森田正馬が参禅した老師、釈宗活―その人物と生涯(上)―

2018/08/16


雑誌「禅」平成17年2月号。
釈宗活老師についての特集が組まれている。


   同雑誌の巻頭に若き日の老師の写真が出ており、その写真には次のような説明文が付されている。
「生涯草庵に住み、母の遺言を守って、立身出世・富貴栄達を望まず、行雲に身を任せ、居士の教化に専心した。独立独歩の宗風を挙揚し、居士に嗣法する道を拓いた。」
 
 

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1. 森田正馬と釈宗活
   森田は、明治43年に谷中初音町にあった両忘会の釈宗活老師のもとに参禅した。
   その事実について、そして両忘会は旧谷中初音町二丁目にあったことや、当時のその地区の環境、また現在地との対照などについて、既にかなり詳細にわたって記してきた。また両忘会は在家者向けの禅道場で、釈宗活老師は在家禅に力を尽くした人であったことについても述べてきた。
   およそこれらのことをまとめて、第35回日本森田療法学会で発表した。
   それにしても、森田正馬は、生涯にただ一度参禅して相まみえた老師、釈宗活の印象を語っていない。だが語らなかっただけに、内面にその印象を秘め続けていたのかもしれない。ちなみに森田は、参禅から約10年後の大正13年に出版された、釈宗活の著書『臨済録講話』を読んだことを当時の日記に書きとめている。宗活老師への関心が長く続いていた証左である。
   その釈宗活老師はどんな人だったのであろう。ある程度は断片的に記したが、資料が乏しくて不明な点が多く、十分に把握しきれていない。最近、少しだが追加的に資料を入手した。これにても宗活老師についての伝記的全容に迫ることは到底できないが、不明だったところが少し埋められてきた。資料を参考に、参禅にまつわる森田の心理も推し量って書き加えつつ、宗活老師の人物像や生涯をおぼろげながら、たどってみたい。

 

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2. 釈宗活(入澤譲四郎)の生い立ち
   釈宗活、本名入澤譲四郎(1871-1954)は、東京麹町の蘭方医、入澤梅民の三男として生まれた。父方祖父の入澤貞蔵(貞意)も越後出身の江戸の蘭方医であった。入澤一族は信州の北条時頼・時宗の末裔にあたる越後の庄屋であったが、その家系からは医者が多く輩出している。譲四郎の祖父貞蔵(医者)の弟、健蔵(庄屋を継いでいた人)の次男、入澤圭介は池田家に養子に入り、池田謙斎と名乗った人で、西洋医学を学び、東大医学部の初代総理になった著名な人物である。
   同じ貞蔵の弟、健蔵(庄屋)の長男の、その息子である入澤達吉は医者で、東大内科教授になっている。この入澤達吉と釈宗活(入澤譲四郎)は、祖父が兄弟であるから、二人は「いとこの子」同士になる。入澤達吉は、東大生の森田正馬の診察をして「神経衰弱兼脚気」と診断した教授、その人である。そして森田は卒業後に、釈宗活のもとに参禅する。森田は、自分の生涯において出会った重要な二人の人物が、親族であることを知っていたであろうか。あるいは後日にでも知ったかもしれない。それはわからない。釈宗活自身は、短期間両忘会に参禅した若い医者が、学生時代に入澤達吉教授の診察を受けた男だったとは知らなかったであろう。
   入澤達吉は医師として優れた人物であったのみならず、人間的にも深みのある人だったようで、入澤一族に通じ合うような人間味を宗活老師もそなえていたのであろうと思われる。
   入澤一族の蘭方医の息子に生まれた宗活、すなわち譲四郎は、三男であったが、父は医家の後継ぎを託せるのは長男、次男でなく、この三男であると見込んで、幼少のときから漢籍、武術、書画、彫刻などにわたり、厳格な教育を施した。母からは深い慈愛を注がれて育ったが、11歳の時にその母は大病で急死した。臨終の際に、母は息子に言い遺した。「何よりもまず心の修行を第一に心がけよ。母は御身の富貴栄達を望まぬ。心を磨けよ。独立独歩、他に依頼心を起こしてはならぬ」と。母の最期のこの訓戒を子ども心に肝に銘じ、生涯を通じてそれを忘れずに生きたのであると、後年に宗活老師自身が語っている。
   さて母の死の翌年、12歳の時に父もまた病で急逝した。両親を失って孤児になった少年は、母の遺言を守り、ある教師の家に入って労働をしながら苦学した。しかし心身ともに病み衰え、神道や心学などに入って修養を試みるも適さず、禅の修行に関心を持つようになった。ちょうど叔母にあたる人が、鎌倉の今北洪川について参禅をしていたので、洪川が本郷の麟祥院に摂心の指導に来た折に叔母から紹介を受け、洪川に入門を許されて、円覚寺に入ることになった。譲四郎、20歳の時のことであった。

 

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3. 円覚寺における禅修行
   入澤譲四郎は、円覚寺の塔頭に入り、修行に打ち込み、かたわら扇谷に通い、運慶の流儀の仏教彫刻を学んだ。やがて洪川老師から石仏居士という名号を与えられた。その後洪川老師は没し、居士のままでいた譲四郎は、さらに修行を深めるために出家得度の必要に迫られた。母の遺言に従い独立独歩で生き、寺の住職になることを望まなかった彼は、一生寺に入って住職になることはしないという条件を自分の方からつけて、釈宗演老師のもとで23歳で得度を受けた。得度により宗活の法諱を授与され、また釈宗演の養子になって、釈宗活と名乗ることになった。その後も修行を続け、帰源院という塔頭の監理を任されて、摂心に参加するために外部から来て宿泊する人たちの世話をした。この体験は、後に「両忘会」の師家となって居士禅を鼓吹する因ともなった。
   夏目漱石が明治27年末に帰源院に宿泊して、釈宗活の世話になりながら、釈宗演に参禅したが、それはこの時期のことである。漱石は後に、小説『門』の中に、そのときの体験の記憶をそのままに描写している。小説中、宗活は宜道という名前で登場するが、漱石はこの若い禅僧が何年も厳しい修行に耐え続けていた様子や、宿泊者に丁寧に接してくれる優しい人柄の持ち主であったことを、書き記している。一方『談話』の中の「色気を去れよ」という題の話には、宗活のひょうきんな面が語られ、宗活さんは、白隠和尚の「大道ちょぼくれ」を聞かせてくれたなどと記している。漱石と宗活の交流はその後も続いたと言われるので、宗活が後年に東京に出てから、両者が会った可能性はあるが、定かではない。
   こうして円覚寺での約8年間の修行を経て、印可を受け、明治31年より宗活はインドに渡り、聖胎長養のごとき修行体験をする。インド僧とともに熱砂の上を歩いて托鉢をしたり、暴漢に襲われるような危険にも遭遇して、九死に一生を得たこともあった。インドで2年を過ごし、明治33年に帰朝した。

 

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4.「両忘会」の再興
   帰国すると、折しも、かつて帰源院で世話をした居士たち数名より、山岡鉄舟らによって明治のはじめに創設されて、中断されていた在家禅の「両忘会」の再開を望む拝請が円覚寺に届けられた。それを受けて、釈宗演老師の命により、宗活老師は早速東京に出て、「両忘会」再興の任に当たることとなった。
   まず明治33年に、山谷の湯屋の二階に仮の草庵を設け、34年に根岸に、さらに日暮里にと道場の場所を移動した。日暮里の道場は、元農家の一軒家で、両忘会再興の拝請に名を連ねた、新橋の医者、徳永道寿居士と娘の徳永恵直が買い取って、寄進したものであった。この徳永恵直は、浄瑠璃の河東節に秀で、禅にも励んだ女性で、後に宗活老師の侍者となって、生涯を共にすることになる運命の人である。
   また日暮里に両忘会があった時期の明治38年には、平塚らいてうが参禅している。らいてうは、その自伝に両忘会での参禅の体験とともに、若き釈宗活老師の気品ある指導について書いている。
   しかし、明治39年、アメリカのサンフランシスコで禅の布教に当たっている居士たちからの慫慂があり、渡米することになった。そして3年後の明治42年に帰朝、同43年より、谷中初音町二丁目の借家で両忘会を再開した。
   森田正馬が、藤根常吉の誘いで、両忘会に参禅をしたのはこのときである。森田はこの参禅について、日記にごく簡単に記しているだけである。摂心のときに早朝座禅に通い、午後は天龍院(同じ谷中地区にある妙心寺派の禅寺)で、提唱を聞き、また老師の前に3回くらい参じたが、公案は透過しなかったと言う。森田は、自分の療法は禅から出たものではない、たまたま一致するだけである、禅のことはわからないと、自己卑下をするばかりとなった。そして宗活老師の印象について、何も述べていないが、宗活老師への参禅によって、内心感じるところがあったのではなかろうか。宗活が入澤一族の人であることを知っていて、語ることを控えたとも考えられるが、単にそれだけであろうか。
   大正の初めには、両忘会のある居士によって、谷中墓地に隣接した天王寺の寺域に新築した道場用の建物が寄進された。擇木道場と命名されて、それまで借家を転々としていた両忘会は、その道場に落ち着いた。宗活老師はそこで指導を続けることになる。
   森田正馬は、谷中墓地を散策の場所として好み、弟子の佐藤政治と深夜に谷中墓地を歩きながら、神経質の治療について語り合ったと言われる。森田は、かつて参禅した谷中二丁目の両忘会がその近くの天王寺域内の道場に移転して、そこに釈宗活老師がいることを知らなかったはずはない。谷中墓地を散策すれば、宗活老師に出くわす可能性もある。森田は宗活老師を慕っていたのではないかとまで考えたくなる。
   名だたる禅僧、忽滑谷快天や、釈宗演をも批判して憚らなかった森田正馬にとって、釈宗活老師は別の存在だったようなのである。
 

(次回に続く)

高知の夏フェス―森田正馬没後80年墓前祭&記念講演会―

2018/07/19


黄昏の三人。
高知駅前に並び立つ、言わずと知れた幕末の土佐の三志士。



 

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   7月14日、京都では祇園祭の宵山が始まる。観光客が集まる喧騒を逃れたくて、高知に行った。7月14日はフランスではパリ祭である。高知のホテルの部屋のテレビで、“quatorze juillet”(7月14日)のシャンゼリゼ大通りの行進を観た。翌15日は「高知が生んだ世界的精神医学者 森田正馬 没後80年 墓前祭&記念講演会」(長いけれど、敬意を表して略さずに書いた)が開催される。まあ、今風に略せば、森フェスか。さて森フェスの当日。暑いったらない。高知の太陽が、カンカン。禅の洞山和尚は「寒時は闍黎を寒殺し、熱時は闍黎を熱殺す」と言った。寒い時は寒さになりきれ、熱い時は熱さになりきれ、と教えたのである。熱中症になったら熱中症になりきれと言うのであろうか。カミュの『異邦人』の主人公、ムルソーが、太陽のせいで人を殺したと言ったのを思い出した。太陽になりきったら、そんなことになる。まあ、物事は極端はいけないと思う。で、多少のキセルをしながら出席した。
 


記念講演会の前に、高知追手前高校吹奏楽部の演奏が行われた。



 

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   県立追手前高校の前身は、森田が卒業した旧制中学なので、つまりこの高校は森田の母校にあたる。無難な曲が演奏されていたので、私の音楽脳にはあまり響いてこなかった。洋ものの曲より、日本が生んだ名曲の演奏をなぜしないのだろう。ど演歌でも結構だ。
   いくつかの講演あり。没後80年の記念行事なので、文化講演会の色彩が濃くなっても仕方がないとは思う反面、生家をどのように生かし、どのように保存するかについて、具体的な報告がなされなかったことは、残念である。唯一、それを論じられた講演があったが、その講師は、NPO高知文化財研究所代表の方で、民間の立場から、総論的なことを述べられたに過ぎなかった。県や自治体から、生家の保存活用に向けて、現在ここまで事を運んでいるという報告は一切なかったのだ。とてもむなしい。記念講演会より、生家保存活用の進捗についての報告会の方が必要であろう。
 


三人衆の像がライトアップされだした。
左から武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎。みな人相が悪い。特に真ん中の人。これらは銅像かと思っていたが、中身は発泡スチロールで、表面はウレタンで特殊加工がしてあるらしい。つまり、張りぼてなのだ。腰につけた刀がものものしく、銃刀法違反であるが、これでは、迫力に欠ける。

 



龍馬と正馬は一字違い。人物はかなり違うが、子どもの頃、夜尿に悩んだらしいことは、よく似ている。

 


三人のシルエット。張りぼてには見えず、かっこいい。





記念講演会場の入り口にて。左から、生活の発見会本部の藤本様、熊本大学教授藤瀬先生、ひがメンタルクリニックの比嘉先生。

 
 
   15日夕には、熊本大学教授藤瀬先生、ひがメンタルクリニックの比嘉先生、正智会の畑野様と、土佐料理店で会食しながら、昨年の学会の成果である『森田療法と五高』の出版準備を進めるため、作戦を練った。秋には刊行に漕ぎ着けたい。
   深夜のテレビはワールドカップのフランス優勝のお祭り騒ぎである。
   どこもかしこもフェス、夏フェス。日本のふるさとの夏祭りが消えていく。友や家族と花火線香を楽しんだ、あの夏祭りへの郷愁。
   今回の森フェスの1週間後には、赤岡で、おどろおどろしい絵金祭りがある。8月には、全国に知られる、よさこい祭りが開催される。高知も夏フェスのシーズンである。
 


南国市の、故江淵弘明先生のお宅。



   禅に生き、禅に逝った知られざる森田療法家がいた。江淵弘明先生である。少年の頃から神経症に悩み、森田正馬の指導を受け、大学時代から相国寺の座禅会に入り、医師になってからも、生涯の大半にわたり相国寺での修行を続けた。その間を縫って、後進たちの森田療法的指導をした。そのご自宅は高知の南国市にあり、ご夫人は高齢だが、今も健在である。森田の生家から数キロの距離にある、そのお宅を訪ねて、江淵夫人にお会いした。
   鈴木知準診療所に入院した経験をお持ちで、かつて知準先生が高知に来られた時に江淵先生を紹介なさった人、香美市の山口博資様にもお会いできた。
   江淵弘明先生については、2年前の日本森田療法学会で報告した。
   以下のリンクより、その時のスライド画面を見ていただけます。

江渕弘明(こうめい)医師、禅に生きた森田療法家―その知られざる生涯と活動の軌跡―


江淵家のもうひとつの出入り口には、江淵弘明(建八) という亡きご主人のお名前も掲げておられる。

 
   「郵便物がくることがあるので」と、ご夫人はおっしゃっていた。
 


「ちょっと気づかう、そっと見守る」。高知駅で見かけた掲示。

 
   森田療法そのものだと思うようななにげない言葉を、駅などのポスターに見かけることがある。
 



「衝撃を与えないでください」。
龍馬空港にて。

 
   この人は、衝撃に弱いらしい。さらば龍馬、衝撃に弱い人。

第35回日本森田療法学会(熊本)印象記

2018/07/05




 
   2017年11月に熊本大学で開催された、第35回日本森田療法学会の印象記を執筆させて頂いたものが、雑誌「精神療法」6月号に掲載されました。編集部の方から、私のような者に執筆のご依頼を下さったもので、責任を感じてためらいましたが、ニュートラルな立場を守って印象記を書いてみようと考え、思い切って引き受けさせて頂いたものです。
 
   この学会は、熊本地震から一年半しか経っていない昨年(2017年)秋にに熊本大学で開催されました。学会長をなさった保健センター教授の藤瀬昇先生や、神経精神科のスタッフの方々のご苦労は、並大抵のものではなかったようです。
   私はたまたま、パネルディスカッションや、歴史部門でも発表させて頂いた経緯から、藤瀬会長や事務局長の遊亀先生との接点ができて、学会を開催なさったご苦労を垣間見ることができました。通常、学会に参加しても、準備や開催の水面下のご苦労はあまり見えないものですが、陰徳のようなご努力がなければ、学会は成立しません。
   新約聖書のルカ伝に、マルタとマリアの姉妹の話があります。イエス・キリストが彼女らの家を訪れたとき、妹のマリアはキリストの語る言葉に聴き入ったが、姉のマルタは接待に立ち働いた。これについて、エックハルトは、生活の中の活動を通して神に仕えた姉のマルタの態度をキリストは嘉したとする解釈を示したとされます。これは、禅にも森田療法にも通じる実践だと思います。震災からの復興もまだ途上の熊本で、学会が成立したのは、準備に従事なされたスタッフの皆様のご苦労があったからです。まず、そのような視点から学会印象記を書いてもよいと思ったのです。 学術発表に対する印象や評価は、聴く者の主観によって様々に変わり得ます。これについては、自分の卑見に流れることのないように慎重になりました。そのため、複数の方々の意見をヒアリングして、自分の意見もまじえながら、まとめることにしました。
   「高齢者」と「トラウマケア」についての、二つの重要なシンポジウムについては、少し辛口のコメントをしてしまいました。これは、学会に出席なさった関西の知人たちを問い詰めて、意見を交わした上でのことです。二つのシンポジウムを高く評価させて頂いたのですが、折角の森田療法の立場をこそ大切にする、ということを私たちは重んじたのです。
   短文にまとめた印象記の拙文の背景を、ここに説明いたしました。
   その拙文は、以下でお読み頂けます。
   よろしければ読んで下さい。

第35回日本森田療法学会印象記

森田正馬の生家を訪ねて、フランス人たちが行く( 続編)

2018/06/14


フランス人が部分撮影した絵金の屏風絵



 

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1. フランス人たちの冒険
   去る4月下旬、海の向こうからはるばると、森田正馬の生家を訪ねて、フランス人3人がやって来ました。四国へ、高知へ、そして野市へと、見知らぬ土地を動きまわって、よくぞ自力で野市入りしたものです。そんな無謀旅行を終えて、三人は帰国しました。
   今回ここに書き足しますのは、前回に書き落とした彼らの冒険旅行の成果の一部です。
   旅行中に撮りまくった写真を受け取った私は、生家保存会の事務局長の池本耕三様に鑑定して頂いたのでした。結果をばらしてしまえば、他の家を森田の生家と間違えたのでしたが、それはご愛嬌。その家も誰かの生家でしょう。野市まで来た三人は、この辺りを片っ端からうろつきまわった模様で、何枚も撮影した写真の中には、いくつも面白いものが映っていました。
   森田の生家から移転した新しい森田村塾や、かの地獄絵で知られる金剛寺、そして地獄絵との関わりがあるかもしれない絵金の、絵金蔵も訪れていたのです。


森田村塾。文字を読めないフランス人が撮影したポスト。


 

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2. 森田村塾
   森田村塾は、森田の生家を管理している香南市が、生家の建物を生かして開いた不登校の子どもたち向けの塾でした。しかし生家の建物の老朽化(耐震性に問題)のため、閉鎖して、市が最近、県道の反対側に新たに「教育支援センター森田村塾」(適応指導教室)を再開したものです。


森田村塾の玄関らしい。


 

森田村塾の遊び場。


 

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3. 金剛寺
   これも県道を挟んで生家の反対側の、比較的近い距離にある。「頌徳 森田正馬博士」という文字が刻まれた記念碑の横を入って行くと金剛寺がある。真言宗の寺院で、幼い森田がここで地獄絵を見て、死後の世界への恐怖を植え付けられたというエピソードでよく知られている。


上掲の写真の左上の部分の拡大したもの。菩薩像が見える。


 

写真の右上の部分を拡大したもの。赤い幟に、裏から読む「菩薩」らしき文字が見える。


 

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   森田正馬は、幼児期にこのお寺にあったおどろおどろしい地獄絵を見て、恐怖におののき、それが脳裏から離れず、長じても死の恐怖となったのでした。そのことは、森田自身が『神経質ノ本態及療法』の「附録」に記しているので、その一部を引用しておく。
 
   「或時、村の真言宗の寺、金剛寺の持佛堂で、地獄の絵の双幅を見た事がある。
三尺に六尺許りの画面である。極彩色の密画で、血の池、針の山、燒熱地獄の有様が画かれてある。堂内には、抹香で薰ぜられた一種異様の臭ひが漲つて居る。其絵と此臭ひとの複合した一種いふべからざる身の毛もよだつやうな恐ろしさは、今にも明かに其時の光景を眼前に彷彿させる事が出来る。
   此時以来、余は屡々死の恐怖に襲はれた。夜暗くして獨り寝に就く時などには、人が死ぬれば、親兄弟や自分の欲しいものなど、皆自分の思ふ通りにはならないで、心は空に迷ふものであらうか、或は何時までも永続して、限りなき夢のやうなものでもあらうか、など様々に思ひ悩みて、屡々悪夢に襲はれる事があつた。」
 
   金剛寺はその後改築されており、森田が見たという地獄絵は残っていません。したがって、誰が描いたどんな画風の地獄絵であったかは、知るよしもありません。しかし、野市からさほど遠くない赤岡町に、独特の色彩で妖しい絵を描いた狩野派の絵師がいました。絵金、すなわち絵師の金蔵です。金剛寺にあった地獄絵を描いたのは、絵金であった可能性は残っていますが、その根拠は見いだせないままです。


絵金蔵でフランス人、Blad BURKEY氏が撮影。絵金の屏風絵の部分を撮影したものです。(掲載責任者は岡本)



 

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4.地獄絵と絵金
   絵金(えきん)と呼ばれた絵師、金蔵は、独特の画風で知られた、幕末の異端の絵師でした。高知に生まれ、幼少より画才に長け、狩野派の絵師に師事して、その画風を学びます。山内藩の家老のお抱え絵師となりますが、狩野探幽の贋作を描いたとの汚名を着せられ、高知を追われます。空白の時期を経て、やがて彼は赤岡に戻り、酒蔵にこもって、屏風絵を描きました。武者絵や芝居の役者絵を主とし、真っ赤な鮮血とともに妖しく描いたその独特の画風は、異彩を放つものでした。金剛寺にあった地獄絵が彼の作ではなかったかと思われても、おかしくはありません。
   赤岡町には、絵金の描いた屏風を収蔵している「絵金蔵」があります。フランス人たちは、そこも訪れていました。その絵に無性に惹かれたと言います。精神科女医さんのご主人が撮った写真を何枚か送信してもらいました。屏風に描かれた人物を、ひとりひとりに絞って撮影しています。撮影の仕方が、独特な写真作品になっていますので、ここに掲げることを許していただきたいと思います。撮影者、Vlad BURKEY 氏は音楽家ですが、写真に関しても素人とは思えません。


絵金の屏風画の部分(フランス人のVlad BURKEY氏撮影)


 

同上


 

同上


 

同上


 

同上


 

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同上


 

同上


 

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同上


 

同上


 

同上


 

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大阪の「かに道楽梅田店」にて(5月3日)。中央にNyl ERB 女史(精神分析家)、右にMuriel FALK-VAIRANT医師。撮影してくれたのが、VAIRANT医師の夫君のVlad BURKEY氏で、この人自身は映っていない。


 

同様の写真


森田正馬の生家を訪ねて、フランス人たちが行く。

2018/06/11



記事内の写真の説明
大阪の「かに道楽梅田店」にて、Nyl ERB女史と。(2018年5月3日)。女史の仲間の
Muriel Falk-Vairant医師(精神科女医)とそのご主人(音楽家)も一緒だった。

 

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   フランス語圏国際PSYCAUSE学会と交流を続けています。
   森田正馬没後80年の今年、7月15日に高知の野市町の生家の近くでの墓前祭などの行事が開催されることを、昨年来一応ニュースとして、PSYCAUSE側に伝えていました。もし、7月のその行事に外国人が参加するならしてもよいが、外国人を受け入れるような特別な準備がなされているわけではありませんと、予防線も張ってきました。
   ところが、日本愛に燃えるユニークな人もいるものです。ラカン派の精神分析家のニル・エルブ女史ときたら、今じゃ森田いのち。いても立ってもいられないのです。7月まで待てない。知人の女性精神科医とその旦那さんを誘って、3人で去る4月下旬から5月上旬まで、日本にやって来て、高知を中心に四国旅行をなさいました。
   もちろんお目当ては、森田正馬の生家とお墓です。確かに生と死は重要なことですから。7月の生家訪問や墓前祭に先駆けて、はるばるフランスから来てくれた人たちがいたことに、森田先生は草葉の陰できっとお喜びで、ニッコニコ。異界で笑顔恐怖の再発に悩んでおられるかもしれません。
   この人たちは、知らない四国をどうやって旅行するのかと、私はしきりに心配してあげたのでしたが、なんと精神科女医さんのご主人が、レンタカーを運転して、四国の田舎も山中もなんのその、ナビを見ながら見知らぬ土地を走り回ったというのでした。
   彼らが本当に森田の生家とお墓に到達したか。野市町を訪れて探しまわり、彼らが撮影した何枚もの写真を、私は記念行事の事務局長の池本耕三様に送信して、鑑定して頂いたのでした。その結果は言いますまい。まあいい線いっておりましたが。
   彼らは四国旅行を終えて、5月初めに最後の滞在地の大阪にやって来ました。5月3日に私は大阪に会いに行きました。彼らは梅田の曽根崎のOSホテルに宿泊していたので、容易に会うことができ、久闊を叙しながら、お初天神通りをぶらついて、「かに道楽」の梅田店に入って夕食を共にしました。連休の梅田の繁華街は人また人。お初天神の境内に入ると人はまばらです。どうしてこんな繁華街に神社ができたのかと、彼らは驚いています。繁華街が神社のそばにできたという見方ができないフランス人です。
   ニル・エルブ女史らは、フランスに帰国してから、高知探検談をPSYCAUSEのボスのボシュア博士に報告したようで、それをPSYCAUSEのホームページに記事として掲載すべく、その書き方について、ボシュア博士から私に相談がありました。しかし、結局彼らの森田生家とお墓の訪問の首尾については、読者に想像を逞しくしてもらうような書き方になりました。
   ボシュア博士の記事の文章とて、これも歯が浮くような書きっぷりです。恥ずかしいのは私ですが、フランス語を読まれる方は、下のリンクよりお読み下さい。これが、森田療法における日仏交流の、ひとつの見本なのです。
   誤解を避けるために、このような見本がすべてではないことを、強調しておきたいと思います。
   それにしても、こんな見本のパターンから窺える、日本愛、森田愛とは何なのしょうか。フランス人精神分析家たちは、自分たちを分析すべきです。
http://www.psycause.info/rencontre-a-osaka-avec-le-pr-shigeyoshi-okamoto-5-mai-2018/

「森田療法保存会」2018年総会・見学旅行参加記―高良武久の真鶴、森田正馬の熱海―

2018/06/07




 

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1.高良興生院・森田療法関連資料保存会
   「高良興生院・森田療法関連資料保存会」という重要な会がある。名称が長いので、略して「森田療法保存会」と言われたり、さらに通称として、「保存会」と呼ばれたりする。高良武久先生と高良興生院に関わる資料の保存に始まって、森田療法関連資料の保存や、森田療法に関する勉強などの集まりの開催もおこなっている会である。新宿区の旧高良興生院の建物の中に、会の本部がある。会員は関東在住者に限定されてはいず、九州にも会員になった人がいると聞いたのがきっかけで、私も数年前に入会させてもらった。この会には、高良先生が健在だった頃の高良興生院での勤務歴をお持ちの、ベテランの先生方が中心にいて下さり、また会の特徴として、組織がゆるやかで、外部との間に垣根がまったくない自由な雰囲気があるのがよい。
   去る5月27日、本会の2018年度の総会兼見学会に参加させてもらった。毎年この時期に総会が開かれるが、隔年に東京から日帰りのできる距離内の森田療法ゆかりの場所を訪ねて、そこで見学と総会が同時開催されているのである。今年は、真鶴半島にある高良武久先生の元別荘、さらに熱海の森田旅館跡地とその近くで森田の縁戚の方が開いておられる喫茶「M&M」を訪ねるという、総会を兼ねた一日旅行がおこなわれた。
 


高良先生の元別荘内の広間での、「保存会」の総会の風景(1)



 

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2. 真鶴にある高良武久先生の元別荘
   真鶴という小さな半島には、一度行ってみたいと思っていた。しかし想像するイメージと実際とは違う。移動する交通手段は車しかないのだが、小さな半島なので、道路まで狭い。高良邸は、半島の高台を登りつめて、そこから急斜面を少し下ったところにあった。傾斜地の上方に、贅を尽くした大きな建物が建てられている。ここに到着するのに、坂道を登ったり下ったり。その内部の大広間で、「保存会」の総会が開かれた。

 


同じく、「保存会」の総会の風景(2)



 
   大広間は、参加した十数人が一緒にゆったりと過ごせる、贅沢な空間である。部屋は海の方に向かって開放されている―、のだが、外には樹海のような木々があって、視界を遮っていて、海は見えない。この建物の管理をしている方が説明して下さったことには、屋外の樹木を伐採して、その始末をするのが何とも大変で、かなりの手前と費用を要したという。総会議事より(失礼)、説得力のある話であった。現在、伐採はされていないらしく、樹木は勢いよく天に向かって伸びている。それが自然の力というものである。高良先生は別荘として、どうしてこのような所を選ばれたのであろう、とつい思ってしまった。鹿児島出身の高良先生は、太平洋の海が恋しかったのであろうか。
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
3. 熱海の森田旅館の跡地へ
   真鶴半島は平坦な地ではなかったが、熱海はまた、坂道の街である。高台と海岸の間の斜面に、起伏した街並みがある。そんな熱海の風情から、アルジェリアのカスバが彷彿とする。ジャン・ギャバンが主演した古いフランス映画、「望郷(ぺぺルモコ)」の、あのカスバである。
   しかし、実際には、坂道ばかりの街を徒歩で散策するのは、いささかとほほなのだ。森田正馬先生は、昭和8年に伊勢屋旅館を買い取って森田旅館にしたが、既に晩年に近かった。しかも宿痾を抱えている身としては、森田旅館にたどり着くのも楽ではなかったろうと思う。
 


熱海地図



 
   今回の「保存会」の見学は、主に吉田恵子様が企画して下さった。上に掲げた図は、吉田様から頂いた地図を拡大したものだが、そこに示したように(地図の下方)、森田旅館跡は海岸に近いところにある。現在は旅館跡は駐車場になっている。かつてはこの旅館の位置は市街地の端にあたり、海岸に面していたそうである。この旅館跡の前の道路よりも海寄りの地域の街は、後年にできたものである。
 

喫茶「M&M」を訪れたが、この写真は帰るところ。



 
4.熱海の喫茶「M&M」
   海岸近くに新たにできたその市街区域内で、森田旅館跡の前方(地図のさらに下方)に、「M&M」という喫茶がある。その喫茶のご主人は、森田正馬の縁戚(吉田恵子様によれば、正馬の甥孫)にあたる森田幹夫様である。
ご主人が、古いアルバムや森田正馬直筆の色紙、野村章恒直筆の色紙などを見せて下さった。
森田正馬筆の色紙は、写真に撮らせて頂いた。冒頭に掲げたものがそれで、「職業によって人の品性を定むるに非ず 従事する人の品性によって其職業の尊卑を生ず 形外」とある。年月は記されていない。同様のことを書いた色紙が知られており、それには昭和十年十一月と記されている。
 

森田旅館前での集合写真(昭和50年代のものらしい)。右上方に、「森田館」の文字が読める。中央左に長谷川洋三先生、中央右に永杉喜輔先生、後列に野村章恒先生とおぼしき人がおられる。


♥      ♥      ♥

 
   森田幹夫様が見せて下さった写真の中に、重要な人たちが映っている集合写真があった。上掲のものがそれである。鮮明ではないその写真を、さらに撮影した写真なので、残念ながら不鮮明だが、「森田館」の玄関前で撮影されたもので、昭和50年代のものらしい。長谷川洋三、永杉喜輔、そして野村章恒(推定)の各先生方の顔が見える。ほかにも重要な方がおられるかもしれない。
   一見して印象的なのは、熱海の「森田館」で、このような顔ぶれの中に永杉喜輔がいることである。水谷啓二没後において、永杉が森田療法の要人たちとなお交わり、「森田館」を訪れていた足跡に、喫茶「M&M」で期せずして遭遇した。私にとって新鮮な発見であった。永杉と長谷川との交流は、浅からぬものだったことを示す一枚の写真であった。
 
   この日の夜は、このカフェ「M&M」のすぐ近くの海岸で花火大会があり、夕方花火の音が鳴り始めていたが、後ろ髪を引かれながら、帰路についた。

谷中界隈散策―森田正馬参禅の足跡をたずねて―

2018/05/19

   森田正馬が、谷中の旧「初音町二丁目」にあった両忘会に参禅した事実、およびその旧「初音町二丁目」があった町域までは既に突きとめた。しかし、両忘会があった位置をピンポイントで見つけることは未だにできないでいる。
   高良興生院・森田療法関連資料保存会へ行った翌日の5月14日、両忘会のあった場所の特定を持ち越しながらも、谷中界隈を訪れた。
 
 


日暮里駅の東口駅前の猥雑さと正反対に、西口を出ると、雰囲気が変わる。御殿坂を登ると、谷中界隈がある。
 
 

初音小路、三たび。胡麻臭いレトロの雰囲気。
 
 

初音小路を通り過ぎて、「初音の道」を進むと、朝倉彫塑館がある。
 
 

朝倉彫塑館。その後方には、幸田露伴旧宅跡や、北原白秋旧宅がある。
 
 

初音の道
 
 

初音の道には、浄土宗の寺院があるが、これは新築のようである。
 
 

初音の道にあるレトロ調の店。
 
 

初音の道にある「初初音音」(正体不明)
 
 

三崎坂を下ると、山岡鉄舟が開いた全生庵(臨済宗国泰寺派)がある。中曽根康弘元首相や安倍晋三首相が座禅をしに行くことでも知られる。
 
 

全生庵
 
 

全生庵の向かい側に、天龍院(臨済宗妙心寺派)がある。釈宗活老師はここで提唱をおこない、森田正馬はそこに出席したと、日記にある。
 
 

天龍院
 
 

初音の森があった場所。
 
 

初音の森の一部を残し、児童公園になっている。
 
 

岡倉天心記念公園の入り口にある説明。
 
 

同公園内の六角堂
 
 

六角堂内にある岡倉天心像。
 
 

岡倉天心記念公園の入り口付近にある「旧谷中初音町四丁目」の説明
 
 

谷中ぎんざの方から階段を望む。
 
 

夕やけだんだん
 
 

夕やけだんだん
 
 

だんだんの上から谷中ぎんざを望む。
 
 

谷中には愛がある。

森田療法保存会での春の心の健康講座を担当させて頂きました

2018/05/17




   去る5月13日、東京の高良興生院・森田療法関連資料保存会で、ひがメンタルクリニックの比嘉千賀先生とともに、春の心の健康講座を担当させて頂きました。昨年の熊本における第35回日本森田療法学会で、比嘉先生といっしょにおこなったパネル・ディスカッションと同テーマのものを、東京においても再度発表する機会を与えて頂いたのでした。熊本までお越しになれなかった関東地方の方々が、さいわい多数ご出席下さいました。保存会のみならず、生活の発見会や啓心会OBの方々など、森田療法関係者各位が同じ会場にご参集下さったのです。このような場で表記の『社会教育と森田療法の合流―下村湖人らから水谷啓二へ』のような歴史的に意義あるテーマについて述べることができたのは有難くかつ光栄なことでした。
   今回は会場に来賓として、遠路おいで下さった熊本大学藤瀬昇教授や、下村湖人氏の縁戚の中嶋直子様や、永杉喜輔氏のご長男の永杉徹夫様や、社会教育研究者(桐生大学)の野口周一先生や、生活の発見会理事長の岡本清秋様らがご出席下さいました。晴れがましく、かつ実りある会だったと思います。
   講座後には、ご来賓の方々や、増野肇先生や、丸山晋先生といっしょに夕食会へ場所を変えて、奇しき縁で集った一同がしばし交流するひとときを持つことができました。
   この日の自分の発表は、昨年の熊本の学会での発表内容に基づきながら若干の修正や追加を加えたものでした。ここではその全内容を紹介するのを控えますが、冒頭部分のスライドと、最後のスライド(謝辞)だけを次に掲げておきます。
 








 
 
 
 
 

(中略)


 
 
 
 
 




 

   わざわざ東京までおいで下さった熊本大学の藤瀬昇教授が、思いがけずも昨年の学会でのパネル・ディスカッション時の写真を持ってきて下さって、感激しました。その写真を下に出しておきます。
 
   なお、昨年の学会におけるメインテーマであった「森田療法と五高」に関するいくつかの発表を論文化したものを、本にして出版する企画が、藤瀬昇教授を中心に進められています。その本に向けて、自分は、昨年の発表を、より深めた(つもりの)内容の原稿を用意しました。したがって、今回の発表内容は、いずれその出版物にてご一読頂ければ幸いです。

 



みかん山にあった森田療法 ―「煙仲間」の生き証人を訪ねて―

2018/04/19


笑う「みかん山原人」こと、山梨通夫氏。「煙仲間」の元 リーダー、

今「山梨みかんトラストファーム 農園主」。



   少し戯作風に書きはじめます。書くことは、ほとんど信用できます。
 
1.「煙仲間」と森田療法
   皆さまは「煙仲間」をご存知であろうか。ご存知ない。それは残念である。
   では『次郎物語』とその作者、下村湖人をご存知であろうか。イチローなら知っているが、次郎は知らない。作者もご存知ない。いや、それは残念である。
   では永杉喜輔をご存知であろうか。それもご存知ない。いや、ますます残念である。
 

♥      ♥      ♥

 
   それでは、下村や永杉の紹介から始めねばならない。イチローはそろそろ落ち目のようだが、『次郎物語』は永遠なり。下村湖人は、その生みの親である。彼は、佐賀県は神埼町(現神埼市)の出身で、鍋島藩の『葉隠』の武士道精神を、みずからのうちに秘めているところがあった。剣道をたしなんだらしいが、これはあまり上手とは言えなかったようだ。神埼市と言えば、先日、市長選に邪道プロレスの大仁田厚氏が出馬して、落選した。当選していたら、武士道が邪道に変わるところだった。さて下村は作家であったが、社会教育家でもあり、彼は「煙仲間」という、善き人たちの集団をつくった。佐賀の鍋島藩の『葉隠』に出てくる「煙」の語にちなんで、「煙仲間」と命名したのだった。しかし佐賀には忍者がいたそうだから、下村は本当は忍術が好きで、忍者集団をつくりたかったのかもしれない。とにかく、「煙仲間」は善良な人たちの集団であった。
 

♥      ♥      ♥

 
   さて、永杉喜輔は、「生活の発見」誌の誌名の名付け親であり、「生活の発見会」にも関わった人物である。その永杉喜輔は、下村の弟子の社会教育者で、愉快な人だった。そして戦後に、下村と永杉と、加えて水谷啓二の三人が一緒になった。三人とも、熊本の旧制五高の出身者で、永杉と水谷は同級生であった。
 
   皆さまは水谷啓二をご存知であろう。森田正馬の直弟子で、「生活の発見会」の生みの親である。かくして、下村湖人、永杉喜輔、水谷啓二の三人が、戦後の東京で一緒になり、「煙仲間」と森田療法がいっしょくたになった。ちなみに森田正馬先生も熊本五高の出身である。みんなが五高出身者だとは、不思議な巡り合わせである。
 
   下村は昭和30年に世を去った。惜しいことに、水谷も昭和45年に没した。永杉は長生きして、平成の世まで、それも21世紀まで生きていた。群馬大学の教授をしていた人だが、「永杉さん」 と呼ばれて、多くの人たちから慕われた。下村没後には、永杉版の「煙仲間」が静岡で生まれて、会員は全国に広がった。永杉と共にあった長命な「煙仲間」だった。
 
   解散したのは、平成23年で、仲間の中心人物だった人は今なお健在である。静岡で、みかん山農園を営んでいる山梨通夫氏という人である。この生き証人に会いに行った。去る平成30年2月半ばのことだった。


「煙仲間」会報の、永杉喜輔追悼号(平成20年(2008)5月号)


2. 永杉喜輔が来た清水
   永杉喜輔は、群馬大学教授であったが、学識を振り回さず、本音の教育観を臆せずに述べる、「本当のことを言う」人であった。教育学の教授である永杉自身が、「教育用語は、教育界の方言だよ」と言った。象牙の塔の中や、机上の教育用語の羅列の中に、本当の教育はないということを、研究室の外へ出てあちこちで伝えた人であった。
 
   永杉と静岡県の人たちとの最初の縁はどうしてできたのか、知らないが、昭和49年、静岡県青年の船に、永杉も講師陣のひとりとして乗り込むことになった。
   当時、各府県が青年団員などの青年たちを対象に、船で1~2週間かけて、主に外国を訪問する「青年の船」が毎年のように企画されていた。訪問先は主にアジアの外国だったようだが、その国の人たちとの文化交流や史跡の見学などをし、往復の何日間かの船上では、講師たちの講義を聴いて学び、船内で参加者が生活を共にするという、研修体験をするものだった。
 



清水港には国際的なクルーズ船が出入りする。(写真はWikipediaより)。

 

♥      ♥      ♥

 
   静岡県は海に向かって開かれており、清水港は国際港湾で、国際的なクルーズ船が発着する。山梨通夫氏は、昭和49年に、清水港発、静岡県青年の船に参加したのだった。山梨氏は、その船上で永杉の講義を聴いて大いに魅せられる。
   以後、仲間たちと埼玉の永杉の自宅へ押しかけて行ったりして、私淑し、翌、昭和50年より、「煙仲間」を結成して、手作りで月刊の会誌を出し始めた。それは、戦前の軍国主義下で、自由を守るために下村が作った、地下のレジスタンスのような「煙仲間」ではなく、また戦後に下村が雑誌「新風土」を拠り所にして、乱れた人心を正そうとしたようなストイックなものでもなかった。静岡県内を中心に、青年団や青年団OBたちの絆をメインに、他の府県の人たちへと輪が広がっていった。
 
   年に一度は、静岡県で集会を開いていたようで、永杉がそこに来ることもあった。永杉は、ほぼ毎号の会誌にメッセージを寄せていた。会員たちは、それぞれの生活の体験や思いを自由に会誌に寄せていた。自然環境の保護や、原発問題への発言もあった。海外へNGOのボランティアとして参加しながら、現地から便りを書き送って来る人たちもあり、国内、国外でのボランティア活動の情報交換の機能も果たしていたようだ。
 

♥      ♥      ♥

 
   この「煙仲間」の構成は、当初は静岡県内の青年団の絆に発したが、次第に地理的空間を超えて、問題意識を共有するが、しかし互いに温度差があってよい、自由な関係が許容される会という性格を帯びていったような印象を受ける。それは「永杉さん」や主宰者の山梨氏の人柄によるのだろうし、その自由さが「煙」たる、新たな所以になっていたとも言えよう。情報化が進み、地域社会が空疎化していく中で、地縁でもなく、インターネット上でもなく、手作りの会誌でつながる優しさの関係に、癒やされるところがあったのかもしれない。ただし、このような推測は、十分な検証によってはいないことを、付け加えておく。
   会員数は、常時およそ百人以上いたようである。




   中心人物の山梨通夫氏は、元気で人間味のある人で、みかん山でみかんを栽培しながら、東南アジアに仲間を持っており、たびたびそちらへ出かけていく。アフガニスタンや南米にも行ったりする。土着性と放浪癖を併せ持っている。毎月の「煙仲間」の会誌の発行は、欠かさない。永杉は平成20年に没したが、そのときの「煙仲間」誌の永杉喜輔追悼特集号の写真を、先に掲げたが、永杉没後もしばらく「煙仲間」は続けられ、結局平成23年5月号をもって終刊となった。最終号は実に349号に達していた。昭和50年の創刊以来、36年間の長きにわたり刊行を続けられたのであった。
   社会教育研究者の野口周一先生から、この永杉・山梨版の「煙仲間」誌のバックナンバーを閲覧させて頂いた。さらに、山梨通夫氏をご紹介頂いたのだった。

みかん山(山梨みかんトラストファーム)の山荘(ゲストハウス)




3. みかん山での体験森田療法
   長い間「煙仲間」を主宰してきた山梨さんとは、一体どんな人なのだろう。気になっていた。宮澤賢治の童話の「やまなし」のような、不思議な人か? とにかく会ってみたかったので、平成30年2月半ばに静岡へお訪ねした。山梨様の本拠は、清水港の近くで、海に面した「みかん山」であるが、こちらの都合に合わせて、静岡市内まで出て来て下さった。写真を既に冒頭に出したので、その風貌はご覧の通りである。笑ってしゃべって飲んで、笑ってしゃべって飲む。「やまなし」ではなく、「みかん山原人」のような人であった。永杉さんに会い、「煙仲間」を始めたのが、二十代後半で、今は六十代半ばだという。青年団員だった頃の話なども伺ったけれど、とにかくこんな人に会えたことが、何よりも確かな収穫であった。長髪で気取っているのかと思ったら、散髪は年に一度しかしないと言う。会った次の週は、タイの農村に行くとおっしゃっていたから、多分タイで散髪屋に行くのだろう。タイに行きつけの散髪屋があるらしい。静岡市内で会って頂き、翌日はみかん山を訪れるはずだったが、こちらの事情が発生して中止させて頂き、みかん山は幻のままとなった。
 

帰りにみかんを沢山頂いた。これはその一部。



   みかんと共に、「みかん山から」という刊行物を何部か頂いた。「山梨みかんトラストファーム」発行の刊行物で、最新の2018年2月刊のものが、第114 号になっているから、これも「煙仲間」と同じくらいの歴史がありそうだ。
   この「山梨みかん山トラストファーム」にある山荘は、ゲストハウスになっていて、宿泊してみかん山農園で体験作業ができるようになっている。山梨様はあちこちの大学教員たちにも知られており、夏休みには、ゼミの学生たちが泊まりに来る。みかん山は、会員制になっていて、会員に対して、収穫したみかんと「みかん山から」の通信刊行物が届けられる。年に何度かの収穫祭には、会員たちが集まって来る。ほかにも、ワークショップと称して、囲炉裏を囲んで、何やら一緒にやったり、楽器を持って来てかき鳴らしたりしている。
   宿泊滞在は、自炊をせねばならない。風呂も自分らで炊く。便所は、おつりが来る方式のようで、溜まった肥えは農園を肥沃にする。
   ここに泊まりこめば、森田療法以上に森田療法的な生活を体験できるように思う。「煙仲間」は、下村によるもの、永杉によるものと、それぞれ違っても、どこかで森田療法につながってくるから、妙である。
 

   山梨様は、本当は孤独な人なのかもしれない。ふとそんなことを思う。「やまなし」と山梨様が重なる。
   できれば出直して、そんな山梨様のいるみかん山を訪れたいと思っている。
 

   以下、「みかん山から」(トラストファームの会報)に掲載された写真、いくつか。






「森田正馬が参禅した谷中の「両忘会」と釈宗活老師について」の余録(3)―谷中初音町二丁目の古地図とその環境―

2018/03/02


歌川広重 筆「天王寺」 (国立国会図書館デジタルコレクションの『江戸名勝図絵』より)。
五重塔は、幸田露伴の小説のモデルになったが、焼失した。
谷中初音町二丁目は、この天王寺の門前町としてできた区域の一部である。

 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
1. 谷中初音町二丁目の古地図と地籍
   先に示した旧町名地図で、谷中初音町二丁目の全体の位置はよくわかったが、区画内の各地籍はわからなかった。
   国立国会図書館のデジタルコレクションの中に、大正元年の東京市の地籍別の地図を見ることができた。その谷中の地図と、初音町二丁目の部分を拡大した図を、以下に掲げておく。
 


谷中初音町などの地籍地図


 

先の地図より、谷中初音町二丁目を、拡大して部分表示。



 

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   以上の地図より、初音町二丁目の土地は、短冊状に一番地から一八番にまで分かたれていることがわかる。地図上の一部には、所有者として人名や寺院名が出ている。


地籍台帳にある、地籍別の詳細。



 

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   地籍台帳には、地図だけでなく、地籍別の記載があり、初音町二丁目の各地籍ごとの所有者名が列記されている。しかし、両忘庵が使用していた借家の大家の名前がわからないので、ここにおいても残念ながら、番地の特定につながらない。やはり両忘会の番地を知る方向から迫らねばならないようだ。
 

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2. 「初音の道」とその環境
   番地がわからないままでも、なおこの界隈の環境的特徴について知ることができれば、参考になると思う。
   椎原ら(注)は、江戸明治の都市基盤の現在への継承についての研究において、「江戸・明治・大正・昭和の都市基盤が重層的に残る台東区谷中界隈」を対象として取り上げている。さらに町並みについては、「門前町屋型」の地区として、谷中の尾根道である、通称「初音の道」沿道に注目している。ここは、傾斜している谷中の町側からも、日暮里側からも高台にあたり、尾根を形成していて天王寺のへの参道にあたる。この沿道の東側が、谷中初音町二丁目なのである。著者らは、東側については、「天王寺の門前町として江戸初期から形成され、短冊型の敷地に表店と裏長屋で構成されていた」としているが、東側の敷地のすべてがそうであったとは限らない。
   さらに、西側および沿道一帯についての記載があるので、引用しておく。
 
 「西側沿道は、江戸期に谷中に転入してきた寺院が並び、その山門参道脇のひと皮の敷地を門前町屋としているケースが多い。西側北部は組屋敷があったところで、江戸の朱引線の際にあたり、やや不定形の街区に細工職人や歌舞伎役者などが住みこんでいた。明治になってその奥の村分地も宅地化され、路地が奥まで入り込んでいる。一帯は、江戸期から職人、芸人層が多い地区だが、明治になって上野が芸術の中心地になったことに呼応し、芸術家や作家などの文化人も多く居を構えた。」
 
   門前町屋型の、この「初音の道」沿道の東側が主に初音町二丁目で、向かい側は主に上三崎北町だったが、沿道は一体のものである。この界隈は、天王寺の門前町で、かつ寺町であり、町屋が並び、職人や芸人が住んでいたという町内の雰囲気が伝わってくる。
   やはり釈宗活老師に似合いそうなな場所柄である。
 
注 ) 椎原晶子、手嶋尚人、益田兼房 : 江戸明治の都市基盤継承地区における歴史的町並み、親しまれる環境の継承と阻害 ―台東区谷中 ・初音の道地区を事例に―. 2000年度第35回日本都市計画学会学術研究論文集 ; 799-804.
 

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明治時代の谷中天王寺の五重塔。
国立国会図書館デジタルコレクションの『東京景色写真版』(江木商店刊、明治26年)より。