くまモンに叱られて ―熊本での日本森田療法学会に参加しました―

2017/11/16


由緒ある五高記念館。残念ながら、この建物の内部に地震の被害が及んだそうで、今なお、入館して展示物などを見せて頂くことはできない状態である。



 

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   去る11月10日、11日、12日の3日間、熊本大学黒髪キャンパスで開催された第35回日本森田療法学会に参加しました。学会場のキャンパスには、旧制五高記念館の赤レンガの由緒ある建物もあり、歴史のおもむきが漂っていました。五高は、もちろん森田正馬の出身校です。五高生たちの青春に想いを馳せることのできる、そんなキャンパスで開催された学会でした。
   熊本は、災害からの復興に取り組んでおられる県でもあり、そんな中で学会開催のご準備をして下さった、大会長の熊本大学保健センターの藤瀬教授やスタッフの方々の御苦労はさぞかし大変だったことと拝察しています。一会員として、感謝している次第です。3日間の会期中は、大会長はじめ、スタッフの方々の温かさのように、天候に恵まれて、快晴の熊本に全国から大勢の会員たちが集まったのでした。


五高記念館の向かい側の建物群が学会場になっていた。



 

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   自分はと言えば、重責ある発表の任を与えて頂きました。五高出身者たちの社会教育の活動が、水谷啓二の「生活の発見」誌とその活動に合流する系譜についての、比嘉千賀先生とのパネルディスカッションでした。事前の抄録は、先に「研究ノート」欄に掲載しました。
   パネルディスカッションなるものの、ディスカッションをどうするかは、ケースバイケースでしょうが、不慣れにて、準備に大変困惑しました。まずは、五高出身の田澤義鋪、下村湖人、永杉喜輔の社会教育とはどんな活動だったのか、そしてそれが同じく五高出身の水谷啓二の森田療法にどのように合流したか、歴史的なその内容を皆様にご理解頂けるように説明しなければなりません。それを踏まえてのディスカッションに進むというのが建て前です。でも、社会教育の歴史的流れは、短時間に語るには深過ぎました。それでも、それなりに、短時間で話し切れるように、最初から要約的に伝える工夫をすればできたのかもしれません。その辺の要領が足りなかったようです。時計は容赦してくれません。短時間に沢山詰め込むのは、やはり無理というものでした。予定していた発表の最後の辺りは端折って打ち切るという無様な始末と相成りました。
   ディスカッションどころじゃなくなりましたが、幸い前日に比嘉先生とお話しする機会を頂き、そこで事前に「ディスカッション」をすることができました。観客なしの、ノーピープル・ディスカッションですが、そのときに少し自分なりに整理できたことがありました。当日の短時間のディスカッション・タイムでは、その一端を述べました。
   それは、集団合宿研修の系譜についてです。医者が中心になると、権威的になりがちなので、ここでは、森田正馬の自宅に入院した原法の集団をも省いて、非医師たちが行った集団合宿の流れを、たどることができました。
   まずは、田澤義鋪が大正3年に静岡県の蓮永寺で行った、青年たちの合宿研修が発端としてありました。次に、昭和8年から、下村は小金井の浴恩館で青年団講習所の所長として、合宿指導を行っています。永杉もそこに参加しました。そして戦後に、水谷は啓心寮を開きます。水谷没後、長谷川洋三は龍穏寺で生活の発見会の合宿勉強会を開催しました。その後小田原で和田重正は、はじめ塾や一心寮で、親や子どもたちの合宿を開催したのでした。
 

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   なお、まず、一般演題として発表した下記について、そのスライドのシリーズに説明を付けて、「研究ノート欄」に掲載しておきます。
   「森田正馬が参禅した谷中の「両忘会」と釈宗活老師について」
   パネルディスカッションの発表内容は、追って掲載します。


帰途につくとき、新幹線熊本駅構内の巨大なくまモンに叱られた。
発表のしかたがまずかったぞ、と。