三聖病院の「5番の部屋」の思い出

2016/01/09

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 「時人を待たず」と言う。一年前に閉じられた三聖病院は、既に影も形もないが、代わって駐車場と化したその場では、駐車時間を計るコインパーキングのメーターが時を刻んでいる。病院が閉じられて暦は確実に一年を経たのである。とは言え、一部の人々の、少なくとも自分の脳内の記憶は、その不可思議な病院の上をさまよっている。
 この異次元の病院に長い年月にわたって勤務した職員は少数で、医師を含め、自ら中途で辞めていった人たちは多い。一年前の閉院時の、病院最後のお別れ会では、勤務歴の浅い平成の顔ぶればかりが並んでいた。18歳から勤務していた受付のおねえさんは、いつの間にかアラサーになっていたし、過去の精神科の勤務経験は不足で、年齢に不足はなくて中途就職でやってきた看護師さんたちは、言葉は悪いが沈殿したままで最後を迎えたのだったが、みんな平成組である。だから、ほんの一部の院長の側近を除いては、もはや病院の歴史とは無縁の人たちばかりであった。いつ潰れるかわからない予兆を感じながら、惰性のように閉院まで居残った人たちの最後の集いは、言わば、ばば抜きのゲームの敗者の会であった。その人たちは、会が終わると、そそくさと姿を消した。その余韻のなさに、一層虚しさを覚えずにいられなかった。
それは昨日のことのようである。脳内の記憶は、針のない脳内時計に左右されているようで、時計の時間の経過と共に流れてはいない。この一年間、脳内時計が止まり、記憶が移り変わっていない。そのオブセッションを追い出すために、少し書いておく。

 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 

 自分は昭和40年代の終わり頃、この不思議な病院の近くの某病院に勤務していた。近いという縁で、当直勤務に呼ばれることになった。世の中、人生、すべて縁で動いている。森田療法とやらに、まったくもって─、全然─、毫も─、関心を有さなかった自分が、当直を引き受けることになった。夜間当直と心得て、夕方病院へ赴くと、昼間の院長の外来患者が、まだぞろぞろと待合室に溜まっていて、外来診療の続きを引き受ける羽目になった。いかにも禅的で、生死(しょうじ)二つなしの病院だと後にわかっていくのだが、まずは昼夜の二つの区別がない病院だと知ったのだった。夜が更けても外来が終わらず、ずっと待ち続けていた初診の患者さんが、「終電に間に合いませんので」と言って帰っていくこともあった。
 やがて昼間の外来診療も担当するようになり、また入院のおこぼれの診察もした。そして海外留学を挟んで、かれこれ40年、その大半は大学に奉職し、某企業の嘱託もし、それらと並行しての勤務だった。大学での学生の教育と企業でのメンタルヘルスケアに、森田療法の病院との連携を生かすことができたのは、有り難かった。病院では非常勤にて、肩身が狭かったけれど、非常勤でなければ40年間、閉院まで勤め抜くことはできなかったろうし、また年期が入ると、病院への思い入れが深まり、診療や運営のしかたが心配でならなかった。思い余っていくつかの進言をしたこともある。しかし動かし難い現実の壁もあり、実りにはつながらなかった。
 自分は単に「関与しながらの観察者」を気取っていたのではない。責任者としての役割を継承すべきか、迷い続けていた。けれど、現実検討を含む諸般は、自分をその方向へと押さなかったのである。そんな過去を振り返ると、やるせなくなる。
 オブセッションは続く。そこで一臨床医として経験した思い出の端々も次に書きとめてみる。

 
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 入院治療については、事実上院長だけが主治医であったので、原法の入院生活にうまく適応できずに、アクト・アウトやドロップ・アウトしそうな人たちをケアするという、脇役的なことをした。外来診療は、自分独自にやっていた。長い歳月が経つので、多くの人たちを診療したわけだけれど、忘れてしまった人たちの方が多い。忘却と記憶の分かれ目はどこにあるのだろう。多分それは、相手と、私自身と、三聖病院という場との三つの要因が絡み合っているのだろうと思う。
 小さな病院なので、院長は院長室を兼ねる第一診察室で診察をしていた。院長以外の治療者は、曜日を分けて勤務し、第二診察室で診察していた。この第二診の部屋は畳部屋で、来客が訪れたときの応接間でもあったが、普段は診察に使用して、患者さんは床の間を背に来客が座る椅子席に座ってもらっていた。患者さんを賓客として遇していたのである。だが、それを理解する人は少なかった。スリッパを脱がずに畳の上に踏み込んでくる人、コートを脱がず、あるいは帽子を被ったままで座る人、テーブルに頬杖をつく人、テーブルの上に大きなカバンを置く人、カルテを覗き込んで記載に指図をする人、携帯電話をマナーモードにもしていず、電話が鳴ったら診察中に相手としゃべる人、容易に逆ギレする人、等々、態度だけでも人さまざまであった。実はおごそかな応接間なのだが、たたずまいは古くて質素なので、その畳部屋に入ると、病院らしくないその雰囲気に緊張がほどけて、人間の本性があらわになりやすかった。
 この部屋には、「第二診察室」と記された札が掛かってはいたが、「5」と書いた札も掛けられていた。この外来棟には、事務室や看護詰所や治療室や第一診察室などが並んでいたのだが、それぞれの室名とは別に、なぜか通し番号が付されて、入院患者さんが作ったらしい番号札が掛けられていたのである。通し番号の必要性については、私は最後まで分からなかった。数字にこだわる強迫的な人がしたとしか思えない。
 第二診で外来の診察をするとき、受付のおねえさんは、待合室の方向に向かって、「〇〇さぁーん、5番の部屋に入ってくださーい」と大声で叫ぶ。受付付近で待っていると顔がさすから、待合室の死角に隠れて座っている人もいるので、大声で叫ばないと聞こえないのである。おかげで、その名前は周囲に知れ渡る。名を呼ばれた〇〇さんは、5番の部屋を探し、5と彫られた幼稚園児向けのような木札の方が、第二診察室と明示された札より優位にあるのだという認知を働かせて、部屋に入ってくる。ここまでに既にそんなトンチキがあるので、入室時に脱いだスリッパを廊下に揃えず、跳ね飛ばすように放っていることが多い。禅寺を模した造りになっていて、緊張感を持って粛々と行動をするべき場なのに、外来患者はむしろ退行しやすい流れになっていた。だから、精神分析の視点から言うと、外来の導入部では患者さんの抵抗が起こりにくい場であった。そんな場では、患者さんは素直に自分を見せてくれる。そこでのさまざま人たちとの出会いを思い出す。

 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 

 両親がいず、孤独で自殺願望を持ちながら、「よさこい」の踊りのグループに入っていたある若い女性が、リーダーに連れられて来たことがあった。彼女は「こんな畳の部屋に入ると落ち着く」と言って泣いた。畳部屋は、アットホームな場でもあった。
 三聖病院の地理的環境は、京都駅の南東にあたり、周囲は下町が多い。外来には地域の方々が割合多く通院していて、私はそんな方々と比較的うまが合った。理屈っぽい人には、理屈で返さない治療をするのに工夫を要するが、庶民的な方々は理屈を言わないので、私も素で接することができた。南條幸弘先生が『神経質礼賛』のブログに「半不問」ということを書いておられたが、私は確かにそれが多い。在日の方々が私の外来に気安く通院してくれた。言うまでもなく、この人たちは被差別の歴史を背負っている。深い問題は話題以前の「あうん」である。症状の辛さは聴いた。主な話は日常のことや世間話であった。だがあるとき、それはオリンピックが開催されているときだったが、「うつ」の、ある北朝鮮二世の一人暮らしの高齢女性が、会話の中で、「なんで国同士が試合をせなあかんのやろ」と呟いた。私は答えを失った。この人の中に流れている深くて暗い川が垣間見えた。
 やはり在日で、統合失調症の三十代の女性の外来患者さんがいた。この病院では統合失調症の治療に十分なことを尽くせないので、自分はそのような患者さんの初診受け入れを控えていた。私の外来に来ていた統合失調症者は、院長の外来から溢れて、私の外来に流れてきて、いつしか定着した人たちである。三十代だがアラフォーのその在日女性もそうだった。家業のキムチの製造を手伝っていたが、異常が目立ち、仕事もできなくなっていた。来るたびに彼女は支離滅裂な言葉で、アラン・ドロンのことばかり言った。アラン・ドロンに似た外人に誘われたとも言う。悲しい女性のさがが伝わってきた。他の精神科機関への受診を一切拒み、三聖病院だけにこだわって長年通院を続けていた。私の外来に来るようになって歳月は浅かったが、増悪が限界へ来ていた。母親の希望もあり、他の精神科病院に入院させることになった。統合失調症の人は、なぜか三聖病院を本能的に好む。本院での統合失調症の診療に対する慎重派の私だったが、しかし三聖病院に愛着してくれる人を、精神病院送りにするのはつらいものがあった。最後の別れの日に、母と娘が一緒に小さな鉢植えの勿忘草をくれた。古い話だが、アラン・ドロンにひとりで熱を上げていた人のことを記憶している。
 思い出を探れば、あの人、この人、忘却の淵に沈んでいない人たちが次次と浮かぶ。苦い記憶を、あと少しだけ記しておこう。
 ある初診の女性が夫に伴われて、私の外来に来た。夫が口を切り、妻は「うつ」だから入院させてほしいと言った。妻なる人は確かに「うつ」で、茫然と沈んでいた。夫はある聖職者で、その聖職上関わりのある業種の女性と親密な間柄になっておられた。このような人間関係の中にある妻の立場の人を、単に患者として入院させることには問題がある。三聖病院なら入院させてくれると踏んで来たようだった。だが私は、外来でのカウンセリング的対応ならさせて頂くと言って、入院を断った。夫は私をただならぬ表情で睨みつけた。その後、夫妻は二度と現れることはなかった。家族的な問題が、その中のひとりの成員の病理に置換されて、その人を隔離するために病院を利用しようとされることがある。家族内の問題に、医者の側からどこまで立ち入るべきかは難しい問題である。

 

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 「5番の部屋」で私は、入院中に精神的に危機に遭遇していて、カウンセリング的に対応する必要のある人たちのために、院内外来のようなこともしていた。そこで出会ったのは、不問を根底に据える禅的森田(宇佐)療法では救済されない人たちであった。その中に、寡症状的な統合失調症で、自殺衝動に襲われる、ある青年がいた。放っておけず定期的に面接を繰り返した。だが私の面接は彼の心の緊急に対応できなかった。ある夜、彼は病院を出て、近くのビルの上から身を投げた。気立てのよい青年であった。忘れられないあの人、この人がいるが、5番の部屋への来室者で、とりわけ忘れ難いのは彼のことである。自殺は、禅的森田療法にとっての課題であった。これは単なる回想ではなく、未だに振り返らねばならない問題のひとつである。
 5番の部屋の思い出を中心に、三聖病院にまつわる感慨深い記憶の一部をここに記した。

 
 

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「5番の部屋」(第二診察室)は、廊下の中ほどの向かって右側にあった。
 
 

謹賀新年

2016/01/04

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           謹 賀 新 年

 
     本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 
                                        京都森田療法研究所
                                         主宰者  岡本重慶
                                         研究員  一同
                                         協力者  一同
 
      ご 挨 拶
 
 一昨年の国際学会開催を受けて、昨年はそのフォローのやり取りをし、学会発表者らの原稿を編集し、雑誌 PSYCAUSE の日本特集号刊行へ向けての準備をしました(雑誌は本年の第1号として刊行されます)。国際的な協力の作業は、互いの文化的背景や目的や立場が必ずしも一致しないので、摩擦を体験しました。その中で折り合いを見つけていく、ということを学んでいます。
 昨年はまた、本も刊行しました。数年分の年報に代わるものという趣旨を込めたものです。
 当研究所の活動と別に、昨年の年頭、三聖病院の閉院を受けて、失われてしまう病院の記念品を守るための自主活動として、病院の隣地のマンションに「三聖病院記念品保存室」を設けました。一年間維持しましたが、自分たちだけでこれを続けることは、残念ながら困難な事態となりました。
 また、研究所の、ローカルな活動として、研究会(勉強会)に準ずる交流は、必要に応じて随時おこなってきました。公表をして定期的に開催することを以前に試みましたが、参加の動機として、事実上診療やカウンセリング的な援助を求める向きが多く、課題に遭遇したのでした。そのため、一部の方々と自由な研究交流をしていました。今後改めて公的に研究会を再開することについては、課題として検討しているところです。ご意見などお寄せ頂けましたら幸いです。

三聖みやこパーキングへようこそ。

2015/12/31

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 有料パーキング、観光トイレはこちら。
 隣の花屋さんは健在。

 
 
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 三聖みやこパーキングへ、ようこそ。

 
 

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 コインパーキングの旗が立ち並ぶ。
 後方に見えるのは、万寿禅寺。

 
 

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 出口に立つ旗。またのご利用を。

 
 

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 右手には、元院長のお宅が見える。

 
 

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 スペース・レアの3Fから見た「三聖みやこパーキング」。

 
 

「三聖病院記念品保存室(スペース・レア)」まもなく閉室につき

2015/12/31

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 三聖温泉露天風呂に男性入浴中。

 
 

 三聖病院が昨年末に診療を閉じて、一年が経ちました。閉院にあたっては、森田療法史上に残る病院の様々な記念品や重要資料の保存を図るという課題に直面しました。建物の解体が迫るまでに、重要な物をまとめて保存する記念館を用意する必要があったのです。しかしカウントダウンへ向けての混乱の中、記念品保存事業はおこなわれる気配はありませんでした。そのため私は大切な物の保存を図ることを提案しましたが、対策は講じられません。見かねた私は、とるものもとりあえず、病院に隣接する賃貸マンションにあった空室を自費で借り上げて、記念品の仮の受け皿にする案を出しました。そして、院長の賛意により、マンション(スペース・レア)の賃貸に踏み切りました。しかし、結局、院長が取られたのは「平等施一切」とも言うべき方向でした。最後に残されたごみの山の中から、保存すべき品々を拾い出し、「スペース・レア」に運んで預かりました。むなしく、かつ必要なこの自主的行動には、病院の元事務職員の藤岡様が、物品の搬入や管理、そして経費の一部負担もして下さったのです。
 そして一年が経ちました。物事には限界があります。「三聖病院記念品保存室(スペース・レア)」を、一年間私たちが維持していたことを知っている人は少ないでしょう。一周年をもって、この記念室は閉じざるを得ません。
 
 病院の浴室の入り口には、入浴を知らせる手作りの表示板が置かれていました。入院した方々には懐かしい物のひとつでしょう。その種の物も保存していたのです。
 名残惜しい三聖温泉は一年前になくなって、入浴を知らせる必要のなくなった木の表示板だけ、保存していました。

 
 

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 三聖温泉露天風呂に女性入浴中。

 
 

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 準備中だが、待っていてももう入れません。

 
 

森田療法って、何ながよ?─日本精神障害者リハビリテーション学会(高知)にて─

2015/12/07

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懇親会の舞台上に現れた坂本龍馬と二人の女性。
懇親会には200人以上の参加者があり、札止めになっていた。

 
 
 

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 12月3日から5日まで、高知市で開催された第23回日本精神障害者リハビリテーション学会に参加しました。当事者や家族の方々や市民の方々も含み、様々な分野にわたる多数の人たちが全国から高知に参集されました。参加者数は約700人ほどだったそうです。精神科領域で高知と言えば、森田正馬の出身地。有り難いご縁で、森田正馬と森田療法についての講演をする機会を頂いたのでした。ただ、この学会で森田療法をどのように語ればよいのか、直前までずっと考えこんでいました。そんな自分の出番の前日、あるシンポジウムがおこなわれたのです。「生のかたち~病院で、地域で~(地域移行って何ながよ?)」というテーマだったかと思います。その会場でのご発表を聴いたのですが、発想し実践なさっているその内容は森田療法と同じであると感じました。有り難い体験でした。わが意を得たり、と思いました。私は日頃身についた自分の森田療法と森田療法観を自由に述べさせてもらえばよいことに気づいたのです。
 前日のそのシンポジウムのサブタイトルにあった土佐弁での言い方に倣って、「森田療法って何ながよ?」と問われるならば、森田療法とは、自由に生きることにほかなりません。
「森田療法って何ながよ?」
「自由に生きることながよ」。
 そんな話をさせて頂いたのでした。
 この学会では、高知の方々のお世話になり、また北は北海道から南は沖縄までの先生方とお会いすることができました。皆様に感謝しています。
 
付記)
 「森田正馬生家保存を願う会」の事務局長、森田敬子様や、倉敷のすばるクリニックの伊丹先生と筒井様も会場においで下さいました。
 そして翌日は野市町での「心の健康セミナー」に出席し、帰路につきました。
 
 
 

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「よさこい」のチームも登場。(以下の画像も)。
 

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森田正馬生家の訪問

2015/10/31

表紙

 
 

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 これまでたびたび機会を逸してきましたが、ようやく森田正馬の生家を訪問しました。倉敷での日本森田療法学会の開催終了の翌日の10月17日のことでした。この日は地元の方々が集まって、生家の屋内外の清掃が行われていました。
 生家は89年に旧香美郡野市町に買い取られ、不登校の子どもたちのための「森田村塾」が開かれていましたが、市町村合併で香南市が管理を引き継ぎました。しかし建物の老朽化が進み、解体も一時は視野に入れられ、保存が危ぶまれるまでになっていました。そのため本年、「森田正馬生家保存を願う会」が発足したのです。
 自分も入会したのと、もうひとつは、来る12月初旬に高知市で開催される日本精神障害者リハビリテーション学会で、ご当地出身の森田正馬と森田療法の成立について、話をするようご指名を頂いているので、その前に生家は是非見学しておきたくて、急遽訪問したのです。生家は、管理している香南市により平素は施錠されているそうですが、10月17日は清掃のため屋内も開放されていて、屋内にも入って見せて頂くことができました。森田正馬のご親族で、「保存を願う会」の事務局長を担当なさっている森田敬子様にも、お会いすることができました。正馬先生にどこか面影が似ておられるので、驚きました。

 
 
 
 
 
 

清掃中。剪定された植木の枝や、引かれた雑草がうず高く積まれている。背後に見えるのが、古い生家そのままの建物である。
清掃中。剪定された植木の枝や、引かれた雑草がうず高く積まれている。背後に見えるのが、古い生家そのままの建物である。

 
 
 
 
 
 

建物の右半分は、改築された部分である。
建物の右半分は、改築された部分である。

 
 
 
 
 
 

お庭
お庭。

 
 
 
 
 
 

高知大学医学部看護学科教授のO様と高知県精神保健福祉センター社会福祉士のF様のお二人と合流して一緒に訪問した。屋内で話しておられる森田敬子様(左)とお二人。
高知大学医学部看護学科教授のO様と高知県精神保健福祉センター社会福祉士のF様のお二人と合流して一緒に訪問した。
屋内で話しておられる森田敬子様(左)とお二人。

 
 
 
 
 
 
 
 

最近新たに造り直された森田家の墓所に向かう。
最近新たに造り直された森田家の墓所に向かう。

 
 
 
 
 
 
 
 

森田正馬の墓。
森田正馬の墓。

 
 
 
 
 
 
 
 

森田正馬の墓石の、向かって左側面から始まって、背面、向かって右側面へと、長文の経歴が墓碑銘として細かく彫り込まれている。まず、この画像は、向かって左側面の写真である。画像を拡大すると、ある程度その文字を読むことができる。

森田正馬の墓石の、向かって左側面から始まって、背面、向かって右側面へと、長文の経歴が墓碑銘として細かく彫り込まれている。まず、この画像は、向かって左側面の写真である。画像を拡大すると、ある程度その文字を読むことができる。

 
 
 
 
 
 
 
 

墓石の背面。向かって左側面の文章の続きが彫り込まれている。

墓石の背面。向かって左側面の文章の続きが彫り込まれている。

 
 
 
 
 
 
 
 

墓石の向かって右の側面。背面の文章の続きが彫られており、最後に「医学博士 高良武久 謹誌」とあるので、高良先生がお書きになった森田の経歴文なのであろう。

墓石の向かって右の側面。背面の文章の続きが彫られており、最後に「医学博士 高良武久 謹誌」とあるので、高良先生がお書きになった森田の経歴文なのであろう。
 
 

森田療法 「サ・エ・ラ」~(1)2チャンネルの話~

2015/10/12

 あれやこれや、森田療法にまつわることについて、書きとめます。話は、あちこち(cà et là)に及びます。
 
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
 

(1)森田療法についての2チャンネルの記事について
 

 私は、森田療法について書き込まれている「2チャンネル」の記事をたまたま読む機会がありました。2チャンネル、あなどるなかれ。様々な記事が出ていますが、森田療法をどう消化してどう生きればよいのかについての模索や、自身の経験から掴んだ森田療法観の開示や、森田療法家たちのスタンスの違いへの困惑と疑問などについての発言があふれています。管理の仕方にもよるのでしょうが、2チャンネルを全体として見ると、匿名の立場から他者への無責任な中傷が書き込まれていることが少なくないことは周知で、私もこれまでは2チャンネルを無視して、読もうとはしませんでした。しかし、森田療法についての書き込みをなさる方々は、動機はどうあれ森田療法について真剣に考えたことがある人たちを母集団としているようで、ひやかしではなく、概して深く高次のやりとりが交わされています。全部を読んだわけではありませんが、「ああ、なるほど、こういう発言や討論がされているのか」とわかり、参考になりました。
 建て前論を言えば、森田療法は言葉で論じ合うものではありません。論じている暇があったら、(なすべきことをなす、というような杓子定規を言うような野暮なことはやめるとしても)、まあ何でもいいから、することあるでしょう、となるのです。実際2チャンネルに参加しないで、自分の生活にいそしんでいる人たちが圧倒的に多い筈です(リア充?)。だから2チャンネルは、なくてもがなだけれど、でもそれは治療理論と実生活のあわいの中間領域として、ネット上で機能しています。ネット上の多少理屈っぽいアノニマスな自助グループの面もあるようですが、森田療法の今日的事情がこのようなチャンネルを生んだことは否めません。
 森田療法の原法においては、症状を訴えたり、治療法を論じたりする言語的交流は禁じられ、「不問」に付されました。私は三聖病院に関わってきましたが、「不問」はこの病院において、とくに顕著な特色になっていました。入院生活においては、治療者は修養生(入院患者さん)の訴えを聴かないのみならず、修養生同士も、症状や治療について話を交わすことは禁じられていました。院内には「しゃべる人は治りません」、「話しかける人には答えないのが親切」などと墨書された紙が掲示されていました。ある若者はこれを強迫的に守って、退院後、家でも緘黙的になり誰ともしゃべらなくなったので親が困ったというような笑えないエピソードもありました。修養生の人たちは、職員のいない場では、自分たち同士でおしゃべりはしていました。それが「とらわれ」を増強させることもあれば、他の修養生の体験から出た一言が、大きなヒントになることもあるようでした。規律は守るべきですが、強迫的になる必要もありません。臨機応変でよいのですね。
 もちろん、理屈をこねまわすことは治療的に不毛であるという意味では、「不問」が大切です。そして森田療法の根本的な本質のところは理屈抜きに重要です。そこのところを森田は「事実唯真」と教えました。それ以上はああだこうだと論じ過ぎてもむなしいわけです。とは言え、不条理にあるがままに向き合う森田療法という厳しい療法について、迷ったり、智恵を深めたりしてしている人たちにとって、ネットというしゃべり場があり、それがネット上であるがゆえに流動的で自浄作用を伴う集団として機能しているのは面白いと思いました。
 いずれにせよ、古い森田療法家も、若手森田療法研究者も、当事者も、人間みんなストレイ・シープ です。今日頭でわかった理屈は、明日吹っ飛んでしまうかもしれません。森田療法を論じても、どうにもならないことは多いようで。
 2チャンネルあなどるなかれ。しかし人生端倪すべからず。
 
 
「いのち短し恋せよ乙女
 紅き唇褪せぬ間に
 熱き血潮の冷えぬ間に
 明日の月日はないものを」(『ゴンドラの唄』)
注)旧世代向け。
 黒澤明監督の映画『生きる』で、癌で死を控えた主人公が口ずさんだ歌。
 主人公は、絶望と自棄を乗り越えて最後まで生き抜いた。
 
 
「生死事大 無常迅速
 光陰可惜 時不待人」
注)禅オタク向け。説明不要。
 
 (1)だけでは、「サ・エ・ラ」になりません。(2)は次回に。

森田療法と禅(私が三聖病院で迷ったこと)

2015/10/05

 最近ブログが途切れがちになっていました。以前の「旧ブログ」では、オリジナルな論文とまではいかなくても、堅苦しい文章を一生懸命に書いて掲載していました。現在は、ささやかな規模ながら、研究所のより良い活動の仕方を考え直しているところです。ホームページについては、昨年その管理会社が変わり、「new blog」になったのを機に、以後ブログ欄には、小論文を出すのではなく、必要な記事を自由に出す方針にしています。その水面下では様々な模索を続けています。昨年は京都で国際学会の開催を引き受けるという大仕事を経験しましたが、そこから派生した交流があり、それをどう生かすかという課題も抱えています。
 一方で、昨年末には三聖病院が閉院になるという、大きな出来事がありました。これは年末に単に診療を閉じたということにとどまりません。貴重な資料の保存の仕方などの重大な問題に直面しましたし、年が明けてからは、由緒ある病院の建物が解体されていくのを感慨深く見守り続けることになったのでした。
 院長はじめ関係者にとって、三聖病院の「喪の仕事」はまだ終わっていないと思います。
 私自身としても、三聖病院との長かった関わりを顧みて、複雑な思いが去来し、「喪の仕事」も「総括」も終わっていません。非常勤での関わりでしたが、三聖病院とのご縁をきっかけに、人生の後半は森田療法と共に歩みました。だから冷ややかに森田療法評論家を気取っているつもりはありません。でも病院には病院の、森田療法には森田療法の、社会的責任があると思います(それは勿論三聖病院だけに限ったことではありません)。そのような視点から、経験を通して心の底から湧いてくることについては、常識的に許容される範囲内で、慎重にものを言う責任はあるだろうと思っています。

 さて、なんだか難しいことを書いたあとで、次に砕けたことを言うのはどうかと思いますが、私の手元には最近書いたちょっとした砕けた雑文があります。
 私は、三聖病院の森田療法を通して禅に触れ、禅について、心中右往左往し、悩まざるを得なくなったのでした。そこでついに三聖病院の外の禅にも接してみたくなり、花園大学教授(現 花園大学禅文化研究所所長)の西村惠信先生の教えを乞いました。現在も禅文化研究所での勉強会に参加させてもらっています。ところが西村先生は先般、参加者の人たちはなぜここへ集うようになったのか、それぞれの理由がある筈だから、文章に書けとのたまいました。集められた原稿は文集として、私家本になります。
 私には私の理由がありました。勿論それは三聖病院で禅を学んで、そして直面した迷いに関係します。
 数ヶ月後に出来上がるであろう私家本は、諸賢の目には触れません。また近日、倉敷での学会では、三聖病院の歴史的意義について発表させて頂きますけれど、歴史的位置づけについての短い発表になる筈で、私個人の体験を発表するものではありません。私家本向けの拙稿は個人的体験の側から、書きました。雑文として、カリカチュアライズして書きましたので、そこが不謹慎ですし、私家本の刊行より先行掲載するのもアンフェアかも知れないのですが、この時期にお読み頂ければと思い、期間限定で出しておきます。
 カリカチュアライズしたのは、私自身にとって内容が重過ぎたからです。関係各位に失礼になった点はお詫びしなければなりません。(1ヶ月間で削除予定)。

 

 

 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

(さらに…)

西村惠信先生が出演なさった仏教バラエティー番組について―森田療法の視点から―

2015/08/22


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西村惠信先生を囲んでの本年の新年会の写真(部分)。

 

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1.終了後の「まえせつ」
 前に案内しましたように、NHK総合テレビで『ギヤーテーギヤーテー・煩悩ショップ108』という仏教バラエティー番組が先般放映されました。NHKから請われて、花園大学禅文化研究所所長、西村惠信先生がこの番組に出演なさいました。西村先生は豪放磊落、こだわらずに清濁併せ呑まれるお方です。番組の企画上の制約があることとて、ご発言は限られるにせよ、テレビ画面から伝わる西村先生のお人柄を感じ取って頂くとよいと思って、番組の案内をしました。出演なさった西村先生ご自身、8月15日深夜に放映されたこの番組をご自宅で視聴されて、出来上がったその全編を、おそらく始めてご覧になったのではないかと思います。番組へのご自身の感想はまだ伺っていませんが、視聴者のひとりとしての私の感想を漏らします。
 私たちが毎週通っている禅を学ぶ会で、西村先生はおっしゃっていたのでした。NHKのディレクターが、自坊まで出演の依頼にやってきて、こんなことを言った。数多く著された難しい禅学の書物に加えて、ハウツウ本とも言えるような育児の本(注)もお出しになって、その中で実際に則して、人の心の琴線に触れるようなことを平易にお書きになっているので、出演をお願いするのはこの方だと思った、と言った。引き受けたら、衣を着るか作務衣を着るか、何色を着るかまで、何度も細かい打ち合わせがあった。AKBとか言う頭を丸坊主にしたことのある女の子や落語家(とおっしゃっていた)が出る。小池龍之介が煩悩の相談に応じ、自分はショップのオーナーの役で、奥でモニターを見てコメントをする。渋谷の駅前の歩道橋の上で、般若心経を唱えさせられる。それが番組のラストになるらしい。
 まあ、最初はこのようなお話しだったのです。
 注)『いい子に育つ仏の言葉』小学館、2004.
 

2.馬頭観音と西村惠信先生
 さて8月15日に番組を視聴したら、店長(よゐこの濱口優さん)や店員(女優の江口のりこさん)と話しをなさる場面が早速出てきました。「無縄自縄」、「煩悩即菩提」と書きながらおっしゃった解説もさることながら、濱口さんが気楽に西村先生と交わす会話の方が愉快です。いくら演技でも、濱口さんが西村先生のお人柄に包容されて親しみを覚えなければ、こんな雰囲気の会話にはなりません。
 (AKB48についての会話):オーナー役・西村先生 「有名な人らしいけど僕は知らんね」、店長役・濱口さん 「ボーズ48はないのですか」、 西村先生(笑いながら)「ボーズ48はないね」、濱口さん「アッハッハッハハー」。
 番組の冒頭では、店長の濱口さんは、店員の江口さんに、「オーナーは怒る」と言ったり、「あの髭ええよねー」と言ったりしています。共演する中で、威厳と親しみを感じたのだろうと思われます。
 煩悩ショップの受け付けの部屋には、「馬頭観音」の図像が掲げられており、「108の煩悩を食べ尽くして、救済してくれる観音様」という説明が添えられていました。濱口さんは江口さんに、馬頭観音について説明します。「馬頭観音はね、108の煩悩を食べ尽くしてくれる。そのときに、なんでそんなに悩んでるねー、と怒りながら愛の説教をしてくれる、そんな観音様やね。そういうこと覚えていかんとオーナーに怒られるよ」。江口さん(笑いながら)「オーナーは怒るのですか」。濱口さん「怒る、怒る」。
 西村惠信先生は、馬頭観音に重ねられているのでした。
 

3.悩みに対する僧侶の説法
 仏教の面目は本来葬式仏教にあるのではなく、より良く生きるための知恵です。最近、その生きる知恵としての仏教が、一部の前衛的でユニークな僧侶の出現で、若者や市民の親しみを得るようになっている風潮があります。そのような流れでの仏教バラエティー番組でした。それにしても、予想以上にバラエティー過ぎる仏教番組で、多少辟易したのでした。
 若手の僧侶で、何冊もの著書が若い世代に読まれている小池龍之介さん。東京の新橋でボーズバーを経営しながら、そこで悩みの相談に乗っている真宗の全盲僧侶、田口弘願さん。さらに極めつけは、ネット上に動画を出してバーチャルアイドルと仏の世界を融合させて、若者に人気のカリスマ僧侶、真言宗の蝉丸Pさんです。しかし、このようなネット上のゆるキャラ僧侶の人気は、それ自体、社会現象として捉えるべき別の問題なのでしょう。
 さて「煩悩ショップ108」 では、AKB48の峯岸みなみさんの、「仲間の成功を喜べず、嫉妬心を感じる」という悩みに対して、小池龍之介さんが相談に乗ります。同じく、ダチョウ倶楽部の上島竜平さんの、「自分の芸に対する周りの評価が気になる」という悩みに、田口弘願さんが相談に乗ります。さらに、街角煩悩ボックスまでしつらえて、田口さんが街ゆく人のお悩み解決までします。芸能人や市民のそれぞれの悩みに、僧侶が仏教の視点から助言するのです。そして助言を受けた人たちは、「スッキリした」、「心が洗われた」などと言って帰って行くのでした。
 
4.森田療法から見れば
 西村惠信先生は、出演後に次のように語られたそうです。「きらびやかな舞台に立つ人間でも『個人』としての悩みを抱えているということは、華やかなこの時代であっても、個人という問題は切り離せないものだと実感した。煩悩は無尽だが、仏教の教えでそれを断ち切ることが出来ればという願いを込めた」(「NHK ONLINE」というサイトより)。
 これはおっしゃっる通りだと思います。個人の悩み、煩悩、心の病理は無尽であるからこそ、精神医学や精神療法は、それらに向き合い続けているのです。ただし向き合うにあたっては、治療者が深い知恵をもつことが必要です。そこにおいて仏教や禅などの知恵を治療に取り入れたのが森田療法です。このように悩みや煩悩への対処として、森田療法は、仏教や禅に通じるものですが、だからと言って、両者は同一だと安易に言ってしまうこともできません。今回の番組からは、むしろその違いを考えさせられました。
 煩悩の相談に乗った僧侶たちは、来談者たちに助言しています。自分の中の嫉妬をそのまま受けとめること。自己中心的に自己を追求しても、そこに本当の自分はない。周りの人がいてくれて、そのおかげで自分が作られ、自分は自分らしくなる。だから自分に対する不安はあってもそれで安心なのだ。助言の要点はざっとそんな具合です。
 このような指導を森田療法に照らして見ると、指導の内容は森田療法とまったく同じです。しかし指導のしかたは、かなり異なります。お坊さまたちの指導は、個別の相手に合わせた仏教の説法です。いわば説得療法です。あるいは、仏教的な超ブリーフサイコセラピーです。うまくポイントを突く助言をなさっているので、クライアントの方々は腑に落ちたようで、「安心した」、「スッキリ解決した」、「仏の教えて偉大やな」などとおっしゃっています。一旦はそれでよいのでしょう。でも人間の業は深く、また煩悩が心の中を占領します。
 「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」。これは有名な鈴鹿馬子唄ですが、この替え歌があります。「寺は照る照る帰りは曇る 家に着いたらどしゃ降りの雨」。心を清々しくするためにお寺に行ったのはいいものの、家に戻ったらまた煩悩の大雨に流されてしまう、というわけです。煩悩を抱えつつ生きるのが人の性で、七転八倒、七転び八起きが人生なのです。失礼ながらお坊さまの説法を聞いて、スッキリしたという解決はちょっとあやしくて、「一を聞いて十を知る」ほどの明敏な人でなければ、その場の仮の解決にしか過ぎないものになるのではないでしょうか。
 むしろ、心には簡単な解決などありません。簡単に決着しないことをみずから身をもって知るのが、本当の解決なのでしょう。お坊さまの説法による教えもさることながら、その教えをひとつの光としつつも、自分自身で見つける答えの方が貴重です。
 煩悩にとらわれながら、どんな答えがあるかはわかりませんが、暗闇の中を手探りで生きていくように導くのが、森田療法です。治療者は人生の先達として存在し、後進(患者さんやクライアントさん)を薫陶しますが、心の問題解決に何の指針も与えません。心は主人公に帰属しますし、主人公ですら、自分の心を操作することは困難なのですから。治療者は後進と生活を共にし、その中で、言葉による説法では伝え得ないものを伝えてやります。より厳密には、生き方のこつのようなものを伝えるということはできない、ということを言葉なき言葉で伝えるのです。
 森田療法は、会話をしない無言の療法だと言うのではありません。ゲラゲラ笑う場面もあってよいのです。ただ肝心なことは、言葉による説法のごとき方法ではなかなか伝えられないので、日常の生活そのものが、そのまま治療実践になるのです。治療者自身、煩悩を抱えて生きている生身の馬頭観音です。自分の煩悩と食べた煩悩で腹一杯になりながら、生活し続ける治療者を見て、患者さんの人間性は陶治されていくのです。
 森田療法はそんな療法ですから、「ギャーテーギャーテー」の番組の「煩悩ショップ108」の煩悩相談に興味津々だったけれど、違和感を覚えてしまったのでした。
 
 番組の最後に、西村先生が渋谷で般若心経を唱えて、般若心経は世の中の苦しみを断ち切る誓願だとおっしゃったのが、印象的でした。森田療法も、最後は祈りに通じるのかも知れません。

『ギャーテーギャーテー・煩悩ショップ108』(8月15日深夜、NHK総合で仏教新番組)

2015/08/14

 いつになく、NHKの放送番組のご案内をします。
 
 昨年末閉院になった三聖病院に私は長年勤務していました。そこで教えられる定番の思想は禅でした。それはよいとしても、禅における「自他不二」と異なり、三聖病院では禅と矛盾する自己意識と他者意識の二分法が、いつしか指導原理の根幹として定着してしまっていました。これは奇妙な矛盾です。このことについて私は独りで思い悩みました。思い余った私は、花園大学学長だった禅学者、西村恵信教授の教えを乞うたのでした。そして禅はやはり「己事究明」に発するものだということを教えて頂いたのでした。以来私はこの西村恵信先生(花園大学禅文化研究所現所長)に師事しています。
 
 前置きが長くなりましたが、NHKの仏教バラエティーの新番組のお知らせをするのは、この西村恵信先生が出演なさるからです。
 8月15日(土曜日)深夜(正しくは16日)の0時5分から、NHK総合テレビで、仏教バラエティーの新番組『ギャーテーギャーテー・煩悩ショップ108』が放映されます。ダチョウ倶楽部の上島竜平さんや、AKB48の峯岸みなみさんらが悩みの相談に訪れて、小池龍之介さんが相談に当たるのだそうです。西村恵信先生は、長老として番組の後半に登場されます。バラエティー的な番組なので、ディレクターの依頼に応じての出演の仕方をなさるのはやむを得ないところですが、私が視聴をお勧めするのは、画面から伝わるであろう西村恵信先生のお人柄を感じ取って頂きたいからです。
 どうぞご覧になって下さい。