「森田療法保存会」2018年総会・見学旅行参加記―高良武久の真鶴、森田正馬の熱海―

2018/06/07




 

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1.高良興生院・森田療法関連資料保存会
   「高良興生院・森田療法関連資料保存会」という重要な会がある。名称が長いので、略して「森田療法保存会」と言われたり、さらに通称として、「保存会」と呼ばれたりする。高良武久先生と高良興生院に関わる資料の保存に始まって、森田療法関連資料の保存や、森田療法に関する勉強などの集まりの開催もおこなっている会である。新宿区の旧高良興生院の建物の中に、会の本部がある。会員は関東在住者に限定されてはいず、九州にも会員になった人がいると聞いたのがきっかけで、私も数年前に入会させてもらった。この会には、高良先生が健在だった頃の高良興生院での勤務歴をお持ちの、ベテランの先生方が中心にいて下さり、また会の特徴として、組織がゆるやかで、外部との間に垣根がまったくない自由な雰囲気があるのがよい。
   去る5月27日、本会の2018年度の総会兼見学会に参加させてもらった。毎年この時期に総会が開かれるが、隔年に東京から日帰りのできる距離内の森田療法ゆかりの場所を訪ねて、そこで見学と総会が同時開催されているのである。今年は、真鶴半島にある高良武久先生の元別荘、さらに熱海の森田旅館跡地とその近くで森田の縁戚の方が開いておられる喫茶「M&M」を訪ねるという、総会を兼ねた一日旅行がおこなわれた。
 


高良先生の元別荘内の広間での、「保存会」の総会の風景(1)



 

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2. 真鶴にある高良武久先生の元別荘
   真鶴という小さな半島には、一度行ってみたいと思っていた。しかし想像するイメージと実際とは違う。移動する交通手段は車しかないのだが、小さな半島なので、道路まで狭い。高良邸は、半島の高台を登りつめて、そこから急斜面を少し下ったところにあった。傾斜地の上方に、贅を尽くした大きな建物が建てられている。ここに到着するのに、坂道を登ったり下ったり。その内部の大広間で、「保存会」の総会が開かれた。

 


同じく、「保存会」の総会の風景(2)



 
   大広間は、参加した十数人が一緒にゆったりと過ごせる、贅沢な空間である。部屋は海の方に向かって開放されている―、のだが、外には樹海のような木々があって、視界を遮っていて、海は見えない。この建物の管理をしている方が説明して下さったことには、屋外の樹木を伐採して、その始末をするのが何とも大変で、かなりの手前と費用を要したという。総会議事より(失礼)、説得力のある話であった。現在、伐採はされていないらしく、樹木は勢いよく天に向かって伸びている。それが自然の力というものである。高良先生は別荘として、どうしてこのような所を選ばれたのであろう、とつい思ってしまった。鹿児島出身の高良先生は、太平洋の海が恋しかったのであろうか。
 

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3. 熱海の森田旅館の跡地へ
   真鶴半島は平坦な地ではなかったが、熱海はまた、坂道の街である。高台と海岸の間の斜面に、起伏した街並みがある。そんな熱海の風情から、アルジェリアのカスバが彷彿とする。ジャン・ギャバンが主演した古いフランス映画、「望郷(ぺぺルモコ)」の、あのカスバである。
   しかし、実際には、坂道ばかりの街を徒歩で散策するのは、いささかとほほなのだ。森田正馬先生は、昭和8年に伊勢屋旅館を買い取って森田旅館にしたが、既に晩年に近かった。しかも宿痾を抱えている身としては、森田旅館にたどり着くのも楽ではなかったろうと思う。
 


熱海地図



 
   今回の「保存会」の見学は、主に吉田恵子様が企画して下さった。上に掲げた図は、吉田様から頂いた地図を拡大したものだが、そこに示したように(地図の下方)、森田旅館跡は海岸に近いところにある。現在は旅館跡は駐車場になっている。かつてはこの旅館の位置は市街地の端にあたり、海岸に面していたそうである。この旅館跡の前の道路よりも海寄りの地域の街は、後年にできたものである。
 

喫茶「M&M」を訪れたが、この写真は帰るところ。



 
4.熱海の喫茶「M&M」
   海岸近くに新たにできたその市街区域内で、森田旅館跡の前方(地図のさらに下方)に、「M&M」という喫茶がある。その喫茶のご主人は、森田正馬の縁戚(吉田恵子様によれば、正馬の甥孫)にあたる森田幹夫様である。
ご主人が、古いアルバムや森田正馬直筆の色紙、野村章恒直筆の色紙などを見せて下さった。
森田正馬筆の色紙は、写真に撮らせて頂いた。冒頭に掲げたものがそれで、「職業によって人の品性を定むるに非ず 従事する人の品性によって其職業の尊卑を生ず 形外」とある。年月は記されていない。同様のことを書いた色紙が知られており、それには昭和十年十一月と記されている。
 

森田旅館前での集合写真(昭和50年代のものらしい)。右上方に、「森田館」の文字が読める。中央左に長谷川洋三先生、中央右に永杉喜輔先生、後列に野村章恒先生とおぼしき人がおられる。


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   森田幹夫様が見せて下さった写真の中に、重要な人たちが映っている集合写真があった。上掲のものがそれである。鮮明ではないその写真を、さらに撮影した写真なので、残念ながら不鮮明だが、「森田館」の玄関前で撮影されたもので、昭和50年代のものらしい。長谷川洋三、永杉喜輔、そして野村章恒(推定)の各先生方の顔が見える。ほかにも重要な方がおられるかもしれない。
   一見して印象的なのは、熱海の「森田館」で、このような顔ぶれの中に永杉喜輔がいることである。水谷啓二没後において、永杉が森田療法の要人たちとなお交わり、「森田館」を訪れていた足跡に、喫茶「M&M」で期せずして遭遇した。私にとって新鮮な発見であった。永杉と長谷川との交流は、浅からぬものだったことを示す一枚の写真であった。
 
   この日の夜は、このカフェ「M&M」のすぐ近くの海岸で花火大会があり、夕方花火の音が鳴り始めていたが、後ろ髪を引かれながら、帰路についた。