擇木道場を訪ねて―森田正馬が参禅した「両忘会」と釈宗活老師のこと―

2017/07/30


擇木道場の玄関


 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 

1. 森田正馬の参禅
   森田正馬は、形外会の席で、自分の禅体験を述べている。
  「釈宗活師の提唱を聴き、また参禅もした。そのときに『父母未生以前、自己本来の面目如何』という公案をもらった。三度参禅したけれども、公案を通過することができなかった」、「ただ物好きの野次馬にやっただけの事である」などと言っているのである。しかも、このような挫折体験のために、「私は禅のことは知らない」とか、自分の療法は「全く禅とは関係がない」と言い出す始末となった。
   森田の参禅については、彼の時代に文化人はよく鎌倉の円覚寺の釈宗演のもとに参禅したので、釈宗活という名が釈宗演と混同されて、結局森田の参禅についての正確な事実は、今日までほとんど不明のままであった。しかし、森田の日記を見ても、明治43年に谷中初音町の「両忘会」の釈宗活老師に参禅したと、明記されている。そこまでは疑いを入れないことである。
   では、森田が通った「両忘会」とは、どんな禅道場だったのか、そして釈宗活老師とはどんな人物だったのであろうか。
   昨年12月から今年の2月頃まで、森田の参禅体験の事実を明らかにするべく、調べを続けながら、判明したことを順を追って、詳細なレポートを本欄に連載し続けた。
   調べる中で、かつて釈宗活老師を師家と仰いでいた「両忘会」の流れがあり、それを受け継いでいる「擇木(たくぼく)道場」が、谷中7丁目に現存することを知った。しかし「両忘会」や釈宗活老師について不明な点があり、その道場に連絡を取って質問を向け、責任者の師家、杉山呼龍先生から回答を頂いた。
   しかし、そのときは通信によるやり取りのみで、擇木道場をお訪ねできずにいたのだった。遅ればせながらその失礼を謝し、また「両忘会」の歴史や釈宗活老師の人物像について、さらに教えて頂ければと、去る6月下旬に擇木道場をお訪ねした。
   先の連載の際に既に明らかにできたことは、本稿では重複を避け、新たに教えて頂いたことや、擇木道場を初めて訪問した体験を、少し記しておきたい。


擇木道場の玄関前で、師家の杉山呼龍先生と



 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 

2. 両忘会、擇木道場、そして人間禅へ
   擇木道場は、山手線の日暮里駅の最寄りで、谷中の墓地と天王寺という天台宗の寺院との間に位置している。
   道場をお訪ねしたら、師家の杉山呼龍先生が快くお迎えくださった。この杉山先生と対座してお話しを伺うことができ、両忘会の歴史や釈宗活老師のことについて、種々教えて頂いた。
   明治43年に森田正馬が、師家の釈宗活老師のもとに参禅した「両忘会」は、谷中初音町(旧町名)にあった。しかし大正3年に谷中天王寺町(旧町名)に新築の建物を得て、「両忘会」はここに移転した。そして道場名を擇木(たくぼく)道場と称するようになった。それが現存するこの擇木道場の由来である。
   当時は、なお「両忘会」であったが、その後大正末に財団法人「両忘協会」、また昭和12年には宗教団体「両忘禅協会」と組織変えをして、本部は千葉県市川市の新道場に移された。これにより、擇木道場は学生の寮になっていた時期がある。昭和24年に千葉の組織は、宗教法人「人間禅」となって、全国に支部を増やし、在家禅の振興がはかられて、今日に至る。この在家者による「人間禅」が始められるまでは、釈宗活老師は千葉において、両忘禅協会の師家として参禅者の指導を続けておられた。
   擇木道場は、千葉の本部に「人間禅」が成立してから後に、「人間禅東京支部」を名乗ることとなった。ともあれ擇木道場は、かつて釈宗活老師によって長年にわたり在家者の禅指導が行われた由緒ある道場である。
   要するに、森田正馬が参禅した「両忘会」なるものは、在家禅(居士禅)として戦後に独立組織となった「人間禅」の前身で、禅の老師を指導者と仰ぎ、在家者たちが集って参禅していた、禅組織だったのである。
   最初期の「両忘会」は、山岡鉄舟、中江兆民らの有志により、寺院の殻を破り在家禅を振興しようと、明治8年に湯島の麟祥院で、鎌倉から今川洪川老師を招いて、禅を学ぶ会が開かれたのだった。しかし、洪川が辞したために会は途絶えていた。
   その後、釈宗演の命により、釈宗活が明治34年に「両忘会」を再興したのである。その頃の道場は、借家を利用して、根岸、日暮里、谷中を点々と移転したようだった。先立っての本欄の連載に記したが、森田正馬が参禅した明治43年の時点の「両忘会」の場所は、谷中初音町(旧町名)二丁目であったと推測された。だが、その環境はよくわからない。森田が「両忘会」の場をどのように捉えていたか、また釈宗活老師にどのような印象を抱いたのか。自身にとって重要な体験だったに違いないのに、公案を透過しなかったことだけをポツリと言い、「両忘会」や釈宗活老師との出会いの体験について何も述べていないのは、なぜだろうか。そのへんに不思議なものが残る。


釈宗活老師(著書『悟道の妙味』の口絵写真)



 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 

3. 在家禅(居士禅)の指導者、釈宗活老師
   釈宗活の名は、釈宗演の陰に隠れて、あまり知られず、またしばしば混同されている。だが、その人柄と、人を引きつける禅の提唱、さらに絵画、鎌倉彫りの彫刻や三味線などの多彩な芸道に秀でていたことでも、玄人受けする人だったようである。若き日に宗活老師を慕って擇木道場に住み込んで座禅をしたという西山松之助氏は、自著に、浄土真宗の近角常観と禅の釈宗活は、明治・大正を代表する二大宗教家だと言われた、とまで書いている。
   夏目漱石は、円覚寺の釈宗演のもとに参禅した体験を、小説『門』にかなり詳しく書いている。宗活は宗演から塔頭の帰源院の監理を委ねられ、外部から参禅に来る人たちを宿泊させて、その世話にあたることになった。漱石の参禅はこの頃のことで、『門』では、宗活は宜道という名の若い僧侶として描かれている。
  「紹介状を貰うときに東京で聞いたところによると、この宜道という坊さんは、大変性質のいい男で、今では修業も大分出来上がっているという話だった…」、
  「この矮小な若僧は、まだ出家をしない前、ただの俗人としてここへ修業に来た時、七日の間結跏したぎり少しも動かなかったのである。」、
  「この庵を預かるようになってから、もう二年になるが、まだ本式に床を延べて、楽に足を延ばして寝たことはないと言った。冬でも着物のまま壁にもたれて坐睡するだけだと言った。」
   一方、漱石の『談話』の中の「色気を去れよ」という題の話の中では、宗活の剽軽な面が語られている。
  「明治二十六年の猫も軒端に恋する春頃であった。私も色気が出て態々相州鎌倉の円覚寺まで出掛けたことがあるよ。(…)。
   如何なる機縁か、典座寮の宗活といふ僧と仲好しになって、老婆親切に色々教えて貰った。(…)。
   其の夜宗活さんが遊びに来て、面白いものを聞かしてくれた。白隠和尚の『大道ちょぼくれ』で、大に振っている。宗活さんは口を尖らしていふ。

〔中略〕(ママ)

   宗活さんは剽軽な坊さんだと思った。」
   さらに漱石は、参禅を回想し、「禅僧宗活に対す 一句」として、次の俳句をよんでいる。
  「其許は案山子に似たる和尚かな」
   意味を判じ難い句である。
   このような漱石の描写は、参禅体験者の目から見た釈宗活像である。
   かなり以前の、両忘禅協会の時代に、釈宗活老師が自叙伝を語られたことがあり、その記録が当時の会報に掲載された。間接資料でそれに接することができた。それによると、釈宗活は、東京麹町の開業医の四男として生まれた。本名は、入沢譲四郎であった。11歳のときに母が早逝したが、臨終のときに「よく聞けよ。母は御身の富貴栄達を望まぬ。心を磨け」と言い残した。引き続き翌年に父も他界した。以後、少年は母の遺言を守って、苦学し、ストイックに生きた。今北洪川について円覚寺に入り、出家したが、一生寺の住職にはならず、在家者に禅を伝えることをおのれの使命としたのだった。
   森田正馬はこのような禅僧との貴重な出会いに恵まれながら、参禅の途中で挫折してみずから去った。
   惜しむらくは、在家者の森田が、在家者への禅指導を一筋とする、願ってもない人、釈宗活老師に巡り会いながら、その縁に反して、この老師に師事できる貴重な機会を逸してしまったのである。
   ことによると、森田は後にそれを悔やんで臍を噛んだのではなかったろうか。だから、禅について自己を卑下する言葉が、口をついて出たのではなかったろうか。ちなみに森田は、後年に釈宗活老師の禅の著書を買って読んでいるのである。


擇木道場への方向を示す案内



 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 

4. 擇木道場の現在
   谷中界隈には、古い東京の風情が残っている。昇ったり降ったりと、坂が多い。山手と下町の重なりあった雰囲気がある。山岡鉄舟が開いた全生庵も谷中にあって、安倍総理が座禅をしに行くことでも知られている。天王寺には、幸田露伴の小説のモデルになった五重塔があったが、焼失してしまって今はない。江戸時代には、このお寺で、幕府公認の富籤の興行が行われていたらしい。
   さて、その天王寺のそばにある擇木道場にお邪魔した。大正4年に、両忘会のために道場を新築寄進されたものだが、老朽化により、平成になって建物は改築されたようである。
   道場の責任者の師家、杉山呼龍先生(仰月庵杉山呼龍老居士)は、温厚な御方であった。人間禅や擇木道場の沿革、釈宗活老師のことなど、親切に教えて下さった。道場内部も見学させて頂いた。寺院で感じる、あの独特の雰囲気がないのがいい。京都では、禅と言えば禅寺、そして禅寺と言えば、連想は座禅か観光かの二択となる。二択どころか、座禅と観光の両目的で、京都にやって来る人たちもいるから、かなわない。
   人間禅の擇木道場は、当然ながら禅寺の雰囲気に包まれていないし、観光とも無縁である。それだけで十分に無駄がなく、したがって禅の本質が問われることだろうと思う。日常生活との間に敷居のない、そんな禅道場を初めて見学させて頂くことができて、大変印象深かった。
   杉山呼龍先生のほかに、もうお一方、笠倉玉渓先生(慧日庵笠倉玉渓老禅子)にも、お目にかかることができた。禅の知識と経験に富んでおられる上、聡明で気品のある女性の指導者でいらっしゃる。笠倉先生は、人間禅の特命布教師に任命されて、各地で講演をなさっている。また、「禅フロンティア 日本文化研修道場」(本部は、擇木道場)の代表もつとめておられる。
   擇木道場では、摂心会をはじめ、座禅会、勉強会、講演会など、さまざまな行事が開催されている。音楽のライブと座禅が、コラボでおこなわれたこともある。
 「人間禅 擇木(たくぼく)道場」のホームページを開けば、さまざまな情報が満載されている。
 
   講演の動画も多い。
   2015年は、擇木道場創建100周年にあたり、記念勉強会として、笠倉先生や杉山先生がなさった講演を、今も動画で視聴することができる。
   杉山先生の講演は、在家禅の発生と歴史についての、貴重な研究的内容の講演である。
   笠倉先生の講演は、基調として、現代人の生活の中に禅をどう生かせばよいか、をわかりやすく語っておられるものである。森田療法家が学ぶべき語り口にて、つくづく教えられる。
 
   このような動画(いずれも Youtube)を、以下に列挙しておく。キーワードだけでも容易にアクセスできるので、是非視聴されたい。
 
1. 人間禅 擇木道場 100周年記念勉強会
  ・第1回 「大乗仏教とは何か?」
   講師 慧日庵笠倉玉渓老禅子
(2015年10月10日)
 
  ・第2回 「在家禅の発生」
   講師 仰月庵杉山呼龍老居士
(2015年11月21日)
 
2. 「心がブレない生き方と禅」シリーズ
  ・「心がブレない生き方と禅3~ストレス、負のスパイラルからの脱出~」
   講師 慧日庵笠倉玉渓老禅子
  (2017年4月5日)
               この講演のみリンクをつけておきます
               心がブレない生き方と禅3

 
   その他いくつも、役立つ動画がある。

 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 


後記:本稿は、2016年12月8日から2017年2月17日にかけてブログ欄に連載した記事、「森田正馬は鎌倉円覚寺に参禅したか」の続編である。また本稿の内容は、(第4章を除き)「研究ノート」に相当するので、「研究ノート」欄にも掲載する。これらの内容は別途に発表を予定しており、ここでは発表に先立ち、ルポルタージュ風に紹介した。

僧医、宇佐玄雄の禅的森田療法の講話について―〔若干の解説〕 ―

2017/07/24


猿沢の池と興福寺の五重塔


 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 

   残っていた宇佐玄雄の講話音声を、部分的に抜粋して、先に6月11日、7月8日、7月10日のブログ上で聴いて頂けるようにしました。森田正馬が改まって還暦記念講演をレコードに吹き込んだのと違って、日常の講話を録音したものなので、不自然さがありません。概してわかりやすく話しておられますが、早口で、一部には難解なことを言っておられますし、説明不足だと思われる箇所もあります。そこで内容や用語などについて、解説的に若干の説明を加えておきます。

 

   ♥      ♥      ♥   

 

   抜粋の小見出しでいうと、まず「あるがまま」は森田療法の基本的な教えであり、「そのまま前進」、「煩悩即菩提」のあたりは禅的立場からの指導で、森田正馬も、自分の言葉で「煩悶即解脱」と言い換えて指導している通りです。

 

   ♥      ♥      ♥   

 

   「森田先生の教え」の箇所については、今日の治療者はこのようには言いにくいのが現実です。いわゆるパターナリズム(父権主義)的な療法の面が極端に出ていますから。森田先生は仏頂面をして話も聴いてくれない、と日記に書いた人に対して森田先生が言ったことについてのコメントがあります。これは「あるがまま」のはき違えを指摘していると同時に、あたかも禅における師弟関係のように、患者は治療者の権威に従わねばならぬと教えているように受け取れます。本来は、治療者から滲み出るものに対して、自然に敬意の念が湧くような関係ができるのが望ましいのではないでしょうか。パターナリズム的関係の遵守をこう単純に言語化している講話を聴くと、私(ども)としても隔世の感を覚えてしまいます。そうは言っても、パターナリズムを抜き去ったら、森田療法は骨抜きになってしまうと私は思っているものです。

 

   ♥      ♥      ♥   

 

   「健康について」や「植物神経」のところでは、体のどこかの不具合に注意を向けると、感覚が鋭化し、悪循環が起こってしまうという、いわゆる精神交互作用について述べています。

   他に健康に関しては、音声を抜粋できませんでしたが、“ A sound mind in a sound body “―「健全なる身体に健全なる精神宿る」と訳されている―の諺にふれておられる箇所がありました。そこでは、精神を健康にするためには、まず体を健康にしなければならないという論法で考えがちな誤りを指摘しています。この句は、元は古代ローマの詩人、ユウェナリウスが言ったもので、その原意は深いようです。まあ、それはともかく、玄雄先生は、sound という英単語を、healthy と無頓着に言っておられて、ご愛嬌です。先の植物神経の項の後半では、卑近な例を出しておられて、伊賀出身の忍たま先生の面目躍如としています。面白いので、聴衆はゲラゲラ笑っています。このような例を出されると、分かりやすいのでしょう。こちらは倫理コードを気にして、“(卑近な例も)”と書き加えていたのを一旦削除しました。しかし、多分大丈夫にて削除した言葉を戻します。

 

   ♥      ♥      ♥   

 

   「精神の対比現象」は、生と死、自と他、苦と楽などの分別のない一如の教えです。
   「カンチャクを嫌う」という言葉も話の端にあって、説明を要します。これは『信心銘』の冒頭にある次の文中の一部です。
   「至道難きこと無し、唯だ揀擇を嫌う」。ここに言う「揀擇」とは、より好みをすることで、読み方はいくつかあって、「ケンジャク」、あるいは「ケンタク」、あるいは「カンタク」と読まれます。玄雄先生は「カンタクを嫌う」と言ったのです。二分法でより好みをしてはいけない、という意味です。
   以上はすべて禅の本領であり、森田が「苦楽超然」と教えたことと同じです。

 

   ♥      ♥      ♥   

 

   「うつすとも水は思はず うつるとも月は思はず 猿沢の池」。
   この古歌は、柳生宗厳(石舟斎)が、一族に残した剣の極意歌だと言われています。猿沢の池は、奈良の興福寺のそばにあって、そこからさほど遠くない地に柳生の里があります。宮本武蔵を小説に描いた吉川英治氏も、この歌を愛でていました。
   一方、「猿沢の池」でなく「広沢の池」となっている歌もあり、それは剣豪、塚原卜伝が詠んだ歌と伝えられています。いずれにせよ、剣の極意としての無心の境地を教えているものです。柳生流と奈良の猿沢の池にしておく方が風流なようですが、そもそも無心とは、風流、無風流の域のものではありますまい。
   猿沢の池からの連想で、玄雄先生は、「手を叩く、云々」の歌も引用しておられます。間髪を入れずに、と教えていますが、少し説明を補います。
   「手を打てば はいと答える 鳥逃げる 鯉は集まる 猿沢の池」という古歌があるのです。手を打って出す刺激音で、宿の女中さんはとっさに、はいと答えるし、鳥はたちどころに飛び立つし、魚は餌をもらえるかと集まってくるというのです。その心として、捉え方は相手によって千差万別であり、それぞれが思い思いに動くということを示しています。しかし玄雄先生は、この場合神経症者に対して、理屈抜きに即座に必要な行動をするようにと教えておられるのです。

 

   ♥      ♥      ♥   

 


晩年だろうと思われる。


 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 

   宇佐玄雄先生の言行のエピソードは、いろいろ知られていますが、不明な点も少なくありません。
   講話でこんなことを言っておられたという、指導の言葉はいくつか語り継がれていますが、たまたま録音された講話中に、それらが展開されているわけではありません。でも今回は、音声や語り口にふれてもらうのが趣旨でしたので、講話の解説はこれくらいにしておきます。
   これまで、こまごまと講話の音声をピックアップしてブログに上げました。通算すると30分くらいになるようです。
   ホームページのファイルの容量に左右されますが、講話の全体をアップロードすることができるかもしれませんし、またCDに落として個別にお渡しできるかもしれません。
   とりあえず、音声をピックアップしての提供とその解説は、これにて。

僧医、宇佐玄雄の禅的森田療法の講話音声(抜粋して公開) ( 3 )

2017/07/10


宇佐玄雄(晩年)


   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 

   3回目になりますが、引き続いて、また宇佐玄雄の禅的森田療法の講話音声を、抜粋してアップロードします。
   三聖病院の閉院時に見つけた講話の録音テープとそれをMDに移したものは、約2時間分の中身がありますが、よく聴いてみると、編集した形跡があります。複数(と言っても2つくらい)の録音音声を継ぎ足して収めたものだろうと思われるのです。したがって、全体としては、まとまりには欠ける印象のある音声資料です。
   また、入院患者さんたちの日記を材料に、公開の場でコメントをするような形で話を進めておられますが、基本的には聴衆全員に向けて語っておられるものです。ここまで、3回にわたって、講話音声の部分的な抜粋をアップロードしているのですが、特定の個人に向けて話しておられる箇所や、やや散漫、あるいは聞き取り難いような箇所を避けて、比較的重要な内容だと思われる箇所をピックアップしています。
   そろそろ、「さわり」の部分が少なくなってきましたが、今回、残っていた「さわり」を3カ所ほど、抜粋して集めましたので、聴いて下さい。
   初回から今回まで、断片的な抜粋部分を並べてきました。それらの順序は、大まかには録音の最初の方から順を追って抜粋しようとしました。しかし、抜粋作業が結構大変だったので、厳密には順序通りいかず、概して順不同になっています。

 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 

1. 精神の対比現象
 

 
 
2. 猿沢の池
 

 
 
3. 植物神経(卑近な例も)
 

 
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 



「うつすとも 水は思はず                
   うつるとも 月は思はず
                           猿沢の池」
                                    玄雄

僧医、宇佐玄雄の禅的森田療法の講話音声(抜粋して公開) ( 2 )

2017/07/08


鈴木大拙(左)と宇佐玄雄(中央)、その右には岡村美穂子
(昭和30年、大谷大学にて)
写真は講話と関係ありませんが、宇佐玄雄(晩年)の風貌を見て下さい



 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
   前回(6月11日)に続いて、宇佐玄雄の講話の録音音声の、他の部分を抜粋してアップロードします。講話は入院患者の日記へのコメントの部分が多いのですが、聴衆全員に向けて述べている、より普遍的な内容の部分をなるべく拾ってみました。中には、今日からすれば不適切な言葉遣いも出てきますが、資料としての特殊性にかんがみ、そのままにしています。

 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 

   以下、各部分に、内容を表す仮の簡単な見出しをつけておきます。
 
1. 森田先生の教えについて
 

 
 
2. 健康とは
 

 
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 


来訪した外国人客に療法を説く宇佐玄雄(左側は通訳官)