森田正馬が参禅した老師、釈宗活―その人物と生涯―【修正版】(下)

2021/12/19

 

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(承前)

 

5.「粋(いき)」を究めた人、釈宗活

宗活は、幼少より、父から書画などの芸術を含む幅広い情操教育を受けて育った。禅に関心が傾いて今北洪川に弟子入りしたが、もともと芸術家として身を立てようとしていて、その頃、東京美術学校の学生であった(両忘会に参禅して宗活の弟子になり、出家して京都の大徳寺の管長になった後藤瑞巖の伝記、島崎義孝の著作による)。円覚寺に入ってからは、鎌倉彫の仏教彫刻を身につけた。参禅した夏目漱石に、三味線を引いて大道ちょぼくれを歌って聞かせたという。
西山松之助という江戸文化の研究者がいた。西山氏は、釈宗活老師に私淑して、学生の頃に択木道場に住み込んでいた人である。自分は禅だけでなく、歌舞伎にも関心を持っていたところ、宗活老師自身が歌舞伎に通じている方であったということを、回想として著書(『ある文人歴史家の軌跡』)で、聞き役の人に対して述べている。
当時歌舞伎の女形の有名な役者がいて、それが宗活老師の親戚だったこともあって、老師は歌舞伎に詳しかった。
また、宗活老師には、恵直(えちょく)さんという素晴らしい女性がおられた。恵直さんは奥さんだったかどうかはわからないけれど、新橋の医者の娘で、若いときから河東節をやっていて、歌、三味線ができた人で、知らない曲はなかった。河東節の名取名は山彦不二子といい、NHKの音のライブラリーに吹き込んだ曲が沢山残っている。老師はこの恵直さんから河東節を教えられた。
老師は、古希になって一旦引退して、関西に移り、多田の隻履窟という住まいにいた。そこを訪れたら、昼間は老師は絵を描いていて、夜になると河東節が始まって、恵直さんが三味線を弾いて、助六を語る―。
禅と歌舞伎がこういうふうに結びついていた。枯れている禅ではない、艶っぽい禅、色っぽい禅だった、というのである。
隻履窟は、別名残夢荘で、兵庫県川辺郡多田村にあった田舎家である。現在は川西市内にあたるが、地図を見ても、人里離れた山間の地のようである。
宗活老師は、昭和15年から3年間、ここに隠棲して、書画などを制作する遊戯三昧の日々を送った。山間の自然と書画と禅と河東節が溶け合った、粋(いき)の極致であった。

 

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6.河東節の山彦不二子(禅の徳永恵直)

西山松之助氏は『ある文人歴史家の軌跡』の中では、宗活師匠の侍者のような女性のことを、しきりに「恵直さん」と言っている。それは禅子としての道号だろうと推測されたが、西山氏は河東節の山彦不二子の面ばかりを語っていたので、浄瑠璃を語るお座敷の出身の女性かとも受け取れて、人物像として不明のところがあった。
ちなみに、浄瑠璃のひとつである河東節は、代表的な江戸浄瑠璃で、歌舞伎の伴奏音楽としての地位にあったが、次第に常磐津などの他の節に人気を奪われ、お座敷で語られる浄瑠璃として、通の人たちに愛好されるようになっていた。したがって、河東節は吉原との関係が深かった。河東節のそのような背景もあり、山彦不二子(恵直さん)の経歴や宗活老師との出会いについて、ほとんどわからなかった。しかし、西山氏の別の著書『家元ものがたり』や、禅関係の文献から、この女性の人物像や老師との間柄が浮かび上がってきた。
この人は、芳紀十九歳より、父の徳永医師と一緒に釈宗演の門に入って修行をしていたという。宗活老師がインドから帰朝したときに、東京での両忘会の再興を宗活老師に請いたいという嘆願書を、宗演老師に対して出した数人の在家の居士たちがいたが、その中に徳永父娘も加わっていた。この数人は、インドに渡る前から宗活を知っており、宗活に信頼を寄せていた人たちである。夏目漱石のように、円覚寺で宗演老師に参禅しながら、塔頭の帰源院で宗活の世話になった人たちがその主要メンバーであったと考えられる。徳永父娘は、娘の方が修行の進度が優れていて、「慧直」という道号を宗演老師から授かっていた。父娘は再興後の「両忘会」に参加し、日暮里の農家の建物を道場用に買い取って寄進している。若い愛娘に河東節を習わせ、禅の修行に連れて行って、修行では娘に遅れをとりながら、道場の建物を寄進した父親も、風流な人だったように思える。
恵直は、宗活老師がサンフランシスコに布教に渡った折にも、共に渡米し、アメリカで修行を続けて印可を受け、芙蓉庵劫来慧直老大姉となった。
こうして慧直(恵直)老大姉は、両忘会内における重要な人物のひとりになるとともに、個人的には宗活老師の「常住侍者」として仕えるようになっていく。宗活と恵直は、強い信頼関係によって結ばれていた。
禅の方で老大姉になった恵直は、河東節においても、山彦栄子師匠より芸道を受け継ぎ、名取の山彦不二子となって、その分野で活躍した。
禅においては宗活が師、河東節では恵直が師で、粋な関係の二人であった。

 

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7. 在家禅(居士禅)の指導者であった釈宗活

宗活は蘭方医の息子として生まれ、医家を継ぐべく育てられたが、相次ぐ両親の死で孤独を生き、その中で禅に活路を見いだした人である。出家したが、それは世をはかなんでのことではなく、また禅寺の住職になろうとしたわけでもなかった。円覚寺でひたすら修行をし続ける過程での、通過点としての出家得度に過ぎなかった。だから宗活は、出家しても一生住職にはならぬ、と自分から釘をさして、釈宗演から得度を受けた。「御身の富貴栄達を望まぬ。心を磨けよ」と言った母の遺言を胸に秘めていた宗活は、僧侶になろうとも、仏門の階段を上り、寺に安住する生活に身を置こうとしなかったのである。宗活は本当の禅を追求し、それを人びとに伝えようとした。自分は出家をしたけれども、在家者とともにあって、在家者の禅的生き方に尽くそうとした人である。
遡れば、少年、入澤譲四郎だった頃、禅を志し、本郷の麟祥院で初めて今北洪川に出会ったのだったが、このときから両忘会との絆が生じていたと言える。両忘会は、明治8年に山岡鉄舟らが、禅の封建的体質を改め、寺院の殻を破って禅を在家者に開かれたものにしようと、麟祥院で今北洪川を師と仰いで、禅会を創設したものであった。洪川は数年後には円覚寺の管長になったが、麟祥院に指導に来ることがあったのであろう。譲四郎が麟祥院で洪川に会ったのは、明治22年のことである。洪川は明治25年に没しているので、両忘会は途切れてしまっていた。禅に関心のある一部の在家の文化人たちは、円覚寺の釈宗演老師のもとに参禅していた。徳永父娘が宗演に参禅したのも、宗活が塔頭で在家の参禅者の世話をしていたのも、その時期のことである。両忘会とも、徳永恵直とも不思議な糸で結ばれていた宗活は、こうして両忘会を再興して、在家禅の指導に尽くすことになった。
組織としての両忘会は、大正14年に財団法人両忘協会となり、昭和13年には谷中にあった本部道場は、千葉県市川市に建築された新道場に移転した。それは森田正馬が没した年のことである。昭和14年、宗教団体法が施行されたことにより、宗教団体「両忘禅協会」が立ち上げられて宗活老師の弟子の立田英山老居士が代表者になったが、宗活を代表とする「両忘協会」は宗教団体を名乗らずに、そのまま存続することになった。組織の逆転した二本立てがここに起こっている。在家禅の組織が急いで宗教団体化することについて、宗活はおそらく慎重だったのであろう。
古希を迎えた宗活は、昭和15年に関西の残夢荘(隻履窟)へと身を退き、三年を過ごした後、常住侍者の恵直とともに千葉県八幡の残夢荘(寓居)に移っていた。
組織というものが、時代の流れの中で目標を見失わずに機能し続けることは難しい。戦後の昭和21年、宗教法人法の施行で、組織は宗教法人になることを選び、立田英山老居士を主管として「宗教法人 両忘禅協会」として登記をした。しかし、翌22年に釈宗活老師はその解散を宣告したのである。老師は、在家禅の宗教団体化や、指導者のあり方に厳しい目を向けていたのであった。ここにおいて、明治以来の両忘会の流れと、それに対する宗活老師の長年にわたる指導者としての関わりは、終焉を見た。
しかし現実には大きな組織が残されていた。再び三たび立田英山老居士の主管で、新たに昭和23年に、「宗教法人 人間禅教団」が立ち上げられた。その「人間禅」は今日にまで続いている。
宗活は、弟子の大木琢堂に身を寄せて、千葉県八日市場の寓居で徳永恵直とともに最晩年を過ごし、昭和29年に遷化した。享年83歳。
西山松之助氏は、昭和30年秋に、房州のその住まいに徳永恵直(山彦不二子)を訪ねている(『家元ものがたり』)。禅の道の奥底を究め、河東節の正統の継承者であるこの人は、81歳ながら端正でキビキビしていて、江戸っ子らしいイキが感じられたという。西山氏は、「イキ」と書いているが、感じたのは、粋であり、心意気でもあったのであろう。
なお今日、千葉県茂原市に両忘禅庵があるが、これは宗活没後に大木琢堂の子孫により開設された禅道場である。宗活の遺した芸術作品の多くは、ここに保管されていると聞く。

宗活は出家者でありながら、寺に入ることなく、また出家者であるがゆえに在家の生活に甘んじることなく、家を持たず、正式に家族を持たず、みずから禅に生きた人であった。在家者に対する禅指導を使命として、いわば非僧非俗、あるいはむしろ僧と俗のはざまに生きて、一方に偏することがなかった人であった。人柄は温かく、しかし禅の指導者となって人の上に立つ者に対しては、厳格に接した。
宗活自身自分に厳しく、かつ自由に、無所得、無一物を生きたのである。

森田正馬がかつて参禅した老師は、こんな人生を送ったのである。実に森田療法的な人生だったと言えるのではなかろうか。

 

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8.釈宗活と森田正馬の再会

森田正馬は、明治43年の両忘会への参禅から20年近くを経た昭和3年の11月18日(日)の日記に、次のように記載している。
「古閑君ト共ニ上野両忘会記念会ニ出席、来賓総代トシテ祝辞ヲ読サル」
両忘会は、居士禅として独自に歩むため、大正14年には財団法人となり、名称を「両忘協会」にしている。法人化が成されて、一層多忙を極めていた宗活は、体調を崩し、千葉県市川市八幡に新築された「残夢荘」という庵に昭和2年に転居した。東京の擇木道場にも来て指導を続けたが、千葉と東京の二重生活となった。昭和3年の両忘会記念会とは、東京での活動の歴史を懐古しての集いであったろうか。森田が招かれたのには意味があったのである。来賓の総代として、祝辞を依頼されており、宗活老師に参禅歴のある慈恵医大教授として、老師から重要人物と目されたのである。ちなみに「我家の記録」によれば、森田は大正15年3月に釈宗活老師の『臨済録講話』を読んでおり、さらに昭和3年に、記念会への出席との前後関係は不明ながら、自著2冊、『神経質の本態及療法』と『神経衰弱及強迫観念の根治法』を宗活老師に贈っている。かつて明治43年に森田に参禅を勧めたのは、富士川游のもとに共に出入りして知り合った藤根常吉であったが、藤根はその後も両忘会に参禅し続け、会の幹部のひとりになっており、昭和3年の記念会への森田の招待も、藤根と宗活の合意によるものだったろう。森田は、昔自分は釈宗活老師に参禅して公案を通らなかったという話を形外会で数回持ち出しているが、それはこの記念会に招かれて以後のことであり、来賓という公的な出席だったとは言え、参禅した記憶を反芻する機会を与えられたに違いない。宗活とて、かつて参禅してくれた医師が教授として大成した姿に接して、感慨を覚えたことであろう。しかし、この記念会は、宗活が東京での生活に区切りをつけた時のことであり、ふたりにとって再会であるとともに、別れの始まりでもあった。
かくして、両人にとって、記念会での出会いはあったが、新たなドラマが展開されることはなかった。たとえそれでも、宗活の生き方には、森田正馬が目指したものがあるように思われ、そのような関心から、宗活の生涯をここまでたどってきた。

 

【 付記 】

 

1. 「釈宗活」についてのウィキペディア Wikipediaの情報について。
ウィキペディア Wikipediaの「釈宗活」の項に出ている情報には、誤謬が多い。「両忘会」は、何度も場所が変わったが、その場所と期間についての記載が正確ではない。数年前から、編集履歴を見守ってきたが、誤謬が繰り返され、「両忘会」が居を定めていた場所と期間を意図的に改竄しようとしているとさえ思われかねない編集ぶりであることを指摘しておく。

 

2. 谷中初音町二丁目における、森田が参禅した両忘会があった場所の特定について。
これについては、国立国会図書館のデジタルコレクションの中の、当時の東京市の地籍別の地図より、初音町二丁目の各地籍が判明した。しかし、両忘会があった土地の番地も地主名も不明のため、最終的な特定はできなかった。
そのため、まず千葉県茂原市に現存する両忘禅庵に問い合わせてみた。宗活が晩年に身を寄せた大木琢堂の子孫により開設された禅道場である。現在のご住職から返信をいただいたが、初音町二丁目における番地などにつながる情報に触れることはできなかった。一方、当時の両忘会の建物の写真があるとのことであったが、残念ながらその写真画像をいただくまでには至らなかった。今後の研究者がもし関心を持たれたら、この両忘禅庵に、森田が参禅した両忘庵の建物の写真が所蔵されていることに留意されるとよい。そのことをここに伝えておく。
もう一カ所、谷中の天龍院にも、かつての谷中初音町二丁目にあった両忘庵の場所の特定について、問い合わせた。天龍院は、全生庵の向かい側にある妙心寺派の禅寺で、両忘庵での接心の日の午後に宗活老師が提唱をおこなったという寺である。現在の住職が調べてくださったが、初音町二丁目に存在した両忘会についての情報は、天龍院にはなく、またご厚意で他の関係者にも尋ねてくださったが、一切不明とのことであった。

 

森田正馬が参禅した老師、釈宗活—その人物と生涯—【修正版】(上)

2021/12/18

釈宗活老師(50歳頃)

 

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1. 森田正馬と釈宗活

森田は、明治43年に谷中初音町にあった両忘会の釈宗活老師のもとに参禅した。
その事実について、そして両忘会は旧谷中初音町二丁目にあったことや、当時のその地区の環境、また現在地との対照などについて、既にかなり詳細にわたって記してきた。また両忘会は在家者向けの禅道場で、釈宗活老師は在家禅に力を尽くした人であったことについても述べてきた。
およそこれらのことをまとめて、第35会日本森田療法学会で発表した。
それにしても、森田正馬は、生涯にただ一度参禅して相まみえた老師、釈宗活の印象を語っていない。だが語らなかっただけに、内面にその印象を秘め続けていたのかもしれない。ちなみに森田は、参禅から約10年後の大正13年に出版された、釈宗活の著書『臨済録講話』を読んだことを当時の日記に書きとめている。宗活老師への関心が長く続いていた証左である。
その釈宗活老師はどんな人だったのであろう。ある程度は断片的に記したが、資料が乏しくて不明な点が多く、十分に把握しきれていない。最近、少しだが追加的に資料を入手した。これにても宗活老師についての伝記的全容に迫ることは到底できないが、不明だったところが少し埋められてきた。資料を参考に、参禅にまつわる森田の心理も推し量って書き加えつつ、宗活老師の人物像や生涯をおぼろげながら、たどってみたい。

 

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2.釈宗活(入澤譲四郎)の生い立ち

釈宗活、本名入澤譲四郎(1871-1954)は、東京麹町の蘭方医、入澤梅民の三男として生まれた。父方祖父の入澤貞蔵(貞意)も越後出身の江戸の蘭方医であった。入澤一族は信州の北条時頼・時宗の末裔にあたる越後の庄屋であったが、その家系からは医者が多く輩出している。譲四郎の祖父貞蔵(医者)の弟、健蔵(庄屋を継いでいた人)の次男、入澤圭介は池田家に養子に入り、池田謙斎と名乗った人で、西洋医学を学び、東大医学部の初代総理になった著名な人物である。
同じ貞蔵の弟、健蔵(庄屋)の長男の、その息子である入澤達吉は医者で、東大内科教授になっている。この入澤達吉と釈宗活(入澤譲四郎)は、祖父が兄弟であるから、二人は「いとこの子」同士になる。入澤達吉は、東大生の森田正馬の診察をして「神経衰弱兼脚気」と診断した教授、その人である。そして森田は卒業後に、釈宗活のもとに参禅する。森田は、自分の生涯において出会った重要な二人の人物が、親族であることを知っていたであろうか。あるいは後日にでも知ったかもしれない。それはわからない。釈宗活自身は、短期間両忘会に参禅した若い医者が、学生時代に入澤達吉教授の診察を受けた男だったとは知らなかったであろう。
入澤達吉は医師として優れた人物であったのみならず、人間的にも深みのある人だったようで、入澤一族に通じ合うような人間味を宗活老師もそなえていたのであろうと思われる。
入澤一族の蘭方医の息子に生まれた宗活、すなわち譲四郎は、三男であったが、父は医家の後継ぎを託せるのは長男、次男でなく、この三男であると見込んで、幼少のときから漢籍、武術、書画、彫刻などにわたり、厳格な教育を施した。母からは深い慈愛を注がれて育ったが、11歳の時にその母は大病で急死した。臨終の際に、母は息子に言い遺した。「何よりもまず心の修行を第一に心がけよ。母は御身の富貴栄達を望まぬ。心を磨けよ。独立独歩、他に依頼心を起こしてはならぬ」と。母の最期のこの訓戒を子ども心に肝に銘じ、生涯を通じてそれを忘れずに生きたのであると、後年に宗活老師自身が語っている。
さて母の死の翌年、12歳の時に父もまた病で急逝した。両親を失って孤児になった少年は、母の遺言を守り、ある教師の家に入って労働をしながら苦学した。しかし心身ともに病み衰え、神道や心学などに入って修養を試みるも適さず、禅の修行に関心を持つようになった。ちょうど叔母にあたる人が、鎌倉の今北洪川について参禅をしていたので、洪川が本郷の麟祥院に摂心の指導に来た折に叔母から紹介を受け、洪川に入門を許されて、円覚寺に入ることになった。譲四郎、20歳の時のことであった。

 

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3.円覚寺における禅修行

入澤譲四郎は、円覚寺の塔頭に入り、修行に打ち込み、かたわら扇谷に通い、運慶の流儀の仏教彫刻を学んだ。やがて洪川老師から石仏居士という名号を与えられた。その後洪川老師は没し、居士のままでいた譲四郎は、さらに修行を深めるために出家得度の必要に迫られた。母の遺言に従い独立独歩で生き、寺の住持になることを望まなかった彼は、一生寺に入って住職になることはしないという条件を自分の方からつけて、釈宗演老師のもとで23歳で得度を受けた。得度により宗活の法諱を授与され、また釈宗演の養子になって、釈宗活と名乗ることになった。その後も修行を続け、帰源院という塔頭の監理を任されて、摂心に参加するために外部から来て宿泊する人たちの世話をした。この体験は、後に「両忘会」の師家となって居士禅を鼓吹する因ともなった。
夏目漱石が明治27年末に帰源院に宿泊して、釈宗活の世話になりながら、釈宗演に参禅したが、それはこの時期のことである。漱石は後に、小説『門』の中に、そのときの体験の記憶をそのままに描写している。小説中、宗活は宜道という名前で登場するが、漱石はこの若い禅僧が何年も厳しい修行に耐え続けていた様子や、宿泊者に丁寧に接してくれる優しい人柄の持ち主であったことを、書き記している。一方『談話』の中の「色気を去れよ」という題の話には、宗活のひょうきんな面が語られ、宗活さんは、白隠和尚の「大道ちょぼくれ」を聞かせてくれたなどと記している。漱石と宗活の交流はその後も続いたと言われるので、宗活が後年に東京に出てから、両者が会った可能性はあるが、定かではない。
こうして円覚寺での約8年間の修行を経て、印可を受け、明治31年より宗活はインドに渡り、聖胎長養のごとき修行体験をする。インド僧とともに熱砂の上を歩いて托鉢をしたり、暴漢に襲われるような危険にも遭遇して、九死に一生を得たこともあった。インドで2年を過ごし、明治33年に帰朝した。

 

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4.「両忘会」の再興

帰国すると、折しも、かつて帰源院で世話をした居士たち数名より、かつて山岡鉄舟らによって創設されて、中断されていた在家禅の「両忘会」の再開を望む拝請が円覚寺に届けられた。それを受けて、釈宗演老師の命により、宗活老師は早速東京に出て、「両忘会」再興の任に当たることとなった。
まず明治33年に、山谷の湯屋の二階に仮の草庵を設け、34年に根岸に、さらに日暮里にと道場の場所を移動した。日暮里の道場は、元農家の一軒家で、両忘会再興の拝請に名を連ねた、新橋の医者、徳永道寿居士と娘の徳永恵直が買い取って、寄進したものであった。この徳永恵直は、浄瑠璃の河東節に秀で、禅にも励んだ女性で、後に宗活老師の侍者となって、生涯を共にすることになる運命の人である。
また日暮里に両忘会があった時期の明治38年には、平塚らいてうが参禅している。らいてうは、その自伝に両忘会での参禅の体験とともに、若き釈宗活老師の気品ある指導について書いている。
しかし、明治39年、アメリカのサンフランシスコで禅の布教に当たっている居士たちからの慫慂があり、渡米することになった。そして3年後の明治42年に帰朝、同43年より、谷中初音町二丁目の借家で両忘会を再開した。
森田正馬が、富士川游の弟子の藤根常吉の誘いで、両忘会に参禅をしたのはこのときである。森田はこの参禅について、日記にごく簡単に記しているだけである。摂心のときに早朝座禅に通い、午後は天龍院(同じ谷中地区にある妙心寺派の禅寺)で、提唱を聞き、また老師の前に3回くらい参じたが、公案は透過しなかったと言う。森田は、自分の療法は禅から出たものではない、たまたま一致するだけである、禅のことはわからないと、自己卑下をするばかりとなった。そして宗活老師の印象について、何も述べていないが、宗活老師への参禅によって、内心感じるところがあったのではなかろうか。宗活が入澤一族の人であることを知っていて、語ることを控えたとも考えられるが、単にそれだけであろうか。
大正の初めには、両忘会の田中大綱居士によって、谷中墓地に隣接した天王寺の寺域に新築した道場用の建物が寄進された。擇木道場と命名されて、それまで借家を転々としていた両忘会は、その道場に落ち着いて、宗活老師はそこで指導を続けた。
森田正馬は、谷中墓地を散策の場所として好み、弟子の佐藤政治と深夜に谷中墓地を歩きながら、神経質の治療について語り合ったと言われる。森田は、かつて参禅した谷中初音町二丁目の両忘会がその近くの天王寺域内の道場に移転して、そこに釈宗活老師がいることを知らなかったはずはない。谷中墓地を散策すれば、宗活老師に近づくことになる。森田は老師を慕っていた面があったのかとまで考えたくなる。
名だたる禅僧、忽滑谷快天や、釈宗演をも批判して憚らなかった森田正馬にとって、釈宗活老師は格別の存在だったであろうか。

 

(次回に続く)

 

 

森田正馬の日記は誰のもの―研究資料としての森田の日記の流通について―

2021/12/17

 

 

 

森田正馬は、明治26年、中学生だった19歳のときの冬休みより日記をつけ始めた。翌年、大病になった時期には中断したり、断続的にはなるが、日記の記入は継続される。日記の内容は、日常の体験、自分の行状や健康状態、家族のこと、交友、読書記録などである。とくに一念発起して書き始めたようでもないこの日記は、実に晩年に至るまで克明に書き続けられた。後に森田は記録魔だったとまで言われるに至ったほどである。野村章恒は『森田正馬評伝』の中で、森田が昭和11年12月18日および昭和12年9月29日の日記に愛弟子の古閑義之のことを書いているくだりを、短いながら引用しているので、森田は死の前年の9月の時点ではまだ日記を綴っていたことがわかる。日記は、大正末で大学ノート( 四六判 )36冊に及ぶが、残されているのは昭和4年までで、以後のものは戦火で焼失したと言われる。また戦後まで熱海の森田旅館に保管されていたが、熱海大火で一部焼失したのだとも言われる。
ともあれ、このように若かりし頃から晩年まで、生涯にわたる日記が残されていると、日記自体が自伝になるし、その人が生きた証しとしてのモニュメントになり、近親者にとっては、その人の人生のページをめくって懐かしむよすがとしての貴重な遺品になる。著名人であれば、日記が研究資料としての価値を帯びる。
概して日本人はよく日記をつける。ドナルド・キーンは戦没した日本兵の日記を見て、日本人が日記を付ける行為は、日本の伝統の中に確固たる地位を占めていると指摘した(『百代の過客―日記にみる日本人―』講談社、2011)。しかし、書く本人は常に死後のことを意識して日記を書くとは限らない。それは、日本人が青年期に対社会的というより、社会に適応すべき自己に向き合って、書きとどめおく自己の記録なのであろうか。

 

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森田正馬は、適応を志向する人ではなく、疾風怒涛を生きる若者だったが、自らのレゾン・デートル(存在理由)を明らかにするために、中学校卒業間近い頃から、日記を書き出したのは不自然なことではなかった。五高時代の友人の寺田寅彦も、少年時代から晩年まで日記を書き続けていて、五高時代の森田の蛮行を日記に綴っている。寺田の日記は、その全集に収録されているが、未だに「正式な公表」をされないまま、問題を残しているのは、森田正馬の日記なのである。
森田療法は、創始者、森田正馬が自称「神経質」者として生きた人生を根源とする。そこに分け入るには、森田の生涯を知ることが必要である。晩年の約10年間の分が欠けているとは言え、明治26年(19歳)から昭和4年(54歳)までの35年間の日記が残されている。それは森田療法の歴史上の極めて貴重な史料として、三島森田病院に所蔵されているのである。三島森田病院は、昭和34年に森田正馬の甥であり養子でもあった森田秀俊医師によって開設された病院で、森田の日記はこの病院に保管されてきた。森田の没後、おそらく熱海で井上常七氏が日記を預かっていて、それが森田秀俊医師に託されたのではなかろうか。日記は三島森田病院において、門外不出のものになっていたようである。

こうして森田の日記は病院に保管され続け、少なくとも公的には、研究者たちの閲覧に供されない期間が続いてきたのはどうしてだろう。さまざまな事情が考えられる。日記を公にすれば、本人の素顔や家族のプライバシーが露わになる。たとえば、世界的にベストセラーになったユダヤ系ドイツ人の少女の『アンネの日記』でも、母への憎しみの言葉や性の目覚めについての表現などは、編集上削除して出版された。
森田の場合、夫婦のまぐわいのあった日の日記に、ドイツ語の Begattung の頭文字の B を符丁として記入し、年末にそれを集計したりする念の入れようをした部分もある。しかしこのような箇所を削除すれば、史料としての価値を失うので、公表する以上は、そんな卑近なことまで露わになることを避けられない。また生涯にわたる森田の日記は長すぎるし、事実としてあったことを叙事的、断片的に記し続けていて、読み物としては出版には適さない。行書で書かれた記述を正しく活字に移す作業も、困難を伴うであろう。そのように考えると、日記が三島森田病院の中で非公開史料として眠っていたのも理解できる。

 

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そんな森田の日記が入っていたパンドラの函が、ついに開けられる時期が訪れる。
まず昭和45年に文光堂から大原健士郎、藍沢鎮雄、岩井寛の共著の『森田療法』が 刊行されたが、この中に「森田正馬の生涯」と題する章がある。この章は、森田自身が日記の重要部分を再録しつつまとめた「我が家の記録」について、紹介すべき箇所を多く抜粋し、森田直筆の図や記録の写真をふんだんに添えながら、それらの掲載に紙数を当てている。「神経質」誌に掲載された「正一郎の思ひ出」や「久亥の思ひ出」も一部引用されているが、ともかくこの章は、森田の日記そのものを保留して、その周辺の日記に準ずる森田自身の書き物を媒介にして、その生涯を伝えようと意図したものであった。

同じ昭和40年代に、白揚社から『森田正馬全集』の出版が準備されるとともに、『森田正馬評伝』も同時に出版されることになり、野村章恒氏が執筆を引き受けている。この『評伝』の執筆に当たっては、三島森田病院の許可のもとに、野村氏が森田正馬の日記を資料として活用することになったようである。その頃には、ゼロックスによるコピーが可能になっており、野村氏は日記の現物を参照したのみならず、ゼロックスによる日記のコピーにも携わっていた。そのことがわかる記述が、『評伝』の中に見られる。大正末に森田が京都の三聖病院を訪れた際に、東寺の済世病院で静座法を行っていた小林参三郎医師と森田が出会った経緯について、昭和45年にある医師から野村章恒に問い合わせの手紙が届いた。それに応えようと野村は当該時期の森田の日記を調べたのだが、「大正十四年はただ今現物がゼロックス屋に出してありますので未点検です」と相手に返事を書き送った。つまり昭和45年の時点で、三島森田病院と野村章恒氏は合意して、森田の日記のコピーをゼロックス屋に発注していたのである。
昭和30年代後半に、わが国で富士ゼロックス社が設立され、オフィス向けに複写機の販売を開始し、昭和45年にはゼロックスの 「ビューティフル」 キャンペーンを展開して、販売の促進をはかっている。複製技術が生活の中に入ってきたのである。こうしてコピー文化が普及する中で、森田正馬の日記という、ひとつしかない個人的資料が、ひとつしかないがゆえに、ついに複製されることになったのだった。それはビューティフルな英断だったのであろうか。日記のコピーの部数は当然複数部であったはずで、それらは森田療法の重鎮の方々に進呈された。その相手方としては、たまたま筆者が知っただけで、藤田千尋、水谷啓二、鈴木知準といったお名前があがる。
かくして、要人らに配布された日記のコピーは、それが秘蔵されている三島森田病院に、日記の実物の閲覧を願い出る敷居の高さの解消に役立ち、配布を受けた方々の責任のもとに、周囲の研究者たちに日記のコピーの閲覧を認めるというビューティフルな便宜に益したのであった。しかし、その際、要人らがお持ちのコピーがさらにコピーされて、外部に出ていった可能性はある。このへんは闇の中である。

 

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コピー文化の次に到来したのは社会の情報化で、20世紀末から、パソコンやインターネットが生活の中に普及した。森田正馬の日記もその洗礼を受け、データ化されて、保存と流通に供されることになったのである。こうして、もうひとつのビューティフルな物語が始まった。データ化の拠点となり得たのは、日記のオリジナルを所有しておられる三島森田病院をはじめとして、コピーの提供を受け、それを所有している要人ないしその関連の機関であった。これらの複数の機関のどこでいつデータ化が行われたか、全容は不明である。しかし日記をデータ化するには、まず厖大な量の日記のコピーをスキャンする手作業から始めねばならず、手間を要する。さらにそれを CD-ROM に収める作業も技術と時間を要したので、資料の CD-ROM 化は業者に依頼する必要があった。情報化の流れの中で、森田の日記の CD-ROM 化が行われることになったが、その責任と業者に支払う費用を考慮すれば、やはり安易に行い得ることではなかった。だから CD-ROM 化をプロジェクトとして実施したのは、少数の機関に限られたであろう。

 

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東京に「高良興生院・森田療法関連資料保存会」(通称「保存会」)がある。この「保存会」では、その設立の趣旨に沿って事業として日記の CD-ROM 化が行われた。これについては、藤田千尋先生が、「保存会」から2006年に出された「野村章恒先生と竹山恒寿先生」という刊行物への寄稿文の中で、保存会の役割と数年来のの実践を振り返って、行ってきたさまざまな事業の報告に加えて、さらに次のように記しておられるのである。「また森田先生の日記をCD-ROM化する収録作業も進めてきました。これらの成果の背景にはメンタルヘルス岡本記念財団のご支援があり、また、会員の皆様や保存会役員諸氏の熱心なご協力があったことは申すまでもありません。」 藤田先生のこの文章が掲載された出版物は、保存会が出した私家版だが、閉ざされたものではなく、森田療法関係者の閲覧に向けて発行されたものである。保存会の使命として森田の日記の CD-ROM 化を実施したという、森田療法関係者への報告だったと理解できる。
ただしこの事業の結果として、森田正馬の日記は、形あるモノとしては1枚のCDになり、また形もない情報のデータとなり、見えない流通が危惧される状態になったのである。それに、日記のコピーやデータ化されたものを何ぴとかが所有すれば、世俗的な権威と結びつくことも懸念され、そのような場合には流通が不当になる。それらはおそらく藤田先生が予期されなかった事態であろうと思われる。
さらに付け加えるなら、CD-ROM 化は「保存会」だけで行われたわけではないので、どこで制作されたかによって、日記のページの一部が欠落していたり、していなかったりする。たとえば重要なある時期の日記部分が、CD-ROM 化に際してなぜ欠落の対象になったのかと、考えながら読み比べることになる。

 

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自分は森田療法の歴史に関心を持ったきた者として、日記を参照したくても、数年前までは容易にできず、困った経験をしてきた。約10年前に「保存会」に関心を持ち、入会させていただいた。日記の CD-ROM 化は完了した時期の入会だが、研究上の必要性についてのご理解のもと、日記のデータの入手について便宜をはかっていただいた。そんな立場にいる自分だから「保存会」には大変感謝しているし、また「保存会」がその任務として、日記の CD-ROM 化の事業をなさった事情も知ることになった。それを書くことは本稿の趣旨として許されるであろうと、勝手ながら判断して書かせていただいた。日記のデータ化は、時代の流れとして必要で不可避なものとなっていたのであり、まさに「保存会」がその任を負っていたのだから。
ただし、もどかしく思っていたことはある。それは無論、日記をデータ化した後の情報管理である。データは地下の闇の中で流通しているかもしれない。多少遅きに失するかもしれないのだが、日記のデータの活用を必要とする真摯な研究者たちには、明朗な形で提供してあげられるように、そして日記の流通が世俗的な人脈と別に、公的に行われるように、オリジナルが所蔵されている三島森田病院との提携のもと、「保存会」がデータの流通管理に積極的に関わってくださることを願っている。
そして、研究上日記の閲覧を望まれる方は堂々と「保存会」に相談や依頼をなさればよい。快く応対していただけるはずである。

 

森田正馬の日記は誰のものなのか。今、ご遺族や三島森田病院や、森田療法関係者が考え合うべきときであると思う。