「森田正馬と森田療法」(拙稿)について

2021/09/12

 

メディカルレビュー社発行の「精神科臨床 Legato レガート」という雑誌があります。この雑誌の本年8月号(Vol.7/No.2)に、「森田正馬と森田療法」と題する拙稿を掲載して頂きました。「古典」という欄に収められたものですが、森田療法は古くて新しく生きているものです。この雑誌は、精神科の一般誌ですから、森田療法にあまりご関心がなかった先生方にも、関心を寄せていただけるようにと考えて、そんな語り口の文を書かせて頂きました。短い文章ですが、著作権はメディカルレビュー社に帰属しますので、このホームページを通じてお読み頂くことはできません。

別冊(抜き刷り)は多数手元にありますので、もしご関心の向きは、このホームページの通信欄からご一報下されば、お送りできます。

寄稿文の紹介(千葉県の菊地武始様より)

2021/09/11

当研究所のホームページには、全国からさまざまなお便りやご意見を頂いています。
そのほとんどが、ホームページの水面下での岡本との個人的なやり取りで終始してしまいがちです。
私は、ブログ欄が皆様の意見交換の場としてご利用頂けたらよいと思っています。
当方は管理人にあたりますので、必要最小限の管理はさせて頂きますが。
以前はお手紙を頂いていた千葉県の菊地武始様から、最近メールが届きました。
かつての高良興生院での体験を振り返って記述なさっています。
文責はご自身で持ってほしいとの条件の上で、このメール文の公開にご同意がありましたので、
以下に同氏のメール文を公開させて頂きます。(岡本 記)

 

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<以下、菊地様から頂いたメール>

岡本先生、ご無沙汰しております。高良興生院出身の千葉の菊地です(67才、男性)。
研究所のブログや研究ノートを拝見しながら、猛暑やコロナ禍のなか、相変わらずお元気にご活躍のことと推察致します。

森田療法百年となり、今回「忘れられた森田療法」を再読致しまして、岡本先生の原点森田への回帰の意気込みを改めて感じたところです。

私は、思えば遥か半世紀も前、不安神経症(呼吸恐怖)を抱えながら高良興生院に入院したのが昭和44年、以来50年を経ても未だにそのなごりを(日常生活に支障ない程度に)ひきずっております。
我が人生の大きな支えとなっている森田療法への愛着は何とも断ちがたいものです。
同療法が年々考え方や形を変えながら拡がって行くなかで、真正森田の精神が失われていくように感じ、何とも歯がゆい思いがあります。
それはただ単に昔を懐かしむあまりなのか、年代的に真正森田により近い時期に同療法に向き合えた我々の世代の言わば特権なのか、何れにせよ寂しい思いにかわりはありません。
私の場合は、森田の直弟子に当たる高良武久先生の薫陶を直接受けた最後の世代と自負しておりますが、高良興生院では森田の宗教色を弱めた療法だったようで、当時すでに脱森田の兆候があったのでしょう。
今も手元に残る当時の木彫りの板には「君子不器」「不安常住」と毛筆で書かれていますが、高良先生はじめ諸先生方には禅的な教えや指導はされなかったように記憶しています。

さて森田の真髄は、神経症・強迫観念の苦しみをそのまま苦しみ、日々やるべきことに努力するということになると思いますが、すべての患者は最初は必ずこの症状を何とかなくそう、症状から逃げ出そうと努力するところから始まります。そして取っ掛かりが入院療法であれ認知行動療法であれ、様々、紆余曲折を経て治るべき人は結局はここ「あるがまま」に帰着することと思われます。
そのようなことは百も承知、二百も合点のことなのですが、だとすると、我々素人の市井の神経症経験者が何かお役にたちたい、経験を生かしたいと希望しても、ほとんど何も助言できないことになります。
例えば生活の発見会に参加しても、現在苦しんでいる患者さんたちには、症状を苦しんでください、日々の仕事に努力してくださいと言うだけで終わってしまいます。
そう考えて、空しい思いをしている今日このごろです。

この半世紀を懐かしさも交えて振り返りながら、ご無沙汰している岡本先生に一報しようと思い、メールしました。

つたない思いと文面ですが、返信頂ければ幸いです。

 

菊地

岸見勇美先生に―、散らない桜

2021/04/03


この桜は散りません


 
 

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  恥ずかしながら、私は何かにつけて、つい反応が遅れる困った人間です。嬉しいこと、悲しいこと、苦しいこと、内面では人一倍に感じ取りながら、反応を言動に表すのに時差が生じてしまうことがあります。精神科の仕事をしていた職業病的習い性もあるのかもしれませんが、いささか困ったものです。嬉しいときには、それを黙ってしみじみと感じるのです。もちろん相手には感謝の気持ちでいっぱいになりますが、行動的な表現が遅れたらいけないです。悲しいときはなおさらに、胸に秘め込んでしまいます。
 嬉しかった経験としては、もう数年も前に、拙著に対して、岸見勇美先生が、丁寧な書評を書いて送って下さったことがありました。森田療法の分野で著名な作家のあの岸見先生です。もちろん丁重にお礼は申し上げましたが、後から考えてみたら、頂いたそんな玉文を公的に出して皆様にお読み頂いてこそ、その文章が生かされたのだと気づきました。
 そんな鈍い頭で、今更ながら岸美先生から頂いた文章をここに皆様にご披露させて頂こうと思いつきました。
 岸美先生本当にありがとうございました。数年後の今、改めてお礼申し上げます。
 
 岸美先生の文章は、拙著『忘れられた森田療法』への書評です。
 以下にそれを出しますので、お読みいただけます。
 
 
 岸見先生の書評

三聖病院閉院時の宇佐晋一先生最後の講話について(解説)

2021/04/02

 




 
 
 

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三聖病院閉院時の宇佐晋一先生最後の講話について(解説)


 
 

 平成26年の三聖病院閉院時に宇佐先生最後の講話を撮影した動画のデータが手元に残っていたので、すでに6年経っているものの、先般このブログ欄にその動画シリーズを出した。
 その解説をつい怠っていたところ、有り難いことに南條幸弘先生が、ブログ「神経質礼賛」の No.1844 から3回ほどにわたって、丁寧なコメントを記してくださった。おかげさまで、それで十分過ぎる解説を頂いたことになった。だから、屋上屋を架すようなことになるけれど、裏コメントを少しだけ披瀝しよう。
 
 まず、「しゃべる人は治りません」という教えについて。
 入院中の人たちは、症状のことなどをおしゃべりしていないで、作業をしなさいと、まあそういう意味に受け取っておけばそれでよいと言えばよい。
 ただ、この教えは最初は宇佐玄雄によるもので、玄雄筆の文字が木彫りになって、長らく院内に掲げられていた。ところが晋一先生の代になってからのこと、かなり以前だが、ある患者がその板を叩き割ってしまったらしい。それで板はなくなったが、その「しゃべる人は治りません」というせっかくの教えを残すために、半紙に墨書されて、何枚にも複写されて院内に掲示されていたというわけである。墨書の筆跡は晋一先生のものではない。誰が墨書したのだろうか。そこで、ある入院患者さんが日記で晋一先生に尋ねたら、ある女性が書いたとのみ、お答えになったそうであった。患者が割った板は、玄雄先生の文字が彫られたものだったが、晋一先生の代になり、その文字の意味が晋一先生の教えの意味合いに変化してからのことであった。
 結局、この言葉の意味としては、玄雄先生は、小人閑居してしゃべっていないで、作業をせよ、ということであったようだが、しかし、晋一先生になってからは、多少意味が変わった。言葉が神経症をつくる、言葉のないところに神経症は絶対不成立であるとされ、言葉のない世界をのみ肯定されたのであった。これは徹底した不問に通じるものであった。そこには原理的で、鬼気迫るようなものがあった。この言葉のない世界や不問のことについては、私は稿を改めるつもりである。ともあれ、同じ「しゃべる人は治りません」でも、宇佐玄雄先生と晋一先生の間において、意味合いの変化があったと見てよいだろう。
 
 次に「わからないで居る」の教えについて。
 南條先生は、これを森田正馬の指導と重ねてご理解くださっている。森田は、理屈でわからなくても強情をやめて、治療者に素直に従えば治るのだという教え方をしていた。森田だけでなく、宇佐玄雄の指導もそうだったのだが、二代目宇佐晋一先生の一流の禅的思想は、必ずしも森田や玄雄に合致するものではなかったようで、微妙に意味合いを異にした。簡単に言えば、「わからずに居る」は、禅原理主義的と言うほかなく、自己の心についてみずからわかるということはあり得ず、知的理解以前の、そのままの境地にあることを指していた。わかるとわからないの区別はない。禅で言う「無分別智」である。
 
 ところが、さらに付け加えるべきことに、晋一先生は、ある時から、ご友人の心理学者の示唆を得て、自己意識と他者意識という心理学的用語と概念をも導入なさった。自己意識にとらわれず、他者を重んじる意識に徹すべしという思想であった。これは自己と他者の二分法そのものであり、無分別の智ではない。禅では「自他一如」、「自他不二」と教える。野球のイチローさんでさえ「自他一如」と言っているくらいである。
率直に言って、講話などで長年にわたり、伝えてくださった教えの内容は、このような変遷があった。
 
 そこで改めて変遷をたどれば、宇佐玄雄が説いたような、理屈を言わずに作業をすれば治るという教えから、その上に晋一先生の「無分別智」(分別をしないところに智がある)、あるいは「虚妄分別」(分別することは虚妄なのである)という原理的教えが説かれた。禅僧の御尊父は案外平易な教えを説かれたが、二世の御子息の方ががより禅的で難解な教えを説かれて、そこでそれをわかりやすく言い直したのが、「わからずに居る」なのであった。しかしながら、その機微はどれだけ入院患者さんたちに伝わったであろうか。患者さんはすべてが神経症圏とは限らない。思考障害を有する人たちも少なからずいたから、今にして言わせてもらえば、「わからずに居る」は少し危険な惹句であるように感じられた。さらにその上に、自己意識と他者意識という二元論が加わったのであるから、物議を醸した経緯がある。この不統一は惜しくてならない。
 ともあれ、三聖病院に勤務したことのある者として、不可解なものを引きずっている。6年前の最後の講話を今更持ち出したのも、そんな自分の無意識がさせたようなものである。
 南條先生がお書きくださったコメントは、正統的な森田療法の立場からこのように見える、という範のような推論を示してくださったのだと思う。しかし三聖病院は少し次元を異にするところに存立していた。
 今なお改めて顧みる必要があると思っている。

三聖病院閉院時の、宇佐晋一院長の講話 (動画撮影、その3)

2021/03/01




 平成26年12月26日。三聖病院の百年に近い診療の歴史の幕を閉じる最後の日。その1日は決して特別な長い日ではなく、いつものように日中の診療は終わった。
 初冬の日は短い。宵闇と共に、病院の夜がきた。三聖病院は夜甦る。やがて最後の最後の院長の講話の時間がきた。集まった人たちは粛々と聴いていたが、講話はいつもと変わらないようなお話であった。少なくとも、最後の講話も淡々としていて、劇的な盛り上がりも演出もないものであった。
 院長も疲労の色を隠せなかったように窺われた。しかし、以前から、「講話は本来なくてもよいものです」との前置きでポツリポツリと話をなさっていた院長の真意が証明された最後の講話であった。宇佐先生らしい幕の引き方であった。このときに出席しておられた方々はどう受けとめられたであろう。また今回始めて視聴される方々はどう感じられるであろうか。
 
 なお講話の最後の数分間は、残念ながら録画から落ちたが、講話後に特別なセレモニーとてなく、院長はいつものように背中を丸めて、部屋を出ていったのである。
 
 最後まで入院を続けていた粘り組の数人の修養生たちは、この夜も病院に泊まったようだった。明けて27日、もはや朝食も出なくなった病院からようやく彼らは去っていった。
 

(リンク) 閉院間際の講話③ 平成26年12月26日(金)

三聖病院閉院時の、宇佐晋一院長の講話 (動画撮影、その2)

2021/02/21


狸のいる中庭



 
 院長講話は、週3回、日曜午後、水曜夜、金曜夜に行われていた。
 最後の診療日である平成26年12月26日(金)を迎える最後の1週間の3回の講話、つまり、12月21日(日曜)、24日(水曜)、26日(金曜)の講話を録画した。今回2回目として視聴して頂くのは、24日(水曜日)の夜の講話である。
 従来、日曜日午後の講話には、外から訪れる方々(退院後の、あるいは外来通院の人たちなど)も参加しやすいので、院長は日曜講話では、なるべく一回で話がまとまるよう、さほど厳密ではないが、意識しておられたようである。水曜と金曜は夜なので、入院中の人たち(修養生)が主な対象であった。しかし、動画撮影をした最後の3回は、会場には立錐の余地なく、人が詰めかけていた。21日と24日は百人になんなんとし、最後の26日は百人前後だったろうか。動画撮影は会場の中心に三脚を立てておこなった。岡本が機材を準備し、撮影の際は二、三人の若い男性修養生に手伝ってもらった。講話の時間には、すでに夜の帳がすっかり降りて、庭に控えている狸の姿も見えない。ひょっとしたらこの夜は、狸が院長に化けて講話をしたのかもしれないから、とくと見極めてほしい。
 とにかく、24日の講話を視聴して下さい。今回も1時間あまりの講話を数回の連続で撮影して、一旦YouTubeにあげたものにリンクをつけています。

 
(リンク) 閉院間際の講話② 平成26年12月24日(水)
 

三聖病院閉院時の、宇佐晋一院長の講話(動画撮影、その1)

2021/02/10




 
 三聖病院は宇佐玄雄先生によって東福寺山内の塔頭、旧三聖寺の建物と立地を生かして、昭和2年に創設された。
 30年後、昭和32年に玄雄先生の遷化により御子息の宇佐晋一先生が、29歳で二代目院長に就任して、禅的森田療法を継承し、孜々としてその診療の実績を重ねてこられたのであった。父子二代で、築かれたその歴史は、先に大正11年に開院された三聖医院にまでさかのぼれば、90年を超えていた。だが光陰人を待つことなし。諸般の事情を受けて、三聖病院は、平成26年(2014年)の暮も12月末、その歴史の幕を閉じた。そのときなお宇佐晋一先生はご健在であったことは喜びとせねばならない。
 平成26年12月末の、病院の診療最後の週も、いつもの如く、宇佐晋一先生の講話はおこなわれた。その週の3回の講話を録画していたので、それらをYouTubeに出し、ブログにリンクして、供覧に資そうとする。しかし、撮影した動画をYouTubeに出す作業に伴う困難のため、講話1回分が、数本の動画に分かれる。今回のブログではまず、平成26年12月21日(日)の1回分の講話にあたる数本のYouTubeにリンクをつける。第2回分、第3回分が残されているが、それらはこの後の連載となる。
 

閉院間際の講話① 平成26年12月21日(日)
 

 なお、講話の内容についての説明は、講話の動画のシリーズ連載後に追って記そうと思う。

謹賀新年(めでたくもあり、めでたくもなし)

2021/01/12




 

謹賀新年(めでたくもあり、めでたくもなし)


 
 新年のご挨拶が遅れました。
 謹賀新年、というわけですが、「正月や 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と一休禅師が言ったように、新しい年が来たことを喜んでばかりはいられません。
 
 こんな複雑な正月がくることを誰が予期しえただろうか。いや、予期できたはずだ。
 オリンピックの開催予定期が近づいてもギリギリまで開催の中止を決めず、日本の歯車は狂い始めていた。コロナが少し下火になったら、GO TO キャンペーンだ、レッツ ゴー ゴー と日本中で軽躁状態になり、油断した結果が第三波の到来となった。グローバル化したこの時代、手ごわいウイルスのパンデミックを地球全体の危機として捉えねばならない。南米やアフリカではどうなっているのだろう。
 もちろんわが国はわが国で、政府、自治体、国民こぞっての自覚ある対応が必要だ。自粛、自粛と二言目には自粛を言っている意味が私には分からなかった。それを言うなら、自覚だろうと。
 ウイルスが猖獗を極める状況下で、多くの人たちが直接間接に対応に追われ、尽力しあっている。その中でも、ウイルスに直接立ち向かうという点で、とくに厳しい役割を担っているのは医療現場である。コロナの診療第一線では医療従事者が献身的な努力をしてくれている。しかし、中にはそれぞれの事情があり、限界もあって、後ろ髪を引かれながら辞めていく医師や看護師もいる。それでも辞めないで仕事を続けているある看護師さんが、テレビのインタビューで語っていたのを聴いた。コロナ診療のため病院は赤字になって、そのため私たちのボーナスは減る。それでも私たちは税金を納めている。ところが一方では、GO TO キャンペーンで国の経済援助で観光旅行に行き、そこでコロナに感染して帰ってくる人もいる。日夜働き、観光旅行どころではない私たちは、そんな感染者も含むコロナ患者さんたちの治療に従事し続けているのです、と。レッツゴーゴーの観光キャンペーンを思いついた政治家かお役人は、一体何を考えていたのだろう。
 私はGOと聴くと、郷ひろみさんを連想する。郷ひろみさんの郷はレッツゴーのゴーから取ったのだそうであるが、GO TO キャンペーンでは郷ひろみさんも苦笑していたことだろう。場当たり的な思いつきを自粛し、常に自覚が求められているのは、政治をあずかっている人たちである。
 日本では今、終末感が漂ってもおかしくない時節にいる。ところが私たちはそれを否認して、無関心になっている。恐ろしいのはその無関心である。だが、やがて無関心ではどうにも済まなくなり、不安や恐怖が蔓延すると、人々はカルト宗教に引き込まれかねない。カルト集団の人たちは私たちの身近にいる。これもまた、要注意である。
 今年は、コロナに関連する社会問題のひとつとして、そんな心理的危機も起こりうるのではないだろうか。

「あるがまま」と接得療法―三聖病院院長・宇佐玄雄の講話―

2020/11/04


講話中の宇佐玄雄



 

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「あるがまま」と接得療法―三聖病院院長・宇佐玄雄の講話―


 
 先のブログ、「『あるがまま』と『真如』―森田療法の中の仏教的神秘―」(2020.10.14)の中で、宇佐玄雄の講話を紹介しました。
 しかし、そこに添えた宇佐玄雄の「あるがまま」についての講話の音声データは、若干劣化していて聴き辛い状態になっていました。そのため、ここに改めて、宇佐玄雄の講話音声全データ、およびその冒頭にある「あるがままについて」の部分の抜粋をつけ直しておきます。これは昭和27年のある日らしく、その日の2時間近い講話の全データとその抜粋です。冒頭から抜き出した「あるがままについて」を除き、内容をいくつかのパートに分ける再処理はできていません。
 
 また「あるがまま」についての部分は、音声の抜粋だけでなく、書き起こす作業もできたので、それも提示しておきます。
 
 
・ 宇佐玄雄のある日の講話(全)

リンク(YouTube)
 
・ 「あるがまま」について(部分)

 
【宇佐玄雄のある日の講話のうちの、「「あるがまま」について」の部分の書き起こし】
 
注 : 講話は、入院患者が提出した日記に対して、それを題材に話をするという進め方になっている。
 
『最近になって、そのままとは、やるべきことは、どしどしやっていくとか、こうゆうことだろうと思うようになった』とあります。これなんです。初めからもうこのことを言っているんです。こういう意味なんです。
『言い換えれば目的に対して進むことである』と、こうあります。これは全くその通りであります。今頃わかりましたか。
 
 そのままというのはそのまま、あるがままというのは、でまかせのあるままとか、そんな意味じゃないんです。あるがままというのは何にむかっていうかというと、その、苦しいとか、つらいとか、いやだとか、不安だとか、やりたくねえとか。仕事を。そういう、そういうそのことは辛抱して、そのままにしておいて辛抱してということですよ。そんで、どんどんやんなさいよ。こういうことです。
 
 それでね、もう妙なことになりますよこれ。
 ああ今日はまあ誠にいやな日でもうめんどくさい日だと。なにもせなこれもしなならんけども、もうあるがままに何もしないでいるとか、そしたらだるいから、あるがままに、そのだるいままに寝転んでいるとか、そういうことじゃないんですよね。全然ちがいますよ。
だるいとかつらい、けれどもですよ、そいつを我慢して、そのままにしといて、それでどんどん行きなさい。寝込んだりしないで、あるいはいやだから行かないとかそういうことなしにですね、いやであるそのいやのあるがままにいきなさいと、こういうことですね。
 いやならいやのあるままで寝込んでいる、そんなんだめですよ、そんなん反対ですわ。いやとかつらいとか苦しいとかいうことはまあぱっと放っときなさいちゅうこと。そんなことに相手にならずに、いままでは普通、それに相手になってそいつをどうしようとして、行動ができなくなった訳ですね。
 いやだからしない、つらいから苦しいから、苦しいから人に会えないとか、そういうことも、それを治してということですね。それは、苦しいから苦しいままでよろしいからどんどん行きなさい。嫌やなら嫌でそれは仕方ないから嫌のままで結構ですからどんどん勉強しなさいと、こういうわけですね。どんどん前進しないと。
 
(中略)
 
『あるがままということは、字面の理解では、文字の面からみると危険だと。そういう広い深い内容を持っているということなのでしょうか。』と書いてあるけれども、これでは分からない意味が。その、抜けてますねひとつ。ちょっと抜けている。わかっています?私の言っていること。
 推察するにこれはね、あるがままということは、字面の上では、表面、まあ文字のうえではどうも危険だと、危険のように思える。しかし実際はこれは深い意味があってするなら、それはそれでけっこうだろうかと(いう質問だと)、そういう理解です。
 そりゃ危険ですよ。それは間違いない。あるがままは危険。あるがままにそのまま苦しくあるからあるがままに今日はもう何もしないでじっとしているとか、恥ずかしいという気持ちで恥ずかしいという気持ちの通りにもう仕事場に行かずにいるとか、体が何となくだるいからといって仕事なんかする気がしないから、今日はそのあるがままに仕事をしないとか、そういう、そりゃ危険ですよそりゃ。あるがままということを教えたら。みんなだれも何もしなくなっちゃう。それではずぼらとかなまけとかばっかりになりますね。あるいは退嬰、引っ込むことばっかり。この危険というのはそれでしょう。そりゃ危険です。この字面のとおりですね。
 
 

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【解説 : 宇佐玄雄における「あるがまま」について】
 宇佐玄雄は自らの指導について、著書『説得療法』の「序」に次のように記している。「説くべきの文字なく、諭すべきの言句なし。強いて言はんか、不問、不説の法あるのみ」。そして続いて「その接得宜しきを得ば、…指して月を示すの用を成すを得るに庶幾からん乎。…題して説得療法と云ふ。表題既に矛盾の嫌ひあれど、敢て名字に拘はらざるも亦読者の便を思ふが為めに他ならず。」と。
 つまり、療法の極意は「不問不説」にあり、実際に即して「接得」を旨とする。しかし名称に拘泥せず、「説得療法」の語句を排除するものではないと、自著の序文で自らの療法の趣旨を位置付けたのであった。
 その宇佐玄雄は、講話において如何に「あるがまま」について教えているのか、という観点から、われわれはこの録音音声を聴くことになる。
 それは聴き手にさまざまな印象を与え得る。予定調和は崩されるのか…。

「あるがまま」と「真如」―森田療法の中の仏教的神秘―【補遺】

2020/10/26



 
 

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「あるがまま」と「真如」―森田療法の中の仏教的神秘―【補遺】


 
 
 「あるがまま」について、研究ノート欄に連載稿を書き出して、前回早速そのスピンオフとして、「あるがまま」が「真如」とひとつになって、森田療法の仏教的な面をなす様相に触れようとした。
 そして宇佐玄雄の「不問不説」の療法に、『大乗起信論』の「不可説、不可念」に通じるものを見た。しかるに、宇佐晋一先生(『あるがままの生活』2020)によれば、玄雄先生における『説得療法』は、『維摩経』の「無言無説」に依拠しているとのことであった。そこで、玄雄の「不問不説」は『維摩経』に引きつけるべきか、あるいは『大乗起信論』に引きつけて理解すべきか、宇佐晋一先生におたずねしてみた。
 

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 玄雄が著書『説得療法』の「序」に書いている「不問不説」の言葉は確かに『維摩経』につながらない。しかしよく似た言葉の「無言無説」であれば、『維摩経』に出てくるのである。「入不二法門品第九」に文珠と維摩との問答があり、文珠は「無言無説、無示無識、離諸問答」が不二法門に入ることであるとしている。しかし文珠がそのように「無言無説」だと言ったことに対して、維摩は「黙念無言」、ただ黙念として言なし、なのであった。
 
 「無言無説」を鍵として、宇佐玄雄の『説得療法』と『維摩経』(入不二法門品第九)の関係を見ると、以上のようであることを、宇佐晋一先生と確認しあった。
 
 この「入不二法門」については、通常、維摩の黙の境地が絶対的な最高のものとされる。だが、別の解釈もあり、文珠の見解は「相対」で、維摩はそれを超えて「絶対」であるとするのではなく、文珠の「相対」と維摩の「絶対」の二つがあって、相対があるから絶対化もあり得るので、相対と絶対という二つを超えるところに不二法門がある、という見方もあるようである。
 
 さて、玄雄の「不問不説」については、これを『大乗起信論』の「不可説不可念」につなぐことも、やはり十分に可能である。また、禅僧として、『維摩経』にも『大乗起信論』にも通じていたはずの宇佐玄雄は、両方に通じる思想から「不問不説」と言った可能性も考えられる。とにかく、「不問不説」(玄雄)、「不可説不可念」(『起信論』)、「無言無説」(『維摩経』)が重なるところに、三者における思想の共有が見て取れる。

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