下村湖人の『次郎物語』と森田療法の接点 ―浴恩館を訪ねて―

2017/08/14


小金井市の(旧)浴恩館の建物と、下村湖人。


 

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   森田正馬は、昭和13年に60歳過ぎで没している。下村湖人は、ちょうどその頃、昭和8年から昭和12年までの間、武蔵小金井の「浴恩館」(日本青年館の分館)に付設された「青年団講習所」の所長として、集団合宿に集まった青年たちと起居を共にしていたのだった。その塾風生活における指導は、あたかも入院森田療法のようである。しかし森田と下村との間に交流があったわけではない。
   下村は森田と同じく熊本五高の出身者である。森田より10歳年下で、五高は森田の8年後に卒業して、東大英文科に進んでいる。
   二人の間に出会いが起こることはなかったが、下村の社会教育の活動は、弟子の永杉喜輔を通じて、やがて水谷啓二の森田療法に合流することになる。永杉と水谷は熊本五高の同級生であった。永杉は五高から京大の哲学科に進んだ後、浴恩館における下村の青年団講習所に学び、以後下村に師事し続けた。水谷は五高から東大の経済学部に入り、卒業後はジャーナリストになっていた。戦後に社会教育の立て直しを図ろうとする下村のもとにいた永杉は、かつての同級生の水谷と再会し、彼を下村に紹介した。こうして、下村が拓こうとする社会教育と、森田の生活道を追求していた水谷の活動が、軌を一にすることになるのである。


野口周一先生(左)と、浴恩館公園の入口で。


 

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   野口周一先生は、下村湖人や永杉喜輔らについての研究者であり、社会教育の実践者でもあるお方である。かつて下村が、戦後に創刊した社会教育のための雑誌、「新風土」は消滅し、行き着くところ、水谷啓二の雑誌「生活の発見」に、「新風土」の誓願を委ねるに至ったが、野口先生はその流れを追って、森田療法や「生活の発見会」に到達された。私はと言えば、森田療法における自助組織に関心を持って、「生活の発見会」のルーツを辿ったら、永杉喜輔に、そして下村湖人に遭遇することになった。こうして野口周一先生とのご縁ができたのである。
   去る6月の下旬、私は上京した折に小金井市の(旧)浴恩館を訪れた。関東在住の野口先生は、このとき親切にも、私の日程に合わせて浴恩館公園においでくださり、さらに公園の近くにお住まいになっている下村湖人の縁戚のお方をご紹介くださったのだった。縁戚のお方は、浴恩館公園美化サポーターとして、ボランティアで公園の美化に尽くしておられる中嶋直子様である。三人で公園に行き、野口先生と中嶋様に丁寧に説明していただきながら、(旧)浴恩館の館内や公園の敷地内を見学することができた。
   この浴恩館公園は、小金井市が所有しており、(旧)浴恩館の建物は、小金井市文化財センターになって、市内の考古資料などと共に、浴恩館だったときの資料や下村湖人に関するものが多く展示されている。青年団講習所で共同生活をしている青年たちの写真や、剣道の道場の写真も展示されていて、当時の研修生活が視覚的に伝わってくる。学術用に展示物の写真撮影を許可されたが、そのような写真は、残念ながらブログに出すことはできない。


空林荘跡


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   講師用宿舎として、空林荘という、こじんまりした瀟洒な建物があった。下村湖人がここに住まい、『次郎物語』の執筆の想を練り、第一部を書いた場所である。
   空林荘は、貴重な建物として、市の史跡に指定されていたが、平成25年3月に焼失した。
 


空林荘の解説看板



   空林荘の解説看板に記されている文章を、そのまま以下に転記しておく。
 

市史跡 空林荘

   この空林荘は、全国の青年団活動の中心であった財団法人日本青年館が、昭和5年にその分館として浴恩館(青年団講習所)を開設したとき、講師の宿舎として建てられたものです。
   青年教育の実践家として知られる下村湖人(1884~1955)は、昭和8年から同12年まで講習所の所長を務めました。    空林荘は下村湖人が講習生と寝食を共にし、指導にあたったところです。
   そのころ、「次郎物語」の執筆を始めた湖人はここで構想を練り、次郎の少年時代を記述しました。昭和29年に発表された第5部に登場する友愛塾と空林庵は、浴恩館と空林荘をモデルにしたものです。
   なお、空林荘は貴重な文学遺跡として市史跡に指定されましたが、平成25年3月に焼失しました。

平成26年3月

小金井市教育委員会

 


下村湖人の直筆が刻まれた歌碑。


 

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   「大いなる 道といふもの 世にありと 思ふこころは いまだも消えず」

   歌碑には、下村の書いた字体が、そのまま拡大されて刻まれているようだが、判読するのが難しい。刻まれているのは、上記の歌である。
   下村は戦前とほとんど変わることのない「新風土」の誓願を掲げていた。その一部を拾えば―、「個性の自律的前進が、同時に調和と統一への前進であり、全一なるものの歓びであるように行動したい。」、「伝統にはぐくまれ、歴史を呼吸しつつ、しかも生生発展(…)、新しき歴史と伝統とを創造したい。」と謳われている。
   しかし、伝統の上に個人の自律を模索する誓願にのっとって発行した雑誌「新風土」は、戦後の社会にあまり受け入れられることなく、廃刊のやむなきに至った。永杉によれば、下村は「甘かった」と嘆息したと言う。
   それでも、浴恩館での塾風生活体験を描いた『次郎物語 第五部』が、昭和29年4月に出版の運びとなった。
   その秋、昭和29年10月3日、古希の誕生日に、下村は「大いなる道…」の歌を詠んで、新たな前進を自身に誓ったが、その肉体は既に病に蝕まれており、翌年4月に世を去ったのだった。