社会教育活動と森田療法が合流した歴史を考えることをめぐって

2017/11/23


  田澤義鋪(45歳)       下村湖人(浴恩館時代)  


   去る11月上旬、第35会日本森田療法学会が、熊本五高出身者である森田正馬ゆかりの熊本大学において開催された。
  
1. 五高の奇跡
   森田正馬の直弟子で、森田療法を継承した水谷啓二も五高出身者であった。一方社会教育の流れがあって、それが戦後に水谷の森田療法に合流したのだが、その社会教育活動の重要な担い手だった3人の人物、田澤義鋪、下村湖人、永杉喜輔の3人もまた五高出身者だったのである。
   剛毅木訥の校風で知られた五高にして、武夫原頭に立つごとく地に足のついた大物たちを生んだのであろうか。

 

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2.社会教育という用語について
   社会教育という用語がおよそ意味するであろうことの、重要性をわれわれは知りつつ、同時にこの用語につきまとっている不明瞭性を感じざるを得ない。社会教育という四文字は日本語としておさまりが良いけれども、意味は曖昧である。「社会」は形容詞なのか、名詞なのか。形容詞ならば、その意味は、あやふやで捉え難い。ここで思い起こすのは、「対人恐怖」のかつての英訳語、“social phobia”である。これは“social”という形容詞を英語訳に持ち込んだことで本来の意味を晦渋にしてしまった例であった。
   社会教育の「社会」が名詞ならば、「社会」と「教育」の関係について説明がなされねばならない。教育の対象としての「社会」であるなら、社会より上位に絶対的な教育者が存在することが前提になるが、それは人間ではなくなる。社会を超越した人間などいないからである。このような意味を帯びるとき、「社会教育」は非人間的なものとなる。
   逆に「社会」が人間を「教育」するという意味ならば、わからなくはない。人間は社会の中で育ち、教えられ、学びあって成長していくものだからである。ただし、この場合も、「社会」は人間の集団であるから、個々の成員を疎外するような人間不在の社会集団であってはならないことは勿論である。
   わが国においては、社会教育の発生について、それなりの歴史があった。明治の時期に西洋の学校教育制度が導入されたことを背景として、派生的に生じた問題が、その後に社会教育と言われるものにつながっていく。福澤諭吉は、学校教育に対して、人間社会から学ぶという意味で、「人間社会教育」と言った。「社会教育」という用語の始まりであったとされる。ただしこれは来るべき資本主義社会を担う中産階級が、学校教育だけに飽きたらずに、人間社会を学校として、自己教育的に研鑽する必要を説いたもので、より下層の人々を視野に入れるものではなかったと言われる。天は人の下に人をつくっていたようである。その後、学校教育へ向けての就学促進のための親教育や、一般成人に対する教育の必要性も重視されるようになり、それらは「通俗教育」と称された。しかし、教育に恵まれない貧困層を視野に入れる立場から、改めて「社会教育」の必要性が認識されて、「通俗教育」に代わって「社会教育」という用語を大正時代から公的に用いるようになった。
   田澤、下村、永杉が関わった社会教育は、戦前におけるこのような歴史的流れに発していた。社会教育と言っても、その「社会」は戦前、戦時下、戦後へと変化して行ったのは当然である。

 

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3.社会教育と森田療法の関係について
   当初における、社会教育という概念や用語の登場は、その時代の事情に拠るものであったことを、上に述べた。しかし、社会教育における「社会」を、時代に応じた変数と考えれば、曖昧な用語なりに、社会教育を有効語として用いることはできるだろう。また森田療法は、本来教育的な療法であるから、両者が合流し、かつ相互補完的になる可能性は、十分に考えられるであろう。

 

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4.「社会教育」の語の外国語訳の難しさについて
   先に縷々述べたごとく、「社会教育」の用語の晦渋さを容認して、この語を使用する、いわば“日本的な”立場を取ることにした。しかるに、外国語に訳す段になると、そうはいかず、この用語の曖昧さが再浮上するのである。
   フランス語圏のある学会と交流していて、日本の森田療法の最近の事情について、情報を届けて欲しいと、最近強く要望されていた。しかし先般の熊本での学会もあったこととて、その学会のニュースも含めて、森田療法の情報の提供を学会後まで待ってもらった。そして学会直後に、ニュースを書き送った。その中には、社会教育と森田療法に関わる、自分が行った発表についても記しておいたのである。ここで「社会教育」をフランス語でどう書くかが問題であった。適切な訳語がない。やむを得ず、“ l’education populaire “と書いた。しかし案の定、謂わんとする意味が相手に通じない。相手は、曰わく「大変興味があるので、その語が意味するところを詳しく説明してくれないか」。なかなか面倒なことにて困っている始末だ。

 

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5.「生活の発見」の「再発見」から「再再発見」へ
   ある成り行きから、「生活の発見会」と雑誌「生活の発見」の歴史を調べてみたことがあるのだが、今回改めてそれを辿り直した。そのルーツは水谷啓二氏に遡るものであった。そこにはドラマがあった。水谷氏は熊本五高時代の友人で、社会教育活動をしていた永杉喜輔氏と、再会する。水谷はさらに永杉の師の社会教育者、下村湖人にも出会って、磁石のように吸い寄せられていったのだった。下村は、五高以来の盟友の田澤義鋪に従い、彼の亡き後、社会教育の指導者として道を拓きつつあった。だが宰相下村は昭和30年に没した。水谷は31年に啓心会を開き、翌32年に、雑誌を創刊した。その雑誌は永杉の案により、「生活の発見」と命名され、この雑誌の刊行の趣旨として、森田正馬の生活道と下村湖人の社会教育の両者を継承することが謳われた。雑誌の刊行の主体は、水谷方の「生活の発見会」とされた。
   同じ五高出身者たちによる社会教育の流れが、水谷の森田療法に合流したのである。このような歴史を知ることは、すなわち「生活の発見」の「再発見」にほかならない。
   まずは、そのような歴史の説明が必要である。しかし、歴史が明らかにしたように、社会教育を摂取した流れの上に立って、森田療法は、今日においてどのように歩を進めるべきだろうか。「再再発見」の課題に直面しているのである。それは、社会教育の今日的課題と、重なるところがあるかもしれない。
   日本における社会教育の成立事情は、独特のものであった、という言説により、社会教育という用語の曖昧さと、外国に伝える難しさを言う識者がおられるようである。だが、社会教育も、森田療法も、最も本質的な部分では、国際的に通じ合うようなものがあるのではなかろうか。そう考えて模索しているところである。

 

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※ なお、参考までに、第35回日本森田療法学会(熊本)におけるパネルディスカッションで発表した際のスライドを、「研究ノート」欄に提示しようとしています。(本稿より数日ずれる見込み)。