下村湖人がつくった「煙仲間」について

2020/08/23



 
 
下村湖人がつくった「煙仲間」について

 
 比嘉千賀先生が「生活の発見会」50周年記念講演の中で、下村湖人が社会教育活動の中でつくった「煙仲間」についてお話しになりました。この「煙仲間」については、私(岡本)自身、下村らの社会教育活動の流れをたどって報告をして来た中で述べたものですので、この「煙仲間」とはどのようなものであったか、責任上少し説明を加えることにします。
 
 「煙仲間」の由来は、戦前に田澤義鋪がつくった「壮年団」という、青年団を卒業した二十代後半以上の人たちが共に活動する集団に発する。戦時下で、自由と社会的良心を守ろうとしたこの活動は官憲に抑圧され、翼賛会に乗っ取られたために、下村湖人が協力して名称を変えて、この壮年団運動を引き継ぎ、存続させたのだった。
 下村湖人は、佐賀藩の「葉隠」の中にある歌から「煙」という文字を取って、集団の名称を「煙仲間」とし、活動の中身が見えないようにしたのである。その中身とは、軍国主義に反対し、人間の自由を尊重し、良心を持って地域や社会に貢献しようとしたものだった。
 
 敗戦で一旦潰えた「煙仲間」を、下村らは戦後に再び復活させた。新たな「煙仲間」も社会の良心、人間の自由と尊厳を守ろうとする点で戦前と同じ趣旨を貫いていた。ただ、戦前においては、右翼や戦争に走ろうとする軍部へのレジスタンス的な地下活動の色彩が濃かったが、戦後は逆転して、自由放逸、エログロの退廃的風潮に対して、道徳や倫理の回復、教化をはかろうとするものであった。「煙仲間」の拠り所は、常に社会の良心、人間の自由で、社会の精神がブレたらそれを真ん中へと正そうとするものであった。戦後においては、戦前のような弾圧はなくなっていたので、地下組織である必要もなくなった。しかし、履き違えられた自由の奔流を正す活動は時流に敗れて、活動は消滅していったのだった。
 
 そこで、改めて「煙仲間」とは、集団として如何なるものであったのか―。
 社会学や社会心理学の概念として、「準拠集団」というものがあり、「煙仲間」はひとつの準拠集団に当たるというのが私の見方である。「準拠集団」は “Reference Group” で、個人が集団の特質、規範、価値観などに refer し、それを自分の拠り所として摂取し、共有する、そんな集団のことである。「準拠集団」は「所属集団」に相対する概念である。「所属集団」とは、個人がある集団の静的な成員であるという、固定的な概念であるが、それに対して、集団の特徴や機能と個人が有機的関係で結ばれるのが、「準拠集団」である。
 所属集団は準拠集団と別であったり、同じであったり、部分的に重なったりする。例えば、大学や学校の学生、生徒は基本的に大学・学校という所属集団の一員である。校内の部活をしていれば、所属集団内のサブ集団が準拠集団である。学校外の暴走族に憧れ、そこに入っていたら、それが準拠集団である。
 
 煙仲間の場合、壮年団ないし青年団と煙仲間は、ふたつがほぼ重なっていて、所属集団と準拠集団がほとんど同じであった。
 「生活の発見会」の場合は、近年神経症の自助グループを標榜し、社会的にもそのように認知され、かつその成果を挙げ続けている集団なので、固定的な所属集団ではなく、準拠集団であるとみなすのが妥当である。ただ、自主的判断能力を欠く人が、神経症なら入会する会と考え、漫然と会員であり続けておられたら、当人にとって形だけの所属集団でしかなくなる。その辺のことは私にはわからないので、実態を云々し、生活の発見会の機能や活動についてものを言う資格は私にはない。言えることは、自助グループであれば、それはすなわち準拠集団にほかならず、準拠集団であれば、集団の質や機能や活性が、集団対会員の相互関係において、重要であり問題になるということである。一言で言えば、集団力が問われるということになろう。個人が自己向上を求めて、自分に合う準拠集団を求めているとする。そのニーズに合う集団の条件はどのようなものであろうか。準拠集団は複数あるかもしれないが、安易な意味においてではなく、自分を生かし、他者を生かし、自分たちも集団も互いに向上成長しあっていく、自由と活力のあるそのような準拠集団であることが、集団として基本的に求められる。その上に集団の特殊性が上乗せされる。そのような準拠集団が、クオリテイの高い魅力ある集団として、社会的に機能することができるであろうし、選ばれて然るべきであろう。
 
 医療としての森田療法と、生活の発見会は同じものではないでしょう。従って、生活の発見会は療法の会ではなく、生活の面において人間的に成長していこうという、つまり下村が言った「社会の良心」を共有して、社会に寄与する志を実際に生かそうとするのが、特徴であるはずではなかろうか。
 
 久田邦昭氏(教育学者)は、著書『教える思想』の中で、集団論の見地から、煙仲間は「メタ組織」だと言っている。これは、煙仲間という集団が一般社会に寄与するときの力動についての説明である。いざというときには、各人の所属集団の規範とは関係なく、発生した当面の問題の解決のために急遽、あたかも「自己組織化」して、組織を組み協力して活動し、目的を果たしたら平時に戻る。平時においては、趣味の会であれ、ボランティア仲間であれ、ゆるいつながりを持っている。それぞれが同じ所属集団にいるとは限らない。このような煙仲間は、未だ組織になっていないものだし、下村の言う社会の良心(純な心) だけは共有するが、ボーダーレスなゆるい集団と見て、私は「メタ集団」とみなしているが、「メタ組織」と呼ばれても、大きくは異ならない。
 思想、理想、感性などが関わるので、その点も難しいが、煙仲間の場合、歴史的には、社会の良心(純な心に相当するであろう)、友愛、自由、向上心、成長欲求、などを本質に置く必要があった。
 
 今日、コロナが広がっている社会で「自粛警察」が現れたが、これなどは異常な準拠集団ではなかろうか。