森田療法における重要な仏教的用語(1)―「事実唯真」の典拠になった真言宗の「即事而真」―

2020/03/16

 
 


こちらの記事の内容は、研究ノートの欄へ移しました。
 
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清沢哲夫の詩、『道』―アントニオ猪木に影響を与えた真宗の他力思想―

2020/01/27


清沢哲夫 著『無常断章』昭和41年、法蔵館。


 

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< 清沢哲夫の詩、『道』―アントニオ猪木に影響を与えた真宗の他力思想― >
 
 現役時代には、「イ―チッ、二ーッ、サ―ンッ、ダァァァ―!!」で突っ走ったアントニオ猪木だったが、引退時には、リング上で『道』という意味深い詩を読み上げた。一躍有名になったその詩は、当初は一休禅師の作と言われた。猪木自身、『アントニオ猪木自伝』の中で引退セレモニーのときのことを回顧して、『最後に、新日本プロレスの道場訓にもしている、一休禅師の詩を読んだ。』と書いている。しかし、この詩は、清沢哲夫の『道』という詩に酷似しており、清沢の詩を一部改変して猪木が朗読したものである。
 まずは、猪木が朗読し、かつ自伝にも掲載している、一休の詩だというものを以下に掲げる。
 
 

『道』

 

アントニオ猪木(一休)

 
 この道を行けば
 どうなるものか
 危ぶむなかれ
 危ぶめば道はなし
 踏み出せば
 その一足が道となり
 その一足が道となる
 迷わず行けよ
 行けばわかるさ。
 
 次に、清沢哲夫の詩を掲げる。
 
 

『道』

 

清沢哲夫

 
 此の道を行けば
 どうなるのかと
 危ぶむなかれ
 危ぶめば道はなし
 ふみ出せば
 その一足が道となる
 その一足が道である
 
 わからなくても
 歩いて行け
 行けばわかるよ。
 
 この詩は、清沢哲夫が最初に暁烏敏の主宰紙『同帰』に昭和26年10月に出し、それを昭和41年に刊行した著書『無常断章』に収載したものである。
 清沢哲夫は、清沢満之を祖父にもつ深い真宗思想家、活動者であった。戦争を体験し、復員後は実家、愛知県碧南市の西方寺で形骸化した寺院制度を改革しようとしたが、周囲の反対にあい挫折を経験した。その頃、暁烏敏の孫娘と結婚している。また弟が精神病を発病したので、入院させた。『無常断章』中の「狂人」という文章には、次のように記されている。
 
 「弟の病に対する悲しみをこえる道は、自分も亦今現に寸分違わない世界にいるのだと知らされるのみであります。
 しかし自分の中にある狂気が知らされてくる時、一切の事物の上に明るい光がさしてきます。」(昭和27年1月)。
 
 『道』という詩を書いたのは、そのような時期のことであった。
 その後愛知県の寺を出て、暁烏が生前に在寺していた石川県の明達寺に移住した。ドイツ留学、大谷大学の教職を経て、暁烏姓となり明達寺の住職になった。
 
 清沢哲夫の『道』は、人事を尽くして天命に身を任せている自身の歩みを、読者に対して優しく包むように伝えている。
 猪木が朗読した詩では、いくつかの箇所で改変がなされており、とくに終わりの部分では、「わからなくても歩いて行け」(清沢)が「迷わず行けよ」(猪木)と変えられている。
 一休禅師には多くの道歌があり、迷いや道について歌ったものがいくつもある。けれども、一休の歌はたいてい一癖あって表現が屈折しており、「迷わず行けよ」などと一休が言ったりすることはない。しかし引退時の感懐として、リング上で叫びたかったことは、一休の教えにもまた通じたので、「迷わず行けよ」と分かり易い句を入れて一休の詩に仕立てて、清沢哲夫の名を伏せたのではないだろうか。猪木の背後に、禅と真宗に通暁した人物がいたと考えられる。清沢哲夫の詩を持ち出したのだから、真宗にかなり造詣の深い人であろうか。
 いずれにせよ、格闘家の引退に当たって、自力を超えて他力に委ねて歩む道の詩が取り上げられたことは、興味深い。格闘技においてさえ、究極的には自力と他力が融合する境地になるのである。
 そして最近、車椅子生活になったアントニオ猪木は、車椅子の生活者として「あるがままで」生きていく、と述べている。
 森田療法における「あるがまま」も、自力と他力を包含していることを、改めて思う。
 


クリニックではありません

2020/01/25


<クリニックではありません>
 
 当方は、クリニックではありません!
 診療を行うクリニックや心理カウンセリングを行う相談機関ではありません。
 
 当研究所の理念などは、ホームページの表紙にあたるページに明記している通りです。
 森田療法という優れた療法―というより生き方ですが―の意義とあり方に関心をお持ちの方々と、広い意味で、その研究上の交流をはかろうと意図しています。職種を問わず、同じ志しを有する方々と、日本中遠くても近くても、意見交換、情報交換をして、共に勉強しましょう、という提案をして、京都森田療法研究所という名のもとに、いわば研究交差点のような機能をしようとしています。それ以上でも、それ以下でもありません。
 
 これを書いているとき、たまたまブルガリアの心理学者からお手紙が届きました。
 台湾の方やフランスの方々とも交流があります。ヨーロッパは遠いですが、メールでのやりとりで、地球上の距離を越えて、かなり交流が可能です。そんな時代になりました。
 
 さて一方で、困る問題もありますので、ここに記しておきます。
 この研究所を森田療法のクリニックかカウンセリング機関とお間違えになる方も、一部にはいらっしゃるようなのです。京都地区で森田療法専門機関を探して、勘違いをなさるのかもしれませんが。
 
 受診機関を求めて、お困りのかたがたもいらっしゃることでしょう。そのようなかたがたのご不自由はお察しします。しかし京都地区も、森田療法の無医村ではないと思います。どうぞお間違えなきようにお願いします。ご本人様、ご家族様、また森田療法関係者のかたがたにお願いします。当方のホームページに明記している趣旨を正確にご理解下さい。そして早合点なさらないで下さい。
 ご理解のほどを、改めてお願いする次第です。
 

京都森田療法研究所

主宰者 岡本重慶

謹賀新年

2020/01/12




ご挨拶
 皆さま、明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 
年頭の所感
 昨年は、災害の多い年でした。人間的な生き方、取り組みである森田療法は、災害を無くするような万能のものではないことは、言うまでもありません。
 ただ、言えることは、森田療法は神経質や神経症の症状を治す精神療法だという思いこみが蔓延しがちな風潮の中で、森田療法のあり方が問われているということです。災害の、人為ではいかんともし難い現実を前にして、それでもそれをどうするかと考え、動けることがもしあれば動き、そして祈る。それが森田療法だと思います。
 さらに言うならば、現代において、森田療法が対象とする心の病理は神経症だけでなく、あれやらこれやらと増加した、だから森田療法を生かす場が広がったと、やりがいを感じて活動を拡大しようとする、それは重要なことですが、それが目的化したら、少し違うと思うのです。森田療法は、それを施したり教えたりする専門家と、施されたり教えられたりする人たちとの二分法の上に成り立っていたら、本当の森田療法ではないでしょう。それだけは確かなことです。もちろん、対象への取り組みという二分法から始まって、その二分法が乗り越えられていくのでしょうから、性急に批判すべきことかどうか、わかりませんが。
 ともあれ、災害の多かった昨年は、森田療法にとってとくに試練の年であったと思います。そして森田療法の試練は、今後も続きます。
 当方(京都森田療法研究所)は、いろんな意味での体力の不足のため、活動面で制約を抱えていて、それが残念なところですが、それなりに微力を尽くしていきたいと思います。
 昨年、森田療法の「考現学」を課題として掲げて、研究的な原稿をそれに連動させようと試みました。恥ずかしいことに、それが中途半端な形で止まっています。先述した森田療法のあらまほしい本当のあり方を探るという点で、こちらの思いはひとつです。本年は、その整理をつけていかねばなりません。
 竜頭蛇尾になってはいけません。長広舌はこれくらいにしておきます。
 
お願い、あるいはお誘い
 上記の長広舌で、当方の意図しているところを、およそお分かり頂けたかと思います。それはこのホームページの表記のページにも、理念として書いている通りです。机上の論に終わるような高尚な研究をすることを目標にしてはいません。実際の必要につながる研究をしようとしています。またその表現の形は、多様であってよいと思います。当初、定期的な研究会の継続的な開催を試みましたが、やってみると、中身の薄い集いになりかねず、そのため随時、必要に応じて、少人数で会って話し合い、交流をしています。どうぞ皆さまにおかれましては、気楽に当方にアプローチして下さい。大小、何でも持ち込んで下さい。どうぞご遠慮なく! 遠慮してためらう人こそ、お会いして交流すると、意義ある成果が生まれます。一方、こちらの趣旨を無視して飛び込んできそうな方は、まず自分の足元をご覧下さい。そして、こちらはクリニックやカウンセリング機関ではありませんから、患者様として受診したい御方は、こちらでは対応しておりませんので、その点はどうぞご理解下さいますように。
 
 
 それでは今年もどうぞよろしくお願い致します。
 

令和二年元旦
  京都森田療法研究所
   主宰者   岡本重慶
   研究員   一同

森田療法における自力と他力(Ⅴ)―倉田百三の天国と地獄(2)―

2019/12/27




 
 
 承前
 
9. 庄原、父が浄瑠璃を語った町
 広島の内陸部の田舎町、庄原は江戸時代から農産物と海産物の交易が行われた市場町であった。そのため閉鎖性はなく、人情も温和であり、山間の田舎でありながら文化的に開かれた町であった。倉田百三は、この庄原の呉服商の家に、6人の姉妹たちの間に挟まれた独り息子として生を受けた。
 母ルイは長女で、商家を継ぐため百三の父、百平を他家から婿養子に迎えた(百平は倉田家の先代を襲名して吾作と改名している)。倉田は「私の母は牛のやうな、本能的な母親だった。無学であったし、新しいものに応変していくことが出来なかったが、家の習慣をよく守り、勤勉で自分の享楽を思はず、しきたりというものに保護されて、過ちなく日を送っていた」(『光り合ういのち』)と記しているが、母のことはあまり詳細には語っていない。しかし、父について倉田は次のように感慨のこもった書き方をしている。
 
 「父は正直な、謙虚な玉のやうな人間であった。人と争ふこと、曲がったことの出来ない、羊のような人間で、全く平和の子であったが、それだけ小胆者であった。それが、善、悪ともに私に遺伝した。そして私の場合では自己批判と超克とによって、大胆となること、敢へて人と争ふこと、悪にも耐へ得ることの自己鍛錬の課題となってあらはれて来るのだ。父は義理堅く、節約で、几帳面で、…決して豪放でなかったが優美を愛した。花を活け、三味線を弾き、義太夫をよくした。 」、「父は浄瑠璃が好きで自分で語り、三味線をひいた。…私の文学の素地、その根本基調はたしかに浄瑠璃からきたものだ。私の感情教育、美的教育はその義理人情のムードと共に浄瑠璃によって養われたものだ。」(いずれも『光り合ういのち』)。
 
 男勝りで牛のように家業に精を出す母に対して、温順な父は世知に疎く商才に欠けていた。しかし父は道徳的には厳しくて、時には百三を叱ることもあったという。
 庄原で子ども時代を過ごした百三は、この父から受けた影響が大きい。父から遺伝的に継承した弱気を克服することを生涯の課題として意識し、一方で父譲りの感性や情操が、文学や思想の素地に生かされたことを自認している。倉田が、いわゆる神経質であったのかどうか、わからないが、彼の強気と弱気の混じった執着的な性格は少年期に培われたものと思われる。
 
 小学校を経て、三次の中学校に入った倉田は、その町の叔母の夫妻の家に下宿したが、三次は真宗の町で、叔母夫妻はその熱心な信徒であった。だが寺の檀家総代をしている叔父は人に厳しく、叔母は叔父にいびられながら信仰がいのちになっている。そんな夫妻のもとに下宿した倉田は、とても真宗に関心を持つことは出来なかった。彼は暗い生活から脱して華やかな港町の尾道へ行ってみたくなり、中学三年の夏より休学し、尾道にいる姉を頼って、その町で一年間を過ごした。所詮は卑俗な商都だったが、尾道での生活は倉田の姿勢を変えた。復学した倉田は「獰猛」をモットーとし、柔道や相撲の稽古に励み、文武両道で友人たちを追い抜く存在となった。そして学校当局にも反抗的なポーズを取って、教師たちから持て余された。父に似た弱気を克服するために、強さを誇示した最初のエピソードであった。
 力、宗教性、愛欲、さらには美。これらが倉田の後の生涯を通じての主題となるが、中学時代には力で勝利した。自力を謳歌した少年時代であった。
 

『光り合ういのち』昭和32年、現代社


<文献>

  • 倉田百三 :『光り合ういのち わが生いたちの記』1957、現代社
  • 鈴木範久 :『倉田百三 近代日本人と宗教』1970、大明堂

 

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10.聖と性
 意気軒昂として倉田は一高の文科に入学した。同学年には、矢内原忠雄や芥川龍之介らがいたが、並み居る秀才たちの中で、自分は首席になってみせると倉田は豪語して猛勉強をした。その結果、第一学年を終えた時、倉田は見事に首席になった。しかし、倉田の目標はそれだけでとどまらず、ショーペンハウエルの哲学の影響を受け、立身出世して力を手に入れたいという欲望に駆られて、彼は法科に転じた。だが、そこに待っていたのは、欲望を追って哲学を捨てた虚しさであった。そんな時、彼は西田幾太郎の『善の研究』を読んで感動する。主客未分の「純粋経験」に出会って、倉田は自身の我への執着から脱することが出来た思いになり、涙した。哲学者とは語義的には愛智者のことだが、西田のように、生に向き合う愛生者をこそ哲学者と呼びたい、と倉田は喜びの言葉を発した。そのような体験を機に、倉田は再び文科に復帰した。
 
 けれども西田の哲学に向き合っているうちに、倉田は心の底にただならぬ動揺を感じ始める。そこには霊肉を併せての生命への憧憬がない。西田への敬慕と要請との複雑な気持ちを抱えた倉田は、明治45年9月に京都の西田幾太郎宅を訪れて、面会した。その後倉田は綿々とした手紙を西田に書き送っている(『生きんとて』)。以下はその抜粋である。
 
 「ただ書斎に蟄居して読書三昧に日を送るばかりでなく…祇園の色街に美しいおとなしい妓を呼んで艶やかな黒髪に顔を埋めて眠ったりするやうな哲学者になって頂きたい。…先生よ、先生は若かりし時恋愛の思ひ出はありませぬか。あるに違ひないと思ひます。何卒語って聞かせて下さい。」
 
 西田哲学は、生身の熱い欲望を霊に一致させ、哲学たらしめたい倉田の期待に応えるものではなかったのだった。以後倉田の生活は荒み、酒に浸り、学校を休み、霊肉の一致を求めて、紅灯にむなしく女を探す日々を過ごした。そんな折り、妹の同級生の女性と出会って急速に親しくなり、倉田は救われた。
 また、その頃『校友会雑誌』の編集委員になった倉田は、就任の辞を掲載して、その冒頭に次のような文を書いた。
 
 「我等は何よりもさきに獣でなければならない。原始の野を徘徊する獣でなければならない。うなりの空と冷めたき大地との間に生まれ出で、太陽を仰ぎ、霧を吸ひ、黒土を踏みて生きる Naturkind でなければならない。我等は複雑なる文明の様式が迫まる一切の“技巧”を斥けて、“自然”のままなる命が生きたい。」
 
 倉田のこの文章は不穏当であるとして校内で問題になり、一高自治会の間で鉄拳制裁の論さえ出たと言われる。学校当局側も、次号の同雑誌に謝罪文を掲載した。
 このような事件があっても自然児であろうとする倉田だったが、学校の欠席の多かった彼は落第した。また恋人は去って行った。さらに結核に罹患していることが判明した。こうして失意の倉田は、一高を退学して郷里に帰って行った。
 

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 退学、失恋、結核の発病という三重苦を抱いて、自宅の近くの一軒家に籠もって療養を始めた倉田の心は次第にキリスト教に接近し、町の教会に通うようになった。庄原には、彼の幼児期からキリスト教アライアンス派の教会があって、子ども心に親しみを覚えていた。一高時代の校長は新渡戸稲三で、学校にキリスト教的な校風が漂っていた。倉田は安易な信仰を批判したが、当時から内心にはキリスト教への畏敬の念を宿していた。自然児としての本能的な愛の挫折を経験して、意識的、努力的なキリスト教の愛を真の愛と信じるに至った。キリスト教徒であり看護婦であるお絹さんに会ったのは、この時期のことである。二人で讃美歌を歌い、祈祷をして、愛を深めていったが、ここで神への信仰と性愛との葛藤に悩むことになった。
 
 この頃、倉田は綱島梁川の著作を通じて西田天香の存在を知った。倉田は当初西田をクリスチャンと考えたようだが、ともあれ宗教的な体験を求めて、大正4年末より京都の一灯園に入ったのだった。一灯園は、私有財産は認められず、自己を捨て、托鉢と労働をして他者に奉仕して生活をする共同体であった。倉田は熱心に労働に勤しんだ。しかし、物心ともにすべてを捨てる生活は、倉田における性や美の欲求には遠過ぎて、数カ月で彼は園を去らざるを得なかった。自己を殺す自力が求められる一灯園に代わって、倉田には他力が必要であった。
 
 一灯園に入る前後に、彼は、大須賀秀道の『歎異鈔真髄』や清沢満之の『歎異抄講話』を読んでいた。こうして親鸞への関心を深めた倉田は、『出家とその弟子』を執筆した。
 しかしながら、倉田は真宗の思想の核心を未だ自分のものにしたわけではなく、また作品の上に真宗思想の正確な表現をしたわけでもなかった。この作品は、自身が抱えていた愛や病や救いの問題を前にして、自己救済のために書いた創作であり、その頃象徴的な意味で彼が言った「心の中に寺を建てる」作業の試みであった。親鸞の悩みを人間的なものとして描き、さらにキリスト教思想を重ね合わせた奔放な創作は、読者を魅了するとともに、真宗の側からの批判を招いた。作中の親鸞に「運命を受け取ろう」と言わせているところに、絶対他力への契機は読み取れず、煩悩と自力にとらわれている作者の姿勢が露出している。
 亀井勝一郎氏は、作者の倉田は自己の信仰の不徹底を責めているのであり、特定の宗派に属さずに独特の宗教的遍歴を試みたのであるという評し方をして、倉田を受け入れている。
 倉田の宗教的遍歴は女性遍歴と交錯して、なおも続く。
 
<文献>

  • 鈴木範久 : 同前
  • 倉田百三 : 『生きんとて』1956、角川書店
  • 中西清三 : 『倉田百三の生涯』1977、春秋社
  • 安部大悟 : 『生は流星の如く 倉田百三について』1959、法象文化研究所
  • 亀井勝一郎 : 『倉田百三』1956、現代文芸社

 

(Ⅵ)に続く                                        

 



森田療法における自力と他力(Ⅳ)―倉田百三の天国と地獄(1)―

2019/12/07

『出家とその弟子』第三幕第一場。
(『日本戯曲全集』第44巻、春陽堂、1929)


 

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承前

 
8. 森田療法と真宗―森田正馬と倉田百三の関係に見る―
 森田療法と禅の関係についてはここで言うまでもないが、森田が親鸞を幾度も引用している通り、森田療法は真宗にも親和性がある。しかし、森田正馬と真宗との出会いの事情や、真宗が森田療法に取り入れられた経緯は、厳密に言うと不明で、不思議な点が残されている。それが判然としていないこと自体に不可解さがある。そのため、森田療法と真宗の関係について、著者または報告者が両分野に通じている人であることを条件として、資料を探索したけれども、それを満たす本格的な文献らしきものは、ほとんど見当たらなかった。
 
 尤も、森田療法が成立した大正期の文化的背景を視野に入れれば、両者が近くなった関係をある程度推測することは可能である。世はあたかも大正の親鸞ブームであった。そしてそのブームの中心にあったのは、「親鸞もの」に代表される大正宗教小説の流行であった。親鸞という聖人の心の中に棲む凡夫としての人間的な煩悩と葛藤を描いた文学が、デモクラシーに目覚めた教養者層の人たちに広く受け入れられたのである。
 この「親鸞もの」として最初に登場したのが、ほかならぬ大正6年に出版された倉田百三の『出家とその弟子』(戯曲)であった。引き続いて、石丸梧平の『人間親鸞』などが出たけれども、『出家とその弟子』は他の追随を許さず、倉田百三は一躍時代の寵児となった。この戯曲は昭和8年の京都大丸劇場での初演を皮切りに、あちこちで上演された。
 読む戯曲としてのこの作品は、何カ国語にも訳されて海外でも愛読者を得た。スイスから、ロマン・ロランは倉田に絶賛の手紙を送り、洋の東西を隔てても、原罪への自覚や大いなるものへの帰依は、キリスト教と仏教に通じ合うものであるという見解を示して、倉田に共感を伝えた。そのロマン・ロランは、宗教的感情を「大洋感情(le sentiment océanique)」と称して肯定的に捉えていて、そこには、他力、あるいは甘えにも通じるものがあった。この「太洋感情」は、自我を重視する立場にあるフロイトから、発達的に未熟なものとして批判され、両者が相容れなかったエピソードがある。ここに提起される自我と宗教感情の融合の問題は、それを持て余した倉田が『出家とその弟子』たちに悩みを預けた課題でもあった。そして登場者たちは読者に答えを委ねるという、たらい回しの作品であった。
 それを見抜くかのように、国内の文壇の一部からは、聖者にもある性欲の悩みを盛って宗教のレッテルを貼ったものに過ぎないと貶されたが、それにしてもこの作品は、大正期の人心に感銘を与えたのであり、倉田自身、時代精神の中で煩悶する青年を象徴する作家としての評価を得たと言えよう。倉田は実に大正の親鸞ブームの火付け役だったのである。
 


ロマン・ロラン


 
 かくして一躍有名人となり、若くして天国を経験した倉田百三が、やがて「神経質者の天国」に陥って、森田のもとを受診したのは昭和2年である。出世作を出して10年後のことであった。
 ところで、森田の著作を見ると、昭和2年の倉田との出会い以前には、真宗への言及らしきものはほとんどなく、倉田の来院を契機に真宗や親鸞を語り出している。森田は治療者として倉田を指導しながら、倉田に触発されて真宗への関心を深めていったと言えそうである。ただこの場合、倉田は思想的遍歴をしている途上の人であり、森田が接したのは、主に強迫観念に悩む時期の倉田なのであった。その後も倉田が形外会に参ずることはあり、自分が「はからい」の業を経た体験などを語っていた。
 
 しかし昭和11年の第62回形外会に参席した倉田は、変貌した自身の内面をのぞかせた。彼は自分の信ずるところがあって政治運動をやっていると言い、「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏で切って行く」というのはよい言葉である、と述べている。これを受けて森田は、倉田の著書の中に「『念仏申さるるようにやればよい。いやしくも念仏を申し得るならば、共産党のテロでも・ファッショでも構わぬ』という事がある。非常に感心しました」と応じている。実際に、この時期の倉田は、右翼活動に関わり出していたのであった。
 
 われわれは、森田療法と真宗の関係については、このような倉田と森田の間の、重大にして喜劇的な掛け合いから離れて、別の角度から見直さねばなるまい。倉田だけでなく、真宗の優れた学者や僧侶の識見にも照らして、森田は真宗を療法に生かしうる可能性を確かめる必要があった。もしそのような手順が不足していたのなら、大変遺憾なことであったと言わざるを得ない。
 
< 文献 >

  • 倉田百三 : 出家とその弟子. 角川書店、1961
  • フロイト(中山元 訳) : 幻想の未来/文化への不満. 光文社、2007

以下(Ⅴ)に続く            




森田療法における自力と他力(Ⅲ)―倉田百三から他力を教えられた鈴木知準―

2019/11/23




 

承前

 
7. 倉田百三と会った17歳の鈴木知準
 鈴木知準は、十代で森田正馬の下に入院した経験を有し、以後森田に私淑し、医師となって鈴木診療所を開設して、入院森田療法を継承したことで知られる。
 鈴木の療法は、まさに森田のそれを祖述したものであったから、そこでの指導は、いきおい禅に通じる面があった。森田における禅とのかかわりは、臨済禅に限られていたが、鈴木は道元禅をも深く考究し、かつそれを療法に生かしたので、その分、森田以上に禅的であったと言えるかもしれない。森田は道元禅と接触せず、ひとり鈴木だけが道元禅に関わったのはなぜだろう。明快な答えはないが、少なくとも鈴木が道元禅にも通じる他力の思想を知るきっかけとなったエピソードがある。それは、森田医院に入院中の少年鈴木が、そこで出会った倉田百三から受けた新鮮なインパクトであった。

 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
 鈴木は、『形外先生言行録』に、「森田先生に指導されたことども」という稿を寄せ、さまざまな思い出を書いている。その中で、「倉田百三氏と森田先生の問答をうかがう」と題する項に、自分が入院中だった昭和2年4月の、日曜ごとに倉田百三がやってきて、森田正馬と問答をしていたが、入院生も同席を認められて、それを聞くことができたという貴重な体験が記されている。以下、そのくだりを引用しておく。
 

   ♥      ♥      ♥      ♥

 
 「…日曜のたびに 倉田百三氏が午後やってこられて森田先生と問答される。倉田氏はそのころ強迫観念の最中であった。四月の日曜日に三回くらい来られたと思う。その頃は森田先生のお宅は旧いお家で座敷の前も三尺の廊下であった。倉田氏は高下駄で紋付き、小倉の袴すがたであり、あごひげをはやしておられた。先生との問答の前はその三尺の廊下に黙然として坐していた。倉田氏が来られる折は文学青年であられた野村先生もいつも同席であった。森田先生はわれわれ入院生にも同席をすすめ、その問答を聞かせた。これはわれわれ若いものを将来大きくのばそうとする配慮であったろう。誠に何ものにもかええない、うれしい有がたいことであった。
 私はその頃十七歳の少年であったが、名ある文学者だとのことで、耳を立てて聞いたものです。倉田さんがよく言われた「もようされて生きる態度」ということばが今でも倉田さんの声として耳の底に残っている。若い私には理解することの困難な問答がたくさんあったが、その「もようされて生きる」ということは、今の私にははっきりとわかる。親鸞の「自然法爾」とは正にそのことであり、神経質をのりこして後、親鸞のその生きる態度がはっきりとわかるものである。」
 


昭和2年、森田医院に来院した倉田百三を囲んで。前列、柱より右へ、倉田百三、森田正馬、息子正一郎、鈴木知準。(この写真は、野村章恒著『森田正馬評伝』より転載させて頂いた)


 

   ♥      ♥      ♥      ♥

 
 鈴木少年は、倉田から「もようされて生きる態度」という意味深い言葉を聞いて感銘を受けたのであった。倉田がそれを親鸞の教えとして述べたのか、道元の名を出したのかどうかはわからない。つまり厳密に言うと、その言葉を発した際の倉田の意識はわからない。鈴木は後年に『形外先生言行録』にその思い出を記しつつ、倉田の言葉を親鸞の「自然法爾」と重ねている。しかし、そもそも「自然法爾」は神格化された阿弥陀仏が既に希薄化して「自然」に吸収された親鸞晩年の思想であり、道元の言う「法」に通じるものになっていたと言える。実際、倉田は『法然と親鸞の信仰』(昭和9年刊)の中の「歎異抄講評」の章では、道元を持ち出し、阿弥陀如来よりも、「法」を説いているのである。そのくだりを少し抜粋引用しておく。
 

   ♥      ♥      ♥      ♥

 
 「念仏は申すのではない。『申さるる』のである。この我を失うて、受け身になる所に宗教生活の秘義があるのだ。
 『彼方より行われて』と禅では道元が言っている。小さな我が出しゃばらずに、大きな宇宙が我を通して運行するのだ。自分が行じるのではない。『法』が行じるのだ。宇宙の理法、生命の法則が自然と顕現してくるのだ。…自分の力で善を行うのではない。催されて行う結果が善なのである。…また自分が行わずに、宇宙の理法、『法(のり)』、み仏が催して行ぜしめるということは、日常のどんな些末な行為も宇宙の圧力で行うということになるので…充実して力がこもっている。」




 昭和2年の春に鈴木が出会った頃の倉田は、『冬鶯』を書いた直後であり、その小説の主人公のごとく、我執を去り、他力に随順して生きる清々しい境地になっていて、その高揚感が「催されて生きる態度」と声高に言わしめたのかも知れない。しかし、せっかく森田のもとへ来て、入院森田療法の体験をせずに到達した「治らずに治らった」という体験は心的次元におけるものに過ぎなかった。生活に根ざさない心的体験は流動する。倉田は、なおも危ういものを抱えていた。「はからい」の業が尽きて治った境地になろうとも、他力に任せきって生きていくには「はからい」が頭をもたげる。そしてその事態を自力で支える必要があった。こうして他力を追求し続けて、常に自力を振り絞らざるを得なかった倉田は、自分の心的な弱さを補強するために、体力を鍛えようとした。さらには法的自然主義を唱えて、その原理的な思想と行動に走る。こうして倉田は、森田の診療を受けた後、他力を奉じて生きるために、自力のやりくりを必要とする矛盾を抱えて、挫折を繰り返すことになるのだった。
 
 かつて森田医院で接点を有した倉田と鈴木のふたりは、人生の明暗を分かつことになった。鈴木は入院体験を契機に、初志を貫き、時を経て治療者になるが、少年時代の倉田との出会いをひとつの原体験として、自力と他力が不可分な道元を取り入れ、独自の治療を推進した。森田の療法にはなかった道元禅の作務の清規や只管打坐を、入院生活の行の面に生かし、また『正法眼蔵』の中にある他力の思想を入院生に教えた。鈴木は、よく知られている次のような道元の言葉を示すことが多かった。
 「ただわが身をも心をも、はなち忘れて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる」(『正法眼蔵』生死)。
 この中で言われる「仏のかたよりおこなわれて」とは、「催されて生きる」こととまったく同義なのである。
 
<文献>

  • 森田正馬生誕生百年記念事業会 : 『形外先生言行録 森田正馬の思い出』、1975
  • 倉田百三 : 歎異抄講評、『新版 法然と親鸞の信仰』講談社、2018(最初の刊行は、大東出版社より、1934)

 

以下 (Ⅳ)に続く

森田療法における自力と他力(Ⅱ)―「治らずに治った」倉田百三―

2019/11/09


倉田百三著『神経質者の天国』



 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
 
〔今回の稿の、最初に〕
 このシリーズ稿の、(Ⅰ)を9月上旬に掲載しましたが、都合により、続きの稿の掲載がこのように遅れました。
 資料を調べながら続きをまとめようとしているうちに、倉田と森田療法のかかわりは、彼の人生のほんのひとコマにしか過ぎなかったということを、改めて思い知ることになりました。
 曲折があったその生涯と思想的な遍歴を視野に入れずに、強迫観念に悩んで森田療法を受けたある時期のことだけを切り取ってとかく言うのは、狭い見方にならないだろうか。「治らずに治った」と言った彼の言葉を俎上に載せ、それに対する森田の批判をなぞるだけでは、甚だ空虚な「倉田と森田療法」論になるのではなかろうか。そんな危惧を感じざるを得なくなりました。今までそのような論議がいかに多かったことか。倉田が森田療法を通過して行ったのは数カ月間だけです。従って森田療法が彼の生涯に責任を持つことなど、おそらくできなかったかも知れません。いや、たとえ短期間であっても、森田療法との出逢いは質的に重要な意義があったのだ、という反論も聞こえてきそうです。ならば、そのへんも深く考える必要があります。
 いずれにせよ、彼の生活歴、病前歴、病後歴から、森田療法が学ぶことはあるでしょう。さいわいにというべきか、彼が有名人だったおかげで、その生涯の全貌がほぼ明るみに出ており、しかも、本人は自分の内面を、作家としての筆力で描写しています。生涯のある時期に森田療法を受けた人物の、その生涯と魂の遍歴を知ることのできる恰好のケースです。つまり人の人生に関わった森田療法の意義について、見直すことのできる数少ない症例なのです。そのようなことをつくづく考えました。
 しかし、この拙文を書き出した趣旨は、森田療法における自力と他力ですから、ここではそれをまとめるために、引き続き原稿を補っていきます。
 なお、シリーズの順番の表記を、(上)(下)から、ローマ数字に変更します。この稿は(Ⅱ)として、(Ⅲ)以下の稿をさらに近日中に追加します。
 
 ともあれ、今回の文は、9月に掲載した(Ⅰ)に続くものなので、それと併せてお読みくだされば、幸いです。
 (Ⅰ)は以下にリンクをつけておきます。
 


森田療法における自力と他力(Ⅰ)―倉田百三の魂の遍歴―
 
 

かつて三聖病院の玄関にあった欄間


 
 承前
 
5. 宇佐玄雄の治療を受けた倉田百三 ―不問にされた「倉田のモモやん」―
 大正15年秋に、小林参三郎の静座療法を受けるために京都の済世病院に入院した倉田は、小林の急死で静座を受けられぬまま、済世病院を退院せず、三聖医院の宇佐玄雄のもとで通院治療を受けたのだった。このことは既に触れたが、翌年に森田から受ける療法と明らかに異なり、宇佐玄雄は徹底した不問で倉田に接したのであった。倉田は父危篤のため急遽京都を去って行ったが、厳しい宇佐の治療が奏功する兆しが見えてきた時期の、惜しまれる中断であった。注目されてしかるべきエピソードなので、今一度書き留めておく。
 大正11年に東福寺内に開院した三聖医院は、既に大正13年より塔頭の龍眠庵を病室として入院療法を開始していた。しかし、倉田は東寺の敷地内にあった済世病院に入院の身柄を置き続けながら、三聖病院に歩いて通院して、玄雄の診察を受け、さらにデイケアのごとく入院第三期の人たちの作業に加わることになった。なぜ三聖医院に入院しなかったのか。済世病院では亡き小林の夫人も静座療法の心得のある人だったので、倉田は夫人から指導を受けたいという静座への執着を残しており、入院森田療法を受けるほどの覚悟を有してはいなかったのである。そんな状態で三聖医院へ変則的な通院をし、宇佐の診察を受けたのだが、待たされた上に、ほとんど話も聞いてもらえなかったと倉田は書いている。宇佐は、相手が高名な作家であろうとも、敢えて不問療法で接した。済世病院に入院中の倉田が夜間に症状を募らせて、往診の要請があっても、宇佐はそれに応じることはなかった。ヒポコンドリーを不問に付したのである。倉田は三聖医院に通っても、病身のためか作業に従事したようでもないが、「倉田のモモやん」(実名は「モモゾウ」である)と呼ばれて、掃除などの作業をしている入院患者の仲間には入っていたらしい。また、かなりの距離を歩いて通院したこともあり、病身をかばう日常横臥の生活から次第に解放されようとしていた。
 そんなとき父危篤の報が入り、藤沢へ帰って行ったが、三聖医院における宇佐玄雄の治療は出色のものであった。観照生活だとか統覚不能だとかいう本人の講釈に、治療者として取り合わなかったのである。作家であろうとなかろうと、日々の生活がある。倉田がそれを取り戻せそうな矢先に三聖医院の治療は中断された。
 

東福寺の紅葉



 
6. 森田正馬の治療を受けた倉田百三一「治らずに治った」体験―
 この年の12月に大正天皇が崩御され、明けて昭和2年、早々に倉田は父を見送り、2月に森田正馬への受診を開始した。
 森田は日曜日に倉田を迎えて会い、後には通常の外来診療に受診した彼に会い、治療は日記を用いての指導であった。同年5月まで倉田は通院し、計7回程度の診察であったという。
 このような治療の仕方については、最初から疑問が生じる。森田はなぜ彼を入院させなかったのであろうか。通院なら、日曜日に迎えるとは、著名人である彼に対する特別なはからいだったのであろうか。日記を無制限に書かせたとすれば、それが強迫観念を助長しかねないことは考慮されたであろうか。まして倉田は作家である。あるいは深読みすれば、手記を書かせることで、敢えて強迫観念の中に没入させたのであろうか。とにかく症例倉田に対しては、宇佐の治療と森田の治療は対照的であった。それを倉田はどう受け止めたのか、わからないが、不問ではなかった森田の療法を受け入れたのだった。
 だが日記を媒介にしながら、森田が具体的にどのように指導したのかについては、ほとんど記録がない。森田は、後年の昭和12年に、「倉田百三氏の悩みたる強迫観念に対する心理的解説」という長い原稿を、雑誌「神経質」に掲載したが、症状についての解説が主で、神経質の治療については、「其症状を治さうとする一切の手段を放棄させて、ひたすらに其苦悩煩悶を忍受してつつ、仕事もして、人の為すべき事をやらせるやうにする」と記している程度である。ただ、倉田には強迫観念に苦悩しながら原稿を書かせたところ、『冬鶯』という作品が出来て、それは倉田自身にとっても会心の作になったという挿話を紹介している。そして、苦悩のままに欲望を発揮したこの体験により、倉田は全治したという森田の見解が述べられている。
 けれども『冬鶯』はそれほど評価されるべき作品なのか。読んでみると、実に重苦しい。神経質者はかく治るべしという、当為の小説である。当為から自由になるはずの森田療法が、当為化されているような印象を受けるのだが、深読みに過ぎるだろうか。
 倉田が治癒に向かった心的過程は、彼自身が如実に語ったり書いたりしている。
 「はからいは、はからいの業の尽きるまでは止まないこと、はからいの止むとき、そのままの忍受が具現すること、そして依然として苦しみはありながら、それが苦しみではなくなって、苦しみから解き放たれる、ということであります」(「倉田百三氏の体験を中心に」、森田正馬『自覚と悟りへの道』)。
 「(強迫観念の)苦しみを苦しみとして受け容れるよりほかなく、その打ち捨てた絶対忍受の生活態度を体得するに至り、心機一転して、いわばその体得の結果副産物として、多年の病気が治った次第なのです」(『絶対的生活』)。
 そして、倉田は「治らずに治った私の体験」という文章を収めた著書『神経質者の天国』の末尾に、次のように書いた。
 「『我々は運命を耐え忍ぼう。』自分が最後に、此の記述を閉じる語はこれである。」
 森田はこの言葉を厳しく批判し、正岡子規を例に挙げながら、形外会の場などで、運命は切り開いていくものであると強調した。「運命は耐え忍ぶに及ばぬ。正岡子規は、肺結核と脊椎カリエスで、永い年数、仰臥のままであった。そして運命に耐え忍ばずに、貧乏と苦痛とに泣いた。…それでも歌や俳句や随筆を書かずにはいられなかった。…子規は不幸のどん底にありながら、運命に耐え忍ばずに、実に運命を切り開いていったということはできないであろうか。これが安心立命ではあるまいか。」(昭和9年、第25回形外会)。森田はこのように言うのだった。その真意は、入院森田療法の場合と同じく、苦悩の絶対的忍受と欲望を発揮する行動の調和を重視するところにあったろう。倉田の「治らずに治った体験」も、「運命を耐え忍ぼう」も、体験者にして言える言葉であり、認めてしかるべきだったように思われる。しかし、そこに極限を求める危うさがあって、森田はそれを見抜いたのであろうか。だとしたら、森田は慧眼である。
 以後の倉田は、他力の信奉の延長としての法的自然主義の思想を深めて、政治的活動に関わり、皮肉にも行動の人となっていったのであった。
 
<文献>

  • 倉田百三 :『神経質者の天国』、先進社、1932
  • 倉田百三 :『絶対的生活』、文理書院、1933
  • 倉田百三 :『冬鶯』、先進社、1931
  • 森田正馬 : 倉田百三氏の強迫観念に対する心理的解説. 「神経質」8(2)~8(4)、1937.2~1937.4 (森田正馬全集 第三巻、1974 所収)
  • 森田正馬 : 「倉田百三氏の体験を中心に」、『自覚と悟りへの道』、白揚社、1959

 

以下、(Ⅲ)に続く。                                        

森田療法と芸術の秋 ―「チャーチル会名古屋秋季展」、本日より―

2019/10/22

 

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 チャーチル会という絵画を愛好する人たちの会がある。この会は、70年ほど前に生まれ、政治家でありアマチュア画家として知られたウィンストン・チャーチル卿に、その名前を冠することを認められたという歴史と由緒のあるアマチュア画家の会である。アマチュアとは素人を意味しない。仕事(ジョブ)あるいは職業(プロフェッション)としてでなく、何かを深く愛好する人たちのことである。
 チャーチル会名古屋の秋季展が、本日10月22日から27日まで、名古屋市内で開催される。会の代表者は杉本二郎様である。杉本様は、吉川英治の『新平家物語』の挿し絵を描かれたことなどで知られる杉本健吉画伯の甥御様である。芸術家のご一族出身のサラブレッドで、素人目にもいい絵をお描きになる。絵は愛好家だが、かつての本職は映画人で、東映の本社に定年まで勤務しておられたそうである。
 私は4年ほど前に、森田療法の分野でお知り合いになる機会に恵まれた。江渕弘明という医師で禅に生きた森田療法家が、活動された実績をたどっていたら、その足跡は京都から名古屋へと向かっていたことが判明した。それでそれまでまったく知らなかった名古屋における森田療法の活動の流れに接することになった。それがご縁であった。一昔前に、名古屋啓心会や初期の(新)生活の発見会名古屋集談会で、指導的立場で活動しておられた人が杉本二郎様であった。森田療法のことに深く精通しておられるし、なんとも誠実で親切なお方である。先だって浜松での日本森田療法学会で、仏教と森田療法について発表する重責を与えられたが、準備段階で杉本様の胸をお借りし、多くを教えて頂いた。私はこの方との出会いを有り難く思い、一目も二目も置いている。

 

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 森田療法における自力と他力の問題を、倉田百三の生涯を中心にして考えようと、ブログに文章を途中まで書いたが、続きを掲載するのが遅れている。学会では倉田のことにも触れたが、盛り沢山の内容を取り上げた中で、とても倉田のことに深入りはできなかった。というより、森田療法と倉田の問題は、宗教や芸術が絡んでいることもあって、複雑である。それに倉田は本当に森田療法を受けたと言えるのであろうか。病身のためもあったかもしれないが、入院はせず、主に日曜日に特別に森田の診察を何度か受けた、つまり例外的な扱いに浴していたようである。もちろん倉田は、森田の指導を熱心に受け止め、興が湧かなくてもとにかく執筆せよという森田の助言に従って、小説『冬鶯』を書いた。その結果、倉田は自分として大変気に入った作品を書けたと言っている。しかしこの作品は、読んでみると、主人公は神経質を絵に描いたような暗い男である。絵に描いたと言うより、文字通りそのまま文章に書いたものである。世評はどうだったのだろう。評価は読む人によるだろうが、私(たち)からすれば、神経質者はかく治癒すべしという当為の小説のようで、息苦しい。
 この1ヶ月後に、入院中の鈴木知準は、倉田が森田に対して「催されて生きる」という言葉で他力を語っている声に耳を傾けたのであった。倉田は、親鸞や道元の他力の思想にいつ、どのように関心を持つようになったのだろう。『冬鶯』とどう繋がるのだろう。倉田から他力を説かれて、森田はどう反応したのだろう。不可解なことが多い。
 結局倉田は「治らずして治る」という、名言(迷言ではない)を残すことになる。到達点の正直な表現であろう。倉田はやはり特別な患者であったから、後日森田は症例倉田について、詳細に書いたり論じたりしている。しかし、日記を用いて治療したと言うが、治療のプロセスをほとんど書いていない。「治らずに治る」という言葉の綾を批判するばかりのようで、残念ながら森田から伝わってくるものは薄い。森田療法にとって、倉田が来てくれたことは大きなエピソードだったが、倉田本人にすれば、生涯の一コマに過ぎなかった。遍歴をするのが倉田の業だったとも言えるかもしれないが。ともかくも、人生の後半は、自力と他力の間をぶれながら、倉田は無理な道を登り、かつ堕ちていくのである。難しい事例なので、まとめ難くて私は格闘していた。
 これは裏原稿だが、ブログの表原稿は近日まとめ終えたい。
 作家ではないが、画家でいらっしゃる杉本様ならどうおっしゃるだろう。チャーチル会名古屋秋季展に行って、杉本様にお会いしたいと思っている。

 

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付記1
 ブログ連載の間に、この記事を挟みましたが、遅れている連載稿の続きは近日掲載します。

 
付記2
 10月5日に日本森田療法学会のシンポジウムで発表した「仏教、禅の叡智と森田療法―『生老病死』の苦から『煩悩即菩提』へ―」のスライド一覧と説明を「研究ノート」欄に出しました。

森田療法における自力と他力(Ⅰ)―倉田百三の魂の遍歴―

2019/09/07


倉田百三



 
1. 自力と他力
  「自由とは独立独行なり 奉仕さるるを願はざる処に自由あり」。森田正馬のこのような墨跡が、以前に三聖病院に掲げられていたことがあった。これは禅的な言い方のようだが、森田らしい味わいに欠ける言葉で、いわば野暮ったい感じがする。しかし、わがままで依存心の強い神経症者に対する、直截な教えであろうと解しうる。自ら努力をせずに、いわゆる他力本願に堕しているところに、自由な生き方はないと教えているのである。
  もちろん人間は、百パーセント自力で生きていくことなど不可能である。しかし、精一杯に自力を尽くして生きてこそ、向上することができ、おのずから生きがいも生じるというものである。それは当然の前提であるが、それでも人間は究極において、生死を他力に委ねるほかにどうしようもない存在である。
  森田は、まずは自己中心的で依存的な神経症者を自立せしめるために、野暮な教えも辞さなかったが、より深い人生観として、森田自身、結核を抱え、愛児を失い、人生の苦闘を経て自力の尽きるところ、なお死は恐れざるを得ず、という自然服従の境地に至っていたのであった。
  このような自力と他力の問題について、『出家とその弟子』で知られる作家で、森田療法に関わりのあった神経症者、悩める倉田百三の精神の遍歴を取り上げてみる。倉田には、宇佐玄雄や森田正馬との治療的関わりがあったのみならず、森田のもとに入院中だった学生時代の鈴木知準に対して先輩としての出会いもあった。鈴木は倉田から親鸞より道元に至るの他力の思想の洗礼を受けたのである。
  倉田百三と森田療法とのこのような交わりをたどることで、自力と他力の問題を考えようとする。



 

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2. 倉田百三の懊悩
  一高に入って文学活動をしていた倉田は、結核に罹患して退学し、療養生活を送ったが、その時期にお絹さんという女性と恋愛を経験する。その後京都の西田天香の一灯園に入って修養的生活を体験するも、矛盾を感じて去ることになった。数年後、戯曲『出家とその弟子』を書き、空前のベストセラーとなり、大正の親鸞ブームに火をつけた。そしてさらに戯曲、小説、宗教論などの執筆を続け、彼自身、親鸞に深く思いを入れ、人間苦が救済される道として、他力の信仰に宗教的関心を有していたのだった。
  しかし、大正15年(37歳)に、その3年ほど前から始まっていた強迫神経症的症状が、顕著に現れ出した。統覚不能(離人症的症状)、不眠恐怖、耳鳴り恐怖、計算恐怖、いろは恐怖、物象回転などであった。
  この頃、同じ神経症者の知人の中西清三宛ての書簡に、永平寺や南禅寺の禅者によい指導者がいるという情報を伝え、「(見性にいたる禅の修行とくらべて)真宗の解脱も他力の信心が手に入るまでは同じ苦しみと思います。…計らうまいとしては駄目なのですから、進退極ります。」と記している。
  こうして、自分も禅修行を考慮に入れていたらしい倉田だったが、たまたま京都の済世病院院長、小林参三郎の著書『生命の神秘』などを入手して読み、静坐すれば自分の力でない自然の力が働いて、自ずと強迫観念が治ると記されていることに惹かれて、この大正15年秋、小林の病院を訪れたのだった。
 
<参考文献>
・ 森田正馬 : 「倉田百三氏の強迫観念に対する心理的解説」(『森田正馬全集』 第三巻)、1975
・ 倉田百三 : 『神経質者の天国』、先進社、1932
 
 

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岡田虎二郎の写真


 
 

著書『岡田式静坐法』



 
3. 岡田虎二郎の静坐法
  倉田は、大正15年に静坐法を求めて京都の済世病院の小林参三郎のもとに受診した。それというのも、静坐法は、岡田虎二郎(1872-1920)が小林より先に東京でおこなっていたのだが、大正9年に岡田は病没し、岡田を継承した小林が京都で静坐法をおこなっていたからであった。
  ここで岡田虎二郎について少し述べておく。彼は白隠の内観法に倣い、肚で呼吸して丹田に気を集める健康法として静坐法を開発し、心身病弱者の救済を銘打ち、明治40年代の初めよりそれを東京で始めたのであった。これが次第に評判になり、関心を持った実業之日本社の記者が熱心に取材して、明治45年に『岡田式静坐法』という単行本を出版した。この本は大ベストセラーとなり、静坐法は著名人たちを含む多くの人たちの関心を集めるところとなった。岡田は日暮里の本行寺を本拠として、都内をはじめ多くの場所で静坐会を開いた。しかし過労も加わってか、岡田は50代で病没した。森田正馬は岡田式静坐法を見学に行ったが、催眠暗示的な手法とみなして、あまり評価しなかったようである。
 
<文献>
・ 岡田虎二郎:『岡田式静坐法』、実業之日本社、1912
 

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小林参三郎の面影


 

著書『生命の神秘』


 

4. 京都における倉田百三―小林参三郎と宇佐玄雄―
  小林参三郎(1863-1926)は、兵庫県出身で、医師を志して上京し、医師資格を取得後に渡米し、医科大学で外科を専攻した。長年アメリカに滞在し、ハワイで日本人病院を設立した。またハワイで西本願寺の開教使と会って感化を受け、仏教に帰依することになった。以後仏教書を読み、物理的治療だけでなく、信仰による精神療法の併用の必要性を痛感するようになった。一時帰国した際、真言宗による慈善病院設立計画を聞き、京都の東寺の敷地内での済世病院設立計画に参加し、40代で帰国して院長となった。
  小林は、科学の生み出した物質的治療が重視される医療を批判し、患者の精神状態に配慮する必要性を説いた。また人間は「天与の生きんとする力」、すなわち「自然良能」を具えていると言った。その天賦の力のことを、「自然の良医」あるいは「本具のドクトル」とも称したのだった。そして、このような能力を養う方法として、小林は岡田式静坐法を採用したのである。
  倉田百三が済世病院を受診したのは、大正15年秋のことである。しかし、入院した倉田は、すぐに静坐をさせてもらえず、まず森田療法の第一期のように臥褥を命じられたのであった。
  小林は宗派にこだわらず、仏教者と広く交流しており、禅僧で医師の三聖医院院長、宇佐玄雄ともすでに知人の間柄であった。また森田正馬が三聖医院に来訪した際には、小林も三聖医院に来て、小林は森田とも交わっていた。こうして、森田療法を知っていた小林は、入院患者に対して、静坐体験への導入として臥褥を設けていたのである。
  ところが小林は、倉田が入院して一週間後に心臓病で急逝してしまった。倉田は静坐をできぬまま、院長不在の病院に入院し続け、三聖医院に通って作業のみに参加することになった。そこでの宇佐玄雄の指導は厳しかった。倉田は、この時期のことを、『神経質者の天国』におよそ次のように書いている。
  それは京都の秋から冬にかけてのことだった。自分は十数年来、日常横臥の身で、冬は外出せず、外出すればマスクをはめて、風邪を引かぬように用心していたものだった。「それが、強迫観念と闘う必要上、全然やり方を変えねばならなかったので、マスクなどはめると、宇佐氏にひやかされるので、はめられない。私が常住起坐しておれるようになったのは、まったくこのためでした。…(入院中の済世病院から)宇佐氏の病院まで通ふのが、初め、危ぶまれたものが、だんだんと歩けるようになり、雪の積もっている山道を、嵐山から清瀧まで歩けたというようなことになりだしたのでした。」
  こうして、宇佐の指導に効果の兆しが見えだしたとき、父の病状悪化の知らせが入り、倉田は関東に帰って行った。
 
<文献>
・小林参三郎:『生命の神秘』、春秋社、1922
 


済世病院の当時の外観


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(Ⅱ)に続く                                        

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