「あるがまま」と接得療法―三聖病院院長・宇佐玄雄の講話―

2020/11/04


講話中の宇佐玄雄



 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
 

「あるがまま」と接得療法―三聖病院院長・宇佐玄雄の講話―


 
 先のブログ、「『あるがまま』と『真如』―森田療法の中の仏教的神秘―」(2020.10.14)の中で、宇佐玄雄の講話を紹介しました。
 しかし、そこに添えた宇佐玄雄の「あるがまま」についての講話の音声データは、若干劣化していて聴き辛い状態になっていました。そのため、ここに改めて、宇佐玄雄の講話音声全データ、およびその冒頭にある「あるがままについて」の部分の抜粋をつけ直しておきます。これは昭和27年のある日らしく、その日の2時間近い講話の全データとその抜粋です。冒頭から抜き出した「あるがままについて」を除き、内容をいくつかのパートに分ける再処理はできていません。
 
 また「あるがまま」についての部分は、音声の抜粋だけでなく、書き起こす作業もできたので、それも提示しておきます。
 
 
・ 宇佐玄雄のある日の講話(全)

リンク(YouTube)
 
・ 「あるがまま」について(部分)

 
【宇佐玄雄のある日の講話のうちの、「「あるがまま」について」の部分の書き起こし】
 
注 : 講話は、入院患者が提出した日記に対して、それを題材に話をするという進め方になっている。
 
『最近になって、そのままとは、やるべきことは、どしどしやっていくとか、こうゆうことだろうと思うようになった』とあります。これなんです。初めからもうこのことを言っているんです。こういう意味なんです。
『言い換えれば目的に対して進むことである』と、こうあります。これは全くその通りであります。今頃わかりましたか。
 
 そのままというのはそのまま、あるがままというのは、でまかせのあるままとか、そんな意味じゃないんです。あるがままというのは何にむかっていうかというと、その、苦しいとか、つらいとか、いやだとか、不安だとか、やりたくねえとか。仕事を。そういう、そういうそのことは辛抱して、そのままにしておいて辛抱してということですよ。そんで、どんどんやんなさいよ。こういうことです。
 
 それでね、もう妙なことになりますよこれ。
 ああ今日はまあ誠にいやな日でもうめんどくさい日だと。なにもせなこれもしなならんけども、もうあるがままに何もしないでいるとか、そしたらだるいから、あるがままに、そのだるいままに寝転んでいるとか、そういうことじゃないんですよね。全然ちがいますよ。
だるいとかつらい、けれどもですよ、そいつを我慢して、そのままにしといて、それでどんどん行きなさい。寝込んだりしないで、あるいはいやだから行かないとかそういうことなしにですね、いやであるそのいやのあるがままにいきなさいと、こういうことですね。
 いやならいやのあるままで寝込んでいる、そんなんだめですよ、そんなん反対ですわ。いやとかつらいとか苦しいとかいうことはまあぱっと放っときなさいちゅうこと。そんなことに相手にならずに、いままでは普通、それに相手になってそいつをどうしようとして、行動ができなくなった訳ですね。
 いやだからしない、つらいから苦しいから、苦しいから人に会えないとか、そういうことも、それを治してということですね。それは、苦しいから苦しいままでよろしいからどんどん行きなさい。嫌やなら嫌でそれは仕方ないから嫌のままで結構ですからどんどん勉強しなさいと、こういうわけですね。どんどん前進しないと。
 
(中略)
 
『あるがままということは、字面の理解では、文字の面からみると危険だと。そういう広い深い内容を持っているということなのでしょうか。』と書いてあるけれども、これでは分からない意味が。その、抜けてますねひとつ。ちょっと抜けている。わかっています?私の言っていること。
 推察するにこれはね、あるがままということは、字面の上では、表面、まあ文字のうえではどうも危険だと、危険のように思える。しかし実際はこれは深い意味があってするなら、それはそれでけっこうだろうかと(いう質問だと)、そういう理解です。
 そりゃ危険ですよ。それは間違いない。あるがままは危険。あるがままにそのまま苦しくあるからあるがままに今日はもう何もしないでじっとしているとか、恥ずかしいという気持ちで恥ずかしいという気持ちの通りにもう仕事場に行かずにいるとか、体が何となくだるいからといって仕事なんかする気がしないから、今日はそのあるがままに仕事をしないとか、そういう、そりゃ危険ですよそりゃ。あるがままということを教えたら。みんなだれも何もしなくなっちゃう。それではずぼらとかなまけとかばっかりになりますね。あるいは退嬰、引っ込むことばっかり。この危険というのはそれでしょう。そりゃ危険です。この字面のとおりですね。
 
 

♥      ♥      ♥

 
 
【解説 : 宇佐玄雄における「あるがまま」について】
 宇佐玄雄は自らの指導について、著書『説得療法』の「序」に次のように記している。「説くべきの文字なく、諭すべきの言句なし。強いて言はんか、不問、不説の法あるのみ」。そして続いて「その接得宜しきを得ば、…指して月を示すの用を成すを得るに庶幾からん乎。…題して説得療法と云ふ。表題既に矛盾の嫌ひあれど、敢て名字に拘はらざるも亦読者の便を思ふが為めに他ならず。」と。
 つまり、療法の極意は「不問不説」にあり、実際に即して「接得」を旨とする。しかし名称に拘泥せず、「説得療法」の語句を排除するものではないと、自著の序文で自らの療法の趣旨を位置付けたのであった。
 その宇佐玄雄は、講話において如何に「あるがまま」について教えているのか、という観点から、われわれはこの録音音声を聴くことになる。
 それは聴き手にさまざまな印象を与え得る。予定調和は崩されるのか…。