森田正馬の日記は誰のもの―研究資料としての森田の日記の流通について―

2021/12/17

 

 

 

森田正馬は、明治26年、中学生だった19歳のときの冬休みより日記をつけ始めた。翌年、大病になった時期には中断したり、断続的にはなるが、日記の記入は継続される。日記の内容は、日常の体験、自分の行状や健康状態、家族のこと、交友、読書記録などである。とくに一念発起して書き始めたようでもないこの日記は、実に晩年に至るまで克明に書き続けられた。後に森田は記録魔だったとまで言われるに至ったほどである。野村章恒は『森田正馬評伝』の中で、森田が昭和11年12月18日および昭和12年9月29日の日記に愛弟子の古閑義之のことを書いているくだりを、短いながら引用しているので、森田は死の前年の9月の時点ではまだ日記を綴っていたことがわかる。日記は、大正末で大学ノート( 四六判 )36冊に及ぶが、残されているのは昭和4年までで、以後のものは戦火で焼失したと言われる。また戦後まで熱海の森田旅館に保管されていたが、熱海大火で一部焼失したのだとも言われる。
ともあれ、このように若かりし頃から晩年まで、生涯にわたる日記が残されていると、日記自体が自伝になるし、その人が生きた証しとしてのモニュメントになり、近親者にとっては、その人の人生のページをめくって懐かしむよすがとしての貴重な遺品になる。著名人であれば、日記が研究資料としての価値を帯びる。
概して日本人はよく日記をつける。ドナルド・キーンは戦没した日本兵の日記を見て、日本人が日記を付ける行為は、日本の伝統の中に確固たる地位を占めていると指摘した(『百代の過客―日記にみる日本人―』講談社、2011)。しかし、書く本人は常に死後のことを意識して日記を書くとは限らない。それは、日本人が青年期に対社会的というより、社会に適応すべき自己に向き合って、書きとどめおく自己の記録なのであろうか。

 

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森田正馬は、適応を志向する人ではなく、疾風怒涛を生きる若者だったが、自らのレゾン・デートル(存在理由)を明らかにするために、中学校卒業間近い頃から、日記を書き出したのは不自然なことではなかった。五高時代の友人の寺田寅彦も、少年時代から晩年まで日記を書き続けていて、五高時代の森田の蛮行を日記に綴っている。寺田の日記は、その全集に収録されているが、未だに「正式な公表」をされないまま、問題を残しているのは、森田正馬の日記なのである。
森田療法は、創始者、森田正馬が自称「神経質」者として生きた人生を根源とする。そこに分け入るには、森田の生涯を知ることが必要である。晩年の約10年間の分が欠けているとは言え、明治26年(19歳)から昭和4年(54歳)までの35年間の日記が残されている。それは森田療法の歴史上の極めて貴重な史料として、三島森田病院に所蔵されているのである。三島森田病院は、昭和34年に森田正馬の甥であり養子でもあった森田秀俊医師によって開設された病院で、森田の日記はこの病院に保管されてきた。森田の没後、おそらく熱海で井上常七氏が日記を預かっていて、それが森田秀俊医師に託されたのではなかろうか。日記は三島森田病院において、門外不出のものになっていたようである。

こうして森田の日記は病院に保管され続け、少なくとも公的には、研究者たちの閲覧に供されない期間が続いてきたのはどうしてだろう。さまざまな事情が考えられる。日記を公にすれば、本人の素顔や家族のプライバシーが露わになる。たとえば、世界的にベストセラーになったユダヤ系ドイツ人の少女の『アンネの日記』でも、母への憎しみの言葉や性の目覚めについての表現などは、編集上削除して出版された。
森田の場合、夫婦のまぐわいのあった日の日記に、ドイツ語の Begattung の頭文字の B を符丁として記入し、年末にそれを集計したりする念の入れようをした部分もある。しかしこのような箇所を削除すれば、史料としての価値を失うので、公表する以上は、そんな卑近なことまで露わになることを避けられない。また生涯にわたる森田の日記は長すぎるし、事実としてあったことを叙事的、断片的に記し続けていて、読み物としては出版には適さない。行書で書かれた記述を正しく活字に移す作業も、困難を伴うであろう。そのように考えると、日記が三島森田病院の中で非公開史料として眠っていたのも理解できる。

 

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そんな森田の日記が入っていたパンドラの函が、ついに開けられる時期が訪れる。
まず昭和45年に文光堂から大原健士郎、藍沢鎮雄、岩井寛の共著の『森田療法』が 刊行されたが、この中に「森田正馬の生涯」と題する章がある。この章は、森田自身が日記の重要部分を再録しつつまとめた「我が家の記録」について、紹介すべき箇所を多く抜粋し、森田直筆の図や記録の写真をふんだんに添えながら、それらの掲載に紙数を当てている。「神経質」誌に掲載された「正一郎の思ひ出」や「久亥の思ひ出」も一部引用されているが、ともかくこの章は、森田の日記そのものを保留して、その周辺の日記に準ずる森田自身の書き物を媒介にして、その生涯を伝えようと意図したものであった。

同じ昭和40年代に、白揚社から『森田正馬全集』の出版が準備されるとともに、『森田正馬評伝』も同時に出版されることになり、野村章恒氏が執筆を引き受けている。この『評伝』の執筆に当たっては、三島森田病院の許可のもとに、野村氏が森田正馬の日記を資料として活用することになったようである。その頃には、ゼロックスによるコピーが可能になっており、野村氏は日記の現物を参照したのみならず、ゼロックスによる日記のコピーにも携わっていた。そのことがわかる記述が、『評伝』の中に見られる。大正末に森田が京都の三聖病院を訪れた際に、東寺の済世病院で静座法を行っていた小林参三郎医師と森田が出会った経緯について、昭和45年にある医師から野村章恒に問い合わせの手紙が届いた。それに応えようと野村は当該時期の森田の日記を調べたのだが、「大正十四年はただ今現物がゼロックス屋に出してありますので未点検です」と相手に返事を書き送った。つまり昭和45年の時点で、三島森田病院と野村章恒氏は合意して、森田の日記のコピーをゼロックス屋に発注していたのである。
昭和30年代後半に、わが国で富士ゼロックス社が設立され、オフィス向けに複写機の販売を開始し、昭和45年にはゼロックスの 「ビューティフル」 キャンペーンを展開して、販売の促進をはかっている。複製技術が生活の中に入ってきたのである。こうしてコピー文化が普及する中で、森田正馬の日記という、ひとつしかない個人的資料が、ひとつしかないがゆえに、ついに複製されることになったのだった。それはビューティフルな英断だったのであろうか。日記のコピーの部数は当然複数部であったはずで、それらは森田療法の重鎮の方々に進呈された。その相手方としては、たまたま筆者が知っただけで、藤田千尋、水谷啓二、鈴木知準といったお名前があがる。
かくして、要人らに配布された日記のコピーは、それが秘蔵されている三島森田病院に、日記の実物の閲覧を願い出る敷居の高さの解消に役立ち、配布を受けた方々の責任のもとに、周囲の研究者たちに日記のコピーの閲覧を認めるというビューティフルな便宜に益したのであった。しかし、その際、要人らがお持ちのコピーがさらにコピーされて、外部に出ていった可能性はある。このへんは闇の中である。

 

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コピー文化の次に到来したのは社会の情報化で、20世紀末から、パソコンやインターネットが生活の中に普及した。森田正馬の日記もその洗礼を受け、データ化されて、保存と流通に供されることになったのである。こうして、もうひとつのビューティフルな物語が始まった。データ化の拠点となり得たのは、日記のオリジナルを所有しておられる三島森田病院をはじめとして、コピーの提供を受け、それを所有している要人ないしその関連の機関であった。これらの複数の機関のどこでいつデータ化が行われたか、全容は不明である。しかし日記をデータ化するには、まず厖大な量の日記のコピーをスキャンする手作業から始めねばならず、手間を要する。さらにそれを CD-ROM に収める作業も技術と時間を要したので、資料の CD-ROM 化は業者に依頼する必要があった。情報化の流れの中で、森田の日記の CD-ROM 化が行われることになったが、その責任と業者に支払う費用を考慮すれば、やはり安易に行い得ることではなかった。だから CD-ROM 化をプロジェクトとして実施したのは、少数の機関に限られたであろう。

 

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東京に「高良興生院・森田療法関連資料保存会」(通称「保存会」)がある。この「保存会」では、その設立の趣旨に沿って事業として日記の CD-ROM 化が行われた。これについては、藤田千尋先生が、「保存会」から2006年に出された「野村章恒先生と竹山恒寿先生」という刊行物への寄稿文の中で、保存会の役割と数年来のの実践を振り返って、行ってきたさまざまな事業の報告に加えて、さらに次のように記しておられるのである。「また森田先生の日記をCD-ROM化する収録作業も進めてきました。これらの成果の背景にはメンタルヘルス岡本記念財団のご支援があり、また、会員の皆様や保存会役員諸氏の熱心なご協力があったことは申すまでもありません。」 藤田先生のこの文章が掲載された出版物は、保存会が出した私家版だが、閉ざされたものではなく、森田療法関係者の閲覧に向けて発行されたものである。保存会の使命として森田の日記の CD-ROM 化を実施したという、森田療法関係者への報告だったと理解できる。
ただしこの事業の結果として、森田正馬の日記は、形あるモノとしては1枚のCDになり、また形もない情報のデータとなり、見えない流通が危惧される状態になったのである。それに、日記のコピーやデータ化されたものを何ぴとかが所有すれば、世俗的な権威と結びつくことも懸念され、そのような場合には流通が不当になる。それらはおそらく藤田先生が予期されなかった事態であろうと思われる。
さらに付け加えるなら、CD-ROM 化は「保存会」だけで行われたわけではないので、どこで制作されたかによって、日記のページの一部が欠落していたり、していなかったりする。たとえば重要なある時期の日記部分が、CD-ROM 化に際してなぜ欠落の対象になったのかと、考えながら読み比べることになる。

 

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自分は森田療法の歴史に関心を持ったきた者として、日記を参照したくても、数年前までは容易にできず、困った経験をしてきた。約10年前に「保存会」に関心を持ち、入会させていただいた。日記の CD-ROM 化は完了した時期の入会だが、研究上の必要性についてのご理解のもと、日記のデータの入手について便宜をはかっていただいた。そんな立場にいる自分だから「保存会」には大変感謝しているし、また「保存会」がその任務として、日記の CD-ROM 化の事業をなさった事情も知ることになった。それを書くことは本稿の趣旨として許されるであろうと、勝手ながら判断して書かせていただいた。日記のデータ化は、時代の流れとして必要で不可避なものとなっていたのであり、まさに「保存会」がその任を負っていたのだから。
ただし、もどかしく思っていたことはある。それは無論、日記をデータ化した後の情報管理である。データは地下の闇の中で流通しているかもしれない。多少遅きに失するかもしれないのだが、日記のデータの活用を必要とする真摯な研究者たちには、明朗な形で提供してあげられるように、そして日記の流通が世俗的な人脈と別に、公的に行われるように、オリジナルが所蔵されている三島森田病院との提携のもと、「保存会」がデータの流通管理に積極的に関わってくださることを願っている。
そして、研究上日記の閲覧を望まれる方は堂々と「保存会」に相談や依頼をなさればよい。快く応対していただけるはずである。

 

森田正馬の日記は誰のものなのか。今、ご遺族や三島森田病院や、森田療法関係者が考え合うべきときであると思う。