森田療法の考現学的研究についての予備的試論―考古学から考現学へ―(3)

2018/11/29

  ごく最近、新たなフランス人精神科医師との交流が始まった。リアルタイムの話である。
  森田療法の国際交流については、考現学の問題として、早晩記さねばならないことゆえ、この際、現在の日仏交流についての実況を記すことにする。その前に、一応過去の日仏交流の失敗談から始めねばならない。

 

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10. 森田療法における国際交流
  この日本的、東洋的な療法についての国際交流という大きな問題がある。考現学的に、これを取り上げることは不可欠である。ただし、これを一挙に書き記すことはできない。
  自分は長年、日仏交流に従事して、森田療法をかの地に伝えることの難しさを味わってきた。フランスでの講演活動やフランスの雑誌への寄稿により、なるべく相手に分かり易く説明することはできた。しかし、それだけでは森田療法がフランスで実際に実践的に取り入れられるには至らなかった。日本人による講演や執筆による紹介活動だけでなく、フランス人たちが日本の森田療法の臨床現場へ学びに来ることも必要であると思われた。その意味で、10年あまり前に、日仏医学会(という組織がある)の精神科医師たちが三聖病院に関心を示して、来訪の受け入れを求めてきた。そのような希望が来ること自体はよいことであった。そして実際に一行が来訪したのだった。しかし彼らの関心は浅く、一時的なものに過ぎなかった上に、フランス人側の責任者のペースで、病院の規律を無視した押しかけの感が強かった。入院森田療法の場の雰囲気を体験的に味わってこそ、よいみやげになるのだが、彼らにはそのような姿勢が欠けているようだった。また三聖病院側は、来る者は拒まないというだけの無関心的不問の受け入れ方で、両者はまったく噛み合わなかった。これは禅的な森田療法(宇佐療法)についての国際交流の野外実験に等しく、不毛の結果に終わった。自分は裏方に徹し、マネジメントに努力を尽くしたが、それが実らなかった虚しさだけが残った。なんとも苦い体験であった。そんな負の学びがあったことを、記しておく。
  なお、三聖病院には、4年前の閉院直前にフランス語圏国際学会組織のPsyCauseのグループが来訪した。このときは、京都での学会の開催と連動した病院訪問だったので、訪問前に森田療法を講習的に教える学会プログラムを組んだ。そのため、外国人として最後の病院訪問者になった彼らにとって、それなりに印象に残るものがあったようである。

 

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11. 現在の私の日仏交流
  近年は、PsyCause というフランス語圏国際組織と関わっている。今年は森田正馬の没後80年で、生家訪問など記念行事が7月に開催されることを、事前に情報としてフランス側に伝えておいた。それに対して、関心を示した3人の人たち(精神科医師や精神分析家)が、暑い7月を避けて4月末から5月初めにかけて、森田正馬の生家訪問のために来日した。同行してあげることはできなかったが、帰国前の3人(精神分析家の Nyl ERB 女史ら)と大阪で会った。そしてそのような顛末が、PsyCause のホームページに掲載された。その日仏交流の記事に対して、関心を示して書き込みをしてくれたフランス人精神科医師がいた。ストラスブールのジョルジュ・ヨラム・フェーデルマン Georges Yoram FEDERMANN 医師である。
  その書き込みには、自分は木村敏の “ 間(AIDA)”についての本を読んでいると記載されていたので、日本語ができる人だろうかと期待して、日本語でコメントを返したが通じないようだった。いつも私とメール交換をしている Nyl ERB 女史によると、国際的にも名前を知られている活動的な医師であるとのこと。われわれが今後、日仏交流を継続し、成果をあげるには、アルザスのコルマールに住む Nyl ERB 女史が、ストラスブールの Georges Yoram FEDERMANN 医師と提携してくれたら如何ですかと、私は提案してみた。その提案を受けて、Nyl ERB 女史は Georges Yoram FEDERMANN 医師に連絡を取り、さる11月23日に、Nyl ERB 女史がストラスブールのFEDERMANN 医師の自宅を訪問するかたちで、お二人の出会いが実現した。仕掛け人はこの私で、メール一本の提案で、二人が出会って、交流を開始してくれたのである。有り難いことで、同時に責任も感じる。
  Nyl ERB 女史からのメールによると、FEDERMANN 医師は、神経症の治療ではなく、様々な病理の精神障害に対して、第一線で精神療法に従事している精神科医で、森田療法に非常に関心を示してくださっているそうである。自らの精神療法については、ドキュメンタリー映画を自主制作なさったという。
  Georges Yoram FEDERMANN 先生は、早速11月26日に、私に直接メールをくださった。そのメールに、ご自身の活動や関心などが記されているので、それを紹介する。
  いただいたメール文の冒頭箇所に、重要なことを書いてくださっているので、まずその部分をフランス語のままで引用する。
 
 
Cher et honoré Professeur Okamoto,
 
Je suis très heureux et ému d’entrer en relation avec vous de manière aussi directe.
 
Je suis un psychiatre pragmatique qui a toujours considéré que les maladies mentales “n’existaient pas”
mais que chaque sujet exprimait ses sentiments, ses douleurs et ses espoirs à sa manière, telle une oeuvre d’art.
Et qu’il fallait toucher à cela le moins possible.
 
Chacun crée une partition que le psychiatre est chargé de déchiffrer et d’interpréter
pour devenir le compagnon de route du patient, parfois pour toute la vie.
 
J’ai vraiment le sentiment de pratiquer ” la thérapie de Morita” depuis toujours sans savoir qu’elle existait.
 

 
  上の引用部分を訳しておく―
 「貴殿とこのように直接交流できるようになって、幸甚です。
  私は実践に従事している精神科医師で、いわゆる精神疾患というものが存在するのではなく、それぞれの人たちが感情や苦悩や希望を、自分なりに表現しているのだと、いつも思っていました。あたかも芸術作品のように。
  だからそれをできるだけいじらない方がよいのだと。
  みながそれぞれに自分を創造しており、精神科医師はそれを読み解き、理解者になり、患者の歩みに同行しなければなりません、―ときにはその生涯にわたって。
  まったくもって私は、森田療法というものがあったのを知らないままに、森田療法なるものをいつもおこなっていたのだと実感します。」
 
  FEDERMANN 先生の書いておられるとおりだと思う。神経質や神経症の治療をするためにだけ、森田療法があるのではなかろう。
  さらに FEDERMANN 医師は、30年以上前から、フランス国内にいる難民などの多数の外国人(コーカサスやマグレブやアフリカなどからの人たち)の診療活動をしており、とりわけ戦争による心的外傷に関心を向けている、と書いておられる。
  日本への関心については、スイス在住の義理の兄弟がいて、建築家だが、日本人女性と結婚しているので、日本のことを知っていて、彼が木村敏の本を貸してくれたりしたとのこと。
 
  FEDERWANN 先生は、2本ほどドキュメンタリー映画を制作しておられる。
 
・ “ Le Divan du monde ” (2015)
  (自身のcabinetでの、さまざまな人たちへの精神療法の記録)
 
・ “ Comme elle vient ” (2018)
  (インタビュー形式で、自身のことや映画のことを語っている)。
 
  2つの映画のタイトルは、非常に象徴的なもので、今は日本語に訳しづらい。
  これらの2本の映画は、メールに添えて送ってくださったので、繰り返し視聴している。このホームページにそれらの映画を公開するのは、時期尚早で、今は難しい。今後、許諾を頂けたら、関心のある方にこれらの映画を視聴してもらえるかもしれない。
  この先生との交流は、これから始めるところである。
  なお、Georges Yoram FEDERMANN の名前で検索すれば、Wikipediaなどの記事が出る。YouTube からはインタビューなどの動画が出る。
 
ウィキペディア記事
https://fr.wikipedia.org/wiki/Georges_Yoram_Federmann
 
ユーチューブのインタビュー動画
https://www.youtube.com/watch?v=CwAmT3m4pMQ

森田療法の考現学的研究についての予備的試論―考古学から考現学へ―(2)

2018/11/21

  森田療法の考現学を意図している。これは大きな問題なので、まとめるところまで到達するかどうか、おぼつかない。
  とにかく最初の段階として、過去から現在までの流れの中で、気になる事柄を、体系的でなく、材料として自由に取り出すことにしている。そこで前回に続いて、いくつかの問題点を書いてみる。思いつくままに書くのだが、それはおのずから問題を蔵していると思う点を書くことになるはずである。
 

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7. 森田療法へのとらわれ(1)
  森田療法の分野では、とらわれがしばしば問題になる。まずは神経症の当事者における症状へのとらわれがあり、神経質(神経症)に特有の心理機制として、よく知られているところであるが、これは森田療法へのとらわれではない。
  症状に対するとらわれと別に、森田療法に対するとらわれが起こり得る。強迫性を帯びた人の場合に多いが、後生とばかりに、森田療法とその治療者を頼りにし、治してほしい一心で療法を守ろうとすればするほど、森田療法そのものに縛られてしまう「森田療法へのとらわれ」が起こる。私は禅的色彩の濃い入院原法の病院にかつて勤務していて、そのような例によく遭遇した。入院生活の規則を強迫的に守っても、症状は温存され事態は変わらないことが多い。困って治療者に助けを求めても、暖簾に腕押しのように不問に付されて、どうすることもできなくなってしまう。ついに治療者に不信感が湧いて、いっそ森田療法から離れたいと願うことになるが、森田療法に対して思い入れが強かった分、両価的になり、離れようにも離れられない。行き詰まって絶望的な状態になってしまう。
  これは禅の魔境のようなものである。こんな場合、カウンセリング的介入が必要になる。さもなければ、深刻なアクティングアウトを起こすことになりかねない。

 

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8. 森田療法へのとらわれ(2)
  治療過程で起こるもう一つの「森田療法へのとらわれ」がある。それは、入院森田療法のような隔離された環境において、その中心に治療者が君臨している場で発生しやすいもので、自己愛的な患者が、権威性を帯びた治療者を崇拝して、理想化転移を起こしてしまうものである。それは、カリスマ的な治療者、〇〇先生による療法としての森田療法(〇〇療法)に取り憑かれたようになってしまうという意味での、とらわれである。患者は、カリスマ的な治療者に、分身のごとく自らを重ね合わせる。そして治療者に仕えて、その言動を真似る。慢心が生じ、後進に対して尊大な言動を示す。森田療法で「治った」という人によくある「くさみ」、自己愛臭として、従来から指摘されていたものに通じるであろう。
  このような特徴は、禅の魔境の一種としての、勝境と言われる心理状態に近い。悟りを開いたつもりの勝ち誇った、驕りの心境である。しかしこのような第二の森田療法へのとらわれは、一時的な心境ではなく、パーソナリテイの水準の低下を伴う変化なので、容易には解消しない。治療者に忠臣のよう依存し続けて、独立独歩でき難くなる。
  穿ったことを言えば、治療者もまた臣下の崇拝によって支えられる面があり得る。共依存という言葉が適切かどうかわからないが、とにかく慢性的な相互の依存関係が続くことになり、処理は困難である。そもそも、治療者が患者らのこのような陽性転移を処理しない、または処理できないで、転移に安住している事態に他ならないと言えよう。
  たまたま私は、治療者を崇拝するとらわれに陥っているグループ内の某氏と、一時的に交流したことがあった。その某氏は「自分たちは落伍者かもしれない」と一旦冷静な見方を示したが、結局、再び自分たちのグループの中に深入りしていった。
  森田正馬は権威的な人であったけれども、「患者が治癒に向かって後に、何となく余に頼るといふ事があるから、『余に頼る間は病気の治癒ではない』といふ事を教えるのである」(『神経質及神経衰弱症の療法』)と書いて、治療者を「信仰」し続けることを戒めた。治療者患者関係について、森田自身が配意をしていたことがわかる。後世の森田療法家は、案外この点を学び損ねていたのではなかろうか。

 

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9. 私たちの「森田療法へのとらわれ」
  認知行動療法が医療保険上で点数化されたが、森田療法はそのような恩恵に浴していず、医療経済学的に不利な条件下にある。医療に限らず、心理臨床や福祉や教育の分野でも、森田療法は経済面で恵まれていない。それにもかかわらず、今日多岐にわたる分野のさまざまな職種の方々が、森田療法に熱意を注がれている様子が学会等の活動から、見て取れる。
  そこにおいては、さまざまな森田療法関係者が、森田療法に関心を持ったり、その臨床に従事したり、教育、福祉などの領域に広く生かそうとしたり、その研究をしたり、その普及をはかろうと努めたりしている諸活動が浮かび上がるが、その中にも、なんらかの「森田療法へのとらわれ」 があるのではないだろうか、と思う。
  この場合、「とらわれ」という言葉は固くて柔軟性に欠けそうだから、不適切かもしれない。そこにはさまざまなものが含まれていると思われる。すなわち、森田療法に関わろうとする、なんらかの理由や動機や興味、研究的な関心・意欲、臨床的な関心・意欲、使命感、役割意識、やりがい、喜び、個人的必要性、営利、などであろう。ほかにも、もっと生々しいファクターがあるかもしれないと思うが、露骨には書きにくい。
  ともあれ、前述したような、神経症的な当事者が治療過程で陥る「森田療法へのとらわれ」と別に、このような種々の要因に動かされて、私たちは、さまざまな立場から森田療法に関わっていると思うのである。
  もちろん私自身も、その「とらわれ」のようなものを自覚しており、因果な巡り合わせだと思っている。開示することはできるが、ここでは個人的なことはさておき、今日の森田療法関係者諸氏における、森田療法への動因としての「とらわれ」の実態に強い関心を持つものである。
  伝統的な森田療法を守っていくには、隠れキリシタンのような悲壮さを伴うが、新しい時代の新しい動因によって、森田療法は前進していくのかもしれない。期待と不安を持って、そのような状況を見守りたい。

森田療法の考現学的研究についての予備的試論―考古学から考現学へ―(1)

2018/11/01

1. 自分と研究論争の経験
 
  自分は大学紛争を経験した世代である。インターンのときはインターン闘争に、精神科に入局したら、医局講座制解体運動に巻き込まれた。博士号を取るための研究は罪悪だと、運動家たちが叫んでいた。その渦中で自分なりに悩み、研究のための研究はむなしいとつくづく思ったが、本当に役に立つ研究は必要ではないだろうかと考えて、活動的な同級生と論争したこともあった。しかし、研究論争はむなしく、過酷な精神医療の仕事にも疲れて、精神だけにとらわれるのをやめ、全人的な心身医療に方向転換した。さらに日本だけにとらわれるのをやめ、フランス精神医学に研究的関心をもち、フランス人と一緒に東西の精神療法を考えるうちに、結局日本の森田療法に帰着した。遠回りの果ての「照顧脚下」であった。だからその分、生活の中での治療者の精進と患者さんに対する診療は不可分である森田療法のいとなみが身に染みた。したがって、生活の実際をおろそかにして、軽々しく研究に走るようなものではないと、ごく自然に思うようになった。
  そのような、いわば自覚を経て、臨床実践のあり方を見直すために研究もまた必要だと認識するにいたっている。これがスロースターターだった自分の森田療法歴である。このところ、もしかしたら、理論に走っている輩だとみなされているかも知れない。しかし、かつて徒弟のように臨床経験をしていて、それはまだまだ不足だけれど、ともあれ研究の安易な量的生産傾向に対しては、内心つい懐疑的になるという古臭い人間である。

 

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2. 森田療法における二次元的研究から、森田療法の三次元的研究へ
 
  今日、森田正馬の原法が廃れつつあり、原法から離れた「森田療法」が広がりを見せ、その広がりに並行して「研究」も花盛りである。
  古い頑なな私の立場は、先に明かした通りで、治療者も患者も森田療法的に生きるもの、それが即ち森田療法であって、気安く研究に走ることは不遜なことだと、私は長い間思い込んでいた。今もそう思っていることに変わりはない。
  しかし、森田療法の移り変わりを目の当たりにして、カルチャーショックを受け、愚痴を言い、過去にとらわれているばかりでは生産につながらない。今日において、森田療法なるものにどのように関心がもたれ、その「森田療法なるもの」がどのように実施されているのか。それは気になる一大事であって、そのような一大事こそ、研究的にアプローチすべき課題なのではないかと思う。地上の京都の片隅で、一定期間、療法に関わってあくせくしていた小さな自分が、巣から飛び立った鳥のように、三次元の視界から地上の森田療法世界を眺めてみたいというわけである。原法の廃れ方、あるいは変容について、またあるいは新たな形での普及について、俯瞰的に見ることが必要だと思うこの頃なのである。つまり森田療法の現実を、あえて客観化してみようとする考現学の発想である。とは言え、私自身、過去と現在のはざまで、未だに五里霧中にいる。森田療法の歴史に照らしながら、その考現学をクリアにまとめることは容易ではなさそうである。
  そこで、まずは、森田正馬がおこなった療法の特徴や、今日的事情の中に見える問題点などについて、思いつくまま、あれこれ順不同に言及してみたい。療法の過去と現在について、断片的に思うことをいくつかランダムに記してみることで、次第に何かが見えてくる方向に持って行けたらという、やや無謀な発想である。
 

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3. 森田療法が神経症をつくる。
 
  生活の中での、あるいは臨床的営みにおいての、実践なくして森田療法はありえない。机上の論より、実際の方が重たいのである。これは一応大事なことである。
  森田療法とは森田正馬という偉い人によって創られた神経質に対する日本独自の療法で、かくかくしかじかの森田理論があって、最近は認知行動療法やマインドフルネスとかいうものと関係があると言われていて、などと頭でこねくり回しているところに、森田療法はなく、ただひたすら、自分の人生を精一杯に、苦しみながら、あるいは楽しみながら、無心に生きているところに本当の森田療法の醍醐味がある。ところがそのような場合、当の本人は、いちいちこれが森田療法の醍醐味だと意識していないし、意識する必要もない。そもそも森田療法というものを知っている必要もない。然るに一旦森田療法を知ってしまった人が、森田療法の醍醐味を味わおうと探し始めたら、それこそいい面の皮で、醍醐味は逃げていく。森田療法探しの神経症になっているのである。
  これは禅において、悟りを追えば悟りは逃げていき、求めようとすれば得られないというパラドックスに直面することに等しい。そこで禅は矛盾をそのままに生きることを教える。禅は不可解なのを得意とするところがあるので困るけれども、禅が悩みを取り除く新しい禅に変わったという話は聞いたことがない。森田療法は、患者さんの求めに負けて、つい症状を治す療法になっている傾向、なきにしもあらずである。

 

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4. 森田療法の功罪
 
  先のように考えると、森田療法は罪作りである。蟻地獄のようなものだ。東大出の偉い先生が、余の特殊療法なるものを創られて、それは自然療法、あるいは体験療法と言い換えてもいいものだとおっしゃった。しかしそもそも療法とは巧まれた技であろうし、余のと冠され、特殊と銘打たれた巧みの技が、どうして自然なものであろうか。体験ということについては、何らかの体験が待っているだろう。お化け屋敷に入るときのように、少々胸が躍るというものだ。
  そこで、石橋を叩いて、渡るか渡らないか思案のしどころだが、藁ならぬ偉い先生に縋ろうとした人たちが、余の特殊療法がおこなわれているらしい森田邸内に入れてもらったのだった。
  偉い人に憧れ、偉い人に親和性を感じ、かつ高額の治療費を払えるという経済的に恵まれた家庭の子女たちが、余の特殊療法に引っかかったのである。療法も特殊なら、引っかかった患者さんも、一部の特殊層の人たちだったのである。特殊ではない一般大衆の人びとの中にも、もちろん神経質や神経衰弱に悩む者はいただろうけれど、受診する専門の医者がほとんどいなかったために、神経質や神経衰弱と診断されずに済んだ。森田はそのような診断名をつけた上で、健康人のふりをせよ、と言った。宇佐玄雄も同様だった。患者はダブルバインドで縛られたであろう。一般大衆の人たちは、神経質とか神経衰弱と診断してもらえないので、健康人のふりをして生活するしかなかったのである。

 

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5. 大江戸自然療法
 
  さて、森田先生の邸宅での治療の場は、自然を体験できる環境であったか? これはちょっと面白い問題である。森田先生が言われた自然療法の意味するところは、心は万境に随って転ずるままに、日々気をきかせて立ち回るようにということであったろう。蓬莱町の森田邸は大きな屋敷だったけれども、森や田んぼの自然があるような場所では、もちろんなかった。塀の中での入院生活において、自然服従を体験させようとされたものであったことは、明らかである。家庭的環境で、共同生活を送り、起居を共にしている治療者から薫陶を受けつつ、邸内の生活の流れに即応した動きをする。
  森田先生は、禅に関心を有しておられたが、深山幽谷に入って座禅をするような修行の胡散臭さを看破して、悟りも治癒も日常生活の中にこそあるという達観を有しておられた。自分の療法は禅から出たものではない、禅のことはわからぬと言われた謙遜と裏腹に、本物の禅的域に達しておられたことはさすがである。生活の至る所がすべて修行の場であり、治療的な場でもあった。
  ときには塀の外へ出て、森田先生の乗った乳母車を押して市場へ買い物に行くのも、ときには浅草へお供をするのも、大江戸の自然界の中の体験であった。さらにときには、患者を連れて熱海へ観梅に行き、他人の家の塀の中に無断で入って見せたのも、番外編のエピソードである。これらは確かに森田先生の着想による、場を利用した優れた体験的な自然療法であった。

 

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6. 天然療法
 
  さらに面白いのは、森田先生がいわゆる天然の人であったことである。治療や指導において、奇抜なことをなさったエピソードには、事欠かない。神経質の患者さんたちは結構頑固で、固定観念にがんじがらめになって、柔軟な発想をできないから、人を見て法を説き、臨機応変に対機説法をする必要があったに違いない。しかし、みずから神経質者であったという森田先生自身が、神経質患者たちがとてもできないような自由奔放な行動の見本を示されたのは、一驚に値する。森田先生自身が、若き日に悩んだ神経質から一皮も二皮も脱皮して、自由人へと成長なされたということであろうか。とにかく、治療上で患者への教えとして示されたユニークな数々のエピソードがある。そのいくつかを挙げておこう。
  病気療養中の見舞い客への「下されもの」についての張り紙による教えは有名である。困る物、困らぬ物、うれしき物、と三通りに分けて物の例を示しておられる。困る物では、メロンや商品券が挙げられている。高価なメロンを持ってこられても生ものは扱いに困る。商品券も厄介である。うれしき物としては、金、一輪花、女中に反物、などと書かれている。病人にとって現金はありがたいものである。欲深さから金を望んでいるのでないことは、一輪花の配慮をありがたく思う気持ちからも窺える。女中に反物とは、裏方の従業員の苦労をねぎらってくれたらうれしいとの気持ちの表現である。ただ、このようなことは、通常思っていてもなかなか掲示には出し難い。気の利かない神経症者への教えとしてだけれど、掲示を出されたところが森田先生らしいのである。
  また、森田先生は入院患者たちの前で本ものの夫婦喧嘩におよび、君らは僕と妻のどちらが正しいと思うかと問われたという語り草がある。実際のその場で問われた者は、なんらかの答えをするとか、そっと逃げるとか、対処せねばならない。このような家庭生活丸出しの実際的な治療は、森田ならではのものであった。
  乳母車に乗って患者にそれを押させて、市場に買い物に出かけたことも、よく知られている。市場の狭い通路を通るには、乳母車が便利だったのである。奇をてらったのではなくて、合理性をよしとして、恥や外聞を気にしなかったのである。
  バイブルで鼻をかんでもよいが、人前ではしてはよくないと言い、森田流の常識を重んじるところがあった。
  総じて森田の行動は、患者の前で治療用に巧んで振る舞ったのではなく、天真爛漫で自由な行動をそのままに見せた。なかなか真似のできないことである。そこには、人間的に成熟した境地があったのであろう。同時に、天性の人間味、別言すれば、天然の資質がちょうど治療にフィットしたと考えることもできよう。
  自然療法と言えども、療法と言う以上は巧んだものではないかと先に書いたが、巧んだものではない大江戸自然療法があった上に、森田ならではの天然療法の面目があったのである。

(続く)