風はCEEJAへ、アルザスへ─森田療法の日仏交流の未来─

2015/07/27

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アルザスのお城での和太鼓の演奏(本文参照)

 
 
 

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1. PSYCAUSE国際学会(京都)の後日談
 
 森田療法の日仏交流は、最近少し膠着しています。
 私は、PSYCAUSEというフランス語圏の国際学会組織とのお付き合いの絡みで、数年前から単独でこの組織を相手に森田療法の紹介を試みてはいました。その流れで昨年(2014年)秋、京都でPSYCAUSEの国際学会の開催を引き受け、閉院間近い三聖病院にフランス人らの来訪を受け入れました。それでも、残念なことに、森田療法の交流の実は、さほど上がったとは言えませんでした。紹介する側には、工夫が必要ですし、学ぶ側には、それなりのモティベーションの高まりがなければ、浅い交流にしかなりません。禅で言う「啐啄同時」でなければならず、機が熟すことが必要なのです。
 それでも、昨年の京都での PSYCAUSE 学会に来た人たちの中に、日本文化について際立って通じていて、とりわけ森田療法に関心を示す人がいました。アルザス地方の都市、コルマールに住む精神分析家のニル・エルブ Nyl ERB 女史です。このような人との縁が生じたことは、昨年の学会の思いがけない収穫でした。
フランスの東部、ストラスブールやコルマールの市街を中心に、周辺には豊かな自然が広がるアルザス地方には、パリとは趣の異なる文化があります。この地域には、明治維新の前後から、ある意味でパリ以上に古い日仏交流の歴史があったのです。
 アルザスを拠点とする日仏文化交流は、近年とみに活気を帯びています。ストラスブール近郊には禅堂があります (この禅堂のことは改めて紹介したいと思います) 。
 そしてコルマール近郊には、「アルザス・欧州日本学研究所」 [略称:セージャ (CEEJA) ] があって、ヨーロッパにおける日本学研究の推進に多大な貢献をしつつあります。ニル・エルブ女史は、このCEEJAとの絆を有していて、昨年の京都でのPSYCAUSE国際学会のことや森田療法のことをCEEJAに伝えてくれました。そのおかげで、この組織の重要人物、企画統括責任者であるヴイルジニー・フェルモー Virginie FERMAUD女史が、森田療法の受け入れに早速関心を示してくれているのです。それに応えるべきはこちらです。早くも機は熟していて「啐啄同時」といきたいものですが、なかなか日本側で事が運びません。とりあえず、このような事情を力量不足の私個人の問題に留めず、関心と実行への意欲をお持ちのかたがたに、課題を共有して頂くべく、情報をお届けします。

 
 

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精神分析家のニル・エルブ Nyl ERB 女史(写真中央。昨秋の京都でのPSYCAUSE国際学会の席で)。 学会後、この人が、アルザスへの森田療法の紹介の先導役になってくれている。

 
 
 

2.CEEJA(アルザス・欧州日本学研究所)について
 
 コルマールは、旧市街には古い木組みの家並みが残されていて、中世の歴史的雰囲気をとどめている趣のある街です。宮崎駿監督のアニメ作品、『ハウルの動く城』は、このコルマールの街並みを舞台にしたものだそうです。
 さて、CEEJAは、コルマール市郊外のキンツハイム村に、2001年に創設されました。CEEJA(セージャ)とは、CENTRE EUROPEAN d’ETUDES JAPONAISES d’ALSACE(アルザス・欧州日本学研究所)の略称です。
 日本とフランスの交流は、長い歴史を有しています。時代を遡ること約150年、幕末の日仏修好通商条約を契機に、アルザスと日本の外交的関係が開始されました。アルザスでは当時から繊維産業、とりわけ染織業が盛んでした。それは関西の繊維メーカーの注目するところとなり、日本からアルザスの工房に反物が持ち込まれてプリントされたり、また日本の染色技術が導入されたりして、繊維産業を中心とする日仏経済交流が進められるようになったのです。染色のデザインはもちろん芸術の分野に属します。繊維産業を端緒とした経済的文化的的交流は、やがて繊維だけに限らず、アルザスを入り口にヨーロッパへの日本の伝統文化の導入へと進展しました。それは芸術の分野で起こったジャポニズムの起源になったと言われます。こうして明治以後、アルザス地方と日本との文化的、経済的交流は続いてきました。
 とくに日本経済の高度成長期に、多くの日本企業がアルザスに工場を設立しました。それと並行して文化、学術領域においても、ストラスブール大学を中心に日本語教育や日本文化の研究が進められ、日仏文化交流の気運が一層高まったのです。そんな流れを受けて、CEEJAは今世紀の初めに設立されました。現在既に日本のいくつかの大学と、教育や研究に関わる提携を結んでいます。
 コルマールでは、約5000人の地元の人たちが日本企業で働いているそうです。このように経済を共有しながら、日本文化に親和性を持つアルザスの地に設立されたCEEJAは、生活に根ざす精神療法である森田療法を、堅実に受け入れる可能性のある格好な機関であろうと思うのです。

 
 

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CEEJAの企画統括責任者、ヴィルジニー・フェルモー Virginie FERMAUD 女史(右)と、
CEEJAで研究に従事中の日本女性、S様(ニル・エルブ女史撮影)。

 
 
 

3.最近CEEJAでおこなわれた行事から
 
1)3月に開催されたCEEJA国際シンポジウム「『間(ま)』と『間(あいだ)』」に関連して
 
 例えば、このようなシンポジウムが、CEEJAでは、意欲的に開催されています。
 ところで昨年の京都での学会で森田療法のことを伝えた際、この療法における治療者の重要な態度としての「不問」について、説明を尽くしていませんでした。
 そこで年が明けてから、ニル・エルブ Nyl ERB 女史に、差し当たり、藤田千尋先生が英文でお書きになった大著の中の「不問」についての数ページの章をコピーして送りました。そしたら彼女は早速それを、知人にフランス語に訳させました。そのフランス語の訳文は、折しも「『間(ま)』と『間(あいだ)』」というシンポジウムを企画なさったCEEJAの企画統括責任者のヴィルジニー・フェルモー Virginie FERMAUD 女史にも渡されました。
 フェルモー女史は、既にニル・エルブ女史がCEEJAに寄贈してくれた日仏両語の拙著を読んで下さっていて、森田療法の予備知識を持っておられます。そしてさらに「不問」についての文献をお読みになったことにより、ニル・エルブ女史を介して私に質問が届きました。「『間(ま)』と『不問』の関係」についての質問だったように思います。藤田先生は「不問」を治療としての「間(ま)」の置き方であると捉えると同時に、それは治療者が患者を理解しえて初めて取り得る態度であるように書いておられたと思います。しかしフェルモー女史から差し向けられた質問は、より深く説明を敷衍するように求めているようでした。それは、あちらでのシンポジウムが終わってから、かなり後に、ニル・エルブ女史経由で私に届いたものです。これは難問であり、整然とした答えは未だに返信できないでいます。「不問」についての問題は、今なお私自身にとっても、三聖病院との絡みにおいて、最終的な整理が済んでいないのです。 一方、ラカン派の精神分析家であるニル・エルブ女史は、自己と他者の関係において、「間(ま)」や「不問」をどう捉えるのかと質問を向けてきました。それには要点のみ答えておきました。
 「間(ま)」と「不問」は似ているが、必ずしも同じ文脈で説明できるものではない。ただし両者に通じるところは、甘えをほどよく自己抑制する精神的に成熟した態度であり、また他者の尊厳を重んじるがゆえに、他者と柔軟な距離を保つ、そんな関係のことであろう。そのような意味では、「不問」は、森田療法の治療者患者関係における特別な間柄の設定のことではない。

 
 

2)中世フェスティバル《サムライ伝説》
 
 文化祭的な行事も開催されています。去る6月には、コルマールの郊外にある中世の城、シャトー・オーランズブールで、「中世フェスティバル《サムライ伝説》」と銘打った催しがおこなわれました。これはニル・エルブ女史から写真と共に届けられたニュースによっています。催しの中身がどんなであったのかはわかりません。写真は開会式の模様です。フランス人たちによって披露された勇壮な和太鼓の演奏、そして挨拶をなさっている要人のかたがたの姿などです。

 

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≪サムライ伝説≫のフェスティバルの開催の掲示。

 
 

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開会の挨拶をするCEEJA所長、アンドレ・クライン André KLEIN 氏(右)、地区長(中央)、日本領事(左)。

 
 
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和太鼓の演奏

 
 

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同上

 
 

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同上

 
 
 

4.明日へ
 
 昨年、閉院を間近に控えた三聖病院へのフランス人たちの来訪も、過ぎ去った幻となりました。三聖病院は無くなったけれど、あの時の訪問者のひとりのニル・エルブ女史を介して、森田療法がアルザスに伝えられるほのかな兆しが見えています。
 去る2月のこと、ストラスブール大学病院の神経心理学教授、リリアンヌ・マニング Lilianne MANNING 先生から、ニル・エルブ女史に森田療法について知りたいとのメールが届いたそうです。私に転送されたそのメールには、こう書いてありました。
「(私たちの共通の知人である)E女史から回覧させてもらった本(日仏両語の拙著のこと)を読んで、森田療法について知りました。私は神経心理学の教授で、従来長年にわたり、多数の脳外傷の患者を定量的な視点から判定してきました。しかし次第に私は、定性的なアプローチに関心を抱きつつあります。ですから、是非貴女と交流して、森田療法の経験を教えて頂けたら幸いです」。
 診療科を問わず、臨床におけるこのような発想は至極当然であり、かつ極めて重要なことです。ところが日本の森田療法の従事者の多くは、神経症圏の病理を扱うことに終始しており、一方身体医学領域においては、症状や障害を抱える患者の心理的な問題や生き方に対して、森田療法的な視点から援助をするという取り組みが、あまり見えて来ません。もちろん敢えて森田療法と呼ばずとも、医師や医療スタッフのかたがたは、患者の人生を応援する関わりをなさっているはずです。それにしても、身体疾患や身体障害、さらに精神科にUターンするなら、精神障害の人たちの生き方に対しても、森田療法は深い関わりがあるはずです。
 ストラスブール大学病院の神経心理学の教授から、逆に問題を突きつけられたのでした。
 CEEJAの企画統括責任者の、ヴィルジニー・フェルモー女史も、森田療法の紹介を受け入れる姿勢を示して下さっています。例えば、CEEJAに森田療法のトレーニング講座を作ってもらい、日本から森田療法家が赴いて、受講するであろうアルザスの臨床家たちに、森田療法を講じ、かつ実際に即した指導をするという企画は実現可能性があるのです。このような機会は容易に巡ってきません。逸したくないものです。単独でできる範囲を超えるプランになりますので、森田療法の他の先生方と相談する傍ら、このような明日への動きがあることを、ここに公表します。

三聖病院の歴史的資料の保存について(その二)─「物の性を尽くす」─

2015/07/13

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森田正馬が三聖病院に宿泊したときの専用の部屋になっていた、二階の三十六号室に掛けられていた番号札

 

 

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1. 資料こそ、いのち
 三聖病院はどんな病院だったのか─。建物が跡形もなくなり、病院が消滅した今、もはや現在形ではなく、過去形で病院の歴史を捉えることしかできなくなりました。その歴史を語れる生き証人として、幸い元院長の宇佐晋一先生を筆頭に、少数の人物は存在します。しかし、ナラティヴは、しばしば「藪の中」のごとき語りになります。したがって事実を裏付けるものとして、資料こそ必要です。いのちある資料が雄弁に歴史を語りうるのです。

 

2.シーシュポスの神話
 森田正馬による療法の確立を受けて、直弟子の宇佐玄雄先生の志により、早くも大正11年に東福寺内に医院が創設されました。昭和2年には病院となり、戦中戦後を生き延びて、父子二代の院長により約90年間にわたり、この専門施設では、禅的色彩の濃厚な森田療法の診療が続けられたのです。禅的であると同時に診療自体が独特だったので、二重の意味で、外部からは神秘のヴェールに包まれた病院と見られてきました。現代の神話のような病院だったのです。ともあれ、この病院が森田療法史の上で、無視できない大きな位置を占めていたことは、紛れもない事実です。年末の閉院が決まった昨秋の時点から、病院業務を整理する作業と並行して、歴史的に貴重な資料を保存するプロジェクトが組まれるべきだったと思われます。具体的には、然るべき予算を組み、資料の価値の判断と保存のしかたに通じた人員を当てる必要がありました。滅びるにまかせるのが、あるがままではありません。院長にはご自身のお考えがあってのことだったのかどうか。それにしても、病院の役員各位や看護師各位らにおいてもまた、本院の歴史的意義を考慮して、資料を保存しなければいけないというような認識を有しておられないようでした。閉院に際して院長が分け与えてくれる形見分けを、記念にもらって帰るというような感覚だったのだと思います。
 価値観の転倒した集団の中で、私はひとりで資料の保存のために動きました。私の他にもうひとり、ユニークな人物がいました。病院の最後を見届けるため閉院まで入院していた遠方の地方出身の青年です。彼は病院の庭の大木がやがて切り倒されることに不憫を感じ、大木を実家の土地まで運んで移植したい、そして三聖病院の庭から移して根づかせた樹木を媒介に、郷里に森田療法を伝えたいと院長に訴え、一時は親御さんと共にそれを本気で考えていました。実現はしませんでしたが、彼は言いました。「人のために自分が何かしようと思ったのは初めての経験でした」と。滅びる病院の最期のときに、彼はそんな経験をしたのです。そして冷静に返った彼は、流れに逆らって資料の保存に執心し続けている私に、ちょっと皮肉な言葉を投げかけました。「シーシュポスの神話のようなことをし続けるのですか」。

 

3.「物の性を尽くす」
 保存のために必要な資金に事欠く上に、かなりの資料が「平等に一切に施されたり」、あるいは無断で持ち去られている実状に臍を噛みながら、私は消えていく病院の建物などを撮影して、せめてそれらの画像をと、このブログ欄に掲載し続けていました。そんな私の心は渇いていましたが、それを格別の思いでご覧になっていた元修養生の方々がおられたことを知りました。さらに、歴史的資料の保存について書いた記事も読んで、表と裏の二重の事態を理解して下さった方がおられます。
 30年ほど前に三聖病院で「修養」をした経験があるという男性の方から頼りが届きました。歴史ある病院のMUSEE(記念資料館)を創るためにフランス人が拠金をしようと申し出ているのなら、自分もそれに続きたいという有り難いお言葉です。ある地方で学芸員として働いておられる方です。自分の仕事は、資料が「いのち」を持っていることを最もよく知っている職業のひとつなので、三聖病院の歴史的資料の保存が円滑に進捗していないなら、協力を惜しまないとのご意向でした。しかし事態はそんなに容易ではありません。それを理解して頂くには、直接会ってお話しするしかなく、過日この方(A氏とします)にお目にかかることになりました。A氏は複雑な事情を知って驚いておられたようでした。しかし私としては、資料というものの貴重さと、資料は資料群として扱われて意味を帯びるということを、改めてA氏から教えられました。聞けばA氏は、三聖病院の建物の解体が近づくにつれて矢も盾もたまらず、1月末に病院に来訪なさったそうです。しかし無断で病院の建物内に入ることを遠慮し、庭の南天の一枝を手折って持ち帰り、それを花瓶に差して大切にしていたとのことです。
 A氏は修養生だったとき、庭のバラの花が見える二十号室にいたそうです。私は建物解体の直前に、部屋の入り口に残されていた番号札を集めて、現在それを預かっています。閉院になる日まで入院し続けて、最後の退院者となった数人の方々に対しては、私は医師職員としての判断で、希望するなら部屋の番号札の持ち帰りを認めることにしました。しかし、解体前に集めた番号札の数はざっと半分くらいしかありませんでした。残りはどこへ消えたのでしょう。
 さてA氏の過ごされた二十号室の番号札は、私の預かり分の中から見つけることができました。もとより保存している番号札の数は揃っているわけではありません。私はA氏に二十号室の番号札を進呈しようと提案しました。ところがA氏からは、それを辞退するメール文が届きました。その一部を要約して紹介させてもらいます。
「二十号室の札が残っていたとのこと、うれしい限り」。
「二十号室、風の音、雨の音、粗末な机、寒い部屋、バラの花、池の鯉、拍子木の音、厨房の匂い、猫、といった無数の外界事象が、とくに第二期の私を導いてくれた」。
「外界へ注意を向けるという森田療法の優れた特徴が、三聖病院ではよく生かされていた」。
「自分は森田療法で体得したことを職業に活かしているのかもしれない」。
「部屋の番号札については、機会があればその画像をブログに掲載していただければ…。というのも、修養生にとって、部屋の番号札は表札のようなに大切なものだったから。時を経てもそれを見ることで、何らかの自覚を得ることがあるかもしれない」。
「二十号室には無数の修養生が入り、無数の人が全治し、社会で真面目に生活をしていると思う。自分はその一人に過ぎないので、決して実物を独占することはできません」。
「お庭から勝手にいただいた南天の葉2枚を記念にして、大切にしてまいります」。

 森田正馬は、『中庸』に出ている「物の性を尽くす」ということを教えました。それぞれの物の特質や価値や働きが、最大限に出し尽くされるように工夫して、物を活かすことの大切さを言っているのです。するとその効用は人に及んで「人の性を尽くす」ことにつながり、さらに己自身が活かされて「己の性を尽くす」ことにもなるのです。
 A氏は、二十号室の札を独占せずに、デジタル画像を出すことで、いのちある資料の共有を図るという妙案を出して下さいました。いのちある資料は活かし方次第です。たかが部屋の番号札ですが、その物の性を尽くして、物も人も自分も活かし得ることを教えて下さったのです。

 

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神経症の若者は、北の大地に向かう

2015/06/29

 北海道森田療法研究会からお招きにあずかり、去る6月20日に札幌で開催された研修セミナーでつたない話をさせて頂きました。
 ちょうど私は、長年の間かかわった三聖病院が閉院となって、その経験を総括する課題に直面しています。また、北海道は地理的に京都から遠いこともあり、彼の地で森田療法に従事しておられる先生方においては、三聖病院のことを見聞される機会が少なかっただろうと思われ、この機会にと、次のような発表をさせてもらったのでした。
 「私が三聖病院で学んだこと、学べなかったこと」。
 しかし、これを整理して説明することは、自分で経験したこととは言え、容易ではありません。うまくまとめきれないままに、とにかく発表を終えました( お招き下さり、そしてご出席下さった北海道の先生方、ありがとうございました )。
 さてパワーポイント・スライド以外に、会場で配布したままになったおまけ資料がありました。それを次に掲げておきます。説明は要さないと思います。

 
 

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 [ 神経症の若者は、北の大地に向かう。]
 
 京都で入院森田療法や外来森田療法で治らず、神経症を治すため、北海道へ酪農などのアルバイトをしに行った者が、何人かいました。 で、北海道でアルバイト生活をしていると、一旦よくなる。
 京都に戻るとまた神経症も戻ってしまう。
 結局は、現実の生活に取り組むほかなくなる。
 
 「北」という幻想
  「北」は歌謡曲や演歌の、テーマのひとつ。
  「北」は、孤独、放浪、逃避、忍耐などのイメージを含む。
 「大地」は強さ、自然、母性、包容などのイメージを含む。
 
 この二重のイメージに、神経症者は心を惹かれる。
 北海道に流れてきて、しばらくこの地での生活を体験して、そこから帰って、元の生活に戻るのも、悪くない。
 
 蘇東坡の詩
 
     「廬山は煙雨
      浙江は潮
      未だ到らざれば千般恨み消せず
      到り得帰り来たれば別事なし
      廬山は煙雨
      浙江は潮」
 
 つまり入院して退院するというのも、このような体験だと思うのです。
 結局、生活するしかないのです。
 入院原法の治療施設が存在すれば、それは貴重なことです。
 作業をし、集団内の人間関係の中で、社会性を身につける。
 そして、治るために「悟り」を開かねばならないという幻想を砕く。
 ただし、入院施設では治療者は力量を問われる。

三聖病院の歴史的資料の保存について

2015/06/13

 

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「平等施一切」の木彫り作品(説明は本文)

 

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1. 歴史的資料の保存の課題
 禅的色彩の濃い森田療法の診療を約90年にわたって続けてきた三聖病院は、昨年末、ついにその長い歴史の幕を閉じました。東福寺派の禅僧にして精神科医師で、かつ森田正馬の直弟子であった宇佐玄雄先生の力によって創設されたこの病院を、さらに御子息の宇佐晋一先生が二代目院長として継承され、昨年末までその任を果たし続けて来られたのでした。精神医療が進展し、また神経症圏内の疾患の治療に対する時代の要請も変化して、森田療法は外来中心へと重心が移動しました。そのような森田療法の流れに与することなく、禅的な入院原法を維持し続けた三聖病院の存在の歴史的意義は、多大なものであったと言えます。
 さてこのような病院が存在したことの多大な意義とは如何なるものだったのでしょうか。見方によって様々な評価があり得るでしょう。また様々な評価があり得てもよいでしょう。まず必要なのは、この病院が存在したという歴史的事実を大切に保護し、保存することです。病院が存在したことを示す証しとして、必要にして十分な、大小の歴史的資料を守り、その消滅や散逸を防いで、今日の森田療法関係者や、後世の人たちの評価に供することが必要です。それに対する評価のしかたは分かれてもよいのです。ただし史実を示す資料がなくなり、三聖病院の歴史が曖昧な記憶や伝承の中に薄れていき、ついには歴史の闇の中に消えてしまうような事態にならないようにする配慮は不可欠です。つまり、三聖病院の由緒ある歴史に鑑み、病院関係者にとって、その資料をまとめて残すことは、重大な使命でした。それは社会的責任と言ってしかるべきものでした。

 

 

2. フランス人たちの来訪
 繰り返しますが、三聖病院の歴史的評価が不能にならないように、まずは資料を保存する対策を講じねばならない。それは、閉院が決まったその時点から、同時に発生した関係者にとっての課題でした。
 院長以外に、閉院に至るまで長年この病院の診療に従事してきた医師としては、私自身しかいませんでした。しかし、診療の渦中から少し引いた姿勢で非常勤で関わっていた立場でもあります。また折しも、昨年10月末に、フランス語圏の外国人たち(PSYCAUSEという学会組織の団体)を京都に迎えて国際学会を開催する責任を負っていました。その学会が終了するまでは、三聖病院の資料の保存について、たとえ自分が率先して動こうとしても動けないという事情もありました。フランス人たちを迎えたその国際学会の日程の中には、三聖病院の見学を予め組み入れていたので、彼らを病院に案内しました。図らずも彼らは、三聖病院への外国人訪問者として、最後の人たちになりました。そして病院に来たフランス人たちの組織の代表者、Jean-Paul BOSSUAT 先生は、いみじくも言いました。「閉院になるのなら、資料を保存するために、MUSEE(記念資料館)を創らねばなりませんね」。外国人でさえ、たちどころにそのような発想をするのだなと、つくづく思ったのでした。三聖病院内の誰がそんな発想をしていたでしょうか。

 

 

3. 統率なき修羅場で
 閉院を控えると、事務的レベル、大小の物の片付けのレベル、患者さんたちへの対応など、院長はじめ職員は種々の業務に忙殺されます。しかし拱手傍観していては、歴史的に貴重な種々の資料が散逸しかねません。段取りとして、それらを保存する受け皿の場を急ぎ用意せねばならないのです。ところが病院内の上層の役職者の方々も、そうでない方々も、どなたもそのような発想や行動を示されないように見えました。そこで私は院長にそのご意向を尋ねたところ、資料の死蔵と散逸は避けたいというご意向を言葉少なにおっしゃいました。また病院の外郭にあって、院長に直属している三省会の責任者にも連絡を取り、病院の資料の保存についてどのような考え方をしておられるのかと問いました。(さて、そろそろこの辺から、三省会をも含む内部的な話になりますので、一部の経緯を割愛します。)
 ともあれ、どう考えても、この重要な病院の歴史的資料の散逸を防ぎ、保存することは必要です。森田療法の史上で伝統を背負ってきた病院にとっての、森田療法に対する責任でしょう。だが、診療を閉じる12月末は時々刻々と迫り、それまでには院内にあるすべての物を片付ける日程になっていました。保存を要する大小の物の受け皿を早く見つけねばならない。ところが先立つ資金については、病院が、あるいはどこかの組織が、あるいは誰かが出すというような目処は一切ありませんでした。

 

 

4. せざるを得なかったこと
 いたずらに時は経ち、タイムリミットは迫ってくる。私はひとりですべてを被るしかないと思いました。そして結局、記念資料館(というより、記念資料室とでも呼ぶべき小規模なスペース)として、資料の当座の受け皿の機能を果たし得るであろう建物を探しまわり、それら物件のうちから、ある賃貸マンションをみずから借ることにしたのです。病院の敷地に隣接するマンション、「スペース・レア」がそれです。病院建物の解体の模様を、3階ベランダからときどき撮影してブログに掲載した件のマンションです。
 しかし残念なことに、保存してしかるべき資料は、少なからず無くなりました。閉院が近づく12月から1月にかけての間、それは建物の解体が迫るまでの間ですが、病院は、修羅場の様相を呈しました。当時のことを今思い出しても、かの「二条河原の落書」を連想するのです。「此頃都に流行るもの」という文句で始まる、あの落書のことです。

 

 
5.外部の反応
 年明けの1月、京都新聞の記者の方が、私に取材をお求めになりました。しかし、こういう場合、取材を受けるのは病院の長です。私としては、三聖病院の歴史の総括をする場合、いくつかの視点があり得ることのみ示唆するにとどめました。まずは禅的な療法の病院が幕を閉じるということだけれども、医療行為をしてきた病院であったのだし、また文化財的な価値のある古い建物が解体されて、更地にして地主の東福寺に返還されるという現実的な問題もあるのですと、そんなことを参考として簡単に伝えるだけにしました。結果として、京都新聞は当たり障りのない記事を出されたのでした。
 報道を目的とした新聞社以外に、外部の文化人の方々から、病院の歴史的資料の保存について危惧する、問い合わせが病院関係者宛てに届きました。私のもとにも、ある方面から照会がありましたが、そのような外部の人たちの声は、主に院長に届いたはずです。そして院長は、おそらく不問で応じられたはずです。実際、資料を保存するという問題は、資料を保存しない方向に向かっていたのです。

 

 

6.「平等に一切に施す」
 ちなみに、主に浄土真宗で勤行の最後に読誦される次のような回向句があります。
「願以此功徳(願わくば此功徳を以って)
 平等施一切(平等に一切に施す)」
(善導『観無量寿経疏』)
阿弥陀様から頂いたこの功徳を、すべての人たちに平等に施します、という意です。
 三聖病院の作業室には、「平等施一切」の文字を木彫りにした板が掲げられていました。治療者が書いた文字を、入院患者様らが作業としてレリーフに彫り上げた作品です。
 この文字は、初代院長がお書きになったものか、二代目院長がお書きになったものか、未確認ですが、幸いこの木彫り作品は「スペース・レア」に保管しています。その写真を冒頭に掲げました。
 院長は、病院の歴史資料をまとめて保存するはずのところを、敢えて保存しないで、周囲の人たちに向けて「平等に一切に施す」ような、分配をなさったのです。病院の遺品をゆかりある人たちに配られたのは、あたかもお葬式のときの供養のようでもありました。また吉備団子を皆さんに分け与えておられるような感も、なきにしもあらずでした。

 

 

7.フランス人たちの気持ち
 さらに付け加えておきたいことがあります。
 昨秋病院を訪れたフランス人たちと、その後もやりとりを続けている私は、閉院後の歴史資料の保存のために孤軍奮闘していることを伝えてきました。彼らは、三聖病院のMUSEE(記念資料館)の設立に向けて、先立つものに事欠くこちらの事情を察してくれて、資金を集めて援助をしたいと申し出てくれました。ある人(精神分析家の Nyl ERB女史 )などは、個人的に、老後に必要な分だけ手元に置いて、残る貯金を送金しましょう、とまで言ってくれました。昨年一度三聖病院を訪れただけで、病院の貴重な資料の保存の必要性を認識し、かつ厚い人情を示すフランス人がいるのです。あちらとこちらで温度差がみられます。それも逆転した温度差です。三聖病院という中心は、中空でした。中心のない円でした。三聖病院らしい有終の美だったと言えます。私は再び年末年始の、あの「二条河原の落書」のような風景を思い出します。

 

 

8. 終わっていない総括
 年末に診療が閉じられ、2月から病院の建物の解体工事が始まりましたが、その流れを私はカメラに収め、数ヶ月の間ブログ上に出してご覧頂きました。写真画像は私自身の関心事ではなく、関心がおありの方々にご覧頂く、ささやかなサービスにすぎませんでした。ブログにも表と裏があります。ブログに掲載してきた画像は、その間私が格闘してきた問題とは無関係なものでした。でも、裏が顔を出して、写真の説明に、はしたないイロニーを書きすぎたように思います。その点は反省しているところです。でも「二条河原の落書」よりは、ユーモア仕立てにしたつもりです。
 年末年始には「此頃都に流行るもの」を見て慨嘆しつつ、ごみの山の中から、いくつかの物を拾い集めました。それらは、「スペース・レア(記念資料室)」に保管しています。それらの物品や資料については、改めてご紹介しようと思っています。
 散逸せずに残っている一部の資料等に基づき、歴史的検討をせねばならないという意味では、三聖病院の総括はまだ終わっていないのです。

レクイエムー禅的森田療法の夢の跡ー

2015/06/06

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敷地の端にあったツツジもなくなり、万寿禅寺との境界の白壁の塀が見える ( 5月16日撮影 )。

 

 

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5月中旬、病院のともらない看板灯もようやく撤去された ( 5月16日撮影 )。

 

 

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切断されてなお立ち続けていた樹木の根も抜去された。敷地内の地中で生きていた最後のいのちだった ( 5月25日撮影 )。

三聖病院の長い歴史の中で最も根性を秘めていて、最後の最後まで往生し尽くしたのは、ほかでもない、誰でもない、名もない樹木の根であった。

 

 

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一日の仕事を終えた人たちの、夕方の清掃作業 ( 5月25日撮影 )。

 

 

5

更地になった敷地。隣接するマンション、スペース ・レアの3階から撮影。 何もないはずなのに電線が写っている。もしかして?

 

 

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元院長の宅地内の木が赤い花をつけた。

 

 

7

赤い花は石楠花だそうである。 元院長宅に幸あれ。

 

 

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ここは本来東福寺の所有地。 向こうに見える建物は万寿禅寺とその右側にマンション、スペース・レア。 さようなら、三聖病院。 京都はもう梅雨に入った。

 

惜春─三聖病院の名残り─

2015/05/04

年度が終わる3月末をもって、法人が解散して病院は正式に廃院になると、当初は聞いていた。実際にそのような手続きがいつ完了したのか、確認できていない。

建物の解体作業は、年度を越えて延々と進められた。地上から消えゆく三聖病院の姿を最後まで見守っている方々がおられたことだろう。そのため、解体の進行状況を画像で実況的にお届けしてきた。

その解体も、大方は4月末に終了したようだ。しかし敷地の外、大通りに面して「三聖病院」の標識は今も残されている。また敷地内にも、未だに病院の名残りをとどめるものがある。

 

 

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門の内部、万寿禅寺に隣接する敷地の際に、解体工事の難を逃れて何本かの樹が残っている。そこにあったツツジが、樹の緑を背に一斉に鮮やかな花をつけた。もう5月である。

 

 

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重機。敷地内で大活躍した主役である。

 

 

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ダンプカーもごみの搬出に活躍した。

 

 

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ごみの山がなくなり、平らな更地になりつつある。

 

 

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病院のすべての建物は消滅した ( 敷地に隣接するマンション、スペース・レアの3階から望む )。

莫大な木片と宇宙塵は、ダンプで運び出された。木片は土に還り、宇宙塵も地球の土となるだろう。

修羅のごときものは銀河鉄道に乗って宇宙の果てに向かったと言われるが、定かな情報ではない。

「 自我神話化 ( Ich-Mythisierung ) 」した禅的森田療法 ( 宇佐療法 ) の神話は、いつまで続くであろうか。

 

 

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元院長のご自宅。私宅なので、同じ場所にそのまま存在している。

地上では、ここを聖地として、療法は今や「 自我収縮 ( Ich-Anachorese )  」した。

 

 

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解体工事も終わりに近づき、大通り側の遮蔽シートも外されて内部が見える。そこには、切られた樹がそのまま立ち続けていた。樹の近くにあった作業室は影も形も無くなったのに。

 

 

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外灯を兼ねていた「 三聖病院 」という大きな標識は、なぜか未だに残されている。

向かってその左には、万寿禅寺がある。三聖病院ゆかりの東福寺の塔頭、三聖寺が万寿禅寺に変身したという複雑な歴史を共有している。

現在は、北朝鮮出身の在日の方々の菩提寺になっている。

 

 

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万寿禅寺にある鐘楼は、東福寺の重要文化財である。

 

 

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万寿禅寺越しに、向こうに見える建物が、件のマンション、スペース・レアである。この最上階 ( と言っても3階 ) から、病院の解体作業を見守ってきた。万寿禅寺と、その後方にあるマンションは、いずれも病院の敷地に隣接しているのである。

 

 

 

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春が逝く。

ソメイヨシノと宇佐玄雄─こんな春があった─

2015/04/20

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満開のソメイヨシノを背景に、宇佐玄雄先生の銅像の姿があった ( 数年前の写真 )。こんな春はもうこない。

 

 

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ごみの山は少し削られたのかもしれない。この虚しい更地部分にソメイヨシノも銅像もあった。

 

 

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門の外のほとんど枯れた松の木が、雨の後で生気を取り戻したのか、急にまつぼっくりを蓄えだした。

山川草木悉有仏性。

 

 

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同上 ( 拡大 )。

入院第2期のように観察してみる。

 

 

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敷地後方のごみの山。

知る人ぞ知る、在りし日の病院の内部は、ピカピカに磨かれた廊下や便所とうらはらに、他の場所の多くはごみ屋敷同然だった。このごみの山に、変わり果てたごみ屋敷の最期の姿を見る。

 

 

 

 

春と修羅─山をなす宇宙塵─

2015/04/13

宇佐療法という宇宙の容れものであった建造物は、 「 文化財 」 として惜しまれた。

木造の建物は、木と土でできている。解体された分だけ、木片と土と瓦礫が混じったごみの山ができる。何もない更地の空間が、突然姿を現すわけではない。

宇宙塵とて、地上ではごみの山となるのが現実である。

 

 

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山をなす宇宙塵 ( 敷地前方から見る )

 

 

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同上

 

 

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同上

 

 

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山をなす宇宙塵 ( 敷地後方から見る )

 

 

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同上 。 ごみの累積で重機も動きを制限されている。

 

 

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ほとんど、ごみ ( マンション3階から撮る )

 

 

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異次元の宇宙は、新たな仕切りの向こうの建物空間 ( 元院長の私宅 ) のみへと収縮した。

 

 

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切られても、 「 いのち 」 がある。

 

 

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宇佐療法という名称は、当初は一部の人が皮肉をこめて使ったものだが、いつしかそれは、この療法を信奉する人たちにとっての誇り高き呼称となった。

宇佐療法と言う宇宙には修羅のごときものがいた。修羅のごときものは修養生の魂と交感し、修養生は修羅生となった。

今、ようやく修羅や修羅生の鎮魂を祈る刻が訪れようとしている。

 

フランス人は見た─閉院迫る昨秋の三聖病院─

2015/04/06

もう新しい年度を迎えました。

宇佐療法と言う宇宙だった三聖病院の敷地には、工事で吐き出された宇宙塵が積もり、一部の樹々と一部の廃屋は、未だに往生できずに取り残されていました ( 平成27年4月5日 ) 。

 

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時を遡り、閉院を2ヵ月後にひかえた2014年10月21日、この空間を訪れたフランス人たちが、その時の病院の姿をカメラにおさめて帰りました。そして、それらの画像の一部を Nyl ERB 女史 ( 精神分析家 ) が送り届けてくれました。その中のいくつかのコマを選んで、以下に提示します。

── 閉院前にフランス人のカメラにおさめられた三聖病院の姿です。

 

 

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脱いだスリッパを横に揃えて並べることは、フランス人にとっては奇妙な体験だったらしい。

 

 

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「立入禁止」

 

 

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看護詰所

 

 

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怪しい部屋に怪しい人物がいる。

 

 

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「努力即幸福」 ( 森田正馬の墨跡 ) の扁額。

 

 

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「非事実者非眞也」 ( 森田正馬の墨跡 ) の扁額。

 

 

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厨房とその事務室

 

 

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病院の玄関で。

 

 

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三聖病院のドキュメンタリー映画 ( 野中剛監督作品 ) に出てきた病院の階段。

 

 

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前庭の地蔵たちと、鯉のいた池。

 

 

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狸と、金魚のいた池。

 

 

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ここはトイレではないのだが。

 

 

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「心ほったらかし」

 

 

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「希望」は敷地の隅に置かれていた。

 

 

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池の金魚

春と修羅─存在と不在─

2015/03/30

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三聖病院は、あります ( 3月29日 )。

 

 

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平成26年12月27日の閉院を予告する平成26年10月1日付のお知らせが、今、門外に貼られている。去来今に非ず。

 

 

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三聖病院は、解体され不在となることによって、まさに存在している。

 

 

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仰げば、まだハクモクレンがいっぱい。もうすぐ散ってしまう。

 

 

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門のシャッター越しに見る風景。白い花びらが少し散っている。

 

 

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建物の背後に鬱蒼と並んでいた樹木がなくなり、工事用シートも外され、敷地の後方からの視界が良好になった。

 

 

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病棟が一挙に姿を消した。そこには多くの人たちが住んだ部屋があった。

その向こうに管理棟の一部が、虚しく存在を主張してまだ残っている。遠く、左側には第2診察室らしき部屋が見える。それは私たちが外来診療をした部屋。

 

 

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第2診察室を拡大して撮る。

 

 

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第2診察室を、さらに拡大。

毎週ここで診療していたので、若干懐かしい。窓の向う側の庭木を見通せる。実際にあった部屋より、この方が絵になっている。

 

 

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まだ敷地に残っている建物 ( マンション3階から撮影 )。右方に見える建物群の中に、厨房や浴室や便所がある。管理棟で感じるような空虚さは、ここにはなかった。

 

 

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窓が二つあるのはトイレ ( 女性用 ) である。洗剤 ( ?) が置いてあるのも見えて、生活臭が残っている。

便所はまさに存在していた。