コロナ危機の時代の森田療法(下) ―問われる森田療法の真贋―

2020/07/13



 

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コロナ危機の時代の森田療法(下)
―問われる森田療法の真贋―


 
1. オルテガ、西部邁の哲学と五木寛之氏 ―“Together and Alone”から“Alone and Together”へ―
 
 アフター・コロナ、あるいはウイズ・コロナの時代の人間の生き方について、五木寛之氏が言っておられることがある。それは、オルテガという20世紀のスペインの哲学者の思想を受けて、わが国の哲学者、西部邁氏(1939-2018)が書いていたことに関連する。
 
 ホセ・オルテガ・イ・ガセットは、著作『大衆の反逆』で、大衆による民主主義が暴走する状況を危惧し、それに対して、他者と対話し共存しようとする忍耐や寛容さを有する人の存在を、精神の貴族として重んじたのであった。わが国で西部邁は『大衆への反逆』を著しており、オルテガの思想に共鳴した哲学者として知られていた。西部はみずから精神の貴族の立場にいた人であった。ところが晩年において、その孤高の精神は救いがたい孤独となり、2018年に自裁(自死)を遂げた。それも多摩川べりを場所として選び、そこでふたりの弟子に自殺幇助をさせたという、いわくつきの自裁であった。西部はその前年に、自分の死の予告と決意の原稿を雑誌「正論」に寄せており、一年後に実行された彼の死を受けて、同誌の追悼特集に先の原稿(注1)が再掲載されたのである。
 
 五木寛之氏はこの遺稿を読み、西部がオルテガを引用しながら書いていたくだりに注目したと、いくつかの場で言及しておられる。そこで西部のこの遺稿を入手して読んでみたが、全体において既に自虐的な異様な文章である。自分は生涯を通じて、他者との団結を求めてエッセイを書き続けてきたにもかかわらず、何ぴととも団結できなかった自分を揶揄することができる、というような論調の文章なのである。その西部の遺稿中で、五木氏が注目したという箇所のみを、以下に抜粋引用しておく。
 
「(オルテガいうところの)「トゥゲザー・アンド・アローン」つまり「一緒に一人で」いるしかないのである。言い換えれば、「社交にのめり込みつつも内心ではつねにぽつねんとしている」ということだ。」
 
 このような文には、もはや精神貴族(ノブレス・オブリージュ)の誇りはなく、そこにあるのは、誇りの残渣と高齢のうつ病者の自嘲である。しかし、五木氏はこの文を読んで、「これだ」と思ったという。
 西部は、オルテガいうところの「トゥゲザー・アンド・アローン」と書いている。オルテガはそのような表記をして、しかも「一緒に一人で」、「内心ではつねにぽつねんと」というような意味を込めていたのだろうか。厳密に点検することが望ましい。オルテガの著作はスペイン語であるから、英訳書に“ Together and Alone ”という謳い文句的な表記があるかどうか、少し探したが、これは不明のままである。したがって、そのフレーズの有無や意味について、傍証を得られないが、死を予定しながら西部がオルテガを引用している文章を、そのまま受けとめておく。
 そして、五木氏の読み方を推測してみる。五木氏は、オルテガの系譜から西部を一旦切り取って、群集の中にいながら孤独に生きる者が体験する苦悩を西部に見た。そしてそこから折り返して、孤独者のままで大衆の一員になりきれば、一緒に生きる道が開ける可能性に着目したのではないか。五木氏は、「これだ」と思ったのである。そして、“ Together and Alone ”(「一緒にひとりで」)から “ Alone and Together ” (「ひとりで一緒に」)へという逆方向の道を示したのである。うつ病にとらわれた西部は力尽きて、死後に五木氏にヒントを提供したのであった。本当は、大衆の中で、ひとりぽつねんと生きるのではない、孤独を秘めながら大衆と生きるのであると。
 
 アフター・コロナ、あるいはウイズ・コロナの時代においても、生き方が根底から変わるものではない。人間は、これまで不自由なく一緒に生活できた“ Together ”の日常から、コロナとの遭遇により、半拘束的生活の中で、自由な対人交流が制限され、また別離をも強いられる非日常的な“ Alone ”を体験している。しかしそのような不条理を受容しながら、協力し合って“ Together ”のステージへと再び進むのである。
 同じ趣意をオルテガの思想に繋いで言い換えれば、改めて次のように表現できるだろうか。
 コロナ禍のもとで社会は混乱し、人間関係は不安定になり、協力関係を結ぶことも容易ではない状況が続いている。こんなとき、大衆と共にいて集団の和(“ Together ”)を形成し、同時にその中にいて同調的にならない孤独(“ Alone ”)の精神貴族が水先案内人として存在することが必要である。
 
 オルテガ、そして孤独に逝った西部も然り。大衆の中にいて、「和して同ぜず」。五木氏はそんな思想や生き方を再評価し、そこにコロナの時代の生き方への示唆を見た。
 それは、森田療法、あるいは「生活の発見会」の活動のあり方にも通じるように思われるので、ここに紹介した。
 
注1:
 西部邁 : 西部邁が本誌に全て書いていた「死」の予告と決意. 正論 通巻557号 : 138-153. 2018年4月.
(初出 平成29年1月号)
 


西部 邁



 

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2. 「生活の発見会」の「煙仲間」的機能への期待
 
「生活の発見会」は二度誕生した。
 まず、その最初の誕生に至るまでの経緯を簡単に振り返ることにする。それは、熊本の旧制五高出身者たちによって進められた、森田療法と、社会教育というふたつの潮流が、戦後に合流し、ひとつの大河になった歴史的なドラマであった。さらにその過程で、社会教育から「生活の発見会」の中へと流入した「煙仲間」の機能について見直したい。コロナ危機の時代の今、「生活の発見会」の中に秘められていた「煙仲間」の静かな活動の復活が期待される。
 
 森田正馬は熊本の旧制五高を卒業した。それから10年ばかり遅れて同じ五高から、社会教育の分野で重要な田澤義鋪、下村湖人、そして永杉喜輔の3人の人物が輩出して、社会教育の道を切り拓いていった。加えて、水谷啓二も五高出身で、永杉と同級で、当時水谷は神経症に悩んでいたが、やがて森田正馬の指導を受け、森田療法の継承者となり、後に「森田生活道の伝道者」と呼ばれるまでになった。
 
 昭和23年に、水谷は、戦後に社会教育活動の復活をはかろうとしている下村湖人とその弟子で旧友の永杉喜輔に巡り合った。そして水谷は人間下村の魅力に惹かれていく。森田正馬に薫陶を受け、森田療法は人間の再教育であることを熟知していた水谷にとって、みずからの「森田生活道」は、下村の社会教育と既に一体のものであった。戦前に始まった下村らの社会教育運動は、雑誌「新風土」を準機関誌としつつ、全国の青年団OB(壮年者)を主な仲間としていた。集団は、右翼や軍部の弾圧を避けるために、その実体が見えない洒脱な名称として、「葉隠」の中の歌に出てくる「煙」を取って、下村が「煙仲間」と名付けたものである。下村は戦後にも、この「煙仲間」を復活させていた。水谷は、当時居住していた横浜でみずから「戸塚懇話会」と称する煙仲間を立ち上げ、親しく下村に師事した。肝胆相照らして、下村や永杉もまた、森田療法に関心を寄せた。
 
 雑誌「新風土」は終戦前に廃刊となっていたが、下村や永杉の努力で、戦後に再度の創刊を果たした。しかしエログロの時代から、もはや取り残されて、数年で再び廃刊の憂き目をみた。下村は、ベストセラーの自著『次郎物語』の読者らを各地に訪ねて、「煙仲間」の活性化を図ろうとしたが、精力を必要とするその行動は困難を伴った。
 下村は、古稀の誕生日に歌を詠んだ。「大いなる道といふもの世にありと 思ふこころはいまだも消えず」。「煙仲間」運動を世に浸透させたいという願いは、やむところがなかったのである。だが、既に下村の体は病魔に侵されていて、昭和30年に彼は無念の生涯を閉じた。
 
 下村が逝って、翌昭和31年、水谷は「啓心会」を立ち上げて集会の開催を始め、その翌年の昭和32年には、雑誌を発刊した。この雑誌の誌名は、協力者の永杉喜輔(当時、群馬大学教授)の発案で「生活の発見」となったのである。その命名の由来は、拙著(注2)でも紹介したので略す。重要なのは、この雑誌の発刊の趣旨であり、水谷は「生活の発見」の創刊に当たって、趣意書を関係各方面に書き送った。その一部を抜粋する。
 
 「…私どもは精神医学あるいは心理学の面では森田正馬先生の教えを継ぎ、教育、教養および社会生活面では下村湖人先生の教えを継ぎ、下村先生の主宰された雑誌『新風土』の伝統を守りたいと思います。」つまり水谷は、森田療法と社会教育の両者をひとつの視野に入れて、生活の上に具現し、社会に広めていきたいという思いを、雑誌の創刊に託して表明したのである。
 永杉も、「生活の発見」創刊号の編集後記に同様のことを書いている。「水谷氏を中心とした「啓心会」と湖人先生を記念する「新風土会」の同人が協力してこの雑誌を出すことになった」と。
さらに永杉は、創刊100号記念特集号(昭和43年12月号)に雑誌の発展を願う言葉を書いている。その一部を抜粋する。「読者諸兄姉よ、どうか本雑誌を広めて下さい。…物心ともに不潔極わまる日本に一灯を掲げ、一隅を照らすもの、それが「生活の発見」である。」
こうして水谷は、独自の「生活の発見」誌を、100号を超えるまで刊行し続けた。雑誌の発行者は、創刊号以来、奥付に「水谷啓二方「生活の発見会」」となっていた。
 
 だが水谷は、森田療法と社会教育のさらなる発展をはかろうとする夢を残して、昭和45年に急逝した。
それを受けて、水谷の「生活の発見会」と「生活の発見」誌は、長谷川洋三氏に継承されて、再度の誕生となった。長谷川氏は、「生活の発見会」を運営するに当たり、当初は教育の路線を取ろうとしたが、やがて全国的な「自助グループ」へと変化して現在に至っている。
 
 さて改めて、「煙仲間」とは。それは先に概略を記したが、下村湖人がその活動にとくに力を入れた、拘束性のない自由で創造的な集団である。一見煙のようにはかなく、しかし脈々と流れる地下水のごとく、見えないところで社会の良心を共有しあっている。下村はよく「白鳥蘆花に入る」と説いたが、これは煙仲間の精神に通じる教えであった。禅語(『碧巌録』)の「白馬蘆花に入る」に拠っており、白馬が蘆花に入ると見分けはつかないが、存在しているという意であった。「白馬」を「白鳥」に変えて、より情趣ある句にしたのである。
 さて、ひとたび事が有れば、既存の団体や職場を超えて、匿名の地下組織となり、縁の下の力持ちとしての推進力を発揮して社会に寄与する。そのような集団的活動を効率的に進めるためには、集団外に指導者がいるのもよいが、集団内で主となる動きをする「主動者」が存在することが望ましいと下村は言う。オルテガが『大衆の反逆』で、さらに西部邁が『大衆への反逆』で述べている思想に通じるものがあるように思われる。下村は「葉隠」の精神貴族(ノブレス・オブリージュ)なのであった。
 
 下村から水谷が受け継いだ「煙仲間」は、水谷没後にどうなったのか。永杉はひとり、静岡で起こった「新生煙仲間」と行動を共にした。長谷川洋三氏以降の「生活の発見会」に、「煙仲間」はどのように伝わったのだろうか。森田が言った「法悦から犠牲心が発露する」という教えによって、後進のために力を尽くし、助力者原理に従って共に成長するということは、限りなく尊い。ただ一抹の懸念は、もし症状を治すことが第一義になれば、自由な前進が阻まれるということである。
 自助グループと煙仲間は、その点で根本的に性質を異にする。煙仲間は、症状を治すこととは一切関係なく、多少修養的なモティベーションをもった、気楽な友の会である。コロナの時代に、こんな自由な会が各所に伏在してほしいと心から願う。
 
注2:
岡本重慶『忘れられた森田療法』創元社.2015
参考文献:
藤瀬昇・比嘉千賀・岡本重慶 共編『森田療法と熊本五高』熊日出版,2018
 



 

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3. おわりに―森田療法100年、コロナ元年―
 
 森田療法が成立して100年、わが国のこの貴重な精神療法を守るために、先人たちによる誠実な努力、尽力が重ねられてきた。それに対して敬意を表することを忘れてはならないと思う。だからそれを軽率に踏みにじるような言辞を弄してはなるまい。
 ただし、この100年の間に、医療の事情や神経質者の特徴は変貌し、森田療法はかくも変化した現実にどのように対応すべきか、苦渋と苦難の道を歩んできた。やむを得ない迷走を続けてきたと言えるだろう。そこには澱のようなものも溜まっているかもしれない。
 思いがけないコロナの危機によって、それは白日の下に晒されるのだろうか? そして療法の真贋が問われるのであろうか?
 それは私のような不見識なものが判定できることでは到底ない。コロナ危機に遭遇して、見えてくるものがあるのであろうか。それとも、コロナ禍によって覆われてしまうものもあるのだろうか。いずれにしても冷静に判定を見守る時がきたように思う。

コロナ危機の時代の森田療法(中)―森田療法は不要不急か?―

2020/06/28




 

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コロナ危機の時代の森田療法(中)
―森田療法は不要不急か?―


 
1. 森田療法に空白なし
 
 2020年春、新型コロナウイルスの感染拡大により、三密の回避、不要不急の外出の自粛が要請された。神経症で受診を望んでいた患者さんらは、その間どうしていたのであろう。受診は不要不急に当たらないと考えて、通院を継続していたのであろうか。病院などにいけば、コロナウイルスに感染するリスクがある。そのため、一般に医療機関の外来受診者数は減ったと報道された。神経症を扱う診療部門ではどうなのか。
 
 神経質や神経症は、症状にとらわれ、さらにそれを治すことにとらわれる病態である。つまり、「治したがり病」である。だからその「治したがり病」を治すことが大事であるにもかかわらず、昨今は森田療法を含めて、治療者も症状を治すことに同調している。緊急事態宣言が発令され、三密回避や外出自粛を強化する要請が出たことは、神経症者が通院をやめて、「治したがり病」を共有している治療者患者関係を断ち切る絶好の機会の到来を意味した。これを機に治療へのとらわれから脱却できた人たちは、どれほどおられるであろうか。気になるところである。
 
 森田は曰わく、「休息は仕事の中止にあらず 仕事の転換にあり」と(注1)。 森田は状況に応じて仕事の切り換えをするところに休息があるのであって、中断の空白を要さないと言っているのである。コロナ禍で外出の自粛が要請され、場が在宅に移行しても、対応できる数々の課題があるはずである。
 
 元高良興生院院長の阿部亨先生は、森田療法ビデオ(注2)の中で、「森田療法は人生の空白を作らない」ものだと力説しておられる。今日、想定外のコロナ危機のもと、医療、経済その他、あらゆるところで社会が揺さぶられている。森田療法はこのような事態とは無関係だと決め込んで、森田療法に不意にバカンス期が訪れたかのような錯覚を起こしているような方々は、まさかおられないだろうけれど。また学会やセミナーが開催され難くなったことが一大事だと嘆くならば、そこでも勘どころを外している。学会やセミナーも重要だが、本当の森田療法は生活の中にある。すべての現実や事実が真実である。コロナウイルスの影響を受けているわれわれの生活が、例外であるはずはない。
 地球規模の危機のときに、行動が制約される条件下であろうとも、それぞれの人間が身辺から出発して、可能な方法で人とつながり、工夫し合えば、なすべきこと、できることを見つけ得るであろう。
 森田療法は人生に空白を作らずに、密に生きる療法である。従って森田療法に不要不急という空白はあり得ない。
 
 注1:
 森田の言葉、「休息は仕事の中止にあらず 仕事の転換にあり」は、ヒルティの『幸福論』(第一部)に拠っている可能性がある。ヒルティは、本当の休息は活動のさなかで、働く喜びを感じるところにある、と言っている。森田においては、若干意味が変化しているが、この拙論では、休息についての森田の言葉の意味に忠実に従っている。
 注2:
 阿部亨『悩める人への生きるヒント』(野中剛監督)、森田療法ビデオ全集 第4巻、(有)ランドスケープ発売、2016
 


阿部亨『悩める人への生きるヒント』(DVD)のジャケット



 
2. 車間距離と人間(じんかん)距離
 
 阿部亨先生は、同じく先のDVD『悩める人への生きるヒント』の中で、対人恐怖について述べ、人間関係には程よい距離が必要であることを指摘しておられる。若者は、人と距離のない関係が良い関係だと思い込み、その結果傷つけ合う体験をして対人恐怖になるが、ある程度の距離を保っている間柄が、社会的に健全な人間関係なのであると。ここで阿部先生は、中野翠という人が人間関係について書いていたことを紹介なさっている。中野翠という人はエッセイスト・コラムニストの女性であるが、「車に車間距離が必要であるように、人間同士にも車間距離のようなものが必要である」ということを書いているのだそうである。
 中野翠さんは、長年「サンデー毎日」のコラムなどに機知に富む文章を書き続けてきた人である。件の文章の探索を試みたが、著書が多数あって、見つけることができなかった。ともかく、この人は、ご自身が、人間車間距離を意識して生きておられるのであろう。ペンネームの翠は、尾崎翠にあやかっているそうである。第七官界を彷徨なさっているのであろうか、本名やプライバシーを隠し、テレビ出演の依頼も一切断ってこられた。落語を愛するオタク系で、対人関係の機微に面白さを見ておられるのだろう。だから人間への興味が文章になる。この人は対人恐怖を楽しんで生きている、その完成型の人のようである。
 人間において必要な「車間距離」とはよく言ったものであるが、これを「人間(じんかん)距離」と言い換えてもよいのではなかろうか。「人間」を「じんかん」と読むとき、それは世間、世の中を指す。東洋的な意味での社会である。市民の共同体である Society として社会を理解する以上に、「人間(じんかん)」として理解する社会は、物理的かつ心理的に距離ある人間同士のネットワークによって、それが成り立っていることがわかる。
 
 ウイルス感染を避けるために、互いに2メートル程度の物理的な Social Distance を取るように要請されている。けれども、心理的な Social Distance というものもあるので、両者の関係はどうなのか。心理的には、知らない者同士が会話をする、いわゆる社会的距離はざっと2メートル前後とみなされている。物理的であれ、心理的であれ、社会的距離とされるものはいずれも2メートル程度で、ほぼ一致しているのである。さらに心理的には、個体の周囲の1メートル強より以内の同心円は、パーソナル・スペースと言われる個体の心理的安全圏になっている。人が1メートル強よりも近づくと、パーソナル・スペースが侵され、不快感が惹起され、親しい者以外はそのスペースに立ち入れない。つまり、本来人間は心理的に一定の段階の距離を置き合って生活しているのであって、その距離の中に、飛沫感染に対する防御域も含まれているのである。
 
 コロナウイルスの感染を防ぐために殊更に言われた Social Distance は、都市生活における人間の異常な過密に対して発する必要のあるアラートであった。しかし、人間過密の都市環境を抜本的に変えることは困難である。あるいは、中野翠女史に学び、さらには対人恐怖の人たちに学ぶところが残されているのかも知れない。
 
 対人恐怖と言えば、さらにその中に、通常の対人恐怖よりも、人と接近するのが一層苦手で、ふれあい恐怖と言われる一群がある。症状としては、会食恐怖や雑談恐怖などがあり、歓談しながら人に接近せねばならないという、和やかさが求められる状況が苦手な心理である。ひきこもり系に近いところがあるが、この心理は広く社会人一般にも見ることもできる。何かにつけ頻繁に飲み食いの集いをする日本人特有の宴会文化があり、これに適応する「お付き合い」を苦痛とする人たちがいる。ふれあい恐怖の周辺に広く位置づけられる心理である。社交性という柔軟さを欠くので、健全だとは言えないものの、Social Distance の観点からは、このようなふれあい恐怖系の方が正統派である。むしろ宴会依存症的な文化の方が問題である。ともかく神経症的な症状をすべて異常と決めつけず、秘められている意味を見直して、無理な矯正に走らず、折り合いをつけることが必要である。
 



 
3. 人間の新たな課題 ― ゴリラより、神経質に学ぶ ―
 
 新型コロナウイルスが猖獗を極めつつある地球上のパンデミックの現象に対して、社会的文化的な立場から、多くの識者たちがコメントを発している。そのうち、去る5月にNHK・BS1で放送された番組「コロナ新時代への提言~変貌する人間・社会・倫理~」が、とくに注目された。
 しかし、机上の学問を専門とする識者の提言というものは、えてして解説にとどまる。イタリアでコロナの死亡者が相継ぐ中で、遺体となってしまう死者への敬意が失われていると指摘したその国の哲学者が、疫学的認識を欠いていたというエピソードが哲学者から紹介されたが、むなしく聴いた。日本人は、志村けんが亡くなったとき、臨終に立ち会えず、遺体にも対面できなかったご遺族が、火葬後にはじめて受け取った遺骨を抱いておられる姿を見た。それですべてが伝わってきた。
 人類学の立場からの山極寿一氏の発言を、期待して聴いた。山極氏の話は、前半では主に今日の危機状況が語られ、後半では人間社会の課題が示された。まず、山極氏の前半の話を、なるべく原文に忠実に、若干短縮して以下に紹介する。
 
 「文明が始まる前から、人類という種は信頼できる仲間を増やすように進化してきた。文明の発達とともに人々は移動し、人と人の関係を作っていった。そのために人が集まること、移動するということが条件となる。そこで国が作られ、国と国が連携し、今、グローバルな社会が地球上に実現した。ところが、今それが崩されようとしている。新型コロナウイルスの出現によって、われわれは接触を禁じられ、移動を禁じられた。そのため、社会の作り方が根底から覆されてしまった。人が接触せず、移動せずに、このグローバルな社会をどのように運営するのか。それがわれわれに突きつけられた課題である。」
 
 この前半部は、人間がグローバル化した社会を作ったという歴史の解説が主であった。一拍置いて、後半の発言を、多少要約しながら紹介する。
 
 「ゴリラは、日々顔の見える距離で、体を合わせて互いが同調し合い、仲間であることを確認して、少人数でまとまっている。一方、人間は進化の過程で『離れ合う』ことを社会のひとつの条件として認めた。(人間は言葉を手に入れたために『離れ合う』ことが可能になったが)、言葉だけに依存してきたわけではない。言葉は進化の過程では、後で出てきたものであり、信頼を担保できるコミュニケーション手段ではない。むしろ、身体と身体が共鳴し合う中で、信頼が形成されてきた。ところが今、生身の肉体を通じた共鳴によるコミュニケーションが失われようとしている。言葉だけで繋がる世界に放り出されたとき、人間はどうなるのか。」
 
 このように山極氏は問題を提起し、引き続き「人間は言葉の前に音楽を発明した。音楽は人と人との間を共鳴させる良い装置。」などとおっしゃった。そしてテレビ画面の半分には、楽器を抱えたミュージシャンの姿が映った。このような編集のパッチワークには、「間(ま)」というものがなくて、「間(ま)」が抜けている。ミュージシャンは、安倍総理のTwitterにコラボで出された青年であった。
 
 音楽もいいけれど、生活し辛くなった日常生活に誰しも戻るほかない。最近、厚生労働省が「新しい生活様式」の実践例という資料を出した。行動の仕方が事細かに記されているが、これは神経質な人のそれとまるで同じである。病原性のウイルスはいつどこにでもいる。どのような生活様式がよいか、神経質者はほとんど無意識に知っている。みんなが神経質者の行動に学べばよいのである。ただし神経質者は、ときどき神経症のおかしな症状を出す。日本中でみんなが Social Distance に強迫的にこだわり症状を示しているのと同じである。お互いに症状は笑いぐさにしよう。そして、神経質者の持ち前の生き方に学ぼう。神経質を生きることは堅実であり、創造的である。『神経質礼賛』という著書を出し、「神経質礼賛」というブログを連載し続けておられる精神科医師がおられる(注3、注4)。大いに学ぶべし。
 コロナウイルスは怖い。怖いままに気を配って行動するのである。
 
 「随処に主と作(な)れば、立処皆真なり」(臨済義玄)。
 
 
 注3:
 南条幸弘 著 『神経質礼賛』白揚社、2011
 注4:
 ブログ「神経質礼賛」(南条幸弘先生)

(下)に続く     

コロナ危機の時代の森田療法(上)―コロナ元年、私たちの受難―

2020/06/14


COVID-19 Novel Coronavirus virus infection spreading from Wuhan city, China. Asian woman wearing virus surgical face mask with text title. Chinese people walking to work at train station or airport.

 
 
 
 
 
 

コロナ危機の時代の森田療法(上)
―コロナ元年、私たちの受難―


1. コロナ元年
 
 令和の2年目はコロナ元年になった。新型コロナというしたたかなウィルスが登場して、人間がこれと共存して生きねばならないという、未曽有の試練と遭遇した、恐るべき元年となった。
 森田療法は、神経質の治療を端緒に始まった精神療法だが、単なる精神療法ではない。森田は「事実唯真」と言い、「自然に服従し、境遇に従順なれ」と言った。現実世界の、事実としての出来事、現象のすべてが、真実に他ならない。どんな不条理なことも、すべてが真実である。それが自然のことわりなのである。花鳥風月ならぬ、厳然たる自然の事態に服従して、その境遇に従順に生き抜け、と森田は教えてくれた。それは単なる神経質や神経症の症状の治し方をはるかに超えた、生きるということの教えである。
 人生は苦である。仏教では「生老病死」の四苦と言う。生を受けて生きれば、老いがあり、病に罹り、やがて死ぬことを避けられない。そしてその過程では、愛する人との別離や、欲しいものを求めても得られない苦しみなどを体験する。合わせて「四苦八苦」である。
 釈尊も親鸞も白隠も強迫観念に悩んだ神経質者だったと、森田は言っている。強迫観念に正確に当てはまるかどうかは、まあわからないが、実存的な深い悩みだ。ともかく、森田が教えてくれたこと―。それは、悩みを生きた先人たちが仏教の貴重な叡智を生みだした。そして、神経質者に限らず、苦や煩悩を有する私たち万人がそれに学びうるということなのであった。
 
 今、コロナ元年、間違いなく新たな苦難が始まった。予想だにしなかったような悪夢が現実の危機として、今ここにある。森田療法はこの状況にどう対応するのか。いや、そのような対岸の火事を見るような問いを立てること自体、おめでたいことかもしれない。第一線の医療に携わる方々の献身的な努力をはじめとして、さまざまな分野で多くの人たちが、森田療法を論じるまでもなく、コロナに対処する直接間接の必要事に取り組んでくださっている。そこに生きた森田療法がある。必要上とは言え、森田療法に研究的に関わっている私たちには、かなり後ろめたい話なのである。
 


 



 
2. コロナ狂騒曲
 
 1月下旬に横浜を出航したクルーズ船が、2月初めにウィルスとその感染者らを乗せて帰還し、横浜港に停泊した。あたかも黒船を迎えたごとく、この国の関係者は周章狼狽した。しかし、集団としての国民の心理は、危機に対して遅れて反応する。人びとの大半はテレビの画面にライブで映る大型船の姿をお茶の間劇場で他人ごとのように見入っていた。
 その後のことは言うまでもない。危機に対して遅れて反応する分だけ、冷静さが失われる。パニック反応が始まった。不安、恐怖、反動としての無関心や否認、感染者に対する無思慮な差別や非難。外出の自粛が要請され、自宅での巣ごもり中には、DVやアルコール依存症が問題になった。それは経済生活を襲った危機と無関係ではない。
 行政は市民のためである以前に保身的である。私は京都に近いA市に在住し、市役所の近くに居住している。4月某日に私は必要があって市役所に出向いたが、何かただならぬ雰囲気を感じた。その翌日、NHK総合で、A市市役所でクラスターが発生、というニュースが伝えられたので驚いた。市の役所は市民が利用する所である。クラスターが発生したら、まずそれを市民に伝える必要があろう。内部の感染者数が、クラスターと呼ばれるに足る一定人数に達しても、明らかな報道はNHKの全国放送が先を越した。集団感染はそれ以前から始まっていたことになる。そしてクラスターが報道されて10日ほど経ってから、A市市役所は庁舎を全面閉鎖した。すべてが後手の対応だった。A市を含むこの県の県民性もある程度、背景にあるかもしれない。感染者の人権が守られねばならないのは当然である。個人情報を開示したら、差別対象となり、本人や家族は生きづらくなる。そのためかあらぬか、行政内のクラスター発生の情報提供にも、行政は謙譲の美徳を発揮した。役所の近所に住む者には、灯台もと暗しだった。
 
 私はフランス人の知人(精神分析家)と親しくメール交換をしている。なので、フランスの情報の方が届いてくる。既に2月の時点で聞いたことだが、私たちの共通の知人(精神科医師)の勤務するフランスの精神科病院で集団感染が起こり、入院患者と職員ら、数十人が感染し、精神科医師1人が死亡したとのことであった。精神科病棟はまさに三密の環境であり、患者さんたちはしばしば自己管理能力に欠ける。はたして、その後わが国のいくつかの精神科病院でもクラスターが発生した。精神科の入院治療の場では、感染症に対する万全の予防対策を常に講じていることは容易ではない。その上クラスター発生後の対処には大きな困難が待ち受けている。それは、福祉施設の現場における問題に、ある程度通じるところがあるようだ。いずれにしても、一層の備えが必要であろう。
 



 
3. エッセンシャル・ワーカーの人たちに花束を
 
 全国の医療従事者たちは過酷な状況に置かれている。この人たちに対して国民は感謝のブルー・インパルスを贈りながら、同時にウィルス運搬者としてその人たちを忌避している。ずいぶん勝手なことだと思うが、人間はそんなものらしい。6月10日時点での、全国の医療機関における集団感染は102件、医師、看護師の感染は550人以上になるということを厚生労働相が述べた(6月11日、共同)。全国の累計感染者数に照らすと、医師、看護師の感染者はその約3%を占める勘定である。コロナの診療の第一線で働く医療従事者数を分母にするならば、感染確率は一段と高い数字になる筈である。感染リスクの極めて高いそんな現場で働いてくださっているのだ。
 
 森田正馬は、職業というものについて、色紙に次のような教えの言葉を揮毫している。 「職業によりて人の品性の定まるに非ず 従事する人の品性によって其職業は尊卑を生ず」。森田の教えはこのようである。その意味するところはおよそ理解できるが、よく考えると疑問も起こる。ひとつの理解として、なまじ地位が高そうな職業についても、それにあぐらをかいて、自分の品性を磨かなければ、その職業まで怪しくなるという警句である、と受け取ると分かりやすい。
 
 むしろ逆に、職業自体に尊卑というものがあるように、私は日頃から思っている。誤解を避けるために説明をせねばならない。車に乗らないので、電車で移動する私は、駅の公衆トイレに立ち寄ると、そこで黙々と清掃をなさっているおばさんたちの姿を見かける。私はこの人たちに敬意の念を抱いている。汚く、きつい仕事のひとつである。汚いものは汚い。でもそのような清掃を誰かがしてくれるから、社会生活が無事に動いている。以前に、「羽田空港が世界一清潔な空港である理由」として、ベテラン清掃員のNさんのことが、テレビなどで取り上げられた。Nさんは若いときの苦労を経て、清掃のアルバイトに出会い、最初は「生きるため」に働いていたが、やがて清掃の仕事にやりがいと楽しさを見いだしたという。そうは言っても、駅の公衆トイレの清掃員の皆の方々が、楽しくてしておられるであろうか。汚いけれど、きっと嫌々、必要なことをなさっているのだろう。それが尊いのである。
 
 便所掃除は分かりやすい例だが、人間社会が維持されるために、それを根底で支える不可欠な職業がいくつもある。コロナ禍のもとで、そのような職業がクローズアップされた。 農業、食品、交通、流通、電力、清掃などなど、そしてもちろん医療もだが、それらがその不可欠な職業に相当する。このような職業内容の仕事の従事者は、エッセンシャル・ワーカーと呼ばれている。
 エッセンシャル・ワーカーの仕事は、しばしばきつく、汚く、ときには危険を伴う。そんな仕事に本気で従事なさる人たちが社会には必要なのである。
 
 人間が人間らしく生きるために、同じく必要不可欠なものとして、さらに教育や文化がある。ただし緊急度の違いはある。このように見てくると、社会的な有事のときに見直されるという要因を含めて、職業に尊卑があるという見方はありうると思う。日頃光が当たらないが、尊い職業があることに気づくことが重要である。そしてそのような担い手に改めて感謝したい。
 
 尊卑の卑の面もある。事実上の賭博、その他人間を依存症に陥らせて利を得る業種がある。これは、主に国家が責任を受け止めてほしい。
 

(中)に続く     

SORRY AND WELCOME

2020/06/14




【連載原稿遅延のお詫び】
 いくつかの重要な連載原稿の掲載が遅延しています。
 当事務所の移転や、さらにコロナ生活の影響も多少こうむり、予定がかなり遅れました。ホームページ上では見えない水面下で、森田療法関係各位との交流など、地味なことを続けてはいますが。
 ともあれ、倉田百三のまとめや、仏教関係の連載の続きを、鋭意書き上げて公開します。
 
【原稿の掲載欄を種類別に】
 さて、今後は原稿の種類別に掲載欄を統一します。ご了承をお願いしておきます。
 オリジナルな研究に関わる原稿は、すべて「研究ノート」欄に掲載します。「ブログ」欄には、随筆、随想のような原稿を掲載したり、また、当研究所と交流して、原稿を寄せて下さる方々の玉稿などを掲載します。
 
【オンラインでの交流の推進】
 さらに、このご時世ですから、ソーシャル・ディスタンスを逆に生かして、オンラインで皆様に自由に意見交換をしあって頂く場の提供をする企画を考えています。(具体化はまだです)。
 
【随時、研究会などを】
 研究所は、バーチャルでなく、駅近で、また来て頂きやすい建物、部屋です。必要に応じて随時研究会を開きます。また単独でも、気楽にお話しに来ていただけます。ただし突然ではなく、あらかじめ、「通信フォーム」で、打ち合わせをお願いします。
 ただし、カウンセリングや診療には応じられません。
 研究レベルのご来談、ウェルカムです。
 
 それではよろしくお願いいたします。

森田療法における重要な仏教的用語(1)―「事実唯真」の典拠になった真言宗の「即事而真」―

2020/03/16

 
 


こちらの記事の内容は、研究ノートの欄へ移しました。
 
リンク


 
 
 
 

清沢哲夫の詩、『道』―アントニオ猪木に影響を与えた真宗の他力思想―

2020/01/27


清沢哲夫 著『無常断章』昭和41年、法蔵館。


 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
 
< 清沢哲夫の詩、『道』―アントニオ猪木に影響を与えた真宗の他力思想― >
 
 現役時代には、「イ―チッ、二ーッ、サ―ンッ、ダァァァ―!!」で突っ走ったアントニオ猪木だったが、引退時には、リング上で『道』という意味深い詩を読み上げた。一躍有名になったその詩は、当初は一休禅師の作と言われた。猪木自身、『アントニオ猪木自伝』の中で引退セレモニーのときのことを回顧して、『最後に、新日本プロレスの道場訓にもしている、一休禅師の詩を読んだ。』と書いている。しかし、この詩は、清沢哲夫の『道』という詩に酷似しており、清沢の詩を一部改変して猪木が朗読したものである。
 まずは、猪木が朗読し、かつ自伝にも掲載している、一休の詩だというものを以下に掲げる。
 
 

『道』

 

アントニオ猪木(一休)

 
 この道を行けば
 どうなるものか
 危ぶむなかれ
 危ぶめば道はなし
 踏み出せば
 その一足が道となり
 その一足が道となる
 迷わず行けよ
 行けばわかるさ。
 
 次に、清沢哲夫の詩を掲げる。
 
 

『道』

 

清沢哲夫

 
 此の道を行けば
 どうなるのかと
 危ぶむなかれ
 危ぶめば道はなし
 ふみ出せば
 その一足が道となる
 その一足が道である
 
 わからなくても
 歩いて行け
 行けばわかるよ。
 
 この詩は、清沢哲夫が最初に暁烏敏の主宰紙『同帰』に昭和26年10月に出し、それを昭和41年に刊行した著書『無常断章』に収載したものである。
 清沢哲夫は、清沢満之を祖父にもつ深い真宗思想家、活動者であった。戦争を体験し、復員後は実家、愛知県碧南市の西方寺で形骸化した寺院制度を改革しようとしたが、周囲の反対にあい挫折を経験した。その頃、暁烏敏の孫娘と結婚している。また弟が精神病を発病したので、入院させた。『無常断章』中の「狂人」という文章には、次のように記されている。
 
 「弟の病に対する悲しみをこえる道は、自分も亦今現に寸分違わない世界にいるのだと知らされるのみであります。
 しかし自分の中にある狂気が知らされてくる時、一切の事物の上に明るい光がさしてきます。」(昭和27年1月)。
 
 『道』という詩を書いたのは、そのような時期のことであった。
 その後愛知県の寺を出て、暁烏が生前に在寺していた石川県の明達寺に移住した。ドイツ留学、大谷大学の教職を経て、暁烏姓となり明達寺の住職になった。
 
 清沢哲夫の『道』は、人事を尽くして天命に身を任せている自身の歩みを、読者に対して優しく包むように伝えている。
 猪木が朗読した詩では、いくつかの箇所で改変がなされており、とくに終わりの部分では、「わからなくても歩いて行け」(清沢)が「迷わず行けよ」(猪木)と変えられている。
 一休禅師には多くの道歌があり、迷いや道について歌ったものがいくつもある。けれども、一休の歌はたいてい一癖あって表現が屈折しており、「迷わず行けよ」などと一休が言ったりすることはない。しかし引退時の感懐として、リング上で叫びたかったことは、一休の教えにもまた通じたので、「迷わず行けよ」と分かり易い句を入れて一休の詩に仕立てて、清沢哲夫の名を伏せたのではないだろうか。猪木の背後に、禅と真宗に通暁した人物がいたと考えられる。清沢哲夫の詩を持ち出したのだから、真宗にかなり造詣の深い人であろうか。
 いずれにせよ、格闘家の引退に当たって、自力を超えて他力に委ねて歩む道の詩が取り上げられたことは、興味深い。格闘技においてさえ、究極的には自力と他力が融合する境地になるのである。
 そして最近、車椅子生活になったアントニオ猪木は、車椅子の生活者として「あるがままで」生きていく、と述べている。
 森田療法における「あるがまま」も、自力と他力を包含していることを、改めて思う。
 


クリニックではありません

2020/01/25


<クリニックではありません>
 
 当方は、クリニックではありません!
 診療を行うクリニックや心理カウンセリングを行う相談機関ではありません。
 
 当研究所の理念などは、ホームページの表紙にあたるページに明記している通りです。
 森田療法という優れた療法―というより生き方ですが―の意義とあり方に関心をお持ちの方々と、広い意味で、その研究上の交流をはかろうと意図しています。職種を問わず、同じ志しを有する方々と、日本中遠くても近くても、意見交換、情報交換をして、共に勉強しましょう、という提案をして、京都森田療法研究所という名のもとに、いわば研究交差点のような機能をしようとしています。それ以上でも、それ以下でもありません。
 
 これを書いているとき、たまたまブルガリアの心理学者からお手紙が届きました。
 台湾の方やフランスの方々とも交流があります。ヨーロッパは遠いですが、メールでのやりとりで、地球上の距離を越えて、かなり交流が可能です。そんな時代になりました。
 
 さて一方で、困る問題もありますので、ここに記しておきます。
 この研究所を森田療法のクリニックかカウンセリング機関とお間違えになる方も、一部にはいらっしゃるようなのです。京都地区で森田療法専門機関を探して、勘違いをなさるのかもしれませんが。
 
 受診機関を求めて、お困りのかたがたもいらっしゃることでしょう。そのようなかたがたのご不自由はお察しします。しかし京都地区も、森田療法の無医村ではないと思います。どうぞお間違えなきようにお願いします。ご本人様、ご家族様、また森田療法関係者のかたがたにお願いします。当方のホームページに明記している趣旨を正確にご理解下さい。そして早合点なさらないで下さい。
 ご理解のほどを、改めてお願いする次第です。
 

京都森田療法研究所

主宰者 岡本重慶

謹賀新年

2020/01/12




ご挨拶
 皆さま、明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 
年頭の所感
 昨年は、災害の多い年でした。人間的な生き方、取り組みである森田療法は、災害を無くするような万能のものではないことは、言うまでもありません。
 ただ、言えることは、森田療法は神経質や神経症の症状を治す精神療法だという思いこみが蔓延しがちな風潮の中で、森田療法のあり方が問われているということです。災害の、人為ではいかんともし難い現実を前にして、それでもそれをどうするかと考え、動けることがもしあれば動き、そして祈る。それが森田療法だと思います。
 さらに言うならば、現代において、森田療法が対象とする心の病理は神経症だけでなく、あれやらこれやらと増加した、だから森田療法を生かす場が広がったと、やりがいを感じて活動を拡大しようとする、それは重要なことですが、それが目的化したら、少し違うと思うのです。森田療法は、それを施したり教えたりする専門家と、施されたり教えられたりする人たちとの二分法の上に成り立っていたら、本当の森田療法ではないでしょう。それだけは確かなことです。もちろん、対象への取り組みという二分法から始まって、その二分法が乗り越えられていくのでしょうから、性急に批判すべきことかどうか、わかりませんが。
 ともあれ、災害の多かった昨年は、森田療法にとってとくに試練の年であったと思います。そして森田療法の試練は、今後も続きます。
 当方(京都森田療法研究所)は、いろんな意味での体力の不足のため、活動面で制約を抱えていて、それが残念なところですが、それなりに微力を尽くしていきたいと思います。
 昨年、森田療法の「考現学」を課題として掲げて、研究的な原稿をそれに連動させようと試みました。恥ずかしいことに、それが中途半端な形で止まっています。先述した森田療法のあらまほしい本当のあり方を探るという点で、こちらの思いはひとつです。本年は、その整理をつけていかねばなりません。
 竜頭蛇尾になってはいけません。長広舌はこれくらいにしておきます。
 
お願い、あるいはお誘い
 上記の長広舌で、当方の意図しているところを、およそお分かり頂けたかと思います。それはこのホームページの表記のページにも、理念として書いている通りです。机上の論に終わるような高尚な研究をすることを目標にしてはいません。実際の必要につながる研究をしようとしています。またその表現の形は、多様であってよいと思います。当初、定期的な研究会の継続的な開催を試みましたが、やってみると、中身の薄い集いになりかねず、そのため随時、必要に応じて、少人数で会って話し合い、交流をしています。どうぞ皆さまにおかれましては、気楽に当方にアプローチして下さい。大小、何でも持ち込んで下さい。どうぞご遠慮なく! 遠慮してためらう人こそ、お会いして交流すると、意義ある成果が生まれます。一方、こちらの趣旨を無視して飛び込んできそうな方は、まず自分の足元をご覧下さい。そして、こちらはクリニックやカウンセリング機関ではありませんから、患者様として受診したい御方は、こちらでは対応しておりませんので、その点はどうぞご理解下さいますように。
 
 
 それでは今年もどうぞよろしくお願い致します。
 

令和二年元旦
  京都森田療法研究所
   主宰者   岡本重慶
   研究員   一同

森田療法における自力と他力(Ⅴ)―倉田百三の天国と地獄(2)―

2019/12/27




 
 
 承前
 
9. 庄原、父が浄瑠璃を語った町
 広島の内陸部の田舎町、庄原は江戸時代から農産物と海産物の交易が行われた市場町であった。そのため閉鎖性はなく、人情も温和であり、山間の田舎でありながら文化的に開かれた町であった。倉田百三は、この庄原の呉服商の家に、6人の姉妹たちの間に挟まれた独り息子として生を受けた。
 母ルイは長女で、商家を継ぐため百三の父、百平を他家から婿養子に迎えた(百平は倉田家の先代を襲名して吾作と改名している)。倉田は「私の母は牛のやうな、本能的な母親だった。無学であったし、新しいものに応変していくことが出来なかったが、家の習慣をよく守り、勤勉で自分の享楽を思はず、しきたりというものに保護されて、過ちなく日を送っていた」(『光り合ういのち』)と記しているが、母のことはあまり詳細には語っていない。しかし、父について倉田は次のように感慨のこもった書き方をしている。
 
 「父は正直な、謙虚な玉のやうな人間であった。人と争ふこと、曲がったことの出来ない、羊のような人間で、全く平和の子であったが、それだけ小胆者であった。それが、善、悪ともに私に遺伝した。そして私の場合では自己批判と超克とによって、大胆となること、敢へて人と争ふこと、悪にも耐へ得ることの自己鍛錬の課題となってあらはれて来るのだ。父は義理堅く、節約で、几帳面で、…決して豪放でなかったが優美を愛した。花を活け、三味線を弾き、義太夫をよくした。 」、「父は浄瑠璃が好きで自分で語り、三味線をひいた。…私の文学の素地、その根本基調はたしかに浄瑠璃からきたものだ。私の感情教育、美的教育はその義理人情のムードと共に浄瑠璃によって養われたものだ。」(いずれも『光り合ういのち』)。
 
 男勝りで牛のように家業に精を出す母に対して、温順な父は世知に疎く商才に欠けていた。しかし父は道徳的には厳しくて、時には百三を叱ることもあったという。
 庄原で子ども時代を過ごした百三は、この父から受けた影響が大きい。父から遺伝的に継承した弱気を克服することを生涯の課題として意識し、一方で父譲りの感性や情操が、文学や思想の素地に生かされたことを自認している。倉田が、いわゆる神経質であったのかどうか、わからないが、彼の強気と弱気の混じった執着的な性格は少年期に培われたものと思われる。
 
 小学校を経て、三次の中学校に入った倉田は、その町の叔母の夫妻の家に下宿したが、三次は真宗の町で、叔母夫妻はその熱心な信徒であった。だが寺の檀家総代をしている叔父は人に厳しく、叔母は叔父にいびられながら信仰がいのちになっている。そんな夫妻のもとに下宿した倉田は、とても真宗に関心を持つことは出来なかった。彼は暗い生活から脱して華やかな港町の尾道へ行ってみたくなり、中学三年の夏より休学し、尾道にいる姉を頼って、その町で一年間を過ごした。所詮は卑俗な商都だったが、尾道での生活は倉田の姿勢を変えた。復学した倉田は「獰猛」をモットーとし、柔道や相撲の稽古に励み、文武両道で友人たちを追い抜く存在となった。そして学校当局にも反抗的なポーズを取って、教師たちから持て余された。父に似た弱気を克服するために、強さを誇示した最初のエピソードであった。
 力、宗教性、愛欲、さらには美。これらが倉田の後の生涯を通じての主題となるが、中学時代には力で勝利した。自力を謳歌した少年時代であった。
 

『光り合ういのち』昭和32年、現代社


<文献>

  • 倉田百三 :『光り合ういのち わが生いたちの記』1957、現代社
  • 鈴木範久 :『倉田百三 近代日本人と宗教』1970、大明堂

 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
10.聖と性
 意気軒昂として倉田は一高の文科に入学した。同学年には、矢内原忠雄や芥川龍之介らがいたが、並み居る秀才たちの中で、自分は首席になってみせると倉田は豪語して猛勉強をした。その結果、第一学年を終えた時、倉田は見事に首席になった。しかし、倉田の目標はそれだけでとどまらず、ショーペンハウエルの哲学の影響を受け、立身出世して力を手に入れたいという欲望に駆られて、彼は法科に転じた。だが、そこに待っていたのは、欲望を追って哲学を捨てた虚しさであった。そんな時、彼は西田幾太郎の『善の研究』を読んで感動する。主客未分の「純粋経験」に出会って、倉田は自身の我への執着から脱することが出来た思いになり、涙した。哲学者とは語義的には愛智者のことだが、西田のように、生に向き合う愛生者をこそ哲学者と呼びたい、と倉田は喜びの言葉を発した。そのような体験を機に、倉田は再び文科に復帰した。
 
 けれども西田の哲学に向き合っているうちに、倉田は心の底にただならぬ動揺を感じ始める。そこには霊肉を併せての生命への憧憬がない。西田への敬慕と要請との複雑な気持ちを抱えた倉田は、明治45年9月に京都の西田幾太郎宅を訪れて、面会した。その後倉田は綿々とした手紙を西田に書き送っている(『生きんとて』)。以下はその抜粋である。
 
 「ただ書斎に蟄居して読書三昧に日を送るばかりでなく…祇園の色街に美しいおとなしい妓を呼んで艶やかな黒髪に顔を埋めて眠ったりするやうな哲学者になって頂きたい。…先生よ、先生は若かりし時恋愛の思ひ出はありませぬか。あるに違ひないと思ひます。何卒語って聞かせて下さい。」
 
 西田哲学は、生身の熱い欲望を霊に一致させ、哲学たらしめたい倉田の期待に応えるものではなかったのだった。以後倉田の生活は荒み、酒に浸り、学校を休み、霊肉の一致を求めて、紅灯にむなしく女を探す日々を過ごした。そんな折り、妹の同級生の女性と出会って急速に親しくなり、倉田は救われた。
 また、その頃『校友会雑誌』の編集委員になった倉田は、就任の辞を掲載して、その冒頭に次のような文を書いた。
 
 「我等は何よりもさきに獣でなければならない。原始の野を徘徊する獣でなければならない。うなりの空と冷めたき大地との間に生まれ出で、太陽を仰ぎ、霧を吸ひ、黒土を踏みて生きる Naturkind でなければならない。我等は複雑なる文明の様式が迫まる一切の“技巧”を斥けて、“自然”のままなる命が生きたい。」
 
 倉田のこの文章は不穏当であるとして校内で問題になり、一高自治会の間で鉄拳制裁の論さえ出たと言われる。学校当局側も、次号の同雑誌に謝罪文を掲載した。
 このような事件があっても自然児であろうとする倉田だったが、学校の欠席の多かった彼は落第した。また恋人は去って行った。さらに結核に罹患していることが判明した。こうして失意の倉田は、一高を退学して郷里に帰って行った。
 

♥      ♥      ♥

 
 退学、失恋、結核の発病という三重苦を抱いて、自宅の近くの一軒家に籠もって療養を始めた倉田の心は次第にキリスト教に接近し、町の教会に通うようになった。庄原には、彼の幼児期からキリスト教アライアンス派の教会があって、子ども心に親しみを覚えていた。一高時代の校長は新渡戸稲三で、学校にキリスト教的な校風が漂っていた。倉田は安易な信仰を批判したが、当時から内心にはキリスト教への畏敬の念を宿していた。自然児としての本能的な愛の挫折を経験して、意識的、努力的なキリスト教の愛を真の愛と信じるに至った。キリスト教徒であり看護婦であるお絹さんに会ったのは、この時期のことである。二人で讃美歌を歌い、祈祷をして、愛を深めていったが、ここで神への信仰と性愛との葛藤に悩むことになった。
 
 この頃、倉田は綱島梁川の著作を通じて西田天香の存在を知った。倉田は当初西田をクリスチャンと考えたようだが、ともあれ宗教的な体験を求めて、大正4年末より京都の一灯園に入ったのだった。一灯園は、私有財産は認められず、自己を捨て、托鉢と労働をして他者に奉仕して生活をする共同体であった。倉田は熱心に労働に勤しんだ。しかし、物心ともにすべてを捨てる生活は、倉田における性や美の欲求には遠過ぎて、数カ月で彼は園を去らざるを得なかった。自己を殺す自力が求められる一灯園に代わって、倉田には他力が必要であった。
 
 一灯園に入る前後に、彼は、大須賀秀道の『歎異鈔真髄』や清沢満之の『歎異抄講話』を読んでいた。こうして親鸞への関心を深めた倉田は、『出家とその弟子』を執筆した。
 しかしながら、倉田は真宗の思想の核心を未だ自分のものにしたわけではなく、また作品の上に真宗思想の正確な表現をしたわけでもなかった。この作品は、自身が抱えていた愛や病や救いの問題を前にして、自己救済のために書いた創作であり、その頃象徴的な意味で彼が言った「心の中に寺を建てる」作業の試みであった。親鸞の悩みを人間的なものとして描き、さらにキリスト教思想を重ね合わせた奔放な創作は、読者を魅了するとともに、真宗の側からの批判を招いた。作中の親鸞に「運命を受け取ろう」と言わせているところに、絶対他力への契機は読み取れず、煩悩と自力にとらわれている作者の姿勢が露出している。
 亀井勝一郎氏は、作者の倉田は自己の信仰の不徹底を責めているのであり、特定の宗派に属さずに独特の宗教的遍歴を試みたのであるという評し方をして、倉田を受け入れている。
 倉田の宗教的遍歴は女性遍歴と交錯して、なおも続く。
 
<文献>

  • 鈴木範久 : 同前
  • 倉田百三 : 『生きんとて』1956、角川書店
  • 中西清三 : 『倉田百三の生涯』1977、春秋社
  • 安部大悟 : 『生は流星の如く 倉田百三について』1959、法象文化研究所
  • 亀井勝一郎 : 『倉田百三』1956、現代文芸社

 

(Ⅵ)に続く                                        

 



森田療法における自力と他力(Ⅳ)―倉田百三の天国と地獄(1)―

2019/12/07

『出家とその弟子』第三幕第一場。
(『日本戯曲全集』第44巻、春陽堂、1929)


 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 

承前

 
8. 森田療法と真宗―森田正馬と倉田百三の関係に見る―
 森田療法と禅の関係についてはここで言うまでもないが、森田が親鸞を幾度も引用している通り、森田療法は真宗にも親和性がある。しかし、森田正馬と真宗との出会いの事情や、真宗が森田療法に取り入れられた経緯は、厳密に言うと不明で、不思議な点が残されている。それが判然としていないこと自体に不可解さがある。そのため、森田療法と真宗の関係について、著者または報告者が両分野に通じている人であることを条件として、資料を探索したけれども、それを満たす本格的な文献らしきものは、ほとんど見当たらなかった。
 
 尤も、森田療法が成立した大正期の文化的背景を視野に入れれば、両者が近くなった関係をある程度推測することは可能である。世はあたかも大正の親鸞ブームであった。そしてそのブームの中心にあったのは、「親鸞もの」に代表される大正宗教小説の流行であった。親鸞という聖人の心の中に棲む凡夫としての人間的な煩悩と葛藤を描いた文学が、デモクラシーに目覚めた教養者層の人たちに広く受け入れられたのである。
 この「親鸞もの」として最初に登場したのが、ほかならぬ大正6年に出版された倉田百三の『出家とその弟子』(戯曲)であった。引き続いて、石丸梧平の『人間親鸞』などが出たけれども、『出家とその弟子』は他の追随を許さず、倉田百三は一躍時代の寵児となった。この戯曲は昭和8年の京都大丸劇場での初演を皮切りに、あちこちで上演された。
 読む戯曲としてのこの作品は、何カ国語にも訳されて海外でも愛読者を得た。スイスから、ロマン・ロランは倉田に絶賛の手紙を送り、洋の東西を隔てても、原罪への自覚や大いなるものへの帰依は、キリスト教と仏教に通じ合うものであるという見解を示して、倉田に共感を伝えた。そのロマン・ロランは、宗教的感情を「大洋感情(le sentiment océanique)」と称して肯定的に捉えていて、そこには、他力、あるいは甘えにも通じるものがあった。この「太洋感情」は、自我を重視する立場にあるフロイトから、発達的に未熟なものとして批判され、両者が相容れなかったエピソードがある。ここに提起される自我と宗教感情の融合の問題は、それを持て余した倉田が『出家とその弟子』たちに悩みを預けた課題でもあった。そして登場者たちは読者に答えを委ねるという、たらい回しの作品であった。
 それを見抜くかのように、国内の文壇の一部からは、聖者にもある性欲の悩みを盛って宗教のレッテルを貼ったものに過ぎないと貶されたが、それにしてもこの作品は、大正期の人心に感銘を与えたのであり、倉田自身、時代精神の中で煩悶する青年を象徴する作家としての評価を得たと言えよう。倉田は実に大正の親鸞ブームの火付け役だったのである。
 


ロマン・ロラン


 
 かくして一躍有名人となり、若くして天国を経験した倉田百三が、やがて「神経質者の天国」に陥って、森田のもとを受診したのは昭和2年である。出世作を出して10年後のことであった。
 ところで、森田の著作を見ると、昭和2年の倉田との出会い以前には、真宗への言及らしきものはほとんどなく、倉田の来院を契機に真宗や親鸞を語り出している。森田は治療者として倉田を指導しながら、倉田に触発されて真宗への関心を深めていったと言えそうである。ただこの場合、倉田は思想的遍歴をしている途上の人であり、森田が接したのは、主に強迫観念に悩む時期の倉田なのであった。その後も倉田が形外会に参ずることはあり、自分が「はからい」の業を経た体験などを語っていた。
 
 しかし昭和11年の第62回形外会に参席した倉田は、変貌した自身の内面をのぞかせた。彼は自分の信ずるところがあって政治運動をやっていると言い、「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏で切って行く」というのはよい言葉である、と述べている。これを受けて森田は、倉田の著書の中に「『念仏申さるるようにやればよい。いやしくも念仏を申し得るならば、共産党のテロでも・ファッショでも構わぬ』という事がある。非常に感心しました」と応じている。実際に、この時期の倉田は、右翼活動に関わり出していたのであった。
 
 われわれは、森田療法と真宗の関係については、このような倉田と森田の間の、重大にして喜劇的な掛け合いから離れて、別の角度から見直さねばなるまい。倉田だけでなく、真宗の優れた学者や僧侶の識見にも照らして、森田は真宗を療法に生かしうる可能性を確かめる必要があった。もしそのような手順が不足していたのなら、大変遺憾なことであったと言わざるを得ない。
 
< 文献 >

  • 倉田百三 : 出家とその弟子. 角川書店、1961
  • フロイト(中山元 訳) : 幻想の未来/文化への不満. 光文社、2007

以下(Ⅴ)に続く