森田正馬の目移り―座禅から静座法へ―

2022/03/07

森田が谷中の両忘会に参禅した明治43年、折しも両忘会と目と鼻の先の本行寺で岡田虎二郎が行っている静座法が注目を浴びていた。参禅をやめた森田は早速そちらを見学に行った。そこで、今書いているこの記事も少々脱線して、静座法と森田療法の関連について、主な人々の相関について記しておく。

 

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・岡田虎二郎と静座法。岡田は愛知県田原町出身。農業をしていたが、突然アメリカに遊学して、帰国後、日本の伝統文化も西洋文明も否定し、個人の内側から湧き出る内的霊性を重視し、東京に出て、明治末より日暮里の本行寺という真宗の寺を借りて、静座法を始めた。多くの人たちに知られるところとなった。

 

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・森田正馬は、明治43年に2月から5月頃まで谷中の両忘会に参禅したが、同年7月に、岡田虎二郎の静座法を見学に行っている。静座法がおこなわれていた本行寺は、谷中墓地の向かい側にあり、両忘会があった谷中初音町二丁目にもきわめて近い。森田は両忘会から、本行寺へと目移りしたと言われてもしかたあるまい。

 

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・京都に小林参三郎という医者がいて、彼も静座法をやった。小林は、兵庫県出身で、東京に出て医師資格を取った後、渡米し、サンフランシスコの大学で医学を研究し、学位取得、外科を専門とした。その後ハワイで日本人慈善病院を設立、一時帰国して郷里に戻ったときに、真言宗の僧侶と会い、その後真言宗との関係が続く。明治41年に帰国し、真言宗の慈善病院設立の動きに加わり、明治42年に、京都の東寺に建設された済世病院の院長となる。真宗の僧侶たちとも交流した。最初は、霊術的な治療をしていたが、小林は夫人と共に上京して岡田式静座法を学び、大正二年より、岡田を京都に招いて、済世病院や各所で静座会を開いた。

・宇佐玄雄が初めて小林に会ったのはいつかわからないが、森田が大正14年に三聖病院を訪れた時に、小林も三聖病院に来て森田の診察を見学し、森田は小林のところに行って晩餐を共にした(森田の日記に記録あり)。

・岡田虎二郎は、大正九年に病没。

 

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・倉田百三は、小林の著書を読んで、静座をしたくなり、大正14年に済世病院に入院したが、入院して一週間後に小林参三郎は急逝した。倉田は、ここで静座に入る前に臥褥療法を受けていた。これは、小林が森田療法を自分で真似たのか、森田、または宇佐に相談して倉田向けに森田療法的に臥褥をさせたのか、または病弱な倉田のために臥褥から始めさせたのか、不明。倉田は静座をさせて欲しいと、小林夫人に強く願い出たが、結局済世病院に入院を続けながら、三聖病院に通院した。倉田は、ここで宇佐玄雄から厳しい指導を受けたことを『神経質者の天国』」に書いている。父の病の悪化のため、済世病院に入院しながらの三聖病院通院は短期間で切り上げて、倉田は藤沢に帰った。その後も、彼は京都の小林夫人を度々訪れている。三聖病院には来ず。

・倉田は父の没後の昭和2年に森田診療所を受診。日曜日ごとに森田の診察を受けに来た。この時期に、入院中だった若き鈴木知準先生は倉田にお会いになった。

・ 岡田、小林、森田、宇佐、倉田の関係はおよそ以上のとおりである。

 

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・ 宇佐は、建て前としては、自分の療法はひたすら森田の祖述であると言っていた。しかし、晩年には、真宗思想に傾いた(真宗的と言っても、不断煩悩得涅槃、また自然即時入必定、などの頓悟に似た原理的な厳しい易行の教え)。

・ 宇佐が真宗に傾いた原因のひとつとして、小林とその周囲にいた仏教者たちの超宗派的な姿勢の影響があったかもしれない。小林や小林夫人の静座法は、仏教各宗派と近い関係にありながらも、仏教とやや距離を置き、精神的に深い問題は仏教に委ねるという関係を作っていた。ちょうど、白隠の内観や軟その法は、禅そのものではなかったという関係に似ている。仏教との間に相補的な棲み分けがなされていた。

・ 結局、森田が静座法をどのようにとらえたかについては、よくわからない。