関西で生きている森田正馬の教育―和田重正先生から松田高志先生へ―

2016/05/15

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              松田高志先生 著『いのち輝く子ら―心で見る教育入門―』

 

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 知る人は少ない。
 森田正馬の本物の教育が、静かに関西に到達して、この地の一隅に根づき、神戸女学院大学の松田高志先生を中心として、それは脈々と生きていた。
 

1. 関西で発見、森田正馬の教育
 森田正馬に直接指導された経験を生かし、神奈川県の小田原で、在野における教育活動に一生を捧げた和田重正という人がいた。そしてその和田に直接師事された方が関西におられる。神戸女学院大学教授(現 名誉教授)の松田高志先生である。松田先生は、和田重正を経由して森田正馬の孫弟子にあたるわけで、森田の、そして和田の教育を継承し、その真髄をご自身の教育に生かし続けてこられた。森田療法の表舞台には登場なさらなかったので、松田先生の地道な教育活動は療法の主流の側からほとんど脚光を浴びることはなかった。けれども、神戸の大学や奈良県の農場で、長年にわたり「いのち輝く」教育の活動を実践してこられたのだった。

 

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2. 松田先生のご自宅を訪問して
 かつて神戸女学院大学に在学中に、松田先生の研究室のゼミ生だったK様(女史だが、様づけでお許しいただく)は、花園大学禅文化研究所の職員で、禅文化のお仕事に携わっておられる。10年近く前、私は禅関係の行事に参加して、K様とお話しする機会があったときに、松田先生のことや和田重正氏のことを教えていただいた。私にとってそれは初めて聞くお話だった。森田療法に関わるひとつの重要な流れなのに、そのことを認識するまでに少し時間がかかった。恥ずかしい話である。
 その後、森田正馬の次世代の人たちの活動について調べる機会があり、その方向から和田重正という教育者がいたことを知るに至る。こうして和田の流れを汲む関西の人であり、K様から伺っていた松田高志先生へと、関心が改めて収斂した。そこで先生に一度お目にかかりたく、ご連絡を取った。
 しかし、その松田先生は、2年前に思いがけない病を得て入院され、昨年ようやく退院なさって、その後は在宅でリハビリ生活を送っておられた。さいわい、K様ら元同級生の方々が同行して下さり、去る3月下旬に宝塚市のご自宅を訪問した。

 松田先生は京都大学教育学部のご出身で、ご自分の人生問題に悩みながら、教育の基盤としての教育人間学を専攻してこられたのだった。そんな中で和田重正氏と出会い、その教育観と生きた実践に触れ、以後長年和田重正に師事しつつ、教育の思想と実践を身近な全体として捉え、地道な活動を続けてこられた。数年前に神戸女学院大学をご定年になり、スローライフをますます充実した活動に生かそうとしておられた。
 しかしその矢先に、突然急な病に襲われ、思いもよらない体験をなさったようである。長い入院生活を経て、昨年退院され、現在はご自宅から通院してリハビリを続けるというスローライフを送っておられる。
 お宅を訪問したときは、車椅子に腰掛けて受け答えをして下さった。お聴きしたいこと、お尋ねしたいことが沢山あり、つい私ひとりが長時間にわたり松田先生を独占し、先生はお疲れになったに違いない。反省しきり。
 リハビリ中の松田先生がおられるだけで、その存在感は大きいけれど、やがて全快を見込めるようにて、現役に復帰して下さる日が遠くないことを、ひたすら願うばかりである。
 
 

いのちのシャワー

                松田高志先生 著『いのちのシャワー』

 
 
3.高志先生の高き志の行方
 松田先生は若き日に悩みを体験された。そして人びととの貴重な出会いに恵まれて、求めていた奥深い教育は、「ありのまま」に生きるという、身近な生活そのものにあることに気づかれたのだった。それは先生個人の内面の軌跡に関わるが、ご自身の人生のことについては、文章にしたり、語ったりしておられる。雑誌「禅文化」の207号、208号(いずれも2008年刊)に、人生の転機や人生における出会いについて、自らの経験を書き記しておられるので、それに拠りながら簡単に先生のことを以下に部分的に紹介する。
 
 
 高志少年は、理想の教育をするという夢を抱き、大学の教育学部に入学した。しかし大学に入ってから、学生生活に悩むことになる。
 悩みを抱えたまま大学院に進学。たまたま相国寺の坐禅会(智勝会)の掲示を見て、坐禅に参加し、熱心に通い続けた。
 当時相国寺には、僧堂に住み込んで雲水たちと一緒に修行している医師がいた。江渕弘明という森田療法をやっている医師だった。あるとき、その江渕先生の方から声をかけてくださって、「ありのまま」に生きればいいのだと教えられた。それで少し前向きになることができた。
 さらに幸運なことが起こる。大学の指導教官の後任として、智勝会の大先輩の上田閑照先生が教育学部に就任されて、親しく指導を受けることになった。
 その後ドイツに留学し、帰国後に江渕先生に再会する。そのころ、和田重正の著書『葦かびの萌えいずるごとく』を気に入って読んでいたが、不思議なことに、江渕先生からその本を薦められた。江渕先生は森田療法を通じて和田先生と親しかったのである。江渕先生は、和田先生が関西に講演に来るから紹介しようと言ってくれた。奈良での講演会で和田先生に紹介された。そして和田先生の私塾「はじめ塾」の合宿所「一心寮」での夏の合宿に来るよう勧められて、その夏に参加した。そこで生活を重視している和田先生の教育に触れて、以後十数年、和田先生に師事することになった。
 
 
 和田重正氏が開いた「一心寮」は、想像するに、森田正馬の入院原法と重なるところが多かったのではないだろうか。禅寺での修行のような規則づくめではなく、合宿としてある程度の規律を保ちながら、その中で自由に手分けして作業をし、講話を聴き、話し合いもするという、押しつけられない生活の中で、いのちの力が自然に発露する体験ができるのであろう。失礼な言い方になるかも知れないが、松田先生は、いわばここで森田療法の入院のごとき体験をなさったのだと思う。
 また、松田先生は、和田重正氏が発足させた「家庭教育を見直す会」(くだかけ会)の活動を関西で引き受ける中心人物として、和田に協力なさり、奈良県の御所市にある和田の本家の農場を借りて、「関西くだかけ農園」を教育に活用なさった。神戸女学院大学の学生たちを連れてここに通い、野菜や米を作ったそうである。そして学生たちは、先生の家に集まり、収穫した米でおにぎりを作って食べたそうである。

 
 

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             和田重正 著 『葦かびの萌えいずるごとく』(柏樹社 刊、昭和39年)

 
 
4. 江渕弘明先生のことについて
 若き日の松田先生が、悩みつつ相国寺の坐禅会に通っておられたときに、僧堂で修行を重ねておられた江渕先生が、森田療法の指導をなさったという。さらに何年か後に、江渕先生は、和田重正先生に松田先生を紹介して、両者を結ぶ絆を作られたキーパーソンである。松田先生から伺ったお話から察するに、江渕先生は和田重正と同世代にあたる人である。
 重要な人物であるが、ここではこれ以上の言及をひかえておく。
 

かびめもえいずる

           和田重正 著 『葦かびの萌えいずるごとく』新版(地湧社 刊、平成26年)

 
 
5. 和田重正氏と「はじめ塾」・「一心寮」、「くだかけ会」
 和田重正は、両親が教職者である教育一家の次男として、鎌倉で生まれた。父がアメリカに留学中に、重正7歳のとき、母は病死した。幼くして母をなくした悲しみは少年の心に深い影を落とした。旧制浦和高校在学中の17歳頃から以後、長い年月、人生の問題に悩んだ。昭和4年に東大法学部を卒業するも、就職をせず、屁理屈ばかり考えて現実を避け、玉突き屋に通っていた。苦しみは高じて自室に引きこもり、自殺念慮を抱き、遂に遺書まで認めたのだった。
 そんなとき、部屋の外に咲き始めている桃の花を見て、新鮮ないのちが湧き上がる喜びを感じ、新生の体験をした。入院森田療法に喩えるなら、第二期の体験に似ているように思われる。重正は森田正馬のもとに入院したこともあったが、そのときに劇的に救われることはなかった。しかし、森田から与えられた「事実唯真」、「ありのまま」という言葉を自分の中で温め続けていたという。それが盤珪禅師が梅の花の香で悟ったような体験に通じたのだった。
 心機一転した重正は、教育の道を志す。昭和12年に東京で父の屋敷内に、寄宿寮「一誠寮」を開き、昭和17年に小田原に疎開して、その地で「はじめ塾」を開いた。通学と寄宿教育を扱った。 昭和39年には、「はじめ塾」の合宿所として、西丹沢に「一心寮」を開設した。
 このような和田重正の教育の根本は、生活体験の中で、自他の区別のない「いのち」に目覚めることであった。自己を犠牲にして他者に尽くすべし、というような外圧的な道徳教育の教条性を批判するものであった。逆説的に、和田の教育は、自己の欲望を深く追求することを大切にした。外面でなく、自己の内面に本心がある。目先のケチなことにとらわれず、本心を取り戻そう。本心は、湧き上がるいのちの力であり、成長への欲望、他者と喜びを共有したい希求である。生活の中でそれを回復し、発揮しあって、気持ちよくなろうとする教育なのであった。和田はこのような教育を、道徳教育と対置して、「人生科」と言ったのだった。
 この和田の教育を知って、親たちや子どもたちが、「はじめ塾」と「一心寮」に数多く集ったのだった。
 和田はさらに学校における教育の危機的状況に対して、視点を家庭に向け、父母たちを対象に「家庭教育を見直す会」を昭和53年に立ち上げた。それは「くだかけ会」と称され、機関誌「くだかけ」が発行され、各地で集いが開催された。「くだかけ」とは、ニワトリの古語で、母ドリがエサを欲しがるヒヨコに心をくだく、心をかけるの掛け言葉なのである。
 平成5年に和田重正は没した。「はじめ塾」は重正の長男の重宏氏を経て、そのご子息の正宏氏に受け継がれ、「一心寮」は「くだかけ生活舎」となって、重正の次男の重良氏に受け継がれている。 松田先生は、「一心寮」や「くだかけ会」と関わってこられた流れより、現在も「くだかけ会」(会と組織の名称)との交流を保たれている。

 
 

訂正版2

            大阪くだかけ会の開催を報じた、昭和58年の京都新聞の記事。