森田療法と社会教育をめぐる精神的風土 ― 「いごっそう」、「もっこす」、「葉隠(いひゅうもん)」 ―

2017/08/29


高松光彦著『九州の精神的風土』葦書房、平成4年刊


 

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   森田正馬が、自分の療法は人間の再教育であると言い、療法の教育的な面を重んじていたことはよく知られている。森田はモンテッソーリの幼児教育や、藤村トヨ女史が行っていた体育など、教育に広く関心を寄せていたのであった。そして何よりも自宅に患者を入院させて、本物の夫婦喧嘩まで公開しながら、自分たちの家庭を教育の場として、実際に即した指導をおこなった。このような家庭教育的な療法を身をもって体験し、それを継承していた水谷啓二の森田療法と、下村湖人や永杉喜輔の社会教育が合流することになる。家庭教育と社会教育は、別物ではない。これらが相互補完的になって教育が充実する。
 

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   そこで、唐突かもしれないが、高知出身の森田正馬が創案した療法と、下村、永杉ら、九州の五高出身者たちに発した社会教育の流れとの関係を、精神的風土の面から考えてみる。水谷啓二の著書、『あるがままに生きる』(昭和46年刊)の中に「もっこすといごっそ」という見出しの注目すべき一文があるので、それを取り上げておきたい。
   水谷は、高知県在住の精神科医、沢田淳氏から『いごっそう考』という本を贈られたので、読んでみて、興味深く感じたというのである。沢田淳という人は、慈恵医大卒の精神科医で、高良武久教授の弟子にあたり、郷里の高知県に帰って、浪越診療所で森田療法の開業をしていた人物である。森田正馬は高知県出身だったし、水谷啓二は熊本県の出身者だった。だから森田は「いごっそう」で、水谷は「もっこす」であったと即断するのはさておいて、水谷は沢田の著書に対して、感想を述べているので、次にそれを要約して紹介する。
   ―― 沢田氏は言っている。〈いごっそう〉は明朗闊達であるが、ときに重大事に出くわせば、他人の毀誉褒貶に重きを置かず、不変の信念をもって、正義に向かってまっしぐらに生命をかける、と。そのように、むしろへそ曲がりとも言えるほどの頑固さで、自分の信念を貫こうとするところは、肥後のもっこすも同じではないだろうか。それが極端になれば、〈偏屈〉となって厄介視されるけれども、豊かな人間味と高い知性とに裏づけられていれば、不撓不屈の精神をもって、創造的な事業を成し遂げてゆく底力ともなるであろう。現代の文化の中に感じられる欺瞞性を看破して、日本古来の純粋な精神に根ざした、新しい創造的な文化を開拓していくのは、「もっこす」的あるいは「いごっそう」的な人たちではあるまいか。――
   以上が、水谷啓二自身の感想の概要である。ちなみに著書『あるがままに生きる』は、昭和45年に急逝するまで、水谷が熊本日日新聞に「宗教随想」として連載していた原稿が集められ、病没の翌46年に出版されたものである。八面六臂の活躍をしながら、森田の生活道をまっしぐらに生きて逝った水谷氏自身、氏の一文に照らせば、よき「もっこす」だったと言えるであろう。
 

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   それにしても、人はさまざまであり、伝説的な県民性で安易に人を見るのは慎まねばならないのだが、精神的風土によって形成される人の気風の特色は、なきにしもあらずであると思う。
   水谷と五高での同級生で、下村湖人に師事して、社会教育に貢献した永杉喜輔(群馬大学教授、のちに名誉教授)もまた、熊本県出身者である。永杉は京大の哲学科に学んで、観念的な哲学用語を振り回していた青年だったが、卒業後、小金井の浴恩館で、五高の先輩であった下村が主宰する青年団の講習生活に加わり、便所掃除をしている下村の姿を見て、開眼したのだった。以後、あまり日の当たらない社会教育の道を、熱意を持って駆け続けたのである。永杉も「もっこす」と称されてよい人物であった。
 

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   ところで、下村湖人は九州男児であるが、熊本ではなく佐賀県の出身である。もともと彼は、文学肌でロマンチストの若者であった。中学生のときに、既に中央で頭角を表し、その名を世に知られていた天才詩人であった。しかし早熟な下村の神経は繊細であった。孤独な思索の中に入りがちな彼であったが、五高時代に同じ佐賀県人である2人のよき友人に恵まれた。彼らとの心の交流によって、高校時代の下村は人間的に成長していった。

   ひとりは、佐賀中学で同窓だった高田保馬である。高田は、後に京大に進み社会学を専攻して京大教授(のちに名誉教授)になった人物である。五高時代の下村にとって、高田は胸襟を開いて付き合うことのできた無二の親友であった。二人は、共に校友会誌「龍南」の編集委員になり、また寮では同室であった。二人は、時には同じ布団にくるまって寝た。しかし、高田はやがて病気で休学したので、生活を共にすることはできなくなる。それでも二人の友情は長く続き、互いに生涯を通じての友となった。小金井市の(旧)浴恩館には、青年団講習所所長時代に高田が訪れて、両人が一緒におさまった写真が残されている。
 

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   もうひとりの友人は、これまた佐賀県出身の田澤義鋪(よしはる)である。田澤は、下村より先に五高に入学した一年上の先輩であったが、ボート部の選手で、学校の禁酒令を破って酒を飲み、退学となった。その後復学を認められ、一学年遅れて下村と同学年となったために、以後身近な関係になったのである。文武両道に長け、正義感が強くて豪胆な田澤に、自分にないものを見て下村は心酔した。田澤も、詩人としての下村の天賦の才と、葉隠のように秘めたその武士的な気質に敬意を払っていた。田澤は東大の法科に進み、卒業後に官吏になるが、官界の枠にはまらず、国内の青年たちに対する教育の必要性を感じ、青年団運動の指導者となった。下村は同じく東大を出たが、一旦郷里の佐賀県や台湾での教員生活を経験してから、田澤の世話で青年団講習所の所長を引き受けることになった。こうして田澤と下村の二人は、五高以来の歳月を経て、志を共有し、青年たちへの社会教育を共に推進することなった。
   田澤から受けた鼓吹なくして、下村の人生を賭けた社会教育活動はなかったであろう。葉隠のように、耐え忍んで活動する武士道的な気質は、下村において顕著であった。一方、剛毅で、尚武の気性に富む田澤もまた武士のようであったが、彼の剛毅な気質は、肥後「もっこす」にも通じるものであったと言えよう。
 

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   肥前(佐賀)の気風は俗には「いひゅうもん(異風者)」と言い、尚武の気性を有し、剛毅朴訥、一徹で、角が立ち、融通がきかず、協調性に欠け、保守的などの気質特徴を指すらしい(高松光彦『九州の精神的風土』より)。「いごっそう」や「もっこす」と反対であるような印象を受けるけれども、同じものを裏面から見た特徴のようでもある。
   ともあれ、「いごっそう」、「もっこす」、そして「葉隠の精神、もしくは、いひゅうもん」は、根底にある共通する気風の上に、若干のスペクトラムの差を見ているのではなかろうか。
   日本の社会教育を開拓した人材が、こぞって熊本五高から輩出しているので、その背景にあるかもしれない九州人の精神的気質について、少し考えてみた。五高が生んだ社会教育者たち、田澤義鋪、下村湖人、永杉喜輔、さらに水谷啓二といった人物の列伝については、改めて触れたい。
 

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沢田淳著『いごっそう考』高知新聞社、昭和43年


下村湖人の『次郎物語』と森田療法の接点 ―浴恩館を訪ねて―

2017/08/14


小金井市の(旧)浴恩館の建物と、下村湖人。


 

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   森田正馬は、昭和13年に60歳過ぎで没している。下村湖人は、ちょうどその頃、昭和8年から昭和12年までの間、武蔵小金井の「浴恩館」(日本青年館の分館)に付設された「青年団講習所」の所長として、集団合宿に集まった青年たちと起居を共にしていたのだった。その塾風生活における指導は、あたかも入院森田療法のようである。しかし森田と下村との間に交流があったわけではない。
   下村は森田と同じく熊本五高の出身者である。森田より10歳年下で、五高は森田の8年後に卒業して、東大英文科に進んでいる。
   二人の間に出会いが起こることはなかったが、下村の社会教育の活動は、弟子の永杉喜輔を通じて、やがて水谷啓二の森田療法に合流することになる。永杉と水谷は熊本五高の同級生であった。永杉は五高から京大の哲学科に進んだ後、浴恩館における下村の青年団講習所に学び、以後下村に師事し続けた。水谷は五高から東大の経済学部に入り、卒業後はジャーナリストになっていた。戦後に社会教育の立て直しを図ろうとする下村のもとにいた永杉は、かつての同級生の水谷と再会し、彼を下村に紹介した。こうして、下村が拓こうとする社会教育と、森田の生活道を追求していた水谷の活動が、軌を一にすることになるのである。


野口周一先生(左)と、浴恩館公園の入口で。


 

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   野口周一先生は、下村湖人や永杉喜輔らについての研究者であり、社会教育の実践者でもあるお方である。かつて下村が、戦後に創刊した社会教育のための雑誌、「新風土」は消滅し、行き着くところ、水谷啓二の雑誌「生活の発見」に、「新風土」の誓願を委ねるに至ったが、野口先生はその流れを追って、森田療法や「生活の発見会」に到達された。私はと言えば、森田療法における自助組織に関心を持って、「生活の発見会」のルーツを辿ったら、永杉喜輔に、そして下村湖人に遭遇することになった。こうして野口周一先生とのご縁ができたのである。
   去る6月の下旬、私は上京した折に小金井市の(旧)浴恩館を訪れた。関東在住の野口先生は、このとき親切にも、私の日程に合わせて浴恩館公園においでくださり、さらに公園の近くにお住まいになっている下村湖人の縁戚のお方をご紹介くださったのだった。縁戚のお方は、浴恩館公園美化サポーターとして、ボランティアで公園の美化に尽くしておられる中嶋直子様である。三人で公園に行き、野口先生と中嶋様に丁寧に説明していただきながら、(旧)浴恩館の館内や公園の敷地内を見学することができた。
   この浴恩館公園は、小金井市が所有しており、(旧)浴恩館の建物は、小金井市文化財センターになって、市内の考古資料などと共に、浴恩館だったときの資料や下村湖人に関するものが多く展示されている。青年団講習所で共同生活をしている青年たちの写真や、剣道の道場の写真も展示されていて、当時の研修生活が視覚的に伝わってくる。学術用に展示物の写真撮影を許可されたが、そのような写真は、残念ながらブログに出すことはできない。


空林荘跡


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   講師用宿舎として、空林荘という、こじんまりした瀟洒な建物があった。下村湖人がここに住まい、『次郎物語』の執筆の想を練り、第一部を書いた場所である。
   空林荘は、貴重な建物として、市の史跡に指定されていたが、平成25年3月に焼失した。
 


空林荘の解説看板



   空林荘の解説看板に記されている文章を、そのまま以下に転記しておく。
 

市史跡 空林荘

   この空林荘は、全国の青年団活動の中心であった財団法人日本青年館が、昭和5年にその分館として浴恩館(青年団講習所)を開設したとき、講師の宿舎として建てられたものです。
   青年教育の実践家として知られる下村湖人(1884~1955)は、昭和8年から同12年まで講習所の所長を務めました。    空林荘は下村湖人が講習生と寝食を共にし、指導にあたったところです。
   そのころ、「次郎物語」の執筆を始めた湖人はここで構想を練り、次郎の少年時代を記述しました。昭和29年に発表された第5部に登場する友愛塾と空林庵は、浴恩館と空林荘をモデルにしたものです。
   なお、空林荘は貴重な文学遺跡として市史跡に指定されましたが、平成25年3月に焼失しました。

平成26年3月

小金井市教育委員会

 


下村湖人の直筆が刻まれた歌碑。


 

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   「大いなる 道といふもの 世にありと 思ふこころは いまだも消えず」

   歌碑には、下村の書いた字体が、そのまま拡大されて刻まれているようだが、判読するのが難しい。刻まれているのは、上記の歌である。
   下村は戦前とほとんど変わることのない「新風土」の誓願を掲げていた。その一部を拾えば―、「個性の自律的前進が、同時に調和と統一への前進であり、全一なるものの歓びであるように行動したい。」、「伝統にはぐくまれ、歴史を呼吸しつつ、しかも生生発展(…)、新しき歴史と伝統とを創造したい。」と謳われている。
   しかし、伝統の上に個人の自律を模索する誓願にのっとって発行した雑誌「新風土」は、戦後の社会にあまり受け入れられることなく、廃刊のやむなきに至った。永杉によれば、下村は「甘かった」と嘆息したと言う。
   それでも、浴恩館での塾風生活体験を描いた『次郎物語 第五部』が、昭和29年4月に出版の運びとなった。
   その秋、昭和29年10月3日、古希の誕生日に、下村は「大いなる道…」の歌を詠んで、新たな前進を自身に誓ったが、その肉体は既に病に蝕まれており、翌年4月に世を去ったのだった。