2月1日(日曜日)午後、三聖病院の玄関に脱がれた履きものが見える。何人かの来院者あり。
もう電気も切られた2月1日(日曜日)の午後、院長室(第1診療室)の中に数人の人たちが入っている。そのための来院者だった。
講話をしているような場合、です。
講話を聴いているような場合、です。
病院建物の玄関の上方、屋根の頂き。日頃あまり注意して見ないが、鬼瓦の下に懸魚(げぎょ)という装飾物がある。
懸魚(げぎょ)をズームで撮った。
魚の顔を正面から見たような装飾になっている。火災の難を除けるようにと、水を象徴する魚を模したもので、それゆえ懸魚(げぎょ)と呼ばれるとは、写真を撮りに来ていた元修養生のAさんから教えられた。感謝。
朽ちた木に「希望」などと書かれたものを中庭の洗い場に仮置きしていた。それを引き取りに行ったら、「希望」は消えてしまっていた。昨秋病院を訪れたフランス人たちに、この木を示し、「希望」の裏側は絶望ですよ、と教えたのだった。(持ち去った人は大切にしてくださいね)。「心ほったらかし」は、ほったらかしにされていた。
中庭の池に、金魚たちが、まだ沢山いる。小ぶりの金魚4匹ほど、自宅で金魚鉢に入れると言って元修養生が救出した。しかし大きくなった金魚たちは残されてまだ池の中。とりあえず餌だけ投げ込んでやった。
焼き物の狸は、危機が迫って遂に化ける力を発揮したのか、姿を消した。
東福寺の鬼手仏心。
前庭の池の鯉の多くは、東福寺内の池(?)に移されたそうな。しかし警戒心の強い2匹の鯉は池の底に逃げ込んでいる。ときどきその魚影が見える。鯉にも餌を投げ込んでやった。2匹の運命は?
中庭の流し場付近で、ごみ扱いされている物の中から、これを見つけた。
これは、その昔三聖寺で修行僧たちが浴室で使っていた洗濯板である。「自然」という浮き彫りにされた文字部分に衣類をこすりつけて洗ったものと思われる。そのような説明が、この洗濯板の裏面に宇佐晋一先生の文字で記されている。その記入年号は一九六〇年となっている。
板の一部が濡れている。半ば露天にあったものを拾ったばかりなのである。
これも、ごみの山の中から掘り起こした。大きな額入りの色紙で、宇佐氏の三聖醫院の開業を祝う言葉が書かれている。だからこれは、大正11年の宇佐玄雄による醫院の開業を祝福したものである。
医療廃棄物として、ごみに仕分けられた物のうちのひとつ。昭和30年代にわが国に導入されて、国内で初めて製造された物と思われるECTの機器である。博物館のようなところに保管されてしかるべきだと思うほどの代物。したがって、極めて厳粛な意味で、ここにその画像を出した。
本院でも、近年は使用しなくなっていた。
閉院にあたり、貴重な歴史的資料の散逸を防ぎ、保存する必要性を感じて、私はごく一部の理解者しかいない中で動き出した。しかしタイムリミットは迫ってくる。それで暫定的な受け皿の空間がまず必要と思われ、とるものもとりあえず、病院に隣接する賃貸マンションを、自主的に借りた。その3階の部屋の窓から、左手に三聖病院の建物の一部が見える。
これは、そこから見た解体直前の、「Before」の写真である。