謹賀新年

2017/01/08

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           謹 賀 新 年

 
     本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 
                                        京都森田療法研究所
                                         主宰者  岡本重慶
                                         研究員  一同
                                         協力者  一同
 
   この研究所活動を始めて5年になります。
   昨年は、いくつかの研究課題を追う過程で、沢山の新たな人々との出会いに恵まれました。
   そして新たな課題に遭遇しました。
   ご縁に感謝しながら、今年も歩を進めます。
 
   皆々様のご清福を祈ります。  

森田正馬は、鎌倉円覚寺に参禅したか?(2) ―鈴木知準氏の森田正馬円覚寺参禅説について―

2016/12/27

 

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 最初に、前回の稿で述べたことを繰り返しておく。 森田正馬は、明治43年に谷中の両忘会に入り、釈宗活のもとに参禅したことは、事実として疑いを入れない。しかし、一方で、鎌倉円覚寺の釈宗演のもとに参禅したという説がある。これを声高に強調なさったのは、鈴木知準氏である。その根拠として鈴木氏は、森田自身が「円覚寺の釈宗演のもとで」参禅したと述べた文献があるとして、次のものを挙げておられる。
 森田正馬 : 日々是好日. 神経質(旧)六巻 146,1935.
 この文献に相当するものは、森田正馬全集第七巻に収載されているのだが、奇妙なことに、鈴木先生のおっしゃる「円覚寺の釈宗演のもとで」という肝心の言葉はない。
 この不一致は何を意味するのか。そこには、さまざまなことが考えられる。端的に言えば、そのような文言があった筈だという鈴木氏の思い込みか、さもなければ、編集者の判断により、その文言の削除がおこなわれたか、という推論を立ててみたのだった。
 

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 さて、前回手許になかった「神経質(旧)」誌(昭和10年4月号)の森田自身の文献、「日々是好日」にようやくたどり着いて、該当する文章を読んだ。そこには鈴木氏のおっしゃった「円覚寺の釈宗演のもとで」という言葉は、ついぞ見当たらなかった。森田正馬はかく語りき、と鈴木氏が示した文献中で、森田はかく語ってはいなかったのである。鈴木氏の言説に、実に単純な齟齬があった、と言わねばならない。森田がかく語ったという鈴木氏の言説は、昭和52年の氏の著作に見られるのだが、さらに付け加えれば、昭和51年に三聖病院の、宇佐玄雄生誕九十周年・三聖病院開院五十周年記念講演会に招かれて、その場においても全く同じことを述べておられ、それは昭和52年の三省会報第4号(昭和52年4月8日)に掲載されている。
 これらに先立って、森田の「日々是好日」という文献は、昭和50年に森田正馬全集第七巻に、熊野明夫氏の編集により収載されており、それは「神経質(旧)」誌に昭和10年に掲載された元の文献の再掲で、両方を照らしてチェックしてみたが、いずれにも、「円覚寺の釈宗演のもとで」という文言はない。ここにおいて、第七巻の編集者の熊野氏の作為が働いた可能性は消えて、問題はやはり元になった森田の文献の引用の正確性に差し戻される。誤った引用をすれば、そこに責任が発生する。にも拘わらず鈴木氏は、ためらうところなく、「森田は『円覚寺の釈宗演のもとで』参禅をしたと言っている」と、熱く語ったり書いたりなさっている。このけれんみのない語りは、一体何を意味するものであろうか。これは鈴木氏における単なる思い込み、あるいは記憶の錯誤の類のものであろうか。それとも、もっと深い確信的根拠に基づいてのことであろうか。真相はどこにあるのであろう。
 

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 ところで、昭和10年の「神経質(旧)」誌上の森田の文献は、書き下ろされたたものではない。森田は、前年秋に高知に帰省する途中で、三聖病院で一泊してそこで講話をおこなっており、それが書き起こされた講話録である。おそらく書き取りをもとに起草されたものであろう。そして、その起草文は、まず三聖病院から刊行されていた機関誌に掲載されて、それが森田のもとに届けられて、「神経質(旧)」誌に転載されたとみるのが妥当である。また森田自身、この雑誌の編集発行者であったし、自分の講話録であるから、目を通して内容を確認した筈である。だが、ちょうどこの雑誌が編集された時期には、森田は熱海で病臥中で、編集は竹山恒寿氏によっておこなわれている。このような過程で、原稿の文言の脱落が起こった可能性もないではない。それにしても、鈴木氏がそこまで深読みしておられたかどうか、定かではない。とにかく鈴木氏の引用しておられる文言は、どこにもないのである。
 森田が三聖病院で「日々是好日」と題する講話をおこなったのは、昭和9年11月23日のことで、この高知への帰省の旅には、井上常七氏や、布留氏、野田氏が同行し、共に三聖病院に宿泊して、森田の講話を聴いておられた。このような方々や、竹山恒寿氏、熊野明夫氏は、森田が円覚寺の釈宗演のもとに参禅したか否かを知っておられたに相違ない。井上常七氏や熊野明夫氏らの生前に、証言を頂いていなかったとしたら、大変悔やまれる。また熊野明夫氏は、鈴木氏の愛弟子だった方と聞くが、鈴木氏との間で、森田円覚寺参禅説について、後日に討論は交わされなかったのであろうか。鈴木氏や熊野氏の周囲におられた方々が、ご存知であったら是非お教え頂きたいものである。

 

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 さらに無視できないことが残っている。鈴木氏における文言の引用の矛盾をあげつらうにとどまらず、引用に依拠しない鈴木氏の文脈にも注意を向けておきたい。前回に、森田の円覚寺参禅説を述べた氏の文章の二カ所を抜粋して示したが、その第一の文章を、前回より少し長めに引用してみる。
 「明治に入って臨済禅の系統に廃仏毀釈の新政治の嵐の中を生きぬいた禅僧に鎌倉円覚寺の今北洪川、その弟子の釈宗演がある。ここに夏目漱石、鈴木大拙、西田幾多郎、若い日の森田正馬も参禅している。これは明治二十年代から三十年代のことであった。(…)禅が日本文化に影響をあたえ出したのは、鎌倉時代からといわれる。(…)日本人の生き方、特に武士道、更に心学や武芸も強く影響された。森田もまたこの文化的影響下に育ったことになる。」
 この文章は、森田の「日々是好日」の文献に拠らずに、森田の円覚寺参禅説が述べられているので、引用の矛盾を免れているが、具体的根拠には欠けている。当時の文化的背景と森田の関心を考え合わせて、森田は必然的に円覚寺に参禅したと、ずばりと言い切るレトリックになっている。具体的証拠を示さずに、断定的に言うことには問題があるが、私自身も、森田が鎌倉円覚寺に、もし参禅を試みなかったとしたら、むしろその方が不思議なことであると思っている。
 森田の日記を調べてみても、円覚寺に関する記述は一切見られない。しかし、森田は箱根あたりの禅寺を観光的に見物したことも日記に記しているほどなので、禅への関心は窺われる。東京から遠くはない鎌倉の円覚寺を訪れたことが一度もなかったとは、到底考えられない。円覚寺のあたりを散策して、そのたたずまいを見たことくらいはあったろうに、と思う。円覚寺については、あえて日記に書かなかったか、書いてから削除したかという憶測が働いてしまう。そんな不自然さに関して、ひとつ想定されることとして、森田の希望に反して円覚寺への参禅が叶わなかった可能性が考えられる。
 円覚寺に参禅した文化人として、よく引き合いに出されるのは夏目漱石である。漱石は『門』にその体験を書いている。主人公、宗助は紹介状を持参して参禅を許可されている。受け入れられた宗助は、雲水たちと修行をともにしたのではなく、小説中で「一窓庵」と呼ばれる塔頭、帰源院に下宿して、典座寮の僧侶で釈宗活をモデルとした「釈宜道」に食事などの世話になって、老師から与えられた「父母未生以前の自己本来の面目如何」の公案を見解しながら、塔頭内で独座し、時間がきたら老師の釈宗演に相まみえるという体験をしたのだった。
 私は当時の円覚寺のことをまったく知らないので、あえて想像でものを言うことになってしまうが、市民に向けて開かれた座禅会のようなものはなくて、外部からは、主に一部の文化人だけが、客分のように受け入れられていたのではなかったろうか。そう考えると、円覚寺は、無名の若者であった森田が参禅を受け入れられるほどに、開かれてはいなかったのではないか、という推測が成り立つ。その後、釈宗演の命を受けて、釈宗活が東京の谷中で、在家者を対象とする、いわゆる居士禅の両忘会を主宰したので、森田も参加することになるが、釈宗演自身は、居士禅を専らとする人ではなく、仏教界における権力者のような人物であった。森田にとって円覚寺は狭き門であったのみならず、彼自身にとって、釈宗演は、一向に魅力を感じられない人物だったのではなかろうか。
 ちなみに、森田は釈宗演の名を伏せながら、明らかに宗演を批判する文章を書いているのである。
 釈宗演は、明治34年に「修養座右の銘」と称する、いくつかの言葉を作っている。森田は釈宗演という作者名は出さずに、それらのものものしい句に対して、「あたかも無念無想になれと命令するようなもの」であると、このような教えの愚を批判している(『神経質及神経衰弱症の療法』)。

 

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 鈴木氏の指摘するように、当時の日本の文化的背景を視野に入れると、森田が円覚寺のような格式ある禅寺で、一度は参禅の体験をしようと志したであろうことは、想像に難くない。ここまでは鈴木氏の文脈の通りであると思われる。しかるに現実には、夏目漱石と異なり、円覚寺の門は狭く、加えて森田は、釈宗演という老師に人間的魅力を感じることができなかったのではないかと推測されるのである。以上、想像を逞しくして書いてみた。その結果、円覚寺での参禅はなかったとみる方向性に傾いてしまったが、参禅について事実はどうだったかわからない。
 いずれにせよ、森田は決して禅への関心が薄かったのではなく、参禅については、師と場に恵まれなかったのは事実であろう。さらに、究極の禅的修行は、日常生活にあるという認識を有していて、禅寺に入る参禅を絶対不可欠としない柔軟な思想の持ち主であったのも、事実であったろうと考えられる。

                                          (あと少し次回に続く)

アフリカのコトヌー(ベナン)での学会で話題になった森田療法

2016/12/20

 去る11月の下旬にアフリカのコトヌー(ベナン)で開催された学会に招かれたPsyCauseの代表者、Jean-Paul BOSSUAT 先生は、日本の森田療法について、その療法のあらましを述べ、閉院前の三聖病院を訪問した体験についても話されました。聴衆は200 人ほどいて、その大半はアフリカの人たちであったが、彼らは森田療法に強い関心を示してくれたとのことです。アフリカの方々が、森田療法にどのように関心を持ってくれたのか、詳細はまだよくわかりませんが、BOSSUAT先生は以上のような報告をPsyCauseのホームページのサイトに記しておられますので、紹介しておきます。
 

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 La Pre Josiane Ezin Houngbé reçoit à dîner, au soir de la première journée de congrès, dans une salle du CNHU de Cotonou, le directeur de la revue Psy Cause et sa femme ainsi qu’un certain nombre de conférenciers et intervenants. Au cours des échanges lors de ce moment convivial, Le Pr Tognon ainsi que d’autres congressistes venus de Parakou, ville du centre Bénin où s’était déroulé le premier congrès de Psy Cause en Afrique Subsaharienne en 2008, ont exprimé leur souhait de la création rapide au Bénin d’une antenne Psy Cause Bénin. En effet, alors que la Côte d’Ivoire et le Cameroun en 2012, puis le Togo en 2015 et le Sénégal en 2016, ont mis en place une structure Psy Cause, il conviendrait, selon nos interlocuteurs, qu’au Bénin où Psy Cause a une histoire très ancienne, il en soit de même.
 
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 Lors de ce repas, le directeur de la revue Psy Cause a également eu des échanges avec des conférenciers venus de Belgique et de France, en particulier avec une sexologue de Bruxelles, Mme Martine Laloux, qui, dans l’après midi en plénière, a fait une communication très applaudie, intitulée « Impact de la maladie chronique sur la sexualité ». Les nombreuses discussions qui ont suivi avec la salle, en avaient fait une conférence très interactive. Heureuse de découvrir notre revue, elle nous a fait part, lors de ce dîner, de son intention de garder le contact, d’intervenir sur notre site et d’en parler autour d’elle en Belgique.
 
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 Tout au long des trois journées du congrès, ont eu lieu des échanges sur le fonctionnement de la revue Psy Cause. Principalement avec les Prs Jean Marie Yéo Ténéna (Côte d’Ivoire), Arouna Ouedraogo (Burkina Faso) et Aïda Sylla (Sénégal). Le Pr Jean Marie Yéo Ténéna, secrétaire de rédaction à l’Afrique Subsaharienne dans la revue Psy Cause, note que le nombre des articles adressés à la revue est bien supérieur à nos capacités de publication, ce qui, d’ailleurs, est un signe de succès. Il considère que nous devons mieux organiser la sélection des articles, ce qui renforcera la crédibilité de notre revue … et sera dans l’intérêt des auteurs. Le Pr Arouna Ouedraogo, Président de la Société Africaine de Santé Mentale, est en accord avec un renforcement de la sélection des articles.
 

 La Pr Aïda Sylla approuve également cette orientation. Elle est, de plus, favorable à ce que l’Ecole de Dakar pilote une demande de référencement au medline. La revue Psy Cause a déjà ses marques, en Afrique avec le CAMES, en France avec l’ASCODOPSY. La voie du référencement va se poursuivre et l’Afrique sera au cœur du processus. Au même moment, le Pr Mamadou Habib Thiam nous adresse depuis Dakar un courriel nous informant de l’avancement du second numéro Spécial Sénégal qui devrait paraître au premier semestre 2017. En ajoutant des échanges, en cours de congrès, avec le Pr André Tabo (Centrafrique) qui confirme la mise en place imminente à Bangui de Psy Cause Centrafrique, la richesse des rencontres à Cotonou du 22 au 24 novembre 2016 mesure le positionnement de Psy Cause en Afrique Subsaharienne francophone.
 
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 Nous poursuivons ce second volet avec la communication du directeur de la revue en plénière le 24 novembre « La thérapie de Morita à l’Hôpital Sanseï (Kyoto) ». Le Dr Jean Paul Bossuat introduit son propos en rappelant que sa présence à Cotonou en ce 24 novembre 2016 est un retour aux sources d’une vocation africaine de la revue. Dès 2003 en effet, le Pr René Gualbert Ahyi, alors qu’il était le seul psychiatre universitaire béninois, s’était adressé à la revue Psy Cause. À cette époque, le Centre Hospitalier de Montfavet (Avignon), dans lequel Psy Cause était reconnue comme une revue d’établissement, soutenait le développement de la psychiatrie béninoise. Notre revue ouvrait alors largement ses pages à des publications béninoises. Agrégé en 2006, le Pr Mathieu Tognidé soutenait en 2007 notre projet de congrès à Parakou réalisé en 2008 en partenariat avec l’université de cette ville. Il insistait ensuite pour que Psy Cause s’ouvre à l’Afrique, obtenant à cette fin une reconnaissance du CAMES. Ce sera une réalité à partir de 2010 et définitivement formalisé en septembre 2012. Autant dire que le Pr Mathieu Tognidé, auquel ce colloque de santé mentale rend hommage, a été au cœur de la transformation de Psy Cause en revue francophone internationale.
 
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 Le Dr Jean Paul Bossuat présente ensuite la thérapie fondée par le psychiatre japonais Morita dans les années 1920. Au croisement d’influences occidentales américaines et tout particulièrement allemandes avec Kraepelin, et orientales avec la voie bouddhiste de l’éveil dans sa version Zen, elle a donné lieu à la construction en 1922 de l’Hôpital Sanseï, spécialisé dans cette thérapie, dans l’enceinte d’un temple zen de Kyoto. Le fondateur de cet établissement, le Dr Genn-yu Usa, bonze et psychiatre, était un disciple direct de Morita. À son décès en 1957, la direction de cet hôpital est reprise par son fils. Des patients venaient de l’ensemble du Japon et de la Corée pour bénéficier de cette thérapie pratiquée dans le cadre d’une hospitalisation qui comportait quatre étapes : le coucher absolu, l’observation du monde extérieur, le travail et la vie sociale compliquée.

 
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 En octobre 2014, la revue/association francophone Psy Cause tenait à Kyoto son IXème congrès international. Il était présidé par le Pr Shigeyoshi Okamoto, spécialiste de la thérapie de Morita, formé à Sainte Anne et rencontré à Paris lors d’un congrès de « philosophie et psychiatrie » le 28 juin 2001. Ce congrès de Kyoto rassemblait des intervenants japonais se référant de l’approche bouddhiste ou lacaniens (une école lacanienne francophone très vivante existe au Japon). Deux courants de la clinique française inspiraient les participants japonais : le phénoménologie et la psychanalyse lacanienne. Un événement donnait à ce congrès un sens particulier : la décision de la fermeture de l’Hôpital Sanseï par son directeur devenu trop âgé pour poursuivre. Il n’était pas question de transmission mais de démolition : la pelleteuse rasait l’hôpital quasi centenaire, quelques semaines après le passage des congressistes de Psy Cause venus de France et du Canada. Ce congrès de Kyoto avait donné lieu à une cérémonie de clôture de cette expérience thérapeutique qui s’origine aux débuts du siècle dernier. Le Pr Shigeyoshi Okamoto n’a pas été autorisé à préserver de quoi constituer un musée, le directeur souhaitant la disparition totale de tout ce qui se rattache au lieu de soin. Un « Cahier Japonais » a rassemblé des textes du colloque et d’autres auteurs japonais dans le N°70 de Psy Cause. Largement diffusé au Japon, il porte un témoignage d’éléments constitutifs du patrimoine de la psychiatrie japonaise.
 
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 Cette communication a interpelé l’auditoire béninois, en particulier le Pr René Gualbert Ahyi, sur la question de la transmission de pratiques thérapeutiques inspirées par la culture ancestrale face au choc de la « modernité ». Ce qui vient de se jouer à l’Hôpital Sanseï peut très bien survenir en Afrique. Le thème de la mondialisation a, de façon récurrente, été évoqué lors du colloque. Elle a pour véhicule l’univers numérique via internet.
 
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 Lors de l’ultime séance plénière, après une communication très vivante intitulée « Education sexuelle en Afrique », le Pr Arouna Ouedraogo, en tant que Président de la Société Africaine de Santé Mentale, convie les congressistes au second congrès de la SASM à Yamoussoukro du 6 au 9 mars 2017. Le Dr Jean Paul Bossuat, modérateur de la séance, annonce alors que la revue/association francophone Psy Cause sera représentée à Yamoussoukro, en tant que partenaire officielle de la SASM.

Jean Paul Bossuat

“ PsyCause et le Japon : 15 années d’échanges “(“ PsyCause と日本 : 15年間の交流 “)

2016/12/17

 PsyCause という、フランス語圏国際学会組織と交流を始めて15年になります。
 このほど、PsyCauseのホームページのサイトに、組織の代表者のJean-Paul BOSSUAT 先生が、日本との過去15年間の交流を回顧する記事を出して下さいました。
 PsyCause のホームページのアドレスは、当ホームページの「リンク」欄の冒頭に掲げていますので、いつでもアクセスしてもらうことが可能ですが、以下に改めてリンクをつけておきます。
 
http://www.psycause.info/
 
 この回顧の記事で、BOSSUAT先生は写真とともに過去15年の交流の経緯を明快にまとめて書いて下さっています。こちらの記憶がおぼろげになっていることまで再現されているので、情報の整理と保存の能力にも驚いています。
 
 森田療法の分野での日仏交流は、古くは高良武久先生のパリでの講演に始まり、以後20世紀末まで、日本からフランスへ向けての交流ならぬ一方通行的な紹介活動が、散発的に続けられてきました(その中には、不肖自分もいました)。森田正馬の著書の翻訳がなされたのは、その時代の最大の成果だったと言えますが。
 さて、一方的な紹介活動は、20世紀末をもって終息に向かいました。それを受けて、21世紀のグローバル化の時代に、電子化された通信機能を活用して、私たちはPsyCauseのネットワークの中で、インターネットやメールで森田療法について国際的に討論を交わすことが可能となりました。一方2年前には、フランス人たちは日本を訪れて、閉院間近い三聖病院をリアルに見届けるという的確な行動力を示しました。画像とともに、そのような体験を記した BOSSUAT 先生の回顧の文は、森田療法についての国際的討論を経ながら、遂にリアルタイムで閉院前夜の三聖病院を訪れて、フランス人の立場から、森田療法の歴史のひとつの幕引きに立ち会った貴重な生き証人の記録でもあります。
 以下にその記事を、貼り付けておきます。
 

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 Psy Cause a officiellement affirmé sa vocation francophone internationale à partir de 2010 et l’a inscrite dans ses statuts en septembre 2012. Cette évolution à partir d’une revue locale française est le fruit d’une longue histoire. Notre présence francophone en extrême orient, comme en Afrique ou au Canada, a des racines qui s’originent dans les premières années de la revue. Tout a commencé à Paris lors de la cinquième Conférence internationale Philosophie et Psychiatrie qui se déroulait du 28 au 30 juin 2001 à la Faculté des Saints Pères sur le thème : « Douleur et dépression ». Le comité scientifique était coordonné par un Professeur de Marseille spécialiste de la phénoménologie, Jean Naudin. Le directeur de la revue Psy Cause, le Dr Jean Paul Bossuat faisait le déplacement accompagné d’un collègue, le Dr Rémi Picard. Ce dernier était un jeune psychiatre dans le service du directeur de Psy Cause au Centre Hospitalier de Montfavet. Il se préparait au concours pour être psychiatre des hôpitaux, et nous effectuions ensemble une communication à ce colloque. Le Dr Rémi Picard est aujourd’hui Président de la CME du Centre Hospitalier de Montfavet.
 
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 Une conférence très originale avait retenu notre attention, le second jour de colloque, intitulée « La douleur spirituelle et la thérapie de Morita ». Nous n’avions jamais entendu parler de cette thérapie japonaise. L’auteur, le Dr Shigeyoshi Okamoto, psychiatre et Professeur de santé mentale à l’Université Bouddhiste de Kyoto, avait su captiver son auditoire et nous donner l’envie de le connaître. Ce sera chose faite lors de la soirée de gala de ce même jour aux Jardins de Bagatelle. Le courant est passé : nous avons parlé de cette thérapie japonaise, de Kyoto et également de la revue Psy Cause. Le Pr Shigeyoshi Okamoto adressera le 16 décembre 2001 une lettre au directeur de Psy Cause : « j’ai bien reçu un exemplaire du dernier numéro de votre revue et je vous en remercie vivement. Je vous suis aussi reconnaissant de votre amabilité de m’avoir ajouté parmi les correspondants associés. » Il ajoutera son espoir de notre venue, tous les deux, au congrès mondial de psychiatrie à Yokohama l’année suivante. Nous avions à l’époque dans l’ourse de Psy Cause, une rubrique réservée aux étrangers, les « correspondants associés ». Cette même année 2001, en juillet, le directeur de la revue effectuait une tournée dans des établissements du Québec à l’invitation du Dr Raymond Tempier. Là aussi, étaient semés des prémices qui allaient germer douze années plus tard.
 
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 Dix années après ce colloque parisien et d’envoi régulier de notre revue, en 2011, le lien avait été préservé. Le Pr Shigeyoshi Okamoto nous signale par courrier le 17 février son changement d’adresse et son intérêt pour la lecture de Psy Cause. Il nous informe également de sa prise de fonction dans l’Hôpital Sanseï spécialisé dans la thérapie de Morita à Kyoto. C’est l’époque où nous mettons en place un comité de rédaction international francophone et nous lui proposons d’y faire son entrée. Il nous répond par mail le 21 mars 2011 : « Je suis très honoré et en même temps confus (…) car je ne maîtrise pas bien la langue française (…) » Il répond aussi à notre suggestion d’organiser à Kyoto un séminaire Psy Cause sur la thérapie de Morita : « votre proposition (…) m’intéresse beaucoup. En pratiquant la thérapie de Morita à l’Hôpital Sanseï, hôpital spécialisé dans cette thérapie beaucoup inspirée du Zen, je m’occupe depuis longtemps de l’échange franco-japonais au niveau de cette thérapie. »
 
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 Il nous informe alors d’une difficulté rencontrée avec la Société Franco-Japonaise de Médecine qui fonctionne dans le cadre de la psychiatrie : « la source de cette société remonte à la rencontre de quelques psychiatres japonais avec Henri Ey. Les activités de cette société se sont limitées à des échanges entre les psychiatres de la région parisienne et ceux de la région de Tokyo. Extraordinairement, en 2004, cette société organisait un colloque intitulé « Journée de la Thérapie de Morita » dans notre hôpital à Kyoto. » Mais, ajoute le Pr Okamoto, cette journée n’a « pas été bien appréciée » à cause de problèmes tels que « la différence des cultures, la difficulté de communication, une préparation imparfaite dans l’organisation. » De plus, la publication des écrits en France n’a pu être réalisée. Depuis ce relatif échec, nous écrit le Pr Okamoto en ce 21 mars 2011, « je n’ai pu développer, malgré mon désir, l’échange franco-japonais sur la thérapie de Morita », et conclut « j’apprécie beaucoup votre proposition (…). Il faudrait préparer prudemment ce séminaire pour le réaliser avec succès. » Quatre jours plus tard, le 25 mars 2011, il nous poste une carte postale représentant l’œuvre de Camille Claudel « L’abandon », sur laquelle il nous écrit : « La région de Kyoto reste intacte, épargnée par le désastre (Fukushima). En revanche, notre hôpital « périmé » court vers sa ruine. Venez et regardez le avant sa disparition. »
 L’année 2011 est également, pour notre revue/association celle de la montée en puissance de la communication numérique. Le site est doublé depuis l’automne 2010 d’un blog plus convivial, plus journalistique. Le contenu du blog sera par la suite, en janvier 2013, intégralement transféré dans le nouveau site psycause.info qui regroupera les diverses fonctions. Deux articles présentent sur le blog la thérapie de Morita. Le premier, en date du 29 juillet 2011 évoque un projet de séminaire Psy Cause, sur la thérapie de Morita à Kyoto. Le second, en date du 30 août 2011, parle des réactions par courriels au premier texte, et de la réponse du Pr Okamoto. Ces deux textes sont à lire dans la rubrique « Asie » accessible en cliquant sur la barre du haut de notre site.
 
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 Notre entrée en extrême orient se fera par le Cambodge en novembre 2012. Invité au congrès de Siem Réap, le Pr Okamoto ne pourra se déplacer pour des raisons de santé. Sa communication sur la thérapie de Morita sera lue et présentée aux congressistes par le directeur de Psy Cause. L’une des congressistes au Cambodge, la Dr Catherine Lesourd, pédopsychiatre en Martinique, vient en juin 2013 à Kyoto, rencontre le Pr Okamoto et visite l’Hôpital Sanseï. Lors du congrès Psy Cause d’Ottawa en octobre 2013, elle se porte volontaire avec la Dr Patricia Princet pour manager au nom de Psy Cause un congrès à Kyoto présidé par le Pr Okamoto. Le projet de 2011 va prendre forme et devenir un événement historique.
  
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 Notre congrès Psy Cause à Kyoto en octobre 2014 est contemporain de la décision de fermeture de l’hôpital Sanseï. Le Pr Okamoto s’adresse le 19 octobre aux congressistes par ces mots : « En tant que responsable de l’organisation, du côté japonais, je voudrais d’abord souhaiter la bienvenue à Kyoto au congrès de Psy Cause, à tous les ressortissants de pays francophones ici présents. Je voudrais aussi les remercier d’être venus de si loin jusqu’ici. Ma gratitude va aussi aux Japonais qui participent avec assiduité, bien qu’il s’agisse d’un colloque en langue étrangère. Quant à moi, Shigeyoshi Okamoto, cela fait une dizaine d’années que j’ai des échanges avec ce mouvement. Notamment, j’avais eu l’honneur d’être invité à faire une conférence sur « La thérapie de Morita et le bouddhisme » au congrès qui s’est tenu au Cambodge en 2012. Mais mon état de santé s’étant aggravé, je n’ai malheureusement pas pu être présent en personne, dérangeant ainsi grandement les membres de Psy Cause. Je voudrais donc saisir l’occasion qui m’est donnée ici pour leur renouveler toutes mes excuses. Cette année, deux ans ayant passé, j’ai dû accepter la tenue de ce congrès, pour me faire pardonner.(…) Je dois par ailleurs ajouter que l’Hôpital Sansei, qui est l’hôpital le plus traditionnel pour la Thérapie de Morita, fermera ses portes à la fin de cette année. La décision a été prise à la fin de septembre. L’histoire de la Thérapie de Morita évolue depuis le passé jusqu’à présent et du présent vers l’avenir. En voyant les dernières images de l’Hôpital Sansei en activité et en réfléchissant ensemble à la signification historique de cet hôpital, je voudrais que ce congrès soit mémorable. »
  
 Cette première journée de colloque, le Pr Shigeyoshi Okamoto nous brosse le panorama de la Thérapie de Morita au Japon aujourd’hui : 300 médecins pratiquent la Thérapie de Morita au Japon. Peu réfèrent leurs soins à la philosophie du Zen. Les autres ont pris de la distance avec cette philosophie qui est à la base de cette thérapie et ne savent pas ce qui est pratiqué à l’hôpital Sansei qui est un élément attesté dans l’historique de cette thérapie. Il nous présente un film construit sur l’hospitalisation à Sansei d’un garçon qui a une phobie d’autrui, qui met en évidence une thérapie qui permet un lâcher prise de la jouissance sans changer la problématique névrotique sous-jascente qui est mise à distance, en moins de trois semaines. Le patient, libéré d’une pathologie invalidante, peut ensuite valoriser pleinement son talent artistique.
 
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 La seconde journée de colloque est particulièrement solennelle avec la venue d’un grand maître Zen très connu au Japon, Maître Eshin Nishimura. Le Pr Okamoto en précise le contexte : « la fermeture en décembre de cette année de l’Hôpital Sansei a été décidée comme un baisser de rideau sur une longue histoire de 92 ans. » Après un historique de l’Hôpital Sanseï ouvert en 1922 par un psychiatre bonze zen et disciple du psychiatre japonais Morita, il présente le maître zen : « si j’ai demandé à Maître Nishimura de nous donner une conférence, ce n’est pas parce qu’il est le plus grand spécialiste japonais du Zen mais parce que je voudrais qu’en le voyant en chair et en os, vous ressentiez par vos cinq sens le Zen vivant qui émane de sa personne. »
 
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 La troisième journée, le 21 octobre, est une visite de l’Hôpital Sanseï qui sera la dernière. Le directeur, le Dr Shin-ichi Usa, nous attend debout sur le perron, appuyé sur une canne, du haut de ses 88 ans, le visage emprunt de gravité. Nous avons devant nous un homme qui, dans les dix premières années de son enfance, fut un contemporain du Dr Morita. Son père, fondateur de cet établissement conçu pour mettre en pratique les idées du Dr Morita, lui a passé le flambeau à sa mort en 1957. Cet homme en tant que second directeur, a maintenu l’œuvre de son père pendant 57 ans. Il nous invite à visiter l’œuvre de toute une vie et au delà. Une maxime est affichée dans le hall d’entrée : « Seule la réalité est la vérité ».
 Ce congrès a été chargé d’émotion et la communication a été intense malgré les filtres culturels. Nous avons tous eu conscience de vivre un moment particulier de l’histoire de la psychiatrie japonaise. Les communicants japonais ont tenu à s’exprimer en langue française, ce qui a positionné notre événement dans le registre de la Francophonie.
 Ce congrès de Kyoto a rassemblé des intervenants japonais se référant de l’approche bouddhiste ou lacanienne (une école lacanienne francophone très vivante existe au Japon). Divers courants de la clinique française les ont inspiré : Henri Ey, la phénoménologie et la psychanalyse lacanienne. Ce croisement des références a été voulu par le Pr Okamoto qui se définit davantage comme francophile que comme francophone.
 
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 Les lendemains de ce colloque sont difficiles pour le Pr Okamoto avec la fermeture puis la destruction de l’Hôpital Sanseï. La pelleteuse rase le bâtiment centenaire dès février 2015. Le dernier directeur de cet établissement a tenu à ne pas laisser de trace de cette expérience thérapeutique qui plonge ses racines dans les années 1920. Il ne s’est pas soucié de transmettre des documents pour le musée que désire constituer le Pr Okamoto qui souhaite, lui, préserver la mémoire de la thérapie de Morita traditionnelle.
 
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 Le 4 septembre 2015, le Pr Okamoto nous écrit : « Après notre congrès de Kyoto, la fermeture de l’Hôpital Sanseï puis la démolition de son bâtiment ont suscité des problèmes quant à la nécessité de la conservation des divers documents historiques. Car le lieu de cet hôpital est vraiment important dans l’histoire de la thérapie de Morita, la création de cet hôpital remontant à l’ère de Shoma Morita. Le Dr Usa père, disciple de Morita, a fondé cet établissement sur le terrain du temple Tohukuji en introduisant le Zen auquel Morita attachait de l’importance, le considérant comme l’essence de sa thérapie. Au final, cet important hôpital a désormais disparu. » Or, nous confie le Pr Okamoto, cette destruction n’a suscité que de l’indifférence quant à la nécessité d’en conserver des documents, ajoutant : « personne n’a tenté de les conserver sauf moi. Même le directeur a été indifférent quant à cette nécessité. Moi tout seul ai fait tout ce que j’ai pu. J’ai épuisé mes possibilités et en ai été beaucoup fatigué. Cela a été ma bataille. »
 
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 La construction du « Cahier japonais », dossier spécial Japon dans le N°70, revêt donc un rôle important dans cette dynamique de transmission. Le Pr Okamoto s’y investit sans ménager ses efforts, aidé par Mme Nyl Erb, notre nouvelle chargée de mission pour l’extrême orient. Cette dernière était venue à notre congrès de Kyoto grâce à google. Elle effectuait une recherche sur la thérapie de Morita et la seule occurrence disponible via internet était Psy Cause. Ethnopsychanalyste passionnée par la culture japonaise, elle s’est, après notre congrès dans la capitale impériale du Japon, portée volontaire pour faire le lien avec les professionnels de ce pays, et a apporté sa précieuse contribution quant à la réalisation d’un dossier en langue française très complet intégrant la thérapie de Morita, le Zen, la psychanalyse au Japon, et des données anthropologiques. Le Pr Okamoto a lui même tenu à la publication de trois articles dans lesquels les auteurs se réfèrent à la psychanalyse lacanienne. Le N°70 sera diffusé à partir d’avril 2016. Le Pr Okamoto nous écrit le 6 juin 2016 : « Nous, les auteurs japonais, avons reçu l’envoi du N°70 de la revue Psy Cause le 27 mai. Envoi dont nous sommes vraiment reconnaissants. » Il nous fait part de la satisfaction des auteurs quant à la présentation avec des photos en couleur, de leurs articles. Et il nous commande une livraison d’exemplaires « pour offrir ce numéro à plusieurs collègues japonais, en mémoire de la fermeture de l’Hôpital Sanseï. »
 
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 Le 24 octobre 2016, le directeur de la revue Psy Cause, invité à Cotonou au congrès béninois de santé mentale, communique sur la thérapie de Morita à l’Hôpital Sanseï avec pour base, entre autres, les écrits du N°70 et le congrès de Kyoto. La question de la transmission d’une thérapie associée à des bases culturelles est au centre des échanges avec la salle car elle trouve beaucoup d’écho en Afrique Subsaharienne. Autant dire que les professionnels africains vont suivre avec attention le devenir de la thérapie de Morita au Japon.
 

Jean Paul Bossuat
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森田正馬は、鎌倉円覚寺に参禅したか? (1)―釈宗演と釈宗活―

2016/12/08

 釈宗演、宗活(白黒)

         釈宗演(左)              釈宗活(右)
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
 森田正馬は、明治43年に東京谷中の両忘会に入って座禅に通い、釈宗活のもとに参禅した。このことは、森田正馬全集第七巻に出ている「我が家の記録」や「年譜」、さらに野村章恒氏の『森田正馬評伝』によっても明らかである。たとえば『森田正馬評伝』の中の「人間像の彫塑」の章に摘記されている森田の日記の明治四十三年のくだりに、次のように記されている。
 「三月(注:二月の誤りか)五日(土)藤根氏(常吉、富士川遊氏助手)に誘われ谷中両志会(注:両忘会が正しい)に入会、釈宗活氏の提唱を聞き摂心中毎朝参禅す。考案(注:公案が正しい)は「父母未生以前の本来の面目如何」なり」。
 
 ところが、森田正馬は鎌倉円覚寺の釈宗演のもとに参禅した、という説もあるのである。
 鈴木知準は『現代の森田療法―理論と実際―』(白揚社、昭和52年5月刊)の中で分担執筆した「森田療法と禅」 という文中で、鎌倉円覚寺の釈宗演に参禅したと、二度も繰り返して記している。その二カ所を引用しておく。
・「明治に入って臨済禅の系統に廃仏毀釈の新政治の嵐の中を生き抜いた禅僧に鎌倉円覚寺の今北洪川、その弟子の釈宗演がある。ここに夏目漱石、鈴木大拙、西田幾多郎、若い日の森田も参禅している。これは明治20年代末から30年代のことであった。」
・「森田は「日々是好日」なる論文(注)の中で次のように述べている。「私は禅に関しては門外漢である。今からおよそ三十年近く前(明治三十六~三十七年)円覚寺の釈宗演のもとで禅の提唱を聴き参禅もした。公案は『父母未生前本来面目』で四度参禅していろいろ言ったが通過しない。禅の修行はそれきりであった。」」。
 さらに鈴木知準氏は、森田が鎌倉円覚寺の釈宗演のもとへ参禅したことについて二度も言及した、この「森田療法と禅」という文章と同一の稿を、自著『森田療法を語る』(誠信書房、昭和52年6月刊)にそのまま収めている。著者鈴木氏は、記した内容について確信を持っておられたように思われる。ところで、先に引いた鈴木氏の第二の文章において、氏が引用文献として注記しておられるのは、次のものである。
 
森田正馬 : 日々是好日. 神経質(旧) 六巻 146,1935.
 
 この文献に相当するものは、森田正馬全集 第七巻に「日々是好日」という題でそのまま収載されている。そこでこれを読むと、奇妙なことに、鈴木氏が引用した部分の中にあった筈の「円覚寺の釈宗演のもとで」という肝心の言葉が抜けていて、見当たらないのである。これはどういうことであろうか。これを強いて推測すると、二通りのことが考えられる。
①元の森田の文献の上に、鈴木氏が「円覚寺の釈宗演のもとで」という言葉を付け加えたものであり、元々なかったか―。
②「円覚寺の釈宗演のもとで」という言葉は、森田の元の文章に出てはいるが、その信憑性を疑った第七巻の編者(熊野明夫氏)によって、削除されたか―。
 そのいずれかであると考えられる。
 なお、森田によるこの文献は、鈴木氏の言うような「論文」というほどのものではなく、森田が昭和9年11月に三聖病院においておこなった講話の記録であり、これを書き起こしたものである。
 
 さて、そこで「神経質(旧)」誌の森田のその文献を参照する必要があるのだが、手元になく、急いで取り寄せている。数日後に入手予定なので、入手し次第、追ってこの稿の続きを記す予定である。
 
 ところで、鈴木氏が指摘しておられたこと―、森田が鎌倉円覚寺の釈宗演のもとに参禅した、という話は、以前から伝説化して巷間で信じられてきたのは事実である。三聖病院院長の宇佐晋一氏は、父の宇佐玄雄が僧医として進む道について助言を仰ぐために、釈宗演に直接会いに行ったというエピソードを語る際に、森田正馬が参禅した釈宗演その人である、と説明しておられた。私自身、そのような「伝説」に接しながら、一方で森田の日記などからは、谷中の両忘会に参加して釈宗活から公案を与えられたという記録があるので、森田の参禅については、ずっと不可解さを引きずってきた。谷中両忘会への参禅は、まず疑い難い。しかし、二者択一とせずに、森田は谷中の両忘会に参ずる前に、鎌倉円覚寺に参禅したことは、なかったのか。そのような疑問は晴れないでいる。
                                       (次回に続く)

「江渕弘明医師、禅に生きた森田療法家―その知られざる生涯と活動の軌跡―」の発表について

2016/12/03

 生涯のほぼすべてを、森田療法と禅で生き抜いた森田療法医がおられました。
 江渕弘明医師(1916[大正5]-1998[平成10])。
 少年期に始まる神経症的体験をきっかけにして、森田療法に触れ、さらに青年期の10年にもおよぶ結核療養生活の体験から、森田療法や禅の世界に一層深く入っていかれたものと思われます。
 私たちにとって、さほど遠い過去の世代の人ではありません。なのに、療病十年、僧堂での修行生活二十年、森田療法について研究的な発信をされることもなかったためか、ほとんど知られていない人物です。修行中には、僧堂から出て一部の森田療法の関係者たちと交流なさってはいました。その足跡をたどることでこの希有な人物に迫ろうとしました。森田療法にとって禅とは、森田療法家にとって修行とは。われわれはこの先生から多くを学ぶことができます。
 去る11月26日、第34回日本森田療法学会(東京)で、その発表をしたのでした。しかし、一般演題の限られた時間内に、江渕先生に関するすべてを述べることはできませんでした。残念ながら、うわべをなぞるだけの発表になりました。それにもかかわらず、江渕家のご親族の方々、4人様がご来聴下さり、恐縮しました。そして勿論留意するとは言え、江渕家のプライバシーにある程度は関わるかもしれないこの発表についての、私の強いお願いに、同意して下さいましたご夫人とご親族の方々に、改めて心から感謝しています。
 
 学会当日に提示したスライドは、「研究ノート」欄に再現し、説明を書き込みました。学会の限られた時間枠内で話したことよりも、若干説明文が膨れた部分もあります。そこでは新規の追加説明を加えたことになりました。
 
 江渕弘明先生は、長年の修行体験を経て、「禅、森田道、本質全て一なり」という境地を得ておられました。そして修行も熟したその頃に、老師から印可を受けられました。
 ところで、その何年か後に、ひとつのエピソードがあります。江渕先生は、ある企業グループの慰霊祭に、老師代理として導師を務める大役を任されました。そこへ行くために金襴の袈裟衣を着せられた先生は、後輩のある僧に向かって言われます。「わしゃ、恥ずかしい。猿回しの猿のようじゃ。断ろうか」。そしたら後輩の僧から逆に諫められるのです。「常日頃から、人には、あるがままとか、恥ずかしいままとか、なりきるとか、思いきるとか言っていて。自分が思いきったらどうですか」と。
 人間は何年修行をしても、悟り澄ました聖人になれるものではないし、悟り澄ませばよいわけでもない、ということを江渕先生は教えて下さいます。
 「わしゃ、恥ずかしい」。それが「禅、森田道、本質全く一なり」ということなのでしょう。
 学会当日は、そんな挿話まで紹介できなかったのです。

アルコール依存症に対する森田療法

2016/10/15

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2016年10月8日、日本アルコール・アディクション医学会(東京)
(発表している 海野 順 医師)
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
1.依存を生きる
 臨済義玄は、自由自在に躍動し、ありのままに生きる人のことを「無依の道人(むえのどうにん)」と言った。難解だが、仏性を体現して何にもとらわれない十全の人のことである。
 森田正馬は、「自由」とは独立独行であり、他者の奉仕を求めるところに自由はないと言った。主体性なくして、わがままなばかりで人を頼みにしていては、本当の自分らしい生き方はできないという戒めである。
 臨済や森田に共通するものは、依存やとらわれのあるところに自由はなく、依存やとらわれから離れてこそ、自由で健全な生き方があるという教えである。そこには尤もな道理が説かれていると言わねばならない。しかしまた、実際には、それは難しい道である。無依の道とはどんな道であろうか。
 人は愛に渇き、生に執着し、傷ついては癒やしを求め、群れて共生し、互いに共依存し、社会集団に帰属し、神に祈り、仏に帰依して日々を生きている。人間は独りで生きられよう筈もない、か弱い存在である。人は皆、いわば依存症を生きているのである。
 

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2.三聖病院での経験
 何かに依存しなければ生きるのが難しい人間であってみれば、神経症圏内の人たちの中に、さまざまな依存の病理があって当然だと思う。
 森田療法の三聖病院で長年勤務した経験を持つので、思い返してみるのだが、そこで出会った依存症の患者さんの数は、さほど多いものではない。その中で、アルコール依存症の患者さんの受診はコンスタントにあった。しかし、閉鎖病棟はないし、入院はすべて任意入院で、自分の意志で入院する人たちに限られていたので、アルコール依存症だからと言っても、とくに目立つことなく、特別な扱いもされなかった。院内に酒を持ち込んで自室で飲んでいる者だけは、強制退院させることになっていた。無断外出はタテマエ上禁止されていたが、実際は外出は自由になっていたので、アルコール依存症者であろうとなかろうと、夕方に一杯飲み屋に出かける者たちがいた。年末には、忘年会をすると言って、入院患者(修養生)の仲間たちが、連れ立って院外の飲み屋に出かけて行った。それが修養の実態であった。飲酒に関しては、入院母集団がこんなであったから、アルコール依存症者はあまり目立つ存在にならなかった。自室での飲酒は厳禁だったことを除けば、断酒という厳しい掟がないために、かえってほだされて、緩やかにアルコール依存が軽快していく効果があったのであろうか。そこのところは、よくわからないままである。
 それより、三聖病院は、カリスマ性を帯びた「院長先生」への依存が生じる温床のような場であった。か弱き人間の中でも、とりわけか弱い神経症圏の患者さんにとって、「不問」の環境で黙って君臨なさっていた「院長先生」は、まさに偶像のようで、崇拝の対象となった。こうして関係依存が醸成された。
 アルコール依存症でも、神経症と言うより、気の荒いパーソナリティ障害に近い人たちは、アルコールという物質への依存を「院長先生」への関係依存に変えて、競って「院長先生」を守る忠臣となり、用心棒になった。治療者の責任をつくづく考えさせられた。
 私自身は、自分が外来で治療に当たっていた女性のアルコール依存症の患者さんのことが記憶に新しい。神経症ではなく、境界性パーソナリティ障害だった。
 幼児期に両親と別れて、波乱の生い立ちを経て、十代よりホステス、男性遍歴、アルコール依存、非合法薬物依存という半生を経て、その後は薬物を断ち、その筋の人たちとの交わりから逃れて、子どもを育てながらみずから立ち直って生きようとする意志を持った人であった。以前にいた社会から足を洗った代わりに、アルコール依存が重症化し、摂食障害も伴っていた。子育てを理由に、自助組織への参加も入院も拒み、かれこれ数年間、私の外来に来た。
 過去の交友関係から逃れようとしても、逃れ切れなかったり、身に覚えがないことで突然警察が家宅捜査に来たりした。そんなことがあるたびに自暴自棄になり、飲酒が増した。自殺未遂も起こした。情緒不安定だが、この人物の内面には、立ち直ろうとする糸のような意志が続いているのが見えた。子どもたちといるのが、生きがいのようだった。過去からの誘惑には負けないでいる。それでこちらも腹を決めて付き合った。まず森田療法ありきではない。森田療法だからどんな技法で、ということではない。不問でなく、話を聴いてやるしかなかった。こちらからは詮索しない不問の姿勢を取った。受診の間隔が途切れたとき、死んだのかと密かに心配した。そしたら、死にたくて遠くの地まで出奔したけれど、帰ってきたと言って姿を現した。
 当方への初診後数年経ち、波乱は徐々に緩やかになり、酒量も多少減ってきた。通院も間隔が空くようになった。しかしまだ何が起こるか、わからない。そんなとき、病院は閉院を迎えた。そしてこの患者さんとの別れの時が来た。
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
3.海野 順医師の学会発表
 若手ながら、アルコール依存症を中心に依存症の診療に従事し、森田療法的アプローチを取り入れている精神科医師がいる。聖和錦秀会 阪和いずみ病院の海野 順医師である。京都森田療法研究所の臨床研究員にもなってくれている。海野医師は、去る10月8日に、平成28年度日本アルコール・アディクション医学会学術総会で、次のような題目の発表をなされた。
 
 「現実逃避型のアルコール依存症患者に対する森田療法的アプローチ」
 
 既に発表された際のスライド画像を、このホームページの「研究ノート」欄に提示しておく予定なので、研究発表のあらましは、いずれスライド画面より読み取っていただけると思う。
 発表の背景として、次のような事情があったという。所属病院の位置する大阪では、病院外部には、自助グループや作業所などの社会資源があって、行動療法的に機能している。また院内では、認知行動療法中心のテキストを用いた治療が体系化している。しかし、神経症者においては、知性化によって解決を図ろうとするため、実際には行動が後回しになりやすく、失敗するケースが複数浮上している。そのため、神経症的な患者に対して、森田療法的アプローチをして有効性を認めたとのことで、そのような症例についての報告がなされた。
 治療については、院内、院外での自助グループにおいては、概して指導者が、説明的、説得的になり、かつメンバーに対して体験の語りを強いて勧める傾向があり、ややもすると個々の神経症的患者の内面の進展にそぐわないことになり、その点を考慮して治療を進める必要がある。そのような観点から、まずは治療関係において、基本的信頼 basic trust を築いた上で、「不問」を旨とし、患者みずからが過去や現在の現実を、あるがままに受けとめて、歩を進めていくことを重んじる。そのために、治療者は患者の存在を無条件に肯定し、その同行者となる。
 このような治療者患者関係を媒介するものとして、海野医師は、独自の発案で禅の「十牛図」を用いた。その用い方も斬新である。「十牛図」の詳解を敢えてせず、各図の名称を目次のごとく示して、目次の意味を教えるのみにする。そして呈示した十枚の図のうちで、現在の自分に対応する図を選んでもらい、その状況について話題にする、というものである。
 私は、海野医師のこの臨床的試みがおこなわれていたことを予め十分に知っていたわけではなく、学会発表の少し前に詳細を知ることになった。改めて私も、依存症に対する精神療法に関心を持ち、いくつかの文献を読んだ。そして、大嶋栄子先生の「女性のアディクションへの援助」という文献(精神科治療学、Vol.8、増刊号、2013)を読み、そこに書いておられることと、「十牛図」の発想とが通じることに驚いたのだった。大嶋先生が記しておられることを、最終章の一部を引用して、示しておく。
 「何年にもわたるこうした辛さを乗り切っていくには、自分がいま、長い人生(life)のどのあたりにたたずんでどちらへ行こうとしているか、それを指し示す案内板のようなものが必要だ。(…)そして道中を同行する人がいるとなお良い。同行者とは途中で異なる道を歩むこともあるが、行く先で別の同行者と出会うこともある。」
 もしかして大嶋栄子先生のこのようなご指摘に合わせて、「十牛図」の活用を着想したかもしれないと思ったが、海野医師は、大嶋先生の文献を事前にまったく知らなかったよしである。面白い思想的符合に、私はいささか驚いた。そして、ベテランと若手の二人の臨床家の治療的思想に、森田療法の立場から大いに共鳴したのだった。
 さて、このような治療者患者関係は、森田療法的な「不問」と深く関わることに、再度言及しておきたい。
 「不問」は、重層的な意味を含んでいるのである。
1)<治療者患者関係における、患者の訴えに対する不問>
 神経症の患者さんの執拗な愁訴をいくら聴いてやっても、生産的な結果にならないから、聴かずに置く、という意味で通常使うことが多い。
2)<本人が自分自身の心の整理をつけられないまま、それを問題にするのをやめて前進>
 反省するのはよいことだが、ほどほどでよい。後悔することや、トラウマを想起することもあろうけれど、「心に解決なし」である。そのままで、今を生き、一歩ずつ踏み出して歩いて行こう、という促し。
3)<治療者や指導者にとっての心得としての不問>
 患者さんやメンバーさんの心の中に、土足で立ち入るような無神経なことをしないこと。相手を察して、問い詰めない。追い詰めない。ほどよい距離で「同行」する。
 「十牛図」を四国八十八カ所のお遍路になぞらえたら、患者と治療者は「同行二人(どうぎょうににん)」で、「十牛図」を呈示している治療者が、当面は弘法大師役。しかし禅では、臨済義玄が「殺仏殺祖」を言ったように、弟子は師を乗り越えて行く。森田療法もしかりである。「十牛図」とお遍路には、微妙な重なりと相違があるようだ。
 
 以上、文責はすべて岡本にある。

「忘れられた森田療法(La Thérapie de Morita Oubliée)」―フランス語原稿(雑誌に既発表)の日本語訳―

2016/09/10

 表題原稿のフランス語の原文は、雑誌 PSYCAUSE 70号の日本特集のうちの巻頭に掲載されました。それは、このHPの「研究ノート」欄から、原文でお読み頂けます。
 しかし、森田療法のことについてフランス語で外国人向けに一体どんなことを書いたのかと、ご関心を持って下さる方もおられるかもしれません。今頃ふとそう思いました。そこで、遅ればせながら、日本語に戻した原稿をここに披露しておきます。何のことはない、お読み頂いたらわかります。
 PSYCAUSE誌のこの日本特集は、一昨年秋、京都で開催された国際学会に基づいています。その際、学会参加者たちの三聖病院の訪問を受け入れる日程は予め組んでいました。ところが、彼らの京都入りとほぼ同時に、三聖病院の閉院が発表されました。かくして、PSYCAUSE学会の人たちは、期せずして、歴史ある三聖病院を訪れた最後の外国人グループとなったのでした。私の以下の一文は、そのような背景を視野に入れて草したものです。また立場上、あまり紙幅を取らぬように、特集の導入として短い小論を書きました。
 しかしながら、あえて「忘れられた森田療法」―過去形でなく「忘れられる森田療法」と言うべきかも知れませんが―に執拗なまでにこだわり、既刊の小著と同タイトルにしたのには、訳があります。両者の内容は違います。しかし、そこに通じている私の思いは同じなのです。
 どうも前口上が長くなりまして、あいすみません。
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 

              忘れられた森田療法 La Thérapie de Morita Oubliée  
                                              
                                          Shigeyoshi OKAMOTO 
 
 
 去る2014年10月、第10回 PsyCauseフランス語圏内国際学会が、「文化間の出会い」という基調テーマのもとに日本の京都で開催された。この国際学会のひとつの大きな目的は、日本の独自の精神療法である森田療法について、京都にあるその療法の伝統的な施設である三聖病院を訪問して、実際の診療を見学して直接それを学び、そのような見学体験を通じて討論を交わすというところにあった。
 ところが、この三聖病院は、同じこの年(2014年)の12月末に廃院になることが、学会が開催される直前に公表された。こうして、学会のために海外からやって来たフランス語圏の人たちは、図らずも三聖病院を訪問した最後の外国人となったのである。
 
1.森田療法の「ひとつの終わり」
 三聖病院は、森田正馬によって森田療法が創始された直後の1922年(大正11年)に、彼の弟子の禅僧で精神科医師の宇佐玄雄によって開設された(最初は診療所で、1927年(昭和2年)から病院)。その後、息子の二代目院長に受け継がれて、三聖病院は森田療法の最も伝統的なサバイバーとして、通算92年間、役割を果たし続けて、遂にその歴史の幕を閉じることになったのである。昨今の日本では、文化や文明のめまぐるしい変化に伴い、伝統的な森田療法を維持する施設は既に殆ど消滅し、とりわけ、禅を生かした森田療法の施設は、既に三聖病院だけになっていた。20世紀末以来、森田療法は、新しい時代の要請に応じて、入院よりも外来での治療が主流となり、薬物療法や他の精神療法と併用される方向へと変化していた。そのような新しい動向が進む中で、伝統的な森田療法を代表する専門病院であった三聖病院が、2014年末に閉鎖したことは、この療法の一つの終焉を象徴する出来事であった。
 
2. 森田療法の「本当の始まり」
 ところで、三聖病院の廃院は、伝統的な森田療法の精神の終焉をも意味するのであろうか? 否、決してそうとは思えない。神経症的な病理に対して、禅寺におけるような作法や雰囲気を、薬の代わりに用いて暗示的に治療する療法は確かに終わりを迎えた。そして、それはまた、神経症の症状が禅的な「悟り」によって治ると思いこむ人たちを誘惑する〈迷妄の集いの場〉の提供の終わりでもあった。それらの終焉により、覆われて見えにくくなっていた森田療法の本当のエスプリ(本質)が、これを機に現れて、今後一層そのエスプリ(本質)が評価され、万人の人生の中にそれが生かされることが望まれる。
 これまで、特に外国人に対して、森田療法は“神経質(SHINKEISHITSU)”の治療法として紹介されてきた。確かに、この療法を創始した森田は、神経質の治療である点を力説した。けれども、そのような表面的な力説のために、この療法に含まれているせっかくの深い本質が、日本においても見落とされがちになっていたことは否めない。まして外国人に対して、紹介に従事する日本人たちが、この療法の本質部分を慎重に説明することなく、単に“神経質(SHINKEISHITSU)”の治療という表層だけを紹介することで、おそらく誤解を与えていたに違いないことは、非常に残念である。
 実際、森田がこの療法を、最初は“神経質(SHINKEISHITSU)”の治療法として開始したことは事実である。しかし “神経質 (SHINKEISHITSU)”の症状としての不安の心的メカニズムの中に、人間の存在に関わる根源的な不安が潜んでいることに気づいて、仏教的な智恵を療法に取り入れて、治療としての深みを増していったのだった。精神科医として診療に携わっていた彼は、概して“神経質(SHINKEISHITSU)”の患者を治療するに止まらざるをえなかったが、自分の療法はすべての人間の再教育だということも力説したのだった。
 そこで、次にこの療法に含まれる二層的な意義について、さらに述べておく必要がある。それはまず “神経質(SHINKEISHITSU)” の治療法であったのだが、さらに神経質の患者だけに限らない、すべての人間の生き方に関わる深い智恵でもある。以下では、森田療法における、このような二層性について言及する。
 
3. “神経質(SHINKEISHITSU)” とその治療
 森田療法は、人名が療法の名称になっている点で例外的な精神療法である上、“神経質(SHINKEISHITSU)”という日本語での名称を与えられた素質あるいは病理を治療対象にし、しかも禅と関係があるのも確かなので、外国人の方々にとって、この療法は、当然ながら大変理解し難いことであろう。そのため、ここで、まず森田が治療の対象にした“神経質(SHINKEISHITSU)”とは何かについて説明する。それは決して森田自身の新しく作った用語(新作語)ではなく、ドイツ語圏の精神医学の用語“Nervosität”の日本語への訳語であった。それは、ドイツのクレペリンKraepelinによる、彼の独自の精神医学体系の中で、ある一つの病的な性質を表す用語として規定されていたものであった。その用語と概念は、Kraepelinの下に留学した東京大学の精神医学の教授の呉秀三によって、日本に導入された。呉の弟子だった森田は、主に彼からそれを学んだのであった。そして森田は“Nervosität(SHINKEISHITSU)”の特徴としての素質や症状を知った上で、不安に傾き易いその素質が惹起する心気的な悪循環の心的機制に焦点を当て、その悪循環によって症状が固定化するというかなり力動的な捉え方を示した。こうして、“Nervosität”の概念を踏襲しながら、その精神病理について柔軟な理解の仕方をする立場から、森田は彼独自の療法を創案したのである。結局、“神経質(SHINKEISHITSU)”という用語は、“Nervosität”の訳語以外の何でもなかったが、その精神病理を、クレペリンよりも柔軟に捉えたところに森田の卓見があったのである。
 とは言え、森田の捉えた“神経質(SHINKEISHITSU)”とは、神経症になりやすい素質あるいは神経症そのものと別のものではない。一般にこのような心性においては、人一倍、不安に対して敏感で、不安を治そうとして、かえって不安に埋没して、生活が膠着し、クオリティ・オブ・ライフを低下させるばかりとなる。そこで、森田療法では、不安が治らなければ治らないまま、ただそのまま生活するように、治療者患者関係の中で言葉少なに促す。解決しない心を引きずりながら、歩き出す中で、新しい花が咲いたり、実がなったりするのである。
 
4.人生の苦悩に対する森田療法
 神経質や神経症の精神病理に起因せずとも、誰しも人生に苦しみを体験する。そのような避けがたい苦悩に対処する、森田療法の第二の層について述べておきたい。
 仏教によれば、人間はこの世で八つの苦の試練を受けるさだめにある。
 第一の苦は、「生」そのものである。生がなぜ第一の苦なのか? 人間は自分の意志によって、生まれてくるのではなく、絶対受動的に生を享ける。親も、先天的な心身の素質も、境遇も、一切自分の意志で選択することはできなかったのである。生まれてきた自分の存在理由を理解できなくても、生への執着が起こる。だが、日常生活の中で、種々の不合理な体験をすることは多い。そのために人生に懐疑的になり、不遇な運命に対するルサンチマンが起こる。このような生の苦は、人間の存在そのものにかかわる最も根源的な苦である。第二は、「老」の苦。第三は「病」の苦。第四は「死」の苦である。八苦のうち、以上の前半の四苦は、人間の存在の根源にかかわるものである。
 第五は、愛する人との別離、第六は憎悪すべき相手との邂逅、第七は求める対象を得ることの不可能性、第八は、心身の活動に伴う煩悩や葛藤である。これら後半の四苦は、日常の生活の中で体験されるものである。
 以上の八苦は万人にとって不可避なものであり、それゆえにこれらを否認せずに受容して、生きることを仏教は教えている。
 苦は楽を生み出し、楽は苦の種になる。両者は剥がし難い表裏一体のものである。仏教はもっぱら苦に虐げられて生きることを強いるのではない。苦にも楽にも素直に一体化して、自然のままに生きるところに人間の自由があることに気づくのが、仏教の智恵なのである。
 どんなに科学技術が進歩して社会生活の利便性が高まり、先端医療が開発されて、新しい治療が発見されても、人間は必ず死を迎える。にもかかわらず、科学の進歩は、人間に錯覚的な万能感を与えた。そのような万能感と、仏教の示す八苦との間の懸隔は広がっていくばかりである。現代人のメンタリティの特徴として、苦に対する耐性が低下しており、心的外傷に過敏になっていて、それを弾力的に受け止めて自己修復する柔軟な機能である、いわゆる “レジリエンス” の力に欠けている。現代人は他者の攻撃性に対して、容易に挫けるか、あるいは反撃する習性を獲得してしまった。他者を友とみなさず、他者は敵とみなされがちである。残念ながら、他者は敵対者の属性を帯びていることが多いのが現実である。日本では、子どもたちは集団で、弱い子どもをいじめ、いじめられた子どもが自殺する事件が後を絶たない。学校の教員たちも、親たちも、子どもの教育に責任を持とうとしない。大人たちの自殺も頻繁に起こり続けている。これが、生きることを重んじる森田療法を生んだ国、日本の現実である。
 神経質や神経症の治療を、病院やクリニックの診察室でおこなうことも必要だが、森田療法は、狭義の精神療法であることから脱皮して、教育や福祉や企業の中に浸透することが望まれる。しかし、それは教条としての森田療法を押しつけようとするのではない。森田療法は、本来専門分野たりえない筈のもので、権威的な専門家を必要としない。たとえ専門家がいたとしても、他者の苦悩を救い、他者を教育することは容易なことではない。ではどうするのか?そのように自分に問いかけることが、契機となる。そこで人は自分と自分の置かれている状況を見つめれば、素直な心に目覚める。素直な心に目覚めたら、やむにやまれなくなって、何かに向かって動き出さざるをえなくなるであろう。
 こうして第一歩を踏み出すのである。その歩みは、自己のためか他者のためか分かち難い自然な動きである。治療者対患者という役割的関係も消滅する。
 こうして、精神療法の枠を出て、森田療法という名称さえ失い、苦悩をもつ人間同士として出会いを経験するところに、森田療法はその深みを増していく。
 このような森田療法の本質的な部分は、今日までほとんど忘れられていたように見える。療法の本質を含みながら、同時に形骸化してもいた伝統的森田療法が衰退して、その歴史に幕を下ろした今日、そのエスプリ(本質)が改めて思い出されて、森田療法にとらわれない森田療法の静かなルネサンスが新たに始まるであろう。

アタラクシー、瞑想、禅、そして森田療法(その3) ― 比較文化的に見る禅と森田療法 ―

2016/09/03

 夏の間、ブログの更新が途切れていましたが、前回までの連載に引き続き、
 まとめに代えて、その最終回の稿を出しておきます。
 

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       RYUMON-JI(龍門寺)の庭の龍。
       ドラゴンは西洋においても『ヨハネの黙示録』にも出てくる伝説上の動物である。
 

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1.西洋に導入されている禅
1-1.フランスにおける禅への関心

 
 一昨年(2014年)、京都で私たちが開催したフランス語圏「PSYCAUSE国際学会」で、丹後ふるさと病院院長の瀬古敬先生は、「森田療法における『あるがまま』の背景にあるもの」について発表して下さいました。その中で瀬古先生は、フランスと日本のそれぞれの文化における、自然と人間の関係について述べ、その対照的な例として、ベルサイユ宮殿と修学院離宮を提示されました。17世紀に太陽王と呼ばれたルイ14世は、絶対王政を誇り、自然をも制服する神の子として豪華な宮殿を建築し、広大な人工的庭園を造営して、それを権力の象徴としました。同じ17世紀に、後水尾上皇の意により京都の比叡山麓に、離宮と、その周辺の自然を生かした広大な庭園が造営されました。前者には、自然を制服して、その人為の力を誇示する人間の生き方を、後者には、自然と調和する人間の生き方を見て取ることができます。瀬古先生は、修学院離宮の庭園を「あるがまま」のひとつの原型として示されたのでした。
 フランス革命によって王政は廃止され、人権を手に入れたフランス人は「解放 Liberté」としての自由を手に入れました。しかしその後、「自我の勝利」を謳うフロイトの精神分析を歓迎したフランス人たちは、望んでフロイト王朝の支配下に入り、自我の囚われ人となったのでした。そんな閉塞感を打破しようとして起こったのが、1968年のパリ五月革命だったと見ることもできるでしょう。1960年代後半から1970年代前半にかけての、権力に対するあの異議申し立て運動は、やがて弾圧されて終息します。当事者たちの間には敗北感と共に、ある種のカタルシスによる虚脱感が蔓延したのでした。ヒッピー族が現れたのもそのひとつの現象です。
 時あたかもその頃に、弟子丸泰仙禅師は、ヨーロッパで積極的に曹洞宗の禅を広めていました。精神的拠り所を求めていた当時の人たちに、自我に囚われない禅という生き方は魅力的なものとして受け入れられたのでした。
 禅は、キリスト教における “méditation メディタシオン” や、東南アジアから移入された小乗仏教などと、ややもすると混同されがちです。またフランス語化した“ZEN”は、フランス人の生活の中に俗化して普及し、日本的な芸術や芸能、東洋的な代替医療や健康法などを、広く指すものとなっています。本物の禅が適切に理解されて受け入れられているならば、フランス的な禅やZENの文化が生まれることを、咎め立てする必要はありません。
 そこで改めて、フランスにおける本来の禅の受け入れ事情のことにふれておきます。
 この国に導入されている禅の大半は、曹洞宗の禅であることは既に述べました。修証一等を旨とし、座禅をすること、修行し続けること自体が悟りであるとする曹洞禅は、公案を介さない「非思量」を重んじるので、“méditation” や瞑想から、あまり無理なく入っていけるのでしょう。彼らの修行の様子を直接見たこともない自分として、その修行についてコメントする力はありません。でもたまたま気になっていることがあります。それは道元の重要な教えの語句のフランス語訳についてです。
 
「仏道をならふといふは、自己をならふなり。
 自己をならふといふは、自己をわわするるなり。
 自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
 万法に証せらるるといふは、
 自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」
                           (『正法眼蔵』現成公案)
 
 これは、一言では「身心脱落」と言われる、道元の最も重要な教えのひとつです。
 このフランス語訳が、ストラスブールの禅仏教センターの案内冊子に出ており、その部分を画像にして、下に掲げました。ここで気になるのは、道元の言葉の最後の部分、「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」のフランス語訳についてです。それは次のように記されています。
 
 “c’est dépouiller son propre corps et son propre esprit comme le corps et l’esprit de l’autre.”
 
 「脱落せしむる」の訳として“dépouiller”という他動詞の一語を当てるのは、直訳として正しいと思います。しかし道元の教えのこのくだりの原意としては、主語があって、それが目的語に対して他動詞的に行為をおこなうという能動的関係の成立ではなく、むしろ「おのずから脱落する」ことを指していると受け取れるのです。自己の身心と他己の身心の区別もなくなり、かつそれらはおのずから脱落してしまうのです。そのように考えると、別の試訳として、再帰動詞(代名動詞)の方を用いて、さらに“laisser”を入れて、次のような文章にすればどうかと思うのです。
 
 “c’est se laisser dépouiller de son corps et de son esprit ainsi que du corps et de l’esprit de l’autre.”
 
 私の方が当然無知ですから、とんでもない勘違いをしているかも知れませんが、あえて試験の答案のつもりで書いてみました。フランス側の訳文が記された案内冊子は、その禅仏教センターとつながりのある Nyl ERB 女史から頂いたものですので、女史を通じて先方の見解を伺いたく、既に女史に伝えました。恥をかくのは私かも知れませんが、このリアルタイムのやり取りの結果は後日報告します。
 一方、臨済宗の禅は、曹洞宗に遅れてフランスに導入されました。神戸の祥福寺で修行をした妙心寺派のフランス人僧侶、太寛常慈禅師が、1975年よりヨーロッパで布教を始めました。太寛禅師は1976年に山田無文老師より臨済宗妙心寺派のヨーロッパ代表に任命され、アルデッシュ県に「碧巌山正法寺(la “Falaise Verte”,le temple Shobo-ji)」を創立しました。1989年には臨済宗の開教師となり、妙心寺との緊密な関係のもとに、正法寺の禅堂を維持し続けています。
 曹洞宗と臨済宗の違いを、とりわけ西洋人の立場から見ると、只管打坐の行を本位とする曹洞禅の方がより入り易く、片や思想的に複雑で、かつ公案を用いる臨済禅の方は、敷居が高い感じがするのではないかと思われます。
 法政大学のフィリップ・ジョルディ教授は、「フランスにおける臨済宗の受容過程での課題」というフランス語の論文(注)で、臨済宗がフランス文化に導入されるに当たっての問題を深く論じておられます。その内容の詳細についての紹介は別の機会に譲ることにして、同氏が歴史的視点から、西洋における仏教の受容の問題に言及しておられる箇所があり、示唆深いので、取り上げておきます。
 
 仏教は古代ギリシャ・ローマ時代より西方に入っており、ギリシャ仏教が、奇跡的にもクシャーナ朝やガンダーラ王国で数世紀にわたって続いたのだった。しかしその後は多様なヨーロッパ思想の中で、仏教は寸断されたり再解釈されたりして、変質することになった。ショーペンハウエルやニーチェのように、その哲学思想を部分的に仏教に拠っていた人たちに継承されたけれども、既に仏教は本来のものではなくなっていた。
 このように、過去において仏教は、西洋に無事に受容されてから後に変質を蒙った経緯があったが、逆に性急な移植によって起こるかも知れない失敗にも心しなければならない。東洋の伝統文化をいたずらに西洋に適用しようとする誘惑に駆られることは、えてして危険である。東洋の伝統文化を西洋に同化させる過程において、本質が失われては意味がない。西洋の文化的土壌に東洋の伝統文化の本質の種を蒔く。そこで新しいものが生まれる。無理な移植を強いるならば、同化されることなく、新たに生まれるはずのものは、生まれる前に死んでしまうだろう。そのような愚を避けるためには、東洋の伝統を道具化しないこと。そして西洋の文化的条件をわきまえることが必要である。
 これは西洋における禅の受容において、留意せねばならないことである。
 
 フィリップ・ジョルディ氏は、かなり辛口のコメントをしておられます。なおここでは、同氏の文意に沿って筆者なりの書き方をしました。
 禅の移植もまた、「あるがまま」がよろしいようです。
 
 注) JORDY Philippe : De quelques difficultés majeures dans la réception du Zen Rinzai en France (フランスにおける臨済宗の受容過程での課題). 法政大学国際文化・国際文化情報学会『異文化』(論文編),11;7-37,2010 .

 
 
france zen文書

ストラスブールの禅仏教センターの案内冊子に出ている道元の言葉のフランス語訳。
 
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1-2.アメリカにおける禅への関心
 
 西洋でも、アメリカにおける仏教や禅の受容の流れはフランスの場合と若干違いますので、対比のためにアメリカのことにも少しふれておきます。
 アメリカ合衆国の独立100周年 (1876年)を記念して、自由の女神像がフランスからアメリカに1886年に贈られました。フランス語で “Statue de la Liberté”と呼ばれる像で、したがって英語では “Statue of Liberty”と命名されました。フランス生まれの “Liberty”という名の女神が、高く差し上げる松明で世界を照らしているのですが、それは以後のアメリカの行方を暗示していたかのごとくです。
 禅の課題もまた「自由」にあると言えます。ただし漢字としての「自由」は含蓄が深く、“Liberty”がそれにあたるとは思えません。フランス語の “Liberté”は束縛、拘束、抑圧などからの“解放”を意味します。英語には、それと同じ “Liberty”の他に、「自由」を意味する語として “Freedom”があります。“Liberty”は「~から解放される」という受動的な自由であるに対して、“Freedom”は、より能動的なニュアンスを帯びた自由を表す言葉です。この “Freedom”の方が、禅における「己事究明」の果ての「自由」につながるように思われます。アメリカ人は、自由の女神像のことを “Miss Freedom”という愛称で呼ぶこともあるようですが、フリーダム嬢の松明に照らされて、アメリカでは比較的自由に禅が広がっていきました。
 1893年にシカゴで万国宗教会議が開催され、鎌倉円覚寺の釈宗演率いる日本の仏教団が、そこに参加しました。年譜的には、これは日本仏教、とくに禅が、アメリカの公的な場にはじめてお目見えする機会を得たイベントでした。釈宗演はこの会議で、アメリカの宗教研究者、ポール・ケーラス Paul Carusと知り合います。ポール・ケーラスの著作のひとつ『カルマ Karma』は、釈宗演の弟子の鈴木大拙によって邦訳され、『因果の小車』の題で出版されました。それは芥川龍之介が『蜘蛛の糸』を書く題材となったものです。そして鈴木大拙は、釈宗演の推薦により、渡米してポール・ケーラスのもとに行き、彼の出版社で編集に携わることになります。
 他に釈宗演の門下の僧侶や、釈宗活 (森田正馬が参加した「両忘会」を主宰していた人物) の門弟も、活動の足跡を残しています。このようにアメリカでは、臨済禅の方が曹洞禅より早く上陸しましたが、独特の公案禅をアメリカにどのように馴染ませようとしたのか、詳らかではありません。
 ところで鈴木大拙は、僧侶ではないため、禅の実践的な普及に関わることはなかったものの、戦前および戦後の二度にわたり、長期間アメリカに滞在し、主に哲学的な立場から禅思想についての英文の著作を出し、講演活動も行いました。この大拙を通じて、いわば神秘的な日本の禅思想や文化に関心を深めた人たちは少なくなかったのです。大拙の影響による禅的なものへの関心を伏線として、戦後の50年代から60年代にかけて、社会体制を否定し人間性の解放を求めたビート世代は、仏教に惹かれ、続いて若者たちの間に広がったカウンターカルチャーの中で、日本の禅や東洋の瞑想が彼らの心を捉えました。実地の禅を示さなかった鈴木大拙に代わって、ヒッピーたちが実験的に禅的行動をしてみせたと言っても、過言ではないでしょう。難解で神秘的な思想を伝えて、アメリカ人に合うような修行の実際を十分に示さなかった点に、臨済宗の問題が露呈したように見えます。
 禅の普及については、臨済宗に遅れて北米に進出した曹洞宗の着実な活動に、むしろその成果を見ることができます。1959年に、曹洞宗の鈴木俊隆老師が、サンフランシスコの日本人街にある桑港寺に、住職として着任しました。折しも、続いていた反体制運動の波は、日系アメリカ人のための桑港寺にも届き、座禅をしにやってくる非日系のアメリカ人たちが増えて、混乱が生じるほどになりました。鈴木大拙に比して、「リトル・スズキ」と自称したという謙虚な鈴木俊隆師でしたが、座禅に来る非日系人に厳しい規矩を課して只管打座を命じ、混乱を収拾します。その一方で現地の参禅者向けに修行の場を用意する必要性を感じ、桑港寺の近くに「発心寺」を開き、さらに1967年には、タサハラに建設した本格的な修行道場としての「禅心寺」を中心に、「サンフランシスコ禅センター」を創設しました。こうしてアメリカにおける禅は、1960年代より、理論から実践へと移行していきました。
 鈴木俊隆師の他にも、日本から派遣された前角大山なる曹洞宗の老師もいて、このような初代の日本人指導者のもとで育成されたアメリカ人の禅僧が、アメリカに固有の禅を創造していきます。
 たとえば、アメリカ人のローリー大道老師によってニューヨーク郊外に「マウンテン禅院」が創設されましたが、大道老師は過去に臨済禅との接点を有し、前角老師から曹洞禅を継承し、さらにチベット仏教の影響も受けているのです。また、日本では曹洞、臨済の双方を取り入れた原田祖岳を受け継いで、安谷白雲が鎌倉に設立した三宝教団がありますが、その安谷師は1960年代にアメリカに渡ります。ハワイ、そしてロサンゼルスへと入り、伝統にとらわれない禅を伝えました。アメリカ人のニーズに合った安谷師の指導により、その流れを継ぐ弟子たちが育ち、彼らが指導者となって今では国内に複数の拠点ができ、アメリカ人在家者が馴染みやすい禅として、多くの人たちに受け入れられています。三宝教団は、日本で既に伝統の垣根を越境していた禅が、国境を越えて自由の国アメリカで活路を開いた例でもあります。
 近年、カリフォルニア州のシリコンバレーに集まっているIT企業の従事者を中心に、アメリカ人の禅への関心はますます高まっていると言われています。決まって引き合いに出されるのは、2011年に早逝した、アップルの創業者、スティーブ・ジョブズのことです。ジョブズは友人とアップル社を設立したものの、1985年に会社を追われて失意に陥り、以前から知っていたロスアルトス市の乙川弘文老師の指導を仰ぎます。乙川老師は、鈴木俊隆老師がサンフランシスコ禅センターを創設した際に、日本から呼び寄せられた曹洞宗の僧侶ですが、その後はロスアルトス市内の「俳句禅堂」の住職をしていて、ジョブズはそこに出入りしていたのです。乙川師の下でジョブズがどのような修行をして、どのような境地を得たのか分かり難い点はありますが、彼は新たに立ち上げたネクスト社に戻り、再びIT開発の最前線に立ちます。
 ジョブズは、少年時代より高い知能と独自の発想ができ、その非凡な能力によりITの開発をして、若き成功者になりました。しかし性格的には、かなり問題を有していたようです。彼は「シンプルであることは、複雑であることより難しい」ということを、改めて禅から学び直したと見ることもできます。しかし挫折したときの彼は、禅によって自分をみつめる体験に恵まれたのではないでしょうか。乙川師自身も風変わりな人だったと言われますから、波長が合ったのかもしれず、師の理解を得て、ジョブズは自分を矯めていったのではないかと推測します。
 シリコンバレーのIT企業では、社員たちに向けて、瞑想 (メディテーション) やマインドフルネスが導入されていると聞きます。高度な知的作業をするに当たって、無駄な思考は省き、必要な思考に集中することは必要ですから、思考の効率化を図るエクササイズとしては、瞑想もマインドフルネスも有用でしょう。しかしそれらと禅は同義ではなく、自分の人生を見つめ尽くして、それを今に収斂させるのが禅ではないかと思うのです。ITと禅を一挙に結びつけるのは、短絡的ではないでしょうか。
 アメリカにおける禅の流れを大まかに記してきましたが、その中に見られる特徴を以下に改めて略記しておきます。
 伝統のない自由の国、アメリカでは、禅は自由に受け入れられ、自由な展開を示しました。臨済宗、曹洞宗という宗派を超えることはタブーではなくなり、むしろ自由な融合が起こっています。
 鈴木大拙による東洋の神秘のような教えだけでは飽きたらず、当然のこととしてプラクティスが求められるようになりました。ただそこには、実際を重視するアメリカ人の気風が見て取れます。そんなアメリカ人を惹きつけたのは、神秘性を残しつつ、同時に実用的でもある瞑想(メディテーション)だったのです。アメリカにおける瞑想には、禅、チベット仏教、東南アジアの仏教の三つの流れが合流しています。しかし宗教色のない実用的な瞑想として受け入れられたのは、マインドフルネス瞑想でした。それは脳科学的にも有効性があるとされ、禅とは一線を画して仕事や生活の中で活用されているようです。
 このような流れの中に、伝統から解放されてフリーダムの道を歩むアメリカを見ることができます。
 奇妙なことに、森田療法のアメリカへの導入は低調であるように見受けます。森田療法のすべてが禅であるとは言いませんが、アメリカで禅に関わっている人たちは、森田療法をどう捉えているのか、気になるところです。

 参考文献
1.ケネス・タナカ : アメリカ仏教―仏教も変わる、アメリカも変わる― . 武蔵野大学出版会, 2010.
2.石井清純,角田泰隆 : 禅と林檎― スティーブ・ジョブズという生き方―. ミヤオビパブリッシング, 2012.
3.岩本明美 : アメリカ禅の誕生―ローリー大道老師のマウンテン禅院―. 東アジア文化交渉研究別冊 6,11-31,2010.

 
 
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2.禅の「悟り」と森田療法における「治癒」への理解の問題

 
 最後に、またフランス側の森田療法理解の問題に戻ります。
 このシリーズ稿で、先にニル・エルブNyl ERB 女史が森田療法の治癒状態を禅と重ねつつ、「アタラクシー」に似た境地として理解していたことについて述べました。何をか言わんや、ですが、彼ら彼女らにとっては、禅や森田療法についての情報と体験が少なくて、そのような理解のしかたが精一杯のところだったのです。まして、京都の三聖病院の禅的森田療法、つまり宇佐療法からの入門を経由して、本物の森田療法を理解するという課題は必要でしたが、フランス人にとっては容易なことではなかったようです。Nyl ERB 女史も三聖病院という鬼門を入り、魔境に陥ってしまったのです。
 そこで私は、アタラクシーとの比較対比が可能な、ひとつの禅の境地として、快川和尚の放ったと言われる言葉、「心頭を滅却すれば火もまた涼し」(正確には、後述するように「火も自ずから涼し」)を引用し、このような高踏的境地を指し示すことの非妥当性を、あえて指摘しておいたのでした。そして最後にその問題に立ち戻らねばならないと思って、ここまで保留してきたというわけです。
 宇佐玄雄も森田正馬も、治癒の境地を示すために禅で言う「無寒暑」を引き合いに出しています。『碧巌録』第四十三則の「洞山寒暑廻避」の「本則」に、ある僧と洞山良价との次のようなやり取りがあります。
 僧「寒暑到来せば如何にか廻避せん」。
 洞山「何ぞ寒暑無き処にゆかざる」。
 僧「如何なるか是れ寒暑無き処」。
 洞山「寒き時は闍黎を寒殺し、熱き時は闍黎を熱殺す」。
 読みやすいように一部表記を改めましたが、以上のような洞山良价の教えが出ているのです。「闍黎」とは、僧のことで「あなた自身を」というような意味であり、また「殺」は表現の誇張であって、「なりきってしまえ」と言っているのです。短く言えば「寒時寒殺、熱時熱殺」で、「熱い時は熱さになりきり、寒い時は寒さになりきれ」ということです。(禅は誇張した言葉で、持って回ったことを言います。「言うは易く行うは難し」ということにならないように、わざわざ難解な表現をするのだろうか、と言いたくなりますが…)。ともかく、これは森田も常に教えていた「なりきる」ということを言っています。
 さらに「本則」の次の「評唱」に、「心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」という洞山の教えの句が出てくるのです。火刑にされる前に、快川和尚は脳裏に浮かんだ『碧巌録』のこの句を言ったという伝説のような話です。猛暑の到来と火刑とはわけが違いますが、禅の寓意を理解するほかありません。
 森田正馬は、禅でいう「悟り」をなるたけ平易に理解して、その限りにおいて、療法における治癒と禅における悟りとを同一視しました。森田は、禅の難解さを嫌い、悟りを素朴に捉えて、「すべての行動が自由自在で、最も適切に働く時の状態」が「悟り」の境地だとみなして、これを治癒と同等視しました。「自由自在」が放恣を意味するのではないことは、言うまでもありません。「随所に主となれば立処皆真なり」(臨済義玄)というような自由を生きることなのでしょう。
 フランス人にとっての自由、アメリカ人にとっての自由、日本人にとっての自由、これらの差異を理解しながら、建設的に対話を続けていくことが必要です。
 
 付記
 本稿では、森田療法へのフランス人の反応として、雑誌 PSYCAUSE に現れた Nyl ERB女史らの発表を取り上げましたが、フランス人たちからの森田療法への反響は、以前からさまざまありました。中でも面白かったのは、ディディエ・ブルジョア Didier BOURGEOIS という精神科医師は、「日本の森田療法はエグザイルEXILEだ。『正常病』だ」という、事実上筆者に向けた批判をしてくれました。このような毒舌の方が、おめでたい「アタラクシー」より、はるかに面白いのです。この毒の利いた語りは、小著『忘れられた森田療法』で紹介したことがあります。この毒舌精神科医は、最近沈黙しています。高齢で、焼きが回ったのでしょうか。
 フランスから、もっと毒矢が飛んでくることを期待しているのです。

 
 

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無心(RYUMON-JI 龍門寺の猫)

アタラクシー、瞑想、禅、そして森田療法(その2)―フランス人におけるアタラクシーへの親和性と仏教の受容について―

2016/07/08

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フランスに禅(曹洞宗)を広めた僧侶、弟子丸泰仙禅師(1914-1982)

(写真は、ストラスブールの禅仏教センターの案内冊子より)

 

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1. フランス人にとってのアタラクシー
 前回、Nyl ERB 女史とのやりとりをほぼリアルタイムで紹介しました。しかし通信が一段落するはずの結末に至って、天然気味のこの女史は、見事に討論をひっくり返してくれました。
 そこで二つの問題が、今更のように持ち出されました。まず第一に、日常生活で必死に働いている状態こそが悟りだと、森田正馬が言ったとのことだけれど、自分は疑問に思う。野中剛監督の三聖病院のドキュメンタリー映画には、主人公がアタラクシーの境地に導かれる過程が描かれていたように受け取った。だから、やはり森田療法はアタラクシーを求める療法ではないのですか? と。第二に、森田療法における治癒とは何なのですか? 一生懸命働くのも結構ですが、それが最良の人生ですか? と。
 どうもアタラクシーが女史の固定観念になっているらしく、手のうちが見えてきました。一方、森田療法における治癒の概念に関することは、より高次の問いかけです。
 そこで、今一度回答のメッセージを、メール送信しましたので、冗漫になりますが、その内容を以下に紹介します。

 〈当方からNyl ERB女史へ〉
 「改めて差し向けられたご質問に、お答えします。
 森田療法の目指すものがアタラクシーであるか? 答えは、ノンです。 森田療法の真髄は、苦を抱えて生き抜くところにあります。この世で苦を避けることは不可能なのですから。もちろん、人生、苦ばかりではありません。生きていれば、コインの両面のように、苦があれば楽もあります。森田療法はマゾを志向しているのではないのです。禅もまた然りです。楽しいことを素直に楽しみ、苦しいことをそのまま受け入れ、「あるがまま(ARUGAMAMA)」に生きていく、それが人生です。「ARU」とは “l’être”を意味し、「まま」とは、「無条件に、理屈抜きに、自然のままに」ということを意味します。
 ところで、三聖病院における森田療法は、本来の森田療法から偏して、過剰に禅の装いをし、独特の教義に傾いていて、宇佐療法と称されるまでになっていました。入院中の規則として雑談は禁じられていましたが、技法的な不問にとどまらず、言語的にも非言語的にも、コミュニケーションそのものがない自閉的な不問の世界だったのです。また禅では、まずは己事究明を課題とし、その果てに自他不二に至るものですが、三聖病院では、最初から自己意識を持つことを否定し、他者意識を持つことを肯定する二分法的指導がおこなわれていました。同じ病院に勤務している医師や他の職員にとっても、院長とのコミュニケーションは難しいものがありました。こうして外見的に神秘性をまとった院長像は、患者さんたちの崇拝を集め、元入院患者たちの会は、院長を教祖の如くに仰ぐカルト的な集団をなしていました。
 このような三聖病院のドキュメンタリー映画を制作された野中剛監督は、自身の先入観や印象を加えることなく、事実としての病院を撮影対象とし、それを映像として提供して、病院への評価は観客に委ねようとされたのです。
 ところが残念なことに、この映画を視聴した人たちの大半においては、映像の奥までを観ていず、映像の表面だけを追って病院を賛美し、不適切な鑑賞しかできないでいるのです。この映画は最後の結末が重要なのですが、多くの人たちは、映画を最後まで観ていません。熱心に映画を鑑賞していれば、最後までじっくり観て然るべきですが。
 主人公の入院患者さんは、病院の暗示的な環境の中で、教祖のような院長の敬虔な信者のようになってしまいました。心の安らぎを期待して映画を観ている人たちには、主人公が治療者を崇拝するようになった状態が、まさしく治癒であるように見えて、めでたしめでたしと思ってしまうのでしょう。しかし、主人公の陶酔的な心理状態は、非現実的な夢想の域を出ません。実際彼は、退院後に周囲の人たちに対して、院長への崇拝を語り続けたため、友人たちから奇異の目を向けられます。そして心理的に混乱していたため、野中監督は、一年間ほど定期的に彼に会い、マインドコントロールが落ちるまで、フォローされたのです。映画の最後の部分には、退院後のこのような顛末がさりげなく収められています。
 主人公が入院中に体験した陶酔的な心理状態は、アタラクシーに近いのでしょうか。西洋人がこの映画を観て、アタラクシーを連想しても、無理からぬことだと思います。ただし、それは宇佐療法の場合のことであって、本物の森田療法はアタラクシーにいざなうものではありません。

 次に、森田療法における治癒とは、という問題についてです。これは、われわれにとっても重要な課題です。同時にこれは単純なことでもあります。アタラクシーにこだわれば、この答えは見えなくなります。
 本来、森田療法は神経症の症状を特異的に治すための方法なのではなく、人生の苦楽を生きる智恵としてあるものです。「あるがまま」ということが、つい忘れられがちになります。苦を楽に変えたいのは人情ですが、できないことであり、それにとらわれてあがくと、神経症になります。言い換えれば、神経症は「治したがり病」であり、森田療法はそれを治してやります。
 宇佐療法では感情を排しますが、それとうらはらに、本物の森田療法は感情の生き生きした動きを大切にします。行動もまた大切ですが、素朴な感情が自然に適切な行動につながるのです。
 こうして森田療法は万人の生き方に必要なもの―、あるいは既に世の中の多くの人たちが、たとえ森田療法という名称を知らずとも、そのような智恵を持って生きているに違いないのです。
 この療法を、神経症の治療という狭い領域に閉じ込めるべきではありません。苦悩があってこそ人間は成長するものなので、神経症というものは必ずしも治す必要はないと思います。森田療法の、あるいは仏教の智恵は、万人の人生にとって必要です。」(6月29日)。
 以上が私の書き送った答えです。
 
  Nyl ERB 女史は、精神分析と森田療法を対立させて考えながらも、森田療法を西洋的なアタラクシーの方へ引っ張って理解しようとしたのでした。自由、平等を原則とするフランス社会で、生きていくためには個の確立が求められることは理解できます。そして個の確立のために精神分析を拠り所とするフランス人の心理も、精神分析的に理解できます。しかし、フランス社会では、心を合理的に扱う精神分析があるその反面で、興味深いことに、東洋の仏教的な思想や体験への関心が少なからず浸透しているのです。小乗仏教(上座部仏教)、禅(曹洞禅)、瞑想がその主なものです。瞑想につながるものとして、ダライ・ラマのチベット仏教やティク・ナット・ハンのベトナムの禅もかなり入ってきています。これらに共通するものを、強いて西洋の既存の概念に照らすと、アタラクシーが持ち出されることになるようです。
 

1-300

曹洞宗で使われる禅語「非思量」の掛け軸と、面壁して座禅をする僧侶。

(写真は、ストラスブールの禅仏教センターの案内冊子)

 

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2.瞑想について
 まず瞑想というものは、本来禅の座禅とは別のものであり、主に小乗仏教(上座部仏教)において、戒律を守り、煩悩を断つ厳しい修行の一環としておこなわれてきたものです。またインドにおいては、古くからヨーガの瞑想がおこなわれていました。
 これらはフランスに導入されて、méditation(メディタシオン)と呼ばれ、ストレスなどに対するセラピーとして流布することになりました。しかし、méditation は西洋の言葉であり、西洋ではキリスト教の信者が、神に祈り神をイメージすることが méditationだったのです。したがってフランスにおいてméditation と言われるもは、複合的な意味合いを持つことになります。
 一方、禅と瞑想は、わが国においてさえ混同されやすいものですが、フランスでは両者は融合しているのが現実です。フランスには、20世紀後半に、弟子丸泰仙という禅僧によって、曹洞宗の禅が広められました。黙照禅と言われ、ただひたすらに只管打座の修行をする曹洞宗の禅は、フランス人からすれば、それはキリスト教の méditation にも、また小乗仏教の瞑想にも通じるように見えたものと思われます。そのような親和性を接点として、フランスには曹洞宗の禅が根付いています。
 森田療法は、曹洞宗の禅とも無関係ではありませんが、フランス人がもし méditation と森田療法を同一視すれば、アタラクシーを連想される場合と同様に、理解にずれが生じることになります。
 ともあれ、フランスにおいて、東洋的な宗教や思想が受け入れられている現状を知っておくことは必要です。
 

庭300

アルザスの曹洞宗の禅寺、RYUMON-JI(龍門寺)の庭と小道。寺の敷地は広い。

 

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3.アルザスの禅寺(龍門寺)とストラスブールの禅仏教センター
 さて森田療法と近い関係にある禅は、フランスでどのように普及しているのでしょうか。フランスの禅事情に通暁しているわけではありませんが、アルザスに在住するNyl ERB女史から、アルザス地方にRYUMON-JI(龍門寺)と禅仏教センターという、曹洞宗の二つの重要な禅施設があることを聞いています。
 しかし、まずフランス全土には、どのような禅施設が存在するのでしょうか。これについては、インターネット上に“Zen Centers in France”というサイト(最終アップロードは2008年)があり、禅施設がリストアップされていますので、情報として完全と言えないにせよ、これがかなり参考になります。
 この資料には、フランス国内の82カ所の禅施設が挙げられています(個人的な禅の集いのレベルのものは無数にあるようですが、それらはこのリストに含まれていませんので、そういう意味では一応信頼に足る資料です)。そこでこの資料に基づき、禅の宗派別に見ると、このうち明らかに曹洞宗を標榜している施設が56件あります。その内訳としては、弟子丸泰仙の流れを名乗るものが46件、それ以外のものが10件です。これだけを見ても、フランス国内の禅施設の約三分の二が曹洞宗であり、さらにその大半が弟子丸泰仙の系譜に属することがわかります。
 臨済宗を標榜している禅施設は、4件に過ぎません。これらはすべて、Taikan JOJI(太寛常慈)というフランス人の臨済僧妙心寺派の開教師によって興された施設です。
 それ以外には、曹洞宗と臨済宗の双方の融合した禅を名乗るもの4件、ベトナムのティク・ナット・ハンの流れのもの4件、キリスト教のスピリチュアリティと融合した禅を名乗るもの3件、残りの11件は標榜不明です。なお上記の全82件のうち、temple(寺院)を標榜するものが、5件あり、曹洞宗寺院3つ、臨済宗寺院1つ、宗派不明1つです。曹洞宗寺院では、ロワール河の近く、ブロア市の近郊のヴァレールに弟子丸泰仙自身が曹洞宗の拠点として開いた禅道尼苑が知られており、そしてストラスブール郊外のヴァイテルスヴィラーには、弟子丸の重要な弟子によって開かれた龍門寺があります。これらが曹洞宗寺院の双璧をなしています。臨済宗寺院は、上述した太寛常慈によって開かれたものです。
 このように概観すると、龍門寺はフランスの曹洞禅の重要な寺院であることが、改めてわかります。
 残念ながら、自分は訪問したこともありませんので、資料に拠りながら、龍門寺と、ストラスブールの禅仏教センターのことを簡単に紹介しておきます。
 幕末の日仏修好通商条約以来、主にアルザス地方が商業のみならず、文化的にも日仏交流の地となった歴史があり、アルザスは日本との馴染みの深い地方です。龍門寺ができるより早く、1970年にストラスブールに、弟子丸泰仙の直弟子のひとり、ジャン・ショーゲン・ベイビー禅師によって、Centre de Bouddhisme Zen(禅仏教センター)が設立されました。ここでは、仏教者であるか否かを問わず、世俗の市民も歓迎し、はじめての人には手ほどきをしながら、毎日座禅をおこなっています。曹洞禅は、“méditation-zen”と称され、座禅は“méditation assise”と言われています。このセンターは龍門寺と連携しています。泊まり込んで僧堂での生活をし、摂心に参加する人は、龍門寺に行ってそれを体験をすることができるのです。
 このセンター及び龍門寺に共通する禅へのいざないとして、次のような説明がに記されています。
 「 二千年以上前に、シャカムニ・ブッダは、méditationにより覚醒体験をして、この世の苦の原因を知り、苦から自由になる法を説きました。…今への集中、個人の責任感への気づき、慈悲への目覚め、忍耐、感謝の念が座禅の重要な意義で、これらによって日々の生活への具体的な答えがもたらされるのです」。
 RYUMON-JI(龍門寺)は、ストラスブールの郊外に、弟子丸泰仙の重要な弟子、Olivier Reigen Wang-Genh オリヴィエ・レイゲン・ワン-ゲン禅師によって、1999年に開かれました。この方は、曹洞宗の布教使であり、国際禅協会副会長、フランス仏教ユニオンの会長で、フランスにおける曹洞宗の重鎮です。
 龍門寺は広大な敷地を持ち、様々な目的の複数の建物、石庭などの庭、植物の菜園などもあります。ここでは僧侶、尼僧、一般人ら、数十人が、規律正しく日課を守って集団生活をしていて、毎月摂心がおこなわれています。このような規模、規律、指導内容を見ても、本格的な修行生活が用意されていることがわかります。
 出家、得度を目的とせずとも、志せば一般市民もここでの生活集団に受け入れられることは大きな魅力です。méditationとは何なのかという疑問も残りますが、入院森田療法が衰退の途を辿りつつある今日、このような修行生活をできる場があることは、羨ましい気がします。
 

提唱

龍門寺における指導者の提唱