長続きしなかった森田正馬の参禅―禅に対する奇妙な態度―
2022/01/16
釈宗活 著『性海一滴』(明治34年)
❤ ❤ ❤ ❤ ❤ ❤
1. 森田正馬の禅観
森田正馬は、明治43年に谷中の両忘会の釈宗活老師に参禅したが、参禅はあまり長続きせず、また与えられた公案も透過できなかった。参禅した日々のことは、日記にごく手短に記されているが、内面的にどのような体験をしたのかについては、森田は何も書き残していないので、不明な点が残っている。しかし、参禅した事実については、後年に形外会で繰り返し言及している。最初は昭和6年の第17回形外会での発言であり、次のように述べている。
「私は二十余年前に、釈宗活師について、三、四回、参禅した事がある。考案は「父母未生以前、自己本来の面目如何」という事であったが、ついに一度も通過する事はできなかった。ただの野次馬であるから、本当の事のわかるはずがないのであります。」
形外会で、禅についての自分の立場や見解を述べるべき場面で、まず自分は釈宗活老師に参禅したが、考案(記録のママ)を通過できなかったので、物好きの野次馬であり、禅の悟りのことなどわからない、というほぼ毎度同じ紋切り型の弁明的な言葉を、計4度述べているのである。
ただ、このような自己卑下とも見える前置きに続いて、自身の禅観が開陳されていることもあって、その点は興味を引く。前出の昭和6年の形外会では、前置きの弁明の後に、禅のあり方に対する敢然とした批判の発言が続いている。森田の禅観がわかるので、その部分を引用しておく。
「禅と僕のところとの相違は、禅では坐禅で坐っていて、ユートピアとか、平常心是道とか三昧とか、自分自身の気分の中に、それを得ようとする。私のは、それと全く違う。気分を根本的に排斥して、日常生活の実際に、ユートピアを得ようとする。で、気分の方はややもすれば、野狐禅に陥りやすく、私の方は間違っても、実際的の向上心になるのである。」
昭和3年に森田は釈宗活老師と再会する機会に恵まれていて、形外会で参禅体験についての弁明を持ち出したのはそれ以後のことである。いちいち卑屈なようにも見えるが、決して釈老師への批判ではなく、入門の段階で参禅をまっとうしなかった自身への謙虚な悔いを枕として、その上で自分が到達した禅観を自由に述べたのであろう。たとえば、上に引用した森田の語りには、その面目が躍如としている。
だが、あえて付け加えるなら、禅に対する森田の舌鋒には勝ち誇ったようなところがある。自分の療法は禅から出たのではなく、神経質の研究から出た心理的原理から、禅の語を便利に説明に用いるようになったに過ぎないと言う。実際、森田は禅への造詣が深く、それゆえに安易に混同されることを嫌ったのであろう。しかし、それにしても、禅に対する構えがやや不自然である。症例として、禅をやり公案を百も通っている心悸亢進症の弁護士は、家で坐禅をしていれば「平常心是道」になれるが、電車の中では平常心になれないという例を挙げ、自分の神経質の療法は、禅の修行や説得だけではできない治療法なのであるという自負を示している。禅への仮借のない批判は、釈宗演や忽滑谷快天のような高名な禅家の著作物にまで及んだ。
このような森田の禅観は、みずからの参禅体験とどのようにつながっているのだろうか。
❤ ❤ ❤ ❤ ❤ ❤
2. 森田正馬の参禅はなぜ長続きしなかったのか。
宗活老師への参禅を遡ること約10年、東大の第一学年の学生であった森田は、明治32年春、学年末の試験を控えて友人たちと箱根の禅寺、宝泉寺に試験勉強のために下宿をした。坐禅にいそしみながら、勉強に専念したのかと思いきや、勉強に身を入れず、箱根や小田原を連日歩きまわる始末であった。その結果、6月の試験期には苦境を迎え、勉強が一層手につかず、父の送金遅れを理由に「死んでやれ」と必死必生の体験をしたエピソードにつながっていく。
ともあれ、勉強のために滞在した禅寺で、昼間は散策に羽を伸ばし、夜は住職と語り合った。ある日の日記に次のような記述が見える。和尚に対して「余曰く、もし禅が一部の人にのみ行はれ、これにのみ一生を終わるものならんには、そは人生の禅にあらずして、禅のための禅、ひとつの芸術にして床の置物たらん。事業に、学問に、政治に、軍事にこの禅が活用されてこそ初めて人生の禅たるべし。…など様々の屁理屈を並べて興がりたり。」
学生時代から仏教を深く学び、かつ追求していた森田が抱かざるを得なかった禅への疑問であり、それを和尚にぶつけたのであった。だが禅寺を選んで宿泊したのなら、たとえ作法としてでも、なぜそこで坐禅をしなかったのか。そして和尚に対する礼儀をわきまえない挑戦的な発言は、非常識のそしりを免れない。勉強目的で滞在しながら勉強に集中しなかった自業自得の怠慢に加えて、禅寺に宿泊して禅をけなすという非礼さには、脱線しやすい森田の性癖が現れている。
医師になって神経質や強迫観念の患者の診療にあたるようになった森田は、改めて仏教や禅の生かし方の問題に直面する。
宗活老師に参禅する前年の明治42年の論文、「神経衰弱性精神病性體質」(雑誌『人性』第5巻、第5-6号、1909)では、強迫観念の患者が人生に煩悶した例を示し、このような煩悶者を解脱せしめるために、宗教家の示教を希うしかないという次のような文章を付け加えているのである。
「是等患者ノ如キモノヲ煩悶者トシテ宗教家モ大二説アラン、余ハ切二識者ノ示教ヲ希フ、是等患者ガ其煩悶ヲ解脱セントスル二理論的ノ解決ヲ以テセントスルハ已に其病的心理状態ノ性質二鑑ミルモ容易二其不可能ナル事ヲ知ルヲ得ベシ。佛語ヲ藉リテ之ヲ喩フレバ其所謂結驢橛(繋ガレタル驢馬ガ廻リ々々テ其杭二カラマリ動キモ得ナラヌ様)トモイフベカラン、…。」
かくして、10年前に若き学生の森田が箱根の禅寺の住職に臆面もなくぶつけた「人生の禅」という課題は、煩悶する患者の人生を前にして惑う治療者、森田自身に差し戻されたのである。
しかし、この頃の森田は仏教や禅の活用に心血を注いでいたわけではなかった。明治42年には心象学会に入り、山伏の火渡りや熱湯術を見ており、自分も手を熱湯の中に入れて火傷を負った。しきりに催眠術をやっていた時期でもあり、また女子体操学校に入り浸っていて、講義をするだけでなくテニスをしたり、夜は舞踏会に参加したりと大わらわであった。
一方明治40年(34歳)頃から富士川游と知り合い、住所が近くでもあり、富士川のもとに出入りするようになった。そして富士川の助手格であり、釈宗活の両忘会にも関わっていた藤根常吉の勧めで、明治43年から両忘会に参禅することになったのである。森田は日記に参禅のことを淡々と手短にしか書いていないが、参禅についての日記のすべての記述を以下に抽出して紹介する。
二月五日
藤根常吉氏二勧メラレ、両忘会二入會シ、槐安国語の提唱ヲ聴キ参禅ス。藤根氏ト共二帰リ晩酌ス。
六日(日)
谷中初音町両忘會二参シ摂心中、毎朝参禅スル事トナル。考案ハ「父母未生以前、自己本来ノ面目如何」ナリ。午後二時天龍院二釈宗活師ノ禅海一瀾第二則ノ提唱ヲ聴ク。
七日
朝、参禅、師曰、禅ハ理ヲ以テ推ス二非ス、身ヲ以テ考案ト一致スル二アリ。三昧二入ルベシ。坐禅ヲ怠ル勿レト。
八日
六時起床、両忘会二坐禅ス。午後提唱二出席。
九日
午後両忘会提唱、摂心終リ午後茶礼アリ。
三月六日(日)
藤根氏(彌生町二)余ノタメ二余ノ朝寝ヲ起シ二来ル。昨日余ガ参禅ヲ怠リタルガタメナリ。毎月摂心ハ五日ヨリ五日間、二十二日ヨリ三日間ナリ。
五月十六日
坐禅ス。
十七日
坐禅。
参禅についての日記の記録は、以上ですべてである。熱心に参加したとは到底思えない。坐禅を怠る勿れと老師から言われたにもかかわらず、休むことが多いので、藤根常吉に心配をかけたりしている。日記に見る限りでは、摂心への参加はせいぜい3カ月程度であった。
強迫観念の患者の人生の煩悶を前にして、宗教家の示教を求めた森田のもとに、在家禅の指導者の釈宗活老師との出会いという願ってもない縁が訪れたのである。まさに正念場であった。ところが、森田においては、大事なことから逸れてしまう奇妙な傾向があった。
尤も、森田の療法と重なっていったのは、大乗仏教の根本である「煩悩即菩提」であり、公案と格闘し、坐禅をして見解に達する禅ではなかったのは確かである。デマルティーノに倣って言えば、神経症における悩みこそナチュラルな公案であり、わざわざ与えられる公案は神経症を模して人工的に人を疑団に陥れるものである。ナチュラルな公案によって大疑を体験してこそ、ナチュラルな大悟に至る。神経質や神経症を対象とした森田は、ナチュラルな公案の道に療法を切り拓いていった。坐禅と公案を重んじた宗活老師とまったく同じ道を歩んだのではないが、到達するところは同じなのであった。結果論としての両者のこのような違いと、森田が参禅に長続きしなかった、持ち前の脱線癖とは、区別されるべきである。この点は、森田の病跡という見地から、さらに論じ続けるべきことであろう。