森田正馬の生家を訪ねて、フランス人たちが行く( 続編)

2018/06/14


フランス人が部分撮影した絵金の屏風絵



 

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1. フランス人たちの冒険
   去る4月下旬、海の向こうからはるばると、森田正馬の生家を訪ねて、フランス人3人がやって来ました。四国へ、高知へ、そして野市へと、見知らぬ土地を動きまわって、よくぞ自力で野市入りしたものです。そんな無謀旅行を終えて、三人は帰国しました。
   今回ここに書き足しますのは、前回に書き落とした彼らの冒険旅行の成果の一部です。
   旅行中に撮りまくった写真を受け取った私は、生家保存会の事務局長の池本耕三様に鑑定して頂いたのでした。結果をばらしてしまえば、他の家を森田の生家と間違えたのでしたが、それはご愛嬌。その家も誰かの生家でしょう。野市まで来た三人は、この辺りを片っ端からうろつきまわった模様で、何枚も撮影した写真の中には、いくつも面白いものが映っていました。
   森田の生家から移転した新しい森田村塾や、かの地獄絵で知られる金剛寺、そして地獄絵との関わりがあるかもしれない絵金の、絵金蔵も訪れていたのです。


森田村塾。文字を読めないフランス人が撮影したポスト。


 

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2. 森田村塾
   森田村塾は、森田の生家を管理している香南市が、生家の建物を生かして開いた不登校の子どもたち向けの塾でした。しかし生家の建物の老朽化(耐震性に問題)のため、閉鎖して、市が最近、県道の反対側に新たに「教育支援センター森田村塾」(適応指導教室)を再開したものです。


森田村塾の玄関らしい。


 

森田村塾の遊び場。


 

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3. 金剛寺
   これも県道を挟んで生家の反対側の、比較的近い距離にある。「頌徳 森田正馬博士」という文字が刻まれた記念碑の横を入って行くと金剛寺がある。真言宗の寺院で、幼い森田がここで地獄絵を見て、死後の世界への恐怖を植え付けられたというエピソードでよく知られている。


上掲の写真の左上の部分の拡大したもの。菩薩像が見える。


 

写真の右上の部分を拡大したもの。赤い幟に、裏から読む「菩薩」らしき文字が見える。


 

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   森田正馬は、幼児期にこのお寺にあったおどろおどろしい地獄絵を見て、恐怖におののき、それが脳裏から離れず、長じても死の恐怖となったのでした。そのことは、森田自身が『神経質ノ本態及療法』の「附録」に記しているので、その一部を引用しておく。
 
   「或時、村の真言宗の寺、金剛寺の持佛堂で、地獄の絵の双幅を見た事がある。
三尺に六尺許りの画面である。極彩色の密画で、血の池、針の山、燒熱地獄の有様が画かれてある。堂内には、抹香で薰ぜられた一種異様の臭ひが漲つて居る。其絵と此臭ひとの複合した一種いふべからざる身の毛もよだつやうな恐ろしさは、今にも明かに其時の光景を眼前に彷彿させる事が出来る。
   此時以来、余は屡々死の恐怖に襲はれた。夜暗くして獨り寝に就く時などには、人が死ぬれば、親兄弟や自分の欲しいものなど、皆自分の思ふ通りにはならないで、心は空に迷ふものであらうか、或は何時までも永続して、限りなき夢のやうなものでもあらうか、など様々に思ひ悩みて、屡々悪夢に襲はれる事があつた。」
 
   金剛寺はその後改築されており、森田が見たという地獄絵は残っていません。したがって、誰が描いたどんな画風の地獄絵であったかは、知るよしもありません。しかし、野市からさほど遠くない赤岡町に、独特の色彩で妖しい絵を描いた狩野派の絵師がいました。絵金、すなわち絵師の金蔵です。金剛寺にあった地獄絵を描いたのは、絵金であった可能性は残っていますが、その根拠は見いだせないままです。


絵金蔵でフランス人、Blad BURKEY氏が撮影。絵金の屏風絵の部分を撮影したものです。(掲載責任者は岡本)



 

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4.地獄絵と絵金
   絵金(えきん)と呼ばれた絵師、金蔵は、独特の画風で知られた、幕末の異端の絵師でした。高知に生まれ、幼少より画才に長け、狩野派の絵師に師事して、その画風を学びます。山内藩の家老のお抱え絵師となりますが、狩野探幽の贋作を描いたとの汚名を着せられ、高知を追われます。空白の時期を経て、やがて彼は赤岡に戻り、酒蔵にこもって、屏風絵を描きました。武者絵や芝居の役者絵を主とし、真っ赤な鮮血とともに妖しく描いたその独特の画風は、異彩を放つものでした。金剛寺にあった地獄絵が彼の作ではなかったかと思われても、おかしくはありません。
   赤岡町には、絵金の描いた屏風を収蔵している「絵金蔵」があります。フランス人たちは、そこも訪れていました。その絵に無性に惹かれたと言います。精神科女医さんのご主人が撮った写真を何枚か送信してもらいました。屏風に描かれた人物を、ひとりひとりに絞って撮影しています。撮影の仕方が、独特な写真作品になっていますので、ここに掲げることを許していただきたいと思います。撮影者、Vlad BURKEY 氏は音楽家ですが、写真に関しても素人とは思えません。


絵金の屏風画の部分(フランス人のVlad BURKEY氏撮影)


 

同上


 

同上


 

同上


 

同上


 

同上


 

同上


 

同上


 

同上


 

同上


 

同上


 

同上


 

同上


 

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大阪の「かに道楽梅田店」にて(5月3日)。中央にNyl ERB 女史(精神分析家)、右にMuriel FALK-VAIRANT医師。撮影してくれたのが、VAIRANT医師の夫君のVlad BURKEY氏で、この人自身は映っていない。


 

同様の写真


森田正馬の生家を訪ねて、フランス人たちが行く。

2018/06/11



記事内の写真の説明
大阪の「かに道楽梅田店」にて、Nyl ERB女史と。(2018年5月3日)。女史の仲間の
Muriel Falk-Vairant医師(精神科女医)とそのご主人(音楽家)も一緒だった。

 

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   フランス語圏国際PSYCAUSE学会と交流を続けています。
   森田正馬没後80年の今年、7月15日に高知の野市町の生家の近くでの墓前祭などの行事が開催されることを、昨年来一応ニュースとして、PSYCAUSE側に伝えていました。もし、7月のその行事に外国人が参加するならしてもよいが、外国人を受け入れるような特別な準備がなされているわけではありませんと、予防線も張ってきました。
   ところが、日本愛に燃えるユニークな人もいるものです。ラカン派の精神分析家のニル・エルブ女史ときたら、今じゃ森田いのち。いても立ってもいられないのです。7月まで待てない。知人の女性精神科医とその旦那さんを誘って、3人で去る4月下旬から5月上旬まで、日本にやって来て、高知を中心に四国旅行をなさいました。
   もちろんお目当ては、森田正馬の生家とお墓です。確かに生と死は重要なことですから。7月の生家訪問や墓前祭に先駆けて、はるばるフランスから来てくれた人たちがいたことに、森田先生は草葉の陰できっとお喜びで、ニッコニコ。異界で笑顔恐怖の再発に悩んでおられるかもしれません。
   この人たちは、知らない四国をどうやって旅行するのかと、私はしきりに心配してあげたのでしたが、なんと精神科女医さんのご主人が、レンタカーを運転して、四国の田舎も山中もなんのその、ナビを見ながら見知らぬ土地を走り回ったというのでした。
   彼らが本当に森田の生家とお墓に到達したか。野市町を訪れて探しまわり、彼らが撮影した何枚もの写真を、私は記念行事の事務局長の池本耕三様に送信して、鑑定して頂いたのでした。その結果は言いますまい。まあいい線いっておりましたが。
   彼らは四国旅行を終えて、5月初めに最後の滞在地の大阪にやって来ました。5月3日に私は大阪に会いに行きました。彼らは梅田の曽根崎のOSホテルに宿泊していたので、容易に会うことができ、久闊を叙しながら、お初天神通りをぶらついて、「かに道楽」の梅田店に入って夕食を共にしました。連休の梅田の繁華街は人また人。お初天神の境内に入ると人はまばらです。どうしてこんな繁華街に神社ができたのかと、彼らは驚いています。繁華街が神社のそばにできたという見方ができないフランス人です。
   ニル・エルブ女史らは、フランスに帰国してから、高知探検談をPSYCAUSEのボスのボシュア博士に報告したようで、それをPSYCAUSEのホームページに記事として掲載すべく、その書き方について、ボシュア博士から私に相談がありました。しかし、結局彼らの森田生家とお墓の訪問の首尾については、読者に想像を逞しくしてもらうような書き方になりました。
   ボシュア博士の記事の文章とて、これも歯が浮くような書きっぷりです。恥ずかしいのは私ですが、フランス語を読まれる方は、下のリンクよりお読み下さい。これが、森田療法における日仏交流の、ひとつの見本なのです。
   誤解を避けるために、このような見本がすべてではないことを、強調しておきたいと思います。
   それにしても、こんな見本のパターンから窺える、日本愛、森田愛とは何なのしょうか。フランス人精神分析家たちは、自分たちを分析すべきです。
http://www.psycause.info/rencontre-a-osaka-avec-le-pr-shigeyoshi-okamoto-5-mai-2018/

「森田療法保存会」2018年総会・見学旅行参加記―高良武久の真鶴、森田正馬の熱海―

2018/06/07




 

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1.高良興生院・森田療法関連資料保存会
   「高良興生院・森田療法関連資料保存会」という重要な会がある。名称が長いので、略して「森田療法保存会」と言われたり、さらに通称として、「保存会」と呼ばれたりする。高良武久先生と高良興生院に関わる資料の保存に始まって、森田療法関連資料の保存や、森田療法に関する勉強などの集まりの開催もおこなっている会である。新宿区の旧高良興生院の建物の中に、会の本部がある。会員は関東在住者に限定されてはいず、九州にも会員になった人がいると聞いたのがきっかけで、私も数年前に入会させてもらった。この会には、高良先生が健在だった頃の高良興生院での勤務歴をお持ちの、ベテランの先生方が中心にいて下さり、また会の特徴として、組織がゆるやかで、外部との間に垣根がまったくない自由な雰囲気があるのがよい。
   去る5月27日、本会の2018年度の総会兼見学会に参加させてもらった。毎年この時期に総会が開かれるが、隔年に東京から日帰りのできる距離内の森田療法ゆかりの場所を訪ねて、そこで見学と総会が同時開催されているのである。今年は、真鶴半島にある高良武久先生の元別荘、さらに熱海の森田旅館跡地とその近くで森田の縁戚の方が開いておられる喫茶「M&M」を訪ねるという、総会を兼ねた一日旅行がおこなわれた。
 


高良先生の元別荘内の広間での、「保存会」の総会の風景(1)



 

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2. 真鶴にある高良武久先生の元別荘
   真鶴という小さな半島には、一度行ってみたいと思っていた。しかし想像するイメージと実際とは違う。移動する交通手段は車しかないのだが、小さな半島なので、道路まで狭い。高良邸は、半島の高台を登りつめて、そこから急斜面を少し下ったところにあった。傾斜地の上方に、贅を尽くした大きな建物が建てられている。ここに到着するのに、坂道を登ったり下ったり。その内部の大広間で、「保存会」の総会が開かれた。

 


同じく、「保存会」の総会の風景(2)



 
   大広間は、参加した十数人が一緒にゆったりと過ごせる、贅沢な空間である。部屋は海の方に向かって開放されている―、のだが、外には樹海のような木々があって、視界を遮っていて、海は見えない。この建物の管理をしている方が説明して下さったことには、屋外の樹木を伐採して、その始末をするのが何とも大変で、かなりの手前と費用を要したという。総会議事より(失礼)、説得力のある話であった。現在、伐採はされていないらしく、樹木は勢いよく天に向かって伸びている。それが自然の力というものである。高良先生は別荘として、どうしてこのような所を選ばれたのであろう、とつい思ってしまった。鹿児島出身の高良先生は、太平洋の海が恋しかったのであろうか。
 

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3. 熱海の森田旅館の跡地へ
   真鶴半島は平坦な地ではなかったが、熱海はまた、坂道の街である。高台と海岸の間の斜面に、起伏した街並みがある。そんな熱海の風情から、アルジェリアのカスバが彷彿とする。ジャン・ギャバンが主演した古いフランス映画、「望郷(ぺぺルモコ)」の、あのカスバである。
   しかし、実際には、坂道ばかりの街を徒歩で散策するのは、いささかとほほなのだ。森田正馬先生は、昭和8年に伊勢屋旅館を買い取って森田旅館にしたが、既に晩年に近かった。しかも宿痾を抱えている身としては、森田旅館にたどり着くのも楽ではなかったろうと思う。
 


熱海地図



 
   今回の「保存会」の見学は、主に吉田恵子様が企画して下さった。上に掲げた図は、吉田様から頂いた地図を拡大したものだが、そこに示したように(地図の下方)、森田旅館跡は海岸に近いところにある。現在は旅館跡は駐車場になっている。かつてはこの旅館の位置は市街地の端にあたり、海岸に面していたそうである。この旅館跡の前の道路よりも海寄りの地域の街は、後年にできたものである。
 

喫茶「M&M」を訪れたが、この写真は帰るところ。



 
4.熱海の喫茶「M&M」
   海岸近くに新たにできたその市街区域内で、森田旅館跡の前方(地図のさらに下方)に、「M&M」という喫茶がある。その喫茶のご主人は、森田正馬の縁戚(吉田恵子様によれば、正馬の甥孫)にあたる森田幹夫様である。
ご主人が、古いアルバムや森田正馬直筆の色紙、野村章恒直筆の色紙などを見せて下さった。
森田正馬筆の色紙は、写真に撮らせて頂いた。冒頭に掲げたものがそれで、「職業によって人の品性を定むるに非ず 従事する人の品性によって其職業の尊卑を生ず 形外」とある。年月は記されていない。同様のことを書いた色紙が知られており、それには昭和十年十一月と記されている。
 

森田旅館前での集合写真(昭和50年代のものらしい)。右上方に、「森田館」の文字が読める。中央左に長谷川洋三先生、中央右に永杉喜輔先生、後列に野村章恒先生とおぼしき人がおられる。


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   森田幹夫様が見せて下さった写真の中に、重要な人たちが映っている集合写真があった。上掲のものがそれである。鮮明ではないその写真を、さらに撮影した写真なので、残念ながら不鮮明だが、「森田館」の玄関前で撮影されたもので、昭和50年代のものらしい。長谷川洋三、永杉喜輔、そして野村章恒(推定)の各先生方の顔が見える。ほかにも重要な方がおられるかもしれない。
   一見して印象的なのは、熱海の「森田館」で、このような顔ぶれの中に永杉喜輔がいることである。水谷啓二没後において、永杉が森田療法の要人たちとなお交わり、「森田館」を訪れていた足跡に、喫茶「M&M」で期せずして遭遇した。私にとって新鮮な発見であった。永杉と長谷川との交流は、浅からぬものだったことを示す一枚の写真であった。
 
   この日の夜は、このカフェ「M&M」のすぐ近くの海岸で花火大会があり、夕方花火の音が鳴り始めていたが、後ろ髪を引かれながら、帰路についた。