僧医、宇佐玄雄の禅的森田療法の講話について―〔若干の解説〕 ―

2017/07/24


猿沢の池と興福寺の五重塔


 

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   残っていた宇佐玄雄の講話音声を、部分的に抜粋して、先に6月11日、7月8日、7月10日のブログ上で聴いて頂けるようにしました。森田正馬が改まって還暦記念講演をレコードに吹き込んだのと違って、日常の講話を録音したものなので、不自然さがありません。概してわかりやすく話しておられますが、早口で、一部には難解なことを言っておられますし、説明不足だと思われる箇所もあります。そこで内容や用語などについて、解説的に若干の説明を加えておきます。

 

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   抜粋の小見出しでいうと、まず「あるがまま」は森田療法の基本的な教えであり、「そのまま前進」、「煩悩即菩提」のあたりは禅的立場からの指導で、森田正馬も、自分の言葉で「煩悶即解脱」と言い換えて指導している通りです。

 

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   「森田先生の教え」の箇所については、今日の治療者はこのようには言いにくいのが現実です。いわゆるパターナリズム(父権主義)的な療法の面が極端に出ていますから。森田先生は仏頂面をして話も聴いてくれない、と日記に書いた人に対して森田先生が言ったことについてのコメントがあります。これは「あるがまま」のはき違えを指摘していると同時に、あたかも禅における師弟関係のように、患者は治療者の権威に従わねばならぬと教えているように受け取れます。本来は、治療者から滲み出るものに対して、自然に敬意の念が湧くような関係ができるのが望ましいのではないでしょうか。パターナリズム的関係の遵守をこう単純に言語化している講話を聴くと、私(ども)としても隔世の感を覚えてしまいます。そうは言っても、パターナリズムを抜き去ったら、森田療法は骨抜きになってしまうと私は思っているものです。

 

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   「健康について」や「植物神経」のところでは、体のどこかの不具合に注意を向けると、感覚が鋭化し、悪循環が起こってしまうという、いわゆる精神交互作用について述べています。

   他に健康に関しては、音声を抜粋できませんでしたが、“ A sound mind in a sound body “―「健全なる身体に健全なる精神宿る」と訳されている―の諺にふれておられる箇所がありました。そこでは、精神を健康にするためには、まず体を健康にしなければならないという論法で考えがちな誤りを指摘しています。この句は、元は古代ローマの詩人、ユウェナリウスが言ったもので、その原意は深いようです。まあ、それはともかく、玄雄先生は、sound という英単語を、healthy と無頓着に言っておられて、ご愛嬌です。先の植物神経の項の後半では、卑近な例を出しておられて、伊賀出身の忍たま先生の面目躍如としています。面白いので、聴衆はゲラゲラ笑っています。このような例を出されると、分かりやすいのでしょう。こちらは倫理コードを気にして、“(卑近な例も)”と書き加えていたのを一旦削除しました。しかし、多分大丈夫にて削除した言葉を戻します。

 

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   「精神の対比現象」は、生と死、自と他、苦と楽などの分別のない一如の教えです。
   「カンチャクを嫌う」という言葉も話の端にあって、説明を要します。これは『信心銘』の冒頭にある次の文中の一部です。
   「至道難きこと無し、唯だ揀擇を嫌う」。ここに言う「揀擇」とは、より好みをすることで、読み方はいくつかあって、「ケンジャク」、あるいは「ケンタク」、あるいは「カンタク」と読まれます。玄雄先生は「カンタクを嫌う」と言ったのです。二分法でより好みをしてはいけない、という意味です。
   以上はすべて禅の本領であり、森田が「苦楽超然」と教えたことと同じです。

 

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   「うつすとも水は思はず うつるとも月は思はず 猿沢の池」。
   この古歌は、柳生宗厳(石舟斎)が、一族に残した剣の極意歌だと言われています。猿沢の池は、奈良の興福寺のそばにあって、そこからさほど遠くない地に柳生の里があります。宮本武蔵を小説に描いた吉川英治氏も、この歌を愛でていました。
   一方、「猿沢の池」でなく「広沢の池」となっている歌もあり、それは剣豪、塚原卜伝が詠んだ歌と伝えられています。いずれにせよ、剣の極意としての無心の境地を教えているものです。柳生流と奈良の猿沢の池にしておく方が風流なようですが、そもそも無心とは、風流、無風流の域のものではありますまい。
   猿沢の池からの連想で、玄雄先生は、「手を叩く、云々」の歌も引用しておられます。間髪を入れずに、と教えていますが、少し説明を補います。
   「手を打てば はいと答える 鳥逃げる 鯉は集まる 猿沢の池」という古歌があるのです。手を打って出す刺激音で、宿の女中さんはとっさに、はいと答えるし、鳥はたちどころに飛び立つし、魚は餌をもらえるかと集まってくるというのです。その心として、捉え方は相手によって千差万別であり、それぞれが思い思いに動くということを示しています。しかし玄雄先生は、この場合神経症者に対して、理屈抜きに即座に必要な行動をするようにと教えておられるのです。

 

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晩年だろうと思われる。


 

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   宇佐玄雄先生の言行のエピソードは、いろいろ知られていますが、不明な点も少なくありません。
   講話でこんなことを言っておられたという、指導の言葉はいくつか語り継がれていますが、たまたま録音された講話中に、それらが展開されているわけではありません。でも今回は、音声や語り口にふれてもらうのが趣旨でしたので、講話の解説はこれくらいにしておきます。
   これまで、こまごまと講話の音声をピックアップしてブログに上げました。通算すると30分くらいになるようです。
   ホームページのファイルの容量に左右されますが、講話の全体をアップロードすることができるかもしれませんし、またCDに落として個別にお渡しできるかもしれません。
   とりあえず、音声をピックアップしての提供とその解説は、これにて。