2019年の今年は「森田療法創始百周年」か―森田療法考現学(5)― <その二>

2019/03/27




 

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2019年の今年は「森田療法創始百年か」<その二>


 
  (承前)
 
4. 「恐怖突入」と 「煩悶即解脱」
 
  森田は、患者の精神交互作用を打破して、「煩悩即菩提」あるいは「煩悶即解脱」の体験に導くために、あえて人為的に指示を加え、有無を言わせず恐怖に突入させる方法を用いた。これがヅボアと異なる森田一流の「説得療法」であり、「体験療法」なのであった。ヅボアは体験よりも論理を用いて神経症者の病的心理を解消させようとしたのに対して、森田は体験に重きを置き、患者に説得的に具体的方法を授けて、恐怖に直面させた。
  「恐怖破壊法」とも言い、行動療法におけるフラッディングと似ているが、「煩悶即解脱」に導くものである点で、やはり非なるものであった。したがって、森田が「体験療法」と言う場合、方法的に二重の意味があった。通院療法の段階で開発工夫していた「恐怖破壊法」と、もうひとつはもちろん、入院のとりわけ第一期の絶対臥褥において、恐怖と一体化せざるをえない体験を指していたことは言うまでもない。時系列的には前者(恐怖破壊法)が先行し、続いて入院による方法として後者ができた。
  前者、つまり相手に見合った教示を用いて「恐怖突入」をさせる方法も、症状を治すにはそれなりに手応えはあったようで、森田は入院療法を始めてからも「恐怖破壊法」を併用している。
  以下に、森田が呈示した「恐怖突入」に相当する症例の中から、「恐怖破壊法的」な治療例として、任意に3例を選んで、簡単に紹介する。
 

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  〔心悸亢進発作例〕(『神経質ノ本態及療法』大正十一年一月稿)。
  森田の恩師の某大学先生の夫人。多年、発作は夜間に多く起こって、横臥できず布団に凭れるのみ。往診をしたところ、今夜も発作が起こりそうだと言う。所謂「精神性心臓症」と診断して、次のような教示を授けた。「では今夜は最も発作の起こり易い横臥位をとり、発作を起こし、苦痛を忍びながら、発作の起こり方や経過を詳細に観察されよ。そしたら私は将来発作の起こらぬ方法を教えます」と。ところが患者は、発作を起こすことができず、朝までぐっすり眠ってしまったのだった。そこで森田は「これが体得というものです。従来は、発作を予期して、心惑い、徒らに苦痛を増大させていたのです。発作を逃れようとする卑怯をなくし、恐怖に飛び込んだので、発作はどこかへ去ってしまったのです」と説明してやったのであった。
 

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 〔胃痙攣様発作例〕(『神経質ノ本態及療法』大正十一年一月稿)。
  五十九歳女性。十年前に発病して、胃部に発作性に激痛が起こる。最近ひどくなり、朝夕にその発作がある。診察したところ、胃痙攣ではなく、ヒステリー球に近いものであった。発作への注意によって精神交互作用が起こり、予期感動から発作の起こる時刻まで定まっている。森田はこの患者を、大正10年3月に入院させた。そしてまず臥褥をさせて、次のように指示した。診察と治療のために必要だからとの口実の下に、予期の時間よりもなるべく早く、努めて発作を起こして見せなさいと。ところが、そのように命じると発作は起こらなくなってしまった。その後作業にも参加して、全治を迎えたのだった。
 

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 〔強迫観念症の例〕(『神経質及神経衰弱症の療法』第三十六例)。
  二十四歳、農家の未婚女性。十代後半より、自分が盗みをしたかのような窃盗恐怖や、火事恐怖など諸種強迫観念が起こり、家に閉じこもっていた。難治であったが、最も的確に治癒させたものである。患者は十五歳頃に呉服店で反物を新調したが、それを盗んだのではないかと気になり、箪笥にしまって着ることができず、ついには箪笥に触れることもできなくなっていた。大正10年4月より、2ヶ月の予定で入院療法を試みることにした。絶対臥褥を経て作業に移り、患者の苦痛の種となっていた衣服を国元から取り寄せさせた。入院して50日を経たある晩、突然森田は患者に、今夜この衣服を着て寝るべし、と命じた。今夜は当然徹夜の苦悶に悩むであろうが、その覚悟で忍耐しなさい、と命じた。然るに翌朝、患者は、昨夜はどうなることかと思ったが、案外何事もなく、いつの間にか眠ってしまった、と言って喜びに溢れていた。恐怖に突入して、恐怖の破壊を体験自得したのだった。掛け金が外れるような心境になったのである。その後患者は帰郷し、「気になることが出来ても、教えられた通りにやっています」と便りに書いてきた。この患者は、まもなく森田の家に来て、お手伝いとして立ち働くことになった。
 

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  以上の症例のうち、はじめの2例は発作性神経症に相当するが、いずれも予期恐怖が働いて精神交互作用が高じていたところを、暗示的とも言えるような教示の下に、恐怖に突入させ、恐怖が破壊される体験に導いている。最後の強迫観念の例では、入院して数十日を経て、もはや後に引けず、森田に身を任すほかない段階で、恐怖になりきらせ、恐怖との対立から解脱させたのである。見事に巧んだものである。森田との強い絆が治療的要因になった例でもある。退院後森田家の従業員になったのは、その証左で、転移が続いていたと言えよう。
  ここで想起するのは、雷恐怖の人に対する盤珪禅師の教えである。「驚きなばそのままにてよし、用心すればふたつになる」と盤珪は言った。恐怖は恐怖のままにして、恐怖と予期恐怖を対立させるなと盤珪は戒めたのだった。森田の場合は、わざとお膳立てをし、手の込んだ教示を用いて、意図的に恐怖に突入させているので、技法として不自然であったと言えるかもしれない。しかし、このような「恐怖破壊法」的な恐怖突入は、入院による特殊療法を始めた初期においても、療法のひとつの特徴をなしていたようである。熱意ある治療者の応援があったからこそ、患者は恐怖に突入して、「煩悩即菩提」、「煩悶即解脱」の境地に誘われたと言うことができよう。
 

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5. 家庭の不和による臥褥と「頓挫療法」について
 
  さて、入院による余の特殊療法を改めて考えるとき、今ひとつ分かりにくいのは、第一期に絶対臥褥を導入した森田の着想や意義についてである。森田がその目的として、第一)診断上の補助、第二)安静による身心の衰憊の調整、第三)精神的煩悶苦悩の根本的破壊、の三つを挙げていることはよく知られているが、それが早くも大正9年の著作(「精神療法ニ對スル着眼点ニ就テ」)に記されていることは既述した。しかし、三項目のうち、第一の診断上の補助は、これ自体が補助的な目的としか思えない。したがって第ニと第三のふたつの項目を問題にすべきであることになる。
 
  遡れば明治42年の著作において、森田は、強迫観念の病理について、その煩悶を理論を以て解脱させることは不可能であり、治療に難渋していることを告白的に記している。そしてその病理は仏教語で言うならば「繋驢橛(繋がれたる驢馬が廻り廻りて其杭にからまり動きも得ならぬ様」(禅語)に喩えられるとし、切に宗教家の示教を希うと、あからさまに書いているのである(「神経衰弱性精神病性體質」、人性、第五巻、第五-六号、明治四十ニ年五月-六月)。
  その後の仏教的禅的な展開を知る資料に乏しいけれども、催眠や説得療法を試みても効果をあげ得なかった森田が、いよいよ煩悩になりきる道を治療的に探って「絶対臥褥」に到達したのではなかろうか。禅の形に当てはめるならば、座禅を臥禅にしたものが絶対臥褥だとも言えようが、論を座禅につなぐ禅本位論は問題を狭くする。絶対臥褥という人間として原始の状態にして、「煩悩即菩提」を体得させようとしたのであろう。「煩悩即菩提」を自分は「煩悶即解脱」と言い換えるとしたところにも、森田らしさや、信念や、さらに彼自身の解脱的体験も込められたニュアンスさえ伝わってくるのである。かくして、絶対臥褥の目的の第三を理解することができる。
 
  さて、そうすると残る第二の身心の衰憊の調整という目的が宙に浮きかねない。だが、これにつながるであろう森田の断片的記述やエピソードがあるので、取り上げることにする。
 

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  帚木蓬生氏は、著書『生きる力 森田正馬15の提言』の中に、次のように書いておられる。
 
  「正馬がこの臥褥療法を思いついたのは、郷里の高知県の風習からのようです。土佐地方では昔から嫁姑の間にいざこざが起こると、どちらか一方が三、四日臥褥をする習慣があったそうです。臥褥が終わると、双方が歩み寄り、良い嫁姑の関係に戻るのです。」
 
  典拠を記しておられないので不審に思いながら、高知にそのような風習があったのかどうか、高知の森田の生家から遠くない地区にお住まいの高齢の知人らに問い合わせてみたが、そんな話は聞いたことがないとのご返事ばかりであった。ただ森田がそのようなことを言ったことはあったようで、かつて戦後に東京で森田療法に関わったご経験のある高齢の某氏の話では、そんな伝聞に接した記憶があるが、真偽はわからないままだったとのよしであった。ちなみに『形外先生言行録』には、昭和3年頃に森田の下に入院したI氏が、森田は郷里の嫁姑のいざこざでどちらかが三、四日臥褥することがよくあり、それをヒントに臥褥療法を始めた、と言っていたという回想を記しているくだりがある。
 
  嫁姑間のいざこざを臥褥で収まりをつけるというのは、高知のよく知られた風習であったかどうかはわからない。だがそれは森田の念頭にはあったようなのである。それをどのように読み解くかが問題である。そこで森田の著作を改めて読み直すと、似たような例として、家庭の不和で寝込む話が、繰り返し出てくることに気づく。
  それは、いずれも「臥褥療法」についての説明の中に出ている。異なる三つの著作のそれぞれに、同じ文章の一節が嵌め込まれているのである。その一節では、前半部分で、愛児を亡くした母親の悲痛や事業に失敗した人の煩悶に臥褥療法を応用できると述べて、引き続き次のように記述しているのである。
 

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  「よく聞く事であるが、或は家庭の不和のため、或は何か気にくはぬ事があって、一日も二日も寝込んだまま起きて来なかったといふ事がある。之は或は神経精神病性若くは変質性人格者の自然良能によるものかも知れない。即ち忿怒なり悲憤なり、總て激情は臥褥によって之を和らげる事が出来るのである。」
 
  この同じ文章が記されている著作とは、次の三つである。
・ 「精神療法ニ對スル着眼点ニ就テ(承前)」、医学中央雑誌、第三三〇号、大正九年七月。
・ 『神経質及神経衰弱症の療法』、大正十年六月。
・ 『精神療法講義』、大正十一年一月。
 
  上記の著作で、「臥褥療法」について述べられている内容は、かなり共通しており、要点はおよそ次の通りである。
  臥褥している状態では身体機能が安静になり、精神活動も平静になる。不安や苦悶に関係する刺激や機会のない環境に隔離して臥褥させると、短時間で精神的落ち着きが得られる。
  精神病で興奮状態の者を強制的に寝かせると、案外短時間で安定する。
  また自験例として、ある中学生が試験に落第して躁状態になり、絶対臥褥を命じたら、奏効した。また別の中学生で、ある事件により激しい苦悶状態になったものに対して、絶対臥褥を命じたら、数日間で著効を見た。いずれも刺激を遮断した室内で臥褥させたもので、臥褥療法は一方から見れば隔離療法である。このような絶対臥褥により、病的な、あるいは負の感動は増幅することなく、消失する。絶対臥褥は、実に「頓挫療法」と言ってもよい、と。
  この中学生の2例の経験から、自分は臥褥療法を種々の患者に生かして、効果をあげるようになった、と言う。
  このような文脈から、家庭の不和のために寝込むという話が出てくるのである。その文中に、神経精神病性若くは変質性人格者との用語が出ており、これは語弊があるが、当時森田は神経質を分類上そのように捉えていたのであった。いずれにせよ、森田は臥褥と隔離によって、「頓挫療法」と言えるほどに自然回復力が起こることを経験的に知ったのである。そのことへの着目が、入院療法の第一期を絶対臥褥としたひとつの理由になったと考えることもできよう。
  しかし、中学生2名の例や嫁姑のいざこざ後に寝込む話は、いわば対症療法的であり、森田が言った「感情の法則」だけでも説明できそうである。彼はすでに大正5年に、感情の特性について、感情は放任すれば自然に消失することや、感情は表出するに従い益々強盛になることを指摘していた(「常識に就て」、人性、第十二巻第四号、大正五年五月)。 したがって、以上の例や話が、自然療法として自発的活動を生かすこの療法の、原点になる絶対臥褥に見合ったものなのかどうか、疑わしい。
 

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  森田はつとに、入院第一期の絶対臥褥の目的として、三項目を挙げていた。この三項目は、先にふれたように、そのままではまとまりを欠いていて、わかり難い。
  ところで、昭和3年に出版された著書『神経質ノ本態及療法』における絶対臥褥についての記載を瞥見すると、従来通りに三項目が並べられているけれども、第二の心身の疲憊の調整については、感情の自然の経過による消失と説明されている。どうやら当初は、やはり感情の法則レベルの発想であったらしいことが判明する。
 
  一方、第三の精神的煩悶、苦悩の根本的破壊については、これを「本療法の眼目」と記して昇格させており、「煩悶即解脱の心境を体得せしむるにある」としている。ちなみにこの著作の原本は、大正11年に執筆された学位論文であるが、それが昭和3年に単行本として出版され、全集に収められているものである。
  ともあれ、系統的な入院療法は深い奥行きのあるもので、療法の開発後もなお、森田自身、試行錯誤を経験したであろう。療法もまた、森田と共に成長していったのである。
 
  嫁姑のいざこざと臥褥という下世話な話が、療法の絶対臥褥につながったかどうかは重要事ではなく、関係があるとすれば、感情の法則のような生理的レベルにおいてであろう。そして、森田自身、絶対臥褥の第二の目的としていた衰憊(疲憊)の調整は、相対的に重視しなくなっている。森田は自身が唱えた三項目に、まとまりがないことに気づいて多少困惑していたのかも知れない、と言ったら憶測に過ぎるだろうか。
 

(<その三>に続く)          


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2019年の今年は「森田療法創始百周年」か―森田療法考現学(5)― <その一>

2019/03/26




 

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2019年の今年は「森田療法創始百年か」<その一>


 
  森田正馬が自称した「神経質に対する余の特殊療法」、つまり森田療法は、いつ、どのようにして出来上がったのだろうか。
 
1. 森田療法の創始ということについて
 
  今から10年前、雑誌「臨床精神医学」の2009年3月号で、「森田療法の発展と課題」という特集が組まれており、その巻頭に北西憲二先生による「創始90周年を迎えた森田療法」という論文が掲載された。論文のキーワードのひとつとして、「森田療法創始90周年(the ninety anniversary of Morita therapy)」が挙げられ、本文では、冒頭に次のように記されている。
 
 「森田が試行錯誤の末に、入院森田療法という治療システムを作り上げたのが、1919年4月、46歳のときであった。今でいうパニック障害を1915年に1回の面接で治癒に導き、いち早く感情への認識と行動の関わりの重要性を見抜いた森田であったが、強迫性恐怖を呈するいわゆる対人恐怖にはほとほと手を焼いたらしい。それを臥褥から始まる治療システムによって治癒させることができたのである。この1919年を以て森田療法が創始された時期とすると、2009年はちょうど90年が経ったということになる。」
 
  明快な記載であり、これに従えば、2019年の今年は、まさに「森田療法創始百周年」にあたることになる。
 

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  しかし、歴史的に見て、入院森田療法の治療システムが1919年4月に作り上げられたのかどうかという点について、今少し検証が必要かもしれない。実際、森田療法は1919年(大正8年)に出来上がったとするのが従来より通説となってはいたが、一方で、森田が療法を創って実施を重ね、世に問うた過程があったことを視野に入れて、1919年だけに焦点化することを避ける見方もある。便宜上、1919年を“anniversary”としてもよいのだろうが、療法が出来上がったプロセスを見ることが必要である。
 
  たまたま「高良興生院・森田療法関連資料保存会」の、2019年「春の心の健康講座」の案内チラシに目をやったところ、「森田療法とは?」というコラムがあって、そこには次のように書かれている。
 「森田療法とは、西暦1920年頃、森田正馬(元・慈恵医大名誉教授)が生み出した、わが国が世界に誇るべき神経症の治療法である(以下略)。(当会パンフレット「森田療法とは」から抜粋)」。
 
  このように、歴史的視点を重んじる「保存会」(略称)では、森田療法は1920年頃に生み出されたという含みのある表記をしている。
 
  ともあれ、森田は、一朝一夕にして療法を作りえたのではなく、苦心と工夫を重ねて療法を編み出したのであった。それがいよいよ出来上がりに達していったのが、1919年(大正8年)からの数年間である。
  療法が出来上がっていったその数年間の過程について、以下に要点を見直しておきたい。
 

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2. 1919年(大正8年)のこと
 
  この年のことについて、野村章恒は『森田正馬評伝』に書いている。
 「大正八年は、正馬は四十六歳になり、精神科医として円熟期にはいった年で、自宅入院患者に対しても熱心に精神療法をほどこし、森田式神経質療法を確立した記念すべき年であった。」(以上、本文129ページ)。
  野村は、著書巻末の森田正馬の年譜においても、大正8年についてほぼ同様のことを記している。
 「神経質者の下宿通院療法を家庭入院にきりかえ、精神病恐怖、赤面恐怖、ヒポコンドリーの治験によって、神経衰弱および強迫観念の森田療法の理論と実際を確立した」と。
  いずれも、療法を確立したと記されているけれども、その断定的な表現ゆえに、かえって実証性が伝わってこない。年譜の方の記載では、治験によって確立したとしている点に、やや具体性が見えるが、不明点が残る。
 

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  さて当の森田正馬自身は、『我が家の記録』の同年4月12日のところに次のように記している。
 「此月、永松看護婦長ノ久シク神経衰弱ニ悩メルヲ余ノ家ニ静養セシメテ軽快ス。従来余ハ神経質患者ヲ近隣ニ下宿セシメテ之ヲ治療セルガ、此事アリテヨリ自宅ニ神経質ヲ治療スルノ便ヲ知リ、次第ニ入院ヲ許シ、此年十人ノ入院患者アリタリ。」
 
  以上を要するに、森田はそれまで神経質患者を近隣に下宿させて、通院療法を行っていて、十分な成果を上げてはいなかっが、大正8年4月に、神経衰弱だった巣鴨病院の永松婦長を自宅に住まわせて、家庭的療法を試みたところ、それが奏効したので、他の患者も順次自宅への入院療法に切り替えて、一定の成果を得だした、ということなのである。
  時が熟した偶然の到来であり、いわばセレンディピティが起こったのであった。ただし、永松婦長を自宅に同居させて、家事などの作業をさせたようだが、絶対臥褥から始めたかどうかはわからない。また他の患者についても、第一期から始まる構造化された入院療法を、どの程度適用したのかという問題が残る。そもそも、余の特殊療法と称した入院療法は、どのようにして創案されたものだったのか。
 

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3. 構造化された入院療法の創案と実施 ― 当時のいくつかの著作より―
 
  入院療法の創案と実施については、その当時の森田の著作から窺い知ることができる。
 
1)「神経質ノ療法」(成医会雑誌、第四五二号、大正八年十二月掲載)
 
  神経質者を自宅に入院させて、より本格的に特殊療法を開始した大正八年に、森田は早速リアルタイムで自身の療法について表記のような論文を書いている。
  これは「森田正馬全集」第一巻にも掲載されている(96-108ページ)。 入院森田療法が創案された時期に書かれたものとして重要な論文なので、この内容を以下にやや丁寧に紹介する。森田の論述の仕方に倣いつつ、要約的に述べる。
 
  まず神経質の療法は安静療法と訓練療法が根本療法であって、場合に応じて両者を選択加減するのである。それを前提として、余の考按せる特殊療法がある。
  自分は、多年種々の機会に種々の患者に応用をして、次第に療法の系統を作って、今日に至った。その方法は、一見平凡通俗で、次の通りである。
 

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  第一週(第一期)、絶対臥褥、
  第二週(第二期)、徐々に軽き作業、
  第三週(第三期)、稍重き身体的・精神的労作、
  第四週(第四期)、不規則生活による訓練、
 

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  以上であって、適応症は慢性神経衰弱症が主で、場合によっては強迫観念症にも用いる。
  この精神療法は、ヅボア(Duboisデュボア)氏の説得療法と大いに趣を異にする。ヅボア氏のように論理の力によって説破するというような困難なものではなく、事実を体験し、理屈を離れたる体得をさせるのである。フロイトのように精神分析によって原因を探るなどの手数も要さず、神経質という診断がつけばよいだけである。
 
  第一期の絶対臥褥は、単純に臥褥せしむるのみで、薬剤などの治療法を取り上げ、内部に起こってくるヒポコンドリーとか強迫観念による苦悶、不安を破壊しようとすることなく耐え忍び、経過に任せる。不快の連想に対して自らこれを破壊せんと努力することは、禅の語に「一波を以て一波を消さんと欲す、千波万漂交々起る」と言っているように、我心に我が心で対抗するようなものであるから、其の心は益々錯雑する。苦悩から逃れず、武術の奥義の「必死、必生」、兵法の「背水の陣」によって、仏教で言う「煩悩即菩提」に至る。それをもじって「煩悶即解脱」と自分は言う。神経質の患者は、苦痛を予期恐怖するから二倍の苦痛を覚え、さらにそれを恐怖すまじと煩悶するから、苦痛は三倍となる。煩悩を断ずるのでなく、煩悩の中に飛び込めば、煩悩が安楽となり解脱となる。
 
  第二期では、室外に出て外気にふれる生活をさせるが、まだ積極的に仕事を課すことはしない。活動が制限された状態に置くことで、身心の自発的活動を徴発する。モンテッソリー女史が幼児教育において、児童の自発的活動の生起を重んじたことと似ている。こうして仕事に興味が生じ、それからそれへと為さずにいられなくなる。そして第三期の本格的な作業につながっていく。
  要するに、最初は絶対臥褥により、煩悶を破壊し、次に作業療法により身心機能の自発的活動を促し、これを助長善導するという、いわゆる「自然療法」なのである。
 
  森田は、神経質に対する自分の特殊療法について、およそ以上のように説明している。彼自身、外来で説得的に治す方法を試みたけれども、あまり奏効しなかった苦労を経て、入院によるこのような特殊療法の創案に至ったのであった。
  療法の中核とも言うべき「煩悩即菩提」、「煩悶即解脱」を、入院第一期の絶対臥褥と重ね合わせているところからも、入院療法の重要性を改めて再認識させられる。
  なお、既にこの論文において、入院療法の意義や方法がかなり詳述されているが、実例は示されていない。また、自分の経験では著効を収めたと思うが、批評と教示を希望すると記している。
 

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2) 「精神療法ニ對スル著眼点ニ就テ」(医学中央雑誌、第三二九~三三〇号、大正九年七月掲載)
 
  これは森田正馬全集第一巻にも掲載されている(109-127ページ)。大正9年には、森田は年頭より反復性大腸炎の大患に罹り、病臥して、死線を越えたが、この年にこの原稿を出している。雑誌の性質もあってか、余の神経質の特殊療法については、ほとんど前著「神経質ノ療法」への参照を促していて、内容についての新たな記述は乏しい。ただ、絶対臥褥の目的として、次の三つを挙げていることは新たな記述である。すなわち診断上の補助、安静により身心の衰憊を調整すること、及び患者の精神的煩悶苦悩を根本的に破壊することである、としているのである。
 

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3)『神経質及神経衰弱症の療法』(大正十年六月刊)
 
  森田は大正9年秋より、自身の療法についてまとめる著作『神経質及神経衰弱症の療法』の執筆を開始して、翌年6月に出版した。
  この著書で森田は、2年前に書いた論文「神経質ノ療法」を下敷きにしながら、療法の趣旨や方法について、より一層、的確な記述を図っている。さらに、多くの症例を列挙していることも本書の特徴である。
  療法の「由来」については、自分は十五、六年も前より、神経質に対して催眠術と説得療法で突貫肉薄してきたけれども、うまくいかず、論理を以て感情を圧服せんとすることの矛盾を知った。そのため説得法を変化させ、絶対臥褥法を用いて著効を収めたことなどから、療法の系統を作ったのであると言う。
 
  療法の根本的意義としては、「自然療法」と「体験療法」という二つの重要な側面を示している。
  まず、「自然療法」とは、身心の自然機能を発揮させることである。療法の三期間は隔離療法として、精神の成り行きのままにして、誤想や臆断を破壊し拘泥を廃し、仏教で「心無罣礙(しんむけいげ)」(『般若心経』)と言われるような、とらわれやこだわりのない状態に置いて、身心の自然な活動を伸長させるのである。
 
  また「体験療法」は、「自然療法」と別のものではないが、とりわけ原点としての絶対臥褥の中に、「体験療法」が凝縮されている。「煩悩即菩提」、「煩悶即解脱」の体験がそうである。また森田は次のように述べている。「禅の語に『見惑頓断如破石、思惑難断如藕糸』といふ事があるが、見惑は理解で、石を破ったやうによく断定ができるが、思惑は恐れとか煩悶とか感情的のもので、之は恰も蓮の茎を折る時糸を引いて断然と断ち切る事の出来ないやうなものであるといふ意味である。」
  そして恐怖を去る方法は、恐怖を忘れ、逃れようとするのでなく、恐怖の中にそのまま飛び込むことであると言う。
  なお森田は、自分なりに説得療法の余地を残して、ヅボアは理論に重きを置くが、自分は体験に重きを置くと言い、そのような意味でも体験療法と称しているが、これについては後述する。
 
  この著作には約40例の症例が記載されている。すべてが入院療法の例とは限らず、また入院例でも、概して絶対臥褥の体験を読み取り難いといううらみを残す。
 

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4)『精神療法講義』(大正十一年一月刊)
 
  本書は精神療法全般について、主に身心同一論的立場から基礎理論を述べたもので、神経質に対する特殊療法については、わずかなページしか割いていず、新しいことは書いていない。
 
  これは大正十年に執筆されたものである。神経質に対する特殊療法は、臨床的積み重ねを課題としながら、その理論立ては、『神経質及神経衰弱症の療法』で一応のまとまりに達したものと推察される。
 

(<そのニ>に続く)          

 


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歴史は考現学である。―森田療法考現学(4)―

2019/02/21

< 最初におわび >
  「森田療法考現学」と題する文章を昨年から連載方式で掲載し始めましたが、続きを途切らせていました。書き続けたいことは多いのですが、他の記事と交錯しますので、整理をはかっているところです。
  森田療法考現学に該当する文章は今後、「研究ノート」欄に移動します。ブログ欄にも出す方がよいと判断する場合のみ、ブログ欄にも併載します。今回からのいくつかは、併載を予定する記事になります。ご了承下さい。
 

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<歴史と考現学の関係について>
  過去はひとつである。あるいは複雑であろうとも、同一のシリーズであった筈である。しかし、化石ひとつが発掘されたら歴史が変わる。化石なら化け物ではなくて、まあ確かな代物であるから、歴史を変えるかもしれない。ところが今日は、氾濫する情報によって歴史が変わる、あるいは変えられてしまう。遠慮がちに現れていた貴重な情報が、他の情報群の圧力に抑えられて再び闇に葬られる。
  最近気になっているものとして、ウィキペディアがある。たとえば、ウィキペディアの編集のしかたひとつで歴史が変わる。誤情報を出すのは可能だし、出さなくても、瑣末な情報でいっぱいにすれば、貴重な情報は出る余地を失う。
  もともと情報の少なかった史実については、それをどう読みとるかによって歴史が大きく変わる。低次元の意図的な書き替えや読み替えばかりを言っているのではない。歴史をどう読み、どう書くかは、現代人の慎重で柔軟な良識にかかっている。
  歴史とは考現学である。考現学のフィルターを経ずして、歴史を捉え得ない。
 
  以上に記したことは、とくに森田療法の分野に向けてのことではない。歴史というものに必ず含まれる考現学的要因に注意を促そうとした。
 

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  今回の記述はこれだけで打ち切り、次回より、森田療法の歴史について述べる。

自由を求めて生きた画家、高良眞木(中)―洲之内徹との不思議な関係―

2019/02/07

  本稿は、(上)の稿(2018.12.25)より続くものです。
  日数が空きましたので、前回の原稿へのリンクをつけておきます。
 
自由を求めて生きた画家、高良眞木(上)―画家たちの真鶴半島―
 
 
  (承前)
 


『洲之内徹 絵のある一生』(新潮社、2007)の表紙

『洲之内徹 絵のある一生』(新潮社、2007)の表紙



 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
5. 風変わりな美術エッセイスト、洲之内徹
 
  画家、高良眞木は、真鶴半島で中川一政に見いだされ、洲之内徹に育てられたという見方があった。森田療法の大家であった高良武久先生の長女の真木様が、家族内の葛藤を体験しながら、画家として、そして人間として成熟していかれた生涯に関心を持ち、調べているうちに、やはり画家としての眞木の背後にいた洲之内徹という人物の存在を無視できなくなった。
 

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  洲之内徹とは。彼は銀座で小さな画廊を営む風変わりな人物であったが、「芸術新潮」に連載し続けた「気まぐれ美術館」という感性溢れる美術エッセイの自在な筆致が、美術家や文化人に注目されて、彼の名が知られるところとなった。小林秀雄は「今一番の評論家だ」と絶賛した。しかし洲之内自身は美術評論家を自任していなかった。随筆『絵の中の散歩』に彼は書いている。「どんな絵がいい絵かと訊かれて、ひと言で答えなければならないとしたら、私はこう答える。―買えなければ盗んでも自分のものにしたくなるような絵なら、まちがいなくいい絵である、と。」(「鳥海青児「うずら」」)。彼はそう言って憚らなかった。その名文句に彼の真骨頂があり、画廊の主でありながら、気に入った絵は人に売らずに自分のものにしてしまうのだった。
  同じ『絵のなかの散歩』の中に、絵を女に喩えて、惚れた男がその女の人には見えない本当のよさを見つけるようなものだと書き、さらには、埋もれた異才、時代が見逃している才能を発見するのは、批評家ではなく、目利きや蒐集家なのであると書いている(「山発さんの思い出」)。そして彼自身、一貫してそのような姿勢を取るのである。実際彼によって才能を見いだされた画家たちは多かった。洲之内は規範や基準にとらわれる評論家ではなく、自由に絵の中に画家のいのちを直感的に見る目利きであり、名伯楽であった。
 

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  このような並外れた感性の持ち主、洲之内は人間としていかなる人で、どんな生涯を送ったのか。人間洲之内は、およそ尋常な者ではなかったのである。彼の経歴をざっと辿ってみる。
  洲之内徹(1913-1987)は、松山市でクリスチャンの家庭に生まれ、東京美術学校建築科に入学し、日本プロレタリア美術同盟に参加、左翼活動をして検挙されて退学。松山に帰ったが左翼運動で逮捕され、留置場と刑務所で1年以上を過ごし、この間に読書に励んだ。獄中で転向を偽装して釈放され、その後志願して軍属となり、対共工作員として北支に渡った。共産党の経験を買われて軍部の情報の仕事を手伝っていたので、共産党で食っていた、とは本人自身の弁である」(「気まぐれ美術館」中の「羊の話」)。
 
  大陸においては日本軍人の立場で、中国人に対して残虐行為の限りを尽くす体験をしている。終戦後引き揚げてきて、日本で生活を再開した彼は、作家を志望して小説を書くようになる。そして中国で自分が経験した虐殺、強姦、略奪、放火などの所業を私小説として赤裸々に書いた。小説「砂」には、兵隊相手の慰安婦ではなく、市民の女性を襲って強姦することに新鮮な快感を覚えて、女を狙って村の中をうろつくという主人公の異常な行状が、淡々と書かれている。この作品は、なぜか芥川賞候補になった。彼の小説は都合三度、芥川賞候補となったが受賞を逸している。
 

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  彼の小説に対しては、車谷長吉の「洲之内徹の狷介」という一文が『絵のなかの散歩』の巻末にある。車谷は言う。私小説であろうとも、虚実皮膜の間に成立するものだが、洲之内の小説には「実」だけがあって「虚」がない。悪を突き詰めていけば、「浄土の光」が射してくるものだが、洲之内の小説ではそれが射して来ない。小説とは「人が人であることの謎」を書くのが本筋なのに、彼の小説はその謎に近づいていないと。さらに車谷は、透徹した目で「悪」を見据えた人の狷介な眼差しで絵を見ることによって、洲之内は絵の「目利き」になることができた、と言うのだが、この後半の指摘には、車谷の人柄の善人性が浮かび上がって、批評としては物足りない。風変わりであった人間洲之内を、「狷介」と評しながら、車谷は彼の内面を探っていない。
 

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  それを補うごとくに、大原富枝が『彼もまた神の愛でし子か』と題する洲之内の評伝を書いている。中国の女性への性的残虐行為を働いた日本兵はもちろん彼ひとりではなかった。しかし彼は、「敵方の女を凌辱するのは、生理ではなくて思想だと言うのである。もしそうなら、これは、人間をつくられた神にこそ訊いてみなければわからない」と、大原は造物主への問いとして、彼の人間性を厳しく批判している。さらに、酒の席で洲之内は、拳銃を使う場合での最も効果的な女の殺し方、などという話を披露したが、このような問題については、彼自身の哲学があったことを大原は取り上げて、「こと、女に関しては、洲之内徹のなかには、悪魔的と言っていい、救いようのない地獄があった、とわたしは思う」と言う。また小説 「砂」について、「洲之内徹のなかの人間性の破壊が、すでに深奥に達していて、いかに凄惨なものであったか、その様相を、いまわたしは改めて思っているのである」、そして「洲之内徹には、人間性において微量ながらも、無視できない不具性があった、とわたしは考えている」と、大原は決定的に記している。
  中国から帰国後の日本の生活でも、洲之内の女性関係は乱脈を極め、妻子がいながら、いわゆる女狂いをする。本妻の影は薄く、出版社の編集部の女性との間に子をもうけ、また画家、佐藤哲三の遺作を集めるために行った新潟の新発田では人妻との激しい恋愛に陥っている。婚外を含めて、生涯に少なくとも4人の女性に子を産ませている。
 

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  さて洲之内と絵との関係に話を戻す。作家として身を立てようとした洲之内は、小説を書き続けていたが、一方、田村泰次郎が銀座に開いた「現代画廊」に入り、ほどなく田村が手を引いたため、1961年からこの画廊を受け継いだ。
  作家を断念して美術畑に入った彼は、書きためたエッセイ『絵のなかの散歩』を1973年に出し、翌1974年より「芸術新潮」に「気まぐれ美術館」を連載し始めて、注目を浴びる。絵と画家に対して距離感を置かずに、感覚的な自分のまなざしを向けて縦横に書いた、いわば私小説的な美術エッセイのこの連載は、死を迎えるまで10年以上続けられた。


『絵の中の散歩』1973(左)と『気まぐれ美術館』1978(右)

『絵の中の散歩』1973(左)と『気まぐれ美術館』1978(右)



6. 高良眞木の絵に魅せられた洲之内徹
 
  高良真木と洲之内徹の出会いや、現代画廊での個展の開催などについて、以下、『高良眞木画集』の巻末年譜を参考にして記す。
 
  高良真木は、1971年に、浜田糸衛の旧知の佐藤哲三画伯夫人の縁で、洲之内徹と出会っている。そして早速その年に、銀座の現代画廊で「高良眞木油絵展」を開いた。眞木はその際に中川一政氏に絵を見てもらったのだった。売れ残った絵のひとつ、<土>が洲之内に買い上げられ、それは後に蒐集家でもある彼の「洲之内コレクション」に加えられた。
 
  1973年、現代画廊で「高良眞木 油絵と水彩展」を開いている。同年、作品<樹>が第1回美術ジャーナル賞を受賞。また同年、日本テレビ「美の世界」で、「樹の絵」と題して、高良眞木の絵画を取り上げ、洲之内や浜田を含むインタビューを加えた番組が放映された。
 
  1979年、「高良眞木 1979」展を現代画廊および各地で開催した。新潟県新発田市の、画家佐藤哲三ゆかりであり、洲之内のゆかりでもある「画廊たべ」でもこの個展を開催した。
 
  1983年、再び新潟県新発田市の「画廊たべ」で、「高良眞木展」を開き、浜田糸衛・高良眞木を囲む座談会を開いた。この座に洲之内がいたかどうか、不明であるが、彼と高良眞木との間には、佐藤哲三夫人や浜田糸衛の介在があったのだった。
 
  1987年10月のある日、洲之内は現代画廊での高良眞木展の打ち合わせのため、真鶴に来訪して終電で帰宅した。その翌朝倒れて意識不明となり入院、1週間後に死去した。洲之内がこの世で最後に見た絵は高良眞木のものであった。
 
  洲之内は、1971年に眞木との交流が始まってから、彼女の絵に注目して大いに期待を向けてた。しかし眞木は、日中友好協会の活動に意欲を示し、絵については貪欲さがない。洲之内の助言に応じつつも、つい「気まぐれ」さを発揮して、洲之内を嘆かせるという奇妙な関係が生じていた。

高良眞木 作 「樹」

高良眞木 作 「樹」



  眞木の絵に対する洲之内の評価は、彼の代表的な二つの美術エッセイに余すところなく記されているので、紹介する。
 
  まず『絵のなかの散歩』(1973)に、眞木の「樹」という作品を本の口絵に原色刷りで出しながら、「高良眞木「樹」」という一文で作品と作者を讃えている。洲之内は、眞木の「樹」の絵から関根正二のデッサンを思い出す、と言い、「この木には木の精が棲んでいる。汎神論的な世界である。」と書いている。さらに「この無数の枝の組み方がまた面白い。これはもう写生などというものではなく、思考の図式である。」として、枝の重なり具合を細かく描写しているが、洲之内に似合わずとってつけたようで、文章が死んでいる。これはどうしたことか。次に出てくる文章がすべてを示唆していよう。
  「高良さんという人は、絵も素晴らしいが、ご本人も実に素晴らしい。私の知る限りの女性の中で、最も魅力的な人である。」これは高良眞木様にとっても有り難迷惑な話である。
  洲之内は、東京の高良家に食事に招かれたことも書いており、眞木様について、「この人には、女らしい細かな心遣いもある。…彼女は真鶴のアトリエの庭から芹(せり)や蕗(ふき)を摘んできて、ちょっとした料理を添えてくれたりするのである」と記している。そして高良武久博士と高良とみ女史を両親にもつ育ちのよさや、アメリカやパリに留学した彼女の経歴に一目置いて、それにもかかわらず日本の油絵のどんな規格にも合わずに、真鶴で独りで勝手に自分の絵を描いているのが、高良さんの魅力である、と手放しで言う。
  洲之内は高良眞木の絵への期待を募らせる一方でなのである。当時、眞木は文化大革命の最中に中国を訪れたときの次のような体験を、ある雑誌に書いていた。
  ―ひとりの若い農民が、国慶節のポスターを作っていて、画面中心の毛沢東の写真のまわりにひまわりの花を描いていた。ひまわりは毛沢東という太陽にあこがれて咲く農民自身であった。私ならもっと巧くひまわりを描けるが、しかし「彼のように描くことはできない」と思って、農民の姿に感動した、というのである。眞木のこの文章を引用して、洲之内は農民とともに毛沢東の方を向いているひまわりのような高良眞木にじれったさを感じ、高良さんは自分自身の「樹」のようないい絵に向き合ってほしい、という慨嘆でこのエッセイは終わる。
 

♥      ♥      ♥

 
  さらに洲之内は「芸術新潮」誌上の「気まぐれ美術館」の連載第17回目(1977年)の「小田原と真鶴の間」という文章の後半で、高良眞木の絵、「ダリア」と「風景」を文中に白黒で掲載して、再び眞木の絵の魅力と、日中友好より絵に向き合ってほしいという、自分の石アタマの弁を述べている。
  「アルプ」という雑誌に出す絵を借りに真鶴を訪ねたら、高良とみ様にも会って、「眞木にもっと絵を描くよう、あなたからも仰有ってください」と言われたという。眞木は、中国の農民画の画集を持ち出してきた。少女たちが鶏の世話をしている養鶏場や、飼育係が按摩をしている大豚と仔豚もいる養豚場や、山のように収穫されたとうもろこしと皮をむく人々の絵を示して、彼女は言う。「自然はただ鑑賞される対象ではない。自然に働きかける生産者農民の眼だけがとらえることのできる自然がここにある。」と。
  洲之内は「私には紙芝居の上等くらいにしか見えないのである。そこが私は焦れったい。しかし、私はもう何も言わなかった。」と諦めの念を記している。そのまま折り合いのようなものができたのか、眞木との関係は洲之内の死まで続いた。
 
  中国の農民画に眞木が見た自然と人々や生き物との共生的関わりは、おそらく眞木に重要な変化をもたらした。そんな眞木から洲之内も何らかの救いをえたのではなかったか。
 

次回の(下)の稿に続く

 



五高出身の森田正馬が創始した、神経症の森田療法

2019/01/26

  『森田療法と熊本五高-森田正馬の足跡とその後-』の本を、昨年12月末に刊行しましたが、事実上、本年の年頭を飾る出版となりました。森田療法が1919年に創始されたとすると、2019年の今年は、森田療法創始百年の記念すべき年です。
  森田正馬は、高知の出身ですが、旧制熊本五高に3年間在学し、剛毅朴訥のその風土で青春を謳歌する中で精神医学を志したのでした。ここに森田療法への萌芽があったと言えます。
  熊本での森田正馬の生活には、これまであまり光が当てられてきませんでした。
  加えて、「生活の発見会」を創成した森田の重要な直弟子、水谷啓二も五高出身でしたし、さらに、日本の社会教育の初期の発展に重要な役割を果たした、田澤義鋪、下村湖人、永杉喜輔の3人もまた五高出身者だったのであり、その社会教育の流れが、水谷と合流して、「生活の発見会」の活動が大河となっていったのでした。
  今回出版した本には、五高と森田療法をめぐる多彩な内容が収められています。
  このような本書の出版について、熊本日日新聞が注目し、編者代表の熊本大学藤瀬昇教授へのインタビューを、去る1月16日の夕刊に掲載してくれました。その記事を閲覧して頂けるように、リンクをつけておきます。
 
新聞記事(熊本日日新聞2019年1月16日夕刊より)
 
  なお、同じ内容の記事が熊本日日新聞社のホームページにも、「神経症治療の創始者の足跡をたどる 藤瀬・熊本大保健センター長ら出版」と題して掲載されていますので、ご紹介しておきます(下にリンク)。
 
神経症治療法の創始者の足跡たどる 藤瀬・熊本大保健センター長ら出版

『森田療法と熊本五高―森田正馬の足跡とその後―』出版の再紹介―京都の片隅から―

2019/01/11




 
  『森田療法と五高―森田正馬の足跡とその後―』の本が、昨年12月25日付けで出版されましたので、改めてご紹介します。
  一昨年秋、熊本大学で、「森田療法と五高」をテーマに、藤瀬昇教授を大会長として、日本森田療法学会が開催されました。それを機に、関連するいくつかの珠玉の原稿を学会後に集めて、一冊の本として編んで出版したのが、この本なのです。
  ご縁を得て、編集の末端に関わらせて頂きましたが、さまざまな原稿を一冊の本にまとめる作業は、それは大変で、中心におられる藤瀬教授の地道なご苦労は、筆舌に尽くし難いものでありました。それだけに、熊本五高と森田正馬や森田療法について、このような類書のない本を上梓できたことは、私たちの喜びとするところです。

 五高在学中に森田正馬は精神医学への道を志した。剛毅朴訥の純なる風土で、森田療法への芽が吹いた。療法を継承して「生活の発見会」を創成した水谷啓二。水谷に合流した社会教育の下村湖人や永杉喜輔。何という巡り合わせ。彼らも皆、五高出身者であった。正馬の故郷は高知だが、森田療法の故郷は熊本である。

  おもて表紙の帯の部分に、本の主旨や中身を示す案内文を載せていますので、その部分を切り取って上に再度掲げました。
  下の画像は、目次ページです。著者たちと執筆された原稿のタイトルがわかります。



  京都の片隅より、くまモンに愛をこめて―
  裏表紙にくまモンの図をあしらうことを提案させてもらいました。



  この本は、アマゾンで購入していただけます。
  熊日出版のネット販売のサイトからも、購入できます。
http://shop.kumanichi-sv.net/shopdetail/000000001320

謹賀新年 Bonne Année !

2019/01/01




 
  明けましておめでとうございます。
Bonne Année !
平成から次の新しい時代を迎えるこの2019年が、皆様にとってしあわせな年でありますように祈念いたします。
 
  早いもので、この研究所も開所して7年が経ちました。その間、こつこつ細々とやってきましたが、力量や努力が足りず、いくつかの目標をなかなか達成しきれないでいます。
  昨年は、熊本大学の藤瀬教授を中心とする『森田療法と熊本五高―森田正馬の足跡とその後―』の出版が主な課題でしたが、お蔭をもって、その本はようやく昨年末に日の目を見ました。
  さて今年は、一旦保留していた大きなテーマ、“ 森田療法と仏教 ・ 禅 “について、まとめを終えることが重要課題になります。どうぞご指導、ご鞭撻のほどをよろしくお願いいたします。
 
  当研究所の目指すところは、三つの課題としてこのホームページの冒頭に掲げている通りです。第一に森田療法の温故知新、第二に学際的研究交流、第三に日常生活の中での知恵です。これらは、難しいですが重要なことだと思っています。強いて言えば、第四に森田療法の国際交流がありますが、まずは地に足を着けることが大切ですから、国際交流を理念として掲げてはいません。ところが奇妙なことに、以前からの縁もあって、日仏交流を続けています。でもそのような国際交流も、本家の日本国内において、森田療法そのものが「照顧脚下」の歩みを進めていないと、決して実が上がらないことを痛感させられます。そんな訳で、今年もこつこつと地道に進みたいと思います。
  皆様方と通じ合うところがありましたら、いつでも、何でも、気軽にご連絡下さい。意見、助言、質問、疑問、批判、ぼやき、嘆き、などなど。どうぞご遠慮なく、ご自由に、メール(通信フォームがメールになっています)、ファクス、電話もありますが。ご自由にどうぞ。
  勉強会、研究会などの集会の定期的開催をたびたび企図しましたが、当節その種の会があちこちで有り過ぎるので、無理な定期的開催はせずに、随時ご縁のある方々と交流しています。もっと何を企画すればよいか、提案も受け付けています。
  それでは、今年もまたよろしくお願いします。
 

平成31年元旦                                    

                                    京都森田療法研究所

                                                                          主宰者 岡本 重慶

                                                                    研究員 一同

                                                                    協力者 一同

自由を求めて生きた画家、高良眞木(上)―画家たちの真鶴半島―

2018/12/25


『高良眞木画集』(表紙に出ている絵は「土」)


1. 真鶴半島
  東映映画のタイトルバックに、岩を食む大きな波の映像が出てくる。あれは真鶴半島の先端の真鶴岬の突端で撮影されたものだそうである。つい先日、名古屋の杉本二郎様が教えて下さった。杉本様は、名古屋啓心会や初期の生活の発見会名古屋支部に関わっておられた重要な森田療法関係者で、森田療法つながりでご厚誼を頂いている。この杉本様は、以前は東映本社に勤務して要職についておられたお方で、映画人である。のみならず、杉本健吉画伯の甥御様であり、御自身も画家である。真鶴半島には中川一政美術館があるが、杉本様はこの美術館を何度か訪れ、岬にも足を運ばれたことがあって、真鶴半島は懐かしい場所だとおっしゃっている。

 

♥      ♥      ♥

 

  今年6月末に森田療法保存会の日帰り旅行で高良先生の元別荘、真鶴「森の家」を訪問したのだが、7月にはNHKの「鶴瓶の家族に乾杯」の番組が、ゲストの元フィギュアスケーター、村上佳菜子さんと共に真鶴町を訪れるロケを行っており、番組は7月末に放映された。真鶴町と言っても、鶴瓶さんらが歩き回ったのは、半島より北側の岩地区の民家や食堂や海岸などであった。鶴瓶さんと村上さんは互いに笑顔対決と称して、訪問先での明るい交流を競い合っていた。
  番組のロケは、真鶴町の真鶴地区にあたる半島には入ってこなかったようだ。半島には民家も比較的少ないし、また点在する建物には、おそらくそれぞれの歴史がある。とすればこの半島の土地柄は、突然押しかけて来て笑って乾杯という、微笑ましいけれども軽いカルチャーとは風情を異にしている。
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 

2. 画家、高良真木と真鶴
  失礼な話だが、京都にいて三聖病院という禅一色の森田療法から入っていった自分にとって、もちろん高良武久先生の偉大な足跡を十分に知りながらも、高良先生とのつながりがなかったために、その人物像への距離が縮まらないでいた。数年前に出た岸見勇美氏の著書『高良武久 森田療法完成への道』を読んで、高良先生への心理的距離が近くなった。今改めて読み返している。しかし、この岸見氏の本にも真鶴の別荘での家族たちの生活のことは詳しくは記されていず、長女で画家の真木様がここで過ごされたことを事実上知ったのは、つい最近のことである。森田療法と芸術の距離は、遠いようで近い。たとえば、禅は美術、書道、茶道、その他の禅文化と不可分であり、不器用な私は辟易するばかりであるが、森田療法と芸術はどこかでつながるのだ。
  ともあれ、森田療法の大家で詩人の高良先生を父に持つ画家、真木様が真鶴で過ごされた数十年について、私は半年前の別荘訪問以来少し後ろ髪を引かれている。

 

♥      ♥      ♥

 

  真木様の生涯における主な実績は、画業と日中友好活動であった。かいつまんで記しておく。
  東京女子大学入学後、渡米してアメリカのカレッジに入学し、英文学と美術を専攻。
  帰国して間もない翌年の昭和28年、デンマークのコペンハーゲンでの第2回世界婦人大会の日本代表団に通訳として随行し、その地から浜田糸衛という社会運動家の女性を団長とする訪問団に加わり、中国などを訪れた。そこから団と別れて、パリに行き、留学生として美術を学んだ。
  帰国後、絵を描き続けるが、昭和32年(26歳)より、童話作家で社会運動家の浜田糸衛の自宅に転居して、共同生活を始めた。その後生活の場を真鶴に移すが、浜田との共同生活は終生続くことになる。真鶴で画業に従事しつつ、浜田を師として共に日中友好協会の活動に熱心に参加し続けた。
  真鶴半島では、中川一政画伯との出会いがあった。また、たまたま洲之内徹氏に見いだされて、銀座の現代画廊でたびたび個展を開く機会に恵まれている。洲之内氏から才能のさらなる開花を待望されるが、本人は中国への関心の方が強く、洲之内氏を大いに嘆かせたらしい。

 

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  『高良眞木画集』(2010)の冒頭に、眞木(真木が本名だが、画家としての名は、眞木)様は、自身のことを記しておられる文章がある(1973年に「美術ジャーナル」に掲載された文章の再掲)。
  小学校の時、学校から上野公園に絵を描きに行って、描きたい動物を描くように言われて、自分が描いたのは狼だった。やせこけた、灰色に薄汚れた狼は、全身飢えていて、その眼は悪意に満ちて光っていた、と。その絵の記憶が残っていて、時々それにひっかかるというのである。でも、それは太平洋戦争が始まっていた頃で、飢餓は本当にやってきた。
  さらに続けて書かれている文を引用する。
  「敗戦があり、数年が過ぎて、もはや物質的な飢えはなくなった。飢餓感がしかし私の心の中に住みついてしまった。満たされることのないように思われる飢えが、私に今も絵を描かせているように思う。」
  御自身の内部の深奥を鋭く見つめた記述である。画業のみならず、日中友好への想いと活動も、さらに晩年における真鶴の木の家での「共生舎」の運営も、源泉はすべてこの飢餓感にあったのかも知れない。1973年、40歳のときに書いた文章を敢えて再掲載なさったのは、御自身であるから、自分の内奥を再確認されてのことであろう。
 

♥      ♥      ♥

 

  肝心の美術のことになると、私はまったくの門外漢である。
  『高良眞木画集』には、原田光氏(岩手県立美術館長)による、人と作品についての「木を見て、高良さんを思う」という文や、妹の高良留美子様による「高良眞木という人」という文が掲載されている。
  ネット上には、高良眞木様の絵について、そして真鶴共生舎「木の家」について、さらに中国との友好活動について、いくつかの記事が新たに見つかったので、閲覧して頂けるようにリンクを付けておく。
 
① 檜山 東樹 : 高良眞木の“ 径(みち)”と“日月(じつげつ)”
(WEBマガジン「本日休館」収載)
 
  理屈っぽいけれども、高良眞木の一部の作品を評しながら、作者の生き方をも、おそらくは的確に捉えていそうである。
 
https://honjitukyuukan.com/archives/2958
 
② 津田文夫 : 続・ サンタロガ ・ バリア(第138回)
 
http://www.asahi-net.or.jp/~li7m-oon/thatta01/that308/tuda.htm
 
③ 自然と暮らす 共生…真鶴
 
https://blogs.yahoo.co.jp/pepe_le_moco_0123/58432086.html
 
④ cocoro corocoro 高良真木さん
 
⑤ cocoro corocoro 高良真木さんの真鶴共生舎
 
⑥ PapaMamaBabyTONTON 日本旅行 : 真鶴の共生舎
 
http://papamamababytonton.blog.fc2.com/blog-entry-336.html
 
⑦ 新保敦子 : 日中友好運動の過去 : 現在 : 未来
―高良真木のオーラル ・ ヒストリーに依拠して―
 
(早稲田大学大学院教育学研究科紀要 第23号、2013年3月)
 
  この当時の高良真木様の写真が、文中に出ている。
 
KyoikugakuKenkyukaKiyo_23_Shimbo

 
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 

3. 中川一政画伯と真鶴
  真鶴半島の形が鶴の首から先にあたるとすると、「森の家」(かつての「木の家」)は、首の部分に位置する。もう少し半島内に進んだ鶴の頭の部分に、真鶴町立の中川一政美術館がある。言うまでもなく中川画伯は、文化勲章も受賞した著名な洋画家である。
  中川画伯は、真鶴半島が気に入って、昭和24年にこの地に別荘を購入して、アトリエにした。ここに滞在して、真鶴半島の西側付け根の福浦漁港のあたりで、よくスケッチをしていたそうである。
  東京で浜田糸衛と同居していた高良真木様は、昭和38年に、真鶴の別荘の古い木造の家(「木の家」を新築する以前の建物)に入居した。後に浜田も真鶴に来て共同生活を再開するが、おそらくこの時点では独りであったろう。
  そしてこの昭和38年に、近隣在住の中川一政画伯の知遇を得て、数回箱根のスケッチに同行し、中川氏の大作「箱根駒ケ岳」シリーズの発端に立ち合うことになった。その2年後、洲之内徹氏に出会い、銀座・現代画廊で「高良眞木油絵展」を開いたが、その個展前に中川一政氏に油絵を見てもらい、個展のカタログに言葉を添えてもらっている。
  その後平成元年に、真鶴町立中川一政美術館が開館して、以後眞木様はこの美術館の審議委員となった。
  高良眞木は、中川一政に見出され、洲之内徹が育てた画家であると言われる。言い得ていると思われるが、とくに洲之内との関わりは、かなり奇妙なものであった。
 
  ※引き続いて掲載する原稿に合わせるため、本稿のタイトルを修正しました(1月11日)。
 

(次回の(中)の稿(2月7日)に続く)

『森田療法と熊本五高―森田正馬の足跡とその後―』発刊

2018/12/23




 
 『森田療法と熊本五高―森田正馬の足跡とその後―』の本が、熊日出版より発刊されました。
  執筆者の人数が多くて、さまざまな原稿を収めているため、編集の完了までに時間がかかり、刊行が遅れましたが、ようやく日の目を見ました。
  一部書店の店頭やアマゾンなどの通販で発売されますが、店頭やウェブ上に出るのは、年が明けて1月9日頃になりそうです。
  なお、予告チラシに記入されたページ数より、かなり増ページとなり、定価は予価より200円上がって、1200円になりましたが、事実上安価過ぎる定価設定です。どうぞよろしくお願いいたします。

森田療法保存会のニュースレター「あるがまま」13号より

2018/12/13

  前3回に引き続き、森田療法の考現学の基礎資料についての連載は、さらに継続していきます。しかしいつ終わるか見当がつかないので、この辺で、別の記事を差し挟みます。


高良武久先生は詩人であった。
(写真は、ご逝去後の1999年に刊行された詩集)


 

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1.はじめ
  私は関西在住者だが、高良興生院・森田療法資料保存会に入会させて頂いて数年になる。去る6月には、年一度の総会を兼ねて、真鶴半島にある高良武久先生の元別荘を訪ねる日帰り旅行が開催された。私も参加して貴重な訪問体験をすることができた。このような企画を組んでくださったおかげである。ところが、思いがけずも、この訪問記を会のニュースレター「あるがまま」に寄せるようにとのお薦めを頂いた。そんなわけで、ともかくも記した拙文が、「あるがまま」13号(2018年11月)に掲載された。自分は関西からの新参者であり、また高良先生や興生院のことにあまり通じていないので、戸惑いながら、訪問当日の記憶をたどり、さらに高良先生と御家族と別荘のことを皆様に教えて頂きながら、書いてみた。すると高良先生の生涯や御家族への想いが膨らみ、とても短文に収めきれるものではなくなったが、多くを端折って短文にした。
  それは既に掲載済みであり、その文をここに紹介することは許されると思うので、まずそれを再掲する。そして、チェーンストーリーのような挿話を少し付け加えることにしたい。

 

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2.「高良武久先生の元別荘、真鶴森の家を訪ねて」
 
  去る平成30年5月27日、保存会の総会を兼ねて、真鶴半島にある高良武久先生の元別荘を訪ねる日帰り旅行が開催された。私は以前からこの半島に妙に関心があった。地図上に存在するが、その存在を主張していない不思議な半島に思えたからである。高良先生の別荘がそこにあったとは。自分の不思議の中に、さらに高良家の人びとのことが加わった。私が理解してもいいのだろうかと逡巡しながら、別荘訪問の貴重な旅に参加した。関西在住の私だが、保存会への入会を認められて数年になる。まだ新参者の私も加わって、総勢14名のグループだった。
  真鶴半島は細長くて、尾根に向かう道路も狭い。その道をタクシーで少し登った地点から、右に下がった、半島西側の斜面の敷地に別荘があった。思いがけず、訪問記を書く機会を頂いたが、なにぶん知らないことが多い。そこで高良留美子様におたずねしたところ、丁寧なお答えを頂戴した。それを頼りに、この別荘の歴史を簡単に記すことにする。
  それは昭和28年前後に、高良先生が家屋つきのミカン園を購入されたことに始まる。その後、「父の家」(高良先生の書斎)、「石の家」(とみ様のお住まいになった)が建てられた。そして高良先生のご逝去後に、長女の真木様がアトリエ兼自宅として「木の家」を建て、そこを高齢者が共同生活をする家になさった。真木様がお亡くなりになってから、「木の家」は一般社団法人、真鶴「森の家」となった。
  私たちはこの家を訪れたのだが、贅を尽くした大きな建物で、海側に面した大広間で総会が開かれた。「森の家」の名の通り、外はさながら森で、海への視界は遮られているが、高良先生は遥かなる鹿児島を懐かしんで、海に面したこの地に別荘をもうけられたのであろうか。
  先生は晩年の「真鶴の庭で」と題した随筆で、ミモザの花のことを書いておられる。ミモザは冬に黄色い花をつける。南仏のニースあたりを主産地とするミモザは、ヨーロッパでは春を告げる花として愛でられている。「ミモザ館」という古いフランス映画を思い出した。母親のような女性と若者との間の愛と葛藤が南仏を舞台に描かれた映画だった。『誕生を待つ生命』という、ミモザの花のような高良美世子様の著作集も読んだ。昭和30年に高良先生がパリ留学中の真木様を訪ね、その際にパリ大学で森田療法の講演をなさったという経緯を知ったのは、この本の巻末年譜からである。



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3. 真鶴森の家
  そもそも、真鶴の地名の由来は、内陸の山手からこの地域を見下ろすと、羽根を広げている鶴が、首から先を海に突き出している姿のように見えるからだと言う。真鶴半島が鶴の首、頭からさらに嘴にあたるのである。真鶴町でも半島の北の漁港があるあたりは、岩という地区で、半島は真鶴町の真鶴地区である。その真鶴地区に高良先生の元別荘がある。
  高良先生の没後に、真木様が新たにお建てになり、アトリエを兼ねてお住まいになっていた木造の家、つまり「木の家」と呼ばれていた建物が現在も中心をなしている。敷地が斜面なので、二階に玄関があり、その下にもうひとつの階がある。この下の階が海に面しており、バルコニーもあって、眼下に海を一望できたのだった。しかし、庭のユーカリなどの多くの樹木は、天に向かって真っ直ぐに伸び、庭木は林となり、森となって、眺望を遮っている。真木様がお亡くなりになった後、「木の家」は一般社団法人となり、「木の家」と呼ばずに「森の家」と命名された。これはちょっとしたユーモアなのであろうか。あるいはホラーの域に近いかもしれない。木々の生命力を肯定するなら、適切な名称ではあるが。
  その法人としての「森の家」はどのように機能しているのだろう。芸術作品の展示や、集いやイベントの開催などに場を提供することになっているのであろう。
 
  ネット上に「音空 onkuu」というサイトがあり、その中に「真鶴「森の家」にて」というブログ記事がある。参考になるので、一方的だがリンクを付けさせてもらう。ただしこのブログを書いた人も不思議の世界の住人のようだが、洗練された感性を感じる。

音空 onkuu 真鶴「森の家」にて

 

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4. 高良先生と真木様とパリ
  真木様は、昭和28年にデンマークのコペンハーゲンで開催された世界婦人大会に英語の通訳として随行され、パリへ到着し、美術を学ばれた。そのまま帰国せずにパリに留まられたのであろうか、とにかく、真木様はこの時期からパリで留学生活を送られた。
  高良美世代子様の著作集『誕生を待つ生命』を編まれた高良留美子様は、パリ留学当時の真木様と日本の家族が交わした書簡を、その本の中で紹介なさっている。それを見ると、昭和30年4月現在で真木様のパリの住所は、大学都市のアメリカ館になっている。しかし同月より、パリ5区のアパートに引っ越されている。その時期よりかなり時を経て、私自身パリに一年間住んだときは、半年間を大学都市のキューバ館で過ごした。アメリカ館とは目と鼻の先だった。パリ5区の雰囲気にも懐かしいものを覚える。
  高良先生は、昭和30年5月に渡欧し、パリ滞在中の真木様と会い、同年6月、留学中だった荻野恒一氏の協力で、パリ大学のサンタンヌ病院において森田療法についての講演をなさった。これが、日本人によるフランスへの森田療法の紹介の第一号である。サンタンヌ病院は、後に私もそこで学ぶことになった。
  高良先生は講演後、その夏に真木様と共に帰国された。
  なお、この講演録(仏文)は、高良武久著作集第二巻に掲載されている。

 

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5. 高良武久先生は詩人であった。
  高良先生が亡くなられて3年後の1999年に、『高良武久詩集』が刊行された。没後に真鶴の家の居間にある棚の引き出しから、詩稿が見つかったそうである。その中には、結婚前の高良とみ様(和田とみ、筆名富子)の詩も含まれていた。つまり、高良先生の詩は、とみ様との交際の中で相聞歌として生まれたものらしいと、編者あとがきに高良留美子様が記しておられる。留美子様の解説は、さらに次のように続く。
 「これらの詩が書かれたのは、高良武久が九大医学部を卒業して精神科の医局に入局し、すでに助手としてそこにいた和田とみと知り合った1924年4月以降、彼女が日本女子大学教授に就任して九大を去る1927年3月までのほぼ3年間、年齢的には25歳から27歳までのあいだと考えることができる」。
 「二人はこの交際を、結婚する1929年10月まで周囲には秘密にしていた。…詩はその二人のあいだでひそかに交換されたのだろう。因襲への反発や批判、そして自由への渇望が随所に見られる」。
  高良先生は、上田敏の『海潮音』などを愛読しておられ、先生自身の詩も象徴派の系譜に入ると、留美子様は記しておられる。
  象徴派の詩についてコメントを述べることは、私の力量の及ぶところではない。まして相聞歌としての象徴詩である。詩集をお読み頂くほかないと思う。
  高良先生はロマンチストであった。そして格調高い象徴派の詩人であった。