「社会教育」をフランス人にどう伝えるか?

2017/11/30


フランスから世界を見つめるくまモン



   森田療法と本質を共有するところのある「社会教育」であるが、その漠たる名称のために、わが国内においても、「社会教育」は分かり難い日陰の分野になっているのが実態である。外国に伝える難しさは尚更である。ひとつの試みとその事の顛末をご紹介する。
 
   フランス語圏の PSYCAUSE という国際学会組織と交流しているが、日本の森田療法の最近の動向について情報を届けて欲しいと、相手側のボスから要請を受けていた。熊本で開催された森田療法学会が済むまで待ってもらった。学会後に、来年に高知で開催される森田正馬没後80年の記念行事のお知らせなど、自分が学会で発表させて頂いたことも含めて、メールで情報を書き送った。
   さて、そこで社会教育と森田療法の類縁性について言及したのだが、早速「社会教育」のフランス語訳に困ったというわけである。とりあえずピッタリした訳語ではないことを承知の上で、“ l’éducation populaire ” という語を当てた。「大衆教育」を意味するこの用語はフランス語として存在する。そのために逆に、日本における“l’éducation populaire “とはどういうものであるか、という問いが返されてきた。
   説明に窮して、社会教育の専門の方々にもご相談した。しかし素人の質問はしばしば専門家を困らせる。つまるところ、「社会教育」についての既成の定義に帰着するのだが、教科書的な定義が幾通りかあることは私自身も知っていた。しかし本質的に森田療法に通じるものを見て、そのニュアンスを生き生きした言葉で伝えたい自分としては、建て前的な定義はむなしい。日本語としてむなしい定義をフランス語に移すのはさらにむなしい。困り果てていたら、フランスのボスからまたメールがきた。“l’éducation populaire” と“au Japon”の検索語でネットを調べたら、 “kominkan”(公民館)についての論文が見つかったと言う。まるで鬼の首を取ったかのような感触が伝わってきた。あちら様の方が生き生きしているじゃないか、と思った。ボスは、ここまでの情報に基づいて、PSYCAUSE学会のホームページに一文を草して出そうとしていると言う。そんなに生き生きされても、これでは、三段論法式に、「森田療法は公民館である」ということになりかねない。
   焦った私は、そこで自分なりに考えた。「社会教育」という日本語の語源にまで遡って、まずは原義を教えて、理解のずれを防ごうとして、我流の作文を急いで書き綴って送信した。そして、この用語が本来伝えるべくして伝えきれていない意味的な欠落部分は、社会生活における人間性の涵養の重要性であるということも付け加えておいた。公民館活動は重要だが、社会教育の実践のひとつの場であり、方法である。
   さて、そのメールを送信した1時間後に、学会のホームページに、送ったばかりの私のコメントを取り入れたボスの文章が現れた。
   時間と空間の隔たりがなくなったような、11月27日の体験であった。
 
   PSYCAUSEの学会ホームページに出た、その記事は、以下のアドレスよりご覧頂くことができます。
   http://www.psycause.info/

社会教育活動と森田療法が合流した歴史を考えることをめぐって

2017/11/23


  田澤義鋪(45歳)       下村湖人(浴恩館時代)  


   去る11月上旬、第35会日本森田療法学会が、熊本五高出身者である森田正馬ゆかりの熊本大学において開催された。
  
1. 五高の奇跡
   森田正馬の直弟子で、森田療法を継承した水谷啓二も五高出身者であった。一方社会教育の流れがあって、それが戦後に水谷の森田療法に合流したのだが、その社会教育活動の重要な担い手だった3人の人物、田澤義鋪、下村湖人、永杉喜輔の3人もまた五高出身者だったのである。
   剛毅木訥の校風で知られた五高にして、武夫原頭に立つごとく地に足のついた大物たちを生んだのであろうか。

 

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2.社会教育という用語について
   社会教育という用語がおよそ意味するであろうことの、重要性をわれわれは知りつつ、同時にこの用語につきまとっている不明瞭性を感じざるを得ない。社会教育という四文字は日本語としておさまりが良いけれども、意味は曖昧である。「社会」は形容詞なのか、名詞なのか。形容詞ならば、その意味は、あやふやで捉え難い。ここで思い起こすのは、「対人恐怖」のかつての英訳語、“social phobia”である。これは“social”という形容詞を英語訳に持ち込んだことで本来の意味を晦渋にしてしまった例であった。
   社会教育の「社会」が名詞ならば、「社会」と「教育」の関係について説明がなされねばならない。教育の対象としての「社会」であるなら、社会より上位に絶対的な教育者が存在することが前提になるが、それは人間ではなくなる。社会を超越した人間などいないからである。このような意味を帯びるとき、「社会教育」は非人間的なものとなる。
   逆に「社会」が人間を「教育」するという意味ならば、わからなくはない。人間は社会の中で育ち、教えられ、学びあって成長していくものだからである。ただし、この場合も、「社会」は人間の集団であるから、個々の成員を疎外するような人間不在の社会集団であってはならないことは勿論である。
   わが国においては、社会教育の発生について、それなりの歴史があった。明治の時期に西洋の学校教育制度が導入されたことを背景として、派生的に生じた問題が、その後に社会教育と言われるものにつながっていく。福澤諭吉は、学校教育に対して、人間社会から学ぶという意味で、「人間社会教育」と言った。「社会教育」という用語の始まりであったとされる。ただしこれは来るべき資本主義社会を担う中産階級が、学校教育だけに飽きたらずに、人間社会を学校として、自己教育的に研鑽する必要を説いたもので、より下層の人々を視野に入れるものではなかったと言われる。天は人の下に人をつくっていたようである。その後、学校教育へ向けての就学促進のための親教育や、一般成人に対する教育の必要性も重視されるようになり、それらは「通俗教育」と称された。しかし、教育に恵まれない貧困層を視野に入れる立場から、改めて「社会教育」の必要性が認識されて、「通俗教育」に代わって「社会教育」という用語を大正時代から公的に用いるようになった。
   田澤、下村、永杉が関わった社会教育は、戦前におけるこのような歴史的流れに発していた。社会教育と言っても、その「社会」は戦前、戦時下、戦後へと変化して行ったのは当然である。

 

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3.社会教育と森田療法の関係について
   当初における、社会教育という概念や用語の登場は、その時代の事情に拠るものであったことを、上に述べた。しかし、社会教育における「社会」を、時代に応じた変数と考えれば、曖昧な用語なりに、社会教育を有効語として用いることはできるだろう。また森田療法は、本来教育的な療法であるから、両者が合流し、かつ相互補完的になる可能性は、十分に考えられるであろう。

 

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4.「社会教育」の語の外国語訳の難しさについて
   先に縷々述べたごとく、「社会教育」の用語の晦渋さを容認して、この語を使用する、いわば“日本的な”立場を取ることにした。しかるに、外国語に訳す段になると、そうはいかず、この用語の曖昧さが再浮上するのである。
   フランス語圏のある学会と交流していて、日本の森田療法の最近の事情について、情報を届けて欲しいと、最近強く要望されていた。しかし先般の熊本での学会もあったこととて、その学会のニュースも含めて、森田療法の情報の提供を学会後まで待ってもらった。そして学会直後に、ニュースを書き送った。その中には、社会教育と森田療法に関わる、自分が行った発表についても記しておいたのである。ここで「社会教育」をフランス語でどう書くかが問題であった。適切な訳語がない。やむを得ず、“ l’education populaire “と書いた。しかし案の定、謂わんとする意味が相手に通じない。相手は、曰わく「大変興味があるので、その語が意味するところを詳しく説明してくれないか」。なかなか面倒なことにて困っている始末だ。

 

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5.「生活の発見」の「再発見」から「再再発見」へ
   ある成り行きから、「生活の発見会」と雑誌「生活の発見」の歴史を調べてみたことがあるのだが、今回改めてそれを辿り直した。そのルーツは水谷啓二氏に遡るものであった。そこにはドラマがあった。水谷氏は熊本五高時代の友人で、社会教育活動をしていた永杉喜輔氏と、再会する。水谷はさらに永杉の師の社会教育者、下村湖人にも出会って、磁石のように吸い寄せられていったのだった。下村は、五高以来の盟友の田澤義鋪に従い、彼の亡き後、社会教育の指導者として道を拓きつつあった。だが宰相下村は昭和30年に没した。水谷は31年に啓心会を開き、翌32年に、雑誌を創刊した。その雑誌は永杉の案により、「生活の発見」と命名され、この雑誌の刊行の趣旨として、森田正馬の生活道と下村湖人の社会教育の両者を継承することが謳われた。雑誌の刊行の主体は、水谷方の「生活の発見会」とされた。
   同じ五高出身者たちによる社会教育の流れが、水谷の森田療法に合流したのである。このような歴史を知ることは、すなわち「生活の発見」の「再発見」にほかならない。
   まずは、そのような歴史の説明が必要である。しかし、歴史が明らかにしたように、社会教育を摂取した流れの上に立って、森田療法は、今日においてどのように歩を進めるべきだろうか。「再再発見」の課題に直面しているのである。それは、社会教育の今日的課題と、重なるところがあるかもしれない。
   日本における社会教育の成立事情は、独特のものであった、という言説により、社会教育という用語の曖昧さと、外国に伝える難しさを言う識者がおられるようである。だが、社会教育も、森田療法も、最も本質的な部分では、国際的に通じ合うようなものがあるのではなかろうか。そう考えて模索しているところである。

 

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※ なお、参考までに、第35回日本森田療法学会(熊本)におけるパネルディスカッションで発表した際のスライドを、「研究ノート」欄に提示しようとしています。(本稿より数日ずれる見込み)。

くまモンに叱られて ―熊本での日本森田療法学会に参加しました―

2017/11/16


由緒ある五高記念館。残念ながら、この建物の内部に地震の被害が及んだそうで、今なお、入館して展示物などを見せて頂くことはできない状態である。



 

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   去る11月10日、11日、12日の3日間、熊本大学黒髪キャンパスで開催された第35回日本森田療法学会に参加しました。学会場のキャンパスには、旧制五高記念館の赤レンガの由緒ある建物もあり、歴史のおもむきが漂っていました。五高は、もちろん森田正馬の出身校です。五高生たちの青春に想いを馳せることのできる、そんなキャンパスで開催された学会でした。
   熊本は、災害からの復興に取り組んでおられる県でもあり、そんな中で学会開催のご準備をして下さった、大会長の熊本大学保健センターの藤瀬教授やスタッフの方々の御苦労はさぞかし大変だったことと拝察しています。一会員として、感謝している次第です。3日間の会期中は、大会長はじめ、スタッフの方々の温かさのように、天候に恵まれて、快晴の熊本に全国から大勢の会員たちが集まったのでした。


五高記念館の向かい側の建物群が学会場になっていた。



 

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   自分はと言えば、重責ある発表の任を与えて頂きました。五高出身者たちの社会教育の活動が、水谷啓二の「生活の発見」誌とその活動に合流する系譜についての、比嘉千賀先生とのパネルディスカッションでした。事前の抄録は、先に「研究ノート」欄に掲載しました。
   パネルディスカッションなるものの、ディスカッションをどうするかは、ケースバイケースでしょうが、不慣れにて、準備に大変困惑しました。まずは、五高出身の田澤義鋪、下村湖人、永杉喜輔の社会教育とはどんな活動だったのか、そしてそれが同じく五高出身の水谷啓二の森田療法にどのように合流したか、歴史的なその内容を皆様にご理解頂けるように説明しなければなりません。それを踏まえてのディスカッションに進むというのが建て前です。でも、社会教育の歴史的流れは、短時間に語るには深過ぎました。それでも、それなりに、短時間で話し切れるように、最初から要約的に伝える工夫をすればできたのかもしれません。その辺の要領が足りなかったようです。時計は容赦してくれません。短時間に沢山詰め込むのは、やはり無理というものでした。予定していた発表の最後の辺りは端折って打ち切るという無様な始末と相成りました。
   ディスカッションどころじゃなくなりましたが、幸い前日に比嘉先生とお話しする機会を頂き、そこで事前に「ディスカッション」をすることができました。観客なしの、ノーピープル・ディスカッションですが、そのときに少し自分なりに整理できたことがありました。当日の短時間のディスカッション・タイムでは、その一端を述べました。
   それは、集団合宿研修の系譜についてです。医者が中心になると、権威的になりがちなので、ここでは、森田正馬の自宅に入院した原法の集団をも省いて、非医師たちが行った集団合宿の流れを、たどることができました。
   まずは、田澤義鋪が大正3年に静岡県の蓮永寺で行った、青年たちの合宿研修が発端としてありました。次に、昭和8年から、下村は小金井の浴恩館で青年団講習所の所長として、合宿指導を行っています。永杉もそこに参加しました。そして戦後に、水谷は啓心寮を開きます。水谷没後、長谷川洋三は龍穏寺で生活の発見会の合宿勉強会を開催しました。その後小田原で和田重正は、はじめ塾や一心寮で、親や子どもたちの合宿を開催したのでした。
 

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   なお、まず、一般演題として発表した下記について、そのスライドのシリーズに説明を付けて、「研究ノート欄」に掲載しておきます。
   「森田正馬が参禅した谷中の「両忘会」と釈宗活老師について」
   パネルディスカッションの発表内容は、追って掲載します。


帰途につくとき、新幹線熊本駅構内の巨大なくまモンに叱られた。
発表のしかたがまずかったぞ、と。