森田療法と禅(私が三聖病院で迷ったこと)

2015/10/05

 最近ブログが途切れがちになっていました。以前の「旧ブログ」では、オリジナルな論文とまではいかなくても、堅苦しい文章を一生懸命に書いて掲載していました。現在は、ささやかな規模ながら、研究所のより良い活動の仕方を考え直しているところです。ホームページについては、昨年その管理会社が変わり、「new blog」になったのを機に、以後ブログ欄には、小論文を出すのではなく、必要な記事を自由に出す方針にしています。その水面下では様々な模索を続けています。昨年は京都で国際学会の開催を引き受けるという大仕事を経験しましたが、そこから派生した交流があり、それをどう生かすかという課題も抱えています。
 一方で、昨年末には三聖病院が閉院になるという、大きな出来事がありました。これは年末に単に診療を閉じたということにとどまりません。貴重な資料の保存の仕方などの重大な問題に直面しましたし、年が明けてからは、由緒ある病院の建物が解体されていくのを感慨深く見守り続けることになったのでした。
 院長はじめ関係者にとって、三聖病院の「喪の仕事」はまだ終わっていないと思います。
 私自身としても、三聖病院との長かった関わりを顧みて、複雑な思いが去来し、「喪の仕事」も「総括」も終わっていません。非常勤での関わりでしたが、三聖病院とのご縁をきっかけに、人生の後半は森田療法と共に歩みました。だから冷ややかに森田療法評論家を気取っているつもりはありません。でも病院には病院の、森田療法には森田療法の、社会的責任があると思います(それは勿論三聖病院だけに限ったことではありません)。そのような視点から、経験を通して心の底から湧いてくることについては、常識的に許容される範囲内で、慎重にものを言う責任はあるだろうと思っています。

 さて、なんだか難しいことを書いたあとで、次に砕けたことを言うのはどうかと思いますが、私の手元には最近書いたちょっとした砕けた雑文があります。
 私は、三聖病院の森田療法を通して禅に触れ、禅について、心中右往左往し、悩まざるを得なくなったのでした。そこでついに三聖病院の外の禅にも接してみたくなり、花園大学教授(現 花園大学禅文化研究所所長)の西村惠信先生の教えを乞いました。現在も禅文化研究所での勉強会に参加させてもらっています。ところが西村先生は先般、参加者の人たちはなぜここへ集うようになったのか、それぞれの理由がある筈だから、文章に書けとのたまいました。集められた原稿は文集として、私家本になります。
 私には私の理由がありました。勿論それは三聖病院で禅を学んで、そして直面した迷いに関係します。
 数ヶ月後に出来上がるであろう私家本は、諸賢の目には触れません。また近日、倉敷での学会では、三聖病院の歴史的意義について発表させて頂きますけれど、歴史的位置づけについての短い発表になる筈で、私個人の体験を発表するものではありません。私家本向けの拙稿は個人的体験の側から、書きました。雑文として、カリカチュアライズして書きましたので、そこが不謹慎ですし、私家本の刊行より先行掲載するのもアンフェアかも知れないのですが、この時期にお読み頂ければと思い、期間限定で出しておきます。
 カリカチュアライズしたのは、私自身にとって内容が重過ぎたからです。関係各位に失礼になった点はお詫びしなければなりません。(1ヶ月間で削除予定)。

 

 

 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 

 

 

「エッケ・ホモ(この人を見よ)」
   ―私が蜂になった理由―

 

 最初に、注釈を必要とする。
 「エッケ・ホモ」とは、「この人を見よ」という意のラテン語“ecce homo” の読みである。エクセ・ホモ とも読まれる。この成句は新約聖書に由来し、イエス・キリストが磔刑にあう前に荊の冠を被せられている場面で、処刑に関与したピラトが、キリストを嘲笑する民衆を煽って発した言葉であったとされる。ニーチェの最後の著作(自伝)は 、彼の妹の案により『Ecce homo(この人を見よ)』と題された。本稿では、この成句の原義とは何の関係もなく、ニーチェの自伝のタイトルには微妙に刺激されて、この句を持ち出している。「この人」とは、もちろん西村惠信先生のことである。
 また、「蜂」とは、西村惠信先生の下に集って、蜜蜂が蜜を吸うがごとく、禅を学んでいる、通称「ビー(Beeの会)」のメンバーのことである。その末席に加えて頂いたことへの心からなる感謝を、「蜂」の一字に込めた。

 

1.森田療法と禅
 タイトルについての長ったらしい注釈を前置きに記した後、ようやく本文に入るが、最初に森田療法について、そしてこの療法と禅との関係について、かいつまんで述べておく必要がある。かいつまむのは難しいけれど、この点に言及しておかないと話が進まない。
 森田正馬という明治生まれの精神科医がいた。彼は若い頃、みずから「神経衰弱」(当時の病名)に悩んで悪戦苦闘した経験を持っていた。その経験を生かして、彼は「神経衰弱」を「神経質」と定義し直して、東洋的、日本的、かつ禅的と言ってよい独自の療法を創案したのである。「神経衰弱」は神経の衰弱だから休息すれば治るという西洋の考え方を彼は否定した。そして「神経質」という、それ自体は疾患には当たらない素質に基づいて、疑心暗鬼のごとく不安や恐怖を増幅させていく「とらわれ」のメカニズムが、実は病理の本態であると看破した。だから、治そうと腐心するほど治らない。禅語で言えば「求不可得」である。しかし治そうとするのを止めたら治ると保証するものでもない。とらわれたら、とらわれたままでいく。治らないものは治らない。まして人生の「四苦八苦」を取り除くことはできない。「四苦八苦」のうちのひとつである「求不得苦」は、手に入れるのを断念したら手に入るというようなパラドクスを端的に遮断しているのである。
 人間は、自然に服従し境遇に従順に生き尽くすのみであるとして、森田は事実に則して「あるがまま」に生活することを重んじたのだった。森田の生きた時代、明治の後半から、大正、昭和初期までの時代には、わが国に導入された西洋文明への反動として、東洋思想や日本文化を見直す精神的風潮が文化人の意識の中に流れていた。森田正馬も、そのような時代精神を背景に禅に関心を持ち、禅の素養を有していたのだった。そしてそれが「神経質」の独自の療法(後に「森田療法」と呼ばれる)の創案につながったのであった。
 ところが森田は、仏教的禅的特色を有するこの療法が、当時の医学の本流から、科学的でないとして異端視されるのを懸念したのか、自身の療法は臨床経験から生まれたものであり、禅から出たものではないと説明した。そんな煙幕を張ったものだから、後世において、森田療法と禅の関係は、長年にわたり物議を醸し続けることになった。両者の関係については、未だに延々と論議が尾を引いていて、意見には両翼が存在する。私はと言えば、森田療法と禅の間に密なる関係を見る立場にある。ただし、この療法には、他に東西の哲学などの思想も幅広く摂取されているし、仏教では真宗の教えに接するところもあり、真宗との関係を明らかにすることを、私なりに課題としている。ともあれ、森田療法の本質につながる最たるものは禅であることに変わりはない。したがって、問題は森田療法と禅という、自明とも言うべき重要な関係性に差し戻されのである。それを受けとめて頂きたいのだが、もし受けとめてもらえなくても、それなりに話は進められる。
 ちなみに、今日森田療法に関わっている治療者のうちで、禅との関係について認識を示す人は減るばかりである。片や、禅家の側において、従来より森田療法との親和性を認めてくださっていたかというと、厳密な資料はないが、認知度は極めて低いようだった。長岡禅塾の森本省念老師は森田療法に関心を持っておられたが、三聖病院(後述)を創設した宇佐玄雄(禅僧で精神科医師)と正眼寺を通じて知り合った間柄だったからであろうと思われ、例外的な理解者だったと言わざるを得ない。まあ禅家の立場としては、森田療法の側から「似ている」と言われても、例えばそれは一般市民が有名人の誰それに顔が似ていると言ったところで、相手に対するその有名人の関心が惹起されないのと同じようなものあろう。森田療法と禅の関係について、表面をなぞって手短に言えば、そんなところである。

 

2.三聖病院の禅的森田療法
 伊賀の山渓寺という東福寺派の禅寺に、幼くして養子に入った宇佐玄雄なる若き禅僧(雲水)がいた。早稲田大学でインド哲学を学んだが、その頃「神経衰弱」に悩んだ。大徳寺で得度の後、一念発起し、精神科の医者になろうと慈恵医専に入った。神経衰弱を治すには禅だけでは不十分で、精神医学を修める必要があると、身をもって感じたからだった。
 宇佐は、大正8年に慈恵医専を卒業して、東大の精神医学教室に学んだが、そこで森田正馬との運命的な出会いに恵まれた。類は友を呼ぶ。元神経衰弱者同士の数奇な出会いである。折しも大正8年は森田がみずからの療法を確立した年であった。以後、宇佐玄雄は森田からその療法について指導を受け、森田は弟子の宇佐から禅を教えられる間柄になった。
 やがて宇佐は、大本山、東福寺の協力を得て、空寺になっていた塔頭、三聖寺を利用して大正11年に三聖医院を開設、昭和2年には病院にした。診療は、森田正馬に学んだ「神経質」の療法(森田療法)を専らとした。禅寺で禅僧の医師がおこなった療法だから、森田のやり方以上に、おのずから禅的色彩が濃厚なものとなった。昭和32年、宇佐玄雄の逝去により、御曹司の宇佐晋一先生が30歳の若さで二代目の院長に就任された。以後約60年間の長きにわたり、この病院の責任者として君臨し、禅的な森田療法の実践を継続された。しかし昨年(平成26年)末、病院は遂にその長い歴史に幕を引き、診療を閉じたのだった。私は昭和49年から非常勤医師として関わり続けて、病院の最後を見届けたが、その間約40年の間に、ここで様々な経験をし、様々なことを思った。
 二代目の宇佐晋一先生は、偉大な父からサラブレッドの御曹司として、幼児期から禅の修行をさせるような厳しい家庭教育をお受けになった。家族が団欒することはなく、大笑いも小笑いもなかったと、三聖病院のドキュメンタリー映画の中で、述懐しておられる。この厳格さが、裏返せば過保護だったのであろう。晋一先生は、京都大学医専卒業後、京大精神科に入局し、蛸博士(坂口安吾の『風博士』に登場する)のごとき光頭を権威のシンボルとする三浦百重教授に忠実にお仕えになった。それは戦後まもなく、西洋から向精神薬や電気ショック療法などが導入された時期のことである。晋一先生は三聖病院の二代目院長になられるに際して、京大精神科で修得した薬物療法や電気ショックをそのまま持ち込まれたのであった。そのような治療は、もちろん禅とは何の関係もない。亡父の禅的森田療法を継承しながら、権威的な京大教授の下で覚えた、当時としては新しかった西洋の療法を併用なさったのである。
あるとき、それは二代目院長がその職に就かれてまだ歳月の浅かった頃らしいが、天龍寺管長の平田精耕老師が病院を訪れ、診療を観察して曰わく、「禅を花とするなら、森田療法は造花だ」と、そう評された。これが頂門の一針となって、若き院長は、森田療法を花としての禅に近づけるべく、日夜一層精進されたそうである。
 しかし同じ病院に勤務していて気づいたことがいくつかある。
 まずは、抗精神病薬や電気ショックを必要とするような重度の患者さんをも治療対象に加えているので、いたずらに混乱を招きがちである。そもそも蛸博士の時代の治療はもはや古過ぎる。対象枠を禅的森田療法の適応となる患者さんたちに限れば、禅的な治療の実が上がるのではないか。
 森田療法は精神医学の中に、禅を活かそうとしている療法なのだから、造花に甘んじてもよいのではないか。
 禅僧であった初代院長とて、精神医学を取り入れてこそ禅が治療的に活かされると考えたのだから、父が求めたせっかくの精神医学を抜き去って、禅の花だけを追求するとしたら、先代院長の方針を反転する奇妙な逆走になるではないか。等々。
 このような問題を孕んでいる背景には、宇佐二世に対する先人たちの無言の期待が重くのしかかっている事情が考えられた。
 療法の父である森田正馬という人の偉大な足跡を範とする課題がまずあった。加えて亡父から託された病院を維持し、教えられた禅を奉じていく責任、大学の精神科医局で受けた三浦教授(蛸博士)の鞭撻への恩、さらに平田精耕老師の批判も忘れられない。二代目はこれらを双肩に担って、矛盾を生み出しながら、それを矛盾とせず、超多忙な好日の日々をひたすら進んでこられたのである。
 私はそれを冷静に見つめながらも、この病院の「日々是好日」に翻弄されてきたのだった。

 

3.禅とエレキテル
 「ひたすら」ということは、しばしば怖い。ときには、それは危険である。
 二世の宇佐院長は、物腰が柔らかく、誰に対しても優しい穏和なお人柄の先生である。
 病院の建物は、先代院長の設計により、旧三聖寺の地続きの敷地に禅寺を模して、専ら森田療法の場として建てられたものだった。しかし訪れる者にしてみれば、敷居が低くて入りやすいので、森田療法の対象外の様々な精神疾患の人たちが、森田療法と関係なく受診した。院長は断らない人で、来る者を拒まず、すべての人が受け入れられた。
 来る人に対して院長は、「趙州喫茶去」のごとく、自分で茶を淹れて接待なさり、相手の話を「ホーォ、ハーァ」と頷いて聞く。けれども「喫茶去」の含意を知る人は少ない。「院長みずから患者にお茶を淹れて下さる病院は、世界中でここしかない」と感激して、多くの人が院長を崇め奉ることになる。一方では、診察時に院長に質問を向けても、「ホーォ、ハーァ」としか言ってくれず、すかされるので失望する人もいる。
 精神病レベルの人たちには、多量の薬物が処方され、電気ショックが日常的に行われた。異次元のような病院空間で、リスクについての説明を略して施行された電気ショックは、あたかも平賀源内のエレキテルのような、不思議で有り難い治療だという印象を患者側に与えているようだった。そしてその速効性は驚嘆され、口コミで伝わった。ある時期、とりわけ関西圏では、森田療法より電気治療の病院としての評判が高まっていた。ともあれ、二代目になってから、三聖病院は、森田療法専門病院と独特の精神病院という二つの相貌を併せ持つようになった。院長の内界で、これらがどのように割り切られていたのか、あるいはどのように融合していたのか、未だに釈然としない。
 一方にある神経質あるいは神経症の心の病態と、もう一方にある精神病レベルの障害は、医学的には、ほぼ対極に位置づけられる。しかし『信心銘』に「二見に住せず」と言うごとく、心の疾患を固定的に捉えて、安易に二極化に分割するならば、見失うものがあるかもしれない。神経質VS精神病も仮の線引きに過ぎないものと心得て、森田療法や禅も、薬やエレキテルも、縦横に駆使するところに、超越的な治療があるのだろうか。そのような柔軟な考え方をすることは、確かに貴重かもしれない。だが精神医学も科学である。禅を慎重に吸収した森田療法とあやかしのエレキテルが区別されない三聖病院という宇宙は、悲しい異界のように思えてならなかった。

 

4.エッケ・ホモ(この人を見よ)
 「二見に住せず」とは禅が教える根本的思想であった。自己と他者の関係について言えば、「自他不二」である。ちなみに『信心銘』でも、「真如法界、他なく自なし」と説かれている。
 然るに禅的森田療法を自任する病院においては、自己意識を持たずに他者意識を持つべし、という二分法の教えが標榜されていた。神経質者の自己中心性を打破せしめ、かつ他者への利他行に目覚めさせる、その方向を指し示す教えであることはわかっている。しかし標語的な浅い理念を掲げていて、語彙を取り上げても、不明確である。たとえば他者意識というものには、他者を友とする意識と他者を敵とする意識があるだろう。他者への被害者意識から、人間同士のいさかいも戦争も起こる。自己意識と他者意識の二分法が、どうして禅的森田療法の教えの中に侵入したのか。それは心理学のウイルスによるものかもしれず、由々しいことであるが、ウイルスへの抗体を有されない院長の純粋なお人柄による悲喜劇のようで、気の毒でならない。先に記したような診療の実態と相まって、思想的にも実践的にも、私は孤立無援を味わっていた。
 閉塞的な場にみずからを閉じ込めて悶々としていた私は、外の広い世界の禅に触れてみたいと思った。しかし素人の私は、禅の世界の右も左もわからない。模索をしているうちに、花園大学教授で著名な西村惠信先生というお方がいらっしゃることを知った。しかも先生の自坊は私の在住する県内にあるらしい。県地図を広げると、そのお寺の所在地がわかったが、それは私がかつて勤務したことのある病院の近くであった。
 不思議なご縁を予感しながら、自己意識と他者意識の問題についてお尋ねする手紙をしたためた。すると返事がすぐに届いた。その親書には、私の迷いを射抜くお言葉が記されていて、「己事究明」についてお書きになった論文の別刷が同封されていた。そのお手紙は今も大切に保存している。あのとき「己事究明」についての玉稿を読みながら、不覚にも涙がこぼれた。
 その後私は佛教大学の勤務の間を縫って、西村先生が担当なさっている市民講座に出た。それから歳月を経て、昨年は京都で国際学会の開催を引き受けた際、西村先生に禅についてのご講演をお願いした。外国人の参加者たちに先生を紹介するとき、私は「この人を見よ(エッケ・ホモ)」と言った。いや叫んだ。外国人は、めったにないこの機会に生身の西村先生をじかに見るとよい。ご講演にお出まし願った私の意図が、まさにそこにあったことは偽らざるところであった。
 こうして私は蜂になった。