三聖病院の「5番の部屋」の思い出
2016/01/09
「時人を待たず」と言う。一年前に閉じられた三聖病院は、既に影も形もないが、代わって駐車場と化したその場では、駐車時間を計るコインパーキングのメーターが時を刻んでいる。病院が閉じられて暦は確実に一年を経たのである。とは言え、一部の人々の、少なくとも自分の脳内の記憶は、その不可思議な病院の上をさまよっている。
この異次元の病院に長い年月にわたって勤務した職員は少数で、医師を含め、自ら中途で辞めていった人たちは多い。一年前の閉院時の、病院最後のお別れ会では、勤務歴の浅い平成の顔ぶればかりが並んでいた。18歳から勤務していた受付のおねえさんは、いつの間にかアラサーになっていたし、過去の精神科の勤務経験は不足で、年齢に不足はなくて中途就職でやってきた看護師さんたちは、言葉は悪いが沈殿したままで最後を迎えたのだったが、みんな平成組である。だから、ほんの一部の院長の側近を除いては、もはや病院の歴史とは無縁の人たちばかりであった。いつ潰れるかわからない予兆を感じながら、惰性のように閉院まで居残った人たちの最後の集いは、言わば、ばば抜きのゲームの敗者の会であった。その人たちは、会が終わると、そそくさと姿を消した。その余韻のなさに、一層虚しさを覚えずにいられなかった。
それは昨日のことのようである。脳内の記憶は、針のない脳内時計に左右されているようで、時計の時間の経過と共に流れてはいない。この一年間、脳内時計が止まり、記憶が移り変わっていない。そのオブセッションを追い出すために、少し書いておく。
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自分は昭和40年代の終わり頃、この不思議な病院の近くの某病院に勤務していた。近いという縁で、当直勤務に呼ばれることになった。世の中、人生、すべて縁で動いている。森田療法とやらに、まったくもって─、全然─、毫も─、関心を有さなかった自分が、当直を引き受けることになった。夜間当直と心得て、夕方病院へ赴くと、昼間の院長の外来患者が、まだぞろぞろと待合室に溜まっていて、外来診療の続きを引き受ける羽目になった。いかにも禅的で、生死(しょうじ)二つなしの病院だと後にわかっていくのだが、まずは昼夜の二つの区別がない病院だと知ったのだった。夜が更けても外来が終わらず、ずっと待ち続けていた初診の患者さんが、「終電に間に合いませんので」と言って帰っていくこともあった。
やがて昼間の外来診療も担当するようになり、また入院のおこぼれの診察もした。そして海外留学を挟んで、かれこれ40年、その大半は大学に奉職し、某企業の嘱託もし、それらと並行しての勤務だった。大学での学生の教育と企業でのメンタルヘルスケアに、森田療法の病院との連携を生かすことができたのは、有り難かった。病院では非常勤にて、肩身が狭かったけれど、非常勤でなければ40年間、閉院まで勤め抜くことはできなかったろうし、また年期が入ると、病院への思い入れが深まり、診療や運営のしかたが心配でならなかった。思い余っていくつかの進言をしたこともある。しかし動かし難い現実の壁もあり、実りにはつながらなかった。
自分は単に「関与しながらの観察者」を気取っていたのではない。責任者としての役割を継承すべきか、迷い続けていた。けれど、現実検討を含む諸般は、自分をその方向へと押さなかったのである。そんな過去を振り返ると、やるせなくなる。
オブセッションは続く。そこで一臨床医として経験した思い出の端々も次に書きとめてみる。
入院治療については、事実上院長だけが主治医であったので、原法の入院生活にうまく適応できずに、アクト・アウトやドロップ・アウトしそうな人たちをケアするという、脇役的なことをした。外来診療は、自分独自にやっていた。長い歳月が経つので、多くの人たちを診療したわけだけれど、忘れてしまった人たちの方が多い。忘却と記憶の分かれ目はどこにあるのだろう。多分それは、相手と、私自身と、三聖病院という場との三つの要因が絡み合っているのだろうと思う。
小さな病院なので、院長は院長室を兼ねる第一診察室で診察をしていた。院長以外の治療者は、曜日を分けて勤務し、第二診察室で診察していた。この第二診の部屋は畳部屋で、来客が訪れたときの応接間でもあったが、普段は診察に使用して、患者さんは床の間を背に来客が座る椅子席に座ってもらっていた。患者さんを賓客として遇していたのである。だが、それを理解する人は少なかった。スリッパを脱がずに畳の上に踏み込んでくる人、コートを脱がず、あるいは帽子を被ったままで座る人、テーブルに頬杖をつく人、テーブルの上に大きなカバンを置く人、カルテを覗き込んで記載に指図をする人、携帯電話をマナーモードにもしていず、電話が鳴ったら診察中に相手としゃべる人、容易に逆ギレする人、等々、態度だけでも人さまざまであった。実はおごそかな応接間なのだが、たたずまいは古くて質素なので、その畳部屋に入ると、病院らしくないその雰囲気に緊張がほどけて、人間の本性があらわになりやすかった。
この部屋には、「第二診察室」と記された札が掛かってはいたが、「5」と書いた札も掛けられていた。この外来棟には、事務室や看護詰所や治療室や第一診察室などが並んでいたのだが、それぞれの室名とは別に、なぜか通し番号が付されて、入院患者さんが作ったらしい番号札が掛けられていたのである。通し番号の必要性については、私は最後まで分からなかった。数字にこだわる強迫的な人がしたとしか思えない。
第二診で外来の診察をするとき、受付のおねえさんは、待合室の方向に向かって、「〇〇さぁーん、5番の部屋に入ってくださーい」と大声で叫ぶ。受付付近で待っていると顔がさすから、待合室の死角に隠れて座っている人もいるので、大声で叫ばないと聞こえないのである。おかげで、その名前は周囲に知れ渡る。名を呼ばれた〇〇さんは、5番の部屋を探し、5と彫られた幼稚園児向けのような木札の方が、第二診察室と明示された札より優位にあるのだという認知を働かせて、部屋に入ってくる。ここまでに既にそんなトンチキがあるので、入室時に脱いだスリッパを廊下に揃えず、跳ね飛ばすように放っていることが多い。禅寺を模した造りになっていて、緊張感を持って粛々と行動をするべき場なのに、外来患者はむしろ退行しやすい流れになっていた。だから、精神分析の視点から言うと、外来の導入部では患者さんの抵抗が起こりにくい場であった。そんな場では、患者さんは素直に自分を見せてくれる。そこでのさまざま人たちとの出会いを思い出す。
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両親がいず、孤独で自殺願望を持ちながら、「よさこい」の踊りのグループに入っていたある若い女性が、リーダーに連れられて来たことがあった。彼女は「こんな畳の部屋に入ると落ち着く」と言って泣いた。畳部屋は、アットホームな場でもあった。
三聖病院の地理的環境は、京都駅の南東にあたり、周囲は下町が多い。外来には地域の方々が割合多く通院していて、私はそんな方々と比較的うまが合った。理屈っぽい人には、理屈で返さない治療をするのに工夫を要するが、庶民的な方々は理屈を言わないので、私も素で接することができた。南條幸弘先生が『神経質礼賛』のブログに「半不問」ということを書いておられたが、私は確かにそれが多い。在日の方々が私の外来に気安く通院してくれた。言うまでもなく、この人たちは被差別の歴史を背負っている。深い問題は話題以前の「あうん」である。症状の辛さは聴いた。主な話は日常のことや世間話であった。だがあるとき、それはオリンピックが開催されているときだったが、「うつ」の、ある北朝鮮二世の一人暮らしの高齢女性が、会話の中で、「なんで国同士が試合をせなあかんのやろ」と呟いた。私は答えを失った。この人の中に流れている深くて暗い川が垣間見えた。
やはり在日で、統合失調症の三十代の女性の外来患者さんがいた。この病院では統合失調症の治療に十分なことを尽くせないので、自分はそのような患者さんの初診受け入れを控えていた。私の外来に来ていた統合失調症者は、院長の外来から溢れて、私の外来に流れてきて、いつしか定着した人たちである。三十代だがアラフォーのその在日女性もそうだった。家業のキムチの製造を手伝っていたが、異常が目立ち、仕事もできなくなっていた。来るたびに彼女は支離滅裂な言葉で、アラン・ドロンのことばかり言った。アラン・ドロンに似た外人に誘われたとも言う。悲しい女性のさがが伝わってきた。他の精神科機関への受診を一切拒み、三聖病院だけにこだわって長年通院を続けていた。私の外来に来るようになって歳月は浅かったが、増悪が限界へ来ていた。母親の希望もあり、他の精神科病院に入院させることになった。統合失調症の人は、なぜか三聖病院を本能的に好む。本院での統合失調症の診療に対する慎重派の私だったが、しかし三聖病院に愛着してくれる人を、精神病院送りにするのはつらいものがあった。最後の別れの日に、母と娘が一緒に小さな鉢植えの勿忘草をくれた。古い話だが、アラン・ドロンにひとりで熱を上げていた人のことを記憶している。
思い出を探れば、あの人、この人、忘却の淵に沈んでいない人たちが次次と浮かぶ。苦い記憶を、あと少しだけ記しておこう。
ある初診の女性が夫に伴われて、私の外来に来た。夫が口を切り、妻は「うつ」だから入院させてほしいと言った。妻なる人は確かに「うつ」で、茫然と沈んでいた。夫はある聖職者で、その聖職上関わりのある業種の女性と親密な間柄になっておられた。このような人間関係の中にある妻の立場の人を、単に患者として入院させることには問題がある。三聖病院なら入院させてくれると踏んで来たようだった。だが私は、外来でのカウンセリング的対応ならさせて頂くと言って、入院を断った。夫は私をただならぬ表情で睨みつけた。その後、夫妻は二度と現れることはなかった。家族的な問題が、その中のひとりの成員の病理に置換されて、その人を隔離するために病院を利用しようとされることがある。家族内の問題に、医者の側からどこまで立ち入るべきかは難しい問題である。
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「5番の部屋」で私は、入院中に精神的に危機に遭遇していて、カウンセリング的に対応する必要のある人たちのために、院内外来のようなこともしていた。そこで出会ったのは、不問を根底に据える禅的森田(宇佐)療法では救済されない人たちであった。その中に、寡症状的な統合失調症で、自殺衝動に襲われる、ある青年がいた。放っておけず定期的に面接を繰り返した。だが私の面接は彼の心の緊急に対応できなかった。ある夜、彼は病院を出て、近くのビルの上から身を投げた。気立てのよい青年であった。忘れられないあの人、この人がいるが、5番の部屋への来室者で、とりわけ忘れ難いのは彼のことである。自殺は、禅的森田療法にとっての課題であった。これは単なる回想ではなく、未だに振り返らねばならない問題のひとつである。
5番の部屋の思い出を中心に、三聖病院にまつわる感慨深い記憶の一部をここに記した。