森田療法の考現学的研究についての予備的試論―考古学から考現学へ―(2)

2018/11/21

  森田療法の考現学を意図している。これは大きな問題なので、まとめるところまで到達するかどうか、おぼつかない。
  とにかく最初の段階として、過去から現在までの流れの中で、気になる事柄を、体系的でなく、材料として自由に取り出すことにしている。そこで前回に続いて、いくつかの問題点を書いてみる。思いつくままに書くのだが、それはおのずから問題を蔵していると思う点を書くことになるはずである。
 

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7. 森田療法へのとらわれ(1)
  森田療法の分野では、とらわれがしばしば問題になる。まずは神経症の当事者における症状へのとらわれがあり、神経質(神経症)に特有の心理機制として、よく知られているところであるが、これは森田療法へのとらわれではない。
  症状に対するとらわれと別に、森田療法に対するとらわれが起こり得る。強迫性を帯びた人の場合に多いが、後生とばかりに、森田療法とその治療者を頼りにし、治してほしい一心で療法を守ろうとすればするほど、森田療法そのものに縛られてしまう「森田療法へのとらわれ」が起こる。私は禅的色彩の濃い入院原法の病院にかつて勤務していて、そのような例によく遭遇した。入院生活の規則を強迫的に守っても、症状は温存され事態は変わらないことが多い。困って治療者に助けを求めても、暖簾に腕押しのように不問に付されて、どうすることもできなくなってしまう。ついに治療者に不信感が湧いて、いっそ森田療法から離れたいと願うことになるが、森田療法に対して思い入れが強かった分、両価的になり、離れようにも離れられない。行き詰まって絶望的な状態になってしまう。
  これは禅の魔境のようなものである。こんな場合、カウンセリング的介入が必要になる。さもなければ、深刻なアクティングアウトを起こすことになりかねない。

 

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8. 森田療法へのとらわれ(2)
  治療過程で起こるもう一つの「森田療法へのとらわれ」がある。それは、入院森田療法のような隔離された環境において、その中心に治療者が君臨している場で発生しやすいもので、自己愛的な患者が、権威性を帯びた治療者を崇拝して、理想化転移を起こしてしまうものである。それは、カリスマ的な治療者、〇〇先生による療法としての森田療法(〇〇療法)に取り憑かれたようになってしまうという意味での、とらわれである。患者は、カリスマ的な治療者に、分身のごとく自らを重ね合わせる。そして治療者に仕えて、その言動を真似る。慢心が生じ、後進に対して尊大な言動を示す。森田療法で「治った」という人によくある「くさみ」、自己愛臭として、従来から指摘されていたものに通じるであろう。
  このような特徴は、禅の魔境の一種としての、勝境と言われる心理状態に近い。悟りを開いたつもりの勝ち誇った、驕りの心境である。しかしこのような第二の森田療法へのとらわれは、一時的な心境ではなく、パーソナリテイの水準の低下を伴う変化なので、容易には解消しない。治療者に忠臣のよう依存し続けて、独立独歩でき難くなる。
  穿ったことを言えば、治療者もまた臣下の崇拝によって支えられる面があり得る。共依存という言葉が適切かどうかわからないが、とにかく慢性的な相互の依存関係が続くことになり、処理は困難である。そもそも、治療者が患者らのこのような陽性転移を処理しない、または処理できないで、転移に安住している事態に他ならないと言えよう。
  たまたま私は、治療者を崇拝するとらわれに陥っているグループ内の某氏と、一時的に交流したことがあった。その某氏は「自分たちは落伍者かもしれない」と一旦冷静な見方を示したが、結局、再び自分たちのグループの中に深入りしていった。
  森田正馬は権威的な人であったけれども、「患者が治癒に向かって後に、何となく余に頼るといふ事があるから、『余に頼る間は病気の治癒ではない』といふ事を教えるのである」(『神経質及神経衰弱症の療法』)と書いて、治療者を「信仰」し続けることを戒めた。治療者患者関係について、森田自身が配意をしていたことがわかる。後世の森田療法家は、案外この点を学び損ねていたのではなかろうか。

 

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9. 私たちの「森田療法へのとらわれ」
  認知行動療法が医療保険上で点数化されたが、森田療法はそのような恩恵に浴していず、医療経済学的に不利な条件下にある。医療に限らず、心理臨床や福祉や教育の分野でも、森田療法は経済面で恵まれていない。それにもかかわらず、今日多岐にわたる分野のさまざまな職種の方々が、森田療法に熱意を注がれている様子が学会等の活動から、見て取れる。
  そこにおいては、さまざまな森田療法関係者が、森田療法に関心を持ったり、その臨床に従事したり、教育、福祉などの領域に広く生かそうとしたり、その研究をしたり、その普及をはかろうと努めたりしている諸活動が浮かび上がるが、その中にも、なんらかの「森田療法へのとらわれ」 があるのではないだろうか、と思う。
  この場合、「とらわれ」という言葉は固くて柔軟性に欠けそうだから、不適切かもしれない。そこにはさまざまなものが含まれていると思われる。すなわち、森田療法に関わろうとする、なんらかの理由や動機や興味、研究的な関心・意欲、臨床的な関心・意欲、使命感、役割意識、やりがい、喜び、個人的必要性、営利、などであろう。ほかにも、もっと生々しいファクターがあるかもしれないと思うが、露骨には書きにくい。
  ともあれ、前述したような、神経症的な当事者が治療過程で陥る「森田療法へのとらわれ」と別に、このような種々の要因に動かされて、私たちは、さまざまな立場から森田療法に関わっていると思うのである。
  もちろん私自身も、その「とらわれ」のようなものを自覚しており、因果な巡り合わせだと思っている。開示することはできるが、ここでは個人的なことはさておき、今日の森田療法関係者諸氏における、森田療法への動因としての「とらわれ」の実態に強い関心を持つものである。
  伝統的な森田療法を守っていくには、隠れキリシタンのような悲壮さを伴うが、新しい時代の新しい動因によって、森田療法は前進していくのかもしれない。期待と不安を持って、そのような状況を見守りたい。