森田正馬が参禅した老師、釈宗活―その人物と生涯(上)―
2018/08/16
同雑誌の巻頭に若き日の老師の写真が出ており、その写真には次のような説明文が付されている。
「生涯草庵に住み、母の遺言を守って、立身出世・富貴栄達を望まず、行雲に身を任せ、居士の教化に専心した。独立独歩の宗風を挙揚し、居士に嗣法する道を拓いた。」
♥ ♥ ♥ ♥ ♥ ♥
1. 森田正馬と釈宗活
森田は、明治43年に谷中初音町にあった両忘会の釈宗活老師のもとに参禅した。
その事実について、そして両忘会は旧谷中初音町二丁目にあったことや、当時のその地区の環境、また現在地との対照などについて、既にかなり詳細にわたって記してきた。また両忘会は在家者向けの禅道場で、釈宗活老師は在家禅に力を尽くした人であったことについても述べてきた。
およそこれらのことをまとめて、第35回日本森田療法学会で発表した。
それにしても、森田正馬は、生涯にただ一度参禅して相まみえた老師、釈宗活の印象を語っていない。だが語らなかっただけに、内面にその印象を秘め続けていたのかもしれない。ちなみに森田は、参禅から約10年後の大正13年に出版された、釈宗活の著書『臨済録講話』を読んだことを当時の日記に書きとめている。宗活老師への関心が長く続いていた証左である。
その釈宗活老師はどんな人だったのであろう。ある程度は断片的に記したが、資料が乏しくて不明な点が多く、十分に把握しきれていない。最近、少しだが追加的に資料を入手した。これにても宗活老師についての伝記的全容に迫ることは到底できないが、不明だったところが少し埋められてきた。資料を参考に、参禅にまつわる森田の心理も推し量って書き加えつつ、宗活老師の人物像や生涯をおぼろげながら、たどってみたい。
♥ ♥ ♥ ♥ ♥ ♥
2. 釈宗活(入澤譲四郎)の生い立ち
釈宗活、本名入澤譲四郎(1871-1954)は、東京麹町の蘭方医、入澤梅民の三男として生まれた。父方祖父の入澤貞蔵(貞意)も越後出身の江戸の蘭方医であった。入澤一族は信州の北条時頼・時宗の末裔にあたる越後の庄屋であったが、その家系からは医者が多く輩出している。譲四郎の祖父貞蔵(医者)の弟、健蔵(庄屋を継いでいた人)の次男、入澤圭介は池田家に養子に入り、池田謙斎と名乗った人で、西洋医学を学び、東大医学部の初代総理になった著名な人物である。
同じ貞蔵の弟、健蔵(庄屋)の長男の、その息子である入澤達吉は医者で、東大内科教授になっている。この入澤達吉と釈宗活(入澤譲四郎)は、祖父が兄弟であるから、二人は「いとこの子」同士になる。入澤達吉は、東大生の森田正馬の診察をして「神経衰弱兼脚気」と診断した教授、その人である。そして森田は卒業後に、釈宗活のもとに参禅する。森田は、自分の生涯において出会った重要な二人の人物が、親族であることを知っていたであろうか。あるいは後日にでも知ったかもしれない。それはわからない。釈宗活自身は、短期間両忘会に参禅した若い医者が、学生時代に入澤達吉教授の診察を受けた男だったとは知らなかったであろう。
入澤達吉は医師として優れた人物であったのみならず、人間的にも深みのある人だったようで、入澤一族に通じ合うような人間味を宗活老師もそなえていたのであろうと思われる。
入澤一族の蘭方医の息子に生まれた宗活、すなわち譲四郎は、三男であったが、父は医家の後継ぎを託せるのは長男、次男でなく、この三男であると見込んで、幼少のときから漢籍、武術、書画、彫刻などにわたり、厳格な教育を施した。母からは深い慈愛を注がれて育ったが、11歳の時にその母は大病で急死した。臨終の際に、母は息子に言い遺した。「何よりもまず心の修行を第一に心がけよ。母は御身の富貴栄達を望まぬ。心を磨けよ。独立独歩、他に依頼心を起こしてはならぬ」と。母の最期のこの訓戒を子ども心に肝に銘じ、生涯を通じてそれを忘れずに生きたのであると、後年に宗活老師自身が語っている。
さて母の死の翌年、12歳の時に父もまた病で急逝した。両親を失って孤児になった少年は、母の遺言を守り、ある教師の家に入って労働をしながら苦学した。しかし心身ともに病み衰え、神道や心学などに入って修養を試みるも適さず、禅の修行に関心を持つようになった。ちょうど叔母にあたる人が、鎌倉の今北洪川について参禅をしていたので、洪川が本郷の麟祥院に摂心の指導に来た折に叔母から紹介を受け、洪川に入門を許されて、円覚寺に入ることになった。譲四郎、20歳の時のことであった。
♥ ♥ ♥ ♥ ♥ ♥
3. 円覚寺における禅修行
入澤譲四郎は、円覚寺の塔頭に入り、修行に打ち込み、かたわら扇谷に通い、運慶の流儀の仏教彫刻を学んだ。やがて洪川老師から石仏居士という名号を与えられた。その後洪川老師は没し、居士のままでいた譲四郎は、さらに修行を深めるために出家得度の必要に迫られた。母の遺言に従い独立独歩で生き、寺の住職になることを望まなかった彼は、一生寺に入って住職になることはしないという条件を自分の方からつけて、釈宗演老師のもとで23歳で得度を受けた。得度により宗活の法諱を授与され、また釈宗演の養子になって、釈宗活と名乗ることになった。その後も修行を続け、帰源院という塔頭の監理を任されて、摂心に参加するために外部から来て宿泊する人たちの世話をした。この体験は、後に「両忘会」の師家となって居士禅を鼓吹する因ともなった。
夏目漱石が明治27年末に帰源院に宿泊して、釈宗活の世話になりながら、釈宗演に参禅したが、それはこの時期のことである。漱石は後に、小説『門』の中に、そのときの体験の記憶をそのままに描写している。小説中、宗活は宜道という名前で登場するが、漱石はこの若い禅僧が何年も厳しい修行に耐え続けていた様子や、宿泊者に丁寧に接してくれる優しい人柄の持ち主であったことを、書き記している。一方『談話』の中の「色気を去れよ」という題の話には、宗活のひょうきんな面が語られ、宗活さんは、白隠和尚の「大道ちょぼくれ」を聞かせてくれたなどと記している。漱石と宗活の交流はその後も続いたと言われるので、宗活が後年に東京に出てから、両者が会った可能性はあるが、定かではない。
こうして円覚寺での約8年間の修行を経て、印可を受け、明治31年より宗活はインドに渡り、聖胎長養のごとき修行体験をする。インド僧とともに熱砂の上を歩いて托鉢をしたり、暴漢に襲われるような危険にも遭遇して、九死に一生を得たこともあった。インドで2年を過ごし、明治33年に帰朝した。
♥ ♥ ♥ ♥ ♥ ♥
4.「両忘会」の再興
帰国すると、折しも、かつて帰源院で世話をした居士たち数名より、山岡鉄舟らによって明治のはじめに創設されて、中断されていた在家禅の「両忘会」の再開を望む拝請が円覚寺に届けられた。それを受けて、釈宗演老師の命により、宗活老師は早速東京に出て、「両忘会」再興の任に当たることとなった。
まず明治33年に、山谷の湯屋の二階に仮の草庵を設け、34年に根岸に、さらに日暮里にと道場の場所を移動した。日暮里の道場は、元農家の一軒家で、両忘会再興の拝請に名を連ねた、新橋の医者、徳永道寿居士と娘の徳永恵直が買い取って、寄進したものであった。この徳永恵直は、浄瑠璃の河東節に秀で、禅にも励んだ女性で、後に宗活老師の侍者となって、生涯を共にすることになる運命の人である。
また日暮里に両忘会があった時期の明治38年には、平塚らいてうが参禅している。らいてうは、その自伝に両忘会での参禅の体験とともに、若き釈宗活老師の気品ある指導について書いている。
しかし、明治39年、アメリカのサンフランシスコで禅の布教に当たっている居士たちからの慫慂があり、渡米することになった。そして3年後の明治42年に帰朝、同43年より、谷中初音町二丁目の借家で両忘会を再開した。
森田正馬が、藤根常吉の誘いで、両忘会に参禅をしたのはこのときである。森田はこの参禅について、日記にごく簡単に記しているだけである。摂心のときに早朝座禅に通い、午後は天龍院(同じ谷中地区にある妙心寺派の禅寺)で、提唱を聞き、また老師の前に3回くらい参じたが、公案は透過しなかったと言う。森田は、自分の療法は禅から出たものではない、たまたま一致するだけである、禅のことはわからないと、自己卑下をするばかりとなった。そして宗活老師の印象について、何も述べていないが、宗活老師への参禅によって、内心感じるところがあったのではなかろうか。宗活が入澤一族の人であることを知っていて、語ることを控えたとも考えられるが、単にそれだけであろうか。
大正の初めには、両忘会のある居士によって、谷中墓地に隣接した天王寺の寺域に新築した道場用の建物が寄進された。擇木道場と命名されて、それまで借家を転々としていた両忘会は、その道場に落ち着いた。宗活老師はそこで指導を続けることになる。
森田正馬は、谷中墓地を散策の場所として好み、弟子の佐藤政治と深夜に谷中墓地を歩きながら、神経質の治療について語り合ったと言われる。森田は、かつて参禅した谷中二丁目の両忘会がその近くの天王寺域内の道場に移転して、そこに釈宗活老師がいることを知らなかったはずはない。谷中墓地を散策すれば、宗活老師に出くわす可能性もある。森田は宗活老師を慕っていたのではないかとまで考えたくなる。
名だたる禅僧、忽滑谷快天や、釈宗演をも批判して憚らなかった森田正馬にとって、釈宗活老師は別の存在だったようなのである。
(次回に続く)