自由を求めて生きた画家、高良眞木(上)―画家たちの真鶴半島―

2018/12/25


『高良眞木画集』(表紙に出ている絵は「土」)


1. 真鶴半島
  東映映画のタイトルバックに、岩を食む大きな波の映像が出てくる。あれは真鶴半島の先端の真鶴岬の突端で撮影されたものだそうである。つい先日、名古屋の杉本二郎様が教えて下さった。杉本様は、名古屋啓心会や初期の生活の発見会名古屋支部に関わっておられた重要な森田療法関係者で、森田療法つながりでご厚誼を頂いている。この杉本様は、以前は東映本社に勤務して要職についておられたお方で、映画人である。のみならず、杉本健吉画伯の甥御様であり、御自身も画家である。真鶴半島には中川一政美術館があるが、杉本様はこの美術館を何度か訪れ、岬にも足を運ばれたことがあって、真鶴半島は懐かしい場所だとおっしゃっている。

 

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  今年6月末に森田療法保存会の日帰り旅行で高良先生の元別荘、真鶴「森の家」を訪問したのだが、7月にはNHKの「鶴瓶の家族に乾杯」の番組が、ゲストの元フィギュアスケーター、村上佳菜子さんと共に真鶴町を訪れるロケを行っており、番組は7月末に放映された。真鶴町と言っても、鶴瓶さんらが歩き回ったのは、半島より北側の岩地区の民家や食堂や海岸などであった。鶴瓶さんと村上さんは互いに笑顔対決と称して、訪問先での明るい交流を競い合っていた。
  番組のロケは、真鶴町の真鶴地区にあたる半島には入ってこなかったようだ。半島には民家も比較的少ないし、また点在する建物には、おそらくそれぞれの歴史がある。とすればこの半島の土地柄は、突然押しかけて来て笑って乾杯という、微笑ましいけれども軽いカルチャーとは風情を異にしている。
 

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2. 画家、高良真木と真鶴
  失礼な話だが、京都にいて三聖病院という禅一色の森田療法から入っていった自分にとって、もちろん高良武久先生の偉大な足跡を十分に知りながらも、高良先生とのつながりがなかったために、その人物像への距離が縮まらないでいた。数年前に出た岸見勇美氏の著書『高良武久 森田療法完成への道』を読んで、高良先生への心理的距離が近くなった。今改めて読み返している。しかし、この岸見氏の本にも真鶴の別荘での家族たちの生活のことは詳しくは記されていず、長女で画家の真木様がここで過ごされたことを事実上知ったのは、つい最近のことである。森田療法と芸術の距離は、遠いようで近い。たとえば、禅は美術、書道、茶道、その他の禅文化と不可分であり、不器用な私は辟易するばかりであるが、森田療法と芸術はどこかでつながるのだ。
  ともあれ、森田療法の大家で詩人の高良先生を父に持つ画家、真木様が真鶴で過ごされた数十年について、私は半年前の別荘訪問以来少し後ろ髪を引かれている。

 

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  真木様の生涯における主な実績は、画業と日中友好活動であった。かいつまんで記しておく。
  東京女子大学入学後、渡米してアメリカのカレッジに入学し、英文学と美術を専攻。
  帰国して間もない翌年の昭和28年、デンマークのコペンハーゲンでの第2回世界婦人大会の日本代表団に通訳として随行し、その地から浜田糸衛という社会運動家の女性を団長とする訪問団に加わり、中国などを訪れた。そこから団と別れて、パリに行き、留学生として美術を学んだ。
  帰国後、絵を描き続けるが、昭和32年(26歳)より、童話作家で社会運動家の浜田糸衛の自宅に転居して、共同生活を始めた。その後生活の場を真鶴に移すが、浜田との共同生活は終生続くことになる。真鶴で画業に従事しつつ、浜田を師として共に日中友好協会の活動に熱心に参加し続けた。
  真鶴半島では、中川一政画伯との出会いがあった。また、たまたま洲之内徹氏に見いだされて、銀座の現代画廊でたびたび個展を開く機会に恵まれている。洲之内氏から才能のさらなる開花を待望されるが、本人は中国への関心の方が強く、洲之内氏を大いに嘆かせたらしい。

 

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  『高良眞木画集』(2010)の冒頭に、眞木(真木が本名だが、画家としての名は、眞木)様は、自身のことを記しておられる文章がある(1973年に「美術ジャーナル」に掲載された文章の再掲)。
  小学校の時、学校から上野公園に絵を描きに行って、描きたい動物を描くように言われて、自分が描いたのは狼だった。やせこけた、灰色に薄汚れた狼は、全身飢えていて、その眼は悪意に満ちて光っていた、と。その絵の記憶が残っていて、時々それにひっかかるというのである。でも、それは太平洋戦争が始まっていた頃で、飢餓は本当にやってきた。
  さらに続けて書かれている文を引用する。
  「敗戦があり、数年が過ぎて、もはや物質的な飢えはなくなった。飢餓感がしかし私の心の中に住みついてしまった。満たされることのないように思われる飢えが、私に今も絵を描かせているように思う。」
  御自身の内部の深奥を鋭く見つめた記述である。画業のみならず、日中友好への想いと活動も、さらに晩年における真鶴の木の家での「共生舎」の運営も、源泉はすべてこの飢餓感にあったのかも知れない。1973年、40歳のときに書いた文章を敢えて再掲載なさったのは、御自身であるから、自分の内奥を再確認されてのことであろう。
 

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  肝心の美術のことになると、私はまったくの門外漢である。
  『高良眞木画集』には、原田光氏(岩手県立美術館長)による、人と作品についての「木を見て、高良さんを思う」という文や、妹の高良留美子様による「高良眞木という人」という文が掲載されている。
  ネット上には、高良眞木様の絵について、そして真鶴共生舎「木の家」について、さらに中国との友好活動について、いくつかの記事が新たに見つかったので、閲覧して頂けるようにリンクを付けておく。
 
① 檜山 東樹 : 高良眞木の“ 径(みち)”と“日月(じつげつ)”
(WEBマガジン「本日休館」収載)
 
  理屈っぽいけれども、高良眞木の一部の作品を評しながら、作者の生き方をも、おそらくは的確に捉えていそうである。
 
https://honjitukyuukan.com/archives/2958
 
② 津田文夫 : 続・ サンタロガ ・ バリア(第138回)
 
http://www.asahi-net.or.jp/~li7m-oon/thatta01/that308/tuda.htm
 
③ 自然と暮らす 共生…真鶴
 
https://blogs.yahoo.co.jp/pepe_le_moco_0123/58432086.html
 
④ cocoro corocoro 高良真木さん
 
⑤ cocoro corocoro 高良真木さんの真鶴共生舎
 
⑥ PapaMamaBabyTONTON 日本旅行 : 真鶴の共生舎
 
http://papamamababytonton.blog.fc2.com/blog-entry-336.html
 
⑦ 新保敦子 : 日中友好運動の過去 : 現在 : 未来
―高良真木のオーラル ・ ヒストリーに依拠して―
 
(早稲田大学大学院教育学研究科紀要 第23号、2013年3月)
 
  この当時の高良真木様の写真が、文中に出ている。
 
KyoikugakuKenkyukaKiyo_23_Shimbo

 
 

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3. 中川一政画伯と真鶴
  真鶴半島の形が鶴の首から先にあたるとすると、「森の家」(かつての「木の家」)は、首の部分に位置する。もう少し半島内に進んだ鶴の頭の部分に、真鶴町立の中川一政美術館がある。言うまでもなく中川画伯は、文化勲章も受賞した著名な洋画家である。
  中川画伯は、真鶴半島が気に入って、昭和24年にこの地に別荘を購入して、アトリエにした。ここに滞在して、真鶴半島の西側付け根の福浦漁港のあたりで、よくスケッチをしていたそうである。
  東京で浜田糸衛と同居していた高良真木様は、昭和38年に、真鶴の別荘の古い木造の家(「木の家」を新築する以前の建物)に入居した。後に浜田も真鶴に来て共同生活を再開するが、おそらくこの時点では独りであったろう。
  そしてこの昭和38年に、近隣在住の中川一政画伯の知遇を得て、数回箱根のスケッチに同行し、中川氏の大作「箱根駒ケ岳」シリーズの発端に立ち合うことになった。その2年後、洲之内徹氏に出会い、銀座・現代画廊で「高良眞木油絵展」を開いたが、その個展前に中川一政氏に油絵を見てもらい、個展のカタログに言葉を添えてもらっている。
  その後平成元年に、真鶴町立中川一政美術館が開館して、以後眞木様はこの美術館の審議委員となった。
  高良眞木は、中川一政に見出され、洲之内徹が育てた画家であると言われる。言い得ていると思われるが、とくに洲之内との関わりは、かなり奇妙なものであった。
 
  ※引き続いて掲載する(下)の稿に合わせるため、本稿のタイトルを修正しました(1月11日)。
 

(次回に続く)

『森田療法と熊本五高―森田正馬の足跡とその後―』発刊

2018/12/23




 
 『森田療法と熊本五高―森田正馬の足跡とその後―』の本が、熊日出版より発刊されました。
  執筆者の人数が多くて、さまざまな原稿を収めているため、編集の完了までに時間がかかり、刊行が遅れましたが、ようやく日の目を見ました。
  一部書店の店頭やアマゾンなどの通販で発売されますが、店頭やウェブ上に出るのは、年が明けて1月9日頃になりそうです。
  なお、予告チラシに記入されたページ数より、かなり増ページとなり、定価は予価より200円上がって、1200円になりましたが、事実上安価過ぎる定価設定です。どうぞよろしくお願いいたします。

森田療法保存会のニュースレター「あるがまま」13号より

2018/12/13

  前3回に引き続き、森田療法の考現学の基礎資料についての連載は、さらに継続していきます。しかしいつ終わるか見当がつかないので、この辺で、別の記事を差し挟みます。


高良武久先生は詩人であった。
(写真は、ご逝去後の1999年に刊行された詩集)


 

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1.はじめ
  私は関西在住者だが、高良興生院・森田療法資料保存会に入会させて頂いて数年になる。去る6月には、年一度の総会を兼ねて、真鶴半島にある高良武久先生の元別荘を訪ねる日帰り旅行が開催された。私も参加して貴重な訪問体験をすることができた。このような企画を組んでくださったおかげである。ところが、思いがけずも、この訪問記を会のニュースレター「あるがまま」に寄せるようにとのお薦めを頂いた。そんなわけで、ともかくも記した拙文が、「あるがまま」13号(2018年11月)に掲載された。自分は関西からの新参者であり、また高良先生や興生院のことにあまり通じていないので、戸惑いながら、訪問当日の記憶をたどり、さらに高良先生と御家族と別荘のことを皆様に教えて頂きながら、書いてみた。すると高良先生の生涯や御家族への想いが膨らみ、とても短文に収めきれるものではなくなったが、多くを端折って短文にした。
  それは既に掲載済みであり、その文をここに紹介することは許されると思うので、まずそれを再掲する。そして、チェーンストーリーのような挿話を少し付け加えることにしたい。

 

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2.「高良武久先生の元別荘、真鶴森の家を訪ねて」
 
  去る平成30年5月27日、保存会の総会を兼ねて、真鶴半島にある高良武久先生の元別荘を訪ねる日帰り旅行が開催された。私は以前からこの半島に妙に関心があった。地図上に存在するが、その存在を主張していない不思議な半島に思えたからである。高良先生の別荘がそこにあったとは。自分の不思議の中に、さらに高良家の人びとのことが加わった。私が理解してもいいのだろうかと逡巡しながら、別荘訪問の貴重な旅に参加した。関西在住の私だが、保存会への入会を認められて数年になる。まだ新参者の私も加わって、総勢14名のグループだった。
  真鶴半島は細長くて、尾根に向かう道路も狭い。その道をタクシーで少し登った地点から、右に下がった、半島西側の斜面の敷地に別荘があった。思いがけず、訪問記を書く機会を頂いたが、なにぶん知らないことが多い。そこで高良留美子様におたずねしたところ、丁寧なお答えを頂戴した。それを頼りに、この別荘の歴史を簡単に記すことにする。
  それは昭和28年前後に、高良先生が家屋つきのミカン園を購入されたことに始まる。その後、「父の家」(高良先生の書斎)、「石の家」(とみ様のお住まいになった)が建てられた。そして高良先生のご逝去後に、長女の真木様がアトリエ兼自宅として「木の家」を建て、そこを高齢者が共同生活をする家になさった。真木様がお亡くなりになってから、「木の家」は一般社団法人、真鶴「森の家」となった。
  私たちはこの家を訪れたのだが、贅を尽くした大きな建物で、海側に面した大広間で総会が開かれた。「森の家」の名の通り、外はさながら森で、海への視界は遮られているが、高良先生は遥かなる鹿児島を懐かしんで、海に面したこの地に別荘をもうけられたのであろうか。
  先生は晩年の「真鶴の庭で」と題した随筆で、ミモザの花のことを書いておられる。ミモザは冬に黄色い花をつける。南仏のニースあたりを主産地とするミモザは、ヨーロッパでは春を告げる花として愛でられている。「ミモザ館」という古いフランス映画を思い出した。母親のような女性と若者との間の愛と葛藤が南仏を舞台に描かれた映画だった。『誕生を待つ生命』という、ミモザの花のような高良美世子様の著作集も読んだ。昭和30年に高良先生がパリ留学中の真木様を訪ね、その際にパリ大学で森田療法の講演をなさったという経緯を知ったのは、この本の巻末年譜からである。



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3. 真鶴森の家
  そもそも、真鶴の地名の由来は、内陸の山手からこの地域を見下ろすと、羽根を広げている鶴が、首から先を海に突き出している姿のように見えるからだと言う。真鶴半島が鶴の首、頭からさらに嘴にあたるのである。真鶴町でも半島の北の漁港があるあたりは、岩という地区で、半島は真鶴町の真鶴地区である。その真鶴地区に高良先生の元別荘がある。
  高良先生の没後に、真木様が新たにお建てになり、アトリエを兼ねてお住まいになっていた木造の家、つまり「木の家」と呼ばれていた建物が現在も中心をなしている。敷地が斜面なので、二階に玄関があり、その下にもうひとつの階がある。この下の階が海に面しており、バルコニーもあって、眼下に海を一望できたのだった。しかし、庭のユーカリなどの多くの樹木は、天に向かって真っ直ぐに伸び、庭木は林となり、森となって、眺望を遮っている。真木様がお亡くなりになった後、「木の家」は一般社団法人となり、「木の家」と呼ばずに「森の家」と命名された。これはちょっとしたユーモアなのであろうか。あるいはホラーの域に近いかもしれない。木々の生命力を肯定するなら、適切な名称ではあるが。
  その法人としての「森の家」はどのように機能しているのだろう。芸術作品の展示や、集いやイベントの開催などに場を提供することになっているのであろう。
 
  ネット上に「音空 onkuu」というサイトがあり、その中に「真鶴「森の家」にて」というブログ記事がある。参考になるので、一方的だがリンクを付けさせてもらう。ただしこのブログを書いた人も不思議の世界の住人のようだが、洗練された感性を感じる。

音空 onkuu 真鶴「森の家」にて

 

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4. 高良先生と真木様とパリ
  真木様は、昭和28年にデンマークのコペンハーゲンで開催された世界婦人大会に英語の通訳として随行され、パリへ到着し、美術を学ばれた。そのまま帰国せずにパリに留まられたのであろうか、とにかく、真木様はこの時期からパリで留学生活を送られた。
  高良美世代子様の著作集『誕生を待つ生命』を編まれた高良留美子様は、パリ留学当時の真木様と日本の家族が交わした書簡を、その本の中で紹介なさっている。それを見ると、昭和30年4月現在で真木様のパリの住所は、大学都市のアメリカ館になっている。しかし同月より、パリ5区のアパートに引っ越されている。その時期よりかなり時を経て、私自身パリに一年間住んだときは、半年間を大学都市のキューバ館で過ごした。アメリカ館とは目と鼻の先だった。パリ5区の雰囲気にも懐かしいものを覚える。
  高良先生は、昭和30年5月に渡欧し、パリ滞在中の真木様と会い、同年6月、留学中だった荻野恒一氏の協力で、パリ大学のサンタンヌ病院において森田療法についての講演をなさった。これが、日本人によるフランスへの森田療法の紹介の第一号である。サンタンヌ病院は、後に私もそこで学ぶことになった。
  高良先生は講演後、その夏に真木様と共に帰国された。
  なお、この講演録(仏文)は、高良武久著作集第二巻に掲載されている。

 

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5. 高良武久先生は詩人であった。
  高良先生が亡くなられて3年後の1999年に、『高良武久詩集』が刊行された。没後に真鶴の家の居間にある棚の引き出しから、詩稿が見つかったそうである。その中には、結婚前の高良とみ様(和田とみ、筆名富子)の詩も含まれていた。つまり、高良先生の詩は、とみ様との交際の中で相聞歌として生まれたものらしいと、編者あとがきに高良留美子様が記しておられる。留美子様の解説は、さらに次のように続く。
 「これらの詩が書かれたのは、高良武久が九大医学部を卒業して精神科の医局に入局し、すでに助手としてそこにいた和田とみと知り合った1924年4月以降、彼女が日本女子大学教授に就任して九大を去る1927年3月までのほぼ3年間、年齢的には25歳から27歳までのあいだと考えることができる」。
 「二人はこの交際を、結婚する1929年10月まで周囲には秘密にしていた。…詩はその二人のあいだでひそかに交換されたのだろう。因襲への反発や批判、そして自由への渇望が随所に見られる」。
  高良先生は、上田敏の『海潮音』などを愛読しておられ、先生自身の詩も象徴派の系譜に入ると、留美子様は記しておられる。
  象徴派の詩についてコメントを述べることは、私の力量の及ぶところではない。まして相聞歌としての象徴詩である。詩集をお読み頂くほかないと思う。
  高良先生はロマンチストであった。そして格調高い象徴派の詩人であった。