森田療法における自力と他力(Ⅲ)―倉田百三から他力を教えられた鈴木知準―

2019/11/23




 

承前

 
7. 倉田百三と会った17歳の鈴木知準
 鈴木知準は、十代で森田正馬の下に入院した経験を有し、以後森田に私淑し、医師となって鈴木診療所を開設して、入院森田療法を継承したことで知られる。
 鈴木の療法は、まさに森田のそれを祖述したものであったから、そこでの指導は、いきおい禅に通じる面があった。森田における禅とのかかわりは、臨済禅に限られていたが、鈴木は道元禅をも深く考究し、かつそれを療法に生かしたので、その分、森田以上に禅的であったと言えるかもしれない。森田は道元禅と接触せず、ひとり鈴木だけが道元禅に関わったのはなぜだろう。明快な答えはないが、少なくとも鈴木が道元禅にも通じる他力の思想を知るきっかけとなったエピソードがある。それは、森田医院に入院中の少年鈴木が、そこで出会った倉田百三から受けた新鮮なインパクトであった。

 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
 鈴木は、『形外先生言行録』に、「森田先生に指導されたことども」という稿を寄せ、さまざまな思い出を書いている。その中で、「倉田百三氏と森田先生の問答をうかがう」と題する項に、自分が入院中だった昭和2年4月の、日曜ごとに倉田百三がやってきて、森田正馬と問答をしていたが、入院生も同席を認められて、それを聞くことができたという貴重な体験が記されている。以下、そのくだりを引用しておく。
 

   ♥      ♥      ♥      ♥

 
 「…日曜のたびに 倉田百三氏が午後やってこられて森田先生と問答される。倉田氏はそのころ強迫観念の最中であった。四月の日曜日に三回くらい来られたと思う。その頃は森田先生のお宅は旧いお家で座敷の前も三尺の廊下であった。倉田氏は高下駄で紋付き、小倉の袴すがたであり、あごひげをはやしておられた。先生との問答の前はその三尺の廊下に黙然として坐していた。倉田氏が来られる折は文学青年であられた野村先生もいつも同席であった。森田先生はわれわれ入院生にも同席をすすめ、その問答を聞かせた。これはわれわれ若いものを将来大きくのばそうとする配慮であったろう。誠に何ものにもかええない、うれしい有がたいことであった。
 私はその頃十七歳の少年であったが、名ある文学者だとのことで、耳を立てて聞いたものです。倉田さんがよく言われた「もようされて生きる態度」ということばが今でも倉田さんの声として耳の底に残っている。若い私には理解することの困難な問答がたくさんあったが、その「もようされて生きる」ということは、今の私にははっきりとわかる。親鸞の「自然法爾」とは正にそのことであり、神経質をのりこして後、親鸞のその生きる態度がはっきりとわかるものである。」
 


昭和2年、森田医院に来院した倉田百三を囲んで。前列、柱より右へ、倉田百三、森田正馬、息子正一郎、鈴木知準。(この写真は、野村章恒著『森田正馬評伝』より転載させて頂いた)


 

   ♥      ♥      ♥      ♥

 
 鈴木少年は、倉田から「もようされて生きる態度」という意味深い言葉を聞いて感銘を受けたのであった。倉田がそれを親鸞の教えとして述べたのか、道元の名を出したのかどうかはわからない。つまり厳密に言うと、その言葉を発した際の倉田の意識はわからない。鈴木は後年に『形外先生言行録』にその思い出を記しつつ、倉田の言葉を親鸞の「自然法爾」と重ねている。しかし、そもそも「自然法爾」は神格化された阿弥陀仏が既に希薄化して「自然」に吸収された親鸞晩年の思想であり、道元の言う「法」に通じるものになっていたと言える。実際、倉田は『法然と親鸞の信仰』(昭和9年刊)の中の「歎異抄講評」の章では、道元を持ち出し、阿弥陀如来よりも、「法」を説いているのである。そのくだりを少し抜粋引用しておく。
 

   ♥      ♥      ♥      ♥

 
 「念仏は申すのではない。『申さるる』のである。この我を失うて、受け身になる所に宗教生活の秘義があるのだ。
 『彼方より行われて』と禅では道元が言っている。小さな我が出しゃばらずに、大きな宇宙が我を通して運行するのだ。自分が行じるのではない。『法』が行じるのだ。宇宙の理法、生命の法則が自然と顕現してくるのだ。…自分の力で善を行うのではない。催されて行う結果が善なのである。…また自分が行わずに、宇宙の理法、『法(のり)』、み仏が催して行ぜしめるということは、日常のどんな些末な行為も宇宙の圧力で行うということになるので…充実して力がこもっている。」




 昭和2年の春に鈴木が出会った頃の倉田は、『冬鶯』を書いた直後であり、その小説の主人公のごとく、我執を去り、他力に随順して生きる清々しい境地になっていて、その高揚感が「催されて生きる態度」と声高に言わしめたのかも知れない。しかし、せっかく森田のもとへ来て、入院森田療法の体験をせずに到達した「治らずに治らった」という体験は心的次元におけるものに過ぎなかった。生活に根ざさない心的体験は流動する。倉田は、なおも危ういものを抱えていた。「はからい」の業が尽きて治った境地になろうとも、他力に任せきって生きていくには「はからい」が頭をもたげる。そしてその事態を自力で支える必要があった。こうして他力を追求し続けて、常に自力を振り絞らざるを得なかった倉田は、自分の心的な弱さを補強するために、体力を鍛えようとした。さらには法的自然主義を唱えて、その原理的な思想と行動に走る。こうして倉田は、森田の診療を受けた後、他力を奉じて生きるために、自力のやりくりを必要とする矛盾を抱えて、挫折を繰り返すことになるのだった。
 
 かつて森田医院で接点を有した倉田と鈴木のふたりは、人生の明暗を分かつことになった。鈴木は入院体験を契機に、初志を貫き、時を経て治療者になるが、少年時代の倉田との出会いをひとつの原体験として、自力と他力が不可分な道元を取り入れ、独自の治療を推進した。森田の療法にはなかった道元禅の作務の清規や只管打坐を、入院生活の行の面に生かし、また『正法眼蔵』の中にある他力の思想を入院生に教えた。鈴木は、よく知られている次のような道元の言葉を示すことが多かった。
 「ただわが身をも心をも、はなち忘れて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる」(『正法眼蔵』生死)。
 この中で言われる「仏のかたよりおこなわれて」とは、「催されて生きる」こととまったく同義なのである。
 
<文献>

  • 森田正馬生誕生百年記念事業会 : 『形外先生言行録 森田正馬の思い出』、1975
  • 倉田百三 : 歎異抄講評、『新版 法然と親鸞の信仰』講談社、2018(最初の刊行は、大東出版社より、1934)

 

以下 (Ⅳ)に続く

森田療法における自力と他力(Ⅱ)―「治らずに治った」倉田百三―

2019/11/09


倉田百三著『神経質者の天国』



 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
 
〔今回の稿の、最初に〕
 このシリーズ稿の、(Ⅰ)を9月上旬に掲載しましたが、都合により、続きの稿の掲載がこのように遅れました。
 資料を調べながら続きをまとめようとしているうちに、倉田と森田療法のかかわりは、彼の人生のほんのひとコマにしか過ぎなかったということを、改めて思い知ることになりました。
 曲折があったその生涯と思想的な遍歴を視野に入れずに、強迫観念に悩んで森田療法を受けたある時期のことだけを切り取ってとかく言うのは、狭い見方にならないだろうか。「治らずに治った」と言った彼の言葉を俎上に載せ、それに対する森田の批判をなぞるだけでは、甚だ空虚な「倉田と森田療法」論になるのではなかろうか。そんな危惧を感じざるを得なくなりました。今までそのような論議がいかに多かったことか。倉田が森田療法を通過して行ったのは数カ月間だけです。従って森田療法が彼の生涯に責任を持つことなど、おそらくできなかったかも知れません。いや、たとえ短期間であっても、森田療法との出逢いは質的に重要な意義があったのだ、という反論も聞こえてきそうです。ならば、そのへんも深く考える必要があります。
 いずれにせよ、彼の生活歴、病前歴、病後歴から、森田療法が学ぶことはあるでしょう。さいわいにというべきか、彼が有名人だったおかげで、その生涯の全貌がほぼ明るみに出ており、しかも、本人は自分の内面を、作家としての筆力で描写しています。生涯のある時期に森田療法を受けた人物の、その生涯と魂の遍歴を知ることのできる恰好のケースです。つまり人の人生に関わった森田療法の意義について、見直すことのできる数少ない症例なのです。そのようなことをつくづく考えました。
 しかし、この拙文を書き出した趣旨は、森田療法における自力と他力ですから、ここではそれをまとめるために、引き続き原稿を補っていきます。
 なお、シリーズの順番の表記を、(上)(下)から、ローマ数字に変更します。この稿は(Ⅱ)として、(Ⅲ)以下の稿をさらに近日中に追加します。
 
 ともあれ、今回の文は、9月に掲載した(Ⅰ)に続くものなので、それと併せてお読みくだされば、幸いです。
 (Ⅰ)は以下にリンクをつけておきます。
 


森田療法における自力と他力(Ⅰ)―倉田百三の魂の遍歴―
 
 

かつて三聖病院の玄関にあった欄間


 
 承前
 
5. 宇佐玄雄の治療を受けた倉田百三 ―不問にされた「倉田のモモやん」―
 大正15年秋に、小林参三郎の静座療法を受けるために京都の済世病院に入院した倉田は、小林の急死で静座を受けられぬまま、済世病院を退院せず、三聖医院の宇佐玄雄のもとで通院治療を受けたのだった。このことは既に触れたが、翌年に森田から受ける療法と明らかに異なり、宇佐玄雄は徹底した不問で倉田に接したのであった。倉田は父危篤のため急遽京都を去って行ったが、厳しい宇佐の治療が奏功する兆しが見えてきた時期の、惜しまれる中断であった。注目されてしかるべきエピソードなので、今一度書き留めておく。
 大正11年に東福寺内に開院した三聖医院は、既に大正13年より塔頭の龍眠庵を病室として入院療法を開始していた。しかし、倉田は東寺の敷地内にあった済世病院に入院の身柄を置き続けながら、三聖病院に歩いて通院して、玄雄の診察を受け、さらにデイケアのごとく入院第三期の人たちの作業に加わることになった。なぜ三聖医院に入院しなかったのか。済世病院では亡き小林の夫人も静座療法の心得のある人だったので、倉田は夫人から指導を受けたいという静座への執着を残しており、入院森田療法を受けるほどの覚悟を有してはいなかったのである。そんな状態で三聖医院へ変則的な通院をし、宇佐の診察を受けたのだが、待たされた上に、ほとんど話も聞いてもらえなかったと倉田は書いている。宇佐は、相手が高名な作家であろうとも、敢えて不問療法で接した。済世病院に入院中の倉田が夜間に症状を募らせて、往診の要請があっても、宇佐はそれに応じることはなかった。ヒポコンドリーを不問に付したのである。倉田は三聖医院に通っても、病身のためか作業に従事したようでもないが、「倉田のモモやん」(実名は「モモゾウ」である)と呼ばれて、掃除などの作業をしている入院患者の仲間には入っていたらしい。また、かなりの距離を歩いて通院したこともあり、病身をかばう日常横臥の生活から次第に解放されようとしていた。
 そんなとき父危篤の報が入り、藤沢へ帰って行ったが、三聖医院における宇佐玄雄の治療は出色のものであった。観照生活だとか統覚不能だとかいう本人の講釈に、治療者として取り合わなかったのである。作家であろうとなかろうと、日々の生活がある。倉田がそれを取り戻せそうな矢先に三聖医院の治療は中断された。
 

東福寺の紅葉



 
6. 森田正馬の治療を受けた倉田百三一「治らずに治った」体験―
 この年の12月に大正天皇が崩御され、明けて昭和2年、早々に倉田は父を見送り、2月に森田正馬への受診を開始した。
 森田は日曜日に倉田を迎えて会い、後には通常の外来診療に受診した彼に会い、治療は日記を用いての指導であった。同年5月まで倉田は通院し、計7回程度の診察であったという。
 このような治療の仕方については、最初から疑問が生じる。森田はなぜ彼を入院させなかったのであろうか。通院なら、日曜日に迎えるとは、著名人である彼に対する特別なはからいだったのであろうか。日記を無制限に書かせたとすれば、それが強迫観念を助長しかねないことは考慮されたであろうか。まして倉田は作家である。あるいは深読みすれば、手記を書かせることで、敢えて強迫観念の中に没入させたのであろうか。とにかく症例倉田に対しては、宇佐の治療と森田の治療は対照的であった。それを倉田はどう受け止めたのか、わからないが、不問ではなかった森田の療法を受け入れたのだった。
 だが日記を媒介にしながら、森田が具体的にどのように指導したのかについては、ほとんど記録がない。森田は、後年の昭和12年に、「倉田百三氏の悩みたる強迫観念に対する心理的解説」という長い原稿を、雑誌「神経質」に掲載したが、症状についての解説が主で、神経質の治療については、「其症状を治さうとする一切の手段を放棄させて、ひたすらに其苦悩煩悶を忍受してつつ、仕事もして、人の為すべき事をやらせるやうにする」と記している程度である。ただ、倉田には強迫観念に苦悩しながら原稿を書かせたところ、『冬鶯』という作品が出来て、それは倉田自身にとっても会心の作になったという挿話を紹介している。そして、苦悩のままに欲望を発揮したこの体験により、倉田は全治したという森田の見解が述べられている。
 けれども『冬鶯』はそれほど評価されるべき作品なのか。読んでみると、実に重苦しい。神経質者はかく治るべしという、当為の小説である。当為から自由になるはずの森田療法が、当為化されているような印象を受けるのだが、深読みに過ぎるだろうか。
 倉田が治癒に向かった心的過程は、彼自身が如実に語ったり書いたりしている。
 「はからいは、はからいの業の尽きるまでは止まないこと、はからいの止むとき、そのままの忍受が具現すること、そして依然として苦しみはありながら、それが苦しみではなくなって、苦しみから解き放たれる、ということであります」(「倉田百三氏の体験を中心に」、森田正馬『自覚と悟りへの道』)。
 「(強迫観念の)苦しみを苦しみとして受け容れるよりほかなく、その打ち捨てた絶対忍受の生活態度を体得するに至り、心機一転して、いわばその体得の結果副産物として、多年の病気が治った次第なのです」(『絶対的生活』)。
 そして、倉田は「治らずに治った私の体験」という文章を収めた著書『神経質者の天国』の末尾に、次のように書いた。
 「『我々は運命を耐え忍ぼう。』自分が最後に、此の記述を閉じる語はこれである。」
 森田はこの言葉を厳しく批判し、正岡子規を例に挙げながら、形外会の場などで、運命は切り開いていくものであると強調した。「運命は耐え忍ぶに及ばぬ。正岡子規は、肺結核と脊椎カリエスで、永い年数、仰臥のままであった。そして運命に耐え忍ばずに、貧乏と苦痛とに泣いた。…それでも歌や俳句や随筆を書かずにはいられなかった。…子規は不幸のどん底にありながら、運命に耐え忍ばずに、実に運命を切り開いていったということはできないであろうか。これが安心立命ではあるまいか。」(昭和9年、第25回形外会)。森田はこのように言うのだった。その真意は、入院森田療法の場合と同じく、苦悩の絶対的忍受と欲望を発揮する行動の調和を重視するところにあったろう。倉田の「治らずに治った体験」も、「運命を耐え忍ぼう」も、体験者にして言える言葉であり、認めてしかるべきだったように思われる。しかし、そこに極限を求める危うさがあって、森田はそれを見抜いたのであろうか。だとしたら、森田は慧眼である。
 以後の倉田は、他力の信奉の延長としての法的自然主義の思想を深めて、政治的活動に関わり、皮肉にも行動の人となっていったのであった。
 
<文献>

  • 倉田百三 :『神経質者の天国』、先進社、1932
  • 倉田百三 :『絶対的生活』、文理書院、1933
  • 倉田百三 :『冬鶯』、先進社、1931
  • 森田正馬 : 倉田百三氏の強迫観念に対する心理的解説. 「神経質」8(2)~8(4)、1937.2~1937.4 (森田正馬全集 第三巻、1974 所収)
  • 森田正馬 : 「倉田百三氏の体験を中心に」、『自覚と悟りへの道』、白揚社、1959

 

以下、(Ⅲ)に続く。