『森田療法と熊本五高―森田正馬の足跡とその後―』発刊

2018/12/23




 
 『森田療法と熊本五高―森田正馬の足跡とその後―』の本が、熊日出版より発刊されました。
  執筆者の人数が多くて、さまざまな原稿を収めているため、編集の完了までに時間がかかり、刊行が遅れましたが、ようやく日の目を見ました。
  一部書店の店頭やアマゾンなどの通販で発売されますが、店頭やウェブ上に出るのは、年が明けて1月9日頃になりそうです。
  なお、予告チラシに記入されたページ数より、かなり増ページとなり、定価は予価より200円上がって、1200円になりましたが、事実上安価過ぎる定価設定です。どうぞよろしくお願いいたします。

森田療法保存会のニュースレター「あるがまま」13号より

2018/12/13

  前3回に引き続き、森田療法の考現学の基礎資料についての連載は、さらに継続していきます。しかしいつ終わるか見当がつかないので、この辺で、別の記事を差し挟みます。


高良武久先生は詩人であった。
(写真は、ご逝去後の1999年に刊行された詩集)


 

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1.はじめ
  私は関西在住者だが、高良興生院・森田療法資料保存会に入会させて頂いて数年になる。去る6月には、年一度の総会を兼ねて、真鶴半島にある高良武久先生の元別荘を訪ねる日帰り旅行が開催された。私も参加して貴重な訪問体験をすることができた。このような企画を組んでくださったおかげである。ところが、思いがけずも、この訪問記を会のニュースレター「あるがまま」に寄せるようにとのお薦めを頂いた。そんなわけで、ともかくも記した拙文が、「あるがまま」13号(2018年11月)に掲載された。自分は関西からの新参者であり、また高良先生や興生院のことにあまり通じていないので、戸惑いながら、訪問当日の記憶をたどり、さらに高良先生と御家族と別荘のことを皆様に教えて頂きながら、書いてみた。すると高良先生の生涯や御家族への想いが膨らみ、とても短文に収めきれるものではなくなったが、多くを端折って短文にした。
  それは既に掲載済みであり、その文をここに紹介することは許されると思うので、まずそれを再掲する。そして、チェーンストーリーのような挿話を少し付け加えることにしたい。

 

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2.「高良武久先生の元別荘、真鶴森の家を訪ねて」
 
  去る平成30年5月27日、保存会の総会を兼ねて、真鶴半島にある高良武久先生の元別荘を訪ねる日帰り旅行が開催された。私は以前からこの半島に妙に関心があった。地図上に存在するが、その存在を主張していない不思議な半島に思えたからである。高良先生の別荘がそこにあったとは。自分の不思議の中に、さらに高良家の人びとのことが加わった。私が理解してもいいのだろうかと逡巡しながら、別荘訪問の貴重な旅に参加した。関西在住の私だが、保存会への入会を認められて数年になる。まだ新参者の私も加わって、総勢14名のグループだった。
  真鶴半島は細長くて、尾根に向かう道路も狭い。その道をタクシーで少し登った地点から、右に下がった、半島西側の斜面の敷地に別荘があった。思いがけず、訪問記を書く機会を頂いたが、なにぶん知らないことが多い。そこで高良留美子様におたずねしたところ、丁寧なお答えを頂戴した。それを頼りに、この別荘の歴史を簡単に記すことにする。
  それは昭和28年前後に、高良先生が家屋つきのミカン園を購入されたことに始まる。その後、「父の家」(高良先生の書斎)、「石の家」(とみ様のお住まいになった)が建てられた。そして高良先生のご逝去後に、長女の真木様がアトリエ兼自宅として「木の家」を建て、そこを高齢者が共同生活をする家になさった。真木様がお亡くなりになってから、「木の家」は一般社団法人、真鶴「森の家」となった。
  私たちはこの家を訪れたのだが、贅を尽くした大きな建物で、海側に面した大広間で総会が開かれた。「森の家」の名の通り、外はさながら森で、海への視界は遮られているが、高良先生は遥かなる鹿児島を懐かしんで、海に面したこの地に別荘をもうけられたのであろうか。
  先生は晩年の「真鶴の庭で」と題した随筆で、ミモザの花のことを書いておられる。ミモザは冬に黄色い花をつける。南仏のニースあたりを主産地とするミモザは、ヨーロッパでは春を告げる花として愛でられている。「ミモザ館」という古いフランス映画を思い出した。母親のような女性と若者との間の愛と葛藤が南仏を舞台に描かれた映画だった。『誕生を待つ生命』という、ミモザの花のような高良美世子様の著作集も読んだ。昭和30年に高良先生がパリ留学中の真木様を訪ね、その際にパリ大学で森田療法の講演をなさったという経緯を知ったのは、この本の巻末年譜からである。



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3. 真鶴森の家
  そもそも、真鶴の地名の由来は、内陸の山手からこの地域を見下ろすと、羽根を広げている鶴が、首から先を海に突き出している姿のように見えるからだと言う。真鶴半島が鶴の首、頭からさらに嘴にあたるのである。真鶴町でも半島の北の漁港があるあたりは、岩という地区で、半島は真鶴町の真鶴地区である。その真鶴地区に高良先生の元別荘がある。
  高良先生の没後に、真木様が新たにお建てになり、アトリエを兼ねてお住まいになっていた木造の家、つまり「木の家」と呼ばれていた建物が現在も中心をなしている。敷地が斜面なので、二階に玄関があり、その下にもうひとつの階がある。この下の階が海に面しており、バルコニーもあって、眼下に海を一望できたのだった。しかし、庭のユーカリなどの多くの樹木は、天に向かって真っ直ぐに伸び、庭木は林となり、森となって、眺望を遮っている。真木様がお亡くなりになった後、「木の家」は一般社団法人となり、「木の家」と呼ばずに「森の家」と命名された。これはちょっとしたユーモアなのであろうか。あるいはホラーの域に近いかもしれない。木々の生命力を肯定するなら、適切な名称ではあるが。
  その法人としての「森の家」はどのように機能しているのだろう。芸術作品の展示や、集いやイベントの開催などに場を提供することになっているのであろう。
 
  ネット上に「音空 onkuu」というサイトがあり、その中に「真鶴「森の家」にて」というブログ記事がある。参考になるので、一方的だがリンクを付けさせてもらう。ただしこのブログを書いた人も不思議の世界の住人のようだが、洗練された感性を感じる。

音空 onkuu 真鶴「森の家」にて

 

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4. 高良先生と真木様とパリ
  真木様は、昭和28年にデンマークのコペンハーゲンで開催された世界婦人大会に英語の通訳として随行され、パリへ到着し、美術を学ばれた。そのまま帰国せずにパリに留まられたのであろうか、とにかく、真木様はこの時期からパリで留学生活を送られた。
  高良美世代子様の著作集『誕生を待つ生命』を編まれた高良留美子様は、パリ留学当時の真木様と日本の家族が交わした書簡を、その本の中で紹介なさっている。それを見ると、昭和30年4月現在で真木様のパリの住所は、大学都市のアメリカ館になっている。しかし同月より、パリ5区のアパートに引っ越されている。その時期よりかなり時を経て、私自身パリに一年間住んだときは、半年間を大学都市のキューバ館で過ごした。アメリカ館とは目と鼻の先だった。パリ5区の雰囲気にも懐かしいものを覚える。
  高良先生は、昭和30年5月に渡欧し、パリ滞在中の真木様と会い、同年6月、留学中だった荻野恒一氏の協力で、パリ大学のサンタンヌ病院において森田療法についての講演をなさった。これが、日本人によるフランスへの森田療法の紹介の第一号である。サンタンヌ病院は、後に私もそこで学ぶことになった。
  高良先生は講演後、その夏に真木様と共に帰国された。
  なお、この講演録(仏文)は、高良武久著作集第二巻に掲載されている。

 

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5. 高良武久先生は詩人であった。
  高良先生が亡くなられて3年後の1999年に、『高良武久詩集』が刊行された。没後に真鶴の家の居間にある棚の引き出しから、詩稿が見つかったそうである。その中には、結婚前の高良とみ様(和田とみ、筆名富子)の詩も含まれていた。つまり、高良先生の詩は、とみ様との交際の中で相聞歌として生まれたものらしいと、編者あとがきに高良留美子様が記しておられる。留美子様の解説は、さらに次のように続く。
 「これらの詩が書かれたのは、高良武久が九大医学部を卒業して精神科の医局に入局し、すでに助手としてそこにいた和田とみと知り合った1924年4月以降、彼女が日本女子大学教授に就任して九大を去る1927年3月までのほぼ3年間、年齢的には25歳から27歳までのあいだと考えることができる」。
 「二人はこの交際を、結婚する1929年10月まで周囲には秘密にしていた。…詩はその二人のあいだでひそかに交換されたのだろう。因襲への反発や批判、そして自由への渇望が随所に見られる」。
  高良先生は、上田敏の『海潮音』などを愛読しておられ、先生自身の詩も象徴派の系譜に入ると、留美子様は記しておられる。
  象徴派の詩についてコメントを述べることは、私の力量の及ぶところではない。まして相聞歌としての象徴詩である。詩集をお読み頂くほかないと思う。
  高良先生はロマンチストであった。そして格調高い象徴派の詩人であった。

森田療法の考現学的研究についての予備的試論―考古学から考現学へ―(3)

2018/11/29

  ごく最近、新たなフランス人精神科医師との交流が始まった。リアルタイムの話である。
  森田療法の国際交流については、考現学の問題として、早晩記さねばならないことゆえ、この際、現在の日仏交流についての実況を記すことにする。その前に、一応過去の日仏交流の失敗談から始めねばならない。

 

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10. 森田療法における国際交流
  この日本的、東洋的な療法についての国際交流という大きな問題がある。考現学的に、これを取り上げることは不可欠である。ただし、これを一挙に書き記すことはできない。
  自分は長年、日仏交流に従事して、森田療法をかの地に伝えることの難しさを味わってきた。フランスでの講演活動やフランスの雑誌への寄稿により、なるべく相手に分かり易く説明することはできた。しかし、それだけでは森田療法がフランスで実際に実践的に取り入れられるには至らなかった。日本人による講演や執筆による紹介活動だけでなく、フランス人たちが日本の森田療法の臨床現場へ学びに来ることも必要であると思われた。その意味で、10年あまり前に、日仏医学会(という組織がある)の精神科医師たちが三聖病院に関心を示して、来訪の受け入れを求めてきた。そのような希望が来ること自体はよいことであった。そして実際に一行が来訪したのだった。しかし彼らの関心は浅く、一時的なものに過ぎなかった上に、フランス人側の責任者のペースで、病院の規律を無視した押しかけの感が強かった。入院森田療法の場の雰囲気を体験的に味わってこそ、よいみやげになるのだが、彼らにはそのような姿勢が欠けているようだった。また三聖病院側は、来る者は拒まないというだけの無関心的不問の受け入れ方で、両者はまったく噛み合わなかった。これは禅的な森田療法(宇佐療法)についての国際交流の野外実験に等しく、不毛の結果に終わった。自分は裏方に徹し、マネジメントに努力を尽くしたが、それが実らなかった虚しさだけが残った。なんとも苦い体験であった。そんな負の学びがあったことを、記しておく。
  なお、三聖病院には、4年前の閉院直前にフランス語圏国際学会組織のPsyCauseのグループが来訪した。このときは、京都での学会の開催と連動した病院訪問だったので、訪問前に森田療法を講習的に教える学会プログラムを組んだ。そのため、外国人として最後の病院訪問者になった彼らにとって、それなりに印象に残るものがあったようである。

 

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11. 現在の私の日仏交流
  近年は、PsyCause というフランス語圏国際組織と関わっている。今年は森田正馬の没後80年で、生家訪問など記念行事が7月に開催されることを、事前に情報としてフランス側に伝えておいた。それに対して、関心を示した3人の人たち(精神科医師や精神分析家)が、暑い7月を避けて4月末から5月初めにかけて、森田正馬の生家訪問のために来日した。同行してあげることはできなかったが、帰国前の3人(精神分析家の Nyl ERB 女史ら)と大阪で会った。そしてそのような顛末が、PsyCause のホームページに掲載された。その日仏交流の記事に対して、関心を示して書き込みをしてくれたフランス人精神科医師がいた。ストラスブールのジョルジュ・ヨラム・フェーデルマン Georges Yoram FEDERMANN 医師である。
  その書き込みには、自分は木村敏の “ 間(AIDA)”についての本を読んでいると記載されていたので、日本語ができる人だろうかと期待して、日本語でコメントを返したが通じないようだった。いつも私とメール交換をしている Nyl ERB 女史によると、国際的にも名前を知られている活動的な医師であるとのこと。われわれが今後、日仏交流を継続し、成果をあげるには、アルザスのコルマールに住む Nyl ERB 女史が、ストラスブールの Georges Yoram FEDERMANN 医師と提携してくれたら如何ですかと、私は提案してみた。その提案を受けて、Nyl ERB 女史は Georges Yoram FEDERMANN 医師に連絡を取り、さる11月23日に、Nyl ERB 女史がストラスブールのFEDERMANN 医師の自宅を訪問するかたちで、お二人の出会いが実現した。仕掛け人はこの私で、メール一本の提案で、二人が出会って、交流を開始してくれたのである。有り難いことで、同時に責任も感じる。
  Nyl ERB 女史からのメールによると、FEDERMANN 医師は、神経症の治療ではなく、様々な病理の精神障害に対して、第一線で精神療法に従事している精神科医で、森田療法に非常に関心を示してくださっているそうである。自らの精神療法については、ドキュメンタリー映画を自主制作なさったという。
  Georges Yoram FEDERMANN 先生は、早速11月26日に、私に直接メールをくださった。そのメールに、ご自身の活動や関心などが記されているので、それを紹介する。
  いただいたメール文の冒頭箇所に、重要なことを書いてくださっているので、まずその部分をフランス語のままで引用する。
 
 
Cher et honoré Professeur Okamoto,
 
Je suis très heureux et ému d’entrer en relation avec vous de manière aussi directe.
 
Je suis un psychiatre pragmatique qui a toujours considéré que les maladies mentales “n’existaient pas”
mais que chaque sujet exprimait ses sentiments, ses douleurs et ses espoirs à sa manière, telle une oeuvre d’art.
Et qu’il fallait toucher à cela le moins possible.
 
Chacun crée une partition que le psychiatre est chargé de déchiffrer et d’interpréter
pour devenir le compagnon de route du patient, parfois pour toute la vie.
 
J’ai vraiment le sentiment de pratiquer ” la thérapie de Morita” depuis toujours sans savoir qu’elle existait.
 

 
  上の引用部分を訳しておく―
 「貴殿とこのように直接交流できるようになって、幸甚です。
  私は実践に従事している精神科医師で、いわゆる精神疾患というものが存在するのではなく、それぞれの人たちが感情や苦悩や希望を、自分なりに表現しているのだと、いつも思っていました。あたかも芸術作品のように。
  だからそれをできるだけいじらない方がよいのだと。
  みながそれぞれに自分を創造しており、精神科医師はそれを読み解き、理解者になり、患者の歩みに同行しなければなりません、―ときにはその生涯にわたって。
  まったくもって私は、森田療法というものがあったのを知らないままに、森田療法なるものをいつもおこなっていたのだと実感します。」
 
  FEDERMANN 先生の書いておられるとおりだと思う。神経質や神経症の治療をするためにだけ、森田療法があるのではなかろう。
  さらに FEDERMANN 医師は、30年以上前から、フランス国内にいる難民などの多数の外国人(コーカサスやマグレブやアフリカなどからの人たち)の診療活動をしており、とりわけ戦争による心的外傷に関心を向けている、と書いておられる。
  日本への関心については、スイス在住の義理の兄弟がいて、建築家だが、日本人女性と結婚しているので、日本のことを知っていて、彼が木村敏の本を貸してくれたりしたとのこと。
 
  FEDERWANN 先生は、2本ほどドキュメンタリー映画を制作しておられる。
 
・ “ Le Divan du monde ” (2015)
  (自身のcabinetでの、さまざまな人たちへの精神療法の記録)
 
・ “ Comme elle vient ” (2018)
  (インタビュー形式で、自身のことや映画のことを語っている)。
 
  2つの映画のタイトルは、非常に象徴的なもので、今は日本語に訳しづらい。
  これらの2本の映画は、メールに添えて送ってくださったので、繰り返し視聴している。このホームページにそれらの映画を公開するのは、時期尚早で、今は難しい。今後、許諾を頂けたら、関心のある方にこれらの映画を視聴してもらえるかもしれない。
  この先生との交流は、これから始めるところである。
  なお、Georges Yoram FEDERMANN の名前で検索すれば、Wikipediaなどの記事が出る。YouTube からはインタビューなどの動画が出る。
 
ウィキペディア記事
https://fr.wikipedia.org/wiki/Georges_Yoram_Federmann
 
ユーチューブのインタビュー動画
https://www.youtube.com/watch?v=CwAmT3m4pMQ

森田療法の考現学的研究についての予備的試論―考古学から考現学へ―(2)

2018/11/21

  森田療法の考現学を意図している。これは大きな問題なので、まとめるところまで到達するかどうか、おぼつかない。
  とにかく最初の段階として、過去から現在までの流れの中で、気になる事柄を、体系的でなく、材料として自由に取り出すことにしている。そこで前回に続いて、いくつかの問題点を書いてみる。思いつくままに書くのだが、それはおのずから問題を蔵していると思う点を書くことになるはずである。
 

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7. 森田療法へのとらわれ(1)
  森田療法の分野では、とらわれがしばしば問題になる。まずは神経症の当事者における症状へのとらわれがあり、神経質(神経症)に特有の心理機制として、よく知られているところであるが、これは森田療法へのとらわれではない。
  症状に対するとらわれと別に、森田療法に対するとらわれが起こり得る。強迫性を帯びた人の場合に多いが、後生とばかりに、森田療法とその治療者を頼りにし、治してほしい一心で療法を守ろうとすればするほど、森田療法そのものに縛られてしまう「森田療法へのとらわれ」が起こる。私は禅的色彩の濃い入院原法の病院にかつて勤務していて、そのような例によく遭遇した。入院生活の規則を強迫的に守っても、症状は温存され事態は変わらないことが多い。困って治療者に助けを求めても、暖簾に腕押しのように不問に付されて、どうすることもできなくなってしまう。ついに治療者に不信感が湧いて、いっそ森田療法から離れたいと願うことになるが、森田療法に対して思い入れが強かった分、両価的になり、離れようにも離れられない。行き詰まって絶望的な状態になってしまう。
  これは禅の魔境のようなものである。こんな場合、カウンセリング的介入が必要になる。さもなければ、深刻なアクティングアウトを起こすことになりかねない。

 

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8. 森田療法へのとらわれ(2)
  治療過程で起こるもう一つの「森田療法へのとらわれ」がある。それは、入院森田療法のような隔離された環境において、その中心に治療者が君臨している場で発生しやすいもので、自己愛的な患者が、権威性を帯びた治療者を崇拝して、理想化転移を起こしてしまうものである。それは、カリスマ的な治療者、〇〇先生による療法としての森田療法(〇〇療法)に取り憑かれたようになってしまうという意味での、とらわれである。患者は、カリスマ的な治療者に、分身のごとく自らを重ね合わせる。そして治療者に仕えて、その言動を真似る。慢心が生じ、後進に対して尊大な言動を示す。森田療法で「治った」という人によくある「くさみ」、自己愛臭として、従来から指摘されていたものに通じるであろう。
  このような特徴は、禅の魔境の一種としての、勝境と言われる心理状態に近い。悟りを開いたつもりの勝ち誇った、驕りの心境である。しかしこのような第二の森田療法へのとらわれは、一時的な心境ではなく、パーソナリテイの水準の低下を伴う変化なので、容易には解消しない。治療者に忠臣のよう依存し続けて、独立独歩でき難くなる。
  穿ったことを言えば、治療者もまた臣下の崇拝によって支えられる面があり得る。共依存という言葉が適切かどうかわからないが、とにかく慢性的な相互の依存関係が続くことになり、処理は困難である。そもそも、治療者が患者らのこのような陽性転移を処理しない、または処理できないで、転移に安住している事態に他ならないと言えよう。
  たまたま私は、治療者を崇拝するとらわれに陥っているグループ内の某氏と、一時的に交流したことがあった。その某氏は「自分たちは落伍者かもしれない」と一旦冷静な見方を示したが、結局、再び自分たちのグループの中に深入りしていった。
  森田正馬は権威的な人であったけれども、「患者が治癒に向かって後に、何となく余に頼るといふ事があるから、『余に頼る間は病気の治癒ではない』といふ事を教えるのである」(『神経質及神経衰弱症の療法』)と書いて、治療者を「信仰」し続けることを戒めた。治療者患者関係について、森田自身が配意をしていたことがわかる。後世の森田療法家は、案外この点を学び損ねていたのではなかろうか。

 

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9. 私たちの「森田療法へのとらわれ」
  認知行動療法が医療保険上で点数化されたが、森田療法はそのような恩恵に浴していず、医療経済学的に不利な条件下にある。医療に限らず、心理臨床や福祉や教育の分野でも、森田療法は経済面で恵まれていない。それにもかかわらず、今日多岐にわたる分野のさまざまな職種の方々が、森田療法に熱意を注がれている様子が学会等の活動から、見て取れる。
  そこにおいては、さまざまな森田療法関係者が、森田療法に関心を持ったり、その臨床に従事したり、教育、福祉などの領域に広く生かそうとしたり、その研究をしたり、その普及をはかろうと努めたりしている諸活動が浮かび上がるが、その中にも、なんらかの「森田療法へのとらわれ」 があるのではないだろうか、と思う。
  この場合、「とらわれ」という言葉は固くて柔軟性に欠けそうだから、不適切かもしれない。そこにはさまざまなものが含まれていると思われる。すなわち、森田療法に関わろうとする、なんらかの理由や動機や興味、研究的な関心・意欲、臨床的な関心・意欲、使命感、役割意識、やりがい、喜び、個人的必要性、営利、などであろう。ほかにも、もっと生々しいファクターがあるかもしれないと思うが、露骨には書きにくい。
  ともあれ、前述したような、神経症的な当事者が治療過程で陥る「森田療法へのとらわれ」と別に、このような種々の要因に動かされて、私たちは、さまざまな立場から森田療法に関わっていると思うのである。
  もちろん私自身も、その「とらわれ」のようなものを自覚しており、因果な巡り合わせだと思っている。開示することはできるが、ここでは個人的なことはさておき、今日の森田療法関係者諸氏における、森田療法への動因としての「とらわれ」の実態に強い関心を持つものである。
  伝統的な森田療法を守っていくには、隠れキリシタンのような悲壮さを伴うが、新しい時代の新しい動因によって、森田療法は前進していくのかもしれない。期待と不安を持って、そのような状況を見守りたい。

森田療法の考現学的研究についての予備的試論―考古学から考現学へ―(1)

2018/11/01

1. 自分と研究論争の経験
 
  自分は大学紛争を経験した世代である。インターンのときはインターン闘争に、精神科に入局したら、医局講座制解体運動に巻き込まれた。博士号を取るための研究は罪悪だと、運動家たちが叫んでいた。その渦中で自分なりに悩み、研究のための研究はむなしいとつくづく思ったが、本当に役に立つ研究は必要ではないだろうかと考えて、活動的な同級生と論争したこともあった。しかし、研究論争はむなしく、過酷な精神医療の仕事にも疲れて、精神だけにとらわれるのをやめ、全人的な心身医療に方向転換した。さらに日本だけにとらわれるのをやめ、フランス精神医学に研究的関心をもち、フランス人と一緒に東西の精神療法を考えるうちに、結局日本の森田療法に帰着した。遠回りの果ての「照顧脚下」であった。だからその分、生活の中での治療者の精進と患者さんに対する診療は不可分である森田療法のいとなみが身に染みた。したがって、生活の実際をおろそかにして、軽々しく研究に走るようなものではないと、ごく自然に思うようになった。
  そのような、いわば自覚を経て、臨床実践のあり方を見直すために研究もまた必要だと認識するにいたっている。これがスロースターターだった自分の森田療法歴である。このところ、もしかしたら、理論に走っている輩だとみなされているかも知れない。しかし、かつて徒弟のように臨床経験をしていて、それはまだまだ不足だけれど、ともあれ研究の安易な量的生産傾向に対しては、内心つい懐疑的になるという古臭い人間である。

 

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2. 森田療法における二次元的研究から、森田療法の三次元的研究へ
 
  今日、森田正馬の原法が廃れつつあり、原法から離れた「森田療法」が広がりを見せ、その広がりに並行して「研究」も花盛りである。
  古い頑なな私の立場は、先に明かした通りで、治療者も患者も森田療法的に生きるもの、それが即ち森田療法であって、気安く研究に走ることは不遜なことだと、私は長い間思い込んでいた。今もそう思っていることに変わりはない。
  しかし、森田療法の移り変わりを目の当たりにして、カルチャーショックを受け、愚痴を言い、過去にとらわれているばかりでは生産につながらない。今日において、森田療法なるものにどのように関心がもたれ、その「森田療法なるもの」がどのように実施されているのか。それは気になる一大事であって、そのような一大事こそ、研究的にアプローチすべき課題なのではないかと思う。地上の京都の片隅で、一定期間、療法に関わってあくせくしていた小さな自分が、巣から飛び立った鳥のように、三次元の視界から地上の森田療法世界を眺めてみたいというわけである。原法の廃れ方、あるいは変容について、またあるいは新たな形での普及について、俯瞰的に見ることが必要だと思うこの頃なのである。つまり森田療法の現実を、あえて客観化してみようとする考現学の発想である。とは言え、私自身、過去と現在のはざまで、未だに五里霧中にいる。森田療法の歴史に照らしながら、その考現学をクリアにまとめることは容易ではなさそうである。
  そこで、まずは、森田正馬がおこなった療法の特徴や、今日的事情の中に見える問題点などについて、思いつくまま、あれこれ順不同に言及してみたい。療法の過去と現在について、断片的に思うことをいくつかランダムに記してみることで、次第に何かが見えてくる方向に持って行けたらという、やや無謀な発想である。
 

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3. 森田療法が神経症をつくる。
 
  生活の中での、あるいは臨床的営みにおいての、実践なくして森田療法はありえない。机上の論より、実際の方が重たいのである。これは一応大事なことである。
  森田療法とは森田正馬という偉い人によって創られた神経質に対する日本独自の療法で、かくかくしかじかの森田理論があって、最近は認知行動療法やマインドフルネスとかいうものと関係があると言われていて、などと頭でこねくり回しているところに、森田療法はなく、ただひたすら、自分の人生を精一杯に、苦しみながら、あるいは楽しみながら、無心に生きているところに本当の森田療法の醍醐味がある。ところがそのような場合、当の本人は、いちいちこれが森田療法の醍醐味だと意識していないし、意識する必要もない。そもそも森田療法というものを知っている必要もない。然るに一旦森田療法を知ってしまった人が、森田療法の醍醐味を味わおうと探し始めたら、それこそいい面の皮で、醍醐味は逃げていく。森田療法探しの神経症になっているのである。
  これは禅において、悟りを追えば悟りは逃げていき、求めようとすれば得られないというパラドックスに直面することに等しい。そこで禅は矛盾をそのままに生きることを教える。禅は不可解なのを得意とするところがあるので困るけれども、禅が悩みを取り除く新しい禅に変わったという話は聞いたことがない。森田療法は、患者さんの求めに負けて、つい症状を治す療法になっている傾向、なきにしもあらずである。

 

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4. 森田療法の功罪
 
  先のように考えると、森田療法は罪作りである。蟻地獄のようなものだ。東大出の偉い先生が、余の特殊療法なるものを創られて、それは自然療法、あるいは体験療法と言い換えてもいいものだとおっしゃった。しかしそもそも療法とは巧まれた技であろうし、余のと冠され、特殊と銘打たれた巧みの技が、どうして自然なものであろうか。体験ということについては、何らかの体験が待っているだろう。お化け屋敷に入るときのように、少々胸が躍るというものだ。
  そこで、石橋を叩いて、渡るか渡らないか思案のしどころだが、藁ならぬ偉い先生に縋ろうとした人たちが、余の特殊療法がおこなわれているらしい森田邸内に入れてもらったのだった。
  偉い人に憧れ、偉い人に親和性を感じ、かつ高額の治療費を払えるという経済的に恵まれた家庭の子女たちが、余の特殊療法に引っかかったのである。療法も特殊なら、引っかかった患者さんも、一部の特殊層の人たちだったのである。特殊ではない一般大衆の人びとの中にも、もちろん神経質や神経衰弱に悩む者はいただろうけれど、受診する専門の医者がほとんどいなかったために、神経質や神経衰弱と診断されずに済んだ。森田はそのような診断名をつけた上で、健康人のふりをせよ、と言った。宇佐玄雄も同様だった。患者はダブルバインドで縛られたであろう。一般大衆の人たちは、神経質とか神経衰弱と診断してもらえないので、健康人のふりをして生活するしかなかったのである。

 

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5. 大江戸自然療法
 
  さて、森田先生の邸宅での治療の場は、自然を体験できる環境であったか? これはちょっと面白い問題である。森田先生が言われた自然療法の意味するところは、心は万境に随って転ずるままに、日々気をきかせて立ち回るようにということであったろう。蓬莱町の森田邸は大きな屋敷だったけれども、森や田んぼの自然があるような場所では、もちろんなかった。塀の中での入院生活において、自然服従を体験させようとされたものであったことは、明らかである。家庭的環境で、共同生活を送り、起居を共にしている治療者から薫陶を受けつつ、邸内の生活の流れに即応した動きをする。
  森田先生は、禅に関心を有しておられたが、深山幽谷に入って座禅をするような修行の胡散臭さを看破して、悟りも治癒も日常生活の中にこそあるという達観を有しておられた。自分の療法は禅から出たものではない、禅のことはわからぬと言われた謙遜と裏腹に、本物の禅的域に達しておられたことはさすがである。生活の至る所がすべて修行の場であり、治療的な場でもあった。
  ときには塀の外へ出て、森田先生の乗った乳母車を押して市場へ買い物に行くのも、ときには浅草へお供をするのも、大江戸の自然界の中の体験であった。さらにときには、患者を連れて熱海へ観梅に行き、他人の家の塀の中に無断で入って見せたのも、番外編のエピソードである。これらは確かに森田先生の着想による、場を利用した優れた体験的な自然療法であった。

 

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6. 天然療法
 
  さらに面白いのは、森田先生がいわゆる天然の人であったことである。治療や指導において、奇抜なことをなさったエピソードには、事欠かない。神経質の患者さんたちは結構頑固で、固定観念にがんじがらめになって、柔軟な発想をできないから、人を見て法を説き、臨機応変に対機説法をする必要があったに違いない。しかし、みずから神経質者であったという森田先生自身が、神経質患者たちがとてもできないような自由奔放な行動の見本を示されたのは、一驚に値する。森田先生自身が、若き日に悩んだ神経質から一皮も二皮も脱皮して、自由人へと成長なされたということであろうか。とにかく、治療上で患者への教えとして示されたユニークな数々のエピソードがある。そのいくつかを挙げておこう。
  病気療養中の見舞い客への「下されもの」についての張り紙による教えは有名である。困る物、困らぬ物、うれしき物、と三通りに分けて物の例を示しておられる。困る物では、メロンや商品券が挙げられている。高価なメロンを持ってこられても生ものは扱いに困る。商品券も厄介である。うれしき物としては、金、一輪花、女中に反物、などと書かれている。病人にとって現金はありがたいものである。欲深さから金を望んでいるのでないことは、一輪花の配慮をありがたく思う気持ちからも窺える。女中に反物とは、裏方の従業員の苦労をねぎらってくれたらうれしいとの気持ちの表現である。ただ、このようなことは、通常思っていてもなかなか掲示には出し難い。気の利かない神経症者への教えとしてだけれど、掲示を出されたところが森田先生らしいのである。
  また、森田先生は入院患者たちの前で本ものの夫婦喧嘩におよび、君らは僕と妻のどちらが正しいと思うかと問われたという語り草がある。実際のその場で問われた者は、なんらかの答えをするとか、そっと逃げるとか、対処せねばならない。このような家庭生活丸出しの実際的な治療は、森田ならではのものであった。
  乳母車に乗って患者にそれを押させて、市場に買い物に出かけたことも、よく知られている。市場の狭い通路を通るには、乳母車が便利だったのである。奇をてらったのではなくて、合理性をよしとして、恥や外聞を気にしなかったのである。
  バイブルで鼻をかんでもよいが、人前ではしてはよくないと言い、森田流の常識を重んじるところがあった。
  総じて森田の行動は、患者の前で治療用に巧んで振る舞ったのではなく、天真爛漫で自由な行動をそのままに見せた。なかなか真似のできないことである。そこには、人間的に成熟した境地があったのであろう。同時に、天性の人間味、別言すれば、天然の資質がちょうど治療にフィットしたと考えることもできよう。
  自然療法と言えども、療法と言う以上は巧んだものではないかと先に書いたが、巧んだものではない大江戸自然療法があった上に、森田ならではの天然療法の面目があったのである。

(続く)

「Hakken-kun」創刊号の紹介

2018/10/29


生活の発見くん 創刊号表紙の写真

 
   生活の発見会の小林久美子様が長年関わっておられる、国分寺懇談会の会報誌「Hakken-kun」の創刊号が、今月に発行されました。表紙のパンダは、神戸の王子動物園にいるパンダの絵だそうです。
  この創刊号では、自助グループにおける「アドバイス問題」について特集を組んでおられます。自助グループがより良く機能するために、グループ内でのアドバイスは、重要な問題で、それに真剣に向き合って討論した記録を掲載なさっています。
 
 

『森田療法と熊本五高』(今秋発刊予定)

2018/10/25


『森田療法と熊本五高 森田正馬の足跡とその後』ポスター

 
   近刊予定書『森田療法と熊本五高』について、既に「お知らせ」欄に掲示しましたが、改めてここでもポスター(チラシ)を出しておきます。編集仕上げの都合で少し遅れて、今秋の11月末頃に、熊日出版より刊行されます。
 
 

第36回日本森田療法学会参加記(2) ― 丸山 晋 先生の “KJ森田療法” の世界―

2018/09/27


丸山 晋 著 『森田療法の世界』2018年8月31日、やどかり出版 刊



 

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   学会の一般演題の中で、KJ法を用いた発表がありました(我妻則明先生による、森田正馬の著作に見る人生観の分析)。不肖自分がそのセッションの座長を仰せつかっていたので、精一杯に準備をして臨みました。しかし、KJ法については実施した経験がありません。KJ法と言えば、なんと言っても丸山晋先生が第一人者です。先生の著作を集めて、改めて読み込んだものの、俄か勉強というのは覚束ないものです。幸い丸山先生を個人的に存じ上げていますので、連絡をして、コメントを伺うというカンニング対策をしました。
   さて学会当日、KJ法についてのご発表(我妻先生)は、あえて私がカンニング内容を披露することなく、フロアの方との質疑があって、無事に終えて頂きました。この日は丸山先生はご欠席でしたが、翌日先生は学会場においでになり、会ってお話しすることができました。そのときに、新刊の尊いご著書『森田療法の世界』を頂きました(書影を上に掲げています)。
   この本の「はしがき」に先生は記しておられます。「私のメンタリティは「部分から全体へという志向性」が強いので、この表題はいたく気に入っている。森田療法の時間軸的理解ではなく、空間軸的理解となるからである」と。さらに次のようにも書いておられます。「私の森田療法は、高良先生のそれを一歩も出ていない。私が森田療法の世界で多少なり貢献したことは、KJ法を導入したことだと思う」。日頃謙虚な先生がこうおっしゃるのですから、説得力があるのです。
   丸山先生と私はほぼ同世代です。学生時代には安保闘争を経験しています。医師になった頃は、医学部におけるインターン制への反対運動、さらに精神科を中心にして起こった、封建的な医局講座制の解体と閉鎖的な精神医療の改善を目指す運動がありました。そんなうねりの高まったある年に、全国の「精医連」(と称したと記憶する)の若き医師たちが決起して京都に集まり、真如堂で合宿をしたことがありました。定見もなく参加した私は、本気だった丸山先生と、そのとき合宿の場と空間を共有していたことを、ずっと後に知ることになります。
   丸山先生は、まずは直面する野外の事態に真剣に取り組んでこられたのです。そしてその体験を弁証法的に高めながら、進んでこられたのです。その過程で川喜田二郎氏に出会って師事なさり、野外研究(フィールド・ワーク)を重視する発想法と取り組み方を自家薬籠中のものにされました。丸山先生にとって、精神療法は野外研究の対象です。とくに治療者と患者が生きた人間同士として生活の中で交流する森田療法は、実験室内ではない野外の営みであり、治療者自身も含めて、野外研究の対象になるのです。こうして丸山先生は、長年にわたりKJ法を実施しながら、自然にKJ法と森田療法をひとつのものにして、「KJ森田療法」を創案し、確立されました。
   入院森田療法の実施が困難な昨今、入院の治療構造を外来に翻案して、入院の代替としての外来森田療法が模索されているように見受けます。しかし、KJ森田療法は、入院の代替としてでなく、自然に外来で実施できるものです。関心がもたれて普及することが望まれます。


丸山 晋 著 『精神保健とKJ法』2003、啓明出版 刊


第36回日本森田療法学会参加記(1) ―「無所住心」―

2018/09/13




 

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   去る8月31日から3日間、法政大学で第36回日本森田療法学会が開催されて、参加しました。
   学会では、自分は毎年のように何かの発表を重ねてきましたが、今年は発表をしませんでした。学会には表舞台だけでなく、裏機能があります。その裏機能にあやかろうと思いました。と言っても怪しい機能ではありません。全国から集まって来る方々と、学会場で自由に会って懇談することができます。それにあやかろうとしました。あるセッションに関わらせ頂いたので、気が抜けませんでしたけれども、今回は学会の機会に会えたらと願っていた何人かの方々と、実際にお会いしてお話しすることができました。そんな私的エピソードを二、三記しておきます。
 
   生活の発見会員でいらっしゃる台湾の徐玉章様に、熊本以来、一年ぶりにお会いしました。下村湖人のことを少し話題にしました。かつて総督府の統治下で、下村は校長として台中一中に赴任し、生徒たちのストライキに遭遇しましたが、その台中一中は徐様の出身校にあたるそうです。当時の記録も学校に残されているとのことでした。下村が台湾で管理的な学校教育に挫折した失敗体験は重要です。その体験を糧にして、下村は帰国後、青年たちと生活を共にする塾風教育を始めました。あたかも入院森田療法のはしりのようなものでした。徐様とそんな話しをしました。
 
   森田ピアスクエアを主宰なさっている竹林耕司先生にお会いできました。
   竹林先生から去る7月に玉著をご恵送頂いていました。『集まれ!勝手コラム・森田療法の世界に触れる身近な話』というご本です。書影を冒頭に掲げました。先生は、ご自身が開催しておられる交流会や森田原著読書会で、話し合ったポイントをオンライン機関誌に「勝手コラム」として掲載しておられますが、その原稿を集めて、本になさったものです。ここには、副題の通り、森田の教えに触れながら、それを実際に生かすことに徹する話ばかりが収められています。あるいは、実際に当たってみなければ、森田の教えは生きてこないという、スタンスで書かれているのです。たくさんの項目の中で、私は「無所住心」という見出しで書いておられる箇所に注目していました。
   ここで、東日本大震災の復興支援で岩手県の陸前高田市のサケマス孵化場にボランティアとして行かれたときのことを記されています。孵化した稚魚を生育させる水槽の清掃をグループの人たちと一緒におこなったという体験です。大きな水槽を最初は皆が茫然と眺めていたが、タワシやブラシでそれぞれに作業を始め、誰が仕切るわけでもないのに、次第に無言のうちに作業が進みだした。このような自然な流れが生まれたのは、すなわち対象物や、周囲の人の動きや自分の作業の進捗などをみつめて、ものそのものになりきっていたのだった。すべてを無意識にバランスよく感じ取っていた。それが「無所住心」であったろう。ものそのものになり、みつめることで、臨機応変な工夫や対処が自然に生まれてくる。作業の途中で稚魚の姿を実際に見せてもらって、水槽の清掃作業そのものが一層自分そのものになっていったと、――
   そのように書いておられます。
   ここで教えられたのは、「みつめる」という態度と「なりきる」という境地が、実に自然にひとつに融合していることです。
   禅における究極的境地を指して、三昧と言われます。なりきっている状態に相当します。一方、禅の課題は「己事究明」にあるとされ、自己をみつめよと言われます。つまり、禅において、なりきるということ、みつめるということ、この二つの課題は、そんなにたやすく融合してくれません。その矛盾に遭遇するところに禅の鍵があるのだと思います。このことは、こちらに引き受けて、改めて述べたいと思いますが、水槽作業の「無所住心」の体験に、みつめるとなりきるの融合を見せてくださったのに、刮目させられました。
   竹林先生とお会いして、そんな話しをしました。

森田正馬が参禅した老師、釈宗活―その人物と生涯(下)―

2018/08/23


晩年の釈宗活老師(雑誌「大乗禅」昭和42年3月号より)



釈宗活老師の「常住侍者」であった徳永恵直(芙蓉庵却来恵直老大姉)。河東節の山彦不二子師と同一人物。
宗活没後の昭和30年、81歳時の写真(西山松之助『家元ものがたり』より)。

 

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(承前)

 
5.「粋(いき)」を究めた人、釈宗活
   宗活は、幼少より、父から書画などの芸術を含む幅広い情操教育を受けて育った。禅に関心が傾いて今北洪川に弟子入りしたが、もともと芸術家として身を立てようとしていて、その頃、東京美術学校の学生であった(両忘会に参禅して宗活の弟子になり、出家して京都の大徳寺の管長になった後藤瑞巖の伝記、島崎義孝の著作による)。円覚寺に入ってからは、鎌倉彫の仏教彫刻を身につけた。参禅した夏目漱石に、三味線を弾いて大道ちょぼくれを歌って聞かせたという。
   西山松之助という江戸文化の研究者がいた。西山氏は、釈宗活老師に私淑して、学生の頃に擇木道場に住み込んでいた人である。自分は禅だけでなく、歌舞伎にも関心を持っていたのだが、宗活老師自身が歌舞伎に通じている方であったということを、回想として著書(『ある文人歴史家の軌跡』)で、聞き役の人に対して述べている。
   ――当時歌舞伎の女形の有名な役者がいて、それが宗活老師の親戚だったこともあって、老師は歌舞伎に詳しかった。
   また、宗活老師には、恵直(えちょく)さんという素晴らしい女性がおられた。恵直さんは奥さんだったかどうかはわからないけれど、新橋の医者の娘で、若いときから河東節をやっていて、歌、三味線ができた人で、知らない曲はなかった。河東節の名取名は山彦不二子といい、NHKの音のライブラリーに吹き込んだ曲が沢山残っている。老師はこの恵直さんから河東節を教えられた。
   老師は、古希になって一旦引退して、関西に移り、多田の隻履窟という住まいにいた。そこを訪れたら、昼間は老師は絵を描いていて、夜になると河東節が始まって、恵直さんが三味線を弾いて、助六を語る。――
   禅と歌舞伎がこういうふうに結びついていた。枯れている禅ではない、艶っぽい禅、色っぽい禅だった、というのである。
   隻履窟は、別名残夢荘と称され、兵庫県川辺郡多田村にあった田舎家である。現在は川西市内にあたるが、地図を見ると、人里離れた山間の地のようである。
   宗活老師は、昭和15年から3年間、ここに隠棲して、書画などを制作する遊戯三昧の日々を送った。山間の自然と書画と禅と河東節が溶け合った、粋(いき)の極致であった。


 

西山松之助著『家元ものがたり』



 
6.河東節の山彦不二子(禅の徳永恵直)
   西山松之助氏は『ある文人歴史家の軌跡』の中では、宗活師匠の侍者のような女性のことを、しきりに「恵直さん」と言っている。それは禅子としての道号だろうと推測されたが、西山氏は河東節の山彦不二子の面ばかりを語っていたので、浄瑠璃を語るお座敷の出身の女性かとも受け取れて、人物像として不明のところがあった。
   ちなみに、浄瑠璃のひとつである河東節は、代表的な江戸浄瑠璃で、歌舞伎の伴奏音楽としての地位にあったが、次第に常磐津などの他の節に人気を奪われ、お座敷で語られる浄瑠璃として、通の人たちに愛好されるようになっていた。したがって、河東節は吉原との関係が深かった。河東節のそのような背景もあり、山彦不二子(恵直さん)の経歴や宗活老師との出会いについて、ほとんどわからなかった。しかし、西山氏の別の著書『家元ものがたり』や、禅関係の文献から、この女性の人物像や老師との間柄が浮かび上がってきた。
   この人は、芳紀十九歳より、父の徳永医師と一緒に釈宗演の門に入って修行をしていたという。宗活老師がインドから帰朝したときに、東京での両忘会の再興を宗活老師に請いたいという嘆願書を、宗演老師に対して出した数人の在家の居士たちがいたが、その中に徳永父娘も加わっていた。この数人は、インドに渡る前から宗活を知っており、宗活に信頼を寄せていた人たちである。夏目漱石のように、円覚寺で宗演老師に参禅しながら、塔頭の帰源院で宗活の世話になった人たちがその主要メンバーであったと考えられる。徳永父娘は、娘の方が修行の進度が優れていて、「慧直」という道号を宗演老師から授かっていた。父娘は再興後の「両忘会」に参加し、日暮里の農家の建物を道場用に買い取って寄進している。若い愛娘に河東節を習わせ、禅の修行に連れて行って、修行では娘に遅れをとりながら、道場の建物を寄進した父親も、風流な人だったように思える。
   恵直は、宗活老師がサンフランシスコに布教に渡った折にも、共に渡米し、アメリカで修行を続けて印可を受け、芙蓉庵劫来慧直老大姉となった。
   こうして慧直(恵直)老大姉は、両忘会内における重要な人物のひとりになるとともに、個人的には宗活老師の「常住侍者」として仕えるようになっていく。宗活と恵直は、強い信頼関係によって結ばれていた。
   禅の方で老大姉になった恵直は、河東節においても、山彦栄子師匠より芸道を受け継ぎ、名取の山彦不二子となって、その分野で活躍した。
   禅においては宗活が師、河東節では恵直が師で、粋な関係の二人であった。

 

宗活老師が隠棲していた、兵庫県多田村の残夢荘
(雑誌「禅」平成17年2月号より)



 

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7. 在家禅(居士禅)の指導者であった釈宗活
   宗活は蘭方医の息子として生まれ、医家を継ぐべく育てられたが、相次ぐ両親の死で孤独を生き、その中で禅に活路を見いだした人である。出家したが、それは世をはかなんでのことではなく、また禅寺の住職になろうとしたわけでもなかった。円覚寺でひたすら修行をし続ける過程での、通過点としての出家得度に過ぎなかった。だから宗活は、出家しても一生住職にはならぬ、と自分から釘をさして、釈宗演から得度を受けた。「御身の富貴栄達を望まぬ。心を磨けよ」と言った母の遺言を胸に秘めていた宗活は、僧侶になろうとも、仏門の階段を上り、寺に安住する生活に身を置こうとしなかったのである。宗活は本当の禅を追求し、それを人びとに伝えようとした。自分は出家をしたけれども、在家者とともにあって、在家者の禅的生き方に尽くそうとした人である。
   遡れば、少年、入澤譲四郎だった頃、禅を志し、本郷の麟祥院で初めて今北洪川に出会ったのだったが、このときから両忘会との絆が生じていたと言える。両忘会は、明治8年に山岡鉄舟らが、禅の封建的体質を改め、寺院の殻を破って禅を在家者に開かれたものにしようと、麟祥院で今北洪川を師と仰いで、禅会を創設したものであった。洪川は数年後には円覚寺の管長になったが、麟祥院に指導に来ることがあったのであろう。譲四郎が麟祥院で洪川に会ったのは、明治22年のことである。洪川は明治25年に没しているので、両忘会は途切れてしまっていた。禅に関心のある一部の在家の文化人たちは、円覚寺の釈宗演老師のもとに参禅していた。徳永父娘が宗演に参禅したのも、宗活が塔頭で在家の参禅者の世話をしていたのも、その時期のことである。両忘会とも、徳永恵直とも不思議な糸で結ばれていた宗活は、こうして両忘会を再興して、在家禅の指導に尽くすことになった。
   組織としての両忘会は、大正14年に財団法人両忘協会となり、昭和13年には谷中にあった本部道場は、千葉県市川市に建築された新道場に移転した。それは森田正馬が没した年のことである。昭和14年、宗教団体法が施行されたことにより、宗教団体「両忘禅協会」が立ち上げられて宗活老師の弟子の立田英山老居士が代表者になったが、宗活を代表とする「両忘協会」は宗教団体を名乗らずに、そのまま存続することになった。組織の逆転した二本立てがここに起こっている。在家禅の組織が急いで宗教団体化することについて、宗活はおそらく慎重だったのであろう。
   古希を迎えた宗活は、昭和15年に関西の残夢荘(隻履窟)へと身を退き、三年を過ごした後、常住侍者の恵直とともに千葉県八幡の残夢荘(寓居)に移っていた。
   組織というものが、時代の流れの中で目標を見失わずに機能し続けることは難しい。戦後の昭和21年、宗教法人法の施行で、組織は宗教法人になることを選び、立田英山老居士を主管として「宗教法人 両忘禅協会」として登記をした。しかし、翌22年に釈宗活老師はその解散を宣告したのである。老師は、在家禅の宗教団体化や、指導者のあり方に厳しい目を向けていたのであった。ここにおいて、明治以来の両忘会の流れと、それに対する宗活老師の長年にわたる指導者としての関わりは、終焉を見た。
   しかし現実には大きな組織が残されていた。再び三たび立田英山老居士の主管で、新たに昭和23年に、「宗教法人 人間禅教団」が立ち上げられた。その「人間禅」は今日にまで続いている。
   宗活は、弟子の大木琢道に身を寄せて、千葉県八日市場の寓居で徳永恵直とともに最晩年を過ごし、昭和29年に遷化した。享年83歳。
   西山松之助氏は、昭和30年秋に、房州のその住まいに徳永恵直(山彦不二子)を訪ねている(『家元ものがたり』)。禅の道の奥底を究め、河東節の正統の継承者であるこの人は、81歳ながら端正でキビキビしていて、江戸っ子らしいイキが感じられたという(冒頭の写真)。西山氏は、「イキ」と書いているが、感じたのは、粋であり、心意気でもあったのであろう。
   なお今日、千葉県茂原市に両忘禅庵があるが、これは宗活没後に大木琢道の子孫により開設された禅道場である。宗活の遺した芸術作品の多くは、ここに保管されていると聞く。
 
   宗活は出家者でありながら、寺に入ることなく、また出家者であるがゆえに在家の生活に甘んじることなく、家を持たず、正式に家族を持たず、みずから禅に生きた人であった。在家者に対する禅指導を使命として、いわば非僧非俗、あるいは僧と俗のはざまに生きて、一方に偏することがなかった人であった。人柄は温かく、しかし禅の指導者となって人の上に立つ者に対しては、厳格に接した。
   宗活自身自分に厳しく、かつ自由に、無所得、無一物を生きたのである。
 
   森田正馬がかつて参禅した老師は、こんな人生を送ったのである。実に森田療法的な人生だったと言えるのではなかろうか。宗活老師は、森田の存命中は谷中墓地に接する道場に居続けたが、森田との再会の機会があったかどうかは不明であるし、宗活の生涯は戦後まで続いた。森田は明治43年の参禅時に宗活と交わっただけで、以後、時空を異にしている。二人の人生が接することはなかったけれども、宗活の生き方には、森田正馬が目指したものがあるように思われ、ここに紹介した。

(了)