【興味ある新刊書を語る】南條幸弘先生著『しなやかに生きる ソフト森田療法』(白楊社、2023)

2023/09/14


 

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 南條幸弘先生は、森田療法の分野で、「神経質礼賛」のブログ活動の展開と同名の著書『神経質礼賛』(白楊社、2011)で、神経質の理解者として親しみを持たれ、広く知られている精神科医である。最近、南條ファン待望の新刊書が同じ白楊社から上梓された。それは『しなやかに生きる ソフト森田療法』と題される、とても「しなやか」な書である。その本の外見の印象を、いきなり述べることを許して頂こう。ソフトカバーの表紙には、緑を背景に小さな紅い花がそっと咲いている写真が出ていて、そのさりげない鮮やかさに視線を奪われる。先生はこの著書の中で、森田が引用した禅語「花紅柳緑(柳緑花紅)」について述べておられ、そこで紅と緑の対照に触れておられるのだが、その趣旨と呼応して、この表紙の写真が一層印象深く感じられる。(著書中で述べられているこの禅語に関することは、後述する。)
 

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 さてカバーの写真のみならず、この本が放つインパクトは、そのタイトルのネーミングにある。本書のメインタイトルは「ソフト森田療法」であり、「しなやかに生きる」はサブタイトルであると見受けるのだけれど、背表紙に「しなやかに生きる」は、より小さな活字ながら「ソフト森田療法」の上位に置かれているし、また表表紙には「ソフト森田療法」が大きな活字で縦書きで大書されて、メインタイトルの地位を保っているものの、不思議なことにその右側、つまり縦書きの場合に先行する行に「しなやかに生きる」が、小さな活字で添えられているのである。
 
 このようにメインタイトルとサブタイトルの表記において、両者の順列の境界を限りなく不明にしておられることに、筆者は静かなインパクトを受け、考え込んでしまった。出版社側には、必ずしもメインタイトルの下位にこだわらず、サブタイトルの意味や味わいが伝わるように、自由な位置を与える意図があるのだろうか。もちろんそれは、著者の意図するサブタイトルの意味が、汲み取られてのことであろう。そして南條先生のこのご著作の副題、「しなやかに生きる」には、先生の深い森田療法観が含まれているのであろう。タイトルのネーミングにおけるこのような副題の位置づけの妙から、その意味の深さが窺われるようだ。
 

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 ところが、この「しなやかに生きる」というフレーズについて、南條先生はあからさまに語っておられない。「しなやか」という言葉の語義は、辞書的には「柔軟さ」や「弾力性があること」を意味している。「自然に服従し、境遇に柔順なれ」という森田正馬の重要な教えがあるが、これは本書の中で取り上げておられ(第12章)、「しなやかに生きる」は、まさに森田のその教えに相当すると言えるかと思う。また柔軟さについては、禅僧の仙厓義梵の「堪忍柳画賛」における句、「気に入らぬ風もあろうに柳かな」があって、これも同じ章で、森田の教えとして紹介されている。暴風が吹いても、吹かれるままに自在にしなる柳は、「しなやかに生きる」姿そのものである。
 

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 しかし南條先生の森田療法一筋の長いご経験による一流の森田療法観が、ご著書の副題と重なっていると受け取るのが、最も自然かもしれない。それは、メインタイトルの「ソフト森田療法」の名称にもつながっているようである。
 「ソフト森田療法」については、本書の冒頭に説明があり、それは広い意味での森田療法、すなわち森田療法的アプローチということであると書いておられる。しかし、そのようにおっしゃる背景には、ご自身の足跡がある。浜松医大で先生が師事なさった大原健士郎教授は、精神科の入院治療のベースに森田療法を取り入れておられた。その「浜松方式」をご経験の上で、先生は三島森田病院で、神経症を対象とする森田療法の原法とともに、統合失調症などの人たちを中心とする精神科診療に従事してこられた。その三島森田病院において、デイケアの社会復帰プログラムに森田療法を応用する試みをなさったそうである。その取り組みとして、実際に生活上で困った場面で参考になる講義プランを用意し、「ワンポイント森田」と題してデイケアで実践なさったのだった。それに対して入院患者さんや多方面から大きな反響があった。そのような「ワンポイント森田」としてのかかわりの経験が、この著書の元になっている。
 
 ちなみに本書は、第1章 「不安に襲われる時」から始まって、計20章、困った場面が掲げられているが、これはそのような本書の成立に由来する。しかし各章では、症状というより、悩みの特質がまず述べられている。神経質/神経症における症状別の対処法というようなマニュアルの提供は意図されていない。また森田療法の理論的説明もほとんどなく、章ごとの後半で、「ソフト森田」として、森田療法の基本を生かして歩を進める対処法が示されているのである。それが本書の構成の特徴である。森田療法の原法に熟達しておられる南條先生にして、原法にとらわれず、森田療法を広く活用して、「しなやかに生きる」ことを勧め、ご自身も森田療法家として、「守破離」さながらに、しなやかな活動を展開なさっておられる。
 

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 筆者の知人、名古屋の杉本二郎氏は、森田療法についての豊かな経験と学識を有する方であるが、日ごろから南條先生のご活動に深い関心を示されている。この杉本氏から、改めてご意見が届いたので、次にご紹介しよう。
 
 「一言で南條先生の印象を申し上げれば、私たちより20年若いだけに、森田療法から軽やかに超えて、現代の情勢に合わせた神経質のあり方を提示しているように感じます。厳しい管理社会の中、少しずつ多様性の芽が出てきている社会情勢にあって、それに合わせるかたちで、神経質であっても、「それでいいではないか」、「日常生活をそれでやっていこう」という姿勢が顕著にみられる、と思っています。
 師匠の大原先生が「ネオ森田」を提唱なさった例にならって、「ソフト森田」という名づけ方をされたのかな、と思います。」
 
 「 南條先生が、他の先生がたと相違するところは、ご自身が森田療法を知る前に、「症状(対人恐怖とうつ)がありながらも、なすべきことをしていくほかない」として、結果的にすでに森田療法を実践しておられたことです。そしてそれで乗り越えられた点ではないでしょうか。これがあったればこそ、後にクライアントを直に健全な日常生活に引き込んで指導していく、ということができたのではないでしょうか。
 森田先生の言葉でも、要点だけ、生活指導の後に小出しにされています。そして、なるべく森田療法を看板にして表に出さないようにしていると、ブログにも書いてあったと思います。
 そんな南條先生のやり方が、逆に新しい時代の森田療法のあり方となって、道が開けていく可能性があると感じています。それが「ソフト森田療法」かもしれません。」
 
 「「しなやかに生きる」ということについては、『神経質礼賛』の中で、「ぶざまでよい、ダメ人間でよい、できることをやっていくだけである」と述べられているのが、近いかもしれません。それによって心が次第に開けていく、という見通しを持ってのことでしょうが。」
 
 杉本氏は、第二世代の鈴木知準先生に師事なさった方で、その経験をご自身の立脚点にしておられるが、南條先生のソフト森田療法に、未来に通じる新時代のものを見ておられて、興味深い。
 

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 著者の長年の経験の上に本書が誕生した背景事情や、出来上がった本書の構成は、向き合ってみると意外に複雑で、筆者としては、読者が本書の入り口で少し理解に手間取るかもしれないという、神経質な心配にとらわれたのだった。そのため、ここまで、あえて紙幅を取って、解説めいたことを総合的に書かせて頂いた。
 さて、通販の本書のページには、次のような説明が記されている。「各章は2部構成で、前半ではそれぞれの悩みの性質を、後半では森田療法の基本的な考え方とともに、すぐに取り入れられる対処法「ソフト森田」を解説。今日から役立つ森田療法の入門書です。」
 

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 このような入門案内に誘われて、筆者も、いざ入門した。そこで本書の内容について、部分的になるが、個人的に印象深く感じたくだりを、紹介したい。
 南條先生は、いろいろな悩みについて、東西の先人たちが体験したエピソードを多く紹介しておられ、その博識さで、楽しく読ませて頂ける。たとえば、第4章「意欲がわかない時」には、自由律の俳人、種田山頭火の俳句が示されているし、第6章「緊張して困る時」には、ノルウェーの作曲家グリーグがポケットの中のカエルの置物を握りしめて気持ちを落ち着かせたことや、大相撲の力士・高見盛の自分を奮い立たせる奇妙な動作が挙げられており、第7章「腹が立って仕方がない時」には、大隈重信の怒りの静め方や作曲家バッハの作曲が怒りの自己治療につながっていたことが紹介されている。音楽に造詣の深い先生は、さらに 別の章で作曲家マーラーの縁起恐怖にも言及されている。
 これらの悩みに対して一歩踏み込んで、各章 の後半では「ソフト森田」として、森田正馬の教えや、森田の生き方のエピソードや、南條先生自身の独自の意見などを紹介しつつ、次なる一手が解説されている。
 先の第4章では、森田正馬が「苦しいながら、我慢して勉強するのを、柔順という。(…)」(全集第五巻)と教えたことが引用され、第7章では、やはり森田が「腹の立つのはなんともしかたがないから、その衝動をジッと堪え忍んでいさえすれば、それが従順というものであります。」(全集第五巻)と教えたことが示されている。これらでは「柔順」が共通のキーワードになっていて、「ソフト森田」は必ずしも、各章ごとに独占されるものではない。
 

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 ところで、冒頭でふれた禅語「花紅柳緑(柳緑花紅)」について、著者は第9章「劣等感や挫折感に悩む時」で取り上げておられる。この言葉は本来は「柳は緑、花は紅」なのだが、花を先に出す方が印象的であり、森田も指導の際に 「花は紅、柳は緑」と言っていた。「あるがまま」という意味だが、南條先生自身は、もう一歩進めて理解したいとおっしゃる。「花」は外向的で積極的な人の象徴、「柳」は内向的で神経質な人の象徴であろう。「柳」は花のように鮮やかになれないが、強風にも枝をなびかせて、地味な風情を愉しませてくれる。神経質はそのような持ち味を生かしていけばよいという勧めである。仙厓義梵の「堪忍柳画賛」の趣にも通じようが、やはり流石のご指摘である。
 南條ファンお待ちかねの徳川家康論も、第17章「大きな失敗をしてしまった時」に出てくる。大失敗を生かして大成功した人物として、家康の人間像が紹介されている。
 
 最後に、筆者自身が親和性を持ったのは、第11章に出てくる「弱くなりきる」という森田の教えであった。
 それにしても、この本に魅されて、長い書評を書いてしまった。こんなときには、「ソフト森田」ではどうすればよろしいのだろう。