森田正馬が参禅した老師、釈宗活―その人物と生涯(下)―

2018/08/23


晩年の釈宗活老師(雑誌「大乗禅」昭和42年3月号より)



釈宗活老師の「常住侍者」であった徳永恵直(芙蓉庵却来恵直老大姉)。河東節の山彦不二子師と同一人物。
宗活没後の昭和30年、81歳時の写真(西山松之助『家元ものがたり』より)。

 

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(承前)

 
5.「粋(いき)」を究めた人、釈宗活
   宗活は、幼少より、父から書画などの芸術を含む幅広い情操教育を受けて育った。禅に関心が傾いて今北洪川に弟子入りしたが、もともと芸術家として身を立てようとしていて、その頃、東京美術学校の学生であった(両忘会に参禅して宗活の弟子になり、出家して京都の大徳寺の管長になった後藤瑞巖の伝記、島崎義孝の著作による)。円覚寺に入ってからは、鎌倉彫の仏教彫刻を身につけた。参禅した夏目漱石に、三味線を弾いて大道ちょぼくれを歌って聞かせたという。
   西山松之助という江戸文化の研究者がいた。西山氏は、釈宗活老師に私淑して、学生の頃に擇木道場に住み込んでいた人である。自分は禅だけでなく、歌舞伎にも関心を持っていたのだが、宗活老師自身が歌舞伎に通じている方であったということを、回想として著書(『ある文人歴史家の軌跡』)で、聞き役の人に対して述べている。
   ――当時歌舞伎の女形の有名な役者がいて、それが宗活老師の親戚だったこともあって、老師は歌舞伎に詳しかった。
   また、宗活老師には、恵直(えちょく)さんという素晴らしい女性がおられた。恵直さんは奥さんだったかどうかはわからないけれど、新橋の医者の娘で、若いときから河東節をやっていて、歌、三味線ができた人で、知らない曲はなかった。河東節の名取名は山彦不二子といい、NHKの音のライブラリーに吹き込んだ曲が沢山残っている。老師はこの恵直さんから河東節を教えられた。
   老師は、古希になって一旦引退して、関西に移り、多田の隻履窟という住まいにいた。そこを訪れたら、昼間は老師は絵を描いていて、夜になると河東節が始まって、恵直さんが三味線を弾いて、助六を語る。――
   禅と歌舞伎がこういうふうに結びついていた。枯れている禅ではない、艶っぽい禅、色っぽい禅だった、というのである。
   隻履窟は、別名残夢荘と称され、兵庫県川辺郡多田村にあった田舎家である。現在は川西市内にあたるが、地図を見ると、人里離れた山間の地のようである。
   宗活老師は、昭和15年から3年間、ここに隠棲して、書画などを制作する遊戯三昧の日々を送った。山間の自然と書画と禅と河東節が溶け合った、粋(いき)の極致であった。


 

西山松之助著『家元ものがたり』



 
6.河東節の山彦不二子(禅の徳永恵直)
   西山松之助氏は『ある文人歴史家の軌跡』の中では、宗活師匠の侍者のような女性のことを、しきりに「恵直さん」と言っている。それは禅子としての道号だろうと推測されたが、西山氏は河東節の山彦不二子の面ばかりを語っていたので、浄瑠璃を語るお座敷の出身の女性かとも受け取れて、人物像として不明のところがあった。
   ちなみに、浄瑠璃のひとつである河東節は、代表的な江戸浄瑠璃で、歌舞伎の伴奏音楽としての地位にあったが、次第に常磐津などの他の節に人気を奪われ、お座敷で語られる浄瑠璃として、通の人たちに愛好されるようになっていた。したがって、河東節は吉原との関係が深かった。河東節のそのような背景もあり、山彦不二子(恵直さん)の経歴や宗活老師との出会いについて、ほとんどわからなかった。しかし、西山氏の別の著書『家元ものがたり』や、禅関係の文献から、この女性の人物像や老師との間柄が浮かび上がってきた。
   この人は、芳紀十九歳より、父の徳永医師と一緒に釈宗演の門に入って修行をしていたという。宗活老師がインドから帰朝したときに、東京での両忘会の再興を宗活老師に請いたいという嘆願書を、宗演老師に対して出した数人の在家の居士たちがいたが、その中に徳永父娘も加わっていた。この数人は、インドに渡る前から宗活を知っており、宗活に信頼を寄せていた人たちである。夏目漱石のように、円覚寺で宗演老師に参禅しながら、塔頭の帰源院で宗活の世話になった人たちがその主要メンバーであったと考えられる。徳永父娘は、娘の方が修行の進度が優れていて、「慧直」という道号を宗演老師から授かっていた。父娘は再興後の「両忘会」に参加し、日暮里の農家の建物を道場用に買い取って寄進している。若い愛娘に河東節を習わせ、禅の修行に連れて行って、修行では娘に遅れをとりながら、道場の建物を寄進した父親も、風流な人だったように思える。
   恵直は、宗活老師がサンフランシスコに布教に渡った折にも、共に渡米し、アメリカで修行を続けて印可を受け、芙蓉庵劫来慧直老大姉となった。
   こうして慧直(恵直)老大姉は、両忘会内における重要な人物のひとりになるとともに、個人的には宗活老師の「常住侍者」として仕えるようになっていく。宗活と恵直は、強い信頼関係によって結ばれていた。
   禅の方で老大姉になった恵直は、河東節においても、山彦栄子師匠より芸道を受け継ぎ、名取の山彦不二子となって、その分野で活躍した。
   禅においては宗活が師、河東節では恵直が師で、粋な関係の二人であった。

 

宗活老師が隠棲していた、兵庫県多田村の残夢荘
(雑誌「禅」平成17年2月号より)



 

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7. 在家禅(居士禅)の指導者であった釈宗活
   宗活は蘭方医の息子として生まれ、医家を継ぐべく育てられたが、相次ぐ両親の死で孤独を生き、その中で禅に活路を見いだした人である。出家したが、それは世をはかなんでのことではなく、また禅寺の住職になろうとしたわけでもなかった。円覚寺でひたすら修行をし続ける過程での、通過点としての出家得度に過ぎなかった。だから宗活は、出家しても一生住職にはならぬ、と自分から釘をさして、釈宗演から得度を受けた。「御身の富貴栄達を望まぬ。心を磨けよ」と言った母の遺言を胸に秘めていた宗活は、僧侶になろうとも、仏門の階段を上り、寺に安住する生活に身を置こうとしなかったのである。宗活は本当の禅を追求し、それを人びとに伝えようとした。自分は出家をしたけれども、在家者とともにあって、在家者の禅的生き方に尽くそうとした人である。
   遡れば、少年、入澤譲四郎だった頃、禅を志し、本郷の麟祥院で初めて今北洪川に出会ったのだったが、このときから両忘会との絆が生じていたと言える。両忘会は、明治8年に山岡鉄舟らが、禅の封建的体質を改め、寺院の殻を破って禅を在家者に開かれたものにしようと、麟祥院で今北洪川を師と仰いで、禅会を創設したものであった。洪川は数年後には円覚寺の管長になったが、麟祥院に指導に来ることがあったのであろう。譲四郎が麟祥院で洪川に会ったのは、明治22年のことである。洪川は明治25年に没しているので、両忘会は途切れてしまっていた。禅に関心のある一部の在家の文化人たちは、円覚寺の釈宗演老師のもとに参禅していた。徳永父娘が宗演に参禅したのも、宗活が塔頭で在家の参禅者の世話をしていたのも、その時期のことである。両忘会とも、徳永恵直とも不思議な糸で結ばれていた宗活は、こうして両忘会を再興して、在家禅の指導に尽くすことになった。
   組織としての両忘会は、大正14年に財団法人両忘協会となり、昭和13年には谷中にあった本部道場は、千葉県市川市に建築された新道場に移転した。それは森田正馬が没した年のことである。昭和14年、宗教団体法が施行されたことにより、宗教団体「両忘禅協会」が立ち上げられて宗活老師の弟子の立田英山老居士が代表者になったが、宗活を代表とする「両忘協会」は宗教団体を名乗らずに、そのまま存続することになった。組織の逆転した二本立てがここに起こっている。在家禅の組織が急いで宗教団体化することについて、宗活はおそらく慎重だったのであろう。
   古希を迎えた宗活は、昭和15年に関西の残夢荘(隻履窟)へと身を退き、三年を過ごした後、常住侍者の恵直とともに千葉県八幡の残夢荘(寓居)に移っていた。
   組織というものが、時代の流れの中で目標を見失わずに機能し続けることは難しい。戦後の昭和21年、宗教法人法の施行で、組織は宗教法人になることを選び、立田英山老居士を主管として「宗教法人 両忘禅協会」として登記をした。しかし、翌22年に釈宗活老師はその解散を宣告したのである。老師は、在家禅の宗教団体化や、指導者のあり方に厳しい目を向けていたのであった。ここにおいて、明治以来の両忘会の流れと、それに対する宗活老師の長年にわたる指導者としての関わりは、終焉を見た。
   しかし現実には大きな組織が残されていた。再び三たび立田英山老居士の主管で、新たに昭和23年に、「宗教法人 人間禅教団」が立ち上げられた。その「人間禅」は今日にまで続いている。
   宗活は、弟子の大木琢道に身を寄せて、千葉県八日市場の寓居で徳永恵直とともに最晩年を過ごし、昭和29年に遷化した。享年83歳。
   西山松之助氏は、昭和30年秋に、房州のその住まいに徳永恵直(山彦不二子)を訪ねている(『家元ものがたり』)。禅の道の奥底を究め、河東節の正統の継承者であるこの人は、81歳ながら端正でキビキビしていて、江戸っ子らしいイキが感じられたという(冒頭の写真)。西山氏は、「イキ」と書いているが、感じたのは、粋であり、心意気でもあったのであろう。
   なお今日、千葉県茂原市に両忘禅庵があるが、これは宗活没後に大木琢道の子孫により開設された禅道場である。宗活の遺した芸術作品の多くは、ここに保管されていると聞く。
 
   宗活は出家者でありながら、寺に入ることなく、また出家者であるがゆえに在家の生活に甘んじることなく、家を持たず、正式に家族を持たず、みずから禅に生きた人であった。在家者に対する禅指導を使命として、いわば非僧非俗、あるいは僧と俗のはざまに生きて、一方に偏することがなかった人であった。人柄は温かく、しかし禅の指導者となって人の上に立つ者に対しては、厳格に接した。
   宗活自身自分に厳しく、かつ自由に、無所得、無一物を生きたのである。
 
   森田正馬がかつて参禅した老師は、こんな人生を送ったのである。実に森田療法的な人生だったと言えるのではなかろうか。宗活老師は、森田の存命中は谷中墓地に接する道場に居続けたが、森田との再会の機会があったかどうかは不明であるし、宗活の生涯は戦後まで続いた。森田は明治43年の参禅時に宗活と交わっただけで、以後、時空を異にしている。二人の人生が接することはなかったけれども、宗活の生き方には、森田正馬が目指したものがあるように思われ、ここに紹介した。

(了)

森田正馬が参禅した老師、釈宗活―その人物と生涯(上)―

2018/08/16


雑誌「禅」平成17年2月号。
釈宗活老師についての特集が組まれている。


   同雑誌の巻頭に若き日の老師の写真が出ており、その写真には次のような説明文が付されている。
「生涯草庵に住み、母の遺言を守って、立身出世・富貴栄達を望まず、行雲に身を任せ、居士の教化に専心した。独立独歩の宗風を挙揚し、居士に嗣法する道を拓いた。」
 
 

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1. 森田正馬と釈宗活
   森田は、明治43年に谷中初音町にあった両忘会の釈宗活老師のもとに参禅した。
   その事実について、そして両忘会は旧谷中初音町二丁目にあったことや、当時のその地区の環境、また現在地との対照などについて、既にかなり詳細にわたって記してきた。また両忘会は在家者向けの禅道場で、釈宗活老師は在家禅に力を尽くした人であったことについても述べてきた。
   およそこれらのことをまとめて、第35回日本森田療法学会で発表した。
   それにしても、森田正馬は、生涯にただ一度参禅して相まみえた老師、釈宗活の印象を語っていない。だが語らなかっただけに、内面にその印象を秘め続けていたのかもしれない。ちなみに森田は、参禅から約10年後の大正13年に出版された、釈宗活の著書『臨済録講話』を読んだことを当時の日記に書きとめている。宗活老師への関心が長く続いていた証左である。
   その釈宗活老師はどんな人だったのであろう。ある程度は断片的に記したが、資料が乏しくて不明な点が多く、十分に把握しきれていない。最近、少しだが追加的に資料を入手した。これにても宗活老師についての伝記的全容に迫ることは到底できないが、不明だったところが少し埋められてきた。資料を参考に、参禅にまつわる森田の心理も推し量って書き加えつつ、宗活老師の人物像や生涯をおぼろげながら、たどってみたい。

 

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2. 釈宗活(入澤譲四郎)の生い立ち
   釈宗活、本名入澤譲四郎(1871-1954)は、東京麹町の蘭方医、入澤梅民の三男として生まれた。父方祖父の入澤貞蔵(貞意)も越後出身の江戸の蘭方医であった。入澤一族は信州の北条時頼・時宗の末裔にあたる越後の庄屋であったが、その家系からは医者が多く輩出している。譲四郎の祖父貞蔵(医者)の弟、健蔵(庄屋を継いでいた人)の次男、入澤圭介は池田家に養子に入り、池田謙斎と名乗った人で、西洋医学を学び、東大医学部の初代総理になった著名な人物である。
   同じ貞蔵の弟、健蔵(庄屋)の長男の、その息子である入澤達吉は医者で、東大内科教授になっている。この入澤達吉と釈宗活(入澤譲四郎)は、祖父が兄弟であるから、二人は「いとこの子」同士になる。入澤達吉は、東大生の森田正馬の診察をして「神経衰弱兼脚気」と診断した教授、その人である。そして森田は卒業後に、釈宗活のもとに参禅する。森田は、自分の生涯において出会った重要な二人の人物が、親族であることを知っていたであろうか。あるいは後日にでも知ったかもしれない。それはわからない。釈宗活自身は、短期間両忘会に参禅した若い医者が、学生時代に入澤達吉教授の診察を受けた男だったとは知らなかったであろう。
   入澤達吉は医師として優れた人物であったのみならず、人間的にも深みのある人だったようで、入澤一族に通じ合うような人間味を宗活老師もそなえていたのであろうと思われる。
   入澤一族の蘭方医の息子に生まれた宗活、すなわち譲四郎は、三男であったが、父は医家の後継ぎを託せるのは長男、次男でなく、この三男であると見込んで、幼少のときから漢籍、武術、書画、彫刻などにわたり、厳格な教育を施した。母からは深い慈愛を注がれて育ったが、11歳の時にその母は大病で急死した。臨終の際に、母は息子に言い遺した。「何よりもまず心の修行を第一に心がけよ。母は御身の富貴栄達を望まぬ。心を磨けよ。独立独歩、他に依頼心を起こしてはならぬ」と。母の最期のこの訓戒を子ども心に肝に銘じ、生涯を通じてそれを忘れずに生きたのであると、後年に宗活老師自身が語っている。
   さて母の死の翌年、12歳の時に父もまた病で急逝した。両親を失って孤児になった少年は、母の遺言を守り、ある教師の家に入って労働をしながら苦学した。しかし心身ともに病み衰え、神道や心学などに入って修養を試みるも適さず、禅の修行に関心を持つようになった。ちょうど叔母にあたる人が、鎌倉の今北洪川について参禅をしていたので、洪川が本郷の麟祥院に摂心の指導に来た折に叔母から紹介を受け、洪川に入門を許されて、円覚寺に入ることになった。譲四郎、20歳の時のことであった。

 

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3. 円覚寺における禅修行
   入澤譲四郎は、円覚寺の塔頭に入り、修行に打ち込み、かたわら扇谷に通い、運慶の流儀の仏教彫刻を学んだ。やがて洪川老師から石仏居士という名号を与えられた。その後洪川老師は没し、居士のままでいた譲四郎は、さらに修行を深めるために出家得度の必要に迫られた。母の遺言に従い独立独歩で生き、寺の住職になることを望まなかった彼は、一生寺に入って住職になることはしないという条件を自分の方からつけて、釈宗演老師のもとで23歳で得度を受けた。得度により宗活の法諱を授与され、また釈宗演の養子になって、釈宗活と名乗ることになった。その後も修行を続け、帰源院という塔頭の監理を任されて、摂心に参加するために外部から来て宿泊する人たちの世話をした。この体験は、後に「両忘会」の師家となって居士禅を鼓吹する因ともなった。
   夏目漱石が明治27年末に帰源院に宿泊して、釈宗活の世話になりながら、釈宗演に参禅したが、それはこの時期のことである。漱石は後に、小説『門』の中に、そのときの体験の記憶をそのままに描写している。小説中、宗活は宜道という名前で登場するが、漱石はこの若い禅僧が何年も厳しい修行に耐え続けていた様子や、宿泊者に丁寧に接してくれる優しい人柄の持ち主であったことを、書き記している。一方『談話』の中の「色気を去れよ」という題の話には、宗活のひょうきんな面が語られ、宗活さんは、白隠和尚の「大道ちょぼくれ」を聞かせてくれたなどと記している。漱石と宗活の交流はその後も続いたと言われるので、宗活が後年に東京に出てから、両者が会った可能性はあるが、定かではない。
   こうして円覚寺での約8年間の修行を経て、印可を受け、明治31年より宗活はインドに渡り、聖胎長養のごとき修行体験をする。インド僧とともに熱砂の上を歩いて托鉢をしたり、暴漢に襲われるような危険にも遭遇して、九死に一生を得たこともあった。インドで2年を過ごし、明治33年に帰朝した。

 

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4.「両忘会」の再興
   帰国すると、折しも、かつて帰源院で世話をした居士たち数名より、山岡鉄舟らによって明治のはじめに創設されて、中断されていた在家禅の「両忘会」の再開を望む拝請が円覚寺に届けられた。それを受けて、釈宗演老師の命により、宗活老師は早速東京に出て、「両忘会」再興の任に当たることとなった。
   まず明治33年に、山谷の湯屋の二階に仮の草庵を設け、34年に根岸に、さらに日暮里にと道場の場所を移動した。日暮里の道場は、元農家の一軒家で、両忘会再興の拝請に名を連ねた、新橋の医者、徳永道寿居士と娘の徳永恵直が買い取って、寄進したものであった。この徳永恵直は、浄瑠璃の河東節に秀で、禅にも励んだ女性で、後に宗活老師の侍者となって、生涯を共にすることになる運命の人である。
   また日暮里に両忘会があった時期の明治38年には、平塚らいてうが参禅している。らいてうは、その自伝に両忘会での参禅の体験とともに、若き釈宗活老師の気品ある指導について書いている。
   しかし、明治39年、アメリカのサンフランシスコで禅の布教に当たっている居士たちからの慫慂があり、渡米することになった。そして3年後の明治42年に帰朝、同43年より、谷中初音町二丁目の借家で両忘会を再開した。
   森田正馬が、藤根常吉の誘いで、両忘会に参禅をしたのはこのときである。森田はこの参禅について、日記にごく簡単に記しているだけである。摂心のときに早朝座禅に通い、午後は天龍院(同じ谷中地区にある妙心寺派の禅寺)で、提唱を聞き、また老師の前に3回くらい参じたが、公案は透過しなかったと言う。森田は、自分の療法は禅から出たものではない、たまたま一致するだけである、禅のことはわからないと、自己卑下をするばかりとなった。そして宗活老師の印象について、何も述べていないが、宗活老師への参禅によって、内心感じるところがあったのではなかろうか。宗活が入澤一族の人であることを知っていて、語ることを控えたとも考えられるが、単にそれだけであろうか。
   大正の初めには、両忘会のある居士によって、谷中墓地に隣接した天王寺の寺域に新築した道場用の建物が寄進された。擇木道場と命名されて、それまで借家を転々としていた両忘会は、その道場に落ち着いた。宗活老師はそこで指導を続けることになる。
   森田正馬は、谷中墓地を散策の場所として好み、弟子の佐藤政治と深夜に谷中墓地を歩きながら、神経質の治療について語り合ったと言われる。森田は、かつて参禅した谷中二丁目の両忘会がその近くの天王寺域内の道場に移転して、そこに釈宗活老師がいることを知らなかったはずはない。谷中墓地を散策すれば、宗活老師に出くわす可能性もある。森田は宗活老師を慕っていたのではないかとまで考えたくなる。
   名だたる禅僧、忽滑谷快天や、釈宗演をも批判して憚らなかった森田正馬にとって、釈宗活老師は別の存在だったようなのである。
 

(次回に続く)