森田正馬生家の訪問

2015/10/31

表紙

 
 

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 これまでたびたび機会を逸してきましたが、ようやく森田正馬の生家を訪問しました。倉敷での日本森田療法学会の開催終了の翌日の10月17日のことでした。この日は地元の方々が集まって、生家の屋内外の清掃が行われていました。
 生家は89年に旧香美郡野市町に買い取られ、不登校の子どもたちのための「森田村塾」が開かれていましたが、市町村合併で香南市が管理を引き継ぎました。しかし建物の老朽化が進み、解体も一時は視野に入れられ、保存が危ぶまれるまでになっていました。そのため本年、「森田正馬生家保存を願う会」が発足したのです。
 自分も入会したのと、もうひとつは、来る12月初旬に高知市で開催される日本精神障害者リハビリテーション学会で、ご当地出身の森田正馬と森田療法の成立について、話をするようご指名を頂いているので、その前に生家は是非見学しておきたくて、急遽訪問したのです。生家は、管理している香南市により平素は施錠されているそうですが、10月17日は清掃のため屋内も開放されていて、屋内にも入って見せて頂くことができました。森田正馬のご親族で、「保存を願う会」の事務局長を担当なさっている森田敬子様にも、お会いすることができました。正馬先生にどこか面影が似ておられるので、驚きました。

 
 
 
 
 
 

清掃中。剪定された植木の枝や、引かれた雑草がうず高く積まれている。背後に見えるのが、古い生家そのままの建物である。
清掃中。剪定された植木の枝や、引かれた雑草がうず高く積まれている。背後に見えるのが、古い生家そのままの建物である。

 
 
 
 
 
 

建物の右半分は、改築された部分である。
建物の右半分は、改築された部分である。

 
 
 
 
 
 

お庭
お庭。

 
 
 
 
 
 

高知大学医学部看護学科教授のO様と高知県精神保健福祉センター社会福祉士のF様のお二人と合流して一緒に訪問した。屋内で話しておられる森田敬子様(左)とお二人。
高知大学医学部看護学科教授のO様と高知県精神保健福祉センター社会福祉士のF様のお二人と合流して一緒に訪問した。
屋内で話しておられる森田敬子様(左)とお二人。

 
 
 
 
 
 
 
 

最近新たに造り直された森田家の墓所に向かう。
最近新たに造り直された森田家の墓所に向かう。

 
 
 
 
 
 
 
 

森田正馬の墓。
森田正馬の墓。

 
 
 
 
 
 
 
 

森田正馬の墓石の、向かって左側面から始まって、背面、向かって右側面へと、長文の経歴が墓碑銘として細かく彫り込まれている。まず、この画像は、向かって左側面の写真である。画像を拡大すると、ある程度その文字を読むことができる。

森田正馬の墓石の、向かって左側面から始まって、背面、向かって右側面へと、長文の経歴が墓碑銘として細かく彫り込まれている。まず、この画像は、向かって左側面の写真である。画像を拡大すると、ある程度その文字を読むことができる。

 
 
 
 
 
 
 
 

墓石の背面。向かって左側面の文章の続きが彫り込まれている。

墓石の背面。向かって左側面の文章の続きが彫り込まれている。

 
 
 
 
 
 
 
 

墓石の向かって右の側面。背面の文章の続きが彫られており、最後に「医学博士 高良武久 謹誌」とあるので、高良先生がお書きになった森田の経歴文なのであろう。

墓石の向かって右の側面。背面の文章の続きが彫られており、最後に「医学博士 高良武久 謹誌」とあるので、高良先生がお書きになった森田の経歴文なのであろう。
 
 

森田療法 「サ・エ・ラ」~(1)2チャンネルの話~

2015/10/12

 あれやこれや、森田療法にまつわることについて、書きとめます。話は、あちこち(cà et là)に及びます。
 
 

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(1)森田療法についての2チャンネルの記事について
 

 私は、森田療法について書き込まれている「2チャンネル」の記事をたまたま読む機会がありました。2チャンネル、あなどるなかれ。様々な記事が出ていますが、森田療法をどう消化してどう生きればよいのかについての模索や、自身の経験から掴んだ森田療法観の開示や、森田療法家たちのスタンスの違いへの困惑と疑問などについての発言があふれています。管理の仕方にもよるのでしょうが、2チャンネルを全体として見ると、匿名の立場から他者への無責任な中傷が書き込まれていることが少なくないことは周知で、私もこれまでは2チャンネルを無視して、読もうとはしませんでした。しかし、森田療法についての書き込みをなさる方々は、動機はどうあれ森田療法について真剣に考えたことがある人たちを母集団としているようで、ひやかしではなく、概して深く高次のやりとりが交わされています。全部を読んだわけではありませんが、「ああ、なるほど、こういう発言や討論がされているのか」とわかり、参考になりました。
 建て前論を言えば、森田療法は言葉で論じ合うものではありません。論じている暇があったら、(なすべきことをなす、というような杓子定規を言うような野暮なことはやめるとしても)、まあ何でもいいから、することあるでしょう、となるのです。実際2チャンネルに参加しないで、自分の生活にいそしんでいる人たちが圧倒的に多い筈です(リア充?)。だから2チャンネルは、なくてもがなだけれど、でもそれは治療理論と実生活のあわいの中間領域として、ネット上で機能しています。ネット上の多少理屈っぽいアノニマスな自助グループの面もあるようですが、森田療法の今日的事情がこのようなチャンネルを生んだことは否めません。
 森田療法の原法においては、症状を訴えたり、治療法を論じたりする言語的交流は禁じられ、「不問」に付されました。私は三聖病院に関わってきましたが、「不問」はこの病院において、とくに顕著な特色になっていました。入院生活においては、治療者は修養生(入院患者さん)の訴えを聴かないのみならず、修養生同士も、症状や治療について話を交わすことは禁じられていました。院内には「しゃべる人は治りません」、「話しかける人には答えないのが親切」などと墨書された紙が掲示されていました。ある若者はこれを強迫的に守って、退院後、家でも緘黙的になり誰ともしゃべらなくなったので親が困ったというような笑えないエピソードもありました。修養生の人たちは、職員のいない場では、自分たち同士でおしゃべりはしていました。それが「とらわれ」を増強させることもあれば、他の修養生の体験から出た一言が、大きなヒントになることもあるようでした。規律は守るべきですが、強迫的になる必要もありません。臨機応変でよいのですね。
 もちろん、理屈をこねまわすことは治療的に不毛であるという意味では、「不問」が大切です。そして森田療法の根本的な本質のところは理屈抜きに重要です。そこのところを森田は「事実唯真」と教えました。それ以上はああだこうだと論じ過ぎてもむなしいわけです。とは言え、不条理にあるがままに向き合う森田療法という厳しい療法について、迷ったり、智恵を深めたりしてしている人たちにとって、ネットというしゃべり場があり、それがネット上であるがゆえに流動的で自浄作用を伴う集団として機能しているのは面白いと思いました。
 いずれにせよ、古い森田療法家も、若手森田療法研究者も、当事者も、人間みんなストレイ・シープ です。今日頭でわかった理屈は、明日吹っ飛んでしまうかもしれません。森田療法を論じても、どうにもならないことは多いようで。
 2チャンネルあなどるなかれ。しかし人生端倪すべからず。
 
 
「いのち短し恋せよ乙女
 紅き唇褪せぬ間に
 熱き血潮の冷えぬ間に
 明日の月日はないものを」(『ゴンドラの唄』)
注)旧世代向け。
 黒澤明監督の映画『生きる』で、癌で死を控えた主人公が口ずさんだ歌。
 主人公は、絶望と自棄を乗り越えて最後まで生き抜いた。
 
 
「生死事大 無常迅速
 光陰可惜 時不待人」
注)禅オタク向け。説明不要。
 
 (1)だけでは、「サ・エ・ラ」になりません。(2)は次回に。

森田療法と禅(私が三聖病院で迷ったこと)

2015/10/05

 最近ブログが途切れがちになっていました。以前の「旧ブログ」では、オリジナルな論文とまではいかなくても、堅苦しい文章を一生懸命に書いて掲載していました。現在は、ささやかな規模ながら、研究所のより良い活動の仕方を考え直しているところです。ホームページについては、昨年その管理会社が変わり、「new blog」になったのを機に、以後ブログ欄には、小論文を出すのではなく、必要な記事を自由に出す方針にしています。その水面下では様々な模索を続けています。昨年は京都で国際学会の開催を引き受けるという大仕事を経験しましたが、そこから派生した交流があり、それをどう生かすかという課題も抱えています。
 一方で、昨年末には三聖病院が閉院になるという、大きな出来事がありました。これは年末に単に診療を閉じたということにとどまりません。貴重な資料の保存の仕方などの重大な問題に直面しましたし、年が明けてからは、由緒ある病院の建物が解体されていくのを感慨深く見守り続けることになったのでした。
 院長はじめ関係者にとって、三聖病院の「喪の仕事」はまだ終わっていないと思います。
 私自身としても、三聖病院との長かった関わりを顧みて、複雑な思いが去来し、「喪の仕事」も「総括」も終わっていません。非常勤での関わりでしたが、三聖病院とのご縁をきっかけに、人生の後半は森田療法と共に歩みました。だから冷ややかに森田療法評論家を気取っているつもりはありません。でも病院には病院の、森田療法には森田療法の、社会的責任があると思います(それは勿論三聖病院だけに限ったことではありません)。そのような視点から、経験を通して心の底から湧いてくることについては、常識的に許容される範囲内で、慎重にものを言う責任はあるだろうと思っています。

 さて、なんだか難しいことを書いたあとで、次に砕けたことを言うのはどうかと思いますが、私の手元には最近書いたちょっとした砕けた雑文があります。
 私は、三聖病院の森田療法を通して禅に触れ、禅について、心中右往左往し、悩まざるを得なくなったのでした。そこでついに三聖病院の外の禅にも接してみたくなり、花園大学教授(現 花園大学禅文化研究所所長)の西村惠信先生の教えを乞いました。現在も禅文化研究所での勉強会に参加させてもらっています。ところが西村先生は先般、参加者の人たちはなぜここへ集うようになったのか、それぞれの理由がある筈だから、文章に書けとのたまいました。集められた原稿は文集として、私家本になります。
 私には私の理由がありました。勿論それは三聖病院で禅を学んで、そして直面した迷いに関係します。
 数ヶ月後に出来上がるであろう私家本は、諸賢の目には触れません。また近日、倉敷での学会では、三聖病院の歴史的意義について発表させて頂きますけれど、歴史的位置づけについての短い発表になる筈で、私個人の体験を発表するものではありません。私家本向けの拙稿は個人的体験の側から、書きました。雑文として、カリカチュアライズして書きましたので、そこが不謹慎ですし、私家本の刊行より先行掲載するのもアンフェアかも知れないのですが、この時期にお読み頂ければと思い、期間限定で出しておきます。
 カリカチュアライズしたのは、私自身にとって内容が重過ぎたからです。関係各位に失礼になった点はお詫びしなければなりません。(1ヶ月間で削除予定)。

 

 

 

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(さらに…)