コロナ危機の時代の森田療法(中)―森田療法は不要不急か?―

2020/06/28




 

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コロナ危機の時代の森田療法(中)
―森田療法は不要不急か?―


 
1. 森田療法に空白なし
 
 2020年春、新型コロナウイルスの感染拡大により、三密の回避、不要不急の外出の自粛が要請された。神経症で受診を望んでいた患者さんらは、その間どうしていたのであろう。受診は不要不急に当たらないと考えて、通院を継続していたのであろうか。病院などにいけば、コロナウイルスに感染するリスクがある。そのため、一般に医療機関の外来受診者数は減ったと報道された。神経症を扱う診療部門ではどうなのか。
 
 神経質や神経症は、症状にとらわれ、さらにそれを治すことにとらわれる病態である。つまり、「治したがり病」である。だからその「治したがり病」を治すことが大事であるにもかかわらず、昨今は森田療法を含めて、治療者も症状を治すことに同調している。緊急事態宣言が発令され、三密回避や外出自粛を強化する要請が出たことは、神経症者が通院をやめて、「治したがり病」を共有している治療者患者関係を断ち切る絶好の機会の到来を意味した。これを機に治療へのとらわれから脱却できた人たちは、どれほどおられるであろうか。気になるところである。
 
 森田は曰わく、「休息は仕事の中止にあらず 仕事の転換にあり」と(注1)。 森田は状況に応じて仕事の切り換えをするところに休息があるのであって、中断の空白を要さないと言っているのである。コロナ禍で外出の自粛が要請され、場が在宅に移行しても、対応できる数々の課題があるはずである。
 
 元高良興生院院長の阿部亨先生は、森田療法ビデオ(注2)の中で、「森田療法は人生の空白を作らない」ものだと力説しておられる。今日、想定外のコロナ危機のもと、医療、経済その他、あらゆるところで社会が揺さぶられている。森田療法はこのような事態とは無関係だと決め込んで、森田療法に不意にバカンス期が訪れたかのような錯覚を起こしているような方々は、まさかおられないだろうけれど。また学会やセミナーが開催され難くなったことが一大事だと嘆くならば、そこでも勘どころを外している。学会やセミナーも重要だが、本当の森田療法は生活の中にある。すべての現実や事実が真実である。コロナウイルスの影響を受けているわれわれの生活が、例外であるはずはない。
 地球規模の危機のときに、行動が制約される条件下であろうとも、それぞれの人間が身辺から出発して、可能な方法で人とつながり、工夫し合えば、なすべきこと、できることを見つけ得るであろう。
 森田療法は人生に空白を作らずに、密に生きる療法である。従って森田療法に不要不急という空白はあり得ない。
 
 注1:
 森田の言葉、「休息は仕事の中止にあらず 仕事の転換にあり」は、ヒルティの『幸福論』(第一部)に拠っている可能性がある。ヒルティは、本当の休息は活動のさなかで、働く喜びを感じるところにある、と言っている。森田においては、若干意味が変化しているが、この拙論では、休息についての森田の言葉の意味に忠実に従っている。
 注2:
 阿部亨『悩める人への生きるヒント』(野中剛監督)、森田療法ビデオ全集 第4巻、(有)ランドスケープ発売、2016
 


阿部亨『悩める人への生きるヒント』(DVD)のジャケット



 
2. 車間距離と人間(じんかん)距離
 
 阿部亨先生は、同じく先のDVD『悩める人への生きるヒント』の中で、対人恐怖について述べ、人間関係には程よい距離が必要であることを指摘しておられる。若者は、人と距離のない関係が良い関係だと思い込み、その結果傷つけ合う体験をして対人恐怖になるが、ある程度の距離を保っている間柄が、社会的に健全な人間関係なのであると。ここで阿部先生は、中野翠という人が人間関係について書いていたことを紹介なさっている。中野翠という人はエッセイスト・コラムニストの女性であるが、「車に車間距離が必要であるように、人間同士にも車間距離のようなものが必要である」ということを書いているのだそうである。
 中野翠さんは、長年「サンデー毎日」のコラムなどに機知に富む文章を書き続けてきた人である。件の文章の探索を試みたが、著書が多数あって、見つけることができなかった。ともかく、この人は、ご自身が、人間車間距離を意識して生きておられるのであろう。ペンネームの翠は、尾崎翠にあやかっているそうである。第七官界を彷徨なさっているのであろうか、本名やプライバシーを隠し、テレビ出演の依頼も一切断ってこられた。落語を愛するオタク系で、対人関係の機微に面白さを見ておられるのだろう。だから人間への興味が文章になる。この人は対人恐怖を楽しんで生きている、その完成型の人のようである。
 人間において必要な「車間距離」とはよく言ったものであるが、これを「人間(じんかん)距離」と言い換えてもよいのではなかろうか。「人間」を「じんかん」と読むとき、それは世間、世の中を指す。東洋的な意味での社会である。市民の共同体である Society として社会を理解する以上に、「人間(じんかん)」として理解する社会は、物理的かつ心理的に距離ある人間同士のネットワークによって、それが成り立っていることがわかる。
 
 ウイルス感染を避けるために、互いに2メートル程度の物理的な Social Distance を取るように要請されている。けれども、心理的な Social Distance というものもあるので、両者の関係はどうなのか。心理的には、知らない者同士が会話をする、いわゆる社会的距離はざっと2メートル前後とみなされている。物理的であれ、心理的であれ、社会的距離とされるものはいずれも2メートル程度で、ほぼ一致しているのである。さらに心理的には、個体の周囲の1メートル強より以内の同心円は、パーソナル・スペースと言われる個体の心理的安全圏になっている。人が1メートル強よりも近づくと、パーソナル・スペースが侵され、不快感が惹起され、親しい者以外はそのスペースに立ち入れない。つまり、本来人間は心理的に一定の段階の距離を置き合って生活しているのであって、その距離の中に、飛沫感染に対する防御域も含まれているのである。
 
 コロナウイルスの感染を防ぐために殊更に言われた Social Distance は、都市生活における人間の異常な過密に対して発する必要のあるアラートであった。しかし、人間過密の都市環境を抜本的に変えることは困難である。あるいは、中野翠女史に学び、さらには対人恐怖の人たちに学ぶところが残されているのかも知れない。
 
 対人恐怖と言えば、さらにその中に、通常の対人恐怖よりも、人と接近するのが一層苦手で、ふれあい恐怖と言われる一群がある。症状としては、会食恐怖や雑談恐怖などがあり、歓談しながら人に接近せねばならないという、和やかさが求められる状況が苦手な心理である。ひきこもり系に近いところがあるが、この心理は広く社会人一般にも見ることもできる。何かにつけ頻繁に飲み食いの集いをする日本人特有の宴会文化があり、これに適応する「お付き合い」を苦痛とする人たちがいる。ふれあい恐怖の周辺に広く位置づけられる心理である。社交性という柔軟さを欠くので、健全だとは言えないものの、Social Distance の観点からは、このようなふれあい恐怖系の方が正統派である。むしろ宴会依存症的な文化の方が問題である。ともかく神経症的な症状をすべて異常と決めつけず、秘められている意味を見直して、無理な矯正に走らず、折り合いをつけることが必要である。
 



 
3. 人間の新たな課題 ― ゴリラより、神経質に学ぶ ―
 
 新型コロナウイルスが猖獗を極めつつある地球上のパンデミックの現象に対して、社会的文化的な立場から、多くの識者たちがコメントを発している。そのうち、去る5月にNHK・BS1で放送された番組「コロナ新時代への提言~変貌する人間・社会・倫理~」が、とくに注目された。
 しかし、机上の学問を専門とする識者の提言というものは、えてして解説にとどまる。イタリアでコロナの死亡者が相継ぐ中で、遺体となってしまう死者への敬意が失われていると指摘したその国の哲学者が、疫学的認識を欠いていたというエピソードが哲学者から紹介されたが、むなしく聴いた。日本人は、志村けんが亡くなったとき、臨終に立ち会えず、遺体にも対面できなかったご遺族が、火葬後にはじめて受け取った遺骨を抱いておられる姿を見た。それですべてが伝わってきた。
 人類学の立場からの山極寿一氏の発言を、期待して聴いた。山極氏の話は、前半では主に今日の危機状況が語られ、後半では人間社会の課題が示された。まず、山極氏の前半の話を、なるべく原文に忠実に、若干短縮して以下に紹介する。
 
 「文明が始まる前から、人類という種は信頼できる仲間を増やすように進化してきた。文明の発達とともに人々は移動し、人と人の関係を作っていった。そのために人が集まること、移動するということが条件となる。そこで国が作られ、国と国が連携し、今、グローバルな社会が地球上に実現した。ところが、今それが崩されようとしている。新型コロナウイルスの出現によって、われわれは接触を禁じられ、移動を禁じられた。そのため、社会の作り方が根底から覆されてしまった。人が接触せず、移動せずに、このグローバルな社会をどのように運営するのか。それがわれわれに突きつけられた課題である。」
 
 この前半部は、人間がグローバル化した社会を作ったという歴史の解説が主であった。一拍置いて、後半の発言を、多少要約しながら紹介する。
 
 「ゴリラは、日々顔の見える距離で、体を合わせて互いが同調し合い、仲間であることを確認して、少人数でまとまっている。一方、人間は進化の過程で『離れ合う』ことを社会のひとつの条件として認めた。(人間は言葉を手に入れたために『離れ合う』ことが可能になったが)、言葉だけに依存してきたわけではない。言葉は進化の過程では、後で出てきたものであり、信頼を担保できるコミュニケーション手段ではない。むしろ、身体と身体が共鳴し合う中で、信頼が形成されてきた。ところが今、生身の肉体を通じた共鳴によるコミュニケーションが失われようとしている。言葉だけで繋がる世界に放り出されたとき、人間はどうなるのか。」
 
 このように山極氏は問題を提起し、引き続き「人間は言葉の前に音楽を発明した。音楽は人と人との間を共鳴させる良い装置。」などとおっしゃった。そしてテレビ画面の半分には、楽器を抱えたミュージシャンの姿が映った。このような編集のパッチワークには、「間(ま)」というものがなくて、「間(ま)」が抜けている。ミュージシャンは、安倍総理のTwitterにコラボで出された青年であった。
 
 音楽もいいけれど、生活し辛くなった日常生活に誰しも戻るほかない。最近、厚生労働省が「新しい生活様式」の実践例という資料を出した。行動の仕方が事細かに記されているが、これは神経質な人のそれとまるで同じである。病原性のウイルスはいつどこにでもいる。どのような生活様式がよいか、神経質者はほとんど無意識に知っている。みんなが神経質者の行動に学べばよいのである。ただし神経質者は、ときどき神経症のおかしな症状を出す。日本中でみんなが Social Distance に強迫的にこだわり症状を示しているのと同じである。お互いに症状は笑いぐさにしよう。そして、神経質者の持ち前の生き方に学ぼう。神経質を生きることは堅実であり、創造的である。『神経質礼賛』という著書を出し、「神経質礼賛」というブログを連載し続けておられる精神科医師がおられる(注3、注4)。大いに学ぶべし。
 コロナウイルスは怖い。怖いままに気を配って行動するのである。
 
 「随処に主と作(な)れば、立処皆真なり」(臨済義玄)。
 
 
 注3:
 南条幸弘 著 『神経質礼賛』白揚社、2011
 注4:
 ブログ「神経質礼賛」(南条幸弘先生)

(下)に続く     

コロナ危機の時代の森田療法(上)―コロナ元年、私たちの受難―

2020/06/14


COVID-19 Novel Coronavirus virus infection spreading from Wuhan city, China. Asian woman wearing virus surgical face mask with text title. Chinese people walking to work at train station or airport.

 
 
 
 
 
 

コロナ危機の時代の森田療法(上)
―コロナ元年、私たちの受難―


1. コロナ元年
 
 令和の2年目はコロナ元年になった。新型コロナというしたたかなウィルスが登場して、人間がこれと共存して生きねばならないという、未曽有の試練と遭遇した、恐るべき元年となった。
 森田療法は、神経質の治療を端緒に始まった精神療法だが、単なる精神療法ではない。森田は「事実唯真」と言い、「自然に服従し、境遇に従順なれ」と言った。現実世界の、事実としての出来事、現象のすべてが、真実に他ならない。どんな不条理なことも、すべてが真実である。それが自然のことわりなのである。花鳥風月ならぬ、厳然たる自然の事態に服従して、その境遇に従順に生き抜け、と森田は教えてくれた。それは単なる神経質や神経症の症状の治し方をはるかに超えた、生きるということの教えである。
 人生は苦である。仏教では「生老病死」の四苦と言う。生を受けて生きれば、老いがあり、病に罹り、やがて死ぬことを避けられない。そしてその過程では、愛する人との別離や、欲しいものを求めても得られない苦しみなどを体験する。合わせて「四苦八苦」である。
 釈尊も親鸞も白隠も強迫観念に悩んだ神経質者だったと、森田は言っている。強迫観念に正確に当てはまるかどうかは、まあわからないが、実存的な深い悩みだ。ともかく、森田が教えてくれたこと―。それは、悩みを生きた先人たちが仏教の貴重な叡智を生みだした。そして、神経質者に限らず、苦や煩悩を有する私たち万人がそれに学びうるということなのであった。
 
 今、コロナ元年、間違いなく新たな苦難が始まった。予想だにしなかったような悪夢が現実の危機として、今ここにある。森田療法はこの状況にどう対応するのか。いや、そのような対岸の火事を見るような問いを立てること自体、おめでたいことかもしれない。第一線の医療に携わる方々の献身的な努力をはじめとして、さまざまな分野で多くの人たちが、森田療法を論じるまでもなく、コロナに対処する直接間接の必要事に取り組んでくださっている。そこに生きた森田療法がある。必要上とは言え、森田療法に研究的に関わっている私たちには、かなり後ろめたい話なのである。
 


 



 
2. コロナ狂騒曲
 
 1月下旬に横浜を出航したクルーズ船が、2月初めにウィルスとその感染者らを乗せて帰還し、横浜港に停泊した。あたかも黒船を迎えたごとく、この国の関係者は周章狼狽した。しかし、集団としての国民の心理は、危機に対して遅れて反応する。人びとの大半はテレビの画面にライブで映る大型船の姿をお茶の間劇場で他人ごとのように見入っていた。
 その後のことは言うまでもない。危機に対して遅れて反応する分だけ、冷静さが失われる。パニック反応が始まった。不安、恐怖、反動としての無関心や否認、感染者に対する無思慮な差別や非難。外出の自粛が要請され、自宅での巣ごもり中には、DVやアルコール依存症が問題になった。それは経済生活を襲った危機と無関係ではない。
 行政は市民のためである以前に保身的である。私は京都に近いA市に在住し、市役所の近くに居住している。4月某日に私は必要があって市役所に出向いたが、何かただならぬ雰囲気を感じた。その翌日、NHK総合で、A市市役所でクラスターが発生、というニュースが伝えられたので驚いた。市の役所は市民が利用する所である。クラスターが発生したら、まずそれを市民に伝える必要があろう。内部の感染者数が、クラスターと呼ばれるに足る一定人数に達しても、明らかな報道はNHKの全国放送が先を越した。集団感染はそれ以前から始まっていたことになる。そしてクラスターが報道されて10日ほど経ってから、A市市役所は庁舎を全面閉鎖した。すべてが後手の対応だった。A市を含むこの県の県民性もある程度、背景にあるかもしれない。感染者の人権が守られねばならないのは当然である。個人情報を開示したら、差別対象となり、本人や家族は生きづらくなる。そのためかあらぬか、行政内のクラスター発生の情報提供にも、行政は謙譲の美徳を発揮した。役所の近所に住む者には、灯台もと暗しだった。
 
 私はフランス人の知人(精神分析家)と親しくメール交換をしている。なので、フランスの情報の方が届いてくる。既に2月の時点で聞いたことだが、私たちの共通の知人(精神科医師)の勤務するフランスの精神科病院で集団感染が起こり、入院患者と職員ら、数十人が感染し、精神科医師1人が死亡したとのことであった。精神科病棟はまさに三密の環境であり、患者さんたちはしばしば自己管理能力に欠ける。はたして、その後わが国のいくつかの精神科病院でもクラスターが発生した。精神科の入院治療の場では、感染症に対する万全の予防対策を常に講じていることは容易ではない。その上クラスター発生後の対処には大きな困難が待ち受けている。それは、福祉施設の現場における問題に、ある程度通じるところがあるようだ。いずれにしても、一層の備えが必要であろう。
 



 
3. エッセンシャル・ワーカーの人たちに花束を
 
 全国の医療従事者たちは過酷な状況に置かれている。この人たちに対して国民は感謝のブルー・インパルスを贈りながら、同時にウィルス運搬者としてその人たちを忌避している。ずいぶん勝手なことだと思うが、人間はそんなものらしい。6月10日時点での、全国の医療機関における集団感染は102件、医師、看護師の感染は550人以上になるということを厚生労働相が述べた(6月11日、共同)。全国の累計感染者数に照らすと、医師、看護師の感染者はその約3%を占める勘定である。コロナの診療の第一線で働く医療従事者数を分母にするならば、感染確率は一段と高い数字になる筈である。感染リスクの極めて高いそんな現場で働いてくださっているのだ。
 
 森田正馬は、職業というものについて、色紙に次のような教えの言葉を揮毫している。 「職業によりて人の品性の定まるに非ず 従事する人の品性によって其職業は尊卑を生ず」。森田の教えはこのようである。その意味するところはおよそ理解できるが、よく考えると疑問も起こる。ひとつの理解として、なまじ地位が高そうな職業についても、それにあぐらをかいて、自分の品性を磨かなければ、その職業まで怪しくなるという警句である、と受け取ると分かりやすい。
 
 むしろ逆に、職業自体に尊卑というものがあるように、私は日頃から思っている。誤解を避けるために説明をせねばならない。車に乗らないので、電車で移動する私は、駅の公衆トイレに立ち寄ると、そこで黙々と清掃をなさっているおばさんたちの姿を見かける。私はこの人たちに敬意の念を抱いている。汚く、きつい仕事のひとつである。汚いものは汚い。でもそのような清掃を誰かがしてくれるから、社会生活が無事に動いている。以前に、「羽田空港が世界一清潔な空港である理由」として、ベテラン清掃員のNさんのことが、テレビなどで取り上げられた。Nさんは若いときの苦労を経て、清掃のアルバイトに出会い、最初は「生きるため」に働いていたが、やがて清掃の仕事にやりがいと楽しさを見いだしたという。そうは言っても、駅の公衆トイレの清掃員の皆の方々が、楽しくてしておられるであろうか。汚いけれど、きっと嫌々、必要なことをなさっているのだろう。それが尊いのである。
 
 便所掃除は分かりやすい例だが、人間社会が維持されるために、それを根底で支える不可欠な職業がいくつもある。コロナ禍のもとで、そのような職業がクローズアップされた。 農業、食品、交通、流通、電力、清掃などなど、そしてもちろん医療もだが、それらがその不可欠な職業に相当する。このような職業内容の仕事の従事者は、エッセンシャル・ワーカーと呼ばれている。
 エッセンシャル・ワーカーの仕事は、しばしばきつく、汚く、ときには危険を伴う。そんな仕事に本気で従事なさる人たちが社会には必要なのである。
 
 人間が人間らしく生きるために、同じく必要不可欠なものとして、さらに教育や文化がある。ただし緊急度の違いはある。このように見てくると、社会的な有事のときに見直されるという要因を含めて、職業に尊卑があるという見方はありうると思う。日頃光が当たらないが、尊い職業があることに気づくことが重要である。そしてそのような担い手に改めて感謝したい。
 
 尊卑の卑の面もある。事実上の賭博、その他人間を依存症に陥らせて利を得る業種がある。これは、主に国家が責任を受け止めてほしい。
 

(中)に続く     

SORRY AND WELCOME

2020/06/14




【連載原稿遅延のお詫び】
 いくつかの重要な連載原稿の掲載が遅延しています。
 当事務所の移転や、さらにコロナ生活の影響も多少こうむり、予定がかなり遅れました。ホームページ上では見えない水面下で、森田療法関係各位との交流など、地味なことを続けてはいますが。
 ともあれ、倉田百三のまとめや、仏教関係の連載の続きを、鋭意書き上げて公開します。
 
【原稿の掲載欄を種類別に】
 さて、今後は原稿の種類別に掲載欄を統一します。ご了承をお願いしておきます。
 オリジナルな研究に関わる原稿は、すべて「研究ノート」欄に掲載します。「ブログ」欄には、随筆、随想のような原稿を掲載したり、また、当研究所と交流して、原稿を寄せて下さる方々の玉稿などを掲載します。
 
【オンラインでの交流の推進】
 さらに、このご時世ですから、ソーシャル・ディスタンスを逆に生かして、オンラインで皆様に自由に意見交換をしあって頂く場の提供をする企画を考えています。(具体化はまだです)。
 
【随時、研究会などを】
 研究所は、バーチャルでなく、駅近で、また来て頂きやすい建物、部屋です。必要に応じて随時研究会を開きます。また単独でも、気楽にお話しに来ていただけます。ただし突然ではなく、あらかじめ、「通信フォーム」で、打ち合わせをお願いします。
 ただし、カウンセリングや診療には応じられません。
 研究レベルのご来談、ウェルカムです。
 
 それではよろしくお願いいたします。