森田療法保存会のニュースレター「あるがまま」13号より

2018/12/13

  前3回に引き続き、森田療法の考現学の基礎資料についての連載は、さらに継続していきます。しかしいつ終わるか見当がつかないので、この辺で、別の記事を差し挟みます。


高良武久先生は詩人であった。
(写真は、ご逝去後の1999年に刊行された詩集)


 

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1.はじめ
  私は関西在住者だが、高良興生院・森田療法資料保存会に入会させて頂いて数年になる。去る6月には、年一度の総会を兼ねて、真鶴半島にある高良武久先生の元別荘を訪ねる日帰り旅行が開催された。私も参加して貴重な訪問体験をすることができた。このような企画を組んでくださったおかげである。ところが、思いがけずも、この訪問記を会のニュースレター「あるがまま」に寄せるようにとのお薦めを頂いた。そんなわけで、ともかくも記した拙文が、「あるがまま」13号(2018年11月)に掲載された。自分は関西からの新参者であり、また高良先生や興生院のことにあまり通じていないので、戸惑いながら、訪問当日の記憶をたどり、さらに高良先生と御家族と別荘のことを皆様に教えて頂きながら、書いてみた。すると高良先生の生涯や御家族への想いが膨らみ、とても短文に収めきれるものではなくなったが、多くを端折って短文にした。
  それは既に掲載済みであり、その文をここに紹介することは許されると思うので、まずそれを再掲する。そして、チェーンストーリーのような挿話を少し付け加えることにしたい。

 

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2.「高良武久先生の元別荘、真鶴森の家を訪ねて」
 
  去る平成30年5月27日、保存会の総会を兼ねて、真鶴半島にある高良武久先生の元別荘を訪ねる日帰り旅行が開催された。私は以前からこの半島に妙に関心があった。地図上に存在するが、その存在を主張していない不思議な半島に思えたからである。高良先生の別荘がそこにあったとは。自分の不思議の中に、さらに高良家の人びとのことが加わった。私が理解してもいいのだろうかと逡巡しながら、別荘訪問の貴重な旅に参加した。関西在住の私だが、保存会への入会を認められて数年になる。まだ新参者の私も加わって、総勢14名のグループだった。
  真鶴半島は細長くて、尾根に向かう道路も狭い。その道をタクシーで少し登った地点から、右に下がった、半島西側の斜面の敷地に別荘があった。思いがけず、訪問記を書く機会を頂いたが、なにぶん知らないことが多い。そこで高良留美子様におたずねしたところ、丁寧なお答えを頂戴した。それを頼りに、この別荘の歴史を簡単に記すことにする。
  それは昭和28年前後に、高良先生が家屋つきのミカン園を購入されたことに始まる。その後、「父の家」(高良先生の書斎)、「石の家」(とみ様のお住まいになった)が建てられた。そして高良先生のご逝去後に、長女の真木様がアトリエ兼自宅として「木の家」を建て、そこを高齢者が共同生活をする家になさった。真木様がお亡くなりになってから、「木の家」は一般社団法人、真鶴「森の家」となった。
  私たちはこの家を訪れたのだが、贅を尽くした大きな建物で、海側に面した大広間で総会が開かれた。「森の家」の名の通り、外はさながら森で、海への視界は遮られているが、高良先生は遥かなる鹿児島を懐かしんで、海に面したこの地に別荘をもうけられたのであろうか。
  先生は晩年の「真鶴の庭で」と題した随筆で、ミモザの花のことを書いておられる。ミモザは冬に黄色い花をつける。南仏のニースあたりを主産地とするミモザは、ヨーロッパでは春を告げる花として愛でられている。「ミモザ館」という古いフランス映画を思い出した。母親のような女性と若者との間の愛と葛藤が南仏を舞台に描かれた映画だった。『誕生を待つ生命』という、ミモザの花のような高良美世子様の著作集も読んだ。昭和30年に高良先生がパリ留学中の真木様を訪ね、その際にパリ大学で森田療法の講演をなさったという経緯を知ったのは、この本の巻末年譜からである。



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3. 真鶴森の家
  そもそも、真鶴の地名の由来は、内陸の山手からこの地域を見下ろすと、羽根を広げている鶴が、首から先を海に突き出している姿のように見えるからだと言う。真鶴半島が鶴の首、頭からさらに嘴にあたるのである。真鶴町でも半島の北の漁港があるあたりは、岩という地区で、半島は真鶴町の真鶴地区である。その真鶴地区に高良先生の元別荘がある。
  高良先生の没後に、真木様が新たにお建てになり、アトリエを兼ねてお住まいになっていた木造の家、つまり「木の家」と呼ばれていた建物が現在も中心をなしている。敷地が斜面なので、二階に玄関があり、その下にもうひとつの階がある。この下の階が海に面しており、バルコニーもあって、眼下に海を一望できたのだった。しかし、庭のユーカリなどの多くの樹木は、天に向かって真っ直ぐに伸び、庭木は林となり、森となって、眺望を遮っている。真木様がお亡くなりになった後、「木の家」は一般社団法人となり、「木の家」と呼ばずに「森の家」と命名された。これはちょっとしたユーモアなのであろうか。あるいはホラーの域に近いかもしれない。木々の生命力を肯定するなら、適切な名称ではあるが。
  その法人としての「森の家」はどのように機能しているのだろう。芸術作品の展示や、集いやイベントの開催などに場を提供することになっているのであろう。
 
  ネット上に「音空 onkuu」というサイトがあり、その中に「真鶴「森の家」にて」というブログ記事がある。参考になるので、一方的だがリンクを付けさせてもらう。ただしこのブログを書いた人も不思議の世界の住人のようだが、洗練された感性を感じる。

音空 onkuu 真鶴「森の家」にて

 

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4. 高良先生と真木様とパリ
  真木様は、昭和28年にデンマークのコペンハーゲンで開催された世界婦人大会に英語の通訳として随行され、パリへ到着し、美術を学ばれた。そのまま帰国せずにパリに留まられたのであろうか、とにかく、真木様はこの時期からパリで留学生活を送られた。
  高良美世代子様の著作集『誕生を待つ生命』を編まれた高良留美子様は、パリ留学当時の真木様と日本の家族が交わした書簡を、その本の中で紹介なさっている。それを見ると、昭和30年4月現在で真木様のパリの住所は、大学都市のアメリカ館になっている。しかし同月より、パリ5区のアパートに引っ越されている。その時期よりかなり時を経て、私自身パリに一年間住んだときは、半年間を大学都市のキューバ館で過ごした。アメリカ館とは目と鼻の先だった。パリ5区の雰囲気にも懐かしいものを覚える。
  高良先生は、昭和30年5月に渡欧し、パリ滞在中の真木様と会い、同年6月、留学中だった荻野恒一氏の協力で、パリ大学のサンタンヌ病院において森田療法についての講演をなさった。これが、日本人によるフランスへの森田療法の紹介の第一号である。サンタンヌ病院は、後に私もそこで学ぶことになった。
  高良先生は講演後、その夏に真木様と共に帰国された。
  なお、この講演録(仏文)は、高良武久著作集第二巻に掲載されている。

 

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5. 高良武久先生は詩人であった。
  高良先生が亡くなられて3年後の1999年に、『高良武久詩集』が刊行された。没後に真鶴の家の居間にある棚の引き出しから、詩稿が見つかったそうである。その中には、結婚前の高良とみ様(和田とみ、筆名富子)の詩も含まれていた。つまり、高良先生の詩は、とみ様との交際の中で相聞歌として生まれたものらしいと、編者あとがきに高良留美子様が記しておられる。留美子様の解説は、さらに次のように続く。
 「これらの詩が書かれたのは、高良武久が九大医学部を卒業して精神科の医局に入局し、すでに助手としてそこにいた和田とみと知り合った1924年4月以降、彼女が日本女子大学教授に就任して九大を去る1927年3月までのほぼ3年間、年齢的には25歳から27歳までのあいだと考えることができる」。
 「二人はこの交際を、結婚する1929年10月まで周囲には秘密にしていた。…詩はその二人のあいだでひそかに交換されたのだろう。因襲への反発や批判、そして自由への渇望が随所に見られる」。
  高良先生は、上田敏の『海潮音』などを愛読しておられ、先生自身の詩も象徴派の系譜に入ると、留美子様は記しておられる。
  象徴派の詩についてコメントを述べることは、私の力量の及ぶところではない。まして相聞歌としての象徴詩である。詩集をお読み頂くほかないと思う。
  高良先生はロマンチストであった。そして格調高い象徴派の詩人であった。