森田療法における重要な仏教的用語(1)―「事実唯真」の典拠になった真言宗の「即事而真」―
2020/03/16
2020/03/16
2020/01/27
♥ ♥ ♥ ♥ ♥ ♥
< 清沢哲夫の詩、『道』―アントニオ猪木に影響を与えた真宗の他力思想― >
現役時代には、「イ―チッ、二ーッ、サ―ンッ、ダァァァ―!!」で突っ走ったアントニオ猪木だったが、引退時には、リング上で『道』という意味深い詩を読み上げた。一躍有名になったその詩は、当初は一休禅師の作と言われた。猪木自身、『アントニオ猪木自伝』の中で引退セレモニーのときのことを回顧して、『最後に、新日本プロレスの道場訓にもしている、一休禅師の詩を読んだ。』と書いている。しかし、この詩は、清沢哲夫の『道』という詩に酷似しており、清沢の詩を一部改変して猪木が朗読したものである。
まずは、猪木が朗読し、かつ自伝にも掲載している、一休の詩だというものを以下に掲げる。
『道』
アントニオ猪木(一休)
この道を行けば
どうなるものか
危ぶむなかれ
危ぶめば道はなし
踏み出せば
その一足が道となり
その一足が道となる
迷わず行けよ
行けばわかるさ。
次に、清沢哲夫の詩を掲げる。
『道』
清沢哲夫
此の道を行けば
どうなるのかと
危ぶむなかれ
危ぶめば道はなし
ふみ出せば
その一足が道となる
その一足が道である
わからなくても
歩いて行け
行けばわかるよ。
この詩は、清沢哲夫が最初に暁烏敏の主宰紙『同帰』に昭和26年10月に出し、それを昭和41年に刊行した著書『無常断章』に収載したものである。
清沢哲夫は、清沢満之を祖父にもつ深い真宗思想家、活動者であった。戦争を体験し、復員後は実家、愛知県碧南市の西方寺で形骸化した寺院制度を改革しようとしたが、周囲の反対にあい挫折を経験した。その頃、暁烏敏の孫娘と結婚している。また弟が精神病を発病したので、入院させた。『無常断章』中の「狂人」という文章には、次のように記されている。
「弟の病に対する悲しみをこえる道は、自分も亦今現に寸分違わない世界にいるのだと知らされるのみであります。
しかし自分の中にある狂気が知らされてくる時、一切の事物の上に明るい光がさしてきます。」(昭和27年1月)。
『道』という詩を書いたのは、そのような時期のことであった。
その後愛知県の寺を出て、暁烏が生前に在寺していた石川県の明達寺に移住した。ドイツ留学、大谷大学の教職を経て、暁烏姓となり明達寺の住職になった。
清沢哲夫の『道』は、人事を尽くして天命に身を任せている自身の歩みを、読者に対して優しく包むように伝えている。
猪木が朗読した詩では、いくつかの箇所で改変がなされており、とくに終わりの部分では、「わからなくても歩いて行け」(清沢)が「迷わず行けよ」(猪木)と変えられている。
一休禅師には多くの道歌があり、迷いや道について歌ったものがいくつもある。けれども、一休の歌はたいてい一癖あって表現が屈折しており、「迷わず行けよ」などと一休が言ったりすることはない。しかし引退時の感懐として、リング上で叫びたかったことは、一休の教えにもまた通じたので、「迷わず行けよ」と分かり易い句を入れて一休の詩に仕立てて、清沢哲夫の名を伏せたのではないだろうか。猪木の背後に、禅と真宗に通暁した人物がいたと考えられる。清沢哲夫の詩を持ち出したのだから、真宗にかなり造詣の深い人であろうか。
いずれにせよ、格闘家の引退に当たって、自力を超えて他力に委ねて歩む道の詩が取り上げられたことは、興味深い。格闘技においてさえ、究極的には自力と他力が融合する境地になるのである。
そして最近、車椅子生活になったアントニオ猪木は、車椅子の生活者として「あるがままで」生きていく、と述べている。
森田療法における「あるがまま」も、自力と他力を包含していることを、改めて思う。

2020/01/25
京都森田療法研究所
主宰者 岡本重慶
2020/01/12

令和二年元旦
京都森田療法研究所
主宰者 岡本重慶
研究員 一同
2019/12/27

<文献>
♥ ♥ ♥ ♥ ♥ ♥
10.聖と性
意気軒昂として倉田は一高の文科に入学した。同学年には、矢内原忠雄や芥川龍之介らがいたが、並み居る秀才たちの中で、自分は首席になってみせると倉田は豪語して猛勉強をした。その結果、第一学年を終えた時、倉田は見事に首席になった。しかし、倉田の目標はそれだけでとどまらず、ショーペンハウエルの哲学の影響を受け、立身出世して力を手に入れたいという欲望に駆られて、彼は法科に転じた。だが、そこに待っていたのは、欲望を追って哲学を捨てた虚しさであった。そんな時、彼は西田幾太郎の『善の研究』を読んで感動する。主客未分の「純粋経験」に出会って、倉田は自身の我への執着から脱することが出来た思いになり、涙した。哲学者とは語義的には愛智者のことだが、西田のように、生に向き合う愛生者をこそ哲学者と呼びたい、と倉田は喜びの言葉を発した。そのような体験を機に、倉田は再び文科に復帰した。
けれども西田の哲学に向き合っているうちに、倉田は心の底にただならぬ動揺を感じ始める。そこには霊肉を併せての生命への憧憬がない。西田への敬慕と要請との複雑な気持ちを抱えた倉田は、明治45年9月に京都の西田幾太郎宅を訪れて、面会した。その後倉田は綿々とした手紙を西田に書き送っている(『生きんとて』)。以下はその抜粋である。
「ただ書斎に蟄居して読書三昧に日を送るばかりでなく…祇園の色街に美しいおとなしい妓を呼んで艶やかな黒髪に顔を埋めて眠ったりするやうな哲学者になって頂きたい。…先生よ、先生は若かりし時恋愛の思ひ出はありませぬか。あるに違ひないと思ひます。何卒語って聞かせて下さい。」
西田哲学は、生身の熱い欲望を霊に一致させ、哲学たらしめたい倉田の期待に応えるものではなかったのだった。以後倉田の生活は荒み、酒に浸り、学校を休み、霊肉の一致を求めて、紅灯にむなしく女を探す日々を過ごした。そんな折り、妹の同級生の女性と出会って急速に親しくなり、倉田は救われた。
また、その頃『校友会雑誌』の編集委員になった倉田は、就任の辞を掲載して、その冒頭に次のような文を書いた。
「我等は何よりもさきに獣でなければならない。原始の野を徘徊する獣でなければならない。うなりの空と冷めたき大地との間に生まれ出で、太陽を仰ぎ、霧を吸ひ、黒土を踏みて生きる Naturkind でなければならない。我等は複雑なる文明の様式が迫まる一切の“技巧”を斥けて、“自然”のままなる命が生きたい。」
倉田のこの文章は不穏当であるとして校内で問題になり、一高自治会の間で鉄拳制裁の論さえ出たと言われる。学校当局側も、次号の同雑誌に謝罪文を掲載した。
このような事件があっても自然児であろうとする倉田だったが、学校の欠席の多かった彼は落第した。また恋人は去って行った。さらに結核に罹患していることが判明した。こうして失意の倉田は、一高を退学して郷里に帰って行った。
♥ ♥ ♥
退学、失恋、結核の発病という三重苦を抱いて、自宅の近くの一軒家に籠もって療養を始めた倉田の心は次第にキリスト教に接近し、町の教会に通うようになった。庄原には、彼の幼児期からキリスト教アライアンス派の教会があって、子ども心に親しみを覚えていた。一高時代の校長は新渡戸稲三で、学校にキリスト教的な校風が漂っていた。倉田は安易な信仰を批判したが、当時から内心にはキリスト教への畏敬の念を宿していた。自然児としての本能的な愛の挫折を経験して、意識的、努力的なキリスト教の愛を真の愛と信じるに至った。キリスト教徒であり看護婦であるお絹さんに会ったのは、この時期のことである。二人で讃美歌を歌い、祈祷をして、愛を深めていったが、ここで神への信仰と性愛との葛藤に悩むことになった。
この頃、倉田は綱島梁川の著作を通じて西田天香の存在を知った。倉田は当初西田をクリスチャンと考えたようだが、ともあれ宗教的な体験を求めて、大正4年末より京都の一灯園に入ったのだった。一灯園は、私有財産は認められず、自己を捨て、托鉢と労働をして他者に奉仕して生活をする共同体であった。倉田は熱心に労働に勤しんだ。しかし、物心ともにすべてを捨てる生活は、倉田における性や美の欲求には遠過ぎて、数カ月で彼は園を去らざるを得なかった。自己を殺す自力が求められる一灯園に代わって、倉田には他力が必要であった。
一灯園に入る前後に、彼は、大須賀秀道の『歎異鈔真髄』や清沢満之の『歎異抄講話』を読んでいた。こうして親鸞への関心を深めた倉田は、『出家とその弟子』を執筆した。
しかしながら、倉田は真宗の思想の核心を未だ自分のものにしたわけではなく、また作品の上に真宗思想の正確な表現をしたわけでもなかった。この作品は、自身が抱えていた愛や病や救いの問題を前にして、自己救済のために書いた創作であり、その頃象徴的な意味で彼が言った「心の中に寺を建てる」作業の試みであった。親鸞の悩みを人間的なものとして描き、さらにキリスト教思想を重ね合わせた奔放な創作は、読者を魅了するとともに、真宗の側からの批判を招いた。作中の親鸞に「運命を受け取ろう」と言わせているところに、絶対他力への契機は読み取れず、煩悩と自力にとらわれている作者の姿勢が露出している。
亀井勝一郎氏は、作者の倉田は自己の信仰の不徹底を責めているのであり、特定の宗派に属さずに独特の宗教的遍歴を試みたのであるという評し方をして、倉田を受け入れている。
倉田の宗教的遍歴は女性遍歴と交錯して、なおも続く。
<文献>
(Ⅵ)に続く

2019/12/07
♥ ♥ ♥ ♥ ♥ ♥
承前
8. 森田療法と真宗―森田正馬と倉田百三の関係に見る―
森田療法と禅の関係についてはここで言うまでもないが、森田が親鸞を幾度も引用している通り、森田療法は真宗にも親和性がある。しかし、森田正馬と真宗との出会いの事情や、真宗が森田療法に取り入れられた経緯は、厳密に言うと不明で、不思議な点が残されている。それが判然としていないこと自体に不可解さがある。そのため、森田療法と真宗の関係について、著者または報告者が両分野に通じている人であることを条件として、資料を探索したけれども、それを満たす本格的な文献らしきものは、ほとんど見当たらなかった。
尤も、森田療法が成立した大正期の文化的背景を視野に入れれば、両者が近くなった関係をある程度推測することは可能である。世はあたかも大正の親鸞ブームであった。そしてそのブームの中心にあったのは、「親鸞もの」に代表される大正宗教小説の流行であった。親鸞という聖人の心の中に棲む凡夫としての人間的な煩悩と葛藤を描いた文学が、デモクラシーに目覚めた教養者層の人たちに広く受け入れられたのである。
この「親鸞もの」として最初に登場したのが、ほかならぬ大正6年に出版された倉田百三の『出家とその弟子』(戯曲)であった。引き続いて、石丸梧平の『人間親鸞』などが出たけれども、『出家とその弟子』は他の追随を許さず、倉田百三は一躍時代の寵児となった。この戯曲は昭和8年の京都大丸劇場での初演を皮切りに、あちこちで上演された。
読む戯曲としてのこの作品は、何カ国語にも訳されて海外でも愛読者を得た。スイスから、ロマン・ロランは倉田に絶賛の手紙を送り、洋の東西を隔てても、原罪への自覚や大いなるものへの帰依は、キリスト教と仏教に通じ合うものであるという見解を示して、倉田に共感を伝えた。そのロマン・ロランは、宗教的感情を「大洋感情(le sentiment océanique)」と称して肯定的に捉えていて、そこには、他力、あるいは甘えにも通じるものがあった。この「太洋感情」は、自我を重視する立場にあるフロイトから、発達的に未熟なものとして批判され、両者が相容れなかったエピソードがある。ここに提起される自我と宗教感情の融合の問題は、それを持て余した倉田が『出家とその弟子』たちに悩みを預けた課題でもあった。そして登場者たちは読者に答えを委ねるという、たらい回しの作品であった。
それを見抜くかのように、国内の文壇の一部からは、聖者にもある性欲の悩みを盛って宗教のレッテルを貼ったものに過ぎないと貶されたが、それにしてもこの作品は、大正期の人心に感銘を与えたのであり、倉田自身、時代精神の中で煩悶する青年を象徴する作家としての評価を得たと言えよう。倉田は実に大正の親鸞ブームの火付け役だったのである。
以下(Ⅴ)に続く

2019/11/23

承前
7. 倉田百三と会った17歳の鈴木知準
鈴木知準は、十代で森田正馬の下に入院した経験を有し、以後森田に私淑し、医師となって鈴木診療所を開設して、入院森田療法を継承したことで知られる。
鈴木の療法は、まさに森田のそれを祖述したものであったから、そこでの指導は、いきおい禅に通じる面があった。森田における禅とのかかわりは、臨済禅に限られていたが、鈴木は道元禅をも深く考究し、かつそれを療法に生かしたので、その分、森田以上に禅的であったと言えるかもしれない。森田は道元禅と接触せず、ひとり鈴木だけが道元禅に関わったのはなぜだろう。明快な答えはないが、少なくとも鈴木が道元禅にも通じる他力の思想を知るきっかけとなったエピソードがある。それは、森田医院に入院中の少年鈴木が、そこで出会った倉田百三から受けた新鮮なインパクトであった。
♥ ♥ ♥ ♥ ♥ ♥
鈴木は、『形外先生言行録』に、「森田先生に指導されたことども」という稿を寄せ、さまざまな思い出を書いている。その中で、「倉田百三氏と森田先生の問答をうかがう」と題する項に、自分が入院中だった昭和2年4月の、日曜ごとに倉田百三がやってきて、森田正馬と問答をしていたが、入院生も同席を認められて、それを聞くことができたという貴重な体験が記されている。以下、そのくだりを引用しておく。
♥ ♥ ♥ ♥
「…日曜のたびに 倉田百三氏が午後やってこられて森田先生と問答される。倉田氏はそのころ強迫観念の最中であった。四月の日曜日に三回くらい来られたと思う。その頃は森田先生のお宅は旧いお家で座敷の前も三尺の廊下であった。倉田氏は高下駄で紋付き、小倉の袴すがたであり、あごひげをはやしておられた。先生との問答の前はその三尺の廊下に黙然として坐していた。倉田氏が来られる折は文学青年であられた野村先生もいつも同席であった。森田先生はわれわれ入院生にも同席をすすめ、その問答を聞かせた。これはわれわれ若いものを将来大きくのばそうとする配慮であったろう。誠に何ものにもかええない、うれしい有がたいことであった。
私はその頃十七歳の少年であったが、名ある文学者だとのことで、耳を立てて聞いたものです。倉田さんがよく言われた「もようされて生きる態度」ということばが今でも倉田さんの声として耳の底に残っている。若い私には理解することの困難な問答がたくさんあったが、その「もようされて生きる」ということは、今の私にははっきりとわかる。親鸞の「自然法爾」とは正にそのことであり、神経質をのりこして後、親鸞のその生きる態度がはっきりとわかるものである。」
♥ ♥ ♥ ♥
鈴木少年は、倉田から「もようされて生きる態度」という意味深い言葉を聞いて感銘を受けたのであった。倉田がそれを親鸞の教えとして述べたのか、道元の名を出したのかどうかはわからない。つまり厳密に言うと、その言葉を発した際の倉田の意識はわからない。鈴木は後年に『形外先生言行録』にその思い出を記しつつ、倉田の言葉を親鸞の「自然法爾」と重ねている。しかし、そもそも「自然法爾」は神格化された阿弥陀仏が既に希薄化して「自然」に吸収された親鸞晩年の思想であり、道元の言う「法」に通じるものになっていたと言える。実際、倉田は『法然と親鸞の信仰』(昭和9年刊)の中の「歎異抄講評」の章では、道元を持ち出し、阿弥陀如来よりも、「法」を説いているのである。そのくだりを少し抜粋引用しておく。
♥ ♥ ♥ ♥
「念仏は申すのではない。『申さるる』のである。この我を失うて、受け身になる所に宗教生活の秘義があるのだ。
『彼方より行われて』と禅では道元が言っている。小さな我が出しゃばらずに、大きな宇宙が我を通して運行するのだ。自分が行じるのではない。『法』が行じるのだ。宇宙の理法、生命の法則が自然と顕現してくるのだ。…自分の力で善を行うのではない。催されて行う結果が善なのである。…また自分が行わずに、宇宙の理法、『法(のり)』、み仏が催して行ぜしめるということは、日常のどんな些末な行為も宇宙の圧力で行うということになるので…充実して力がこもっている。」

以下 (Ⅳ)に続く
2019/11/09
♥ ♥ ♥ ♥ ♥ ♥
〔今回の稿の、最初に〕
このシリーズ稿の、(Ⅰ)を9月上旬に掲載しましたが、都合により、続きの稿の掲載がこのように遅れました。
資料を調べながら続きをまとめようとしているうちに、倉田と森田療法のかかわりは、彼の人生のほんのひとコマにしか過ぎなかったということを、改めて思い知ることになりました。
曲折があったその生涯と思想的な遍歴を視野に入れずに、強迫観念に悩んで森田療法を受けたある時期のことだけを切り取ってとかく言うのは、狭い見方にならないだろうか。「治らずに治った」と言った彼の言葉を俎上に載せ、それに対する森田の批判をなぞるだけでは、甚だ空虚な「倉田と森田療法」論になるのではなかろうか。そんな危惧を感じざるを得なくなりました。今までそのような論議がいかに多かったことか。倉田が森田療法を通過して行ったのは数カ月間だけです。従って森田療法が彼の生涯に責任を持つことなど、おそらくできなかったかも知れません。いや、たとえ短期間であっても、森田療法との出逢いは質的に重要な意義があったのだ、という反論も聞こえてきそうです。ならば、そのへんも深く考える必要があります。
いずれにせよ、彼の生活歴、病前歴、病後歴から、森田療法が学ぶことはあるでしょう。さいわいにというべきか、彼が有名人だったおかげで、その生涯の全貌がほぼ明るみに出ており、しかも、本人は自分の内面を、作家としての筆力で描写しています。生涯のある時期に森田療法を受けた人物の、その生涯と魂の遍歴を知ることのできる恰好のケースです。つまり人の人生に関わった森田療法の意義について、見直すことのできる数少ない症例なのです。そのようなことをつくづく考えました。
しかし、この拙文を書き出した趣旨は、森田療法における自力と他力ですから、ここではそれをまとめるために、引き続き原稿を補っていきます。
なお、シリーズの順番の表記を、(上)(下)から、ローマ数字に変更します。この稿は(Ⅱ)として、(Ⅲ)以下の稿をさらに近日中に追加します。
ともあれ、今回の文は、9月に掲載した(Ⅰ)に続くものなので、それと併せてお読みくだされば、幸いです。
(Ⅰ)は以下にリンクをつけておきます。
以下、(Ⅲ)に続く。
2019/10/22
♥ ♥ ♥ ♥ ♥ ♥
チャーチル会という絵画を愛好する人たちの会がある。この会は、70年ほど前に生まれ、政治家でありアマチュア画家として知られたウィンストン・チャーチル卿に、その名前を冠することを認められたという歴史と由緒のあるアマチュア画家の会である。アマチュアとは素人を意味しない。仕事(ジョブ)あるいは職業(プロフェッション)としてでなく、何かを深く愛好する人たちのことである。
チャーチル会名古屋の秋季展が、本日10月22日から27日まで、名古屋市内で開催される。会の代表者は杉本二郎様である。杉本様は、吉川英治の『新平家物語』の挿し絵を描かれたことなどで知られる杉本健吉画伯の甥御様である。芸術家のご一族出身のサラブレッドで、素人目にもいい絵をお描きになる。絵は愛好家だが、かつての本職は映画人で、東映の本社に定年まで勤務しておられたそうである。
私は4年ほど前に、森田療法の分野でお知り合いになる機会に恵まれた。江渕弘明という医師で禅に生きた森田療法家が、活動された実績をたどっていたら、その足跡は京都から名古屋へと向かっていたことが判明した。それでそれまでまったく知らなかった名古屋における森田療法の活動の流れに接することになった。それがご縁であった。一昔前に、名古屋啓心会や初期の(新)生活の発見会名古屋集談会で、指導的立場で活動しておられた人が杉本二郎様であった。森田療法のことに深く精通しておられるし、なんとも誠実で親切なお方である。先だって浜松での日本森田療法学会で、仏教と森田療法について発表する重責を与えられたが、準備段階で杉本様の胸をお借りし、多くを教えて頂いた。私はこの方との出会いを有り難く思い、一目も二目も置いている。
♥ ♥ ♥ ♥ ♥ ♥
森田療法における自力と他力の問題を、倉田百三の生涯を中心にして考えようと、ブログに文章を途中まで書いたが、続きを掲載するのが遅れている。学会では倉田のことにも触れたが、盛り沢山の内容を取り上げた中で、とても倉田のことに深入りはできなかった。というより、森田療法と倉田の問題は、宗教や芸術が絡んでいることもあって、複雑である。それに倉田は本当に森田療法を受けたと言えるのであろうか。病身のためもあったかもしれないが、入院はせず、主に日曜日に特別に森田の診察を何度か受けた、つまり例外的な扱いに浴していたようである。もちろん倉田は、森田の指導を熱心に受け止め、興が湧かなくてもとにかく執筆せよという森田の助言に従って、小説『冬鶯』を書いた。その結果、倉田は自分として大変気に入った作品を書けたと言っている。しかしこの作品は、読んでみると、主人公は神経質を絵に描いたような暗い男である。絵に描いたと言うより、文字通りそのまま文章に書いたものである。世評はどうだったのだろう。評価は読む人によるだろうが、私(たち)からすれば、神経質者はかく治癒すべしという当為の小説のようで、息苦しい。
この1ヶ月後に、入院中の鈴木知準は、倉田が森田に対して「催されて生きる」という言葉で他力を語っている声に耳を傾けたのであった。倉田は、親鸞や道元の他力の思想にいつ、どのように関心を持つようになったのだろう。『冬鶯』とどう繋がるのだろう。倉田から他力を説かれて、森田はどう反応したのだろう。不可解なことが多い。
結局倉田は「治らずして治る」という、名言(迷言ではない)を残すことになる。到達点の正直な表現であろう。倉田はやはり特別な患者であったから、後日森田は症例倉田について、詳細に書いたり論じたりしている。しかし、日記を用いて治療したと言うが、治療のプロセスをほとんど書いていない。「治らずに治る」という言葉の綾を批判するばかりのようで、残念ながら森田から伝わってくるものは薄い。森田療法にとって、倉田が来てくれたことは大きなエピソードだったが、倉田本人にすれば、生涯の一コマに過ぎなかった。遍歴をするのが倉田の業だったとも言えるかもしれないが。ともかくも、人生の後半は、自力と他力の間をぶれながら、倉田は無理な道を登り、かつ堕ちていくのである。難しい事例なので、まとめ難くて私は格闘していた。
これは裏原稿だが、ブログの表原稿は近日まとめ終えたい。
作家ではないが、画家でいらっしゃる杉本様ならどうおっしゃるだろう。チャーチル会名古屋秋季展に行って、杉本様にお会いしたいと思っている。
♥ ♥ ♥ ♥ ♥ ♥
付記1
ブログ連載の間に、この記事を挟みましたが、遅れている連載稿の続きは近日掲載します。
付記2
10月5日に日本森田療法学会のシンポジウムで発表した「仏教、禅の叡智と森田療法―『生老病死』の苦から『煩悩即菩提』へ―」のスライド一覧と説明を「研究ノート」欄に出しました。
2019/09/07

♥ ♥ ♥ ♥ ♥ ♥
2. 倉田百三の懊悩
一高に入って文学活動をしていた倉田は、結核に罹患して退学し、療養生活を送ったが、その時期にお絹さんという女性と恋愛を経験する。その後京都の西田天香の一灯園に入って修養的生活を体験するも、矛盾を感じて去ることになった。数年後、戯曲『出家とその弟子』を書き、空前のベストセラーとなり、大正の親鸞ブームに火をつけた。そしてさらに戯曲、小説、宗教論などの執筆を続け、彼自身、親鸞に深く思いを入れ、人間苦が救済される道として、他力の信仰に宗教的関心を有していたのだった。
しかし、大正15年(37歳)に、その3年ほど前から始まっていた強迫神経症的症状が、顕著に現れ出した。統覚不能(離人症的症状)、不眠恐怖、耳鳴り恐怖、計算恐怖、いろは恐怖、物象回転などであった。
この頃、同じ神経症者の知人の中西清三宛ての書簡に、永平寺や南禅寺の禅者によい指導者がいるという情報を伝え、「(見性にいたる禅の修行とくらべて)真宗の解脱も他力の信心が手に入るまでは同じ苦しみと思います。…計らうまいとしては駄目なのですから、進退極ります。」と記している。
こうして、自分も禅修行を考慮に入れていたらしい倉田だったが、たまたま京都の済世病院院長、小林参三郎の著書『生命の神秘』などを入手して読み、静坐すれば自分の力でない自然の力が働いて、自ずと強迫観念が治ると記されていることに惹かれて、この大正15年秋、小林の病院を訪れたのだった。
<参考文献>
・ 森田正馬 : 「倉田百三氏の強迫観念に対する心理的解説」(『森田正馬全集』 第三巻)、1975
・ 倉田百三 : 『神経質者の天国』、先進社、1932
♥ ♥ ♥ ♥ ♥ ♥
♥ ♥ ♥ ♥ ♥ ♥
♥ ♥ ♥ ♥ ♥ ♥
(Ⅱ)に続く