたが、お蔭をもって、その本はようやく昨年末に日の目を見ました。
  さて今年は、一旦保留していた大きなテーマ、“ 森田療法と仏教 ・ 禅 “について、まとめを終えることが重要課題になります。どうぞご指導、ご鞭撻のほどをよろしくお願いいたします。
 
  当研究所の目指すところは、三つの課題としてこのホームページの冒頭に掲げている通りです。第一に森田療法の温故知新、第二に学際的研究交流、第三に日常生活の中での知恵です。これらは、難しいですが重要なことだと思っています。強いて言えば、第四に森田療法の国際交流がありますが、まずは地に足を着けることが大切ですから、国際交流を理念として掲げてはいません。ところが奇妙なことに、以前からの縁もあって、日仏交流を続けています。でもそのような国際交流も、本家の日本国内において、森田療法そのものが「照顧脚下」の歩みを進めていないと、決して実が上がらないことを痛感させられます。そんな訳で、今年もこつこつと地道に進みたいと思います。
  皆様方と通じ合うところがありましたら、いつでも、何でも、気軽にご連絡下さい。意見、助言、質問、疑問、批判、ぼやき、嘆き、などなど。どうぞご遠慮なく、ご自由に、メール(通信フォームがメールになっています)、ファクス、電話もありますが。ご自由にどうぞ。
  勉強会、研究会などの集会の定期的開催をたびたび企図しましたが、当節その種の会があちこちで有り過ぎるので、無理な定期的開催はせずに、随時ご縁のある方々と交流しています。もっと何を企画すればよいか、提案も受け付けています。
  それでは、今年もまたよろしくお願いします。
 

平成31年元旦                                    

                                    京都森田療法研究所

                                                                          主宰者 岡本 重慶

                                                                    研究員 一同

                                                                    協力者 一同

自由を求めて生きた画家、高良眞木(上)―画家たちの真鶴半島―

2018/12/25


『高良眞木画集』(表紙に出ている絵は「土」)


1. 真鶴半島
  東映映画のタイトルバックに、岩を食む大きな波の映像が出てくる。あれは真鶴半島の先端の真鶴岬の突端で撮影されたものだそうである。つい先日、名古屋の杉本二郎様が教えて下さった。杉本様は、名古屋啓心会や初期の生活の発見会名古屋支部に関わっておられた重要な森田療法関係者で、森田療法つながりでご厚誼を頂いている。この杉本様は、以前は東映本社に勤務して要職についておられたお方で、映画人である。のみならず、杉本健吉画伯の甥御様であり、御自身も画家である。真鶴半島には中川一政美術館があるが、杉本様はこの美術館を何度か訪れ、岬にも足を運ばれたことがあって、真鶴半島は懐かしい場所だとおっしゃっている。

 

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  今年6月末に森田療法保存会の日帰り旅行で高良先生の元別荘、真鶴「森の家」を訪問したのだが、7月にはNHKの「鶴瓶の家族に乾杯」の番組が、ゲストの元フィギュアスケーター、村上佳菜子さんと共に真鶴町を訪れるロケを行っており、番組は7月末に放映された。真鶴町と言っても、鶴瓶さんらが歩き回ったのは、半島より北側の岩地区の民家や食堂や海岸などであった。鶴瓶さんと村上さんは互いに笑顔対決と称して、訪問先での明るい交流を競い合っていた。
  番組のロケは、真鶴町の真鶴地区にあたる半島には入ってこなかったようだ。半島には民家も比較的少ないし、また点在する建物には、おそらくそれぞれの歴史がある。とすればこの半島の土地柄は、突然押しかけて来て笑って乾杯という、微笑ましいけれども軽いカルチャーとは風情を異にしている。
 

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2. 画家、高良真木と真鶴
  失礼な話だが、京都にいて三聖病院という禅一色の森田療法から入っていった自分にとって、もちろん高良武久先生の偉大な足跡を十分に知りながらも、高良先生とのつながりがなかったために、その人物像への距離が縮まらないでいた。数年前に出た岸見勇美氏の著書『高良武久 森田療法完成への道』を読んで、高良先生への心理的距離が近くなった。今改めて読み返している。しかし、この岸見氏の本にも真鶴の別荘での家族たちの生活のことは詳しくは記されていず、長女で画家の真木様がここで過ごされたことを事実上知ったのは、つい最近のことである。森田療法と芸術の距離は、遠いようで近い。たとえば、禅は美術、書道、茶道、その他の禅文化と不可分であり、不器用な私は辟易するばかりであるが、森田療法と芸術はどこかでつながるのだ。
  ともあれ、森田療法の大家で詩人の高良先生を父に持つ画家、真木様が真鶴で過ごされた数十年について、私は半年前の別荘訪問以来少し後ろ髪を引かれている。

 

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  真木様の生涯における主な実績は、画業と日中友好活動であった。かいつまんで記しておく。
  東京女子大学入学後、渡米してアメリカのカレッジに入学し、英文学と美術を専攻。
  帰国して間もない翌年の昭和28年、デンマークのコペンハーゲンでの第2回世界婦人大会の日本代表団に通訳として随行し、その地から浜田糸衛という社会運動家の女性を団長とする訪問団に加わり、中国などを訪れた。そこから団と別れて、パリに行き、留学生として美術を学んだ。
  帰国後、絵を描き続けるが、昭和32年(26歳)より、童話作家で社会運動家の浜田糸衛の自宅に転居して、共同生活を始めた。その後生活の場を真鶴に移すが、浜田との共同生活は終生続くことになる。真鶴で画業に従事しつつ、浜田を師として共に日中友好協会の活動に熱心に参加し続けた。
  真鶴半島では、中川一政画伯との出会いがあった。また、たまたま洲之内徹氏に見いだされて、銀座の現代画廊でたびたび個展を開く機会に恵まれている。洲之内氏から才能のさらなる開花を待望されるが、本人は中国への関心の方が強く、洲之内氏を大いに嘆かせたらしい。

 

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  『高良眞木画集』(2010)の冒頭に、眞木(真木が本名だが、画家としての名は、眞木)様は、自身のことを記しておられる文章がある(1973年に「美術ジャーナル」に掲載された文章の再掲)。
  小学校の時、学校から上野公園に絵を描きに行って、描きたい動物を描くように言われて、自分が描いたのは狼だった。やせこけた、灰色に薄汚れた狼は、全身飢えていて、その眼は悪意に満ちて光っていた、と。その絵の記憶が残っていて、時々それにひっかかるというのである。でも、それは太平洋戦争が始まっていた頃で、飢餓は本当にやってきた。
  さらに続けて書かれている文を引用する。
  「敗戦があり、数年が過ぎて、もはや物質的な飢えはなくなった。飢餓感がしかし私の心の中に住みついてしまった。満たされることのないように思われる飢えが、私に今も絵を描かせているように思う。」
  御自身の内部の深奥を鋭く見つめた記述である。画業のみならず、日中友好への想いと活動も、さらに晩年における真鶴の木の家での「共生舎」の運営も、源泉はすべてこの飢餓感にあったのかも知れない。1973年、40歳のときに書いた文章を敢えて再掲載なさったのは、御自身であるから、自分の内奥を再確認されてのことであろう。
 

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  肝心の美術のことになると、私はまったくの門外漢である。
  『高良眞木画集』には、原田光氏(岩手県立美術館長)による、人と作品についての「木を見て、高良さんを思う」という文や、妹の高良留美子様による「高良眞木という人」という文が掲載されている。
  ネット上には、高良眞木様の絵について、そして真鶴共生舎「木の家」について、さらに中国との友好活動について、いくつかの記事が新たに見つかったので、閲覧して頂けるようにリンクを付けておく。
 
① 檜山 東樹 : 高良眞木の“ 径(みち)”と“日月(じつげつ)”
(WEBマガジン「本日休館」収載)
 
  理屈っぽいけれども、高良眞木の一部の作品を評しながら、作者の生き方をも、おそらくは的確に捉えていそうである。
 
https://honjitukyuukan.com/archives/2958
 
② 津田文夫 : 続・ サンタロガ ・ バリア(第138回)
 
http://www.asahi-net.or.jp/~li7m-oon/thatta01/that308/tuda.htm
 
③ 自然と暮らす 共生…真鶴
 
https://blogs.yahoo.co.jp/pepe_le_moco_0123/58432086.html
 
④ cocoro corocoro 高良真木さん
 
⑤ cocoro corocoro 高良真木さんの真鶴共生舎
 
⑥ PapaMamaBabyTONTON 日本旅行 : 真鶴の共生舎
 
http://papamamababytonton.blog.fc2.com/blog-entry-336.html
 
⑦ 新保敦子 : 日中友好運動の過去 : 現在 : 未来
―高良真木のオーラル ・ ヒストリーに依拠して―
 
(早稲田大学大学院教育学研究科紀要 第23号、2013年3月)
 
  この当時の高良真木様の写真が、文中に出ている。
 
KyoikugakuKenkyukaKiyo_23_Shimbo

 
 

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3. 中川一政画伯と真鶴
  真鶴半島の形が鶴の首から先にあたるとすると、「森の家」(かつての「木の家」)は、首の部分に位置する。もう少し半島内に進んだ鶴の頭の部分に、真鶴町立の中川一政美術館がある。言うまでもなく中川画伯は、文化勲章も受賞した著名な洋画家である。
  中川画伯は、真鶴半島が気に入って、昭和24年にこの地に別荘を購入して、アトリエにした。ここに滞在して、真鶴半島の西側付け根の福浦漁港のあたりで、よくスケッチをしていたそうである。
  東京で浜田糸衛と同居していた高良真木様は、昭和38年に、真鶴の別荘の古い木造の家(「木の家」を新築する以前の建物)に入居した。後に浜田も真鶴に来て共同生活を再開するが、おそらくこの時点では独りであったろう。
  そしてこの昭和38年に、近隣在住の中川一政画伯の知遇を得て、数回箱根のスケッチに同行し、中川氏の大作「箱根駒ケ岳」シリーズの発端に立ち合うことになった。その2年後、洲之内徹氏に出会い、銀座・現代画廊で「高良眞木油絵展」を開いたが、その個展前に中川一政氏に油絵を見てもらい、個展のカタログに言葉を添えてもらっている。
  その後平成元年に、真鶴町立中川一政美術館が開館して、以後眞木様はこの美術館の審議委員となった。
  高良眞木は、中川一政に見出され、洲之内徹が育てた画家であると言われる。言い得ていると思われるが、とくに洲之内との関わりは、かなり奇妙なものであった。
 
  ※引き続いて掲載する原稿に合わせるため、本稿のタイトルを修正しました(1月11日)。
 

(次回の(中)の稿(2月7日)に続く)

『森田療法と熊本五高―森田正馬の足跡とその後―』発刊

2018/12/23




 
 『森田療法と熊本五高―森田正馬の足跡とその後―』の本が、熊日出版より発刊されました。
  執筆者の人数が多くて、さまざまな原稿を収めているため、編集の完了までに時間がかかり、刊行が遅れましたが、ようやく日の目を見ました。
  一部書店の店頭やアマゾンなどの通販で発売されますが、店頭やウェブ上に出るのは、年が明けて1月9日頃になりそうです。
  なお、予告チラシに記入されたページ数より、かなり増ページとなり、定価は予価より200円上がって、1200円になりましたが、事実上安価過ぎる定価設定です。どうぞよろしくお願いいたします。

森田療法保存会のニュースレター「あるがまま」13号より

2018/12/13

  前3回に引き続き、森田療法の考現学の基礎資料についての連載は、さらに継続していきます。しかしいつ終わるか見当がつかないので、この辺で、別の記事を差し挟みます。


高良武久先生は詩人であった。
(写真は、ご逝去後の1999年に刊行された詩集)


 

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1.はじめ
  私は関西在住者だが、高良興生院・森田療法資料保存会に入会させて頂いて数年になる。去る6月には、年一度の総会を兼ねて、真鶴半島にある高良武久先生の元別荘を訪ねる日帰り旅行が開催された。私も参加して貴重な訪問体験をすることができた。このような企画を組んでくださったおかげである。ところが、思いがけずも、この訪問記を会のニュースレター「あるがまま」に寄せるようにとのお薦めを頂いた。そんなわけで、ともかくも記した拙文が、「あるがまま」13号(2018年11月)に掲載された。自分は関西からの新参者であり、また高良先生や興生院のことにあまり通じていないので、戸惑いながら、訪問当日の記憶をたどり、さらに高良先生と御家族と別荘のことを皆様に教えて頂きながら、書いてみた。すると高良先生の生涯や御家族への想いが膨らみ、とても短文に収めきれるものではなくなったが、多くを端折って短文にした。
  それは既に掲載済みであり、その文をここに紹介することは許されると思うので、まずそれを再掲する。そして、チェーンストーリーのような挿話を少し付け加えることにしたい。

 

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2.「高良武久先生の元別荘、真鶴森の家を訪ねて」
 
  去る平成30年5月27日、保存会の総会を兼ねて、真鶴半島にある高良武久先生の元別荘を訪ねる日帰り旅行が開催された。私は以前からこの半島に妙に関心があった。地図上に存在するが、その存在を主張していない不思議な半島に思えたからである。高良先生の別荘がそこにあったとは。自分の不思議の中に、さらに高良家の人びとのことが加わった。私が理解してもいいのだろうかと逡巡しながら、別荘訪問の貴重な旅に参加した。関西在住の私だが、保存会への入会を認められて数年になる。まだ新参者の私も加わって、総勢14名のグループだった。
  真鶴半島は細長くて、尾根に向かう道路も狭い。その道をタクシーで少し登った地点から、右に下がった、半島西側の斜面の敷地に別荘があった。思いがけず、訪問記を書く機会を頂いたが、なにぶん知らないことが多い。そこで高良留美子様におたずねしたところ、丁寧なお答えを頂戴した。それを頼りに、この別荘の歴史を簡単に記すことにする。
  それは昭和28年前後に、高良先生が家屋つきのミカン園を購入されたことに始まる。その後、「父の家」(高良先生の書斎)、「石の家」(とみ様のお住まいになった)が建てられた。そして高良先生のご逝去後に、長女の真木様がアトリエ兼自宅として「木の家」を建て、そこを高齢者が共同生活をする家になさった。真木様がお亡くなりになってから、「木の家」は一般社団法人、真鶴「森の家」となった。
  私たちはこの家を訪れたのだが、贅を尽くした大きな建物で、海側に面した大広間で総会が開かれた。「森の家」の名の通り、外はさながら森で、海への視界は遮られているが、高良先生は遥かなる鹿児島を懐かしんで、海に面したこの地に別荘をもうけられたのであろうか。
  先生は晩年の「真鶴の庭で」と題した随筆で、ミモザの花のことを書いておられる。ミモザは冬に黄色い花をつける。南仏のニースあたりを主産地とするミモザは、ヨーロッパでは春を告げる花として愛でられている。「ミモザ館」という古いフランス映画を思い出した。母親のような女性と若者との間の愛と葛藤が南仏を舞台に描かれた映画だった。『誕生を待つ生命』という、ミモザの花のような高良美世子様の著作集も読んだ。昭和30年に高良先生がパリ留学中の真木様を訪ね、その際にパリ大学で森田療法の講演をなさったという経緯を知ったのは、この本の巻末年譜からである。



拡大する場合はここをクリック(Google Maps)

 
3. 真鶴森の家
  そもそも、真鶴の地名の由来は、内陸の山手からこの地域を見下ろすと、羽根を広げている鶴が、首から先を海に突き出している姿のように見えるからだと言う。真鶴半島が鶴の首、頭からさらに嘴にあたるのである。真鶴町でも半島の北の漁港があるあたりは、岩という地区で、半島は真鶴町の真鶴地区である。その真鶴地区に高良先生の元別荘がある。
  高良先生の没後に、真木様が新たにお建てになり、アトリエを兼ねてお住まいになっていた木造の家、つまり「木の家」と呼ばれていた建物が現在も中心をなしている。敷地が斜面なので、二階に玄関があり、その下にもうひとつの階がある。この下の階が海に面しており、バルコニーもあって、眼下に海を一望できたのだった。しかし、庭のユーカリなどの多くの樹木は、天に向かって真っ直ぐに伸び、庭木は林となり、森となって、眺望を遮っている。真木様がお亡くなりになった後、「木の家」は一般社団法人となり、「木の家」と呼ばずに「森の家」と命名された。これはちょっとしたユーモアなのであろうか。あるいはホラーの域に近いかもしれない。木々の生命力を肯定するなら、適切な名称ではあるが。
  その法人としての「森の家」はどのように機能しているのだろう。芸術作品の展示や、集いやイベントの開催などに場を提供することになっているのであろう。
 
  ネット上に「音空 onkuu」というサイトがあり、その中に「真鶴「森の家」にて」というブログ記事がある。参考になるので、一方的だがリンクを付けさせてもらう。ただしこのブログを書いた人も不思議の世界の住人のようだが、洗練された感性を感じる。

音空 onkuu 真鶴「森の家」にて

 

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4. 高良先生と真木様とパリ
  真木様は、昭和28年にデンマークのコペンハーゲンで開催された世界婦人大会に英語の通訳として随行され、パリへ到着し、美術を学ばれた。そのまま帰国せずにパリに留まられたのであろうか、とにかく、真木様はこの時期からパリで留学生活を送られた。
  高良美世代子様の著作集『誕生を待つ生命』を編まれた高良留美子様は、パリ留学当時の真木様と日本の家族が交わした書簡を、その本の中で紹介なさっている。それを見ると、昭和30年4月現在で真木様のパリの住所は、大学都市のアメリカ館になっている。しかし同月より、パリ5区のアパートに引っ越されている。その時期よりかなり時を経て、私自身パリに一年間住んだときは、半年間を大学都市のキューバ館で過ごした。アメリカ館とは目と鼻の先だった。パリ5区の雰囲気にも懐かしいものを覚える。
  高良先生は、昭和30年5月に渡欧し、パリ滞在中の真木様と会い、同年6月、留学中だった荻野恒一氏の協力で、パリ大学のサンタンヌ病院において森田療法についての講演をなさった。これが、日本人によるフランスへの森田療法の紹介の第一号である。サンタンヌ病院は、後に私もそこで学ぶことになった。
  高良先生は講演後、その夏に真木様と共に帰国された。
  なお、この講演録(仏文)は、高良武久著作集第二巻に掲載されている。

 

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5. 高良武久先生は詩人であった。
  高良先生が亡くなられて3年後の1999年に、『高良武久詩集』が刊行された。没後に真鶴の家の居間にある棚の引き出しから、詩稿が見つかったそうである。その中には、結婚前の高良とみ様(和田とみ、筆名富子)の詩も含まれていた。つまり、高良先生の詩は、とみ様との交際の中で相聞歌として生まれたものらしいと、編者あとがきに高良留美子様が記しておられる。留美子様の解説は、さらに次のように続く。
 「これらの詩が書かれたのは、高良武久が九大医学部を卒業して精神科の医局に入局し、すでに助手としてそこにいた和田とみと知り合った1924年4月以降、彼女が日本女子大学教授に就任して九大を去る1927年3月までのほぼ3年間、年齢的には25歳から27歳までのあいだと考えることができる」。
 「二人はこの交際を、結婚する1929年10月まで周囲には秘密にしていた。…詩はその二人のあいだでひそかに交換されたのだろう。因襲への反発や批判、そして自由への渇望が随所に見られる」。
  高良先生は、上田敏の『海潮音』などを愛読しておられ、先生自身の詩も象徴派の系譜に入ると、留美子様は記しておられる。
  象徴派の詩についてコメントを述べることは、私の力量の及ぶところではない。まして相聞歌としての象徴詩である。詩集をお読み頂くほかないと思う。
  高良先生はロマンチストであった。そして格調高い象徴派の詩人であった。

森田療法の考現学的研究についての予備的試論―考古学から考現学へ―(3)

2018/11/29

  ごく最近、新たなフランス人精神科医師との交流が始まった。リアルタイムの話である。
  森田療法の国際交流については、考現学の問題として、早晩記さねばならないことゆえ、この際、現在の日仏交流についての実況を記すことにする。その前に、一応過去の日仏交流の失敗談から始めねばならない。

 

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10. 森田療法における国際交流
  この日本的、東洋的な療法についての国際交流という大きな問題がある。考現学的に、これを取り上げることは不可欠である。ただし、これを一挙に書き記すことはできない。
  自分は長年、日仏交流に従事して、森田療法をかの地に伝えることの難しさを味わってきた。フランスでの講演活動やフランスの雑誌への寄稿により、なるべく相手に分かり易く説明することはできた。しかし、それだけでは森田療法がフランスで実際に実践的に取り入れられるには至らなかった。日本人による講演や執筆による紹介活動だけでなく、フランス人たちが日本の森田療法の臨床現場へ学びに来ることも必要であると思われた。その意味で、10年あまり前に、日仏医学会(という組織がある)の精神科医師たちが三聖病院に関心を示して、来訪の受け入れを求めてきた。そのような希望が来ること自体はよいことであった。そして実際に一行が来訪したのだった。しかし彼らの関心は浅く、一時的なものに過ぎなかった上に、フランス人側の責任者のペースで、病院の規律を無視した押しかけの感が強かった。入院森田療法の場の雰囲気を体験的に味わってこそ、よいみやげになるのだが、彼らにはそのような姿勢が欠けているようだった。また三聖病院側は、来る者は拒まないというだけの無関心的不問の受け入れ方で、両者はまったく噛み合わなかった。これは禅的な森田療法(宇佐療法)についての国際交流の野外実験に等しく、不毛の結果に終わった。自分は裏方に徹し、マネジメントに努力を尽くしたが、それが実らなかった虚しさだけが残った。なんとも苦い体験であった。そんな負の学びがあったことを、記しておく。
  なお、三聖病院には、4年前の閉院直前にフランス語圏国際学会組織のPsyCauseのグループが来訪した。このときは、京都での学会の開催と連動した病院訪問だったので、訪問前に森田療法を講習的に教える学会プログラムを組んだ。そのため、外国人として最後の病院訪問者になった彼らにとって、それなりに印象に残るものがあったようである。

 

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11. 現在の私の日仏交流
  近年は、PsyCause というフランス語圏国際組織と関わっている。今年は森田正馬の没後80年で、生家訪問など記念行事が7月に開催されることを、事前に情報としてフランス側に伝えておいた。それに対して、関心を示した3人の人たち(精神科医師や精神分析家)が、暑い7月を避けて4月末から5月初めにかけて、森田正馬の生家訪問のために来日した。同行してあげることはできなかったが、帰国前の3人(精神分析家の Nyl ERB 女史ら)と大阪で会った。そしてそのような顛末が、PsyCause のホームページに掲載された。その日仏交流の記事に対して、関心を示して書き込みをしてくれたフランス人精神科医師がいた。ストラスブールのジョルジュ・ヨラム・フェーデルマン Georges Yoram FEDERMANN 医師である。
  その書き込みには、自分は木村敏の “ 間(AIDA)”についての本を読んでいると記載されていたので、日本語ができる人だろうかと期待して、日本語でコメントを返したが通じないようだった。いつも私とメール交換をしている Nyl ERB 女史によると、国際的にも名前を知られている活動的な医師であるとのこと。われわれが今後、日仏交流を継続し、成果をあげるには、アルザスのコルマールに住む Nyl ERB 女史が、ストラスブールの Georges Yoram FEDERMANN 医師と提携してくれたら如何ですかと、私は提案してみた。その提案を受けて、Nyl ERB 女史は Georges Yoram FEDERMANN 医師に連絡を取り、さる11月23日に、Nyl ERB 女史がストラスブールのFEDERMANN 医師の自宅を訪問するかたちで、お二人の出会いが実現した。仕掛け人はこの私で、メール一本の提案で、二人が出会って、交流を開始してくれたのである。有り難いことで、同時に責任も感じる。
  Nyl ERB 女史からのメールによると、FEDERMANN 医師は、神経症の治療ではなく、様々な病理の精神障害に対して、第一線で精神療法に従事している精神科医で、森田療法に非常に関心を示してくださっているそうである。自らの精神療法については、ドキュメンタリー映画を自主制作なさったという。
  Georges Yoram FEDERMANN 先生は、早速11月26日に、私に直接メールをくださった。そのメールに、ご自身の活動や関心などが記されているので、それを紹介する。
  いただいたメール文の冒頭箇所に、重要なことを書いてくださっているので、まずその部分をフランス語のままで引用する。
 
 
Cher et honoré Professeur Okamoto,
 
Je suis très heureux et ému d’entrer en relation avec vous de manière aussi directe.
 
Je suis un psychiatre pragmatique qui a toujours considéré que les maladies mentales “n’existaient pas”
mais que chaque sujet exprimait ses sentiments, ses douleurs et ses espoirs à sa manière, telle une oeuvre d’art.
Et qu’il fallait toucher à cela le moins possible.
 
Chacun crée une partition que le psychiatre est chargé de déchiffrer et d’interpréter
pour devenir le compagnon de route du patient, parfois pour toute la vie.
 
J’ai vraiment le sentiment de pratiquer ” la thérapie de Morita” depuis toujours sans savoir qu’elle existait.
 

 
  上の引用部分を訳しておく―
 「貴殿とこのように直接交流できるようになって、幸甚です。
  私は実践に従事している精神科医師で、いわゆる精神疾患というものが存在するのではなく、それぞれの人たちが感情や苦悩や希望を、自分なりに表現しているのだと、いつも思っていました。あたかも芸術作品のように。
  だからそれをできるだけいじらない方がよいのだと。
  みながそれぞれに自分を創造しており、精神科医師はそれを読み解き、理解者になり、患者の歩みに同行しなければなりません、―ときにはその生涯にわたって。
  まったくもって私は、森田療法というものがあったのを知らないままに、森田療法なるものをいつもおこなっていたのだと実感します。」
 
  FEDERMANN 先生の書いておられるとおりだと思う。神経質や神経症の治療をするためにだけ、森田療法があるのではなかろう。
  さらに FEDERMANN 医師は、30年以上前から、フランス国内にいる難民などの多数の外国人(コーカサスやマグレブやアフリカなどからの人たち)の診療活動をしており、とりわけ戦争による心的外傷に関心を向けている、と書いておられる。
  日本への関心については、スイス在住の義理の兄弟がいて、建築家だが、日本人女性と結婚しているので、日本のことを知っていて、彼が木村敏の本を貸してくれたりしたとのこと。
 
  FEDERWANN 先生は、2本ほどドキュメンタリー映画を制作しておられる。
 
・ “ Le Divan du monde ” (2015)
  (自身のcabinetでの、さまざまな人たちへの精神療法の記録)
 
・ “ Comme elle vient ” (2018)
  (インタビュー形式で、自身のことや映画のことを語っている)。
 
  2つの映画のタイトルは、非常に象徴的なもので、今は日本語に訳しづらい。
  これらの2本の映画は、メールに添えて送ってくださったので、繰り返し視聴している。このホームページにそれらの映画を公開するのは、時期尚早で、今は難しい。今後、許諾を頂けたら、関心のある方にこれらの映画を視聴してもらえるかもしれない。
  この先生との交流は、これから始めるところである。
  なお、Georges Yoram FEDERMANN の名前で検索すれば、Wikipediaなどの記事が出る。YouTube からはインタビューなどの動画が出る。
 
ウィキペディア記事
https://fr.wikipedia.org/wiki/Georges_Yoram_Federmann
 
ユーチューブのインタビュー動画
https://www.youtube.com/watch?v=CwAmT3m4pMQ

森田療法の考現学的研究についての予備的試論―考古学から考現学へ―(2)

2018/11/21

  森田療法の考現学を意図している。これは大きな問題なので、まとめるところまで到達するかどうか、おぼつかない。
  とにかく最初の段階として、過去から現在までの流れの中で、気になる事柄を、体系的でなく、材料として自由に取り出すことにしている。そこで前回に続いて、いくつかの問題点を書いてみる。思いつくままに書くのだが、それはおのずから問題を蔵していると思う点を書くことになるはずである。
 

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7. 森田療法へのとらわれ(1)
  森田療法の分野では、とらわれがしばしば問題になる。まずは神経症の当事者における症状へのとらわれがあり、神経質(神経症)に特有の心理機制として、よく知られているところであるが、これは森田療法へのとらわれではない。
  症状に対するとらわれと別に、森田療法に対するとらわれが起こり得る。強迫性を帯びた人の場合に多いが、後生とばかりに、森田療法とその治療者を頼りにし、治してほしい一心で療法を守ろうとすればするほど、森田療法そのものに縛られてしまう「森田療法へのとらわれ」が起こる。私は禅的色彩の濃い入院原法の病院にかつて勤務していて、そのような例によく遭遇した。入院生活の規則を強迫的に守っても、症状は温存され事態は変わらないことが多い。困って治療者に助けを求めても、暖簾に腕押しのように不問に付されて、どうすることもできなくなってしまう。ついに治療者に不信感が湧いて、いっそ森田療法から離れたいと願うことになるが、森田療法に対して思い入れが強かった分、両価的になり、離れようにも離れられない。行き詰まって絶望的な状態になってしまう。
  これは禅の魔境のようなものである。こんな場合、カウンセリング的介入が必要になる。さもなければ、深刻なアクティングアウトを起こすことになりかねない。

 

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8. 森田療法へのとらわれ(2)
  治療過程で起こるもう一つの「森田療法へのとらわれ」がある。それは、入院森田療法のような隔離された環境において、その中心に治療者が君臨している場で発生しやすいもので、自己愛的な患者が、権威性を帯びた治療者を崇拝して、理想化転移を起こしてしまうものである。それは、カリスマ的な治療者、〇〇先生による療法としての森田療法(〇〇療法)に取り憑かれたようになってしまうという意味での、とらわれである。患者は、カリスマ的な治療者に、分身のごとく自らを重ね合わせる。そして治療者に仕えて、その言動を真似る。慢心が生じ、後進に対して尊大な言動を示す。森田療法で「治った」という人によくある「くさみ」、自己愛臭として、従来から指摘されていたものに通じるであろう。
  このような特徴は、禅の魔境の一種としての、勝境と言われる心理状態に近い。悟りを開いたつもりの勝ち誇った、驕りの心境である。しかしこのような第二の森田療法へのとらわれは、一時的な心境ではなく、パーソナリテイの水準の低下を伴う変化なので、容易には解消しない。治療者に忠臣のよう依存し続けて、独立独歩でき難くなる。
  穿ったことを言えば、治療者もまた臣下の崇拝によって支えられる面があり得る。共依存という言葉が適切かどうかわからないが、とにかく慢性的な相互の依存関係が続くことになり、処理は困難である。そもそも、治療者が患者らのこのような陽性転移を処理しない、または処理できないで、転移に安住している事態に他ならないと言えよう。
  たまたま私は、治療者を崇拝するとらわれに陥っているグループ内の某氏と、一時的に交流したことがあった。その某氏は「自分たちは落伍者かもしれない」と一旦冷静な見方を示したが、結局、再び自分たちのグループの中に深入りしていった。
  森田正馬は権威的な人であったけれども、「患者が治癒に向かって後に、何となく余に頼るといふ事があるから、『余に頼る間は病気の治癒ではない』といふ事を教えるのである」(『神経質及神経衰弱症の療法』)と書いて、治療者を「信仰」し続けることを戒めた。治療者患者関係について、森田自身が配意をしていたことがわかる。後世の森田療法家は、案外この点を学び損ねていたのではなかろうか。

 

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9. 私たちの「森田療法へのとらわれ」
  認知行動療法が医療保険上で点数化されたが、森田療法はそのような恩恵に浴していず、医療経済学的に不利な条件下にある。医療に限らず、心理臨床や福祉や教育の分野でも、森田療法は経済面で恵まれていない。それにもかかわらず、今日多岐にわたる分野のさまざまな職種の方々が、森田療法に熱意を注がれている様子が学会等の活動から、見て取れる。
  そこにおいては、さまざまな森田療法関係者が、森田療法に関心を持ったり、その臨床に従事したり、教育、福祉などの領域に広く生かそうとしたり、その研究をしたり、その普及をはかろうと努めたりしている諸活動が浮かび上がるが、その中にも、なんらかの「森田療法へのとらわれ」 があるのではないだろうか、と思う。
  この場合、「とらわれ」という言葉は固くて柔軟性に欠けそうだから、不適切かもしれない。そこにはさまざまなものが含まれていると思われる。すなわち、森田療法に関わろうとする、なんらかの理由や動機や興味、研究的な関心・意欲、臨床的な関心・意欲、使命感、役割意識、やりがい、喜び、個人的必要性、営利、などであろう。ほかにも、もっと生々しいファクターがあるかもしれないと思うが、露骨には書きにくい。
  ともあれ、前述したような、神経症的な当事者が治療過程で陥る「森田療法へのとらわれ」と別に、このような種々の要因に動かされて、私たちは、さまざまな立場から森田療法に関わっていると思うのである。
  もちろん私自身も、その「とらわれ」のようなものを自覚しており、因果な巡り合わせだと思っている。開示することはできるが、ここでは個人的なことはさておき、今日の森田療法関係者諸氏における、森田療法への動因としての「とらわれ」の実態に強い関心を持つものである。
  伝統的な森田療法を守っていくには、隠れキリシタンのような悲壮さを伴うが、新しい時代の新しい動因によって、森田療法は前進していくのかもしれない。期待と不安を持って、そのような状況を見守りたい。

森田療法の考現学的研究についての予備的試論―考古学から考現学へ―(1)

2018/11/01

1. 自分と研究論争の経験
 
  自分は大学紛争を経験した世代である。インターンのときはインターン闘争に、精神科に入局したら、医局講座制解体運動に巻き込まれた。博士号を取るための研究は罪悪だと、運動家たちが叫んでいた。その渦中で自分なりに悩み、研究のための研究はむなしいとつくづく思ったが、本当に役に立つ研究は必要ではないだろうかと考えて、活動的な同級生と論争したこともあった。しかし、研究論争はむなしく、過酷な精神医療の仕事にも疲れて、精神だけにとらわれるのをやめ、全人的な心身医療に方向転換した。さらに日本だけにとらわれるのをやめ、フランス精神医学に研究的関心をもち、フランス人と一緒に東西の精神療法を考えるうちに、結局日本の森田療法に帰着した。遠回りの果ての「照顧脚下」であった。だからその分、生活の中での治療者の精進と患者さんに対する診療は不可分である森田療法のいとなみが身に染みた。したがって、生活の実際をおろそかにして、軽々しく研究に走るようなものではないと、ごく自然に思うようになった。
  そのような、いわば自覚を経て、臨床実践のあり方を見直すために研究もまた必要だと認識するにいたっている。これがスロースターターだった自分の森田療法歴である。このところ、もしかしたら、理論に走っている輩だとみなされているかも知れない。しかし、かつて徒弟のように臨床経験をしていて、それはまだまだ不足だけれど、ともあれ研究の安易な量的生産傾向に対しては、内心つい懐疑的になるという古臭い人間である。

 

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2. 森田療法における二次元的研究から、森田療法の三次元的研究へ
 
  今日、森田正馬の原法が廃れつつあり、原法から離れた「森田療法」が広がりを見せ、その広がりに並行して「研究」も花盛りである。
  古い頑なな私の立場は、先に明かした通りで、治療者も患者も森田療法的に生きるもの、それが即ち森田療法であって、気安く研究に走ることは不遜なことだと、私は長い間思い込んでいた。今もそう思っていることに変わりはない。
  しかし、森田療法の移り変わりを目の当たりにして、カルチャーショックを受け、愚痴を言い、過去にとらわれているばかりでは生産につながらない。今日において、森田療法なるものにどのように関心がもたれ、その「森田療法なるもの」がどのように実施されているのか。それは気になる一大事であって、そのような一大事こそ、研究的にアプローチすべき課題なのではないかと思う。地上の京都の片隅で、一定期間、療法に関わってあくせくしていた小さな自分が、巣から飛び立った鳥のように、三次元の視界から地上の森田療法世界を眺めてみたいというわけである。原法の廃れ方、あるいは変容について、またあるいは新たな形での普及について、俯瞰的に見ることが必要だと思うこの頃なのである。つまり森田療法の現実を、あえて客観化してみようとする考現学の発想である。とは言え、私自身、過去と現在のはざまで、未だに五里霧中にいる。森田療法の歴史に照らしながら、その考現学をクリアにまとめることは容易ではなさそうである。
  そこで、まずは、森田正馬がおこなった療法の特徴や、今日的事情の中に見える問題点などについて、思いつくまま、あれこれ順不同に言及してみたい。療法の過去と現在について、断片的に思うことをいくつかランダムに記してみることで、次第に何かが見えてくる方向に持って行けたらという、やや無謀な発想である。
 

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3. 森田療法が神経症をつくる。
 
  生活の中での、あるいは臨床的営みにおいての、実践なくして森田療法はありえない。机上の論より、実際の方が重たいのである。これは一応大事なことである。
  森田療法とは森田正馬という偉い人によって創られた神経質に対する日本独自の療法で、かくかくしかじかの森田理論があって、最近は認知行動療法やマインドフルネスとかいうものと関係があると言われていて、などと頭でこねくり回しているところに、森田療法はなく、ただひたすら、自分の人生を精一杯に、苦しみながら、あるいは楽しみながら、無心に生きているところに本当の森田療法の醍醐味がある。ところがそのような場合、当の本人は、いちいちこれが森田療法の醍醐味だと意識していないし、意識する必要もない。そもそも森田療法というものを知っている必要もない。然るに一旦森田療法を知ってしまった人が、森田療法の醍醐味を味わおうと探し始めたら、それこそいい面の皮で、醍醐味は逃げていく。森田療法探しの神経症になっているのである。
  これは禅において、悟りを追えば悟りは逃げていき、求めようとすれば得られないというパラドックスに直面することに等しい。そこで禅は矛盾をそのままに生きることを教える。禅は不可解なのを得意とするところがあるので困るけれども、禅が悩みを取り除く新しい禅に変わったという話は聞いたことがない。森田療法は、患者さんの求めに負けて、つい症状を治す療法になっている傾向、なきにしもあらずである。

 

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4. 森田療法の功罪
 
  先のように考えると、森田療法は罪作りである。蟻地獄のようなものだ。東大出の偉い先生が、余の特殊療法なるものを創られて、それは自然療法、あるいは体験療法と言い換えてもいいものだとおっしゃった。しかしそもそも療法とは巧まれた技であろうし、余のと冠され、特殊と銘打たれた巧みの技が、どうして自然なものであろうか。体験ということについては、何らかの体験が待っているだろう。お化け屋敷に入るときのように、少々胸が躍るというものだ。
  そこで、石橋を叩いて、渡るか渡らないか思案のしどころだが、藁ならぬ偉い先生に縋ろうとした人たちが、余の特殊療法がおこなわれているらしい森田邸内に入れてもらったのだった。
  偉い人に憧れ、偉い人に親和性を感じ、かつ高額の治療費を払えるという経済的に恵まれた家庭の子女たちが、余の特殊療法に引っかかったのである。療法も特殊なら、引っかかった患者さんも、一部の特殊層の人たちだったのである。特殊ではない一般大衆の人びとの中にも、もちろん神経質や神経衰弱に悩む者はいただろうけれど、受診する専門の医者がほとんどいなかったために、神経質や神経衰弱と診断されずに済んだ。森田はそのような診断名をつけた上で、健康人のふりをせよ、と言った。宇佐玄雄も同様だった。患者はダブルバインドで縛られたであろう。一般大衆の人たちは、神経質とか神経衰弱と診断してもらえないので、健康人のふりをして生活するしかなかったのである。

 

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5. 大江戸自然療法
 
  さて、森田先生の邸宅での治療の場は、自然を体験できる環境であったか? これはちょっと面白い問題である。森田先生が言われた自然療法の意味するところは、心は万境に随って転ずるままに、日々気をきかせて立ち回るようにということであったろう。蓬莱町の森田邸は大きな屋敷だったけれども、森や田んぼの自然があるような場所では、もちろんなかった。塀の中での入院生活において、自然服従を体験させようとされたものであったことは、明らかである。家庭的環境で、共同生活を送り、起居を共にしている治療者から薫陶を受けつつ、邸内の生活の流れに即応した動きをする。
  森田先生は、禅に関心を有しておられたが、深山幽谷に入って座禅をするような修行の胡散臭さを看破して、悟りも治癒も日常生活の中にこそあるという達観を有しておられた。自分の療法は禅から出たものではない、禅のことはわからぬと言われた謙遜と裏腹に、本物の禅的域に達しておられたことはさすがである。生活の至る所がすべて修行の場であり、治療的な場でもあった。
  ときには塀の外へ出て、森田先生の乗った乳母車を押して市場へ買い物に行くのも、ときには浅草へお供をするのも、大江戸の自然界の中の体験であった。さらにときには、患者を連れて熱海へ観梅に行き、他人の家の塀の中に無断で入って見せたのも、番外編のエピソードである。これらは確かに森田先生の着想による、場を利用した優れた体験的な自然療法であった。

 

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6. 天然療法
 
  さらに面白いのは、森田先生がいわゆる天然の人であったことである。治療や指導において、奇抜なことをなさったエピソードには、事欠かない。神経質の患者さんたちは結構頑固で、固定観念にがんじがらめになって、柔軟な発想をできないから、人を見て法を説き、臨機応変に対機説法をする必要があったに違いない。しかし、みずから神経質者であったという森田先生自身が、神経質患者たちがとてもできないような自由奔放な行動の見本を示されたのは、一驚に値する。森田先生自身が、若き日に悩んだ神経質から一皮も二皮も脱皮して、自由人へと成長なされたということであろうか。とにかく、治療上で患者への教えとして示されたユニークな数々のエピソードがある。そのいくつかを挙げておこう。
  病気療養中の見舞い客への「下されもの」についての張り紙による教えは有名である。困る物、困らぬ物、うれしき物、と三通りに分けて物の例を示しておられる。困る物では、メロンや商品券が挙げられている。高価なメロンを持ってこられても生ものは扱いに困る。商品券も厄介である。うれしき物としては、金、一輪花、女中に反物、などと書かれている。病人にとって現金はありがたいものである。欲深さから金を望んでいるのでないことは、一輪花の配慮をありがたく思う気持ちからも窺える。女中に反物とは、裏方の従業員の苦労をねぎらってくれたらうれしいとの気持ちの表現である。ただ、このようなことは、通常思っていてもなかなか掲示には出し難い。気の利かない神経症者への教えとしてだけれど、掲示を出されたところが森田先生らしいのである。
  また、森田先生は入院患者たちの前で本ものの夫婦喧嘩におよび、君らは僕と妻のどちらが正しいと思うかと問われたという語り草がある。実際のその場で問われた者は、なんらかの答えをするとか、そっと逃げるとか、対処せねばならない。このような家庭生活丸出しの実際的な治療は、森田ならではのものであった。
  乳母車に乗って患者にそれを押させて、市場に買い物に出かけたことも、よく知られている。市場の狭い通路を通るには、乳母車が便利だったのである。奇をてらったのではなくて、合理性をよしとして、恥や外聞を気にしなかったのである。
  バイブルで鼻をかんでもよいが、人前ではしてはよくないと言い、森田流の常識を重んじるところがあった。
  総じて森田の行動は、患者の前で治療用に巧んで振る舞ったのではなく、天真爛漫で自由な行動をそのままに見せた。なかなか真似のできないことである。そこには、人間的に成熟した境地があったのであろう。同時に、天性の人間味、別言すれば、天然の資質がちょうど治療にフィットしたと考えることもできよう。
  自然療法と言えども、療法と言う以上は巧んだものではないかと先に書いたが、巧んだものではない大江戸自然療法があった上に、森田ならではの天然療法の面目があったのである。

(続く)

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