森田正馬生家の訪問

2015/10/31

表紙

 
 

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 これまでたびたび機会を逸してきましたが、ようやく森田正馬の生家を訪問しました。倉敷での日本森田療法学会の開催終了の翌日の10月17日のことでした。この日は地元の方々が集まって、生家の屋内外の清掃が行われていました。
 生家は89年に旧香美郡野市町に買い取られ、不登校の子どもたちのための「森田村塾」が開かれていましたが、市町村合併で香南市が管理を引き継ぎました。しかし建物の老朽化が進み、解体も一時は視野に入れられ、保存が危ぶまれるまでになっていました。そのため本年、「森田正馬生家保存を願う会」が発足したのです。
 自分も入会したのと、もうひとつは、来る12月初旬に高知市で開催される日本精神障害者リハビリテーション学会で、ご当地出身の森田正馬と森田療法の成立について、話をするようご指名を頂いているので、その前に生家は是非見学しておきたくて、急遽訪問したのです。生家は、管理している香南市により平素は施錠されているそうですが、10月17日は清掃のため屋内も開放されていて、屋内にも入って見せて頂くことができました。森田正馬のご親族で、「保存を願う会」の事務局長を担当なさっている森田敬子様にも、お会いすることができました。正馬先生にどこか面影が似ておられるので、驚きました。

 
 
 
 
 
 

清掃中。剪定された植木の枝や、引かれた雑草がうず高く積まれている。背後に見えるのが、古い生家そのままの建物である。
清掃中。剪定された植木の枝や、引かれた雑草がうず高く積まれている。背後に見えるのが、古い生家そのままの建物である。

 
 
 
 
 
 

建物の右半分は、改築された部分である。
建物の右半分は、改築された部分である。

 
 
 
 
 
 

お庭
お庭。

 
 
 
 
 
 

高知大学医学部看護学科教授のO様と高知県精神保健福祉センター社会福祉士のF様のお二人と合流して一緒に訪問した。屋内で話しておられる森田敬子様(左)とお二人。
高知大学医学部看護学科教授のO様と高知県精神保健福祉センター社会福祉士のF様のお二人と合流して一緒に訪問した。
屋内で話しておられる森田敬子様(左)とお二人。

 
 
 
 
 
 
 
 

最近新たに造り直された森田家の墓所に向かう。
最近新たに造り直された森田家の墓所に向かう。

 
 
 
 
 
 
 
 

森田正馬の墓。
森田正馬の墓。

 
 
 
 
 
 
 
 

森田正馬の墓石の、向かって左側面から始まって、背面、向かって右側面へと、長文の経歴が墓碑銘として細かく彫り込まれている。まず、この画像は、向かって左側面の写真である。画像を拡大すると、ある程度その文字を読むことができる。

森田正馬の墓石の、向かって左側面から始まって、背面、向かって右側面へと、長文の経歴が墓碑銘として細かく彫り込まれている。まず、この画像は、向かって左側面の写真である。画像を拡大すると、ある程度その文字を読むことができる。

 
 
 
 
 
 
 
 

墓石の背面。向かって左側面の文章の続きが彫り込まれている。

墓石の背面。向かって左側面の文章の続きが彫り込まれている。

 
 
 
 
 
 
 
 

墓石の向かって右の側面。背面の文章の続きが彫られており、最後に「医学博士 高良武久 謹誌」とあるので、高良先生がお書きになった森田の経歴文なのであろう。

墓石の向かって右の側面。背面の文章の続きが彫られており、最後に「医学博士 高良武久 謹誌」とあるので、高良先生がお書きになった森田の経歴文なのであろう。
 
 

森田療法 「サ・エ・ラ」~(1)2チャンネルの話~

2015/10/12

 あれやこれや、森田療法にまつわることについて、書きとめます。話は、あちこち(cà et là)に及びます。
 
 

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(1)森田療法についての2チャンネルの記事について
 

 私は、森田療法について書き込まれている「2チャンネル」の記事をたまたま読む機会がありました。2チャンネル、あなどるなかれ。様々な記事が出ていますが、森田療法をどう消化してどう生きればよいのかについての模索や、自身の経験から掴んだ森田療法観の開示や、森田療法家たちのスタンスの違いへの困惑と疑問などについての発言があふれています。管理の仕方にもよるのでしょうが、2チャンネルを全体として見ると、匿名の立場から他者への無責任な中傷が書き込まれていることが少なくないことは周知で、私もこれまでは2チャンネルを無視して、読もうとはしませんでした。しかし、森田療法についての書き込みをなさる方々は、動機はどうあれ森田療法について真剣に考えたことがある人たちを母集団としているようで、ひやかしではなく、概して深く高次のやりとりが交わされています。全部を読んだわけではありませんが、「ああ、なるほど、こういう発言や討論がされているのか」とわかり、参考になりました。
 建て前論を言えば、森田療法は言葉で論じ合うものではありません。論じている暇があったら、(なすべきことをなす、というような杓子定規を言うような野暮なことはやめるとしても)、まあ何でもいいから、することあるでしょう、となるのです。実際2チャンネルに参加しないで、自分の生活にいそしんでいる人たちが圧倒的に多い筈です(リア充?)。だから2チャンネルは、なくてもがなだけれど、でもそれは治療理論と実生活のあわいの中間領域として、ネット上で機能しています。ネット上の多少理屈っぽいアノニマスな自助グループの面もあるようですが、森田療法の今日的事情がこのようなチャンネルを生んだことは否めません。
 森田療法の原法においては、症状を訴えたり、治療法を論じたりする言語的交流は禁じられ、「不問」に付されました。私は三聖病院に関わってきましたが、「不問」はこの病院において、とくに顕著な特色になっていました。入院生活においては、治療者は修養生(入院患者さん)の訴えを聴かないのみならず、修養生同士も、症状や治療について話を交わすことは禁じられていました。院内には「しゃべる人は治りません」、「話しかける人には答えないのが親切」などと墨書された紙が掲示されていました。ある若者はこれを強迫的に守って、退院後、家でも緘黙的になり誰ともしゃべらなくなったので親が困ったというような笑えないエピソードもありました。修養生の人たちは、職員のいない場では、自分たち同士でおしゃべりはしていました。それが「とらわれ」を増強させることもあれば、他の修養生の体験から出た一言が、大きなヒントになることもあるようでした。規律は守るべきですが、強迫的になる必要もありません。臨機応変でよいのですね。
 もちろん、理屈をこねまわすことは治療的に不毛であるという意味では、「不問」が大切です。そして森田療法の根本的な本質のところは理屈抜きに重要です。そこのところを森田は「事実唯真」と教えました。それ以上はああだこうだと論じ過ぎてもむなしいわけです。とは言え、不条理にあるがままに向き合う森田療法という厳しい療法について、迷ったり、智恵を深めたりしてしている人たちにとって、ネットというしゃべり場があり、それがネット上であるがゆえに流動的で自浄作用を伴う集団として機能しているのは面白いと思いました。
 いずれにせよ、古い森田療法家も、若手森田療法研究者も、当事者も、人間みんなストレイ・シープ です。今日頭でわかった理屈は、明日吹っ飛んでしまうかもしれません。森田療法を論じても、どうにもならないことは多いようで。
 2チャンネルあなどるなかれ。しかし人生端倪すべからず。
 
 
「いのち短し恋せよ乙女
 紅き唇褪せぬ間に
 熱き血潮の冷えぬ間に
 明日の月日はないものを」(『ゴンドラの唄』)
注)旧世代向け。
 黒澤明監督の映画『生きる』で、癌で死を控えた主人公が口ずさんだ歌。
 主人公は、絶望と自棄を乗り越えて最後まで生き抜いた。
 
 
「生死事大 無常迅速
 光陰可惜 時不待人」
注)禅オタク向け。説明不要。
 
 (1)だけでは、「サ・エ・ラ」になりません。(2)は次回に。

森田療法と禅(私が三聖病院で迷ったこと)

2015/10/05

 最近ブログが途切れがちになっていました。以前の「旧ブログ」では、オリジナルな論文とまではいかなくても、堅苦しい文章を一生懸命に書いて掲載していました。現在は、ささやかな規模ながら、研究所のより良い活動の仕方を考え直しているところです。ホームページについては、昨年その管理会社が変わり、「new blog」になったのを機に、以後ブログ欄には、小論文を出すのではなく、必要な記事を自由に出す方針にしています。その水面下では様々な模索を続けています。昨年は京都で国際学会の開催を引き受けるという大仕事を経験しましたが、そこから派生した交流があり、それをどう生かすかという課題も抱えています。
 一方で、昨年末には三聖病院が閉院になるという、大きな出来事がありました。これは年末に単に診療を閉じたということにとどまりません。貴重な資料の保存の仕方などの重大な問題に直面しましたし、年が明けてからは、由緒ある病院の建物が解体されていくのを感慨深く見守り続けることになったのでした。
 院長はじめ関係者にとって、三聖病院の「喪の仕事」はまだ終わっていないと思います。
 私自身としても、三聖病院との長かった関わりを顧みて、複雑な思いが去来し、「喪の仕事」も「総括」も終わっていません。非常勤での関わりでしたが、三聖病院とのご縁をきっかけに、人生の後半は森田療法と共に歩みました。だから冷ややかに森田療法評論家を気取っているつもりはありません。でも病院には病院の、森田療法には森田療法の、社会的責任があると思います(それは勿論三聖病院だけに限ったことではありません)。そのような視点から、経験を通して心の底から湧いてくることについては、常識的に許容される範囲内で、慎重にものを言う責任はあるだろうと思っています。

 さて、なんだか難しいことを書いたあとで、次に砕けたことを言うのはどうかと思いますが、私の手元には最近書いたちょっとした砕けた雑文があります。
 私は、三聖病院の森田療法を通して禅に触れ、禅について、心中右往左往し、悩まざるを得なくなったのでした。そこでついに三聖病院の外の禅にも接してみたくなり、花園大学教授(現 花園大学禅文化研究所所長)の西村惠信先生の教えを乞いました。現在も禅文化研究所での勉強会に参加させてもらっています。ところが西村先生は先般、参加者の人たちはなぜここへ集うようになったのか、それぞれの理由がある筈だから、文章に書けとのたまいました。集められた原稿は文集として、私家本になります。
 私には私の理由がありました。勿論それは三聖病院で禅を学んで、そして直面した迷いに関係します。
 数ヶ月後に出来上がるであろう私家本は、諸賢の目には触れません。また近日、倉敷での学会では、三聖病院の歴史的意義について発表させて頂きますけれど、歴史的位置づけについての短い発表になる筈で、私個人の体験を発表するものではありません。私家本向けの拙稿は個人的体験の側から、書きました。雑文として、カリカチュアライズして書きましたので、そこが不謹慎ですし、私家本の刊行より先行掲載するのもアンフェアかも知れないのですが、この時期にお読み頂ければと思い、期間限定で出しておきます。
 カリカチュアライズしたのは、私自身にとって内容が重過ぎたからです。関係各位に失礼になった点はお詫びしなければなりません。(1ヶ月間で削除予定)。

 

 

 

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(さらに…)

西村惠信先生が出演なさった仏教バラエティー番組について―森田療法の視点から―

2015/08/22


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西村惠信先生を囲んでの本年の新年会の写真(部分)。

 

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1.終了後の「まえせつ」
 前に案内しましたように、NHK総合テレビで『ギヤーテーギヤーテー・煩悩ショップ108』という仏教バラエティー番組が先般放映されました。NHKから請われて、花園大学禅文化研究所所長、西村惠信先生がこの番組に出演なさいました。西村先生は豪放磊落、こだわらずに清濁併せ呑まれるお方です。番組の企画上の制約があることとて、ご発言は限られるにせよ、テレビ画面から伝わる西村先生のお人柄を感じ取って頂くとよいと思って、番組の案内をしました。出演なさった西村先生ご自身、8月15日深夜に放映されたこの番組をご自宅で視聴されて、出来上がったその全編を、おそらく始めてご覧になったのではないかと思います。番組へのご自身の感想はまだ伺っていませんが、視聴者のひとりとしての私の感想を漏らします。
 私たちが毎週通っている禅を学ぶ会で、西村先生はおっしゃっていたのでした。NHKのディレクターが、自坊まで出演の依頼にやってきて、こんなことを言った。数多く著された難しい禅学の書物に加えて、ハウツウ本とも言えるような育児の本(注)もお出しになって、その中で実際に則して、人の心の琴線に触れるようなことを平易にお書きになっているので、出演をお願いするのはこの方だと思った、と言った。引き受けたら、衣を着るか作務衣を着るか、何色を着るかまで、何度も細かい打ち合わせがあった。AKBとか言う頭を丸坊主にしたことのある女の子や落語家(とおっしゃっていた)が出る。小池龍之介が煩悩の相談に応じ、自分はショップのオーナーの役で、奥でモニターを見てコメントをする。渋谷の駅前の歩道橋の上で、般若心経を唱えさせられる。それが番組のラストになるらしい。
 まあ、最初はこのようなお話しだったのです。
 注)『いい子に育つ仏の言葉』小学館、2004.
 

2.馬頭観音と西村惠信先生
 さて8月15日に番組を視聴したら、店長(よゐこの濱口優さん)や店員(女優の江口のりこさん)と話しをなさる場面が早速出てきました。「無縄自縄」、「煩悩即菩提」と書きながらおっしゃった解説もさることながら、濱口さんが気楽に西村先生と交わす会話の方が愉快です。いくら演技でも、濱口さんが西村先生のお人柄に包容されて親しみを覚えなければ、こんな雰囲気の会話にはなりません。
 (AKB48についての会話):オーナー役・西村先生 「有名な人らしいけど僕は知らんね」、店長役・濱口さん 「ボーズ48はないのですか」、 西村先生(笑いながら)「ボーズ48はないね」、濱口さん「アッハッハッハハー」。
 番組の冒頭では、店長の濱口さんは、店員の江口さんに、「オーナーは怒る」と言ったり、「あの髭ええよねー」と言ったりしています。共演する中で、威厳と親しみを感じたのだろうと思われます。
 煩悩ショップの受け付けの部屋には、「馬頭観音」の図像が掲げられており、「108の煩悩を食べ尽くして、救済してくれる観音様」という説明が添えられていました。濱口さんは江口さんに、馬頭観音について説明します。「馬頭観音はね、108の煩悩を食べ尽くしてくれる。そのときに、なんでそんなに悩んでるねー、と怒りながら愛の説教をしてくれる、そんな観音様やね。そういうこと覚えていかんとオーナーに怒られるよ」。江口さん(笑いながら)「オーナーは怒るのですか」。濱口さん「怒る、怒る」。
 西村惠信先生は、馬頭観音に重ねられているのでした。
 

3.悩みに対する僧侶の説法
 仏教の面目は本来葬式仏教にあるのではなく、より良く生きるための知恵です。最近、その生きる知恵としての仏教が、一部の前衛的でユニークな僧侶の出現で、若者や市民の親しみを得るようになっている風潮があります。そのような流れでの仏教バラエティー番組でした。それにしても、予想以上にバラエティー過ぎる仏教番組で、多少辟易したのでした。
 若手の僧侶で、何冊もの著書が若い世代に読まれている小池龍之介さん。東京の新橋でボーズバーを経営しながら、そこで悩みの相談に乗っている真宗の全盲僧侶、田口弘願さん。さらに極めつけは、ネット上に動画を出してバーチャルアイドルと仏の世界を融合させて、若者に人気のカリスマ僧侶、真言宗の蝉丸Pさんです。しかし、このようなネット上のゆるキャラ僧侶の人気は、それ自体、社会現象として捉えるべき別の問題なのでしょう。
 さて「煩悩ショップ108」 では、AKB48の峯岸みなみさんの、「仲間の成功を喜べず、嫉妬心を感じる」という悩みに対して、小池龍之介さんが相談に乗ります。同じく、ダチョウ倶楽部の上島竜平さんの、「自分の芸に対する周りの評価が気になる」という悩みに、田口弘願さんが相談に乗ります。さらに、街角煩悩ボックスまでしつらえて、田口さんが街ゆく人のお悩み解決までします。芸能人や市民のそれぞれの悩みに、僧侶が仏教の視点から助言するのです。そして助言を受けた人たちは、「スッキリした」、「心が洗われた」などと言って帰って行くのでした。
 
4.森田療法から見れば
 西村惠信先生は、出演後に次のように語られたそうです。「きらびやかな舞台に立つ人間でも『個人』としての悩みを抱えているということは、華やかなこの時代であっても、個人という問題は切り離せないものだと実感した。煩悩は無尽だが、仏教の教えでそれを断ち切ることが出来ればという願いを込めた」(「NHK ONLINE」というサイトより)。
 これはおっしゃっる通りだと思います。個人の悩み、煩悩、心の病理は無尽であるからこそ、精神医学や精神療法は、それらに向き合い続けているのです。ただし向き合うにあたっては、治療者が深い知恵をもつことが必要です。そこにおいて仏教や禅などの知恵を治療に取り入れたのが森田療法です。このように悩みや煩悩への対処として、森田療法は、仏教や禅に通じるものですが、だからと言って、両者は同一だと安易に言ってしまうこともできません。今回の番組からは、むしろその違いを考えさせられました。
 煩悩の相談に乗った僧侶たちは、来談者たちに助言しています。自分の中の嫉妬をそのまま受けとめること。自己中心的に自己を追求しても、そこに本当の自分はない。周りの人がいてくれて、そのおかげで自分が作られ、自分は自分らしくなる。だから自分に対する不安はあってもそれで安心なのだ。助言の要点はざっとそんな具合です。
 このような指導を森田療法に照らして見ると、指導の内容は森田療法とまったく同じです。しかし指導のしかたは、かなり異なります。お坊さまたちの指導は、個別の相手に合わせた仏教の説法です。いわば説得療法です。あるいは、仏教的な超ブリーフサイコセラピーです。うまくポイントを突く助言をなさっているので、クライアントの方々は腑に落ちたようで、「安心した」、「スッキリ解決した」、「仏の教えて偉大やな」などとおっしゃっています。一旦はそれでよいのでしょう。でも人間の業は深く、また煩悩が心の中を占領します。
 「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」。これは有名な鈴鹿馬子唄ですが、この替え歌があります。「寺は照る照る帰りは曇る 家に着いたらどしゃ降りの雨」。心を清々しくするためにお寺に行ったのはいいものの、家に戻ったらまた煩悩の大雨に流されてしまう、というわけです。煩悩を抱えつつ生きるのが人の性で、七転八倒、七転び八起きが人生なのです。失礼ながらお坊さまの説法を聞いて、スッキリしたという解決はちょっとあやしくて、「一を聞いて十を知る」ほどの明敏な人でなければ、その場の仮の解決にしか過ぎないものになるのではないでしょうか。
 むしろ、心には簡単な解決などありません。簡単に決着しないことをみずから身をもって知るのが、本当の解決なのでしょう。お坊さまの説法による教えもさることながら、その教えをひとつの光としつつも、自分自身で見つける答えの方が貴重です。
 煩悩にとらわれながら、どんな答えがあるかはわかりませんが、暗闇の中を手探りで生きていくように導くのが、森田療法です。治療者は人生の先達として存在し、後進(患者さんやクライアントさん)を薫陶しますが、心の問題解決に何の指針も与えません。心は主人公に帰属しますし、主人公ですら、自分の心を操作することは困難なのですから。治療者は後進と生活を共にし、その中で、言葉による説法では伝え得ないものを伝えてやります。より厳密には、生き方のこつのようなものを伝えるということはできない、ということを言葉なき言葉で伝えるのです。
 森田療法は、会話をしない無言の療法だと言うのではありません。ゲラゲラ笑う場面もあってよいのです。ただ肝心なことは、言葉による説法のごとき方法ではなかなか伝えられないので、日常の生活そのものが、そのまま治療実践になるのです。治療者自身、煩悩を抱えて生きている生身の馬頭観音です。自分の煩悩と食べた煩悩で腹一杯になりながら、生活し続ける治療者を見て、患者さんの人間性は陶治されていくのです。
 森田療法はそんな療法ですから、「ギャーテーギャーテー」の番組の「煩悩ショップ108」の煩悩相談に興味津々だったけれど、違和感を覚えてしまったのでした。
 
 番組の最後に、西村先生が渋谷で般若心経を唱えて、般若心経は世の中の苦しみを断ち切る誓願だとおっしゃったのが、印象的でした。森田療法も、最後は祈りに通じるのかも知れません。

『ギャーテーギャーテー・煩悩ショップ108』(8月15日深夜、NHK総合で仏教新番組)

2015/08/14

 いつになく、NHKの放送番組のご案内をします。
 
 昨年末閉院になった三聖病院に私は長年勤務していました。そこで教えられる定番の思想は禅でした。それはよいとしても、禅における「自他不二」と異なり、三聖病院では禅と矛盾する自己意識と他者意識の二分法が、いつしか指導原理の根幹として定着してしまっていました。これは奇妙な矛盾です。このことについて私は独りで思い悩みました。思い余った私は、花園大学学長だった禅学者、西村恵信教授の教えを乞うたのでした。そして禅はやはり「己事究明」に発するものだということを教えて頂いたのでした。以来私はこの西村恵信先生(花園大学禅文化研究所現所長)に師事しています。
 
 前置きが長くなりましたが、NHKの仏教バラエティーの新番組のお知らせをするのは、この西村恵信先生が出演なさるからです。
 8月15日(土曜日)深夜(正しくは16日)の0時5分から、NHK総合テレビで、仏教バラエティーの新番組『ギャーテーギャーテー・煩悩ショップ108』が放映されます。ダチョウ倶楽部の上島竜平さんや、AKB48の峯岸みなみさんらが悩みの相談に訪れて、小池龍之介さんが相談に当たるのだそうです。西村恵信先生は、長老として番組の後半に登場されます。バラエティー的な番組なので、ディレクターの依頼に応じての出演の仕方をなさるのはやむを得ないところですが、私が視聴をお勧めするのは、画面から伝わるであろう西村恵信先生のお人柄を感じ取って頂きたいからです。
 どうぞご覧になって下さい。

三聖病院の部屋の番号札について

2015/08/09

 三聖病院の部屋の番号札を、(先に写真で紹介したものを含み)合計27枚保管しています。
 以下に、それらの写真を若い番号から順に並べて掲げます。札は、板の上に書かれた文字を彫り込んだものですが、板の材質、文字の筆跡、「号」の字の旧字体か新字体かの別、釘穴の形、などから、本来の古い札か、後で作り直したものか、判別することができます。
 本来の古いものは、大きさはやや小さく、桐らしい用材の軽い板で、柾目が生かされ、その上に、玄雄先生の筆跡らしき文字を、彫り込んで仕上げています。号は旧字体で「號」と書いてあります。釘穴は、古建築で使うタイプの縦長になっています。このような特徴を備えた札が、玄雄先生の時代の古い札です。以上は、二十號室におられた学芸員のA氏から教えて頂いたことに拠っています。惜しいことに森田正馬の宿泊した部屋に掛けられていた番号札は、ラワン材で丸釘付けなので、後に作り直されたものと思われます。
 ともあれ、このような真贋は別として、それぞれの番号札は、その部屋で寝泊まりして、修養生活を送られた方々の、かけがえのない思い出に結びついていることでしょう。
 思い出話やコメントがございましたら、このホームページの「通信フォーム」から、ご自由にお寄せ下さい。

 
 

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第十五號室の裏面は「看護婦室」になっている。

 
 

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第二十四号室の裏面は「処置室」になっている。

 
 

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風はCEEJAへ、アルザスへ─森田療法の日仏交流の未来─

2015/07/27

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アルザスのお城での和太鼓の演奏(本文参照)

 
 
 

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1. PSYCAUSE国際学会(京都)の後日談
 
 森田療法の日仏交流は、最近少し膠着しています。
 私は、PSYCAUSEというフランス語圏の国際学会組織とのお付き合いの絡みで、数年前から単独でこの組織を相手に森田療法の紹介を試みてはいました。その流れで昨年(2014年)秋、京都でPSYCAUSEの国際学会の開催を引き受け、閉院間近い三聖病院にフランス人らの来訪を受け入れました。それでも、残念なことに、森田療法の交流の実は、さほど上がったとは言えませんでした。紹介する側には、工夫が必要ですし、学ぶ側には、それなりのモティベーションの高まりがなければ、浅い交流にしかなりません。禅で言う「啐啄同時」でなければならず、機が熟すことが必要なのです。
 それでも、昨年の京都での PSYCAUSE 学会に来た人たちの中に、日本文化について際立って通じていて、とりわけ森田療法に関心を示す人がいました。アルザス地方の都市、コルマールに住む精神分析家のニル・エルブ Nyl ERB 女史です。このような人との縁が生じたことは、昨年の学会の思いがけない収穫でした。
フランスの東部、ストラスブールやコルマールの市街を中心に、周辺には豊かな自然が広がるアルザス地方には、パリとは趣の異なる文化があります。この地域には、明治維新の前後から、ある意味でパリ以上に古い日仏交流の歴史があったのです。
 アルザスを拠点とする日仏文化交流は、近年とみに活気を帯びています。ストラスブール近郊には禅堂があります (この禅堂のことは改めて紹介したいと思います) 。
 そしてコルマール近郊には、「アルザス・欧州日本学研究所」 [略称:セージャ (CEEJA) ] があって、ヨーロッパにおける日本学研究の推進に多大な貢献をしつつあります。ニル・エルブ女史は、このCEEJAとの絆を有していて、昨年の京都でのPSYCAUSE国際学会のことや森田療法のことをCEEJAに伝えてくれました。そのおかげで、この組織の重要人物、企画統括責任者であるヴイルジニー・フェルモー Virginie FERMAUD女史が、森田療法の受け入れに早速関心を示してくれているのです。それに応えるべきはこちらです。早くも機は熟していて「啐啄同時」といきたいものですが、なかなか日本側で事が運びません。とりあえず、このような事情を力量不足の私個人の問題に留めず、関心と実行への意欲をお持ちのかたがたに、課題を共有して頂くべく、情報をお届けします。

 
 

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精神分析家のニル・エルブ Nyl ERB 女史(写真中央。昨秋の京都でのPSYCAUSE国際学会の席で)。 学会後、この人が、アルザスへの森田療法の紹介の先導役になってくれている。

 
 
 

2.CEEJA(アルザス・欧州日本学研究所)について
 
 コルマールは、旧市街には古い木組みの家並みが残されていて、中世の歴史的雰囲気をとどめている趣のある街です。宮崎駿監督のアニメ作品、『ハウルの動く城』は、このコルマールの街並みを舞台にしたものだそうです。
 さて、CEEJAは、コルマール市郊外のキンツハイム村に、2001年に創設されました。CEEJA(セージャ)とは、CENTRE EUROPEAN d’ETUDES JAPONAISES d’ALSACE(アルザス・欧州日本学研究所)の略称です。
 日本とフランスの交流は、長い歴史を有しています。時代を遡ること約150年、幕末の日仏修好通商条約を契機に、アルザスと日本の外交的関係が開始されました。アルザスでは当時から繊維産業、とりわけ染織業が盛んでした。それは関西の繊維メーカーの注目するところとなり、日本からアルザスの工房に反物が持ち込まれてプリントされたり、また日本の染色技術が導入されたりして、繊維産業を中心とする日仏経済交流が進められるようになったのです。染色のデザインはもちろん芸術の分野に属します。繊維産業を端緒とした経済的文化的的交流は、やがて繊維だけに限らず、アルザスを入り口にヨーロッパへの日本の伝統文化の導入へと進展しました。それは芸術の分野で起こったジャポニズムの起源になったと言われます。こうして明治以後、アルザス地方と日本との文化的、経済的交流は続いてきました。
 とくに日本経済の高度成長期に、多くの日本企業がアルザスに工場を設立しました。それと並行して文化、学術領域においても、ストラスブール大学を中心に日本語教育や日本文化の研究が進められ、日仏文化交流の気運が一層高まったのです。そんな流れを受けて、CEEJAは今世紀の初めに設立されました。現在既に日本のいくつかの大学と、教育や研究に関わる提携を結んでいます。
 コルマールでは、約5000人の地元の人たちが日本企業で働いているそうです。このように経済を共有しながら、日本文化に親和性を持つアルザスの地に設立されたCEEJAは、生活に根ざす精神療法である森田療法を、堅実に受け入れる可能性のある格好な機関であろうと思うのです。

 
 

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CEEJAの企画統括責任者、ヴィルジニー・フェルモー Virginie FERMAUD 女史(右)と、
CEEJAで研究に従事中の日本女性、S様(ニル・エルブ女史撮影)。

 
 
 

3.最近CEEJAでおこなわれた行事から
 
1)3月に開催されたCEEJA国際シンポジウム「『間(ま)』と『間(あいだ)』」に関連して
 
 例えば、このようなシンポジウムが、CEEJAでは、意欲的に開催されています。
 ところで昨年の京都での学会で森田療法のことを伝えた際、この療法における治療者の重要な態度としての「不問」について、説明を尽くしていませんでした。
 そこで年が明けてから、ニル・エルブ Nyl ERB 女史に、差し当たり、藤田千尋先生が英文でお書きになった大著の中の「不問」についての数ページの章をコピーして送りました。そしたら彼女は早速それを、知人にフランス語に訳させました。そのフランス語の訳文は、折しも「『間(ま)』と『間(あいだ)』」というシンポジウムを企画なさったCEEJAの企画統括責任者のヴィルジニー・フェルモー Virginie FERMAUD 女史にも渡されました。
 フェルモー女史は、既にニル・エルブ女史がCEEJAに寄贈してくれた日仏両語の拙著を読んで下さっていて、森田療法の予備知識を持っておられます。そしてさらに「不問」についての文献をお読みになったことにより、ニル・エルブ女史を介して私に質問が届きました。「『間(ま)』と『不問』の関係」についての質問だったように思います。藤田先生は「不問」を治療としての「間(ま)」の置き方であると捉えると同時に、それは治療者が患者を理解しえて初めて取り得る態度であるように書いておられたと思います。しかしフェルモー女史から差し向けられた質問は、より深く説明を敷衍するように求めているようでした。それは、あちらでのシンポジウムが終わってから、かなり後に、ニル・エルブ女史経由で私に届いたものです。これは難問であり、整然とした答えは未だに返信できないでいます。「不問」についての問題は、今なお私自身にとっても、三聖病院との絡みにおいて、最終的な整理が済んでいないのです。 一方、ラカン派の精神分析家であるニル・エルブ女史は、自己と他者の関係において、「間(ま)」や「不問」をどう捉えるのかと質問を向けてきました。それには要点のみ答えておきました。
 「間(ま)」と「不問」は似ているが、必ずしも同じ文脈で説明できるものではない。ただし両者に通じるところは、甘えをほどよく自己抑制する精神的に成熟した態度であり、また他者の尊厳を重んじるがゆえに、他者と柔軟な距離を保つ、そんな関係のことであろう。そのような意味では、「不問」は、森田療法の治療者患者関係における特別な間柄の設定のことではない。

 
 

2)中世フェスティバル《サムライ伝説》
 
 文化祭的な行事も開催されています。去る6月には、コルマールの郊外にある中世の城、シャトー・オーランズブールで、「中世フェスティバル《サムライ伝説》」と銘打った催しがおこなわれました。これはニル・エルブ女史から写真と共に届けられたニュースによっています。催しの中身がどんなであったのかはわかりません。写真は開会式の模様です。フランス人たちによって披露された勇壮な和太鼓の演奏、そして挨拶をなさっている要人のかたがたの姿などです。

 

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≪サムライ伝説≫のフェスティバルの開催の掲示。

 
 

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開会の挨拶をするCEEJA所長、アンドレ・クライン André KLEIN 氏(右)、地区長(中央)、日本領事(左)。

 
 
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和太鼓の演奏

 
 

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同上

 
 

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同上

 
 
 

4.明日へ
 
 昨年、閉院を間近に控えた三聖病院へのフランス人たちの来訪も、過ぎ去った幻となりました。三聖病院は無くなったけれど、あの時の訪問者のひとりのニル・エルブ女史を介して、森田療法がアルザスに伝えられるほのかな兆しが見えています。
 去る2月のこと、ストラスブール大学病院の神経心理学教授、リリアンヌ・マニング Lilianne MANNING 先生から、ニル・エルブ女史に森田療法について知りたいとのメールが届いたそうです。私に転送されたそのメールには、こう書いてありました。
「(私たちの共通の知人である)E女史から回覧させてもらった本(日仏両語の拙著のこと)を読んで、森田療法について知りました。私は神経心理学の教授で、従来長年にわたり、多数の脳外傷の患者を定量的な視点から判定してきました。しかし次第に私は、定性的なアプローチに関心を抱きつつあります。ですから、是非貴女と交流して、森田療法の経験を教えて頂けたら幸いです」。
 診療科を問わず、臨床におけるこのような発想は至極当然であり、かつ極めて重要なことです。ところが日本の森田療法の従事者の多くは、神経症圏の病理を扱うことに終始しており、一方身体医学領域においては、症状や障害を抱える患者の心理的な問題や生き方に対して、森田療法的な視点から援助をするという取り組みが、あまり見えて来ません。もちろん敢えて森田療法と呼ばずとも、医師や医療スタッフのかたがたは、患者の人生を応援する関わりをなさっているはずです。それにしても、身体疾患や身体障害、さらに精神科にUターンするなら、精神障害の人たちの生き方に対しても、森田療法は深い関わりがあるはずです。
 ストラスブール大学病院の神経心理学の教授から、逆に問題を突きつけられたのでした。
 CEEJAの企画統括責任者の、ヴィルジニー・フェルモー女史も、森田療法の紹介を受け入れる姿勢を示して下さっています。例えば、CEEJAに森田療法のトレーニング講座を作ってもらい、日本から森田療法家が赴いて、受講するであろうアルザスの臨床家たちに、森田療法を講じ、かつ実際に即した指導をするという企画は実現可能性があるのです。このような機会は容易に巡ってきません。逸したくないものです。単独でできる範囲を超えるプランになりますので、森田療法の他の先生方と相談する傍ら、このような明日への動きがあることを、ここに公表します。

三聖病院の歴史的資料の保存について(その二)─「物の性を尽くす」─

2015/07/13

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森田正馬が三聖病院に宿泊したときの専用の部屋になっていた、二階の三十六号室に掛けられていた番号札

 

 

♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 

1. 資料こそ、いのち
 三聖病院はどんな病院だったのか─。建物が跡形もなくなり、病院が消滅した今、もはや現在形ではなく、過去形で病院の歴史を捉えることしかできなくなりました。その歴史を語れる生き証人として、幸い元院長の宇佐晋一先生を筆頭に、少数の人物は存在します。しかし、ナラティヴは、しばしば「藪の中」のごとき語りになります。したがって事実を裏付けるものとして、資料こそ必要です。いのちある資料が雄弁に歴史を語りうるのです。

 

2.シーシュポスの神話
 森田正馬による療法の確立を受けて、直弟子の宇佐玄雄先生の志により、早くも大正11年に東福寺内に医院が創設されました。昭和2年には病院となり、戦中戦後を生き延びて、父子二代の院長により約90年間にわたり、この専門施設では、禅的色彩の濃厚な森田療法の診療が続けられたのです。禅的であると同時に診療自体が独特だったので、二重の意味で、外部からは神秘のヴェールに包まれた病院と見られてきました。現代の神話のような病院だったのです。ともあれ、この病院が森田療法史の上で、無視できない大きな位置を占めていたことは、紛れもない事実です。年末の閉院が決まった昨秋の時点から、病院業務を整理する作業と並行して、歴史的に貴重な資料を保存するプロジェクトが組まれるべきだったと思われます。具体的には、然るべき予算を組み、資料の価値の判断と保存のしかたに通じた人員を当てる必要がありました。滅びるにまかせるのが、あるがままではありません。院長にはご自身のお考えがあってのことだったのかどうか。それにしても、病院の役員各位や看護師各位らにおいてもまた、本院の歴史的意義を考慮して、資料を保存しなければいけないというような認識を有しておられないようでした。閉院に際して院長が分け与えてくれる形見分けを、記念にもらって帰るというような感覚だったのだと思います。
 価値観の転倒した集団の中で、私はひとりで資料の保存のために動きました。私の他にもうひとり、ユニークな人物がいました。病院の最後を見届けるため閉院まで入院していた遠方の地方出身の青年です。彼は病院の庭の大木がやがて切り倒されることに不憫を感じ、大木を実家の土地まで運んで移植したい、そして三聖病院の庭から移して根づかせた樹木を媒介に、郷里に森田療法を伝えたいと院長に訴え、一時は親御さんと共にそれを本気で考えていました。実現はしませんでしたが、彼は言いました。「人のために自分が何かしようと思ったのは初めての経験でした」と。滅びる病院の最期のときに、彼はそんな経験をしたのです。そして冷静に返った彼は、流れに逆らって資料の保存に執心し続けている私に、ちょっと皮肉な言葉を投げかけました。「シーシュポスの神話のようなことをし続けるのですか」。

 

3.「物の性を尽くす」
 保存のために必要な資金に事欠く上に、かなりの資料が「平等に一切に施されたり」、あるいは無断で持ち去られている実状に臍を噛みながら、私は消えていく病院の建物などを撮影して、せめてそれらの画像をと、このブログ欄に掲載し続けていました。そんな私の心は渇いていましたが、それを格別の思いでご覧になっていた元修養生の方々がおられたことを知りました。さらに、歴史的資料の保存について書いた記事も読んで、表と裏の二重の事態を理解して下さった方がおられます。
 30年ほど前に三聖病院で「修養」をした経験があるという男性の方から頼りが届きました。歴史ある病院のMUSEE(記念資料館)を創るためにフランス人が拠金をしようと申し出ているのなら、自分もそれに続きたいという有り難いお言葉です。ある地方で学芸員として働いておられる方です。自分の仕事は、資料が「いのち」を持っていることを最もよく知っている職業のひとつなので、三聖病院の歴史的資料の保存が円滑に進捗していないなら、協力を惜しまないとのご意向でした。しかし事態はそんなに容易ではありません。それを理解して頂くには、直接会ってお話しするしかなく、過日この方(A氏とします)にお目にかかることになりました。A氏は複雑な事情を知って驚いておられたようでした。しかし私としては、資料というものの貴重さと、資料は資料群として扱われて意味を帯びるということを、改めてA氏から教えられました。聞けばA氏は、三聖病院の建物の解体が近づくにつれて矢も盾もたまらず、1月末に病院に来訪なさったそうです。しかし無断で病院の建物内に入ることを遠慮し、庭の南天の一枝を手折って持ち帰り、それを花瓶に差して大切にしていたとのことです。
 A氏は修養生だったとき、庭のバラの花が見える二十号室にいたそうです。私は建物解体の直前に、部屋の入り口に残されていた番号札を集めて、現在それを預かっています。閉院になる日まで入院し続けて、最後の退院者となった数人の方々に対しては、私は医師職員としての判断で、希望するなら部屋の番号札の持ち帰りを認めることにしました。しかし、解体前に集めた番号札の数はざっと半分くらいしかありませんでした。残りはどこへ消えたのでしょう。
 さてA氏の過ごされた二十号室の番号札は、私の預かり分の中から見つけることができました。もとより保存している番号札の数は揃っているわけではありません。私はA氏に二十号室の番号札を進呈しようと提案しました。ところがA氏からは、それを辞退するメール文が届きました。その一部を要約して紹介させてもらいます。
「二十号室の札が残っていたとのこと、うれしい限り」。
「二十号室、風の音、雨の音、粗末な机、寒い部屋、バラの花、池の鯉、拍子木の音、厨房の匂い、猫、といった無数の外界事象が、とくに第二期の私を導いてくれた」。
「外界へ注意を向けるという森田療法の優れた特徴が、三聖病院ではよく生かされていた」。
「自分は森田療法で体得したことを職業に活かしているのかもしれない」。
「部屋の番号札については、機会があればその画像をブログに掲載していただければ…。というのも、修養生にとって、部屋の番号札は表札のようなに大切なものだったから。時を経てもそれを見ることで、何らかの自覚を得ることがあるかもしれない」。
「二十号室には無数の修養生が入り、無数の人が全治し、社会で真面目に生活をしていると思う。自分はその一人に過ぎないので、決して実物を独占することはできません」。
「お庭から勝手にいただいた南天の葉2枚を記念にして、大切にしてまいります」。

 森田正馬は、『中庸』に出ている「物の性を尽くす」ということを教えました。それぞれの物の特質や価値や働きが、最大限に出し尽くされるように工夫して、物を活かすことの大切さを言っているのです。するとその効用は人に及んで「人の性を尽くす」ことにつながり、さらに己自身が活かされて「己の性を尽くす」ことにもなるのです。
 A氏は、二十号室の札を独占せずに、デジタル画像を出すことで、いのちある資料の共有を図るという妙案を出して下さいました。いのちある資料は活かし方次第です。たかが部屋の番号札ですが、その物の性を尽くして、物も人も自分も活かし得ることを教えて下さったのです。

 

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神経症の若者は、北の大地に向かう

2015/06/29

 北海道森田療法研究会からお招きにあずかり、去る6月20日に札幌で開催された研修セミナーでつたない話をさせて頂きました。
 ちょうど私は、長年の間かかわった三聖病院が閉院となって、その経験を総括する課題に直面しています。また、北海道は地理的に京都から遠いこともあり、彼の地で森田療法に従事しておられる先生方においては、三聖病院のことを見聞される機会が少なかっただろうと思われ、この機会にと、次のような発表をさせてもらったのでした。
 「私が三聖病院で学んだこと、学べなかったこと」。
 しかし、これを整理して説明することは、自分で経験したこととは言え、容易ではありません。うまくまとめきれないままに、とにかく発表を終えました( お招き下さり、そしてご出席下さった北海道の先生方、ありがとうございました )。
 さてパワーポイント・スライド以外に、会場で配布したままになったおまけ資料がありました。それを次に掲げておきます。説明は要さないと思います。

 
 

♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
 
 [ 神経症の若者は、北の大地に向かう。]
 
 京都で入院森田療法や外来森田療法で治らず、神経症を治すため、北海道へ酪農などのアルバイトをしに行った者が、何人かいました。 で、北海道でアルバイト生活をしていると、一旦よくなる。
 京都に戻るとまた神経症も戻ってしまう。
 結局は、現実の生活に取り組むほかなくなる。
 
 「北」という幻想
  「北」は歌謡曲や演歌の、テーマのひとつ。
  「北」は、孤独、放浪、逃避、忍耐などのイメージを含む。
 「大地」は強さ、自然、母性、包容などのイメージを含む。
 
 この二重のイメージに、神経症者は心を惹かれる。
 北海道に流れてきて、しばらくこの地での生活を体験して、そこから帰って、元の生活に戻るのも、悪くない。
 
 蘇東坡の詩
 
     「廬山は煙雨
      浙江は潮
      未だ到らざれば千般恨み消せず
      到り得帰り来たれば別事なし
      廬山は煙雨
      浙江は潮」
 
 つまり入院して退院するというのも、このような体験だと思うのです。
 結局、生活するしかないのです。
 入院原法の治療施設が存在すれば、それは貴重なことです。
 作業をし、集団内の人間関係の中で、社会性を身につける。
 そして、治るために「悟り」を開かねばならないという幻想を砕く。
 ただし、入院施設では治療者は力量を問われる。

三聖病院の歴史的資料の保存について

2015/06/13

 

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「平等施一切」の木彫り作品(説明は本文)

 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 

1. 歴史的資料の保存の課題
 禅的色彩の濃い森田療法の診療を約90年にわたって続けてきた三聖病院は、昨年末、ついにその長い歴史の幕を閉じました。東福寺派の禅僧にして精神科医師で、かつ森田正馬の直弟子であった宇佐玄雄先生の力によって創設されたこの病院を、さらに御子息の宇佐晋一先生が二代目院長として継承され、昨年末までその任を果たし続けて来られたのでした。精神医療が進展し、また神経症圏内の疾患の治療に対する時代の要請も変化して、森田療法は外来中心へと重心が移動しました。そのような森田療法の流れに与することなく、禅的な入院原法を維持し続けた三聖病院の存在の歴史的意義は、多大なものであったと言えます。
 さてこのような病院が存在したことの多大な意義とは如何なるものだったのでしょうか。見方によって様々な評価があり得るでしょう。また様々な評価があり得てもよいでしょう。まず必要なのは、この病院が存在したという歴史的事実を大切に保護し、保存することです。病院が存在したことを示す証しとして、必要にして十分な、大小の歴史的資料を守り、その消滅や散逸を防いで、今日の森田療法関係者や、後世の人たちの評価に供することが必要です。それに対する評価のしかたは分かれてもよいのです。ただし史実を示す資料がなくなり、三聖病院の歴史が曖昧な記憶や伝承の中に薄れていき、ついには歴史の闇の中に消えてしまうような事態にならないようにする配慮は不可欠です。つまり、三聖病院の由緒ある歴史に鑑み、病院関係者にとって、その資料をまとめて残すことは、重大な使命でした。それは社会的責任と言ってしかるべきものでした。

 

 

2. フランス人たちの来訪
 繰り返しますが、三聖病院の歴史的評価が不能にならないように、まずは資料を保存する対策を講じねばならない。それは、閉院が決まったその時点から、同時に発生した関係者にとっての課題でした。
 院長以外に、閉院に至るまで長年この病院の診療に従事してきた医師としては、私自身しかいませんでした。しかし、診療の渦中から少し引いた姿勢で非常勤で関わっていた立場でもあります。また折しも、昨年10月末に、フランス語圏の外国人たち(PSYCAUSEという学会組織の団体)を京都に迎えて国際学会を開催する責任を負っていました。その学会が終了するまでは、三聖病院の資料の保存について、たとえ自分が率先して動こうとしても動けないという事情もありました。フランス人たちを迎えたその国際学会の日程の中には、三聖病院の見学を予め組み入れていたので、彼らを病院に案内しました。図らずも彼らは、三聖病院への外国人訪問者として、最後の人たちになりました。そして病院に来たフランス人たちの組織の代表者、Jean-Paul BOSSUAT 先生は、いみじくも言いました。「閉院になるのなら、資料を保存するために、MUSEE(記念資料館)を創らねばなりませんね」。外国人でさえ、たちどころにそのような発想をするのだなと、つくづく思ったのでした。三聖病院内の誰がそんな発想をしていたでしょうか。

 

 

3. 統率なき修羅場で
 閉院を控えると、事務的レベル、大小の物の片付けのレベル、患者さんたちへの対応など、院長はじめ職員は種々の業務に忙殺されます。しかし拱手傍観していては、歴史的に貴重な種々の資料が散逸しかねません。段取りとして、それらを保存する受け皿の場を急ぎ用意せねばならないのです。ところが病院内の上層の役職者の方々も、そうでない方々も、どなたもそのような発想や行動を示されないように見えました。そこで私は院長にそのご意向を尋ねたところ、資料の死蔵と散逸は避けたいというご意向を言葉少なにおっしゃいました。また病院の外郭にあって、院長に直属している三省会の責任者にも連絡を取り、病院の資料の保存についてどのような考え方をしておられるのかと問いました。(さて、そろそろこの辺から、三省会をも含む内部的な話になりますので、一部の経緯を割愛します。)
 ともあれ、どう考えても、この重要な病院の歴史的資料の散逸を防ぎ、保存することは必要です。森田療法の史上で伝統を背負ってきた病院にとっての、森田療法に対する責任でしょう。だが、診療を閉じる12月末は時々刻々と迫り、それまでには院内にあるすべての物を片付ける日程になっていました。保存を要する大小の物の受け皿を早く見つけねばならない。ところが先立つ資金については、病院が、あるいはどこかの組織が、あるいは誰かが出すというような目処は一切ありませんでした。

 

 

4. せざるを得なかったこと
 いたずらに時は経ち、タイムリミットは迫ってくる。私はひとりですべてを被るしかないと思いました。そして結局、記念資料館(というより、記念資料室とでも呼ぶべき小規模なスペース)として、資料の当座の受け皿の機能を果たし得るであろう建物を探しまわり、それら物件のうちから、ある賃貸マンションをみずから借ることにしたのです。病院の敷地に隣接するマンション、「スペース・レア」がそれです。病院建物の解体の模様を、3階ベランダからときどき撮影してブログに掲載した件のマンションです。
 しかし残念なことに、保存してしかるべき資料は、少なからず無くなりました。閉院が近づく12月から1月にかけての間、それは建物の解体が迫るまでの間ですが、病院は、修羅場の様相を呈しました。当時のことを今思い出しても、かの「二条河原の落書」を連想するのです。「此頃都に流行るもの」という文句で始まる、あの落書のことです。

 

 
5.外部の反応
 年明けの1月、京都新聞の記者の方が、私に取材をお求めになりました。しかし、こういう場合、取材を受けるのは病院の長です。私としては、三聖病院の歴史の総括をする場合、いくつかの視点があり得ることのみ示唆するにとどめました。まずは禅的な療法の病院が幕を閉じるということだけれども、医療行為をしてきた病院であったのだし、また文化財的な価値のある古い建物が解体されて、更地にして地主の東福寺に返還されるという現実的な問題もあるのですと、そんなことを参考として簡単に伝えるだけにしました。結果として、京都新聞は当たり障りのない記事を出されたのでした。
 報道を目的とした新聞社以外に、外部の文化人の方々から、病院の歴史的資料の保存について危惧する、問い合わせが病院関係者宛てに届きました。私のもとにも、ある方面から照会がありましたが、そのような外部の人たちの声は、主に院長に届いたはずです。そして院長は、おそらく不問で応じられたはずです。実際、資料を保存するという問題は、資料を保存しない方向に向かっていたのです。

 

 

6.「平等に一切に施す」
 ちなみに、主に浄土真宗で勤行の最後に読誦される次のような回向句があります。
「願以此功徳(願わくば此功徳を以って)
 平等施一切(平等に一切に施す)」
(善導『観無量寿経疏』)
阿弥陀様から頂いたこの功徳を、すべての人たちに平等に施します、という意です。
 三聖病院の作業室には、「平等施一切」の文字を木彫りにした板が掲げられていました。治療者が書いた文字を、入院患者様らが作業としてレリーフに彫り上げた作品です。
 この文字は、初代院長がお書きになったものか、二代目院長がお書きになったものか、未確認ですが、幸いこの木彫り作品は「スペース・レア」に保管しています。その写真を冒頭に掲げました。
 院長は、病院の歴史資料をまとめて保存するはずのところを、敢えて保存しないで、周囲の人たちに向けて「平等に一切に施す」ような、分配をなさったのです。病院の遺品をゆかりある人たちに配られたのは、あたかもお葬式のときの供養のようでもありました。また吉備団子を皆さんに分け与えておられるような感も、なきにしもあらずでした。

 

 

7.フランス人たちの気持ち
 さらに付け加えておきたいことがあります。
 昨秋病院を訪れたフランス人たちと、その後もやりとりを続けている私は、閉院後の歴史資料の保存のために孤軍奮闘していることを伝えてきました。彼らは、三聖病院のMUSEE(記念資料館)の設立に向けて、先立つものに事欠くこちらの事情を察してくれて、資金を集めて援助をしたいと申し出てくれました。ある人(精神分析家の Nyl ERB女史 )などは、個人的に、老後に必要な分だけ手元に置いて、残る貯金を送金しましょう、とまで言ってくれました。昨年一度三聖病院を訪れただけで、病院の貴重な資料の保存の必要性を認識し、かつ厚い人情を示すフランス人がいるのです。あちらとこちらで温度差がみられます。それも逆転した温度差です。三聖病院という中心は、中空でした。中心のない円でした。三聖病院らしい有終の美だったと言えます。私は再び年末年始の、あの「二条河原の落書」のような風景を思い出します。

 

 

8. 終わっていない総括
 年末に診療が閉じられ、2月から病院の建物の解体工事が始まりましたが、その流れを私はカメラに収め、数ヶ月の間ブログ上に出してご覧頂きました。写真画像は私自身の関心事ではなく、関心がおありの方々にご覧頂く、ささやかなサービスにすぎませんでした。ブログにも表と裏があります。ブログに掲載してきた画像は、その間私が格闘してきた問題とは無関係なものでした。でも、裏が顔を出して、写真の説明に、はしたないイロニーを書きすぎたように思います。その点は反省しているところです。でも「二条河原の落書」よりは、ユーモア仕立てにしたつもりです。
 年末年始には「此頃都に流行るもの」を見て慨嘆しつつ、ごみの山の中から、いくつかの物を拾い集めました。それらは、「スペース・レア(記念資料室)」に保管しています。それらの物品や資料については、改めてご紹介しようと思っています。
 散逸せずに残っている一部の資料等に基づき、歴史的検討をせねばならないという意味では、三聖病院の総括はまだ終わっていないのです。